<研究論文>朝鮮近代史における「百五人事件」と新民会像にかんする再考察: 韓民国臨時政府期以降の言説をもとに
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(2) 新民会とは,1907年,安昌浩 3)が米国から帰国して設立した秘密結社で あり,「百五人事件」とは,新民会員たちが1911年,寺内正毅総督の暗殺 を企てたとして,新民会員とされる者たちが逮捕・起訴され,第一審京城 地方法院 4)において,122名中105名が有罪判決を受けた事件である。現在, 新民会による暗殺計画は,訊問を担当した警務総監部によって捏造された ものとされ 5),新民会に対する教科書的理解では,「実力養成のために教 育と産業振興運動を展開する一方,戦争を通じて独立を達成できると信じ, 国外に独立運動の根拠地を作るための活動も展開した 6)」となっている 7)。 このような新民会像は,警務総監部の取調べによって,第一審の起訴理 由として明らかにされた新民会像と酷似している。しかし,第一審に対す る上級審では,第一審で証拠採用された調書や自白は,厳しい拷問によっ て作りあげられたものであり, 「慎重ナル審理ノ末,該自白ノ虚偽ナル 事 8)」として全面的に否定され,この結果,第二審京城覆審法院において,. 105名中99名は無罪となった。そのため,本来,上級審で当事者や判決に よって否定された新民会像と,現在描かれている新民会像が酷似している ことには,矛盾がある。 このような矛盾が生じた背景には,解放後の「百五人事件」と新民会に かんする史料の発掘時期があげられる。研究が盛んであった1980年代前 半までには,「百五人事件」関連の裁判史料が発掘されておらず,主な資 料は,李光洙『島山 安昌浩』(1947)と朱耀翰『安島山全書』(1963)と いった安昌浩の関係者が記した安昌浩の伝記,「百五人事件」の際に警務 総監部などの取調べに基づいて作成された警視国友尚謙『国友手稿』 (1912)や当時の新聞であった。裁判史料は1984年に発掘され 9),尹慶老 (1990)が使用しているが,尹は基本的に第一審判決の新民会像を受容し てた。その後,従来の新民会像に疑問を投げかけられることなく,研究は 下火となっていった。 第一審の新民会像と現在の新民会像が酷似している矛盾は,木下隆男 (2011)10)が初めて指摘した。その後,尹慶老(2012)が自身の以前の研 究を加筆修正したが,新民会の実態については,再検討が必要であるとし た。また,尹は,現在の新民会像が「百五人事件」を通して歪曲された後,. 1919年,上海で誕生した大韓民国臨時政府において,朴殷植『独立運動 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 29.
(3) 之血史』 (1920),さらには安昌浩自身が新民会について語り,李光洙『島 山 安昌浩』 (1947)で具体的な内容が記述されるようになったことを明らか にした。しかし,現在の新民会像が当事者 11)によって肉付けされたもの であると指摘したものの,当事者が記述した内容の相違点や先述した矛盾 が生じた背景については,詳細に説明しておらず,未だ議論の余地が残る。 本稿では, 「百五人事件」と新民会にかんする既存の言説がどのように 現在まで継承され,さらには植民地期および解放後まもなくの時期に新た な要素が加わえられてきたのかを検討する。言説の発信主体,つまり大韓 民国臨時政府において,安昌浩や,李光洙ら安昌浩の関係者が,どのよう な意図をもって「百五人事件」と新民会を語ってきたのかを考察すること で,植民地期の知識人たちの自己表象を明らかにする端緒としたい。. 一.「百五人事件」と新民会の通説的理解 まず, 「百五人事件」と新民会の第一審的,すなわち通説的理解を整理 する。 「百五人事件」の発端は,強盗事件を主眼として,納清亭の者を取 調べたことにあった 12)。取調べを通して,強盗事件には寺内正毅総督の暗 殺未遂事件が伏在しており,その関係者が定州,平壌などの平安道,さら には黄海道や京城にまで存在することが判明した。同時に,梁起鐸,林蚩 正,安泰国や玉観彬らの保安法違反事件 13),安明根らの安岳事件 14) とも 密接に関係していることも発覚した 15)。警務総監部は,尹致昊や梁起鐸ら が平安道の者たちと協力して,1910年に寺内の暗殺を幾度も計画し,実 行しようとしたとの嫌疑をかけ 16),1911年から1912年にかけて700余名 17) を検挙することになる。 その内123名 18)が起訴され,1912年9月,第一審において,105名が秘密 結社新民会に所属して総督暗殺を企てていたとして,謀殺未遂罪の判決を 受けた。警務総監部での訊問を通して明らかにされた新民会は,. イ,清領西北間島,蜂蜜山,布哇,米国,墨其西哥ニ武官学校ヲ設 ケテ青年ヲ教育シ独立戦争ヲ起スコト ロ,朝鮮ニ於テ統監及所謂五賊・七賊大臣ヲ暗殺スルコトハ,西洋 30. 研究論文.
(4) 人宣教師ニ接近シ耶蘇教ニヨツテ統一シ鮮人ノ不平及暗殺等ノ事実 ヲ西洋人ヲシテ世界各国ニ発表セシメ以テ同情ヲ買フコト 19). であり,第一審判決で事実認定された新民会は, 旧清国領土内ニ在ル西間島ニ武官学校ヲ設立シ,青年ニ軍事教育ヲ 施シ,一朝日米若クハ日清間ニ釁端ヲ開クアランカ,其機ニ乗シ独 立戦争ヲ起シ,以テ国権ヲ恢復シ,一面,其ノ協約締結ノ衝ニ当リ タル統監及旧韓国ノ大臣ヲ暗殺シ,旧韓国民カ帝国ニ服従セサル事 ヲ表示シ,内ハ絶ヘス民心ヲ激励シ,外ハ列国ノ同情ヲ求メ,以テ 国権恢復ニ資スルコトヲ目的ヲセル秘密団体 20). とされた。つまり,警務総監部が明らかにし,第一審で事実認定された新 民会とは,国外における軍事教育の実施,要人テロ,さらには武装蜂 起 21)などによって,国権回復・独立を目指す結社であった。 1907年,安昌浩は米国遊学から帰国の際,新民会の構想案である大韓 新民会趣旨書および大韓新民会通用章程 22)を持ち帰り,秘密結社として 23). 新民会を設立した。新民会は,キリスト教の影響が強い西北地方を中. 心に,全国で約800名の会員を有した。秘密結社であるために入会手続き が厳しく,組織体系が複雑化されるなど,ほかの者から新民会の存在を気 づかれないようにしていた 24)。しかし,その傘下では様々な近代的事業を 展開しており,代表的な事業には,平壌の大成学校や青年学友会といった 教育活動,馬山陶磁器会社といった殖産興業,太極書館といった言論・出 版活動が,その代表とされてきた 25)。 新民会が壊滅させられたのは,「百五人事件」において,主要な幹部が 逮捕・投獄された 26),いわゆる総督府による「弾圧」が要因であったとい う。第一審判決の後,有罪判決を受けた者の多くがキリスト教徒であった ことから 27),米国人宣教師からの批判が高まり,1913年3月,第二審では, 証拠不十分として99名が無罪釈放となった 28)。尹致昊,梁起鐸,林蚩正, 李昇薫,安泰国,玉観彬の6名は,1913年10月,高等法院での第二次上告 審を経て,有罪判決が下されたが 29),1915年2月に大正天皇の即位大典に 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 31.
(5) 際し,特赦となって釈放され 30),一連の事件は終息したとされている。 しかし,先述した通り,このような通説的に理解されている新民会像は, 第二審において「虚偽」として,全面的に否定されたものである。第二審 において,新民会員や新民会の存在を知る者は,新民会について, 「未タ 会カ成立シマセムカラ会長ハアリマセム 31)」,「夫レハ安昌浩ト云フ人カ設 立スル会テアツテ目下其準備中テアルトノ事テシタ 32)」等と供述し,当時, 新民会が「有名無実 33)」の結社であったとしている。 新民会の実態は,史料的な制約から明らかにすることが困難であるとは いえ,彼らの供述によると,近代的事業を計画的に進めると同時に,要人 テロ等をも企てたという,第一審で事実認定された新民会は存在したとは 言い難い。それにもかかわらず,第一審における新民会像が現在まで流布 されているのは,なぜであろう。次節以降では,「百五人事件」以降の言 説に注目しながら,考察していく。. 二.大韓民国臨時政府期における記述 尹致昊らが釈放された後,「百五人事件」と新民会にかんする証言は,. 1919年以後に度々登場することとなる。韓国併合以降,中国・米国・ロ シアなどの国外へと活動の拠点を移した者が多く,1919年4月には,諸運 動団体を代表する立場の人々を糾合して,上海において大韓民国臨時政府 (以下,臨政)が結成された。臨政は政府機構を整えつつ,韓国の独立を 目指して,国際的な正式承認や支援を求めていくのである。結論を先取り して述べると,そのような状況下で「百五人事件」と新民会にかんする証 言は,伝える相手が誰であるかによって,性格が異なっていく。 安昌浩は,1919年5月,米国から上海に到着して,内務総長に就任する が,同年7月11日,第5回臨時政府議政院での施政方針演説において,韓 日関係史の整理と独立運動の状況,さらにはその資料を国際連盟に提出す ることの必要性を唱えた。その際,韓国の歴史が記された資料を国際連盟 に提出することが決定され,国際連盟提出案件作成特別委員会が結成され る 34)。それとともに,臨時史料編纂会も組織される。臨時史料編纂会の委 員には,安昌浩が総裁,李光洙が主任として参加し 35),『韓日関係史料集』 32. 研究論文.
(6) (以下,『史料集』)の編纂が開始された。 その間,安昌浩は,政府の広報機関として新聞に着目し,李光洙らとと もに,同年8月21日,『独立』(同年10月25日第22号以降,『独立新聞』)を 創刊した。『独立』は,上海において独立新聞社から刊行され,李光洙が 社長兼編集局長,朱耀翰が出版部長に就いた 36)。同月29日第3号では, 「百五人事件」について,「寺内暗殺という偽りの名目で,百五人党獄を引 き起こし,知識人階級を一網打尽 37)」と短く言及している。管見の限りで は,この記事が臨政期における最初の「百五人事件」の記述である。 同年9月23日,『史料集』の編纂が終了する 38)。李光洙が記した緒言によ ると,『史料集』は,自身らの口から,朝鮮の事情を世界,特に欧米諸国 へ訴えかけるために記された 39)。実際に『史料集』では,「京城の私立普 成学校の歴史教員柳秉敏は,西洋史の時間にカエサルの殺害についてのブ ルータスおよびアントニウスの演説を朗読した罪によって,教員資格を剥 奪される」など,欧米諸国が関心をもちそうな事例を紹介しており,欧米 諸国に向けてまとめられたものであるといえる。 そのためか,『史料集』では新民会に言及しておらず, 「百五人事件」を 彷彿させる記述は,下記の通りである。 韓国基督教会への三大迫害事件の一つであり,世界を驚かせた所謂 朝鮮総督謀殺未遂事件は,一千九百十一年十月に朝鮮総督府が寺内 総督謀殺未遂事件を理由として,宣川の信聖学校,平壌の崇実学校, 開城の韓英書院等を迫害の目標と定めて,教会の重要人物と米国留 学経験者と有望な青年たち数百名を網羅し,一挙に撲滅しようとし たものである。日本が韓国教会を親米派の勢力として認定し,その 勢力を挫き,朝鮮の地から駆逐し,かわって日本が新勢力を樹立し ようとしたものである。この事件に対して,一人の偽証者を用い, 虚偽の証拠を作成し,韓国未曾有の拷問をもって訊問の唯一の武器 とし,拷問と拷問による自白という悪弊をうみ[略―引用者,以下 同じ]40) その他にも「日本が寺内謀殺事件によって韓国北部の基督教徒百余人を 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 33.
(7) 逮捕した事は,非常な事件」とあり,新民会の記述はない 41)。『史料集』 では,徹底して欧米諸国を意識しているために,「百五人事件」について は,キリスト教の弾圧という視点を強調している。 『史料集』の完成により,臨時史料編纂会は解散したが,その後,史料調 査と編纂作業は,国務院で継続されていく 42)。それとほぼ同時期に執筆さ れて刊行されたのが,朴殷植『韓国独立運動之血史』(以下,『血史』)で ある。朴殷植はかつて『皇城新聞』の主筆を務め,1911年に亡命後,臨 政に合流した。『血史』は文語体の漢文で記述されており,読み手には朝 鮮人知識人,さらには中国人知識人 43)が想定されていたようである。そこ では, 『史料集』で描かれていなかった新民会の記述を確認することがで きる。 明石[元二郎]は新民会を独立運動団体とした。いわゆる寺内暗殺 事件なるものは,こうして発生した。 柳東説,尹致昊,梁起鐸,安泰国,李昇薫[中略]ら一百二十余 人が逮捕され,総監部留置場に投獄された。 [中略] しかし,いわゆる寺内暗殺未遂事件は,わが愛国党を殲滅しよう とした,兇悪なフレームアップである。新民会は,安昌浩が発起し, 有志を厳選した緻密な組織で,確固不抜の精神をもつ会員八百人に 達していた。梁起鐸,李甲,安泰国,全徳基,崔光玉らが幹部要人 となり,つとめて発展をはかった。[中略]日本は,同会を憎み疑 うこと甚だしく,機会さえあれば同会を滅ぼそうとしていた。ここ にいたり,この捏造事件を利用して一網打尽にしようと計画した。 呉熙源のように,同会に関係のない,ただかつて大成学校に寄付行 為をしただけのものも,連累者として災難をうけた。 [中略]大成 学校は,安昌浩が設立し,わが国の教育機関の最良のものであった ため,新民会と同じく災難にあったものである 44)。. 『血史』では,「百五人事件」が引き起こされた目的はあくまで新民会へ の弾圧としており,キリスト教弾圧という『史料集』とは力点が異なる。 また,新民会の代表的な事業体の一つとみなされている大成学校について 34. 研究論文.
(8) は,新民会の事業体ではないが安昌浩との関係から弾圧されたと述べてお り,現在の新民会像との差異が見られる 45)。 さらに同時期,金秉祚が『韓国独立運動史略』(以下,『史略』1920) を刊行している 46)。金秉祚は,大韓民国臨時政府において,国際連盟提出 案件作成特別委員会,史料編纂委員を務め,当時は国務院嘱托調査課の主 任であった 47)。『史略』の刊行前には,安昌浩に相談し 48),さらに,安昌 浩が序文を執筆していることから,『史略』には安昌浩の意見が反映され ていると考えられる。 安昌浩が米国から韓国に帰国して,朴殷植,李東輝,李甲,申采浩, 梁起鐸,崔光玉の諸氏によって新民会を組織するので,新民会の趣 旨は,陰が極まると果実が落ちるように,密かに国権回復すべき地 雷をしかけておけば,冬至の夜があければ新たな陽の光がさすのだ と,京城や地方の各地に委員をひそかに派遣して優れた者を招いた ところ,[中略]千余人が集まり,本部を京城に置いて,各道に支 部を設け,各人の能力に応じて,部員を編成し,極秘の結社であり, 今日の活躍は実にこの会の種を蒔いた結果であるといっても過言で はない 49)。 ここで,朴殷植が新民会設立者の一人として名前が挙げられている。し かし,『血史』において,朴殷植自身は新民会員であると述べていないの で,朴殷植が新民会に所属していたという可能性は低い。『史略』におい て新民会が秘密結社と言及されていること,さらには「百五人事件」裁判 で梁起鐸も秘密結社だと供述していることから,実態がどのようなもので あったにせよ,新民会が統監府あるいは総督府から認可を受けないで,設 立されていたことは,確かである 50)。 ところで,『血史』や『史略』と異なり,『独立』第3号や『史料集』に おいて,新民会にかんする記述がなかった理由は,1921年2月6日の安昌 浩の日記で見出すことができるであろう。 新民会に関しては,中央の中心人物には李東寧・全徳基が就き,西 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 35.
(9) 北と南部中部で同志を募集する時には,西部[平安道]では安泰国, 崔光玉が中心となって行い,同志を多く得たのである。南部中部の 中心人物は,西部よりも同志を獲得した数が少なかっただけである。 これは少しもおかしなことではない。西部の人の性格が,目新しい ものや活動を好むようであったのである。耶蘇教や天主教や天道教 等が全国に布教しているが,唯一西部における発展が目立っており, 新民会もまた,これ等の場合と同じであると考えるのである。余が 心がけているのは,西部の人たちを多く入れ,南部の人たちを少し しか入れないということではない。しかし,世間がこのようなこと を誤解しているのである。また,余が海外で過ごしている間に,い つであれ西部の勢力を拡張しようという意思や態度を有した事実は, 全くないのである 51)。. 「百五人事件」で逮捕・起訴された者の大部分は,安昌浩の出身地である 平安道を含む「西部」の者であった。しかし,安昌浩自身は,新民会が西 部出身者を中心とした組織であると認識されることに対して,それを安昌 浩が意図していたとするなら,誤解であると記している。そのためか,安 昌浩は,上海において新民会の復興を打診されていたが,人々が大同一致 をする上で,新民会の復興は妨げになるとして断っている 52)。 安昌浩の思いは,1921年4月11日,安泰国の一周年追悼式における追悼 辞でも表わされている。安昌浩は,安泰国が尽力した事柄として,新民会 事業を挙げている。 五條の勒約[第二次日韓協約]を締結した後に,[中略]まさに日 本人を駆逐して,国権を回復するだけの実力を備えようと決心して 新民会を発起したのだが,その趣旨は,一つ目が団結力であり,二 つ目が人材力であり,三つ目が金銭力である。団結力はどのように 準備したのかというと[中略]東西南北に散在した愛国者を精神的 に糾合して,二千万民族の中心たるに鞏固な団結をなして,将来事 をなす時には,その中心の動力として,全民族が一致行動するよう にしようということであった。国内各区域に機関を設けて,京城に 36. 研究論文.
(10) 本部として多くの愛国者が凝結し,ひそかにその勢力が膨張した。 ここにいる李東寧先生がその時に,中央総管の任務を担われたので ある。人材はどのように養成しようとしたのかというには,団結し た同志が国内各区域を分担し,一般国民に教育の精神を鼓吹し,学 校の設立を奨励するとともに,特に各重要なところには中学校を設 立して一般の学科を教える以外に,軍人の精神で訓練し,有事の時 にはただちに戦線に出て民軍を指揮するにたる資格者を養成しよう とした。[中略]金銭力はどのように準備したのかというと,財産 家たちを脅迫したり,誘ったりの手段で寄附金を集めようとするの ではなくて,機関内の同志たちがまず直接実業に努力した後,国内 の多数の実業家と連絡し,財源の基礎を鞏固にして大事を成就する にたる資金力を準備しようとした 53)。[中略]日本は韓国を併合し ようとする時,将来的に最も危険なものと発見したのが,まさしく この新民会であって,かくして新民会員たちを暗殺党と搆造して, 種々の党獄(百五人事件等)を引き起こした[略]54) 安昌浩は追悼辞において,京城を中心として,ひそかに新民会の事業が 全国的に展開されたことを強調した上で,忠清道出身の李東寧が中央総管 を担ったことを述べている。新民会の実態についてはさておき,全国的に 糾合することが重要であると考え,安昌浩自身がそれを実現すべく,新民 会を組織したという思いがうかがえる。 しかし,その間,臨政内部では,出身地域や思想の相違による分裂およ び対立が生じている。特に安昌浩については,平安道出身者を中心に行動 しているとのことで,苦言を呈されることも何度かあった。一例としては 次のようなものである。 畿湖人[京畿道,忠清道]の人士たちが[安昌浩]先生に対して, 名誉と勢いを独占して, 『独立新聞』を私機関に作ったと大きな不 平が生じ,さらに某君等は露骨に島山[安昌浩の号]は,地方熱と いうものをまさに表した人であると言い,慶尚道の人士にも同じよ 55) うな不平があるので,特に注意してほしい。. 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 37.
(11) このような中で,安昌浩は,興士団 56)の活動にも力を注いでいく。臨 政に参加するかたわらで,興士団上海支部を設立しているのだが,その活 動の手助けをしたのが,平安道出身者である李光洙や朱耀翰たちである。 特に李光洙は,積極的に興士団活動を行うとともに,1920年代後半から は朝鮮において,安昌浩の顕彰を行いつつ,今日まで続く新民会像や 「百五人事件」にかんする言説を形成する一端を担っていく。. 三.安昌浩の関係者による記述 1920年4月,李光洙は,安昌浩の興士団構想に共鳴し,興士団友とな る 57)。李光洙の安昌浩に対する敬愛の念は強く,「李[光洙]君は自己の 主旨もなく,自己の見地もなく,ただ安昌浩の犬馬になり,一も安昌浩, 二も安昌浩として記事を書き,新聞全編に安[昌浩]を取りあげるのは, いうまでもない58)」といわれるほどであった。李光洙は,1921年3月,朝 鮮に帰国し,1922年2月には興士団の国内版である修養同盟会 59)を発足さ せ,安昌浩の顕彰を始めていく60)。 安昌浩にかんする記述は,雑誌『三千里』と『東光』で,しばしば掲載 された。『東光』は,1926年,李光洙の自宅内に設立された東光社の雑誌 『東光』に対して,安昌浩は興士団本部が積極的に支援すべき である 61)。 ことを述べ,実際に興士団から2500ドルが送金されている 62)。『三千里』 は月刊誌であり,李光洙の記事が多い。これらの雑誌の中で,1920年代 後半から解放後まもなくの時期に発信される,「百五人事件」と新民会に ついての言説を考察する。 1927年『東光』2月号では,李光洙が尹致昊を紹介しており,その中で 新民会についても言及している。. [尹致昊]氏は安昌浩氏と志気相通し,青年学友会の設立委員とな り,平壌大成学校の校長になった。青年学友会は朝鮮最初のもっと も組織的な政治的結社に値する新民会の別働隊だった。平壌大成学 校は新民会の三大事業(政治的結社,産業振興,教育振興)の一つ で教育事業の第一期事業であるとともに本拠であった。このような 38. 研究論文.
(12) 事業に首脳として推薦されたことが,第二の理由となり,寺内総督 暗殺陰謀事件にも首謀者として挙げられた 63)。 ここでは,新民会の三大事業を政治的結社,産業振興,教育振興とし, 大成学校を教育振興事業の一環としている。朴殷植が『血史』において, 大成学校は新民会の事業体ではないと記述していた内容に変化が現れてい る。 『三千里』1931年7月号には,興士団を主題とした記述の中に,新民会の 記述も見出すことができる。この記事には李光洙が直接参加していない。 執筆者は不明だが,興士団についての知識はあまりなく,自らこの記事を 「不十分」としている人物である。実際,団体の設立時期などに複数の間 違いがあり,信憑性に欠ける資料である。しかし,執筆者は興士団関連の 資料を用いて記述しており,当時の朝鮮における新民会像ないしは興士団 の自己イメージを理解することができる。 興士団の前身は新民会だった。[中略][1910年前後,国内には二 つの団体があり,一つは青年学友会であり, ]もう一つは新民会で, これは潜行運動の結社で,八道にすべて指揮者がいた。京畿の李東 寧,金徳基,平南の安泰国,平北の李昇薫,咸鏡の李東輝,李鐘浩, 薜泰熙,黃海の金九等,諸氏であった。またソウル中央幹部として, 金徳基,李東寧,安昌浩,李東輝氏等がいた。 [中略] 最初,各地に急進的教育をする機関としては,平壌に大成学校を 建てた。[中略]それに続き,出版業を盛り上げようと, [中略]ソ ウルに太極書舘を置き,図書の集散を行わせようとした。 (注2=こ の太極書舘は,単に図書刊行だけではなく,実に新民会員たちの連 絡機関となったことが,後日,尹致昊の所謂総督暗殺事件の時,判 明され,また,その書館の首脳は安泰旭だった。 ) [中略] このようにしているときに,併合がなされ,すべての結社が解散 をした。その時,新民会系のすべての事業も海外へ持っていくこと はできなかった。その時,指導者たちはみな海外へ出て行った。 [中略]. 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 39.
(13) [米国で]興士団を組織したが,発起人が8名である。8名という のは,地方熱を打ち破るためであり,各道から一人ずつ代表を選ん だのである。そのため,地理的な関係により,興士団には平安道の 人が多いが,ロサンゼルスの本部リーダーである,宋鐘翊のような 人は,慶尚道の人であった。「グループ・シュィナ 64)」的な集団で はないという証拠として,聞くにたる事実である 65)。 この記述では,新民会を興士団の前身と位置づけた上で,秘密結社新民 会の計画のもとに,全国において,様々な事業が公然に展開されたとして いる。しかし,併合とともに解散し,各地に配置された指導者たちは海外 に亡命したと述べている。 さらに,韓国併合後に組織された興士団とは,新民会と同様,平安道出 身者が多く加盟しているとはいえ,朝鮮全国の人々を対象とした団体であ ることが強調されている。1930年代においても,安昌浩やその関係団体は, 平安道以外の人々が安昌浩に対して有する,「地方熱」が強い人物という イメージを払拭できていなかったことをうかがわせる資料である。 その後,李光洙『島山 安昌浩』(1947)が刊行される。新民会会員の組 織形態の複雑化と秘密性が追加されており,事業内容も今日の新民会像に 最も近い言説が記述されている。また,李光洙は,安昌浩が1907年に帰 国して国内の人々を糾合しようとしたが,思想の違いによって失敗した後, 下記のように,新民会を設立するにいたったとしている。 彼[安昌浩]が根幹となる同志を集めるにあたり,条件が二つあっ た。一つは信じるにたる人物であること,もう一つは各道から等し く人を集めるのだが,これは本来,数々の不快な悪習となった地方 色というものを予防するためのことであった。 [中略]新民会は秘 密結社として各道に一名ずつ責任者がおり,その下部には郡責任者 がいて縦へ連絡し,横には誰が同志であるか,よくわからないよう になっていた。[中略]「秘密を厳守すること」を新民会員は学んだ。 新民会があるといううわさが出て,日警がこれを探索するように なったのは,合併後ということから見て,この団結がいかに秘密を 40. 研究論文.
(14) 厳守していたのかを斟酌することができた。所謂寺内正毅暗殺陰謀 事件で,七百余名の嫌疑者が警務総監部明石元二郎の命令で検挙さ れたことで初めて,世間は新民会という存在と誰がその会員なのか を知った 66)。 李光洙は,安昌浩が朝鮮に依然として存在する「地方色」という悪習を 断ち切るべく,朝鮮各道から同志を募って,新民会を組織したと記してい る。この点は先の興士団にかんする記述と酷似しており,安昌浩が全国的 な糾合を目指していたことを,李光洙を始めとした関係者たちが解放後に も強調していたことが理解できる。 このような新民会像に更なる要素を加えられたのが,金九『白凡逸志』 (1947)である。解放後,出版されるにあたり,校閲過程で李光洙や金九 の側近であった金善亮が参加したため 67),李光洙による校閲がどれほど加 えられているのか検討する余地はある。しかし,同書によれば,新民会組 織とその目的は,以下のようである。 安昌浩がアメリカ遊学から帰ってピョンヤン大成学校を建て,青年 教育を表面の事業としながら,秘密裏に梁起鐸,安泰国,李昇薫, 全徳基,李東寧,朱鎮洙,李甲,李鐘浩,崔光玉,金鴻亮そのほか 数人を中心に,四百人余りの精鋭分子をもって新民会を組織し,訓 練,指導にあたっていたのだが,[中略]「合併」がなされると, [中略]安昌浩は長淵郡の松川からひそかに威海衛に渡り,李鐘浩, 李甲,柳東説らの同志もあとを追って鴨緑江を越えた。 さて,ソウルから,梁起鐸の名で「秘密会議を開くから出席せ よ」という通知が来たので,わたしもこれに出席した。このとき梁 起鐸の家に集まった人々は,主人梁起鐸のほか,李東寧,安泰国, 朱鎮洙,李昇薫,金道熙,そしてわたし金亀だった。この会議の結 論はつぎの通りだった。 ──倭がソウルに総督府を置いたのに対抗して,われわれもソウル に都護府を,各道に総監という代表を置き,国脈を維持して国を治 めるようにする。満洲への移民計画を立て,また武官学校を創設し. 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 41.
(15) て光復戦争(独立戦争)に役だつ将校を養成する。そして,各道代 表を選任し,黄海道は金亀,平安南道は安泰国,平安北道は李昇薫, 江原道は朱鎮洙,京畿道は梁起鐸とした 68)。 同書によれば,韓国併合後,新民会員は国外逃亡者と国内残留者に分か れ,国内に残留した梁起鐸らは秘密会議をもち,満洲への移住計画につい て話し合った。現在,武装闘争をも計画した組織との新民会像を描き出し ている先行研究 69)は,満洲での独立運動根拠地建設を根拠の一つとして 挙げているが,このイメージは梁起鐸らの保安法違反事件における判決内 容と, 『白凡逸志』から作り上げられていることがわかる。李光洙を始め とする安昌浩の関係者たちがこの点について,どのような認識を有してい たのかは,今後詳細に検証していく必要があるだろう。 以上のように,1920年代後半から,朝鮮における「百五人事件」や新 民会にかんする記述は,安昌浩系の人物によって,安昌浩の顕彰が行われ る中で,しだいに詳細になっていく。そこで描かれた新民会像とは,全国 を対象とした組織を有し,秘密裏に,全国的な活動を展開していた団体で ある。 ところが,このような記述は,常に平安道中心と批判されてきた安昌浩 を弁護する意味合いもあった。そのことが,拡大解釈されるうちに,全国 の各郡単位にまで組織化された秘密結社というイメージが形成され,固定 化したのである。さらに,軍人の精神で将校を養成する学校について述べ ていても,武官学校設立や独立戦争計画を述べたのは系統が異なり,かつ て爆弾事件を主導した運動家金九のものだけであったといえる。. おわりに 本稿では,現在,新たな歴史的文脈から語られることが求められている 民族運動史の中で,1911年に引き起こされた「百五人事件」と新民会像 の再検討を試みてきた。現在の新民会像は,警務総監部が起訴する際に, 明らかにした新民会像と酷似しているが,これらは第二審で否定された調 書と自白に基づく内容である。第一審における新民会像が,なぜ現在まで 42. 研究論文.
(16) 引き継がれてきたのかということを詳細に論証した研究は少なく,本稿は その点を論じてきた。 「百五人事件」と新民会にかんする詳細な記述は,1919年以降,臨政の 関係者によって開始される。伝える相手が欧米諸国の場合は,大韓民国の 正式な政権として承認を得るべく,欧米諸国が関心を有するキリスト教の 弾圧という視点に基づいて「百五人事件」が描き出された。しかし,対象 が朝鮮人の場合には,新民会の記述が詳細になされる。特に,安昌浩は, 同時代の新民会像,つまり自身の出身地域である平安道を中心とした組織 であるというイメージを払拭すべく,新民会の事業が全国的に展開したこ とを述べていた。これは,安昌浩が様々な運動団体の代表者を糾合した臨 政において,朝鮮の人々を団結する役割を担おうとした思いのあらわれで もあろう。 1920年代後半からの記述は,朝鮮において,李光洙ら興士団関係者に よって,担われていく。その記述とは,臨政においても,常に平安道中心 と批判されてきた安昌浩を弁護するものでもあった。そのため,年々,新 民会の全国的な事業内容が詳細となるのだが,その新民会像は,皮肉にも, 警務総監部が作り上げた新民会像と似ていき,現在まで流布されるにいた ったのである。. 註. 1.. 本稿で使用する用語について,1897年から1910年の大韓帝国あるいは現在の大韓民 国を「韓国」 ,韓国併合(1910年)以降の植民地期あるいは朝鮮半島全体を指す場合 は「朝鮮」という表現を使用する。ただし,引用文については,原文に従う。. 2. 「百五人事件」という用語について,従来,一連の事件は,「百五人事件」,「寺内総 督謀殺未遂事件」などとよばれてきた。現在は,第一審で有罪判決を受けた人数が 105名だったことに由来する「百五人事件」が一般的な用語となっており,本稿でも 「百五人事件」を使用することとする。 3.. 安昌浩は1978年,平壌生まれ,1890年代独立協会運動に参加し,1902年渡米して在 米韓国人運動団体である共立協会を結成した。1907年帰国後は大成学校を設立する など啓蒙活動に努めたが,1910年以降は海外で亡命生活を送り,1913年米国で興士 団を結成し,1919年上海で大韓民国臨時政府に参加した。1932年上海天長節爆弾事 件に関係したとして逮捕され,朝鮮に送還されるが,釈放される。1937年同友会事 件で再び逮捕され,容体が悪化して,1938年京城で病死した。. 4.. 当時の司法手続きの手順について説明する。1912年3月朝鮮総督府裁判所令が改正 され,裁判所は地方法院・覆審法院・高等法院の三階級に分けられ,第一審裁判は. 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 43.
(17) 地方法院,第二審裁判は覆審法院,第三審および特別事件は高等法院の管轄となっ た( 『朝鮮総督府施政年報 明治四十五年度,大正元年度』3巻,62頁)。. 5.. 先行研究は,例えば,鶴本幸子「所謂寺内総督暗殺未遂事件について」(『朝鮮史研 究会論文集』第10集,1973年10月) ,姜渭祚『日本統治下における韓国の宗教と政 ,姜在彦『朝鮮の開化思想』(岩波書店,1980年), 治』 (大韓基督教書会,1977年) 慎鏞廈『韓国民族独立運動史研究』 (乙酉文化社,1985年),尹慶老『105人事件と 新民会研究』 (成東文化社,1990年) ,長田彰文『日本の朝鮮統治と国際関係 朝鮮独 (平凡社,2005年)が挙げられる。 立運動とアメリカ 1910-1922』. 6. 『日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史―先史から現代まで』(明石書店,2007年)204頁。 7.. 尹慶老『改訂増補版 105人事件と新民会研究』 (漢城大学校出版部,2012年)では, 「百五人事件」以降の運動によって,「百五人事件」関連の功績も評価され,独立有 功者として叙勲された者が複数いることを明らかにしている。. 8. 「大邱覆審法院上告」(国史編纂委員編『韓民族独立運動史資料集 百五人事件公判始 末書』第2巻,1986年) 。 9.. 1984年に裁判史料が発掘されると,国史編纂委員編『韓民族独立運動史資料集 百五 『訊問調書』 ,1986年)および『韓民族独立運動史 人事件訊問調書』全2巻(以下, 資料集 百五人事件公判始末書』全2巻(以下, 『公判始末書』,1986年)や,姜在彦・ 北博昭編『百五人事件資料集』全4巻(不二出版,1986年)が刊行される。しかし, この諸史料は異なる性格を有しており, 『百五人事件資料集』と『訊問調書』は,警 務総監部や検事の取調べに基づいて作成された訊問調書,第一審の「起訴状」や「判 決書」などを収録し, 『公判始末書』は第二審以降の裁判史料を収録している。その ため,第一審判決の証拠とされた調書,自白の類を研究史料として用いる際には, そのことを考慮し,他の史料による傍証を得られる限りで利用する必要がある。た だし,第二審の無罪判決についても政治的判断があったとの指摘があり,第一審史 料を全否定することも困難であるといえる。. 10. 木下隆男「百五人事件と青年学友会研究」(崇実大学校大学院,キリスト教学博士課 。木下は,新民会の前身が青年学友会であったとする第二審判 程学位論文,2011年) 決文の主張を重視し, 「百五人事件」とは,米国人宣教師らと繋がりのあるキリスト 教徒,ないしは彼らの多くが参加していた青年学友会を弾圧するために起きた事件 であるとした。 11. 尹慶老 前掲書(2012年)294頁。 12. 「松寺検事正論告(犯罪事実ノ分)」『朝鮮陰謀事件』セウルプレッス社,1912年, 22頁(姜在彦,北博昭編『百五人事件資料集 朝鮮陰謀事件』第3巻,不二出版, 1986年)。 13. 梁起鐸らが,1910年12月に西間島への移住などを計画した秘密会議をもったとして, 1911年7月,保安法違反によって,懲役1年半から2年の有罪判決を受けた事件である。 そのため,梁起鐸らは「百五人事件」裁判に重複起訴されるにいたった。(尹慶老 前掲書,2012年,350-351頁。 「松寺検事正論告(犯罪事実ノ分)」同上,53頁)。 14. 1910年12月,安重根の従弟である安明根が,黄海道において独立運動のための資金 工作をしていたとして逮捕された。憲兵は安岳地方を中心として,160名程度を逮 捕・拘留し,その内18名が起訴された。安明根は終身刑,17名は懲役5年から15年 。 の判決を受けた。(姜在彦 前掲書,429頁-432頁) 15. 「松寺検事正論告(犯罪事実ノ分)」前掲書,22-23頁。 16. 「起訴状」『朝鮮陰謀事件』前掲書,1-19頁。 17. 李光洙『島山安昌浩』(太極書館,1947年),46頁。 18. 第一審で起訴された者は123名であるが,判決書は122名となっており,金膺録にか. 44. 研究論文.
(18) んする記述がなくなっている。. 19. 国友尚謙『不逞事件ニ依ツテ観タル朝鮮人』39-40頁(姜在彦,北博昭編『百五人事 件資料集 不逞事件ニ依ツテ観タル朝鮮人』第2巻,前掲書)。 20. 「尹致昊外百二十一名判決書」『朝鮮陰謀事件』(前掲書)83頁。 21. 1909年10月,伊藤博文は平安道出身の安重根に暗殺され,同年12月には李完用が平 安道出身でキリスト教徒の李在明による暗殺未遂に遭っており,警務総監部は「国 亡ヒムトスルニ当リ一身ヲ犠牲ニ供シテ同胞ノ精神ヲ発揮セルモノ皆是平安道人ナ リ」 (朝鮮総督府編『朝鮮ノ保護及併合』1918年(『韓国併合史研究資料② 朝鮮ノ保 護及併合』1995年,龍渓書社)276頁)と,平安道や平安道を含む西北地方を注視 している。そのため,平安道出身者が多いとされる新民会に対しても,要人テロ暗 殺組織という疑いを有していた。 22. 「百五人事件」第二審における梁起鐸の供述によると,「規則書ハ前年保安法違反事 件ニ付警務総監部ニ於テ捜索シテ黄海道ノ何所カト京城ノ金道熙方ニテ差押ヘラレ タルへ事ニ聞キ居レリ」とのことであり,1909年にはすでに警務総監部が入手して いた。この時入手したものかは定かではないが,現在,大韓新民会趣旨書および同 会通用章程に関連する大要が残っている。 (「大韓新民会趣旨書および同会通用章程」 1909年3月27日,『統監府文書』第6巻,1999年)。 23. 李光洙 前掲書,45頁。 24. 李光洙 同上,46頁。 25. 事業内容は諸説ある。例えば,慎鏞廈(前掲書)は,五山学校,崇実学校などの学 校設立運動,西北学会などの学会活動,『大韓毎日申報』などの言論・出版活動を挙 げている。いずれも「百五人事件」の逮捕・拘留者が関係している事業である。 26. 李光洙 前掲書,45頁。朱耀翰『安島山全書』 (三中堂,1963年),76頁。 27. 尹慶老(2012)によれば,キリスト教を信仰している者は,第一審で起訴された者 の内,93名いたという。 28. 第二審以降の公判始末書によると,新民会員(一時的会員も含む)もしくはその趣 旨に賛同した者は,10名(金一浚,李基唐,鄭元範,車利錫,尹聖運,金斗和,崔 叡恒,李昇薫,梁起鐸,林蚩正),入会も賛同もしていないが存在を認知しているの は,7名(金時漸,鮮于赫,車均卨,徐基澧,張膺震,安泰国,柳東説)であり,88 名は新民会の存在すら知らなかった。 29. 『毎日申報』1910年10月10日(『毎日申報』景仁文化社,1986年)。 30. 朝鮮総督府編『朝鮮彙報』1915年(『朝鮮彙報』高麗書林,1986年)193頁。 31. 「第二審京城履藩院 第1回公判始末書 金一浚の供述」(国史編纂委員編『韓民族独立 運動史資料集 百五人事件公判始末書』)。 32. 「第二審京城履藩院 第9回公判始末書 鄭元範の供述」(同上)。 33. 「第二審京城履藩院 第18回公判始末書 張膺震の供述」(同上)。 34. 「臨時議政院紀事録」第5回,1919年7月(国史編纂委員会編『大韓民国臨時政府資 料集』第2巻,2005年) 。 35. 『韓日関係史料集』1919年(『大韓民国臨時政府資料集』第7巻,2005年)。 36. 崔埈「大韓民国臨時政府の言論活動」(『韓国史論』10号,1981年)。 37. 『独立』1919年8月29日(『大韓民国臨時政府資料集』別冊1巻,2005年)。 38. 『独立新聞』1919年9月29日,同上。 39. 『韓日関係史料集』緒言,前掲書。 40. 『韓日関係史料集』「圧迫政策」,1919年,同上。. 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 45.
(19) 41. 『史料集』の主任であった李光洙は,「百五人事件」が引き起こされた時,故郷の宣 川において,五山学校の教員を務めていた。五山学校の校長は,「百五人事件」で逮 捕され,最終的に有罪判決を受けた李昇薫であったことから,李光洙が新民会につ いて全く知らなかったという可能性はない。 42. 「大韓民国臨時政府広報」第3号,1919年9月10日(『大韓民国臨時政府資料集』第1巻, 前掲書) 。 43. 『韓国独立運動之血史』の序文は,中国人の汪精衛が執筆している。 44. 朴殷植(姜徳相訳)『韓国独立運動之血史』(平凡社,1972年)72-75頁(原本は,朴 殷植『韓国独立運動之血史』1920年,維新社) 。 45. 大成学校について説明する。大成学校とは,1908年9月,安昌浩が平壌において設 立した中等教育機関であり, 「百五人事件」で大成学校の関係者が逮捕・拘留された 後,廃校にいたった。従来,大成学校は新民会の事業体の一つで,民族運動の幹部 養成の学校であったと理解されてきたため,廃校要因も総督府による弾圧とされて いた。しかし,大成学校にかんする同時代史料を追うと,他の私立学校より教員な どが充実していたことは確認できるが,授業科目は教養を重視したものとなってお り,一般的に理解されているような政治・軍事的な性格を有していたわけではない。 また,大成学校が廃校にいたった背景には,財政上の問題が挙げられ,廃校前には 日本組合教会の渡瀬常吉を通じて,総督府からの資金援助を仰ぐにいたっていた。 そのため,総督府による弾圧のみが要因で廃校になったとはいえない。この点は, また改めて論じたい。 46. 『韓国独立運動史略』の発刊年度について説明する。「解題」には,解放後の刊行時 (1972年) ,原本に背表紙がなく,発刊年度は正確に把握できなかったが,序文から 1920年であると推定されると記してある。そのため,本稿でも1920年とする。 47. 金秉祚『韓国独立運動史略』序文(亜細亜文化社,1977年)。 48. 「安昌浩日記」1920年2月13日(朱耀翰 前掲書)。 49. 金秉祚 前掲書,5頁。 50. 「百五人事件」第二審裁判において,梁起鐸は,安昌浩が規則書などを所持していた が,認可を受けない状態で新民会を運営していたと述べている。新民会が設立され た頃,韓国では,大韓自強会,湖南学会,大韓協会,畿湖興学会,西北学会など, 地方ごとに結成された学会が多くあり,統監府ではこれらの学会を把握するために, 1908年8月学会令を施行した。これにより,学会設立の際は,「願書ニ設立者ノ履歴 書及左ノ事項ヲ記載シタル会則ヲ添付シ学部大臣ノ認可ヲ受クヘシ」(学会令第二 条)と規定された。警務総監部によって差し押さえられた大韓新民会趣旨書および 同会通用章程は,安昌浩が所持していた規則書であるかはわからない。しかし,大 韓新民会通用章程は,学会令に則して作成された内容であり,趣旨書は,国権を喪 失したことへの悲憤慷慨に満ち,激越な言語を連ねてはいるが,武力闘争を示唆す るものではなく,これらは統監府の認可を受けられないような内容ではない。した がって,新民会が初めから秘密結社として設立されたのではなく,認可を受けるこ とも考えたが,結果として,認可を受けないで設立されたと考えるのが妥当であろ う。認可を受けなかった理由については,新民会がほかの学会と異なり,全国的な 活動展開を試みていたことや,在米韓国人団体との繋がりを有する組織であるため, 申請をしても認可を受けられないと,安昌浩が考えていたのであろう。 51. 「安昌浩日記」1921年2月6日(朱耀翰 前掲書)。 52. 「安昌浩日記」1921年2月9日(朱耀翰 同上)。 53. 1920年7月,張鵬が李承晩に送った書簡において,張鵬は,安昌浩が運営していた とする光復団について報告している。それによると,光復団は全国的に展開されて おり,義勇隊を組織して,金銭を募集していた。また,京城では独立公債を集めて. 46. 研究論文.
(20) おり,その勧誘に応じない者に対して,全員銃殺するという方針をとっていたこと も記している。安昌浩と光復団との繋がりの有無などについては,今後検討する必 要があるが,安昌浩が追悼辞において述べた新民会にかんする内容は,張鵬が記し た光復団の内容と酷似している。しかし,新民会が寄附金を集める際に,脅迫をし なかったという発言は,光復団と対照的であり,安昌浩が光復団の寄附金募集時の 脅迫手段を非難しつつ,述べた可能性があるだろう。(「張鵬が李承晩に送った書簡」 1920年7月16日『大韓民国臨時政府資料集』第42巻,2011年)。. 54. 「故東吾安泰国先生追悼式(安昌浩先生が追悼辞を述べて)」『独立新聞』1921年4月 21日,前掲書。 55. 『安昌浩日記』1920年2月11日(朱耀翰 前掲書)。 56. 興士団とは,1913年に米国サンフランシスコにおいて安昌浩によって設立された団 体であり,現在も韓国や米国において活動が展開されている。 57. 波田野節子『李光洙・「無情」の研究―韓国啓蒙文学の光と影―』(白帝社,2008 年)435頁。 58. 「玄楯が李承晩に送った書簡」1920年1月17日(『大韓民国臨時政府資料集』第42巻, 前掲書) 。 59. 1929年11月,同友会へと名称が変更される。(朴賢煥『興士団運動』大成文化社, 1955年,44-45頁)。 60. 大畑裕嗣(1989)は,安昌浩にかんする資料の多くは李光洙という「媒介者」の手 を経たものであることを指摘している。(大畑裕嗣「朝鮮独立運動のコミュニケーシ ョン戦略:1920年代の安昌浩と申采浩を中心に」『東京大学新聞研究所紀要』39号, 1989年)。 61. 朴賢煥『興士団運動』(前掲書,45頁)によれば,『東光』も興士団の事業の一つで あるという。 62. 河かおる「植民地期朝鮮における同友会―植民地下ナショナリズムについての一考 察」 ( 『朝鮮史研究会論文集』第36集,1998年10月)。 63. 李光洙「規模の人―尹致昊氏」『東光』1927年2月(韓国学文献研究所『東光』亜細 亜文化社,1977年,影印本)212-213頁。 64. ロシア語で「社交性を有していない,排他的な団体」という意味を有する。 65. 三千里社調査部編「興士団―海外表現団体研究(其一)」『三千里』1931年7月号, 10-11頁。 66. 李光洙 前掲書,44-47頁。 67. 尹慶老 前掲書,302頁。 68. 金九(梶村秀樹訳)『白凡逸伝―金九自叙伝』(平凡社,1973年)172-173頁(原本は, 『金九自叙伝 白凡逸志』国士院,1947年)。 69. 例えば,姜在彦 前掲書,248頁。. (都市イノベーション学府博士後期課程・都市イノベーション専攻). 朝鮮近代史における 「百五人事件」 と新民会像にかんする再考察. 47.
(21) Re-reading of ‘The Korean Conspiracy Case(百五人事件)’ and the image of ‘Shin Min Hoe(新民会)’ in Korean Modern History. Uchino Naoko. This study tries to revisit ‘The Korean Conspiracy Case’ and ‘Shin Min Hoe’. from a new perspective. A perspective that is historical and works within the context of national movement. History becomes relevant to this case because the understanding was established from a political stand point after the colonial period of Korea.. The present understanding is ‘Shin Min Hoe’ was organized as a secret. society by Ahn Chang-ho(安昌浩)in 1907. The members were so accused because of the assassination conspiracy of Terauchi Masatake(寺内正毅)in 1911. This incident, called ‘The Korean Conspiracy Case’, was fabricated by the governor general which wanted to sue the people who associate with missionaries.. The present image of ‘Shin Min Hoe’ is very similar to the interpretation. expressed by the police department of governor general at ‘The Korean Conspiracy Case’. However, it was inconsistent because this interpretation was denied at the appellate trial, and 99 out of 105 persons were judged as innocent victims. This study therefore, seeks to shed light on the background of the present understanding of ‘The Korean Conspiracy Case’ and ‘Shin Min Hoe’ .. The current understanding of the case was scripted by people who. supported Ahn Chang-ho in the Korean provisional government. When they regarded the Western countries as a reader, they only described ‘The Korean Conspiracy Case’ as a persecutions of the Christian. However, when the readers were Korean people, they emphasized about ‘Shin Min Hoe’ and Ahn Chan-Ho’s achievements. Because Ahn Chang-Ho was always regarded as a person who made a point on his birthplace, Pyongan Province(平安道) .. This re-reading will conclude by proving that the description of ‘The. Korean Conspiracy Case’ and ‘Shin Min Hoe’ was exaggerated and being carried by Ahn Chang-Ho’s supporters under trying Ahn Chang-Ho’s defence.. 48. 研究論文.
(22)
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