私たちの日常を振り返ってみると,朝目覚めてから夜寝るまで,テレビ,
ラジオ,スマートフォン,パソコン,冷蔵庫,エアコンなど,多種多様な電 化製品の世話になっており,それらのない生活は今や考えられない.また,
これらは電子機器あるいはエレクトロニクスと総称され,一見して電子機器 そのものにはみえない自動車や電車,飛行機などの乗り物も数多くの電子機 器からなり,それなしではこれらの乗り物の制御ができなくなっている.そ して,この電子機器はその名の通り,負の電荷をもち,電流の担い手である 電子の微妙な振舞いを使っているのである.
ところで,私たちの身の回りの物質はすべて原子でできている.原子は,
その質量のほとんどを担う原子核の周りに電子が分布するような構造をも つ.例えば,最も単純な水素の原子は,原子核の構成単位の 1 つである陽子 1 個の周りに電子が 1 個分布している.その意味で,原子の中の電子は原子 核に束縛されているとみることもできる.ところが,電子機器で活躍する電 子は,シリコンやゲルマニウムなどの原子が格子状に並ぶ結晶の中を動き回 る.この場合の電子は,結晶を構成する原子の束縛から解放されていて,結 晶の中を移動することで電流を担うのである.
このように,私たちの身の回りの物質は肉眼ではみえない電子で満ち溢れ ており,私たち自身の身体をつくり上げているだけでなく,電子機器などを 通じて,私たちはその恩恵に浴している.ところが,この電子が,原子の中 であれ,結晶中であれ,ニュートンの力学とマクスウェルの電磁気学を中心 とする古典物理学では決して理解できない,とても不思議な振舞いを示すの である.そして,電子の不思議な振舞いを見事に解き明かしたのが,本書の 主題である量子力学である.
量子力学は,特殊相対性理論,一般相対性理論とともに 20 世紀の最初の四 半世紀に誕生した,現代物理学の 3 本柱の 1 つである.私たちの身の回りの こととの関連で考えると,量子力学は他の 2 つの柱に比べて圧倒的に重要な
は じ め に
―なぜ量子力学を学ぶのか―
ものということができる.その上に, 現代技術の中での重要性をも考えると,
現代物理学の 3 本柱のうちで量子力学だけは物理学をはるかに超えて, 化学,
生物学,電子工学,情報工学など,理工学の多くの分野で必須のものになっ てきている.
このように,量子力学の重要性という点は容易にわかるのであるが,その 内容が理解しやすいかどうかは,全く別の問題である.力学,電磁気学など の古典物理学はマクロな物質や現象が対象であり,そのため目にみえること が多く,私たちの五感が活躍する世界を記述する.その意味でイメージもし やすく,私たちの直観とも矛盾しないことが多いために理解しやすい.
それに対して,上にも記したように,量子力学は肉眼ではみえない原子の 世界,あるいはミクロな物質や現象が対象である.もちろん,そのような場 合でも,私たちは日頃慣れ親しんでいるマクロな世界の論理がミクロな世界 にもそのまま通用するものとして話を進めようとするのであるが,それが正 しいという保証はどこにもない.実際,19 世紀中頃から末にかけて観測技術 が進歩し,ミクロの世界が垣間みられるようになってわかってきたのは,ミ クロの世界の現象が古典物理学では説明できないことであった.これはすな わち,私たちの直観がミクロの世界では通用せず,それをイメージするのは 困難であることを意味する.直観があてにならず,イメージしにくいミクロ な世界の物質の振舞いを記述するのが量子力学であるとすれば,それを理解 することが困難なのは当然ということになる.
本書は,このように直観的に理解するのが難しいといわれる量子力学を,
わかりやすく解説するという困難なことを目標にしている.そこで,量子力 学をすでに出来上がったものとして詳しく解説するのではなく,それがどう して必要とされるようになったかを,おおむね科学の歴史を�りながら解き ほぐし,その上で量子力学の構造を解説することにした.それが量子力学の 古典物理学との違いをはっきりと浮き上がらせることになり,遠回りのよう でも,初学者には量子力学の理解の早道ではないかと思うからである.
そういうわけで,ギリシャ時代の思弁的な原子論はスキップして,本書で
は, 近代科学の発展の中で原子・分子の存在がどうして仮定されるようになっ
たかということから始める.続いて,その実在の確認,原子の構造や電子の
発見,古典物理学では理解できない原子に関連した不思議な現象,量子の発 見を経て,量子力学の誕生に至る道筋を�る.その際,なるべく当時の科学 の状況を振り返りながら, それと新しい物理学の考え方を対比して解説する.
その上で,量子力学とはどのような論理構造をしている体系かをまとめ,最 後にいくつかの応用例を示すことにする.
このように,本書は,量子力学とはどのようなもので,どのようにして誕 生したかということをわかりやすく解説することを目的にしているのであっ て,その使い方や計算のテクニックを解説する教科書ではないことを前もっ て断っておく.
恥を忍んで筆者の個人的な経験を吐露すると,量子力学を学び始めた頃,
その最も基本的な方程式であるシュレーディンガー方程式がどのようにして 導かれたのかがさっぱりわからず,そこから一歩も前進できずに困り果てた ことが忘れられない.何とか目を通すことができた教科書にはシュレーディ ンガー方程式の数学的な解き方は詳しく書いてあっても,それがどこから導 かれて,なぜ成り立つのか,その説明をみつけることができず,焦ったもの である.
しかし,考えてみると,当たり前と思っているニュートンの運動方程式も,
それだけぽつんとあったら,なぜ,どうしてこれが成り立つのかと思うであ ろう.それは,太陽系についてのケプラーの法則が発見され,ガリレオの地 上での力学的な実験があって初めて,それらを説明する理論として発見され たのであり,決して何か別の,より基本的な理論から導かれたものではない.
同じように,シュレーディンガー方程式についても,それが何かより基本的 な理論から導かれたものではなく,古典物理学では説明不可能な実験結果を 説明する理論として�発見された�ことがわかる.このように納得したのは,
量子力学を学び始めてかなり経ってからであった.
量子力学は,不思議な現象を予言する理論体系であるとよくいわれる.も ともとミクロな世界は私たちの日常生活とほとんど縁がないので,そこに日 常的な目からみて不思議なことがあっても決して不思議ではない.例えば,
日常的にみられる金属中の電気伝導は,電子が結晶中の原子の並びに歩調を
合わせて波のように伝わるという,古典物理学からみるととても不思議な量
子力学的な現象である.しかし,電流が流れるという電気伝導はあまりにも 当たり前な現象であるためか,その不思議さはほとんど話題にならない.不 思議さを強調して人目を引くより,なぜそのようなことが起こるのか,量子 力学的な論理が日常的,古典物理学的な論理とどのように違うのかをきちん と理解する方が,科学的にはより健全であろう.
本書でも,拙著『物理学講義』シリーズの他書と同様,数学は本来の目的で ある物理学の理解のための道具であると考え,必要に応じて解説はしたが,
数学に深入りすることは避けた.したがって,通常,量子力学に必須と考え られている特殊関数は, 本書には一切出てこない.その必然的な結果として,
量子力学の最初の成功例として常に挙げられる水素原子についての特殊関数 を使った詳しい解説は本書では省略したので, その解説が必要であるならば,
数多くある量子力学の教科書を参照してほしい.
本書はあくまで,私たちの直観が通じないミクロな世界の現象を考える分 野である量子力学を,初学者になるべくわかりやすく解説することを目標に している.したがって,量子力学の基礎的な理解の最初の一歩として,理工 系のどの学科に属している読者でも理解できるように書いたつもりである.
そのため,物理系の学科の学生にとっては物足りないものになっているかも しれないが,量子力学の誕生までに当時の物理学者たちが古典物理学の範囲 内でどのように格闘したかを,そのときの多くの話題を�りながら学習する ことは,物理学一般の復習と理解につながるであろう.そのための助けとな るように,関連した話題を付録に詳しく記しておいた.それでも不満な学生 は,数多くある,より進んだ教科書をぜひ読んでいただきたい.
初稿の段階で丁寧に原稿を読んでいろいろなコメントをいただいた小林奈
央樹氏に深く感謝する.もちろん,まだ残っているかもしれない誤りなどは
すべて筆者の責任であり,読者諸氏のご指摘により随時修正していきたいと
思う.遅筆な筆者を暖かく督促し,激励していただいた裳華房編集部の小野
達也氏に心からのお礼を申し上げる.特に,これからの教科書の在り方につ
いての小野氏の熱意には,常日頃から感服している.その上に,彼のいくつ
もの具体的な提案で大変お世話になっていることを,ここに記して謝意を表 する.また,私事にわたって恐縮であるが,パーキンソン症候群を患った妻 淑子の老老介護をするようになって 5 年余りになる.この症候群の進行によ る身体機能の衰えとそれに伴う認知症の発症の中で,なお満面の笑みを絶や さずに「頑張ってね」といってくれる彼女に,筆者が日頃どれほど励まされ ているかわからない.
2017 年 5 月
松 下 貢
本書の流れを図に示しておく.私たちの直観が通用しないために難しいと いわれている量子力学を理解する 1 つの方法は,その誕生までの経緯を�っ てみることであろうと考え,それを試みたのが本書である.したがって,量 子力学を初めて学ぶ諸君には,第 1 章から第 7 章まで素直に順に読んでもら いたい.特に第 7 章では,量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー 方程式がどのようにして提案されたかをじっくり読んで理解してほしいと思 う.第 8 章では量子力学の基本的な概念を,第 9 章では量子力学の基本的な 原理と法則をまとめてみた.最後の第 10 章では量子力学のいくつかの応用 例を示したが,量子力学を初めて学ぶ者にとって新しい概念や計算法がいく つもあって,戸惑うかもしれない.そのような場合には,躊躇せず第 9 章に 何度でも戻ることを勧めたい.
1. 原子・分子の実在 2. 電子の発見 3. 原子の構造
4. 原子の世界の 不思議な現象 5. 量子という
考え方の誕生 6. ボーアの
量子論
7. 粒子・波動の
2重性 8. 量子力学の
誕生 9. 量子力学の 基本原理と法則
本書の流れ