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「山と川をめぐる相論」展示解説書

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Academic year: 2021

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愛荘町立歴史文化博物館 第5回企画展

1.はじめに 江戸時代、愛荘の村々では稲作農業に欠か せない資源の確保をめぐり相論そ う ろ ん(争論)が繰 り返されました。なかでも、養水(用水)の 利用については野間津の ま づ井ゆ壺つぼ(不飲の ま ず池いけ)を水源 とする不飲川筋や、宇曽川を取水口とする銭ぜに 取と り井ゆなどをめぐって争論が起こり、奉行所が 裁許する場合も度々ありました。 また、草く さ肥ご えや牛馬の飼料である草木、燃料 として使用する柴・薪などの確保に必要な山 野の争いも絶えませんでした。特に、愛知川 河原の草刈場や入会山い りあいやまとして知られる秦川山 の争論は、藩同士の争いが起こらないように 京都町奉行所で裁決されました。 本展示会では、山と川をめぐる争論につい て江戸時代中期から大正時代の史料を幾つか とり上げ、紛争の経過からみえる地域社会の 一端を紹介します。 2.秦川山争論 秦川山は、秦川郷と総称される東出・西出・ 円城寺・常安寺・竹原谷・岩倉・斧磨・松尾 寺・上蚊野・南安孫子・目加田の 11 ヵ村の入 会山で、柴・薪・厩肥を取得する山であった。 この入会山の範囲をめぐり江戸時代以降、 激しい争論が押立郷の村々との間で展開され た。押立郷の村々は、下一色・北菩提寺・南 菩提寺・横溝・中一色・平松・今在家・勝堂・ 大沢・北花沢・中里・下里・僧坊・湯屋・平 柳・出在家(祇園)の 16 ヵ村と宮川藩領の読 合堂村で、論所となっていたのは三瀬山の秦 川山側斜面であった。発端は文化9年(1812) であったが、ようように決着を見ず、20 年を 経た天保7年(1836)に至り、決着したので ある。 この山論は、当事者村の中に彦根藩領以外 の村が含まれたため、京都町奉行所の裁許と なった。裁許は秦川郷に論地への立ち入り権 を認めたものの、主たる意見を退ける結果と なった。この論争は天保の裁許状をもって決 着したわけではなく、明治の地租改正の際に 再燃し裁判へと向かうのである。(大友 暢) 会期:平成 23 年9月 10 日~10 月 23 日

山と川をめぐる相論

-秦川山と愛知川・宇曽川- 展示解説書

水争いのようす (『大和耕作絵抄』より) 列品資料2 秦川山争論絵図写(部分) 愛荘町立歴史文化博物館蔵 秦川郷 11 ヵ村と押立郷 17 ヵ村の間で作成された、 論山および諸村の描かれた絵図。四角く囲まれた村が 秦川郷の村で、丸く囲んだのが押立郷諸村である。 列品資料1 秦川山論留記 東出自治会蔵 秦川郷 11 ヵ村で作成されたとみられる、文化9年 (1812)から文政 10 年(1827)までの秦川山の記録 で、秦川山から三瀬山の下草刈りや薪拾いの権益をめ ぐる争論の記録が簿冊として残されているのである。

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3.愛知川河原争論 ①寛文年間の争論 寛文7年(1667)~ 寛文9年(1669) 江戸時代中期から後期にかけて、約 150 年 間にわたり愛知川河原を論所とする3度の大 きな争論があった。 寛文年間の争論は、大和郡山藩領の和田村 (東近江市五個荘和田町)・神郷村(東近江市 神郷町)が彦根藩領の愛知川村・長野中村(長 野西)に対し、新堤内の入会地の無断開墾な どを通告したことに端を発する。 彦根藩は村落間で事態の沈静化を図るため、 調停役を指名するが、交渉は決裂、寛文8年 (1668)に和田村・神郷村は愛知川村・長野 中村を京都町奉行所へ訴えた。これを受け、 愛知川村・長野中村は和田村・神郷村の両村 には新堤内への入会権がない旨の返答書を京 都町奉行所に提出し、併せて論所の見分を願 い出た。 寛文9年(1669)、実地見分のため京都町奉 行所より検使役3名が派遣されることとなり、 その後、和田村・神郷村が主張する新堤内の 入会地は愛知川村・長野中村の領地であると の裁許状が下付された。 ②安永年間の争論 安永6年(1777)~ 安永7年(1778) 安永年間の争論は、大和郡山藩領の和田 村・神郷村・種村(東近江市種町)が愛知川 の川中に新堤や刎はね猿さ る尾お(水流を遮り、水勢を 弱める水制施設)を築造したことに端を発す る。このため、大水の度に右岸川下に位置す る彦根藩領の長野中村・川原村ほか 17 ヵ村に は、暴流が押し寄せ、堤防が決壊し家屋や田 畑に甚大な被害が生じた。 また、和田村・神郷村は寛文争論の際に両 村のほか、愛知川村・長野中村・簗瀬村(東 近江市五個荘簗瀬町)・河曲村(東近江市五個 荘河曲町)の入会地と認められた中州に無断 で堤を延長させ、さらに橋を架けて開墾する といった行動も争論再燃の火種となった。 両岸の村々の入会地・堤が発端となった争 論であったが、幕府による徒党厳罰化の風潮 のなか、彦根藩領の村々が「徒党と と う狼藉ろ う ぜ き」の罪 を負う結果となった。 写真1 愛知川の河原(和田山を望む) 列品資料8 寛文九年裁許絵図写(部分) 長野西自治会、個人蔵 論所となった中洲と愛知川両岸の雑木林が中心に描かれ ている。寛文9年(1669)の裁許絵図が元禄 14 年(1701) に焼失したため、京都町奉行所が再下付した絵図。 列品資料6 連鑑 個人蔵 寛文年間の争論の歴史を編年体で語り伝える叙事 詩的性格を有する。展示部分は寛文8年(1668)6 月2日に和田村ヷ神郷村より京都町奉行所へ提出され た訴訟状の村控。

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③文化年間の争論 文化8年(1811)~ 文化 11 年(1814) 安永年間の争論以降、彦根藩領の村々は対 岸の村々が以前にも増して水制施設を増強す るのを目の当りにし、ただ大水の被害に耐え るのみであったが、再び出訴を決意した。 訴状は愛知川村・長野中村・川原村の訴訟 惣代を含め彦根藩領の 15 ヵ村が提出、訴訟相 手方は安永年間の争論と同じ大和郡山藩領の 和田村・神郷村・種村、争点は「寛文九年裁 許絵図写」にはない刎猿尾などの水制施設の 無断占有と入会地の無断開墾である。 裁許は文化 11 年(1814)に下付され、両藩 の村々共に水制施設の一部撤去、6ヵ村入会 地の再確定が命じられた。その後、両岸の護 岸改修工事が施工、現況と改修後の絵図が作 成され、およそ 150 年間におよぶ愛知川河原 争論に終止符が打たれた。 (三井義勝) 4.不飲川筋争論 不飲の ま ず井ゆ(野間津井)は愛知川村の東に位置 する野間津井壺(不飲池)を水源とする。川 筋には大門村(長野東)を灌漑する増井ま す ゆ(大 門湧)があったため、井浚えをめぐり井元の 愛知川村と度々争論が生じた。 「のます川伝記」(列品資料 10)によると、 正徳3年(1713)、詳細は不明であるが、見分 のため、彦根藩南筋奉行所から不飲川に検使 が派遣された記録が残る。また、見分の結果、 大門村の井浚え場所と方法が不当との裁許が 下付されたと記されている。 文政4年(1821)、再び両村の間で争論が生 じた。同年に愛知川村役人から提出された請 書によると、増井における愛知川村の蛇車じゃぐるま・ 釣瓶つ る べによる取水行為を大門村が奉行所に出訴 したことが伺われる。愛知川村は取水行為の 正当性を主張するが、その甲斐なく差し止め が命じられ、翌日、奉行所に猶予を願い出る 嘆願書を提出している。また、同じく取水を 行っていた中宿村もこの判断に当惑し、同様 に猶予を求める嘆願書を提出している。 (三井義勝) 5.銭取井争論 「銭取井」は別名「秦川井」とも呼ばれ安孫 子庄7ヵ村(松尾寺村・岩倉村・竹原谷村・ 東出村・西出村・円城寺村・常安寺村)の田 畑を潤す養水である。秦川山の字三ツ亦で、 宇曽川に石垣を積み上げて取水し、岩倉川に 列品資料9 越水河原記 個人蔵 三度の争論の歴史や経緯を編年体で記したもの。巻 末には「今年も暮て文化十年癸酉春正月に及ひ、二月 に至れひ」とあり、以降の顛末については記されてい ない。 写真2 丌飲川の井元 列品資料 11 中宿村願書 中宿自治会蔵 愛知川村と大門村の争論は正徳期(1711~1715) に限らず、享保期(1716~1736)ヷ宝暦期(1751~ 1764)にもあったと記されている。

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合流、吉田村で再び宇曽川に流れ込む。 銭取井をめぐっては、江戸時代半ばから明 治にかけて繰り返し争論が展開した。この争 論はもっぱら安孫子庄7ヵ村と北蚊野村(蚊 野)および上蚊野村との間で生じたもので、 大きな争論としては、寛保・宝暦・天明・寛 政・安政の記録が残されている。 最初の争論は寛保3年(1743)で、銭取井 を北蚊野村が切明けて引水する事件に端を発 する。早々に安孫子庄7ヵ村は彦根藩評定所 に訴え出、裁許を仰いだ。結果、水番には村 役人が随行することや、北蚊野村から要望が あったときは安孫子庄役人に相談の上、話し 合いで取水を決めるというものであった。こ の裁許は後々の争論にも引用された。(大友 暢) 6.争論と祭礼 ①御崎神社 御崎神社は現在、川原集落の西端、愛知川 右岸の小字新し ん割わ りに鎮座する。 もとは小字安濃あ のにあり、水の神として信仰 のある水みず波は能の賣めの神を祀る神社であった。安 永年間に起こった草刈場相論によって罪に問 われた川原村の本持官次・岸下八右衛門・西 村利左衛門の三名をはじめ、死罪・流罪・入 獄・追放の刑に処された彦根藩領の義民の霊 も祀るようになり、寛政8年(1796)に現在 の位置に遷座されたという。 戦後の昭和 26 年(1951)には、日露戦争以 降の戦没者も合祀するようになった。 御崎神社の火祭は草刈場相論の殉死者の魂 を慰霊する祭礼で、5月4日から5日の2日 間にわたって行なわれている。これは文化年 間の相論の裁許日に相当するという。 ②御崎神社火祭り 御崎神社の祭礼は5月4日、5日に行なわ れ、4日の晩には高さ約 15 メートルの大松明 が点火される。祭礼のおもな準備は3日に行 なわれ、若連中や集落の男性が中心になり河 川敷の竹林で伐った竹を神社の境内に運び大 松明をつくる。 宵宮の夕刻、公民館に宮司や周辺地域の区 長が集まる。午後6時 30 分頃、若連中が惣倉 前に集合し、触れ太鼓を打ち、7時前後にな ると惣倉前に集まった祭礼関係者が行列をな し若連中が太鼓と鉦を打ち鳴らしながら神社 写真3 銭取川(岩倉川合流地点付近) 列品資料 13 岩倉村水路絵図(部分) 個人蔵 彦根藩代官所に提出された村絵図の控えである。東西を 岩倉川が流れ、その南側に張り巡らされている水路が銭取 井の水路網である。集落の農地を潤すとともに岩倉川に合 流するのがわかる。 写真4 御崎神社拝殿

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に向かう。神社に到着すると、大松明に火を 点ける。そして、宮司・区長ら関係者が拝殿 にあがり神事が始まる。神事が終了すると、 若連中らは太鼓と鉦を打ち鳴らしながら惣倉 前へ戻っていく。 翌日のホンビは、午前中から松明の片付け を行なう。神事が午後からあり、巫女み こによる 湯立てが行なわれる。宵宮の行列の様子は、 かつての相論の様子が再現されているといわ れ、荒々しい雰囲気が漂う。 (上田喜江) 7.その他列品資料 愛荘町立歴史文化博物館 第5回企画展 山と川をめぐる相論 -秦川山と愛知川ヷ宇曽川- 展示解説書 編集ヷ発行:愛荘町立歴史文化博物館 発 行 日:平成 23 年(2011)9月 10 日 電 話:0749(37)4500 ○C2011 愛荘町立歴史文化博物館 写真5 大松明の点火 列品資料4 秦川郷土地所有権判決書 愛荘町立歴史文化博物館蔵 明治7年(1874)論所の地券を秦川郷に下げ渡し て欲しい旨を県に提出したが、県は方針を変えず裁判 に至る。翌年、大阪上等裁判所の裁判申渡書で却下さ れるが、再度裁判に持ち込み、明治 12 年(1879)の 判決で秦川郷の主張は斥けられる。 写真6 ホンビのお渡り 列品資料5 秦川村地上権設定地公正証書 愛荘町立歴史文化博物館蔵 秦川山争論の決着として作成された9ヶ条からな る公正証書。これは、押立山所有者が入会権者に地上 権を設定するもので、大正 10 年(1921)4月 24 日 大津地方裁判所の公証人のもとで調印された。

(6)

列品資料一覧

番号

列 品 資 料 名

年 代

員数

所 有 者

秦川山争論

1

秦川山論留記

はたかわさんろんとめき

文化・文政年中

(1812~1827)

19

東出自治会

2

はた

川山

かわやま

争論

そうろん

絵図

え ず

うつし

天保5年(1834)

1

愛荘町立歴史文化博物館

3

はた

川山

かわやま

争論

そうろん

裁 許 状

さいきょじょう

天保7年(1836)

1

愛荘町立歴史文化博物館

4

はた

かわ

郷土

ご う と

地所

ち し ょ

有権

ゆうけん

判決書

はんけつしょ

明治 12 年(1879)

1

愛荘町立歴史文化博物館

5

秦川

はたかわ

村地上権

むらちじょうけん

設定地

せっていち

公正

こうせい

証 書

しょうしょ

大正 10 年(1921)

1

愛荘町立歴史文化博物館

愛知川河原争論

6

つれ

かがみ

江戸時代

1

個人蔵

7

争論

そうろん

裁 許 状

さいきょじょう

案文

あんもん

江戸時代

1

個人蔵

8

かん

ぶん

九 年

きゅうねん

裁許

さいきょ

絵図

え ず

うつし

元禄 15 年(1702)

2

長野西自治会、個人蔵

9

越水

おっすい

河原記

か わ ら き

文化 10 年(1813)

1

個人蔵

不飲川筋争論

10

のます川

かわ

伝記

で ん き

文政4年(1821)

1

個人蔵

11

中 宿 村

なかじゅくむら

願 書

ねがいしょ

文政4年(1821)

1

中宿自治会

銭取井争論

12

安孫子庄七

あびこのしょうなな

ヵ村

そん

はた

川井

か わ ゆ

水論

すいろん

寛政5年(1793)

1

松尾寺南自治会

13

岩倉村

いわくらむら

水路

す い ろ

絵図

え ず

文化 14 年(1817)

1

個人蔵

争論と祭礼

写真パネル

参照

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