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1980年代初頭の社会科教科書問題に関する一考察―「第2 次教科書攻撃」から第 13 期中央教育審議会の「答申」まで― ―(下)

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13. 1980年代初頭の社会科教科書問題に関する一考察 ―「第 2次教科書攻撃」から第 13期中央教育審議会の「答申」まで―(下). 棚橋 信明. A Historical Study on the Problems of Social Studies Textbooks. in the early 1980s, Second Part. Nobuaki TANAHASHI. はじめに. 1.「第2次教科書攻撃」の展開. 2.教科書「書き換え」の圧力. 3.国会における教科書問題をめぐる論戦(以上,前号掲載). 4.「歴史教科書問題」の衝撃(以下,本号掲載). 5.1980年代初頭の教科書問題の「着地点」. おわりに. 4.「歴史教科書問題」の衝撃. 前章で見たように,1981 年 2 ~ 5 月に国会で教科書問題をめぐる論戦が続くなか,自民党は教. 科書制度改革に向けた取り組みを本格化させていった。三塚博を委員長とする教科書問題小委員会. が,4 月に入って改革方針の策定を急ピッチで進め,6 月 5 日には 5 項目からなる方針案をまとめ. た 1) 。そして,同年 11 月に発足する第 13 期中教審が教科書制度改革に関する検討を引き取り,. 1982 年 6 月下旬までに答申案の骨子を固めるのである。この答申は,自民党のめざす教科書制度. 改革の方針をいわばオーソライズするものであった。ところが,この方向の流れにストップをかけ. たのが,おもに中・韓両国の批判によって引き起こされた「歴史教科書問題」であった。以下では,. この「歴史教科書問題」の政治的過程を追うとともに,これに対する日本政府や文部省の対応から. 露わになった日本の教科書検定制度の欠陥について明らかにしていきたい(この過程については,. 末尾に掲載の「年表」を参照)。. (1)「歴史教科書問題」の経緯. (A) 騒動の始まりと展開. ことの発端は,1982 年 6 月 26 日に日本の新聞各紙とテレビ局が,次年度より使用される高校教. 科書の検定結果を報じるなかで,「日本史」や「世界史」の教科書で日本の戦争責任を曖昧にする. ような「書き換え」が行われていたことを指摘したことにあった。なかでもクローズアップされ,. 新聞の見出しを飾ったのは,日中戦争における日本軍の「侵略」が「進出」等へと改められていた. ことであった 2) 。. 14. その後,事態を大きく動かすきっかけとなったのは,7 月 20 日に中国の共産党機関紙「人民日. 報」に掲載された「この教訓を銘記せよ」と題する短評であった。そこでは,日本の文部省が「南. 京大虐殺」の責任を「激しく抵抗した中国軍に転嫁する」ような説明を加えさせたり,「中国の犠. 牲者は 20 万人という多数にのぼった」や「日本軍が強姦,略奪,放火を行い,国際的な非難を受. けた」といった記述を教科書から削除させたりしたことが取りあげられた。さらに,日本軍の「華. 北侵略」や「中国に対する全面侵略」にあった「侵略」をすべて「進攻」に書き改めさせていると. し,「このような書き改めは,中国人民の大きな憤激を巻き起こさないではおかないだろう」と,. 中国政府の「憤激」を示唆したのであった 3) 。また,同日の韓国の保守系有力紙「東亜日報」も,. 1 ページを使った特集で日本の教科書問題を取りあげ,そこでは「三・一独立運動」が日本の歴史. 教科書で「暴動」とされていることなどに強い怒りが表明され,「外交経路を通じて日本側に是正. を要求すべし」といった主張も掲げられたのである 4) 。. このような両国の「憤り」に油を注ぐことになったのが,日本の政治家による「内政問題」発言. であった。7 月 23 日に国土庁長官の松野幸泰は,文部大臣の小川平二と会見した際に,韓国にお. ける日本の教科書批判は「場合によっては内政干渉になる」として,「毅然たる態度」で臨むよう. 要請した。さらに,その後の記者会見で松野は,「韓国の歴史教科書にも誤りがあるだろう。例え. ば日韓併合でも,〔中略〕韓国の当時の国内情勢などもあり,どちらが正しいかわからない」と述. べた。また,文相の小川も同日に行われた日教組委員長の槙枝元文との会見で,日本の教科書に対. する諸外国からの批判について対応を問われた際に,教科書の記述は「内政問題」であるとして各. 国の批判に反論する姿勢を示したことが各紙で報道された 5) 。. その結果,7 月 24 日以降,中国では堰を切ったように新聞各紙による攻勢が開始されることに. なった。24 日の「人民日報」は,日本の政治家の「内政問題」発言に対して,「文部省による教科. 書検定は日本の内政だが,中国,東南アジアに対する侵略の歴史的事実の改ざんは内政問題ではな. い」と反駁した。中国では,この日以降,「人民日報」のほか「光明日報」,人民解放軍の「解放. 軍報」,全国総工会の「工人日報」,共産主義青年団の「中国青年報」などでも,毎日のようにこ. の問題が取りあげられることになる。韓国でも「東亜日報」のほか「朝鮮日報」「ソウル新聞」な. どが,7 月 24 日に上記のような日本の閣僚の発言を「妄言」として激しい批判を展開した。韓国. においても,この日を境に日本の教科書問題に関する社説,特集記事,そして読者の投稿などが劇. 的に増加していった 6) 。. そして,7 月 26 日にはついに,中国外交部(日本の外務省に相当)第一アジア局長の尚向前が北. 京駐在公使の渡辺幸治を招き,日本政府に対する正式な抗議を行ったのである。そこでは,日本の. 教科書検定における「歴史事実の改ざん」が,1972年 9月の「日中共同声明」や 1978年 8月の日. 中平和友好条約の精神に離反するもので,「中国人民の感情を傷つける」ものとされた。「改ざ. ん」の事例としては,中国に対する日本の「侵略」を「進出」に変えたこと,「南京大虐殺」を. 「中国軍の激しい抵抗」により起こったとしたことなどがあげられた。そして,最後に「中国政府. は,日本政府が中国の立場に留意し,文部省の検定した教科書の誤りを正すよう切望している」と. 申し入れがされたのである 7) 。. このような抗議に対する日本政府の対応は,丁寧な説明により両国の「誤解」を解くことに重点. をおくものとなる。中国の正式な抗議を受けた直後(7 月 26 日の夜),文部省初等中等教育局長. (以下,初中局長)の鈴木勲は記者会見で,「申し入れの内容を検討したうえ,ご意見には謙虚に. 耳を傾けるとともに,必要に応じて中国政府に対して十分説明していきたい」と述べつつも,文. 15. 部省としては「教科書の記述が客観的かつ公正なものとなり,適切な教育的配慮が施されるよう. 最善の努力を払っている」として教科書検定を擁護する姿勢も示したのである。翌 27 日の閣議で,. 文相の小川がこうした文部省の立場を説明し,「真意」の説明によって事態の沈静化をはかること. が政府の基本方針として確認されたのであった。この「真意」とは,第一に「日中共同声明」な. どに示された日本政府の認識に全く変化のないことを含意した 8) 。「日中共同声明」はその前文で,. 「日本側は,過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責. 任を痛感し,深く反省する」と述べており,こうした歴史認識のうえに国交正常化と友好関係の発. 展が誓われたのであった。. その後,日本政府は外交ルートを通じての中・韓両国への説明を進めることになる。そこで文部. 省が重視したのは,日本の教科書検定制度の仕組みについて理解をえることであった。それは,. 当時,中・韓両国とも教科書を国定としており,両国による批判の根底には日本の検定制度につ. いての「誤解」があるものと考えられたからである。文部省を代表して説明を担当したのは上記. の初中局長の鈴木であった。鈴木は 7月 29日に中国公使の王暁雲を,30日には韓国公使の李相振. を文部省に招いて検定制度についての説明を行った 9) 。ところが,中国はこの説明に対して激し. い反発を見せる。8 月 5 日に,中国の外交部第一副部長(副大臣に相当)の呉学謙が駐中国大使の. 鹿取泰衛を招き,日本の文部省による教科書検定制度の説明に「まったく納得できない」と述べ,. 教科書の記述を改めるために「必要な措置をとるよう日本政府に求める」と,2 回目の正式な申し. 入れを行ったのである 10) 。韓国政府も,その間の 8 月 3 日に教科書記述の是正を求める正式な抗. 議へといたる 11) 。. 日本政府はなおも説明を続けるべく,文部省及び外務省の高官を特使として両国に派遣すること. を決定した。そして,受け入れ回答のあった中国には,8 月 8 日に文部省の学術国際局長の大崎仁. と外務省の情報文化局長の橋本恕の 2名が派遣される 12) 。この 2名の特使は,10日と 12日に中国. 外交部で行われた会談で,基本的に従前の説明を繰り返すことになったが,これに対して中国側の. 代表は,日本の主権に属する検定制度に干渉するつもりはないが,「日中共同声明」の精神が教科. 書に十分に盛り込まれているかどうかについて疑念があるとして,教科書の是正に必要な措置をと. ることを再度,求めたのであった 13) 。. (B) 騒動の決着へ. 中国外交部での上記の会談において,中国政府が日本の教科書検定制度そのものを問題としてい. ないことが明らかになったことは,日本政府に事態打開に向けての一つの糸口を与えることになっ. た。そこで,歴史認識の不変と教科書是正の約束を含んだ「政府見解」をもって外交的決着をめざ. しつつ,是正の具体的なやり方については国内的措置として日本政府への一任を取りつけるといっ. た基本戦略が固められたのである 14) 。文部省と自民党内には是正措置をとることに依然として強. 力な抵抗があり,現行の検定制度の枠内で「自主的」に是正を進めるといった姿勢により,こうし. た抵抗を回避することが目論まれたのであった。. その後,「政府見解」に盛り込むべき内容について,文部省と外務省の意見調整が続けられ,8. 月 26日に官房長官の宮沢喜一による「官房長官談話」が「政府見解」として発表された。「官房長. 官談話」ではまず,「日中共同声明」や「日韓共同コミュニケ」で謳われたわが国の歴史認識に. 「いささかの変化もない」ことが表明された。そして,これまで寄せられている教科書記述に関す. る批判には「十分に耳を傾け,政府の責任において是正する」ことが約束されたのである。是正の. 手順としては,① 教科用図書検定調査審議会(以下,検定審)の議をへて検定基準を改正し,こ. 16. れを現在行われている検定審査に直ちに適用する,② 検定済みのものについては「今後すみやか. に同様の趣旨が実現されるよう措置する」,そして,③ それまでの間は,文部大臣の「所見」を. もって,こうした趣旨を「教育の場に十分反映せしめる」というものであった 15) 。. 上記の①~③については,文相の小川が「官房長官談話」発表直後の記者会見で,さらに具体的. 方法や時期について補足説明を行った。まず,①については,9 月早々に,検定審に近隣諸国との. 友好関係に配慮する 1条項を検定基準に盛り込むことを諮問し,これに関する答申を 2ヵ月以内に. 得ることを期待するとされた。そして,②の措置としては,中・韓両国から批判された 1983 年度. 用の教科書について,3 年ごとの部分改訂を 1 年繰り上げて実施し,来年度に 1985 年度用として. の改訂検定の申請を受けつけることにする。また,③の具体的な方法としては,1983 年度用の教. 科書と 1982 年度用としてすでに使用されている教科書について,新しい検定基準に従って改訂さ. れるまでの間,検定審による答申の趣旨を「文部広報」をもって教育現場に周知徹底するための措. 置をとる,というものであった 16) 。. ところが,「官房長官談話」が中・韓両国に受け入れられ,外交的解決にいたるにはまだしばら. く時間がかかることになる。それは,両国が要求し続けてきた「即時是正」の約束ではなかったか. らであり,検定審による審議に始まる①~③の複雑な手続きが,問題を先送りしようとする日本政. 府の「不誠実」を示すものと受けとられたからであった。8 月 28 日に中国外交部の呉から日本大. 使の鹿取に伝えられた中国政府の回答は厳しいものであり,強い不満を表明するとともに,教科書. 記述の明確で即時の是正を再度,要求するものであった。他方で,韓国政府は「官房長官談話」に. 一応の評価を示したものの,新聞各紙の報道では不満や反発の声が鳴り止まない状態であった 17) 。. こうした反応に当惑した日本政府は,9 月 2 日に「官房長官談話」の内容について中・韓両国に. 「再説明」を行う方針を決定し,9月 8日に駐中国大使の鹿取と同公使の渡辺幸治が中国外交部で,. そして,9月 9日に在韓国大使の後藤利雄が韓国外交部でそれぞれ「再説明」を行った 18) 。この時,. 両国の外交部の代表はいずれも,日本政府の対応を「多とする」と感謝を述べ,ようやく矛を収め. る姿勢を示したのであった。9 月 9 日夜,外相の桜内義雄と官房長官の宮澤は,この問題が「外交. 的に収拾した」との見解を表明した。この時,宮澤は「官房長官談話」がいったん拒否された原因. としてわが国の検定制度の仕組みの複雑さを指摘しつつ,今回の詳細な説明が事態の収拾につな. がったとの認識を示した 19) 。. こうして「歴史教科書問題」は外交問題として決着し,文部省は 11月 16日に検定審より出され. た答申に従って,「わが国と近隣アジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに当たっては,. 国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていることとする」の 1項目を検定基準に加え. ることになった。しかし,検定基準の改正にいたる過程での文部省の説明や対応は,以下で見てい. くように,わが国が抱えていた教科書制度のさまざまな欠陥をあぶりだすものであった。. (2)「歴史教科書問題」への文部省の対応. (A) 文部省による教科書検定に関する説明. 前節で述べたように,日本の政府,とくに文部省は,中・韓両国の教科書批判は日本の教科書検. 定制度についての「誤解」に基づいており,丁寧な説明により「誤解」を解くことができるものと. 考えた。ところが,初中局長の鈴木による検定制度に関する説明がとくに中国政府の激しい反発を. 引き起こし,問題をむしろこじらせることになったのである。それでは,この時に鈴木は,中・韓. 両国にどのような説明を行ったのであろうか。. 17. ここで鈴木が第一に強調したのは,検定制度において日本政府は教科書の記述に直接的な介入は. できないという点であった。7 月 29 日夜の中国公使との会談で彼は,わが国の検定制度は民間で. 著作・編集された図書が教科書として適切か否かを審査することにとどまるもので,文部省が付す. るのはあくまでも参考意見であり,これに対する具体的な対処も著作者の「創意工夫」や「判断」. に基本的にゆだねられている,といった説明を行った。そして,問題とされる「侵略」が検定審査. を通じて他の表現に書き改められたのも,こうした制度のなかでの「結果」であるとしたのである。. この説明に対して中国公使の王は,問題となる教科書の記述の書き換えは「政府の意思によって,. 最終的には政府によってなされたと考える」と述べ,すぐさま「不満」を表明した。それには,中. 国政府が以前より,日本の報道などを通じて日本の教科書検定では政府の強制力が働いているもの. と理解していたことがあったと考えられる 20) 。. 初中局長の鈴木は文相の小川とともに,これと前後する国会の答弁でも上記のような説明を繰. り返した。7 月 30 日の衆議院文教委員会で鈴木は,問題とされる 1981 年度の検定で「侵略」の言. 葉につけられたのは,どれも「指導助言的な性格」の「改善意見」であり,これを受けて出版社が. 「自主的判断」で他の表記に改めて出してきた,と釈明した 21) 。確かに当時の検定意見には「修正. 意見」と「改善意見」の 2種類があり,前者は合格の条件として強制力をともなったが,後者につ. いては「建て前」では鈴木の説明した通りであった。しかし,こうした説明に対して社会党の佐藤. 誼は,「改善意見」も実際には「修正意見」と同じであって,教科書会社にとっては強制力をとも. なうものであると反論した。そして,教科書会社の「自主的判断」で「侵略」の言葉が削られたと. いったような説明は,日本国内でも通用するものではなく,中国政府も「納得するはずがない」と. 批判を展開したのであった 22) 。. 実際には,教科書調査官により付される「改善意見」に従わない場合,「理由書」の提出が求め. られた。そして,「理由書」を出しても調査官がそれに納得しなければ,「改善意見」に従うよう. 「助言」が何度も繰り返されたのである。社会党の佐藤も上記の委員会で指摘したように,一つの. 「改善意見」をめぐって教科書発行者と執筆者が,調査官と 10時間以上にわたって「丁々発止」を. 繰り広げることもまれではなかった。そのため,発行者や執筆者の多くは調査官とのこうした繁雑. なやり取りに耐えられず,また,初めからこれを避けるために意に染まない「改善意見」に従うこ. とも多かったのである。こうしたやり取りに手間どると教科書展示会に見本本を出すのが遅れるこ. ともあり,その場合,教科書採択で不利になることも懸念された。それゆえ,発行者が執筆者に. 「改善意見」に従うよう催促することもあったのである 23) 。1982年 6月に検定結果が発表された高. 校の歴史教科書も,このような検定審査の過程を経たものであった。こうした検定の現実を,中・. 韓両国も理解していたものと考えられる。. それでは,「侵略」表記に「改善意見」をつけて「進出」などに直すよう指導した理由について,. 文部省はどのような説明を行ったのであろうか。7 月 29 日の参議院文教委員会でこの質問を受け. た文相の小川は,教科書において「侵略」や「進出」などバラバラに使われていた言葉を,「客観. 的」なものへ統一するよう「改善意見」を付した結果,「侵略」が「進出」や「侵入」に改められ. たのであって,歴史的事実を改ざんする意図などまったくなかったと主張している。原稿本(白表. 紙)において,1 冊の教科書のなかで 19 世紀の中国における欧米列強の戦争を「進出」とし,日. 中戦争について「侵略」を用いているものがあり,そこで「価値判断をともなわない客観的用語」. である「進出」に統一するように「改善意見」を付したというのである 24) 。ここで説明の不備は. 明らかである。実際の検定済み教科書には日中戦争に関する記述で「進出」のみでなく,「侵入」. 18. 「侵攻」といった言葉も使われており,用語の統一は果たされていなかった。そこで「侵入」や. 「侵攻」が「進出」と同様な「客観的用語」といえるのか,これらが「侵略」とどう区別されるの. かについて,小川や初中局長の鈴木の口から説明されることはなかった。. さらに,用語の統一を図ったとする説明と齟齬をきたす事例も国会の審議のなかで指摘された。. 多くの「世界史」教科書では,日本の戦争に関する記述では「進出」を使う一方で,同時代のドイ. ツの戦争についてはおもに「侵略」を使用していた。7 月 30 日の衆議院文教委員会で,共産党の. 山原健二郎が,教科書見本を調査した結果としてこうした事実を文相の小川に突きつけている。帝. 国書院の『高等学校新世界史』では,ドイツによるオーストリア併合とチェコのズデーテン地方の. 併合を「侵略行動」と表現し,その後「ヒトラーはますます侵略主義をすすめて,〔中略〕独ソ不. 可侵条約を結ぶと,ただちにポーランド侵略に着手」したとすると記述があった。ところが,同教. 科書で日中戦争については,「盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまった」といった表現に. なっており,日本(軍)を主語とする「侵略」の表記は一切見られず,明らかにバランスを欠いて. いた。山原は,他の教科書にもこうした事例があるとして,文部省の「用語統一」といった説明が. 「欺瞞」であると断定した。そして,こうした検定の背後には,日本の侵略行為の印象をできる限. り薄めようとする文部省の姿勢があるとして,文相の小川を追及したのである 25) 。. 教科書検定の「正当性」を大前提とした文部省による説明は,多くの矛盾を含み,教科書検定の. 運用実態から大きく乖離するものであった。このことは,日本国内の関係者のみでなく,中・韓両. 国の人びとにも明らかであった。8 月 5 日,中国政府は 2 回目の抗議において,文部省が「さまざ. まな言い訳によって責任を回避しようとした」として,その態度を「極めて軽薄なもの」と厳しく. 糾弾したのは,ある意味で当然のことであったのである 26) 。. (B) 文部省による「正誤訂正」の拒否. 中・韓両国が繰り返し要求した即時の是正は,緊急的措置としての「正誤訂正」で可能であった. はずである。実際,中・韓両国の批判を受けて「正誤訂正」を求める声は,国内でも早くからあ. がっていた。. 中国から最初の公式抗議があった直後の 7月 29日の参議院文教委員会で,共産党の佐藤昭夫は,. 教科書会社から「侵略」に戻すための「正誤訂正」の申し出があれば,それを即座に認めるべきで. あると主張した。それに対して初中局長の鈴木は,著者が「改善意見」に従って直した記述をまた. 元に戻すというのは「改善」とはいえず,このようなことは検定制度の趣旨に反するとして,「正. 誤訂正」を拒否する姿勢を示したのであった。また,鈴木は 1983 年度用の教科書は,すでに採択. の手続きに入っており,見本本として教科書展示会に出され,この段階での「訂正」は不可能であ. ると,第 2章で見たような中学校の公民教科書での「書き換え」が事実としてまったくなかったか. のような答弁をしたのである 27) 。その後も,衆参両院の文教委員会では野党議員より「正誤訂. 正」に関する質問が繰り返されたが,文部省の回答は一貫してこれを拒絶するものであった 28) 。. ところが,その間に文部省による「訂正」拒否の説明に不都合な事例も,「朝日新聞」などによ. り報道され,国会にも持ちこまれることになった。その一つが,1982 年度に使用を開始した高校. 「現代社会」の教科書で,4 大公害裁判の原因企業名が「正誤訂正」によって復活していたといっ. た事実である。5 社 6 点の原稿本にあったこれらの企業名を,文部省は検定時にすべて「修正意. 見」をもって削らせていた 29) 。8月 6日に開催された衆議院文教委員会では,社会党の湯山勇が初. 中局長の鈴木にこの事実を突きつけ,「侵略」表記に同様の措置を取ることができないのかを問い. ただした。これに対する鈴木の回答は,指摘のケースでは,その前年度に「必要に応じて公害企業. 19. 名の掲載を認める」とした扱いとの不整合を,学習上の支障が出ないように正す措置をとった,と. いった説明にとどまった 30) 。. こうしたなかで,教科書執筆者による「正誤訂正」をめざす動きが活発になっていった。これを. 求める声はすでに 8月にあがり始めていたが,大きな動きとして現れたのは 9月 4日のことであっ. た。6社 12点の高校歴史教科書の執筆者約 20人が会合をもって,同月 20日までに「正誤訂正」. の申請を出すよう教科書会社に働きかけることで一致したのであった。この時は「官房長官談話」. によって 1983 年度用教科書の改訂年度の 1 年繰り上げが約束されていたが,呼びかけ人の一人で. ある一橋大学教授の佐々木潤之介らは,これでは批判を受けた教科書が 1984 年度まで 2 年間その. まま使われることを問題とした。また,佐々木を代表者とする社会科教科書執筆者懇談会も同日,. 「正誤訂正」の受理とそれに従った即時の対応を文部大臣に要望する決議書を採択した 31) 。. 他方で文部省は,9 月初めに「正誤訂正」の申請を拒否する方針を教科書協会に通達し,その後. も「指導」や「助言」の名目をもって,申請を押し止める圧力を個別的に教科書会社にかけ続けた。. そのため,上記のような教科書執筆者の要請や社会科教科書執筆者懇談会の決議にもかかわらず,. 多くの教科書会社はその申請に二の足を踏むことになった 32) 。9 月 27 日には,上記の執筆者懇談. 会が教科書協会と社会科教科書を発行する 9 社に対して,「正誤訂正」の申請手続きを直ちにとる. ように要請を行ったが,それはこの時までに申請に踏み切った会社が 1 つもなかったからであ. る 33) 。それでもその後,11月 25日までに,3社より合計 6点の教科書について「正誤訂正」の申. 請が出されることになったが,文部省は受け付けをすべて拒否した。結局,11 月 25 日に出された. 実教出版社の申請を最後に,「正誤訂正」申請の動きは終息することになった 34) 。. 教科書検定の「誤り」を頑なに認めようとしない文部省の態度は,11 月 24 日の検定基準の改定. に際しても示された。文相の小川はこの時,「文部大臣談話」を発表して,検定基準の改正の意義. を説明している。その冒頭で,わが国の教科書検定はこれまでも「国際理解と国際協調の精神を培. うこと」を重視してきたが,今回の検定基準改定の趣旨は,「我が国と近隣のアジア諸国との友好,. 親善を一層進める上で教科書の記述がより適切なものとなる道を開こうとする〔傍点筆者〕」こと 、、、、、 、、、、. にある,と説明したのである 35) 。文部省の教科書検定課は,さらにこれを補足して,新しい検定. 基準は「近隣のアジア諸国との国際理解と国際協調について教科書上更に配慮するよう提言」する 、、、、. ものであり,これに関連して「正誤訂正という手続きによる修正の考えのないことを前提としてい. る」とわざわざ述べたのであった 36) 。すなわち,検定基準の改正は「誤り」を正すのではなく,. 従来の方針をより前進させるための「自主的」な措置として説明されたのである。. 1) 1980 年 12 月 4 日,自民党は戦後教育の見直しを進める目的で文教部会内に「教科書」,「高等教育」,「教員」の. 問題をそれぞれ担当する 3つの小委員会と,文教調査会内に「学制」と「教育基本問題」をそれぞれ担当する 2. つの小委員会を設置しており,三塚博を長とする小委員会はこれらの一つであった。山崎政人『自民党と教育. 政策―教育委員任命制から臨教審まで―』(岩波新書,1986 年)164 頁。なお,それより前の 10 月 22 日に,. 自民党全国組織委員会の教育問題連絡協議会が,三塚を委員長とする「教科書問題に関する小委員会」を設置. しており,これが上記の教科書問題小委員会の前身となった。この 10 月 22 日の教育問題連絡協議会の会合に. は,筑波大の森本真章なども出席しており,第1章(1)で言及した自民党による筑波大グループへの調査・. 研究の「委嘱」はこの時に行われたものと考えられる。三浦,前掲論文,165頁参照。. 2)「教科書さらに『戦前』復権へ 『侵略』表現薄める」「こう変わった高校教科書」「(解説)国民の意識統合ね. らう 『検定の密室化』も着々」『朝日新聞』(1982年 6月 26日);「教科書統制,一段と強化 現状肯定色,濃厚. 20. に」「〝戦時〟におう復古調 来春用の教科書検定 中国『侵略』は『進出』に」「(解説)検定,一層密室の中に. 広域採択や教委介入強化」『毎日新聞』(1982年 6月 26日);「高校教科書 厳しい検定 自衛隊や憲法,公害」「自. 衛隊成立の根拠を明記 明治憲法の長所も記述 中国『侵略』でなく『進出』」『読売新聞』(1982年 6月 26日);. 「新しい高校教科書ここが変わった 中国侵略→進出」『サンケイ新聞』(1982年 6月 27日)など。. 3) この「人民日報」の短評については,岡田英弘「〝教科書検定〟は中国の内政問題だ(〈特集〉教科書問題の. 核心)」『中央公論』97年 10号(1982年 10月特大号)83-84頁を参照。これを日本で報じた新聞記事としては,. 「『侵略の歴史をわい曲』 人民日報 今度は論評で批判」『毎日新聞』(1982年 7月 21日);「日本の教科書検定に. 反発 人民日報 『侵略』なぜぼかす」『読売新聞』(1982年 7月 21日)など。. 4) この「東亜日報」の特集に関しては,小堀桂一郎「教科書問題・私の提言」『諸君!』14 巻 10 号(1982 年 10. 月号)50 頁を参照。また,「『侵略』ぼかしの教科書検定 中国に続き韓国も批判」『朝日新聞』(1982 年 7 月 21. 日);「『日本の教科書,歴史偽造』 韓国マスコミも検定批判」『毎日新聞』(1982年 7月 21日);「韓国マスコミ. 軍国主義の合理化 歴史の美化と偽造だ」『読売新聞』(1982年 7月 21日)も参照。. 5)「『内政問題になる場合も』 松野国土庁長官」「文相,中・韓に反発 『教科書検定は内政問題』」『朝日新聞』. (1982年 7月 24日);「『教科書検定は正当』 文相,各国の批判に反論」『毎日新聞』(1982年 7月 24日)。. 6)「内政干渉発言,火に油 教科書検定 中・韓,一段と硬化」『朝日新聞』(1982年 7 月 25日);「小川文相の『内. 政』発言 人民日報が釈明要求」「内政干渉とは〝妄言〟 韓国マスコミも猛反発」『毎日新聞』(1982 年 7 月 25. 日);「日本歴史教科書のわい曲 中・韓が非難強める」『読売新聞』(1982 年 7 月 25 日);「韓国各紙は連日重大. 視 内政干渉発言」『朝日新聞』(1982 年 7 月 26 日)。岡田,前掲論文,96 頁;李宣定「1982 年の教科書問題に. 関する政治的考察―宮澤談話と近隣諸国条項を中心に―」『日韓相互認識』4号(2011年)31-32頁も参照。. 7)「教科書記述変更 外交問題に発展 中国,公式に抗議」「教科書問題 中国の申し入れ内容」『朝日新聞』(1982. 年 7 月 27 日);「『教科書検定』外交問題に 中国が是正を要求」『毎日新聞』(1982 年 7 月 27 日);「中国,教科. 書検定で抗議 『侵略改ざん,是正を』」『読売新聞』(1982年 7月 27日)。. 8)「中国の意見謙虚に聞く 文部省がコメント」『朝日新聞』(1982年 7 月 27日);「教科書検定 中国・韓国の批判. 慎重対処 閣議で確認」『朝日新聞』[夕刊](1982年 7月 27日);「教科書検定問題 政府,沈静化に全力」『朝日. 新聞』(1982 年 7 月 28 日);「外務・文部省で調整し 中国大使館に説明 教科書問題 官房長官が表明」『朝日新. 聞』[夕刊](1982 年 7 月 28 日)。小川はその後,このような政府の方針について,衆議院及び参議院の文教委. 員会で繰り返し説明している。『第 96 回国会 参議院文教委員会会議録』第 12 号(1982 年 7 月 29 日)2-3 頁;. 『第 96回国会 衆議院文教委員会会議録』第 17号(1982年 7月 30日)4-5頁。. 9)「真意」そのものの説明は外務省が担当し,北京及びソウルに駐在の公使がそれぞれ中・韓両国の外交部にお. いて説明を行った。「政府 教科書検定で中国に説明 『日中声明の認識不変』」『毎日新聞』(1982 年 7 月 29. 日);「戦争責任の認識不変 教科書問題 政府,中国に公式回答」『読売新聞』(1982 年 7 月 29 日)。韓国への説. 明については,「教科書問題 外交問題,避けたい 韓国公使 文部省説明に理解」『朝日新聞』(1982 年 7 月 31. 日);「韓国政府は柔軟 日本の説明に『国内で解決を期待』」『毎日新聞』(1982年 7月 31日)を参照。. 10)「中国外務次官 修正を再び要求 鹿取大使招き,申し入れ」『朝日新聞』[夕刊](1982 年 8 月 5 日);「教科書. 修正 「希望」を「要求」に 中国,一段と強い姿勢」『朝日新聞』(1982 年 8 月 6 日);「中国外務次官の発言内. 容」『毎日新聞』(1982年 8月 6日)。日本の新聞などでは,呉学謙の役職名を「外務次官」としているが,本稿. では中国での原語「第一副部長」とする。なお,呉は 1982 年 11 月に外交部部長(外務大臣に相当)に就任し. ている。. 11)「教科書問題 韓国政府も公式抗議 改訂を要求し覚書」『朝日新聞』(1982年 8 月 4日);「修正,今は何とも…. 教科書韓国抗議 言葉にごす鈴木局長」『読売新聞』(1982年 8月 4日)。. 21. 12)「教科書問題 中・韓へ政府特使派遣へ 解決への糸口探る」『朝日新聞』(1982 年 8 月 6 日);「教科書問題. 中・韓両国へ高官派遣,真意打診,打開探る」『毎日新聞』(1982年 8月 6日);「教科書問題 中国,高官受け入. れ 情文局長ら明日派遣」『毎日新聞』(1982 年 8 月 7 日)。韓国政府からは「時期的に望ましくない」と回答が. あり,特使は派遣されなかった。「教科書問題 韓国は特使拒否」『朝日新聞』[夕刊](1982年 8月 6日);「高官. 派遣 韓国拒む」『毎日新聞』[夕刊](1982年 8月 6日)。. 13)「中国,重ねて改訂要求 教科書問題 派遣二局長と会談」『朝日新聞』(1982 年 8 月 11 日);「教科書 中国,厳. しい姿勢崩さず 表記修正を再要求」『毎日新聞』(1982 年 8 月 11 日);「中国側と再び会談 教科書問題 訪中の. 二局長」『朝日新聞』[夕刊](1982年 8月 12日);「教科書で日中が第二回会談」『毎日新聞』[夕刊](1982年 8. 月 12 日);「教科書で日中が第二回会談」『読売新聞』[夕刊](1982 年 8 月 12 日)。大崎・橋本両氏による会談. に関する報告については,「教科書問題をめぐる動き」『内外教育』3370号(1982年)11頁を参照。. 14)「『教科書』二段階で処理 政府方針 基本見解来週にも」「再改訂の中身が問題 教科書問題二段階処理 各国に. 目配り必要」『朝日新聞』(1982年 8月 14日)。. 15)「政府見解(宮沢官房長官談話)全文」『朝日新聞』(1982 年 8 月 27 日);「政府責任で是正 官房長官談話全. 文」『読売新聞』(1982年 8月 27日)。. 16)「政府責任で教科書是正 見解発表 決着は予断許さず」「二ヵ月以内に答申 文相会見 沖縄も将来検討」『朝日. 新聞』(1982 年 8 月 27 日);「『教科書是正』を明記 政府見解」「60 年度用で記述修正 58,59 年度用は広報で. 文相表明」『毎日新聞』(1982年 8月 27日);「教科書,60年度に修正 それまで現場指導」『読売新聞』(1982年. 8 月 27 日)。「政府の責任で教科書を是正:『政府見解』発表にこぎつけた教科書検定問題」『内外教育』3374 号. (1982年 8月 31日)も参照。. 17)「中国,厳しい姿勢 日本側とのミゾ深く」『毎日新聞』(1982 年 8月 27 日);「教科書問題 政府見解 中国,不. 同意を表明 具体的措置欠き不満」『朝日新聞』(1982年 8月 29日);「『格好だけの是正」と批判 北京放送』『朝. 日新聞』(1982年 8月 30日)。韓国の反応に関しては,「是正〝先送り〟に不満 韓国『具体的内容欠ける』」『毎. 日新聞』(1982 年 8 月 27 日);「教科書の日本回答 韓国大筋受け入れ 『早期修正なお要求』」『朝日新聞』[夕. 刊](1982年 8月 27日)。. 18)「来週中にも再説明 教科書問題 中韓説得へ政府方針」『朝日新聞』(1982 年 9 月 3 日);「中韓と大詰め折衝. 教科書問題 政府,週内決着目ざす」『朝日新聞』(1982 年 9 月 9 日)。「教科書問題をめぐる動き」「中国に対す. る再説明の内容」『内外教育』3379号(1982年 9月 17日)も参照。. 19)「教科書問題 中国側,理解進む 『日本の再説明 多とする』回答」『朝日新聞』[夕刊](1982 年 9 月 9 日);. 「『教科書』外交上は決着 中国が再説明評価 韓国も受け入れ確認」「『不満残るが前進』 呉次官 実際行動見守. る」「日本の努力『多とする』 韓国・崔局長」「宮沢長官,収拾を表明 首相訪中時 議題にならぬ見通し」「呉. 次官の発言要旨」『朝日新聞』(1982 年 9 月 10 日);「両国とも外交決着 日本の再説明評価」「呉次官の見解内. 容」『読売新聞』(1982年 9月 10日)。. 20)「中国公使不満の意 教科書問題文部省説明」『朝日新聞』(1982 年 7 月 30 日);「教科書問題 中国,日本の説. 明に不満」『毎日新聞』(1982 年 7 月 30 日);「教科書検定 中国,説明に強い不満 『政府決定』と理解」『読売. 新聞』(1982年 7月 30日)。. 21)『第 96回国会 衆議院文教委員会議録』第 17号(1982年 7月 30日)4-5頁。鈴木と小川は前日の 7月 29日の. 参議院文教委員会でも,同様の答弁を行っている。『第 96 回 参議院文教委員会会議録』第 12 号(1982 年 7 月. 29 日)3-19 頁。この時の両者の答弁は,「教科書検定問題の答弁 参院文教委」『朝日新聞』(1982 年 7 月 30. 日)に掲載されている。. 22)『第 96回国会 衆議院文教委員会議録』第 17号(1982年 7月 30日)5-6頁。「修正意見」と「改善意見」につ. 22. いては,教科用図書検定調査審議会による「教科用図書検定審査内規」及び「教科用図書検定審査内規の実施. に関する細目」(いずれも 1978 年 6 月 15 日)の諸条項に規定がある。これらは,毎日新聞社『教科書検定―. 教育を追う―』(毎日新聞社,1982 年)242-249 頁に収録されている。なお,現行の検定制度では,この 2 種. 類の区別はなくなり,「検定意見」のみである。. 23)「中国・韓国からの反撃 教科書を『侵略』する文部省の奇妙な言い分」『週刊朝日』310号(1982年 8月 13日. 号)17-18頁;「執筆者の悩みと妥協(‘84 教科書検定(下))」『読売新聞』(1984年 7月 3日)など。「侵略」に. 付された「改善意見」については,実教出版の『高校世界史』の執筆者の一人であった小島淑男(日本大学教. 授)の証言が「毎日新聞」に掲載されている。小島は「侵略」表記の削除についての「文部省の要求は(強制. 力を持たない)〝改善意見〟だったが,実際は(書き直しが絶対条件の)修正意見といえるものだった。受け. 入れざるを得なかった。私個人としては,いつでも筆を折ることはできた。しかし,今年初めて執筆陣に加わ. り,自分だけゴネて本が出ないという状況にはできなかった」と語っている。「『侵略』に戻したい 世界史教科. 書 筆者が初の『訂正』要求」『毎日新聞』[夕刊](1982年 8月 7日)。そのほか教科書執筆者による同時代の証. 言については,山田勉『歴史・政治教材と教科書検定』(国土社,1980 年);岸本重陳『私の受けた教科書検. 定―「官許」の思想を強制するもの―』(東研出版,1981 年);同「社会科『政治・経済』にみる検定実. 態―『官許の思想』の強制―」『教科書と教育』(法学セミナー増刊;総合特集シリーズ 17)(1981 年). 88-97頁;毎日新聞社,前掲書などを参照。. 24)『第 96回国会 参議院文教委員会会議録』第 12号(1982年 7月 29日)3頁。. 25)『第 96回国会 衆議院文教委員会議録』第 17号(1982年 7月 30日)14頁。. 26) 註 10)に前掲の新聞記事を参照。. 27)『第 96回国会 参議院文教委員会会議録』第 12号(1982年 7月 29日)15頁。また,「教科用図書検定規則」. 第 17 条 2 にあるように,各学校に供給済みの教科書についても,学校長に通知して「正誤訂正」を行うことは. 可能であった。当時の「教科用図書検定規則」(1977年 9月 22日)は,毎日新聞社,前掲書,234-239頁に収録. のものを参照。. 28)『第 96回国会 参議院文教委員会会議録』第 13号(1982年 8月 3日)3頁;『第 96回国会 参議院文教委員会. 会議録』第 14号(1982年 8月 5日)2頁など。. 29)「検定済み後にも修正 この二年で二例 文部省の都合で指示」『朝日新聞』(1982年 8月 5日)。. 30)『第 96回国会 衆議院文教委員会議録』第 19号(1982年 8月 6日)4-5頁。. 31)「『侵略』に戻したい 世界史教科書 著者が初の『訂正』要求」『毎日新聞』[夕刊](1987年 8月 7日);「教科. 書の正誤訂正 20日メドに申請」『朝日新聞』(1982年 9月 5日)。. 32)「教科書の正誤訂正 文部省は〝窓口拒否〟」『読売新聞』(1982年 9 月 18日);「にらむ文部省 すくむ出版社. 執筆者ら,批判の声」『朝日新聞』(1982 年 9 月 21 日);「歴史教科書是正 正誤訂正も要求 執筆者懇話会で決. 定」『朝日新聞』(1982年 10月 31日)。同書,375頁。. 33)「早く正誤訂正の手続き実行せよ 出版社に執筆者要請」『朝日新聞』(1982 年 9 月 28 日);「執筆者懇談会 教. 科書会社にハッパ 正誤訂正を急げ」『読売新聞』(1982年 9月 28日)。. 34)「文部省 正誤訂正また拒否 執筆者ら事実上断念へ」『朝日新聞』[夕刊](1982年 11月 26日)。. 35)「『歴史教科書』についての文部大臣談話(昭和 57 年 11 月 24 日)」『文部時報』1267 号(1982 年 12 月)89-90. 頁。. 36) 初等中等教育局教科書検定課「『歴史教科書』についての文部大臣談話について」『文部時報』1267 号(1982. 年 12月)87-88頁。. 23. 5.1980年代初頭の教科書問題の「着地点」. それでは,前章で見たような 1982 年 7 月に発生した「歴史教科書問題」の衝撃は,1980 年代初. 頭の社会科教科書問題をめぐる議論の展開にどのような影響を与えたのであろうか。そして,その. 結果,自民党を中心に進められた教科書制度改革への取り組みは,結局のところどのような「着地. 点」を見い出すことになったのであろうか。以下では,先に触れた自民党の教科書問題小委員会. (以下,教科書小委)の改革方針案から 1981年 11月に発足する第 13期中教審へと続く議論の動向. を追ったうえで,教科書制度改革のその後の実際について確認しておきたい。. (1)自民党の教科書小委から第13期中教審へ. (A) 自民党の教科書小委による改革方針案. 自民党の教科書小委が,教科書制度改革に関する本格的な検討に入ったのは,1981 年 3 月初旬. のことであった。同年 3 月 5 日の教科書小委の会合では,6 月初旬までに改革方針案の骨子をまと. め,その年 12 月に開催される次期の通常国会に「教科書法案」を提出する,といったスケジュー. ルが確認された。. 上記の 3 月 5 日の教科書小委の会合では,教科書制度改革の議論は日教組に「格好の闘争目標」. を与えかねないこと,また,教科書をめぐる政争は国民に「教科書不信」を生みだしかねないこと. などを理由に,一部からは慎重な意見も聞かれた。しかし,今の教科書には学習指導要領や検定基. 準から外れた記述が目立ち,内容的に「偏向」しているとの認識で一致がみられた。また,委員長. の三塚は,教科書の国定化は憲法にも,教育基本法にも抵触しないといった立場を以前より表明し. ており,国定化も視野に入れた検討を進めることになった 1) 。ところが,戦前への回帰を意味する. 「国定化」については早くから警戒の声があがっており,3 月 24 日の参議院文教委員会では,この. 問題について社会党の勝又武一が文相の田中龍夫を厳しく追及した。そこで田中は「国定というこ. とは考えておりません」と答弁し,この発言が新聞などでも大きく取りあげられた 2) 。こうしたな. か 4月 11日の会合で教科書小委は,「国定化」を検討課題から外すことを決定し,これ以降,現行. の検定制度の維持を前提とした改革方針の策定に集中していくことになる 3) 。. その 2 ヵ月後の 1981 年 6 月 5 日,教科書小委は改革方針案を自民党の文教部会と文教制度調査. 会の合同会議で報告し,了承を得ることになった。そこで示された方針案とは,以下の 5項目を骨. 子としていた 4) 。. (ア) 文部省は厳正な検定を行うよう最善の努力をする。. (イ) 検定体制の充実のために調査官の増員と処遇の改善を図る。. (ウ)教科書採択については,現行の郡市単位からさらに広域化し,都道府県単位とすることを. 検討する。. (エ)適切な教科書編集が行われるよう作成の基準となる学習指導要領を見直す。. (オ)教科書の検定,採択,発行,供給に関する規定を総合する立法を検討する。. 上記の 5項目のなかで,最終目標とされたのは,前述のように(オ)の包括的な「教科書法」の制. 定であった。この法には(ア)~(エ)に関する内容が含み込まれるはずであった。ところが,当. 初の予定通り,同年 12月 21日に開会した国会に,このような法案が提出されることはなかった。. 第 3 章で見たように,社会科教科書問題は 1981 年 2 月に国会に持ちこまれ,5 月までの与野党. の激しいやり取りは新聞報道でも頻繁に取りあげられた。こうしたなかで,6 月に出された上記の. 24. 教科書小委の方針案は,教科書問題をめぐる議論をさらに過熱させることにもなった。そのため,. 「教科書法案」の提出については,自民党内からも消極的な意見が聞かれるようになる。. (B) 第13期中教審による教科書問題の引き取り. そこで文部省サイドから提案されたのが,教科書制度改革に関する議論を文部大臣の諮問機関で. ある中教審に一旦,引き取らせることであった。文部省の最高の審議機関による冷静な審議とその. 答申により,自民党のめざす改革方針がいわばオーソライズされることが期待されたのであった。. 折しも 1981年 6月 30日に 12期中教審が任期満了を迎えることになっており,早期に第 13期中教. 審を立ち上げ,これに教科書問題に関する諮問を行うことが文部省の方針として示されたのが同年. 9月のことであった。. ただし,中教審へは,教育に関係する包括的な検討課題が諮問され,答申を出すまでの審議期間. は委員の任期である 2年になることが通例であった。したがって,教科書問題を中教審に引き取ら. せることについては,改革に早急に着手したい党内の一部からは異論もあり,中教審の発足までに. は多少の時間を要することになった。1981年 10月 27日に開かれた自民党の教科書小委の席上で,. 文部政務次官の石橋一弥が委員長の三塚から最終的な了承を得て,11 月中の第 13 期中教審の発足. がようやく決まったのである 5) 。. 11 月 24 日に第 13 期中教審の第 1 回総会が開催され,そこで「時代の変化に対応する初中等教. 育の教育内容などの基本的な在り方について」が文部大臣の田中により諮問された。そこで検討す. べき問題としては,①「小学校,中学校及び高等学校における教育内容,方法及び教科書の在り方. について」,②「中等教育における教育の多様化・弾力化について」,③「就学前の幼児の教育の. 在り方その他関連する諸事項について」の 3つが掲げられた 6) 。すなわち,教科書の問題は「教育. 内容,方法」との関連で検討すべき課題の一つとされたのである。それは,教科書問題を前面に出. した場合,同年 6月に出された自民党の教科書小委の方針案を引き継ぐ印象が強くなり,日教組や. 野党による反発が予想されたからと考えられる。. 文部省の説明によれば,「教育内容」の見直しをとくに課題としたのは,戦後 30年以上,教科の. 構成を含む教育内容の基本的な枠組みがほとんど変わっておらず,時代の変化に対応する見直しが. 必要となっているからであった。第 13 期中教審はこうした枠組みの問題に関して広い見地から再. 検討を進めることが期待されたのである。他方で,教科書問題を検討課題に含めることに関して文. 部省は,この問題が国民的関心を集めていることから,教育内容のあり方を検討する際に「関連事. 項」として検討事項に盛り込んだと説明したのである。それでも,最近の教科書検定や採択の広域. 化の議論などを考慮して,「教科書の役割や検定,採択,給与等の基本的な在り方について」検討. するよう具体的な課題を中教審に示したのであった 7) 。. 中教審の会長には,第 11期と 12期の会長を務めた慶応大学元塾長の高村象平が再度,就任した。. 高村は会長を引き受けるに際して,政治の左右対立に影響されない「教科書作りの環境を整えるた. めのつっかえ棒になりたい」と述べ,政争の影響を排する意気込みを語った 8) 。しかし,自民党の. 文教族などからの圧力は強力であった。自民党内からは,とくに教科書問題を切り離して審議を進. め,この問題に関する答申を早期に出すことを求める声があがっていた。10 月 27 日に自民党の教. 科書小委が中教審の発足を了承した際には,翌年 6月までに教科書制度改革に関する答申を得る方. 針が文部省によって示されていた 9) 。. この方針に沿って,11月 24日の中教審の第 1回総会では,「教科書の在り方」と「教育内容」. を担当する 2つの小委員会が設置された。そして,12月 14日の第 2回総会で,大正大学の吉本二. 25. 郎が「教科書の在り方」小委員会(以下,「教科書」小委)の座長に選出された 10) 。教科書問題に. 関する答申の時期について会長の高村は,第 1回の総会後の記者会見で,自民党が期待している翌. 年 6月にこだわらず,原則として「小委の良識」に委ねる意向を示していた 11) 。小委は 2月以降,. 月に 2 回のペースで会合をもち,5 月 14 日の第 8 回の会合を終えたところで,検討事項とされた. 教科書の役割,検定,採択などの主要な問題についておおよその合意に達し,6 月 22 日の第 12 回. の会合で答申の草案を固めるにいたった。すなわち,自民党の要望に添ったスケジュールで審議が. 進められたのである。ところが,この間に教科書無償制度の問題が「教科書」小委の検討課題とし. て浮上し,同小委は 7 月に入ってこの問題に取り組むことになり,そのため最終報告書の提出は 9. 月を見込むことになった 12) 。. そして,このタイミングで降って湧いたのが,前章で見たような「歴史教科書問題」であった。. 7月以降,「教科書」小委の審議は中断し,10月 27日に再開された会合では,新たに検定基準の明. 確化と検定結果の公開に関する問題が審議日程に加えられることになった 13) 。「歴史教科書問題」. が多分に「誤解」に端を発するものであったとする理解が,文部省内にあったからである。結局の. ところ,「教科書」小委の最終報告書が中教審の総会で承認されたのは 1983 年 5 月 30 日であり,. この報告書に基づく答申が文部大臣の瀬戸山三郎に提出されたのが,同年 6 月 30 日となった。中. 教審の教科書問題に関する答申は,結果的に自民党の期待よりもおよそ 1年遅れることになったの. である。. (C) 第13期中教審の「教科書の在り方について(答申)」. それでは,1983 年 6 月 30 日に出された第 13 期中教審の「教科書」答申 14) は,どのような内容. のものとなったのであろうか。その答申は,(一) 教科書の著作・編集,(二)教科書の検定,. (三)教科書の採択,(四)教科書の研究・評価,(五)義務教育教科書の無償給与の 5 項目につい. て提言を行うものであった。このなかで,前節で見た 1981 年 6 月の自民党教科書小委の改革方針. 案と関連するのは(二)と(三)であり,ここではこの 2つの提言内容について確認しておきたい。. まず,(二)については,冒頭で教科書検定制度の目的が「著作・編集者の創意工夫を生かした. 多様な教科書の提供を図りながら,教育水準の維持向上,教育の機会均等の保障,適正な教育内容. の維持,教育の中立性の確保を実現する」ことにあると説明された。そして,この目的の趣旨に. 添って「一層適切な検定を実施する」ために,① 文部省の検定審の機能のさらなる充実,② 検定 、、、、. 基準の明確化・細目の整備,③ 慎重・綿密な検定が行われるための検定周期の延長,④ 教科書調. 査官の人材確保,⑤ 検定結果の必要に応じた主要論点の公表の 5 項目が提言された。このなかで. ②と⑤は,前述のように「歴史教科書問題」を受けての新しい検討課題に対する答えとして出され. たものといえる。また,①についても,この問題の係争中に検定審の役割に対する疑念や,検定審. 査における教科書調査官への依存が問題として指摘され,それに応じたものであった(検定審と教. 科書調査官の関係については,本稿末尾の図 1 を参照)。残る項目のなかで,自民党の教科書小委. の方針と明確に重なるのは④であり,前述のように同小委は指針の(イ)で「検定体制の充実」の. ため調査官の「増員」を提言していた。. つぎに,答申の(三)で示された内容は,① 教科書採択における都道府県教育委員会の指導的. 権限と責任の明確化,② 都道府県の教科書選定審議会及び市町村の採択地区協議会の調査研究機. 能の充実,③ 教科書採択周期の延長の 3 項目からなっていた。これらのなかで,詳細な理由説明. が付されていることから,①が最も重視されていたことは明らかであった。ここでは「都道府県内. の教育水準の維持・向上は都道府県の果たすべき重要な役割」であること,「都道府県の各地域の. 26. 文化的・社会的諸条件の均質化が進んでいる」ことなどを理由として,教科書採択における都道府. 県の「選定権」の強化がはっきりと打ち出されていた。具体的には,(1)都道府県教育委員会が. 選定した教科書のなかから市町村教育委員会は採択すること,そして,(2)採択地区は「都道府県. の教育委員会の教育事務所の所轄する地域又はこれらを合わせた地域とすることが適当」とされた. のである。後者の採択地区の「広域化」は,自民党の教科書小委も前述の指針(ウ)で重視してい. たもので,文部省が直接的に指導できる都道府県教育委員会の権限の強化と相まって,「偏向」教. 科書の排除に有効なものと期待されたといえる 15) 。. 第 13 期中教審の発足に際して会長の高村は,政治的影響力の排除を謳い,答申の時期に関して. も自民党の要望に応じない意向を示していた。結果的に答申の時期は自民党の期待より大きく遅れ. たが,それは中教審が政治的圧力に抵抗したからではなく,「歴史教科書問題」といった突発的要. 因によるものであった。そして,教科書採択地区の「広域化」について答申は,自民党の要望を大. きく取り入れたものとなっていた。. (2)教科書問題の「着地点」. (A) 教科書制度改革のゆくえ. それでは,第 13 期中教審の「教科書」答申は,その後の教科書制度改革にどのような影響を及. ぼしたのであろうか。ここでは,自民党の教科書小委の方針と一致した(二)④の教科書調査官の. 人材確保と,(三)の教科書採択の問題に絞って,その後の改革のゆくえについて検討を行ってお. きたい。. まず,教科書調査官の人材確保は,その待遇改善も含めて文部省による行政措置としてすぐにで. も実施可能であった。自民党の教科書小委が,1981 年 4 月 11 日に教科書調査官の増員について初. めて明確な方針を示したとき,文部省も教科書調査官の加重負担が問題になっているとして,これ. に応じる意向を示していた 16) 。同年 12 月の 1982 年度の予算案で,文部省は「政治」「経済」「倫. 理」の各分野の調査官 1名ずつの増員を,続いて 1983年度の予算案では「日本史」と「世界史」. を担当する各 1名の増員を要求した。実際の増員は 1982年度に 2名,1983年度に 1名にとどまっ. たが,1981年度に 11名であった社会科の教科書調査官は,1983年度までに 14名となり,「検定体. 制の充実」は確実に進められていったといえる 17) 。. つぎに,教科書採択の問題について,まず当時の実態について確認しておきたい。小学校及び中. 学校の教科書採択の手続きは,1963 年 12 月の「教科書無償措置法」によって規定されていた。そ. の規定によると,都道府県教育委員会は採択の事務的手続きにおいて「指導,助言または援助を行. う」ものとされていた。具体的には,教科書展示会の開催,採択地区の設定,選定資料の配付と. いった業務である。また,1964 年 9 月の同法の「施行令」では,都道府県教育委員会は選定審議. 会を任命し,この審議会が採択基準等の資料を作成することになっていた。市町村教育委員会はこ. うした資料に基づいて教科書の採択を進めたのである。そして,採択地区については「無償措置. 法」により「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域」とされ,都道府県教育委員会がその変. 更を行う際には,事前に市町村教育委員会の意見を聞くことが必要とされていた 18) 。(以上の教科. 書採択の手続きに関しては,本稿末尾の図 3を参照。). こうした採択地区は 1981年 3月に全国で 496あり,都道府県別で見ると,3(鳥取県)~ 24 (北. 海道)の幅で設定されていた。また,東京 23 区,神奈川,愛知,大阪,広島,福岡,長崎の大都. 市部では,採択において「学校投票方式」も採用されていた。当時,全国の市町村数は 3,255 あり,. 27. 学校投票方式をとる都府県を除いて見ると,1 採択地区は平均値で 3.7(京都府)~ 16.7 (岐阜県). の数の市町村で構成されていた 19) 。自民党の教科書小委が都道府県単位を主張したのに対して,. 中教審の答申は都道府県の教育事務所の管轄域を単位とすることを提言したが,その場合でも採択. 地区は 496から 299へ 4割減ることになり,都道府県あたり 6~ 7に整理されることになった。こ. うしたことから,答申による採択地区の「広域化」の提言は,個別の市町村や学校の現場の教師た. ちの意見を排除し,県を単位とする「県定」教科書をめざすものとして批判を浴びることになった. のである 20) 。. 他方で,採択地区の「広域化」により大手教科書会社による教科書市場の寡占がいっそう進むこ. とも問題とされた 21) 。この問題は,すでに国会でも,また新聞紙上でも繰り返し取りあげられて. いた。小学校用教科書を発行する教科書会社は 1963年に 23社であったのが 1981年までに 16社に,. 中学校用でも同様に 42 社が 22 社へと大きく減っていた。また,1980 年度に小学校では国語,地. 図帳,音楽,図工,家庭科の 5 種で 1 社が総部数の 50 %以上を発行しており,中学校では同様に. 7 種の教科書で 1 社が 50 %以上を占める事態になっていた 22) 。また,都道府県別の採択状況を見. ると,採択地区の統合が進んでいる県ほど,教科書市場の寡占化の傾向がはっきりしていた。目. 立った事例としては,1983 年度に小学校の全教科について 1 種類の教科書が使われていた鳥取県. では,39 の市町村がわずか 3 つの採択地区に編成されていた。同様に中学校の全教科で 1 種類の. 教科書が使われていた福井県では,35 の市町村が 5 つの採択地区に編成されていた。他方で,大. 都市部で学校投票が行われている都府県や採択地区数が比較的多く設定されている都道府県では,. 多様な教科書が採択される傾向が確認される。たとえば,神奈川県では 37の市町村が 22の採択地. 区に分けられていたが,小学校では 6種の教科書で,中学校では 9種の教科書で 3社以上の教科書. が使用されていた 23) 。こうした状況からも,提言された採択地区の「広域化」は,確実に「県. 定」教科書への道を開くものと批判されたのである。. 1963 年 12 月の「教科書無償措置法」以降,採択地区の再編は,文部省による行政指導により行. われてきたものであり,「広域化」を進めるにあたって新たな「教科書法」の制定も,「教科書無. 償措置法」の改正も必要ではなかった。ところが,文部省は 1982年以降,「広域化」を積極的に進. めることはなかった。2000 年までに全国の採択地区は 482 へとわずかな減少にとどまっている。. 確かに,第 13 期中教審の「教科書」答申は,自民党の文教族などの圧力によりその要求の一部を. 取り入れるものとなったが,そうした要求の中心にあった採択地区の「広域化」が進まなかったこ. とは,答申が出されるころには教科書問題を取り巻く政治的情勢がすでに変化しつつあったことを. 物語っている。. (B) 政局の転換と教科書問題の「着地点」. 答申が出て 2週間後の 1983年 7月 14日,会長が森喜朗から石橋一弥に交代していた自民党の文. 教部会では,党として「教科書法」の成立を目ざすことが再度,確認されている。そして,同月. 28 日には文部事務次官の佐野文一郎が,省内で「教科書法」の草案作成の準備に入ることを表明. している 24) 。しかし,その後,この法案が国会に提出されることはなく,それには以下のような. 政治的情勢の大きな変化が影響していたものと考えられる。. こうした変化は,実際には第 13期中教審の答申が出される前に始まっていた。転機は,「歴史教. 科書問題」が一段落し,中教審の審議が再開されて間もなくの中曽根政権の誕生(1982 年 11 月). にあった。この第 1 次中曽根内閣の最大の課題は,第 2 次臨時行政調査会(土光臨調)の答申に. 沿った行財政改革にあり,外交面においてはアメリカとの協力関係の強化にあった。他方で中曽根. 28. は,当初より教育改革にも高い関心を示しており,たとえば 1983 年 3 月 29 日の民放テレビ番組. 「総理と語る」の収録時には,行政改革の次なる課題として教育制度の抜本的改革に取り組む意向. を明らかにしていた 25) 。さらに,同年 5 月 16 日の全私学連合会など主催の「総理と教育を語る集. い」で中曽根は,偏差値や知識の詰めこみに偏した教育を批判したうえで,「教育制度をもう少し. 俯瞰して」考える必要があると述べ,中教審とは別次元の諮問機関を立ち上げ,教育制度全般の見. 直しに取り組む考えのあることを示したのである 26) 。. そして,同年 12月 27日に発足した第 2次中曽根内閣で,教育改革への取り組みが本格化する。. 12 月 18 日に投票の行われた総選挙は,田中角栄元首相のロッキード事件における一審有罪判決に. 端を発する衆議院解散によるものであった。そのため選挙戦の争点は圧倒的に「政治倫理問題」に. あった。こうしたなかで自民党は,第 1次中曽根内閣における行財政改革の着実な成果をアピール. するとともに,「現行の 6・3・3・4 制について抜本的改革に着手する」といった教育改革を選挙. 公約に取り入れて選挙戦に臨んだのである 27) 。また,選挙期間中,中曽根は遊説先で教育改革の. 抱負をたびたび語り,12 月 10 日に鹿児島では,教育改革の「7 つの構想」を発表している。その. 内容は 6・3・3・4 制の見直し,高校入試制度の多様化と弾力化,大学入試制度の改善,国際化に. 対応した日本人の育成などを含む,きわめて包括的な改革構想であった 28) 。. 選挙の結果,自民党は議席を大きく減らし,第 2次中曽根内閣は新自由クラブとの連立政権とし. て発足することになった 29) 。それでも,「戦後教育の総決算」を進めるべく,1984年 8月には総理. 、、. 大臣の諮問機関として臨時教育審議会の設置が決定されたのである。そして,1987 年 8 月まで続. いた臨時教育審議会の審議のなかで,教科書問題は多岐にわたる教育改革の課題のなかに埋没して. いくことになる。. 1)「教科書検定制度見直し 来月末までに試案 自民小委」『朝日新聞』[夕刊](1981 年 3 月 5 日);「『教科書偏. 向』で一致 自民小委」『読売新聞』[夕刊](1981年 3月 5日)。三塚の「国定化」に関する基本的姿勢について. は,「教科書の検定強化 自民小委固める」『読売新聞』(1981年 4月 12日)も参照。. 2)『第 94 回国会 参議院文教委員会会議録』第 3 号(1981 年 3 月 24 日)12 頁。新聞報道としては,「教科書国定. 化考えていない 田中文相答弁」『毎日新聞』(1981 年 3 月 25 日);「教科書国定考えぬ 文相答弁」『読売新聞』. (1981年 3月 25日)など。. 3)「教科書の検定強化…」(註 1)に前掲)「(解説)戦後教育の節目 公正な議論必要 教科書検定強化」『読売新. 聞』(1981年 4月 12日)。. 4)「教科書法の制定確認 都道府県採択制なども 自民合同会議」「自民教科書小委報告 要旨」『朝日新聞』(1981. 年 6 月 6 日);「都道府県単位の採択など 教科書見直し了承 自民合同会議」『毎日新聞』(1981 年 6 月 6 日);. 「教科書,広域採択に力点 自民が改革案」『読売新聞』(1981 年 6 月 6 日)。なお,文教部会の会長は第2章の. (2)ですでに言及したように森喜朗であり,文教制度調査会の当時の会長は海部俊樹であった。. 5)「教科書の検定・採択制度 中教審で見直し 文部省方針」『朝日新聞』[夕刊](1981 年 9 月 12 日);「教科書見. 直し 今月中に諮問へ」『読売新聞』(1981年 11月 2日)。. 6) 大臣官房企画室「第 13 期中央教育審議会発足」『文部時報』1255 号(1981 年)63-64 頁。諮問内容については,. 11月 7日までに固められ,事前に公表された。「教科書問題ぼかす 文部省 検定,採択触れず」『読売新聞』[夕. 刊](1981 年 11 月 8 日);「(解説)制度・中身に大枠か 中央教育審議会」『朝日新聞』[夕刊](1981 年 11 月 17. 日);「教科書制を抜本改革 初中教育見直し『中教審』発足」『読売新聞』[夕刊](1981年 11月 17日)。. 7) 大臣官房企画室「第 13期中央教育審議会発足」66-67頁。. 29. 8)「中教審会長に高村氏」『読売新聞』[夕刊](1981年 11月 8日);「教科書作り,良い環境で 新中教審へ抱負と. 注文 生徒が興味を持つように」『読売新聞』(1981年 11月 17日)。. 9)「教科書見直し 今月中に諮問へ」『読売新聞』(1981 年 11 月 2 日);「『教科書』26 年ぶり見直し 第 13 期中教. 審発足,24 日諮問」『毎日新聞』[夕刊](1981 年 11 月 17 日);「『教科書』中教審に諮問 来年前半にも答申 教. 育内容も見直し」『朝日新聞』[夕刊](1981 年 11 月 17 日)。また,中教審の委員の人選に関しても,自民党や. 財界の意向を重視するものと批判を受けた。「(社説)中教審を隠れミノにするな」『毎日新聞』(1981 年 11 月. 18日);「自民意向に沿う人選 中小路・日教組書記長談」『読売新聞』[夕刊](1981年 11月 17日)など。. 10)「教科書見直し諮問 高村会長 早期答申の意向」『毎日新聞』(1981 年 11 月 25 日);「教科書見直しを諮問 中. 教審初会合で文相 早期答申求める」『読売新聞』[夕刊](1981年 11月 25日);「教科書小委座長に吉本・大正. 大教授 中教審」『朝日新聞』(1981 年 12 月 15 日)。なお,吉本の専門は学校経営学であり,教科書問題に精通. していたわけではなかった。また,「教育内容」小委員会の座長に選出された上越教育大学の辰野千寿は教育心. 理学の専門家であった。. 11)「教科書改革を諮問 中教審初会合 小委設け審議へ」『朝日新聞』(1981 年 11 月 25 日);「〝ミスター中教審〟. 硬骨さチラリ 『6月答申考えぬ』 文部省の〝思惑〟にもクギ」『読売新聞』(1981年 11月 25日)。. 12)「無償制には触れず 教科書答申で中教審方針 7 月は中間報告の形に」『朝日新聞』(1982 年 5 月 15 日);「論. 拠欠く『事務所』単位 教科書採択の中教審小委案 広域化要求と妥協」「教科書 府県教委の介入強化 数種類,. まず選定 中教審小委一致」『朝日新聞』(1982年 6月 22日);「教科書採択を広域化 『教育事務所単位』で中教. 審小委一致」『毎日新聞』(1982 年 6 月 22 日);「『教科書』統制を強化 中教審小委草案決める」「中教審草案の. 要旨」『読売新聞』(1982 年 6 月 22 日)。山崎,前掲書,168 頁も参照。同小委の活動については,吉本二郎「中. 教審答申『教科書の在り方』をまとめて」『文部時報』1274 号(1983 年)63-64 頁で触れられている。ここで教. 科書無償制度が検討課題となったのは,第 2 次臨時行政調査会(いわゆる「土光臨調」)が 3 月 15 日の最終答. 申でその廃止を提言したからであった。. 13)「魅力ある教科書づくり 中教審 答申延期し検討」『朝日新聞』(1982年 10月 29日)。. 14) この「教科書の在り方について(答申)」は,『文部時報』1274 号(1983 年)67-72 頁に収録のものを参照。. また,同内容の「教科書の在り方に関する小委員会報告」は�

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(イ)会議のスリム化 ○ 組織が複雑化し、例えば委員会や部会などが多くなれば、それだけ会議が増えて時間を取られること になる。組織を整理し、会議をできる限り少なくする必要がある。

中で、教師のための単元研究の手引きを執筆している。それは民衆学術協会 (3 9) が編 集した『新制中学・学年別社会科単元の研究