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宮 崎 市 文 化 財 調 査 報 告 書 第 75 集 宮 崎 城 跡 測 量 調 査 報 告 書 正 誤 表 頁 行 誤 正 6 10 南 西 にある 奈 古 山 南 東 にある 奈 古 山 8 17 城 の 南 西 部 一 帯 にあたり 城 の 南 東 部 一 帯 にあたり

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(1)

宮崎市文化財調査報告書

第 75集

み 曹 凸

そ く り ょ う ち ょ う さ ほ う こ く し ょ

測 量 調 査 報 告 書

2009

宮 崎 市 教 育 委 員 会

(2)

宮崎市文化財調査報告書第 75 集 宮崎城跡測量調査報告書正誤表

頁 行 誤 正

6 10 南西にある奈古山 南東にある奈古山

(3)

宮崎市文化財調査報告書

第 75集

そ く

J

>9

り ょ う ち ょ う さ ほ う こ く し ょ

孟 調 査 報 告 書

2009

宮 崎 市 教 育 委 員 会

(4)

宮崎城は、市街地の北端、大淀川を臨む山の上に築かれた戦国時代の大型山城

です。宮崎の名を冠す る城であ り、本県 を代表す る城であっても不思議ではあ

りませんが、残念なが ら、市内においてす ら、その認知度は今ひ とつです。いわ

ゆる城 の普遍的なイメージである天守閣や石垣 を持たない、山城であることも

一因で しよう。無論、大きな天守閣のそび える壮麗なお城は、我が国における建

築物の代表的な存在であ り、魅力的です。対 して、宮崎城のような山城は、人 目

をそばだてるような建築物 もな く、一見、普通の山にしか見えないため、見劣 り

す る感 のあることは否めません。 しかし、山を削 り、土を盛 って様々な工夫を凝

らした山城は、動乱の時代、自然の地形を巧みに利用して生き抜 こうとした当時

の人々の力強 さと、現在の我 々が拠 つて立つ歴史を築いてきた先祖の存在 を、よ

りまざ まざ と感 じることができます。その一方で、宮崎城の城主であった上井

覚兼のある日の 日記には、「終 日御酒・御茶な とにて四方山之物語共也」 とあ り、

戦いの合間には戦国武将 も今の我々と同じ く余Π

眼を楽しんでいたことがわか り、

親近感 を覚えます。

宮崎城は、「池 内宮崎城 クラブ」 をは じめ とした地域の方 々の熱心な活動 に

よって守 られ、顕彰 されてきました。 これか ら、我 々行政の立場に立つものが、

地域の方 々とともに、どのような保存、活用を行 ってい くのか、十分に検討せね

ば な りません。本書は、その端緒である基礎資料整備の一環 として刊行す るも

のです。本書が歴史研究の一助 となることを願 うとともに、その保存、活用のあ

り方 について、様 々なご意見、ご教示を頂ければ幸いです。

平成

21年

3月

宮崎市教育委員会

教育長

(5)

1.本

書 は宮崎市教育委員会が平成 12年 か ら19年 にかけて実施 した宮崎城跡 の測量調査報告書 で ある。

2.平

成12・ 13年 度、千 田嘉博氏 (国立歴史民俗博物館助教授 当時

)に

依頼 し、縄張 り図の作 成 を行 つた。平成 16∼ 19年 度、現地 におけ る地形測量 を行 った。 3。 調査組織 調査 主体

宮崎市教育委員会 (平成 19年 度以前

) (平

成20年度〉 調査総括

文化振興課長

小掠

文 化 財 課 長

小椋

聖 野 田 清孝 文 化 財 係 長

永井 淳 生

埋蔵文化財係長

山田 典嗣 田村 泰彦 米 良 明信 山田 典嗣 調査事務

主 任 主 事

今井 智 美

主 任 主 事

松崎 留美 松木 勇道 鳥枝

誠 吉永 大介 調査担 当

主 任 技 師

宇 田川美和

主 任 技 師

竹 中 克繁 藤木 晶子 技

石村 友規 調査指導

千 田 嘉博 (国立歴史民俗博物館・奈良大学)・ 坂井 秀弥 (文化庁) 4。 「第Ⅳ章宮崎城の構造」は、平成12・ 13年 度事業 において千 田嘉博氏に依頼 し、作成してい ただ いた報文及び 図面 を掲載 した もので ある。 5。 上記第Ⅳ章以外 の掲載図面 の作成は、宇 田川、藤木、竹 中、石村が行 つた。 同じ く第Ⅳ章以 外 の執筆は竹 中が行 った。

6.本

書 の編集 は竹 中が行 つた。

7.掲

載 図面 。写真等 は宮崎市教育委員会 で保管 している。資料 の閲覧・利用等 に関 しては、事 前 に宮崎市教育委員会 までお問い合 わせ いただ きたい。 口

(6)

I章

宮 崎城 の位置 と環境 第

1節

地理的環境 ……… ……… 第

2節

歴史的環境 ……… ……… 第 Ⅱ章 宮 崎城 の沿革 第

1節

宮 崎城略史 ……… ……… 第

2節

記録 に見 る宮崎城 ……… ……… 第 Ⅲ章 宮 崎城周辺 の地名 ………

8

第 Ⅳ章 宮 崎城 の構成 第

1節

立地 と歴史的背景 ……… …… 10 第

2節

宮 崎城か らの眺望 シ ミュレー シ ョン ……… …… 11 第

3節

宮 崎城 の構造 ……… …… 12 第

4節

『上井覚兼 日記』 に見 る宮崎城 ……… 23 第

V章

宮 崎城 の現況 ……… ……… 29

1図

周辺遺跡位置 図 ……… 第

2図

宮崎城要 図 ……… …… 第

3図

宮崎城縄張 図 ……… …… 第

4図

宮 崎城周辺 の小字名 ……… …… 第

5図

宮崎城か らの可視範 囲 ……… …… 第

6図

宮崎城縄張 図 ……… …… 第

7図

宮崎城現況地形測量 図 ……… ……

4   5 3 4 6 9 12 ︲5 30 表

1

周辺遺跡一覧 ……… ………

2

(7)
(8)

I章

宮崎城 の位直 と環境

1節

地理 的環境 宮 崎城 は、宮 崎県 の海岸 部 に広 が る宮 崎平野南 半部 のほぼ 中央 に位置す る。広 義 の宮崎平野 は、宮崎県 の北部 に位置す る 日向市 の南部 を東流す る耳川付近か ら、県央の宮崎市南部の木花付 近 まで の海岸線 と、上記2ヶ所 か ら内陸側 の宮崎県野尻町付 近 まで伸び る丘 陵縁辺 とを結んだ 約800k∬の三角形の範囲を言 う。宮崎平野はその中央 を一ツ頑川が東流 し、一ツ瀬川の両岸 には 低 丘 陵が海岸部 に向けて張 り出 して い るた め、南北 に分 断 され た よ うな形 にな っている。細 か く見れイぎ、当然なが ら、平野 内において も丘陵、台地等 による地 形 の起伏が あ り、内陸丘陵地帯 か ら張 り出した標高

100m未

満 の丘陵が、水 田地帯 とな る狭義 の海岸平野部 の縁辺 を形成 してい る。 この低丘陵の縁辺 には多数 の山城が築かれてお り、宮崎城 もまた、平野部 を見渡せ る、丘陵 縁 辺 部 に位置 して い る。宮 崎平野 を流れ る河 川 の うち最大 の ものは宮崎市 のほぼ 中央 を東流す る大淀川であるが、 この大淀川は下流 において一旦、直角 に近 く流れ を変 えて南流 し、のち、再 び 東へ と流れ を変 えて河 ロヘ と至 る。宮崎城は、大淀川が南へ と流れ を変 えるいわゆる川曲の 地 点 の左岸丘 陵上 に位 置 し、河 川利用 に適 した環 境 にある。平 野部 に向けて突 き出した

3本

の 尾根 の 中央 の尾根 に位置す るため、両脇 を別 の丘 陵で遮 られ るよ うな形 にな るが、南東方向の眺 望 は 開け、海岸平野 の南端 まで を一望 で きる。 第

2節

歴史的環境 宮 崎城 周辺は市 内で も有数 の遺跡集 中地帯で、宮崎城 のの る丘 陵基部 には 旧石器時代 の遺跡 が集 中 して存在 し、丘 陵斜面 には古墳時代 の横穴墓群が、丘 陵先端 の台地部 には 旧石器時代か ら 近世 まで の複合遺跡で ある 「下北方遺跡群」 が所在す る。 丘 陵基部 には、「垂水第

1遺

跡」「垂水第

2遺

跡」「垂水公 園遺 跡」「金剛寺原第 1遺跡」「金剛 寺原第

2遺

跡」「小原 山第

1遺

跡」「小原 山第

2遺

跡」等、旧石器 時代 か ら縄文時代 にかけての遺 跡が 多数所在 して い る。宮 崎城 のの る丘陵 とは迫 を挟んで西 向か いに位 置す る丘 陵先端 には、 濱 田耕作 によ って調査が行 われ、縄文時代早期 におけ る柏 田式土器 の標識遺跡 とな っている「柏 田貝塚」が あ り、 この柏 田貝塚 と大淀川 を挟んで対岸 に位置す る跡江丘陵上 には「跡江貝塚」が 存在 す る。 弥 生時代 においては土坑墓群が検 出 され た丘陵頂部 の 「垂水公 園遺跡」や、絵画土器 を出土 し、 前期 と後期 の三度 に渡 つて営 まれ た環濠集落で ある下北方遺跡群 中の「下郷遺跡」などがある。 また下北方台地 に接 した低地 中には、鍬、鍬等の木器が検 出され た 「垣下遺跡」が所在す る。 古墳 時代 においては下北方遺跡群 中に 「下北方古墳群」が あ り、中期 か ら後期 にかけて営 まれ た、 前方後 円墳

4基

を含 む16基 の古墳 と、金銅製装 身具や 甲冑、鉄剣、鏡等多彩な副葬品を出 土 した地下式横穴第

5号

をは じめ とす る、南 九州 に特徴 的な地 下式横穴墓群が混在す る。下 北

(9)

方遺 跡群 中には、他 に寵付 きの竪穴住居 を検 出 した 「下郷第

4遺

跡」が あ り、台地上における墓 域 と居住 域 との関係 にお いて注 目され る。 また下 北方 台地 と大淀 川 を挟 んで対岸 に位 置す る跡 江 台地 上 には、

100m級

前方後 円墳

3基

を含 む前期 を中心 とした大古墳群 「生 目古墳群」があ り、 さ らに宮崎城 ののる丘陵の斜面一帯 には、「池 内横穴墓群」 と 「瓜生野横穴墓群」が分布す る。 現 在 まで に確認 されて いる古代以降 の遺 跡は多 くはないが、先述 の 「下郷第

4遺

跡」では、竪 穴住 居 とともに大型柱穴列や須 恵器枡が検 出 されて いる。更 に下北方台地上では、表面採集、発 掘調査 によ り、斜格子叩 きの布 目瓦が広範 囲にわた って得 られてお り、古代寺 院か官衡関連遺跡 の存在が うかがわれ る。 また宮崎城か ら東方 に位置す る新名爪の 「北 ヶ迫遺跡」では、溝 中よ り 円面硯 が 出上 してお り、古代那珂郡衛 の比定候補地 とな って いる。 中世 においては、宮崎城 とは迫 を挟 んで西側 の丘 陵上 に 「竹篠城」が あ り、大淀川 を挟んだ南 側対 岸 の跡江丘 陵には 「跡江城」が ある。 これ らは宮崎城か ら目視で きる存在 で あ り、距離 も近 接す るが、 いずれ も未調査で あ り、築城 時期等不 明で ある。その他、宮崎城 か ら4 km圏内には、 「倉岡城」「丹後城」「新名爪地区城館跡」「島之内・広原地区城館跡」等、多数の山城が存在す る。また拠点城郭 としては、宮崎平野北端には佐土原城、南端には柴州崎城が位置している。江 戸時代には、一帯は延岡藩の飛び領 とな り、下北方台地の南端に、代官所が置かれた。 表 1 周辺遺跡一覧 (番号 は第 1図 に対応) 番 号 遺跡名 番 号 遺跡名 番 号 遺跡名 番 号 遺跡名 宮崎城跡 住吉横穴墓群 宮脇遺FV4 蓬莱 山城跡 2 柿木原地下式横穴墓群 地蔵牟 田遺跡 浄土江遺跡 内野 々第 3遺 跡 0 じ 垂水第 1遺 跡 桜 町遺跡 第 1砂 堤上遺跡群 中岡遺跡 4 垂水第 2遺 跡 下北方遺跡群 第 2砂 堤上遺TVA群 山城跡 5 小原 山遺跡 垣下遺 跡 池 開 。江 口遺跡 山城遺跡 6 今城跡 船塚古墳 大屋敷遺跡 九拾 田遺跡 7 瓜 生野小学校校庭遺跡 船塚遺跡 生 目古墳群 本城跡 8 竹篠城跡 本村遺跡 堂原遺跡 門前遺跡 9 瓜生野横穴墓群 立野遺跡 石 ノ迫第 2遺 跡 古城遺跡 柏 田貝塚 権現 町遺TVA 石 ノ迫遺跡 古城跡 池 内横穴墓群 浮 ノ城遺 跡 跡江城跡 下古城遺跡 広原横穴墓 中無 田遺跡 跡江貝塚 曽井城跡 住吉古墳群 庵 ノ山遺跡 平石遺跡 源藤遺跡 島之 内・広原城館跡 憶 小学校遺 跡 石塚城跡 赤江町古墳 北 ヶ迫遺 跡 北中遺 跡 竹之下遺跡 新名爪城館TVA 柿本遺跡 多宝寺遺跡 蓮 ヶ池横穴墓群 北中第 2遺 跡 大淀古墳群 丹後城跡 大町遺跡 高蝉城跡

(10)

筋騨

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第 1図 周辺遺跡位置図

(Sctte:1/60,000

※天が北) 繰 機 驚 甚   生 1憲

│: 継

(11)

第 Ⅱ章

宮崎城 の沿革

1節

宮崎城略史 宮崎城 は別 名 「池 内城」「目引城 (目曳城)」 「龍峯城」「馬索城」 とも言 う。記録 における初出 は、『 日向記』『土持文書』 における建武

3年

(1336年)、 南朝方 の図師随 円・慈 円親子 (ないし 兄弟

)が

池 内城 (宮崎城

)に

拠 り、北朝方 の土持宣栄 に攻 め られ、敗死 した との記事 で ある。戦 国期 には、宮崎平野 の支配権 を巡 って伊東氏 と島津氏 の争 いが繰返 され、平野部 の要衝である宮 崎城 も、多 くその争いの舞台 とな った。 文安元年 (1446年)、 伊東祐尭が県伊東氏 の領有 していた宮崎城 を落 とし、落合彦左衛 門が城 主 とな った。 そ の後、 1577年 までの130年 間、宮崎城は伊東氏が領有 した。天文

3年

(1534年)、 伊東氏 の家督 争 いが起 こ り、長倉能登守 に擁 された伊東祐 吉が宮崎城 に入 り、家督 を継承 した。 天文

5年

(1536年)、 祐 吉は宮崎城で死去 し、翌天文

6年

(1537年)、 祐吉 の兄義祐が家督 を相 続 し、宮崎城 に入 った。天文 10年 (1541年)、 長倉能登守が 島津忠広 と手 を組 んで叛旗 を翻 した が、義祐 によって鎮圧 されている。その後、義祐は 日向全土 を支配 し、天文23年 (1554年)、 都

――――些 空里

__

目引口: 0 190H ‐‐ヽ子 野首 ゴ `、 第2図 宮崎城要図 (石川 1980よ り転載)

(12)

於郡城 (西都市

)へ

と移 った。伊東氏が 日向支配 を行 った期 間、伊東氏が領 して いた城 を俗 に伊 東氏48城と言い、宮崎城 もそ の一つに数 え られ る。 元亀

2年

(1572年)、 木 崎原 の合戦で伊東氏は島津氏 に大敗 し、続 く耳川 の合戦 において、 日 向全域 の支配権 は島津氏へ と移 つた (伊東氏 の豊後落 ち)。 天正

8年

(1580年)、 島津家 の老 中 職 にあ った上井伊勢守覚兼が宮崎城 に入 り、 以後、天正 15年 (1587年

)の

豊 臣秀吉 による九州 仕置 まで、覚兼は佐土原城主 島津家久 を補佐 し、 日向支配 を統括 した。覚兼 自身の手 による『上 井覚兼 日記』(大日本古記録

)に

は、 この間の城内での生活が詳細 に記 されている。 天正 15年 (1587年)、 豊 臣秀吉 の九州征伐 の際、一時期、伊束祐兵が宮 崎城 に入 つたが、祐兵 は鉄肥 (日南市

)を

知行 す る こととな り、宮崎は縣 (延岡

)の

高橋元種領 とな り、権藤種盛が宮 崎

4万

石 の地頭 として、城代 を務 めた。慶長

5年

(1600年

)9月

29日 、関 ヶ原合戦 の余波 によ り、清武城主稲津掃部助 の軍勢が攻 め寄せ、権藤種盛は 自刃 (降伏 を容れ られず、討 ち取 られ た とも言 う)、 宮 崎城 は落城 した。 そ の後、一時期、稲津掃部助が宮 崎城 に入 り、各地で 島津勢 と の間に小競 り合 いを続 けていた。 これは、東軍方 の伊東氏の家 臣で ある稲津掃部助が、当初、西 軍 に属 して いた高橋氏が東軍方 に寝返 って いた ことを知 らず に起 こつた 同士 討 ちで あ り、そ の 責任 を取 らされ る意 味 もあ って、慶長

7年

(1602年)、 稲津掃部助 は主家か ら誅象 されて いる。 宮崎城 は、慶長

6年

(1601年)、 徳川氏 の指示 によ り、伊東氏 か ら高橋氏 に返還 され た。 慶長 18年 (1613年)、 延 岡領主高橋氏が改 易 され、翌、慶長 19年 (1614年)、 肥前か ら延 岡に 転封 され た有 馬直純 が宮 崎 も領有す る こととな ったが、元和元 年 (1615年

)の

一 国一城令 によ り、宮崎城は廃城 とな った。 第

2節

記録 に見 る宮崎城 宮崎城 に関す る記録、記述 の うち、最大 の ものは、島津 時代 の城主 で あ った上井覚兼 の手 によ る『上井覚兼 日記』で ある。『上井覚兼 日記』 は天正

2年

(1574年

)か

ら天正 14年 (1586年)、 覚兼が29歳か ら41歳の間に書かれ た詳細な 日記で あ り、 当時 の武家社会 におけ る習俗 を知 る一 級史料 として高 く評価 されて いる。そ の記載 は政治 。軍事 。経済・ 宗教・文芸等多 岐 にわた り、 天正

8年

(1580年

)に

宮 崎城主 とな って以降 の記事 で も、宮 崎衆 を率 いて の肥 前、肥後、豊後 へ の遠征や、折生迫湊の寄船検分、鉄砲凸兵船造 り、長 曽我部元親 ら他大名 との通信などの公人 としての活動や、茶会 の開催、戦記 の朗読、連歌の添削、住民たちの盆踊 りや芝居 の見物、和歌、 俳諧、四半的、将棋、双六、蹴鞠、香、鶯合わせ な どの私 人 として の覚兼、満願 寺、奈古神社 を は じめ とす る寺社へ の参拝や僧、宮 司との交流、島津義久 の病気平癒 のための祈祷などの信仰面 につ いてな ど、当時 の武将 の様 々な面 を知 ることができる。そ の中で、宮崎城の作事 に関 しては 天正 11年 (1583年

)に

毘沙 門堂 の建立、弓場 の普請、柏 田間の道普請、天正 13年 (1585年

)に

柏 田 回の普請、天正 14年 (1586年

)に

金丸 日の普請な どの記事が あ り、他 に茶室や湯殿、庭 園 の存在 もわかる。 また登城 日として柏 田日、金丸 日、和 田日、日曳 口が記載 され、覚兼の側近 20 人程が 「城 内之衆」 として、覚兼 とともに、城 内に屋敷 を構 えていた ことな どが知れ る。今後、

(13)

発掘調査等 にお いて史料 と考古資料 との整合が計れれば、意義深 いものとなろ う。 柏 田の直純寺 に伝 わる『直純寺 由緒書』 には 「本丸」「南 (之

)城

」「小城」「野首 (之城)」 の

4つ

の曲輪名 とともに、それぞれの規模 (本丸 :竪 四拾三 間 横弐拾弐 間、南城 :竪 四拾間 横 五拾三 間、小城 :堅三拾弐 横九間、野首 :竪 四拾六間 横 四拾 四間

)と

関 ヶ原合戦 当時の守将 名が記 され て い る。直純寺は高橋氏時代 の城代で あ った権藤種盛 の孫が初代住職 を務 め、境 内 には種盛 の墓碑が立 ち、宮崎城 とは因縁浅か らぬ寺である。 ただ し、 この『直純寺 由緒書』の成 立年代は不明である。 幕末、鋲肥伊東藩の家老であ った平部晴南 の手 による『 日向纂記』 には、関 ヶ原合戦 当時の、 目啓戦 言暮癒幅

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尾脅 掃 去亀 き悟晨邑 じ 置 いて、清武勢2300余人、鉄肥 の援兵700余人、総勢3000人を もって宮崎城 に攻めかか った。 対す る宮崎城側 は城主権藤種盛以下、士卒 100余 人、雑兵450余人、都合570余人 とあ り、更 に

髪 く r二it 第3図 宮崎城縄張 図 (八巻 1987よ り転載) 一   ︲︲︱ ﹁ ︲ ︱ 十 一

(14)

弓20張、鉄砲 17挺 、槍長刀30筋、大小刀30腰と、そ の装備 まで細かに記 している。 また、満 願寺 日、船 力崎 日、 目引 日、野頸 口な どの登城路や、柏 田曲輪、本丸な どの曲輪名 と、各守将、 配置 され た人数 まで記 され、清武勢 の うち、本丸や各登城 口へ の一番乗 りの功が あった ものや、 首領級 の首級 を挙げ た ものの名が記 されている。 『 日向纂記』の記述は詳細で あ り、歴史 ドラマ として生き生きと描かれ、当時の情景が眼前に 浮 かぶ よ うで あ る。 ただ し、宮崎城が城郭 として機能 した時 よ り大 き く隔た つた幕末 に著 され た もので あ り、また著者 の平部騰南は、いわば宮崎城 の敵方 で あつた伊東家 の家老である。 さ ら には、宮崎城 を攻略 した稲津掃部助は、その後、主家の意 に従わなかった として切腹 させ られて い る。 このよ うな複雑 な事情 を反映 して いる可能性 もあ り、記述 のすべてを事実 として鵜呑 み にはで きな い。 同じ く平部崎南が 明治期 に記 した 『 日向地誌』 は、県 内全域 にわた って、各郡、各村 の面積、 地 勢、人 口、産業、寺社、史跡等 を記 した膨大 な地誌で ある。そ の中に、宮崎郡池 内村 の古跡 と して、宮崎城が記載 されている。記事 には 「椎城 (本城)」 「齊藤城」 明R部城」「長友城」「彦右 衛 門城」「射場城」 と各 曲輪 の名称が あ り、 人名が付 くものは慶長年間における各曲輪 の守将 の 名 として いる。 また登城 口について も「四門ア リ西南 門 ヲ ロ曳 ロ ト云東南 門 ヲ船 ヶ崎 ロ ト云東 北 門 ヲ野頸 ロ ト云満願 寺 ロ ト云」 と記 して いる。 この うち、東北門の野頸 口については、『 日向纂 記』 の段階では 「野頸 口 。柏 田曲輪廻 リノ大将ニハ権藤仲右衛 門尉 ……」 と記載 し、城西 の柏 田 方面 に面 して い ると考 えていた よ うで あるが、『 日向地誌』 において東北門 と訂正 したよ うで あ る。現在、城 の北東方 向の迫 に

2本

、南東方向の迫 に

2本

(うち

1本

は最近の取 り付け)、 今 日 で も利用 されている明確な登城路があ り、細部 において 当時 との違いはあろうが、大枠 のルー ト として は、『 日向地誌』記載 の 「野頸 日」「満願 寺 口」「船 ヶ崎 日」 に比定で きる。また西南 の 「目曳 口」 について も、現在は殆 ど使われていない尾根上の道が あ り、「目曳 口」 に比定 され る か と思 われ る。『 日向地誌』 には城 の北東 に位置す る満願寺 について も、真言宗都於郡黒貫 寺 の 末寺で、 明治

3年

に廃寺 とな った ことを記 している。 『 日向地誌』は現地での踏査や聞き取 りを主 として記述 されたもので ある。各曲輪の名称な ど は、極 めて個性的な ものであ り、現在で も地元で親 し く用 い られているものではあるが、宮崎城 が城郭 として機能 していた 当時 のものか否か、慎重 に検 討す る必要が あろ う。 なお、前述 の『直純寺 由緒書』であるが、同文書記載 の曲輪名は、「野頸」以外に『日向纂記』 『 日向地誌』の記載 と合致す るものがな く、「南之城」「小城」と極 めて客観的な名称で ある。そ の成立年代は、少な くとも 「服部城」「彦右衛 門城」な どの個性的な呼称が成立、定着す る以前 の、江戸期の ことと思われ る。 【が考文献】 石川恒太郎 1980「宮崎城」『日本城郭大系』第 16巻 新人物往来社 富永 嘉久 1985「上井覚兼 日記の研究 (二)」 『宮崎県総合博物館研究紀要』第 10輯 宮崎県総合博物館 八巻 孝夫 1987「宮崎城」『図説中世城郭辞典』

3

新人物往来社 吉本正典編 1999『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』宮崎県教育委員会

(15)

第 Ⅲ章

宮崎城周辺の地名

宮崎城 は宮崎市池 内町、 上北方 町 にまたが って所在す る。周辺 の小字名 には、「城」 をは じめ、 「麓」「柿下」「城代」など城郭 の存在 を如実 に示す ものが多数見受け られ る。「内 ノ丸」「堀 ヶ 迫」「大堀」「古 門」「陣 ノ平」「新 馬場」「鍛冶屋 園」「伊勢領」な ど城郭 の構造物や周辺 の存在 を 示す ものや文献上 に表れ る 「前吾 田」「後吾 田」「目引」「金丸」 な どのほか、「古道下」「寺迫」 「寺前」「棄田」「八幡 田」「数太木」「地金」など、直接的に宮崎城 に関連せず とも、歴史のあ り そ うな地名 もある。 第 Ⅱ章 に述べ た とお り、『上井覚兼 日記』 には、登城 日として 「金丸 日」「和 田 口」 町白田 口」 「目曳 口」の記載が見 える。現在、宮崎城 には

5本

の登城路が あ り、多 くは曲輪平坦面の畑地利 用 のた めに供 されて きた。そ のた め、城郭 として機能 して いた 当時 の まま とは いかな いで あろ うが、基本的なルー トとしては 当時のものを踏襲 していると思われ る。 『上井覚兼 日記』 に記載 され る登城 日の うち、「金丸 日」 噺日田 口」「目曳 口」 については、先 述 の小字名 「金丸」「前吾 田」「後吾 田」「目引」 と関連 して いる可能性 が高 い。池 内町金丸 は城 の北東、山麓の水田部分 にあた る。現在、この付近か ら寺迫 を通 り、万願寺跡を起点 として西方 詈 を房

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と 下、塔 甚法ζ告

:1岳

蓬二魯兵 ら斜面、頂部 の曲輪 の一部 と大型 の上塁 を具えた外枡形の虎 口を含 む範 囲である。現状で山麓 か らこの虎 口へ と至 る道 が あ り、『上井覚兼 日記』 に記載 された 「和 田 口」 と思われ る。 また上 北方町 目引は、城西 中央 の斜面及び 山麓 の 目引池 を含む一帯で、現在、 日引池 の北か ら尾根上 を 通 り、 曲輪へ と至 る電 力鉄塔保全用 の山道が あ り、「目曳 日」 の可能性 が高 い。 また 『上井覚兼 日記』 中には 「目曳之 日弓場」 の記載が ある。「目曳 口」 の山麓一帯が、字 「伊手本」「伊屋坊」 とな ってお り、 あるいは 「射手」「射矢」 に通 じるのかもしれない。 『上井覚兼 日記』に見 えるもう一つの登城 日「柏 田日」については、明確ではない。現在、宮 崎城 のの る丘 陵 とは迫 を挟 んで西 隣 の丘 陵 の南端、大淀川 のほ と りが大字瓜生野字柏 田・渡 と な ってお り、 この一帯が『上井覚兼 日記』に何度か登場す る柏 田で、河川利用等 に関して重視 さ れて いた と思われ る。「柏 田 口」は、 この柏 田方面へ と抜ける道で あ り、覚兼時代 に整備が行わ れた ことも記 されている。現況 には 「柏 田 日」に相応 しいルー トは見 出せない。ただ し、地番 図 を見 ると、宮崎城の南端か らそ のまま主尾根上を南下 したのち、城 の南西に降 りる、今は失われ た道 の痕跡が あ り、 あるいは、 これが 「柏 田 口」 か と思われ る。 また平部崎南が明治期 に記 した『 日向地誌』 には、「目曳 口」「船 ヶ崎 口」「野頸 回」「満願寺 口」 の

4日

とそれぞれの方角が記 されている。 田代学氏の研究では、「目曳 口」以外 の奎城路 に つ いて、寺迫か ら満願寺跡 を岐点 として南西にのび るルー トを 「満願寺 口」、西にのび るルー ト を 「野頸 口」、上記 「和 田 口」 を 「船 ヶ崎 口」に比定 している。 ただ し、『 日向地誌』は幕末か ら 明治 にかけて、地元 で の伝 聞 を主 として書 かれ た もので あ り、『上井覚 兼 日記』 に記述 の無 い 「船 ヶ崎 口」「満願寺 口」 については、宮崎城が城郭 として機能 して いた ころまで遡れ るものか

(16)

否か、慎重 に検 討す る必要が ある。 また『 日向地誌』 と同じ く、覚兼時代以降に記 された『直純寺 由緒書』や『 日向纂記』な どに は、「本丸」「/Jヽ城」「南 (之

)城

」「椎城」「齊藤城」 明限部城」「長友城」「彦右衛 門城」 な ど、多 く個性 的な曲輪名が記載 されて いる。 ただ し、 どの曲輪 にどの呼称 を比定す るかは資料 間 にお いて組齢が多 い。 また 「船 ヶ崎 口」「満願寺 口」 と同じ く、城郭 として機能 していた期間に用 い られ た呼称 である確証はないため、不用意 に用 いることは避 け るべ きで あろ う。上記 の曲輪名 は、個性的な名称だけに、現在で も地元で、親 し く用 い られてお り、その意味においては、尊重 すべ き と思 われ る。 【参考文献】 田代

学 2003「原典史料にみる宮崎城」『宮崎県地方史研究紀要』第27輯 争了

i穏

第4図 宮崎城周辺の小字名 (Sc』

e:1/15,000)

(17)

第Ⅳ章

宮崎城 の構成

千 田 嘉 博 第

1節

立地 と歴史的背景 宮 崎城 は宮崎市街 の中心か ら北

6kmに

位 置す る宮 崎市池 内町 に所在 し、主郭 は標高93m、 山麓 との比高差が約

70mの

丘 陵上 に占地 していた。宮崎城はい くつ もの頂部や鞍部 を含 む南北 に伸び た丘 陵を利用 してお り、周 囲の丘陵 と比べて と りわけ高 い地形ではない。 しか し樹木が 茂 って い る現 状 で も木 々の間か らの眺望 はよい。 また城下集落 を形成す るのにふ さわ しい支谷 にめぐまれ、城 の南西

2kmに

は大 き く蛇行 した大淀川が迫 って水運 の掌握 に適 した ことも、こ こが城 に選ばれた理 由であろ う。宮崎城 には、池 内城、龍峯城、 日曳城、馬索城 の別称があった。 この城 の歴史は南北朝期 にさかのば り、その後、室町期 か ら戦国期 まで都於郡城 に本拠 を置 く 伊東氏家 臣が城主 を務 めた。 しか し伊東氏は1572年 (元亀

3)に

木 崎原 の戦 いで島津氏 に敗れ、 1577年 (天正

5)の

福永氏謀反 を契機 に豊後 国に退 いた。そ して島津氏は翌 1578年 の高城耳川 の戦 いで大友氏 を撃破 して、 日向国のほぼ全域 を掌握 した。 島津 氏 は1580年 (天正

8)頃

まで に島津義弘領 の諸県郡西部、島津氏一族 の北郷氏領で あ っ た諸県郡南部などを除いた諸地域 に地頭 を配置 し、地頭・衆 中制 を整えた。 こうして成立 した島 津 氏 の 日向国支配 の拠点城郭 は30ヶ所以上 にお よんだ。宮 崎城 もそ うした拠点城郭 のひ とつに 数 え る ことがで きる。 宮崎城 は1578年 に島津忠朝 の家 臣 日置忠充が城主 とな り、1580年 (天正

8)8月

か ら1587年 (天正

15)5月

頃 まで上井覚兼が城主 にな った。覚兼は1545年 (天文

14)2月

11日 生まれなの で、36才か ら43才にかけての ことであ った。 この とき覚兼は島津家老 中の職 にあ り、鹿児島に いた 当主・島津義久 の名代 として佐土原城の島津家久 を助け、先 に記 した島津義弘領、北郷氏領 を除 く日向国の政治 と軍事 を統括 した最高責任者であ った。だ か ら宮崎城 は島津時 の 日向国支 配 にお いて、 もっとも重要な拠点城郭であった といえる。 こ うした重要性 とともに宮崎城 を戦国史上でわすれ る ことがで きない城 に したのは、城主 の 上井覚兼が書 き残 した 日記 の存在で ある (『上井覚兼 日記』大 日本古記録)。 南九州戦 国史 の基本 史料 にな って いる この 日記 によ って、宮崎城 内や麓の構造が知 られ るだけでな く、政治や戦い、 日常 の信仰・儀礼・文芸などのよ うす を具体的につかむ ことができる。 これほど詳細な城主本人 によ る同時代史料 に恵 まれた戦国期城郭は全国的 にもまれで ある。後述す るよ うによ く残 る現 地遺構 と合わせ、宮崎城 の歴史的価値はきわめて高 いと評価できる。 上井覚兼は宮崎城主 として政務 を果 たす とともに、各地 に出陣 した。覚兼 の宮崎城主 として の最後 の出陣は豊後 国の大友氏攻 めであった。 1586年 10月 15日 に宮崎城か ら出陣 し、豊後 国利 満城下 の戦 いで 日向衆 を率 いて秀吉か ら派遣 された仙石・長我部連合軍 を撃破 した。 この年は大 友氏 の城下町の府 中 (大分市

)で

越年 して いる。 ところが羽柴 (豊臣

)秀

吉が 「九州 国分令」違反 として島津氏討伐 のため大軍 を派遣 した こと

(18)

を受けて覚兼は1587年3月 に宮崎城 に撤退 した。 当然、宮崎城 の改修 を進 め、 防御 を固めたで あ ろ う。そ して 同年 5月 には進軍 して きた羽柴秀長 に降伏 した。覚 兼 は降伏後 す みやか に宮 崎 城 を退去 した もの と思 われ る。羽柴秀長 は覚兼が飼 つて いた 白南 蛮犬 を強 く望 んだ。 しか しな かなか 白南蛮犬 を譲 らなか ったよ うで、覚兼 は督促 を受けてい る。最終的 にど うしたかはわか らない。 そ の後覚兼は薩摩国伊集院の地頭 を務 めたが、45才の若 さで1589年 (天正

17)に

病没 した。 覚 兼退去後 の宮 崎城 は縣三 城 とともに高橋元種 の領地 にな った。元種 は縣 の松尾城 を本拠 と した ので、宮崎城 は権藤種盛が城主 を務 めた。 1600年 (慶長

5)の

関 ヶ原 の戦 いでは、高橋元 種は のちに徳川方 の東軍 に寝返 ったが、最初石 田方 の西軍 に味方 したため、東軍 に属 した鉄肥城 主伊東祐兵 の家 臣で清武城主 の稲津掃部助 に 9月 29日 夜 に急襲 され た。権藤種盛は弟 の種利、 種公 らと防衛 に努 めたが落城 し、 自刃 した。直純寺 (宮崎市瓜 生野

)に

伝 わ る文書 によれば、本 丸 の城主 は権藤平左衛 門尉種盛、南城代は権藤八右衛 門尉、小城 と野首 の城代は権藤忠右衛 門尉 とす る。 関 ヶ原 の戦 いの のち、宮 崎城 は高橋元 種 に返還 され たが、元 種 は1601年 か ら延 岡城 を築 いて 新 たな本拠 を整備 して お り、落城 で大 きな被 害 を受 けた宮 崎城 を どの程度修 復 したか明 らかで はな い。後述す るよ うに石垣や定型的な枡形 といつた慶長期 にふ さわ しい痕跡が見 られ ない こ とか ら、これ以降に最低 限の維持は されていた として も、実質的な城郭 として宮崎城が整備 され て いたのは1600年 の攻城戦 まで と見てよいだ ろ う。 第

2節

宮崎城か らの眺望 シ ミュレーシ ョン 宮 崎城 内の眺望 を現 実 的 な可視 範 囲 をシ ミュレー シ ョン してみ よ う(1た そ の結果 を図示 して み ると宮崎城は南東および南西方面への眺望 に特 にす ぐれ た ことがわかる (図 5)。 現在 の宮崎 市街地 を挟 んで南

20k mに

位置 し上井覚兼 の父親・薫兼が居住 した紫波州 崎城は、宮 崎城か らの 南側 可視 範 囲の限界線 上 にあ り、両城が南北で宮 崎平野 を押 さえ る位置 にな って いた ことがわ か る。 宮 崎城 か らほば真南 には、城 とそれ ほ ど高 さが変 わ らない丘 陵がつづ くので、現在 の総合文化 公 園か ら宮 崎市役所 にかけた ラインには見 通せ な い範 囲が広 が って いた。 しか し大淀 川 の上流 に向いた南西方面は川筋 に沿 つて眺望が 開けた。大淀川沿 いには宮崎城か ら南西約

5kmの

位 置 に倉 岡城、そ こか ら南西約

4kmに

穆佐城、そ こか ら北西約

4kmに

天 ヶ城が位置 して、濃密 な拠点城郭 のネ ッ トワー クを構成 していた。 それ ら戦 国期 の宮崎城 と同時期 に存在 した大淀川沿 いの拠点城郭群は、 いずれ も宮崎城か ら 直接望 む ことが可能 で あ り、 もちろん逆 に宮 崎城 を眺 め る こともで きた。峰 火 によ る連 絡が重 要 で あ つた戦 国期 にお いて、互 いに確 認 しあえ る ことは今 日考 え る以 上 に意 味 を もった に違 い ない。 こ うした良好 な南側へ の眺望 に対 して、宮崎城か ら北側へ の眺望は近隣1∼

2km程

度 のき

(19)

5図

宮崎城か らの可視範 囲 わ めて限 られ た範 囲に留 まった。宮崎城が歴 史 上 もっとも重要 な役割 を果 た した上井覚兼 時代 には、宮 崎城 は 日向国において最上位 の 拠点城郭 で あ ったか ら、北側へ の眺望 を欠 い た のは拠点城郭 として問題で あった。 しか し宮 崎城 か ら北東約

9kmに

は、 島津 氏 当主 の義久 の末弟・家久 が城主 を務 めた佐 土 原 城 が あ り、信 頼 で き る この城 の存 在 に よ って宮 崎平野北側 の防御線 を構成 した一 ツ 瀬川 と宮 崎城 北側 の丘 陵部 を完 全 に掌握で き た。佐 土原城 との連携 によ って宮崎城北側 の 眺望 の問題 は解決 され たので ある。 城 か らの可視範 囲の大小や特色 は、直接的 には城 の立地 のあ り様 を示 した。 しか しどの 範 囲 を見渡 せ たかは、 そ の城 の築城主体 の政 治 的立場 や権 力の大 き さに対 応 した。だ か ら 城 を資料 として読 み解 く際 に可視範 囲の問題 は大 きな要素になる。宮崎城の立地 の特性を政治史的な視点か ら考えると、北側 を見通せない 立地は上井覚兼 と島津家久 との微妙な政治関係を反映したと評価できる。 覚兼は 日向国の責任者ではあ ったが、家久 をほかの地頭 と同じに扱 うことは決 してできな かつた。家久は当主 。義久の名代であ り、実質的な権限は覚兼がもっていても名 目的には家久が 上位者であった。 こうした複雑な政治関係が相互に見通せない宮崎城 一佐土原城の立地に反映 したといえるだろう。 第

3節

宮崎城 の構造

(1)構

造 の特色 宮 崎城 は 南 九州 の典 型 的な 中世城郭 の形態 を と り、複 数 の 曲輪 が並立 的 に連 結 した構 成 を とつた (図 2)。 主郭 を中心 とした求心構造 (曲輪 間 の階層性

)が

相対 的 に乏 し く、それぞれ の 曲輪群 が屋敷地 を基本 とした ことか ら、わた くしは こうした城郭 を館屋敷型城郭 と呼んでいる [千田1990・2000]。 宮 崎城は館屋敷型城郭 のなかで も宮崎県 の都於郡城や、鹿児 島県 の知覧城・ 志布志城 と並び、 もっとも大規模で遺構 の保存 にす ぐれた中世城郭で ある。 こ うした城郭プ ランのあ り方は、シ ラス土壌 とい う地質 によるところもあ ったが、よ り主要な 形成要 因は築城主体 の分立的な権 力構造 を反映 した ことにあ った [千田2003]。 そ うした権 力構 造 の特 質は城郭プ ランに色濃 く刻印 され ただ けでな く、 くり返 され た会所的儀 礼 による城主 と 家 臣 との信頼 関係 の構築 な ど 日常 の細部 にお よんで いた。発掘調査が進 めば、建物構造 ととも

(20)

に儀礼 を示す遺物 の量 と分布 な どか ら考古 学的 にも分立的権 力の痕跡を浮 き彫 りにで きるだ ろ つ。

(2)主

郭 先 に述べ た よ うに宮崎城は主郭 をいずれ を主郭 とすべ きか迷 うほ ど並立的なプ ランを もった。 しか し曲輪 Iは曲輪群 の中央 に位 置 して防御 上有 利 な場所 にあ った こと、 曲輪 Ⅲ とほぼ 等 高で は あ るが 城 内 中の高所 を 占めた こと、 内部 を分割 して使用 した痕跡が ない単郭 の広 い曲輪 で あ った ことか ら主郭 と判 断 され る。『上井覚兼 日記』 には 「内城」 の記述が あ り (天正 11年 2月 14日 :上巻203)、 主郭 をさしたもの と思われ る。 当該期は内城 と呼ばれた と見て間違いない。直 純寺 (宮崎市瓜生野

)所

蔵 の文著 は この曲輪 を 「本丸」 とし、『 日向地誌』は 「椎城」 とす る。 現状 は植林 され た樹林、草生え地、耕地跡 にな ってお り、ご く一部 を送電線 の鉄塔建設 によ っ て破壊 されている。周囲に土塁 を備えた痕跡は見 あた らず、急峻な切岸が囲 う。北側 の曲輪 Ⅲ、 南側 の 曲輪 Ⅱに対 してはそれぞ れ堀切 りをめ ぐ らした。特 に曲輪 Ⅲに面 した堀切 りの規 模 は大 きい。 この堀 切 り底 には現在 も東側 の谷 筋 か ら宮 崎城 に登 る山道 が入 り込 んでお り、 こ うした 城道 の あ り方 は 中世 にさかのぼ ると見 て よいだ ろ う。 『 日向地誌』 は この道 を 「満願寺 口」 とし、西側 の谷筋の道 を 「目曳 日」 とす る。『上井覚兼 日記』 に見 え る 「目曳 口」は これ に違 いな い。現在 は地名が伝 わ らない『上井覚兼 日記』 の 「金 丸 口」 は 「満願寺 口」で あ つた可能性が高 い。 しか し曲輪 Ⅲとの間の堀切 り底 を経 由して、本来 どのよ うに主郭 の曲輪 Iに 入 ったかは地表 面観察 で は 明 らか にで きな い。現在 は 曲輪

I北

東 の小 さな帯 曲輪 を通 って 曲輪 Iに入 るが、 こ の道筋 は鉄塔建設時の新 しい改修が加わ ってお り、また切岸の登 り方が不 自然な ところな ど、当 時 の城 道 とす るには不審 な点が多 い。 曲輪 Iの北 西 隅直下 に もご く小 さな腰 曲輪が あ り、 ここ をつな いで 曲輪 Iに 入 つた可能性 もある。 いず れ にせ よ曲輪 Iの北側 塁線周辺 には土木 工事 による枡形な ど、 出入 り口を特定 す る手が か りが な く、地表面か らはそ の特定はで きな い。 それ に対 して曲輪 Iの 南側、曲輪 Ⅱに面 した塁 線 には、堀 底 に向けた切 り込 み状 の出入 り口が見 られ る。位置 と大 きさ、堀底へ の連絡状況 か ら 考 えて、 これ は本来 の出入 り口で あ った と判 断で き る。主郭で あ った曲輪 Iはそ の位 置 と役割 か ら考 えて、南へ も北へ も密接に連携す るためにそれぞれ城道 を伸ば し、曲輪 との接点 には出入 り口を設 けていたが、 このよ うに北側 と南側で出入 り日の様相は対照的だ った。 曲輪 Iの南 出入 日とそ の先 の城道 に関 しては、い くつかの復原プ ランを提示で きる。現在、曲 輪 Ⅱ

aと

曲輪 Ⅱb・ Ⅱ

c間

とを区分 した堀 に多数 の間伐材が投げ込 まれていて、ほ とん ど堀が埋 没 して深 さを観察 で きな い ことが解釈 をむ つか し くして い る。現状では曲輪 Iの南 出入 日か ら 外 へ 出た城道 は、す ぐ南側 の堀切 りを土橋で渡 るが、 曲輪 Ⅱaと曲輪 Ⅱb・ Ⅱ

c間

とを区分 した 堀 の堀 底 には降 りず に、 曲輪 Ⅱ

a側

の切岸 に沿 った部分 を進む。 しか しここは曲輸 Ⅱ

aの

切岸 を二次 的につけた道で崩 してつ くつた疑 いが あ り、本来の状況ではないようである。 もち ろん 曲輪Iの南 出入 日の前面 にあ った堀 切 りを上橋で渡 る ことは、それだ けで見れば 何 もおか し くな い。 しか し この堀切 りと、 曲輪 Ⅱ

aと

曲輪 Ⅱb・ Ⅱc間とを区分 した堀 との関係 を

(21)

も考 えると、にわかに問題は複雑化す る。第1の可能性 として、曲輪I南側 の堀切 りと、曲輪 Ⅱ

aと曲輪 Ⅱb・

Ic間

とを区分 した堀が同じ深 さだ った とす ると、両方の堀は

T状

に交わ って、 曲輪 Iを出た城道 もそ の まま曲輪 Ⅱaと曲輪 Ⅱb・

Ic間

とを区分 した堀底 につづいたと復原で き る。す る と曲輪 I南の出入 口を出た先は、土橋 とい うよ り出入 り日と堀底 とを結ぶス ロープ 状 の通 路だ った ことにな る。 第

2の

可能性 として 曲輪I南側 の堀切 りの底が よ り深 く、 曲輪 Ⅱaと、 曲輪 Ⅱb・ Ⅱ

c間

とを 区分 した堀底が浅 か つた とす ると、曲輪 Iの 南側 出入 り口を出た城道 は、まず手前の深 い堀切 り を土橋で渡 り、土橋 を渡 った先でやや浅 い曲輪 Ⅱaと、 曲輪 Ⅱb・ Ⅱ

c間

とを区分 した堀底 につ なが った と復原できる。 ここまで曲輪 Ⅱaと曲輪 Ⅱb・

Ic間

とを区分 した堀 の底 を歩 いた ことを前提 として解釈 を進 めて きたが、堀 の中央 には曲輪 Ⅱaと曲輪 Ⅱb・

cedと

を結んだ土橋が現状では見える。 この 土 橋 も本来 のものか、 あるいは後世 に林業な どのためにつ くった ものか問題が残 る。 もし本来 の姿だ とす ると堀底 を城道 にした と考 えることと矛盾す る遺構で ある。わた くしは この土橋 は 後 世 に付加 され た もので、本来 はなか った と考 え る。 もし この位 置 にな にか あ った とすれば 堀 底 の段差が ついていた程度ではないか と推測す る。 いず れ にせ よ曲輪

Iか

ら南側へ の城道 をどのよ うに把握す るかは、宮崎城 中心部 の解釈 に大 きな位置 を占め、将来 の史跡整備 において もポ イン トにな る部分で ある。曲輪 の平場だ けでな く、こ うした遺構 を発掘調査で確認す ることで、宮崎城 の個性 をさらに見 いだす ことができるに 違 いな い。 確定で きない部分は残 るが、 曲輪 Ⅱaと曲輪 Ⅱb・

Ic間

とを区分 した堀 を通 って、城道は Ⅱ

a南

直下 の外枡形 に至 った とす るのが、全体 か ら考 えて も っとも蓋然性が高 い復原で ある。 こ の一連 の出入 り日と城道 とによってできた構成 を外側 か ら中心 に向か つて叙述す ると、 まず最 初 に外枡形 とい う権 力表 象的で、防御 と出撃性 の高 い出入 り日が設定 され、そ こを通 って進む と 曲輪群 の間 を突 き抜 け る直線 的で幅 の広 い堀底道 が つづ き、 さ らにそ の奥 に堀切 りで守 った切 り込み状枡形の主郭 (曲輪

I)出

入 り回が控 えて いたので あ る。 曲輪 Ⅱのそれぞ れ の削平地 は後述す るよ うに屋敷 地 で あ った ことが確実で、 曲輪 Ⅱのなか を 通 った城道は、城 内屋敷 の間を抜け、それ に見下 ろされ た直線城道だ った と復原できる。主郭 の 切 り込み状 の、内枡形 を指 向 した枡形空間 と、曲輪 Ⅱ

a南

直下 に張 り出 した城道 の先端 に開かれ た外枡形 とは、両者 の間の城道 を挟んで連動 した一対 の城 門で あ り、これ ら城道 と空間 とはひ と つづ きの虎 口空間 と評価す ることができる。 曲輪 Iと 曲輪 Ⅱが連携 してで きあが った城道 と出入 り口との組 み立ては戦 国期 の出入 り回と して達成度が高 い。戦 国末期 におけるこの地域 の城郭プ ランにおける到達点 を示す と考 えて よ いだ ろ う。 このよ うに主郭で あった曲輪 Iの南 北 出入 り回の違 いは、単純 に曲輪Iの塁線で の 出入 り日の顕在

/不

顕在 とい った問題ではな く、宮崎城 中心部 の構成 に深 く連動 していた。 つ ま り曲輪 Iの南北 の出入 り日の差は、南 の ものが城郭全体 の大手 の出入 り日の機能 を担 い、 北 の ものが城 内の曲輪 間 の連絡 を担 った通用 門的 な機能 を果 た した ことによる違 い と読 み とれ るので ある。 ちなみ に直純寺の文書は曲輪 Ⅱ

a南

直下 の外枡形 を 「大手 日」としてお り、遺構 か

(22)

旧 円 も ヾ 崎 ・ ∫ 〉

孝 第6図 宮崎城縄張図

͡

(23)

らの評価 を補強す る。 な お現 状では曲輪 Ⅱと曲輪 Ⅲとの連絡 には曲輪 Iを経 由す るほかな いが、主郭 を通 り抜 けて 曲輪 Ⅱと曲輪 Ⅲが 日常 的 に連絡 して いた とは考 え に くい。 間違 いな く曲輪Iの裾 をまわ って連 絡 した城道 が あ つた もの と思 われ る。 曲輪 Iの南 北 にあ った堀切 り先端部 か ら城道 が伸び て い た可能性 もあ り、今後精査 をす る必要が ある。

(3)曲

輪 Ⅱ・ 山輪Ⅳ 曲輪 Ⅱは主郭 の曲輪I南側 に接 し、 曲輪 Ⅲ とともに大 きな面積 をもった。直純 寺 の文書は曲 輪 Ⅱ全体 を 「百貫 シ ョウジ」 とし、『 日向地誌』 は後述す る曲輪 Ⅱaを 「齋藤城」、 曲輪 Ⅱb・ Ⅱ c・ Ⅱ

dを

「百貫城」 とす る。近年 の宮 崎市教育委員会 による聞き取 り調査で も曲輪 Ⅱb・ Ⅱ c・

Idは

「百貫城」 と呼ばれていた。 曲輪 Ⅱの内部 は 中央 を南北 に伸び た堀 で東 西 に大 き く三分 され た。 さ らに中央 の堀 の東側 の 曲輪 は 小 さな 区画溝で

3つ

の平坦地 に分け られ た。 曲輪 Ⅱb・ Ⅱc・ Ⅱ

dで

ある。 小 さな 区画溝 は直接 には近年 まで使用 していた畑 の境溝 で あろ う。 しか し平地城館 の堀や土塁、城下町の屋 敷 区画 が近代 の地籍 図に表 され読 み とれ るよ うに、 こ うした畑 の境溝 も戦国時代 の曲輸 Ⅱの屋 敷 区画 を踏襲 した可能性が ある。 主郭 を と りまいた大 きな曲輪群 は、後述す るよ うに『上井覚兼 日記』の記述 か ら 「城 内衆」の 屋 敷 群 として使用 した ことがわか り、本来 も塀 や溝 で 曲輪 内部 をい くつか に分 けて いた ことが 確 実 で あ る。将来 の発掘調査 ではそれぞ れ の建物群 と合 わせ、 区画 と屋敷 へ 出入 りした曲輪 内 の通路 とを明 らかにす ることで、 まとま りある屋敷地 を把握す ることが重要である。 曲輪 Ⅱのいず れ の平坦地 に も塁線沿 いの土 塁は見 られ な い。 また出入 り日の痕 跡 もは っき り としな い。 ただ し曲輪 Ⅱ

a北

側 の帯 曲輪 が 出入 り日のための虎 口空間 として機 能 した可能性 は あ る。 曲輪 Ⅱ

bは

踏査 時は きび しいブ ッシ ュにな ってお り、充分 内部 を踏査す る ことはで きな か った。堀 に面 した西側は一段低 くな って い るが、虎 日空 間 とす るには大 きす ぎ る。 曲輪 Ⅱ c 北西 の堀 か ら上が り込 んだ ところは若千低 くな って いる。 これは後世 の土地利用 によ ってで き た窪地 と考 え られ る。 しか しここも虎 口空間で あ つた と捉 える余地は残 り、注意 は必要で ある。 曲輪 Ⅳ は曲輪 Ⅱの東側 に位置 し、両者 の間 には幅

10m程

の堀切 りがある。直純寺 の文書は「猿 渡」、「馬乗馬場」 とす る。『 日向地誌』 には記載が ない。 また ここを 「丸城」 とす る伝 承 もある よ うで あ る。直純寺の文書は曲輪Ⅵ を 「丸城」 としてお り、重複 している。「丸城」 を個 々の曲 輪 の名称 だ とすれば 重複 は問題 で あ るが、 た とえば愛知県尾張部 の中世城郭 では城域端部 の防 御 に比重 をお いた曲輪 を 「端城」 もし くは 「羽城」 と広 く呼んでお り、曲輪 の機能 に基づ いた呼 称 で あ った ことがわか る。 「丸城」も 「端城」に相当した機能 に基づ いた呼称であったのな らば、い くつかの曲輪 をそ う 呼 んで いて もおか し くはない。 しか し今 の ところ管見 の限 りでは 「丸城」を機能 に基づ く呼称 と して南 九州で広 く使 っていた証拠はな く、記録や伝承 の矛盾 と理解すべ きで あ ろ うか。今後 な お注意 しておきたい。 さて 曲輪Ⅳ に対 しては内側 の曲輪 Ⅱが よ り高所 にあ り、 曲輪 内を見下 ろした。 曲輪 Ⅱか ら堀

(24)

底 まで は

5m程

の比高差が あ り、切岸 も急 な ので 防御性 はたいへん強か った。曲輪Ⅳは尾根 筋 が細長 く伸びた上につ くられてお り、曲輪そ のものも細長 く、屋敷地に使 ったとい うよ り防御機 能 に主 眼 をおいた曲輸だ と評価 され る。 曲輸面 の削平度 も曲輪 Ⅱと比べ るとやや劣 って いた。 曲輪 Ⅳ と曲輪 Ⅱが直接連絡 したか否 かはや は り地表 面観察 か らは 明 らかではない。 曲輪 Ⅱに あ った屋敷地 の間 に曲輪 Ⅳへ とつづ く堀切 りを超 え る道 が伸び ていた と考 える ことはで き る。 しか しそれだ けでな く曲輪 Ⅱの南辺切岸 の直下 か ら、 曲輪 Ⅱ・曲輪Ⅳ間の堀切 り底 に入 り、 曲輪 Ⅱ北辺切岸直下 を通 って 曲輪

I東

辺切岸直下 へ とつづ く曲輪外縁部 の周回路が あつた可能性 が 高 い。 曲輪 Ⅳ の北東部 と南 東部はそれぞ れ大 き く張 り出 した。 この うち地形が相対 的に緩 や かな南 東 部 の先端 部 には堀切 りを備 えて尾根筋か らの侵 入 に対 処 して いた。 この堀切 りには比較 的 明 瞭 な対 岸土塁 を見 る ことがで きる。

(4)曲

輪 Ⅲ 曲輪 Ⅲは曲輪 Iの北側 に位置 した大型 の曲輪で あ った。 直純寺 の文書は 「野首城」とし、地元 で も同様 に呼称 して い る。 曲輪 の周囲はそれぞれ堀切 りを配 して防御 した。曲輪 Ⅲ北側 の尾根 は 曲輪Ⅷ につづ く主尾根 にな ってお り、現状では明確 な堀切 りは見 あた らない。 しか し子細 に 観 察す る と曲輪 Ⅲの北側 塁線 の切岸直下が帯状 に低 くな ってお り、堀切 りが埋没 して い る可 能 性 が高 い。今後 の発掘調査が待 たれ る。 この鞍部 に東側 か ら連絡 した城道 を『 日向地誌』は 「野 首 口」 とす る。『上井覚兼 日記』 にも 「野首 口」 は見 え る。 曲輪 Ⅲ東側 の尾根 には現況 曲輪面 か らの比高差10m、 堀底部 で の幅

8mの

堀切 りを備 えた。 堀切 りの延 長は長 い竪堀 に して いな い。堀切 りの対岸 側 には四角 く小規模 な曲輪 を設 け た。 こ の小曲輪は櫓台で あつた と推狽Iされ、 曲輪内の窪みは穴蔵状施設 の痕跡であった可能性が ある。 曲輪 Ⅲ西側 の尾 根 には半 円形 に長 く伸び た堀切 りを設 けた。 この周辺 の地形が緩やか にな っ て い る ことへ の対処 で あ つた。堀切 りの外側 にはわず かな対岸土塁が見 られ る。 また この堀切 りの北端部では も うひ とつの小 さな尾根が張 り出 して いた。そ こで ここにも対岸土塁 を築 き、 さ らにそ の外側 にもも うひ とつの小 さな堀切 りを設けて万全 の構 えをとっていた。 この堀切 りを設 けた尾根は長 く南西に延び たが、 曲輪群か ら遠 く離れた尾根筋の先に堀切 り を設けてお り、尾根 を伝 つての侵入 を強 く警戒 していた ことがわかる。 ただ し堀切 りの周 囲を曲輪化 して回めた よ うす は顕著 で な く、 また堀切 りとして の規模 も さ ほ ど大 き くないので臨時の施設であろう。 また

2本

ある堀切 りの うち、よ り西側 の

1本

は、尾根 上 の小ピー クの東寄 り (宮崎城寄 り

)に

設置 してお り、気 にな る配置で ある。宮崎城 を守 るた め の配置な ら、 この小 ピー クを取 り込 んだ頂部 の西寄 りに設置す るのが定石で ある。わざわざ頂 部 を陣地化 で きな い東寄 りに堀切 りを入れ た意 図は うま く説明で きない。 しか し宮崎城 を攻 めた側が築 いた施設だ と仮定す ると、宮崎城 中心部 につなが る尾根筋 の頂 部 のひ とつ を 占拠 し、宮崎城側 に

2重

の堀切 りを築 いて反撃に備えた と解釈す ることができる。 この遺構が臨時施設的な様相 を示す こととも うま く一致 して整合的で ある。そ うした可能性 を

もふまえ、今後評価していく必要があるだろう。いずれにせよ曲輪群から遠く離れた堀切りは

(25)

今 の と ころ ここしか見 つか つていないので、宮崎城周辺 の尾根 筋 を精査 して、類似 の遺構が ある か否か を確認 してか ら最終的な評価 をしたい。 曲輪 Ⅲの南側 の尾根 は 曲輪 Iに接 してお り、両 者 の間は 自然 の鞍部 を利用 した大 きな堀切 り にな って いた。 幅は

18m程

に もな る。 この堀切 りには東西両方 向か ら宮崎城へ登 り降 りす る道 が接続 してお り、 当時 も同様 の状況だ つた と考 え られ る。 この堀切 りに面 して

2段

の帯 曲輪が あ り、帯 曲輪 の上段 は 曲輪 中央 を南北 に伸び た通路 につなが った。 この通路は周 囲の曲輪面 に 対 して低 くな ってお り、 堀底道 を継承 した。 この 曲輪 Ⅲの城 内道 は現況で も明瞭 にた どることがで き、現在 も道 として使用 されている。 この道 をたどつた北端は東側 に折れ 曲が って、 さ らに低 くな った四角い窪地 にな っている。 こ こは現在行 き止 ま りの窪地で あるが、城内道 の幅 よ り広 くな った矩形のかたちか ら、もともと出 入 り日の虎 口空 間で あ つた可能性 が 高 い。城 内道 よ りも一 段 低 くな って いた ことも虎 口空 間 だ った とすれば 合理 的で あ る。宮崎城 の中心 曲輪群 の北側 関門 にふ さわ しい整 った出入 り日と いえる。 この 出入 り回は城道 の折れ と空間を組み合わせ た出入 り口と解析でき、定型化 したものでは な いが 内枡形 と評価 され る。先に見た南側の中心曲輪群 の出入 り口 (曲輪 Ⅱ

a切

岸直下

)が

外枡 形 で あ つた ことと一対 と意識 して北側 の中心 曲輪群 の出入 り口を内枡形 に した と評価 で き る。 宮 崎城 のプ ランが高度 な一貫性 を備 えた ことを示す。 曲輪 Ⅲの内部 は溝 と段 差 で

5つ

に区分 され、それぞれ本来は屋敷地 として使用 した もの と思 われ る。 曲輸 Ⅱで も述べ たように、曲輪内に見 える溝は、直接 には所有者境 を示すにすぎないが、 ある区画が地割 りとして残 り、それが長期 間継承 されて地籍 図に反映 したよ うに、こうした溝 は もとも との屋敷地境 を継承 した可能性が高い。 Ⅲ

aは

北端部 を 占めた屋敷地 で、 Ⅲ

bと

は溝で分け られ た。 Ⅲ

bは

曲輪 Ⅲの中で も っとも大 きな面積 を も った。 Ⅲ

cは

南 西部分 の屋敷 地 で現 況 で は 北 半 部 が竹 林 に、南 半部 が 草 生地 に な って いる ことか ら、こ うした植 生の差 も所有者 の違 いに起 因 して いるので あれば、もともとの 屋敷地 に起 因した歴史性 を表層で示す手がか りで あるか もしれない。 Ⅲd・ Ⅲ

eは

曲輪 Ⅲの中央 を南北 に伸び た城 内道 の東側 に位置 し、 Ⅲ

dが

一段高い。 Ⅲ

eの

東 側 には小 さな尾根が伸び てお り、先述 のよ うに堀切 りを設 けて防備 に万全 を期 した。

(5)曲

V

曲輪

Vは

曲輪

Iの

南方主尾根 に位置 した曲輪で ある。直純寺 の文書は 「彦衛 門城」 とし、『 日 向地誌』 は 「彦右衛 門城」 とす る。 曲輪 Ⅱとの間 には幅

10m程

の堀切 りを設けて分断 した。 こ の堀底 には明瞭な仕切土塁 を見 ることがで きる。仕切土塁 の存在 か ら、堀底 を通路 として使用 しなか った ことは確実で ある。 しか しど うして この堀切 りだ けが仕切土塁 を備 えたので あろ う か 。 この堀切 りは東側 の外枡形 に向か って城道面 よ りも高 い位置 で開 口してお り、そ うした位置 関係 か ら、外枡形 の虎 口空 間 に対 した武者隠 しとして機 能 した と解釈 で き る。 この解釈 が正 し けれイぎ、仕切は堀底 を望壕状 の施設 とす るために設けた ことにな り、整合的に説明可能で ある。

(26)

曲輪

Vは

この北側 の堀切 りに対 して土塁 を備 えた。 出入 り口にな りそ うな開 田部は この土塁 には ま った く見 あた らない。 この点 も先 に見 たよ うに、堀切 りが通路 として使用 されなか った と考 えた こととうま く整合す る。地表面観察 では土塁 に石塔 の石材が混 じることか ら、表面 を 石 張 りして補強 して いた可能性 が あ る。 また瓦が散布 して い る ことか ら、何 らか の瓦葺 きの建 物 が存在 して いた ことが予沢1され る。 この 曲輪

Vへ

の出入 り日は曲輸東側 の一段低 くな った窪地状 の小空間で あ つた と思われ る。 窪地 状 の小空 間が枡形 として の役割 を果 た したので あ ろ う。 曲輪面 の削平 は よ く整 ってお り、 中心 曲輪群 か らは外れ たが、それ に次 ぐ位置 づ けで あ つた ことが わか る。 曲輪

Vは

南側 に

2つ

の段 を もっていて しだ いに高 くな って いた。そ してそ の先端は櫓台 にな ってお り、南側 の巨大 な堀切 りを見下 ろした。 この堀切 りは対岸の曲輪Ⅵ まで幅15m、 堀底 まで の比高差

10mを

測 り、宮崎城 内で も最大規 模 の堀 切 りで あ った。突 出 した櫓 台 は今で こそ植林 によ って見通 しを妨げ られ て いるが、圧倒 的 な存 在感 が あ り、堀切 りと合 わせ て南側 尾根 の防御 拠点 で あ つた。櫓台 周辺 には瓦 の散布が 認 め られ、 ど うや ら瓦葺 きの櫓 が あ つた らしい。 この櫓台 の東脇 には地下道 につづ く大土坑が開 口している。掘削 にあた って廃土 を周囲や東 側 斜面 に投棄 した様相 も生 々しい。 この遺構 は宮 崎城 時代 の ものではな く、第

2次

世界大戦末 期 に 日向灘 へ のア メ リカ軍 の上陸 に備 えた 日本軍 陣地 の痕跡で ある らしい。地下道 は地 中にか な り伸びているよ うだが、 開 口部 か らは奥 を うかが うことはで きない。 しか しこの大土坑はす で に櫓台の東端部 を破壊 しただ けでな く、しだ いに遺構 に深刻な被害 を与 えてお り、遺構 の滅失 を防 ぐ緊急対策が必要である。 曲輪

Vの

西側斜面 には小 さな帯 曲輪 と堅堀 が あ る。 これ らは一 応、 竪堀 と帯 曲輪 と判断 してお くが、 先述 した大土坑 と関連 した施設 の痕跡 か もしれない。

(6)曲

輪Ⅵ この曲輸Ⅵは曲輪

Vの

さ らに南の主尾根上に位置 した。直純寺の文書は 「丸城」とす る。北側 は 曲輪

Vと

の間の大堀切 りに接 してお り、堀底 との比高差は

5m程

を測 る。つ ま り曲輪

Vの

南 端 櫓 台 か らは

5m程

標高が低 く曲輪 Ⅵ は見下 ろされ た。 曲輸Ⅵ には北側 の大堀切 りか ら直登す る道が あるが、本来のものではない。 この道は切岸 と曲輪面 を切 り崩 してお り、遺構保存のため には望 まし くない。 本来 の出入 り日は曲輪Ⅵ の東側 にあ り、 曲輪 内に溝 状 に一段低 くな った城道 が確認で きる。 曲輪Ⅵ の北東端 か らス ロープ を登 って 曲輪 内に入、南側 に折れ 曲が つて通路 を進 んだ 出入 り日 プ ランで、織豊系城郭 の定形化 した ものではないが、よ くくふ うした戦国末期 にふ さわ しい出入 り口で あ る。 この出入 り日は 曲輪Ⅵ 切岸下 の東側 か ら南側 へ とつづ いた帯 曲輪 に連結 した。 こ の帯 曲輪は城道 として機能 してお り、北側へ もこの帯 曲輪 か ら堀底 に降 りて宮崎城 中心部へ と 城道 が伸び たのだ ろ う。 曲輪Ⅵの西側から南側の塁線にはわずかに土塁を認めることができる。決して大きなもので はな く、痕跡程度である。もともと小規模な土塁であったのか、開墾などによる二次的な影響の ため小さくなったのか、いずれの可能性もあり得るが、どうやらもともと大きな土塁があったと

(27)

い うわけではな さそ うである。 この 曲輪 の東側 塁線 の 中程 に も大 きな土 坑 が 開 口して い る。単純 な穴 ではな く、地 中に向 か って トンネルが伸び て い く点 も、先 に見 た 曲輪

Vの

南端 に見 られ た大土坑 と共通す る。 同様 の ものは 曲輪Ⅶ

cの

東斜面 に もある。す べ て第

2次

世界大戦末期 の 日本軍 による地下施設跡 と 見 て よい。 これ らは周辺 の宮崎城 の遺構 を破壊 し、 さ らに現在で も遺構 に悪 い影響 を与 えている。 また 地 下 に伸 び た トンネルが崩壊すれば 、宮 崎城 の遺 構 に甚大 な被害 を与 え る ことにな るだ ろ う。 雨 水 な どがそ のまま流れ込 んで いるので、地下 トンネル (あるいはその奥の地下室

)の

傷みは進 んで い る もの と思 われ る。 そ して な に よ り突然 巨大な垂直坑 が 開 日して い るので、ひ じ ょうに危 険で あ る。宮 崎城 の遺 構 破壊 の進行 を くい止 め、転落事故 を防ぐため に、穴 をふ さぐなどの対策が至急必要だ ろ う。 た だ し近年 では第

2次

世界大戦時 の軍事施設 を研 究す る 「戦跡考古学」が活発 にな ってお り、学界 で も一 定 の評価 を得 ている。 この巨大な大土坑 と地下道 を文化財 として位置づ け ることも考慮 しつつ、 しか し第一義 には宮崎城 の遺構保存 を優先 して適切な保護 をすべきである。 曲輪 Ⅵ の南側切岸 のは るか下 には東側 か ら回 り込 んで きた帯 曲輪が あ り、尾根部分 には土塁 を備 えて堀切 りと出入 り回との機能 を兼用 して いた。 この周囲は雑木林 と竹林が混 じつて きび しい状況だが、い くつかの小規模段が尾根 にあ り、それ をつないで さらに南 の堀切へ と城道が伸 び た。

(7)曲

輪Ⅶ 曲輪 Ⅵ 南側尾根 の小規模段 に接 した堀切 りを超 えた先 に、

3つ

曲輪群 の ま とま りが あ った。 北狽Jか ら曲輪Ⅶa、 曲輪Ⅶb、 曲輪Ⅶcとす る。 これ らの曲輪はいずれ も曲輪Ⅵ まで の曲輸 のつ くり方 と異な り、 曲輪面の削平は充分でな く、切岸 も不全な部分 を残 した。臨時・仮設的な曲輪 群 と判 断で きる。 曲輪 Ⅶ

aは 3段

の曲輪 によ り構成 した この曲輪群 の東側 に堀底か ら回 り込みなが ら南へ とつ づ く城道 が あ り、 この城道はゆ るやかな坂道 とな って主尾根 の鞍部 に と りついた。 この鞍部 の 南 に位 置 した のが 曲輪Ⅶ

bで

、東 に向けて粗雑な段差 を数段 もった。主尾根 に と りついた城道 は 曲輪Ⅶ

bの

西側 を南 に向か つて伸び た。 この辺 りでは山中とは思 えない程道幅が あ り、道部分 も鮮明である。 中世 の宮崎城 の城道が そ の後 も継承 され、近代 まで道 として使用 された として も相対的にで きすぎで、先 に指摘 した第

2次

世 界大戦末期 の 日本軍 によ る地下施設構 築 に伴 つて道 筋 にも改修 を加 えて いた可能性が高 セゝ。 曲輪 Ⅶ

cは

宮崎城で確認で き る遺 構 の南端 を 占めた。東側 か ら南側 にかけて城道が と りまき なが らつづ いた。城道 の外側 には対岸土 塁が あ り、 ここで は道筋が堀 状 にな った。 防御 に も効 果が あ つただ ろ う。 曲輪面 の削平は不充分 で、 曲輪側 には土塁な どの痕跡は認 め られない。 曲輪 Ⅶ

cか

ら南 の主尾根 の踏査 も行 ったが、 これ以上の堀切 りはなか った。宮 崎城 の遺構は 曲輪 Ⅶ

cを

南 限 と判 断で き る。 しか し主 尾 根 上 のか な り離れ た と ころで 時期 不 明 の削 平段 が

参照

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