古 代 韓 日仏 教 文化 交 流 につ い て
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(2) 古代韓 日仏教 文化 交流 につ いて(崔. 福姫). い 。 そ こ で 、 『日本 書 紀 』(以 後 は 『書 紀 』 と略 す る)、『元 興 寺 伽 藍 縁 起 并 流 記 資 財 帳 』(以 後 は 『元 興 寺 縁 起 』 と略 す る)等 の 史 料 を利 用 す る に は 、 厳 正 な 史料 批 判 の 手 続 きが 必 要 で あ るが 、 と もあ れ古 代 仏 教 を あ とづ け るの に 、 欠 くこ との で き ない 貴 重 な文 献 で あ る こ と は言 う まで も な い。 『書 紀 』 に は六 世 紀 以後 の 韓 国 と 日本 との 関係 記 事 が 相 当数 見 受 け られ る。 そ の記 事 を整 理 して み れ ば 、 任 那 復 興 と新 羅征 伐 に関 す る叙 述 が 中 心 と な っ てお り、 六 世 紀 半 ば以 後 に お い て は、 前 掲 の 記 事 とは 関係 な しに 、 仏 教 受 容 に 関す る記 事 が か な り追 加 され て い る こ とが 見 られ る。 仏 教 交 流 と は、 仏 像 ・経 典 ・僧 尼 の い わ ゆ る 「三 宝 」 と、 そ の 三 宝 を安 置 す る伽 藍 、 伽 藍 の 中 で行 わ れ る宗 教 儀 礼 や 学 問 、 また 伽 藍 の造 営 に あ た る技 術 者 ・製作 者 、 さ らに絵 画 ・彫 刻 ・ 音 楽 ・舞 踊 な ど を担 当 す る 芸術 家 な どの 集 団 まで も含 め 、 こ れ らの 人 々 や 文 物 の 交 流 を 意 味 す る3)。 ま た、 文 化 は文 物 で は な い 。 文 化 とい う もの は 複 合 され た も の で あ る。 単 な る もの だ け で は な い。 渡 来 の 文 化 が 日本 に 入 っ て い る こ とを 認 め る方 は、 当然 そ の 背 後 に渡 来 の集 団 を 想 定 し な け れ ば な らな い と述 べ られ て い る4)。 こ れ は 文 物 とい う もの は 集 団が な くて も伝 わ っ て くる が 、 文 化 とい うの は 総合 され た もの で あ る こ とを 意 味 して い る。 三 国 と 日本 との 人 的 、 文化 的 交流 史 を考 察 して い く過 程 で、 『書 紀 』 な どの 古 文 献 に見 られ る 人 的 交流 史 にお い て 、 い くつ か の 疑 問 を持 つ よ う に な っ た。 そ れ は5世 紀 初 の五 経 博 士 と僧 侶 の 交代 を 通 し て 見 た仏 教 に 対 す る認 識 と、 善信 尼 らの 出家 と関連 す る こ とで 、 こ れ は 日本 仏 教 教 団 の原 型 と 日本 比 丘 の 問 題 で あ る。 そ して研 究 の 時代 は 、 継 体 朝 の 五 経 博 士 の 記録 か ら天 武 朝 の新 羅 に よ る三 国統 一 ま で に限 っ て本 論 文 の範 囲 とす る 。. 2.人 1)五. 的 交 流 に 見 ら れ る 二 ・三 の 問 題 点. 経 博 士 と僧 侶 の 交代. 五 経博 士 は、 五 経 即 ち 、 易 、 詩 、 書 、 禮 、 春 秋 に通 達 した 人 で あ り、 五 経 博 士 の 制 度 は漢 の 武 帝 の 時 代 に発 す る 。 当 時 、 日本 にお い て 学 者 を示 す 「博 士 」 は 百 済 な どの三 国 か らの 渡 来 者 に 限 られ て い た5)。 『書 紀 』 に 見 られ る五 経博 士 に 関 す る 史料 は 次 の よ うで あ る 。. 1‑1継. 体 七 年 夏 六 月 。 百 済 遣 姐 彌 文 貴 将 軍 、 洲 利 即 爾 将 軍 、 副 穗 積 臣押 山 、 貢 五 経 博 士 段 楊 爾6)。. 1‑2継. 体十年秋九月。百済遣・ ・ …・ 別 貢 五 経博 士 漢 高 安 茂 、 請 代博 士段 楊爾7)。 ‑20一.
(3) 佛教大 学大学院紀要 1‑3欽. 第30号(2002年3月). 明 十 五年 二 月。 五 経博 士 王柳 貴代 固得 馬 丁 安8)。. 百 済 よ り派 遣 され た五 経 博 士 は継 体7年(513)、. 継 体10年(516)、. 欽 明15年(554)の. 継体朝. か ら欽 明 朝 に至 る ま で3回 の 交代 記 録 が 見 られ る。 欽 明15年 に五 経 博 士 馬丁 安 が 王柳 貴 と代 っ て帰 国 した こ とは 、 五経 博 士 の派 遣 が欽 明13年(552)の. 仏 教 公 伝 以 後 に も何 回 か交 代 が 行 わ れ. た とい う こ とを知 る こ とが で き る。 しか し、 派 遣 が い つ か ら始 ま っ た か 、 日本 で どん な役 割 を した の か、 な どに つ い て は文 献 上 で確 か め る こ とが で きな い 。 五 経 博 士 派 遣 の 意 味 につ い て 日本 と韓 国 の 学 者 らの説 は 一 致 して い ない 。 日本 学 者 らの意 見 は大 体 三 つ で 要 約 で き る。 第 一 は、 百 済 が 領 土(任 那)を 拡 張 した こ とに 対 す る 代 価 で 、 日本 に官 人 と五 経 博 士 を 派 遣 した9)。 第 二 は、 中 国 人 が 日本 に来 て 交代 に勤 め た1°)。 第 三 は、 百 済 が 日本 に献 す る 人 質が 制 度化 さ れ て い た とい う こ とで あ る 。 韓 国 側 で は五 経 博 士 は 帰化 で な く交 代 制 とい う点 か ら み て 文 化 受 容 の経 過 上 の飛 躍 で あ る と い っ て い る し")、特 に李 内壽 氏 は 「交 代 の 制 度 も五 経 博 士 に 限 らず 、 そ の他 の専 門技 術 者 に も 適 用 され た 。 こ れ は 、 百 済 の 専 門 家 が倭 国 に渡 り、 手 厚 い もて な しを うけ て 長 期 的 に滞 留 した り、 あ るい は 「楽 而 忘 返 」格 に永 遠 に帰 国 し な い こ と に な る と、 百 済 に とっ て 、 そ の 損 失 と す る とこ ろ 甚 だ 大 き く、 そ の た め に こ の よ うな 交 代 制 を設 け た の で はあ る まい か推 測 して い る」 と 説 明 して い る12)。 こ こで 、 少 し注 目 した い こ と は記 録 の 中 で の 「将 軍 」 とい う表 現 で あ る。 五 経博 士 を派 遣 す る 時将 軍 が 五 経博 士 ら と一緒 に渡 来 して きた の で あ る 。 『書 紀 』 の 中 で 、 交流 時 同伴 す る官 僚 が 将 軍 で あ っ た こ とは こ こ しか 見 ら れ な い 。 これ が 今 と 同 じ意 味 の 将 軍 で あ れ ば 、 日本 学 者 らの 論 理 も無 理 で は な い で あ ろ う と思 わ れ る 。 は た して 、 彼 らの 交 代 期 間 は何 年 間 で あ った の か 。 『三 国 史 記 』 に は高 句 麗 と百 済 の 官 等 が 中 国 文 献 の 記 録 に よ っ て記 され てい る。. 2‑1新. 唐 書 云 、 高 句 麗 官 凡 十 二 級 、 … 秉 国 政 三 歳 一 易 、 善 職 則 否 、 凡代 日、 有 不 服 則 相攻. 2‑2北. 王為閉宮守、勝者聴為之、…。. 史 料2‑1は. 史 云 、 百 済 官 有 十 六 品 、 … 長 吏(官)三. 年 一 交 代 …13)。. 『新 唐 書 』 に伝 え て い る高 句 麗 の官 等 で 、 高 句 麗 に は12級 の 官 等 が あ り、3年. ご とに 変 わ る こ とを知 る こ とが で きる。 史 料2‑2は. 、 『北 史 』 の 記 録 で あ る百 済 官等 で、 百 済. には16の 品 が あ り、 高 句 麗 と同 じ よ う に3年 ご とに交 代 してい た。 史 料2を. 通 して 、 両 国 と もに官 職 の 勤 務 期 間 は3年 で あ っ た こ とが 明 らか に な っ た。 しか し. 高 句 麗 は官 人 が 職 責 を よ く遂 行 す れ ば 交 代 しな か っ た 。 も し、 交 代 す る 日 に不 服 従 す る官 人 が い れ ば 、 王 は宮 門 を 閉 めて お 互 い に攻 め て勝 っ た側 の 官 人 の聴 に従 い任 命 した。. 21.
(4) 古代韓 日仏教 文化交流について(崔 前 史 料1‑1、1‑2の. 福姫). 年 差 も3年 で あ り、 ま た史 料2を. 通 して 、 両 国 と も に官 職 の 勤 務 期. 聞 は3年 で あ っ た こ とが 明 らか に な っ た'4)。 こ の よ う に、 交 代 期 間 を3年 と基 準 して計 算 して み る と、継 体7年. か ら欽 明13年 ま で13回 の. 交 代 が 行 わ れ た。 次 の14回 目の交 代 は555年 に行 われ るべ きだ った こ とが 、 どう して13回 と14回 の 間の554年 に 行 わ れ た の か 。 交代13回 目の 頃 に はそ の期 間が よ く守 られ て い なか った の か 。 とこ ろで 、13回 目の交 代 年 に あ た る欽 明13年(552)に. 百 済 聖 明 王 は仏 像 な どを献 じ、 仏 教 伝. 来 は したが 、 五 経 博 士 らの 派 遣 は行 わ れ な か っ た。 翌 年 に 欽 明 天 皇 は五 経 博 士 らを 交 代 す る こ とを勅 しユ5)、 欽 明15年(554)に. 五 経博 士 らが 交 代 す る よ うに な っ た 。 これ は 、 当 時 の 僧 侶 の立. 場 を理 解 す る に お い て重 要 な事 実 で あ る 。 欽 明15年 に五 経 博 士 らの 交 代 と と もに 易 博 士 、 暦 博 士 、 医 博 士 、 そ して僧 侶 曇 恵 な ど9人 を 道 深 な ど7人 に代 え る16)。仏 教 公 伝 時 、 『書 紀 』 に は 僧 侶 の渡 来 記 録 が 記 さ れ て い ない が 、 『 書 紀 』 よ り成 立 時 期 が 早 い 『上 宮 聖 徳 法 王 諸 説 』 に は 僧 侶 の 渡 来 記 録 が 見 られ る17)。仏 教 伝 来 当 時 に僧 侶 の 渡 来 した 記 録 が 事 実 で あ れ ば 、 曇 恵 な ど9人 と交 代 し た道 深 な ど7人'8)の 渡 来 時期 は、 戊 午 年 説 に従 う と538年 と554年 の 間 に渡 来 し た こ と に な り、 壬 申年 説 を採 れ ば552年 に 来 た こ とに な る。 僧 道深 の 来 朝 時期 は と も あれ 、 交 代 され た こ とに重 点 をお け ば、 五 経 博 士 交 代 の よ うに 欽 明 15年 の僧 侶 の 交代 も同 じ考 えで 行 わ れ た の で は ない か 。 つ ま り、 五 経 博 士 と僧 侶 の交 代 か ら次 の こ とが 読 み 取 れ る。 第 一 は 、 当 時 日本 にお い て 先 進 文化 で あ る 「 仏 教 」とい う ものが 伝 来 され た と して も、 そ れ よ りは数 十 年 前 か ら交 代 さ れ た 五 経 博 士 ら の役 割 が もっ と必 要 で あ っ た こ と を推 測 され る 。 第 二 は、 仏 教 が 宗 教 と して で は な く、 政 治 的 な役 割 と して 伝 来 さ れ た こ と を間 接 的 に物 語 って い るの で あ ろ う。 第 三 は、 僧 侶 も本 来 の宗 教 人 と して の役 割 よ りは、 文 化 の伝 導 者 と しての 役 割 だ っ た の で あ ろ う。. 2)日. 本 仏 教 と善信 尼. (1)日. 本 仏 教 教 団の 原 型. 敏 達 朝 に 司 馬 達 等 の女 で あ る 嶋 は高 句 麗 恵 便 に 得 度 し、 法 名 を 善信 と した 。 また善 信 尼 の弟 子 二 人 が 出家 し、 一 人 は漢 人夜 菩 の 女 で あ る 豊 女 が 名 を禅 蔵 と及 ぶ 。 も う一 人 は錦 織 壼 の 女 で あ る石 女 が 名 を 恵 善 と した19)。そ の 後 、 崇 峻 朝 に 善信 尼 ら は百 済 に渡 っ て六 法 戒 と大 戒 を 授 し、 帰 国 した2°)。 六 法 戒 と は式 叉 摩 那 の 戒 で あ り、 大 戒 は比 丘 ・比 丘 尼 の戒 で あ る。 当 時 百 済 に は 謙 益 が イ ン ドか ら直 接 持 っ て きた 五 部 経 典 を翻 訳 し、 百 済 特 有 の 戒律 が 成 立 さ れ て い た21)。新 羅 は 善徳 女 王 代 に慈 蔵 が 貞 観12年(638)に. 入 唐 し、 貞 観17年(643)に. 帰国し. た 後 か ら慈 蔵 に よっ て 戒 律 仏 教 が 成 立 さ れ た22)。慈 蔵 は 百 済 の 謙 益 とほ ぼ 同 じ く らい の 位 置 に あ っ た と考 え られ る。 高 句 麗 は 東 晋 の曇 始 が 経 律 数 十 部 を もっ て 「往 化 遼 東 」 した よ う に、 義 淵 が 「善 守 律 義 」 した とい う記 録 か ら高 句 麗 に も戒律 が 重視 され た と推 測 で きる23)。 ‑22一.
(5) 佛教大学大学院紀要. 第30号(2002年3月). さ て、 日本 の僧 団 と戒 律 は 百 済 か ら始 ま った と言 わ れ て い る こ とが 一 般 的 で あ る24)。しか し、 次 の 史 料 をみ れ ば 、 日本初 期僧 団 の 始 ま りで あ る善 信 尼 ら の得 度 に疑 問 点 が あ る。. 3‑1志. 癸 嶋 天 皇 御 世 、 戊 午 年 十 月 十 二 月 、 百 済 国主 明 王 、 始 奉 度 佛 像 経 並 僧 等 、 勅 授 蘇 我稲 目宿 禰 大 臣 、 令 興 隆 也25)。. 3‑2欽. 明 十 五 二 月 。 百 済 遣僧 曇 恵 等 九 人代 僧 道 深 等7人26)。. 3‑3敏. 達六年十一月。. 百 済 王付 還 使 大 別 王 等 、 献 経 論 若 干 並 、 律 師 、 禅 師 、 比 丘尼 、. 咒 禁 師 、 造 仏 工 、 造 寺 工 、 六 人27)。. 史 料3は 善 信 尼 らの 出 家(敏 達13、584)以. 前 ま で渡 来 した僧 侶 の 史料 で あ り、 皆 百 済 僧 侶 で. あ る。 善 信 尼 らが 出 家 す る以 前 、 仏 教 公伝 時 よ り 日本 に は渡 来 僧 が 存 在 して い た こ と を知 る こ とが で き る。 史 料 の 中 で も、 善 信 尼 らの 出家 と一 番 年 差 が 少 な い 史料3‑3に. は、 「 律 師」 お よ. び 「比 丘 尼 」 が 含 まれ て い る。 難 波 の 大 別 王 寺 に安 置 さ れ た こ の僧 侶 た ちが 敏 達13年(584)の 頃 に、 百 済 へ 帰 国 した か ど う か は 明 らか で は ない 。 しか し、 彼 らが以 前 の僧 侶 交 代 の よ う に交 代 され た と は見 られ ない 。 と もか く善信 尼 らの 出 家 当 時、 日本 に は百 済 僧 が 既 に活躍 して い た に もか か わ らず 、 善 信 尼 らは ど う して 高 句 麗 恵便 に得 度 した の か 。 恵 便 は ど ん な人 物 で あ っ たの か 。. 4‑1釈. 恵 便 、 高 麗 国人 、 敏 達 十 三 年 … 於 播 州 得 似 比 丘 者 、 問之 、 對 日、 此 方 不敬 沙 門 、 故 我 俗 耳 、 乃 便 也 、 馬 子 貴 為 師28)。. 4‑2和. 州 石 川 寺 沙 門 恵 便 傳 、 釈 恵便 、 高 麗 国 人 、慕 我 風 俗 、 渡 海 而 来 、 是 時 、 仏 法 草 昧 、 不 敬 僧 寶 、 口 光 埋 名 、 混 於 民 間 、 敏 達 十 三 年 …一 日便 請 僧 尼 設 大 会 齋 、 司 馬 達 等 在 座 、於 饌 上 、感 現 舎 利即 献 蘇 氏 、其 舎 利 神 異 無 方 、蘇 馬 子 益 厚 其 其 淨 信 矣29)。. 4‑3然. 後 癸 卯 、稻 目大 臣 馬 古 足 禰 … 有 脱 衣 高 麗 老比 丘 恵 便 、 與 老 比 丘尼 法 明 … 合 三 女 等 、 就 法 明 受 学 仏 法 在 …3°)。. 史 料4‑2に. よ る と、 恵 便 は 日本 の風 俗 を慕 っ て 来 た が 、 そ の 時代 の人 々が 「仏 教 」 に暗 い 、. 僧 宝 を尊 敬 す る こ と を分 か ら な い の で 、 俗 に住 ん で い た と い う。 この よ う な こ とか らみ れ ば 、 恵 便 は世 俗 に住 ん で い た と して も、 還 俗 僧 で あ る と は言 え な い。 恵 便 が 還 俗 僧 で あ っ たか ど うか は 、 善 信 尼 らの 出 家 に おい て重 要 な こ とで あ る 。 恵 便 が 還 俗 僧 で は な い とい う こ と は、 善信 尼 らの 出家 が 認 め られ る。 しか し恵便 が捨 戒 して 還 俗 して い た とす れ ば 、 善 信 尼 らの得 度 は如 法 な出 家 とは い え な い し、 姿 だ け が剃 髪 染 衣 した 形 相 沙 彌 尼 で あ る とい え る か らで あ る。 しか も、 恵 便 が 授 戒 す る 資格 が ない の に、 自 ら得 度 師 に な っ て 善信 尼 ら を出 家 させ た と は考 一23一.
(6) 古代 韓 日仏教文化交流 につ いて(崔. 福姫). え られ ない 。 しか も「善信 」とい う法 名 まで 授 け たの で あ る。 さて、 高 句 麗 仏 教 の 戒 律 に関 す る最 初 の 記 録 は 、 『海 東 高 僧伝 』 に 引 く 「釈 曇 始伝 」 で あ る3')。 曇 始 が伝 来 した と い う経 と律 に関 し、 そ の経 名 が記 録 され て い な い の で 、 どん な仏 教 と戒律 が 伝 え られ たか 明 らか で は な い。 が、 教 法 は三 乗 の教 法 と三 帰 五 戒 で あ った こ と は明 らか で あ り、 曇 始 が仏 教 伝 来 か らあ ま り経 過 して い な い時 に高 句 麗 の 人hを 教 化 させ た こ と は充 分 に 考 え ら れ る。 以 来 、 『続 高 僧 伝 』 の 「法 上 伝 」 と32)、『海 東 高 僧 伝 』 の 「 義 淵伝 」33)に よる と、 高 句 麗 の 平 原 王18年(576)に. 大 丞 相 で あ った 王 高 徳 に よっ て 義 淵 が 中 国 に派 遣 され 、 当 時 中 国 仏教 界 で 一. 番 仰 が れ た 法 上 大 碩 徳 に会 った 。 こ れ に よっ て 、 高 句 麗 の大 乗 仏教 と大 乗 戒 律 が 成 立 さ れ た の, で あ る。 恵便 の 渡 来 が いつ だ っ た の か 知 る こ とが で きな い の で 、 恵 便 が 大 乗 戒 を受 持 して い た の か ど うか につ い て も明 らか で は な い 。 高句 麗 の大 乗 戒 が 成 立 した576年 以 前 に 渡 来 した とす れ ば、 五 戒 の み を受 持 して い た は ず で あ る し、 そ の 以 後 に渡 来 した とす れ ば 、 大 乗 戒 を受 持 した は ず で あ る と推 測 す る の み で あ る 。 以 上 の よ う に、 日本 最 初 の 出家 者 で あ る 善信 尼 ら は高 句 麗 恵便 に 得 度 した こ とを知 る こ とが で き る。 善 信 尼 らが た とえ 恵 便 に大 戒 を受 け な くと も、 日本 仏 教教 団 の 原 型 は高 句 麗 僧 侶 か ら 始 まっ た と見 るべ きで あ る34)。. (2)善. 信 尼 らの得 度 と 日羅. 善信 尼 らの 出 家 は敏 達13年(584)に. 鹿 深 臣 と佐 伯 蓮 が 百 済 よ り彌 勒 石 像 を もた ら した 時 、 仏. 像 を祭 るた め で あ っ た 。 善 信 尼 らの 出 家 が そ の よ う な理 由 で あ った とす れ ば 、 そ れ 以 前 に も 日 本 に仏像 が もた られ た 記録 は2回 あ る。そ れ は 仏教 公伝 時 、百 済 か らの送 られ た釈 迦 仏 金 銅 像35) と敏 達8年(579)に. 新 羅 使 が 貢 した仏 像 で あ る36)。こ の 時 に 日本 僧侶 の 出 家 を必 要 と しな か っ. た こ とは 、 百 済 よ りの 渡 来 僧 が 活 躍 して い た か らで あ ろ うか 。 善 信 尼 らの 出 家 す る 頃 に は 日本 に僧 侶 が い な か っ た し37)、ま た 、 蘇 我 氏 が 親 百 済 系 で あ り、 司 馬 達 等 も百 済 渡 来系 で あ り なが ら も、 高 句 麗 僧 で あ る恵 便 に善 信 尼 ら を得 道 させ た こ と は、 そ の 時 、蘇 我 氏 が い か に 日本 僧 侶 の 必 要 性 を痛 感 した か が伺 え る。 そ れ で は ど ん な理 由で 敏 達13年(584)に. 日本 僧 侶 を必 要 と した の か。 そ れ は 『 書紀 』の前後. の 記 録 を検 討 して見 れ ば、 日羅 と い う人 物 の 存 在 を軽 視 で き ない 。 善 信 尼 らが 出 家 す る一 年 前 、(敏 達12年 、583)に. 敏 達 天 皇 は任 那 を復 興 し よ う と した 。 そ の. 時 、 天皇 は百 済 の 日羅 が 賢 く、 勇 気 が あ る と聞 い て 日羅 と一 緒 に任 那 復 興 を 計 画 す る た め に 、 紀 国造 押 勝 ・吉 備 海 部 直 羽 島 の 二 人 の 使 を百 済 に 送 っ た が 、 百 済 王 の 反 対 で 日羅 の渡 来 は で き なか った 。 同年 に天 皇 は、 再 び吉 備 海 部 直 羽 島 を送 っ て、 日羅 が 日本 に渡 来 す る よ うに な っ た 。 百 済 王 は 日羅 ・恩 率 ・徳 爾 ・余 恕 ・奇 奴 知 ・参 官 ・柁 師徳 率 次 干 徳 ・水 手 ら を一 緒 に 送 っ た 。 ‑24一.
(7) 佛教大学大学院紀要. 第30号(2002年3月). 日羅 らは吉 備 兒 島屯 倉 に到 着 し、 天 皇 が 阿 斗 桑 市 に建 て られ た館 に住 み な が ら、 任 那 復 興 の 計 画 を天 皇 に奏 上 した 。 こ の 頃 に、 一 緒 に 来 た 恩 率 ・参 官 は 日羅 が 百 済 を 裏切 った 思 っ て、 徳 爾 と余 恕 を誘 って 日羅 を殺 した38>。 日羅 が 部 下 た ち に 暗 殺 さ れ た こ とが 事 実 で あ る と して も、 百 済 で は 日本 朝 廷 が 日羅 を殺 した と考 えた 。そ れ は第 一 次 の 使 が 帰 朝 し、「百 済 国 の王 が 日羅 を惜 しん で、 …百 済 国 主、奉 惜 日羅 、 不 肯 聴 上 」 と言 っ た こ と か ら十 分 に推 測 で き る。 そ れ で 、 百 済 は 日本 に 対 す る一 切 の交 流 を中 止 した の で は ない か 。 日羅 殺 害 事 件 に よ って 、 百 済 本 土 と百 済 渡 来 系 氏 族 の 僧 侶 らは 日本 に 非 協 調 的 とな り、 冷 や や か な態 度 を見 せ は じめ た の で 、蘇 我 氏 は仏 教 に帰 依 して か ら よ うや く 日本(自. 国)僧 侶 の 必. 要 性 を感 じた の で は ない か 。 田村 円澄 氏 は 日羅 を豊 浦 の 破 仏 と関 連 して、 「 敏 達 天 皇 が 仏 教 破 却 に乗 り出 した の は 、 仏 教 の 社 会 化 に危 機 感 をい だ い た か らで あ るが 、 な お そ の 背 景 に 百済 の対 日政 策 に対 す る不 満 が あ っ た か らで は な か ろ うか 。 い わ ゆ る任 那 の 復 興 に 非 協 力 的 な百 済 の 対 日態 度 を転 換 させ る た め、 百 済 か ら 日羅 を招 い たが 、期 待 した 成 果 を あ げ る こ とはで きな か っ た 。 大 和 朝 廷 の 百 済 に 対 す る不 信 感 は深 まっ た 。 この 情 況 が 豊 浦 の破 仏 の背 後 にあ っ た と思 われ る」とい っ て い る39)。'こ の こ とか ら も当時 日本 と百 済 の 関係 は あ ま りよ くなか っ た こ と を十分 に知 る こ とが で きる。 一 方 、 日羅 上 人 の 「上 人 」とい う こ と は僧 侶 に対 す る敬 称 で あ るの で 、 日羅 上 人 は 間 違 い な く 僧 侶 で あ る。 と こ ろ で、 日本 の 記 録 に は百 済 僧 とい っ て い る が 、 も と も と百 済 で は 達 率 とい う 官 人 で あ った とい う記 録 もあ る。 お ま け に現 存 す る 日羅 伝 類 の 中 に、 古 い 記 録 は仏 教 とは 全 然 関係 な い人 物 で あ っ た の に、 そ の記 録 を参 考 に した後 世 の 記 録 は百 済僧 侶 と明記 され て い る4°)。 また 『 看 羊 録 』 な どに は 日羅 を新 羅 人 で あ り、 日本 京 都 の 愛 宕 山 の 權 現 神 に な っ た と記 され て い る4')。百 済 人 で は な く、 新 羅 人 と な っ て い る こ とな ど、 日羅 につ い て の も っ と詳 しい 研 究 は今 後 の課 題 と して もっ て い きた い。. (3)日. 本 最 初 の比 丘. 史 料 に よっ て 確 か め られ る 日本 最 初 の男 性 出 家 者 は、 司 馬 達 等 の息 子 で あ る多 須 奈 で あ る 。 多 須奈 は 出 家 して 「 徳 斎 」 とい う法 名 を授 け られ た 。 徳 斎 に 関す る 史料 は 『書 紀 』 と 『元 亨 釈 書 』 な どが あ る。 しか し、 両 史料 の 内 容 が 一 致 しな い こ と も 問題 で あ る が 、 同 じ 『書 紀 』 の 記 録 で も一 致 し な い の で、 そ れ を 明 らか に して行 きた い 。 まず 『書 紀 』 の 記 録 を調 べ て み よ う。. 5‑1用. 明 二 年 … 臣、 奉 為 天 皇 、 出家 修 道 、 又 奉 造 丈 六仏 像 及 寺 、 天 皇 為 之 悲 慟42). 5‑2崇. 峻三年. 5‑3推. 古 十 四年 … 五 月 甲寅 朔 戊 午 、 … 汝 父 多 須 那 、 為 橘 豊 日天 皇 出 家 恭 敬 仏 法 又 姨 嶋. 鞍 部 司 馬 達 等 子 多 須 奈 同時 出家 名 日徳 齊 法 師43). 25.
(8) 古代韓 日仏教文化交流 につい て(崔. 福姫). 女 、 初 出 家 、為 諸尼 導 者 …44). 史料5‑1は. 用 明2年(587)に. 用 命 天 皇 が 仏 教 に帰 依 し よ う と した 時、 臣下 の 問 に争 い が あ. っ た 。 そ の 時 、多 須 奈 が 用 命 天 皇 の た め 出 家 し、 丈 六 仏 像 と寺 院 を造 営 す る と誓 って い る 。 史 料5‑2の. 崇 峻3年(590)に. 史料5‑3は. 徳 斎 の 出家 が み え る。. 推 古 天 皇 が推 古13年(605)に. 鞍 作 鳥(止 利 仏 師)に 命 じて丈 六 仏 像 を造 らせ た。. 翌 年 に丈 六 仏 像 を 完 成 して 堂 内 に安 置 した 時 、 推 古 天 皇 が 鞍 作 鳥 に 「君 の 父 で あ る多 須 那 は用 明 天 皇 の た め に 出 家 して 仏 法 を恭 敬 し、 姨 は 出家 して 比 丘 尼 らの指 導 者 に な っ た 」 と記 され て い る が 、本 文 中 に徳 斎 とい う法 名 は見 え ない 。 以上 の 史 料5を 綜合 して み れ ば、 徳 斎 は用 明2年. に 出家 発 願 を し、 崇 峻3年. こ こ まで は年 代 順 に な ん の 問 題 もな い よ う にみ え る 。 しか し、 史料5‑3に. に 出家 して い る。 徳 斎 と善 信 が 共 に. 出家 した と記 され て い るの で 、 徳 斎 の 出家 を善 信 尼 ら と 関連 して確 か め てみ よ う。. 6‑1敏. 達 十 三 年 …令 度 司 馬 達 等 女 嶋 、 日善 信 尼 、 又 度 善 信 尼 弟 子 二 人 。 其 一 、 漢 人 夜 菩 之 女 豊 女 、 名 日禅 藏 尼 。 其 二 、 錦 織 壼 之 女 石 女 、 名 日恵 善 尼45). 6‑2…. 史料6は. 敏達十三年達等之子作比丘名徳齊. 女為比丘名善信. 時 人 指 家 族 為 仏 種46). 善 信尼 らの 出 家 記 録 で あ る。 『 書 紀 』 に は 、 善信 尼 と禅 藏尼 ・恵 善尼 の 法 名 の み で あ. り、徳 斎 の 出 家 は全 く見 られ ない 。 と こ ろで 、 『 元 亨釈 書 』 に は徳斎 が 善信 尼 と と も に出 家 した こ とが見 られ る。 上 の 史料5と 敏 達13年(584)に. 史 料6を 合 わ せ て見 れ ば、徳 斎 が 崇 峻3年(590)に. 出家 した とい う 『書 紀 」 と、. 出家 した とい う 『元亨 釈 書 』 の記 録 は 全 く異 な って い る。 前 者 の 記 録 が 年 代. 的 な順 番 に は 問 題 が な さそ う で あ る と し て、 後 者 の 記 録 が 間違 っ た とす るべ きで あ ろ うか 。 こ こで 、逆 に 『元 亨 釈 書 』 の 記 録 を基 準 と して 『書 紀 』 の記 録 を検 討 して み よ う。 史 料5‑3は. 記 録 自体 が 曖 昧 で あ るが 、 文 章 の 流 れ で み れ ば 、 善信 尼 と徳 斎 は一 緒 に 出 家 し. た と推 測 され る。 そ うで あ る とす れ ば、 崇 峻3年(590)に. 善 信 尼 も 出家 す べ きで あ る。 と こ ろ. で 、 この 年 は 善信 尼 が 百 済 よ り帰 朝 した 年 で あ り、 多 須 奈 が この 年 に 出 家 した 善 徳 ・善 妙 ・百 済 の 妙 光 、 ま た漢 人 の 善 聰 ・善 通 ・妙 徳 ・法 定 照 ・善 智 聽 ・善智 恵 ・善 光 ら と一 緒 に 出 家 し、 徳 斎 の 法 名 を も らっ た 。 も し、 この 記 録 に従 う とす れ ば、 徳 斎 は 善信 尼 ら に受 戒 した こ と に な る 。 しか し、 善信 尼 ら は 「尼 の 受 戒 法 は、 まず 尼 寺 の 内 で 、 十 人 の尼 師 を請 して本 戒 を受 け た 後 に、 法 師 寺 に 行 って 十 人 の 法 師 を請 し、 先 の比 丘 尼 十 人 と合 して 二 十 人 の も とで本 戒 を受 け る」47)とい う百 済 使 の 説 明 に よ って 出 家 ら しい 出 家 の た め に 百 済 まで 渡 った 。 形 式 を揃 え た如 法 な受 戒 を う け て きた 善 信 尼 が 比 丘 に授 戒 し、 出 家 させ た と い う こ と は あ りえ な い 。 そ れ で 、 こ の 史料 は あ ま り信 じる こ とが で き な い と考 え られ る。 ‑26一.
(9) 佛教大学大学院紀要. 第30号(2002年3月). 以 上 を総 合 して み れ ば、 徳 斎 の 出 家 に は 二 つ の 問題 点 が あ る。 出家 発 願 と出 家 時 期 が そ れ で あ る。 まず 、 第 一 は 用 明 天 皇 の た め で あ る とい う 出家 発 願 とい う点 か らみ れ ば 、 出家 発 願 が な い 史 料6‑2よ. りは 史 料5‑3が. 正 しい 。 ま た年 代 順 に よ る 出家 時 期 も史 料5‑3が. 正 しい 。. しか し、 比 丘 尼 に 受 戒 を うけ る こ とは あ りえ な い 。 特 に 、 善 信 尼 と共 に 出家 した こ と か ら も、 史 料5‑3よ. り史料6‑2の. 記 録 が 正 しい で あ ろ う。. 徳 斎 の 出家 時期 は 用 明 朝 、 崇 峻朝 、 敏 達 朝 、 三 つ で 推 測 で きる。 第 一 は 、 用 明 朝 の 出家 で あ る。 史料 自体 が 曖 昧 で あ るが 、 徳 斎 が 用 明 天 皇 の た め に 出家 した とい う史料5‑3で. あ る。 第. 二 は、 崇 峻 朝 で あ る。 こ れ も徳 斎 が 用 明 天 皇 の た め に 出 家 した とい う とこ ろ か らみ れ ば、 史料 5‑1、5‑2の. 年代 順 に は 認 定 で きる 。 しか し、 比 丘 尼 に得 度 さ れ た こ とは あ りえ な い。 第. 三 は、 史料6の 敏 達 朝 で あ る。 この 史 料 は徳 斎 の 出 家 発 願 を 除 い て 、 また比 丘 尼 に得 度 した と い う納 得 で き ない こ と を考 慮 す れ ば、 上 の 中 で 一 番 正 しい記 録 で あ る48)。 日本 最 初 の比 丘 で あ る徳 斎 に つ い て は 出 家 、 そ の事 実 しか 明 らか で な い 。 い つ 誰 に受 戒 を授 け られ た の か な ど ま っ た く不 明 で あ る 。 しか も、 日本 の 初 期 仏 教 教 団 に は 徳 斎 を は じめ、 比 丘 の 活 動 は全 く現 わ され な い こ とが特 徴 で あ る。 仏 教 が伝 来 され て か ら しば ら くの 問 、 男 性 の 出 家 が あ ま りない こ と は どう説 明 す べ きか 、 今 後 の 課 題 と して お きたい 。 こ こで 日本 比 丘 と関 連 して 、 善 信 尼 らの 出 家 意 味 につ い て簡 単 に述 べ て 見 よ う。 当時 日本 の 出 家 者 に は帰 化 人 が 多 か っ た とい わ れ て い る 。 そ して 善信 尼 らが 百 済 よ り授 戒 を う け て帰 っ た 崇 峻3年. に も、多 くの 女 性 た ちが 出家 した 。 そ れ に つ い て 田村 円 澄 氏 は 「蘇 我 馬. 子 が 出家 者 と して 善 信 尼 らを 必 要 と した の は、 馬 子 の 願 望 を仏 に伝 え 、 そ の 願 望 が 実 現 す る よ う に仏 に祈 っ て も ら う た め で あ る 。 つ ま り、 善 信 尼 ら は馬 子 の願 望 を仏 に伝 え る シ ャ ー マ ンで あ る」 とい う49>。 一 方 、 柳 東 植 氏 は 「善信 尼 らが シ ャー マ ン と して の 技 能 を もっ て い た とす る こ と は、 日本 仏 教 の受 容 基 盤 か らが 韓 国文 化 との 交 流 か ら探 さ な け れ ば な らな い と思 う。 な ぜ な ら ば、 韓 国 の 土 着 信 仰 が超 越 神 的 な巫 俗 信 仰 で あ れ ば、 日本 の 土 着 信 仰 は 閉鎖 的 な 地域 擁 護 神 と して の氏 神 信 仰 で あ る と い え よ うか らで あ る」 と言 っ て い る5°)。 した が って 、 飛 鳥 寺 が 国神 の 聖 地 に建 立 さ れず 、韓 半 島系 神 の 聖地 に 立 て られ た の で、 巫 俗 機 能 を持 つ僧 尼 が 必 要 で あ った の は 当然 な こ とで あ っ た。 比 丘 尼 に対 す る記 録 は三 国 の 中 で新 羅 にみ え る。 『三 国史 記 』 に引 く 「…真 興 王 十 二 年 、 以 高 麗 恵 亮 法 師為 寺 主 、 都 唯那 娘 一 人 阿尼 …」51)であ る。 都 唯那 娘 とい う職 が あ り、 そ の定 員 は一 名 で、 阿尼 を これ に任 ず る 旨 の記 録 が あ る。 これ は、 僧 官 に関 す る記 録 で、 僧 官 の 中 に尼 僧 を あ て る例 は、 高 句 麗 ・百 済 は もち ろ ん、 中 国 や 日本 に もみ られ ず 、 新 羅 独 特 の もの で あ る。 こ こに 、新 羅 仏 教 に お け る 尼 僧 の 占め る地 位 を指 摘 す る こ とが で き よ う52)。 こ こで の 「阿尼 」 は神 霊 的 能 力 を もつ 女 巫 の 普 通 名 詞 に解 す る 説53)と、 歴 史 的 な具 体 的 人 物 一27.
(10) 古代韓 日仏教文化交流 について(崔. 福姫). 名 とみ る説54)、また 、 一般 に尼 僧 を指 す 名 詞 とみ る説 もあ る55)。 日本 の学 者 は 当 時 に尼 僧 を神 霊 的 能 力 を もつ シ ャ ー マ ンで み る こ とが 共 通 で あ り、 韓 国 の学 者 は、 そ の よ うな 論 点 で 尼 僧 を理 解 して い る者 は、 あ ま り 目立 た な い。 こ れ は 「 尼 僧観」 につ い て も両 国 の 学 者 らの 微 妙 な違 い が あ る 。 そ れ は歴 史 的 な 立場 で 理 解 す べ きで は な い で あ ろ う か 。 い い か え れ ば 、 初 期 の 日本 仏 教 が あ る面 で は、 神 道 との 習 合 で あ っ た の で 、 そ の 意 味 で尼 僧 を女 巫 と理 解 して い るか も しれ ない 。 これ に対 して 韓 国 は 、 固 有 の 信 仰 との 習合 は あ っ た が 、 尼 僧 をそ れ と結 び つ い て 解 釈 して い る とは 思 え ない 。 尼 僧 を仏 陀 の 弟 子 と して認 め て い るか ら で あ る。 善 信 尼 らの 出家 は 仏 僧 の 役 割 に対 抗 す る 巫 女 にす ぎな か っ た が 、 百 済 の正 式 仏 教 に よ っ て授 戒 した こ とは僧 法信 仰へ の発 展 を意 味 す る こ とで あ る56)。. 3.結. 論. 本 論 は 『書 紀 』 を 中 心 に そ れ 以 外 の 史料 を 加 え なが ら、 高句 麗 ・百 済 ・新 羅 の 三 国 と 日本 の 仏 教 文 化 交 流 を検 討 して み た。 人 的 交 流 に お い て は今 まで 明 らか に さ れ た 以外 の 人 物 は見 あ た ら なか っ たが 、 そ の 交 流 史 の 中 で、 見 られ る い くつ か の 史 的 疑 問 点 に つ い て重 点 を置 い た。 人 的交 流 史 に見 られ る 問題 点 を簡 単 に 要約 す る と、 まず 、 「五 経 博 士 と僧 侶 の 交 代 」 は継 体 朝 か ら欽 明 朝 ま で行 わ れ た 五 経博 士 の交 代 は3年. こ と に交 代 され た こ と を知 る こ とが で きる 。 ま. た仏 教 公 伝 以後 に も交 代 され た 五経 博 士 は、 欽 明15年(554)に. 交 代 され た 僧 侶 らの 性 格 につ い. て考 え させ る こ とで あ っ た 。 僧 侶 を交 代 した こ とは 当 時 は純 粋 な 「修 行 人 」 と して の僧 侶 で な く、 仏 教 の政 治 的 な代 価 と して の渡 来 に過 ぎなか っ た こ とを証 明 して い る。 次 は 善信 尼 ら との 関係 で 「日本 仏 教 教 団 の 原 型 」 で は、 史料 を通 して 善 信 尼 らの 出 家(敏 達 13、584)以 前 まで 日本 に は百 済 僧 が す で に活 動 して い た こ と を分 か っ た。そ れ に もか か わ らず 、 善 信 らは ど う して高 句 麗 恵便 に 得 度 を受 け た の か 。 恵 便 が 還 俗 僧 で あ った か ど う か は 、 善 信 尼 らの 出家 にお い て重 要 な こ とで あ る。 しか し、 恵便 が 自 ら授 戒 す る資格 が な い の に 、 得 度 師 に な っ て 善信 尼 ら を 出家 させ た と は考 え られ な い の で 、 日本 仏 教 教 団 の 原 型 は高 句 麗 僧 か ら始 ま っ た と見 るべ きで あ る。 「日羅 との 関 係 」 は 『書 紀 』 の 記 録 に従 う と、 善 信 尼 らの 出家 は 百 済 か ら も た ら した 仏 像 を 祭 る ため で あ っ た。 そ う で あ る とす れ ば、 善 信 尼 らの 出家 以 前 に も何 回か の仏 像 伝 来 が あ っ た 。 そ の時 は 日本 僧 侶 の必 要 性 を求 め なか っ た の に 、 善 信 尼 らの時 は ど う して 日本 僧 侶 の 必 要 性 を 感 じた の か 。 そ れ は 『書 紀 』 の 前 後 の記 録 を検 討 して み れ ば、 日羅 の存 在 を軽 視 で きな い こ と が 分 か る。 日羅 殺 害 事 件 に よっ て 、 百 済 本 土 と百 済 渡 来 系 氏 族 の僧 侶 らは 、 日本 に非 協 調 的 と な り、 冷 や や か な態 度 を見 せ は じめ た の で、 蘇 我 氏 は仏 教 に帰 依 して か ら よ うや く 日本(自 ‑28一. 国).
(11) 佛 教 大 学 大 学 院紀 要. 第30号(2002年3月). の僧 侶 の必 要 性 を求 め た ので は ない か 。 「日本 最 初 の 比 丘 」 は 司 馬 達 等 の 息 子 で あ る 多 須 奈 は 、 出 家 し て られ た。 『 書 紀 』 で は 徳 斎 が 崇 峻3年(590)に 達13年(584)に. 「徳 斎 」 と い う 法 名 を 受 け. 出 家 し て い る 。 し か し 、 『元 亨 釈 書 』 の 記 録 は 敏. 出 家 し た と 全 く異 な っ て い る 。 も し 、 『書 紀 』 に 従 う とす れ ば 、 徳 斎 は 善 信 尼. らに受 戒 した こ とに な る。 百 済 で 如 法 な受 戒 を うけ て きた 善信 尼 が 比 丘 に授 戒 し、 出家 させ た と い う こ とはあ りえ ない ので 、 『 元 亨 釈 書 』 の記 録 が 正 しい と思 う。 三 国 は 一 方 的 に 先 進 仏 教 文 化 を 日 本 に 伝 え た と言 わ れ て い る 。 し か し、5世 国 で 盛 ん に な っ た 仏 教 文 化 を6世. 紀 以 後 、 中 国 ・韓. 紀 後 半 に な っ て 、 日本 が 政 策 的 に そ の 受 容 を 開 始 し た こ と に. よ っ て 、 両 国 間 の 文 化 的 ・交 流 史 的 な 意 味 が 成 立 す る の で あ る 。 こ れ ら の 史 料 を 通 し て 古 代 仏 教 を検 討 し て み た 結 果 、 高 句 麗 ・百 済 ・新 羅 、 三 国 の 中 で 、 百 済 と 新 羅 は 詳 し く研 究 さ れ て い る 反 面 、 高 句 麗 仏 教 は あ ま り進 ん で い な い と 思 う 。 仏 像 伝 来 に お い て も 文 献 記 録 は な い が 、 現 存 す る 高 句 麗 仏 像 、 そ して 当 時 の 日 本 に お け る 高 句 麗 と百 済 と の 関 係 も 今 後 研 究 さ れ る べ き 課 題 で あ る 。 こ れ は 当 時 日 本 に お い て の 高 句 麗 と百 済 の力 争 い を 感 じ させ る こ とで は な い か と思 わせ る。 こ の よ う な政 治 的 な背 景 が 日本 との 文 化 交 流 史 に ど ん な 影 響 を 与 え た の か は 今 回 詳 し く述 べ て な い 。 加 え て 当 時 の 日本 の 各 氏 族 問 と の 関 係 史 で も研 究 さ れ る べ き で あ る と 考 え ら れ る の で 、 今 後 の 研 究 課 題 と し て 取 り組 み た い と考 え て い る。. [注] 1)た. と え ば、 松 本 解 雄氏 は 「初 期 日本 仏 教 の 源 流 を 支 那 南 方 仏 教 に求 め る こ とが で きる 」と述 べ て い る。 (松本 解 雄 「仏 教 の 伝 来 とそ の 受 容 」 『 史 林 』25‑3、p374). 2)中. 村浩 「 仏 教 伝 来 年 代 の 再 検 討 」 『日本 歴 史』289、p17 上 田正昭氏 も 「 仏 教 伝 来 に 関す る 諸 先 学 の研 究 は、 そ の 国 内 情 勢 、 お よ び 文 献 分 析 か らア プ ロ ーチ の 精 緻 さ に もか か わ らず 、 仏 教 本 来 の 「外 来 宗 教 」 で あ る とい う観 点 か ら、 仏 教 を伝 え た 国 で あ る 中 国 、 お よび 三 国 の 情 勢 な ど を考 慮 した もの は 殆 ど 見 当 た らず 、 仏 教 伝 来 を 国 内 問 題 と して の み 把 握 し よ う と され る の は 遺 憾 で あ る」 と言 っ て い る 。(上 田 正 昭 「古 代 の 日本 と渡 来 文 化 」 『古 代 日本 と渡 来 文 化 』 学 生 社 、1988、p14). 3)田. 村 円澄 『 古 代 朝 鮮 仏 教 と 日本 仏 教 』 吉 川 弘 文 館 、1980、p23. 4)上. 田正 昭. 5)田. 村 円澄 「 古 代 朝 鮮 と飛 鳥仏 教 」 『 飛 鳥 ・白鳳 仏 教 論 』 雄 山 閣 出 版 、1975、pl94. 注2、p22. 6)『 日本 書 紀 』 巻 ユ7、継 体7年 条(『 新 訂 増 補 国 史大 系 』 巻2、p19.以. 下 は 『国史 大 系 』 と略 す る。). 7)『 日本 書 紀 』 巻17、 継 体10年 条(『 国 史大 系 』巻2、p23) 8)『 日本 書 紀 』 巻19、 欽 明15年 条(『 国 史大 系 』巻2、pp82〜83) 9)田. 村 円 澄氏 は 「513年に五 経 博 士 らを送 っ た の は 、 大 和 朝 廷 の援 助 に 対す る 謝 礼 の 意 味 が あ った と理. 29一.
(12) 古 代 韓 日仏教 文化 交 流 に つ い て(崔. 福 姫). 解 され る」 とい う。(田 村 円澄 『 古 代 朝 鮮 仏 教 と 日本 仏 教 』 吉 川 弘 文 館 、1980) 中 井 真 孝 氏 も、 田村 円 澄 氏 と 同 じ理 由 を挙 げ て お り、 仏 像 ・経 典 ・僧 侶 の送 遣 もそ の 一 環 と して 考 え る 方 が 事 実 に近 い と述 べ てい る。(中 井 真 孝 『 朝 鮮 と 日本 の 古 代 仏 教 』東 方 出版 、1994) 10)平 野 邦 雄 氏 は 「 五 経 博 士 を率 い た百 済 官 人 を 除 い て は 南 朝 人 で あ る」 と い う。(平 野邦 雄 『大 化 前 代 社 会 組 織 の研 究 』 吉 川 弘 文 館 、1969、pp250〜258) 11)田 溶 新 訳 『完 訳 日本 書 紀 』 一 志 社 、1997、p291 12)李 内 壽 「百 済 学 述 お よび 技 術 の 日本 伝 播 」 『百 済 研 究 』2,p20 13)『 三 国 史 記 』 巻40、 「雑 志 第 九 外 官 」 条 14)こ れ に つ い て 中村 浩 氏 も3年 な い し6年 とい っ て い る 。 交 代 期 間 を6年 に み え る 「東 城 子 言 」 は 、 欽 明8年. と した こ とは 、 欽 明15年 条. 条 に 「仍 貢 下 部 東 城 子 言 」 とあ り、 そ の期 間 が6年 で あ っ た こ. とか らで あ る。(中 村 浩 「仏 教伝 来 年 代 の 再 検 討 」 『日本 歴 史 』289、p34) 15)『 日本 書 紀 』 巻19、 欽 明14年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、p79) 六 月 … 別 勅 、 醫博 士 ・易 博 士 ・暦 博 士 等 、 宜 依 番 上 下 、 今 上 件 色 人 、 正 當 相 代 年 月 、 宜 付 還 使 相 代 16)『 日本 書 紀 』 巻20、 欽 明15年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、plO7) 17)『 上 宮 聖 徳 法 王 帝 説 』(『大 日本 仏 教 全 書 』(以 後 は 『日仏 全 』 と略 す る)『 日仏 全 』 巻71、p120c) 戊 午 年 十 月 十 二 日、 百 済 王 主 明 王 、 始 奉 度 仏 像 経 教 并 僧 等 18)『 元 亨 釈 書 』 巻16(『 日仏 全 』 巻62、pl48a)・. 『 本 朝 高 僧 傳 』 巻1(『 日仏 全 』 巻63、p27b)に. は 「釈. 曇 慧 、 百 済 国 人 、 欽 明 十 五 年 二 月、 共 道 深 本 国 貢 来 」 と し、 二 人 が 一 緒 に帰 朝 した とい う。 これ は 原 史 料 を間 違 っ て引 用 した か 、 『書 紀 』 の 記 録 を詳 し くみ な い で 、 二 人 の僧 名 だ け を移 した か確 実 で はない。 一 方 、 手 島文 倉 氏 は曇 恵 ・道深 が9人. と7人 を合 わせ た16人 と共 に渡 来 した と い う。(手 島 文 倉 「仏. 教 史 上 よ りみ た 日鮮 関 係 」 『 宗教 研 究 』4‑14、p34) 19)『 日本 書 紀 』 巻20、 敏 達13年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、pl13) 於 是 、 唯 於 播 磨 国 、 得 僧 還 俗 者 、 名 高 麗 恵 便 。 大 臣 乃 以 為 師 。令 度 司 馬 達 等 女 嶋 、 日善 信 尼 。 又 度 善 信 尼 弟 子 二 人 。 其 一 、 漢 人 夜 菩 之 女 豊 女 、 名 日禅 蔵 尼 。 其 二 、 錦 織 壼 之 女 石 女 、 名 日恵 善 尼 。 20)『 元 興 寺 縁 起 』(『日仏全 』 巻85、p2b) 「 庚 戍 年 。 自百 済 国尼 等 還 来 官 白。 戊 申年 往 即 受 六 法 戒 。 己 酉 年 三 月 受 大 戒 。 今 庚 戍 年 還 来 」 しか し、 『朝鮮 仏 教 通 史 』 中 巻 、 「 律 宗 」 条 に は、 「日本 善 信 尼 等 、 来 百 済 。 学 戒律 受 十 戒 六 戒 而 帰 。 是 為 日本 戒律 之 始 」 と し、 善 信 尼 らが 大 戒 を受 した 記 録 は な い。 しか も 、 『三 国 仏 法 伝 通 縁 起 』 下 巻 、 「 律 宗 」 条(『 日仏 全 』 巻62、p17c)に. は 、 「禅 藏 等 三 尼 遂 往 百. 済 、 十 戒 六 法 具 戒 二 重 、 皆 已成 就 、 経 三 年 帰 、 尼 寺 儀 式 移 此 而 来 」と し、 善 信 尼 らが 百 済 で 十 戒 も受 け た とい う。 21)蔡. 印 幻 「謙益 の 求 律 と百 済 仏 教 の戒 律 観 」 『東 国 思 想 』16、1983. 22)『 続 高僧 伝 』 巻24、 慈 藏 条(『 大 蔵 経 』 巻50、p639b) 23)鄭. 環喜 「 三 国時 代 社 会 と仏 経 の研 究」 『 韓 国 史研 究』63、p41. 24)『 朝 鮮 仏 教 通 史 』 中 巻 、p76 若 夫 海 東 律 部 、 当 以 百 済 為 始 … 日本 善 信 尼 等 、 来 百 済 、 学 戒 律 受 十 戒 六 法 而 帰 、 是 為 日本 戒 律 之 始 。. ‑30一.
(13) 佛 教 大 学 大 学 院紀 要. 第30号(2002年3月). 25)『 上 宮 聖 徳 法 王 帝 説 』(『日仏 全 』 巻71、pl20C) 26)『 日本 書 紀 』 巻19、 欽 明15年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、pp82〜83) 27)『 日本 書 紀 』 巻20、 敏 達6年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、plO7) 28)『 元 亨 釈 書 』 巻16(『 日仏 全 』 巻62、pl48b) 29)『 本 朝 高 僧 傳 』 巻67(『 日仏 全 』 巻63、p371b) 30)『 元 興 寺 縁 記 』 敏 達12年 条(『 日仏 全 』 巻85、plc) 31『 海 東 高 僧 伝 』 巻1(『. 大 正 蔵 』 巻50、plOl7a)・. 『 三 国遺 史』 巻3(『. 大 正 蔵 』 巻49、p987a). 元魏 釈 曇 始 伝 云 … … 晋 孝 武 大 元 年 末 、 齎 経 律 數 十 部 、往 遼 東 宣 化 、 現 授 三 乗 立 以 帰 戒 、蓋 高麗 聞 道 之始也 32)『 続 高 僧 伝 』 巻8(『. 大 正 蔵 』 巻50、p485b). 致 有 高 句 麗 国 大 丞 相 王 高 徳 、 乃 深 壌 正 法 崇 重 大 乗 、 欲 播 此 釈 風 被 于 海 曲 、 然 莫 測 法 教 始末 縁 由 西 徂 東 壤 年 世 帝代 、 故 具録 事 條 、 遣 僧 向 33)『 海 東 高僧 伝 』巻15(『 大 正 蔵 』 巻50、plO16b) 聞 前 齊 定 国 寺 沙 門法 上 、 戒 山 慧 海 、 肅 物 範 人 、 暦 跨 齊 世為 都 統 所 部 僧 尼 不 減 二 百 萬 、 而上 綱 紀 將 四 十 年 、 当 文 宣 時 盛 弘 釈 典 、 内外 闡 揚 、 黒 白咸 名 、 景 行 既 彰 、 逸 響 遐 被 、 是 時 高 句 麗 大 丞 相 王 高 徳 、 乃 深 壌 正 信 、 崇 重 大 乗 、 欲 以 釈 風 被 之 海 曲 、 然 莫 測 其 始 末 縁 由西 徂 東 年 世 帝 代 、 故 件 録事 條 、 遣 淵 乗帆 向 34)中 村 浩. 注2、p30. 司 馬 達 等 以 外 に仏 教 関係 で見 出 さ れ る 者 に、 「 書 紀 』欽 明14年 条 の溝 辺 直 、 敏 達13年 条 の 池 辺 直 氷 田 が あ る。 両 者 の 関 係 は と もか く と して 、 そ の 氏 が 倭 漢 氏 族 で あ る こ とは 注 目 さ れ る。 と くに倭 漢 氏 は 、 『書 紀 』 で は応 神 紀 以 来、 高 句 麗 と関 係 で 見 出 さ れ る が、 彼 らが 聖 明 王 以 前 に渡 来 して い た とす る な ら ば、 そ の 受 容 し、 伝 え た仏 教 は北 朝 系 の そ れ で あ っ た と考 え られ る 。 そ れ で 、 敏 達13年 に彼 らが 偶 然 に 高 句 麗 僧 を得 た とい う よ り、 む しろ 恵 便 との 問 に何 らか の 交 流 関 係 が あ っ た か ら と推 察 され る 。 35)『 日本 書 紀 』 巻19、 欽 明13年 条(『 国 史 大系 』 巻2、pp76〜77) 36)『 日本 書 紀 』 巻20、 敏 達8年 条(『 国 史 大系 』 巻2、plO7) 37)『 日本 書 紀 』 巻22、 推 古14年 条(『 国 史 大系 』 巻2、p147)「. … 又 於 国無 僧 尼 」. 38)『 日本 書 紀 』 巻20、 敏 達12年 条(「 国 史 大系 』 巻2、p108〜ll2) 39)田 村 円 澄 『飛 鳥 仏 教 史研 究 』 塙 書 房 、1972、p42 40)金 煥 泰 「 百 済 日羅 考 」 『 馬 韓 ・百 済 文 化 』7、1984 手 島 文 倉 氏 も 日羅 を 沙 門 と して い る 。(手 島 文 倉 「仏教 史 上 よ り観 た る 日鮮 の 関係 」 『 宗 教 研 究 』4‑ 15) 41)姜. 抗 著 ・朴 鐘 鳴注 『 看 羊 録 』(〈 東 洋 文 庫 〉巻440、 平 凡 社 、1984、p224) 「愛 宕 山権 現 守 神 と い うの は、 新 羅 人 日羅 の 神 で あ ります 」. 42)『 日本 書 紀 』 巻21、 用 明2年 条(「 国 史 大 系 』 巻2、p124) 43)『 日本 書 紀 』 巻21、 崇 峻3年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、p130〜131) 44)『 日本 書 紀 』 巻22、 推 古14年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、p147). ‑31一.
(14) 古 代 韓 日仏 教 文 化 交 流 につ い て(崔. 福 姫). 西 田 長 男 氏 は、 「こ の部 分 は 『書 紀 』 の 原 資 料 と して存 す る現 存 の 醍醐 寺 本 『元 興 寺 縁 起 』 に は記 さ れ て い な い が 、 少 な くと も 『坂 田 寺 の縁 起 』 若 し くは鞍 作 氏 の 家 記 を原 史 料 とせ ら れ た こ と は確 実 の よ う で あ る 。」 と述 べ て い る 。(西 田 長 男 「仏 教 伝 来 に 関 す る 一 ・二 の 補 足 的 考 察 」 『 大倉 山論 集』 6,p133) 『元 興 寺 縁 起 』(『日仏 全 』 巻85、p2a)に. は 、 「丁 未 年 、 時 百 済 客 還 本 国 、 時 池 辺 天 皇 告 宣 、 将 欲 弘 聞. 仏 法 、 故 欲 法 師 等 并 造 寺 工 人 等 、 我 有 病 故 忽 速 宜 送 也 、 然使 者 未 来 間、 天 皇 崩 巳 」 と記 録 さ れ 、 多 修 那 の こ とは 全 く見 え な い 。 45)『 日本 書 紀 』 巻20、 敏 達13年 条(『 国 史 大 系 』 巻2、p113) 46)『 元 亨 釈 書 』 巻17、 敏 達13年 条(『 日仏 全 』 巻62、p153a) 47)『 元興 寺 縁 起 』(『日仏 全 』 巻85、p2a) … 時 蕃 客 答 日、 尼 等 受 戒 法 者 、 尼 寺 之 法 、 先 請 十 尼 師 、 受 本 戒 、 巳即 詣 法 師 寺 、 請 十 法 師 、 先 尼 師 十合廿師、受本戒也… 48)小. 野 正 昭 氏 は用 明朝 に 止 利 仏 師 の 父 が 出 家 す る こ とを 望 ん で 、 日本 最 初 の 比 丘 とな っ た と言 っ て い. る が 、 上 の 史 料 ら を よ く検 討 した とは 思 わ れ ない 。(小 野 正 昭 『日本 仏 教 の 倫 理 学研 究 』、P304) 中 井 真 孝 氏(中. 井真孝 『 朝 鮮 と 日本 の古 代 仏 教 』 東 方 出版 、1994)・. 西 田 長 男 氏(注44)も. 、 この. 説 を 従 って い る。 49)田. 村 円澄. 注3、p66・. 50)柳. 東植 「 韓 日仏 教 受 容 形 態 の 比 較 考 察 」 『文 化 人 類 学 』8、1976. 51)『 三 国 史 記 』 巻40、 「職 官 志 」下 52)中. 井真孝 「 新 羅 にお け る仏 教 統 制 機 関 につ い て」 『 朝 鮮 学 報 』59、p4. 53)三. 品彰英 「 朝 鮮 にお け る仏 教 と民 族 信 仰 」 『 仏 教 史 学 』4‑1. 54)李. 基 白「 三 国 時 代 仏 教 伝 来 とそ の 社 会 的 性 格 」 『 歴 史 学 報 』6. 55)李. 弘稙 「 新 羅 僧 官 制 と仏 教 政 策 の 諸 問題 」 『白性 郁 博 士 頌 寿 記 念 仏 教 学 論 文 集 』. 56)洪. 潤植 「 古 代 日本 仏 教 にお け る三 国 仏 教 の 役 割 」 『 国 史 館 論 叢 』24、p71. (チ エ. ボク. ヒ. 文 学 研 究 科 仏 教 文 化 専 攻 博 士 後 期 課 程) (指 導 教 授:成. 田. 俊 治 教 授). 2001年10月17日. 一32一. 受理.
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