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『 大 東 世 語 』   「 雅 量 」 篇 注 釈 稿

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(1)

早稲田大学大学院教育学研究科紀要 第十八号−二〇〇八年三月

﹃ 大 東 世 語 ﹄   ﹁ 雅 量

﹂ 篇 注 釈 稿

︹凡

例︺

二 本稿は︑服部南郭﹃大東世語﹄ ﹁雅量﹂篇の本文と原注に関する

注釈

であ

る︒

一︑注釈は︑早稲田大学大学院教育学研究科二〇〇七年度科目﹁国文

学演習﹂ ︵堀 誠担当︶ の受講生 ︵石本波留子・丁秋郷・政岡依

子・永田英理︶ が講読担当話の発表資料に基づいて原稿化した︒

一︑底本は︑早稲田大学図書館蔵本﹃大東世語﹄ ︵寛延三年

︵一七五〇︶刊︶ に依り︑また典拠に関しては同館蔵本﹃大東世

語考﹄ ︵方寸奄漆鍋稿︑寛延四年へ一七五一︶序︶ を参考にした︒

二 ﹁雅量﹂篇の都合十四話を︑︹雅量1︺ のように順次表記した︒

一︑注釈は本文の ︹書き下し文︺∴訳文︺︑原注の ︹書き下し文︺∴訳

文︺

︑お

よび

 ︹

語釈

︺︑

︹典

拠︺

 か

ら構

成さ

れる

4

一︑︹書き下し文︺ は︑原則として底本の訓点を尊重しっつ︑適宜こ

れを

改め

た︒

﹃大

東世

語﹄

 ﹁

雅量

﹂篇

注釈

稿︵

掘・

石本

・丁

・政

岡︶

堀  誠・石本波留子・丁 秋郷・政岡依子

︹雅

量1

寛和帝時︒藤道長輿=二見も︒少同鵠レ郎︒一夕雨晴︒皆在二上前一︒

詳及

二怪

事㍉

移レ

時坐

懐二

畏怖

一︒

上目

︒誰

冒二

此黒

同一

︒能

詣二

無人

虞一

着耶︒道長日︒臣可レ詣︒上壮レ之︒乃命二兄弟三人l日︒道隆宜下往二

豊欒

院−

還上

︒道

兼仁

蕎殿

︒道

長大

極殿

︒各

宜レ

出二

某某

門一

︒時

巳三

更︒

二見畏縮︒不レ得レ巳而起︒道長日︒臣固猫往︒願俵l去右小勢刀一︒

宮下

取レ

置東

上︒

乃去

︒俄

頃︒

二見

各走

韓日

︒途

巳見

レ怪

︒不

レ可

レ得

レ前

︵ 桁 ︶

股栗不レ定︒面色如レ土︒上大拍−笑之︒良久道長徐還︒即上二小木梯一

鳥レ信日︒是所二別取一︒太極殿御林南画下柱片也︒上道令レ験︒呆爾︒

二見

大慨

︹書

き下

し文

わか寛和帝の時︑藤道長と二見とは︑少くして同じく郎と為る︒一夕 雨

晴し︒皆 上前に在りて︑澤 怪事に及ぶ︒時を移して坐ろに畏怖

を懐く︒上目はく︑﹁誰か此の黒闇を冒して︑能く無人の虞に詣る者

あらんや﹂と︒道長日はく︑﹁臣詣るべし﹂と︒上 之れを壮とし︑

(2)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

政岡

乃ち兄弟三人に命じて日はく︑﹁道隆は宜しく豊楽院に往きて還るべ

し︒道兼は仁寿殿︑道長は大極殿なり︒各おの宜しく某某の門を出

つべし﹂と︒時巳に三更︑二見 畏縮す︒巳むことを得ずして起つ︒

道長日はく︑﹁臣固より猪往す︒願はくは左右の小勢刀を候らん︒昔

に詮を取りて来たるべし﹂と︒乃ち去る︒俄頃にして︑二見 各おの

走り締りて日はく︑﹁途巳に怪を見る︒前むことを得べからず﹂と︒

やや

股栗定まらずして︑面色 土の如し︒上 大いに拍笑す︒良久しくし

て道長徐ろに還り︑即ち小木柿を上して信と為して日はく︑﹁是れ削

り取る所︑大極殿の御淋南面下柱の片なり﹂と︒上遣はして験ぜしむ

しかるに︑果たして爾り︒二見大いに漸づ︒

︹ 訳

文 ︺

寛和帝︵花山天皇︶ の御時︑藤原道長と二見︵道隆・道兼︶は︑若く

して殿上人となった︒ある晩のこと︑雨が暗く降りこめていた︒彼ら

は帝の前にお仕えし︑話題は怪事に及んだ︒時間がたつにつれて︑皆

自然とこわくなった︒その時︑帝がおっしゃった︑﹁誰かこの暗黒の

闇をおかして︑無人の場所に行き着ける者はいるか﹂と︒道長が言う

には︑﹁私が参りましょう﹂と︒帝はこの申し出を勇壮と感心した︒

そこで兄弟三人︵道隆・道兼・道長︶ にお命じになった︑﹁道隆は豊

楽院に行って︑戻りなさい︒道兼は仁寿殿︑道長は太極殿に行きなさ

い︒各々︑何々の門を出ていきなさい﹂と︒時ははやくも深夜で︑二

見はすっかり畏縮していたが︑やむをえず腰をあげた︒道長は﹁私は︑

言うまでもなく一人で参ります︒願わくは帝のおそばにございます小

前刀刀をお借りしたいと思います︒証拠を取ってまいりましょう﹂と言

い置いて︑出掛けた︒しばらくすると︑二見は各々逃げ帰って言った︑

﹁途中で︑すでに怪事に遇いました︒そのため行けませんでした﹂と︒

二見は恐ろしさに足をふるわせ︑顔色は土気色であった︒帝は大いに

︑1ノ手を拍ってお笑いになった︒しばらくすると︑道長は平然と帰ってき

た︒そして︑小さな木片を証拠として献上し言った︑﹁これこそ削り

とった証拠の品で︑大極殿高御座の南の下柱の小片です﹂と︒帝は人

をやって確かめさせると︑はたしてその通りであった︒二見は大いに

恥じ

入っ

た︒

︹ 原

注 ︺

①道隆︑道兼也︒三子別見︒

︹書

き下

し文

①道隆︑道兼なり︒三子別に見ゆ︒

︹ 訳

文 ︺

①道隆︑道兼である︒三人のことは別の話にも見える︒

︹ 語

釈 ︺

寛和 年号︒九八五〜九八六︒この時代の天皇は花山天皇︒

寛和帝 花山天皇︒在位は九八四〜九八六︒第六五代天皇︒

藤道長 藤原道長︒九六六〜一〇二九︒平安中期の公卿︒摂政兼家 の五男︒道隆・道兼の弟︒兄たちの相次ぐ裏去により︑長 徳元年︵九九五︶ には一挙に右大臣にまで昇進した︒長保

元年︵九九九︶長女彰子を入内させ︑中宮とした︒寛弘五年

(3)

︵一〇〇人︶ 外孫となる敦親親王 ︵後一条天皇︶ が︑翌寛弘六

年︵一〇〇九︶敦良親王が誕生︒のち︑外祖父として摂政に就

任し︑権勢をふるう︒日記に ﹃御堂関自記﹄ がある︒

道隆 藤原道隆︒九五一二〜九九五︒平安中期の公卿︒摂政兼家の嫡男︒

道兼・道長の兄︒正暦元年︵九九〇︶ 父の出家により関白を継

ぎ︑のち摂政となる︒

造兼 藤原道東︒九六一〜九九五︒平安中期の公卿︒道隆の弟︑道長

の兄︒長徳元年︵九九五︶︑道隆の菱去により関白となるが︑

わずか十日あまりで急逝したため﹁七日関白﹂と呼ばれる︒

壮     勇 ま し く 立 派 だ と 感 心 す る こ と

︒         一

豊欒院 豊楽院︒内裏の西南に位置する︒主に節会や大宴会など︑天

皇の私的な用事に使用された︒

仁蕎殿 仁寿殿︒紫衷殿の後方にある︒天皇の御座所であったが︑清

涼殿が御座所となって以降︑内宴などを行う場所になった︒

大極殿 入省院の正殿︒政務や儀式︑大礼などを行う場所︒

一二更 いわゆる﹁五更﹂ の三番目︒現在の午前零時頃︒深夜をいう︒

股栗 恐ろしさで股がわなわなと震えること︒﹁栗﹂は﹁懐﹂に同じく︑

おそれおののく意︒

︵ 柿 ︶

小木梯 ﹁柿﹂は︑こけら︑木の削りくず︑木片の意︒漢音ハイ︑呉

音ホ︒﹃漢語大詞典﹄ では﹁木柿﹂ で立項し︑音を﹁mP諦i﹂と

する

︒︹

文学

19

︺に

は﹁

小木

柿﹂

がみ

える

︒﹁

梯﹂

︵漢

音シ

︑か

き︶

は本来別字であるが︑混用された︒

﹃大

東世

語﹄

 ﹁

雅量

﹂篇

注釈

稿 

︵掘

・石

本・

丁・

政岡

御林 高御座︒太極殿の中央後方にあり︑大礼の時天皇が御座する︒

︹ 典

拠 ︺

﹃ 大 鏡

﹁ 太 政 大 臣 道 長

︵ 上

︒                  

︵ 石 本   波 留 子

︹雅

量2

永延登昨日︒有司設レ位︒忽見三大極殿御林側︒有二血燭健一︒大驚不祥︒

走白二法興相公一①︒公方睡不レ麿︒再言如レ初︒乃脆待レ之︒公始乃声

驚︒直間儀設巳成否︒其人忽悟︒大儀牌レ成︒無二可レ更理一︒公故鵠レ

不レ

聞乃

爾︒

逐不

レ言

而罷

︒妖

亦不

レ徴

︹書

き下

し文

永延登降の日︑有司 位を設く︒忽ち大極殿御林の側に血憫條有るを

見︑大いに驚きて不祥とす︒走りて法興相公に白す︒公方に睡りて應

ぜず︒再び言ふに初めの如し︒乃ち脆きて之れを待つ︒公始めて乃ち

ただ驚くことを為して︑直ちに間ふ︑﹁儀設巳に成るや否や﹂と︒其の人

忽ち悟る︑﹁大儀婿に成らんとす︒更むべきの理無し︒公故に聞か

まねざる為して乃ち爾り﹂と︒蓮に言はずして罷む︒妖も亦た徴あらず︒

︹ 訳

文 ︺

永延帝︵一条天皇︶ のご即位の日︑担当官が式場の準備をしていた︒

そのとき︑ふいに太極殿の高御座の側に血に染まった筒健が有るのを

見つけ︑大変驚き不吉なことと考えた︒急ぎ法興相公 ︵藤原兼家︶ の

もとに駆けつけ報告したが︑相公はちょうど睡っていて返答しなかっ

た︒再び申し上げたが︑前と同様であった︒そこで脆いて︑控えて待っ

一二

(4)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

政岡

た︒相公は目を覚ますと︑直ぐに問いただした︑﹁式場の準備はすで

に整ったのか﹂と︒その人ははっと気づいた︑﹁ご即位の儀式が挙行

されようとしているのだから︑変更するような道理はない︒相公はわ

ざと聞かない振りをなさって︑その意味を示されたのだ﹂と︒とうと

う報告しないままで終った︒妖しい出来事も起きることはなかった︒

︹原

注︺

①兼家︒貞信公忠平之孫︒九傭船相国師輔之子︒官関白太政大臣︒

境目

t一

法興

公一

︒亦

稀二

束三

條㍉

︹書

き下

し文

①兼家なり︒貞信公忠平の孫︑九條贈相国師輔の子なり︒官は関白

太政大臣なり︒渡して法興公と日ふ︒亦た東三條と稀す︒

︹訳

文︺

①兼家である︒貞信公忠平の孫で︑九條贈相国師輔の子である︒官

は関白太政大臣となった︒号を法興公といい︑また東三傑と称した︒

︹語

釈︺

永延

登陸有司

大極殿

御林 年号︒九八七〜九八九︒一条天皇の即位式は尭和二年︵九八六︶七月二十二日に行われた︒ここでは︑﹁永延帝﹂︑すなわち一条天

皇の

意︒

﹁登詐﹂に同じ︒天子の位につくこと︒

官吏

︹ ︒

雅量

1︺

 ︹

語釈

︺﹁

大極

殿﹂

参照

︹雅

量1

︺ 

︹語

釈︺

﹁御

林﹂

参照

燭饅 頭の骨︒されこうべ︒

法興相公 藤原兼家︒九二九〜九九〇︒平安中期の公卿︒右大臣藤

原師輔の子で︑伊芦・兼通に次ぐ三男︒天禄三年︵九七二︶︑

摂政太政大臣伊声が病気のため辞表を提出すると︑円融天皇

の前で兼通とその後継を争ったという︵﹃済時記﹄︶︒天元元年

︵九七六︶︑娘詮子を円融天皇女御とし︑生れた懐仁親王を︑永

観二年︵九八四︶花山天皇即位のときに皇太子にして︑天皇の

外戚となる機会をうかがった︒寛和二年︵九八六︶六月︑花山

天皇を出家・退位させ︑懐仁親王︵一条天皇︶を即位させるこ

とに成功した︒永離元年︵九八九︶太政大臣︑正暦元年︵九九

〇︶関白となるが︑直ちに辞して出家した︒法名如実︒邸宅は︑

東三条第︑出家とともに法興院となった二条京極第︒

貞信公 藤原忠平︒八八〇〜九四九︒朱雀天皇の摂政・関白︑村上天

皇の関白を務める︒貞信公は誼︒彼によって︑摂関政治の形態

の定着と宮延儀礼の集成がなされた︒

九條衝相国 藤原師輔︒九〇八〜九六〇︒﹃九暦﹄﹃九条殿遺戒﹄﹃九

条年中行事﹄を編じ︑有職故実の流儀を確立した︒

鵠  ここでは﹁侶﹂に通じる︒訓は﹁まねす﹂︒

︹典

拠︺

﹃大

鏡﹄

﹁太

政大

臣道

長︵

下︶

雑々

物語

﹂︒

︵政岡 依子︶

(5)

︹雅

量3

法興公葬︒公卿合−配之夜︒衆遽騒擾︒未レ得二其故一︒自二軍王諸貴一︒

莫レ

不二

憧健

一︒

惟御

堂公

最少

︒初

不レ

動︒

徐謂

レ入

日︒

下官

巳遣

レ人

間−

知︒

但馬驚侠耳︒源頼光①時在レ合︒退歎日︒此公安−帖︒巳堪レ鵠二主革︒

︹書

き下

し文

法興公の葬︑公卿合随の夜︑衆遽に騒擾す︒未だ其の故を得ず︒喪

主・諸黄白りして︑憧催せざること美し︒惟だ御堂公最も少し︒初

めより動かず︑徐ろに人に謂ひて日はく︑﹁下官巳に人を道はして聞

きや・ついつ知す︒但だ馬の驚供するのみ﹂と︒源頼光 時に合に在り︒退きて

歎じて日はく︑﹁此の公安帖たり︒巳に主将為るに堪へたり﹂と︒

︹訳

文︺

法興公 ︵藤原兼家︶ の葬儀に際して︑公卿たちが墓所に集まっていた

夜︑大勢の人が突然騒ぎ出した︒まだその理由が分からなかったので︑

喪主 ︵長男の道兼︶・公卿たちをはじめ皆恐れた︒ただ御堂公 ︵藤原

道長︶ は最も若かったけれども︑初めから動ずることがなく︑落ちつ

いて人に謂うことには︑﹁私がすでに人を遣わしてそのわけを尋ねま

したところ︑ただ馬が驚いて逃げただけです﹂と︒源頼光は︑その時

に参会していたが︑帰ってくると賛嘆して言うことには︑﹁この御堂

公は冷静沈着でおられる︒すでに主将の任に堪えられる器量をお持ち

だ﹂

と︒

︹原

注︺

﹃大

東世

語﹄

 ﹁

雅量

﹂篇

注釈

塙︵

掘・

石本

・丁

・政

岡︶

①六孫王経基之孫︒多田満仲長子︒歴二−任十五囲守一︒至二左馬頭一︒

︹書

き下

し文

①六孫王経基の孫︑多田満仲の長子なり︒十五の囲守を歴任す︒左

馬頭

に至

る︒

︹訳

文︺

①六孫王源経基の孫である︒多田満仲の長子である︒十五カ国の国

守を歴任し︑左馬頭に至った︒

︹語

釈︺

法興公

舎脱騒擾

喪主

憧催下官

驚侠

御堂公源頼光

経基 藤原兼家︒︹雅量2︺ ︹語釈︺ ﹁法興相公﹂参照︒

墓所に集まること︒﹁随﹂は︑﹁聾﹂に通じ︑はか︑つかの意︒

さわざみだれること︒騒動︒擾乱︒

主人として葬式をいとなむもの︒

おそれる︒おそれておどおどする︒

官吏の自称の謙辞︒

﹁驚侠﹂は﹁驚逸﹂に通じ︑馬などが驚いて逃げること︒

藤原

道長

︒︹

雅量

1︺

 ︹

語釈

︺ 

﹁藤

道長

﹂参

照︒

源頼光︒九四人〜一〇二一︒平安中期の武将︒満仲の長男︒

摂津などの受領を歴任︒焼勇を以て称され︑左馬権頭に昇った︒

四天王の故事や大江山の酒呑童子征伐の伝説は著名︒勅撰和歌

集に三首採られている︒子孫にも歌人を多く輩出した︒

源経基︒?〜九六一︒平安中期の貴族・武人︒頼光の祖父︒

多田満仲 源満仲︒九一二〜九九七︒平安中期の武将︒頼光の父︒

(6)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵掘

・石

本・

丁・

政岡

︶ 妥帖 妥鮎に同じ︒おだやか︒穏当なること︑うまくあてはまるこ

と︒晋・陸機﹁文賦﹂に﹁戎妥帖而易施︵或ひは妥帖して施し

易し

︶︒

﹂と

ある

︹ 典

拠 ︺

﹃古今著聞集﹄巻十三﹁哀傷﹂﹁法興院入道殿葬送の夜︑万人騒動の事

有る

に道

長自

若た

る事

﹂︵

第四

五五

話︶

︵丁 秋那

︹雅

量4

袴垂①京都大盗︒夜見二藤保昌一②︒吹レ笛猫行︒欲≡劫奪二之衣一︒障丁

行早許︒数欲レ登︒心坐田干難︒既乃抽レ匁遥−従︒保昌徐停レ吹︒顧

問二其名一︒袴垂不レ覚屈一伏︒自−首作レ劫袴垂者也︒保昌日︒奴︒久

聞レ

之︒

叱便

レ従

レ後

︒復

吹レ

笛徐

−行

︒到

レ家

︒取

二一

袴一

興レ

之日

︒奴

不レ

足レ

殺︒

後乏

求レ

我︒

勿二

復作

り爾

︹書

き下

し文

はかまだれ袴垂は京都の大盗なり︒夜 藤保昌の笛を吹きて猪行するを見るに︑

劫して之れが衣を奪はんと欲す︒踵行すること里許︑敦しぼ普せんと

欲す︒心坐ろに畏難す︒既にして乃ち匁を抽きて逼従す︒保昌徐ろに

吹くを停め︑顧みて其の名を間ふ︒袴垂覚えず屈伏し︑自首すらく︑

﹁劫を作す袴重なる者なり﹂と︒保昌日はく︑﹁奴︑久しく之れを聞く﹂

あとと︒叱して後に従はしめ︑復た笛を吹きて徐行す︒l家に到りて︑一袴

のちを取り︑之れに輿へて日はく︑﹁奴︑殺すに足らず︒後乏しくんば我

に求めよ︒復た爾ることを作すこと勿れ﹂と︒

︹訳

文︺

袴垂は︑京都の大盗賊である︒ある夜︑藤原保昌が笛を吹きながら一

人で歩いてゆくのを見て︑彼を脅してその衣服を奪おうとした︒一里

ばかり後をつけて行き︑Lはしぼ襲いかかろうとした︒しかし︑何と

はなく襲うのが怪かられた︒やがて刀を抜いて︑保昌との距離をつめ

た︒保昌はおもむろに笛を吹くのをやめ︑振り返って盗賊に名を聞い

た︒袴垂は思わず地面に平伏し︑﹁盗賊稼業の袴垂という者だ﹂と答

えた︒保昌は︑﹁こやつめ︑久しくその名を聞き及んでいる﹂と言う

と︑叱咤して自分の後に従わせ︑また笛を吹きながらゆっくりと歩い

て行った︒家に着くと︑一枚の袴を取って︑袴垂に与えて言った︑﹁こ

やつめ︑︵物が欲しくば︶人を殺すには及ばない︒これから後︑乏し

くなったら私に求めよ︒再びこのようなことをしてほならぬぞ﹂と︒

︹原

注︺

①盗

名︒

②民部卿元方之孫︒左京大夫致忠之子也︒丹後守︒至二正四位一︒

︹書

き下

し文

①盗の名なり︒

②民部卿元方の孫︑左京大夫致忠の子なり︒丹後守にして︑正四位

に至

る︒

︹訳

文︺

①盗賊の名である︒

②民部卿元方の孫であり︑左京大夫致忠の子である︒丹後守で︑位

(7)

は正四位にまで至った︒

︹ 語

釈 ︺

袴垂 生没年未詳︒平安時代中期の盗賊︒怪力でl足が速く︑思慮深

かった︒捕らえられた後︑大赦により釈放され︑関山で路傍に

臥し︑不用意に近づく者の衣裳や武器を奪ったという︒

大盗 大盗人︒大賊︒﹃荘子﹄盗拓篇に﹁小盗者拘︑大盗者鳥諸侯﹂

とあり︑典拠である ﹃宇治拾遺物語﹄ には﹁盗人の大将軍﹂と

ある

藤保昌 藤原保昌︒九五八〜一〇一二六︒致忠の子︒母は元明親王の女︒

和泉式部の夫︒大和・丹後・摂津などの国守や左馬頭などを歴

任し︑藤原道長・頼通に家司として仕え︑寛弘八年︵一〇二︶

従四位下に叙された︒兵家の出身ではないが武勇に秀で︑また

和歌や音楽の嗜みもあった︒

元方 藤原元方︒八八八〜九五一二︒藤原保昌の祖父︒

致忠 藤原致忠︒藤原保昌の父︒

丹後 地名︒現在の只都府北部︒

劫     お ど す

︑ 奪 う の 意

踵行 後を追ってゆくこと︒﹁踵﹂は︑後をつける︑追う︑の意︒

里許 典拠の原文では﹁二︑一二町﹂︑﹁十余町﹂とある︒数百メートル

の意

欲薔 ﹁普﹂は︑動く︑行動を起こす意︒つまりここでは持ち物を奪

おうとする行為をさす︒

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

改訂

畏難

抽匁

逼従

自首

作劫 おそれはばかること︒畏博︒刀を抜くこと︒﹁逼﹂は迫る︑近づく︑おどす︑威迫するなどの意︒﹁従﹂も近づく︑の意である︒自ら名乗る︑身の上を明かすこと︒

﹁劫﹂は︑ここでは追い剥ぎをすること︒

︹典

拠︺

﹃宇

治拾

遺物

語﹄

巻第

一一

第十

話︵

第二

十八

話︶

︵永田 英理︶

︹雅

量5

藤章方①︒意有レ怒二藤行成一︒共在二省中一︒初都無レ言︒忽起︒手批

落=

行成

帳l

︒榔

二之

庭上

一︒

行成

言−

貌夷

−然

︒徐

召二

侍史

一︒

令レ

取レ

帳︒

整戴

レ之

︒乃

欽レ

容封

二賓

方一

日︒

未レ

知二

罪由

一︒

忽見

二挫

辱一

︒請

審二

其謎

一︒

而後應レ排爾︒書方作逃②

︹書

き下

し文

こころ

藤賓方︑意に藤行成を怒ること有り︒共に省中に在るとき︑初めよ

り都て言無し︒忽ち起ちて︑手批ちて行成の帳を落とし︑之れを庭上

に榔ぐ︒行成の言貌夷然たり︒徐ろに侍史を召して︑帳を取らしめて︑

整へて之れを戴き︑乃ち容を飲めて章方に謝して日はく︑﹁未だ罪由

を知らず︒忽ち挫辱せらる︒請ふ其の謡を審らかにして︑而して後に

應に排ずべきのみ﹂と︒宴方作ぢ逃る︒

(8)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵掘

・石

本・

丁・

政岡

︹訳

文︺

藤原実方は︑心の中で藤原行成に腹を立てることがあった︒実方は行

成と一緒に役所内にいて︑最初から三口も言葉を交わすことがなかっ

た︒いきなり立ち上がって︑手で行成の巾帳を打ち落とし︑これを庭

に投げ捨てた︒行成の顔つきは平然としたままで︑.ゆったりと下役を

召し出して︑巾帳を取らせると︑形を整えて頭につけた︒かくして︑

居ずまいを正すと︑実方に向かって言った︑﹁まだ私にはお答めの理

由がわかりません︒突然︑辱められましたので︑どうかおしかりの

筋をあきらかにしていただきたい︒その後で私の立場を弁明いたしま

しょう﹂と︒実方は恥じ入り︑逃げ去った︒

︹原

注︺

①左大臣師ヂ之孫︒侍従定時之子︒中将陸奥守︒

②時

上遁

窺t

三人

状一

︒乃

重二

行成

性度

一︒

擢二

侍中

一︒

疏二

−斥

書方

一︒

命使

二束

奥一

︹書

き下

し文

①左大臣師芦の孫︑侍従定時の子なり︒中将陸奥守なり︒

②時に上達たま二人の状を窺ふ︒乃ち行成の性度を重んじ︑侍中

ぬきんに擢づ︒書方を疏斥し︑命じて東奥に億ひせしむ︒

︹訳

文︺

①左大臣師芦の孫︑侍従定時の子である︒中将陸奥守であった︒

②この時︑帝︵一条天皇︶はちょうど二人の様子をご覧になってい

た︒かくして︑行成の性格と度量を重んじ︑侍中に抜擢した︒一方︑

実方を疎んじしりぞけて︑奥州に下向するよう命じた︒

︹ 語

釈 ︺

藤賓方 藤原実方︒?〜九九人︒平安中期の宮人︑歌人︒中古歌仙

一二十六人の一人︒長徳元年︵九九五︶陸奥守に任ぜられ︑下向︒

そのまま陸奥で卒す︒風流な貴公子として知られる︒

師ヂ 藤原師芦︒九二〇〜九六九︒平安中期の公卿︒藤原実方の祖父︒

定時 藤原定時︒藤原美方の父︒

陸奥 旧国名で︑現在の青森・岩手二呂城・福島と秋田県の一部︒

藤行成 藤原行成︒九七一一〜一〇七二︒平安中期の宮人︑書家︒正二

位に至る︒蔵人頭時代の彼の勤務ぶりは精励を極め︑剛直か

っ冷静に事にあたり一条天皇の信任も篤く道長にも重んぜられ

た︒

憤  髪の毛を包む布製のずきん︒巾帳︒

言貌

夷然飲

挫辱作

性度

疏斥

便乗奥 言葉つきと顔つき︒﹁言﹂は言葉︑﹁貌﹂は容貌︑すがたの意︒落ち着いていて動じないさま︒平然とした様子︒﹁敷﹂ に通じ︑おさめること︒くじきはずかしめること︒﹁挫﹂も︑はずかしめる意︒恥じる︑ざくっとする︒生まれつきの性質︑心の広さ︒﹁性質度量﹂の略︒﹁疎斥﹂に通じ︑疎んじて斥けること︒のけものにすること︒

実方を奥州に左遷させること︒

(9)

︹典

拠︺

﹃古事談﹄巻二−三十一二話﹁行成殿上ニテロ論ノ事ナラビニ栄達ノ事﹂

︵第

百三

十二

話︶

﹃ 十 訓 抄

﹄ 巻 八

− 一 話

︒                        

︵ 石 本   披 留 子

︹雅

量6

藤公伊周︒赦還レ自t一太宰府一︒畢儀同三司−︒普三御堂相公上二御嶽㍉

時有

二流

言一

︒儀

同懐

下讐

t一

朝公

一之

志上

︒相

公往

−反

︒頗

有二

戒心

−︒

紅蓮

儀同

聞二

流言

一心

恵レ

之︒

強顔

来候

二途

中起

居一

︒相

公悟

二其

色一

︒使

命二

右㍉取二空陸局一︒手自梯∴拭︒相迎日︒輿レ卿不レ封久臭︒聯可レ破二寂

蓼一

︒儀

同意

−色

始安

︒逐

共相

野︒

賭−

物競

レ奇

︒歓

−笑

至レ

旦︒

洗−

然不

親二

介意

一︒

︹書

き下

し文

藤公伊周︑赦して太宰府自り還り︑儀同三司と為る︒御堂相公 御嶽

に上るに雷りて︑時に流言有り︑﹁儀同 相公に讐するの志を懐く﹂

と︒相公 往反するに︑頗る戒心有り︒鑑に還る︒儀同 流言を聞

きて心に之れを恵づ︒張顔にして来たりて途中の起居を候す︒相公其

の色を悟り︑便ち左右に命じて︑空陸の局を取り︑手自ら梯拭す︒相

迎へて日はく︑﹁卿と射せざること久し︒柳か寂蓼を破るべし﹂と︒

儀同の意色 始めて安し︒遂に共に相野して︑賭物 奇を競ひ︑歓

笑 且に至る︒洗然として介意を親ず︒

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

政阿

︹ 訳

文 ︺

藤原伊周は︑赦免されて太宰府より帰京し︑儀同三司となった︒御堂

相公 ︵藤原道長︶ が御嶽に参詣するときに︑﹁儀同 ︵伊周︶ は相公に

復讐しようとしている﹂との流言があった︒相公は往復の道で非常に

警戒していた︒相公がほどなく帰京すると︑儀同はその流言のことを

聞いて内心葱じていたが︑あつかましくも訪問して道中の出来事など

をうかがった︒相公はその様子を察して︑側に仕えるものに命じて︑

双六の盤を持ってこさせ︑御自身で拭いた︒迎え入れて言うことには︑

﹁あなたと随分対局していませんね︒いささかこれまでの寂しさを払

いのけましょう﹂と︒儀同はやっと気持ちも顔色も落ち着いた︒こう

して一緒に盤に向かい合って︑賭物は珍しさを競い︑夜明けまで歓笑

し︑相公は儀同を意に介する様子も見せなかった︒

︹ 語

釈 ︺

藤公伊周 藤原伊周︒九七四〜一〇一〇︒平安時代の公卿︒帥内大

臣・儀同一二司と称す︒長徳二年︵九九六︶︑花山法皇狙撃・東

三条院呪誼等の罪状により太宰権帥に左遷︑翌三年大赦により

帰京が許され︑長保三年︵一〇〇一︶ には復位したが︑政治的

にはもはや無力であった︒︹徳行8︺ ︹語釈︺ ﹁伊周﹂参照︒

儀同三司 准大臣の異称︒﹁儀同一二司﹂ の名辞は後漠に始まる︒陪∵

唐では従一位の散官をいい︑職事はなくとも俸禄が支給されて

朝参を許された︒わが国では︑藤原伊周が寛弘五年︵一〇〇八︶

に大臣に准じてより﹁儀同三司﹂を号したことに始まる︒

(10)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

政岡

御堂相公 藤原道長︒︹雅量1︺ ︹語釈︺ ﹁藤道長﹂参照︒

御嶽流言

往反

戒心

強顔

饗陸

洗然

介意︹

典拠

大和国金峯山︒﹃御堂関自記﹄によれば︑御嶽詣は寛弘四年︵一

〇〇七︶八月のこと︒このとき彰子の懐妊祈願も行ったらしい︒

根も葉もない噂︒輩語︒

往辺︒行き来すること︒また︑往復の里程︒

警戒

する

心︒

恥を知らない︑面の皮が厚いこと︒厚顔︒

双六の類︒博戯の一種︒

盤︒

奔槙

の器

日の出るころ︒

洗い清め︑さっぱりしたさま︒

気にすること︒

﹃大

鏡﹄

 ﹁

内大

臣道

隆﹂

︵政岡 依子︶

︹雅

量7

源義

家︒

微服

夜至

二人

家一

︒安

宗任

一人

鵠二

僕従

一①

︒留

在二

中門

︼︒

其夜

雨甚

闇︒

有二

劫盗

数十

人l

︒持

レ炬

窺レ

門︒

犬吠

自二

中門

一出

︒宗

任試

以二

暮日

中箭

一射

レ犬

︒犬

吠且

走︒

復射

再中

︒義

家於

レ内

聞レ

誰︒

應日

︒宗

任︒

義家日︒注−矢之疾︒何乃軽躁︒盗聞レ之︒相驚日︒咄−晒︒八幡公在︒

乃逃

②︒

一〇

︹書 き下 し文

源養家︑微服して夜 人家に至る︒安宗任一人 僕従為り︒留まり

て中門に在り︒其の夜 雨甚だ閣し︒劫盗数十人有り︒炬を持して

門を窺ふ︒犬吠えて中門自り出づ︒宗任試みに︑暮目の小箭を以て犬

あたを射る︒犬吠えて且つ走る︒復た射るに再び中る︒義家 内より﹁誰

ぞ﹂と問ふ︒應じて日はく︑﹁宗任﹂と︒義家日はく︑﹁注矢の疾き︑

何ぞ乃ち軽躁なる﹂と︒盗 之れを聞きて︑相驚して日はく︑﹁咄晒︑

八幡公在り﹂と︒乃ち逃る︒

︹ 訳

文 ︺

源義家は︑ある夜︑身をやつしてある人を訪ねた︒安倍宗任がただ一

人︑お伴として従った︒宗任は中門に留まっていた︒その夜は︑雨が

降ってひどい闇夜であった︒そこに数十人の強盗が現れ︑稔明をもっ

て︑門の辺りを窺っていると︑犬が吠えながら中門から出てきた︒宗

任は試しに暮目の矢をつかえて︑その犬を射た︒すると︑矢の当たっ

た犬は吠えながら逃げて行く︒それをまた射ると︑犬に再び命中した︒

義家は家の中から︑﹁誰だ﹂と尋ねた︒宗任は︑﹁宗任でございます﹂

と応じた︒義家は︑﹁おまえの矢つぎの速いことは︑気ぜわしいほど

だ﹂と言った︒強盗たちはこれを聞いて互いに驚き合い︑﹁チッ︑八

幡公がいたのか﹂と言って逃げ去った︒

︹ 原

注 ︺

①奥平︒賊魁安貞任死︒其弟宗任降︒義家愛二其技力絶人︷︒乞以

眉海兵一︒甚相親眠︒宗任亦畏服二其勇武一︒事レ之無式︒

(11)

︵ 堀 ︶

②義家常行︒一従者持レ刀耳︒一日詣二掘川公府一計レ秦︒忽見二一

男子︒抽レ刃突入︒走過二南庭一︒乃揚レ聾日︒止︒義家在レ斯︒不レ

聴而過︒義家急呼二従者一停︒従者便迫大呼日︒八幡公在︒実不レ止︒

於レ是投レ刃就レ縛︒俄而兵至者四五十人︒逐拘而去︒其兵應レ卒︒

未三

嘗見

l一

某所

下在

︒人

始知

二其

常備

下攣

︒奮

ヂ其

武威

一︒

︹書

き下

し文

∴1

①奥平ぐるに︑賊魁 安貞任死して︑其の弟 宗任降る︒義家 其

の技力の絶人なるを愛し︑乞ひて以て従兵と為す︒甚だ相親梶たり︒

つか宗任も亦た其の勇武に畏服し︑之れに事ふること無式なり︒

︵ 堀 ︶

② 義 家   常 に 行 く に

︑ 一 の 従 者   刀 を 持 つ の み

︒ 一 日   掘 川 公 の 府

に詣りて秦に射す︒忽ち一の男子を見る︒刃を抽きて突入し︑走

ここりて南庭を過ぐ︒乃ち聾を揚げて日はく︑﹁止まれ︒義家 斯に在

り﹂と︒聴かずして過ぐ︒義家急ぎて従者を呼びて停めしむ︒従者

便ち迫ひて大いに呼ばはりて日はく︑﹁八幡公在り︒葵ぞ止まらざ

ここるや﹂と︒是に於いて刃を投げて縛に就けり︒俄にして兵の至る者

四五十人逐に拘へて去る︒其の兵は卒に應ず︒未だ嘗て其の在る所

を見ず︒人始めて其の常に愛に備ふるを知りて︑盆ます其の武威を

畏る

︹訳

文︺

①奥州が平定された時︑賊の頭領である安倍貞任は死に︑その弟で

ある宗任は降伏した︒義家は︑宗任の人並み外れた技量を気に入り︑

自分の兵として仕えるよう求めた︒二人は非常に親密になった︒宗

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵掘

・石

本・

丁・

政岡

l︶

任もまた︑義家の武勇に敬服し︑専心して仕えた︒

②義家が外出する時には︑いつも一人の従者が刀を持って従うのみ

であった︒ある日︑堀川公の屋敷に出かけて碁の対局をしていた︒

ふと見れば︑突然︑一人の男が刀を抜いて突入し︑走って南の庭を

通って行く︒そこで︑﹁止まれ︒義家がここにいるぞ﹂と声を上げ

て言った︒ところが︑男は開かずに庭を過ぎて行く︒そこで義家は

急いで従者を呼び︑それを停めようとした︒従者はすぐに追いかけ

て行き︑大きな声で勇を呼んで︑﹁八幡公がおわしますのに︑どう

して止まらないのか﹂と言った︒男はようやく刀を投げ出し︑とら

えられたのである︒やがて四︑五十人もの兵たちが駆けつけ︑男を

拘束して連れて行った︒その兵たちは急場に対応する者で︑その居

場所を見せることはなかった︒そこで人々ははじめて︑常に変事に

備えていることを知り︑ますます義家の武威に畏れ入った︒

︹ 語

釈 ︺

源義家一〇三九〜一一〇六︒父は源頼義︑母は平直方女︒前九年の

役で活躍し︑従五位下出羽守となる︒後に陸奥守︑鎮守府将軍

などを歴任し︑正四位下に叙せられた︒承徳三年︵一〇九八︶

に院昇殿を許される︒石清水八幡宮で元服したたため︑﹁八幡

太郎﹂と称された︒

微服 人目につかないようにわざと粗末な服装をすること︒しのび

姿︒

安宗任 安倍宗任︒陸奥辺境における在地の武将で︑生没年未詳︒鳥

一一

(12)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵掘

・石

本・

丁・

政岡

海三郎と称す︒父は︑奥六郡の停囚長頬時︒宗任の娘は︑藤原

基衡の妻となる︒天喜五年︵一〇五七︶に父が戦死した後︑兄

貞任とともに果敢な抵抗を続け︑源頼義の征討軍を破るが︑康

平五年︵一〇六二︶九月︑厨川柵の決戦に敗れ︑源義家らに投

降した︒その一一年後︑伊予に流され︑治暦三年︵一〇六七︶に

太宰府に移された︒

賊魁 盗賊の頭のこと︒安倍氏は辺境の地の武将であったため︑この

ような呼称を用いたのであろう︒

安貞任 安倍貞任︒康平五年︵一〇六二︶ 没︒卒年は一二十四とも

四十四とも︒宗任とともに源頼義軍に抗戦するが︑厨川柵で捕

らえられて死んだ︒

親梶 親しみなじむこと︒

無式 二心がないこと︒

暮日中箭 ﹁暮日﹂は︑木で造った矢じりで︑音を立てて飛ぶ︒﹁小箭﹂

は︑小さな矢のこと︒朴または桐の木で作り︑中を中空にして

穴をいくつか空けたものを矢じりにつけた小さな矢をいう︒

軽躁 軽はずみ︒落ち着きがなく︑そわそわしていること︒

咄晒 舌打ちをする音︒

八幡公 源義家のこと︒︹語釈︺﹁源義家﹂の項参照︒

掘 川 公   原 注

② の エ ピ ソ ー ド は

﹃ 古 事 談

﹄   巻 四

− 十 八

︵ 第

三百二十一語︶を典拠としている︒同語によれば︑これは源

義家が陸奥前司の頃に起きた事件であるため︵義家が陸奥守と 一二

なったのは永保三年︶︑この﹁掘川公﹂は︑堀河左府俊房︵左

大臣は永保三年正月〜保安二年正月︶ であると考えられる︒

就縛 とらえられる︑逮捕されること︒

應卒 急場に対処すること︒応急︒﹁卒﹂は俄かの意︒

︹ 典

拠 ︺

﹃古今著聞集﹄巻九﹁武勇﹂﹁源義家︑安倍宗任を近侍せしむる事﹂︵第

三三

人話

︶︒

︵永田 英理︶

︹雅

量8

三條藤内府①︒隣家一少牌②︒有レ怒二内府家人一︒手投二巨石一︒逆中二

格子一︒礪聾響レ座︒府公道封レ客︒客有二驚色一︒公問二左右何事一︒左

右言︒隣公盆レ事如レ是︒公微−笑語レ客︒請少内之︒得レ無レ近レ殆邪︒

既而

復投

︒公

日︒

果爾

︒輿

レ客

閑−

談︒

神−

色如

レ常

︹書

き下

し文

三條藤内府の︑隣家の一少将︑内府の家人を怒ること有り︒手づから

巨石を投ず︒遣りて格子に中る︒磁聾 座を響す︒府公達たま客に封

す︒客 驚色有り︒公 左右に﹁何事ぞ﹂と間ふ︒左右言ふ︑﹁隣公 事

を怠ること是くの如し﹂と︒公 微笑して客に語る︑﹁請ふ少く内れ

あヤふ

よ︒殆きに近づくこと無きことを得んや﹂と︒既にして復た投ず︒

しか公日はく︑﹁果たして爾り﹂と︒客と閑談す︒神色 常の如し︒

︹ 訳

文 ︺

三條藤内府︵藤原公教︶のお邸の隣に住んでいた少将︵藤原公垂︶が︑

(13)

内府の家来を怒ったことがあった︒少将は自分で大きな石を投げつ

け︑勢いよく格子に当たった︒ものすごく大きな音が一座に響き渡っ

た︒内府はちょうど客人に面会していたところであった︒客人が驚い

た顔つきをしていたので︑内府は側に仕える者に﹁何事だ﹂と聞くと︑

左右の者が答えて言うことには︑﹁隣の少将殿が︑激怒なさってこの

ように石を投げたのでございます﹂と︒内府は微笑して客人に語るこ

とには︑﹁どうぞ暫く奥へお入りください︒危険には近づかないに越

したことはありません﹂と︒やがてまた石を投げてきた︒内府が言う

ことには︑﹁思っていたとおりだ﹂と︒客人とゆったりと話して︑表

情はいつもと変わらなかった︒

︹原

注︺

①公敦︒中納言公賓之孫︒三條相図書行之子︒官内大臣︒

②右少将藤公重︒黄門通季之子︒

︹書

き下

し文

①公敦なり︒中納言公賓の孫︑三條相国宴行の子なり︒官は内大臣

なり︒②右少将藤公重なり︒黄門通李の子なり︒

︹訳

文︺

①公教である︒中納言公実の孫で︑三傑相国実行の子である︒官は

内大

臣で

ある

②右少将藤原公重である︒黄門︵中納言︶ の通李の子である︒

︹ 語 釈 ︺

公教公害

賓行

公重

通季逆

礪聾殆

神色︹

典拠

藤原公教︒一一〇三〜一一六〇︒平安後期の宮人︑歌人︒

通称三条内大臣・三条内府など︒実行の一男︒長承二年

︵一一三三︶︑三十一歳で参議に任官︒以後︑権中納言︑中納言︑

権大納言と昇進を重ね︑保元二年︵一一五七︶ には内大臣に就

任︒﹃今鏡﹄ 六に︑﹁才をおはし︑笛も能く吹き給ひき﹂と︑そ

の風流才子ぶりが描かれている︒また︑日記 ﹃公教公記﹄ ︵﹃教

業記﹄ ﹃三条内府記﹄ などとも︶ が伝わる︒

藤原公実︒一〇五三〜二〇七︒平安時代の公卿︑歌人︒公教

の祖

父︒

藤原実行︒一〇八〇〜六二︒平安後期の公卿︒公教の父︒

藤原公重︒二一八〜二七八︒梢少将︑紀伊少将とも︒通李

の二男︒父の早世で叔父の左大臣藤原実能の養子となった︒紀

伊守・侍従・右少将等を歴任し極位は正四位下︒

藤原通李︒一〇九〇〜一一二人︒平安時代後期の公卿︒権大納

言藤原公実の三男︑公重の父︒

ほとばしる︒勢いよく流れ飛ぶ意︒

石が落ちる音︒ぽんと石にぶつかる音︒﹁礪﹂は﹁傍﹂に同じ︒

あやうい︒あぶない︒

精神と顔色︒また︑顔色︒

﹃十

訓抄

﹄巻

八−

一一

話︒

︵丁 秋郷

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

政岡

(14)

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵掘

・石

本・

丁・

政間

︹雅

量9

伶人用光西便︒船上蓮見︒海賊舟擬レ我至︒乃整レ衣登二舵模上海レ之︒

漸近︒則徐吹二筆築一敷奏︒意−色粛−候︒曲−音甚苦︒賊皆堕レ涙︒更

輿二

所レ

得贈

物一

而解

去︒

千時

云︒

今世

尚有

二劉

王喬

︼︒

︹書

き下

し文

︺ 伶人用光 西に便ひす︒船上より遥かに見れば︑海賊の舟 我を擬し

て至る︒乃ち衣を整へて舵楼上に登りて之れを待つ︒漸く近く︒則

ち徐ろに筆葉を吹くこと敷奏す︒景色斎候として︑曲音甚だ苦し︒

賊 皆涙を堕とし︑更に得る所の贈物を輿へて解き去る︒時に云ふ︑

﹁今の世に尚は劉王喬有り﹂と︒

︹ 訳

文 ︺

楽人の用光は︑西へ使いに出たおり︑船上から遥かに眺めやると︑海

賊の舟が自分の方へ向かってくるのを見た︒そこで︑衣を整えて︑舵

楼の上に登り︑海賊を待った︒︵海賊が︶しだいに近づくと︑︵用光は︶

ゆったりと草葉を吹いて楽曲を何度も演奏した︒用光の気持ちも面持

ちももの悲しく粛寂として︑楽曲の曲調も音色も︑はなはだ苦しみに

満ちていた︒︵これを聞いて︶海賊はみな涙を堕とし︑さらに盗んだ

賊品を与え︑囲みをといて去っていった︒当時の人が言ったことには︑

﹁今の世にもいにしえの劉王喬がおられる﹂と︒

︹語

釈︺

伶人 雅楽を奏する人︑楽人︒ 一四

用光 和適部用光︒雅楽師であった︒生没未詳︒

擬  むける︑むかうの意︒﹃一切経音義﹄十六に﹁擬︑向也︒﹂とある︒

舵模 船の後部にあるやぐら︒﹃日本外史﹄ 源氏前記︑平氏に﹁夜上

舵模︑看月吹笛︑投海死︒﹂とある︒

意色 意思と顔色︒ここでは気持ちと面持ちの意︒

臓物 不正な手段によって得た財物︒臓品︒

筆築 雅楽の管楽器︒音量は豊かで︑音色は哀調を帯びると言われる︒

解去 囲みを解いて去る︒

劉王喬 劉噂︑字は王喬︒晋時代の人︒﹃晋書﹄ 巻六十九列伝第

三十九に︑かつて兵乱を避けて鳴壁︵土を築いたとりで︶ に隠

れた時︑数百人の胡人に殺害されそうになったが︑劉時は恐れ

ず茄を吹き︑﹁出塞﹂﹁入塞﹂の曲を奏して︑旅人の忠を動かし︑

これを聴いた胡人たちは涙を流して立ち去った︑と記述され

る︒この点が本話の用光との共通点と認められる︒ただし︑典

拠である ﹃今鏡﹄ ﹃十訓抄﹄ には劉王喬は出てこない︒﹃世説新

語﹄賞馨篇第三十八話の注に引く﹃晋紀﹄ にも﹃晋書﹄ に類す

る記

述が

みえ

る︒

︹典

拠︺

﹃今

鏡﹄

﹁む

かし

がた

り﹂

﹁か

しこ

き道

々﹂

﹃十

訓抄

﹄巻

十−

二十

七話

︵石本 波留子︶

(15)

︹雅

量1

0︺

藤範清︒所二撫愛五三四歳︒病甚危篤︒値二僚友遊射一︒含︼忍出レ場︒

相輿

歓笑

︒不

レ形

二憂

1色

一︒

忽有

レ入

来耳

−語

︒告

二女

死㍉

範清

濁目

下所

親⊥善一源衛尉上①︒低壷言︒彼事臨巳臭︒傲都不レ出レ言︒終レ場衆無二

知者㍉衛尉後謂レ人目︒如レ是性度︒不レ可レ及巳︒

︹書

き下

し文

藤範清︑撫愛する所の女三四歳︑病甚だ危篤なり︒僚友の遊へ射るに

値ひ︑含忍して場に出づ︒相輿に歓笑し︑憂色を形さず︒忽ち大有り

来たりて耳語し︑女の死を告ぐ︒範清 濁り親善する所の源衛尉に目

し︑低聾に言ふ二彼の事鑑に巳みぬ﹂と︒飴は蝦て言に出ださず︒

.カ場を終ふるまで衆知る者無し︒衛尉 後に人に謂ひて日はく︑﹁是く

の如き性度︑及ぶべからざるのみ﹂と︒

︹ 訳

文 ︺

藤原範清︵西行︶がかわいがっていた娘は三︑四歳であったが︑病気

が重くて危篤となっていた︒同僚が競肘に誘ったので︑我慢してその

場に出かけた︒一緒に談笑して︑憂いの表情を見せなかった︒すぐに

家人が現れ︑近寄って耳打ちをし︑娘の死を告げた︒範清は︑親しく

していた源次兵衛尉︵西住︶ にだけ目配せをして﹁小声で︑﹁あのこ

とは終ってしまいました﹂といった︒ほかのことは何一つ口にせず︑

競射が終るまで人々は全く気づかなかった︒その後︑源次兵衛尉は人

に語って言った︑﹁これほどの深い心根には︑及びもつけない﹂と︒

﹃大

東世

語﹄

﹁雅

量﹂

篇注

釈稿

︵堀

・石

本・

丁・

政阿

︹原

注︺

①後

慕二

範清

一︒

亦鵠

レ借

︒名

二西

住一

︹書

き下

し文

①後に範清を慕ひて︑亦た借と為り︑西住と名づく︒

︹訳

文︺

①後に範清を慕って同様に僧となり︑名を西住といった︒

︹語

釈︺

藤 範 清   藤 原 範 清

︵ 義 清

・ 憲 清

・ 則 清

︒ 一 二 人

〜 二 九

︒ 平 安

時代の遁世者・歌人︒西行︒家は藤原秀郷の嫡流で︑代々検非

違使・院北面などに補せられた︒保延元年︵二三五︶勝光明

院の成功に募り兵衛尉となる︒後に︑鳥羽院の下︑北面に補せ

られ︑また徳大寺家藤原実能の家人として仕えた︒和歌・流鏑

馬・蹴鞠などに才能を表したが︑保延六年に遁世した︒その後︑

能因法師の足跡を慕い︑歌枕を訪ねて陸奥国・出羽国を訪ね

た︒また︑讃岐国や伊勢国に赴いたりし︑文治二年︵二八六︶

には東大寺大勧進重源の依頼を受け︑藤原秀衡を訪ね︑翌年帰

洛した︒﹃新古今和歌集﹄ には︑九十四首が採られている︒自

撰歌集には ﹃御裳濯河歌合﹄ ﹃富河歌合﹄︑他撰歌集には ﹃山家

集﹄

 ﹃

聞書

集﹄

 ﹃

聞書

残集

﹄ 

があ

る︒

かわいがること︒﹁撫﹂は︑愛すること︒﹁愛﹂に同じ︒

同役

のと

も︒

同僚

﹁営

﹂ 

に同

じ︒

一五

参照

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