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「日本におけるランバス・ファミリーの使命」 :  その歴史と今日的意味を考える (第34回関西学院 史研究月例会)

著者 山内 一郎

雑誌名 関西学院史紀要

号 18

ページ 89‑100

発行年 2012‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10236/8951

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はじめに  西垣先生は私の神学生時代の先輩で︑現在︑学院創立者ランバス先生が礎を据えられた神戸栄光教会代務牧師の任に就かれていますが︑先程自己紹介されたように︑パルモア︵啓明︶︑聖和︑広島女学院そしてヴァンダビルトなどランバス先生の足跡をすべて辿り︑かつ重責を担われた genuine successorです︒未だ跡を踏まれていないのは天国だけだと思います︵笑︶︒

  はじめに︑私はW・R・ランバス生誕一五〇周年の歴史サロンでも紹介しましたが︵﹃関西学院史紀要﹄第十一号一四一〜一五三頁参照︶︑吉岡美国第二代院長がランバス 先生の人となりについて語られた村上謙介先生文責の数節を雑誌﹃新星﹄第五号︵一九三七年十月︶から引用します︒  ﹁ランバス先生は︑優れた宣教師の両親によって育てられ︑良い性質をたっぷり受け取って居られたと見えて︑真に良い人物で︑頭脳は極めて明晰︑物分かりのよい︑学問のある方でした︒⁝︵中略︶⁝特に医者となられたほどの方でありますから︑何でもできる珍しい人であります⁝︵中略︶⁝また学者は︑ともすれば徳性の如何︵ママ︶はしい人もあるのですが︑ランバス先生はいたって固い︑道徳の優れた︑宗教上の信仰については天の父上を信ずること固く︑何ものにも動かされない方でありました⁝︵中略︶⁝

﹁日本におけるランバス・ファミ ーの使命﹂

   その歴史と今日的意味を考える

山内 一郎

   

34   回関西学院史研究月例会

︵二〇一一・一一・二五︶

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また人の心を察することが上手で︑一度会えばまた会わずには居れぬ︑英語でいうアトラクティブな方でした⁝︵中略︶⁝平素キリスト教について話しておられることと︑ご自分の生活がまったく一致している︑真に言行一致の方でした︒これはなかなかむずかしいことで︑偉い人の中にも言行一致ができない人もあるものですが︑ランバス先生はこの点においても大いに感激させられるものがありました⁝︵後略︶﹂︒

  さすがに吉岡先生は︑初代院長ランバス先生と一番近いところで四年間共働された間柄ですから︑この回想には文献で読むのとは違った直に伝わってくる真実があります︒

一 ﹁建学の祖父﹂ジェームズ・ウィリアム・ランバス

  今日は創立者W・R・ランバスだけではなく︑ランバス・ファミリーにスポットを当てる主旨のプログラムですから︑ここでランバスの父上︑関西学院のいわば﹁建学の祖父﹂について長男のウォルター・ランバスが著した評伝James W.Lambuth,1830-1892, Thirty-eight year's an active

missionary︵Board of Missions, MECS, 1893︶の中からジャパン・ミッションにかかる内容を紹介したいと思います︒これは英文二十七頁のブックレットですが︑単に第三者に よるhomageあるいは身内の私的回想録の類ではなく︑﹁福音﹂の伝達に生涯を懸けたパイオニア・ミッショナリーの熱い志︑その真髄を記録や書簡など一次資料に基づき客観的に証言した貴重な文献であり︑是非全文を翻訳し出版できればと希いますが︑今ここでは昨夏神学部の成全会研修会で紹介した概要メモによって話させて頂きます︒ANCESTRY――スピリチュアルDNA

  ウォルターは先祖の紹介から書き起こしています︒どうぞお手元のフランシス・ブレイ夫人作成︵一九七七年︶のランバス・ファミリー﹁家系図﹂をごらん下さい︒ランバス家はもと英国からの移住者で︑当初ヴァージニアに住みつき︑ファミリーネームはしばらくLambethと綴ったようです︒移民二世のウィリアム・ランベス︵1765-1837︶︑すなわち父ジェームズの祖父はメソジストの始祖ジョン・ウエスレーの直系︑トマス・コウク監督から執事︵deacon︶︑そして同フランシス・アズベリ監督から長老︵elder︶の按手礼を受けたメソジストの教職者です︒このウィリアムから数えて三代目がジェームズ︑従ってその息子︑学院創立者は四代目のエヴァンジェリストになります︒

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DEDICATED AT BIRTH――生まれながらのミッショナリー   第三代ジェームズ・ウィリアム・ランバスは一八三〇年三月二日︑父ジョン︑母ナンシーの第二子としてアラバマ州グリーンカントリーで誕生︒父親は天幕伝道中に知らせを受け︑夜遅く帰宅し︑翌朝集会に戻り会衆にこう告げました︒﹁昨夜私たちに授かったbaby boyを︑私たちは神さまへの心からの感謝を込め︑ミッショナリーとして捧げます︒将来彼を外国に送り出すために一梱の綿︵a bale of cotton︶を今から用意します﹂︒それにしても家系図に見るように︑このファミリーはすごい子沢山ですね︒ウエスレー家もジョンが十五番目︑チャールズは十八番目の子どもですから︑家族で野球やサッカーのチームが組めます︵笑︶︒牧師の家庭は貧しくても︑子宝には恵まれているようです︒

  話が逸れますが︑家系図にあるウォルターの弟ロバート・ウィリアム・ランバスについて︑昨年やはりこの学院史研究月例会で岩崎元彦さんから興味ある話を聞きました︒ロバートが英語の教師として神戸に在留中︑子どもたちにサッカーのプレイ︵play︶を指導し︑これが兵庫県における学生サッカーのルーツだそうです︒長兄のW・R・ラン バスは同じプレイでもお祈りのpray によって関西学院の礎を据えました︵笑︶︒今詳しく話すことはなし得ませんが︑とにかくランバス・ファミリー代々の働きは︑旧約聖書のアブラハム一族にも比すべき広範かつ多岐にわたります︒ANSERING THE CALL――召しに応えて

  一八五三年秋︑カントンで開催された南メソジスト監督教会ミシシッピー年会でジェームズはケーパーズ監督︵Bishop Capers︶によって年会最初の中国派遣宣教師に任ぜられます︒同年一〇月二〇日︑メアリー・イザベラ・マックレラン嬢と結婚︒ここには書かれていませんが︑新妻は当時十九歳︑スコットランド︑エディンバラの名門ゴルドン家の出身で︑第二十二︑二十四代アメリカ大統領に就任したクリーヴランドの従妹に当たる優れた女性で︑二人がアメリカ南部の宣教師報告集会で出会い︑メアリーの﹁この五ドルと私自身を捧げます﹂"I give 5 dollors and myself"という純乎たる志の表明に意気統合し結ばれたことはよく知られています︒

  そして翌一八五四年春︑新婚早々の若きカップルは︑リッチモンドでの宣教師たちによる歓送会の後︑ニューヨークから小帆船エリエル号に乗船し中国に向います︒大西洋を

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下り︑赤道を越えて喜望峰に至り︑アフリカ大陸を迂回してインド洋に出︑再び赤道を横切ってフィリピン諸島を通過︑漸く中国にたどり着くという︑航程一万六千マイル︑日数にして百三十五日︑四ヶ月半をかけての長く辛い︑危険な船旅でした︒この二人の勇壮な旅立ち︑これが三十五年後の関西学院創立に繋がるヒストリー︵His story︶の始まりです︒

BEGINNING THE WORK AND PERILOUS TIMES――活動開始と艱難辛苦

  父ランバス夫妻は実に三十二年間︑異教の地中国であらゆる機会を捉え︑寺の住職にも近づき︑聖書の﹁福音﹂を説き明かしましたが︑長男ウォルターによると︑語られたメッセージの内容は︑パウロなどによる﹁キリストの神学﹂よりも︑福音書が伝える﹁イエスの教え﹂︑その神観や普遍的な隣人愛への呼びかけが中心であったことが知られます︒毎日︑休む間もなく説教し︑祈り︑訪問に出かけ︑寸暇を惜しんで聖書や讃美歌の漢訳︵上海ダイアレクト︶の仕事に励み︑福音書略解︑キリスト教入門やカテキズムの編纂︑出版を行うとともに︑現地のネイティヴ教職者養成のために上海にboarding school を設立し︑キリスト教関 係のスクールブックのみならず地理や天文学のテキストも作成したというのです︒そしてこれらミッショナリーワークのすべてが︑メソジストの祖ジョン・ウエスレーに倣うキリストに仕える業であったとコメントされています︒確かにランバス・ファミリーの中にはウエスレイアン・ヘリティジが脈々と継承されていることがよく判ります︒それともう一点︑ウォルターは︑父ジェームズが清冽な使命感をもってミッショナリーワークに打ち込めたのは︑良き賜物を備えた︵gifted︶母メアリーの祈りと支え︵second︶があればこそであった︑と繰り返し書き記しているのが印象に残ります︒OPENING THE JAPAN MISSIOIN――日本伝道の開始

  ところで一八八五年︑J・W・ランバスが突如本国MECS伝道局総主事補佐兼財務担当のD・C・ケリー︵Kelley︶に宛てた辞任願いを伝える書簡には﹁もしも南メソジストボードが日本にミッションを開くのであれば︑私には彼の地に赴き︑微力を尽くす心備えがあります﹂と記されています︒ランバス父子の中国ミッション辞任についてはこれまで︑家族の健康上の理由に加えて中国宣教部のポリシーをめぐるアレン総理との確執など種々推測がなされまし

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た︒しかし︑ウォルターは父ジェームズの意思表示について︑決して中国におけるミッションワークに不満があったのではなく︑むしろ︑全世界すべての国々に対する神ご自身の贖いのみ業に参与するために︑ミッションフィールドを拡張し︑新しい可能性を拓くことが本意であったことを強調し︑遂にMECSもジャパン・ミッションに踏み出す﹁時が来た﹂ことを確信するに至ったと述べています︒そして当時のチャイナミッション統括者マクタイアー︵H.N.McTyeire︶監督が﹁私はここに神の摂理による導きがあると信じ︑あなたの尊い生涯がいよいよ強く支えられ︑日本における働きが祝され︑良き実を結ぶように﹂という祈りのエールを書き送っています︒またここには言及がないのですが︑息子ウォルターが一八六九年︑十五歳の若き日に上海から単身帰米の途についた二日後︑日本海の荒波にもまれ酷い船酔いに悩まされ︑やむなく横浜で下船︑約一ヶ月半病院で静養した折り︑病窓から眺めた美しい山河の佇まいによって病んだ心身が癒されるという奇しき﹁日本との出会い﹂を経験したこともランバス父子とその家族来日の隠れた契機になったことが疑われません︒ミッション本部に書面で申し出たのは父ジェームズ︵老ランバス︶でしたが︑実は息子ウオルター︵若ランバス︶のワールド・ エヴァンジェリストを志す壮大なビジョンと熱いパッションが老ランバスを突き動かしたに違いありません︒この﹁予期せぬ転機﹂と映るランバス父子によるジャパン・ミッションの開始︑そして神戸栄光教会を起点とするパルモア︵啓明︶学院︑関西学院︑聖和︑広島女学院創立の背後に︑人間のあらゆる思いを超えた不思議な﹁神の摂理﹂が働いていたことを思わずにはおれません︒老ランバスの本国マクタイアー監督宛ての返信は﹁ボードがジャパン・ミッションを立ち上げることを決定し︑私たちへの配慮も下さり感謝します︒この上は聖霊ご自身の導きを祈るばかりです﹂という簡潔な内容です︒一八八六年七月二五日︑老ランバス︑O・A・デュークスらが神戸に上陸︑同年一一月二四日若ランバスが家族を伴い北京から着任︑居留地四二番館で活動を開始しました︒ESTABLISHING HEADQUARTERS――神戸にミッション本部を開設  日本は新しい未知のフィールドですが︑ミッションの創始者︵老ランバス︶が聖霊の導き︵guidance of the Divine Spirit︶に依り頼み︑神のみ力を信じて神戸に本拠を定めたのはまことに賢明な判断でした︒発展途上にある人口

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十万の神戸は交通至便な陸路︑海路の要所︑東二十マイルの大阪は人口五十万を超える大都市で︑林立する公共︑商業施設︑工場地帯の煙突から立ちのぼる煙が夕日に映える景観はさながら水の都ベニスを想わせます︒さらに五十マイル先には多くの寺院︑陶芸品︑教育機関が集まる西日本のキャピタル京都が位置し︑このように七十五マイルの範囲内に商工業︑教育のセンターを擁し︑西に延びる内海沿岸一帯に居住する日本人千五百万の魂に船や鉄道で二十四時間以内で近づけるという絶好の地理的条件に恵まれた神戸は︑今後われわれがミッションを展開する拠点として最も適している︑と若ランバスはコメントしています︒いわゆる﹁神戸ストラテジー﹂については︑この他︑北メソジストとの地域区分け協定︑四季を通じて最も健康によい気候風土︑条約港としてアメリカ︑イギリス︑中国と毎週連絡が取れ︑外国人も日本人に雇われないで居住できることなど︑合わせて六項目が挙げられます︵﹃関西学院百年史﹄通史編Ⅰ四十七頁参照︶︒

  やはりここでは触れていませんが︑アメリカMECSのボード本部は︑他教派に二十年近く遅れをとっているジャパン・ミッションの総理︵Superintendent︶に三十二歳の若きエースW・R・ランバスを任命し︑五十六歳の父ラ ンバスは︑その年齢と健康状態を慮ってのことでしょうが︑後見役を託されます︒しかし若ランバスはこの列伝の中で︑むしろ老ランバスを中国と日本ミッションの"Founder and Father" と呼び︑そのまま本評伝の小見出しにもなっています︵英文ブックレット二十一頁︶︒

  ﹁瀬戸内伝道の父﹂としての老ランバスの大きな足跡については︑神田健次先生監修のパンフレット﹁瀬戸内伝道構想﹂によって詳しく知ることができますが︑ここにはJ・C・C・ニュートンの文章が引かれています︒

  ﹁私たちはJ・W・ランバスと初期宣教師たちがキリストの愛の火によって心を燃やされ⁝︵中略︶⁝内海沿岸をくまなく巡回し︑神戸から山陽道を南下し北九州大分にいたる広域の人びとに福音を伝えるべく尽瘁した尊い働きとその労苦をよく知っています︒特に神戸︵現神戸栄光︶教会については︑着任早々山二番館の自宅を開放して礼拝を守り︑良き道備えをしたことを想起するにつけ︑J・W・ランバスこそこの教会の"founder and father"と呼ばれて然るべきでしょう﹂︒

Unreserved Consecration――﹁この一事﹂に賭けた献身の生涯

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  老ランバス召天の直後に執り行われた葬送記念礼拝でJ・C・C・ニュートン はこのパイオニア・ミッショナリーの生涯と信仰を追憶し︑次のように語りました︒﹁J・W・ランバスの生涯を貫く芯の強さとその秘密は︑福音の伝達という﹁この一事﹂に懸けた献身の志であった・・︵中略︶・・彼ら夫妻のクリスチャンライフそのものが︑中国や日本の人々に宣べ伝えたイエス・キリストの﹁福音﹂に全く適ったものであり⁝︵中略︶⁝ただ口先で論ずるのではなく︑己れを無化し︑ひたすらキリストにつき従う清冽な生き方によって身証したのであった﹂︒中国人も日本人も︑自分たちの霊的な導師たち︵spiritual teachers︶の心の内奥を然かと読み取り︑夫妻のミッショナリーとしての生き方のなかに︑罪赦された者の力を直感し︑キリストを見たことはないが︑キリストから遣わされた使者たち︵messengers)を通して︑キリストの深い贖罪愛に触れ︑真の救いに与る体験へと導かれたのです︒

  死の直前︑老ランバスは伝道本部のタウソン︵W.E.Towson︶牧師に﹁神は私にいつも善くして下さった﹂と告げ︑母国の教会には︑同僚宣教師を介して﹁私は私の持ち場で倒れる︒私たちには為すべき大きな務めがある︒もっと多くの働き人を遣わしてほしい﹂というメッセージを伝

神戸・山二番館に勢揃いしたランバス・ファミリー(1889年頃)

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えています︒

  若ランバスはこの﹁真に使徒的なミッショナリー﹂︵truly apostolic missionary︶を老ランバスを偲ぶウェンライト博士︵S.H.Wainright︶の追悼の辞から一文を引用し︑本評伝の結びとします︒"He was persistent in work, unceasing in prayer; always busy, always talking to men of God, always talking of God to men."

二 Fraternal Address of Bishop Walter R. Lambuth

General Conference of the Methodist Church of Japan, Tokyo, October 31,1919  私は二〇〇四年九月一〇日︑畑道也院長︑平松一夫学長︑田淵結宗教総主事︑編纂室の池田裕子さん︑法人部の浜田行弘さんらと共にランバス・ファミリーの母教会が建つミシシッピー州パール・リバーを再訪し︑当地のミルサップス大学︵メソジスト系︶︑マディソン・メソジスト教会の関係者︑そしてランバス家子孫の方々と田淵先生司式によるW・R・ランバス生誕百五十周年記念礼拝を守りました︒白ペンキ塗りの簡素な木造チャペル︵史跡︶前庭には︑ランバス父子の記念碑があり︑そこにはよく知られるWorld Citizen and Christian Apostle to many landsというフレー ズが刻まれています︒そして一九三五︵昭一〇︶年に︑次の一文が加えられたことを知りました︒In Japan he went forth to the mission fields, toiling without rest several years, planting the churches in Kobe, Hiroshima,Uwajima and Tadotsu.    当日ルイジアナ州ニューオーリンズからミシシッピー・ジャクソンに向かう二時間半の列車の中で︑私は一九一九年︑東京で開催された日本メソジスト教会年次総会で冒頭ランバス監督が行ったFraternal Addrressの原稿をはじめて読み︑改めてランバスのミッショナリー・スピリットに思いをいたしました︒日本のメソジスト友人たちに対する︑結果的に最後の公式メッセージとなった英文A4版六頁の内容を早速その日パール・リバーでの記念礼拝の席上紹介しました︒  メッセージの中からいくつかのポイントを取り出しますと︑︵一︶十二年前︑一九〇七年にアメリカの南北両メソジスト︑カナダメソジストの三派が合同して日本メソジスト教会が成立し︑日本におけるメソジスト教会︑そして関係学校の協力体制が整い強化されたことを心から喜び感謝したい︵ランバス監督は最初から合同推進派の一人で﹁教憲教規﹂の英語版Discipline and Doctrineの編集に

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も携わった︶︒︵二︶メソジスト教会は信仰復興︵リヴァイバル︶運動から出発し︑絶えざる成長を目指す信仰共同体である︒成長しない教会や学校は朽ち果てる他はない︵マタイ二八章一九節以下の復活のキリストの委託に応える使徒的教会のミッション継承の確認︶︒︵三︶しかしその成長は単に地理的︑物理的な拡大・発展を目指すものではなく︑清冽なadventure spiritに突き動かされ︑自己の名誉栄達ではなく︑他者と共に生きるための果敢な愛と奉仕の実践こそが要諦である︵ここにはウエスレーの﹁キリスト者の完全﹂﹁聖化﹂という神学的提唱が貫流する︶︒しかもランバスは︑我らのキリストに従う歩みを可能ならしめるのは︑我らの外から迫りくる聖霊の働きによるほかないというウエスレイアンとしての真摯な告白をもってこのFraternal Address を結んでいます︒

三 コールレクチャー Winning the World for Christ -A

Study in Dynamics, Cokesbury Press, Nashville-NewYork, 1915  ﹃キリストに従う道﹄︵拙訳︶関西学院大学出版会︑第二刷︑二〇〇五年

  関西学院創立者W・R・ランバス先生は︑第一に類い希な行動派︑今で言えば国連事務総長並みの超過密スケ ジュール︑飛行機のないあの時代に︑豪州以外の四大陸を駆けめぐったのですから驚きです︒しかし第二に︑その激しい活動家ランバスは︑同時にもっとも敬虔な祈りの人でした︒﹃ランバス伝﹄の著者ピンソンも﹁関西学院の土台は祈り︵信仰︶によって据えられた﹂と記しています︒それだけではなく︑第三に︑ランバスはバイブルの真理を︑誰が聞いてもよく分かる言葉で意味深く伝達できる大変優れたメッセンジャーでありました︒  一九一四年︑第二回アフリカ伝道から帰国したランバスは︑若き日に神学と医学を修めた母校︑ヴァンダビルト大学︵テネシー州ナッシュビル︶のコール・レクチャラーとして招聘を受けました︒コール・レクチャーとは︑一八九〇年︑コール家寄付の特別基金によって設置された冠講座で︑ノーベル平和賞を受けたJ・R・モット︑著名な神学者P・ティリッヒ︑R・ブルトマン︑H・R・ニーバーなども招かれていますが︑ランバスは後輩の学生たちを前にして︑六回に亙る連続講演を行い︑翌年その内容を纏めて出版されたのが本書で︑ランバスの主要著作の一つと目されます︒オリジナルタイトルの前半を直訳すれば﹁世界制覇﹂ともなりますが︑その真意はfor Christ という限定によって正しく表明されています︒本書全体を貫くメッ

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セージの核心は︑経済的︑況や軍事的世界制覇の反対の極︑すなわち十字架への道を歩んだイエス・キリストが身証した普遍的な隣人愛に勇気づけられ︑押し出されて︑いかにして宗教や文明の対立・衝突を乗り越え︑世界万民が手を携えて和解・共生への道を切り拓くことができるかという︑これはランバス自身の﹁キリストに従う﹂生涯を懸けた問いかけなのです︒副題にある﹁ダイナミックス﹂という用語は︑今日社会学や教育学のテクニカルタームとしても用いられますが︑本書はむしろすぐれて神学的な内容と展望をもつ著作です︒以下に原著の目次をあげます︒

 I. The Kingdom of God II. The Holy Spirit: God Seeking Man III. Prayer: Man Seeking God IV. Mission and the Heroic V. A Missionary Church VI. The Preeminence of Christ  第一講は﹁神の国﹂という標題の下に︑イエス・キリストの福音の立場から︑救済史︑神︑人間︑倫理︑ミッションの諸問題を総論的に取り扱っています︒次いで個別的に︑教義学のテーマに即して言えば︑第二講 聖霊論︑第三講 祈祷論︑第四講 ミッション論︑第五講 教会論︑そして第六講 キリスト論︑という構成で︑﹁ミッションの神学﹂として体系立った論述というより︑むしろ﹁ミッ ションのための神学﹂ともいうべき弁証的内容を盛り︑ここで立ち入った紹介はできませんが︑グローバル・ミッショナリーとしてのランバスの背後にある信仰と思想の核心を理解する上で必読の一書です︒     四 今日的意味

  予定の時間がなくなりましたが︑最後にランバス父子が担った日本における使命が今とここでの私たちに何を意味し︑何を問いかけているか︑私なりに以下三点を抽出しておきます︒ ︵一︶二分化構造の克服――ミッションとしての教育   教会と学校︑伝道と教育の間に区別が設けられるのは当然でありますが︑両者を対立的に捉え︑その﹁これか・あれか﹂を問う行き方は﹁ミッション﹂という動態︵dynamics︶の矮小化につながります︒むしろ聖書的見地からするミッションとしてのキリスト教教育論についてはヨハネ一〇章一六節が良い出発点になります︒﹁私には︑この囲いに入っていないほかの羊もいる︒その羊をも導かなければならない︒その羊も私の声を聞き分ける︒こうして羊は一人の羊飼いに導かれ︑一つの群れになる﹂︒ここで﹁聞き分ける﹂と訳される原語︿アクーオー﹀は︑﹁分かる﹂﹁理解する﹂﹁悟

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る﹂を含意します︒﹁良き羊飼い﹂としてのイエス自身が囲い︵教会やクリスチャン・コミュニティー︶の外にいる羊の群れ︑すなわち万民にとっての﹁導師﹂︿アルケーゴス﹀︵ヘブ一二・二︶であり︑その呼びかけは万人によって﹁聞き分けられ﹂︑竟に地球人類世界が一つの群れになるということを信じ望みつつランバス父子とそのファミリーは地上の生涯を生き抜き︑関西学院とランバスリーグにつながるスクールの創設もみなその生きた証しであります︒︵二︶エキュメニカル・スピリット

  W・R・ランバスの公称タイトルは南メソジスト監督教会ミッショナリー・ビショップでしたが︑彼自身の資質はすぐれてエキュメニカルなサーヴァント・リーダーであったことが疑われません︒コール・レクチャーの随所で︑例えばアフリカ伝道に関して︑﹁今われわれに課せられている辺地の伝道活動をさらに有効に推し進め︑一日も早く軌道に乗せるためには︑何よりも教派間の調整が必要であり︑実現可能な相互協力のために︑これまで以上の努力を傾注すべきである﹂と述べ︑エディンバラの世界宣教会議︵一九一〇年︶については﹁われわれが内側で分裂し︑争っているかぎり︑他の宗教に対してキリストを証しすることはできない﹂︒そして教会の体にいのちを与え︑すべてを 統合する唯一の霊は︑イエスが地上を離れられた後にいわば﹁もう一人のイエス﹂として遣わされた﹁パラクレートス﹂︵﹁助け主﹂︶︑すなわちヨハネ福音書が証言する﹁真理と執り成しの霊﹂であることが強調されます︵第五講﹁伝道する教会﹂参照︶︒そのことは先に紹介した日本の同労者に対する最後のFraternal Addressの内容からも窺知されるところであり︑ここにやはり﹁聖霊の神学﹂を提唱したウエスレーに倣うランバスの真骨頂がみとめられます︒︵三︶真のグローバリズムとは何か  日本におけるキリスト教あるいはキリスト教主義学校の今日までの歩みをナショナリズムとインターナショナリズムという二つの波の相剋として捉える向きがあります︒しかし︑二つの波の対立という捉え方だけでは大事な視点が欠落し︑誤解も招きかねません︒グローバル︵全球︶時代に突入した現在も日本を取り巻く東アジアには異常とも言える﹁冷戦﹂構造が存在し︑テンションは一層高まっています︒私たちは国家主義と国際主義という図式的二分法を超えて︑﹁真のグローバリズムとは何か﹂を深みの次元から鋭く問わねばなりません︒ランバス先生がコール・レクチャーを通して学生たちに呼びかけたのも︑征服することで平和は生まれない︑この一事でありました︒ランバス・

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ファミリーが何のために日本人に仕え︑関西学院やランバスリーグ・スクールを創設したのか︑それはキリストの愛と奉仕の教えを体し︑キリストに従って歩んで行く若者が一人でも多く育つようにという純一な祈りゆえであったと思います︒創立者の壮大なビジョンと清冽なチャレンジに果敢に応えるべく関西学院における教育と研究の現場で﹁平和への意志﹂鍛錬を徹底する草の根の努力にいよいよ邁進しなくてはなりません︒

  十分意を尽くせぬ話になりましたが︑ここでひとまず区切らせて頂きます︒

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