古代 日韓 における技術文化 の変遷過程
一日韓出土の
ltr蝸を中心 に 一
田 庸 具
I序
言Ⅱ
lr蝸
と蓋Ⅲ
対 渦 お よび蓋 出土 遺 跡
Ⅳ
対 蝸 お よび蓋 の 型 式 分 類
V
姑 蝸 の変 遷 過 程Ⅵ
姑 鋼 の形 態 変 化 にみ られ る技 術 文 化 的 意 味
Ⅶ
結
語
要
旨
II蝸
は、金属・ガラス原料 に高熱 を加え製錬 または融解 し、溶融状態の金属・ ガラス原料 を 鋳型 に注 ぐために必須の道具である。 しか し、 日韓 において増鍋や靖蝸蓋が出上 した工房関連遺跡は、せいぜい30遺跡 にす ぎない。工房関連の遺物が出土 して も、ltr鵜が確認 されない事例 も多い。例 えば、
扶余陵山里寺址 の工房では、百済金銅大香炉 をは じめ として、華麗 な金属・ ガラスエ芸品 とともに、鉄 床、鉄槌 などの製作道具が多量 に発見 されたが、JI堀と靖蝸蓋は 1点 も出上 しなかった。 この ような現 状 において も、対鵜や靖蝸蓋 は時期的、地域的に多様な様相 を示 してお り、4段階に分 けて説明するこ
とがで きる。 まず、地域的な特色 についてまとめる。
I〜 Ⅱ段階は6世紀以前 にあた り、14蝸は韓国のソウル夢村土城、大 田月坪洞、 日本の福 岡県須玖五 反田遺跡や比恵遺跡 な どで出上 している。鮒蝸 出土遺跡 は少な く、出土点数 も僅かではあるが、地域別 に形態的な違いが大 きい。 日本の九州地域では、取瓶、ガラス靖鵜 とともに土製棒 など、特殊 な用途の ガラス製作道具が発見 されて もいる。Jtt蝸を製品の種類別 に定型化 させ てい く試行がなされたために、
地域別に多様 な特徴が認め られるのであろう。
Ⅲ段階は6世紀前半〜7世紀前半頃にあた り、韓回においてltr蝸とlH渦蓋が飛躍的に発展 した段階で ある。韓 国の扶余官北里百済遺跡、双北里遺跡、扶蘇山廃寺址、益 山王宮里遺跡、同弥勒寺址 などで、
多様な形態の対蝸 と対蝸蓋が製作 された。ltr蝸とlH蝸蓋 を活用 した工房 とともに、多彩 な金属・ ガラス 製品が墳墓、寺院、住居址 などで確認 されている。 この時期のlr蝸は、製品の種類別 に定型化 した形態 的特徴 を見せている。すなわち、全体の大 きさや形態、底部形態、注 回の有無 などによって、金、銀、
銅、そ してガラスlH蝸に区分することが可能である。金姑蝸 は、おおむね器高が5 cm以下で円錐形の胴 部に尖底、銀対蝸 は丸みを持つ胴部で底 も丸底である。銅鮒蝸 は器高が10〜 15cmで砲弾形あるいは鉢形
田 庸 畏
の胴部、底 は尖底 または中央 に突起が付 く尖底である。ガラスJU渦は器高が15cmで砲弾形の胴部、底 は やは り尖底 または中央 に突起が付 く尖底 である。そ して対鳩蓋 とセ ッ トを成す特徴がある。対鳩蓋の多 くはガラスJH蝸の蓋であ り、内面の形態、つ まみの位置、つ まみの成形手法などにおいて多様である。
この ように、 Ⅱ段階には製品の種類 によって、JH蝸の形態 に定型化が認め られ る。 この ような定型化 は、前段階か らの対蝸の形態的な試行の結果であ り、次段階の形態変化を引 き起 こす契機 ともなった。
Ⅳ段 階は7世紀中頃以降にあた り、靖蝸やlI蝸蓋が扶余、益 山などの百済地域以外 で も、慶州や 日本 で広 く製作 された時期 である。百済滅亡後 に、対蝸 を活用す る百済の技術文化 は、慶州、 日本へ伝わ り、急激 な変容 を遂 げてい く。それ までの百済地域 ではほ とん ど見 られなか った鉢形 の銅対蝸 が、慶 州、 日本 において中心的な位置 を占めるようになる。 また、ltr蝸を用いた溶解炉の構造 も多様な もの と なる。 日本の飛鳥池遺跡 においては、ガラス靖蝸 の器面の調整手法の変化 とともに、Itr蝸の規格化お よ び定型化が起 こ り、新 たな手法で注 目を作 り出す鉢形の銅JI蝸が製作 された。一方で、九州地域の大学 府 においては、外形の銅靖蝸が主体であるが、近畿地域 とは異な り百済の注 目成形手法が認め られ、多 様な形態の銅対蝸が製作 された。
次に、lH蝸と対堀蓋の通時的な形態変化 についてまとめる。対蝸の形態変化 を最 もよ く示す属性は、
底部の形態 と、注目の成形手法である。金対蝸 は「尖底」か ら「平底」へ、銅lI蝸は「尖底 または中央 に突起が付 いた尖底」か ら「丸底 または平底」へ、そ してガラスJH蝸は、「尖底 または中央に突起が付 いた尖底」か ら「丸底」へ変化する。対蝸蓋は内面の形態、つまみの位置や成形手法において、多様な 形態が認め られる。 これ まで確認 されている対蝸蓋 は、益 山王官里遺跡、 日本の飛鳥池遺跡お よび川原 寺 を除 くと、ほとん どが ガラス増蝸蓋である。一般的に内面が弓のように緩 く内湾す る ものか ら扁平な
ものへ と変化す る。
ガラス製作において対鍋 とともに重要な道具であるガラス玉鋳造用の上製鋳型は、韓国では 1世 紀か ら4世紀 にかけて、中部地方の中島遺跡や河南漢沙里遺跡、益山松鶴洞遺跡、南部地方の金堤大木里遺 跡、海南郡谷里貝塚 な どで出上 した。一方で、 日本においては、3世紀か ら8世紀 にかけて、九州の西 新町遺跡、近畿の上之宮遺跡や飛鳥池遺跡、関東の下谷遺跡や豊島馬場遺跡 な どで出上 した。韓国では ガラス玉鋳造用の上製鋳型は、II蝸が急激に発展す る時期 に入ると、確認 されな くなる。一方で、 日本 では8世紀 に至 るまで対蝸 とともに確認 されている。
上述 したようなlI蝸の変化の過程 は、特定地域 において連続的に認め られるわけではない。ただ し、
異なる地域、異なる時期 における対蝸 資料 には、相互に関連する属性が看取で き、 この ような属性 を通 してlH蝸の形態的な変化 を明 らかにで きる。 よって、ある地域においてlll蝸が確認で きない時期があっ たとして も、その時期 をJI蝸が全 く製作 されなかった空 白期 間と見るよ りは、外部か ら伝 わった技術文 化を内部 において変容 させてい くための試行が成 された過渡期 と捉 える必要があろう。lI蝸とld蝸蓋の 地域的、時期的な形態変化 は、単 に様式の流行 という次元 を超えて、多様な技術文化的な意味合いも内 包 している。例えば、II蝸の形態変化 はlB蝸が設置 される溶解炉の構造 とも密接 に関連す る。溶解炉は 鷲蝸 と地面 との位置関係か ら見 ると、大 きく地上式 と地下式 に区分 される。地下式の溶解炉では、対蝸 を立てて固定するためにltl鍋の底部は尖底か突起が中央に付 く尖底である必要がある。一方で、地面上
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に粘土 を積み上げた地上式溶解炉 においては、靖蝸が地面上に設置 され、炉 の熱 を均等に対蝸 内部の金 属や ガラス伝 えるためには、円底や平底が適 している。 6〜7世紀前半 までの扶余、益山においては地 下式溶解炉が主流 を成すが、7世紀後半〜8世紀代の慶州や 日本では地上式溶解炉 も確認 されている。
6世紀以前 に日韓 において確認 される特異な形態の対蝸 は、効率的なlI鋼の形態 を試行 した結果で もあ る し、6世紀以後の溶解炉 とは異 なる構造の炉 と関連するのであろう。 この ような溶解炉の構造 につい ては、今後 も真摯な議論が行 なわれなければな らない。
対蝸、靖蝸蓋、 ガラス玉鋳造用の上製鋳型のあ り方 を通 じて、古代 日韓の技術文化の流れを読み取 る ことがで きよう。6世紀代 において扶余地域で発達 したJI鋼製作技術 は、涸洸期 における新 たな工房で ある益山王宮里遺跡 においてさらに発展 し、製品の種類 によって定型化 した対蝸が製作 されるようにな る。一方で、ある原料 に用いるltr蝸において、多様 な形態のII蝸か ら理想的 な靖鋼 を見出そ うとす る試 み も認め られる。7世紀後半以降、III鋼製作技術 も含めた百済の技術文化が慶州や 日本に伝播 し、その 地 において独特の技術文化が形成 されてい く。
金属・ ガラス製品の生産 において靖絹 は、原料の不純物 を除去 し、 よ り精選するために最 も重要 な道 具である。すなわち、原料 の採鉱段階、製錬段階、加工段 階を繋げる要素である。そのため、鮒蝸 には 古代の技術文化が総合的に投入 されていたのであろう。私たちは未だ、靖鳩 に投入 された技術の粋 の一 部を知 るにす ぎない。古代 の技術文化 を完全 に復元するためには、jI蝸やガラス玉鋳造用の上製鋳型が 出土せず、空白のままとなっている時期、地域のあ りかたを明 らかにす るためのよ り多 くの資料が確認 されてい く必要があろう。そ して、すでに確認 された資料 についての綿密 な分析 も行 なわれる必要があ る。
キー ワー ド 対蝸 jH堀蓋
工房
取瓶
底部形態
注 口
定型化
規格化
形態変化
技術文化 変遷過程
ガラス鋳造用の土製鋳型
溶解炉
金属製品
ガラス製品
伝播
国立扶余文化財研究所
241
田 庸 畏
I.序 言
人類 は、吉代か ら身体 を装 い他 人 に誇示 した り、農業や戦争の困難 を切 り抜 け るため に、多様 な金属・ ガラス製品を製作、使用 して きた。文明史において、金属 とガラスの使 用 は、新たな素材 を使い始めた とい う側面のみな らず、それが もた らした政治、社 会、経 済的な波及効果 は、非常 に広範囲の ものであった。 この点 において、人類 の文化復 元 とい う考古学的な課題 において、金属 ・ガラスに関す る技術文化の占める位置 は大 きい と見 る ことがで きる。
金・銀・銅・錫・鉛 な どの非鉄金属や ガラス を使用 した製品は、主 に装身具や威信財 と して、支配階層が享有す る もの とされて きた。 また、当時の社会の思惟や文化 の水 準 を推 し量 るための重要 な尺度の一つで もある。特 に、百済が古代国家 として成立、発展 す る過 程 において、金、銀、銅 な どの金属 を素材 とした多様 な工芸品が官営手工業の形態 で生産
され、国家間あるいは国家内部の中央 と地方間の物資の流れを通 じて流通 していった。
古代社会 における流通 とは、物 資、人、情報 の移動 を総称する1。 物資 と表現 され る製 品は、一定の圏域内部で移動す るのみな らず、圏域 と圏域の間を移動す ることもあ る。 ま た、受 け渡 しの関係が成立す ることによって、流通 を調節、統制す る政治、社会、経済的 な機構が作動 し、多様 な経路が形成 される2。
この ような側面において、金属工芸品の生産 と流通の実態については、製品の比較分析 のみな らず、製品 と生産施設 との関係 を究明 し、圏域間の生産技術 の流れを明 らか にす る 作業 を通 じて接近 してい く必要があ る。 このためには、金属・ガラス製品の生産 と関連す る考古資料である各種 の生産施設 (工房、廃棄場、水場、対蝸 。鋳型生産施設、未製品加 工場)、 付属施設 (住居址、廃棄場、給水施設、祭祀施設、倉庫、道路 な ど)、 そ して未 製品 (金糸、金片、金製棒状品など
)に
ついての徹底 した分析が必要である。最近、韓国の扶余官北里百済遺跡、益 山王宮里遺跡、慶州東川洞遺跡、 日本の飛 鳥池遺 跡 な どで、lH鋼をは じめ とす る各種 の工房 関連遺物が大量 に出土 し、古代 の技術 文化 の発 展 と変遷過程 を探 る糸口を得 ることがで きた。 これ らは、技術文化復元の貴重 な資料 であ る。
筆者は日韓古代の技術文化について、lr鋼を分析対象の中心 として検討 しようと思 う。
両地域において、ltr蝸が どのように製作・使用 され、 どのような変化 をたどったのかを究 明 しようと思 う。この作業を通 じて、 日韓における金属 。ガラス製品の生産 と流通過程を 追跡 していきたい。
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Ⅱ.ttr蝸 と蓋
1.概 念
対鶏 は生 産 関連 遺 物 の 中 で、 生 産行 為 を直接 的 に示す遺 物 で あ る (第
1図
)。 一般 的 に 対 鋼 (crucible)は、粘 土 あ るい は他 の耐 火性 を備 えた物 質 で作 った容 器 を指 す。古代 か ら、金属 を溶 か した り試験 す る容器 と して使用 されてい る。 その呼称 は、 十字架や試練 を 意 味す るラテ ン語 「crux」 に由来す る。今 日の対蝸 は、実験 室 で は高温 にお ける化学反応 の分析 に必要 な実験 器材 と して用 い られ、工業 で は金属 や鉱石 を溶 か し媛 焼 させ る際 に用 い られ る。 この よ うな対蝸 は、粘 土や黒鉛 、磁 器 、あ るい は比較 的融解 温 度が高い金属 で 製作 され る。古代 にお い て、lH蝸は鉱石 か ら鉱物 を製錬 した り、鉱物 を精錬 あ るい は融解 す るための 容器 と見 る こ とが で きる。 韓 国で は、三 国時代 の扶 余、益 山、慶 州 地域 な どで、非鉄 金属 や ガ ラス製 品 を生 産す る過程 にお いて対蝸 は使用 された。 しか し中国遼 寧 地域 で は、春 秋 戦 回時代 か ら鉄 器 製作 に対 蝸 が 使 用 され て い る。韓 国で も、青銅 器 時代 の平 安 北 道細 竹 里 遺 跡 で青 銅 を溶 か したJI蝸が 出土 した と報告 されてい る3。 細 竹 里 遺 跡4で出上 した対 蝸 は、粘土 に滑石 を混ぜ て製作 した もの とい う5。
早 くにソウル夢村土城で も対蝸が出上 し6、 扶余、益山、慶州地域では三国時代の多様 な 対蝸が出土 した。一方 日本では、吉野ケ里遺跡、須玖五反田遺跡、須玖坂本遺跡、須玖永 田遺跡B地結 な どで、弥生時代 の対羽が出土 し7、 7、 8世紀代 の資料 と しては、奈良県飛 鳥池遺跡・川原寺 。平城京跡、福 岡県大学府遺跡 などで多様 な形態のIH蝸 と蓋が発見 され た。 また、
4世
紀前半〜中葉頃の千葉県鶴 ヶ岡1号
墳8。 下谷遺跡9、 埼玉県東地総田遺跡Ю などで も銅姑蝸が出土 した。以後、中世遺跡で も鉢形の銅姑蝸 は数多 く発見 された。現代 とは異 な り、古代 に鉱物 を製錬 した り、溶解する作業で特異 な遺物 が靖蝸蓋である (第
2図
)。 現代 では対蝸蓋 はほ とん ど使用 されていないが、古代 では多様 な形態のガラ ス対蝸蓋が扶余、益 山な ど韓国 と飛鳥池遺跡、川原寺など日本か ら多 く出土 した。 これに 対 し金属対蝸蓋 は、益 山王宮里遺跡、 日本 の飛蔦池遺跡、川原寺 な どか ら少量 出土 した。lr蝸蓋 は、金属お よびガラス製品の製作過程で溶解 された鉱物の温度 を一定の水準 に保つ ことや、特定鉱物が空気中に漏れ出すのを防止する機能をもっていると推 定で きる。
2.射
渦 と取 瓶鋼製品の生産 と関連 した遺跡か ら対蝸 と類似 した機能をもつ遺物 として出土 した ものが 取瓶である (第
1表
)。 取瓶 は韓国では全 く出土 していないが、 日本で は弥生時代の比恵 遺跡、須玖永田遺跡、那珂遺跡 などか ら出土 している・ 。一般的に、金属素材 を溶解す るための容器 をjtr蝸、溶解 した素材 を鋳型 に注 ぐための容
/仕
田 庸 畏
器 を取瓶 と区分す るレ
。 これ は比 恵遺跡 第40次調査 で 出土 した対鋼 と取瓶 を通 じて知 る こ と が で きる13。 こ こで 出土 した対塙 と取瓶 は形態 お よび胎土 に よって
2種
類 に区分 で きる。1
つ は精 選 され た胎土 で鉢形 の郭 身部 と円筒 形 の台脚 に よって構成 されてお り、 日縁 上端 は 水 平 な平坦面 を もつ。
2つ
目は軟 質 の胎 土 で鉢形 を呈 してお り、 日縁上端 の器壁側 面 に注 目が備 え られてい る。報告者 は1つ 目は対禍 、2つ
目は取 瓶 とい う見解 を示 しなが ら も、その逆の可能性 も完全 に排除で きない とす る11。 このように、オ蝸 と取瓶は簡単 に区別す る ことが難 しい側面 をもつ。 なぜ な ら、対蝸 その もの も金属およびガラス素材 を溶解す るた めに使用 された ものや、溶融状態の金属、 ガラス素材 を鋳型 に注 ぐために使用 された もの があるためである。 したがって、オ蝸 と取瓶 は全 く同 じ意味で使用す ることがで きるが、
相対的に深鉢形の土製品は、素材溶解用の対蝸、浅鉢形の土製品は取瓶 と区分す るこ とが で きる。
Ⅲ.ttr蝸 ぉ ょび蓋 出土遺跡
1.6世 紀以前の
III渦および蓋出土遺跡
6世
紀 以前 に も、対 蝸 とみ る こ とので きる遺物 が 出土 してい る (第1表
)。 特 に 日本 で は、イ蝸 以外 に取瓶 と呼ばれ る生産 関連遺物 も多 くの遺跡 か ら出土 した。韓 国 で は、
4〜 5世
紀 代 に ソ ウ ル夢 村 土 城 、 大 田月坪 洞 遺跡 でJH蝸 が 出土 した (第 1表)。 特 に ソ ウル夢村 土城 で 出土 した対蝸 は、
6世
紀 以後 の対鋼 とは形態的 に大 き く異 な っ て い る。高 さが10cm以 下 で小 型 に属 し、丸底 を呈 してお り、楕 円形 を平面形態 とす る口縁 の片方 に外側 に突出す る注 口を もつ ものであ る15。一 方 、 日本 で は
3〜 4世
紀代 の弥 生 時代 後期 か ら古墳 時代前期 にかけて、佐賀 、福 岡、千 葉 、埼 玉地域 で対蝸 とみ られ る遺物 が 出土 した (第
1表
)。 特 に須玖 五 反 田遺 跡 、 比 恵 遺 跡 な どで は、 ガ ラス対鍋 と土製 品、取瓶 な ど金属 お よび ガラス製品の製作 と関連 す る特 異 な遺物が 出土 している。2.6〜 8世
紀 の 対 蝸 お よ び 蓋 出 土 遺 跡1)韓
国(1)扶
余地域扶 余地域 の工房 は、涸洸遷都 直後 に造営 された官北里 百済遺跡 を中心 に運営 され、 時 間 の経過 とともに専 門化 された特殊工房 が拠 点別 に改変 されてい く様相 を示す16。 扶 余 官 】ヒ里 百 済遺跡周辺 で工房 関連遺物 が 出土 した遺跡 として は、扶 蘇 山城
(6世
紀 前 半)、 扶 蘇 山 廃 寺址(6世
紀 前 半)、 旧行 里百済遺跡(6世
紀 中 頃)、 宮 南 池(6世
紀 前 半)、 双 】ヒ里 遺跡 をあ げ る こ とがで きる (第2表
)。 この中で、 誤北 里 遺跡(6世
紀 後 半)を
除 い た大 部分 の遺跡 は涸洸遷都 (538年)の
頃 に造成 され、運 営 された。 したが って扶余官北 里 百 済古代 日韓における技術文化の変遷過程
遺跡周 辺 の工房 は、涸洸都 城 体系 が完 成 す る時期 で ある
6世
紀 第3四
半期17に造 成 お よび運 営 された もの とみ られ る。(2)益
山地域7世
紀 前 半 〜 中頃 にか け て益 山地 域 で は百 済 涸洸 期 の新 しい 中心工 房 と して王 宮 里 遺跡 の工房が形成 されお、 これ を中心 と して弥勒寺llL、 帝釈寺址 工房 が互 い に密 接 に結 びつ く体 系 が 整備 され た (第3表
)。 つ ま り益 山地域 で は、重 要 な金属 、 ガ ラス製 品 の 生 産 と流通 は工宮 里遺跡 の工房 を中心 と して行 われ、専 門化 された製 品は個 別工房 で、 そ の性格 に合 わせ て特殊化 され個別 に生 産 され た。特 に弥勒寺址 、帝釈寺址 の工房 にお い て必要不可欠 な原料 あるいは生産道具 は、王宮里遺跡 の工房か ら供給 された もの と推定 され る。(3)慶州地域
慶 州 地域 で工房 関連 の施 設 は、 皇 南 洞 、東 川洞 を中心 に炉址 、 竪穴 、焼 土 廃 棄 場 な どが 確 認 されてい る (第
4表
)。 慶 州皇 南洞376号 遺 跡 は、6世
紀後半 〜9世
紀 代 にか か る生活 遺跡 であ るが、 ここか ら7世
紀 代 の ガ ラス と銅工 房 が確 認 された19。 特 に、 回縁 の 内径 が12cm、 深 さが 4 cmの 銅 II蝸 には銅 鉱 石 粉 末 と木炭 を入 れ、容器 の 中 で炭 火 を用 い て銅 を製錬 した こ とが 明 らか とな った。 そ して慶 州東 川洞
681‑1番
地遺跡 は、統一新 羅 時代 の王京遺 跡 とこれ に と もな う銅 工 房 施 設 、 お よび高麗 時代 〜朝鮮 時代 まで の生 活 遺 跡 で 、70×70cm の正方形 の竪穴 の中 に日縁 の内径 が13clll、 炉壁 の厚 さが3〜
4 clll、 高 さ15cmの小 型 の銅製 錬炉 が 出土 してお り、炉 の 中 に約0.5cmの 銅 津が散在 していた。2)日
本日本 で は、 ガ ラス と青銅 器 、鉄 器 は全 て弥生 時代 に大 陸か ら導入 され、 高 度 な工業技術 とともに持 ち込 まれた工芸 品であ る20。 弥生 時代 か ら銅 製 品の精錬 、溶解 と関連 す るjH蝸 、 鋳 型 な ど鋳 造 関連 遺物 が 、 韓 半 島 と近接 す る北 九州 の佐 賀県 鳥栖 市 安 永 田遺 跡 、福 岡県春
日市大谷遺跡、須玖尾花 町遺跡、須玖唐梨遺跡 な どで出土 してい る。
これ らは、弥生時代 中期 中葉 頃 に厚 葬墓 の副葬 品 と して出土す る。 中期 後 半 に ガ ラス製 品が王墓 の副 葬 品 と して用 い られ 、 日本 国 内で も生 産 された。後 期 に は ガ ラス 製 品が広 く 普及 し、墳墓 以外 の遺跡 で ガラス製小 玉 な どが多量 に出土 してい る別。 ガ ラス製 品 の生産 を 直接 示 す の は鋳 型 の存 在 で あ るが 、 主 に後 期 以 降の遺 跡 か ら出土 す る。 ガ ラス 製勾 玉 の鋳 型 が 出土 した弥生 時代 の遺 跡 と して は、大 阪府 東奈 良遺跡 、 山口県 下 七見 遺 跡 、佐 賀 県 中 原 町原古賀 三本 曲遺跡 、福 岡県 夜 須 町 ヒルハ タ遺跡 、福 岡市 弥永 原遺跡 、 春 日市 赤 井 手遺 跡 、須 玖 五 反 田遺跡 、須 玖坂 本 遺 跡 、 平若 遺跡 な どが あ る。 この 中で 中期 前 半 の下 七見 遺 跡 を除 き、鋳型 は後期 の遺構 か ら出土 した。
7〜 8世
紀代 の総合 工 房 遺 跡 で あ る 日本 の飛 蔦池 遺跡 で は、金 属 製 品 の生 産 お よび加工 と関連す る金属用lH蝸 と蓋 をは じめ、鉄 ・銅 津、送風 具、鋳型、砥石 、銅 ・ 鉄 製 品 な どが245
田 庸 畏
出土 して い る (第
5表
)。Ⅳ .ttr蝸 ぉ ょび蓋 の型式分類
1.対 渦の型式分類
これ まで韓国で出土 した対禍 は、形態 によって大 きく丸底の ものと尖底の ものとに分類 されて きた22。 ところが、益山王宮里遺跡、扶余官北里百済遺跡 などの生産関連遺跡で、既 存の対渦 の型式 とは異 なる形態の ものが多量 に発見 された (第
3図
)。 そこで、扶余官北 里百済遺跡、益 山王宮里遺跡で出土 した対渦 を中心 とし、他の遺跡出土資料 を補完的に用 いて再度対蝸 を分類 したい。対渦 は、大 まかに用途 によって金属用対堀
(I型
)、 ガラス用jH蝸 (Ⅱ型)に
分類 で き る。金属用対渦 はまた、金用JH蝸 (IA型)、 銅用対渦 (IB型)、 銀用蜂鍋 (IC型)23に細分 される (第6〜 7表
)。1)金
用ltr蝸日本、韓 国で出土す る金用対鍋 は、銀、銅、 ガラス用 の対蝸 に比べて器高が5 cm未満 と 小型であるとい う特徴 をもっている。形態 は、小 さい臼形の胴部 に平底、あるいは円柱形 の胴部 に尖底である (第
3図
)。 金の製錬過程で高熱によって表面のガラス質化が進み、透明なガラス膜が形成 されている。胎土 には、粘土 に小 さな砂粒が多 く含 まれてお り、焼 成状態 は良好である。扶余官北里百済遺跡、益 山王宮里遺跡で出土 した対蝸 の回縁上面、
あるいは内面の黒色 をおびた付着物か ら、金
(Au)成
分が検出された24。(1)型
式分類金用対鍋
(IA)は
、底部の形態によって5つ
の型式 に細分で きる25。 そ して回縁の処理方 法お よび形態 [口縁端が平坦 なもの (¬)、 回縁端が尖 るもの (ヒ)、 日縁端が九い もの(こ
)]、
胴体の形態 [円錐形 (O)、 丸い円錐形 (○ )、 角張った円錐形 (○ )、 円筒 形 (Θ)]、
器壁の特徴 [厚く、厚みが一定の もの (①)、 厚 く、厚みが一定でない もの (①)、 薄 く、厚みが一定の もの (○)]、
平面形態 [円形、長楕 円形]お
よび平面直径(a)の
サイズ [α ≦5cm 1/Jヽ)、5<α
<10clll(中)、a≧
10c皿 (大)]な
どの属性か ら なる、非常 に多様 な形態である。 これまで に発見 された金用対蝸 は、 これ らの属性の組合 せ によって8種
類の型式に細分することがで きる (第6表
)。(2)官
北里百済遺跡出土の金製品生産関連遺物金用対渦 と関連 して注 目される遺物 としては、扶余官北里百済遺跡で出土 した工房関連 遺物で、「官」銘印が押 された渦 とみ られる円筒形 の土製品 と、石製lH渦とみ られる石製 品 をあげ ることがで きる (第
3図
①)。 まず、 「官」銘ltr渦は底部が九 く胴体部 は長 い 円筒形 を呈 している。 口縁 は欠失 し、形状 は不 明である。特 に、底部 と胴部の接合部 に古代日韓における技術文化の変遷過程
「官」銘の印が押 されていた ことが注 目され る。外面 は高熱 によってガラス質化が進 んで お り、金粒子が多量 に付着 してい る こ とが 肉眼観 察で も確認 された。 しか し、 内部 には 熱、あるいは煙の影響 を受けた痕跡 はみ られなかった。 したがって、「官」銘印が押 された 土製品は金製品の生産 と関連す る道具 としてみることはで きるが、金鉱物 を製錬 した り、
溶解す る道具であるltr蝸とみることはで きない。特 に、その中で金 を溶解す る過程 で残存 す る沈殿物が確認 されず、 また長い円筒形 の構造では、底部 に付着 した金鉱物 の採取 が現 実的に不可能である。
中央 に平面が円形 または楕 円形で断面が円錐形 の溝 が刻 まれた砂岩材の石製品 も、
2点
出土 した (第
3図
③)。 この内部か ら金 (Au)、 銀 (Ag)、 金+銀(Au+Ag)と
いった成分が検出された26。 これまで、 この遺物 は石製対鋼 と考 えられていたが、古代 か ら現代 に至 るまで石製対渦 は発見 されてお らず、 また金属鉱物 を製錬、あるいは溶解す るため に石 に 熱 を加 えると、石が割れて しまうことがある とい う問題点 もある。 したがって官北里百済 遺跡で出土 した石製品は、純金 あるいは金銀合金塊、銀塊 を生産するための石製鋳 型 と推 定で きる。 これ と類似する形態の石製鋳型が、 日本の飛鳥池遺跡27で出土 している。
これ以外 に官北里百済遺跡では、鉢形土器、深鉢形土器の外面 に金、銀、銅 な どの沈殿 物が付着 しているもの もある。 この ことか らみて、土器 を工房 と関連する作業過程 で靖蝸 に転用 し、再使用 した可能性がある。 こうした ことは慶州地域で確認 されてお り、飛鳥池 遺跡で も土器の底部内面に金の微粒子が付着 していたことが、肉限で確認 された。
2)銀
用ttr渦(1)現
況扶余官北里百済遺跡、益山王宮里遺跡で、銀
(Ag)が
含 まれた合金製品あるいは付着物が 確認 され、銀用ll堀の存在 した可能性が提起 された。 しか し、自然科学的分析 を通 じての確 実な銀用ltI塙は発見 されていない。ただ し、飛鳥池遺跡で発見 された銀用II蝸 (第3図
④)と全 く同 じ胎土 と類似 した形態 をもつ汁蝸が、益 山王宮里遺跡で発見 された (第
7表
)。 よ って、王宮里遺跡で出土 した九底の金属対渦 は、銀用対渦 とみることができる。 また、王宮 里遺跡内窯跡5付
近では銀塊が発見 され、銀対蝸の存在 を証明 し得る資料 といえる28。(2)特
徴飛鳥池遺跡で出土 した銀用汁渦 は、以下の ような特徴 をもっている。底部 は九 く、胴部 は底部か ら口縁部 までがなだ らかで弓の ように湾 曲 している。口縁 は平坦で、口縁 端 は鋭 利 に処理 されている。器壁 は比較的薄 く、一定である。外面では垂直集線文状 の木理調整 痕 (ハケメ
)と
ともに、高熱 によるがラス質膜が観察で きる。これ に対 して益 山王宮里遺跡 にお いて も、銀用対蝸 とみ る ことので きる遺 物 が
3〜 4点
出土 してい る。王宮 里遺跡 か ら出土 した銀 用対蝸 は、 丸 い胴 部 で丸底 の もの で あ る。 特 に
田 庸 異
胎土が、他 の金、銅、 ガラス用対渦 に比べ非常 に精選 されているが、粘土に微小の砂粒が 少量含 まれている。そ して、日縁 の末端が非常 に丁寧 に調整 されている。表面には、金用 姑蝸 と同様、高熱 によるガラス質化 した透明な膜が確認で きる。
(3)型式分類
銀用対蝸 の型式分類 は、 日韓で発見 された事例が極 めて少 ないため「金用対颯の型式分 類」 を用い、その結果は第
7表
の通 りである。(4)その他のlH蝸と混用の可能性
銀用lH蝸 の出土事例 は、銅や金対絹 に くらべて極 めて少 ない。 しか しなが ら銀オ捐 は、
全体の形態 と胎土 においてその他の対蝸 と大 きく異 なる特徴 をもっている。底部お よび胴 部が全体的に丸み をおび、胎土 は粘土 に小 さな砂粒 またはシル トが多 く混入 されてお り、
金用対渦 の胎土 に くらべ非常 に精選 されている。銀含有量が異なる合金製品を生産するた めには、銀 に対す る純度の調節が要求 される。 この点か ら銀 を専 門的に製錬および溶解す るための靖蝸 が必要であった もの と判 断で きる。 しか し、 その数量が極めて少ないこと か ら、銀用対蝸 は金用ltr蝸、 または銅用ltf蝸を兼 ねて使用 されていた可能性 もあろ う。実 際、王宮里遺跡で銀lH渦と推定 されている対渦 は、形態の上で金用靖蝸 (IAb型
)と
の類似 性が非常 に高い。3)銅
用lII鍋銅用対蝸 は、砲弾形、 または鉢形の胴部 にガラス用 ・金用ltr絹とは異 な り、手で両側か ら押 さえつ けて作 られた注 目をもち、大 きさはバ ラエテ イに富んでいる (第
4〜 5図
)。銅対蝸 は、胴部の形態 によって、砲弾形 と鉢形29に、錫 (Sn)、 鉛 (Pb)、 亜鉛
(Zn)を
含有す るか否かによって、純銅、青銅 (Cu+Sn,Or Cu+SnttPb)、 責銅(Cu+Zn)用
ltr蝸に分類で きる30。
(1)砲
弾形の鋼増蝸砲弾形の銅用球蝸 (IBa〜 c型
)は
、底部の形態 によって大 きく3つ
の型式凱に分類 され る32(第8表
)。 そ して砲弾形の銅用対蝸 は、注 口の製作技法お よび形態 [手で押付 けて 突出させ た形態 (②)、 突出させ、長方形の溝 を成 した形態 (① )、 突出せず、九みをお びた溝 を削 り出 した形態 (④ )、 突出せず長方形の溝 を彫 った形態 (⑤)、 手で押 さえな が ら巻 き突 出させた形態 (⑥)、 中か ら押 え付 けかすか に突出させ た形態 (⑦)]、
日縁 の処理方法お よび形態 [回縁端が平坦で外反す る もの (¬①)、 日縁端が平坦で直立す る もの (¬②)、 日縁端が平坦で内湾す るもの (¬③)、 日縁端が九 みをおび内湾す るもの(こ③
)]、
器壁 の特徴 [厚 く、厚みが一定の もの (①)、 厚 く、厚みが一定でない もの (①)、 薄 く、厚みが一定の もの (○)]、
全体の高 さが [5 cm以下の もの (小/力 )、 5〜15cmの もの (中/ナ)、 15clll以上の もの (大/夕
)]な
どの属性 に よ り多様 な形態 に分類古代 日韓 における技術文化の変遷過程
で きる。 これ までに発見 された砲碑形 の銅用Jtr渦はこれ らの属性の組合せ によ り10種 類 の 型式に細分す ることがで きる (第
8表
)。(2)鉢
形の銅用Jtr蝸鉢形の銅用対鋼 (IBd〜f型
)は
、底部の形態 によって3つ
の型式に細分で きる。そ して 鉢形 の銅用対蝸 は、注 回の製作技法 と形態 [突出 してお らず、丸みをおびた三角形 の溝が 彫 られた形態 (①)、 突出 し、九 み をお びた三角形の溝 が彫 られた形態 (② )、 突 出 し 長方形 の溝が彫 られた形態 (③)]、
日縁 の処理方法お よび形態 [口縁端が平坦 な もの(¬)、 日縁端が尖 っているもの (ヒ)、 回縁端が丸み をおびた もの (こ
)]、
器壁 の特 徴 [分厚 く、厚みが一定の もの (①)、 分厚 く厚みが一定ではない もの (① )、 薄 く、厚 みが一定の もの (○)]、
平面直径 [15cm未 満 の もの (力)、 15clll以上の もの (ナ)]
な ど属性 に よって、か な り多様 な形態 を示 してい る。今 までに発見 された鉢形 の銅 用対 蝸 は、 この ような諸属性 の組合せ によって11種 類 の型式 に細分す ることがで きる (第9 表)。
4)ガ
ラス用jI渦ガラス用Jtr蝸の多 くは、砲弾形の胴部 に注 目が付 いてお らず、底部は尖っているか突起 が付 いていた り、九底33でぁ り、蓋 とともに一組のセ ッ トを成 している (第
6図
)。 特 に 内・外面 には、緑色 あるいは赤色 のガラス溶液が付着 している。全体的に形態が多様 で器 壁が分厚 く器高が15cm以上 とな り、金・銅用のltr渦に比べて大形である。王宮里遺跡 で出土 したガラス用lI蝸 (Ⅱ型
)は
、底部の形態 によって丸底 (Ⅱa型)、尖底 (Ⅱb型
)突
起が付 いた尖底 (Ⅱc型)に
区分す るこ とがで きる (第10表)。 そ して ガラス用姑蝸 は日縁 の形態 [外反 した もの (①)、 直立 した もの (②)、 内湾 した もの (③)]、
口縁端部の処理方法 [平坦 な形態 (¬)、 尖 った形態 (ヒ)、 九み をお びた形 態 (こ)]、
器高が [15clll以上 の もの (大)、 10〜15cmの もの (中 )、 10cm以 下 の もの (小)]な
ど多様な形態である といえる。 これ までに発見 されたガラス用対渦 は、 これ ら の属性の組合せによって12種類の型式 に細分で きる (第10表)。2.tH蝸 蓋
対蝸 の蓋 は、円形の薄い粘土板 の中央 に手づ くねで成形 した方形、長方形の把手が付 い てい る (第
6図
)。 胎土 には粗 い石粒 と砂粒 が多量 に混入 している。 ガラス用対捐 の蓋 は、底面 に緑色あるいは明るい赤色のガラス沈殿物が付着 している。lI端の蓋 は、底面の形態、把手の形態 と製作技法 によって非常 に多様 な形態的変異 を看 取することがで きる。靖鋼の蓋 は、底面の形態 によって大 きく3つの型式
(I〜
Ⅲ型式)に
分類することがで きる34。
I型式 は、底面が平坦、あるいはわずか に持 ち上がっている型式である。 このため底面
田 庸 畏
の高 さ (底高
)は
≒0"で
あ る。 Ⅱ型 式 は底 面が 弓状 に曲面 をな し、端部 にか え りの無 い型式 で あ る。 このため、底面 の高 さ (器 高)は +0"で
あ る。 Ⅲ型式 は底面が Ⅱ型 の よ うに弓状 に曲面 をなすが (器高 ≠0)、 端 部 に面 を もち、か え りのつ く型式 である。1)属
性(1)端部形態による分類
端部35の側面形態は、短 く太い もの (力
)と
尖 った もの (ナ)に
それぞれ細分できる。(2)把
手の位置関係による分類オ蝸蓋の高 さ (器高
)に
おいて、把手 と杯 身部 との位置関係 によって大 きく3つの属性 に細分で きる。a属性 は、把手が対渦蓋の高 さ (器高)の
中間程度に位置 している型式であ る。 これ を計測値か らみると、把手の高 さは器高の1/2"以
上である。つ ま り把手の高 さ /器 高≧1/2で ある。b属性 は、a属性 とc属性 の中間型式 である。 これ を計測値でみる と、把手の高 さは器高の 1/3〜
1/2"の
間にある。つ ま り、1/3<把
手の高 さ/器高<1/2と な る。c属性 は、把手が難蝸蓋の高 さにおいて非常 に低 い位置 にある型式である。つま リオ蝸 蓋で身部が非常 にぶ厚 く、大 きなものである。 これ を計測値でみると把手の高 さは器高の1/3"以
下である。つ まり把手の高さ/器高≦1/3)と なる。(3)把
手の側面形態による分類靖堀蓋の把手 の側面形態 によって、
3つ
の属性 で細分 で きる。 ¬属性 は、把手の側面の 上部が平坦 な形態である。 ヒ属性 は、把手の側面の中央部が平坦で端部にい くにつれ緩慢 な傾斜 をな している。 こ属性は、把手の側面が弓状 に丸 く曲がっている。(4)把
手の成形方法による分類対渦蓋 は、把手の成形 において もい くつかの異 なる技法が存在する。1つめは把手 を身 部 に接合 した後 に竹刀の ような道具で削 り出 して把手 を成形す る技法 (①属性)、
2つ
め は手で2点
あるいは4点
を強 く押 してつけて成形す る技法 (⑤属性)、3つ
めは把手全体 を丸 く処理す る技法 (○属性)の 3種
類の技法が観察で きる。これ以外 に も、対蝸蓋 は把手の平面形態で差異が確認で きる。把手の平面形態は、方形 系 と長方形系 とに分類す ることがで きる。 しか しなが ら、対鍋蓋の平面形態 はほとん どが 長方形で方形 は極めて少ない。
2)型
式分類これ まで発見 されたオ綱蓋 は、 これ らの属性の組合せ によって第■表のような12の細分 型式 に区分することがで きる。
V.ltr蝸 の変遷過程
ltr鍋
は、5〜 6世紀を基点として飛躍的な発展を遂げた。このことは、発掘された遺跡
古代 日韓 における技術文化の変遷過程
の頻 度 数 をみ て も明確 に表れ てい る。
6世
紀 以 前 で は対蝸 が発 見 された遺跡 が 少 な い だ け で な く、全体 の形態 を復元す る こ とので きる遺 物 はわず か1〜 2点
にす ぎない。逆 に、6
世紀 に入 る と対鋼 は多 くの遺 跡 で発 見 され て い る。 そ して、
7世
紀 中頃以 降 に は各 地域 で 独特 な要素が靖蝸 にみ られつつ、定型化・規格化 される様相がみ られ る。ところで古代 日韓地域 において、金属お よびガラス製品の生産 と関連する重要 な資料 で ある対鋼 の出土数量 は、遺跡 ごとに大 きく異 なっている。 この ような点か ら、オ鍋 の変遷 過程 を検討するためには、オ蝸が出土する各遺跡 を比較する必要がある。
古代 の 日韓 において靖蝸が最 も多 く出土 した遺跡 として、飛鳥池遺跡 と益 山王宮里遺跡 をあげることがで きる。 この
2遺
跡 を中心 に、古代東 アジアにおけるlr鋼の変遷過程 を4
段階 (第7図 )に
区分 して検討す ることとしたい。1.対
蝸 の始 原(1段
階:3世
紀 以 前)日韓地域では、対渦 は紀元後
3世
紀 に出現 した。 これ以前 に対禍が存在 していなかったか については検討する必要がある。中国では春秋戦国時代か ら姑捐 を鉄器製作に使用 していた とい う記録が伝 え られてお り、細竹里遺跡で も汁鋼が出土 したことが報告 されている36。 こ れまで 日韓では、確実 に3世
紀以前 に遡 る例 は発見 されていなかった。しか しなが ら韓 国では、中部、南部地域 において紀元後
1〜 4世
紀 にかけて河南渓沙里 遺跡 な どの原三国時代の住居址 でガラス玉鋳造用土製鋳型が出土 し (第12表 。第9図
)、対蝸 とみることので きる小型土器類37も発見 された。 したがって、金属およびガラス生産用 対塙 は、紀元後 には使用 されていた とみ られる。
古代 にあって も金属お よびガラスの生産過程 で製錬 された金属材料 を溶解 し、あるいは 溶解 した材料 を移 して鋳型 に注 ぐためには道具が必要である。 よって、専門的な用途の封 蝸、あるいは異 なる用途の土器 をII蝸として転用 した もの と判断で き、 この ような遺物 の 発見が期待 される。
2.ttr蝸 の出現 (2段 階 :3〜 5世 紀
)1)現
況日韓 で確 実 に対蝸 と考 え られ る例 は、
3世
紀 か ら出土 す る。 日本 で は九州 地域 、 韓 国 で は ソ ウル夢村 土城 と大 田月坪洞遺跡 な どで散発 的 に出土す る。 この段 階 にお いて対 蝸 は出 土事例 が少 ないだけでな く、様 々な形態が各地 でみ られ る。対 鍋 は、金属 用対蝸 とガ ラス用 対蝸 に区分 で きる。金属用 対 蝸 とみ る こ との で きる もの は、 ソウル風納土城 、大 田月坪 洞、佐賀 県吉野 ケ里遺跡、千葉県下谷遺跡 と埼 玉県 東 地総 田遺跡 な どで出土 した小型対蝸 が あ る (第
1表
)。 ガ ラス用 lr蝸 とみ られ る もの は、福 岡 県須 玖 五 反 田遺跡 と比 恵遺跡 出土lH蝸 が あ る。 また、銅 製 品 の生 産 と関連す る取 瓶 と して は、福 岡県比恵遣跡 と那珂遺跡、奈良県唐古 ・鍵遺跡 出土の取瓶がある。田 庸 晃
2)韓
国ソ ウ ル夢村 土 城 出土 の靖 蝸 は、丸底 で、注 回が 日縁 の一 部 の外 側へ 突 き出 してい るた め、銅用対絹 とみ る こ とがで きる (第
1表
)。 注 目の成 形 方 法 は、平面形態 が楕 円形 の回 縁の一部 を、道具 を使用 して外側 に突出するよう押 しつ けて製作 されている。 このような 方法 は、扶余官北里百済遺跡、益 山王宮里遺跡 な ど百済地域 で出土 した銅用対蝸 とは全 く 異なっている。扶余、益 山地域 出上の銅用対蝸 は、日縁 の片側部分 を両側か ら押 しつけて 突出させて注 口を製作 した。む しろ、益 山王宮里遺跡 で寺刹が運営 される時期 に使用 され た工房 関連施設か ら出土 した7世
紀 中頃の砲弾形 の銅用lH蝸 や、慶州地域 と日本で出上 し た鉢形の銅用対蝸 と類似 していた。そ して、 ほぼ同時期 に 日本で出土 した金属用jH蝸とは 別の方法で注 目が作 られていた。 また、靖渦 の器 高 は6.5cmで小型 に属すが、胴体 の形態 は砲弾形 と外形 の中間的な形態である。 この銅用難渦 は、胴部の形態 においては伝扶余官 北里出土品の鉢形銅用対蝸 と類似 している。 したが って、夢村土城出土Jr絹 は一般的な百 済、新羅、 日本地域 の銅用対蝸 とは大 きく異 なる特徴 をもつ といえる。 この ことか ら、夢 村土城 出土の銅用対蝸 は、外部の影響 を受け製作 されたか、完成度の低い初歩的な形態 と 考えられる。 これ らの特徴が伝扶余官北里出土品に結びつけ られた もの と推定 される。大 田月坪洞遺跡 出土オ鋼 (第
1表 )は
、形態上、尖 った底部 に円錐形の胴部 をもってお り、6世
紀代 の扶余官北里百済遺跡、7世
紀代 の益 山王宮里遺跡出土金用lH捐とかな り類 似 している。 また、外面が高熱 によってガラス質化 した様相や、使用過程 で付着 した物質 によって も両者の間の類似性が確認で きる。 また、 この対鋼 とともに表採 された遺物の中 に石製鋳型 も含 まれていた。対渦 と石製鋳型の共伴例 は扶余官北里百済遺跡 で も確認 され た。 ところで、大 田月坪洞遺跡出土のlr蝸は表採 品であ り、5世
紀後半〜7世
紀の間に存 在す る可能性 もあるが、日縁端の処理が非常 に尖 った形態で、底部が極 めて厚 いことか ら みて、扶余官北里百済遺跡や益 山王宮里遺跡の金用寸蝸 よ りも形態的に先行するもの推定 される。結論的 に大 田月坪洞遺跡出土の対渦 は、5世
紀後半〜6世
紀前半の金属用対蝸 と 推定 される。3)日
本日本 の関東地方 に位置す る千葉県の下谷遺跡 と埼玉県の東地総日遺跡 な どで出土 したlH 蝸 は、内・外面の沈殿物の状態か らみて、 ガラス用lI鋼ではな く、む しろ金属用lH鋼とみ ることがで きる。器高が5 cm前後で比較的小型 に属 し、底部 は尖底か尖底 に突起が付いて いる形態 であ る。 口縁端 は九 く処理 されている。特 に胴部は円錐形や砲弾形 を呈 してい る。 この ような特徴 は、益 山王宮里遺跡で出土 した銅用対渦 (第
4図
⑤)、 伝扶余双北里 出土 の銅用難蝸 (第4図
①)と
非常 によ く似 てい る。 しか し回縁部 に注 目 をもっていな い。 この ような点か らみると関東地方のlH蝸は銅用lH堀ではな く、金用対蝸 である可能性古代 日韓 にお ける技術文イとの変遷 過程
もあ る。 またこれ らの対渦 は
7世
紀以降のII蝸とは異 な り、6世
紀代の対蝸 と直接結 び付 け られる形態であるとい う点か ら、極 めて初期的な対塙で、い くつ もの金属 を一つで処理 するための難鋼 として活用 された可能性 もある。一方、 日本の佐賀県吉野ケ里遺跡で出土 した靖蝸 も (第
1表
)、 やは り6〜 7世
紀代の 対渦 とは大 きく異 なる特徴 をもっている。器高が5 clll以下 と非常 に低 く、底部は中央がわ ずか に突 出 してお り、器壁が器高に比べ て非常 に分厚い。胴部が自形 に近い形態 を呈 して いる。全体 的な形態か らみると、 この対渦 はソウル夢村土城出上のII蝸、伝扶余官北里出 土品 とよ く似 ている。ただ し、注 目を もたない点が異 なっている。 しか し、伝扶余官北里 出土品 もやは り注目は確認 されてお らず、 日本 の関東地方の金属用ltr蝸 も全体的な形態 と 内外面 に付着 した沈殿物の様子か ら銅用lH蝸とみ られるが、注目が確認 されていない。4)金
属用ltr蝸の特徴この ような点か らみると、
3〜 5世
紀代の靖渦 は、6世
紀代 の対蝸 と形態お よび内外面 の状態か ら関連性が看取 されるが、異 なる特徴 をみせている。全体 的に器高が5 cm程度の 小形で さ らに器高に比べ、日径が広 い点が最 も一般的な特徴であることに対 して、器壁が 相対的 に薄い もの と分厚 い形態 に区分で きる。 この ような地域 的な違いがある とい うこと は明 らかである。 しか し、その違いが金、あるいは銅 といった金属材料の違いによる もの か どうかは明確ではない。対鋼 の形態が多様性 をおびている6〜 7世
紀 とは異 な り、 この 時期 のIH鋼 の形態が1つの地域 内で多様ではない ことか らみる と、金属材群 による対渦 の 形態 的な差異が明確 ではなかった もの と考 え られる。 もちろん、金属材料 を一つで処理 し た もの と推定 される。5)取
瓶金属用対渦 と関連 して、極めて特殊 な遺物が取瓶である。取瓶 は、 日本列島で も弥生時 代 に特殊 な地域でのみ出土する遺物である。一般的 に日本では、Jtr瑞は溶解作業のための 道具、取瓶 は溶解 された金属原料 を鋳型 に注 ぐための道具 と区分 している。弥生時代の取 瓶は他 のオ蝸 とは異 な り、注 ぎ込むことので きる孔が空いているという特徴 をもつため、
lH蝸とは異なる機能をもっていたもの とみ られる。
一方、靖渦 とは異 なる取瓶の重要 な特徴 に、注 目 とともに非常 に分厚 く大 きな台脚 をも つ ことがあげ られる。 また、杯部の内面だけでな く、杯部お よび台脚の外面 も熱 を受 けた 痕跡が 目立つ。特 に、杯部の内面 には、金属原料 の沈殿物が付着 していた。 したがって、
比恵遺跡 など日本の九州地域で出土 した取瓶 は、単純 に対蝸で溶解 された金属原料 を鋳型 に注 ぐための用途だけでな く、製錬あるいは溶解炉 に設置 され、 これを通過 した金属原料 に含 まれ る不純物 を除去 した後、鋳型 に注 ぎ、使用 した可能性 もある。特 に取瓶 は、重量 のある台脚 をもち、地上式製錬炉あるいは溶解炉内部に設置することがで きる。
253
田 庸 臭
また、非常 に重量のある取瓶 を持 ち上 げ鋳型 に材料 を注 ぐ作業 は、それ 自体が可能か ど うか も考慮 しなければな らない。 日本の比恵遺跡 で出土 した取瓶 は (第
1表
)、 日縁直下 に成形過程で生 じた溝 があ り、細 い線で繋いで使用す ることがで きるよう処理 されている が、復元 された重量が約2 5kgで杯部の容量280ccまで合わせ ると38、 その重量 によ り鋳型に 注 ぎ込むことが非常 に困難であった もの と推定 され る。そ して台脚のサ イズ に比べ杯部の 容量が小 さいため、大型青銅器の鋳型に素早 く金属原料 を注 ぐには効率的ではない。よって取瓶 は、弥生時代 において代表的な大型青銅器である広形銅矛 などを製作する過 程で材料 を鋳型 に注 ぎ込む用途 よ りは、安定性のあ る台脚 を活用 して地上式炉の内部に設 置 され製錬お よび溶解作業 に用い られていた もの と判断 される。そ して、 この ような取瓶 が
6〜 7世
紀 にほ とん ど発見 されていないのは、製錬あるいは溶解炉の構造が変化 し、そ の使用頻度が少 な くなったため廃れた もの と考えられ よう。6)ガ
ラス用対蝸 と製作道具3〜 5世
紀代 のlH蝸 の中で特異 なのは、ガラス用対鋼 と製作道具である。韓 国ではこの 当時のガラス玉鋳造用土製鋳型 は出土 しているが、確実 なガラス用対蝸 はい まだ発見 され ていない。反対 に 日本では、九州地域でガラス沈殿物が付着 したガラス用対絹片が須玖五 反田・須玖永 田遺跡 な どで出土 し、比恵遺跡では底部の中央 に孔が穿たれた姑鋼 とガラス 製作用の土製棒が ともに発見 された。はた して、 この当時韓 国でガラス対蝸 が全 く使用 さ れていなかったのだろ うか。 ガラス玉鋳造用の土製鋳型 に使用 されているガラス原料 は、方鉛鉱の ようなガラス原石 自体 を使用することがで きず、製錬作業 を経て不純物が除去 さ れたガラス原料 を粉末 に して使用 した もの と考 え られる。 この ような状態のガラス原料 を 使用 しては じめて、透明で きらびやかな色調のガラス玉 を作 ることがで きるか らである。
このような点か ら、韓国においてもガラス用靖渦 を使用 していた ものと判断で きる。
日本の九州地域で出土するガラス対鍋 は、独特 な形態 を呈 している。その多 くは回縁ある いは胴部片で、器形全体 を復元することのできる遺物は
2点
ほどである。1点は須玖五反田 遺跡で出土 した もので (第1表
)、6世
紀以降のガラス用II蝸だけでな く、他の金属用オ蝸 と比べて も大 きく異 なっている。ガラス用II蝸であるため注 目をもたず、器壁の内・外面に 使用過程で残 されたガラス沈殿物がそのまま付着 し、 さらに高熱によってひど く変色・変形 している。6世
紀以後のガラス用対禍 と最 も大 きく異 なる点は、器高が5 clll以下で非常に小 さく、底部が平底で器壁が極めて薄いということである。底部 と胴部が接する部分の外面は わずかに内側 に押付 け られてお り、胴部は底部か らほぼ垂直に口縁 に伸びていた。特に底部 の端部外面には、高熱 によって灰黒色の付着物が確認 された。胎土は、周辺で出土 したガラ ス勾玉鋳型 と砂粒の含有量が相対的に高い点を除いて大 きな差異はみ られなかった。このよ うな点か らみると、須玖五反田遺跡で出土 したガラス用蜂llRが、融剤および安定剤 を入れて古代 日韓 における技術文化の変遷過程
ガラスの溶融温度 を700℃ まで下げるとして も、高熱 に耐 えることがで きるか という問題が ある。特 に、 ガラス用汁渦の底部の厚みは極めて薄 く、耐火度が低い。 また器高が非常 に低
く多量のガラス原料 を溶解するには小 さす ぎる。
この ような理 由によ り、藤 田等39は須玖五反 田・須玖永 田遺跡で出土 したガラス用JH蝸 はガラス原料 を溶解す るために用い られたのではな く、共伴 したガラス勾玉などガラス製 品の鋳型 にガラス原料 を入れて移すための ものである とみて、取瓶 と考 えた。 しか しなが ら、器壁外面 に灰黒色 をおび剥離せず に薄 く残 っている皮状の部分が看取 されるため、 こ の対鋼 は単純 な取瓶ではな く、溶解用 に使用 された対蝸 とみなければな らない。初期のガ ラス用対蝸 は
6世
紀以降、ltI塙とは異 なる小型の ものが製作 され使用 されたことが知 られ ている。 この ような様相 は、同時期の金属用対蝸 で もみ られる特徴 で もある。ただ し底部 が平底の ものをみると、 ガラス用ltr蝸を溶解炉 に設置す る方式や溶解炉の構造 自体が6世
紀以降 とは異 なっていたもの と推定で きる。一方、比恵遺跡で出土 したガラス用対蝸 において も、日縁部周辺で真土 とい う付着物質 が水平 な皮状 に残 っている。 この物質は、JH蝸の外壁 を朱護す るために意図的に重ねて塗 られた ものであろう。 しか しその厚みが非常 に薄 く、器壁全面 に付着 していた可能性 は低 い。 したが って、姑蝸の使用過程で原料が溢れ出た ものや、炉施設 に設置する過程 で真土 を塗 りつけた痕跡が残っていた もの とみることがで きる。
3.鮒
蝸 の専 門化(3段
階:6〜 7世
紀 前 半)6世
紀 になるとともに、ltr蝸が出土す る遺跡 は飛躍 的に増加す る。 とはいえ以前 とは異 なる地域性がみ られる。百済地域の扶余、益 山では扶余官北里百済遺跡、益 山王宮里遺跡 で様 々な形態のJtr蝸が出土 しているのに対 して、慶州地域、 日本 においては対蝸が この時 期 にほ とん ど出土 していない。 この ような出土傾向は、過去の「実態」 をそのまま反映 し ているとい うことはで きない。今後、慶州、 日本列 島で この時期のIIH鋼が発見 される可能 性 も存在 している。上述 した出土傾向によ り、以下ではこの時期 におけるlI蝸の変遷 を扶 余、益 山地域出土の百済のIE渦を通 してみてい くこととする。1)金
属用靖蝸(1)金
用lH鍋6〜 7世
紀全般 にかけて出土 した金属用姑蝸 の うち、全体の器形 を復元す ることので き るlH蝸は、扶余官北里百済遺跡、益 山王宮里遺跡お よび弥勒寺址で発見 された。 これ以外 に扶余双北里お よび扶蘇山建物址で も金属用対蝸が出土 している°。金属用lr鋼 は、金用Jtr蝸と銅用対鋼 に分類 で きる。 この うち銀用対蝸 とみることがで き る遺物 もあるが、出土事例が非常 に少な く検証が困難である。金用II渦は、扶余官北里百 済遺跡 と益 山王宮里遺跡で出土 した (第
6表
・第3図
)。 扶余官北里百済遺跡では尖 った 255田 庸 異
底 部 と尖底形 の胴 部 を もつ対蝸 (IAd型
)の
みが 出土 してい るが、益 山王宮里遺跡 で はIAd
型以外 に底部お よび胴部 の形態が異 なる銀用対蝸 も出土 した。
益 山王宮里遺跡 の工房 は大 き く
3段
階 に区分 で きるが狙、 この うち金用lH蝸 は1〜2段
階 か ら出土 した。1段
階 は宮殿 が完成す る以前 の6世
紀 末〜7世
紀 第1四半期 で、工 房が一 時 的 に運営 され た段 階で あ り、 そ こには講 堂l■下 部不 定形遺構 が位 置 してい る。1段
階 で は扶 余官北里百済遺跡 で 出土 したIAc型とともに、 この型式 とほ とん ど同 じなが らも日縁上 部 の形態 が平坦 なIAd型式 が 出土 した (第6表
)。 反対 に2段
階 は宮殿 が完成 した後 の7世
紀 第1〜
2四
半 期 で、 宮殿 内の西北 地域 で大規模 な工房 が運営 され ていた段 階 であ る。 こ の段 階で は、扶余 官北 里 百済遺跡 と益 山王宮里遺跡 の工房1段
階 で 出土 した もの と類似 し た型式 の金用対渦 であ るIAd型以外 に、IAal型、IAbl型、IAcl型、IAe2型な ど多様 な型式 の金用蜂鍋が 出土 した (第6表
)。扶 余 官 北 里 百済 遺跡421ょ現 在 、推 定扶 余 王宮 地 とみ られてお り、 百済 酒洸期初 期 に工房 の 中心 地 であ った。 「ナ」「 マ」 地 区 にお いて、金属 ・ ガラス用Jtr蝸をは じめ とす る多様 な生 産 関連 資料 が 出土 した。扶 余官北里 百済遺跡 は酒洸都 城 の造 成43が開始 され た時期 に
「 ナ」地 区の工房 関連施 設 が運営 され、次 に都 城 の空 間区画 お よび建 物配置 についてのマ ス ター プ ラ ンの もとで、東西石積 ・道路 遺構 ・建物l■な ど各種 施設 が運営 され た もの と推 定 され る。扶 余官北里 百済遺跡 の「ナ」地 区工房 関連施 設 は、道路 遺構 (南北 大 路 一南北 小 路 ―東西小路
)に
よって 区画 され た長方形空 間の中央 よ りやや南側 に位置 していた。 そ してこの施設 は東西石積お よび建物址が造営 されるの とほぼ同時に破壊 された。 このよう な点か らみて扶余官北里百済遺跡の「ナ」地区工房 は、酒批都城体系が完成する以前か都 城内部の空間区画お よび活用方式が変化する以前44の短い期間、つ ま り6世
紀第1〜2四
半 期 に王室の貴重品を生産 した施設であった と考えられる。そ して、扶余官北里百済遺跡 と益 山王宮里遺跡で出土 した金用対蝸IAd型は、大田月坪洞 遺跡で出土 した対渦 とほ とん ど同 じ形態である。大 田月坪洞遺跡か ら出土 した対蝸 の自然 科学的成分分析が行 われていないため、金用靖蝸 と断定す ることはで きないが、形態上、
両者の間に強い関連性が認め られるのは確かである。そ して時期差 は大 きいが 日本の比恵 遺跡のガラス用対鍋 (第
1表 )と
も関連性がある。この ような点か ら
6世
紀以降、扶余お よび益 山地域で出土 した金用対蝸 は、 日本の比恵 遺跡 と大 田月坪洞遺跡で製作 された円錐形の胴部 を もつ小型lH蝸をモデル とし、百済地域 で金用対鋼 として専 門化 あるいは特殊化 したもの と考えられる。 また、7世
紀前半〜中頃 にわた り扶余 とは異 なる新 たな工房の中心地 として隆盛 した益 山王宮里遺跡で、再 び多様 な形 の金用lH鋼 の製作 が試 み られた。 この過程で注 目され る金用lH蝸 は、底部が平坦 な IAal型と丸底 のIAbl型である。 この ような対蝸 は、底部の形態変化 とともに器高が5 clll以古代 日韓における技術文化 の変遷過程
上で全体 的 にやや大形化 し、器壁 もは るか に厚 くなる傾 向があ る。 こ うした変化 は、扶余 官北 里 百 済遺 跡 や益 山王宮 里 遺 跡 の
1段
階 の工 房 出土 金用靖蝸 とは大 き く異 な っ て い る。これ は扶 余 地域 とは異 な る益 山王宮 里 遺跡 の金用オ瑞 のみが もつ、非常 に特 殊化 したあ り か たで もあ る。 このあ りかた は後 述 す る銅用lH蝸 、 ガ ラス用対蝸 とも異 なる。 なぜ な ら、
平底 の銅 あ るい はガ ラス用対 蝸 は、慶 州 地域 、 日本 で は多 くみ られ るが益 山王宮 里 遺 跡 で は発 見 されてい ないか らで あ る。要 す る に益 山王宮里 遺跡 にお ける
2段
階 の工 房 で 出土 し た金用対蝸 の形態変化 は、1段
階 とは異 な り金 を多量 に生 産す るための措 置 で あ っ た と判 断 され る。 また、金用ltr渦で処理 す る こ とので きる容量 を、最大 限大 き くす るた め の もの で あ る。一 方 、平底 や丸底 のltr蝸は
6世
紀 以 前 に ソウル風 納 土城 、佐 賀 県吉 野 ケ里 遺 跡 、 福 岡県 須 玖 五 反 田遺跡 な どで 出土 した。 王宮 里 遺 跡 か ら出土 した平底 の金用 対蝸 を時 間差 を もつ ソ ウル、 日本列 島のJH蝸 と直接 結 びつ け る こ とは難 しい。 しか しなが らこの当時 、 平 底 の 対蝸 につ いて認 識 してお り、 これ を製作 す る こ とので きる技 術 も十分 に持 って い た もの と 判 断で きる。(2)銅用tH蝸
銅 用ltr蝸は、 金用 あ るい は銀 用 対 蝸 に比 べ て多 くの遺跡 か ら数 多 く出土 して い る。扶 余 、益 山 な ど百済 地域 で は、 鉢形 の銅 用ltr蝸は ほ とん ど出土 してお らず、 ほ とん どが砲 弾 形 の もの で あ る。 この こ とは、
7世
紀 中 頃以後 に慶 州 、 日本列 島で鉢 形 の銅 用姑 蝸 が 主流 となる状 況 とは大 き く異 なってい る。 百済地域 で唯一 の鉢形 の銅用対蝸 は、扶 余 官 北 里 百 済遺跡 で 出土 した。扶 余 官北里百済遺跡 で 出土 した鉢 形 銅対 蝸45は高 さが 5 cm以 下 で、 口径 が15cm未満 とか な り小 型 で注 目 は欠 失 してお り、 そ の存 否 を確 認 す る こ とが で きない。 しか し、注 目 は存 在 していた もの と推定で きる (第
4図
①)。 底部は九 く胴部は臼形 に近 く、 日縁 は直立 して いる。全体的に形態 は、 ソウル風納土城か ら出土 した銅用JH鋼と非常 によ く似 てい る。た だ し注 目部が欠失 し、正確 な形態 を比較す ることは難 しい。一方、その形態 は7世
紀 中頃 以降の慶州地域、 日本列 島の典型的な鉢形銅用lH蝸とは大 きく異なっている。器高が5 cm 以下 と小型で、底部か ら回縁 に進 むにつれ緩やかに開 くのではな く、ほぼ垂直 に上が って い く形態である。 このような点で、佐賀県吉野ケ里追跡か ら出土 した靖鋼や韓国で対鋼 と 推定 されている小形土器 と類似 した狽1面をもっている。扶余官北里百済遺跡の工房 関連施 設 は6世
紀前半〜中頃 とみることがで きるため、 ここで出土 した鉢形Jtr鋼はかな り初期の 鉢形銅用対塙 とみることがで き、百済地域ではこれ以上採択 された り、発展す る こ とはな かった と考 えられる。 また他 の側面で、 このltr蝸は既存 の百済地域の銅用靖蝸 とは大 きく 異 なるい くつかの特徴 をもつため、金、あるいは銀用 に兼用 されていた可能性 も残 されて257