The adventures of Huckleberry FinnのStructure に就いて : Phelps farms episodeの評価をめぐっ て
著者 東条 晋
雑誌名 主流
号 32
ページ 62‑80
発行年 1971‑03‑30
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016739
62
The A d v e n t u r e s 0 / H u c k l e b e t η F i n n の
Structure
に就いて
一
‑Ph e 1
ps farm episodeの評価をめぐって一一東 条 亜日
Mark Twainの,Scott嫌い'は有名であるが,自国のロマンス作家 J.F. Coo町 perに対する彼の反感も相等なもので Fenimor巴Cooper'sLiterary Offenses "と いう小論では, Twain一流の諮謹を交えた口調でCooperの徹底的なこきおろしを している Twainはこの中で Cooperの代表作 TheDeerslayerが文学に対し て可能な百十五の罪悪の内,なんと記録破りの百十固まで犯していると断じ,更に この作品は文学に内在する十九の規則の内の十八を侵害しているとして,その十八 の罪状を列挙して論難している.その冒頭の二項で Twainは次のように云う:
These eighteen (rules) require:
1. That a tale shall accomplish something and arrive somewhere. But the Deerslayer tale accomplishes nothing and arrives in the air.
2. They require that the episodes of a tale shall be necessary parts of the tale and shall help t
。
o dev巴lop it. But…
the episodes have no rightful places in the work… ‑
Twainのこの Cooper批判が妥当なものか否かの判定は本稿の鴎外の事なので 控えるとして,差当って問題にしたいのは,上記の二項と殆んど同じ趣旨の批判が 実は多くの学者により Twain自身の代表作 Huckleberγy Fi聞に対して向けられ
ている,という皮肉な事実である.
このような批判は主としてHuckleberryFinnの結部の Phelpsfarm episodeに 集中するのだが, この全体の締括りという重要な位置にある episodeが そ れ 迄 の Huckの冒険の背後に流れる作品のth巴meを 展開'し 4完結'させ,物語を 何 処か'に到達させる事に決して成功していないというのである.亦このepisodeは
Hl1cklebenツ Finnの Structur巴 63 全体の約四分のーを占める作中最大のものであるが,これが果して物語の ι無くて はならぬ部分'であり,物語全体の structureを完成させる最後の部分に成り得て いるか否かに関する強い疑問がある.例えば,Huckleberry Finnに最大級の讃辞 を呈したHemingwayですら,この作品の結部は全く無用の部分であり,ごまかし cheat に過ぎないと云い切っているのであ
2 .
一方9 この episodeに対じて肯定的な評価を下している学者も少くない.特に,
1948年と1950年にLionelTrilling, T. S. Eliotという大物が相次いで Huckleberry Finnの序文に肯定意見を打出したのに力を得て, 1950年代には多くの肯定論が書 かれ否定論相手に活発な論戦を展開した. 肯定論者の多くは新しい themeを想定 したり, form, symbol, allegory等様々な角度からの分折を援用しつつ,全体の枠 組からはみ出しがちなこの episodeの正当性を証明しようと骨を折っている.そし て彼等の努力がHuckleberryFinnの偉大さを立証する新しい幾つかの発見をもた らした事は否定できない.例えば,従来見過ごされがちであったこの作品のもつ象 徴的な意味の分折,追求が, 彼等の議論を通して深められ,Huckleberry Finnに 対する新しいアプローチを可能にした事は事実なのである.
然し,公平に見て,彼等は肝心のPhelpsfarm episodeを物語全体のcontextの 中に組入れて説明し得る視点を発見する事には必ずしも成功していないし,従って 論争に於いても,概ね旗色がよくないように思われる.卒直な所,彼等がこのアメリ カの生んだ 偉大な世界文学'を弁護し,聖別する為躍起になる程,彼等の論旨に 幾分か不自然な強弁の匂いが混入してくるような気がしてならない.そして,この ような肯定論の弱さは,結局論者の力量不足というよりはHuckleberη Finn自体 が内包する動かし難い構成上の欠陥に起因しているように思われてならない.そこ で, 本稿では肯定論, 否定論の重要なものを幾っか引用, 整理しながら, 問題の Phelps farm episodeを作品全体の structureとの関連の上から検討し直してみた い.そしてTwainが何故このような問題の episodeをわざわざHuckleberryFinn の結部にもってきたかも合わせて考えてみたい, この episodeが含b問題は,
Twainの作家としての基本的な身構えを知る上で大切な手がかりになりそうに思 えるのである.
64 Huckleberry Finnの5tructure
1
But 1 reckon 1 got to light out for the Territo、君y ahead of the rest, be‑ cause Aunt 5ally she's going to adopt me and civilize me
,
and 1 can't stand it. 1 been there before事.これは Huckの一人称で語られてきた彼の 自叙伝'の締括りの言葉である.屡 々引用される有名な箇所だが, T. S. Eliotも彼の序文の最後にこの部分を引き,こ れは theright, the only possible concluding sentence"であると激賞し,更に 1 do not think that any book ever written ends more certainly with the right words"とまで云って讃嘆している.この結末の文章が冷静な大批評家
a
Eliotのこれ程大袈裟な賞讃に価するかどうかは別としても,確かにHuckの物語を締括るの にこれ以上適切な言葉を探し出すことは困難だろう.Mississipi河岸に並ぶrespec‑ table societyの醜惑な実相を凝視し幾度か心をゆさ振られる経験をくぐり抜けてき た Huckは,最後にはこういう云い方をするしかないだろう.
実際,長い河下りの後に Phelps農場に辿り着いたHuckの姿を見ていると,進 けくも来たものかな, という感慨を覚える. それは河北の 5t.P巴tersburgから逢 か南部の見知らぬ一農村までという, Huckの移動した空間的な隔りの大きさのみ を云っているでのはない.物語の序の部分でTomSawyer等町の悪童連と強盗ごっ こに興じている無邪気なHuckと,永い道中の果てに只一人見も知らぬ南部の小村 に立って,地獄堕ちを覚悟で奴隷の Jimを盗み出す決心をする Huckとを比べる なら,その聞に少年の心が歩んだ心理的,倫理的距離の巨大さは明白である.Huck は二度と偽善の上に成立つr巴sp巴ctablesocietyに帰る事はあるまいし,況してTom の小児的な世界に立戻る事もできないだろう.彼の最後のさり気ない拒絶の言葉に は,このような Huckののつぴきならない決意が籍められている筈なのである.
然しそれにも拘らず3 このHuckの最後の言葉にぶつかる時,或る唐突の惑を覚 えるのは何故だろうか,底に深い決意を秘めている筈の Huckの拒絶に, Tom流 の遊びを求める子供っぽい動機が潜んではいないかと疑ってみた〈なるのは何故だ ろうか.問題は結部のPhelpsfarm episodeの内容にかかっている.Tom 5awyer の再登場で序の部の笑劇調に戻るこの episodeの toneが, Huckの最後の発言の
Huckleberry Finnの Structure 65 重大さと全くチグハグなのである.だがこの点の検討は後章で詳しくするとして,
ここでは差し当り Eliot等の意見をもう少し追ってみたい.
Huckの最後の一言を激賞した EliotはPhelpsfarm episodeをも,この作品の 結部に相応しいものと主張する. EliotはHuckの本質を vagabond"としてと らえ, EfuckFinn must COInefrom nowhere and be bound for mwheri"と 云う. このような Huckには tragicenclingもhappyenclingも似つかわしくな い.彼は「初まりも終りも持たぬ者」として最後にはTomと主役を交代し,ひっ そりと舞台から消える外はない,と云うのである.従って Tomの登場で物語が 序の部分に逆戻りする点についても, itis right that the mood of the encl of the book shoulcl bring us back to that of the beginnin自g "と云うだけでそれ以上 の説明を加えようとしていない.このような Eliotの論点は,主としてformの観 点から給部の正当性を弁護していると見られるのだが, TriJIingの主張も大体相似 たものである.TrilIingは一歩譲ってこのepisocleが tooIong"であり faIIing‑ off "である事を認めているのだが, Yetit (the episocle) has a certain formaI aptnes8 s"だと云う. もともと Huckは華やかな heroの役を演ずることを好まぬ 控え百な少年なのだから, 最後には物語を Tomに任せて Huckは returnto anonimity"する必要があったのだ3 と云う訳である.
注意を要するのは, EliotもTrilIingも作中の Mi回issippi河のもつ象徴的3 神 話的な意、味を非常に重視し Huc長leberry F innの真の主役は thegreat river gocl 'であるという視点を採っている事である. この視点が彼等に結末の episocle が含む問題を素通りさせ黙認させたのである.この視点から見れば, HuckはTril‑ lingにとって theservant of the river gocl"であり, Eliotにとっては the spirit of the river"なのだから,冒険を透じてのHuckのmoralclevelopmentは 彼等にとって最初から余り大きな問題とはなり得ないのである.鋭い批評限を持っ この二人の学者が,結部でTomの演出する児戯に等しい笑劇に加わり楽し気に走 りまわる Huckの突然の変貌に対して,全く無頓着でいられるのはこの為である.
EliotとτrilIingの象徴性を重視し formに力点を置いた肯定論に対して出さ れた多くの反論の中では, Leo Marxの作品に密着した現実的な視点からの意見が 傑出している.短いものだが丹念で実質の濃いMarxの論文を詳しく引用している
66 Hucklebeけy Finnの Structure
余裕はないので,ここでは上記の二人の肯定意見に対する反駁の部分のみを見てい きたい.
MarxはEliot等が河の荷っている象徴的な役割を過大に評価している点を衝い て,次のように云う.
Both 1在r.Trilling and Mr. Eliot speak eloquently of the river as a source of unity, 釘ldthey refer to the river as a god.
…
This s巴emsto m巴 佃extra‑ vagant view of the function of the neutral agency of the river.…
It (river) is a source of food and beauty alld terror and s巴renityof mind. But above all, it provides motion…
.The river cannot, does not supply purpose8 ."そして Marxは HuckleberryFinnの個々の episodeの連続性を保持し,ルース な構成の全体を統一しているものは, EJiot等の云う河ではなく主人公であり語り 手でもある Huckの意識であると主張する.
われわれには前者よりも後者の意見の方が遥かに受け入れ易い,成る程, Huck の冒険に一定の枠組を与える意味では, Eliotが云うように
n
可はこの物語にformを付与している」と考えられるし,亦HuckleberァyFinnが Mississipi河の叙事 詩という性格を一面に強く持っている事も否定できない.然しそれ以上に,われわ れ読者にとって正TuckleberrッFinnは,どんな窮状にあってもへこたれる事のない 一人のピチピチした少年の物語である事は確かである.河はHuckの物語に素晴ら しい舞台を提供してはいるが3 われわれの目を初めから終りまで引つける存在とし は描かれていない.Eliotは亦, Huckを passive"で impassive"な観察者だ と云う.確かに,彼は次々に起こる事件をじっと見つめてはいるが,それらに対し て余り自分の主観的な感想や意見を述べたがらない少年である.だが, Huckは決 して単なる観察者ではないし,亦彼の若々しい精神は passive"でも impas‑ sive"でもない.彼の心は眼前に展開する様々な事件に対して鋭敏に反応し,着実 に頼もしく成長していく.結部の episodeを除いては,われわれが覚える感動の起 伏が語り手である Huckの意識と離れる事はないし,われわれの関心は終始Huck の上に在る.
Mississippi河の役割を neutralなものとし,主人公を絶えず成長,発展する人 間Huckととらえる Marxにとって,結末に於ける Huckの態度の急変が承服し
Huckleberアy FinnのStructure 67 かねるのは当然である.Marxは31章で悲劇的な認識に到達した主人公が,その自 然な内面的発展の流れから突如逸脱して低俗な道化役に成り下がる不合理を指摘し て, ζれは明らかにTwainの conventionalmanner of western low comedy"
への回帰であると鋭く批判している.
Eliot等の formの面からの弁護に対しては contentを無視した form論は無 意味である, とMarxは反駁する contentの中心をなすものは云うまでもなく themeであり,亦 themeを荷って活躍する characterである.E1iot等の是とす
るHuckleberryFinnの symmetryof structure"が,肝心の themeや cha園 racterを犠牲にしている事が明白な以上,その功罪は論ずる迄もない.大体が根は mora1istである筈の E1iotや Trillingが, この作品の提起している moralissue を全く無視して形式的なform論を唱える事自体納得のいかぬことだ,と Marxは この二人の大家を手厳しくたしなめている.
Leo Marxの周到で鋭い論理には異論の余地が無い程充分な説得力が寵められて いて, E1iotとTri1lingの弁護論に関しては彼の反論が完全に止めを刺した観があ る。事実,これ以後の肯定論はEliot等のような大雑把な議論は極力避けて,作品 を細かく分折した上で何とか突破口を見出そうとしているようにみえる.そのこ,
三の例については後で触れたい.
2
Leo Marxはその反論の中で HuckleberryFinnのstructureをthemeとの関 連の上から分折し, 問題の Phelpsfarm episodeの不適格性を論じている. その 論旨は綿密, 明快で素晴らしいが,疑問の点がないわけではない.Marxは Huc・・
kleberry Fin匁の them巴を HuckとJimの quest for freedom"としてとら え, この視点から問題の部分を見ているのだが,彼はこの themeを殆んど自明の ま日く考えているようにみえる.果してそうだろうか.このアメザカ人好みのtheme
をとる学者は少くないが,彼等の論旨に同じような無理が生じているように思うの だがどうであろうか.
小説の前半の三分のー,却ち 1章から16主主までに関する限り, 確かにこれは HuckとJimによる自由の探求の物語と云ってよい.狂暴な父親と St.Petersburg
68 HuckleberァYFi仰 の Structure
の窮屈な社会から逃げようとするHuckと,非人間的な奴隷制社会から脱出しよう とする Jimが開始した河下りは, その動機に於いて既に自由への模索を軸にして いる. 実際に彼らの河下りは Cairoへ, 自由:J'l'Iへという一貫した目的意識に基い た行動に終始している.だが自由州への逃走は霧の為にCairoを通り過ごしてしま う事で頓挫してしまう.16章で頼みのカヌーまで失った二人は深く落胆するが,そ の直後に立てた対策はといえば,河を潜ぎ戻る為に必要なカヌーを買入れる機会が くる迄とり合えず流れを下る以外あるまい,という誠に擦りないものだった.次い で,蒸汽船との衝突から岸に泳ぎ着いた Huckは17章以下貴族同志の feudに立会 う事になるのだが,この辺を分岐点として物語の様相は一変する.自由の探求とい う目的意識は急速に張りを失い,何の為に河を下るのか判然とせぬまま,丁度流れ イ壬せの筏のように物語も当てどなぐ漂い始める.
加えて, 19章で待望のカヌーを入手するがどうした訳か HuckもJimもそれで Cairoへ漕ぎ戻る計画を一向に思い出そうとしないのである.逆に KingとDuke が乗筏してくるや Dukeの発案で今度は昼夜兼行で流れを下る事ができると喜ぶ のだが,彼等は急いで何処へ行こうとしているのか,流れを下る程黒人から地獄と 恐れられる南部奴隷社会の心臓部に近くなり, Jimの自由は絶望的となり従って Huckの倫理的課題も御破算になってしまうのではないか,という疑問が強く残る@
こうして HuckとJimの自由の探求は17章以後30章まで完全に忘れられた形に なる. そして結部にくると, Tom Sawy巴rの登場で HuckとJimの解放劇は単 なる子供の空想的な遊びの対象となり, この them巴本来の seriousな意味を全く 失ってしまうのである. 結局,自由の探求という themeでは16章までが説明でき るに過ぎない. 従って Marxは結部の episodeばかりではなく, 17章以下31章 までの部分をも全体に them巴が分裂していて低俗な喜劇調に堕している, と批判 せざるを得なかった. ここに Marxの論旨の無理がある. 17,,‑,31章が全体から見 て非常に重要な内容を含む部分である事は明白である. この作品の最大の climax はこの部分にあると云ってよい.結局, Marxの論の無理は,作品の三分のーの部 分にしか当てはまらぬ themeを強引に設定したことにあった, と考えるのが妥当 であろう.
多くの学者の意見もそうであるが, 自分の考えでは,Huckleberアグ Finnは少年
Huckleberry Fi仰 の Structure 69 Huckのinitiationstoryと見るのが正しいと思われる.このthemeは米文学作品 の内に繰り返して現れる主旋律の一つであるが,結部の失敗さえなければ,Huckle‑ berヴ Finnはその典型的な例であると云ってよい.以下このthemeとの関連に於 いて作品の structureを吟味してみたい.
Huckleberry Finnの最初の笑劇風の三章は明らかに前作 TomSawyerとの連 続をなす部分であり, Huckは依然としてTomの影響下にある. 1章ではrespec‑ ta ble societyの中での煩墳な生活に対する Huckの違和感に触れてはいるが, そ れはまだ深刻なものではない. 一度は Douglas家の行儀作品にラんざりして逃げ 出しはするが, Tomの盗賊国ごっこに加えてもらう為にDouglas家へ舞戻るHuck は, respectable societyを拒否するには程遠い未だほんの子供である.だから人質
とする家族がないため,仲間外れにされそうになると,つい泣き出しそうになる Huckなのである.だが,こうして Tomの下で遊び続ける内に, Huckは次第に Tomの世界と自分のそれとの本質的な違いに気付いていく.Tomはロマンスの本 に書かれている空想的な世界に夢中である.幻想を追い求める Tomは,彼の住む respecta ble societyの醜悪な現実を見ようともしない.だが, Huckは実際に自分 の手で触れられる現実以外のものは受入れる事ができない.彼には日曜学校の遠足 をアラビア人の隊商だと信じる Tomが理解できないのである.そして,古いブリ キのラγプと鉄の指輪を手に入れて来て Tomに云われたように一日汗を流して 擦りに擦り,その結果 Tomの世界の虚構性と偽善性を見抜くのだが,この認識は 非常に重要である.この認識により, HuckはTomの世界から抜け出して,初め て彼自身の内面的成長と開眼への出発点に立つ事が可能となったのである.
以上の三章は HuckleberryFinnのprologueに当たりわれわれは未だ Tomの 存在を強〈意識しているが,次の4章から改めてHuck自身の物語が始まる.4章 から11章まではこの小説の expositionに相等する部分で, これから始まる Huck の冒険の動機が語られている. 直接の動機は酒乱の父親と St. Petersburgのお上 品な生活の煩雑さからの逃走であるが, Jackson島での Jimとの出会いは Huck の逃走に逃亡奴隷の救援という積極的な動機を加える.Jimと何気なく交した約束 は後で Huckの内に深刻なm口ralconfiictを惹起こし, Huckを蓬かな精神の冒険
70 HucklebenッFinnのStructure
へと駆りたてていく.無論この段階では, HuckはTomの遊びの世界に全く未練 を残さないし,物語の toneもprologueの笑劇調を抜け出している.Huckを待 ちうけているのは Tom流の romanticな冒険譲ではなく,彼の心身を鍛え上げる 現実の世界での生まなましい冒険でなければならない.
12章から始まる展開部は toneの違いから, 12,,‑,16章と17"‑'30章の二つの部分に 分けられるだろう.その前半部での climaxと見られる重要な部分は15,16章であ る.15章では霧の為に離ればなれとなった HuckとJimが,その聞の不安と悲し みを通して互の心が今や切離し難〈結びついている事を知ると同時に, Huckは Jimの深い真情iこ触れて強い衝撃と感化を受ける. 彼は亦, Tomの一見罪のない 悪戯が如何に人の心を傷つけるかを知り,二度とそのような卑しい事はすまいと函 く決心する.だが, 16章では Cairo接近で興奮する Jimを見て, Huckの心は所 謂歪んだ良心 deformedconscienceと健全な心 soundheartの深刻な葛藤を経験 する.そして一度は文明社会の声である歪んだ良心の力に屈して Jimを密告すべ くカヌーを潜ぎだすのだが, 結局は衝動的に嘘を云う事で Jimを救ってしまう.
Huckは正しい事ができない自分に絶望し,今後は正,不正に関わりなくその時々 に一番都合のよい事をしよう,と決心する.
この辺になると Huckのpragmaticな傾向が大分はっきりしてくる. ランプを 終日擦ってTomの虚偽を確かめずにはおれない Huckの発想法は,全般に著しく 現実的・経験的・実用的であるが,それほ The]nnocent Abroadに於ける Twain
自身の一切を自分の目で確かめずにはおかたい態度と同根のものであろう.既成の 価値を鵜飲みにせず,すべての価値をその実際の効果によって判定しようとする Huckの現実的な傾向は,彼の屡々つく嘘にもよく表われている. HuckはTom
と共に嘘の天才であるが,多くの場合彼は Tomのように,嘘が
f
乍り出す虚構を楽 しむ為の不必要な強は云わない.Huckの嘘は大概,現実の必要に迫られて,窮状 を打解する為に無力な少年がとり得る殆んど唯一の手段としての嘘である場合が多 い.だから稀にTom流の不必要な趨をつく時のHuckは別人の如く下手な嘘つき になってしまう.いずれにせよ,この16章での心理的危機を経てHuckが彼の moralinitiationに 向って大きく前進した事は明白である.
Huckleberry Fi1inのStructure 71 16章まで一気に書き進んだ MarkTwain はここで頓挫してしまい,数年の中断 の後残部を書き終えるのに7年を要している. この中断の聞に Twainの味わった 苦い経験が,以後の部分の toneに影響を及ぼしたらしい事は Blairの詳細な研究 が示唆してい
2 .
事実,時から始まる第二の展開部では調子が急変し,自由の探 求という動機は弛緩し代って沿岸社会や人間そのものに対する辛裁な調刺がその主 調となる.貴族同志の feudでは華麗なマスクの背後にある愚劣な感傷性や残忍性 が容赦なく暴露されるが,それは直ぐさまHuckの心情に影を落としていく.最初 貴族生活の表面的な豪華さに圧倒されていたHuckも,遂にはその無意味な殺し合 いの野蛮さに対する抑え難い嫌悪感から,一刻もこの恐しい国から逃がれるべく Jimの待つ筏へ走るのである.KingとDukeの登場以後は誠刺の調子が一層厳しく鋭さを増していく.大切な 事は,この段階での誠刺が単に特定の米中南部の社会とか,封建的な支配階級のみ を対象とするのではなし次第に人間一般,人間そのものの腐敗や墜落に向けられ ている事である.Huckは King等らの底知れぬ邪悪さに何度も同じ人間である事 を恥じたり,人閉そのものに絶望的な気持を抱かずにはおれない.このHuckの人 間に対する日郎、認識には, Nosane man can be happy, for to him life is real,
1$
and he sees what a fearful thing it is"とsatanに叫ばせたTwain晩年の暗た んとした人生観の茄芽がのぞいているようで興味深い.
然し,このような人間悪の真只中にいながら, Huckの健全な心は決してそれら に染む事なし反対にすべての悪に対して一層嫌悪感を強めることにより着実に成 長していく. そしてわれわれは, Wilks episodeで一身の危険を覚悟で King等 らの悪事を未然に潰してしまう程の勇気をもった主人公の姿を見る. こ の よ う な lIuckを支えでいるのが, 周囲の惑とは全く対線的な Jimの底抜けの善良さであ る.最初は Jimの無知ぶりを榔長会して蟻っていたHuckも,遂にはくJimの云う 事は皆正しいのだ〉と思わざるを得ない.Huckはζの普と悪の二極の聞に置かれ,
終始善の方へ, Jimの方へと身を寄せていく.Huckの成長の軌跡は,奴隷である Jimの人間としての真価を認識し受入れていく過程と一致している.そしてもし Mississippi河と共に Jimを大自然の象徴と見なすことができるならば,文明の悪 から自然の善へが Huckの辿る道筋である.
72 Huc是leberryFinnの Structure
31章で King等らの悪計で売られた Jimを盗み出そうとする Huckは,この物 語中最大のそして最後のmoralconflictを経験する.歪んだ良心は健全な心を追い 詰めて, HuckにMissWatson家の手紙を書かせる事に成功する.Huckは迷っ た末にその手紙を白からの手で引裂き, Jimを救出する為には遂に〈宣しい,では 僕は地獄へ行こう〉と昂然と云い切るに到る. 彼の soundheartの叫びがとうと う deformed conscienceを屈服させたのである.当時の米中南部の奴隷制社会に 於いて slavethiefや abolitionistに対して屡々行われた残虐なリンチの恐しさを 考えるならば, Huckの決意の重大さは明白である.そして,われわれはこの31章 が事実上の climaxであり終章である事を感じ取る.長い冒険を経て進行してきた Huckのmoralinitiationのprocessはここで一挙にその頂天に達する.彼は今や respecta ble societyの欺臓に充ちたmora1ityから完全に脱却し,自己の内部の戸,
人間性の中心から発せられる声のみに忠実であろうとする.Huckの内部には,外 部の何者にも左右されない確固としたmoralcodeとしての健全な心が定着したの である.だから Huckは公然と〈道義などどうなってもかまわぬ〉と云い切って,
Jimを盗み出す事に専念するのだ.
奴隷を認めぬ Huckは最早奴隷制に基礎を置く respectablesocietyに帰る事は 出来ない.彼の研ぎ澄まされた悪に対する倫理的嫌悪は邪悪と野蛮の渦巻く沿岸社 会に住む事を拒否するだろう.勿論, Huckが再びrespectablesocietyに安住し幻 想を貧る TomSawyerの小児的な世界に戻る事は不可能であろう.
3
所が, Mark Twainは次に問題の Phelpsfarm episodeという冗慢で騒々しい epilogueを付け足す事により,物語をひどく混乱させてしまった. この episode
ではこれ迄の一切が無に帰してしまい moralinitiationを完了して立派に成長し た筈の Huckが,理由もなしにTomの下に逆戻りしてrespectablesocietyの中で のJim救出ごっこを楽しんでいるのである.ここでの HuckはTomの世界を峻 拒する Huckではなく,反対に Tomの亜流に成り下がった Huckの観がある.
32章で Tomに成りすましてく生き返った〉と驚喜し, 33章で本ものの Tomが登 場すると直ぐさまその配下となり,序の部分の笑劇の続きを一層賑やかに演じてい
Huck!eberry FinnのStructure 73 るHuckの得意顔が,われわれにはひどく怪誌なものに映る.なお悪いことには,
38章で逃亡奴隷として掴まり鎖でつながれていた Jimまでが Tomの遊びに同調 していく.終始生真面白に行動し Huckを戒しめてきたJimが,縛り首にもなり かねない緊迫した情況の下でどうしてTomの馬鹿騒ぎに加わらなければならない のか,理解に苦しむ点である.
42章以下でJimの自由は主人の遺言で2ヶ月も以前に実現していた事,亦Huck の父親が実は物語の初めに既に死んでいた事が判明する筋立てにも疑問がある.こ れでは物語の動機の大半が失われ, 31章まで展開してきたHuckの冒険の意義は大 きく減殺されてしまうのではあるまいか. 更に, Huckの求める自由は Territory に逃れる事で実現するかも知れないが,それさえも Tomの発案なのである.Tom と共にいる限り, Huckは真に Huck自身であり得ない事は既に証明済みである.
とすれば、これも亦納得のいかぬ結末である.
以上が HuckleberryFinnのstructureと問題の結部に対する自分の卒直な意見 であるが,ここでこのepisod巴を肯定する意見を見てみよう.これらの肯定意見が 一体どの点、を根拠としているかを見た上で,それに対する自分なりの批判を試みた
︑LW ︑
•
Leo M日rxの反論以後現れた肯定論の内では標準的なもののーっと恩われる T.
A. Gullasonの小論を先ずとりあげたい.Gullasonは先達である TrillingやEliot の弁護論が weakarguments"である事を確認した上で,改めて彼の立場を次の
ように云う:
1 suggest that Twain had a very definite plan in the五nalepisode which depends on repetitions and variations of themes presented earlier in the no・
vel. His primary objective in the fatal' last chapters is to ridieule
…
the romantic tradition as ex巴mplifiedby Tom Sawyer ... and to win final sympa‑thy for the realistic tradition and its hero
,
Huck ..この episodeでrealistとしての HuckとromanticistのTomの差が割合にはっ きりと描かれ, Tomのromantictraditionへの馬鹿げた拘泥ぶりがHuckの目を 通して暴露されているのは確かである.そしてロマンス嫌いの作者が,この作品を
74 Huckleberry Finnの Structur巴
書く上で, ariti‑romanticismの意図を強くもっていた事も作中の到る所で見られる 例によって明らかである.従って,多くの肯定論の主点はここに集中していて, 列{I
えlまG.M. Rubensteinにしても, Properly understood, however, the ending is the五nalexample of one of the main themes‑the contrast between realism
l事
and romanticism"と云って,この巴pisodeを弁護している.
だが, realism vs. romanticismをこの作品の minorthemesのーっと認めると しても,それを完成させる為にcharacterの自然な発展を勝手に捻じ曲げるのは許 される事ではない.況して minorthem巴を発展させる事でmajorth巴m巴が無意 味になってしまうのでは論外である.亦 HuckとTomの差については 31章迄 の物語の流れが雄弁に語ってきた事であり,結末で殊更に二人を並べて対照させる のはむしろ蛇足の感が強い. 元々 Huckの冒険が Tomの世界からの脱出を出発 点としていた事,そしてその帰結がTomの世界の完全な拒絶であった事を考えれ ば一層その感が強い.
而もここで描かれているのは HuckとTomの対比であり,決して Huckによ るTomの拒否ではない.HuckはTomのromanticな世界に皮肉な視線を走ら 合てはいるが,それを拒絶しているのではなくて,むしろそれと馴れ合いで楽しんで いるように見える. Tomの紙芝居のような救出劇をくとても素晴らしいものだっ た〉と Jimと共に賞讃する Huckの語調には嘘と思えないものがある. F. R.
1 :D
Rogersも指摘しているように, Tomの romanticな芝居自体が本質的には以前 Huckが厳しくたしなめられて深く反省した meantrick"と同じ性質のものであ る以上,それに全く気付かずTomの尻馬に乗って同じ愚を繰り返している Huck がひどく滑稽なものに見えてくる.確かに,ここでは Tomを皮肉な目で見ている Huckを, 更にわれわれが皮肉な目で見ているのである.Tomに対する皮肉
ι
その逆立ちした世界により発かれる romanticismの愚劣さへの調刺も 31章迄の それに比べて鋭さを欠いているのは,それらを見据えるHuck自体の視点古代事らつ いていて,敵と自分との区別が混乱している結果なのである.
Gullasonは更にこの episod巴の達成として, Twainneatly五nishes0妊 with other dominant themes; man's inhumanity to man, and Huck's faith in Jim's hmmit:;"と云う man's i山 mar向 toman"と云うのは,主として奴隷Jim
Hucklebeァァy FI!zn のStructure 75 に対する Phelps家の人々の態度を指している Phelps家の人々が皆如何に善良で 情愛深くとも,根本的には彼らも又奴隷を人間と見ない非人間的な社会の成員であ る事は明瞭であり,その限りでは Gullasonの見方は正しい.然し,問題はこの事 実が Huckにはどうもよく見えていないらしい点である.Phelp喝家の人々の愛情 に浸りきって, Jimの生命の危険も考えず悠長なTomの遊びに同調する Huckは, 敵の実体を鋭く看破りそれと訣別した筈の31章までのHuckではない.反対に,こ
こでの Huckは敵である 'cruelsociety'を受入れてその中に安住しようとしてい るかのように見える.Aunt Pollyに civilize"されるのを厭う彼の最後の言葉が 唐突に響いたり,彼のTerritoryへの脱出の決意が胡散臭いものに思われたりする
のは皆この為である.
最後に Gullasonは次のような強い断定で彼の弁護論を了えている.
It is only her巴in the last chapters that Huck complet巴lyrejects both Tom's romantic irresponsibility and society's cruel nature. It is only here that he understands Jiτ凶 trueworth
? .
これは如何にも無理な結論である.上述のように, Phelps farm episodeに関する限 札如何に同情的に見ても, Huckは Tom'sremantic irresponsibi1ity"も so開
ciety's cruel nature"も completely"に reject"してはいない.実際はu"しろ その逆である.亦, Jim'strue worth"がここで初めて完全に理解されるという のも妙である.Huckは既に彼の moralinitiationを完了する31章までに, Jimの 真価を充分すぎる程認識していたのだから.
Gullasonの外にもう一つの例を見るならば, E. Solomonの小論が面白い.Solo‑ monの弁護論は説得力はないが着想の面白さで目をひいている.彼は従来から考 えられてきたthemeでは問題の部分の説明は不可能である事を先ず確認している.
Solomonは Huckが屡々つく嘘を細かく分析して, それらの中には Huckの幸 福な家族生活を求める潜在意識がひそんでいる事を指摘する.その上で彼は新しく Huckleberry Finnのthemeとして aboy's seぽchto五ndhis identity through a satisfying family 11f:"なるものを提示し,この見地から結部の巴pisodeをこの 作品の最も重要な部分であり,結部としても充分成功しているとし寸結論を引出す.
76 HuckleberアyFinnのStructurε
然し, Solomonの主張する弁護論は,その前提となる彼の設定した新しいtheme の妥当性を検討すれば,その土台からゆさぶられるような性質のものである事は明 瞭である.彼の指摘は非常に興味深いものを含んではいるのだが,それを直ぐさま 無批判に作品全体の themeに短絡させる時,彼は細部の意義を不自然な程拡大し て解釈する誤りを犯すことになる. それに新しい themeによって問題の部分はう まく説明できたとしても,今度は前半のもっと大きな部分が説明のつかぬものとな ってしまうのはどうしたことだろう. Solomonは fami1yquestを続ける Huck が最後に辿り着いた Phelps家の中に彼の探し求めていたものを発見したと云う.
だがPhelps家は果して彼が物語の最初で嫌気がさして飛び出したDouglas家と本 質的に違う家庭であろうか.Solomo立の立場からすれば, Douglas家と Phelps家 の根本的な相違を立証しなければ Huckの河下りの意味が失われてしまうのだが3
その点に関する彼の説明はわれわれを少しも得心させない. Widow Douglasは Mrs. Ph巴lpsに劣らぬ位善良で親切な婦人であり, Huckが我慢できなかったのは 彼女が口うるさく彼を civilize"する事だけだった.然しこの点に関しては, Mrs. Phelpsも全く同様でPhelps家に留まる限り彼女はHuckを civi1ize"するだろう 事はHuck自身既に熟知しているのである.Huckにとって最も肝心なのは civi. lize"されたくないという事であってみれば,彼にはDouglas家も Phelps家も同
じようなものと思われたに違いないのである.
SolomonはPhelps家を理想化する余札 Huckは遂に安住の地をここに発見し たと云う.そしてHuckは永い道中の聞に得た経験を一切放てきして3慈愛深いMrs.
Phelpsの胸の中でまた以前の無邪気な少年に立ち戻ったとして,結局は Huck's story
,
like Mark Twain's own,
tells of the effort to remain a boy d巴spiteeter・nal conditions that forc巴adulthood"なのだという結論を下している.この観点か1$
らは, Huckのmoraldevelopmentの意味は完全に失われ,Huckleberry Fin河は 前{乍の TomSawyerと内容の上でも対の児童用読物となってしまいそうである.
w .
R. MosesはHuckleberryFiπ河と Danteのlnfernoとのanalogyを検討し ているg
,実際 H叫は彼の旅を通じて十個以上の死体にぶつかっている筈である.これ程凄まじい地獄めぐりのようなHuckの旅が,この14歳の少年の心に痕跡も残 さなかったという Solomonの結論が無理である事は云うまでもない.Solomonの
Huckleberry Finnの Structure 77 論旨を見ていると,先ずHuckleberryFinnの完全性を前提とした上で論を組立て ているようた感じもして,弁護論の一面の性格を見るようで興味深い.荷も作品の 無謬を立証しようとする努力が,逆にその偉大さを殺ぐような結論に向うというの
も皮肉である.
4
以上で明らかなように, Phelps farm episodeは作品のthemeを一歩も前進させ てはいないし,物語を正当な目的地に到達させてもいない.逆に,物語を序の部分 に引き戻すことにより them♀そのものを無意味なものにしかねない危険性を含ん だ結末である.themeばかりではなく toneにも問題がある.W. V. O'Connorは HuckZ伽 ryFinnに対する痛裂な批判の中で作者の 叫e山 ts巴 間 of tonJ"
を攻撃しているが,確かにこのepisodeに関する限り,その調子外れに明るい tone は31章迄の豊かな笑いの内にも何処か沈うつで悲劇的な蔭を含んだ toneとの調和 を欠いていると云ってよい.亦,ルースな structureではあるが何処といって不自 然な感を抱かせないrealisticな展開をみせてきた plotが,ここに来て急に様相を 変えてしまうのも気になる.Huckが見も知らぬ遠い南部の村で Mrs.Phelps に 掴まり途方に暮れた時,突然自分が TomSawyerと間違えられている事,そして 相手がTomの叔母さんである事を知って仰天する.然し驚いたのは彼ばかりでは ない.われわれもまた事の余りの意外さに呆然としてしまう.が,次の瞬間iこは2
ちょっと待てよ,これでは余り話がうますぎはしないか,と首を捻りたくなる.な んとしてもこの偶然の出会いは都合がよすぎて不自然である.そう思うと,続いて 起こる笑劇の筋立てが妙に空ぞらしく思われて,素直に笑えなくなってくるのであ る. この結部の Phelpsfarm episodeに於ける realismの破綻が,Huckleberry Finnの読後感に大きな影響を及ぼしている事は否定できないところである.
Phelps farm episodeはそれだけを切り離せば,笑劇として楽しく読める内容を多 く含んでいる.Mark TwainのAutobiographyに依れば Phelps農場のモテ、ノレ は彼の生涯の最も幸福な少年時代を過した FloridaのUncleJohn Quarlesの農場
22l
であると云う .Huckleberry Finnは速筆で知られる Twainにしては難産の作品
78 Huckleb昨 アy FinnのStructure
23)
だったが,作者は特にこのepisodeだけは心から楽しみながら書いたらしい.Mrs.
Phelpsが慈母のように描かれたり, Unde Silasが Hewas a rnighty nice old m叫 and山 市
Z "
と書かれる背景には, Twainの脳裏に常に heave均 plac2日e"として焼き付いているこのQuar!es農場での幸福な想い出があった事は容易に推察 できる.
然し,このepisodeをHuckleberryFinnに相応しい結部と考える事は困難であ る.優れた Twain研究家であり Twainの天才に深〈傾倒していた Bernard Devotoでさえ, in the whole reach of the English novel there is no more abrupt or more chilling dωceZ"と云って慨嘆せざるを得なかった問題の結部を,
何故作者がわざわざ HuckleberryFinnに付けたかは推測してみる外知るすべはな いが, H. N. Smithはその理由を,悲劇的なものから目を外らそうとする米国人ー
211
般の国民性に作者 Twainが従った結果ではないか,と見る. L巴oMarxはもう一 歩踏み込んで, respectabl巴societyを痛烈に批判はしてみても,結局はその体制内 で生きるしか方法を知らなかったMarkTwainの作家としての限界が,あのよう
2申
な中途半端な妥協的な結末を書かせたのだと考える.いずれも Twainの一面を鋭 く衝く批判であると思う.
一方,忘れてならないのは Twainがこの作品を TomSawyerの続篇として 計画し書き出したことである.彼は最初この作品に TomSawyer's comrade"と いう subtitl巴をつけ,前作の姉妹篇であることを努めて表面に出そうとしているが,
そこには TomSawyerで大当りを取った Twainの商魂みたいなものが見えるよ うで興味深い.然し,前作同様の 少年もの'として書き出された新作は,次第に 前作とは別の方向に成長していったのだが,作者がこの変化を正確に計算していた かどうかは疑問である.彼はこの作品を書いている途中でも,また書き上げた後に もこれは前作と同じような ζ少年もの'だと思いこんでいた節がある.作者の頭の 中にあるこの TomSawyerとの強い連続の意識が,前作と全く同じ toneを持つ 問題のepisodeをHuckleberryFinnの給部に持ってこさせた原因と見ることは出 きないだろうか. そして, Mark Twainのこの計算違いの失敗は, Theoryof unconscIous composition"を旨とし bookmust write itself"を確信していた作 者の落ちこみがちな陥穿に,まんまとはまった結果と見る事ができないだろうか.
Huckleb四γ)1Finnの Structure 79
。
M.Twain,Fenimore Cooper'sιiterary O注 ffenses'うThe Portable. Mark Twain (Viking,
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3) M. Twain, The Adventures
o J
昂tckleberryFinn, (Penguin,
1961) p. 281. 争 T.S. Eliot, Introduction to昂,
ckleberryFi間 " Adventures 0] Huckle・berry Finn
,
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1962) p. 327.5) lbid., p. 327. 6) Ibid., p. 327.
の
L.Trilling,The Greatness of Huckleberry Finn ,"Adventures 0] 1:五lckle‑ berry Finn,
p. 318.a) L. Marx, Mr. Eliot, Mr. Tri11ing, & Huckleberry Finn ,"Adventures 0]
Hucklebe1ア)1Finπ, p. 334. 9) Ibid., p. 332.
10) Ibid., p. 330.
11) W. B!air, Mark Twain & Hucklebe門'yFinn (Univ. of California, 1962), see chaps. 11‑13.
12) M. Twain,The Myst巴riousStranger ," The Portable M. Twain, p. 735. 13) T. A. Gullason,The 'Fatal' Ending Of Huckleberァ)1Finn ,"Amerイca持
Literature
,
XXIX (1957,
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16) T. A. Gullason, p. 87. liうIbid.
,
p. 91.1a) E. Solomon,Th巴Searchfor Security , "College English, XXII (1960, Dec.) p. 172.
19) Ibid., p. 178.
20) W. R. Moses,The Pattern of Evil in Huc是leberryFかm
ぺ
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80 Huckleberry Fi仰 の Structure
22) M. Twain,Autobiography", Portable M. Twain, pp. 615‑630. 23) W. Blair, M. Twain & Huckleberry Fi仰, p. 350.
24> M. Twain, The Adventures of Huckleberry Finll, p.256. 2tj) M. Twain,Autobiography" p.616.
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21) H. N. Smith,Mark Twain: The Adventures of Huckleberry Finn ,"The American Novel (V. 0: A.) p. 51.
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