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ホネットの批判理論の検討を通じて

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(1)

承認論の可能性と限界

ホネットの批判理論の検討を通じて

堀 内 進 之 介

本稿の目的は,フランクフルト学派の第三世代として知られるアク セ ル・ホネットの批判的社会理論の可能性と限界を考察する ことにあ る.彼は,批判的社会理論の創始者たちから,社会批判のための「 学 的反省に先立つ解放の審級」という観点を受け継ぎながら,同時に,

第二世代であるユルゲン・ハーパーマスによって切り聞かれたコミュ ニケーション論的転回という地平も重視している.し かし, ホネ ッ ト は,ハーパーマスがその地平を語用論による言語分析の方向に展開し たことを批判し,それはむしろ人間学的な承認論の方向に展開される べ き であると論じている.その際,彼は創始者たちが重視し,ハーパ ーマスが軽視した「社会的労働

J

を,再度,承認論の観点から「学的 反 省 に 先 立 つ 解 放の審級

J

として捉え直そうと試みている.すなわち ホネットは,社会的労働における承認の期待が損なわれるという経験 が,社会的不正の経験の根底にあるということを示そうとしているわ けである.しかしながら,こうした試みが成功を収めるためには , r 労 働 者 の 主 体 性

J

を生産効率の鍵と見なす現代の労働環境の下では,労 働 に お け る 「 真 の 承 認

J

と「偽の承認

J

とを区別できなければならな い . しかし,それは相当な困難を伴うように思われる.では,社会批 判 の 可 能 性の条件とはどのようなものか,本稿ではこの点も若干では あるが検討しておきたい.

キーワード:承認論,社会批判,社会的労働

‑2 9  ‑

(2)

はじめに

19

世紀から

20

世紀にかけて社会学という新しい学聞が成立してき た背景には,資本主義的な営利経済が発達するなかで,伝統的な社会 を維持・構成してきた倫理的な指針が失われつつあるという確信があ った.テンニースやジンメル,ヴェーパー,デュルケムといった社会 学 の 創 始 者 た ち は , こ の 倫 理 的 な 指 針 は , 個 々 人 が そ の 生 を 有 意 義 な ものとして解釈するのに役立ってきたが,社会の近代化に伴い,いま や こ れ が 危 機 に 瀕 し て い る と 見 な し た . そ れ ゆ え , 彼 ら に と っ て 社 会 学 の 課 題 は , 社 会 が 道 徳 的 に 空 疎 化 し て い く 原 因 を 説 明 し , そ の 危 機 の克服に寄与することであった.ところが,すでにニーチェが指摘し ていたように,この倫理的な指針は,たとえそれが社会秩序を可能に し,個々人が善き生を営むのに資するとしても,所詮は悉意的な一つ の倫理的立場に過ぎないのである.このことを真撃に受け止めるなら,

ニ ー チ ェ と 共 に 価 値 判 断 の 相 対 性 を 認 め る ほ か は な い が , そ れ は 同 時 に , 社 会 の 動 向 を 誤 っ た も の と し て 批 判 的 に 説 明 し 得 る 普 遍 的 な 評 価 基 準 な ど は 存 在 し な い と い う こ と を 認 め る こ と に も な る . そ う で あ れ ば,社会改良に向けた社会批判はし、かにすれば可能なのであろうか.

こ の 間 い に 真 撃 に 向 き 合 っ て き た 学 問 的 営 為 の 一 つ に フ ラ ン ク フ ルト学派の批判的社会理論(以下,批判理論)がある.批判理論は,

近代(資本主義)社会の諸矛盾を理論的な検討に付してきたのだが,

とりわけ初期の批判理論では,自己保存を至上命題とする道具的理性 を批判することもその中に含まれていた.それゆえ批判理論は,単に 公 正 な 物 質 的 再 配 分 を 要 請 す る 以 上 の , 倫 理 的 な 正 当 性 を 希 求 す る 特 殊 な 規 範 理 論 と し て 展 開 さ れ て き た . こ の 点 は , 物 質 的 な 豊 か さ ゆ え のアノミーが現代社会の特有な問題として指摘される今日にあって,

批 判 理 論 が ア メ リ カ 等 の 現 代 社 会 理 論 に 影 響 を 与 え 続 け て い る 理 由 の ー っ と な っ て い る . そ れ ゆ え , 批 判 理 論 を 全 体 と し て ど の よ う に 評 価 す る か は 別 と し て も , 社 会 改 良 を 志 す 努 力 を も は や 不 要 と す る の で な ければ,批判的知性にとって,批判理論の理論的展開を検討すること

‑30 ‑

(3)

は有意義かつ不可避な作業であるのは確かである.

そこで本稿では,理論的な粁余曲折を経た現在の批判理論,わけで もフランクフルト学派第三世代として知られるアクセル・ホネットの 承認論を取り上げ,その可能性と限界とを考察してみたい.

ホネットの承認論の特徴の 一 つ は , 形 式 的 人 間 学 の 構想を組み入れ ている点にある.すなわち,承認論は,諸個人は自らのアイデンティ テ ィ を 形 成するには他者からの承認が必要であるとの理解に立ってい る . そして承認の欠知の経験は,諸個人に社会的不正として意識され 得 る ゆ え に , そ の 社 会 的不正に対する意識は,社会批判のための規範 的 な ポ テ ン シ ャ ル を持っていると考えられている.承認論はまた,近 代 社 会 で は , 承認の契機は社会的労働にも内在し,そして,そこでの 承認の経験が民主主義的公共性の規範的条件を成すと考えていること から,公正な社会的労働における承認を十分なものにすることを焦眉 の課題としている.

本稿で中心的かっ批判的に検討されるのは,この点である.という の も , 仮 にホネットの承認論の基本的な前提に同意するとしても,科 学的労務管理の系譜を紐解けば,

20

世紀の労働現場ではむしろ,第ー には労使聞や労働者間において互いの主体性を尊重し,承認し合うこ とのできる労働環境の整備が生産効率の向上・労働組合の無力化・低 賃 金 労 働 への動員といった観点から積極的に進められてきたこと,そ して第二には,そのような労務管理が皮肉にも「労働の人間化

J

とし て 労 働 者 自身によっても評価されてきたことが分かるのだが,こうし た 歴 史的事実を社会的不正として批判するとなれば,それは承認論に とっては相当な困難が伴う作業になると思われるからである

.

こ の ことを論ずるに当たり,本稿では,まず承認論が提起された経 緯としての批判理論の理論史を素描し(第

2

節),次いで承認論の諸特 徴を論ずる(第

3

節,第

4

節).そして科学的労務管理の系譜を詳細に 検 討 す る こ と で 承 認 論の一つの限界を明らかにし(第

5

節 , 第

6

節), 

最 後 に 批 判 理 論 の 持 ち 得る別様な可能性を若干ながら示唆して(第

7

節),本稿を閉じることにしたい

.

EAnU

(4)

批 判 理 論 の 理 論 史 に つ い て の 素 描

1930

年代の初めにマ ック ス・ホルクハイマーがテオドール

w.

ドルノらとともに世に問い,次第にペシミスティックな色調を帯びて い っ た 初 期 の 批 判 理 論 , そ し て 後 続 世 代 に よ っ て 改 鋳 さ れ た 批 判 理 論 は,大筋では脆弱な中産階級を反省的な政治文化を担う市民として再 活性化しようとする,現代ドイツの知的営為の流れに沿っている.も っとも批判理論は,社会的な支配状況を学問的知識が指摘する以前に,

解 放 を 願 う 人 々 の 関 心 は す で に 社 会 的 現 実 の 中 に 何 ら か の 形 で 存 在 す る,と想定する点で独自の特徴を備えている . この特徴は,他の諾理 論 と 批 判 理 論 と の 分 割 線 と し て , と り わ け 批 判 理 論 の 創 始 者 た ち に は 強く意識されていた.たとえば,ホルクハイマーは,初期の論文の中 で 批 判 理 論 を 「 解 放 と い う 歴 史 的 プ ロ セ ス の 知 的 な 側 面 」 と し て 規 定 しており,彼にとって批判理論とは,人々の解放へ向けた関心に従い,

解 放 を 妨 げ る 要 因 を 理 論 的 に 分 析 す る こ と に よ っ て 解 放 を 促 す 知 的 な 批判的実践であった

(Horkheimer1937=1998).

しかしながら,批判理 論 の こ の 特 徴 は , 裏 返 せ ば , 知 的 な 批 判 的 実 践 が 許 さ れ る の は 人 々 の 解放へ向けた関心を社会的現実の中に発見できる場合だけである,と いうことを意味する.ホネ ッ トによれば,ホルクハイマーは人々の解 放 へ 向 け た 関 心 を プ ロ レ タ リ ア と い う 階 級 の 中 に 求 め , ア ド ル ノ は マ ル ク ス の 物 象 化 論 を 社 会 批 判 の 手 掛 か り と す る 道 を 模 索 し て い た た め に,ファシズムが勝利した第二次世界大戦前夜には,学的反省に先立 つ 人 々 の 解 放 へ 向 け た 関 心 は 経 験 的 に は も は や 証 明 で き な く な っ て い た

(Honneth2000=2005: 97) 

.こうした中にあって,ホルクハイマーと アドノレノは,

1947

年に上梓した『啓蒙の弁証法

』では,

災厄の究極的 な原因を人間の理性そのものに見出すことになった . けれども,そこ で は も う 「 近 代 と い う 鋼 鉄 の 権

j

からの出口は,美学的な感性の中に 微 か に 期 待 さ れ る だ け で あ っ た . フ ラ ン ク フ ル ト 学 派 全 体 と し て も 事 情 は 同 様 で , 人 聞 が 自 由 と 意 味 を 喪 失 し て し ま っ た と い う ヴ ェ ー パ ー に よ る 合 理 化 に つ い て の 分 析 と , マ ル ク ス に よ る 商 品 形 態 に 関 す る 分

L

qu

 

(5)

析とに依拠していたために, r 批 判 的 実 践 を 構成する要素

J

で あ る 解 放 へ向けた人々の関心を,社会的現実の内に見出せなくなっていた.

か くして,第二世代であるユルゲン・ハーパーマスは,批判理論の 閉 塞 状 況 を打開するために,それが依拠してきた諸前提を捨て去り批 判理論のパラダイム全体を刷新する道を選択した.すなわち,労働(生 産)パラダイムに替えて,

i

コミュニケ ー ション的行為

J

のパラダイム を採用したのである.このことは要するに,歴史が展開するのは社会 的労働においてではなく,社会的相互行為としてのコミュニケーショ ン的行為においてである,ということを意味している .ヴェー パ ー や アドルノは,理性が反転して災厄となる歴史を運命的なものとしたが,

ハ ー パーマスにあっては,そうした歴史は歪められたコミュニケ ー シ ョンの歴史として理解されるわけである.初期の批判理論が暖昧に擁 護 し て き た あ る 種の人間学的な前提は,ハーパーマスの構想では,合 意 形 成 を 導 く 「 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 的 了 解 の 能 力 J

(Honneth  2000=2005: 104)

として理解することができる.

ホネ ッ トは,こうした批判理論のコミュニケーション論的転回を高 く評価しつつも,ハ ー パ ー マ スが「社会的な相五行為の持つ規範的な 潜在力と支配なき了解のための言語論的な制約とを等値する

J

ために,

解 放 へ 向 け た 関 心 は「人間主体の経験のうちに道徳的な事実として現 れ る こ と は 決 し て な い

j

も の に な っ て し ま っ た と 批 判 し て い る

(Honneth 2000=2005: 105).

ホネ ッ トは,社会の下層に位置する人々 の 抵 抗 運動を主題とする歴史的で社会学的な研究に鑑みれば,解放へ 向けた関心はむしろ, r  ( 社会的に存在を否認されているような感じ〉

をいだく場面

J(Honneth 2000=2005: 106)

,すなわち, i直感的に身に つ けている言語の諸規則の制限

j

に際してではなく, i 当然のことと見 なされる承認が彼(女)らの期待に反して行われないとき J

(Honneth  2000=2005: 106)

に見出せると論じている.

ホ ネットはこのように論じることで,あらゆるコミュニケーション 論 的 行 為 の 持 つ規範的な前提として「社会的な承認の獲得」を位置づ けるのだが,この点は,次節で論じるように,批判理論としての承認

qu  

υ

(6)

論がその倫理的判断の正当性を確保するに当たり,

i

弱し、人間学の構 想 、

j

に訴えていることとも通底している.

ホネットにおける承認論の諸特徴

3. 1 

倫 理 的 判 断 の 正 当 化 ー 弱 い 人 間 学 の 構 想

ホネ ッ トによれば,現代において社会改良を志す批判的知性が自ら の有用性を示し得るか否かは,

i

人 間 の 生 活 の た め に 必 要 不 可 欠 な 諸 前 提 に つ い て の 倫 理 的 判 断 を , 説 得 力 の あ る 形 で 正 当 化 で き る か ど う か にかかっている

J (Honneth 2000=2005: 68).

ホネットは,目下のとこ ろ,それには三つの選択肢があるという.

第一の選択肢は,倫理学の手続き主義化である.すなわち,何が「正 常

J

で 何 が 「 理 想 的 」 な の か と い っ た 倫 理 的 判 断 を 実 践 的 討 議 の 課 題 とすることによって,その正当化を社会の当事者自身に委ねるのであ る.社会批判はそれゆえ,社会の構成員たちが当該社会を望ましいと 考えているか否かについての合意の程度に依存することになる.つま り,社会の構成員たちに社会の解釈権限を委ねるために,学問的営為 としての社会批判の役割は,補助的・随伴的なものとなるわけである.

こうした方向とは別に,学問的営為としての社会批判の自律性を重 視 し , 元 通 り の 社 会 の 解 釈 権 限 を 認 め な が ら , 倫 理 的 判 断 を 正 当 化 す る評価基準を社会の歴史の中に見出そうとするものがある.つまり,

歴 史 的 に 形 成 さ れ , 社 会 化 を 通 じ て 社 会 の 構 成 員 た ち に 内 面 化 さ れ て きた価値規範を, 一つ の 反 省 の 審 廷 と 見 な す の で あ る . こ れ が 第 二 の 選択肢である.歴史的所与としての価値規範に依拠する社会批判は,

価 値 規 範 の コ ン テ ク ス ト を 再 生 産 す る こ と に は 資 す る 反 面 , そ れ を 越 えるような要求を掲げることを不可能にしてしまうという点で,保守 的な傾向を持ち得る.

第三の選択肢は,哲学的人間学のある一つの弱し、想定に訴えること で倫理的判断の正当性を調達しようとするものである . ここに言う弱 い想定とは,人間の自然的本性という哲学的な想定に訴えるのではな

‑34 ‑

(7)

く,人間の自己実現の普遍的な可能条件を見出そうとすることである.

たとえば,社会的再生産のための不可欠な前提は人間の対話実践であ ると想定する普遍的言語遂行論や,本質的な人間生活の条件として,

アイデンティティ形成のための充実した対人関係を重視する人間学的 アプローチがそれに当たる.

ホネットは,これら三つの選択肢の内で倫理的判断を十分に正当化 し得ると期待されるのは,第三の選択肢,すなわち弱し、人間学に訴え る立場であると考えている

(Honneth2000=2005: 71) .というのも,第

ーには,他の二つはそれぞれ,学問的営為としての社会批判が補助的・

随伴的な役割に踊蹄したり,保守的な傾向を持ち得たりする ,と いう 難点を抱えているからである

1)

そ し て 第二には,ハーパーマスの批 判 理 論は,倫理学の手続き主義化だけではなく,弱い人間学の想定に 基づく普遍的言語遂行論を中核としてもいるが,第

1

節で見たように,

ホネ ッ トはそれを更に人間学的に転回すれば,批判理論の有用性をも っと説得的に提示し得る,と考えているからである.

3.2 

三つの承認関係

ホネ ッ トは,ハーパーマスによってコミュニケーション的に転回さ れ た 批 判 理 論を,今度は「社会的な承認の獲得

J

という観点から人間 学的に転回しようと試みているが,その際,ホネットは「イェーナ期 のへーゲ、ルが構想した『承認論』を,その形而上学的前提ぬきに経験 的 に 再 構 成

J

(千葉

2006: 30)

している.ホネットによれば,へーゲ ルは「家族

J・

「社会」・「国家 Jの三つの領域を,それぞれ「愛」・「法」

「連帯

j

という承認関係が成立する領域と見なしている.そして,へ ーゲノレは,人間はこれら 三 つ の 承 認 関係全てを必要とすると論じてい るという

(Honneth1992=2003: 34).

ホネットもへーゲルと同様に,三 つの承認関係の成立を重視している.なぜなら,第一に

J

の承認 関係において,人は他者から十分な愛情を注がれ,他の人格から無比 の価値を持つ個体として承認されることで, r 自己信頼」の確信を持つ ことができるようになるのであり,第 二 に「法J の承認関係において,

Fhd 

qd  

(8)

人 は 他 の 全 て の 人 間 と 同 じ 道 徳 的 責 任 能 力 が 帰 属 す る 個 人 と し て 承 認 されることで, r 自己尊敬

j

・「自己尊重

Jの確信を持つことができるよ

うになる.そして,第 三 に「連帯

J

の承認関係において,人は具体的 な共同体にとって構成的な価値を持つ者として承認されることで, r 自 己 価 値 の 感 情

J

を 持 つ こ と が で き る よ う に な る か ら で あ る

(Honneth 2000=2005: 199).

以下で, 三つの承認関係を順に見てみよう .

「愛」の承認関係は,たとえば親子関係や性的関係のように,人格 的 な 結 び 付 き の 強 い 感 情 的 な 紳 に 基 づ い て 成 立 す る . こ の 関 係 に お い ては,互いに相手方は自立した人格として,しかも唯一無二の価値を 持 つ 個 人 と し て 承 認 さ れ る が , そ う し た 承 認 に は , 相 手 方 の 欲 求 や 願 望が充たされるよ うに気遣うということが含まれている.個々人はこ の よ う な 「 愛 」 の 承 認 関 係 を 通 じ て , 他 者 か ら 尊 重 さ れ る 価 値 あ る 存 在として,自分自身についての基本的な信頼感を獲得するのである . この信頼感が破壊される経験は,ホネ ッ トによれば「虐待と暴行」で あ る . と い う の も , 身 体 へ の 直 接 の 暴 力 は , 肉 体 的 な 痛 み を も た ら す の み な ら ず 基 礎 的 な 自 己 信 頼 を 奪 い , 同 時 に 世 界 や 他 者 に 対 す る 信 頼 感をも破壊するからである.

次に, r 法

Jの承認関係とは,直接的には近代法の下での諸権利の承

認 を 意 味 す る . 諸 権 利 が 承 認 さ れ る 限 り で 個 々 人 は , 相 応 す る 行 為 が 可能になるが,この承認の核心は,法主体の 一般 的 能 力 , す な わ ち 責 任 能 力 の 承 認 に ほ か な ら な い . 近 代 法 の 基 本 的 前 提 は , す べ て の 法 主 体 は 自 律 的 か つ 理 性 的 に 決 定 を 下 す こ と の で き る 道 徳 的 責 任 能 力 を 有 す る と い う 想 定 で あ り , そ れ ゆ え , 個 々 人 は 「 法 」 の 承 認 関 係 を 通 じ て,社会的に尊重される価値ある存在であることを理解するのである.

ホネットによれば,この自己尊重に関する 理 解 を喪失する経験は, r 権 利 の 剥 奪 と 排 除 」 に 由 来 す る . と い う の も , 権 利 を 与 え ら れ な い と い う経験は,個々人にとっては,道徳的責任能力が無く,それゆえ権利 を有する他の人々と同等の地位を持つことは相応しくないと判断され たということを意味するからである.

最後に, r 連 帯

Jの承認関係は,何らかの価値や目的を生活の指針と

‑36 ‑

(9)

して共通する人々の聞に成立する.この関係においては,共有される 価値や目的への貢献度合いにより,個々人の能力や特性が評価される が,そうした評価が自分自身の固有の能力への自信を育み, r 自己価値 の感情

J

をもたらす契機となるのである.しかるに近代社会では,価 値 や 目 的の多様化により主導的理念が希薄になったことで,個人的な 業績それ自体が評価の対象となっている.ホネットによれば,この自 己評価に関する感情を喪失する経験は, r 尊 厳 の 剥 奪と侮辱

J

に起因す る.というのも, 一 定の基準に照らして能力や特性の点で劣っている と毘められることは,怒りや恥といった負の感情を個人に抱かせ,社 会的な存在としての意識や感覚の保持を妨げるからである.

以上の通り,三つの承認関係の成立は,個人が自ら選択した人生目 標 を 強制されずに実現するための本質的な条件,すなわち外的な強制 が無く,また情緒的緊張や心理的抑圧といった内的な強制も無いこと を意味している.強調す べ き 点 は,承認関係は 個人の自己実現にとっ ての本質的条件を成すのみならず,社会的(問主観的)条件でもある ということである.この点についてホネットは次のように述べている.

愛 と 法 (権利)と価値評価という三つの承認形式がいっしょにな ってはじめて,人間主体が互いに肯定的な立場になっていくため の 社 会的な条件をっくりだすのである.それは,この三つの承認 形 式 の 経 験が順番に保証しているように,ひとりの人格が自己信 頼 , 自 己 尊重,自己評価の獲得をつみかさねたおかげで,無条件 に自律的で,固体化された存在であるととらえることができ,自 分 の 目 標 や 願 望 と 同 一 化 す る こ と が で き る か ら で あ る

(Honneth 1992=2003: 225

,但し,強調点は引用者)

ホ ネットはこうした三つの承認関係を「実践的自己関係

J(Honneth  2000=2005: 199)

と呼び,この関係が何らかの形で侵害されている一

社会的な不正が行われているーーと感じた場合,つまり「当然のこと と見なされる承認が彼(女)らの期待に反して行われないときJ,侵害 されている状況を改善したいという積極的な動機が生まれ, r 承認をめ

tηJ 

(10)

ぐる闘争

J

が行われると論じている

2)

要するにホネットは,かつて ホ ル ク ハ イ マ ー が プ ロ レ タ リ ア 階 級 に 見 た 解 放 へ 向 け た 関 心 を , 承 認 関係の侵害の経験という人間学的なモチーフを介在させることによっ て再発見しようと試みているのである.ホルクハイマーに倣うなら,

ホ ネ ッ ト の 批 判 理 論 は , 人 々 の 実 践 的 自 己 関 係 に 関 す る 侵 害 経 験 に 従 い,承認を妨げる要因を理論的に解明することによって承認を促す知 的な批判的実践である,ということができるように思われる.

社 会 的 労 働 の 再 定 義

ホ ネ ッ ト は , ホ ル ク ハ イ マ ー ら 創 始 者 た ち が 重 視 し た 批 判 理 論 の 特 徴 を 現 状 に 見 合 う 形 で 再 定 義 し て い る わ け だ が , 彼 が 再 定 義 を 試 み て いるのは批判理論の特徴だけではない.ホネットはホルクハイマーら が注意を払い,後に第二世代であるハーパーマスが批判理論をコミュ ニケーション論的に転回するに際して軽視した「社会的労働」につい ても,承認論の観点から再定義しようとしている r 社 会 的 労 働

J

が再 定義されるのは, r 連 帯

j

の承認関係において,つまり「自己評価の感 情」に関わる点においてである.

「連帯」の承認関係とは,上述を繰り返せば,何らかの価値や目的 を共有する価値共同体において,その価値や目的を実現する度合いに 応 じ て 個 々 人 の 能 力 や 特 性 を 評 価 す る 承 認 関 係 で あ る

(Honneth

1992=2003: 1645)

.個々人は自 らの貢献に応じて,この承認関係 に お いて価値ある存在であると認められ,そのことを通じて「自己価値の 感 情

j

ないし「自己評価

J

を有することができるようになるのである.

ところで,ホネットによれば,社会的価値評価が行われるには,指 針 と な る 何 ら か の 価 値 が 共 有 さ れ て い る 必 要 が あ る . そ れ ゆ え に 社 会 的価値評価の 実質は ,共有されている価値が歴史的に変化するに伴っ て大きく異なってくる

(Honneth2000=2005: 3847).

つまり,身分制 的 な 伝 統 的 社 会 か ら近代社会への移行に際して ,個人の社会的価値評 価は身分秩序に由 来する 価 値 に 依 拠 す る こ と な く , 各 人 が 有 す る 特 性 や能力に基づく業績によって,とりわけ職業労働の次元で評価される ようになっていくわけである.すでに見たように,ホネットは,近代

‑38 ‑

(11)

社 会 では,職業労働の次元で「連帯」の承認関係が成立すると考えて いることから,ジョン・デューイの政治思想、を高く評価している.

デ、ューイは民主主義的公衆の再活性化の前提が社会的分業という 前 ー 政 治 的 領域の中にあると考えた.この領域は非常に公正かっ 公 平 に 調 整 さ れ ていなければならず,それによって社会構成員は 自分が全体として協働事業の積極的参加者だと納得できるのであ る.こうして共有された責任感と協働活動の意識がないならば,

当 然 デ ューイの予期するように,個々人は意思形成のための民主 主義的な手続きが共通の問題を解決するための手段だと分かると こ ろ ま で と う て い た ど り つ か な い だ ろ う

(Honneth 2000=2005: 

3301). 

このように,ホネットが社会的分業の中に相互承認の契機を見るデ

ューイを高く評価する背

景 に は , そ こに実践的 自 己 関 係の充実は民主 主義的公共圏が成立するための可能性の条件を成すという観点,つま り,それは「人間主体が互いに肯定的な立場になっていくための社会 的 な 条件をつくりだす」という指摘が先取りされているからだが,他 方 で は,労働社会の終駕,あるいは階級闘争の沈静化というテーゼを 挙 げ ることができる.たとえば,ハーパーマスは次のように述べてい

る.

産業労働者のサブカノレチャー的な生活形態が連帯の源泉として前 提 さ れ な く て はならなかった.それどころか,工場での協働関係 が 労 働 者 文 化の自然に調和のとれた連帯を強化するとさえ考えず にはいられなかったのだ. しかしそうこうするうちにそうした協 働 関 係 は す っ かり崩れてしまった.しかもその連帯をもたらす力 が 労 働 現 場 に おいて再生されるかどうかはかなり疑わしい.それ は と も か く,労働社会のユートピアにとって前提あるいは周縁的 条 件であったものが昨今の主題となっているのである . その主題

‑39 ‑

(12)

によって,ユートピアの強調点は労働概念からコミュニケイショ ン概念へと移動する

(Habermas1985=1995: 220). 

確 か に ハ ー パ ー マ ス の い う よ う に , 社 会 的 労 働 に お け る 協 働 関 係 は 様 変 わ り し て い る . け れ ど も , ホ ネ ッ ト に よ れ ば , こ の こ と は 直 ち に 協働における相互承認の機会が失われたことを意味せず,したがって 協 働 以 外 の 相 互 行 為 の 中 で 「 連 帯

j

の承認関係が見出されねばならな い,ということにはならない

(Honneth2000=2005: 335).

ホネットは,

ノ ¥ ーパ ーマ ス に よ っ て 「 道 具 的 行 為 」 と し て 否 定 的 に 括 り 出 さ れ た 社 会 的 労 働 に お い て も , 疎 外 さ れ た 労 働 関 係 を 健 全 な も の に し よ う と す るささやかな「抵抗的実践

J

が,一一一労働形態を構想、と実行とに分割 することで合理的な経営を行おうとするテイラーシステム下において さえ一一見出せると指摘している.そして,ホネットは,社会的労働 を道具的行為として一括りにするのではなく, I 労働する主体が自らの 活動性を自らの知識のもとで円環的に管理し,自ら主導的に構成する 道具的行為

J

と , I 行 為 に 伴 う 支 配 や 活 動 の 対 象 に ふ さ わ し い 構 成 が 労 働 の 主 体 自 身 に 与 え ら れ な い 道 具 的 行 為

j

とを区別することを提案し,

前者を「批判的労働概念

J

と名付けている

3)(Honneth 1995: 467).

ハ ー パーマスとは異なり,ホネ ットは,社会 的労働にも依然と して「抵 抗 的 実 践

J

という形で批判のポテ ンシヤルは存在しており ,I 連 帯

J

の 承認関係が成立する可能性はまだあると考えているのである.

そ れ ゆ え , ホ ネ ッ ト は 社 会 的 労 働 に お い て 誰 も が 等 し く 「 自 己 評 価 の感情

j

を有することができるような承認関係,すなわち「個別化さ れ た ( そ し て 自 律 的 な ) 主 体 同 士 が 対 称 的 に 価 値 評 価 し あ う , そ う し た社会的関係

J (Honneth 2000=2005: 390)

を「ポスト伝統的ゲマイン シャフト

j

と名付け,こうした社会関係の構築を理想として掲げてい る.ここで「対称的に

J

というのは,同じ物差しで価値評価し合うと いう意味ではない.ホネットによれば, I 各人の 貢献 度 を 正 確 に 比 較 で きるように量的に規定しうる集団的目標の設定など,およそ考えられ ないことである . W 対称的に』とは,むしろ,集団的な性格づけなしで,

‑40 ‑

(13)

そ れ ぞ れ の 固 有 の 働きと能力において自分が社会的に価値ある人間で あることを確認しうる機会を,各主体が持っているということである

j

(Honneth 2000=2005: 390).

こ うした考えの理論的源泉の一つは,エ ミール・デュルケムが『社会分業論』で提起した「有機的連帯

J

とい う概念である.価値の多元化した今日では,各人の貢献度を量的に規 定しうる集団的目標の設定は困難であるため,有機的連帯は「ポスト 伝 統 的

J

なものとなるのである.

ところで,こうした社会関係の理想像に照らして現在の有り様を吟 味していく作業は,人々の実践的自己関係に関する侵害経験に従い,

承 認 を 妨 げ る 要 因 を 理 論 的 に解明することによって承認を促す知的な 批 判 的 実 践でとしての批判理論に,ど のような影響を及ぼすのであろ うか.デューイに即せば,この作業によって協働における相互承認の 契機が増大するなら,それは民主主義を実質的なものへと転換し,人々 に民主的公衆としての自覚を促す役割を担うことにもなろう. しかし ながら他方では,ホネットのように社会的労働における承認の契機を 重視する立場は,この作業を意図 せ ず し て 合 理 的 な 支 配における権力 のエコノミーへと接続する危険を苧んでいるようにも思われる.この 点 を 明 ら か に す る た め に , 次節では,労働者の主観的な幸福を,合理 的 な 支 配 を 実 現 す る た め の 主 要 な タ ーゲットとしてきた労働管理の歴 史を振り返る.

科 学 的 労 務 管 理 の 系 譜

5 . 1   資本の蓄積体制の変化

現 在 の わ れ わ れ の 労 働 環 境 は , レ ギ ュ ラ シ オ ン 理 論 を提示したミシ ェル・アグリエッタやロベール・ボワイエらによれば, r フレキシビリ ティ Jや「労働の人間化(主体化) Jを基調とするポスト・フォーデイ ズ体制下にあるという

(Aglietta1997=2000

, 

Boyer 1986=1997).

彼らに よれば, r 大量生産・大量消費

J

(規模の経済)を可能にしたフォーデ イズム体制は

1960

年代末には陰りを見せ,

70

年代以降は「多品種・

‑41  ‑

(14)

少 量 生 産

J

の時代へと移行していった.時代の変化に対応するため,

たとえば, トヨタ自動車では, i 構想、」と「実行

J

とに分割されていた 労 働 形 態 を 統 合 す る こ と で , 効 率 的 な 生 産 を 可 能 に し た こ と が 知 ら れ て い る . こ の よ う な 労 働 形 態 の 変 化 は , 労 働 者 か ら 見 れ ば , 単 な る 工 場の歯車ではないという意味で,

i

労働の人間化(主体化)J を意味す

るものであった.

なるほどアグリエッタらが言うように,こうした一連の変化はポス ト・フォーディズ体制と呼ばれる時代に顕著になったものではある.

しかしながら「労働の人間化(主体化)

J

は,何もこの時代に固有の特 徴 だ と い う わ け で は な い . 以 下 で 見 る よ う に , 科 学 的 労 務 管 理 は む し ろ,労働の人間化(主体化)を通じた生産効率の向上を模索してきた のであり,その点では,労働における承認関係の構築は積極的に試み

られてきたということもできるのである.

5.2 

労 働 管 理 の 系 譜

わ れ わ れ の 営 む 社 会 的 労 働 , と り わ け 職 業 労 働 は , 経 済 の 中 心 が 穀 物 か ら 鉄 へ と 変 わ っ て い っ た 過 去

200

年 足 ら ず の 聞 に , そ の 形 態 の み ならず,人々にとっての意義をも全く別のものへと変えていった.と いうのも,

19

世紀の鉱山 や工場,製造所での労働 とは異なり,

20

世紀 の 労 働 は , 服 従 ・ 自 制 ・ 延 期 さ れ た 充 足 と い う 諸 要 素 を 必 ず し も 含 ん ではおらず,むしろ労働者にとって労働を喜ばしいものにすることが,

利益の拡大につながるという生産に関する科学的な知識の下に組織さ れてきたからである

(Rose1999: 55122).

20

世紀の聞に,雇用者や経営者たちは科学的管理の実験的な試みを 通じて,労働者の主体性は,服従させるよりは尊重する価値のあるも のであり,それこそが事業の成功を決定する中心的な要素であること に気付いてきた.それどころか,ニコラス・ローズによれば,雇用者 や経営者たちは,労働は欲望を満たすための単なる手段などではなく,

正 し く 組 織 さ れ た 生 産 的 な 労 働 は , そ れ 自 体 労 働 者 を 満 足 さ せ る と い うことを見出したのである

(Rose1999:  61‑75).

それ以来,利益を追

‑42 ‑

(15)

求する組織経営の眼目は,組織の中で働く個々人の必要や願望を満た そうとする努力を,労働を通じて組織の利益追求の努力に接続するこ とに置かれている.いまやビジネスの効率と従業員の福祉は,閉じ問 題が持つ二つの側面にすぎないと言っても過言ではないだろうめ.

確かに

20

世紀の初頭においては,労働者は生理的な機械であると見 な さ れ,工場内の照明や機器のレイアウトなど,物理的な環境の改善 が労働者の疲労を最小化し,生産性の効率を最大化すると考えられた.

けれども,ローズによれば,

1920

年代までにイギリスでは,疲労と効 率 の 関 係 は生理学的な問題よりも,心理学的な問題の方がはるかに重 要であると考えられるようになっていた

(Rose1999: 76

80)

.たとえ ば,国立産業心理研究所を指揮した心理学者のチャーノレズ・マイヤー ズは,次のように述べている.

支払いの方式,労働者の動作,労働時間の長さを調査すること だけでなく,労働者の精神構造を改良しようと試みること,労働 者の家庭条件を研究すること,そして生来の衝動を満たすことは,

そ れ ら が現代の産業条件のもとで満足できる限り,産業心理学者 の役割になる

(Myers1927: 29) . 

国 立 産 業 心理研究所でマイヤーズと彼の同僚たちは,物理的な環境 整備だけでは生産性の効率は向上しないことが明らかになるにつれ,

問題は「ヒューマン・ファク ター

J

にあることを確信した .そして,

その中心を成すのは「精神衛生

j

であると考えたのである.それゆえ 彼 ら は , 労 働 者の主観的な世界を生産の要求に連結する,職場の精神 的 な 環 境 を思慮深く調整することが,生産性の効率を最大化すると主 張したのである.

このような主張は,アメリカではエノレトン・メイヨーの著作や「人 間関係論」と結びついた.メイヨーは,有名なホーソン実験によって,

労働者の労働に対する関心は,単に労力と時間という観念から賃金を 最 大 化 し ,労働の過酷さを最小化すること以上のものであることを発

‑43 

(16)

見した.つまり彼は,労働者は労働を通じて心理的・社会的な便益一一 達 成 感 や 帰 属 意 識 ー ー を 得 て い る こ と を 見 出 し た の で あ る . そ の 当 然 の帰結として,生産性のある労働者は満足感をもって労働に従事して いると見なされた.それゆえ,雇用主の労働者 への関心には,労働者 の主観的な幸福や組織内の人間関係が含まれるべきであるとされたの である.こ うした考えは,雇用主や経営者の側だけではなく,労働者 の側からも支持されることになった.ローズも著書で引用しているが,

イギリスで著名な ジ ャーナリストであったゴードン・ラ ッ トレイ・テ イラーの

1950

年の次の記述は,労働における承認を再定義しようとす

るホネットの批判理論を検討する上で,重要なものである .

我々は工場を,製品が生産される場所としてではなく,人々が 生 活 を 送 る 場 所 と し て 考 え ね ば な ら な い . つ ま り , 居 住 環 境 と し て で あ る . 労 働 環 境 は , 他 の ど ん な 環 境 も 到 達 し 得 な い ほ ど に 多 くの基礎的な人間の欲求を満たしている.もし工場が問題に直面 す る と し た ら , そ れ は 人 々 の 欲 求 を 損 ね る よ う な 労 働 状 況 を 生 み 出したがゆえなのである.要するに,我々が直面している問題は,

労働の人間化なのである

(Taylor1950: 20). 

「労働を人間化する」ということは,労働の物理的環境・組織体制・

金 銭 的 報 酬 と い っ た 客 観 的 な 条 件 だ け で は な く , 労 働 に お け る 社 会 的 な報酬や私的な満足感,帰属意識という労働者の主観的な幸福,つま りはホネットが「実践的自己関係

Jにおいて獲得されるとする,

r 自己 尊重

J

や 「 自 己 評 価 の 感 情

J

を重視するということである.より具体 的 に 言 え ば , 労 働 環 境 下 に お い て , 労 使 聞 や 労 働 者 間 の コ ミ ュ ニ ケ ー ションを,生産性の効率から人間関係の充実,あるいは自己実現に至 るまで,それらを調整する手段として位置付け円滑にすることである

;

ローズは,労働において労働者が自己実現できるようにコミュニケー シ ョンを水路づけることは,生産性の効率を最大化し,他方で労働者 に 労 働 を 積 極 的 に 受 け 入 れ さ せ る 役 目 を 果 た し て い る と 論 じ て い る

‑44 ‑

(17)

(Rose 1999: 95102).

この点に関して,次に見るようなピーター・リボーらの

30

年以上も 前の主張は,再び注目すべきものとなるに違いない.

労 働 における自己実現の可能性は,経営管理がある種の外発的な 報 酬 ( たとえば,金銭的なものや社会的なもの)を…一労働との 引 き換えに……提供しなければならないという理念からの転換を 意 味する.報酬は,その代りに労働それ自体の中に見出されるよ うになる.したがって,経営者は,まず労働をできる限り面白く や り が い の あるものにすること,それを個々の労働者にとって意 味 あ る も の にアレンジすることに関わっている.このことは,特 定 の 労 働 者にとって何に意味があり,やりがいがあるのかを発見 す る 絶 え 間のない努力,そしてこうした努力を彼の職場に導入し ようとする試みを意味するであろう.以前にもまして経営者は,

従 業員に対して労働を通じた自己達成へと促す人物になっている のである

(Ribeauxand Poppleton 1978: 306). 

不正意識に対する社会的統制について

このような労働管理の歴史に鑑みれば,ホネットが道具的行為とし ての労働の中に見出した「批判的労働概念

j

が持つ批判のポテンシヤ ル は , 労 働管理側が推進する労働の人間化(主体化)によって,逆説 的 に も無効化されてしまう,ということが考えられる(赤石

2007). 

しかしながら,こうした状況を「人間の内面までも支配されていると いう極めて由々しき事態

J

であるとか, r w 自由な鉄の櫨』に入れられ ているような状況 J (赤石

2007:144)

というように,批判することは 可能なのだろうか.赤石は, r 新自由主義政策,及び,ポスト・テイラ ー システムにおいては,確かに,労働者の主体性や責任が福われてい るものの,その実,それは,企業の利益に誘導された, w 偽 り の 自 律』

及 び 『 偽 りの責任』を経験しているに過ぎないのであり,ここでは労

Fh U  

AZ

(18)

働 に お け る 自 律 や 自 己 実 現 と い う 願 望 は 結 局 果 た さ れ ず , 逆 に , 労 働 の新たな非人間化を引き起こしているのである J (赤石

2007:145)

と 論じている r 偽 り の 自 律

J

や「偽りの責任

J

を指摘するからには,当 然 な が ら 「 真 の 自 律 」 や 「 真 の 責 任 」 を 名 指 せ る の で な け れ ば な ら な い.それはつまり, r 真の承認」と「偽 の承認

J

とが区別できなければ ならないことを意味している.けれども,こうした価値判断はいった いどのようにして正当化することができるのだろうか.少なくともホ ネットの承認論に依拠する限りでは,こうした価値判断を正当化する ことはできないはずである.なぜなら,批判理論は学的反省に先立つ 解 放 へ 向 け た 関 心 が 社 会 的 現 実 の 中 に 見 出 せ る 限 り で , よ う や く 社 会 批判を行うことができるようになるはずだからである .企業の利益に 誘 導 さ れ て い る に し て も , 当 の 労 働 者 が , 企 業 や 他 の 労 働 者 と の 聞 に 承 認 関 係 を 築 き , そ の 中 で 「 自 己 尊 重 」 や 「 自 己 評 価 の 感 情

J

を持つ ことができており,曲がり形にも主観的な幸福を感じているとすれば,

そこには社会批判の足場となる解放へ向けた関心は見出せないのであ る.反対に労働者が社会的な承認を獲得できずに幸福ではないと感じ ているなら, r 労働の新たな非人間化」といった事態は 生じてお らず,

ホネ ットの承認論は依然として有効であると いうことになろ う.人々 の解放へ向けた関心を論拠にすることで社会批判は正当化される,と する批判理論の特徴に鑑みれば,赤石が採用する真/偽という観点は,

ある種の本質論に陥っているように思われる.

ポスト・フォーデイズム体制下で,構想、と実行に分割されていた労 働 形 態 が 統 合 さ れ , 労 働 者 に は い っそうの柔軟 性 や 適 応 力 が 求 め ら れ るようになっている.仮にそれによりストレスが増大して欝などの精 神 疾 患 が 引 き 起 こ さ れ る , と い うことがあるにしても,それ を以て直 ちに現在の労働形態を不正として指摘することは難しい

.指摘できる

点 が あ る と す れ ば , そ れ は 労 働 時 間 の 増 加 に よ る 精 神 的 ・ 肉 体 的 疲 労 を緩和する手立てを講じること である.しかし, これは「法

J

の承認 関係によって,個々人が法の対象とする人格となることで,制度上は すでに対処されている .つまり,労働 基 準 法 の厳格な道 守 を 企 業 に 求

46 

(19)

めることはできるのである.問題は労働者が「良き労働者」として承 認 さ れ る ために,自ら積極的に労働を引き受ける場合である.とはい え,この点においても労働者がそこに苦痛や疎外感を見出さないので あれば,それを問題化するのは容易ではない.もっとも,ホネットも 労働者の積極性が見て取れる場合の困難にまったく無自覚ではなく,

そ う し た 困 難 を 「 不 正 意 識 に 対 す る 社 会 的 統 制 の 次 元

J(Honneth  2000=2005:  130)

と し て 論 じている.ホネットは「社会的不正の感情 が政治の次元で明確な要求の形をとるまでに至らないように,それを はっきりと言葉にし公然と表明するチャンスを制限したり統制したり する過程が国家や企業の営みには含まれている

と述べ,それを

文 化 的 排 除 の 過 程

J

と「制度化した個人化の過程

J

とに区別して検討し ている

5)

それぞれ脱言語化と個人主義化の制度的諸過程として要約 できるが, しかしながら,ホネットに関しでも「不正意識に対する社 会的統制

J

についての批判を正当化できる具体的な根拠は,テイラ

システム下における疎外された労働者の不正経験に係留されているの であって,科学的労務管理による労働環境の変化を正面から捉えたも のにはなっていない.したがって,上述の赤石やホネットの診断は,

少 な く と も学問的反省に先立つ解放へ

けた関心に係留されたものに は な っていない,と言わざるを得ない.この点についての考察は,承 認 論 的 に 転 回 さ れ た批判理論の成否にかかわる重大な問題であると思 われるが,ホネットは『物象化』での議論では,社会的な現実におけ る社会的承認の獲得を妨げる要因についての分析を推し進めるという よりは,承認論の理論的な洗練に向かっている.たとえば,ホネット はルカーチの物象化を承認論の観点から捉え直すことで, r 承 認 は 認 識 に先行する

J

というテーゼを掲げ,物象化という病理の責めは,認識 に帰せられるというよりは「承認の忘却

J

にあると論じている

(Honneth 2005=2011: 5596).

こうした議論は承認論を基礎づける重要なもので はあるが,それによって意識主義的傾向が強まることが懸念される.

意 識 主 義 的 傾 向の進展は,上述したように労働者が主観的な幸福を享 受 し て い る 場 合には,承認論が持つ社会診断の機能を失効させる可能

‑47 ‑

(20)

性を高くすることが考えられるし,他方では,社会的労働を重視する にも拘わらず経済的な側面の考慮を不十分にしかねない.

終わりに一一批判理論の超越論哲学的展開の可能性

「不正意識に対する社会的統制」を問題化しようとするならば,そ して社会的労働に実質的に与し得ない人々が数多 くいるとい う 事実と 向き合うならば,意識主義を離れて構造的・制度的な分析・検討を行 わなければならず,ひいては,こうした諸問題を生み出す社会を批判 す る た め の 新 た な 論 拠 を 見 出 さ ね ば な ら な い . もしかすると,批判理 論 が 社 会 改 良 に 向 け た 批 判 性 を 保 持 し て い く た め に は , 解 放 へ の 関 心 を社会的現実の中に見出すことを断念する必要があるかもしれない.

私はそうした選択も考慮に入れる べ きだと考えているが,もし断念す るとしても,ホネットが「世界の 意 味地平を切り開く批判の可能性」

(Honneth 2000=2005: 72

92)

として論じたことめを,次のように再定 義 す る こ と で 批 判 理 論 を 別 様 な 形 で 刷 新 で き る の で は な い か , と 考 え て い る . す な わ ち , 実 践 的 自 己 関 係 の 侵 害 と い う 人 間 学 的 な 経 験 を 拠 り所とする代わりに,いまあるようにあるという事実を可能性からの 疎 外 と 見 な す 超 越 論 哲 学 と し て 展 開 す る こ と で あ る . 承 認 さ れ る 自 己 像に拘泥することなく,常に承認関係の中で互いに自己像を越境する というモチーフは, へ ーゲ、/レ哲学における「自己疎外

j

にも見て取れ るものである.超越論哲学に接近するのは退行ではないか,と疑問に 思う向きもあろうが,しかし ,藤 野 が 言 う よ う に , 認 識 と い う 経 験 に 先 行 す る も の と し て , つ ま り よ り 根 底 的 な も の と し て 承 認 と い う 経 験 を基礎づけようとしている限りで,ホネットはすでに超越論哲学を展 開しているということができる(藤野

2010:245).

批 判 理 論 を 可 能 性 か ら の 疎 外 と い う 観 点 に 係 留 す る こ と が で き る と す れ ば , か つ て ミ シ ェル・フーコーが権力はそれ自体悪ではないとしながら,権力を行使 する側と行使される側の関係が固定化された状態を「支配」と呼び,

それを「自由と自由の聞の戦略的なゲーム

j

に変換することは有意義

‑48 ‑

(21)

な 政 治 的 目 標 で あ る , と 述 べ た こ と と 通 底 し て く る よ う に 思 わ れ る

(Foucault 1984: 50).

次 に 見 る よ う な フ ー コ ー の 理 解 は , ポ ス ト 形 而 上 学 の 時 代 に 一 一 つ ま り 本 質 論 や 「 抑 圧 の 仮 説

J

に 陥 る こ と な く 一 一 批 判 理 論 を な お 有 用 な 社 会 理 論 と す る た め に は , 軽 視 で き な い も の で はなかろうか.

わ れ わ れ 自 身 の 批 判 的 存 在 論 は , ひ と つ の 理 論 や 教 説としてはも ち ろ ん の こ と , 蓄 積 し て ゆ く 知 の 恒 常 体 と し て さ え も 見 なされて は な ら な い . そ れ は , わ れ わ れ の 現 在 の あ り 方 に つ い て の 批 判が 同時にわれわれに課せられた諸限界の歴史的分析でもあるような,

ひ と つ の 態 度 , ひ と つ の エ ー ト ス , な い し は ひ と つ の 哲 学 的 な 生 活 と し て , ま た そ の 限 界 を 乗 り 越 え る 可 能 性 を も っ た ひ と つ の 実 験 と し て 理 解 さ れ ね ば な ら な い

7) (Foucault 1984: 50). 

言 う ま で も な く , こ こ に 述 べ た 展 望 は 更 な る 検 討 を 要 す る も の な の で,本稿では今後の課題としてひとまず提示するだけにとどまるが,

以 上 に お い て , ホ ネ ッ ト の 承 認 論 の 可 能 性 と 限 界 に つ い て は 示 し 得 た と思う.

[注]

1) 

批判理論の代表者たちが特に注意を促したのは,現代社会では 「 当 の規範が,すべて実現され,真逆のものに転化してしまった

j

とい うこと,すなわち「支配を隠蔽し得る技術的覆いへと物象化された 啓蒙は,もはや現実を越え出ることがなく,ただ現実を補強するだ けである J

(Demirovic 1999=2010: 32)

ということであった.

2) 

ホネットは「自己関係」が損なわれる具体的な例を, r 自己信頼」・

「自己尊重

J

・「自己価値の感情

J

に即す形で,それぞれ「虐待や強姦J

「権利剥奪や排除

j

・「尊厳剥奪や侮辱

J

として挙げている

(Honneth 2000=2005:200210).また,ホネットは「自

己信頼

j

は原初的な愛の

‑49 

(22)

関係において生じるものであるため, r 自己尊重

J

・「自己価値の感情J とは異なり,侵害されていても社会的な闘争の核として聞かれる可能 性 が 低 い と し て , 別 様 な 保 護 の 必 要 を 示 唆 し て い る (

Honneth  2000=2005: 210‑233). 

3) 

ホネットによる社会的労働概念の再定義に関して,赤石による邦訳 を参考にした(赤石

2007). 

4) 

ローズによれば,雇用主や経営者たちに,労働者の主体性への配慮 を 促 し た の は , 直 接 的 に は 心 理 学 者 を は じ め と す る 精 神 技 術 者

(psycho‑technologists)

たちであったが,間接的には戦争であった

.

戦時労働の過酷さは,軍需工場の労働者の健康と振る舞いに影響し,

生産性の効率を左右した.それゆえに,労働者を科学的に管理し,労 働過程を合理的に組織する方法を発見することは,軍事的に極めて重 要な課題だったのである

(Rose1999: 7680). 

5) 

ホネットによれば, r 文化的排除の過程J とは, r 公教育,文化産業 の メ デ ィ ア も し く は 政 治 的 公 共 圏 の フ ォ

ラ ム を 調 整 す る こ と を 通 じ て , 階 級 特 殊 的 な 不 正 経 験 に 適 切 な 言 語 的 , シ ン ボ ル 的 手 段 を 与 え な い よ う に し , そ れ に よ っ て 不 正 の 経 験 を 明 確 に 表 現 す る チ ャ ン スを制限するあらゆる戦略のことである

J.また「制度化した個人化

の過程」とは, r 国家によって促進され,企業組織によって遂行され る , 個 人 主 義 的 な 行 為 志 向 性 を 直 接 強 制 す る か , ま た は 促 進 す る こ と に よ っ て , 特 定 の 集 団 や 階 級 だ け が 共 有 す る 不 正 経 験 を お 互 い に 伝 え 合 い コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 的 に 理 解 し あ う こ と が 招 く 危 険 を 防 ぐ

ことを試みるあらゆる戦略である.

J (Honneth 2000=2005: 1314). 6) 

ホネットは次のように述べている r 議論が規範の問題に全面的に

集中しているのは,あらゆる社会批判の正当な対象となりうるのは社 会的不公正であるはずだ,という前提のゆえである.だが,実はこの 前提そのものが十分な根拠を持っているわけではない.……例えば,

諸要求を充足させてくれるその仕方だけを誤りと見るのではなく,こ れらの要求そのものを『誤り』とすることも十分に可能なのである

.

あるいは,われわれの要求や願望を引き起こすメカニズムそのものが

‑ 50 ‑

(23)

全 体 と し て 怪 し い と い う 信 念 を わ れ わ れ が 持 つ こ と も 十 分 に あ り う

るJ(Honneth 2000=2005: 823). 

7) 

実験的な態度をとることによって,フーコーが狙っているのは,わ れわれをいまあるようにしてきた「現在の歴史

Jから,いまあるよう

にあるのとは同ーではないあり方や振る舞い方,そして思考方法とい ったものの可能性を開くことである.この点に関してフーコーは次の ようにも述べている r 認 識 が 越 え る こ と を 諦 め る べ き 限 界 と は い か なるものか,これがカントの聞いであったとすれば,今日の批判的な 問いは,積極的な形へと反転されなければならない,と私には思われ る.われわれにとって,普遍的,必然的で,義務的な所与とされてい るものの中で,偏在的,偶発的で,恋意的な拘束の産物であるような 何 ら か の も の が 占 め る 部 分 と は い かなるものか,という問いに反転さ れるべきではあるまいか.要するに肝心なのは,必然的な限界の内側 に係留されてきた批判を,越境可能性という形をとる実践的批判に変 換 す る こ と な の だ

J(Foucault 198444‑5

,但し傍点は引用者) .また,

フーコーは,政治的実践の目標として,支配の諸状態を,つまり修着 した権力の諸関係を「自由と自由の聞の戦略的ゲーム」に変容させる ことを提案しているが,その意図は,普遍的で必然的とされている何 らかの自明性を間い直すこと,すなわち「偶発性の承認

Jにあるとい

えるだろう.この点については,次の堀内の論稿を参照されたい(堀 内

2008:21・50). 

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dq  

Fh u 

(26)

P o s s i b i l i t i e s  and l i m i t s  of Recognition Theory  Through examination of t h e  C r i t i c a l  theory ofAxel Honneth 

HORIUCHI Shinnosuke 

G r a d u a t e  S c h o o l  of S o c i a l  S o c i e n c e s

, 

Tokyo M e t r o p o l i t a n   U n i v e r s i t y  

And a l s o  Modern Phase R e s e a r c h  L a b o r a t o r y  i n  M . P . S . l n c .   The  o b j e c t i v e   of  t h i s   w r i t i n g   i s   t o   examine  t h e   p o s s i b i l i t i e s   and  l i m i t s   of t h e   C r i t i c a l   s o c i a l   t h e o r y   ofAxel  Honneth

, 

who i s   known a s  t h e  t h i r d  g e n e r a t i o n  of t h e  Frank

r t

Schoo

l. 

He i n h e r i t s  t h e  p e r s p e c t i v e  of  p r e

t h e o r e t i c a lr e s o u r c e "  

from t h e  f o u n d e r s  of C r i t i c a l  s o c i a l  t h e o r y ,  and a t  t h e  same t i m e   v a l u e s   h o r i z o n   of  communication  t u r n   d e v e l o p e d   by  J u r g e n   Habermas of t h e  secohd g e n e r a t i o n .  However

, 

Honneth c r i t i c i z e s   t h e   f a c t  t h a t  Habermas expanded t h e  h o r i z o n  t o w a r d s  l i n g u i s t i c   a n a l y s i s   by  p r a g m a t i c s

, 

and  a r g u e s   t h a t   i t   s h o u l d   r a t h e r   be  expanded t o w a r d s  an a n t h r o p o l o g i c a l  r e c o g n i t i o n  t h e o r y .  I n  d o i n g   s o

, 

he a t t e m p t s  t o   r e d i s t r i b u t e  t h e   s o c i a l   l a b o r "  d i s r e g a r d e d  by  Harbermas ,  a s   a p r e ‑ t h e o r e t i c a l   r e s o u r c e "

om t h e   p o i n t   of  r e c o g n i t i o n  t h e o r y .  I n  s p e c i f i c ,  Honneth a t t e m p t e d  t o  d e m o n s t r a t e   t h a t  t h e  u n d e r l y i n g  e x p e r i e n c e  of s o c i a l  i n j u s t i c e  i s   t h e  e x p e r i e n c e   of f a i l i n g   t o   meet t h e  r e c o g n i t i o n  e x p e c t a t i o n s   of s o c i a l   l a b o r .   Although

, 

i n   o r d e r  t o   s u c c e e d  i n  s u c h  a t t e m p t

, 

i t   i s   n e c e s s a r y  t o   d i s t i n g u i s h  t h e   t r u e   r e c o g n i t i o n "  from a f a l s e  r e c o g n i t i o n "  of  l a b o r ,  under t h e   modern l a b o r   e n v i r o n m e n t  t h a t   c o n s i d e r s   t h e   i n d e p e n d e n c e  of t h e  worker" a s  t h e  key t o  p r o d u c t i o n  e f f i c i e n c y .   However ,  t h i s  a t t e m p t  seems t o  be a s s o c i a t e d  w i t h  much d i f f i c u l t y .   So

, 

i n  t h i s  w r i t i n g  1  would l i k e  t o  c o n s i d e r

, 

what t h e  C o n d i t i o n s  of  P o s s i b i l i t y  i n  s o c i a l  c r i t i c i s m  i s .  

K e y w o r d :  r e c o g n i t i o n  t h e o r y ,  s o c i a l  c r i t i c i s m ,  s o c i a l  l a b o r  

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