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高校『世界史』教科書のソ連

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(1)高校『世界史』教科書のソ連 木. Soviet. Union. in High. 村. 英. School. 亮苧. Textbook. Hidesuke. 〃World. History〃. KIMURA*. I. 1.はじめに一日ソ関係と『世界史』故科書 正確なソ連の姿をつかみ,日ソ関係を改善していくために,われわれ日本人が出発点と しなければならないのほ,第1に,第二次世界大戦の正しい把撞である.1これは日ソ関係 ばかりでなく,アメリカとの真の友好関係をつくり,アジア諸国との正しい関係をつくり. あげていくためにも必要である。また,天皇制の問題など,今日の日本の問題を考えるた めにも欠かせない。第2に必要なのほ,戦後今日にいたる日本とアメリカの関係の検討で ある。この100年の日本人のソ連観ほ,オランダ,イギリス,ついでドイツの対ソ観に よって形成されてきたといわれるが,戦後ほ戦勝国アメリカの占鏡下につくられた0. 日本. 人にとって外国人による占領ほはじめての経験であり,冷戦の一方の側アメリカの占額政. 策の影響は決定的であった。 教科書の記述の検討にあたって,私ほ上の2点を前提とすべきであると考える。 次に,一般に日本の教科書の記述を制約している条件についてふれておく必要があるo 400ページ弱1 まず,古代から現代までを1年間で教えるというカリキュラムのため, 1950年代以降,文部省の定めた 冊に世界史を収めねばならないという制約がある。また,. 『高等学校学習指導要嶺』に基づいて検定がおこなわれているo 示第134号』第2章の「検定の基本条件」には,. 1979年7月の『文部省告. 「取り扱いの公正」という項があり,. 「政. 治や宗教について,その取り扱いかたが公正であること。特定の政党や宗派またほその主 義や信条に偏ったり,それらを非難したりしていないこと」とされているが,これが文部 省検定官によって一方的に適用されがちである。このような条件の下でほ,. 「歴史」を書く. ことは容易でなく,無味乾燥な事実の羅列に終わらせないことほ困難な仕事である。 いま十条種の『世界史』教科書が使用されているが,ここでは1986年30万冊以上発. 行され症例的なシェアを占める,山川出版社の『詳説世界史』を素材としたい。 この教科書では,ロシア革命は,事実経過についてほ簡明に要約されているが,社会主 義やプロレタリアート独裁についての説明はなく, 「ポルシェヴィキの一党独裁政治の樹 *歴史学教室(Dept.. of. History).

(2) 2. 木. 村. 英・亮. 立」とされている。また農民や諸民族の動きの記述がなく,この面における革命の世界史 的意義にも言及がない。 2.策=次世界大戦の記述について 第16章2つの世界大戦の第5節第二次世界大戦ほ,. 6.5ページで,. 3つの項から構. 成されている。各項の分量と内容は次のとおりである。 大戦の勃発(43行)ドイツのオースト1)ア併合-ポーランド進撃-フランスの敗北一独. ソ戦争の開始 写真・ミ{/-ン会談,地図・ナチス-ドイツの侵略,ヨーロッパ戦線 太平洋戦争(30行)日本軍の北部ベトナム進駐一真珠湾奇襲-ミッドウェー海戦 連合軍の勝利(35行)アメリカ軍のソロモン諸島占領-スターリングラード戦-イタリ ア降伏-ドイツ降伏-ヤルタ協定一原爆投下-ポツダム宣言受諾. 写真・スターリング. ラード戦,ヤルタ会談,広島爆心地の惨状 まず,この教科書の大戦観を示すため,太平洋戦争の項から一部引用し,分析してみた い。この項の書き出しほ,次の通りである。. 「日本ほ日中戦争を短期間で解決できると考えていたが,中華民国が抗戦をやめず,日 本軍ほとくに中国共産軍(八路軍)の巧妙なゲリラ掛こ悩まされた。戦場ほ中国の広い地 域にひろがり,莫大な軍事費と兵員ほ日本の経済を強く圧迫した。日本ほこの危機を打開 するため,南方への進出をはかり,. --」ここにはすでに,この教科書執筆者のみならず,. 日本人の1つの典型的な大戦観がよくあらわれている。. 第1に,大きな観点がなく,また出発点にさかのぼって考えることもなく,前に起こっ たことが次々に次の行動の理由とされている。これでほ当時の軍部の考えかたと違わず, 読者すなわち高校生ほ,太平洋戦争はやむをえなかったと考えかねないのではなかろう か。またその理由も理由になっていない。たとえば南方への進出は,危機の打開ではなく. 危機の深化となったのである。 第2に,ここにほ日本人の身勝手な考えかたがよくあらわれている。中華民国が抗戟を やめ八路軍がゲリラ戦をやめることが,. 「解決」のように読め,太平洋戦争の責任は,抗戦. を続けた中国側にあるようである。. 第3に,. 「短期間で解決できると考えた」の主語が,. 「日本」となっているが,これほ,. 「日本政府」あるいは天皇とか当時の総理大臣などの固有名詞にすべきではなかろうか。 日本人のなかにも根本的に方針を変えなければ終わらせることはできないと考えた人も多. くいたのであり,このような書き方ほ事実に反するばかりでなく,戦争責任をあいまいに することに通じるように思われる。. 第4に,これほまた,国家を単位としてのみ大戦を考察する観点に通じるo大戦でほ米 英仏ソなどの大国政府の外交や軍事的努力ばかりでなく,諸国人民の反ファッショ闘争, 独立を達成していない諸民族の解放運動などが大きな役割を果たした.これらの闘争・運 動のあつかいが小さく正当に評価されていないという印象を受ける。 第5に,別の箇所,. 1941年の日米対立は太平洋戦争の1つの性格軒早かかわることであ. り,もっとつっこんだ説明がはしい。すなわち,. 「--日本はアメリカとのあいだに事態解.

(3) 高校『世界史』教科書のソ連 決のための交渉をおこなっていたがゆきづまり,. 3. --太平洋戦争に突入した」だけでは,. 日本もアメリカもなぜゆずれなかったのか分からない。交渉の内容を示すべきであろう。. 第6に,日本軍の東南アジア占領の部分,とらえかたがあいまいで基本的な考え方がは っきりしない。. 「占領地でほ,当初日本軍は植民地支配からの解放軍としてむかえられた。. しかし,もともと軍事占領は治安維持と資源獲得をねらいとしており,また現地の歴史や 文化を無視した軍政当局が,日本語の教育や,神社参拝・強制労働・集会の禁止などの施 策をとり,またシンガポールでは初期に多くの残虐行為がおこなわれたので,住民の激し い反感をまねき,日本軍ほ各地で住民の抵抗運動に悩まされるようになった」と善かれて いるが,. 1行目ほ事実であろうか。この文章でほ,問題ほ占領政策にあって,占領や征服 自体は肯定されているように思われるo 以上,太平洋戦争を例として,教科書の大戦観の問題点をあげてきたo 次に,ソ連がかかわる部分の記述を検討したい。問題となる事項ほ,独ソ不可侵条約, ポーランド・沿パルト・べッサラビアの獲得,日ソ中立条約,対日宣戦などであろうo 「--しかし条 大戦の勃発の項の最初の段落の終わりの部分は次のようになっている. 件が折り合わず,. (英仏とソ連との)交渉が長びくあいだに,スターリンほヒトラーとの. 提携を決意し, 8月23日独ソ不可侵条約を結んだoこれに力をえたドイツは9月1日, ついにポーランドに進撃し, 9月3日,イギl)ス・フランスはドイツに宣戦して,第二次 世界大戦がはじまった。」つづいて,ドイツ軍の動きではなくソ連軍のポーランド進撃, フィンランド宣戦となっているので,大戦勃発に果たしたスターリソのヒトラーとの提携 の決意の役割が強く印象づけられる.つまり独ソ不可侵条約を否定的に評価しているよう であるが,この条約の是非については,学界でもさまぎまな意見があり,もう少し幅広く 記述するか,別の書き方がなされるべきでほなかろうか。. そのあと,ポーランドを「分割」,沿バルトを「併合」,ルーマニアからべッサラビアを 「うばった」と善かれている。この部分は記述が難しいところである。 「ドイツ軍はたちま 独ソ掛こついては, 「41年6月ドイツはとつぜんソ連邦に宣戦し」, ちキスクワにせまったが,ソ連邦は根強く抵抗してこれをくいt,・めたoそしてこれを機に イギリスとソ連邦は同盟をむすんだ。また独ソ戦争の開始にともない,ソ連邦は米英両国 と協調を深める必要が生じたので, 43年にほコミンテルンを解散した」と簡単に述べてい る。. 連合国の勝利の項でほ,戦争の経過がたんたんと善かれており,ソ連邦にかんしてほ, 45年「4月ソ連 「ソ連邦もスター1)ンダラードでドイツ軍を撃破して以来反撃をつづけ」, 邦軍はウィーンに突入し」という記述と,チ-ラン会談,ヤルタ協定への言及のみである。 第二戦線の形成のおくれたことについてふれていない。 結びの部分ほ次のようになっているo. 「・-8月6日,アメ1)カほ広島に原子爆弾を投. 下し, 8日,ソ連邦はヤルタ協定にもとづいて日ソ中立条約を無視して日本中こ宣戦し,中. 国東北地方をほじめ朝鮮・樺太に進撃した。 し,. 9臥. アメ1)カ軍は長崎にも原子爆弾を投下. 14日,日本側は御前会議でポツダム宣言受諾による降伏を決定し,. 15日国民にこれ.

(4) 4. 木. 村. 英. 亮. を明らかにした.ごこに●6年にわたる第二次世界大戦ほ終わったo」これだけでほ,日本 ●. ●. ●. ●. ●. ●. は,アメリカの不当な原爆投下とソ連の不法な参戦によってやぶれたという印象を受けて. しまう。高校生が第二次世界大戦からなにかを学ぶとすれば,これだけでほ不十分であり, 誤った教訓をえてしまうのでほなかろうか。 3.戦後期の巳述について. つづく第17章戦後の世界ほ,第4節20世紀の文化を除き全部で31.5ページ3節 からなる。項目のみ紹介すると,. 第1節. 冷たい戦争(7ページ)紘,国際連合,二つの世界の対立,アメリカ,西ヨ-. ロッパとドイツの分裂,ソ連邦と東ヨーロッパ諸国の5項目から, 第2節 アジア諸民族の独立(7.5ページ)ほ,西アジア諸国,インド・東南アジア,中 華人民共和国の成立,朝鮮戦争,日本の独立回復の5項目から, 第3節. 国際情勢の変化と日本(17ページ)紘,冷戦の緩和と多極化への移行,第三勢. 力,核兵器管理問題,西ヨーロッパ諸国,ソ連邦と東ヨーロッパ諸国,アメリカ合衆国と カナダ,ラテン=アメリカ諸国,西アジア諸国,アフリカ諸国の独立,インド・東南アジ ア,中国,朝鮮,日本の13項目からなる。. 1950年代から今日までの30年前後の期間が,第 羊の構成からただちに気付くことは, 3節として一括され,地域別にまとめられているため,時期があとさきになって世界史と しての把撞がしにくいことである。最近私たちが刊行した『戦後世界史』 店)でほ,戦後を1945-60 (冷戦曙代), 60-73 (「緊束緩和」), 73-88 3つに区分したが,このくらいに分けないと無理なのではなかろうか。. (上下,大月書 (変動の時代)の. このなかで,日本とアメリカとの関係がどのように記述されているかをみよう。 日本が最初にでてくるのほ,かなりあと. 日本の独立回復の項で,ここではアメリカの 占領下における改革,サンフランシスコ条約調印について述べた後, 「またこの条約と同 時に日米安全保障条約がむすばれ,アメリカほ日本の防衛の義務を負い,そのため日本ほ 「太平洋安全保障条約(ANアメリカ軍の駐留と軍事基地の存続を認めた」とし,これが, ZUS)と同様,日本がアメリカを中心とする自由主義陣営に属することを明らかにしたも のである」と記すo. 第3節の最後の項では,. 「サンフランシスコ平和条約ののち,日本の国際的地位は大い. に向上し,自由主義陣営の一員として有力な地位を占めているo経済的にも1960年代の. 経済成長ほ著しくi国民総生産む土おいては米ソ両国につく世界第3位に達した。この国力 増強とアジアの緊張纏和を背景として,終戦以来の課題セあLlた沖縄復帰も72年5月に 実現し,中国との平和友好条約もむすばれた.しかし一方,高度成長にともなう自然環境 の破壊や公害も著しくなった。また世界的なエネルギー問題も深刻になり, 経済の安定成長政策にかわった。」 おどろくことほ,. 70年代以降,. 1960年の日米安全保障条約の改定問題について,本文でふれていない. ことである.注記でもこの改定の意味にづいてほわからないo'安保体制というおおわくの なかでのアメリカの対日政策わ変化という,戦後世界史の1つの桂が見えにくいのである。.

(5) 5. 高校『世界史』教科書のソ連. そのため,次のような日本と中国・韓国との関係の記述から・たとえば韓国の内政への日 本のかかわりという問題意識をもたせることは難しいであろうo r72年にはいり,アメリカも中国に接近し,日本も政策を転換して国交正常化に踏み切 79年アメ1)カと り,台湾との外交を斬った.さらに78年に日中平和友好条約が成立し・ 中国との国交も正常化したo」 「朴正酌ま大統領として1965年日本との国交をむすび(日 74年にいたり・ 韓基本条約),諸外国からの援助を受けて経済復興の努力をつづけたが,. 政府は改憲運動禁止を布告し,国内の反政府運動をきびしくとりしまったoこのため79年, 80年8月大統領は全斗喚となり,新憲法を発布し 朴は部下の手で暗殺された.その後, て外国との関係改善と近代化につとめている○この間・光州におこった反政府暴動の際・ 野党の実力者金大中がこれをこ関係したとして一時,逮韓・投欲されたo一方・北の朝鮮民 主主義人民共和国では,金日成首相のもとに社会主義建設がすすめられているが・日本と の国交はむすばれていない。」このような記述から,日ソ関係を日米韓の構造のなかで理 解すること時難しい。 次に,ソ連が直接費場する箇所をみようo 「国際連合の結成にみられた国際協力の気運ほ戦後まもなく冷却し・ 第1節第2項にほ, ァメ7)カとソ連邦の対立がはじまったoソ連邦ほ占領した東ヨーロッパ諸国の内政に干渉 してこれを共産化し,衛星国にしたので,アメリカほギリシア・トルコへの共産主義の進 出を防ぐため, 1947年3月トルーマン宣言を果していわゆるee封じこめ政策''をとり, 両国への援助を開始し,また6月国務長官11-シャルほヨーロッパ経済復興援助計画を提 示した」と善かれている.ここでほ,ソ連が東ヨーロッパ諸国を「衛星国」としたことが 冷戦の理由とされている.しかし,その前に大戦中のポーランド戦後政権問題,ギ1)シア におけるイギリス軍とレジスタンスとの武力衝突にも言及があるべきであろう。このあと コミンフォルム結成にふれ, 「1948年2月,チェコスロヴァキアにク-デタがおこって共. 3月,イ. 産党が独裁権をにぎると,西ヨーロッパ諸国ほますます共産主義の脅威を感C, ギ1)ス--の5カ国間に西ヨ-ロッパ連合条約(ブリエッセル条約)が成立した」と続. く。つねに脅威となったのほソ連側という書き方であるが・むしろアメリカの圧倒的優位 「東ドイツ のなかで,ソ連側も脅威を感じていたことを書かなければ片手おちであろう。 では事実上社会統一党の独裁がおこなわれ・ソ連邦の衛星国の一つになった」といった記 述も冷戦時代のもので,時代錯誤的であるo次のソ連邦と東ヨーロッパ諸国の項の記述も 全体としておおざっばで,公正とはいえないのではなかろうか○ 第3節国際情勢の変化と日本のソ連邦と東ヨーロッパ諸国の項ほ・スタ-I)ソの死以 後今日までを2ページむ土まとめてし1る. この部分の記述の特徴は,第1に,ソ連とアメリカ・中国,ソ連と東ヨ-Pty′{との関. 係といった国際閑廃が中心で,ソ連の国内情勢への言及が少ないことであるo 第2に,否定面の記述が多く,肯定的側面はほとんどとりあげられていないことであるo 70年代以降の記述は少なく・しりすぼ 第3に,時期的には,チェコ事件までがおもで・ みとなっていることである。.

(6) 6. 木. 村. 英. 亮. 第如こ,ソ連・東ヨーロッパなど社会主義諸国の動きが,日本にどういう影響を与える のか,われわれにとってどんな意味をもっているのかを問う観点がほっきりとしていない ことである。 以上, 『詳説世界史』についてみてきた.この教科書が圧倒卸こ大きい比率で使用されて. いるとはいえ・ほかにも十数種あり・ここにあげた批判はそのうちの1つについてのもの であることをおことわりしておきたいo他の教科書も,ほじめにあげたような同じ制約の 下で執筆されているとはいえ,それぞれ特徴を出そうとしているoここで(わしく紹介す る余裕ほないが,たとえば三省堂『新世界史』. (土井正興ほか)では,とくに項目をたて第 二次世界大戦の特質が3点にまとめ記述されている。すなわち,第1は, 「イギリス・アメ リカなど資本主義の大国と社会主義国ソ連とが連合して,枢軸陣営と戦い,従属国や小国 も主体的にこの・軌、に参加したこと」,第2は, 「枢軸側に占領された地域の住民大衆に よる反占領抵抗運動やパルティザン戟闘が--根強く展開され,. I-アジア・アフリカの. 植民地民族が,戦争の過程で民族独立運動を強めたこと」,第3は,. 「未曾有の大規模かつ 全面的な総力戦であって,戦争手段の技術的進歩と戦争の非人道性が表裏をなし,やく 6000万人の戦闘員と一般住民が殺されたこと」である.ソ連にかんする記述も教科書によ って違いがあり,別々に検討することが必要である。 今日われわれが直面している課題は大きく3つにまとめられる. 人類絶滅・原子力発電などによる環境破壊を防ぐこと, クロプロセッサーによる第3の産業革命に対応すること,. 1つほ,核戦争による. 2つめほ,コンピューター,マイ. 3つめほ,生産力の地域的アン. バランス・発展途上国の累積債務の問題を解決することである。この3つの課題を,資本 主義と社会主義とどちらが解決しうるのか,第3の道がありうるのか,このような問いか けをもって世界史をふりかえってみるという書き方がのぞましいのではなかろうか. いま・核の問題は人類共通の課題として,第3の産業革命への対応ほとくに社会主義世 界の課題として・発展途上国との関係の問題は資本主義世界の課題として提起されている ように思われる。われわれにとってほ社会主義世界によって批判されている資本主義自体 の問題についても無視されるペきでほないoこれらの問題を考えるなかで,世界史がどの ように動いているかという大きな観点をもつことの必要性が自覚されるであろう。 ⅠⅠ. ソ連現代史の出発点であるロシア草食について,いくつかの教科書の記述をみよう。 ここでおもにとりあげたのほ・山川出版社の『詳説世界史』再訂版(1988,著作者相川 堅太郎・江上波夫・山本達郎・林健太郎・以下山川詳説と略記),世界を9っの地域世界に 分け構成に独自性を出している実教出版『高校世界史』改訂版(1988,青田悟郎,鈴木亮, 大江一道,以下実数高校と噂)・三省堂『世界史』三訂版(1988,中屋健一,松俊夫,栗原 絡以下三省世界と略)・帝国書院『新詳世界史』初訂坂(1987,掘敏一,今井宏,板垣雄 三西川正雄・以下帝国新詳と略)の4つで,他に10種以上を参照した。 ロシア革命がふくまれている章・節について,. 4教科書の構成をみておくと,山川詳説.

(7) 高校『世界史』教科書のソ連. 7. は全17章のうち15,16,17_の3章が第ⅠⅠⅠ部として一括されているo第16章「二つの 世界大戦」は5節に分かれ,第1節「第一次世界大戦とロシア革命」ほさらに5項目, 国際対立の激化,第一次世界大戦,ロシア革命,ソヴィェト政権の成立と干渉戦争,戦時 共産主義と新経済政策,に分かれる. 実教高校でほ,第4部1章「第一次世界大戦とベルサイユ体制」が,三月革命,十一月 革命,ソビエト政権,パリ講和会議,ベルサイユ体制,ワシントン会議,の6項目に分け られている。. 三省世界では第3部第1編第3章「ロシア革命と1920年代の世界」の1節「ロシア革 命とソビエト連邦」が,三月革命と十一月革命,対ソ干渉戦争,新経済政策,ソ連邦の成 立と発展,の4項目に分けられている。. 帝国新詳は5部に分けられたなかのlV-ⅠⅠI. 「ロシア革命とヴェルサイユ体制」の1節. 「ロシア革命とソ連邦の成立」が,ロシア革命,ポリシェヴィキ政権,干渉戦争とソ連邦の 成立,モンゴル革命,の4項目に分けられている。 いくつかの教科書を読んですぐ気付くのほ,三省堂『新世界史』改訂版(1988,土井正 輿,小倉芳彦,阪東宏,小島晋治,以下三省新と略)を例外として,ロシア革命が三月革 令,十一月革命と表記されていることである。ソ連をほじめ日本の学界や一般の文献でほ, 「偉大な十月」 ロシア革命は二月革命,十月革命(十月社会主義大革命)と呼ばれている。 20 (「ヴェ.)-カヤ=オクチャブ1)」)ということばもあるo ソ連史は18年1月末まで,. 世紀にかんしては13日おくれのユリウス暦(ロシア暦)で記述されるのが普通であるが この点世界史でほ新暦に統一された方が便利である.しかし固有名詞としてほ,ニ月革命, 十月革命が国際的にもなじんでいるo普通三月革命と聞くと1848年のドイア・オースト リアの革命,十一月革命では1918年のドイツ革命を藻に浮べる。 その他の固有名詞でほ,ソヴュトはソビエト,ソヴィ-トとさまざまである。ポリシェ ヴィキは,ポルシェヴィキと英語読みのも,のもあるが,ロシア語読みに統一すべきではな かろうか。. まず4つの教科書について,二月革命の記述を煩に紹介したい。. 山川詳説「第一次世界大戦がはじまると,ロシアの専制政治はたちまちその弱点をあち わし,しばしばドイツ軍に敗れたので,士気はおとろえ軍規は乱れた。そのうえ国内では 物資が不足して国民の生活が苦しくなり,労働者のあいだには不穏な空気がみなぎった。 1917年3月8日,ベトT,ダラードで大規模なストライキ・暴動がおこると,それが各地 にひろがって軍隊にも反乱がおき,労働者・兵士のあいだにソヴィ-トが組織され,革命 の推進力となった。皇帝ニコライ2世は前線から帰還する途中で掃えられて退位し,ロシ アの帝政は一挙に倒れたoこれを三月革命というo」 実数高校「第一次世界大戦は,いちじは,政治に対するロシア国民の不満をそらせる機会 になったoしかし,戦時経済がたちまち国民生活を圧迫し,工場労働者のストライキがあ いつぎ,支配層の内部でも動揺がおこった.資本家層にも,政治改革を求める動きがうま れてきた.1917年3月,首都ペトロダラードの労働者のストライキは,軍の一部もまき.

(8) 8. 木. 村. 英. 亮. こむ大衆蜂起に発展した。労働者・兵士の代表からなるソビエト(協議会)が指導機関車 なったが,国会にほ資本家代表による臨時政府がつくられて事態の収拾をいそぎ,ニコラ イ2世を退位させた(三月革命)。」 三省世界「社会不安が深刻になっていたロシアでほ,. 1917年3月,首都ペトロダラード で労働者の大規模なストライキがおこった。軍隊ほ鎮圧の命令を拒んで労働者に合流し,. これを磯として各地にソビエトが組織されたo政府は事態を収拾することができずに辞職 し,かわって立憲民主党を中心とする臨時政府が成立した。臨時政府ほニコライ2世の退 位以外に解決策がないとして皇帝に退位を説得したので,皇帝もやむなく政府に従ったo ここに長年専制政治を続けてきたロマノフ朝ほ崩壊し,皇帝ほまもなく革命化した軍隊に よって掃えられた.これが三月革命であるo」 帝国新詳「ツァーリズムは,総力戦のもとでいちじるしい欠陥をあらわし,国民の不満 は高まり,前線の兵士も戦意を失ってきていた.. 1917年3月,首都ペトロダラードにお. こった民衆の大ストライキはツァーの専湖政府打倒に発展し,各地に労働者や兵士の代表 機関としてソヴィ-トが成立した。ニコライ2世は退位し,国会内の自由主義派が臨時政 府を組織したoこれが三月革命である.」 4教科書とも二月革命の推進力が労働者と兵士であったことをほっきりと述べている。 山川詳説は大きな流れを示そうとし,実教高校は支配層内部の動揺にふれており,三省世 界ほ軍隊が鎮圧命令を拒んで労働者に合流したと具体的に叙述し,帝国新詳ほもっとも簡 潔である. 若干の疑問点をあげておきたい。 山川詳説は, 「3月8日の大規模なストライキ・暴動」と書いているが,この日の状況 について長尾久「二月革命」. (江口朴郎編『ロシア革命の研究』中央公論社,. 1968,. 395ペ. ージ)紘,この日ほ「電車をとめることが主たる暴力行為であり,警官との衝突ほ少なく (デモ隊による警官への暴行四件),逮描者は21人であった。商店の打ちこわしもきわめ て少ない.ペトロダラード地区でパン屋の打ちこわしが報告されているが,これほ行列し ていたお客がパンの売り切れに怒ってやったことで,労働者のデモ隊とほ関係がない」と している。二月革命全体の流れのなかで,この日を暴動とするのほ早すぎるのではなかろ うか。. 三省世界の「政府ほ事態を収拾することができずに辞職し」という表現は,ペトロダラ ードにおける旧権力ほ兵士たちによる閣僚らの逮靖によって崩壊したので,不正確のよう に思われる。. 山川詳説「皇帝ニコライ2世ほ前線から帰還する途中で掃えられて退位し」ほ,退位し た段階では行く手を阻まれほしたが,掃えられツァールスコ-・セp一の宮殿に軟禁され たのほその後であるo 三省世界と第一学習社『新世界史』 (1986,永井滋郎,藤井千之助,以下第一新と略)の. ベトロタラード、(旧べテルスペルク)の括弧内ほ旧ペテルプんクで「ス」ほ不要. 十月革命の記述をみよう。.

(9) 9. 高校『世界史』教科書のソ連. 山川詳説「ソヴィエトでほ社会革命党とメソシュヴィキが多数を占め・かれらは自由主義 老と協力して,立憲民主党を主とする臨時政府を成立させたo臨時政府は普通選挙による 4月レーニンが亡命地から帰国す 議会を召集することを定め,戦争を継続七たoしかし, ると,ソゲィヱト内におけるポルシェゲィキの勢力は増大し・反政府運動がおこったが鎮 圧された。一方,政府側では立棄民主党の首相が辞任し,社会革命党のケレンスキーがこ れにかわったoケレンスキーほポルシェヴィキをおさえようとしたが・帝政派の反革命軍 がペトロダラードに進撃したので,ポルシェゲィキに援助をもとめて反革命を平定した○ その後,ポルシェヴィキの勢力ほ全国にひろまり,. 11月7日レ-エソ・. [ロッキーの指. 導のもとに武装蜂起して政府を倒し,ケレンスキーは国外に亡命したoこれを十一月革命 という。」. 実数高校「臨時政府ほ,政治犯の釈放や言論・集会・ストライキの自由などほ約束した が,土地改革は延期し,、戦争継続の方針をとったoソビエトほ・はじめメソシェビギや社 1917年4月,亡命地スイスから帰国したレー 会草食党員が多数で,戦争継続に同調した. γェビキに戦争の中止と社会主義革命の断行を指示した(四月テーゼ)o 臨時政府ほ,社会革命党右派のケレンスキーを新首相として体制の強化をはかったが,氏 ニンほ,ボ.). 衆の心ほ, 「パンと平和と土地を」と訴えるボリシェビキにしだいに懐き,. 7月・. 9月y^=は・首都. とモスクワのソビエトでほ,ボリシェビキが優勢になった。農民による地主からの土地奪 取もはげしくなりだした。この形勢をみて,権力奪取を決意したボリシェビキと社会革命 党左泥ほ, 11月7日武装蜂起し,民衆の支持を失った臨時政府を倒した(十一月革命)o」 三省世界「臨時政府が成立したとはいえ,政府にほソビエトを代表して社会革命党のケレ ンスキーが釦口したにとどまり,臨時政府は資本家を代表する勢力とソビエトが妥協した 二重政権であった。しかし臨時政府が依然として戦争を継続しようとしたので,ソビエト トの空気はしだいに反政府的となり,とくに同年4月,レーニンが亡命先から帰国すると, ポリシェゼキの勢力は強化されたoそこでまもなく首相になったケレンスキーは反政府沢 と結んでポ.)シェビキを弾圧したが,その後,反革命渡がケレンスキー打倒のクーデター. をおこしたので,ケレンスキ-ほボリシェビキの力をかりて反革命準の企てを失敗させたo この事件を通じて,ボリシェビキほ勢力を回復し,まもなくトロツキーの指揮下に労働者 1917年11月・ボリシェビキ を中心とする赤衛軍が組織されるようになった。こうして, ほ武装蜂起を行い,,臨時政府を倒して政権を握った.これが十一月革命であるo」 帝国新詳「臨時政府は英・仏の支持をうけながら戦争をつづける方針をとった.一方・労 兵ソヴィエトは臨時政府に対抗する政治権力をもつにいたり・いわゆる二重権力状態が生 『四月テーゼ』を発 まれていた。亡命地スイスから帰国したポリシェヴィキのレーニンほ, 表して,. ``すべての権力をソゲィヱト-''の方針をうちだしたo7月に社会革命党右派のケ. レンスキーが臨時政府の首班となると,ポリシェヴィキほ弾圧されてふたたび地下へ追い やられたが,平和とパ./と土地を求める民衆の支持を得る活動をつづけた.こうして11 月7日,ポリシェヴィキは労兵ソゲィエトを指導して武装蜂起をおこし,ケレンスキー政 府を打倒したoこれが十一月革命である.」.

(10) 10. 木. 村. 英. 亮. ニ月革命後の状況を,レーニンは「四月テーゼ」第2項で次のように述べている。「ロシ アにおける現在の時機の特異性軌. プロレタリアートの自覚と組織性とが不十分なために 権力をブルジョアジーにわたした革命の最初の段階から,プロレタリアートと貧農層の手 中に権力をわたさなければならない革命の第二の段階-の過渡ということにある。」 この時期ほまず,二重権力ということばで特徴づけられる。. メソシュゲィキや社会革命党(エスエル)などソヴュトの多数熟ま,ロシアほまだ社会 主義革命の段階でほないとしてブルジョア的な臨時改称こ権力をゆだねた.しかし,ペト ロダラード労兵ソヴュトの3月1日付命令第1号が示すように,ソヴェトは実権を保持 しており,臨時政府とソヴュトの二重権力の状況が生まれた。命令第1号ほ次のように定 「(3)部隊ほそのあらゆる政治行動において,労働者・兵士代表ソヴヱトおよび. めているo. 自己の委員会に服従するo. (4)国会軍事委員会の命令は,それが労働者・兵士代表ソヴュ. トの命令および決定に反しない場合にのみ,これを遂行すべきである。」 山川詳説ほ,二重権力の問題にはふれないで叙述している。 実数高校ほ・ 「四月テーゼ」にほふれているが,二重権力という用語は使用していない。 三省世界の「臨時政府は, --二重政権であった」という表現ほ正確ではない。 帝国新詳は・ 「いわゆる二重権力状態が生まれていた」と表現し,簡明にまとめている。 レ ニンほソヴェト権力と戦争からの離脱を主張してポリシェゲィキの勢力を強めたが, 祖国防衛を唱えるソヴュト多数派の指導者たちほやがて臨時政肺こ加わり,大衆デモ「七 月事件」を機にレーニンに逮描令を出し,二重権力ほ終るoここに出てくる祖国防衛主義 についてほ・実教出版『世界史』改訂版(1980,鶴見尚弘,遅塚息窮,以下実数世界と略) がとりあげているo. 「立憲民主党を主とする臨時政府が,戦争を続行しようとしたことに 対し・メソシュビキや社会革命党(エスー-ル)からなるソビエトの主流派は,祖国防衛の 必要は認めつつも,領土併合などの帝国主義的な戦争目的を放棄させようとした.しかし, 4月に亡命先のスイスから帰国したレーニンほ,祖国防衛主義に反対し,臨時政府支持を やめて・ロシア社会主義ソビエト共和国を樹立する必要性を説いた(四月テーゼ)。」レー. ニンは四月テーゼの思想を展開した「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務」で 次のように述べているo 「ブルジョアジーほ,革命にたいする気高い誇りを利用すること によって,また革命のこの段階の結果,すなわち,ツァー.)君主制がグチコフ,ミリエコ ●. ●. ●. ●. ●. ●. フのまがい共和制とおきかえられた結果,ロシアについてほ戦争の社会的-政治的性格が 変化したように見せかけることによって,人民をだましている。 の唐奉者ほ,この問題を単純に,庶民的に,こう考えている。 ●. --祖国防衛主義の一般 『私ほ領土併合を望んでいな. ●. い。その私にドイツ人が『おそいかかってきている』のだ。だから,私は正しいことを守 っているのであって,帝国主義的利益などを守っているのでほけっしてない』とoこうい う人にたいしてほ,彼の個人的な願望が問層でほなくて,大衆的,階級軌政治的なもろ もろの関係と条件,戦争と資本の利益および国際銀行網との結びつき,等々が問題なのだ ●. ということを,くりかえしくりかえし説明しなければならない。. ●. ●. --資本の権力を倒さな.

(11) ll. 高校『世界史』教科書のソ連. ければ,国家権力が別の階級,すなわちプロレタ1)アートに移らなければ,帝国主義戦争 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. からぬけだすことほできないし,強制的でない民主主義的な講和をかちとることほできな ●. い。」 同じ教科書「右派の反乱の鎮圧などをへて,ソビエト権力を求める声ほますます強まり,. レーニンほ武装蜂起による権力獲得をボ1)シュビキに提案するにいたった.蜂起の結果, 11月7日(ロシア暦10月25日)に臨時政府は打倒された。これを十一月革命というo」. 右派の反乱(8月25日(新暦9月7日)からのコルニーロフ反乱)の鎮圧のため臨時 政府は労働者の武装を許さぎるをえず,ポリシェヴィキほその反乱粉砕の闘争の組織化を 通じて革命を準備することができた。しかし,武装蜂起の方針自体ほすでに7月26日「現在革命の平和的発展と,権 8月3日(新暦8月8日-16日)の第6回党大会で, 力のソビエトへのなめらかな移行ほ不可能となった.」ただし「プロレタ1)アートは,現時. 点でかれらを時期尚早の戦いに立も上がらせたいと熱望しているブルジョアジーの挑発すこ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ■. 。一. ●. .レ ●タ ●リ・ア. ●P. のってほならない。 ●. .プ. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ーほ,全国民的危機と深刻な大衆的高揚が,プルジ王 ●. ●. ■. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. アジ一に反対してプT:レタ.)アートの側-都市農村の貧民が移行するのに好適な条件をつ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. くりだす瞬間のために,勢力の組織と準備に全力をつくさなければならない」と決議され ているoレーニンほ10月1日(10月14日),手紙でいまがその時だとして「すぐさま蜂 起にすすむべきである」と訴え, 10月10日(10月24日),党中央委員会会議ほ,. 「--武. 装蜂起がさけられないものとなり,その擁運が完全に熟したことを認めて,中央委員会ほ, すべての党組織にたいし,このことを行動の指針とし,この見地からすべての実践的問題. を討議し解決す争ように提案する」と決議し,準備に着手し,蜂起にいたる。このような 経過からすると,前記の記述は,コルニーPフの反乱の後レーニンがいきなり武装蜂起を 提案したように読まれかねず少しあいまいであるoなお十月革命ほ,人民委員会議成立ま でを-くぎりとすれば10月25日26日(11月7日8日)で,その前に採択された「平. 和についての布告」は,. 「十一月革命の翌日」というより,. 「十一月革命のさい」とした方. が適切である。 実数高校,十一月革命の宣言文として写真版で掲げられている「ロシアの市民へ」ほ, ペトロダラード労働者・兵士代表ソヴェト付属軍事革命委員会のアピールで,説明文の日 付「11月8日午前10時」は「11月7日午前10時」の誤りである。 次に革命後プレスト講和・左沢エス-ル脱退まで,引用を続けよう。 山川詳説「革命直後,議会の選挙がおこなわれたが,その結果,社会革命党が第一党とな った。 1918年1月議会がひらかれると,社会革命党は議会に基礎をおく政権をつくろう としたが,レーニンほ武力で議会を閉鎖し,やがてポルシェゲィキの一党独裁政治を樹立 した.ポルシェヴィキ政府は,ただちにドイツとの単独東和の交渉をひらき,トロツキー が外務人民委員として交渉をすすめ,同18年3月,プレスト=リトフスタにおいて不利 な条件で講和条約をむすんだo」 実数高校「十一月革命で成立したソビエト政権(人民委員会議)紘,大地主の土地を没収.

(12) 12. 木,村. 英. 亮. して土地私有制を廃止し,銀行と大工業を国有化したoまた,全交戦国に無併合・無賠償・ 民族自決の原則による即時講和を訴え,戦時中の政府と連合国との秘密協定を公表して, 戦争の目的を問いただした。ついで1918年1月,憲法制定議会が召集されたが,第1党 となった社会革命党ほ,反ボリシェビキ派とともにソビエト政権の革命政策に反対したo そこでレーニンらほ,ソビエト政権を唯一の正当な権力とし,議会が反革命派の手にある としてこれを解散させた.ソビエト政権ほ,外務人民委員のトロツキーを代表として,ド イツとの単独講和の交渉をすすめ,. 1918年3月,きわめて不利な条件でブレストリトフ. スク条約をむすんだ。社会革命党左派ほこれを不満として政権からほなれた。」 三省世界「ソビエト政府は,ただちに戦争の中止,大土地所有の廃止などを布告し,社会 主義政策の実行にとりかかった。まもなく行われた憲法制定議会の選挙では社会革命党が. 夢1党になったが,ポ.ーリシュビキほ社会革命党左派と協力して,革命の進行をはばもうと する同党右派や資本家・大地主などの勢力を排除し,議会を閉鎖してプロレタリア独裁の 政体を樹立した.」 帝国新詳「レーニンの新政府ほ,ただちに,土地に関する布告をだし,地主の土地を無債 で没収し土地私有制を廃止した。またソゲィ-ト制度を全国にひろめていった。対外面で. ほ新政権ほ,平和に関する布告をだし,全交戦国に公正な平和の即時締結をよびかけた。 また外務担当のトロツキーほ帝制政府の結んだ秘密条約をばくろし,旧ロシアの特殊権益 を放棄する宣言をするとともに,各国の労働者たちに革命をおこすよう訴えた。連合国ほ このようなソヴィユト政権を警戒し,平和提案に応じなかったので,. 1918年3月,ロシア. は広大な領土を要求するドイツがわとの間にきわめて不利な条件でプレスト=リトフスク 条約を結び,戦争を離脱した。この講和と農民からの食塩徴発に反対した社会革命党ほ政 権から排除され,ポリシェヴィキ(共産党と改称)の一党独裁がはじまった. この部分についてのキイワードほプロレタリアート独裁であろう。この用語と関連して. いくつかの教科書が,憲法制定会議(大部分の教科書でほ憲法制定議会と表記)解散やポ リシェヴィキの一党制にふれているが,その扱い方ほかなり異っている.マルクス主義で は,プロレタリアート独裁は,資本主義から社会主義への過渡期の権力の階級的本質を示 す概念であるo スターリンは,レーニン主義はプロレタリアート独裁の理論と戦術であ り,その内容ほ「なにものにも制限されない,どんな法律によっても,絶対にどんな規則 によっても束縛されない,直接に強力に立脚する権力」と解説した.レーニンほ1918年 の「ソヴュト権力の当面の任務」で,革命に必然的にともなう搾取者の反抗と内戦に勝つ ためには独裁が必要で,それなしに移行できると考えることは愚かな空想であるとし,個. 々人の独裁者的権力行使との間にほ原則的矛盾はないと述べている。現在,スターリン個 人崇拝に対する反省から,また多党制や議会を通じての平和的移行の可能性等の問題との 関連で,独裁の語を避け労働者階級の政治支配という用語による言いかえも行なわれてい る.. 1918年1月3日,全ロシア中央執行委員会ほ,ロシア共和国の全権力はソヴヱトとソ ヴヱト検閲に属することを決定し, 5日開会された憲法制定会議は,. 「勤労被搾取人民の権.

(13) 13. 高校『世界史』教科書のソ連. 利の宣言」を否決した嵐6日に解散された。そこではエス-ルが過半数を占めたが,ソ 連の概説では,それは十月革命前につくられたリストによって代議員が選出されたためで. あるとされており,稲子恒夫によれば,その「運命ほ,十月革命直後に選挙され,、エス・ ェルが多数を占めたそれが,激動するロシアの政治状況のなかで,急速にその基盤を失っ たことを意味する」 (稲子恒夫『ロシア革命』,教育社, 1981, 216ページ)o. (山川新詳), 「ポルシェヴィキの一党独裁政治を樹立」 4教科書では,実数高校以外ほ, 革命の進行をほぼもうとする勢力を排除し「議会を閉鎖してプロレタリア独裁の政体を樹 立」 (三省世界),. 「社会革命党は政権から排除され,ポリシェヴィキの一党独裁がほじまっ. た」 (帝国新詳)としている.帝国新詳ほ憲法制定会議解散にふれていない.その胤第一 新ほ,. 「--政府は議会を武力で解散させ,さらにボルシェビキ以外のすべての政党を禁. 止してプロレタリア独裁を実現した。」山川・新世界史(1984版,柴田三千雄他)紘, 「--憲法制定議会の選挙でも,農民に支持された社会革命党が第一党になったので,ニ 重権力の出現をおそれるボ.)シュヴィキほ議会を解散し,プロレタl)ア独裁体制を確立し た」と述べている。以上みてきたように,全体として,本質論にふれずポリシェヴィキの 一党制として記述しているようである。 三省世界と実数世界の干渉戦争の項に赤衛軍とあるが,赤衛軍(クラースナヤ=グヴァ ルディア)は二月革命のさいの労働者民兵が4月にその名をえたもので,コルニーPフの 反乱の粉砕,十月の武装蜂起に活躍した.1918年1月15日(28日),赤軍(クラースナ 46年2月にソヴヱト軍と改称されるま ヤ=アルミア)が編成されるとその一部となるo でこの名である.上記ほ赤軍の方が適切であろうo 以下長くなるので引用紹介ほ省き, 1922年12月のソ連邦結成までの記述について検討 してみようo残った大きなテーマは,新経済政策(ネップ)と民族の問題の2つであろうo ネップは,労働者と農民という2つの階級の同盟の強化のためにとられた政策であるが, この点の説明は全体として不足しているように思われる。ロシア革命の記述全体を通し て農民の動きや土地問題-の言及が少ない。そのなかでは,清水書院『高等学校世界史』 「ロシア革命期の農民と志願兵」という1ページ分の囲み記事を (1986年,池田温他)が, 入れているのが目立つoネップの柱は,戦時共産主義期の食塩散発を食糧税にかえ,農民 が余剰の農産物を市場で販売できるようケ与したことであるoこれによって商業を復活し, 一定の限度内で資本主義的要素の活発化を許し,戦争・革命・国内戦によって荒廃した経 済を復興・しようとしたのであった。 民族の問題ほ農民問題よりもっと記述が少ない。ソヴェト襲権による民族自決権の東認 の世界史的意義,被抑圧民族に与えた大きな影響についてもっと強調されるべきであろラ と思われる.ロシア革命における1916年中央アジア蜂起の意義,革命のなかでの階級的 利益と民族運動との矛盾をこついてふれてもよいのではなかろうかo. 山川新「国内の少数民族にも民族自決権を認めた」とあるが,ロシア人ほロシア帝国の 人口の半分以下であり,おもな民族は法的に対等な立場でソヴュト連邦を結成するのであ るから,この記述では不十分である。ロシア帝国を構成していた諸民族の革命という観点.

(14) 14. 木. 村. 英. 亮. も必要であろう。. 実教世界「pシア・ウクライナ・自ロシア・カフカスの4ソビエト共和国で構成するソ ビエト社会主義共和国連邦の成立を宣言」のカフカスはザカフカ-スの誤り.ザカフカー ジュは北側の北カフカ-ス(前カフカ-ス)とともにカフカ-ス地方の一部である。 4共 和国の正式名称は・ pシア社会主義連邦ソヴュト共和国,ウクライナ社会主義ソヴヱト共 和国,ベロルシア社会主義ソヴュト共和国,ザカフカ-ス社会主義連邦ソヴュト共和国で ある。現在の名称ほロシア・ソヴヱト連邦社会主義共和国等ソヴヱトと社会主義の順序が 入れかわっている。. 清水世界に農民の問題について囲み記事があることを紹介したが,その他ロシア革命の 理解を助けるため・本文・写真以外に次のような工夫がされている。すなわち,実教出版 『世界史』改訂版(1982・板倉勝正,金沢誠・穂川一朗,護雅夫)ほ,ロシア革命年表と題 して・. 1917年を中心に1860年代から1919年までの1ページの年義,東京書籍『新選. 世界史』(1987,中村英勝,中嶋敏)ほ, ンをとりあげ,. 「人物コラム」でアインシュタインとともにレーニ. 3分の2ページ以上を使って解説しているo実教世界ほ,. 「平和について. の布告」を3分の2ページ以上で解説し一部引用をおこなっている。 このようにさまざまに苦心されているとほいえ,限られたページのなかに最低限いれな. ければならない事項ほ多く,教科書を魅力ある歴史書とするのほ至難のわざであろう。 世界史は時代・地域とも多岐にわたるので,研究が極度に専門化した今日,最新の研究 成果をふまえ・しかも1つの歴史観によって執筆することは大変な仕事となる。とくに現 代史の部分ほ重要であるのに検定もあって書きにくいことが想像される。たとえばロシア 革命をなぜ学ぶのかは・教科書からほつかみにくいoまたその大きな影響力からしても事 実関係のあやまりは許されないoしかし歴史研究者が教科書を読むことほめったになく, まして多くの教科書を比較してみることもまれであろう。教科書調査官など文部省の検定 担当者だ桝こゆだねず,研究者・専門家の間で批判しあうことも必要と考えたので,ロシ ア革命の部分のみ抜き出してあえて紹介し,若干のコメントを加えてみた。 ⅠⅠⅠ. 次に,検定がどのように行なわれるかの具体例を,私も関係した三省堂『詳解世界史』 の場合について紹介しよう。この教科書は1987-88年に執筆され, 88年8月26日に 文部省に提出された。これほ「自表紙本」とよばれるものである。89年2月8日10∼20 時,文部省でこの「自表紙本」について条件指示がおこなわれた。出席者ほ執筆者20名 のうち9名と三省堂編集部3名とY調査官とであった.以下は,調査官の指示と執筆者 の質疑をテープにもとづいて三省堂編集部が作成した報告を資料とし,私のメモや記憶を ふくめてまとめたものであるo. 指示は全体的意見と個別意見とにわかれるが,後者ほ異議がある場合15日以内に申し 立てなければならない修正意見(A条件). 122カ所とより強制力の弱い改善意見(B条件) 176カ所とからなっているo改善意見ほ必ずしも従わなくてもよいが,その理由を文部省.

(15) 15. 高校『世界史』教科書のソ連. がなっとくしなければ合格にならず教科書が出せなくなる(岸本重陳『私の受けた教科書 検定』東研出版, 本を提出し, カ所について,. 1981,. 3.月27,. 186-187ページ)oこのあと2月28日までに修正を加えた内閲 29,. 30日に調査官と調整し,指摘のあった誤記や文章推蔽安静180. 4月中旬に調整を終わり5月に見本本の作成にいたった.. 全体的意見は次の3点である。 (1)情報過多,余白のない体裁で,世界史ぎらい・おちこぼれを助長する懸念なきにし もあらず。この点について格段の再考を。注記を含めてできるだけ精選してもらいたい。 (2)全体として本文の記述ほ難解とは言えないが,所々程度の高い用語が用いられてい る.この点についても格段の再考をo教科書としてなじみのない言葉ほ避けてもらいた い。. (3)文章ほ教室での朗読にたえるきちんとした文章でなくてほならない。硬い文章,句 読点の打ち方を見直してほしい。この点についてほ,指示する箇所以外にも直す部分が あれば改善意見として処理してよい。 個別的意見について,書き下ろしの本としては,誤りがあまりないとのことであ'ったが, それにしても298カ所とは多い。そのうちの多くほミスプリや単純なミスであり,かなり. の部分は完成までにこちらで訂正されたであろうo実際,昨夏以後執筆者側でも検討を続 けてきた。しかし「自表紙本」でこのように多いのでほ,検定がなくなったらどうなるの であろうという意見も出かねない。執筆者の人数が多く,まとめの段階で困難があったと しても,知らず知らずのうちに検定を前提としてしまったことほないであろうか。 しかし,文部省にとって検定の本質的目的はミスプリの訂正や表現の完成にあるのでほ ない。そのことほ,. ⅠⅠで示したように,検定済の教科書にまだ多くの単純な誤りが残って. いることをみてもあきらかである。それほいくら検定済でも執筆者が負うべき責任である。 同時に,内容の選択,史実の評価,歴史の解釈も執筆者の責任においておこなわれるべき ことである。これが偏っているとか誤っているとかを文部省が認定することになると,そ れは「国家権力が教科書執筆者の歴史観に干渉し,その思想審査,すなわち検閲をおこな 1971, 249ページ)ことになる っている」 (遠山茂樹『歴史学から歴史教育へ』,岩崎書店, のである。. この点をいくつかの個別意見について具体的にみよう。誤記や文章推蔽の要請以外の修 正意見ほ,近現代史の部分については,日本史にかかわる事項とソ連にかかわる事項が多 いように思われるo. 例1.第Ⅴ編. 現代の世界. 2.ファシズム諸国の台頭. の最初の項の小見出し. 十五. 年戦争の開始,および本文中の「1931年9月18日,日本の閑束軍ほ,柳条湖事件を口 実に軍事行動(満9ItTI事変)を開始し,ここに十五年戦争の口火がきられたoその後日本は, 1932年1月反日運動の中心地となっていた上海でも謀略事件をおこし,中国軍と衝突し た(上海事変)。」-B条件(改善意見)ほ次の通りである。. 「十五年戦争」という用語は,. まだ学界に定着した用語として十分に認められていないo従って,これを小見出しや本文 「十五年にもわた ゴシックとすることは,現時点では,教科書でほさけてもらっている。.

(16) 16. 木. 村. 英. 亮. る」という使い方ならか見出しでもかまわない。 たしかに・. ⅠⅠでとりあげた4教科書でほ,十五年戦争という用語は使用されていない。. 山州詳説の該当箇所は次のように記述されているo. 「中国東北地方でほ東学良が国民政府 委員となり,日本の勢力をのぞこうとしたoそのため日中両国間の紛争がくり返されてい たが,. 1931. (昭和6)年9月18日,日本の関東軍は柳条湖(柳桑津)で鉄道爆破事件を. おこし,これを機に東北地方全域に軍事行動をおこし,その要地をことごとく占領した。 これが満州事変である。その後,戦火は上海に及んで32. (昭和7)年1月には上海事変と. なった。」. 同じ節の 日中戦争と民族統一戦線 の本文中の「日本は1937年に中国の首都南京を 占領し・南京大虐殺をおこしたが,国民政府ほ重慶に遷都してあくまで抗戦をつづけた。 日本ほ, 1938年1月国民政府との交渉を拒否するという声明を発表し,戦争を継続する. 方針をとったが,同年10月にほ攻勢の限界に達し,見通しのない長期の持久掛こおちい った。」. -B条件「南京大虐殺」ほ,教科書でほ現在ゴシックはさけてもらっているo明朝体に 変えよ。「国民政府との交渉を拒否するという声明」とあるが,交渉拒否というよりほ相手 にしないという態度で,ニュアンスが違うo表現再考.. 南京大虐殺の注「このとき日本軍ほ,南京市の内外で放火・掠奪・強姦を働くほか,描 虜・一般市民多数を殺害した。その被害数は,中国側でほ30-40万人といい,日本でも 20万人前後という見方が有力である。」 -B条件「強姦」の字句ほ「暴行」の中に含まれるということでそちらに替えてほどう か。また被害者数ほ,戦闘行為での死者も含まれているようなので,それをほずした数に せよ。. 南京大虐殺について,帝国新詳ほふれず,実教高校ほ本文で,. 「日本政府は,短期決戦を はかって上海にも大量の兵力を送り,日本軍ほ同年12月には南京を占優し,掃虜・民衆 などを大量に殺した(南京虐殺事件)」と書き,山川詳説は, 「南京占領に際し日本軍ほ多 数の中国人を虐殺して,世界の非難をまねいた(南京虐殺事件)」と,三省世界ほ「日本軍 が南京を占額した際,住民に対して行った虐殺事件ほ,国際世論のきびしい批判を受け た.」とそれぞれ注記しているo. なお,平凡社『大百科事典』 (1985)によれば,. 「その儀牲老の数について,中国側ほ極東 国際軍事裁判において43万人と発表した。同判決もく日本軍が占領してから最初の6週 間に,南京とその周辺で殺害された総数ほ20万以上であったとされているが,それが誇 張でないことほ埋葬された死骸が15万5000に及んだ事実によって証明されている〉と 述べている。虐殺に及んだ背景としてほ,上海以降の戦線での中国側の強い抵抗への敵悔 心,補給が追いつかなくなったことなどが考えられるが,所詮は義のない侵略戦争を進め た日本軍国主義の所産であるo--」. くは,家永三郎『戦争責任』. (田中宏).この問題にかんする文献等について(わし (岩波書店,. 1985) 66-69ページ,洞富雄「南京大虐殺の証. 明」 (朝日新聞社, 1986),本多勝一縮『裁かれた南京大虐殺』. (晩声払1989)を参照。.

(17) 17. 高校『世界史』教科書のソ連. 最終的には,小見出しは十五年にわたる戦争の開始 大虐殺も明朝体とし,注記は次のように変えた.. とし文中ほ普通活字とした。南京. 「このとき日本軍ほ,南京市の内外で放. 火・掠奪・暴行を働くほか,捕虜や市民まで多数を殺害した.被害者30-40万人という 中国側の説には戦死者も含まれていると見られるが,それをのぞいても10万人以上とす る説がある.o」 例2.. 日本の敗戦の部分の記述は次の通りであるo. 「そこ(ポツダム会談)でほドイツの処理が協議されるとともに,日本に無条件降伏をも. とめるポツダム宣言が発表される。その後アメリカは8月6日広島に, 弾を投下し,またソ連ほ. 8. 9日長崎に原子爆. 日に日本に宣戦したあと中国東北地方・朝鮮・樺太に進撃し. た。日本は8月15日にポツダム宣言受諾を公表し,. 9月2. 日に降伏文書に調印した。」. -A条件「日本に無条件降伏をもとめるポツダム宣言」,ポツダム宣言の条項に従って 「日本軍に無条件降伏をもとめる」とせよ.樺太のあとに千島を補えoまたソ連参勤ま日ソ 中立条約の破棄のもとにおこなわれたことに言及せよ。 囲み「原爆投下とソ連参戦. アメリカが原子爆弾の実験に成功したのは,ポツダム宣言. が出される10日前で,原爆投下命令が下されたのは2日前であった。日本の敗戦を決定 づけるとみられたソ連の対日参戦を目前に,アメリカが主導権をにぎろうとしたのである。 広島への投下ほソ連参戦の2日前,長崎-の投下は参戦の翌日決行された。」 「決定づける」と言い切って. -A条件「日本の敗戦を決定づけると見られたソ連参戦」, よいかoまたアメ1)カの原爆投下が一義的にソ連を意識したものと断定してよいか. 山川詳説についてはⅠで紹介した。三省世界ほ次のように記述している。三国首脳ほ,. 「ドイツの管理についてポツダム協定を結び,また日本に対して軍事的無条件降伏を勧告 するポツダム真言を発した.そのころ日本は,すでに制空・制海権を失い,. 1944年7月,. 1945年(昭和20 サイパン島を奪われ, 10月にはアメリカ軍のフィリピン上陸を許し, 午)にほ硫黄島を,ついで沖縄本島をも失っていた。そのうえ日本は,連日の空襲によっ て生産力が低下し,国民生活も悪化したので戦争の継続ほ不可能となった。そこで日本ほ ソ連-働きかけて,局面の打開をほかろうとしたが,同年8月6日に広島,. 9. E=こ長崎に. アメリカが厚子爆弾を投下し,また8日にはソ連がヤルタ協定にもとづき日ソ中立条約を 破棄して参戦したため, 8月14日,ポツダム宣言を受諾して降伏し,大敵ま終結した。」 実数高校「7月,アメリカ・イギリス・ソ連3国の首脳はポツダム会談をひらき,ドイツ の処理を決めるとともに,アメリカ・イギリス・中華民国(のちソ連も参加)ほポツダム. 宣言を発表し,日本の非軍事化と民主主義の助長など,戦後の日本に対する連合国の方針 を明らかにした。日本政府ほ,ポツダム宣言を黙殺する態度を示し,本土での決戦を国民 に訴えた。アメリカほ,対日戦争をアメリカの優越のもとにおわらせようとし,日本本土 4月に日ソ中立条約 8月6日,広島に原子爆弾を投下したo への攻撃をいっそう強化し, の不延長を通告していたソ連は, 8月8日,日本に宣戦を布告した。8月9日,アメリカ はふたたび原子爆弾を長崎に投下した。ここにいたって政府は, を無条件受諾し,連合国に降伏した。」. 8月14日,ポツダム宣言.

(18) 18. 木. 村. 英. 亮. 日本の降伏条件について藤村道生『日本現代史』 (山川出版社, 軒土よれば, 「--ポツダム宣言ほ,. 1981,. 272-276ページ). 『日本国の無条件降伏』を求めたカイロ宣言と異なり,. 第5項に『吾等の条件ほ左の如し』と明記して」降伏の条件を列挙しており,政府は「天 皇の国家統治の大権に変更を加ふるが如き要求ほこれを包含しおらざる諒解のもとに」ポ 「申し入れ書をうけたアメリカほ,. ツダム宣言を受諾する旨の電報を8月10日に送った。. ソ連軍南下をまえに日本を早く降伏させたいという希望と,天皇の地位を決定することの. 困難の板ばきみとなり,それを『天皇および日本国政府は連合国司令官の制限のもとにお かれるものとす』という回答で解決した。天皇の権力が連合軍司令官に従属すると述べる ことによって,間接に天皇の地位を認めたのである。」 「吾等は,日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣 ポツダム宣言の第13項は, 言し,且右行動に於ける同政府の誠意に付,適当且充分なる■保障を提供せんことを同政府 に対し要求す。右以外の日本国の選択ほ,迅速且完全なる壊滅あるのみとす」と定めてい る。. 「日本軍に無条件降伏をもとめる」とせよという修正意見の根拠ほ,この条項であるo 1985,. この問題について藤原彰(『講座日本歴史11』東大出版会,. 次のように書いている. 「戦争終結を国民に告げる天皇の詔書は,. 10-19ページ)ほ. 『朕-鼓二国体ヲ護持シ. 得テ忠良ナル商臣民ノ赤誠二倍俸シ常二雨臣民卜共二在り』と述べている。しかしこれほ 支配層の期待を述べたのであって,. 『国体』ほポツダム宣言受諾によって『護持』しえたの. ではなかった。バーンズ米国務長官の名でもたらされた四国政府回答でほ,. 『日本国政府. の確定的形態ほ『ポツダム』宣言に遵ひ日本国国民の自由に表明する意志に依り決定せら るべきものとす』となっており,国体の決定は国民の意志にかかることになっていたので ある.. -. ・・敗痕前後に叫ばれた国体護持の国体ほ絶対君主としての天皇主権を意味してお. り,幣原内閣以後の支配層の意向ほ,天皇機関説による立憲君主制までの後退はやむなし とするものであった。そしていずれの場合も,連合国の戦争の基本目的が,日本の政治体. 制の変革にあるという認識を欠いたものであった.. --天皇主権から主権在民への変化こ. そが,戦後改革のまさに中枢であった去そしてそれほ,将来の戦争の根絶のために,敗戦 国に政治体制の変革を求めるという第二次大戦の性格とその戦争目的の核心であるほずだ. ったのである。だがこのことは,この改革の担当者によっても,それを受け容れた国民に よっても,正確に把撞されていたとほいえない。そのことが,講和後にくりかえし憲法改 正の動きが生じてくる理由となっているのである。」. ポツダム会談の部分ほ次のように改めた。. 「そこでほドイツの処理が協議されるととも. に,ポツダム宣言を発表して日本に無条件降伏をもとめた。」ポツダム会談の注記に,. 「宣. 言は日本政府が軍の無条件降伏を宣するよう要求している」を追加し,またソ連参戦の注 として新たに, 「日ソ中立条約ほまだ有効期限内にあった」を加え.た.囲みの原爆投下と ソ連参戦の2番目のJlラグラフのはじめの部分ほ削除し,. 「ソ連の対日参戦を目前に,ア. メリカが主導権をにぎろうとしたと考えられる」とした。 例3・ 4・第二次世界大戦 のソ連が関係する部分についてみよう。独ソ不可侵条約締 結について,もとの文ほ次の通りである。.

(19) 19. 高校『世界史』教科書のソ連. 「・-・ここにいたってイギリスとフランスはポーランド援助を約束するとともに,ソ連と 共同防衛の交渉を始めキoしかし交渉が長びくうち,スター1)ンは自国の孤立をさけよう として1939年8月,ヒトラーと独ソ不可侵集約を結んだ。ドイツはこのあと9月1日に 孤立したポーランドに進撃した.9月3日,イギ1)ス・フランスがドイツに宣戦し,第二 9. 次世界大戦が始まった。ポーランドはドイツの「電撃戦」の前に2週間で壊滅したが, 月17. 日にほ赤軍も東から進撃し独ソ間でその領土を分割した。ソ連ほまたレニングラー. ドに近い額土を要求して,フィンランドとも戦い翌年目的を達したo. さらにソ連は1940. 年には,革命前ロシア領土であったル-マニアのペグサラビアとバルト海沿岸地方をも回 復した。」 -B条件「スターl)ンほ自国の孤立をさけようとして」とあるが,そう限定してよい 「フィンランド か。もっと現実的な国家利益のためにということがあったのではないか。 とも戦い」について,これを機にソ連は国際連盟を除名されていることを考慮した表現に せよ。. 「バルト海沿岸地方をも回復した」とあるが,. 「回復」という言葉でよいか。. この部分について山川詳説の記述ほⅠで紹介したが,三省世界および実教高校はそれぞ れ次のようになっている。 1939年8月の独ソ不可侵条約の成立であ 三省世界「この時;世界に衝撃を与えたのほ, った.ドイツはポーランド問題以来,イギ1)ス・フランスと対立するようになっていたか. ら,対ソ関係を改善して背後を固めることを得策とし,一方ソ連は東アジアで日本と対立 していたうえ,イギリス・フランスとの交渉が進まない以上,ドイツと結ぶことを有利と 1939年9月1日,ポーランド していた。このような複雑な情勢のなかで,ドイツ軍ほ, に侵入した。これをみたイギリス・フランスほただちにドイツに宣戦し,ここに第2次世 界大戦が開始された。すでに戦争の準備を終えていたドイツ軍は,圧倒的な戦車と空軍に ょってわずか2週間でポーランドの西半分を占領した.一方ソ連も,独ソ不可侵条約によ って東半分を占額し,ついでバルト3国から軍事上の特権を獲得し,フィンランドにも同 様の要求を行ったが拒否された。そこでソ連ほフィンランドに宣戦し,苦戦ののちレニン グラード周辺のフィンランド領に基地を獲得したoその後,ソ連は1940年,ルーマニア にべッサラビアなどを割譲させ,ついでバルト3国を併合した.」 実教高校「この事態に,イギl)ス・フランス両国はようやくソ連との提携に動きだしたが, 1939年8月,独ソ ヒトラーはソ連に不可侵条約を提案し,スターリンもこれに応じて, 不可侵条約がむすばれた。1939年9月1日,ドイツの大軍ほ,突如ポーランドに侵略を開 始したoポーランド-の軍事援助を約束していたイギ1)ス・フランスは, 2日後ドイツに 宣戦し,ここに第二次世界大戦(1939-45年)がはじまった.戦局はもっばら東方で展開 し,ソ連もポーランドに侵入して,ドイツとのあいだでポーランドを東西に分割した。ま たソ連は,フィンランドと開戦して領土の一部をとり,エストニア・ラトビア・1)トアニ アのバルト3国を併合したo. ・.-またソ連ほ,ルーマニアからべッサラビアをうばった。」. ソ連の教科書でほどのように善かれているかみよう。ソ連では,世界史は5学年(日本 の小学校6年にあたる.なお1986年以来入学が1年早められ11年制-移行しつつある).

(20) 2(). 木. 村. 英. 亮. かlら10学年(高2,義務教育の最終学年)にかけ5年間で,ソ連史ほ7学年(中2)から 10学年にかけ4年間で教えられるoここでほ10学年用のソ連史教科書の記述をみようQ 独ソ不可侵条約の説明ほ次の通りである。. 「イギt)スとフランスにほ,三国間の平等な. 相互援助協定を締結する意志がなく,ソ連邦に対するファシズム=ドイツの攻撃を利用し ようとしている,ということを確宿したソ連政府ほ,ドイツ政府の提案した不可侵条約を ドイツと結ぶことに決定した。ドイツとの条約を結ぶにあたって,わが政府は,反ソ的目. 的のための共謀と共同を許さぬためには,帝国主義列強の間の釦、対立を利用しなけれ ばならないというヴェ=イ=レーニンの指摘に従っていたo」ポーランドについては,. 「ファ. シストの軍隊は,ポーランドの奥深く突き進んでいった.民衆が長い間ブルジョア=地主 的ポーランドの支配下におかれていた西ウクライナと西ベロロシアが,ファシズム=ドイ. ツによって侵略され,奴隷化されるおそれが生じてきた」とし,東半分の占領を「解放」 として正当化している。沿バルト諸国にかんしてほ,. 「--支配者たちは共産党員や先進. 的な労働者・農民に対する弾圧を続仇. ソ連邦と結んだ条約の履行をサボタージュした。 バルト諸国の勤労者ほ,自国民をソ連邦との戦争に引きずりこもうとしている支配層の政. 策の犯罪的な性格を,完全に確信するに至った」と,モルダヴィアについては,. 「20年以. 上もルーマニア貴族のくびきのもとで苦しんでいたモルダゲィア人民ほ,解放のために闘 っていた。その解放は1940年の夏に訪れた。このときに,ソ連政府の要求により,ルー マニアはべッサラビアをわが国に返還し,また,主としてウクライナ人が住んでいるブコ. ヴィナ北部を割譲することを余儀なくされたのである」としている(ポチョームキン他・ 倉持俊一他訳『世界の歴史教科書シリーズ22,ソヴィ-ト連邦ⅠⅤ』帝国書院, 1981によ る).ソ=フィン戦争にほとくにふれていない。ソ連でほペレストロイカのなかで革命後の ソ連史の根本的な見直しがおこなわれており,最近, 9学年用の『ソ連邦史9の資料』が発行された(fO.C. TepHamJ. K. ytle6・ AJIiI 9. EJr・. CPeA・. uE.≫,刑oeEBa,. 20年代30年代を大幅に書き改めた 6opHCOB,. ≪HcTOp舶CCCP.・州a-. 1989). 1989年9月の新学年からほ. 改訂された教科書が使用されるとのことであるo前述の出来事は『ソ連邦史10』にあたる 部分であるがこの部分については,旧版の著者たちは全面改訂に着手しておらず,新しい 版の著者グループはまだ決定されていない(日ソ歴史学シ-/ポジウム,シーシキン報告)。. 従来ソ連でほ独ソ不可侵条約に秘密協定があることは認められておらず,今後修正されて いくものと思われる。 他方,西側の学界の見解も固定したものでほない。この時期について百瀬宏ほ次のよう に整理している.. 「・-ソ連の政府や歴史家の主菜ほ,かつて西欧やアメリカでほまった. くの政治的宣伝であるとして無視されていたが,. 1960年代になると,西欧の歴史学界にお. いても宥和政策を1939年3月のイギリス外交の『転換』で終ったと考えずに,大戦籾 期にまでその継続を見いだす著作が出現するようになった」 代の世界』岩波書店,. 1979,. (百瀬宏『ソビエト連邦と現. 75-76ページ)0. 教科書の記述, 2番目のパラグラフは, 孤立をさけ軍事力を強化する時間をえよ. 「しかし交渉が長びくうち,スターリンほ自国の. うとして1939年8月,ヒトラーと独ソ不可侵集.

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