「カンダ・サンユッタ」の無常・苦・非我
羽 矢 辰 夫
はじめに
『サンユッタ・ニカーヤ』に含まれる「カンダ・サンユッタ」には,五蘊の無 常・苦・非我(無我)に関わる教説が多数収められている.従来,無常・苦・非 我の教説に関しては,説かれている部分だけを取りあげて解説ないし説明がなさ れるだけで,充分な考察は行なわれてこなかった.無常・苦・非我の教説に対す る考察を深める作業は,原始仏教思想をよりよく理解するために必要なことであ ると考える.本稿では,「カンダ・サンユッタ」に説かれる多くの教説のうち, 無常・苦・非我の教説以外の教説を精査し,無常・苦・非我の教説との関連,お よび「カンダ・サンユッタ」全体を編集した意図のようなものを想定して,より 幅広い文脈のなかで,無常・苦・非我の教説を捉えなおしたいと考えている. 1.無常・苦・非我の教説
無常(anicca)・苦(dukkha)・非我(anattan)が一括りにまとめて現われてくる教 説を,無常・苦・非我の教説の基本的な型として想定しておく. (1)色〔・受・想・行・識〕は無常である.色〔・受・想・行・識〕は苦で ある.色〔・受・想・行・識〕は非我である. (2)色〔・受・想・行・識〕は無常である.無常であるものは苦である.苦 であるものは非我である. 2.
無常・苦・非我以外の教説
「カンダ・サンユッタ」全体にみられる教説のうち,先にあげた,無常・苦・ 非我の教説の基本的な型以外の教説をまとめてみると,以下のようになる. (1)我見 「凡夫は色〔・受・想・行・識〕を我であると見,我は色〔・受・想・行・識〕を所有していると見,我のなかに色〔・受・想・行・識〕を見,色〔・受・想・ 行・識〕のなかに我を見る.……聖弟子は色〔・受・想・行・識〕を我であると 見ず,我は色〔・受・想・行・識〕を所有していると見ず,我のなかに色〔・ 受・想・行・識〕を見ず,色〔・受・想・行・識〕のなかに我を見ない.」 この定型句を共通に含む教説を集めて,多様に説かれる内容を吟味し考察し, 意図される主張を再構成してみると,次のようになるのではないか. 「凡夫は色〔・受・想・行・識〕を我であると見,我は色〔・受・想・行・識〕 を所有していると見,我のなかに色〔・受・想・行・識〕を見,色〔・受・想・ 行・識〕のなかに我を見る.このようにして,有身見が生じる」(中分第3章第10 経).「これが自己に従って見るということであり,それは,わたしは存在すると いう〔思いこみ〕にいたる」(根本第5章第5経).「わたしは色〔・受・想・行・識〕 である,色〔・受・想・行・識〕はわたしのものであると執らわれてしまう (pariyuṭṭhaṭṭhāyī).わたしは色〔・受・想・行・識〕である,色〔・受・想・行・ 識〕はわたしのものであると執らわれていても,その色〔・受・想・行・識〕は 変化し変異する.色〔・受・想・行・識〕が変化し変異することにより,かれに 愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生じる」(根本第1章第1経)(サーリプッタ). 「聖弟子は色〔・受・想・行・識〕を我であると見ず,我は色〔・受・想・ 行・識〕を所有していると見ず,我のなかに色〔・受・想・行・識〕を見ず,色 〔・受・想・行・識〕のなかに我を見ない.このようにして,有身見は生じない」 (中分第3章第10経).「つぎのような見解もない.それは我である,それは世界で ある.それは死後に常住であり,恒久であり,常恒であり,変化しないものであ ろう,と.……わたしは存在しないかもしれないし,わたしの〔我も〕存在しな いかもしれない.未来にわたしは存在しないだろうし,わたしの〔我も〕存在し ないであろう,と」(中分第3章第9経).「わたしは色〔・受・想・行・識〕である, 色〔・受・想・行・識〕はわたしのものであると執らわれない.わたしは色〔・ 受・想・行・識〕である,色〔・受・想・行・識〕はわたしのものであると執ら われないまま,その色〔・受・想・行・識〕は変化し変異する.色〔・受・想・ 行・識〕が変化し変異しても,かれに愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは生じ ない」(根本第1章第1経)(サーリプッタ). (2)無常・苦・変化する性質のもの 「これをどう思うか.色〔・受・想・行・識〕は常住であるか,あるいは無常 であるか.」「無常です.」「無常であるものは苦であるか,あるいは楽であるか.」
「苦です.」「無常であり,苦であり,変化する性質のものを,これはわたしのも のである,わたしはこれである,これはわたしの我であると見ることは正しい か.」「そうではありません.」「それゆえに,ここで,およそどんな色〔・受・想・ 行・識〕であれ,過去・未来・現在の,内的・外的の,粗大・微細の,劣った・ 優れた,遠くにある・近くにあるすべての色〔・受・想・行・識〕を,これはわ たしのものではない,わたしはこれではない,これはわたしの我ではないと,こ のようにこれをありのままに正しい智慧によって見るべきである.」 この定型句は,教えの根本について確認したり補足したりする文脈で現われて いるようである.教えについて混乱したり,特に「我」の問題において疑問が生 じたりした弟子たちを,つねにここに立ち戻らせようとしていたのではないか. (a)「いかなる沙門・バラモンであれ,無常であり,苦であり,変化する性質 の色〔・受・想・行・識〕をもとにして,わたしは優れているとか,わたしは同 等であるとか,わたしは劣っていると見るならば,ありのままに見ていない以外 の何ものであろうか.いかなる沙門・バラモンであれ,無常であり,苦であり, 変化する性質の色〔・受・想・行・識〕をもとにして,わたしは優れていると も,わたしは同等であるとも,わたしは劣っているとも見ないならば,ありのま まに見ている以外の何ものであろうか」の後に現われる.ここでは,色〔・受・ 想・行・識〕は優等劣の比較の根拠にならないことを示し,それを確認するため に説かれている(根本第5章第7経). (b)「色〔・受・想・行・識〕は非我である.色〔・受・想・行・識〕が我で あるならば,この色〔・受・想・行・識〕が病気になることはないであろうし, また色〔・受・想・行・識〕に対して,わたしの色〔・受・想・行・識〕はこの ようにあれとか,このようにあってはならないとか,〔いう〕ことができるであ ろう.しかしながら,色〔・受・想・行・識〕は我ではない.それゆえ,この色 〔・受・想・行・識〕が病気になることもあるし,また色〔・受・想・行・識〕 に対して,わたしの色〔・受・想・行・識〕はこのようにあれとか,このように あってはならないとか,〔いう〕ことができないのである」の後に現われる.こ こでは,色〔・受・想・行・識〕が非我であることの理由が述べられていて,な ぜ色〔・受・想・行・識〕を,これはわたしのものではない,わたしはこれでは ない,これはわたしの我ではない,と見なければならないのかという点を補足強 化している(中分第1章第7経)(「無我相経」). (c)「色〔・受・想・行・識〕は非我であるといわれる.我によって作られた
ものでないもろもろの業は,どの我に触れるのであろうか」の後に現われる.こ こでは,我にこだわる議論に対して説かれていて,筆者はここにゴータマ・ブッ ダの基本的姿勢が示されていると考える.問いには直接答えず,我に対するこだ わりを質問者自身に気づかせるという手法は,いかにもゴータマ・ブッダらしい 対応である(中分第3章第10経). (d)「色〔・受・想・行・識〕に取著すると(upādāya),わたしは存在するとい う〔思いこみ〕がある.取著しなければ,〔その思いこみは〕ない」の後に現わ れる.ここでは,取著をさせないために説かれている(中分第4章第1経)(プンナ・ マンターニプッタ). (e)「色〔・受・想・行・識〕に対して貪欲(rāga)を離れず,欲望(chanda)を 離れず,愛着を離れず,渇望を離れず,熱悩を離れず,渇愛を離れない者には, その色〔・受・想・行・識〕が変化し変異することにより,愁い・悲しみ・苦し み・憂い・悩みが生じるか.」「生じます.」……「色〔・受・想・行・識〕に対 して貪欲を離れ,欲望を離れ,愛着を離れ,渇望を離れ,熱悩を離れ,渇愛を離 れた者には,その色〔・受・想・行・識〕が変化し変異することにより,愁い・ 悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは生じるか.」「生じません」の後に現われる.ここ では,貪欲や欲望を離れさせるために説かれている(中分第4章第2経). (f)「わたしは世尊によって説かれた教えをこのように理解しています.すな わち,煩悩を滅尽した修行僧は,身体が滅ぶと,破壊されて滅亡し,死後には存 在しない,と」の後に現われる.ここでは,断滅論に対して説かれている.ここ にも我にこだわる議論に対する基本的姿勢が表明されていると考える(中分第4章 第3経)(サーリプッタ). (g)「禅定を真髄とする沙門・バラモンは,禅定が得られないときに,わたし は衰退しているのではないかと考える」の後に現われる.ここでは,教えにおい て退歩していないことを知らしめるために,これはわたしのものではない,わた しはこれではない,これはわたしの我ではない,ということを確認させているよ うである.教えの根本に立ち戻る,という意味があるのではないか(中分第4章第 6経). (3)欲望や貪欲を離れる,捨てる 「色〔・受・想・行・識〕に対して貪欲を離れず,欲望を離れず,愛着を離れ ず,渇望を離れず,熱悩を離れず,渇愛を離れない者には,その色〔・受・想・ 行・識〕が変化し変異することにより,愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生
じる.……色〔・受・想・行・識〕に対して貪欲を離れ,欲望を離れ,愛着を離 れ,渇望を離れ,熱悩を離れ,渇愛を離れた者には,その色〔・受・想・行・ 識〕が変化し変異しても,愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは生じない」(根 本第1章第2経)(サーリプッタ). したがって,「色〔・受・想・行・識〕に対する欲望と貪欲があれば,それを 捨てなさい.そうすれば,その色〔・受・想・行・識〕は捨てられ,根が断たれ 根なしにされたターラ樹のように,存在しないものにされ,未来に生じないもの となるであろう」(根本第3章第4経).また,「色〔・受・想・行・識〕はわたしの ものでないものである.それに対して,あなたは欲望を捨てるべきである」(中 分第2章第7経).「色〔・受・想・行・識〕は〔心を〕染めるものである.それに 対して,あなたは欲望を捨てるべきである」(中分第2章第8経)とも説かれる. (4)味と患と離 「色〔・受・想・行・識〕に縁って生じる楽や喜び,これが色〔・受・想・ 行・識〕の味である.色〔・受・想・行・識〕は無常であり,苦であり,変化す る性質のものであること,これが色〔・受・想・行・識〕の患である.色〔・ 受・想・行・識〕に対する欲望と貪欲を制御し,欲望と貪欲を捨てること,これ が色〔・受・想・行・識〕からの離である.……わたしはこれら五取蘊の味を味 として,患を患として,また離を離としてありのままに知ったので,神々を含 み,マーラを含み,ブラフマー神を含む世界のなかで,沙門・バラモンを含み, 神々や人間を含む人々のなかで,わたしは無上の正しいさとりに目覚めた,とは じめていったのである」(根本第3章第5経).また,「凡夫は色〔・受・想・行・識〕 の味と患と離をありのままに知らない.聖弟子は色〔・受・想・行・識〕の味と 患と離をありのままに知る」(中分第3章第1経). 3.
考察とまとめ
4タイプの無常・苦・非我以外の教説を見てきた.無常・苦・非我の教説と合 わせると,「カンダ・サンユッタ」に説かれる教説のほとんどを占めている. (1)では,我見があると「わたしは色〔・受・想・行・識〕であり,色〔・ 受・想・行・識〕はわたしのものであると執らわれてしまう」とされ,それが愁 い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みを生じさせる,といわれる.我見がないと,執 らわれることもなく,愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは生じない,といわれ る.そのために何をすべきかは説かれていないが,推測されるのは,「我見をなくすこと」すなわち「色〔・受・想・行・識〕を我と見ないこと,我は色〔・ 受・想・行・識〕を所有しているとみないこと,我のなかに色〔・受・想・行・ 識〕を見ないこと,色〔・受・想・行・識〕のなかに我を見ないこと」である. (2)では,さまざまな状況下における対応策として,「無常であり,苦であり, 変化する性質のものである色〔・受・想・行・識〕を「これはわたしのものでは ない,わたしはこれではない,これはわたしの我ではない」とありのままに正し い智慧によって見ること」が具体的な方法として示されている. (3)では,(1)と同じく,色〔・受・想・行・識〕に対する貪欲や欲望がある と,愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みを生じさせる,といわれる.貪欲や欲望 がないと,愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは生じない.そのためには,色 〔・受・想・行・識〕に対する貪欲や欲望を離れること,捨てることが説かれる. (4)では,色〔・受・想・行・識〕の味と患と離が説かれる.そのうちの患と は,(2)の「色〔・受・想・行・識〕が無常であり,苦であり,変化する性質の ものであること」そのものを指している.また,離とは,(3)の「色〔・受・ 想・行・識〕に対する欲望や貪欲を離れること」そのものである. (2)と(3)と(4)をまとめると,無常であり,苦であり,変化する性質のも のである色〔・受・想・行・識〕に対して,「これはわたしのものではない,わ たしはこれではない,これはわたしの我ではない,とありのままに正しい智慧に よって見ること」と「貪欲や欲望を離れること」が説かれている,といえる.さ らに,(2)の(e)には,貪欲や欲望を離れさせるために,「これはわたしのもの ではない,わたしはこれではない,これはわたしの我ではない,とありのままに 正しい智慧によって見ること」が説かれているので,結局,愁い・悲しみ・苦し み・憂い・悩みを生じさせないための方法として,無常であり,苦であり,変化 する性質のものである色〔・受・想・行・識〕に対して,「これはわたしのもの ではない,わたしはこれではない,これはわたしの我ではない,とありのままに 正しい智慧によって見ること」が説かれている,といってよいのではないか. 以上のように,無常・苦・非我以外の教説は,愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・ 悩みを生じさせないためには「我見をなくすこと」が重要であることを説き,そ の方法として,無常であり,苦であり,変化する性質のものである色〔・受・ 想・行・識〕に対して,「これはわたしのものではない,わたしはこれではない, これはわたしの我ではない,とありのままに正しい智慧によって見ること」を説 いている,といえる.
仮にこれが「カンダ・サンユッタ」全体の編集テーマであるとすると,無常・ 苦・非我の教説の基本的な型の(2)はこの編集テーマに沿ったものである.(1) は編集テーマに沿わないものである. 「カンダ・サンユッタ」において,無常と苦について単独で説かれる経典は数 が少なく,散発的である.特別な意図をもって説かれているようにも思えない. 無常・苦・非我の教説といわれるが,じつは無常と苦と非我はそれぞれが同等の 重みをもって説かれているのではないのではないか.「色〔・受・想・行・識〕 が無常であり,苦であり,変化する性質のものであることは,世間の賢者たちか ら承認されたものであるし,わたしもそれを〔承認されたもので〕あるという」 (中分第5章第2経)とあるように,無常と苦は世間で承認されたものであり,理解 も容易である.一方,非我は理解が困難である.無常と苦は非我に関する理解を 進めさせるため,いい換えれば,非我の教えに誘導するための導入部として説か れているのではないか.主眼は非我にあったのではないだろうか.要するに,無 常・苦・非我の教説は端的にいって非我の教説だということである.それは,無 常であり,苦であり,変化する性質のものである色〔・受・想・行・識〕に対し て,「これはわたしのものではない,わたしはこれではない,これはわたしの我 ではない」とありのままに正しい智慧によって見る,という具体的な方法によっ て共有され,また確認されていたであろうと考える. 最後に,anattanを非我と解釈するか無我と解釈するか,という問題がある. 「カンダ・サンユッタ」全体を通して,色〔・受・想・行・識〕について我は有 るか無いかは問われていない.むしろ,色〔・受・想・行・識〕は〔わたしの〕 我ではないと見ることが強調されている.したがって,無我よりも非我と解釈す る方が妥当であると考える. 〈参考文献〉 中村元監修,前田専学編(及川真介,羽矢辰夫,平木光二訳)2012『原始仏典II 相応部 経典第三巻』春秋社. 森章司 1995『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』東京堂出版. 〈キーワード〉 カンダ・サンユッタ,無常・苦・非我説,五蘊非我 (創価大学大学院教授)