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疎 外 ・ 物 象 化 論 の 批 判 的 検 討

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73

はじめに

﹁他方︑われわれにとってもっとずっと亜要なことは︑われわれの方法が︑歴史的考察がはじまるべき点を︑ある

いは生産過程のたんなる歴史的形姿としてのブルジョア経済がみずからを越えて以前の雌史的生産様式をも追及する

点を指示していることである︒それゆえブルジ劃ァ経済の諸法則を展開するために︑生産関係の現実の歴史を書くこ

とは必要ではない︒しかしそれ自身歴史的に生成した関係である生産関係の正しい考察と演鐸はつねに︑この体制の

背後によこたわる過去を指示している最初の諸方程式lたとえば自然科学における実験数値のようなlへとふち

びく︒そのばあしこうした示唆は︑同時に現在の正しい把握とともに︑過去の理解一つの独立の仕蛎であって︑

われわれもまたいずれとりかかりたいとねがっているlへの鍵を提供する︒同様にして他方この服しい考察は︑生

産関係の現在の形姿の止揚lそこでまた未来の予示言﹃開富合冬冒巴︑生成しつつある運勅lの示唆される点に

ゑちびく︒一方で前ブルジョア的段階がたんに歴史的な︑すなわち.止揚された前提として現れるとすれば︑現在の

生産の諸条件は︑卿己胤身を止揚するところの諸条件を︑したがってまた新しい社会状態のための歴史的前提を雌み

だすところの諸条件として現れ勘︺・

原資本論己﹃冨凰且たる﹁要綱﹂・原蓄章からの前掲引用文に︑我々はマルクス史的唯物蓋の方法的真髄を洞取す 疎外・物象化論の批判的検討

士口

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布た︒

一︑﹁草稿﹂におおる疎外鏡の意義

㈹一八四四年﹁草稿﹂に於るマルクスの第一の課題︑それは国民経済学的な仮定・約束事から出発するのではなく︑

﹁国民経済上の現に存在する事実から出発﹂して︑何よりもまず資本の形態的特質を経験的に確定することにあった︒

初期マルクスといえども︑あくまで経験的覗実から出発し︑その範囲に自己を限定することによって思考を展開して

いたことを確認しておくことは重要である︒そして︑疎外論の意義を究明せんとする本稿においては︑就中重要であ

第二の課題︑それは資本l賃労働関係の﹁感性的表現﹂たる﹁私的所有﹂の経験的に確定された諸現象・諸形態を︑

資本の本性の必然的現象形態として︑解明することを通して︑・ブルジョア社会の偉大な主体たる資本を︑自律の運動

を行う一の有機的な﹁総体性﹂として・ヘグラィフェンすることであった︒何故なら︑経験的に確認されたに副まる﹁無

所有と所有との対立は︑それが労働と涜本との対立として概念的に把握されない限り︑まだ無差別な対立・その内面

的関係との活動的な関連においてとらえられていない対立︑まだ矛砺としてとらえられていない対立﹂だからである︒

これが﹁単稿﹂を眺ぬくマルクスの問題恵識であり︑それは一方で雌史枇通的に存在する外なし労働過樫が︑何故に

資本制約形態下で行なわれるのか︑即ち﹁どのようにしてこれら向契機︵資本・賀労働l引用者注︶が二つの人格

として対立的に分裂するか﹂という衝本概念の発生的理解を目指すものであると共に︑他方︑分業・交換・資本郡々

を説明することなぐ前提し︑﹁何故にこの内容がかの形式をとるのか﹂という形態規定には全く無関心に︑資本制的生

産嫌式を生産の自然形態と見倣す物神崇拝の虜となった国民経済学.就中A・スミスに対する涌烈な批判でもあっ

第三の課題︑それは既に形態の特質規定の前科学的抽象過程で﹁社会主義的共同体﹂︵普斡芭冨胃冨ア脇目冨号己を

P

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初めて︑内に矛盾を含む総体として資本を概念化するに際し︑彼がフォィェル・ハッハより援用した疎外論の意義を問

うことが出来る︒というのはフォィエル︐ハッハの場合︑彼自ら﹁キリスト教の本質﹂第二版序文で﹁私が緒論の中で

あらかじめ述べている一般的な命題は︑何ら自分が発明したアプリオリな命題ではなく︲また何ら思弁の産物ではな

い﹂と述べている如く︑﹁経験的哲学的なまたは歴史的哲学的な分析﹂の結果痩得された結論︑即ち﹁神を滴ませる為

には人間が愉困にならなければならず︑神が全てである為には人間は無でなければならない﹂という結論を疎外なる

概念で表現したのであって︑その限り疎外は背後に分析の総過程を有す総括概念であったが︐マルクスは︑主l客転

倒を特徴とする疎外概念を︑資本の総体把握の為の問題発見的手段としてアプリオリに採用してしまっていたからで

ある︒この点にこそ﹁草稿﹂マルクスの疎外論が︑資本の概念化に果した意義と︑思弁を混在せしめた欠陥とがあっ

たのであり︑﹁草稿﹂マルクスの﹁問題意識﹂自体が︑アルチュセールの言うような﹁神話﹂の領域に随する﹁イデオ

ロギー﹂であったのでは断じてない︒以下節を改めかかる観点より︑疎外論の意義を追求したい︒

②国民経済学上の諸概念を仮に採用することによってマルクスの到達した結論︑それは︑ス..︑スの階級的差別の存

在にも拘わらず富裕が﹁市民社会﹂の最下最貧隅に迄萬延するとする見解とは正反対に︑生産力の急激な増大にも拘

わらず労働者が惨めな商品へ転落すること︑少数者への賛本の必然的蓄硫は︲全社会を有産者と無産者とへ分裂せし

めるということであった︒問題は︑確総されたこれら諸現象が︑如何にして何故にかく現象しているかを解明する点

にある︒そしてこの課題解決は︑没概念的にして体制擁護の個民経済学を批判すること︑即ち政治経済学批判を成就

することでもあった︒このような課題解決︑即ち賓本の総体把握を目指す﹁峨稿﹂マルクスの取った方法は︑第一に

現象の背後に隠れて存する私的所有の本質を下向分桝的に別出すること︑第二塔分離された本衝を拠点として上向

の旅を辿り︑確認された諸現象を本簡との必然的連関において把捉することであった︒ではそれは如何にして行なわ

れたか?﹁無物世界の価値増大にぴったり比例して︑人間世界の価値低下がひどくなる﹂という確認された﹁現に存

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在する事実﹂の原因を問うことからであった︒周知の如くこの事実を疎外の第一規定Ⅱ労働生産物の労働者からの疎

沼外として把握する︒そして疎外第一規定は︑実は﹁労働者の︑彼の生産の諸対象に対する関係﹂を考察することだと

問題を再提起し︑そのことはとりも直さず﹁労働者の生産に対する関係を問う﹂ことだと結論づけ︑直ちに直接的生

産過程へと考察の視野を下向させていくのである︒続いて蛎物の疎外は︑生産活動内部に於る疎外の帰結であること

が指摘され︑かくして彼が私的所有の隠れた本質と見倣す一方︑国民経済学が生産過程を考察しないが故にそれを陰

蔽してきたと指摘する疎外の第二規定Ⅱ﹁労働の自己疎外﹂を析出したのであった︒

以上私的所有の本質を馴出・分離したマルクスは︑上向過程の第一歩を︐疎外された労働が現実には如何なる形態

で現象するかを解明することから開始する︒労働者の生産活動が彼に鵬さず︑労働生産物が彼から剥奪されているな

らば︑それは﹁神々ではなく自然でもなく﹂︑唯他者︑即ち衝本家に屈している外ない︒唯物論者フォイエル・︽ツハが︑

全ての形而上学的実体を﹁人間﹂に還元し︑就中﹁人間﹂は他者との社会関係の内部での象初めて﹁人間﹂たりうる

ことを解明していたことが︑マルクスをしてかく結論づけることを可能とした︒例へブォイエル・ハッハの目的が︑我

と汝の愛と親和に基づく﹁人間学﹂にあったとしてもである︒このように疎外された労働を前提とし︑その上でそれ

を他者と述関づけることによりマルクスは︑賃労働の対極たる資本の現存の必然性を明示し︑その結果を﹁私有財産

は︑それが外化された労働の根拠・原因として現れるとしても︑むしろ外化された労働の一州結にほかならないこと

が明らかとなる︒後になってこの関係は相互作用へと変化するのであ乱︺と結論づけたのである︒この分析方法は﹁資

本論﹂のそれに匹敵する全く正しいものであった︒というのは︑﹁資本論﹂に於ても﹁労働力﹂範鵡は前提され︑その

上で﹁剰余価値﹂概念が導出され︑かくして﹁貨弊の資本への転化﹂を説きうることによって資本の現存の必然性を

解明する一方︑蓄積Ⅱ再生産過程で改めて﹁労働力﹂が存続せざるをえない必然性を分析し︑よってもって十全なる

資本の永続的再生産の必然性を証明するという段階が踏まれているが伽右﹁草稿﹂引用文はこの﹁資本論﹂の論理展

q

ll

︑︸︑

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開と軌を一にするが故である︒一方ローゼン︐ヘルグは︑﹁労働の疎外の原因は私的所有である.この私的所有こそが︑

労働したがってまた人間自身が売買の対象となるという結果にみちびくのであきと︑わざわざ右マルクスの見解を

逆転させているが︑私的所有の何たるかを間うている時に︑問われている対象を前提とすることは本末転倒であり︑

この点オイゼルマンの批判の通りである︒問題は︑ローゼン・ヘルグのように疎外された労働の原因を直裁に単純な因

果関係に求めるのではなく︑資本制社会に現存する蛎実から確認された﹁疎外された労働﹂範喝が存続し続けること

の必然性を究明することであり︑そのことは右引用した文章の﹁後になってこの関係は相互作用へと変化するのであ

る﹂箇所の実質的内容を問うことなのである︒この実質内容を﹁草稿マルクス﹂は︑﹁労働者は資本を生産し資本は労

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働者を生産する︒従って労働者は自分自身を生産するのである﹂と卿糧することにより︑事実から抽出してひとまず

前提的に設定され︑その限り未だ与件に留まっていた﹁疎外された労働﹂範噌が現存することの必然性を︐資本制的

生産過程下では圃前提自身が生産過程の終局結果として再生産されることを暴露することによって証明したのである︒

恰かも﹁資本論﹂に於て︑前提された﹁労働力﹂範昭の必然性が︑蓄積Ⅱ卿生産過程で側示されるように︒それ故林

頂道氏・赤羽裕氏等々の経済学者の﹁草稿﹂研究に於て︑共通に批判が災中する﹁疎外された労働﹂範噂のアプリオ

リ性なる点は︑実は﹁草稿﹂自体克服しているのであり︑その限り上述の批判は当らない︒検肘さるべきはこの点で

はなく︑資本を自からの内に自己更新原理を包蔵する主体として捉えたそのことが︑何故に歴史理総となり得ず柵環

論へと堕したかという点であり︑疎外論の論理櫛造の慰簸がここで問われうるのである︒この点次節に掘る︒

以上︑資本を自己更新原理を内包するブルジ罰ア社会の主体として捉えたマルクスは︑﹁資本の現存は労働者の現存

0 9

であり彼の生活である︒それは資本が労働者の生活内容を︑労働者とは無関係な仕方で規定していることなのだ﹂と

指摘する一方︑その現実的姿態に於ては︑﹁汚ならしいもの︑人間のこの頽廃・堕落・文明の下水櫛の汚物︵これは文

字通りに解すべきだが︶が︑人間にとって生活基盤とな乱哩︵括弧内マルクス︶と︑蜜本制社会に対する断罪の火の文

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字を以て結論づけたのである︒

③前節で概括した如く﹁草稿﹂マルクスは︑総体としての資本の基軸的位置を占める直接的生産過程の姿態を︑ひ

とまず﹁疎外された労働﹂なる範端によっておさえることにより資本撒造を明らかにし︑労働者を資本関係内部に包

摂された宿命的存在として描出したのであった︒問題は︑かく鵡握された資本構造が︑何故に歴史理論として結果し

なかったかという点であり.他方﹁新しい問題提起﹂として彼自ら誇る人間学的要素が何故に混在してしまったかと

いうことである︒後者の点に関しては︑その問題提起は少しも斬新なものではなかった︒というのは︑﹁国民経済学上

のルッター﹂︵エンゲルス︶たるA・スミスが﹁国富論﹂に於て︑私的所有を人間の外にある単なる一状態としてでは

なく︑労働に︑かくして﹁人間﹂に還元していたからである︒尤もス︑.︑スの場合︑私的所有Ⅱ人間と当然にも見倣さ

れることにより︑泓的所有の枠内での人間の象を唯一の人間存在として捉えることとなり︑マルクスによって﹁国民

経済学は︑人間を承認するような外見の下で︑むしろただ人間の否縄を撒底的に遂行するものにすぎない﹂と批判さ

れたのだが︒上述諸問題解決の為に︑第一に仰庇﹁疎外された労働﹂範瑠が発見されるに至った過程に溌目せねばな

らない︒既述の如くそれは︑労働者の﹁生産の諸対象﹂Ⅱ生箙手段に対する関係︲即ち狭義の所有関係を問うことか

ら発見されたのであった︒問題は実は︑この生産手段の疎外論的把握の点にあった︒即ちこの把握の特厳は︑一方で

﹁労働者はその労働とは独立に︑一つの対象的存在を持ってい勘という表現に端的に示されるような︑主体l客体

の肯定的結合関係を設定し㈲他方で﹁人間的本質が︑自ら非人間的に自分自身との対立において対象化すきとい

う疎外論の本質的性格を適用して︑主体l客体の否定的分離関係を対置する所にある︒この論理の視界は︑主体たる

労働者と客体たる生産手段との結合・分離関係の点にの象限定され︑主体の樋差︑即ちそれは複数なのか単数なのか︑

単数の場合のそれは生産者なのか非生産者なのかという点は考慮外として捨象されざるをえない︒この種々の所有の

形態を欠落させる疎外論的論理の故に︑﹁草稿﹂は﹁ドイツ・イデオロギー﹂・﹁諸形態﹂の如き所有形態史としての

一日︸

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歴史理論として結果しなかったのであり︑そのことは必然的に︑﹁草稿﹂・﹁私有財産と共産主義﹂篇に於る共産主義

を︑共同所有を基礎とする社会的生産としてではなく︑一面的抽象的に︑主体と生産手段との結合関係の﹁川裡﹂に

基づく労働生産物の自己享受という思弁の産物として把握させる結果となったのである.

第二に︑疎外論の特徴である主体l客体の二元論的相互関係の視点が問われねばならない︒藤野渉氏︑城塚登氏

等々の哲学的疎外論者の特徴は︑人間の脚己発展を一の過程として捉えるヘーゲル的労働観を推軸に据える一方︑主

体からの客体の自立的敵対化・主体による自立化した客体の再穫得の総過樫を︑否定の否定︑即ち主l客弁証法と

称し︑そのことが主体の能動的自己発展を示すことだと見倣す点にある︒この発想の問題は︑主l客の二元論的相

互関係にのみ注目することにより︑逆に主体の内部櫛造の分析を不可能とする点にある︒主体は︑具体的生産関係を

捨象した後に残る︑抽象的労働主体と規定されるのみである︒﹁草稿﹂マルクスは生産過程の資本制的姿態を﹁疎外

された労働﹂Ⅱ主体として捉え︑この主体の客体的姿態を問うことから資本l賃労働の敵対的社会関係の存在を導出

したが︑考察の中心が主l客関係にのみ限定されたが故に︑主体として設定された生産過程の内部術造は︑分析の対

象とはならないという結果を招いた.このことは重大な意味を持つ︒何故なら︑見川氏が﹁生産過程こそ資本制的生

産を特色づけ︑他のものと区別するその穂差︑つまり資本制的生産一般の概念となるわけであ軸﹂と指摘されるよう

に︑総体としての資本の本質であり︑生産力の発展する源である生産過程が究明されなかったということは︑取りも

直さず資本に特有の具体的諸矛屑を︑擶本の発展過樫に川して分枅出来なかったことであり︑そのことは社会主茂未

来の予兆の必然性を︑経験科学の蕊礎上では成就し得なかったことを示すものだからである︒その結果は︑﹁全峨命運

動がその経験的基礎をも︑理論的雅礎をも︑私有財産の運動の中に見い出圭改という科学的指摘を行いながらもマル

クスは︑疎外論に特有の主l客再合一による疎外からの﹁M復﹂という非科学的論理の援用によって︑二元論を克服

すべく﹁私有財産と共産主義﹂簡を草したのである︒﹁草稿﹂マルクスの﹁共産主義﹂概念の思弁性はこの点にある︒

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疎外論を扱った﹁草稿﹂は︑﹁経済の運動﹂を内在的に考察出来なかったが故に︑皮肉にも科学的には疎外されっばな

しであったのである︒

側棚㈹00090003(13(11100(9)(8)(7)(6)(5)(4)(3)(2) (1)

病.冨胃誰○昌己爵淵烏﹃宍昌弄骨﹃冒言厨呂2○百号ョ荷い亀︑商木訳伽頁

宍.三四異箪Poあゐ縄同噛頁

ご丘.い︑曽・同脚頁

前掲択穐卯頁旨瓦.い望唾同剛I睡頁 ご苞.妙留騨同佃頁 ご苞あ軌g同血頁 宍.室閏挙曾酔○あふ屋同砺頁ローゼンベルグ﹁初期マルクス騒済学挽の形成﹂上︑︵Ⅲ肋棚典択︶燗l耐頁云.富胃撃PPO︐切切麗何M面 見Ⅲ石介﹁資本鐺の方法﹂隔頁〆.三閏謬画.P○.い認﹄同順頁F︐恩匡ggg自営切望の隠邑・脇︑言冨g目ョい﹁キリスト紋の本髄﹄︵岩波文叩版上.船山償一訳︶麗質 ご苞.鼠曽.同鰯頁見Ⅲ石介﹁資本省 ご匡忠.忠騨同剛頁涙.冨胃謬己易宍呂憲一ゞ乏曾斎圏.雷.脇.望I鵠.青木書店版・長谷祁文雄訳﹁資本識﹄胴頁宍.言自撰PCあふ患同剛頁 宍.言質夢○百gョ碕呂も三一易8重開冨冨曽吊寄ご厨ゞ毒胃富.両員普曽晶筈冒旦牌ご言g三い勗念.両厨房﹃弓皇ゞ患皀.岩波文叩版・城塚登訳﹁経済学・哲学草秘﹂師頁弓匡.騨認騨同蠅頁

両﹁

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二︑疎外・物象化鯖批判

﹁草稿﹂の翌年︑﹁我を以前の哲学的意識を湖算することを決心﹂したマルクスは︑ヲオィエル・ハッハテーゼ﹂・

﹁ドイツイデオロギー﹂轍々を表わすことにより史的唯物論を確立する一方︑経済学批判の研究に専念していくのだ

が︑哲学的意識の清算にも拘わらず﹁疎外﹂なる用語が頻繁に使用されているのが﹁要綱﹂である.それだけに﹁箪稿﹂

以後の疎外論的マルクス研究に於て︑排他的に着目・喧視されるのが﹁要綱﹂なのである︒疎外論的視角より﹁要綱﹂

を重視する従来の諸研究は︑大別二種に分類しうる︒第一は︑主l客転倒を骨子とする﹁草稿﹂疎外論の延長上での

それであり︑第二は︑﹁疎外論から物象化論へ﹂という言葉が示すように︑物象化論的疎外論である︒以下これら二類

の疎外論を︑前章との関連で批判的に検討したい︒なを﹁要綱﹂マルクス自身が︑如何なる文脈で.如何なる視角よ

りして弓疎外﹂なる用語を使用したかは興味ある問題であるが︑紙数の関係上割愛する︒

⑪﹁草稿﹂疎外論の延長上で哲学的疎外論を展開するのは︑A・クレラであり︑彼に依拠する藤野渉氏である︒彼

等の意図は︑疎外論から実存主義的︑宿命論的性格を払拭し︑逆にそれを肯定的・戟極的なものとして再把握しよう

とする点にある︒その際彼聯は︑﹁典綱﹂・﹁貨弊論﹂中の所訓る世界史三段階論︑及び﹁かの原始的班かさに州りた

いと望むことが笑うべきことであるように︑かの全き空虚に副まるべきだという僑仰もまた笑うべきものである︒ブ

ルジョア的見解は︑かのローマン的見解に対する対立以上に出たことはないのであって︑それゆえ正当な対立として

のローマン的目解は︑天国のはてまでもブルジョア的見解と一緒に行くである列︺箇所群に肴目し︑よって﹁要綱﹂

@1)"

見Ⅲ石介﹁資本讃の方法﹂畑I加頁

なお岩崎償彦氏が︑氏の論文﹁マルクスにおけるゲマィン・ソャプトとゲゼル・ンヤフト序説﹂で.氏の言う﹁社会化された共同体﹂

を﹁草稿﹂マルクスの﹁私有財産と共産主義﹂鰯を援用して韮礎ずけていることは︑それが悠弁の産物であるだけに︑氏のそれが科

学鎧的視角を欠落させた没概念性と無内容さを︑自から暴露しているものである︒

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を彼等の愈図を裏付けるものと見倣すのである︒クレラが前掲マルクスからの引用文に依拠して︑弓人間性剥奪﹂から

槻の救済を﹁回復﹄のうちに求めるのではなく︑もっともひどい人間低落︑衝本主義的な人間低落にまで導いて来た諸

過程を更に先へと推進することのうちに求めることが出来る﹂と言明するとき︑それは恰も疎外論特有の論理︑即ち

一方に疎外状況を設慨し︑他方に疎外されざる状態を対腫し︑前者から後者への移行を﹁回復﹂なる一言で片付ける

ことにより主l客二元論を克服せんとする試から解放されているようではある︒しかし事実は否である︒クレラはヘー

ゲル的労働観l労働による人間の過程的自己産出lに依拠する一方︑ヘーゲル的労働観に特有の内と外との関係︑

即ち内なる人間的本質諸力の外的対象化という概念を︑外化・疎外概念と同類のもの︑それ故対象化Ⅱ疎外と見倣す︒

それはルヵーチが︑対象化を外化との桑同等のものとすることにより︑逆に︑疎外を全面的に否定的性格と規定する見

解に対抗してであった︒こうしたへIゲル的労働観と魁独得な主I客関係の把握によってこそ彼は︑疎外現象に肯定的

性格を洞察しうると錯覚したのである︒彼の論理はこうである︒商品資本制社会の下で初めて生産力は彪大な発展をと

げうる︵その何故かは問われない︒マルクスがかく言及しているからそうなのだと見倣されるの桑︶︒一方確かにこの

資本関係の下でこそ疎外は生ずるのであるが︑他方この生産力の彪大な発展の意味するところは︑人間内奥に宿る本

質諸力の外化Ⅱ普遍的発展でもあるのだ︑と︒かく把握することによってクレラは︑主l客関係の主体の位慨に﹁人

類﹂なる抽象的な範晦を導入して︑上述の彼の見解を︑﹁商品生産は歴史の経過の中で︑工業的形態も含めて︑そのあ

らゆる形態において一つの強力なてことなって︑人顛を改造し︑豊かにさせたばかりでなく︑人間個人を豊かにさ

せかつ分化させた﹂と結論ずけたのである︒この一見﹁科学的かつヒューマニズム的﹂なクレラの結論は︑それにも

拘わらず前章で考察した疎外論的論理に固有の欠陥を典中的に含むものである︒何故なら︑彼の縦目するのはどこま

でも二元論的主体l客体関係の点の象であり︑主体そのもの︑主体の内部購造の分析は全く考噸の外に世かれたまま

だからである︒問題は︑生産力の発展を﹁人類﹂の本質諸力の対象化︑かくして人間の自己発展と見倣すのではなく︑

﹃﹄

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生産力の発展により資本制社会が如何なる柵造的変化を遂げつつあるかを内在的に分析する点にある︒その為には資

本制社会の主体を︑混沌たる表象に過ぎない﹁人類﹂なるものから︑衝本へ移行さすことにより初めて成就しうるも

のであった︒哲学的疎外論者が依拠する﹁要綱﹂マルクスの課題は︑彼輔の観点とは脈反対に︑主体︑即ち擬本の内

的櫛造を解明する点にのみあった︒生産と流通の二過穏を基礎とする諸契機の総体としての涜本の主体たる愈褒につ

いて︑マルクスは次の如く指摘する︑﹁総体性としてのこういう有機的体制そのものは︑自己の諸前提を持っており︑

総体性へのその発展は︑社会の全ての要素を自己に従脇させるか︑それともまだ自分に欠けている器官を社会の中か

ら創り出すことにほかならない︒このようにしてそれは︑歴史的に総体性になるのである.この総体性になるという

ことが︑それの過程の︑即ちそれの発展の一契機なのであゑ﹄︑と︒そしてこのように自己完成へ向けて発展しつつあ

る資本の精神的再獲得の意義と方法とに関して︑﹁要綱﹂マルクスは次の如くに明言していた︑﹁資本概念の厳密な展

開が必要であるのは︑資本自体⁝が︑ブルジョア社会の基礎であると同様に︑資本概念が近代経済学の基本概念であ

るからである︒関係の基本前提の鋭い把握から︑ブルジョア的生産の一切の矛盾が明らかにならなければならないし︑

資本が自分自身をのり越へて進み出るその限界も明らかにならなければならない﹄︑と︒この視点に基ずく資本の発生

的概念展開こそが︑﹁要綱﹂を貫ぬく課題であった︒それ故クレラが︑﹁生成しつつある近代社会が︑そのときどきに

一定期間にわたって取る﹁限局された﹂歴史的形態は剥ぎ取られるものであって︑その階級的形態の股後の資本主義

的形態もまた脱ぎ粟てられるであろう︺と述べるとき︑それは主体の対象化関係にのみ視野を限定し︑主体内部の諸

矛盾を考察しえない自からの論理からは導出出来ない結論だったのである︒同棟にして﹁壮大な歴史観と疎外﹂と大

言する藤野氏にして︑疎外現象に積極的・肯定的性格を洞察しうる根拠を︑﹁とてつもなく壮大な歴史的センス﹂なる

弱ものに求めるのは︑あまりにもおそまつと言わざるをえない︒クレラ・藤野の両者がその共通の論敵とするルヵーチ

批判にあたり︑批判の視点を︑﹁対象化﹂・﹁外化﹂・﹁疎外﹂概念の相互関係如何という点にのゑ限定する限り︑実

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﹁人間再似権の歴史理論﹂として﹁商品論の復位﹂を咄える平川氏は︑商舳諭の窓義に言及して易ルクスの価値

論︵正しくは商品論︶こそ︑市民社会という現実的世界を批判する普遍的理論であり︑その批判の百科全將的喫綱で

あり︑その民衆的論理学であり.ほかならぬマルクス個人の構神的騎持であり︑その批判的意識の絶頂であり︑..︑︑1

ニスムヘの荘厳な宣言であり︑その鼓舞・激励の一般的基礎理強なのでありま宙﹂と商咄する︒平川氏がかく主張す

るその根拠は︑氏が商品論こそ︑﹁市民社会﹄にのゑ生起する疎外Ⅱ物象化形態︑即ち﹁市民社会﹂の﹁協同本蘭﹂

︵︒⑦ョの旨亀の陥己の独自的・歴史的な﹁外的対象形態﹂の存在櫛造を暴露することにより︑﹁抽象的人間の雁史主体性の

意義とその限界を明らかにし︑人間的労働をその現実性において獲得する理論的保障を人類にもたらしたものである︺

と理解するが故である︒そのことは︑取りも直さず商品論は︑商品資本制社会の特殊歴史的経過性を論証することに

より︑﹁来来の﹁共同連合体﹂鈩脇◎里豊呂吟の存在の必然性を予兆する歴史理論でもあると把握することであり︑歴

史理論としての商品論の論証として︑﹁要綱﹂貨幣論中の世界史三段階論︑及び﹁資本論﹂第一部﹁商品物神﹂節の歴

史叙述が援用されるのである︒それでは平田氏の著作を簡ぬく物象化とは何か?氏は言う︑﹁私がここで物象化視点と

いうのは︑個旨皇く己呂ョと類⑦鼻冨︒鴇宕$gまたはゲマィン・ヘーゼンの①ョ里昌蔚陥国との関連を︑その社会的形態

規定の対象性において批判的に探求する方法視角のこのである︺と︒この引用文中︑﹁社会的形態規定の対象性﹂箇所

に着目する必要がある︒何故なら︑物象化論が関心を集中するその点が︑疎外論のそれと同様に︑主体l客体の二元 は三者は同一次元に留まっているのであって︑ルカーチ批判の課題は成就しえない︒②﹁要綱﹂・﹁資本論﹂に依拠しながら︑新たな装いの下に主l客転倒の疎外論を論ずるのが一連の物象化論者であり︐その代表者は哲学者満水正徳・広松渉の諸氏︑経済学者平川滴明氏︑そして首尾一衡平Ⅲ氏と軌を一にする前掲岩崎信彦氏などである︒本節では紙数の関係上︑平剛氏の所説に焦点をあてて︑物象化論の批判的検討を行ないた

赴一

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論的相互関係にあることを確認しうるからである.但し﹁草協﹂疎外論と物駿化論との相違は︑平川氏自身が︑﹁貨幣

は協同本質であると﹃要綱﹂のマルクスが語るとき︑そこには以上に見たようなことが意味されていたのである︒そ

こには︑四十年代における疎外論的思想内容が脈々と流れている︒しかもそれは物象化視点による科学的記述の姿を

とって現れている﹂と述べているように︑﹁草稿﹂疎外論が︑主l客転倒についての論証を欠いているのに対して︑物

象化論はこの原因と過程とを究明することにより︑完成した科学的理論となりえているという点に求められている︒

その際︑価値表現の握り道の過程を解明した価値形態論︑そしてその完成形態たる貨幣形態論こそが︑﹁草稿﹂疎外論

を科学理論としての物象化論へと発展せしめたものとして︑最大限に重視されるのである︒以上︑物象化論の考察の中

心が︑依然として主l客の相互転倒関係にあることが確認出来たのであるが︑それでは平川氏が︑主体︑その対象的

物象化形態たる客体︑そして物象化からの解放としての﹁共同連合体﹂への移行の必然性群々を如何に把握している 心が︑依然として主一

物象化形態たる客体︑戒

かを検討していきたい︒

平川氏は︑近代﹁市民社会﹂の主体を様々に表現している︒共同体的頚への埋没から解放された近代的﹁個体﹂・

ゲアイ・シペ0ヤシザマ﹁個体的所有﹂・﹁個体的労働﹂・﹁燗体﹂相互間の人格的依存関係に基ずく﹁協同本質﹂等々と︒但し主体は︑﹁協

インベーゼン

同本蘭﹂を以て代表することが出来る︒というのは︑平川氏にとっての関心は︑全ての時代に存すると主張される労

ゲァィシペーぞシ

働の﹁協同本質﹂の﹁市民社会﹂に於る特殊発現形態にあるからである︒かく把捉された主体の主体たる意義につい

て氏は言う︑﹁以上にその真実の内容が明確になったマルクス的概念﹃人間的労働力﹂及びその活動としての﹃人間的

労働﹂︑これこそ人間の人間たる﹁生命Ⅱ生命確証﹂F冨扇冒豐唱畠であり︑人間の自己産出活動そのものである︒

そしてこれこそ歴史の﹁主体﹂普耳巾寓なのである︒そして最後に︑この人間としての自己産出︑即ち生命Ⅱ生命確

証こそ︑人間の﹁富﹂︑即ち人間的富裕なのであ勘啄と︒疎外論の一方の極を撒く赤き糸たるへIゲル的労働観が︑

ここに実に鮮明に読象取れることを記憶しておこう︒他方︑﹁市民社会﹂の対象的疎外Ⅱ物象化形態は如何なるものと

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象的依存のうえに立脚する人格的非依存性﹄によって特質ずけられる近代市民社会においては︑普遍的対象化が総体

的疎外として現れる︒この基礎軸をもってすれば︑先行諸社会は︐人類がその活動を普遍的に対象化しないことによっ

て︑いまだ狭隆な生産性の制約の下腫厳しく置かれた社会である.しかし同時にそれは︑人間としての人格的依存関

係を直接に保持するものであり︑したがってまた︑普遍的な疎外を︑いや疎外Ⅱ物象化そのものを︑まぬかれてい

る︒⁝⁝この往時の﹃高級なるもの﹄に対比すれば︑交換価値およびその対象的表現たる貨幣の君臨する近代市民社

0 0

会は︑﹁普遍的売淫制度﹄であり︑下劣の極である﹂︑と︒かく断罪した平田氏にとり︑問題は︑当然にも﹁市民社会﹂

の底面に客観的に存するとされる諸主体の︑その現実的具象的姿態そのままでの︑社会的表層への襖位である︒しか

しそれは︑往時の共同体への後退としてではなく︑共同体と﹁市民社会﹂の両者を止揚した︑より高次の社会形態Ⅱ

﹁共同連合体﹂への移行によってであると主張される︒そしてこの﹁未来の共同連合体﹂の存在の指摘こそ商品論で

なされていることこのことが︑商舳論をして人顛変峨の歴史理倫とならしめていると主張されるのである︒

以上にその概略を考察してきた平川氏の物象化論は︑徹頭徹尼主体I客体の相互関係に熊点を典中した疎外論なの

である︒但し︑氏のそれは価価摘を駆使することにより︑哲学的疎外論者の疎外錨に比し︑はるかに説得的にして包

播的となっている︒それにも拘わらず平川氏の所脱は︑既に検肘した疎外論に特有の欠陥を包含するものである︒以

下三点にわたり︑平川氏の物嬢化論を批判したい︒

疎外論の第一の欠陥︑それは︑疎外論者がブルジョア社会の主体として設定する主体そのものの取り違えと︑主体

の内部櫛造の分析の捨象の点にあった︒この点平川氏に全て妥当する︒氏にとり︑近代﹁市民社会﹂の主体は総体と

しての資本ではありえなかったし︑資本の内部櫛造への言及も行なわれなかった︒但しこの点を問わないとしても︑平

田氏のような主体把握は全くの間違である︒平田氏は︑﹁市民社会﹂を特質ずける私的所有に基ずく社会的分業を基軸

にして︑この分業に規定されることなくその底面に客観的に存在するのが主体であると見倣す︒そしてこの主体の意

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固執する理由の第一は︑氏が共同体から近代﹁市民社会﹂への移行によって客観的に生象出されたと主張する近代的

﹁個体﹂を排他的に虹視するが故であり︑第一辰︐ヘーゲル的労働観を人間的富裕として絶対化するからである︒

疎外論の鋪二の欠陥︑それは一方に疎外状態を設定し︑他方に疎外されざる状況を思弁的に対吐し︑前者から後者

への移行を﹁仙復﹂なる一調で以て片付ける点にあった︒そしてかくなる原悶は︑疎外論の関心が主l客相互関係に

のみ集中することにより︑内に矛噛を含む主体の内部櫛造の考察が願難られない占慥あった︒この占単川氏の物象化

論はどうなのであろうか?氏の商舳諭評価の特徴は︑それを社会主義的未来を予兆する﹁人間復権の歴史理論﹂と見

倣す点にあった︒そしてかく評価するその根拠は︑﹁要綱﹂世界史三段階論の存在であり︑﹁蜜本論﹂・﹁商品物神﹂

節に於る歴史叙述の存在であった︒併し世界史三段階論も含めて︑歴史が考察されているが故に歴史理論だと規定す

るのではなく︑問題は︑マルクスが何を目的として歴史を叙述したのかという点であり︑商品論という限定された理

論次元での桑︑それは叙述されたのかという点である︒以上の点を明らかにすることは︑取りも直さず物象化論が︑

二元論を克服すべく疎外論に特有の﹁回復﹂なる発想から解放されているか否かを明らかにすることでもある︒この

点マルクスの意図は実に簡単明瞭である︒価値形態論から物神性論にかけてのマルクスの意図は︑分柄的に確認され

た価値の本性が︑如何にして交換価値という形態として現象するのかを対象に内在して解明することであった︒但し

価値形態が特別亜視されねばならなかったのは.﹁資本識﹂マルクス自身が︑﹁労働生産物の価値形態は︑ブルジョア

的生産嫌式の最も抽象的な.しかしまた股も一般的な・形態であって︑かの生産嫌式は︑これにより︑社会的生産の

特殊的な一梱顛として性格ずけられ︑したがってまた同時に︑歴史的に性格ずけられるのである︒だからもしひとが︑

それを社会的生産の永遠的な自然形態だと見誤るならば︑ひとは必然的に︑価値形態の︑かくして商品形態の︑さら

に進んでは貨幣形態・資本形態・等々の︑独自性をも君過するのである﹂と言及している通りである︒この価値形態

の独自的・社会的性格を一層明示する手段として彼は歴史を叙述したのであり︑それは単なる歴史的対比であって︑ 令下

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結語

以上二章にわたる批判的検討を通して.疎外Ⅱ物象化論に特有の致命的欠陥を明示しえたと考える︒この点︑哲学

者花崎皐平氏の核心を突く指摘を借用して桁敷すれば︑﹁初期マルクスからストレートにつむぎだされる﹁疎外とその

回復﹄の思想では⁝⁝﹃私有財産制度を変龍する主体としてのプロレアリタート﹂は検出されても︑その変航の主体

がそのもとで活動すべき客観的条件は検出されてこない﹂ということに尽きる︒この客観的諸条件の生成・発展と︑

それに伴なう変疏主体の成熟そのものの分析こそ︑何よりもまずブルジョア社会の主体の位置に資本を設定し︑それ

を自己更新と自己発展を遂げる自律の﹁総体性﹂として内在的に捉えることによってこそ可能となるものであった︒

そしてこの視点こそ︑﹁草稿﹂マルクスを賀ぬくものであり︑かくして我々が﹁草稿﹂に於て味読すべきは︑人間学的

疎外論の点では断じてなく︑近代産業資本を総体として捉えんとする若きマルクスの苦闘の跡であるべきだろう︒但

し︑﹁要綱﹂・﹁資本論﹂段階のマルクスが︑主l客の敵対的転倒関係を特徴とする疎外概念を全的に廃棄したのでは

必ずしもなかった︒そのことは︑﹁資本論﹂第一部第二十三章・﹁資本制的蓄積の一般的法則﹂に︑比較的頻繁に﹁疎

外﹂なる用語が使用されていることからも首肯される︒主l客の転倒的相互関係にの桑考察の視点を限定することそ

のことは誤りであるが︑労働者に敵対的に対立して存在する物的諸資本の彪大な総体は︑神々ではなく自然でもなく︑

ただ労働者によってのみ創造されたことにはかわりがない.主l客転倒のこの事実に︑マルクスは階級意識発生の基

盤を見ていた︒階級意識発生の窓義を最大限に評価して﹁要綱︲﹂マルクスは次のように指摘する︑﹁生産的を彼自身の

ものとして認識すること︑その現実化の諸条件からの分離を不法のもの︑強制されたものとして判断することlこ

側)剛

平田澗明﹁経済学と歴史認識﹂聯頁

同蕎脳頁

︑︾

(23)

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れは大変な愈識であり︑それ脚体資本にもとずく生産概式の産物であり︑だからこそその滅亡への送葬の鍬であゑ︺︑

○歩﹄︒

(2)1

花崎呆平︑尋ルクスにおける科学と衙学﹂郷I刎興

■■宍.冨閏鄙⑦日己烏駕号﹃宍異弄号﹃冒言忠言ご○ざgョ荷陽画g︲凸電択神鋼I湖Ⅱ

︵昭和四十七年九月三日︶

参照

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