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ワロン『子どもの性格における諸起源』を読む
研究ノート(その6)
坂元忠芳
略 記
L enfant turbulent,1925,(QUADRIGE/PUF)=ET
『多動児』;略記なし
psychologie pathologique, 1926,
『精神病理心理学』=『精神病理』(『精神病理の心理学』滝沢武久,大月書店,
1965年)
Les origines du caract6re chez I enfant,1934,(PUF)=OCE
『子どもにおける性格の諸起渡』=『性格』(『児童の性格における起源』久保田 正人訳,明治図書,1965年)
L 6volution pasychologique de 1 enfant,1941,(ARMAND COLIN)=EPE
『子どもの精神的発達』=『精神発達』(『子どもの精神的発達』竹内良和訳,人 文書院,1982年)
De I acte a la pensee,1942,(FRAMMARION);AP
『活動から思考へ』=『認識過程』(『認識過程の心理学』滝沢武久訳,大月書店,
1962年)
第14章 原始的な情動について
情動と姿勢の緊張との結びつき シェリントン
ワロンは,続く節「原始的情動。笑いと泣き」で,情動が,とりわけ姿勢の 緊張と結びついていることを,笑いと泣きについて説明していく。
ところで,この箇所では,姿勢の緊張が情動と関係していることを,最初に 述べたのが,誰なのかは,さしあたって,確かめることができない。しかし,
ワロンがここでも,先に挙げたシェリントンを引用して,彼が,内臓の働きを
含めて身体の緊張や姿勢の活動と情動との関係について示唆していることは注
目してよい(ibid., p.71,同上,66ページ)。
シェリントンは,The integrative action of the nervous system,1906(『神
経系の統合的作用』,ただしここでは,1947年版を用いる)のなかで,ジェー ムズやランゲやセルジらの説を取り上げて,情動が,身体の血管および内臓へ の神経刺激の解除につづいて,二次的に起ることを挙げている。しかし,シェ
リントンは,内臓の感覚またはその表示が,情動に必然的であるとは述べてい
ない(ibid., P.265)。
シェリントンは,このことについてLloyd Morganの説を取り上げて(Lloyd Morgan, Animal behaviour,1900),情動がこのように,内臓感覚への刺激の解
除として起るという仮説のもとでは,運動的および内臓的効果は,情動の発生 においてその役割をはたした後で,結びつきの道を閉ざしてしまった,と述べ ている(∫δ 広pp.265−266)。つまり,このような説明では,内臓感覚と情動の 関係はとらえられないというのである。そこで,シェリントンは,情動の内臓 的表現が心理的状態にかんして,大脳作用にたいして二次的であるという,あ りそうな説を再検討している(ibid., p.266)。そして,つぎのように述べてい
る。
「情動と筋肉作用との間には,強いつながり(bond)がある。情動は私たち を文字どおり 動かす 。だから文字どおりそうなのだ。もし情動が強烈に 発達したら,それは活発な運動を促す。四肢の骨格筋が身体運動の道具であ ることはいっそう明らかだとしても,身体の活発な運動のいずれもが,内臓,
とりわけ,循環と呼吸のそれと,ほとんど認めがたいほどの協同を同時に含 んでいる。骨組みを動かす筋肉にたいしてなされる特別の要求は,筋肉にそ のエネルギーの素材を供給する栄養器官の高度の作用を含んでいる。内臓の この増大していく作用は,筋肉のこの活動と結びついている。私たちは,内 臓の作用が情動の筋肉的な表現にそって起ることを期待しなければならない。
内臓の作用と情動の状態との堅い結びつきは,したがって,私たちを驚かせ
る必要はない。」(ibid.)
ここで見るかぎり,シェリントンが内臓と筋肉の働きを,情動の作用と結び
173 つけて考えていたこと,ワロンがこのような見解をほぼ取り入れていることが 確かめられるであろう。シェリントンは,先の著作の別のところで,姿勢と態 度とが,自己受容性感覚と結びついていることを論じているから(ibid., pp.33 5−343),すでに『性格』の「感情生活の心理一生理的条件」のところで述べ たワロンの見解が,彼の理論から大きな影響を受けていることが,わかるであ ろう。この点もうすこし再検討が必要であるが,さしあたって,もうすこし,
さきに進もう。
ワロンは,まず筋緊張とその解除の例を「くすぐり」(chatouillement)の場 合において認め,そこから情動のもっとも原始的な状態を説明しようとする。
〈すぐり
「くすぐり」というのは,或る身体の部分を,軽く撫でることによって,そ の部分だけでなく,他の部分までも,むずがゆさの感覚がひろがり,その感覚 が姿勢の感覚として,緊張と弛緩との交替をつくりだすことである(OCE, pp.
71−72,r性格』,66 一 67ページ)。このような反応は,ワロンによれば,子ども の心理機能が縮減していない場合には起らない。それは,無条件反射のばらば
らな,つながりのない単独的な個々のあらわれに,まだ身体が支配されている 間は現象しない。それは,生後に獲得された反射が連続してつながり,不完全 ながらも,体制化されていくなかで起るものである。
「くすぐりの現れは,総じて,それまで自律した仕方で現われるように見え ていた,ひとまとまりの反応(ensemble de reactions)が縮減され,または 消滅するようになる時期から起る。」(ibid., p.71,同上,66ページ)。
ワロンは,それ以前の子どもの反応が,局部的,部分的であることを,プラ イエルの引用をとおして,説明している。ワロンは,プライエルの引用部分を 明示していないが,そのことば(ibid.,同上)から推して,ここは, W.Preyer,
Die Seele des Kindes,1882, W. Preyer, The mind of the child,1890/188 9,(ARNO PRESS,1973.ここでは,英語版を使用する)のchap.,10. Refrex movementsからの部分であると思われる。プライエルはそこで,次のように
述べている。
「獲得された反射運動とは直接対照的に,足の裏を触る(くすぐる,打つ)
と,それに続いて,足の指が先天的に広がるということが起る。私は新生児 において,生後5分で,そして最初の数日間に,4週間後とまったく同じよ うに,このことがじつにはっきりと現われるのを見た。ダーウィンは,7日 目に,紙切れで足の裏を触れると,足が突然ぴくっと動き,足の指がまきあ がることを指摘している。私は,この反射,または足の裏に触ったら足の指 が広がることが,どのような状況のなかで,起るかを発見することはできな かった(cf., p.104)。しかし,私は,(生後)8週間もの早い時期に,足の
裏をくすぐると笑いが続くのを認めた。このいわゆる反射的な(reflexive,
reflectoricshe)笑い(p.145)は,規則的な,絶対的に純粋な反射行為では ない。というのは,それは以前に存在した気分に依拠しているからである。」
(ibid., p.225)
ここで,プライエルは,同書の104ページと145ページとを参照している。こ こで,ついでにその個所の内容を説明しておくと,次のようになっている。
「新生児の足の裏に触ると,足指が広がる。足の裏をぴしゃりと打つと,足 を後向きに曲げ,膝とそれにつづく尻を曲げる。刺激がもっと大きくなると,
同じ運動が普通さらにつけくわわり,同じ順序で他の足に起る。新生児を針 で突くと,もっとも容易に,足の裏から外側へ,苦痛の反射運動が,すなわ ち,落ち着きのなさと叫び声が起る。しかし,最初の接触と運動の開始との 間にかかる時間一反射期間一は,大人よりも長くて,2秒にもなることがあ
る。」(ibid., pp.104−105)
「おそらくランプをともしていっしょに手をたたき,笑って喜ぶのは,後ま で起らない(9ないし10か月)。だが,この時期から口をあけて笑うのは,
いつでも喜びの表現とはかぎらない。というのは,最初の半年の終わりから,
私の子どもは,他者が彼にたいして笑うと,ひじょうにしばしば笑ったし,
最初の一年の終わりからは,誰かが彼の近くで笑うと,たんに模倣から,そ してまったく機械的に,ぼんやりとなぜだか分からないままに,ほとんどい
つも笑った。もしも,腹をしきりに押してやって,彼がしばらく歓声をあげ
たとすれば,その時,彼は喜びにたいするなにか特別の理由をもったのであ
175 る。しかし,(二ヵ月で)彼が足の裏をくすぐられた時,笑いは反射的であ
る。」(ibid., p.145)
要するに,ここでプライエルが挙げているのは,純粋に反射的な四肢の動き にかかわる叫び声や笑いであり,最初の情動の動きが,反射運動と結びついて いるという判断である。もっともプライエルによれば,志向的な笑いと反射的 な笑いとの区別をすることは難しい。しばしば,両者は混同されがちであるが,
それでも彼は,3か月での母親の顔を見て赤ん坊が笑っているのと,なんとな くお腹がいっぱいで笑っているのとは区別がつく,と述べている(ibid.)。
こうして,プライエルは,筋肉と情動の働きとの間の関係について,「これ ら筋肉の作用と快感の情動の基礎をなす神経プロセスとの結合については,ま だなにも知られていない。」(ibid.)と説明するのである。
たしかに,プライエルのこの書物が発表された時期(1882年)には,両者の 関係はほとんど解明されていなかったものと思われる。だがワロンの追求は,
ここのところをめぐって,執ように続けられる。ワロンによれば,プライエル が「反射的な笑い」といっているのは,まだ縮減されていない,ばらばらの反 応である。生後2か月では,プライエルの言うように,それは足にさわると笑
い顔になるといった瞬間的な反射にとどまっている。しかし,このばらばらの 反応の勝手な出現が減り,止む頃から,くすぐりが現われる(OCE, p.72.『性
格』66ページ)。
ところで,このような真のくすぐり ワロンがインサバドのことばをかり て「情動の未分化な原始的な形」であるとしている現象一は反射的なくすぐ
りと本質的にどのように違い,またそれはどのようなメカニズムで発生するの
であろうか。
まずワロンは,このくすぐりは自分で皮膚をくすぐって,むずがゆい感じを 起こす時のものとは違うという(ibid.,同上,67ページ)。この場合の感覚は内臓 的な感覚というよりは,外部的な刺激との関係で発生する一種の印象である。
外部的な刺激が止むと,それは次第に消えるが,刺激がある場合には,それは
つねに同じような状態を保っている(ibid.,同上)。そしてその印象は,刺激の
場所に局所化されたままで,刺激は周囲に伝播していかない(ibid.,同上)。ワ
ロンによれば,このような反射は,しばしば非常に離れた筋肉の群を動かし,
たとえば,左足がかゆいと右手が動くといったように,その運動を手足に刺激 があった場所に向かわせ,興奮を広げるのではなく,興奮を鎮めようとする
(ibid., p.73,同上)。
この場合,反射は縮減されているから局所的なのではなく,いわば縮減され ていないからこそ,局所的なのである。つまり反射は他の身体機能と有機的に 結びついて興奮を伝えたり鎮めたりするのではなく,反射それ自体として,個 別に身体の動きを作り出しているにすぎない。さきに述べたように,反射が遠 くの筋肉を動かして興奮を鎮めようとするのは,遠くの筋肉の運動に反射が有 機的につながっているのではなく,その反射が自身の反応を鎮めるために,遠
くの筋肉がそれに無限定的にしたがって動いているにすぎない。それは個別的 な反射の個別的な動きであって,ある反応が縮減されたために有機的結合によ って起るものではない。縮減は反応を個々の法則性にしたがわせると同時に,
それらの法則性をより大きな結合の法則性のなかに連続させるのである。だが,
このような縮減と連続とは,真のくすぐりの場合,どのようにして起るのであ
ろうか。
この点でまさにワロンは,姿勢の緊張と情動とを挙げるのである。
まず第1に,ワロンはくすぐりが表面的な感覚,つまり先に述べたような皮 膚や感覚器官のものではないことを強調する(ibid.,同上)。それはなによりも,
関節や体節の部分と関係している。つまりそれは表面的ではなく,もっと深い ところと関係して起っている(ibia.,同上)。このことをワロンは,くすぐりが おもに集まる場所を指摘することによって証ししようとする(ibid.,同上)。そ れは足の裏,脇の下,首,背中,脇腹,腹,ひかがみ,といった場所である(ibid.,
同上)。こうした場所は,ワロンによれば,腱,靱帯,腱膜,骨膜などと関係 しており,したがって,こうした部分の筋肉と関係した感覚が,くすぐりのそ
れであるとされるのである(ibid.,同上)。
ワロンは,関節およびそこの筋肉と関係した感覚は,姿勢の反射であり,緊
張の反射であるという(ibid.,同上)。つまりワロンによれば,くすぐりの感覚
は,こうした筋肉にたいする刺激によっておこる緊張を,一連の姿勢平衡を保
177 っために,まわりに伝播させる反応である,と考えている。刺激が,こうした 場所につづくと,収縮は付近の筋肉に移動し,手足にも内臓にも及び,循環や 呼吸までも,その影響をうける。収縮とその感覚との相互関係は,こうして,
たがいに雪崩のように大きくなり,ついには,「一種の爆発的な発作」(une
crise de trop−Plein)にまで到る(ibid., P.74,同上)。
くすぐりは筋肉の緊張を移動させようとする方向と,その緊張をさけようと する方向とをあわせもっている。くすぐられた人は,ワロンのいうように,そ こから逃げようとする運動と,くすぐりからくる内的な反応との対立状態を示 している(ibid.,同上)。ここでくすぐりからくる内的な反応といわれるものは,
姿勢の緊張に対応する,一種の自己受容性感覚のことであろう。くすぐりから 逃げる反応は,姿勢の緊張をさけようとする反応であるが,くすぐりによる内 的反応,すなわち,自己受容性感覚は,その進行を止めることができない。緊 張は,緊張を続けようとする傾向と,それを解除しようとする傾向との対立で ある。そこで,くすぐりの感覚が極端につづくと,それは一種の発作にまで到 る,とワロンはいうのである。このような発作は,ワロンによれば,一種の抑 制を越えた反応であり,このような反応を,彼は脳を除去した状態や,ヒステ
リーの反応,さらには,幼児の「弓なり緊張」(opisthotonus)の状態と比較し
ている(ibid.,同上,68ページ)。
この場合,脳を除去した状態とは,原文では文字どおりattitude d6c6r6br6e であり,動物において,脳切除amputation du cerveauの状態であらわれる姿 勢のことである。脳除動物animal d6c6r6br6eというのは,一般に,脳を除去 するか,中枢神経をあるレベルで切断した実験動物のことを指し,とくに,最 初に脳幹を上丘下丘の部分で除去した動物の実験をおこなったシェリンントン の名にちなんで,これをシェリントン動物Sherringtn anima1と名付けている
(南山堂『医学大辞典』第16版,1978年,「脳除動物」の項参照)。動物はこのよう な除脳の状態では,筋緊張の異常充進と姿勢を示すが,これは,一般に除脳固
縮(rigidit6 par decrebration)と呼ばれている(前掲書,「除脳硬直」の項参照)。
犬や猫はこのような状態では,四肢を伸ばし,頭や尾を背方にそらし,木馬の
ような姿勢になって,少し傾いても,容易に倒れて起き上がることができない。
猿や人の場合には後肢は延ばすが,前肢は曲げた状態になる。この状態は脊髄 の後根を絶つとなくなるので,それは抗重力筋に関係した反射の異常な昂進だ と考えられている。身体の平衡や姿勢の維持は,すでに述べたように脳幹にあ り,それが大脳皮質や前脳核などの上位の脳から抑制を受けている。そしてこ の抑制がなくなると,このような硬直が起るのである(同上)。
ワロンが次に挙げているヒステリーは,いわゆる心因に基づく異常な反応で,
もっとも下級的で原始的なものである。その解剖学的基礎はいまもってよくわ かっていないようだが(前掲書,「ヒステリー反応」の項参照),ヒステリー性痙 攣発作は,強直性,間代性,あるいは両者を交えた不規則な痙攣である。ワロ
ンが最後に幼児の例として挙げている後曲反応(opisthotonus)は,ヒステリ ー反応のもっとも古典的なものと言われ,発作中に頭をそらせ,後頭部と足と で全身を支え,全身を弓状に曲げて橋のようにそりかえる状態である。
いずれにしても,このような状態は,緊張の中枢の抑制がなくなる場合であ り,ワロンは,このような状態を,くすぐりがもたらす状態と関連してとらえ ようとしていると思われる。もっとも,くすぐりを続けると,どうして抑制が なくなるかについては,ここでは,ワロンは十分な説明をおこなっていない。
が,筋肉の異常な反応が,脳幹の働きの独自の運動をつくりだし,それが普段 の抑制を可動させなくしてしまう結果,このような状態が起るのものと考えら
れる。
ところでワロンは,このような緊張の解除がもたらす状態を,笑いとしてと らえる。くすぐられた人は,それに耐えかねて爆発的な笑いにさそわれる。こ の場合の笑いは,心情的な笑いというよりも,原始的で身体的な笑いである
(OCE, p.74,『性格』68ページ)。ワロンはこのような笑いを,「腹部を起点とす る笑い」(rire a point de depart abdiminal)であると述べている。ここで「腹 部を起点とする」とワロンが言っている意味は,彼がこのような笑いを,意識 と結びついて独立に現われるものとは考えずに,なんらかの意味で,身体の動 きと結びついて現われるものと見なしていることである。例えば,ワロンがこ こでも引用しているプライエルは,さきにあげた『子どもの精神』のなかで,
乳児は1年目の終わりに,喜びの独立的な表現である笑いに加えて,純粋に模
179 倣的な笑い,すなわち,他者が笑うと,それを模倣して笑うことが現われると 述べているが,その場合でも,それにたいする自己意識は,お腹を押してやる と(with employment of abdominal pressure),それをひどく喜びながら表現す るような形で現れるとプライエルはつけ加えている。お腹を押すという行為を 伴わなければ,模倣をとおしての笑いはおこらないという意味で,この場合の 笑いは,まだ身体的であることをプライエルは示唆しようとしたのだと思われ
る(Preyer, op. cit., P.299)。
もっと進んだ内面的な笑い
ワロンは,もっと内面的な笑い一プライエルが3歳になって初めて現れる といった笑い は,このような身体的な笑いと質的に異なると述べている
(OCE, p.74,『性格』68ページ)。両者の笑いがどのように異なるかは,ワロン はこの部分では,詳しく述べてはいない。このような笑いの特徴は,後の『精 神発達』でも同じように説明されている。そこでは,依然として,笑いは緊張
の解消として位置づけられている。ワロンはその一一例として,『性格』にも挙 げている「ばか笑い」(fou rire)をあげて,次のように述べている。
「バカ笑いもまた,ながびいた期待または拘束の解消,一時停止され蓄積さ れたエネルギーの爆発である。単純な笑いそのものは,筋肉の緊張を使いはた そうとする痙攣の連続であって,通例,筋肉を弱め,あらゆる努力の能力をと
りのぞいてしまう。笑いは,すすり泣きとは反対に,内臓の筋肉のなかにより も,骨格の横紋筋のなかにはるかに多く広がる。そして,笑いの通常の原因は 緊張の高まりによりも,むしろ緊張がそれ以上になると抑制される閾の低下に 存するように見える。」(EPE, p.121,『精神発達』147−148ページ)。そしてこの
ような記述は,同じように,基本的に『精神生活』にも見られる(La vie
mantale,p.208)。
笑いは,プライエルによれば,2歳の終わりには,「ふざけ笑い」(roguish laughing)へと進み,4歳になれば,「軽蔑笑い」(scornful laughing)も見られ
るようになる(Preyer, op. cit., p.299)。
この場合,より進んだ笑いと先のような身体的な笑いとの関係をどのように
つけるべきかについては,様々な解釈が成り立つであろう。その場合問題は,
くすぐりによって始まる笑いの構造と,遊びがつくりだす笑いの構造の連続性 と不連続性とをどのように考えるかということであろう。そしてここでも,ワ ロンが述べている「性格の起源」が問題になろう。ワロン自身は,私のみると ころ,『性格』ではこの点について述べていないので,さしあたり最近の一つ の仮説を紹介して,今後の検討にまつことにしよう。
その仮説というのは,ヘルムート・プレスナーの見解である。彼は,『笑い と泣きの人間学』)(Helmuth Plessner, Philosophische Anthoropologie Lachen und Weinen,1870)(滝浦静雄,小池稔,安西和博訳,紀伊国屋書店)のなかで,「く
すぐったさ」が,表現的身振りの「くすくす笑い」を引き出してくることを挙 げ,そこに,「くすぐったさ」のもつ「両価性」(アンビヴァレンツ)が現われ ていると述べている。この「両価性」とは,たとえば,「くすぐったさ」のな かに,快の色調と不快の色調とがアンビヴァレントに存在するということであ る。プレスナーによれば,そこには,誘いこむ諸契機と不快にさせる諸契機と が均衡を保っている。くすぐったがる人は,くすぐられることによって,快感
を得ようとする。しかし,彼は同時にくすぐられることから逃げようとする。
これはくすぐりが緊張と緊張からの解放とをともに要求していることの証左で
ある。ところでプレスナーによれば,このようなくすぐりの「両価性」は,く
すくす笑いの構造に重要な表現的特徴を与える。くすくす笑いは,まだ本来の
笑いではない。しかし,くすくす笑いの表現身振りは,笑いという表現様式の
意味深い一つの特徴を露呈しているというのである。「くすくす笑い」におい
ては,先のようなくすぐりの「両価性」が刺激の性質をもって感官に結びつい
ている。「くすくす笑い」のなかには,他者にたいする独特の切迫した感覚的
いらだちのようなものがある。例えば,まぶたをほそく閉じ,口を横に広げる
身振りは,他者の行為にたいして,他者の行為の自己の感覚への刺激にたいし
て,いわばどうしょうもないといった,嫌悪とはいえないまでも,一種の尻込
みし,身を縮めるといった態度が含まれている。だが,それは同時に,他者の
行為にたいして,自己の感覚を快く刺激するその効果を獲得して,それを楽し
んでいるといった態度が含まれている。「くすくす笑い」は,その意味で,他
181 者の行為に対する快と不快の微妙に入り交じった状態を表している(同上,11
5−6ページ参照)。
プレスナーは,このような両価性が,笑いを感じている当の人間を自由と拘 束との二重の感覚へと誘っていることを述べながら,笑いが正反対の情動の弁 証法的動きのなかで現実化されることについて,次のように述べている。
「われわれがこれまでくすぐったさの現象において,なるほどいささか極端 な形で出会いはしたが,しかし明かに遠大な展望を開いてくれるかの両価性 から,その回答が与えられるのである。両価性はかならずしも快であると同 時に不快な,こちらに媚びると同時に厄介な刺激の性質としてのみ立ち現わ れる必要はない。或る状況がわれわれの創造的な準備体制や形成活動に依存 しながらも,同時にわれわれの準備や活動を状況の気ままな自立性によって 拘束するために,われわれには動揺しているように感じられる状況の性格を 規定するものが両価性なのである。われわれは自由であると同時に,自由で はなく,拘束しつつ,また拘束されている。われわれと客体(事物,遊び仲 間)との間には,われわれが主人であるが,しかし主人ではないといった,
両価的な関係が支配している。なぜなら,この関係を手中におさめているの はわれわれであるが,また同時にこの関係がわれわれを捉えているからであ る。そのような種類の関係が,遊びのうちに,われわれの意志によって,ま たわれわれの意志に反して創設されるのである。」(同上,119ページ)
やや長い引用になったが,ここには笑いの持つ生理的表現の弁証法と,その 意味の弁証法とが関連されて記述されている,ということができよう。こうし てプレスナーは,遊びの拘束性と非拘束性との関係を,笑いの本質と関連させ て述べていると思われるが,このことは,ワロンの遊びの本質規定とも関係し て興味あるところであろう。すなわち,ワロンは『精神発達』のなかで,遊び を日常生活での規律や任務から外れること,すなわち,規律や任務に反する側 面をもっていると同時に,規律や任務を前提としてそれらの行為から出発して
いるという側面をもっていることを述べている(EPE. p.62,『精神発達』73ペ
ージ)。このように遊びは,規律や任務からのくつろぎを示しているが,それ
は規律や任務のある生活なしには,おもしろさを発揮できないものなのである。
したがって遊びが笑いをつくりだすということは,このように笑いのなかの両 価性を,遊び自身が引き取っていると解釈できるのである。
このような解釈は,くすぐり笑いが,緊張を一方でつくりだすと同時に,他 方でその緊張を緩和するところから生じていることを考えれば,さしあたって
は納得できることであろう。
第15章情動感覚と知覚の「対立性」(antagonisme)について
はじめに
ワロンが,以上に続いて,はじめにとり挙げるのは,さきにみたような,深 い緊張性の,情動的なくすぐりが,自分の中からは起こせないという事実であ る。もちろん,人間は自分で体のどこかをわざとさわって,局所的なむずがゆ い感じをつくりだすことができる。ワロンが言うように,人間は自分で出した 声を聞くことができ,自分で動かした物を自分で見ることができる(ibid., p.
78,同上,70ページ)。このことから,ワロンは情動と関係活動とは「対立性」
(antagonisme)の関係にあることを示唆する。
「対立性」の概念
ここであらためて,これまでなんどもとり挙げてきた,ワロンにおける「対 立性」の概念について問題にしておくと,すでに述べたところからも分かるよ
うに,ワロンは一見全く関係のない,発達の筋道のちがった機能の関係一発 達の「異質的関係」一を立てるにあたって,この「対立性」の概念を使って いる。そしてそのことは,思考活動と身体の姿勢活動,表象活動と自動運動と いったように,もともと身体的・生理的活動と外界にたいする認識的活動との 対立的な関係について,彼自身がおこなってきた記述からも示唆されることで
ある。
さて,『性格』の記述の上では,情動の活動は,このような相反する活動を
媒介するものとして,位置づけられていることを,私たちは読み進むにしたが
って明らかにし得ているのではないかと思うが,この部分でも,こうした原則
183 が方法論的に展開されているように思われる。こうして「対立性」の概念は,
ワロンの記述の方法概念でもあるが,しかしそれはなによりも,事実の関係の 概念であり,この概念が記述の方法概念となる場合には,さきに情動の学説に ついて展開したように,パラドックスの概念によって具体化されているように
思われる。
情動が,身体的・姿勢的なものと,また臓器的なものと直接関連しているこ とは,すでに述べたことからもはっきりと分かるが,それでは,このような情 動は,外部的感覚とどのように関係しているのであろうか。
この事については,ワロンがすでに,『性格』第1章「情動生活の心理一生 理的条件」の「C外部感覚からくる諸反応」のところで述べたように,外部感 覚が内部感覚や自己受容1生感覚にたいして「対立性」の関係にあること,そし てとりわけ,その「対立性」に外部感覚の方向性,定位牲が関連していること
を思い浮べれば判断できるであろう。
すなわち,ここでもう一度くりかえすことになるが,外部感覚は,すでにも っとも原初的なかたちで存在する,その方向性,定位性をとおして,情動の基 礎である内部感覚と自己受容性感覚にたいして,「対立」するのである。その 場合,「対立」するという意味は,それをたんに促進したり抑制したりすると いうように,機能のエネルギー的側面をになっているだけではなくて,外界に たいして「新しい関係」を,情動に与えているという意味である。ここでワロ ンが「新しい関係」というのは,たとえば,ワロンがつぎのように述べている ところにも現われている。
「人はだれでも,最初は,自分自身でひきおこす刺激,自分の好きなように 再生することのできる,または変形することのできる刺激しか,見分けたり,
個別化したりすることはできない。物事の全体的な,動いている現実を,各 人の身から切り離し,解読することができる感覚的意味づけを,人に認識さ せるためには,世界と人との間で,世界を各人の活動によって媒介しなけれ ばならない。/だが同時に,各人の感覚を刺激または限定した対象と結び合 わせる諸運動は,筋緊張の波を消していくが,筋緊張は受け取った印象を生
体の中へ拡散させていたものである。」(ibid., p.78,同上,70−71ページ)
ここで「波を消していく」とワロンが云っている現象は,実際,緊張の波が あらわれるのを「弱くする」といったことではなくて,まさに心理的現象を,
緊張の表面から,外界的・関係の表面へと移してしまう,ということを意味す る。すなわち,さきに述べたように,姿勢や内臓の機能の強弱が,外部感覚に よって起こされるというのではなくて,外部感覚は,情動の基礎に「対立」し て,その反応を違った局面へと導いていくということである。「消していく」
というのは,原語ではeteindreであるが,これはdeminuer l ardeur,1 entensit6 deという意味から,さらに, faire cesser d existerという意味があり,まさに,
その存在を無くするという意味を転義的にもっている(cf., Petit Robert,
Dicitonaire de la langue francaise)。つまり,ここでは「消していく」というの
は,外部感覚が1青動の存在をなくするほどに,両者が「対立」していることを 示すことばとして理解したい。
ワロンは,もうすこし後のところで,「こうして関係の感覚は,生体的感覚 のうえにその支配力を行使するはずである。」(La sensibilit6 de relation doit ainsi conquerir son domaine sur la sensibilit60rganique.)(ibid., p.79,同
上,71ページ)と述べているが,このところも,同じように解しなくてはなら ないものであろう。
「対立」は,こうして,両立不可能な性質として,関係の感覚と,もっと深 いところの,したがって,情動と直接つながっている感覚とのあいだの関係と
して,なによりも存在している。各種の知覚は,有機体が外部的に働きかける 時,使われるのであるから,外部へとむかう。ところが,情動と直接的に関係 する生体的感覚は,内部へとむかう。内部へとむかうだけではなく,外部へと むかう感覚にたいして,つねに「対立」している。このことを,ワロンは多く の例で説明している。
たとえば,さきのくすぐりの例で,ワロンはこのことを説明する。くすぐり をもっとも感じる体の部分は,実は外部感覚のもっとも鈍いところである。反 対に,外部感覚のさかんに使われる部分は,くすぐりのもっともきかない部分
である。たとえば,ワロンは手のひらの例を挙げているが,この外部感覚をい
ちばん感じやすい部分こそ,もっともくすぐりを感じにくい部分である。この
185 ことは,経験的にもわかるところである。反対に,もっともくすぐったい脇の
した,首,胸などは,普段,外部感覚をあまり使わないところである。
ところが足の裏は,もっとも外部感覚を感じているはずなのに,ワロンのい うように,なぜ,くすぐりがひどく敏感な部分となっているのであろうか。ワ ロンによれば,足の裏は,平衡の仕事にだけたずさわっている(ibid.,同上)。
足はなにか異物を感じる時のほかは,ほとんど無意識のように見える。それは まさに平衡のことしか機能していないかのようである。外部的感覚は,おそら
く異物を感じる時だけ,器質的な感覚としての平衡感覚と「対立」するのであ
ろう。
ワロンはつぎのように,足の裏のくすぐりの感覚について述べている。
「だが足の接触は,立ったり歩いたりする際の平衡を調節する以外のことは しない。足の接触は自動運動の回路によってもっぱら独占されているので,
決してその他の接触と重ねられてはこなかったし,ものにたいする接触と比 較されてもこなかった。したがって,自動運動と関係なく印象が生まれても,
その印象を減じる(縮減する)のにふさわしいイメージは存在しない。それ でなにものもくすぐったさの起源となっている筋緊張の反応の目覚めを妨げ
ないであろう。」(ibid.,同上)
ここではワロンは,「自動運動と関係のない印象」について語っている。も し,このような印象が,完全に外部的刺激として,自動的感覚と関係のないも のであるならば,自動運動と全く対立して,そのような感覚を打ち消してしま
うであろう。したがってその場合は,外部感覚が感じられるだけであろう。し かしそうはならないで,くすぐりのような感覚が生じるのは,外部感覚が独立 して感じられないで,或る程度自動的な感覚を,それが乱すというのが,ワロ ンの考え方のようである。このことはおそらく,外部感覚がそれほど強くない ことを前提としている。というのは,くすぐりの感覚は,足の裏にたいするあ まり強くない刺激によるからである。このことについて,ワロンはなにも言っ ていないけれども,一定の刺激の強さがなければ,外部感覚と生体的感覚との
「対立」がおこらないのは,感覚についての弁証法の本質を示している。
このように,「対立」が,異なる感覚を「打ち消す」ように働くということ
は,先にも述べたように,「対立」の概念が,ワロンの発達の弁証法にあって,
発達の程度の差を示しているのではなく,それが,まさに,決定的に心理機能 を「消していく」ように働いていることを示している。ここでは,外部感覚が 内部の器質的感覚を「抑制」しているという理論にたいして,ワロンの理論の 独自的な観点が指摘されよう。もともと,このような「抑制」が,フロイトの
「抑圧理論」のように,意識にたいする無意識の世界を定立する基礎になって いるのにたいして,ワロンの理論が,たんに「抑制」というのではなく,本質 的に「対立」概念をもってきているのは,個々の現象を徹底的に分析しての結 果である。ワロンの分析は,このような「対立」の概念を,つねに,個々の事 実の分析によって,確かめていく。「抑制」は,このような分析の結果なので ある。したがって,情動の機能は,このような分析の結果,定立されているの で,けっして,その逆ではない。
ワロンは「こうして,関係の感覚は,器質的な感覚にたいして,その支配力 を行使するはずである」と言う(ibid., p.79,同上,71ページ)。ここで「支配 力を行使する」というのは,原文では,conquerir son domaineである。つま り,関係の感覚が,その領域を器質的な感覚にたいして,勝利者として対置す るというのである。もちろんワロンの言うように,関係の感覚が欠ける
(absent)時は,再び,器質的な感覚,基礎的で原初的な感覚が現われる。ワ ロンは,こうした二つの感覚の関係を,ヘッド(Head)によって,「両立不可 能性」(incompatibilite)と呼んでいる(ibid.,同上)。そこで,このことばもま た,ワロンの発達心理学における「対立」概念の意味をあらためて,私たちに 思い知らせてくれる。
すなわちワロンは,外部感覚とりわけ関係の感覚が,器質的な感覚,とりわ
け,内部感覚や自己受容性感覚にたいして,完全にそれを形のうえでは打ち消
すことを認めているということである。ところで,ワロンはこのような内部感
覚や自己受容性感覚を,明かに,生物学的・生理学的に問題にしているだけで
なく,それを関係論的に取り扱っている。たとえば,愛着の感覚などは,生理
的な基礎をもっているが,その発現は人間関係論的である。すなわち,現代で
は,すでに広く認められているように,それは,個体にインプリンティングさ
187 れたものが,対人関係とりわけ,母子関係によってリリースされた結果のもの である。ワロンは,いかなる生理的・生物学的性質も,人間にあっては,社会 的な媒介によって発現し,発達することを基本的に認める理論構成を行なって おり,したがって,あらゆる内的なものを,外的・社会的なものと無関係に定 立してはいない。しかしワロンは,起源的には,このように二重になっている 心理的性質を,一方が他方にたいして両立不可能なものとして定立している,
と言い切るのである。
このことは重要な原理を提出しているように私には思われる。それは発生的 に二重になっている心理的性質も,その現前においては完全に対立し,互いに 相手を打ち消してしまうという事実への仮説的対応である。このことは,本質 的に,ワロンの発生的心理学の仮説と現象学的心理学のそれとを慎重に比較す る必要性を私たちに課している。例えば鏡像の問題にたいするメルロ=ポン ティの有名なワロン批判は,いったん像としてその客観的存在が子どもによっ て認識された場合でも,それ以前の鏡像にたいする子どもの興味が,内的な臓 器的感覚と自己の統一的視覚像との矛盾から発しているという解釈から,たえ ず像の知覚にたいして,内部感覚の動揺が起るのではないか,というところか ら来ている。ワロンはもちろん,場合によって,そのようなケースを認めない わけではないから,もしこのような批判が個別的なケースのワロン解釈にたい する批判ならば,そのケース毎にそれらを吟味すればよいであろう。しかしメ ルロ=ポンティのいうように,知覚,とくに視覚が,つねに内的な心理的性 質一したがってメルロ・ポンティの場合には,相互主観的な関係のなかで 形成される一性格的な性質の内的な個性的意味をつねに持つというこになる
と,問題は違ってきて,きわめて複雑にならざるを得ない。つまりワロンのい うように,内的な感覚と外的な知覚一視覚をも含めて一とが相互浸透する ことを一般的には認めながら,特殊には,両者がさきに述べたように完全に対 立し,両立不可能であることを認めるとするならば,メルロ=ポンティの批 判は一般論としてはあたらないということになる。
問題はしたがって,メルロ=ポンティのワロン批判が,はたして鏡像段階
の場合,鏡像についての知覚がいったんできた際に,内部感覚とそれが完全に
「対立」し,両立不可能なケースとして認められかどうか,ということである と考えられる。もし,そのようなケースが認められれば,メルロ=ポンティ のワロン批判は,一般的には成り立たないことになろう。したがってワロンの 知覚論を,単純に人格的な意味や内的な意味を捨象した,それ以前の心理学に おける合理主義的・分析的方法によるものとして,批判することはできないで あろう。問題はしたがって,ここでは二つ残されているというべきであろう。
第1に,メルロ・ポンティのワロン批判が個別的なケースとして特殊に妥 当しているかどうかということであり,第2に,メルロ=ポンティのワロン 批判をとおして,ワロンのもっとも本質的な心理的性質の「対立」に関する方 法論に問題はないかということであろう。ことばを変えて言うならば,内的感 覚と関係の感覚との間には,決定的な断絶があり,したがって鏡像の場合でも,
完全に像の意味を内的な感覚とは切れたところで,まさに外的な像の意味を持 つものとして認識できるかどうかということである。
このことについては,あらためて結論づけなければないが(拙稿「Wallon のLa vie mentaleについて」(3)未発表),ここではさしあたって,ワロンが,
知覚の構造は,内部的な器質的な構造とは,いったんは切れていくという認識 を結局はもっているという側面を強調しておこう。このことは他の側面におい て,ワロンが一般的な認識や思考の分野で,むしろ器質的な構i造を明確にしよ
うとしたことと一見対立しているように見える。しかしこの問題についてもあ らためて考察することにしよう。
器質的感覚と外部的知覚との関係 ヘッド
さて議論がやや方法論上の問題に偏ってしまったが,当面の問題は情動の発 生に直接かかわる地点での,内部感覚や自己受容性感覚など,器質的感覚と外 部的知覚との関係如何ということであった。
ここでワロンは,関係的感覚と内臓的原始的な感覚との関係にたいするヘッ
ドの考察を問題にしている。ヘッドは前腕の皮膚神経が切れて,感覚麻痺が起
った時のことを述べている。そしてそのことによって,感覚が全くなくなった
わけではなく,そこでは「接触や物の質に対応するように見える感覚」がなく
189 なるが(ibid., p.79,同上,71ページ),しかし同時に,それとは「全く異なっ た,内的な,漠然とした,かさの大きいような,外からの刺激と関係のない,
しかし,冷たさ,熱さ,湿気などの外的作用には反応する能力をもち,または,
それらの[刺激]を高めたり,低めたりする」感覚が残ることに触れている
(ibid., p.80,同上)。ヘッドによれば,この感覚は循環の局所的な変化のよう な組織や器官の反応と結びついており,つねに情動的な性格をもっているが,
ここでワロンは,外部感覚と内部感覚とのいわば渾然とした融合の状態のなか に,というよりも,内部感覚と外部感覚とのまさに「対立」のなかに,情動の 発生があることを示唆している。ヘッドがいうように,こうした感覚は「苦し
いこと以外のなにものでもなく,また多かれ少なかれ不安をともなっている。
そして快適であることができる時には,幸福感や信頼感の一般的な印象で横溢 しているように見える。」(ibid.,同上)。そして「この感覚が気分の変化にたい してはたす影響は相互的である。」(ibid.,同上)ここで,感覚と気分(humeur)
との関係が相互的ということは,いうまでもなく,こうした感覚が変われば,
気分もかわるし,逆に,気分が変われば,この種の感覚も変わるということで
ある。
ところで気分というのは,もともと,動物や人間の体内を流れる一種の体液 をさしており,そこから転じて,人間の一定の傾向や性質(disposition)を指 すようになったことは比較的よく知られている(cf., Larousse classique,1957,
et Petit Robert,1987)。このことばは,一定の人間の傾向を指す場合もあるが,
そのような総体的な性格を表すのではなく,或る特殊な,したがって,一時的 な人間の傾向を示す場合にも使われる。ここでヘッドが述べているのは,まさ にこうした傾向を指していると思われるが,それは,理性や理屈では解釈でき ない,ある気分で決まってくる人間のその都度の傾向であろう。ところでこの
ような気分が,先の感覚と相互関係にあるということは,こうした感覚が,外 部感覚とは多く切れているにもかかわらず,その一部,とくに,熱さ,寒さ,
湿気といった,もっとも原初的な外部感覚,つまり内部感覚ともつながるよう な感覚,したがって,体内の循環ともっともつよく結びついた感覚と関係して,
外部環境にたいして人間を動かしている,その傾向性をつくっていることを述
べたかったのだと思われる。
皮膚の感覚のなかでも,内部の感覚に近い感覚と,より内部の感覚との関係 が,こうした相互関係をあらわしているのであろうか。
ここでワロンは,こうした感覚が,ヘッドによって「原始感覚」(protopathic sensory)と呼ばれていることを紹介しているが,これと対立する感覚は,ヘ
ッドのいう「判別感覚」(epicritic sensory)である。ヘッドは皮膚感覚をこの ような二つの感覚に分けたが,彼はこのことを,末梢知覚神経の切断によって,
立証しようとした。すなわち原始感覚は,末梢神経を切断した後,或る期間そ の支配域の皮膚に存在する感覚であり,圧迫,温熱,および疹痛のような粗大 刺激にのみ反応するもので,部位および強さの判別が不良で,痛覚では不快感 をともなうものである。これにたいして,判別感覚は,切断された神経が癒合
した後,数ヵ月間であらわれる感覚で,刺激の強弱・種類を繊細に判別し,識 閾刺激が小さな感覚である。つまり,ヘッドによれば,前者は古い分化過程の 低い線維系統によって伝導され,全か無かの法則にしたがって反応する(『南山 堂医学大辞典』1978年,「そうよう」の項参照)。いわゆるかゆみは,このような 原始感覚と近親関係にあると言われるが(同上),ワロンのいうように,くす
ぐりの感覚もこの種の感覚と考えられる。このように,ヘッドのこうした感覚 の区分けは,もっぱら神経学的考察からのものであるが,彼のこうした区分け は,ワロン自身による二つの感覚の「対立」をむしろよく示している,とワロ
ンは言うのである。というのは,ワロンもいっているように,この区分では,
同じ皮膚感覚のなかに,内部へむかう感覚と外部へむかう感覚とがあって,そ れが感覚の線維によって区別されているということを,むしろはっきりと立証
している,と考えられるからである。
ヘッドの考え方は,ワロンによれば,先のシェリントンの感覚区別よりも,
いっそう長所をもっている。というのは,ワロンは,ヘッドの原始感覚をシェ リントンのいう内臓感覚や自己受容性感覚と同一視し,判別感覚を外部感覚と 同一視しているが,しかし,シェリントンの場合には,この区別は,はじめか
ら全く異なった器官と目的に属するものとして位置づけられている。ところが,
ヘッドの場合には,先に見たように,二種類の感覚の,まさに「対立」する位
191 置が,物質的に考察されているからである。
ここでも私たちは,ワロンの発達における「対立」の弁証法を,明らかにみ ることができる。ワロンの「対立」の弁証法は,一般に,このような生理学的
・神経学的基礎づけからなされていることが特徴的であるが,このことは,「対 立」する心理的機能が,同時に連続しながら,切断されていることを示してい る。このように「連続と切断」とは,ワロンの発達における弁証法の特徴であ るが,ワロンは,このような反対の心理的機能に,外部へとむかうものと内部 へとむかうものとをわけて,関係させている。ワロンの発達論のなかにある,
このような傾向は,人格の発達とその段階の特徴にまで,発展させられるが
(この点については,拙稿「wallonのLa vie mentaleについて(その1)『教 育科学研究』第9号,1990年参照),こうした展開のもっとも基底に,このよ
うな「対立」の考え方があることがうかがわれるのは,きわめて興味深いこと
である。
ここでもうすこし,ヘッドのことにふれておくと,原始感覚についてワロン
は,ヘッドの実験をHead et Rivers, A human experiment in Nerve−Division.
Brain, vol.1.1908, p.323.から引用して,紹介している。そして,原始感覚 が,関係の感覚とは,全く違った系から来ていることを示している(ibid., p.
81,同上,72ページ)。ワロンによれば,原始感覚は,それが与える印象の性質,
それが受け取る影響の性質,その伝播の様相,その分布などから,それが,交 感神経活動(activit6 du sympathique)と関係していることを示している(ibid.,
同上)。すなわち,筋緊張・内臓・植物的機能を調整する神経装置に関係して いるというのである(ibid.,同上)。これはワロンによれば,体のいたるところ に拡がっている,生体のもっとも内部の反応に応える感覚である(ibid.,同上)。
交感神経の中枢は,脊髄の胸腰部側核にあり,そこから分かれた3個の道す じは,一つは,脊椎神経節,もう一つは,血管腹部臓器,もう一つは,骨格筋,
汗腺,皮膚血管へと及ぶ(『南山堂医学大辞典』1978年,「交感神経」の項参照)。
したがって明かにワロンの言っている事実が,ここでは予想される。しかし,
ヘッドのいう皮膚感覚が,このように,交感神経活動と関係しているかどうか
は,もうすこしその後の生理学的知見でもって確かめてみなければならない。
ワロンがここで述べている交感神経活動は,むしろ,筋,腱,関節などの身体 内部にある深部感覚(deep sensation)に属しているかのようである。要する に,ワロンが言いたいのは,皮膚感覚のなかでも,その変形と見られる,かゆ み,くすぐったさ,振動感,性感などが,むしろ,この深部感覚に属していて,
皮膚感覚のなかでも,とりわけ,深部感覚へと連絡していく感覚の部分を原始 感覚と関係させている,ということであろう。
視床下部について
ここでワロンは,この箇所でもっとも重要な問題,すなわち,関係の感覚と 深部感覚との接点にあたる視床下部の存在について挙げているが,ワロンのい
うように,ヘッドが交感神経の中枢を,この部分においていることから,こう した仮説をワロンはとるに至っている(OCE, P.81,『性格』72ページ)と判断 することができよう。そこでいま,その後の生理学の知見をかりて,このこと
を説明しておくと,次のようになるであろう。すなわち,視床下部とは,間脳 の底部を形成する領域で,とくに,狭義のそれは無髄線維を主体としており,
多数の神経核の集合からなる自律神経の高次中枢である。数多い視床下部の諸 核は,相互に密接な線維連絡をもち,協調して総合的に交感性または副交感性 機能を発揮する。そこで一般に視床下部の部位的刺激や破壊は,消化,吸収,
代謝,食欲,性機能など,すべての植物機能に重大な変化や影響をもたらすこ
とになる(『南山堂医学大辞典』1978年,「交感神経」の項参照)。
ワロンによれば,視床はすくなくとも,その多くの核が,後に大脳半球によ っておおわれ,その機能を抑制された原始的な段階の脳に属している(ibid., p.
81,同上,72ページ)。そしてその他の感覚は,すべて半球の皮質のほうへ完全 に移動したように見えるのに,器質的,情動的な感覚が間脳に中枢をもつとす れば,これは原始的であるばかりでなく,知覚や認識といった,完全に皮質の 機能に属するのとは違った,一定のオートノミーをもったものであることにな
る(ibid.,同上)。
こうして,ワロンは,情動が認識とは違った独自の機能をもつことを立証し
ていくが,ここから,彼は,『性格』第3章の最後の節で,情動の心理的・生
Ig3
理的意味を論じるところへと進んでいく。
第16章 情動の心理的・生理的な意味について
大脳領野局在説批判
こうして,ワロンは『性格』のなかで,情動の機能を身体的な機能のなかに 位置づけることになるが,彼の依拠する方法は,心的能力や心的要素の各々の 座を,神経系の或る場所に求め,そこから心的機能が生じるとする大脳領野局
在説とは大いに異なる(ibid., p.82,同上,73ページ)。
いわゆる局在説(Theory of localization, Theorie de la localisation)は,
大脳皮質はその各々が同一作用を営むのではなく,部位によって機能が異なり,
一定の部位はかならず一定の機能をもっているとする説である。この説は,最 初フランスのプロカが言語中枢について唱え,次いでドイツのブリッチュおよ
びヒッチヒが運動中枢について唱えた(cf., Encyclopedia of Medical sciences,
Kodansha,1983, vol.,39, p.274, vol.42, p.123)。
しかし局在説では,心的機能の各々に,かならず脳の部分の名をつけ,その 機能と脳の場所とを機械的に結びつけた。またそのことによって,脳を分割し て動かないモザイクのようにしてしまった。そのうえ,脳の機能の重なりや補 完的な働きを否定して,ある場所は或る働きをのみもっているとしてしまった
(ibid.,同上)。
ワロンがとる方法は,これとは正反対に,神経系が複雑化してくる過程のな かに,今日の種の行動に現われてきた諸機能の組織化の発展を見ようとするも のである(ibid.,同上)。ワロンはこのことについてつぎのように述べている。
「諸中枢とその階層(hi6rarchie)の連続的な出現を研究することは,諸機能 の各々が単なる層状構造(stratification)をなしているのを,先行する機能 と連関なく確認することではなくて,それらの機能が相互に依存しあってい るのを確認することである。なぜなら,行動の新しい定型化は,先在する可 能性からしか,その諸起源をひき出せないからであり,したがって,それは,
以前の諸反応の消費の上に,自らを構成しなければならないからである。新
しい定型化は,異なったやり方で,以前の諸反応を体制化する。新しい定型 化は,それによって,定型化固有の諸方向(direction)を刻印し,自らの固 有の諸表出でもって,その諸方向に置き換える その諸方向を消し去り,
関係という新しい系に向かって,その諸表出を導きながら。同時に,新しい