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古 いデル タ農 村 の変 貌

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(1)

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可絹 届

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C 地域研究 第 1 6

古 いデル タ農 村 の変 貌

‑ 岡 山 県 吉 備 町 の 場 合 ‑

岡山大学教育学部社会科教室 内地域研究会

ヲTl /エ● :

(2)
(3)

ご て‑t、‑‑ LH̲

(4)
(5)

木篭旧爪 水遇が盛んであった頃の倉

ハス研究著

大懲l出博士基碑

(6)

国道2号繍旧凶道の町北(庭瀬)搾瀬城の周輝(節町)

(7)

十二ケ妬川水(日細)

水郷地域の田舟半役水門

(8)
(9)

は し

岡山大学教育学部社会科教室内地域 研究会第16央報告啓 として ,「古いデルタ虎村 の変貌 一岡山 県吉備町の場合 ‑」を公刊する。

調査の対衷地域 は岡山県都塵那智衛町 である。 明治 2 2年 ム月1日町村制の施行 に エ9 ,庭瀬 , 平野 ,延友 ,西花尻 ,東花尻 ,)圧入の d村が合併 して庭瀬村 に ,T撫川 ,大内 田 ,甲撫川 ,日畑村 乗組 の4村 が合併 して楓 Il村 tn=な ったOつ いで ,庭瀬村は明治54年2月 dE],撫 川村は明治57 年 ム月1日それぞれ町制 を しき ,昔傭此庭瀬町 .都塵那撫川町 となった。その後 ,昭和1 2年5月 5日両町が合併 し音節町が誕生 し ,郡建部 に編入 せれた。そ して古い歴史 を もっ この町は ,これま で新 しい町づ く

b

VC努 めて きたが ,昭和4 6年3月 8日岡山市 との合併に 上 り ,行政単位 としての 吉備 町は発展的に解消 し ,岡山 市の1地区である書簡地区 と在 った.

剖 拓町は東西約5・1KJl,南北 約5.5Km,総両横 10・8 1Kzn3,東Iji岡山 市久米 ,北は御津都一 宮町 か 上び吉備凱高松町 に壊 し ,西は庄村 ,雨蛙早 島町 ,妹尾町 お よび福 田村 に境 を接 してお り ,北菜 の花尻山 .南 西の大内田山を除いて ,すべ て肥沃 な平野で水田が広が っておD ,河川は足守川が町 の西北か ら東商へ流れ ,笹 ケ

川 と合流 して児島湖忙運 してい るO

特産品 としては瀬川 うちわ ,い草 ,丑黄 などが .旧跡 としては撫川城跡 75:どが ある。 また .北部 の山甲には岡山県盲億甘年 の家が あ D ,/ト 中 ・漏 ・大学生 ,動労甘少年 の教育 お よびキ ャンプの 喝 として広 く利用 されてい るo また庭瀬の松林寺 には絹本若色開山別峰国師頂相 (殻画 )が ,用人 の真如院には木造阿弥陀如来立傾 (彫刻 )があ9 ,Vlずれ も県の重要文化財に指定 されてい る。 こ のほか 「話せばわかる」の名言 で有名 な犬垂木丑 の生家 も川

に今 なお残 ってい るo

吉備町は ,そ のほほ中央 を山陽線 ,国道2号親が貫

に通過 し ,しか も県簡新建築都 市の甲核 た る岡山 ・倉倣 両市の甲間要衝 の地位 を占め るとい う地理的条件 に恩 まれ ,最近=場 の進 出を比 じめ , ベ ッドクウ/としての傾向が強 ‑Lib ,昭利 40年a672人であ った人 口は45年把は101957 人 と飛躍的に増加 してい る。

地域研究会は ,肥沃 な平野 で第1次産業 を主た る竜薬 と して歩 んで きた この町 が ,いか75る歴史 的過零 を通 り今 日LR:いた D ,新たな時代 にいか忙対応 し変貌 しつつあるか を歴史 ・地理 ・箆葉 ・経

(10)

.

社会 ・教育 .文化の諸分野 か ら総合的 に明 らかに したい と願 った.

隅宜は昭和 48年7月25日か ら5日間 を本調査 と し ,社会科教官8名 ,教室所 属 5年次学生全 負 ,それ に卒業生 有志の応稜 をえて これに当 た ったo調査 の過程 で種 々討萌 し ,補足訴査 を も行 な い額力 したので あるが ,調査経験 の雄Ln5年 次学生が調査の主 体で あ った ことな どか ら ,不十分 を 箇所 もあ るし ,間違い もあるか と懸念 してい るOこの点 かゆる Lを厭 いたLn。 ともあれ このささや かを研究労作が公刊できたのは ,炎暑に も学ほ うとす る学生 の努力 もさ るこ と75が ら ,調査を通 し て終始暖 かいと協 力をいただいた吉備町史桶 さん委見合 ,盲備 支所 ,吉備公民館 ,婦 人会 ,jR髄 . 商工会 ,学校 ・幼稚園 ,町民 の各位 の1,‑藩であるD心か ら厚 くお礼 申 しあげ る次第で ある。

(11)

調 査 参 加 者

教 官 藤 沢 晋

米 村 昭 二

卒薬生 中 野 美智子 萩 原 一 之 黒 川 勝 代

学 生 村 上 良 子

虫 明

三 浦 道三郎 田 中 史 郎

凍 元 辰 昭 山 下 滋 在 間 宜 久 浜 田 宙 作

藤 田 利 子 小 川 典 子

価 運 郎 宗 田 克 己

井 上 啓 莫

水 元 繁

塩 見 節 子 立 野 悦 子 中 原 住 忠 村 上 啓 子 公 文 紀 子 服 部 瀞 明

岡 本 次 郎 内 田 公 樹 魯 谷 絹 子 田 口 裕 子

安 野 膝

田 平 輝 子 藤 田 正 春 畦 田 正 博

丘 英 子 高 谷 公 子 山 本 成 子 谷 野 良 子 杉 本 佳 准 金 原 子 赤 木 血 菊 山 世 搾 山 本 ひとみ 吉 田 宗 正 平 万 英 子 石 口 乗 畳屋 柴 田 妙 子 ′ト 谷 日出子 上 皿 甫久姓 成 本 智 幸 安 田 未 定 永 野 好 子

前 田 富士糞 中 田 俊 博 赤 木 登 怒子 息 壌 秀 和 長 瀬 勝 志 森 藤 節 雄

口 み ちる 大 壷 勇 二

(12)

第 1 輩 吉備 町の概況

1 位置 ・地勢 ・広ほ う ‑1‥ ‑‑ 一一‑一一一一‑I‑‑ ‑‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑ 日 ‑ 1 2 吉備 町 の沿革 一一‑ ‑‑‑‑一一一‑一一一‑‑‑‑ 一日 一一一日 一一一一‑ ‑一一一・一一‑1 5 現 況 ̲̲‑一一‑1‑‑ ‑‑‑‑一一一一‑ 一一一一一‑‑ ‑‑一一一一日 一一一‑一一一一一‑I 2 第 2牽 自然環境 ‑̲‑ ‑‑‑‑‑‑ 一一一‑ ‑一一一一一一一一‑ ‑‑ ‑‑‑‑‑‑ 一一一一 9 1 地形 と地 質 ‑ 一一‑ I‑‑‑‑‑I‑‑ ‑ ‑‑‑‑ I‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑‑9 2 賃. 候 ‑‑‑‑‑‑‑‑I‑‑I‑‑‑・一一一一一一一一‑一一一一一‑一一1‑日 一一一‑‑‑一一一一18 第 5 葦 人 口 と簸落 ‑‑ 一一‑‑一一一一‑ ‑‑ ‑‑‑‑‑‑一一‑‑‑‑ 一一‑‑ 一一‑I‑27 1 人 口鞘成 とそ の変動 一一一一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑I‑‑‑2 7 2 明胎 28年代 にかけ る庭瀬村 の人 口動態 ・‑‑‑日 日 一一‑‑‑‑‑ ‑一一一一一‑‑‑5 1 5 陣 轄町集落 とその後の変容 ‑一一‑ 一一一日 ‑‑‑ ‑‑‑一一一一‑‑ ‑ 日 日 一一一一‑5 7 第 4葦 古代 ・中世 の吉備 町 ‑一一日 一一‑ 一一一‑‑ ‑‑‑‑一一一一一1‑‑‑‑ I‑‑‑67 1 古代 の生清 一‑‑一一日 ‑‑‑‑ 一一‑ 一一一‑一一‑ 一一日 ‑一一一‑I一一‑一一一一一一6 7 2 甲世 の吉備 町 ‑‑‑ ‑ ‑‑一一一一‑‑‑一一‑‑一一‑ ‑‑‑一一‑‑‑ 一一一一一一一‑ 7 4 第 5章 近世 の吉備 町 ‑‑ ‑I‑‑リ ー一一一一一一一一一一一‑‑一一日 一一日 ‑‑= 一一一一8 1 1 封建 支配 の系譜 ・‑‑‑I‑一一‑‑ ‑‑‑‑‑ = 一一一‑‑‑‑I‑‑‑‑ ‑‑I‑‑‑‑‑‑‑8 1 2 地 方 支配 の機 構 と機能 一一一一一一一‑‑‑‑‑一一日 1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一1 0 2 5 出 来生産 とは民生括 一一一‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑‑一一‑ ‑ 一一一一一‑‑ ‑ ‑‑‑ 1 1 1 4 凶荒 ・災777と救 他 日 ‑‑ ‑‑ 一一‑‑‑ ‑‑‑1一一一一一‑ ‑一一一一‑ 一̲‑̲̲ l l 8 5 庭瀬往来 と庭 瀬港 一日 ‑‑‑‑一一一‑‑= 1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑‑ ‑‑‑‑‑ 15 6 窮 占 牽 近代化 の胎動 ・‑一一一一‑‑ 一一一一‑ ‑‑‑‑‑一一一一一一一‑一一一‑一一一一 l d 1 1 近代化の歩 み ‑‑‑‑ 一一一一一一一一一一一一一一一‑一一‑‑ ‑ ‑‑H H1‑‑‑ 1 6 1 2 地方 自治 の展 開

第 7牽 経済 部造

‑‑̲̲̲̲̲̲̲̲̲‑̲̲̲̲̲̲̲1 7 1

‑̲̲I̲̲̲̲̲̲I̲̲̲̲̲̲1 8 7

(13)

1 農業 の発展 一一一一一‑ ‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一1‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑一一一一一一一187 (Jl) 農業技術 と生産 力の発展 = ‑ ‑一一一一一‑ 一一一1‑ ‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑ ‑‑‑‑187 (ロ) 商品作物 の前人 と発展 ‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑一一一一一一‑ ‑ ‑ ‑一一一21占

(ノう 虎耕地の変動 と皮民層の分解 ‑‑‑一一一‑‑一一一‑ 一一一一‑ ‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑一・224 2 鼻薬 桝造 ‑‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑一一‑ ‑一一1‑‑‑‑‑‑‑日 一一一一一一一小 一一一‑‑‑ 1250 (1) 水利航行 と座業用水 ‑‑‑‑一一一一‑‑ 一一一一一一一1‑‑‑‑‑I‑‑‑‑一一一一一一一‑250

( p

) 特用作物 とjA

一 樹

‑‑‑‑ 一‑‑‑‑‑ ‑一一一一一一一一‑ ‑‑一日 ‑‑ 一一一‑‑ 一一259

(/う 畜 産 ‑ ‑ m ‑一一‑ ‑‑ 一一一71‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑ 一一一一‑‑‑‑275 5 林 業 ‑一一一一‑‑‑‑‑ ‑I‑I‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑一一一一‑ 一一‑ 一一一‑一一一一 285

( イ )

共有林野 一一一‑ 一一一一‑ ‑‑ 一一‑ ‑一一一一一‑一日 ‑‑一一‑‑ 一一‑ ‑一一一,285

( ロ

) 山林の利用形態 と林産物 一一lH l‑一一一一一一一一1‑I‑I‑‑I‑‑ ‑ ‑‑ ‑‑289 4 工 薬 ‑ ‑‑ 一日 ‑‑‑I‑ ‑‑‑一一一一‑ ‑‑一一 ‑ ‑ ‑I‑‑I‑‑一一 ‑一・295

( イ )

工業 の発運 と現況 一一‑一一一一一一‑‑‑ ‑‑‑一一‑‑‑一一一一一一一一一一‑‑‑ ‑‑ ‑295 (ロ) 楓 II団 扇の歴史 と現況 ‑ 一一一‑一・一一一一一‑1一一h H 一一一‑‑‑‑‑‑‑‑一一‑510

(/う い草加工英 一‑ 一一‑ 一日 一一一 一一日 ‑‑‑一一一一一一一一一一一一‑ ‑‑ ‑一一一一515

( ‑

) 主賓 夜=場 ‑‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑ 一一一日 ‑ H H ‑‑ 一一一一一一一 522 5 商 英 一‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ h H ‑‑ ‑ ‑I‑‑‑I‑ ‑‑551 (イ) 商業 の推移 と現況 一一一 ‑I‑‑‑ ‑‑‑‑' ‑ ‑ M H H 551 (ロ) 昔備町 とその商圏 ‑‑一一‑ ト ー‑ ‑‑一一 ‑I‑ ‑ ‑ ‑ 一日 549

(/う 商工会の活動 一一‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑‑ ‑‑‑‑ ‑小 一 ‑‑‑ ‑ ‑ ‑ 5占5 第 8 箪 遥 輸 ・交通 ・通信 ‑I‑‑‑‑‑一一一一一一一一日 一一 ‑ 一一 ‑一一‑I‑・一 一 ‑575 1 山陽線の開通 とその後 の鉄通輸送 ‑ ‑ ‑一一一‑一一一一一‑I‑一一一 一一一‑‑ ‑I 575 2 国道二号線 と青備町 ‑ I‑〜‑‑‑‑‑‑‑‑ 一日 ‑‑‑1 ‑I‑‑‑‑ ‑‑ ‑581 5 郵便 ・屯信 の普及 ‑‑一一一一‑‑ 一一一一一一一一一一一‑ ‑ 一一一日 一一一一一一一一一1 411 第 9 車 社会 構造 ‑ ‑‑ 一一一一一一一‑ 一一一一一一一一一日 一一一一一一日 ‑I‑‑‑‑‑▲421 1 家 族 ・一一‑ ‑‑‑ 一一日 1‑ ‑‑‑I‑‑‑ ‑‑ ‑‑ 一一一一一一・,一一‑一一一一一一一421 (イ) 家族 偶成 一一一一1‑‑‑‑‑‑‑日 ‑ ‑‑ 一一一日 一一一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑I‑421

(14)

( ロ )

役割 分担 一日 一一一一一一一‑‑‑ ‑‑一一一一一日 ‑I‑‑ ‑‑‑‑日 ‑‑ ‑一一一一一 425

( ,

う 親子関係 ・一一‑ ‑‑‑‑ ‥ 一一一‑ ‑‑ 一日 一一一‑一一‑ 一一一‑ ‑‑ ‑ ‑一一 45 1 2 同族 と親族 一一一一一‑‑一一‑‑‑‑‑一一一一日 一一一一一‑‑‑ ‑ 一一一一一‑‑‑‑‑‑ 441

(イ)調査地 の概況 一一一‑一一一一一一一一一日 一一一一‑ ‑ 一一一日 ‑一一一一一一一一‑ ‑ 441

(ロ)同族 の鞘成 と機 能 ‑ ‑‑ ‑‑ = ‑‑‑‑‑‑ 一一一日 ‑‑‑一日 ‑ ‑‑‑‑ 一一445

( /

う 親族 の範囲 と分布 ・一日 ‑‑ ‑ I‑‑‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑一日 ‑‑ 一一一‑‑ 450 5 膿薬協 同組合 ‑ 一一一一一一‥ ‑ 一一一‑ ‑‑‑一一一一一一一一一一‑一一一一・一‑ 一一‑‑ 467 第 10牽 宗教 と民 俗 ‑‑‑‑ ‑‑ ‑‑ ‑‑一一一一一‑ ‑‥ ‑‑ ‑1‑‑ ‑‑‑ ‑‑‑ ‑485

1 社 寺 一一1‑‑‑‑‑一一一一日 ‑ ‑‑I‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑一一‑‑一一一一一一‑‑‑ 一一 485 2 年中行 沓 一一一‑一一一一一一一一一一一‑‑‑一一一一1‑‑‑ ‑‑‑ ‑‑‑= ‑‑‑‑一日 ‑‑‑495 5 民 家 一一日 ‑‑ ‑‑‑ ‑‑一日 ‑ ‑‑ 一日 一一 ‑‑ 一一‑‑ 一一‑‑‑ 一一一一 500 第1 1車 教 育 ‑‑‑‑一一‑ ‑一一‑ ‑‑‑‑I‑‑I‑I‑‑‑ ‑‑‑‑‑一一一‑‑‑ ‑‑‑507 1 近世の教 育 一一‑I‑‑‑‑I‑‑‑1‑I‑‑I‑I‑‑‑‑ ‑‑‑I‑‑= ‑‑‑‑‑‑507 2 近代 の学 校軟骨 ‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑一一一一一一一一一一一日 ‑‑H H ‑‑‑‑一一一一一515 5 社会教 育 ‑一一‑‑I‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑I‑‑‑‑ ‑‑ 一一二小 ‑ I‑‑‑ 529

(15)

第 1 葦 吉 備 町 の 概 況

1

位 置 ・広 ほ う ・地 勢

吉備町 (現岡山市吉備地区)紘.岡山県中南臥 平温 な岡山平野のほぼ 中央 に位置 し,東径1 55

0

50J 〜 15 5055'',北緯 5405 7′〜 5404 0/の間作あ る。東部は,旧岡山市 に ,北部披.旧吉 備郡高松町 と旧御津郡一宮町に,西部仕 .旧都建都庄村 .南部は旧都銀郡福 田村 ・妹尾町及び都銀郡 早島町に隣接 してい る。

東西豹il払 ,南北約5.5KEl.総両横 10.8 1bカの托将長方形 の町である。

書備町はその大部分が模高2‑ 5m橿庇 の平坦 竜神耕平野であD,わずか に北東

に吉備中山の一 部 を,南西部 に額山の一部 を含むが ,これ らは標石 1007TL程度 の花樹岩類 と古生屑か らなる低Lへ丘 陵であるo

この町の北西か ら南東 にかけて足守川が流れ ,町 をはずれた東部にかいて笹 ケ瀬川 と合托 し.南下 して児島

に注いでい る。

2

吉 備 町 の 沿 革

昭和1 2年5月5日.吉備郡庭瀬町 と都銀郡兼川町が合併 して吉備町膿 生 した。同 日都銀郡

に編

入され .さ らに昭和4 6年 5月8日,岡山市 に合併 した。

旧庭瀬町 の地域は.幕藩制期には,戸川氏 (座長五 〜延宝七) ,つ いで横倉氏 (元敢十二年〜) 普 領主 とす る庭瀬藩領 (中田村 .延友村 ,平野村西.平野村仲分 ,西花尻村 .東花尻村 .川入村) を中 心に.旗本戸川氏の撫川領 (三 EEl村) ,蒔田氏の蛇足藩領 (延友村) ,旗本蒔田氏の三須領 (平野相 乗)等の飛地か ら成 っていた。

旧撫川領 の地坂は,#津別期 には,座長五年〜延宝七年までは .虞漸帯主戸川氏債 ,以後旗本 戸川 氏領 に屈す る下凍川村 ,中嶺川村 .大字 日畑東銀 q):三 力材及び倉教代官所支配の幕府直将領 としての 大内田村か ら成 っていた。

大政奉凱 版頼奉軌 廃藩思腺 の変革 咋よって,明治4年7月 ,庭瀬帝 ,洩尾藩はそれぞれ廃液県 , 洩尾脱 となる。また.明治元年5月1 7日,維新軌 付紙倉敷県を殻思 し.旧幕府直棺領 を管柵 し,大 内B]村はその管轄 に入 った。5年 5月には水本戸川氏儲 (撫川領) ち,倉敷県の管轄下 に入 った。 明 治4年1月 .探絶勝の設

によって,庭瀬腺 .洩指腹 ,倉敷県はそ の中に編入 され ,さ らに明治5年

5月5日深津県を小田原 と改称 .明治8年12月.岡山保に合併 した○

旧庭瀬町 の地域は,郡区町村綴成法 (明治11年7月22日.太政官布告18号)に基づいて.同 年9月2 0日に設催 された架限郡長の管聴下 に入 D.また旧

#J

lL町 の地域は同

に都窪郡長 の管轄下 におかれた。さ らに明治2 7年 5月2 9日,勅令第 5 1号によi),都字郡 々役所 と錘尾部 々役所紘合 併され て,都宇部窪屋郡役所 となったO 明治55年5月 4日,法律第2 8号 に上って.賀陽郡は下道 郡 と合併して書備郡 と在 り.都字郡 は睦屋郡 と合併 して都窪郡 となった.行政区面 としての都制は,

‑ 1‑

(16)

大正 12年5月5 1日廃止 されたo

廃藩駄県後 ,幕帝制下 の村落の合併が進展 をどすしろ。 旧庭瀬町の成立渦巻 をみると'明治8年9月25日vC, 延 友村 ,平野村 (東 .西 ,沖分)摘 花尻村 ,東花尻村が合併して甲郎 寸となり,明智10年2月15日'中田村 '三田 村及 び甲南村飛地㌍合併 しこ庭瀬村になったO同 日,甲南村は中 EH村 の飛地 を力晩7㌔ 明治14年9月2日'甲南 村 は延 友村 ,平野村 ,西花尻村 ,東花尻村 の4ケ付に分社 Lたが '市町村 別の公布 (明治21年4月法律第 1号) に基づ き.明治21年6月 1日 ,庭瀬村 ,延 友村 ,平野村 ,西花尻村 '東花尻村及 び川 入村が合併 して 庭瀬村 が成立 した。 さらに明治5 4年2月 4日 '庭瀬町 となった。

旧撫川町 の成立につ いては .明治2 1年4月の上記 「市町村制

に基づき周 年6月 1日,下鹿川札 中撫川村 ,大 内田札 日畑取組が合併 して嵐川村 と7M ,明治5 7年6月1日,撫川町 となったo

昭和1 2年 .庭瀬町 と瓶用町 の合併 によb菅備町が成立 し,昭和4 6年5月 8日.岡山市 に合併 し て.岡山市昔備地区 として現在 にいた ってい る○

3

(イ) 概 況

吉備町 は (表1‑ 5‑ 1参 照)昭和5D年世帯数1.858 戸,人 口総数8,5 1 2人であ ったが. 5 5年 には1,8 占 5 戸 ・8,25占人 と世帯数27

葬 1‑ 5‑ 1 世帯数 お よび人 口 (書備町 )

昭和5 0年 昭和5 5年 昭和4 0年 昭和4 5年 世 帯 数 1.858 1.845 2.121 2.884 人 口総数 8,512 8.256 8.672 10.957 罪 4.DD2 5,945 4.151 5,125 女 4.510 4,295 4,521 5,852 戸増 ・人 口総数7占人波 とを (注) 岡山腺市町村券要覧 (昭和52, 59, 44. 46年版)よD。

9, 4 0年 には2.12 1戸・8,6 7 2人 と世帯数2 5占戸増 ・人 口総数4 54人増 とな b,さ らに, 4 5年 には2.88 4戸・ 10,9 5 7人 と世帯数7 85戸増 ・人口総数2.2 8 5人増 となってい る。

また産業別就凍者数 を第1次産菜 ,第2次塵廉 ,第5次産薬 の5部門にま とめてみ ると (表 1‑

5‑ 2参照) ,昭和5 5年 においては第1次産業就業者数1.4 0 4人 (5 5・8頭) ,第2次産農 1,1 57人 (2 9,0飾),第5次産業1.5 8 2人 (5 5.2年)であ ったが ,そ の後 次第 に第 1次亜美 就薬者が減少 ,筋 2次・ 襲 1‑ 5‑ 2 産業別就薬者撒 (吉備町)

第 5次産業就業者が増 加 し,昭和4 5年 には 第 1次産業1.2 5 2人 (2 1・7帝).第2次

典 1.8 5 2人(52.1 飾),第5次産菜 2.6 4 9人 (4 5,9飾) と 就業者政にかいて も.

昭 和 5 5年 昭 和 4 0年 昭 和 4 5年 第1次垂井 1.404 (55.8) 1,595 (51.5) 1.252 (21.7) 第2次産業 1.157 (29.0) 1.507 (29L4) 1.852 (52一1) 第3次産 業 1.582 (55.2) 1,750 (59J5) 2.649 (45,9)

(荏) 岡山邦統計年報 (昭和58, 40. 45年) よ

b

算 出。

( )内性構成比 再を示す。

またそ の構成比 にかいて も第1次産業 は就少 し.筋 2次 ・約 5次産業 は増加 してい る

‑ 2‑

(17)

このような近年の世帯数な らびに人 口群数の急増 ,しか も垂薬別離共著数 ならびにそ の構成比 にか け る第1次産業 の減少,第 2次 f第5次鹿央 の急増 という現象吐,本町が岡山市 ,倉敷市 を中心 とす る県南広域都市圏の中間音節 の地位 にあって .しか も山隈橡 ,国道 2号顔が当町 を東西に通過す ると い う地理的条件に恵まれ てい ることか ら,最近工場 の進出をは じめ.岡山市のベ ッ ドタウンとしての 傾向が強ま ってきた ことに よるものと思考 され るo

(ロ)産業 の現況 (a)窮 1次産業

吉備町は岡山 ・倉教両市 の接点 としての地位 を占めてい るだけ に.安通 の発達 と都市化 の進展 にと もない,本町の農薬 をと9ま く経済社会環境は急速 に変ほ うしてい る。衆 1‑ 5‑ 5によれば ,姓家 政は昭和5 5 表1‑ 5‑ 5 鹿家数および経営排他面舵 (吉備町)

年8 59戸, 4 0年 827 戸, 45年8 05戸と減少 傾向をた どっ ておD.こと に農家の階層 が大 き く変動 し.昭和5 5 年卑薬兵家数 5 5占戸 (漁 家総数の41.

4%),##

A家故 5 0 5 戸 (同 58,A

飾)であった が, 4 5年

は専典故家数 10 0戸 (義

昭 和 5 5年 昭 和 4 0年 昭 和 4 5年

A

専 業 556 (41.4) 149 (18.0) 100 (12.5)

米菓 第 1 種 524 (57J7) 587 (46,8) 515 (590) 家

顔 第 計2 種 179505 ((2058..8占)) 291 (678 (5582一.2

0 )

) 705590 ((8748.5‑5))

計 859 (100

.

0

)

827 (loo,0) 805 (100.0)

5 na‑ 1〜 5 0a.O丘α 517553 511515 5Dd514 耕

也 1.0

ん α

〜1.5んα 185 176 158 氏狭

1 . 5 九 α

〜 2.

0 ん α

20 22 22

刺A 2.0九α〜 2 5 5

数 例外 規 定 鹿 家 4 ‑ ‑

合 計 859 827 805

5

1154

17 h a

5518

5 ‑

.

7

h a 504

21.

. 8

9

九 α

耕地

南棟 樹 勝 地計 58占?..79 5占210..47 554.7.42 (荘)岡山頻統計年報 (昭和5占, 40, 44年) よbo

家総数の12.5 ( )内は構成比 蕗を示すQ

宙) ,来英銀家数7 05戸 (同 8 7.5飾) と農家数においても.また構成比 に=糾 ‑1て も専業勝 壮散 渡 し,兼薬兵家が増加 の一途 をた どってか D,しか も渡英般家のをかで も筋 2楼兼薬姓家が昭和5 5 年179戸 (鹿家総数の20.8多) であったのが. 4 5年 には5 9 0戸 (同4 8・5率)に増加 してい

る○

このような良家数 の減少 と兼薬化 の進むなかで ,昭和45年におレゝては曲東総数8 O5戸のうち経

‑5‑‑

(18)

営耕地面耕 1hα以下の免家政は占2 0戸 (農家総数 の77・2序), 1ha以上 の農家数185戸 (同2 2.8飾)で. 1戸当 b平均経営排他両横 は6 6・5aとな ってい る○

また経′昌博f地面横は.住宅 ・工場 .そ の他へ の銀地転 用 の急増に よb減少 を続け ているoただ畑 の みは増加 してい るが ,ウエイ トは微小である。 田は淑少 してい るが. 4 5年経営耕地総面稗の うち9

45多を占め (黄 1‑5‑ 4参照), 表 1‑ 5‑ 4 経常耕地両税 水 田率は全乳 岡山

に比べ て高い。

次に当町 の特産品 としてのい草は ' 従来 鹿家 の大 きい所得源であ ったが . 最近 比後退 の傾向にあ る。 岡山県全 体 のい草作付両横 ・収穫

i

止は .東 1

‑ 5‑ 5の ように年 々就,少傾向 をた どD,昭和5 2年 に作付両横 4.472・ 7ha,収穫‑Llr49,000トンであ った が .昭和4 5年 には作付面僕2,050 ha.収穣丑 2q.180トンと半減 した。

この昭和45年収穣iT:.・は全国 シ ェア

経営耕地 田 畑 樹 Eil地

棉 成比

㈱ 盲 昭5 5年 100.0

9& . 0

2.5 1.7 偶 4 8 100.0 94,8 5.5 1.8 町 45 100.0 94,5 4.1 1.4 岡 5 5 100.0 74.1 21.8 4.2 山 4 0 100.0 75,5 19.9 4.8

4 5 100.0 75.2 19.2 5,6

(荘)吉備町は岡山腺統計年報 (昭和Sd,40,44年)よ b 井 出。 岡山県 と全国は 「統計か らみた岡山県」 (54 ページ) よb 。

20・5虜,第2位で ,いせだ全国で大 きいシェアを 占め て壮い るが.価格 の急騰急落 にともない生産丑 の変動が撤 しく投機性が強 く, しか も主産地であ る 岡山 ・倉敷近郊 の都 市化 の進行 ,農業労働力の不足 , 他県 (九州 .四国) の進 出に よる競合 も激 しいため , 後退 を余儀 な くされ ている。 このようない草 をと b ま く環境 のなかで ,岡山 ・倉敷両 市の接点 としての 地位 を占めている吉僻町 のい草は ,表1‑ 5‑ 6の ように,そ の作付百校 ・収確 立 ともに年 々滅少の一 途 をた どってい る

昭和4 5年2月1日現在 の保有山林両横は1 17 haで ,そ の うち天然林1 1

5

ha.人=林

2

haであ る。

山林地域 は地味不 良な粗感林が 多 く.用材生産 に適 せず .また生活様式の変化 によ9,架材 による薪炭 常食 も減少の一途 をた どってV,るため ,林集 として の経営はな bたた‑ない のが現状であ る。

(b) 第2次産業

総理府統計 局が 5年 ととに行 な ってい る rS楽所 統計調査」 VLよると (表1‑ 5‑ 7参照),昭和44

‑ ̲4

表1‑ 5‑ 5 い 草 (岡山鬼) 作 付 両 所 収 穫 母 昭和52年 4,472,7

h

a 49.ooot

5 5 5.6992 59,SOD 4 0 5.890 42.600 42 5.580 59,200 4 4 2,870 51.000 45 2.050 20,100 (注)岡山原 統 計 年報 (昭和 5占.40,

45年) よD。

表1‑ 5‑ 6 い 草 (吉備町) 作 付 面 棟 収 穫 もi 昭和5 6年

162h a

1,897t

5 8 212 1,9?8 4 0 161 1.720 4 1 140 1.550 4 4 129 1.458 (注) 岡山脱 市町村教習覧 (昭和57,

59・41,42.45年版) よb 。

(19)

年号備町にかけ る第2次 産兵に属す る審美所数は 2 2 0(事業所総敢 565 の5a 9飾).従業者 数 は 1・819人 (従業 者総叡

5,5 9 0人 の5 0,7多) で .従業者数は昭和5 5 年 の8 18人 の2.2倍

増加 してい る。そ の うち 娼 投薬は串某所数 5 4.

従発着数2 4 7人 .救造 業は事典 所教 18 6,荏 弟巻数1.5 7 2人 で ,こt・ 忙到造薬 事業所 の従集者

故 1.5 7 2人 は従兵者総 数 5,5 9 0人 の4 5・8多

表 1‑ 5‑ 7 産 業 別 事 業 所 数 ・徒弟者数 (吉備町) 亜 完 昭 5 5. 6. 1 呼 44, 7. 1

車 某 所 数 従 菜 者 雛 串菜所数 従 兵 者 数

堅 磁鉱 殻 某美 21‑ 92‑ 54‑ 247‑

産吹莱 輿 進

一等 219198 726818 186220 11..819572 第

卸売典. 金 融 .保

小 売 巣険 業 1744 40526 1778 61756

吹 運 輪 . 通 イ言 ±蕉 9 95 15 585

産 現気 .ガス.水 道虞 1 Ⅹ 2 29

薬 サ ‑ ビ ス 三藁 87 255 110 658 鮒 277 762 545 1,771 総 故 496 1.580 565 5,590

(江)岡山煉統計年報 (昭和5d1 45年) よbo をも占めてい るので ,次

典 を概観す ることにす る。

昭和4 5年 12月5 1日現在 で実施され た工菓統 計調 査 (通商産某省所管)の結果に よれ ば (葬 1 表 1‑ 5‑ 8 製業 の弟 種別 駐英 所激 ・従兵音数 ・製 造品 出荷額 等 (青備町

)

(単位金額 万 円)

業 種 昭 和 5 5年 昭 和 4 5 年

事典所敏 #簸Eb # 遺 品出荷敬等 事共所数 従 業者数 水 道 品出荷額等 食 料 品 製 造 英

4 之

9 1.861 4 80 21.555 級 維 工 業

5 45

7.594 5 47 15.2占0

衣服そ の他 の繊維輿晶叔遺 業

‑ ‑

1 冗 冗

木 材 , 木 製 品 射

‑ ‑ ‑

‑ 2 48 20.445 家 具 装 備 品 乱 造 4

4 2

2,615 18 202 54.154

パル 7.軌 叔加工 品製造弟 1

‡ Ⅹ 1

Ⅹ Ⅹ

出 版 印 刷 . 同 駅 連 産 廉 1

Ⅹ Ⅹ

2 142 88,585 化 . 学 工 弟 1

冗 Ⅹ ‑ ‑

I‑.ll.I ‑ 裁めし力め 同製品 毛皮 熟達農 1

2 21 2.029

窯 業 . 土 石 水 晶 輿 造 兵 1

4 50 28.588

金 属 製 品 製 造 業 ‑ ‑ ‑ 9 178 48.551 一 般 機 械 器 具 灘 遺 業 8 180 8,092 10 475 525.202

輸 送 用 横 棚 番 異 教 造 兵 1 Ⅹ ‑ ‑

■ ‑

柑 密 機 械 器 具 製 造 業 ‑

■ l l l ‑

1

そ の 他 の 磯 遺 業 157 3

73 1

6,405 105 2 48 27.1

90

(江) 岡山県統計 年報 ( 5 6, 4 5)90

‑5‑

(20)

‑ 5‑ 8参照) .吉備町 におけ る昭和4 5年全教造業 の匙遺品出荷額等は昭和5 5年59・5 75万 円 の約 16倍 の占5 1,159万円であ る。 ことに一般機械器具斜道菜壮 10の事兵所 (創造美事茶所総 数1 6 0の占.5飾)で従業者4 7 5人 (興造築従菜 者総数1,4 5 1人の5 2・7蕗) を擁 して,水道品 出荷額等5 2 5,2 02万円 (全穀造兵 出荷額等65 1.15 9万円の5 115飾,昭和5 5年出荷飯等

8.09 2万円の約40倍) をあげ てい るo次V'で事業所軒 2,従業者数14 2人の出版 印刷 ,同関連 産業 が穀造品出荷額等88,58 5万円 (全製造農 出荷痕等 の14・0帝) を,事業所赦 18.従薬者数 2 02人の家具装備品救造兵が5 4.15 4万円 (同ad帝,昭和5 5年出荷甑等2.6 15万円の約2口 倍) 杏,部某所教 9.従発着数17 8人 の金属製品製造業が4 8,5 5 1万 円 (同7・7序 )の水道晶出 荷額等 をあげ てい るo

h魁晶の町 として栄えたが .原料い草 の生産 は既述 のように最近後退憤向にあ 9. しか もい魁品の 晶質 ,価格 の面で後進地 と競合 してお 9,特に化学製品のP'Pに押され .伸び悩み の状態で逐次後 退 しつつある (第7薄経済構造・4=菜 ・H h草加工兵参照)。 これ に代わ って,機械器具 ・金属救 晶 .家具装備 品など当町にとっては新 しい製造薬が最近台頭 してきてい る0

(C)第5次産菜

表1‑5‑7によると.昭和44年吉備町vcおけ る第5次産業に属す る専業所数は5 4 5 (事業所 総数 5 6 5の6 1.1

飾)

,従業者数は1.7 7 1人 (従兵者総数5.5 9 0人の49.5

・)'で,卓業所凱 従業者数はそれぞれ昭和55年 の112倍, 2・5倍 に増加 している。そ のうち事業所数 ・従業者数が と

くに多いのは卸売薬 ・LJ、売薬 ,サー ビス業である。

表1‑ 5‑ 9 規模 (常時従業者 による)別商店数 ,常時従業者数 . 年間商品版売額 (吉備町)

規 模 別 昭 和 5 7年 昭 和 4 5年

商店数 従兵者数 年間販売額 商店数 従兵者教 年 間 販 売 額 1^〜 5^ 145 250 19.875万円 140 259 79.2日 万円 4人〜 9人 10 54 18,712 21 125 104,415 1 0人〜 19人 5 41 27,885 4 占7 51.277

2 0人.‑ 2 9人 ‑ ‑

‑ ‑ ‑

50^〜 49^ ‑

‑ ‑

1 Ⅹ Ⅹ

5 0人〜 99人 ‑

‑ ‑

1 Ⅹ Ⅹ

1 00人 以 上 ‑

‑ ‑

1 Ⅹ Ⅹ

(荏) 岡山県統計年報 (昭和5占' 4 5年) よD 。

表1‑5‑ 9に よれば.伯和45年書傭町内に存在す る卸売業 ・小売業は商店数168.従業者数 占82人 ,年間版売額5 占4,99 0万円である。昭和57年当時にかいて絞 ,従兵者2 0人以1 の規 模 の商店 は存在 してい72か ったが ,捌 口4 5年 には 5商店 出現 している。 なお昭和4 5年巣種別商店 軌 従業者数 ,年間版売額 を表示すれば .表1‑5‑ 1 0のようである。第7牽経済耕造.5商業で

‑i‑

(21)

表1‑ 5‑ 10 業種別商店軌 従業者軌 年間

依 託 額

(45・6・1) (吉備町) (単

位 金 額万円 )

兵 揮 別 商店数 徒 桑者 故 年 間

廉 売 額手数 サ ー ビ 料

耕 収入 額

の他 の

卸 売 兵 15 258 244,971 ll,551

代 理 商 . 仲 立 業 1 Ⅹ ‑ Ⅹ

各 種 商 品 ′ト 売 薬 ‑ ‑ ‑ ‑

放 物.衣服 .身の回

b

晶小売果 15 57 7,116 50 飲 食 料 品 小 売 業 dD 146 48,840 2

飲 食 店 27 72 7.755 ‑

自動車 .自転車.荷車等小売弟 6 19 15.871 562 家具 .建具 .じゆう器/J、完策 14 55 ll.905 275 そ の 他 の 小 売 業 52 155 28J 52 161

(注) 岡山県 市町村勢費覧 (昭和4 5年版) よ

D。

蛾扱 っているように,昭和55‑ 45年 の10年間に剥ける当町 の卸 売業 ・小売業は,大体 にかいて 岡山yJ'i‑全体 よ

D

もそ の伸長 の度合が高い。 これ仕,当町が腺南広域都 市圏の中核 であ る岡山,倉敷両 市の接点 としての位置 を占め.しか も国道2号点 と山陽藤が東西に走 るとい う地理的条件 に恐まれて いることか ら,最近内陸工業用地あ るい仕岡山.水 島の臨海工菓地帯のベ ッ ドタ ウンとしての傾向が 強ま ってきた ことによるo

←う 教育 ・文化 ・医療施設等

教育施設 としては中学校1(公立) HJ、学硬 1(公立) ・幼稚園 2(公立) ・短期大学1(私立) が ,文化公共施設 としては公民館1・社会体育施殻 1が を b,また水道普及率は9 0・占啓 (4 5・5・

5 1現在) .テ レビ受信契約数2,4 05 (4 5・5・3 1現在 ).有線放送加入Ⅷ語数8 9 1 (45112・

5 1現在) である。 医療地殻としては一般診席所9・病院一般診療所病床数551歯科診療所5・医 師12・歯科医師5・薬剤師6 (4 4.1 2・5 1現在) で.そ の他公衆浴場が2軒あるo

(j 史跡 ・文化財等

松林寺 にある納本若色開山別格国師頂相 (栓面) ,禾如院 の木造阿弥陀如来立健 (影亥の ,史跡 と して#Jll城跡 ,伝賀陽氏頗跡が脱 の指定文化財 として,また撫川 うちわ製作技術の保持者 として布野 定番氏が腺無形文化財 に指定 され るなど,書傭町 には腺 の指定文化財が5件あるo

また犬輩大豊生誕 の家が大字川人にあ9.‑スて有名な大賀一 郎博士 (当町 出身)が木生食 の辻徳 をしのんで,かの名言 「話せばわか る」の文字を劇んだ碑が,1、学校校庭 (大字庭瀬) に建て られてい るO

的 岡山市との合併

岡山市.倉敦市を中心 とす る県南地域は.新盤ぷ都市 として指定されて以来 ,全国的な開発拠点 と

‑7‑

(22)

して注 目をあび,しか もわが国経済 の急速 A攻究展にともない,岡山 ・倉敷両市の接点 としての地位 を 占め る吉備町は ,=場用地あ るいはベ ッ ドタウンとしての傾向が強ま D,いわゆる地域革命 の進行 に ともない,著 しく変ほ うしようとしてい る。すなわち経済社会 の発展過嶺にIJA,いて顕在化 した地域経 済 の変動 によって,市町村 の区域 をは るか に越えた広域的 な 日常生活が営まれ るよう

に な

D,市町村 の区域 よ

b

広域 夜範囲 におけ る中心都市を核 とす る中心指向型の地域社会が形成され ,行政 において も広域生括潮 にかけ る常襲 に対応する体制整備の必要 にLj‑せ られ るようにをってきた。

この ようを情勢の もとで ,昭和4 占年 5月8日岡山市との合併に よ

D

,行政単位としての吉備町は 発展 的に解 消 し,岡山市の 1地区 としての盲備地区 と在 ったわけであ る。長期的 .広域的視野 にた っ て,創意 と工夫 を加えた計画的恵都市づ くDの一環 としての吉備地 区づ くDを進め ,近代的 75:頓能 と 膏偶地区住民福祉の向上 を推進す るために,市当局は もちろん地区住民 の一層 の梢進 を念庶す るもの であ る。

‑8‑

(23)

第 2 葦 自 然 環 境

1 地 形 と 地 質

吉備町 は .岡山県中南部 ,平短 夜岡山平野のほほ 中央 に位 置 している.そ して ,東 部は岡山市に 北部は旧吉備郡高松町 と旧御酔郡一宮町VC.西部は旧都建都正村に ,南部は都窪郡福 田村 .早島町 , 旧妹尾町に隣接する ,両帝 1.08 1切′.人 口・1D.957人 (昭和45年10月国勢調査 )のほほ 長方形 の町である。

吉備町は ,その大部分を標高2

‑ 5m竜虎 の平連 な平野が 占め , わずかに北東部 に吉備 中山の一部 を .南西部k:旗山の‑部を含 むが これ らは ,標高 100m種皮の花 樹岩類 と古生膚か ら成る低 い丘陵 で ある○ この町の北西か ら碑東に かけて足守 川が流れ ,この川は , 吉備町 を少 しす ぎた地 点で笹 ケ瀬 川 に合流 して,児島帝 に注 いでい る.また ,国道2号漆 と国鉄L日傍 本線 が この町の中央部 を東西

には

しってお D.岡山市 の中心部か ら 約dl卯 の この町 は ,非常 に交通

の健 の よい ,ひらけた町である。

吉備町の大部分を占めてい る平

‑ 軌 EZ )漂 若 岩 窟

∈ ≡ ∃

■ 区∃ 石英閃舶 E f 3

] 山 砂 利 J

I [

::コ 沖 繊 層

阻2‑1 1 地 質 阻 r耶LLJ t'1963):r軌 11鼎地文 図 よ り

0 1柵

捜75平野を構成 しているのは沖横膚 であるが ,沖′耽層 と一 口にいって も,人に よっていの定義はか なり異 なる三) 「沖棟屑 」は ,欧米 では普通 ,水辺の堆櫛 軌 と くに

川ぞいの堆成物 より成 る地 層 の意味 を もつが ,これに対 して 日本では . 「洪枕層」と対忙しズ 時代的 な意味 を もたせ る用法が多 い ようであ D,最近の 「沖耕屈」の用法は .次の2つの意見が強い 上うであるo 「第四紀沖棟世 , すをわち最終氷期最盛時以後に .主 と して水成堆鉄に エD形成 された地層 」 とする意見 (井関

1962沖 最後の (約18.0 0 0年前の )低海水#̲期以後の堆額物のすべて とする意見 (た とえば 渉EB.19 日 )と,殺後の海水準1昇湖の問の変化状態に対応 して細分される (約1 0.000年 前の/」、低下糊以後 の )平野下唯横物の上部のみ とす る意見 (た とえば .有明海研 究 グルーブ, 19

6 5)である。 この ようにいろいろな意見 はあるが ,ここでは ウルム氷期の殺大海低下湖 (約2 0.

000年前 )以後の堆耕物 を 「沖横届」 とする0

‑9・̲

(24)

さ て . ウルム氷期以後の 海面 上昇 の梯子は ,見境 爽平

5 k

lると投 式 的 には図 2‑ 1‑ 2の よ うで あ った と考え られてい る。 この図を見 る と 現在の 海面 よ りわずか で(rまあるが海 両 の掻い時畑 が 存在 した ことに気づ

(。 この海 面上昇 期につ いて ,彼は 次の よ うに述べ ている

「この縄文 海 進 とよばれ る ものは .縄文時代前 糊 に最 高位 に遷 し,その後 ,多少の 海 面低 下 に よって現在 の水準 にさが

対 比ビ l水 叩

図 2‑ 1‑ 2 約2万年以来 の海面変 化 の模 式 曲線 日本の考 古学1 先 土.監護時 代 p4 1よb

地 平 時 代 絶 対 年 代

った こ とが ,日本の各地の月 凄 .と く関東地 方のJa壕の研究 に よって知 られ て いる .な お .縄 文時 代 中 ・後期の海面低下や弥生時代 ころに ,/トさい海面 上昇期がかん が え られ て い る

。」

これ を岡山県 につ いてか ん が iてみ ると ,岡山腺 南の 瀬戸内低地帯 に外海 か ら海水が 没入 し始 るのは ,ち ょうど旧石器 文化 食後 の人 々が居住 していた ころ で ,今か ら約 1万年 くらい前 と推定 さ れて いるO以 後 ,海 水の流入 とともに海面 は除 々に上昇 し.経文時代 早 期 に至 るまで続 き ,縄文 時代前 期に な って ようや く停 止.+ る

さ て この吉備町 大内田 には ,大 内田見 牒 とよぷ縄 文 時 代 後期 の 逸物 を主体 と した見様が知 られ ている。 この月項は 国鉄山陽末娘庭瀬駅 の南西部の塚 山の北斜 面 につ くられた もの で .瀬 戸内 の縄文 遭跡独特 の立地 点 ,つ ま

b

谷 口につ く られ た砂洲 上地形にの っている。 この見壕 の堆 横状態を 模 式的 に示 した ものが図2‑ 1‑5で ある。 これ について

「岡山県の歴

kJ 4 )

には次 の ように紀されてい るoト 番 深い層 か らは ,カキの純月 屑 の中に中期縄 文式土器 を出土

し,そ れか ら上 部へ ゆ く忙 したが い ,よ9新 しい経 文式土 器 が発 見 され て いる○ この各縄文 式土器 が 各層 の時代 を示 してい るわけ で あ る〇一番古レ‑⑦ の時代 は ,か なb塩分の 強 い海 に住 むカキが あD ,④ の時代 に なる と ,やや塩 分の 低 い ノ、イガイな ども堆 併 し.⑤ の時 代 に な ると ,塩 分の低 い ノ\イ ガイを主体 と した月屑 と変 わ D ,⑦ の時 代に 在る と さ らに塙 分 の うすい ヤマ トシ ジミの月層 に変 わ ってい る。

これ らの月 は ,それぞれ 当時 の人 々が捕食 した戎 bもの で 各時代 に周 辺 の海が どの ような状態 で あったか を示 してい

‑ 10‑

土師器徴丑

縄 文後期末 の土 器 縄 文後期 中頃 の土器 縄文後期 始 めの土 器

縄 文轡 月 の土器 文化 過物

夜 し

ーシ、、、

且屑 ①

ガイ月屑

にカ

キ・

ヤマ

‑・

シ.シ、

,、

膏ノ

枯骨 嘉 色 ⑥ 図2‑113大内 EB月 壌堆横状態模 式図

岡 山県 の歴 史 p17よb

(25)

るわけ であるo」つ ま D,前 ・中期縄文時代 には .この大内田の付近は海が帝人 して

かれ

これ も カキが三体 となるような ,かな

b

塩分の強 い海だ った エうである。そ して ,次の縄 文時代後 期のは じめ ころは ,海の塩分 も少 し就少 し.海の押収作稲は一一歩前過 した らしいO これが 夜か とろか ら終 わりと却ひ㈹ さらvE進展し,Lll鹿 の浜辺で払 すご忙汲 水化の傾向があらわれはLm たと推定で きるQ

v

C ,盲 備 町 と そ の 周 辺 部 の い くつ か の ポ ー リ ン グ デ ー タ か ら .こ の 沖 税 平 野 の 基 底 に つ い て 考 え て み よ う と思 う.沖頒 Jd の 基 底 yCつ い て .井 関5)(1 9 ‥ ) は , 「ウ ル ム 永 湖 の 偉 大 海 面 低 下 期 の 旧 河 口 ( 現 在 の ‑ 1

0

07花等 深 線 vcよっ て代表 )か ら試錐点位置が水平距離的 に離れ るほ ど

,

沖朋層 の屈原は反比例的 に減少 し,紀伊水道 に ある‑ 10 0m等薙線か ら約 118kmに ある大阪帝付近 では ,沖横周速度傑層 上面まで約5 5m mの沖横屑があるが, 15 5wIZは放れた岡山県児島湾では, 1 7m内外 で沖GL‑層誠底政府に遵 して い る。」と述べ ている。つまD,被は ,ウルム氷 期の叔大海面低 下朋 には .海面は外洋では現在の

‑ 1 0 0m等架静 あた L)まで低下 し,そ のため瀬 戸内海はほ とん ど陸化 し,・児島袴か ら大阪 帝 を嘩 て紀伊水道 ‑長大 を川が流れていた と している。そ して .児島湾で1 7m内外 で連す るとい う沖併 層基底疎膚は ,その川筋に存在する裸雁 であると考 えている。 また 日太の沖横屑 の研究 におLrlて, そ の基底は砂疎層 であるとされている。図2‑ 114のポ ー リングデー〆 )に おいては ,児島帝治 . 岸の岡山港付近では 17‑ 18 m,青井川河 口付近 では, 2 5 mの深度で砂棟

に連 する。

これが ,井関の述べている沖棟層基底碓屈に相当す ると思われ る。 ところが この砂珊屑上面の連続 を吉備町で求め ると.岡山港付近で蘇鹿 1 7‑ 1

8m

の砂傑眉は .足守川 にそ って河 口か らはなれ るに したがってだん だん浅 く夜b,吉備 町南部では10m,北部 ではdm毎度 と

D,さ らに北部 の高松町では5m程度 となる。ところが .旧都盛都 庄村 .旧御津郡一宮町 ,岡山操庫場 などでは , 上述のポー リングデー タと比較 して少 し砂硬雁上面が深いデータが ある。現在 鞍科が少な くては っ き b Lた ことは言 えないが ,吉備町の砂裸届上面の深度の傾向か ら考 える と,これ らの 5地 点の砂 練屑上面は少 し深す ぎる ような気 がする。この深度 の差異 は何を意味 するのだ ろうか 〇

一万 ,茂木昭嘉 )( 19 日 )は ,備 讃瀬戸鹿部の海底 には 5つの平坦 面 ,す夜わち0‑ 6m平 坦 面, 10‑ 2 5m平坦面, 4 0‑ 5 0 m平祖面が あ9.それ らの性 格は次の ようであると報告 し ている。 0‑

d

TTT平坦 面は ,親衛成面 に関 して波浪 に よか侵蝕または堆潤 され てつ くられた平坦面 であ

9

, 1 0‑ 2 5nZ平坦 面 お Ltぴ 4 0 ‑ 50m平坦 面 は ,現在 よDもそれぞれ約 10mおよび約 40m低海水準 時に形成 された海底 段丘 であるo こ頒 底段丘 は ,鮮新世宋 尤 いし灘 併せ旧期の漠 灰角疎岩お よび枯土層 を基盤 と し,これを砕 くおお う砂鮮層 を段丘堆 棟物 とす る地形面 である

そ してまた, 10‑ 2 57〝平坦面は .中間の傾斜変換部 に より上下2段に細分 されて お 力,この う ち下位 面は, 4 0‑ 5 0m平坦面 よjH鯵成時代 が古 く, 4 0‑ 5 0m平坦面の形成 にあたっ ては約 5 0mの海面低下を きた し,そのため1 0‑ 2 51TL平温 面は段丘化 し ,そ の外棟は侵蝕され て基盤 岩 を煮 出 した段丘盛 となついてるが .上位面は神 戸内海 において縄文早期 に現 水深15‑ 20m付 近 に海水準の一時 的低下 ,または上昇 の停滞が あった時 に形 成された もので.4 0‑ 5 0抑平捜面 の形成以後の ものである〇

一二ii‑

(26)

‖ IlE;r ilil .. f;Io ‖Q :.8⁚ Q:Q :0日 t,⁚Q :

(27)

同州

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日 韓 阿 凶 貞 淑 m H山花智 m 岩盤 (培梗不 明) 06

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図 21 1‑ 4 ,kL リング柱状図 とその位燈

4音仰公民館 5庭瀬駅 北乗 11岡山市茂町

14‑ 17旧都建都庄村

o o o

Ooo0

O

CO000

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0o0OC

QQQ0 ocI0OI0QOOQO0000ooクQOooQ000OQQ0

1 旧剖 倫郡 高松町 2 署備町 小西 5 普備 中学校 占 庭瀬駅 南 7吉備 町南部 8‑ 10岡山啓付近 12書井川河 口左岸 15 岡山市十 日市 岡山製糸K K 18 旧御津郡 一宮町矢坂 19岡山線本物

‑15‑

(28)

図2‑ 1‑ 5は, 4 0‑ 5 D7TL 平 坦面形成当時の海水鞄 を ,覗 海 面か ら約‑ 4 0mと して作成 した盲地理図 (茂木昭夫に よる) であるが ,これに 上ると当時の 備 讃瀬 戸は, 1 0‑ 2 5

m

平坦 面 が段丘 として広 Lへ海岸平野を 形成 し,当時の水域は ,巾約1

甘〝の狭 い水路 と食って東西 把は しっていた と考 え られて いる○ そ して ,この海而低下期が洪耕 Lu一最末 期の ウル ム氷期の搬大海 両 舷下期 に対応 し, 4 0‑ 5 0

m平 坦声が 沖積層其底面である としてい る.

前述 した よ うに ,井関は児 島滞 沿岸 で深度1 7 m内外に存在す る 砂 陳屈 上面を沖穣層基底面 として い る ようであるが ,茂木 は備 諏瀬 戸東部の海底 に存在 する4 0‑ 50

図 2‑1‑5洪横世最末期 におけ る備諏瀬 戸東部の古地理図 縦線 :当時の陸地

横線 :現在の陸地 茂木 昭夫に よる。

m千旦面 を沖席 屑基底面 と している。そ れでは .この2つの面は連続 す るので あろ うか。足守川ぞ い につ いて砂硬層

に連続 す る と考 え るの が一番 自

然で ある ように 図2‑1‑6 足守 川沿 岸における砂 鎌層上面の深度

‑ 14‑

(29)

思えるo となると,先述 した ように4 0‑ 5

0m

平盤 面が ウルム氷期 赦大海面低下期 の確 面であ 9. 10‑ 2 6m下位平坦面はそれぞ酌把形成 きれ, 4 0‑ 507〃平坦 両の形成時 には段丘 として 広い海津平野 を形成 してか D,この

に連続する砂裸層の上面は .最大海面低下親以前 にその原塾 は形成され ,最大海面低 下細 には広い台地 面または段丘而 となっていたと考 え られ るOそ して,40

‑ 50ln平坦面に連続 するのは,この広い台地面 あるいは段丘面 を開析 して流れた谷底蘭 では毛い か と思われるoそ して .先に述べた砂 錬屈上面の味い地点が ,との当時の谷 に あたったのかもLZLを hO しか し資料の不備 と不足 のため .これ以上の脹給 を進 める ととがで きないOまた約10.0 0 0 年駒の一時的海面低下 .あるいは棒面停滞期 の堆横物 につ いて も,埋 収谷 中の堆 初物 中や .児島湾 逝 辺の‑ 15‑ 20m以下の塩原 され た台地面上 あるいは段丘面 上に堆頗 した可能性が考え られる が ,図2‑ 1‑ 4園のポ ー リングデータたけでは何 も言 うことができないO

ととろで ,もしもとの砂牒F#上面が ウルム氷抑救大海面低 下期 の谷 とみ られ る備 讃瀬戸の‑ 4 0

‑ 50772面に連続 す ると仮定 すると,い くつかの難点が あるoすなわ ち

,

は堵β建部庄村 .旧御津郡 一宮町 ,岡山線直物の吸い砂 嫌層上面を とう考 え るれ また備訂瀬戸 において巾約1L07の谷 の上 流 にそれほ ど広 レ、谷があった と払 敬え ないの で .砂茂層上面の広い連続 を どの よ うに解釈す るか な

どの問題が ある。

それ で,この沖棟平野 の基底 については次の ⊥うに考 えたO先 に も述 べた よ うに ,ウルム氷期の 眉 大海面低 下期の岡山一平野は広い台地または段丘で あ

9

,この台地 あるいは段丘 を開析 してせせい 谷筋が形成されていた○そ して ,海面 上昇 に ともなって この谷蛎は埋横 きれ ,ついで広い台地面1 あるいは段丘面上にも堆偶 がすすんでい った。 この ように沖債 層の基底 をかた b起伏の ある面 と推 定 する。そ して盤凍 された谷底が海底の40‑ 50m平坦面に連続 し,当 時の台地面 ある叫 ま段丘 蘭 が児島湾付近 の17〝傾 度の砂俳層上面 と考えるo Lたが って ,これに連続す るとみ られ る膏備 町の地下6‑ 1 0m付近の砂 嫌層の上面 も, ウJt,ム氷期最大海面 低下期の台地面 あるいは段丘面 と 推定す る。ただ し,この推論は ,わずか を資料 か ら大隠 な予察 を おこなった もの夜ので ,精細を軽 科 の暮秋をせって再検討されねば ならないだろ90

ところで ,先に述べ た ように吉備町 に1,‑いて牡基底 である砂 嘩層 の上に海面上昇 と ともに沖積層 が堆債 し,やがて先に述べた経文海進 を居 て したL,l把陸化 し,現在 に至 るのであるが ,青備町が陸 地 となったのは いつとろであったろうか。

奈良時代 の梅錦 や干拓の状況を知る史料 として .奈 良の都 に栄 えた大 きを寺院 の縁起 や寺領の 記剛 ;あ D

.

岡山市

AB) J

晦ま吉備町のす ぐ粟の大安寺付近について次の ように記 されているo

「郡蕃類従 第十五輯駅家部におさめた 「大和園大安寺伽奄簸起托記載財傾」に よると,天平20年 ( 7 4 8)現在 で伊勢 ・備前など7ヶ国確 田 ,束墾 田を合せ9 9 4町歩の寺領 を もっていた こと がわか るoその うち備前国の寺領はつぎの三尊 で .岡山市域 とその付近に合計15 0町歩を領 して

レヽたo tし

備 前 国 膏百五拾町 的廿三町 .末節‑首廿七町

上 道 郡 五

十町

大多羅葦原 四垂 .象山守江 ,南海 閤石 門江 北山 一 15‑

(30)

御 野 郡 五十町 長江原 四至 ,東丹比異 人墾 田 南海 酉津高 界江 北石木 山之限 津 高 郡 五十町 比兼帯原 因量 ,東都江 南海 西備 中界 北 山 百姓墾 田糖剤 艮」

この うち上道郡五十町大多羅原葦 原は ,現在の岡山市西大寺 である。御野郡 五十町長江原は ,石 木 山 (今の矢坂 山 ,万成山の山塊 )の南に あ って ,現在 の岡山市大安寺やその東 の上 野 田 ・正野 田 あた Dの前面

に.50

町 の原野 が一画をつ くっていた。そ して東 に丹比夷人 の開亜 した田地が あb 西は醇高 界の入江 であった。 この入江 は ,そ のころ笹 ケ瀬川が河 口をひ らいていた入海 で ,大安寺 と一宮 との間‑湾入 していた。 この入江 が御 野郡 と津 南郡 との境 界 で ,その西に比糞葦 原が あ った わけである。津高郡五十町比美 原は ,御野郡の酉 に存在 し,西 の備 中界 とい うのは,旧白石村大 字花尻 (現在 岡山市白石 )と都窪 郡吉備 町大字東花尻 (現在 岡山市来花尻 )との境 界線 で ,山の南 の平野 には南北 に 「境 目

」 が通 してあるo填た首

姓墾 田の堤 とあるか ら,入江 の一部がす でに親塾 せ られ ,その挺防が境 界に なっていたのである。その 想 像EgTを描 けば図2‑ 11 7の ようにな。 この史 料 か ら考 え られ ることは ,当時 吉備町付近 の押横平 野の南部 は ,ま だ全部が平野 となっていたわけでは たいが ,大部 分は条里 のひかれた安定 した平野 と怒 っていた らしい。

7fた 1

0

世紀 半ばに細 さん された 「和名抄

には

「庭妹

「撫河」 とい う地名が見 られ る し,イ筒中の 図2‑ 1‑ 7

「吉備 津神社文番」 の建久4年 ( 11 95 )の神主 賀陽朝臣某 節状 に よる と,当社の付近の摩 妹郷 のあ

現 在の岡 山市画境す なわ ち備前国 の 酉墳 付近を奈 良時十解:復元 した図

岡 山市史 古代鰐 エD た射′こ条里制 の あった ことが知 られている。 この時

代 になる と,宕傭 町 もそ の大部分が条里 の ひかれた安定 した平野 とそ っていた ことが推察 できる

と ころで沖積平野の形成は新 しく,そ の地形は堆 横地形 として比軟的 よ く保 有され ている

したが って ,デ中領平野の形成過程 は地 形に よって もある程度 理解 で きる。沖耕平野 の地形 として主 を もの をあげ る と,沖磯扇状地 .自然姥 防 ,デルタがあるが ,この吉備町の付近では 自然堆防が見 られ る○山地を出た河流は ,急激 にその流速 を淑 じ,扇状 地を形成す る。扇状 地 の下流は低平 とな り.洪 水時 でか すれば冠水 す るととの夜L,,氾膿 尿 と怒 れ この氾濫原 には ,河道沿 いに一連の帯状 の高 ま Dが見 られるくつこれが 自然堤防 で ある○ これは洪 水時に河川が運 ん できた物質が ,水が ひい た後 に残 って生 じた堆積地形 で ある。構成物周 は王 に シル ト・細砂 で ,排 水か よいため古 くか らこ の徴高 地には鎚藩や畑地がつ くられ ている。 自然堆 防閲の低地 は後背 艶地 とよばれ ,粘土質土 壌か らなる排水不 良地 で ある。水 田と して利用 ‑され ている場 合でも湿田 と在 ってい る ととが多い。 旧流 路は ,航空等 充 よD耕地 区割の乱れか ら訳 み とれ る。 しか し,自然韓防 と後背湿地 の差はわずかで あるので ,吉備 町の場 合は航空写真 か らは統み とれないが ,実際 に歩いて見比 べ ると ,硯流路や旧 流 路に沿 って徴 高地 が見 られ る ととろが ある。また図2‑ 1‑5のポー リングデー タの深度2

m

11ムー

(31)

伐の堆秋物 か らも.その地点が 自然姫防的 な ところであるか .後背湿地的 なと ころであるか判別 で きる。つまb 2m以伐に粘土が多ければ後背湿地的 な ところであろ うし,砂 ・シル トが多ければ 自 然姥防的 を ところであ ろうO吉備町 に残存 している里道改渉工草啓の縦断面 図に よると,やや高い 無宿の ある場所が 自然堆防的 をところであるが ,低 い挟背湿地的なところとの福渡差は ,せいぜV1

2尺 (約6 0cnt)たらすである。 しか も.盛土 を した上に家屋を建てた ことも考え られるため,果 た して2尺 (約dOcn)あったか どうか もは っき9言えをい。嘗えることは .自然姫防的 を徴高地 上に集落が 多いことと,その自然疑防的徴高地 と後背湿地的低 地 との高度差は ,ほん のわずかでせ vlぜい2尺 (約dOcn)春 慶であ る。十二 カ輝周水の幹韻 をは じめ とす る用水路 は ,このような 自 然輿防的徴高地上 を流れ ,後背湿地的低地 を悉水路 (排水路 )が流れている。

、 . (村 上 良 子 )

二' 1) これにつ いては ,中川久夫が次の論 文で紹介 している。

中川久夫( 19 6 6 ):「沖銀屑」について .第四紀研究 ,第5巻 ,第5‑ 4号.

F 2) 井 関弘 太郎 (19 占2 ):沖棟平野研究の基硬 的問題点 ・名古屋大学文学部研究輸集

X

XⅥ, 史学9 .

5) 月壕爽平 (19 6 5 )'.地形の変化 (日永第四紀の 自然 ).日本 の考古学 ,p 4 1・

4)) 岡山県 (19 6 2 ) :岡山県の歴史,第 1茸 第2節 .

5) 井関弘太郎 (196 占 ):沖僚届に関する これ までの知見 ・第四紀 研究 ,第5巻 .第5‑ 4 号 .

6) ボー リング柱状図は次の資料 に よって作成 した0

. 1. 5, 7‑ 1 2は ,通商垂菓省企某局立地指尊重 ,岡山県 :昭和4 5年度工場適 地調査B, 岡山 ・西大寺=薬地区に よるo

r‑ 2, 15, 19は ,樫 済企画庁 開発部(195 7 ) :全 国味井地層ft科台帳に よる0 5 , 4は .束建地屑 株式会社 の調査 に 上る

占は ,吉備支所所蔵 のサンプルに よる0 1 4‑ 17は ,岡山県庁商工部資料 に 上る0

1 8は .矢坂平津牛乳地所の ポー リング調査 に 上る0

, 7) 茂木 昭夫(19 65 ) :備訳瀬戸東部の海底地形発達史 ・地層学雑鼓 ,第69番 ,第819 号. 5 2 1‑ 55 5.

・ 8) 岡山市役所 (19 6 2 ):岡山市史 舌代窮 ,第4約 ・

その他の参考文献

渡辺茂或 (19 5 4 ) :岡山平野の開発 .地理論叢 .第5帝 . 2 5 5‑ 2 76・

柴崎連准 ( 19 71 ) :第鴎た ,第4章 ・

赤木 健(19 2 5 ) :岡山市地下水調査報文 ・地層調査所報告 ,第95号.5 7‑ 52 ・

‑17‑

(32)

2

気 候

吉備町 内での天候に関 する観測 環科はみつけ ることができないので .岡山地 方気象台 観測 資料を もとに ,岡山の気 院を概観 して:ナノと

い。岡山地L.方の気候 に関 しては .吉 備町に解凍 す る一宮町の地域研gEl) で 詳 し く報告 されているので「1め 概 観 では それか ら引用 させ て もらった。

(2)の気温の特色 では ,昭和44年 度 気 象 月報 よb各地 の侮 日の気温 デー タを熊 吾トして .各地 との比軟 の上で 岡山地 方の気温の特色 をだ してみ た。 .

図2‑ 2‑ 1 中毘地方の′J、気 候 区 分図 衷 2‑ 2‑ 1

岡山の気象 (昭和40‑ 44年の5年陶平均 ) (和連滞夫監修 :日本 の気候に よる ) 空重一 月 1 2 5 4 5 6 7 8 9 10 l l 12 吾十

堤 平壕 高 平 均均 8259 8575 117PP 121888 75?176 21267.4 255299 27504.1 2227.47 15522.1 110̀β.4 1058f) 2olASD 最 低 平 均 ‑19 ‑19 15 7P ll.4 205 219 228 18P 101 47 OD 9さ T 湿 度 平 均 704 70.4 89P 690 698 758 808 7dD 7ム4 7▲12 76.4 72占 75,a 平 均 等 iL 49 4タ 5占 6̲4 i.0 72 75 55 a.5 52 5.0 5.4 59 風 速 平 均 24 24 21 1夕 19 18 1タ 1夕 18 1.5l 1.5 2P 1夕 降 水丑 合計 417 417 885 1145 1598 1782 2544 559 1892 74.4 588 27.1 1285D I 日照 合 計 1542 1542 182.1 176ム 2522 1899 171D 242さ 189,1 1808 156.9 1457 21555 時 間 日 照 率 49.4 494 494 454 5̲42 456 5?2 58.4 454 515 5]占 472i 50D .

水平 面 日射丑 6867.0 7ム028 9548100".813eO6.4122550Dll′∠/b15282.4 98可】.89051月 6857.46151.4118Zy5.

%

数 快 冊 86 86 7P 5.4 8.4 56 22 66 54 α】 8D a.4L 7l 4Z

天 72 72 llf) 15.6 1カ 17.8 182 9ロ 15O 94 8P 84 137

5

不 照 5P 50 48 56 54 46 5.0 0.4 5占 5ロ 4P 5.4 45P

≡ 降過 20.1m a.8 88 104 118 112 112 15P 85 108 78 84 52 112L)

n 21DJrl 5P 5P 88 94 98 92 108 56 8P 56 7

. 0

5. 89P

N 21DD肘 12 12 54 4P 5ロ 盟 68 18 48 28 18

0

8 588

故日

2

5

刀Rm 04 04 04 04 16 22 2占 04 22 04 02 0.0 llD 質 占4 a.4 2.4

0 0 0 0 0 0 0

04 28 19占

a 22 22 lD 1.4 18 2.O ld 02 0ム 22 48 2.0 218 7

0

0 0β 0 1.4 18 54. 58 08 10 04

0

15Z l

霜 D D

0 0 0 0 0 0 0

0

0 8 0

結 氷

0 0 0 0 0 8 0 0

0

0 0 0 0

庸 雪 12 12 D8 0

0 0 8 D D 0 0 0

4P

暴 風 29 1.4 18 04 02 0 02 02 04

0

04 16 92

(33)

(イ)概戟

岡山地方 の気候 の特 色は温陳 で降 水丘は年 間を通 じて少 食 く.図2‑ 2‑日こ示 した中馳 方の 小気候 区男声)中瀬戸内気候区に屈す る。

(a)気 温

昭和4 0‑ 4 4年 (19 a 5年‑ 1 9 69年 )の岡山地方気象台気象年表 に 上って気温年変化曲線 を描 くと図 2‑ 2‑ 2の ようになる。

これ によると娘暖月は 8月 .赦 寒月は1月で ,月平均気温は , それぞれ2 7.1 , 2.9

(

七を記 僚 し,長嘆月 と偉寒月の月平均 旬凪の差は2 4.2Ocに遵 する。 また,舟平均気温 と月平均

気温を比赦 してみ るな らば ,そ の差は冬か ら春にかけて大 きく,

占月には最小になるo これ に比 べて .月平均気温 と月平均最高 笥温 との差は 8月が巌′」、とを b その差は5.5q3で, 1月〜 2月,

4月‑ 7月レ功け

さそ(頚勤 吹きくを

oC 30

20・

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■●●■一一 ././/

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ヽヽ \ ー

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 H平均気温 ‑I‑I‑I‑月平均滋俊哉堀 一 日平均最高気韻

図2‑ 2‑ 2 岡 山 の 気 温 の 変 化 ってい るO

岡山地方は18 9 1年の統計開始か ら1968年の間に5 7.2⊂℃ (19 4 2年7月2 4日 )とい う最 高気温 を,‑8.90C ( 1965年1月2 4El)とい う最低気温 を た して いるO

当地方の気温 の 目敏差は春 ・秋に大 きく,St・冬 に比較的′)、さい0 1月・8月に は9‑ 9・50Cで あるのに対 して, 4月 .1 0月には1 1.5‑ 12.50Cであるo

(b) 降 水丑

表2‑ 2‑ 1vCも示 してい るとおD .岡山の年降水丑 は平均1,5 0 0Jrr以下で .195 1年か ら 19 占 0年せでの統計 によると鳥取の2 05 d叫 広島の1,59dxJrなどに比べ ると庵 めて少 夜いo 特に 12月か ら5月までは ,冬の

季節風 のため月降水丑分布図は冬 型 で,このため岡山では ,特に

12月〜 2月は月に 50TN下以 下 の降水量 である0

19 5 1年か ら1 9 60年7tでの 統計を もとに して月降水丑を示 し たのが .EEF2‑ 2‑5である○

lt

̲00

2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 図2‑ 2‑ 5 岡山の降水量の変化

‑19‑

(34)

これか らもわかるとうり.岡山 の場 合巌 も降水丑の多V>のは7月 ,次V,で8月であ D,これは柵 雨 に よる ものである0 9月の降水丑は台風の影響 に よるものである

統苦十開始年か ら1968年 に至る間のr弼山の降水屯の最大記録 をあげてお くならば .表2‑ 2I 2の どと くである。

表2‑ 2‑ 2 岡山の降水丑の最大記銀

hTW 年 月 日 統計開始 日 降 水 丑 1 7 7 1892'7.25 1891

1時 間 降 水 丑 6 9 1950●9. 7 1940 1 0分間降水盈 2 7 1961●7' 9 1940

( C )

風 ・日照時 間 ・温度 ・笛 ・霧 ・降雨な ど

風 阿山の平均風速 は5Wも に も達 しをい ぐらい弱い ものである,これに比例 して年間暴風 日 数 も1 0日以下 と少をい。

日照 時 間 岡山の 日照時 間は 8月が般高 であ 9.その日照率 は6 0帝に遵 することもある

また 堪挙 と冬季 との 日照時間の差は少 ない。

湿 度 岡山における年平均温度 は,5 7.6多である。年変化 をみてみ る と,毅 も低い月は5月 4月で6 9.0帝 ,巌 も高い月は7月で B D多である

雷 電領 日数をみてみ る と,約15日で8月に虫 も多い。

弾 薄の年間発生 日数 は2 1日で1 1月に多い。

降 雪 年間を通 じて岡LLlの降雪 日数 は20日ぐらいである。 しか し.横雪 をみる ようなことは 少貴 く,したが って,大雪が降 る ことは大変珍 しい。

( ロ )

気温の特色

岡山地 方の気候は

,

「温暖で降水丑は 年 間を通 じて きわめて少 をい ‑都連沖天 監 修 ・日本の気雇 )よDJ と言われている。 事実 ,図2‑ 2‑ 4に示す通 9岡山の平 均気温は1 4.dOcであ D,それは地中海 の マルセイユやオース トラリアのメルボ ル ンをどと同 じ温度で あ D,そ の温和さ ば湘 南のそれ よDもまさ D,全 国的 にみ て も温和 といえ よう。 しか し、年平均気 温 のみ よ

b

温和 と嘗えるだろ うか。

散楽寛氏5)は,山陽地方の冬空 につVTr 次の ようなことを述べ ている。瀬戸内海 は 日本の地中海 である。地 中海の箱庭を

‑20‑

図 31 卜 3 書t 一町年齢男女別人口 ( 昭和 4 5 年固執 こよ引 男 5, 125 搬入口 10,957 女 5.832 00 0 s o o tl 伽 3 00 Z l X) 1 0 0 1 D O 叫 細 1 帥 I C 4' dX) 7 恥 吉備町 に お
表 5 ‑ 1‑ 4 庭瀬藩 主頼倉氏 の系譜 1) 宇垣武治著 r庭瀬執 り城 に就て J (未発行 昭和 4 2 年著作 )及び字壇 武港著 r第 6 稗支配音 節J (吉備観 光協会 昭和 4 5 年発行 )よb作成。 が , 蒐 永 1 5 年 ( 1658 年 )正 月に島原 の乱 に出陣 して原城 出丸 付近で職死 し, 寛永16年 (1659年 )に子重矩 が社債 をつF, 寛文12年 (1占72年 )には,下野 匡L鳥山の城主 とな 9, 50000石 を領 した。そ のあ と,子 兎良が遭

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   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば