大鏡と今昔物語集との関係1平 田 氏
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(2) 88. 800. ところで︑私は本稿では︑大鏡の成立年時についての異見をのべようというのではなく︑また夫鏡・今昔の前後関. 係如何を特に立論しようとするものでもない︒ただ平田氏の大鏡成立年時決定の拠点になっており︑しかも学界に有. 力た支持をうけている︿今昔が大鏡の出典である﹀という説を︑あらためて検討してみようとするに止まるものであ. る︒そこでいま本稿の結論から先にいうならば︑私は平田氏のいうが如き両書の直接出典関係は認められないと思う. のである︒しからぱ︑大鏡の成立年時上限は︑氏の論からは決定されないことになろう︒今昔の成立年時はその後︑. 片寄正義氏が保安元年以後と推論され︑今野進氏が江談抄成立︵一一〇〇〜一一一〇頃︶以後と推論されたが︑今昔. の成立年時がいかようであろうとも︑今昔との出興関係からする大鏡成立年時の決定には再考の余地があるように思 われるのである︒. ある︒. 第四︑大鏡は今昔物語の記事を巧にもぢって自らの見聞や感想の如くにしている︒但しその為に事実をまげた点も. 第三︑大鏡は今昔物語の記事を簡要にしている︒. 第二︑しかし出来るだけ値の史料によって今昔物語の記事を一訂正し︑増補している︒. 第一︑夫鏡は今昔物語を材料とし︑その誤すら踏襲している︒. という関係を論証し︑その関係様式を次の四項に要約して提示している︒. 河院・打臥巫の各々に関する記事である︒而して︑これらを両書について比較の結果︑今昔が大鏡の直接出典である. 平田氏は︑大鏡・今昔の両書に共通する記事を八ヶ条あげた︒即ち︑四条宮・良房・長良・時平.義孝・良相・堀. 二.
(3) 89. ところで︑両書におげる右の八ヶ条を比較してみれぼ︑そこには何らかの関係が存在することが明らかであるが︑. もしその関係が︑平田氏のいう如くならば︑右の関係様式は可能となるであろう︒しかし︑果して今音が大鏡の直接 出典であるといいうるであろうか︒. まず八ヶ条の初めの︑四条宮の記事−四条宮︵遵子︶が仏教信仰の念篤く︑季の御読経に際し衆僧を丁重にねぎ. らうことなどするが︑恵心の頭陀行に金の器をもつて斎をもうけたため︑恵心が乞食をとりやめた話−これは大鏡. では頼忠の条に見え︑今昔では巻十九・第十八話﹁三条太皇大后宮出家語﹂の後半に見える︒この両者は︑平田氏が. ﹁今昔物語の記事が稽ミ詳網であるが︑両書の内容は全く一致している﹂という通りの類似性︵表現面はさほどでな. く内容面においてのもの︶を示している︒ただ今昔のこの第十八話には前半に太皇大后宮︵大鏡では四条宮︶が増賀. を招いて出家することについての記事があるが︑大鏡には全く見えない︒この点に平田氏は全然ふれず︑さきの半分. の内容的類似性をもって直接関係存在の一証としているが︑半分の類似性が内容的のもの即ち概要的であるだげに︑. 増賀による出家に;胃もふれていないのは︑両書の直接関係の存在に疑間をいだかせることになるのではないかと思. 良房は和歌にも才があり︑娘染殿后の栄を桜によせて詠むこと︑および彼の死をい. われるのであるし︑これには私見もあるが︑今は触れたいでおこう︒. 八ヶ条の第二︑良房の記事. たんで詠んだ素性の歌のこと1これは大鏡では良房の条︑今昔では巻廿二の第五話﹁閑院冬嗣右大臣井子息語﹂の. 一部分に見える︒この両者にも類似性は著るしい︒そのうち︑両者に見える良房の﹁年ふればよはひは老いぬ云々﹂. の歌の後に続く語︑大鏡は﹁后を花にたとへ申させ給へるにこそ﹂︑今昔は﹁后ヲ花二警ヘテ読︑ミ給ヘル也ケリ﹂と. 80l. 一二.
(4) 90. あって︑同じ批判語を附し︑そのあとに今昔は﹁此ノ大臣ハ徴妙ク御ケレドモ︑男子ノ一人モ不御ザリケレバ︑末ノ. 不御ヌガ極テロ惜キ也ト︒ソ世ノ人申ケル﹂とあるが︑大鏡く素性法師の﹁ちのなみだ云々﹂の歌をはさんで︑その後 o. o. に﹁かくいみじきさいはひ人の子のおはしまさぬこそくちをしけれ﹂と同じような感想語をおいてある︒平田氏は両. 書におげるこの批判語の共通と感想の暗合をもって︑両書の直接関係の存在の﹁明証﹂としているのである︒このよ ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. うに断言することがはたしてできるか︒私は嬢躍するものである︒その理由は後にのべるはずであるが︑LかLこれ. 長良がその弟たちに官位を越えられたが︑子孫は栄えたこと1これは大鏡の良房. らの類似がある以上︑何らかの関係が存在すること認めないわげにはゆかない︒. 八ヶ条の第三︑長良の記事. の条︑今昔は巻廿二の第五話︑即ち前掲話の他の部分に当るもの︒大鏡の記事は簡単︑今昔は詳綱であるが︑弟たち. に官位を越えられた長良の心中を︑大鏡は世継翁に﹁いかぱかりからうおぼされ⁝⁝﹂と推察せしめていることは︑. 今昔で﹁辛シトコソ思ヒ給ケメ﹂と書いていることに暗合しており︑平田氏はこれも両書の直接関係の証拠の一とL てあげている︒. 八ヶ条の第四︑時平の記事−時平が延喜帝の禁制を破って美服にて参内し勅勘を蒙ること・1これは大鏡は時平. の条︑今昔は巻廿二の第八話﹁時平大臣取二国経大塑言妻一語﹂の前半に当る︒両考は表現・内容において強い類似性. をもち︑その記事の末に︑時平の行為が帝とたれあいであること記しているのも︑両者に共通する所から︑平田氏は. 両書の直接関係は﹁極めて明らかである﹂といっている︒はたLてそのようにいい切れるであろうか︒. さて︑この四ヶ条についての両書比較の後で平田氏は﹁従来︑今昔物語と大鏡に直接関係を述べた人は多い︑しか. し未だ的確なる論証がなされず︑為に極めてその論薄弱であったが︑上記の論証に由って︑此の事は決定したと断じ. 得る﹂といい︑次いで︑これまでの両書の先後についての諸学考の論を照会した上で︑自説を展開Lている︒平田氏. 802.
(5) 91. が両書先後説の拠点としているのは︑両書各々が︑他の書物を材料とする場合の依愚態度である︒氏は栄花物語を大. 鏡の直接出典と見なす所から︑これと比較し︑大鏡の出典依愚態度を大略次の如く規定した︒即ち大鏡は︑その依愚. した材料︵出典︶の誤まりすら踏襲することがある︒しかしできるだげ他の史料によって訂正し増補している︒また. 出典における記事の簡要化をおこない︑あるいは巧にもぢって自已の見聞︑感想の如く記しているー等である︒これ. に対し今昔については︑伊勢物語・大和物語・霊異記を直接出典と見たす所から︵現存の大和物語がはたして今音の. 直接出典といえるかどうか︑私は疑問をもっている︶︑これらとの比較の結果︑今昔の出典依懸態度を︑直訳的であ ると規定した︒. この両書各々の出典依愚態度を︑さきにあげた四ヶ条の記事に照合して︑平田氏は︑その直接関係は今昔が夫鏡の. 出典である︑と見るのである︒ところで︑平田氏の所論以前に︑両書の先後関係を論じたものとして︑海野氏の説が. あり︑それは特に︿藤原義孝﹀に関する記事を中心にLて大鏡先行説を論じたものであった︒平田氏は次にこれに対. する反駁を試み︑大鏡先行の誤りを詳細に立証している︒その反論はここに引用しないが︑結論的には私も平田氏の. 考察には賛成である︒しかし︑といって平田説−今昔が大鏡の出奥であるとすること1にも大いに疑間をもつば. 一日の中に前後. かりでなく︑否定すべきものと考えるのである︒そこで︑その疑問とすべき点を考察するに当り︑まずはじめに︑海 野氏︑平田氏が特に強くとりあげた︿義孝﹀の記事を再検討してみよう︒. 大鏡における義孝の記事︵伊ヂの条︶は︑次のように構成されている︒. 一︑天延二年萢瘡流行に際して︑摂政伊ヂの子︑兄前少将︵挙賢︶は朝︑弟後少将︵義孝︶は夕︑. 803.
(6) 92. して死に︑その母悲歎する︒. 二︑義孝は病死に直面して母に遺言する−自分には法華経を講する本意があるから必ず蘇生する︒そのため死後. の作法をしないでほしい1﹂しかし母は悲しみのためその言を忘れ︑枕がえしたどをしたので︑義孝は遂に蘇. 生しなかった︒その後︑義孝は母の夢に現われ︑﹁しかばかり契りしものを云々﹂の歌を詠む︒. 三︑また後に︑賀縁阿闇梨の夢に︑死んだ兄弟が現われ︑兄少将は悲しみの様子を示し︑弟少将義孝は気持よい様. 子を示しているので︑賀縁がその理由をきくと︑義孝は﹁時雨とははちすの花ぞちりまがふ云魚﹂の歌を詠む︒. 四︑また後に︑小野宮実資が夢の中で︑美しい花蔭にいる義孝に話しかけると︑義孝が﹁昔契蓬莱宮裏月云々﹂の 詩を講す︒. 五︑︵これ以下は義孝の生前の逸話である︶︒義孝が宮中で女房たちと話をLた後で出て行ったので︑そのあとをっ. げさせると︑義孝は世尊寺に行き︑紅穣の下で﹁減罪生善云々﹂と礼拝した︒ 六︑殿上遣蓬の時の義孝の美しい容姿たどのこと︒ 七︑雪の目︑義孝が梅を折る美しい姿のこと︒. 一方︑今昔の義孝の記事は二ヶ所に分置されている︒即ち巻廿四の第皿川九話﹁藤原義孝朝臣死後読二和歌一語﹂と巻. 十五の第四十二話﹁義孝少将往生話﹂である︒巻廿四所在の話を大鏡に徴すれぱ︑右にあげた第三・第二の項が内容. をなし︑巻十五所在の話は同じく第五・第一・第四の項が内容をなしている︒大鏡の第六・第七の項のものは今昔に. 見えず︑また大鏡にないく鮪の子腫Vの記事が今昔の巻十五所在話のはじめに見える︒その他︑この話の一部をなし. ている︿前少将が閻魔の庁に召されたこと﹀も大鏡にはたい︒このように両書には記事の共通と相違および順序不同. が見られる︒その相違および順序不同の点は大鏡作考の意向による記事の取捨選択・内容統一︑簡略化として生じた. 804.
(7) 93. ものと考えられ得るし︑また話のとりあげ方の相違!例えぱ︑今昔では︑母の夢に兄少将が現われ︑閻魔王に免さ. れ蘇生しようとするが︑死後︿枕がえし﹀されたのでできなくたった︒とあるが︑大鏡では︑後少将義孝が死病の床. で母に︑法華経を謂したいので蘇生するから︑死後の作法をするなと頼んだが︑母が忘れて︿枕がえし﹀をしたので. 蘇生できなくたった︑というようになっている︒また︑義孝が病床で死後のことを頼む相手が︑今昔では妹女御︑大. 鏡では母とたっている︒ーこういう相達も︑大鏡作者の内容統一のための意識的工作の結果と考えられはする︒し. かし両書の記事中︑年時・人名などに相違の見られるものがある︒この相違は︑平田氏のいう犬鏡のく簡略化Vの手. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. 法によったものでないとすれば︑︿巧にもぢる︵文芸化︶Vの手法か︿吏料による訂正﹀の方法によったものと考えな くてはたらないo. さきの大鏡の第五項義孝世尊寺ゆきの︿年時﹀について︑今昔はこれを﹁天延二年ト云フ年ノ秋頃﹂﹁有明ノ月ノ. 極テ明カリケル夜﹂としているが︑大鏡は﹁いかたる折にかありげむ﹂と年時不明にし︑﹁紅梅のいみじう盛りに咲 ︑ きたる﹂﹁空はかすみわたりたる﹂時︑即ち春の夜としている︒平田氏はこれを︑その後に続く文−義孝の世尊寺. ゆきを世継翁の実際見聞とする文とともに︑大鏡作者の︑今昔を材料としてのすぐれた文芸化の手法によるもの︑. ﹁得意の筆を振っ﹂ての﹁実に見事な筆致﹂として讃美の言葉を呈している︒義孝の死が天延二年九月十六日である. ことは︑諸史書に徴しても概ね間違のないことであり︑義奉の世尊寺ゆきの時は︑史実的には明にしえたいが︑今昔. ではこのことが義孝の死の予感的行為となっているから︑当然︿秋﹀であるべきで︑平田氏も﹁九月十目前後のこ. と﹂といっている︒大鏡は世尊寺ゆきを死と直接結びつげず︑単に浄土信仰者の生前の逸話の一として提え︑義孝話. の末の方に他の生前逸話とともに列記Lている︒このことが︑大鏡が今昔を出典としながら︿天延二年秋﹀という史. 実︵あるいは史実と考えられるもの︶をすてて︑﹁いつの折にか﹂とし︿春﹀として文飾を加え文芸化をなさしめた. 805.
(8) 94. ものと考えることもできる︒大鏡はいわれているように︑史実的な面で誤謬も多いが︑根本的にはあえて史実に忠実. ならんとする態度が充分うかがえることからすると︑この史実無視は疑間をもたせ︑今昔を出典とするということを. 疑わしめるものではあるが︑一方また︑事として年時的にはさほど重要でたい義孝の一逸話には︑この程度の史実無. 視が行われていても差支えたかろうという論も成り立たないわげではないので︑この義孝の世尊寺ゆきのく年時Vに おげる両書の相違から︑平田説に強く異論を提起するわげにはゆかない︒. が︑次に大鏡の義孝記事の第四項︑義孝が︑死後小野宮実資の夢に現われ︑﹁音契蓬莱宮裏月云々﹂とよみかげた. こと︑について考えて見よう︒これは前掲の如く︑今昔では巻十五第四十二話の一部に存在するが︑義孝が夢に現わ. れ詩をよみかげた相手が︿実資﹀でなく︑︿右近中将藤原高遠﹀とたっている︒この相違を平田氏は︑今昔の高遠は. 史実的に誤りであって︑﹁大鏡の作老が何か他の資料に拠ってその誤りなるを知り︑実資と改めたと解しうる﹂とし︑. ではその資料は何かという点になると︑﹁今日史料が運滅して明らかでない﹂といっている︒この仮説は相当強引で. あるように思われる︒これは︑平田氏の立てようとする﹁大鏡は今昔に材料を求めながら他の史料によって訂正をし. ている﹂という関係様式に︑Lいて引きつけてなされた考察ともうけとられるものである︒氏は︑海野氏の説−口H. 本往生記に高遠とあり︑往生記は義孝の死後わずか十一二年に記されたものであるから︑大鏡の実資よりも高遠の方. がむしろ正しいであろう−との説に対し︑﹁往生極楽記が古いといっても︑必ずしもその記事が誤な﹂とは断ずるこ. とは出来ない﹂といって︑高遠を排し実資を正しいとする口吻を示している︒だが︑これに説得力がたいのは︑海. 野氏の説にもまして論拠が薄弱なためであり︑それがさきの強引な仮説を立てさせることにたったのであろうが︑氏. の仮説が海野氏説を否定するほどの力のあるものでないことはいうまでもない︒この否定力の弱さは︑結局﹁実資は. 高遠の弟で︑義孝が少将たり﹂頃︑高遠と共に実資も亦少将であつたので︑その義孝に対する交友関係は︑他に史料. 806.
(9) 95. なき今目に於いては︑一方を特に目卯揚出来ないのである︒而して叉江談抄︑宝物集に此の話は時雨はの歌と共に賀縁. 阿闇梨の夢となつてゐるのであるが︑之をも否定するに足る根拠は見出し得ないのである︒即ち今目に於いては︑高. 遠︑実資︑賀縁の何れが本当たのか︑不明とすべきであるLという妥協的な結論に終らざるをえなくなったと思われ. る︒とにかく平田氏は︑高遠と実資との相違を︑大鏡が何らかの史料に依ることによって生じたものと考えた︒そL. てじじつ︑高遠が正しいか︑実資あるいは賀縁が正しいか︑史実ということにたると︑氏のいう通りいづれも判らな. いのである︒しかし︑史実とか史料とかがはっきりしなげれぱ︑これらの人名の相違が生じた理由が説明できたいか. というと︑そういうことはないと私は思うのである︒何らかの史料に依り改めるということのみによって︑ある書の. 人名が他の書のそれとちがってくるものとは限らない︒その人名に関する話の性格︑伝える方法︑話の収載された書 の性質などによってもそれは充分考えられることなのである︒. 元来︑この話−義孝が死後﹁昔契蓬策宮裏月﹂の詩を諦した話︑および死後﹁時雨とは⁝﹂の歌を詠じた話. は︑ともにく死後の義孝に関する詩歌謹Vである︒大体義孝という︑美しくもあり温雅で歌も上手であった︵拾遺集. 以下の歌人︶家柄のよい貴公子は︑その薄命の生涯ゆえに︑また特に時世を震櫨せしめた萢瘡流行に際して︑兄と目. を同じうして残したということのために︑当時の貴族間に強い哀惜の念を起させたにちがいない︑これが彼の生前死. 後の様々た逸話を生じさせ︑伝えさせる原因となったのである︒死後︑人の夢の中で詩をよみ歌をよんだという話. は︑もとはその人自身から出たものにちがいないが︑やがて貴族間に次第に伝えられ︑悲しくも優美なこととして讃. 歎される︒強く感銘を与えたようなでき事は︑当時の貴族間にあっては︑備忘的に扇にかきつけたり︑あるいは何か. ︿行末も語り伝うべきことたりVといわれてい. に簡単にメモぐらいされるようなこともあったであろうが︑一般にはむしろ語り伝えられていくことが多かった︵枕 草子などにも︑殿上人の間でみとめられた気のきいた発言などは︑. εoフ.
(10) 96. る︶︒語り伝える話は︑単に詩歌に関するもののみではたい︒すべて関心がもたれる逸事奇聞のたぐいは︑ 一般には. 記録して伝えるより︑口耳によって伝承することの方が多かった︒そして︑現在の︑筆紙に全てを托し潟仙むわれわれ ︑ ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. には想像し難いほど︑当時の人々は記憶力が強かったのではないかと思われる︒この義孝の﹁時雨云々﹂の歌を収め. ている後拾遺集の左註にも︑﹁⁝⁝詠めるとたむいひ伝へたる﹂とある︒この左註の記事は︑内容および表現の両面. において︑今昔のそれに酷似しているが︑両書に直接出典関係のないことは全体的比較の上からいいうるので︑この. ﹁いひ伝へたる﹂は︑後拾遺撰者の伝聞とみてよいのではないかと思われる︒とにかく︑死後の義孝に関する詩歌諌 は︑感銘をもって貴族聞に語り伝えられていったにちがいない︒. この場合︑話として最も重要な要素は︑︿誰が何をしたか﹀である︒主人公と行為である︒死後の義孝が︑かくか. くの詩または歌をよんだ︑ということである︒︿誰に﹀の要素︑即ち歌・詩をよみかけた相手は︑これに比Lて重要 ︑. ︑. ︑. さがうすい︒﹁昔契蓬莱宮裏月﹂をよみかげた相手は︑高遠であっても︑実資であっても︑それが兄弟で︑ともに少. 将であるとすれぱ︑いずれでもこういう際の相手として当時の貴族でさえ納得しうるであろう︒かりに実際の相手が. 古同遠であったにLても︑語り伝えられてゆくうちに︑いつしか実資にすりかえられてしまうことは充分考えられる︒. 一方に義. その逆であったかもしれない︒そのようにLて変った二つの伝承の︑一方を承げたものが目本往生極楽記や今昔であ. り︑他方を承げたものが大鏡であると見るべきではないか︒また︑︿死後の義孝に関する詩歌謹﹀として︑. 孝が﹁昔契蓬莱宮裏月﹂を夢で高遠︵実資でもよい︶に示したものがあり︵今音および大鏡に収載︶︑他方に義孝が. ﹁時雨云々﹂を夢で賀縁に示したものがあった︵今昔・大鏡・後拾遺に収載︶︒この両者は︑夢の相手が異なりはす ︑ ︑ ︑ るが︑同一主人公の死後の詩歌謹として同一性質のものである︒とくに詩は︑第二句目が﹁今遊極楽界中風﹂とあっ. て仏教性が強い︒この詩を示す相手は︑僧侶であっても不思議はない︒話の要素としては重要さのうすい︑詩.歌の. 803.
(11) 相手である別々の人物が︑比較的長い語り伝え︵口承︶のはてに︑僧侶である賀縁に統一されてしまい︑詩の相手も ともに賀縁となったもの︑これが江談抄や宝物集であると考えるべきであろう︒. 死後の義孝の夢の詩歌の相手として︑各書に見出される人名の相違は︑右のように︑史料照合の結果生じたもので. たく︑口耳による伝承過程に生じたものと考える蒔︑次の疑閲も氷解するであろう︒それは︑義孝の﹁時雨云々﹂歌 の各書によって見られる異同が︑何故生じたかということである︒. 今昔ーシグレニ︿チグサノ花ゾチリマガフナ昌フルサトノ袖ヌラスラム. 時雨とは千草の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖ぬらすらむ. 大鏡−時雨とははちすの花ぞちりまがふたにふる里に袖ぬらすらむ 後拾遺集. 時雨とぞ千種の花もふりまがふなに古郷に袖ぬらすらむ. 江談抄−時雨てはちぢの木の葉ぞ散りまがふなにふる里の秩ぬるらむ 宝物集. 即ち︑五書に︿時雨には﹀︿時雨とは﹀︿時雨ては﹀︿時雨とぞVの四種︑︿ちぐさの花ぞ﹀︿千種の花も﹀︿はちすの花. ぞ﹀︿ちちの木の葉ぞ﹀の四種︑︿散りまがふ﹀︿ふりまがふ﹀の二種︑︿袖ぬらすらむ﹀︿秩ぬるらむ﹀の二種が錯綜. して︑一書たりとも完全に同一の歌が見出せない︒平田氏は︑この相違に全くふれていないが︑五書において歌の事. 情をいう記事は︑内容的に大凡一致しており︑中には細部の表現まで酷似しているにもかかわらず︑歌そのものには. 之いうことで︑わ肌馳は︿時雨に花︵あるいは葉︶が散りまがう︵美しい浄土に自分はいる︶のに︑どうして古里で. は皆泣いているのだろう﹀という内容のものであることが重要たこととして伝えられ︑その内容に外れない限りにお. 809. このような異同がある︒大鏡のこの歌は︑今昔の誤りを史料によって正したものだとは決していい得ないL︑また今 ○ 昔の歌を文芸化あるいは合理化したというのも無理であろう︒話としては︑先述の如く︑︿義孝が死後歌をよんだ﹀. 蜥.
(12) 98. いては︑細部は口承の過程に︑そして口承であるがゆえに︑少しずつ変化したものと考えて︑はじめてかく様々な歌. が生じたとみるべきだろう︒今昔の歌と大鏡の歌とのちがいも︑この理由以外には説明できないと思われる︒. また︑さきの︿義孝世尊寺ゆき﹀の記事の中で︑義孝が世尊寺の紅梅の下で︑西に向いて祈る言葉が︑今昔では. ﹁南無西方極楽阿弥陀仏︑命終決定往生極楽﹂であり︑大鏡では﹁滅罪生善往生極楽﹂である︒これは今昔が大鏡に. 依りながら変えたものだとはいい得ないのは勿論︑また犬鏡が今昔を原拠として変へたものだとも考えられない︒変. えることにより︑文芸性が増したとも︑依るべき史料があったとも思われない︒ともに浄土を願う時の言葉とLてあ. ったものを︑語り伝えの過程において適宜に使ったことによる相違とみることが︑最も素直た解釈である︒. とにかく︑義孝に関する記事は︑犬鏡・今昔両書に薯るLい類似があり︑そしてその上に立って︑相違している個. 所の︑ある点を捉えて︑平田氏は今昔が大鏡の直接出典にたっているという証拠として説明したのであるが︑私は以. 上の考察から︑それに強い疑いをもつものである︒平田氏は︑右の五ヶ条についての比較の外に︑さらに良相・堀河. 院・打臥巫の三ヶ条について比較し︑自説を裏付げている︒繁墳にわたるので︑本稿ではそれに対する考察は行なわ ないが︑結局は︑それによっても私の疑問が消失することはない︒. ところで︑私のこの考察についても︑それはいまだ推論の域を出でぬものである︑平田説を完全に否定Lえたとは. いえない︑といわれるかもしれない︒そこで︑さらに次に二三の点をとりあげて︑今昔・夫鏡両書の直接関係否定の 理由としたい︒. 平田氏は︑今昔・大鏡両書の関係を考察するために︑ 前掲の八ヶ条の記事を提出したのであるが︑この八ヶ条を今. 810.
(13) 99. 昔の巻別にみると︑それは巻十五・十九・廿二・廿四・皿川一の諸巻にわたっている︒しかLて氏によれぱ︑大鏡作者. は今昔を出典として︑その記事の︑ある所は史料などにより綱かい訂正を試ろみ︑あるいは記事の転換︑さらには. ﹁得意の筆を振って﹂の表現の文芸化を行たっている︑ということになる︒そうだとすれぱ︑大鏡作者は今昔を少な. くとも本朝説話は全般にわたり︑丹念に読んでいることになる︒八ヶ条の所だけしか読まなかったということはあり. えない︒今昔を読んで︑夫鏡著述に際しとりあげようとする事項に相応する記事が︑今昔の中にあれぱ︑八ヶ条以外. のものでもとりあげたであろうし︑とりあげないまでも参考にしたり検討したりしたはずである︒. ところで︑八ヶ条以外に︑記事として両書あい応ずるものが︑他に数ヶ所見出される︒そのうちの二三について調 査Lてみたい︒. その一は︿藤原鎌足の子﹀についての記事である︒大鏡の藤原氏先祖を述べる所に︑. この鎌足のおとどを︑この天智天皇いとかしこく時めかしおぼして︑わが女御一人を此の大臣にゆづらしめ給ひ. つ︒⁝⁝このおとどはもとより︑男一人女一人をぞもち奉らせ給へりげる︒・⁝−大臣のもとの太郎君をば︑中臣の. 意美麻呂とて︑宰相までなり給へり︒⁝⁝天智天皇の女御のはらまれ給へりしは右大臣までなり給ひて︑藤原不比. 等のおとどとておはしけり︒・⁝−鎌足のおとどの三郎は︑宇合とぞ申げる︒四郎は麿と申しき︒. この不比等の大臣の御をとこ君だち二人ぞおはしける︒太郎は武智麿と聞えて左大臣までなり給へり︒二郎は房 ︑. ︑. ︑. ︑. 前と申して宰相までたり給へり︒ ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. さて不比等の大臣の男子四所を四家と名づげて︑みな門わかち給へりげり︒その太郎武智麿をぱ南家と名付げ︑. 二郎房前をぱ北家と名付け御はらからの宇合の式部卿をぱ式家と名付け︑その弟の麻呂をぱ京家と名付け給ひて︑ これを藤氏の四家とは名付られたるたりけり︒. 8I1.
(14) 100. 1不 合︵式家︶. 比. 等−□師. 意美麿. 右の文によると︑ 大鏡作者は︑. 鎌 足1 1宇. 1麻呂︵京家︶. 智麿︵南家︶ 前︵北家︶. の如く理解している︒ ﹁不比等の大臣の男子四所を四家と名づけて﹂といってはいるが︑宇合・麻呂を三郎・四郎と. はいわず︑﹁はらから﹂ といっているのは︑そのゆえである︒︿詳解Vは﹁はらから﹂について︑﹁この文︑不比等の. 兄弟の如く聞えて︑ まぎらはし﹂といっているが︑右の引用文に見るように︑宇合・麻呂ははっきり鎌足の三郎・四. 郎となっている︒ さて︑大鏡のこの系図理解は何より生じたものか明らかにLえないが︑続目本紀・尊卑分脈その他. によれば︑武智麿・房前・宇合・麻呂がそれぞれ不比等の太郎・二郎・三郎・四郎である︒ そしてこれは︑今昔巻廿. 二の第二話﹁淡海公継二四家一語﹂と同じである︒平田氏の説に従えぱ︑ 大鏡は今昔巻廿二の第五話・第六話を︑出典. として徹底的に利用していることになるのだから︑ この第二話を見なかったことは決していえない︒見た上で︑右の. 大鏡流の系図が生じたとすれぱ︑ 大鏡作者は︑今昔を見誤まったか︑別の権威ある史料に依って訂正Lたか今昔系図. を無視したか︑の二通りである︒今昔の系図記事はまことに明瞭に記されているので︑ 見誤まりはない︒鎌足伝・続. 目本紀・尊卑分脈がさきにのべた如くだとすれぱ︑ 権威ある史料に依って訂正したとも無視したとも思われない︒夫. 鏡作者に︑前もって異なった系図智識があって︑ その後今昔を見て不審をおこし︑何か権威ある史料に照合したのな. ら︑むしろ尊卑分脈にあるような︵今昔と同じ︶形をとったと思われる︒結局︑ 夫鏡作考は今昔を見ていなかったの. 2!8.
(15) 101. である︒今昔とは別の伝えによる系図智識︵記録によったものであっても︑記憶上のものであっても︶を︑そのまま 記Lたものであろう︒. その二は︿定恵﹀についてである︒今昔巻皿川一の第什五話﹁元明天皇陵点定恵和尚語﹂は︑定恵和尚が元明天皇の. 檜前陵を多武峯の近くに定めた話であるが︑それに﹁大織冠ノ御一男定恵和尚ト申ケル人﹂とあり︑今昔巻廿二の第. 一話﹁大織冠始嬰藤原姓一語﹂に︑﹁□間天皇偏呈此ノ内大臣ヲ寵愛シテ国ノ政ヲ任セ給ヒ后ヲ譲リ給ヲ共ノ后本ヨ. リ懐妊シテ犬臣ノ家ニシテ産ル所謂ル多武峯ノ定恵和尚ト申ス此レ也其ノ後亦大臣ノ御子ヲ産メリ所謂淡海公此レ. 也﹂とある︒即ち︑今昔によれぱ︑鎌足の一男︵実は天智天皇の子︶が定恵であり︑二男︵実子︶が淡海︵不比等︶. である︒大鏡は定恵について批︑ついに一言もふれることがないが︑さきに引用Lたように︑鎌足に﹁もとより男一. 人﹂肛太郎中臣意美麻呂があり︑のち﹁天智天皇の女御のはらまれ給へりし﹂から生じたものが︑二郎不比等となっ. ている︒いずれが史実であるか否かを間わず︑既に懐妊していた天智天皇の后︵女御︶を鎌足が得て︑その所生を自. からの子にしたという伝えは古くからあったものと思われる︒平家物語巻六﹁砥園女御の事﹂に﹁昔も天智天皇︑孕. み給へる女御を大織に冠賜ふとて﹃この女御の生めらむ子︑女子ならぱ朕が子にせむ︑男子たらば臣が子にせよ﹄と. 仰せけるに︑すなはち男を生めり︑多武峯の本願定慧和筒これたり﹂とあって︑・﹂れは今昔と伝を同じうしている︒. 元亨釈書の定慧伝は﹁約目︑所レ生児︑若男為二卿子↓女為二朕子↓既而生レ慧︑故名以二鎌足之子こと︑平家物語に類. 似する表現を示している︒但しこの天皇は天智でなく︑孝徳であるが︑これは出所を同じくし︑伝承過程に変化した. 異伝とみられる︒大鏡は﹁この女御のはらめる子男ならば大臣が子とせむ︑女ならぱ朕が子とせむとおもほして︑か. のおとどに仰せけるやう﹃男ならば大臣の子とせよ︑女たらば朕が子にせ﹄むと契らしめ給へりげるに⁝⁝﹂とあっ. て︑やはり平家物語や元亨釈書に表現が酷似しているが︑その男子が不比等であるのも︑伝承過程における異伝と見. 813.
(16) ︑. ︑. ︑. 一応の奥拠とすべきものはある︒︿鎌足伝﹀の末尾に﹁有二二子貞恵︑史ごとあるのがその一. 814. るべきであろう︒これらの異伝のどれがもとであり︑史実であるかは如り得ないが︑しかし︑定恵が鎌足の子とLて あったということに︑. つで︑これを一男︵貞︶定恵︑二男史︵不比等︶とすると︑今昔の記述に一致する︒また︑尊卑分脈では︑不比等と. その母を同じうして︑不比等の次に定恵が書かれているが︑やはり定恵ぱ鎌足の子となっており︑大鏡での太郎意美. 一般に知られて. し事なり︒さぱかりの事に上下をえらぱせ︑和歌を賞ぜさせ給はむ事げにくちを﹂き事にははべれど︑かくろひて. この侍問ふ︒﹁円融院の紫野の子の目の目︑曾彌好忠いかに侍りげる事ぞ﹂といへば︑﹁それそれ︑いと興に侍り. その三は︑︿曾禰好忠﹀についての記事である︒大鏡古物語の中に︑. であるためかであろう︒. 氏独自に片よせた伝えによったものであるためか︑またはそのような伝を大鏡作者が幾分潤色したてこしらえたもの. る必要はないと思われる︒結局︑大鏡に定恵のことが全くないのは︑やはり今昔を見ておらずして︑ある当時の藤原. を︑特に権威付げるために然らしめたものと考える以外にない︒しかしその意識ならぱ︑定恵をあえて無視しすて去. 鏡の著述上の特殊意識による今昔記事の訂正か無視かとしなげれぱならない︒即ち︑後の藤氏の祖とLての不比等. 見えない意美麿を︑太郎に立てるということは︑何かの史料による今昔記事の訂正あるいは無視とは考えられず︑大. るわけである︒しかるに︑その天智天皇の子を︑大鏡は不比等とし︑定恵には全くふれず︑他書には鎌足の子として. し︑明らかに鎌足の太郎と記していることば知らないわげはないし︑その定恵を天智天皇の子といっていることも知. いる系譜と一線を劃している︒もL大鏡作着が今昔を見たならぱ︑その二ヶ所︵巻廿二と巻廿一︶に定恵をあらわ. い︶︒これらの史実的真非は不明と﹂ても︑定恵を鎌足の子に入れないのは大鏡だけのようであり︑. 麿は︑一応孫の位置︵鎌足の子祭官国子大連の子︶に書かれている︵中臣氏系図は意美麿を鎌足の子孫に入れていな. 102.
(17) 103. ︑ ︑ . 優なる歌よみいださんだに︑いと無礼に侍るべき︒殊に座にただ着きに着きたりし︑あさまLき事ぞかし︑小野宮. 殿︑閑院大将殿などぞかし﹃引き立てよ引き立てよ﹄とおきてさせ給ひLは︒窮恒が別禄給はるにたとしへたき歌. ︑. よみなりかし︒歌いみじくとも︑折節きりめを見て仕う奉るべきなり︒げLうはあらぬ歌よみなれど︑からく劣り にし事ぞかL﹂といふ︒. とある︒即ち︑円融院の紫野子目の御遊に著名の歌人達が召されたが︑曾爾好忠は召がないのにおして列席L︑追い. 出されたという出来事についての記事である︒このことは︑今昔巻廿八の第三話﹁円融院御子目参香禰吉忠一語﹂に. あり︑この方は特に記事詳細である︒院の御幸のさまから︑紫野のしつらい︑歌人達の名︑好忠の出現と殿上人たち. の不審の状︑好︵吉︶忠に対する追立て︑好忠の逃走と人々の潮笑︑好忠の反駁の語などが順次にのべられている︒. ところで︑前述したように︑犬鏡作老が今昔に依ったとすれぱ︑この話は見たはずである︒簡繁の別はあり︑敷述の. 仕方にまた夫いなる違いがあるが︑中心をなす内容に相違はない︒とくに大鏡で﹁小野宮殿︑閑院大将殿ぞかし︑. ﹃引き立てよ︑引き立てよ﹄とおきてさせ給ひしは﹂という個所は︑今昔において﹁其ノ時二法興院ノ犬臣閑院ノ大. 将ナド此ノ事ヲ聞給テ﹃シヤ衣ノ頸ヲ取テ引立ヨ﹄ト行ヒ給ヘバ﹂とあるのと︑その表現において非常な類似を見せ. ている︒一方また︑好忠のこの出来ごとは︑古事談︵第一王道后宮︶大鏡裏書︵紫野子目事︶にも見えており︑古事. 談では・−−次召一和歌人於御璽犠兼霧臣︒時文朝臣︒元輔真人︒重之朝臣︒曾餐忠︒中原重節等也︒公卿. 達称レ無=指召↓追日立好忠重節等↓時通云︒好忠已在二召人内一云々︒⁝⁝﹂︑大鏡裏書では﹁⁝⁝麦丹後教曾爾好忠︒. 永原滋節等︒不レ承二召旨↓加⇒侯末座イ勿忽被︒追起↓干レ時両人低レ頭︒衆人解レ願︒⁝⁝﹂とある︒古事談の此の話. は傍書により﹁小野宮右府記﹂に依ったもののようであり︑大鏡裏書の方の原拠は知り得ないが︑両着のいずれに. も︑今昔と大鏡に共通の﹁引き立てよ﹂に類する語は見え在い︒とすれぱ︑平田氏の見解に照合した場合︑大鏡のこ. 8I5.
(18) 8王6. の語ひ記事は今昔を出奥としてその大要をとり︑侍と翁との間答の中に巧に清化したものである︑ということにな る︒だが果してそういいうるであろうか︒. さて︑右に引用した両書の文中︑﹁引き立てよ﹂といった者は︑大鏡では﹁小野宮殿︑閑院大将殿など﹂であり︑. 一方の︿小野宮殿﹀は︑他方で. である︒兼家が右大臣で︑朝光が左大将であるから﹁法興院ノ犬臣閑院ノ左大将﹂という記載のし方は適当だと思わ. る︒寛和元年一九八五一の御遊の時砦大臣で一のつたわけで︑犬鏡裏書に・萎裏相驚各脂一萎一・とある通り. どうか︒彼は天元元年︵九七八︶右大臣に任じ︑寛和二年︵九八六︶六月摂政となり︑同年七月右大臣を辞してい. いうように実資が朝光の先にかかれることはあり得ない︒それに対し︑今昔に見える︿法興院大臣﹀即ち藤原兼家は. 方に名が見えているにすぎたい︒そういう実資が︑閑院大将と同席していること︑また﹁小野宮殿︑閑院大将殿﹂と. 遊の折はまだ参議にもなっていなかった︒だから古事談記載の公卿列席老には彼の名はなく︑﹁下官﹂として末席の. 年の四年後︑永昨元年︵九八九︶ようやく参議であり︑その後治安元年︵一〇二一︶に右大臣になっている︒この御. ている︒この御遊はすでに彼の死後の事であり︑当然列席するはずがない︒しからぱ小野宮実資は如何︑彼は御遊の. 大臣になり︑左大臣を経︑以後関白・太政大臣と上り︑安和二年摂政にかわり︑天禄元年︵九七〇︶在官のまま箆じ. で︑夫鏡に見えるく小野宮殿Vはどうか︒︿詳解﹀はこれを藤原実頼としているが︑実頼は天慶七年︵九四四︶に右. 将﹀としてこの御遊に列席しえたのは当然であり︑古事談にも左大将とLて列席者の中に名を連ねている︒ところ. ある︒閑院大将は藤原朝光であるが︑貞元二年︵九七七︶に左大将になり永昨元年︵九八九︶に辞した彼が︿閑院大. 円融院の紫野子の目の御遊は︑目本紀略・小右記・古事談・大鏡裏書によれぱ︑寛和元年︵九八五︶二月十三目で. は︿法興院大臣﹀となっている︒このちがいは何によるものか︒. 今昔では﹁法興院ノ大臣閑院ノ大将ナド﹂である︒︿閑院大将﹀は両書に同じだが︑. 1㏄.
(19) 105. れ︑この記事の限りにおいては︑明らかに今昔が史実的に正しく︑大鏡は誤まりであると知り得るのである︒. いま仮りに︑大鏡が今昔を直接出奥としたものと見る時︑この誤まりが生じた理由はどのように考えねぱならない. か︒まず大鏡作者は︑今昔にある﹁法興院ノ大臣﹂が誤まりである︑と思ったとLなげれぱならない︒そこで史実を. 考えたところ︑それは﹁小野宮殿﹂であった︑としたとすれぱ︑恐ろくべき矛盾である︒史実を考えるために特別の. 史料を参照しないでも︑大鏡作者が自分で書いてきた藤原氏列伝の記事に照合してでも︑どちらが正しいか判らない. わけはない︒結局これは︑大鏡作考が今昔の記事を誤まりと思う思わぬ以前のことであり︑今昔を見ていない︑直接 出奥としていないがためのこととしなければならない︒. 好忠に関するこの話は︑さきのように諸書に見えている点からして︑興味ある話として伝承されてきたものにちが. いない︒その伝承は︑貴族間において︑﹁引き立てよ﹂の如き言葉をともなった笑い話の要素の強い︑大凡は今昔に ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. あるような形で︑口からロヘ語り伝えられたものであったろう︒﹁好忠和歌く読ケレドモ心ノ不覚=ア歌読共召ト聞. テ召毛元キ昌参テ此ル恥ヲ見万ノ人二被笑レテ末■代マデ物語二成ル也﹂と今昔にも書かれている︒そういうものか. ら別々にとりあげ︑自己おのおのの著作方法によせて記述したものが︑今音であり大鏡でありその他の書であったの. だろう︒すでに伝承の遇程において︑︿法輿院大臣Vがく小野宮殿Vになっていたものもあった︒犬鏡作者はその方. に依って別に不審もいだかずに︑そのまま記したのであろう︒このように考えなければ︑この人名の相違は解決がつ かないように思わ れ る ︒. 平田氏は共通話八ヶ条の比較から︑今昔と犬鏡に直接出奥関係の存在をいい︑ さらに今昔が大鏡の出典であること. 81フ. !、.
(20) 106. をいい︑そして前掲の四条の関係様式を示したのであるが︑私はそれに対し︑以上の疑問と否定の考察を開陳した︒. その上重ねていうならぱ︑平田氏が両書の記事の表現の類似︑感想語の暗合をもって︑そこに直接出典関係ありとす. るのは︑実ば直接出典関係でなく︑その二特徴はともに伝承上のものであって︑直接出典関係なくとも表われうるも. のなのである︒しかしてまた︑大鏡に今昔の記事を訂正したと思われる個所があっても︑それは今昔を直接出典とし. て訂正したのではなく︑大鏡作者自身が承げてきた伝承に対する訂正であり︑ある時はその伝承の誤まりをそのまま. 記している場合もある︒また︑犬鏡には独自の加筆や文芸化の態度の存在も充分認められるが︑それも今音をもとに. Lてのあり方でなく︑大鏡作者みずからのうけた伝承をもとにしてのあり方である︒とにかく王朝文化人貴族であっ. ても一彼らの間に関心を引き興味をもたせるような様々のでき事は︑筆に書きとめられる以前に︑相当忠実に語り伝 えられていたものであろうと思うのである︒. 8工8.
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