杜甫は、一時の榮光を失って零
は した人物や、あるいは今 な詩を制作している。 した名家の後裔と會面する機會を捉えて、下記のよう
①貽阮隱居(阮
② *************以下蜀中時期 の後裔)
蜀 閭丘師兄(原
、太常
士均之孫、
閭丘均が交 人)(杜審言と
③ )
十五司馬(
④ 世南の玄孫)
李卿曄(原
:曄、淮安忠公李
⑤丹 之子、時以罪貶嶺南)
引
⑥寄韓諫議 曹將軍霸(曹操の後裔)
⑦別蘇
(原 :赴湖南
)(杜甫の友人の子) ⑧寄狄明府
濟(狄仁
⑨寄劉峽州伯 の後裔)
⑩觀公孫大娘弟子 使君四十韻(杜審言の友人)
劍
⑪奉 *************以下兩湖時期 行并序 蘇州李二十五長史丈之任(宰相李
⑫別張十三建封(父親の張 之の子?)
⑬奉 は杜甫の友人)
魏六丈佑少府之交廣(魏
⑭江南逢李龜年 の四世の子孫)
これらの詩篇の制作時期から直ちに知られるのは、その
てが、大きく見れば①安史の亂後(七五五年)であり、仔細に見れば②杜甫が
て以後(七五九年)に、初めて現れていることである。亂後、 州司功參軍の官を罷めて放浪の生活に入っ
杜甫の
を詠ずる詩
禮樂
秩序への 想松原
杜甫は肅宗に
擢されて左拾
の官に就き、その後は
功參軍に左 州司
場は、長安・ されても、なお官職にあった。またその生活の
州など杜甫が
ではなかった。しかし官を罷めてからは、杜甫は文字 み慣れた京洛の地を出るもの
無官の境 りに
杜甫の人生の最大の となり、また京洛の地を去って放浪のに上る。
目は、安史の亂ではなく、
軍の罷官にあったと考えるべきであろう。 州司功參 杜甫のものを見る 官され、また未知の天地に投げ出されることによって、
線にある本質
な變 う。今迄の が生じたのであろ 力をもってしては見えなかったもの、つまり
去の榮光を失って
した たちの ここに現れる 甫は初めて捉えるようになったのである。 を、この時になって杜 の 操や阮 は多樣である。三國魏の時代の曹
の後裔もいる。
初の魏
や 則天 世南の後裔もいる。
末期の功臣、狄仁
た宮 の後裔もいる。また玄宗が設置し 樂坊に 屬した李龜年や公孫大娘の名
れらの多樣な人々と出會うごとに、杜甫はその も見える。こ を る詩を作っている。彼等の多樣性を す 杜甫の い杜甫にはあったのか?また同じことの言い換えであるが、 括する原則が、いった
には特定の方向性が備わっていたのか?この問 なお本論に入る 題についての考察が、本稿の重な論題となるであろう。
に、
!の杜甫の二篇の詩の檢討を
本稿が取り上げる「 して、
ておきたい。 を詠ずる詩」の輪郭をまず確定し
一境 界
作品の檢討
天寶十四年
755の十一
"に勃發した安祿山の亂で、同年十二
"には東
#洛陽が
$し、
%年六
"には西京長安も
$、
北の
&
部分は安祿山の支配下に組み
た官僚・王侯に至るまで、ある 'まれる。農民も、ま は (戮に い、ある
は )
民となって南と西に向かって流れ出すことになる。
!に
*げる詩は、杜甫が
上り、秦州もしくは同谷(甘肅天水市)(甘肅 州司功參軍を罷めて放浪のに
+を經縣)
た時期の制作と考えられるものである。 し
佳人杜甫
,代有佳人、幽居在空谷。自云良家子、零
依 關中昔喪亂、兄弟 -木。
世 .(戮。官高何足論、不得收骨肉。
/惡衰歇、萬事隨轉燭。夫壻輕
合昏 0兒、新人美如玉。 1知時、鴛鴦不獨宿。但見新人笑、
2聞舊人哭。 中國詩文論叢第二十五集
在山泉水
、出山泉水濁。侍婢賣珠回、牽蘿補
摘 屋。
不插髮、采柏動盈掬。天
袖 、日 倚修竹。
この詩にかれるのは、安史の亂によって蹂躙されたある良家の悲慘な末路であり、しかしそれすらも至る
ている に轉がっ
常の事態に
喪亂、兄弟 ぎなかった。「空谷」と言い、「關中昔 戮」と言い、この
體 な 亂を 況は、關中の混 けて隴山~秦州~同谷あたりの山岳の谷
に げ 弟も た良家の女性をいたものである。戰亂の中で高官だった兄 び は、上記の 新來の妾を寵愛して、この女性を疎んじている。この詩 の男性に身を寄せるしかなかった。しかしその男性は、今は 戮され、後ろ盾を失った女性は、やむなく土地の豪族
體 な
況設定が、亂後の
會 した、事實の記 中原疎開の經路と重なることから、單なる題詠とは一線を畫 況や、杜甫の を
體とするものと
斷して
この「 ろう。 (1) りはないだ した良家の女性の
」を
體 に記 は、幾分かは場面の典型 した詩
を加えて「古典
」な表
同系統の、時事を取り上げた てはいるが、實質は、「哀王孫」や「兵車行」「三吏三別」と (2) を裝っ 會批
詩に分されるべきも じようとする「 のである。ところでこのような詩は、本稿でこれから論
!を詠ずる詩」と
この詩は、どれほどの "別されるものである。
!への共感や同
も、 があったとして
!を外から眺める「傍
#!の
$點」を
る。 %るものであ
#察される對象はそれと特定されない無記名の(女性)
!であり、
#察の 體も、杜甫自身であることが
ける「 「佳人」詩は、「兵車行」「哀王孫」において、兵士に語りか れるが、嚴密には無記名のままである。この點で言えばこの &く推定さ '傍 !」や、王孫と「交衢に臨んで長語」する
登場させ、それが杜甫自身であることが !を てが無記名の世界の ても、畢竟、兵士も王孫も、また杜甫とおぼしき人も、すべ &く暗示されてはい このような無記名の登場 (人であるのと同斷なのである。
!によって
が取り上げる「 )*される詩は、本稿
!を詠ずる詩」には數えていない。「
!を詠ずる詩」とは、雙方が記名の世界の
「傍 (人であり、
#!の び合う關係、つまり同じ世界を共有する $點」で外から眺めるのではなく、互いに名を呼
つまり「 受け渡される詩なのである。 !同士の關係の中で
!を詠ずる詩」は、對象
ら された世界を外か
#察してく「
會批 詩」とは
+なり、自己の屬する世
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
界を 省して
く詩である。名家の後裔の
を これらの詩は、 題とする の な原因が安祿山の亂などの
動であることによって、 會變 會批の關心を
ある。しかしその場合であっても、その安祿山の亂の慘 提とするもので
外からの は、
線で捉えるのではなく、作
甫)に 自身(記名された杜
こった體驗(
との邂逅)として
になるだろう。この點で、理念としての思想が べられること 出する「
會批詩」とは
なり、「
體 を詠ずる詩」では杜甫の身 され熟
された思想が吐露されることになる。
に確
しておきたいのは、「
古詩」との分岐である。かつて榮光に を詠ずる詩」と「懷 まれていた名家が、
會の變動の中で
する。その樣は、
榮した王
の滅
にも似た軌跡を辿るものである。そして滅
した王
るいはその中で最期を を、あ 詩であるならば、杜甫の作る「 げた人物を痛んで作られるのが懷古
この問題を考えるために、 の懷古詩となるのではないか。 を詠ずる詩」は、一種 の二つの詩を比較したい。
江南逢李龜年杜甫 岐王宅裏
常見岐王の宅裏
崔九堂 常に見
幾度聞崔九の堂
正是江南好風景正に是れ江南の好風景 幾度か聞けり 時
又逢君
の時
又た君に逢ふ
この詩は大
宅は、洛陽にあった。岐王の (玄宗の弟李範)會ったという岐王と崔九(殿中監崔滌)の第 龜年に邂逅して作られたものである。杜甫がかつて李龜年に 五年の春、江南(長沙)で、梨園の名歌手李
年は開元十四年
杜甫は十五 726、このとき 李龜年の歌を聞いたのは、それ以 であり、杜甫が二人の王侯の第宅に出入りして
重んずる當時の風 の幼少時となる。早を なかった。それから四十五年が が彼等の第宅に出入りしていたとしても、不自然なことでは !の中では、幼くして文才を發揮した杜甫
"ぎて、杜甫はすでに五十九 、李龜年は、齡六十を越えた老人でなければならない。
に比較のために讀む元
#(一 宮にひっそりと餘生を $に王建)の詩は、古い行 時代を思い出すという趣向の懷古の詩である。 %る宮女に出會って、その上の玄宗の
行宮元
#
中國詩文論叢第二十五集
寥 古行宮寥 (3)
宮 たり古の行宮
寂寞紅宮
白頭宮女在白頭宮女在り 寂寞として紅なり 坐 玄宗
坐して玄宗を
く
作
は、あたかも別の世界の
人と出會ったような
もって、この詩を作る。作 きを 意識する必もない、現在から斷 にすれば玄宗の時代は、普段は 今、作 した世界である。しかし の の世界が、 にたまたま現れた白頭の宮女によって、その別 い つまりこの詩のすぐれた出來榮えは、現在と 去の物語のように記憶の中に蘇るのである。
去の互いに
てられた世界が、一人の老宮女の登場によって「
ト」し、時 然ショー の
壁を破って
去が現在に流れ
か二十字の中に鮮やかに む樣を、僅
「現在」と「 いたことにある。ここでは 去」とは、なるべく
質で なければならない。宮女は、その時 てられたもので の ように、自ら老殘の ての大きさを證す が玄宗を「 をもって現れるのである。そして宮女 無 坐」して話すのは、その時代が、現在とまるで
な世界として
離り、今さら熱く
ていからである。こうして (4) 息する必もなくなっ
去と現在が
されているよう に、老宮女と作
との關係も
されている。昔を語る
それを聞く と
と、役
は一方
に固定されて、相互
な感
の交流は初めから想定されていないのである。この詩との比較において、杜甫の「江南逢李龜年」で確
すべき事は、三つ。第一に、杜甫にすれば李龜年は、すでに數十年の
識であること。第二に、そのときは玄宗の開元
時であり、李龜年の榮光も、杜甫の未來に挂ける希
の光輝に滿ちた雰圍氣の中にその も、そ (5)
二人とも安史の亂という共 を得ていたこと。第三に、
の 況の中で「その
零 」を失い、 したこと。つまり兩
は、一の體驗を共有し、同じ感
!を共有する「仲
」なのである。杜甫はそのような
下に、この詩を作って李龜年に 識の
"っている。「詩を
いう行爲は、互いに相手の名を呼び合う關係において "る」と つ。詩を作り、詩を #り立
"られるその兩
(價値 において、一つの場
$の共有が)
杜甫自身の「佳人」( 提とされているのである。
%會批
&詩)と元
とを參照することによって、杜甫の「 '「後宮」(懷古詩)
( 特 を詠ずる詩」の )も明らかになる。それは單に
( 意味ではない。その特 に取材する詩という ろ。第一に、杜甫もその相手も、記名された特定の個人とし )は、さしあたり二點に整理できるだ
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
て登場し、等しく同じ世界を共有する關係にあること。第二に、杜甫は、相手の物語る
の經
能という について共感可 て支えられているかが、本稿で考察すべき重 勢を持していること。その共感可能性は何によっ
問題である。
二 他の詩人の場合
安史の亂の渦中で、多くの名家が先
から承け繼いだ
(地位と財)を失って
した。杜甫の創作の高
の亂後にあり、從って杜甫の詩に 期は安史 ど ら杜甫とともに安史の亂を體驗した同時代の詩人たちは、殆 られるのは、自然なことに思えるのである。しかしなが を詠じた詩が多く見
を詠ずる詩を作らなかった。このことは、
詠ずる詩が、「安史の亂・ を の發生」という
會 詩という甫杜 またそれが、に時同。している味意ではないことを映反な純 況の單 個性の物であることを暗示するものである。 杜甫と共に安史の亂を體驗した詩人たちは、王維 (6)や錢
ような必ずしも の 會 關心の旺
含めて、安史の亂による ではない詩人たちの場合も 會混亂に無關心でいられた
なかった。思い付くままに、 はい の三
に從って作例を
げよ う。
①國家の解體(
・李白「 の破壞)
函谷如玉關、幾時可生 中五首其四」 (7)
俗變羌胡語、人多沙塞顏。申 。洛陽爲易水、嵩岳是燕山。
・韋應物「登高 惟慟哭、七日鬢毛斑。
洛
… 作」
宅夾
洛、丹霞捧
暾。
蘢瑤臺、窈
!雙闕門。十載
"屯
#、兵戈
・錢 $雲屯。膏腴滿榛蕪、比屋空毀垣…
「
…百戰 %修武(河南焦作市)元少府」
&
復井田、幾家春樹帶人
'。黎
(久厭蓬飄
西南惠 )、遲爾
*傳。
②民衆の
)#(官僚の
癸卯 ・元結「舂陵行并序」 (8) )衷)
+(廣 ,元年 763)、漫叟授
州刺史、
州舊四萬餘
-、經 .已來、不滿四千、大
/不 0賦 1、到官未五十日、承
2使 3
求符牒二百餘封、皆曰:失其限
罪至貶 4。於戲、
命、則州縣破亂、刺史欲焉 $悉應其 5罪、
$不應命、又
67罪
不 8、必
9也地、故是舂陵州此。已待罪而安人、靜以官、吾將守。 中國詩文論叢第二十五集
故作舂陵行以
下
・劉長卿「 。
嚴侍御充東畿觀察
洛陽征戰後、君去問凋殘。…故園經亂久、古木 官」
林看。
元結の作品は、民衆の
衆から の記であると同時に、その民 せざるを得ない官僚の
衷を べる。
や に晒される民衆の 發 は、良心
官僚の なお ある。 衷と表裏の關係に 條の
民問題は、民衆の
の一部であるが、
の 床となる現象なので別に項目を立てた。
③
・劉長卿「 民問題 李二十四移家之江州」
塵 滿目、
路易霑衣。逋
客
・劉長卿「奉 多南渡、征鴻自北飛。
…兵鋒搖 從兄罷官之淮南」
、王命
天涯。鐘漏移長樂、衣
冠
接
永
嘉
。…
劉長卿が當時(至
二載 757)、
江で財務官僚(
務めて戰時經濟の立て直しに 鹽令)を
走した時、江南に
くの れ來る多
民を目 している。ここで特に (9)
目したいのは、「衣 冠接永嘉」(奉
五胡十六國の亂で滅 である。永嘉とは、西晉が從兄罷官之淮南)
大して江南に した年號、そのとき洛陽の貴族たちは れた。つまり安史の亂で
民 民ばかりではなく、少なからぬ !したのは農
"
じっていたことが明瞭に記されている ( #の貴顯たちもその中に混
。 $)
%に このように安史の亂による 歌手李龜年も、その中の一人だった。 べた梨園の名
&會の 以外の多くの詩人にも '廢を記した詩は、杜甫 維・高 (めることができる。しかし李白・王 )・岑參・元結、またやや遲れる錢
*・李嘉 物・劉長卿の詩集を +・韋應 ,覽したところで、一篇の「
(劉長卿冠接永嘉」「奉 ずる詩」も見付けることは不可能なのである。なるほど「衣 を詠 從兄罷官之淮南」)は、
て江南に 民と混ざっ
れる貴顯の
て現象を傍 -を捉えたものである。しかしこれと .の立場から記すに止まって、記名された
/體
個人としての
に關心を向けるものではないことは確
(しておきたい。
三 岑參との比較
安史の亂を體驗した詩人たちの作品の實態をこのように確
(するとき、杜甫の個性が改めて明らかになる。杜甫の
0り
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
に いう素朴 が多くいたから、杜甫が彼等を詠ずる詩を作ったと
義の解釋は
り立たない。誰の
りにも
うとしなかったのである。杜甫にのみ備わった いたにも拘わらず、杜甫以外の詩人は彼等を正面から捉えよ が
る執 に對す
にも似た關心のさが、杜甫をして、
なぜ杜甫は、貴人の零 詩を作らせたと理解するしかない。 を詠ずる を痛み、名家の後裔の
第一に、杜甫は、科 まず杜甫の二つの背景を承知しなければならない。 んで、詩を作ることになったのか。その理由を探るためにも、 を悲し に 第もできず、官僚としての榮
も叶わなかったのに、
來の、また においては、自己を西晉の杜預以 くは則天
の宮 出身と 詩人杜審言を輩出した名家の である 識していた。つまり杜甫にすれば、共に名家の出自
に對して親
感を覺える
格 第二に、杜甫は安史の亂以 があった。
、流 ・零 の境 安史の亂は、名家の にあった。
を惹き
としての足場を こした。彼等は長安に官僚 き、本據地を(別業)
北に持つ
たが、 が多かっ
北の 域が安史の叛亂軍の淪
その地を となったために、
れて江南に流
することになる。その江南流
いう點を取り上げれば、杜甫も と
・江陵、さらには湖南へ と流
した點で、同樣であった。つまり杜甫には、
名家の出身 は
として、また客
には安史の亂にう流
零 ・
として、彼等と境
を共にする
であり、彼等の
に同
!し共感する
格が備わっていたのである。
しかし杜甫以外にも、同樣の
岑參は、正眞正銘の名家の出身である。曾 の比較に求めることにしよう。 もいた。この問題を考えるための一つの手掛かりを、岑參と 格が備わる詩人はいくらで
宗の宰相となり、伯 "の岑文本が太
"(父の伯父)
の岑長倩は則天、伯父の岑羲は中宗と睿宗の宰相となった。しかし岑長倩は、武承嗣の立太子に反對し、武氏の怒りを買って
太 #される。また岑羲は、
$公 の叛亂に
%擔して玄宗に誅せられ、家
&を たのは、岑參の生まれる二年 收され した岑家も、ここに至って 'のことである。累代宰相を出
(三十 する。岑參自身は、天寶三載 ()に )士に 第したが、官位は
仙 )まず、天寶八載に高
*の +僚として西域に從軍している。從軍は、下
出世の絲口を ,士族が -むための當時の方便だった(高
史の亂後は、 .も同樣)。安
/州長史・關西
0度
1官・祀部員外
外 2・考功員
2などを經て、永泰元年
765、五十一
(の時に嘉州刺史(正 中國詩文論叢第二十五集
四品上)となる。岑參はこうして京官に復することも出來ず、不 の思いを懷いて世を去った。岑參は、名家の
た後裔であり、この點で、 し に同
する
ここに杜甫と岑參の二篇の詩があり、どちらも則天 わっていたとして良かろう。 格が十分に備
臣である狄仁(六三〇~七〇〇)の後裔に の名 制作時期は、相い られている。
後する大
も峽中である。もっとも杜甫の詩に見える狄 二・三年、制作地點はいずれ
濟は「縣令 (
岑參詩に見える狄某は「侍御」の官にあり、 」、 )
屬する別人であろう。 らくは一族に
寄狄明府
不見十年官濟濟十年官の濟濟(榮 梁公曾孫我姨弟梁公の曾孫は我が姨弟 濟
大賢之後竟陵遲大賢の後竟に陵遲 )たるを見ざりき
蕩古今同一體
今 才有るも命無し有才無命百寮底百寮の底 比看叔伯四十人比ろ看る叔伯四十人 このごろ 蕩たる古今同じく一體 兄弟一百人今 い
ま
兄弟一百人幾人卓
秉 禮幾人か卓
して
禮を秉る 長兄白眉復天 在汝更用文章爲汝に在りては更に文章を用ひんや
』長兄の白眉なるは復た天
汝門 の聰明さ) なり(天生 從曾
汝が門
ふ曾
(狄仁
)從り
太后當 かん
多巧詆太后
濁河 狄公執政在末年狄公の政を執るは末年に在り に當りて巧詆多く 不汚
濟濁河
に 國嗣初將付 濟を汚さず 武國嗣初めに將に
武に付せんとすると 「き
公獨
諍守丹陛公獨り
禁中決冊 諍して丹陛を守る 陵禁中冊を決して
陵(中宗)を
ひ
長老皆流涕
太宗 の長老皆な流涕す 稷一
正太宗の
稷一
にして正され
宮威儀重昭洗
誰謂荼 時危始識不世才時危して始めて識る不世の才 宮の威儀重ねて昭洗せらる 甘如薺』誰か謂はん荼の にがな
きも甘きこと薺の如 「しと 汝曹又宜列鼎汝が曹 ともがら又た宜しく鼎を列ねてひ身使門
!多旌
"
身は門
!をして旌
胡爲漂泊岷 "を多からしむべし #
しかるに胡爲ぞ岷
の
干 #に漂泊し
$王侯頗
%抵王侯に干
$して頗る
況乃山高水有波況や乃ち山は高く水には波有り かは %抵する(拜訪)
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
秋風蕭蕭露泥泥秋風蕭蕭として露泥泥なるをや虎之 下巉巖虎の
蛟之 ゑて巉巖を下る 出
蛟の
はりて
早歸來早く歸り來たれ を出づ
土汚衣眼易
』
土は衣を汚し眼は
み易し くら
梁國公狄仁
に當たるが、この十年というもの仕官しても の曾孫である君は、私の姨弟(母の姉妹の子)
なかった。狄仁 振りの良いことは の後は、家
が衰えたが、こんなことは悠久の
史の中ではよく有ることだ。
が、才能を持ちながら 頃、君の伯叔たち四十人に出會った りだ。目下、君の兄弟たちは百人いるが、そのうち何人が榮 には惠まれず、百官たちの末席を汚すばか
、で)今さら文學を修める必 家風を堅持していることか?とはいえ君は(文才に秀でているの して、
もあるまい?君の長兄が立
とも、天が賜ったものなのだ。』君の一族は、曾 なこ 父の狄仁
から き さねばならない。武后が政
こっていた。狄仁 を秉っていた時期は、佞臣が蔓 濁った が宰相となったのは、その武后の末年であり、
武氏一族に奪われそうになったが、は、狄仁 河も、結局は澄んだ濟水を汚すことはできなかった。皇統
皇位を守ることができた。禁中で裁可が下って、 がひとり意見して、
陵に蟄居の中宗 が呼び
され、
からの老臣は
を流して喜んだものだ。太宗の 稷はにわかに正され、
の威令は再び明らかになった。
時期にこそ、不世出の人材は頭角を露すものだが、狄仁 の は 薺のように甘いとばかりに、 なずな も ちは榮 勞を物ともせずに挺身した。』君た を手にして、鼎を列ねて豪
には、立 な料理をすべきだ。また門 りを流浪して、王侯に干 な儀仗を立てるべきだ。それなのに、どうして三峽の邊
!して慘めに自分を賣り
は か。ましてや、山は峻しく、江は波立ち、秋風は冷たく吹いて、露 "まねばならぬの
#く結ぶ。虎は饑えて岩山を下り、蛟は我が物顏に
$に この險惡な世相を見極めて、早く故 %を現す。
第一段。狄仁 で衣は汚れ、眼はつぶされてしまうのだ。 &に歸るのだ。さもないと泥土 の後裔の
'(を さらに同世代の兄弟從兄弟たち百人を見渡しても、出世した )べる。伯叔たち四十人、
*はいない。しかし名門の子弟だけに、皆な
第二段。狄仁 いる。 +質に惠まれて の功績を贊美する。則天
で政 武氏による皇統の簒奪が ,が亂れ、
-むとき、狄仁
て中宗の重祚が實現して、 の果敢な働きによっ 第三段。狄家の人々は、名聲にふさわしく の皇統を守ることができた。
會 るべきである。しかし君(狄 .地位を得
/濟)は、三峽一帶の邊境の地 中國詩文論叢第二十五集
で、辭を低くして實力
たちに干
してまわる。そのような 屈なまねは早く罷めるのがよいと、忠
して詩を結ぶ。
詩は、
州に逗留中の杜甫が、縣令の狄
に、その家 濟と會面した際
の衰敗と干
の勞に同
して、この詩を
杜甫が狄 て慰めたものである。 っ 濟と懇意の關係にはなく、
面であったことは、この詩以外に兩 らくはこれが初對 ないことから推測される。つまりこの詩は、 の交際を裏付ける詩が
知の で友
を交わす詩ではなく、
ない。しかしながらこの詩は、儀禮 交の場面で作られた應酬詩に他なら
相應しくない であるべき應酬詩には 杜甫は言う:狄 容を含んでいる。
濟は縣令という
に 官にあるが、君はこれ きたらず、邊境の岷
して我が身の賣り の地で、王侯(地域の高官)に對 み(干
に) の事 走している、と。こ は、杜甫が狄
それをこのように詩に綴られることは、狄 濟の話から聞き知ったことであろうが、
濟の名
を ことにはなるまい。當時、詩は、特定個人と交わされた す 詩であっても、公開を原則としている。つまり狄 答
り 濟の「賣
み」に
走する樣は、不特定の士人たちの耳目に晒され ることになる。なるほどこの詩には曾
の狄仁
の活 が記 されているが、その事によって、狄
濟の目下の不名
な 態が相 されることはない。しかも狄仁
とができなかった後裔たちは、 の名聲を繼ぐこ になり、狄 先に對して不孝であること 濟はその不孝の責任を
ある。何としても詩には、狄仁 れることはしいので
の孫の世代(狄
も、また曾孫の世代(狄 濟の伯叔)
にも、濟の兄弟從兄弟)
會 榮
!
を
儀禮 "げた人物は皆無だ、と言明されているのである。
甫のこの詩は眞に不 辭を盡くすことが當然の作法である。この限りにおいて、杜 交の場面で作られる應酬詩では、相手に對して讃
#切な作品と
しかしこれ以上の推論は中斷して、同じく狄仁 $するほか無い。
の後裔に られた岑參の詩と比較してみよう。
峽口秋水壯沙邊且停橈 %山峽口泊舟懷狄侍御
九 濤振石壁峰勢如動搖
&蘆 '新彌令客心焦誰
念 (
在 (
江 (
島 (
(
故 (
人 (
滿 (
天 (
)(
無處豁心胸憂來醉能銷
*來巴山 三見秋
+,
狄生新相知狄生新たに相ひ知る才
-凌雲霄才
-雲霄を凌げり
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
賦詩析
詩を賦せば
入 を折き くじ
生風飆
( 度使の 把筆 府)に入れば風飆を生ず 甲兵筆を把りて甲兵を
皆云ふ皆云梁公後梁公(狄仁 戰士不敢驕戰士敢て驕らず ずれば の後) 鼎能 鼎(宰相職)に
へばた能く
離別倏經時離別倏として時を經なば へんと 塵殊寂寥
不歎 何當見夫子何當か夫子に見ゆるとき いつ 塵殊に寂寥たらん 關遙わが
關の遙かなるを歎かざらん
この詩は、岑參がその
年に嘉州刺史を罷めて戎州(
の邊りに留まっていた大峽) 山 鐵民ほか『岑參集校 三年秋の作と推定される(陳 』附 この岑參詩の作法は、 「岑參年譜」)。 常の儀禮
のである。狄某について、彼の不名 應酬詩の規格を守るも また名 になることは觸れず、
になることは特筆大書する。詩の
己の不 で岑參は、自 を べる。邊境の地に地方官として三年
ているのに、 も淹留し ていることも の友人たちは、自分が長江の水邊に鬱屈し れている(誰念在江島、故人滿天
)と、嫉妬 の
て現れる。彼は、詩文の才能を持つばかりではなく、 も窺わせる。そこに狄侍御は、岑參の新知の友とし
の 度使
府では峻嚴な侍御使として武人たちを統(檢察官僚)
する手腕を持つ。それゆえに誰もが君を稱讃する、梁國公狄仁
ろう(皆云梁公後、 の後裔は、宰相の職に就けばきっと天下を良く治めるだ
鼎能 )、と。そんな
會できるならば、私は嬉しくて、きっと積もる ある君に再 んでしまうに 愁も吹き飛 いない(何當見夫子、不歎
彼は、將來有 この詩がき出そうとする狄某のイメージは、明確である。 關遙)。 そして人 !の名家の子弟である。詩文の才、吏務の才、
としての威嚴を
狄仁 "ね備えたこの人物は、かつての にも似て、宰相としての活
#が期待される大
岑參の作詩の趣旨は、このように狄仁 $である。
その出自こそが彼の た狄某のその「毛竝み」の良さを稱讃することにあり、また の後裔として生まれ
%れた ある。しかしながらその反面、狄仁 &質を保證する根據とされるので
の家 實(狄仁 'の衰頽という事 の孫・曾孫に榮
()は、一切言は皆無)
ままに *されない
+る。狄某からは
,- )の影は拂拭されており、
るにこの詩は、「 .す ,-
ある。 )を詠ずる詩」となってはいないので 中國詩文論叢第二十五集
岑參の詩は、その儀禮
な作法において、
の詩を、その對極にあるものとして際立てることになる。兩 範圍に收まっている。そしてこのような作品の存在は、杜甫 常の應酬詩の
とも、狄仁
の した後裔に寄せられた詩である點で共 の 敢えて觸れようとしなかった狄家の 況を踏まえている。しかしそれにも拘わらず、岑參が
杜甫はあえて焦點を絞るのである。こうした兩 というこの一點に、
岑參詩を參照して確 るものである。 の相は、言うまでもなく、作品の制作意圖の相と對應す の表現手法 される第一點は、「
と「 の存在」
ことである。安史の亂を體驗した詩人たちにも、 を詠ずる詩の制作」とは別個の事態と理解すべき
ずる詩は無かった( を詠 幾人もの 。詩人たちは當然のこととして、) 場合が示すように、相手の に出會っているはずであるが、しかし岑參の
會 地位の
を その人の名 べることは を損なう
ない應酬詩の枠組で れがあるため、大抵は當たり障りの され、彼等をあえて不
確 として明
することはなかった。杜甫の「
わば從來の應酬詩の常識に對する自覺 を詠ずる詩」は、い な反
たと考えるべきだろう。 * として作られ *「
を詠ずること」が杜甫に特有の
題であったことは、
の李群玉の「別狄佩(梁公玄孫、
狄佩は狄仁きる。 於南國)」詩からも傍證で の玄孫であり(自
)、杜甫に登場する狄 濟(曾孫)の
の世代に當たる。李群玉が特に狄家の後裔に 目したのは、杜
甫
の
「寄
狄
明
府
濟
」の
影
別狄佩(梁公玄孫、 であろう。
於南國)李群玉 竹不
、鳳雛長
!
。未開丹霄
"
、空把碧梧枝
。
#人奏雲韶、
$鳳一來儀。文章
鬱抑不自言、凡鳥何由知。當看九千仞、飛出太 %白日、衆鳥莫敢窺。
第一に、名家の後裔の &時。
を
殆ど 題とすることは、杜甫以外に '例がない。第二に、しかも狄仁
杜甫の「寄狄明府 の後裔を詠ずることは、
李群玉のこの詩は、明らかに杜甫の「秋興八首」其八を下 濟」詩と直接の對應關係を有する。第三に、
昆吾御宿自逶 にした表現を取っている。 (き )、紫閣峰陰入
紅稻 *陂。
+餘鸚鵡粒
、碧梧棲老鳳皇枝
佳人拾 。
春相問、仙侶同舟
綵筆昔曾干氣象、白頭吟 更移。
この三つは、個々には杜甫の影 ,-低垂。
の可能性を示唆するものに .ぎないとしても、三
が同時に共
/するに至っては、この李
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
群玉詩は、確實に杜甫の影
下にあると
であろう。名家の後裔の 斷することができる 詩自體が杜甫の影 していない。その少ない例外が、この李群玉の詩となる。その を詠ずる詩は、殆どの詩人が制作 の特 下にあるとすれば、この分野における杜甫 (獨創性)は一
第二點は、杜甫が「不 鮮明となる。
で狄 を詠ずる詩」という枠組みの中 濟の を いたとき、その趣旨は、相手に儀禮
辭を 贊
狄 ることにはなかった、ということである。では杜甫は、
濟の の不 あるいは杜甫は、「王侯に干 を慰めるためにこの詩を作ったのか?
の不 し」ても報われない自分自身
の思いを、狄
濟の上に重ね合わせたに
どちらの解釋も、部分 ぎないのか?
には正しい。しかしこの詩の
こうした個人 題は、
感 の 元、すなわち憐憫や共感といった
元を超えたところにあり、ある種の「崇高な價値
甫*杜は、狄 えているのである。 * 」を見据 濟が一員であるその「狄家の
」を正面から する。なぜ
するのか?それは、
名家則天一族の簒奪計畫によって危殆に瀕した してはいけない を救ったその狄仁 の皇統 の家が、
甫にとっては、こうした「名家の しているからである。杜
」こそが「秩序の混亂」 の端
なる象 であり、杜甫はその
を くことを
安史の亂によって惹き して、
こされた
會の混亂を
である。それ故この詩の しているの 題は、
の秩序の頽廢に對する
であり、その背後には、
の支配の正當性の確
支配の下に實現される と、その 會の秩序の贊美が
ことができるであろう。 されていると言う
四
の多樣性
杜甫は、多樣な
を詩に讀み
んでいる。しかも傍
の立場からその
を
人物に出會い、彼に詩を作って くのではない。杜甫自身がその の るのである。そこには、そ
との交流があり、心の
る。そして會話の容の核心は、その人物が、 う親しい會話が存在してい
榮光ある經 去に如何に
!を持っていたのか、それが現在は如何に
たのかという、 し 意味で、杜甫は、自分の眼 ない。その相手が聞こうとするものを、語るのである。この 人は、會話の相手に對していつも同じことを語るわけでは の物語であったはずである。
の "にいる人物の、あるいはその家 の物語にとりわけ關心を持って聞き入ったに相
のである。杜甫以外の詩人たちも、あるいは自ら #ない
の 中國詩文論叢第二十五集
命に い、あるいは多くの
しかし彼等が杜甫のように と出會ったことであろう。
は、 を詠ずることがなかったの 係している。つまり杜甫の「 の物語に、杜甫ほどに興味を示さなかったことと關
合、最も肝 を詠じた詩」を論ずる場 な意味を持つのは、「なぜ
が杜甫の
に多くいたか」ではなく、あるいは「どのような 圍 甫が關心を持ったのか」でもなく、「なぜ に杜 すれば、杜甫の外部にある に杜甫は關心を持ったのか」を論ずることなのである。換言 というもの の如何を問うのではなく、
と向き合う杜甫の、その
(價値 問うことが重 )の如何を 杜甫の詩には、樣々な形の なのである。
は、杜甫を遡ること五百年以上の阮 が現れている。ある場合 の後裔阮
られる。また も取り上げ い
去では、則天
の顯官である狄仁
孫狄 の曾
濟の名 もある。また玄宗が設立した宮
や 樂坊の歌手
妓で、離散して地方を流浪している
場合もある(歌手の李龜年・劍 が取り上げられる に 。このようの公孫大娘の弟子)
たちの
は多樣であり、
擇の基準が、特定階
出身 の
、もしくは杜甫自身の個人
な 故 えない。杜甫は、 にあったとは見 狹な仲 意識から、これらの
を
する詩を作ったのではないことは明白である。杜甫は、樣々な出自の、また樣々な經
!の と
"
て、その相手の境 し を れぞれに する詩を作った。しかし相手はそ
#なる で杜甫の
ある一つの感 に立ち現れても、杜甫自身は、
へと 序の $かれるのである。それは「あるべき秩
%壞」に對する
である。そして
れぞれに は、かつてそ
#なる場において、「あるべき秩序」の扶持
り、また體現 であ であった。それ故に彼等の
秩序の は、あるべき この安史以後の紊亂した世相を凝 %壞そのものとして受け止められたのである。杜甫は、
&する中で、そこに多くの
のうごめく
に目を留めた。その無慘な
よって毀損された秩序の生々しい象 は、大亂に 甫の は彼等の存在に只だならぬ痛みを懷いたのである。從って杜 'であり、それ故に杜甫 ていた價値 を詠ずる詩を論ずることは、杜甫の意識を支配し
を考察することと
杜甫の (底することになる。
のから取り上げよう。 を詠じた詩について、最も人口に膾炙したも
江南逢李龜年岐王宅裏
)常見崔九堂
幾度聞
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
正是江南好風景
時 又逢君
この詩については、
と した。玄宗に寵愛され、王侯たち 麗な ら 交を演じた年の名歌手は、事もあろうに長安か く離れた長沙に流寓している。そして
力 らくは土地の有 ここでは二つのことを確 のであろう。 の宴席に呼ばれては歌唱を供して、生活の糧を得ていた
の零 しておきたい。第一に、李龜年 は、
が戰爭の支度に
されて、文
を ける餘力を失った事態を意味する。 ない續 するに、
衰頽の象 で、京洛の地を に他ならないのである。第二に、杜甫も安祿山の亂の渦中
沙という邊境の地で われて、生涯の最後となる年の春をこの長 ごしている。杜甫の零
は、確かに
かりに杜甫の作詩の意圖が「自らの不 衰頽の反映でもあった。
を訴える」ことの
み
にあったならば、杜甫と同
度に不
な
科
に も出來ず、玄宗の時代には 第 生計を立てるために地方に流寓している 官に沈淪し、安史の亂によって
を取り上げるのが效果
時めいた人物を取り上げたのか? ではなかったのか?なぜ杜甫は、玄宗の時代に その答えは、自らの不
を、必ずや
の衰頽という
ことは出來ないだろう。つまり自己の不 況の上に重ねずにはいられなかった杜甫の心性と切り離す 體 光と を、いったんは榮
!の
"命を わせ、このことを介して と共にした名歌手李龜年の上に重ね合 自らの不幸を のである。ここにおいて、杜甫の不幸は國家の不幸と合體し、 の衰頽と重ね合わせようとする
#く思いは、國家の不幸を
回らしたのではなく、杜甫という詩人の心性が、李龜年の るのである。もっとも杜甫が、このような計算を頭腦の中に #く思いへと肥大す
"
命に觸れて「本能
が。 」に感應したというのが正しいのである
「觀公孫大娘弟子
$劍 序に言う:大 見てみよう。 %行、并序」については、その序を
&二年十 '十九日、
宅で、臨潁の李十二娘が劍 (府の別駕である元持の
$をするのを見た。見事な腕
いう。思い出せば、開元三載、私はまだ幼かった(四 感心して、師匠は誰かと聞いたところ、公孫大娘の弟子だと に ))が、
*+で當時
,-だった公孫大娘の渾
.の劍 梨園の二つの宮 $を見た。宜春・
/樂坊および宮
/外の
$妓の中で、
0文
1武 中國詩文論叢第二十五集
皇 の治世の初めにこの劍(玄宗)
ができる唯だ一人の
妓だった。自分は今や白首の老人であり、この弟子ももう
くはない。事の經
を知り、またこの人の
て、氣持ちが昂ぶり、この劍 勞を知るにつけ の歌を作った。かつて
張旭は、 人の
縣で公孫大娘の西河の劍
餘り書が上 を見て、以後、感激の したことからも、公孫大娘の腕
大 というものだ。 が分かろう 二年十 十九日、
府別駕元持宅、見臨潁李十二娘 劍
、壯其蔚跂。問其
元三載、余 師、曰余公孫大娘弟子也。開
童稚、記於
觀公孫氏
劍 渾 、瀏
頓挫、獨出冠時。自高頭宜春梨園二伎坊
人
曉是 外供奉、
、
文 武皇
況余白首、今茲弟子、亦匪 初、公孫一人而已。玉貌錦衣、
顏。
二。撫事慷 辨其由來、知波瀾莫 、聊爲劍
行。
數常於 人張旭、善書帖、
縣見公孫大娘
西河劍 、自此書長
昔有佳人公孫氏、一 感激、公孫可知矣。 、豪蕩
觀 劍氣動四方。
如山色沮喪、天地爲之久低昂。
!如
"射九日
#、矯如群
驂龍 來如雷霆收震怒、罷如江 $。
%凝
&光。 絳脣珠袖兩寂寞、
'有弟子傳芬
臨潁美人在白 (。
臨潁の美人白
妙 に在り
此曲
揚揚此の曲を妙
して 與余問答 揚揚たり 有以余と問答して
感時撫事 に以有り ゆゑ
)*傷時に感じ事を撫して
*傷を
先 )す
侍女八千人先
公孫劍 の侍女八千人 初第一公孫の劍
五十年 初より第一 +似反掌五十年
風塵 +掌を反すに似て かへ
,洞昏王室風塵(戰亂)
梨園子弟散如 ,洞として王室昏らし -梨園の子弟散じて
女樂餘 -の如く
.映 /日女樂の餘(公孫大娘)
. 金粟堆南木已拱、瞿 /日に映ず 0石
玳筵 蕭瑟。
1管曲復 2、樂極哀來
老夫不知其 東出。
、足 34山轉愁疾。
杜甫は、大
元年の '春から三年の正
までの一年十箇
を、三峽の入り口にある
州(白 で) 5ごした。この
州時期の後
6には、
州の實 7を握る 8督の柏
彼持ち、の下僚たちとの交際の輪も廣がっていた。 9琳と面識を の元持の宅を訪ねて劍 府別駕 を見たのも、彼等との交際の一齣で
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
ある。
子で、劍 府別駕の宅には、玄宗に可愛がられた公孫大娘の弟 年では推測に の名手の李十二娘が呼ばれて來ていた。先の李龜 ぎなかったが、地方の
力
・豪族の庇
杜甫が李十二娘の境 てあった。 得て生計を立てるという事態は、この李十二娘では事實とし を でのやかな活動が安史の亂によって頓挫し、今は に心を動かされたのは、彼女の長安
無 とは
の邊境の町に流寓しているためである。とは言え彼女の が隱喩となるもう一つの事態があって、それが杜甫を
せしめたことを見
杜甫は ごすことはできない。
州で、李十二娘の流
の を目 の する。そしてそ
の中に、五十二年
、杜甫がまだ三
のときに
た公孫大娘の劍 で見
の有樣を思い
娘こそ當時に冠 こすのである。その公孫大 した劍 かに の名手であり、玄宗の時代をや
る大輪の名
だった。「五十年
似反掌、風塵
王室。梨園子弟散如 洞昏 、女樂餘
映 日」(公孫大娘の劍
の 見てから五十年後に世界はまるで巓倒して、戰亂がうち續いて王室 を 威は地に
かみの公孫大娘の殘んの面影が李十二娘の ちた。梨園の弟子は、長安をわれて離散し、その
に宿って、
々とした
!の日に照らされている)。杜甫は李十二娘の劍
の中に、
"
れやかに
う公孫大娘の面影を
誘われて光輝に滿ちた玄宗の #め、その公孫大娘の記憶に
$時まで辿り
かし事實はその裏 %くのである。し
&しに下
'線を辿って
大娘の零 (行していた。公孫 (死)、その弟子の李十二娘の零
(流 のまま王室の衰頽の隱喩となって、杜甫の )は、そ 現實を にその儼然たる 李龜年と公孫大娘の場合は、宮 *********** )き付けるのである。
*樂坊を代表する樂人・
妓として玄宗の榮光と直結していた。このため彼等の
直ちに は、
+王 ,の傾頽の隱喩となることが出來た。
げるのは、 -に取り上 狄仁 +の功臣の後裔を詠じた詩である。
.の曾孫である狄
る。ここでは大 /濟を詠じた詩は、すでに讀んでい 0四年
!、潭州において魏
魏佑に 1の曾孫に當たる 2った詩を取り上げよう。
奉
功 賢豪贊經綸賢豪經綸を贊け たす 3魏六丈佑少府之交廣 4空名垂功
子孫不振 4空しく名は垂る 5子孫の振
5せざること
6代皆有之
6代皆な之れ有り 中國詩文論叢第二十五集
鄭公四 孫鄭公四
長大常 の孫
長大にして常に
に 衆中見毛骨衆中毛骨を見る しむ 是麒 兒 ほ是れ麒
磊 の兒
貞觀事磊
たり貞觀の事
君樸直詞君を
行色何其行色(境 家聲蓋六合家聲六合を蓋ふも(天下) す樸直の詞 賢臣にして豪 ………… )いま何ぞ其れなる なる魏 を は、太宗を裨けて天下を經綸し、大功 げて、死後に名聲を殘した。しかし子孫が振るわないことは、
代にその例は稀なことではない。鄭國公魏
は、立 の四代の孫である君 に に置かれて、毛竝みの良さは鮮やかであり、やはり麒 長した後も生活は樂にならなかった。しかし衆人の中
ことは隱しようもない。輝かしい貞 の兒である の政事では、君
を堯
に
さんものと、魏
聲は天下を らは樸直の忠言を怠らなかった。そのため家の名 うほどであったが、君の今の樣子は、何と
ことか。…… ちぶれた
魏佑は、太宗に仕えて貞
の治の中心人物となった初
の 名臣魏
として、從九品上・下)杜甫の言 の曾孫に當たる。しかし魏佑は、いまは少府(縣尉:
を借りれば「
爲 獨屈州縣 侯客、
」(刺史の配下として、州縣の
う とい官に沈淪する)
かばれない境
太宗は、 いわゆる嶺南瘴癘の地である。 交廣つまり交州と廣州、當時の意識では(ベトナムのハノイ) にある。しかも今魏佑が赴任するのは、
代では實質
り ( に建國の名君として理解されてお
、その太宗の功績は、父親李淵を支えての創業の )
貞 と、
の治と稱される守
の る。そして魏 の、その兩方において示され 功臣だった。それゆえに太宗の は、その兩方の場面において太宗を補佐した
業が 話される中で、魏
その人も、比
杜甫が今目の !無き名臣として祭り上げられることになる。
"にしているのは、その魏
本來は の曾孫である。
ろうに縣尉という最低の官位に沈淪し、しかも交廣という僻 #と共に不滅であるべきその血筋の人が、こともあ
$の地まで職を求めて
%走している。それは
つ限りにおいて、 が天下をたも 杜甫において、 *********** &對にあってはならぬ事態のはずである。
' (を )くことは必然だった。その
'
(は、必ずしも魏
や狄仁 のような
*い
去の名臣とは限
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
らなかった。
している。 代の人物についても、杜甫は同樣の關心を示
貽阮隱居(名
陳留風俗衰 )
、人物世不數
。塞上得阮生、迥繼先父
貧知靜 。
性、白 毛髮古。車馬人鄰家、蓬蒿翳
詩 堵。
、識子用心
。 我 徑 、 裳踏
更議居 雨。
村、
喧甘猛虎。足明箕潁客、榮貴如糞土。
この詩は、詳註卷七に乾元二年に
の秋 州より秦州に赴くとき の の作とする。杜甫の
阮 最初期のものである。 を詠ずる詩としては、
は、魏の阮
の後裔であり、今は秦州に
邊境の村 い「塞上=
」に、原
のように、貧しい陋巷の、
蒿が 圍には蓬
る土 の中に屏居している。阮
境に遽かに は、安史の亂を したのではなく、すでに久しくこの陋巷の
らしを續けているのだろう。杜甫はその
潁の客」(箕山の許由・潁水の父)にも比すべき阮 らし振りを、「箕
「榮貴を糞土の如く棄て」たのに擬えて、阮 らが
する。 の貧を贊美 この詩は、
き方を贊美することはあっても、その した名家の後裔を詠じてはいるが、彼の生
の境 に焦點を當てて彼
!を
"
#することはない。つまり杜甫がその後に作る
を
"
#する詩とは
$題の在處を
し後 %にするものだが、しか の特
&の一部を先取りしている點で、この詩は重
意味を持つ。特に な
'目すべきは、
數に輩出した)の部分である。ここには「名家の 不數」(陳留の風俗は頽廢したが、しかし、すぐれた人物は代々無 (頭「陳留風俗衰、人物世
「風俗の頽廢」とを關 」と )づける ている。その後の杜甫の *點が、はっきりと提示され を
"
#する詩にいわば
+奏低 ,のように
-くのは、風俗の頽廢醇朴な人性が損われ、
.會の禮 /秩序が損なわれることによって名家は
頽廢」にもかかわらず、しかし「阮家という名家の この詩ではこの因果關係を巓倒して、「陳留の地の風俗の る、というテーゼである。 す 無かったと、兩 」は を に巓倒した筆法をとってはいるが、しかしこの兩 01に結ぶのである。なるほどこのよう
を關
ける )づ
*點が れる一 23している點で、この詩は、これに續いて作ら )の を
"
#する詩を先取りするものである。 中國詩文論叢第二十五集
に讀むのは、曹操の後裔で畫家の曹霸である。
丹
引 將軍魏武之子孫、於今爲庶爲 曹將軍霸
門。
雄
據雖已矣、文
學書初學衞夫人、但恨無 風流今存。
丹 王右軍。
不知老將至、富貴於我如
凌 開元之中常引見、承恩數上南熏殿。 雲。
良相頭上 功臣少顏色、將軍下筆開生面。
賢冠、猛將
大 襃公鄂公毛髮動、 箭。
先 颯爽來酣戰。
御馬玉
是日牽來赤 、畫工如山貌不同。
下、迥立
玉 斯須九重眞龍出、一洗萬古凡馬空。 詔謂將軍拂絹素、意匠慘澹經營中。 闔生長風。
卻在御榻上、榻上庭
至 屹相向。
幹惟畫肉不畫骨、 弟子韓幹早入室、亦能畫馬窮殊相。 含笑催賜金、圉人太僕皆惆悵。
使 將軍善畫蓋有 氣凋喪。
、偶逢佳士亦寫眞。
今飄泊干戈際、
貌
窮反 常行路人。
但看古來 !俗眼白、世上未有如公貧。
"名下、
#日坎
$纏其身。
曹霸は、曹操の後裔という名門の出身であり、書家にして畫家。とりわけ畫業においては、玄宗に寵愛された宮
地方の豪族のために書畫を鬻いで生活を立てざるを得ない零 である。しかし安史の亂後は、長安を離れて蜀の地を流浪し、 %畫家
&した境
玄宗に召されて宮 詩の大部分(「開元之中常引見」以下の二十四句)は、かつて 'にあった。
%畫家として活
(したときの
れる。凌 )憶に費やさ 閣に
*げられる功臣の畫像を
馬玉 +き、また玄宗の愛 を たが、しかし韓幹は馬の肉は +いたこともある。弟子の韓幹も優れた畫家となっ
+いても骨には
魄氣を萎えさせるのが ,せず、駿馬の
&ちだった。その曹霸はまた宮
では、縉紳の求めに應じて %の外 -像畫を
曹霸の畫業は、宮 +くこともあった。
%の .外で名聲を
亂によって宮 /した。しかし安史の大
%畫家の地位は失われ、「
今飄泊干戈際、
貌
常行路人(今は戰亂の巷を放浪して、そこらの行き縋りの人 の繪を
+いて 0の種にする)」という賣畫の生活に
&ちぶれた。
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
しかも繪が分からない俗物どもの
蔑にも、堪え
ばならないのだ(「 ばなけれ 窮反 曹霸その人は「丹 俗眼白」)。 不知老將至、富貴於我如
と畫業に 雲」(日ご しんで、自分の老いもれ、富貴は我において
と嘯くほどに、今の境し) 雲の如 に不滿を
かぬ
として詩に
かれる。しかしそれは、曹霸の高人としての風格を印象づけるための詩
と 置かれた境 ずべきものである。何としても曹霸の
は、無慘な轉
この詩で 以外のものではなかった。
目されるのは、「
窮反 る。蜀の地で窮乏した曹霸は、「俗眼=俗物」による 俗眼白」の一句であ
繪畫 譏刺にさらされた。本來ならば曹霸と知り合う機會も無く、 蔑と とも無
であるはずの蜀の「俗眼」が、曹霸の
に集まることになる。第一に、曹霸が長安から流 圍 豪族の 來たために、第二に、曹霸が日々の生活にも困窮して土地の して蜀に 助を必 戰亂の渦中でたくみに地位を としているために、三つには「俗眼」が、
いて豪族
なかった。しかし玄宗に寵愛された宮 そも彼等「俗眼」は、曹霸にも彼の繪畫にも興味を持ってい したために。そも 畫家の名
聲
に
は
があったのである。 興味
いは彼の繪畫を家に のパトロンを氣取りたいのか、ある って
!人を氣取りたいのか。しかし いずれにせよ曹霸は、「俗眼」を相手に
"屈に振
#い、世
$
ぎのために畫筆を振るわなければならなかった。ここに言い表されているのは、曹霸に代表される名家の
また彼等を尻目に見て %であり、
&振りを效かせる「俗眼」、つまり
!のない徒輩の
を呼び '行である。安史の大亂は、このような世相 (こした。
五
とは誰か?
杜甫が「
%
を詠ずる詩」が
稿では )立する根據について、本 世の後裔にして杜審言の孫であり、 *のように解釋している。第一に、杜甫は杜預の十三
+, 自任していた。第二に、それ故に、杜甫は名家の には名家をもって
% 感し、また彼等の不 に共 な -命に自らを重ね合わす
た。第三に、杜甫は .格があっ
% の
/の中に、玄宗の
0時が 以上のような理解は、それ自體には たことを讀み出し、そこに痛惜の思いを表明するのである。 1潰し 杜甫が なお考えるべき課題が殘っている。 23いはない。しかし
% を詠ずる詩を作り始めた乾元二年
759には、
4
の
5はすでに安祿山の亂による危機
6況を たという事實である。これより遡ること二年 7しつつあっ 8の至 9二年 757
中國詩文論叢第二十五集
二 に、肅宗は江南に蹶
した永王李
の水軍を討伐して、
部の 力鬪爭に利し、九
には長安を奪
、十
は洛陽も奪 に
した。
至 三載十(乾元元年)
には、
の會戰において九
政府軍は一時混亂に 度使の聯合軍が史思明の叛亂軍に敗績し、
ったが(この
の「三吏三別」)、これによって再び 況を背景にするのが杜甫 長安の なかったのである。 が危殆に瀕することは、
が 實に回復する中で、混亂を
開し、また一時 けて地方に疎 に 民に身を
とした 安に歸參し始める。そのときに當たり、却って、杜甫が たちも、一部は長
を詠ずる詩を作り始めるという事實を、どのように整合
に理解するかが重
第一は、杜甫自身の事 であろう。
である。乾元二年の秋に
參軍を 州司功
官されて官職を失い、杜甫自身は、
淪めることになる。この變 民の中に身を
の中で、以
なかった は目に入ることも の存在に
第二の、そしてより重 目するようになるのである。
な意味を持つのは、
する が發生
!である。
の一 については、單に、安祿山の叛亂軍
"により
#會
地位を失って
した では不十分である。安祿山の亂によって と理解するだけ
の中樞部分に空 白が生じ、そこに新しい勢力が入り
$むことによって
交替が 力の
%行し、古い勢力が歸る場を失って
圖が想定されなければならない。 する、という は、
杜甫が詠ずるところの杜甫の である。 始めるときに、却って初めてその輪郭を露わにするものなの #會が回復を
&の詩は、その
力の交替を
聞 秋興八首其四 確に言い當てたものとして讀める。
'長安似 王 (棋、百年世事不悲。
侯 )
第 )
宅 )
皆 )
新 )
)
*、文 )
武 )
衣 )
冠 )
)
+昔 )
時 )
直北關山金鼓振、征西車馬 。 )
魚龍寂寞秋江冷、故國 ,書馳。
-居有 .思。
かつての王侯たちの邸宅には、新しい
*人が 名家の(官僚貴族) である。 人種によって國家の中樞が取って代わられたことを言うもの は、父から子へと單に世代が交代したことではない。新しい の貴顯たちは、昔と入れ替わった。杜甫がここに言うの /まい、文武
は、それ自體は戰亂の結果であり、
(官僚機)の
0潰と、
1園(一族の經濟基盤)の解體が
杜甫の没落者を詠ずる詩(松原)
その の
體 な 機である。しかし名家の
を再 能なまでに決定づけたのは、一 不
、戰亂の中から今迄とは大亂も足掛け九年で定) な戰亂ではなく(安史の
勢力は、地域にあっては土豪・惡 が擡頭して彼等名家に取って代わったことである。その新興 なる勢力
と呼ばれるような
であるが、官僚體制の中にあっては、①叛亂定に功績を たち げた武官、②戰費の捻出に腐心する財務官僚(劉安・楊炎)、さらには③君側にあって禁軍の指揮
を握る宦官(魚
の 恩)、
は、押し竝べて、亂 力擴大である。地域と政府の兩方に出現した新しい人種
の秩序 念・價値
新しい思考回路を持つ 念にとらわれない
たちである。
一介の文人に
ぎない杜甫には、新しい政府が必
人材が何なのかを、正確に理解することは とする
しかったに
義を ない。その杜甫の立場からすれば、この新しい人種は、「大 い 對する挑戰」として れて功利を貪る小人」「その存在自體が正しい秩序に
しい人種との對比の中では、 識された可能性がある。しかもこの新
序を表 たちはつねに、正しい秩 する
杜甫が考える正しい秩序、それは單に「戰亂が無い」と言っ となる。 た否定性の裏
序が美しい文 しとしてある和の謂いではなく、正しい秩 の をまとって維持されかつ生
な、肯定性・積極性として提示されるものである。それは されるよう
年期の杜甫が實際に目睹することが出來た、また後年の杜甫によって「理想」として
想されることになる「玄宗の開元 その開元の秩序が如何なるものであったのか、杜甫自身は 時の秩序」であったと思われる。
憶昔開元 憶昔二首其二 のように明している。
!日、小邑
九州 稻米流脂粟米白、公私倉廩倶豐實。 "藏萬家室。
#路無豺虎、
齊 $行不勞吉日出。
%魯縞車班班、男
宮中 &女桑不相失。
百餘年 '人奏雲門、天下朋友皆膠漆。
①人口の (未災變、叔孫禮樂蕭何律。
)加、②
*物の豐作、③治安の確保、④物價の低 +、⑤人倫の醇朴、⑥
政の公、⑦士人の
,操、⑧災
抑止、⑨禮樂の -の .重。これらの條件が百年の和の中で
に整えられ、開元の治を現出したと、杜甫は 第 このうち、①から⑤(第一句から第八句)は、庶民 識していた。
元の事柄 中國詩文論叢第二十五集