東「搬迷方 建之 大町氏野崎氏 」 とあるO 南面 払 現在は家 の‑ いとの間 隔があせ bないため競み とれ 孜いが
,
Fきびのさと.g第47号 (昭和57年5月1日 発行 )に よれば
,
「寛政 九 (以下不明 )」
とあるので, この道標 比 撫川領主四代戸 川連 邦の時代, 1 79 7年tn:作 られたこと
がわかる。草字 の俊雄 を地 でかかれてい 写真5‑ 5‑ 2 大橋 の東 の道標 るが, 「慢迷方 」とは 「行 く道の方角に惑
い,迷 っているものに 」とい ったふ M Eで も解 すべ きで あろ うか。まだ凛だ交通 の発遵 していなVl時 代において. いわば地方道 であるが.摩御往来を ゆききした昔 の旅人た ちは, この道標の,I 態 をタb T, 東に商に, 往来 したことと想練させ る。た た 舛蕃家 の大町 ・野崎両氏が, いか なる人物 であ ったか についてはは っきDとはわか らをho
o定杭の道標
大橋 を渡 って南に折れた所 庭 瀬在来 からわかれ て,大内田を‑て妹尾 ・早島方面‑行 く,三叉路 の西側 にある。高さは地上約1.5メー トル,台石 のある約50C7#角 であるo
東 「左 金毘羅道 」 西 「左 岡山 音僻 道 」 北 「右 倉 しき 玉 し柄道
」
南 「明治十四辛巳歳 第一月吉辰観官 寄附方 稚波定五郎 平川源昔 執 政藤作 」 と刻 んで参る。
‑145‑
写実 5‑ 5‑ 5 定杭 の道標 写束 5‑ 5‑ 4 石 灯 龍
(lit)石灯龍
さて,道標 とならん T, 交通施設 として一役か っていた と思 われ る ものに, 石灯髄 が ある。これは, 東町の,
簸
川 と庭瀬 のさかいを表す境 目川の撫川寄 D,北側橋詰 にあるO蝦上 部の宝珠は地袋 で墜落した そ うであるが,それ を加 えれ は 地上総高4メ‑ トルに余 る大 きな石灯縦 である。軸石の三両に
「吉備津宮
」
「文化二年乙丑 九月吉且」
「橋本屋青兵術 」の銘があ9, 四段の台石の上段 VCは 「世話 人 大熊屋 」
「栄誹 中 」と刻んで あるo当初の目的は, 書備経営‑の信仰 よDであ ったろ うが, よく 暗夜 の道案内 をな し,遠 くか らこの光明をめあて として道 ゆ く人 々の安全 を守 るこ ととなった と思 わ れ る。(C)宿場施設 (1) 郷循 ・はたと
庭瀬往来 の中心で あった庭瀬城 下 の様子 を 図5‑ 5‑ 5に示 した絵 図に よって復原 して み ようO この絵 図は rきびのさ と
JJ
%.1 D d (昭和42年4月1日発行 )よb転載 した も ので あるO原絵 図比 1 5 5nw四方 の色彩 を施 した もの
ー144‑
写夷 S‑ 5‑ 5 庭瀬 の陣屋の町並
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4 5‑J 囲5‑515庭瀬城御絵図 在『きびのさと
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jral06(昭和42年4月1日発行)よb転載竹 庭瀬藩主戸川土佐守正安
琴
の城池を中心 に描 かれ てい る0 年代, 作者 とも記奴が なく不明で あ るが,絵 図の上か ら推粂 し, 四代戸川鍵盤助安風 が早死 し, その弟.玄藩遷鮎 の時,城池 を分割 して 軌 Il領主旗本 に転封 した,延 宝( 1 a 75‑ 1 6 8 0 )の末頃 の作 と考 え られ るとのこ とである。さて, 図5‑ 5‑ 5の うち,庭 瀬 の町並 み について取 b出 したのが次 の図5‑ 5‑ 6である。
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L面 「 亙白玉直0肯「 ー 畜 1差 2 附
蓬 栄 丘 l 義丑 l ■
la.平松又大夫 d.棟木超文毛エr.] b.児島ヤ惣兵術 e.周柵 自玄 C,大兵術 l.角蜘 LS介
図 5 ‑ 5 ‑ 8 庭 瀬 の 宿 場 施 設 荏 (1) カ ン ヌ キ
o 高 札
(2) 『庭 瀬 城 御 絵 図 』 (作 者 不 詳 , 延 宝 末 年 と推 定 )と 手垣武治写 し 『庭瀬御 娩絵図 』(作者不詳,寛文年価 と推定 )よb作成
これ に よれば,庭瀬陣屋町の東西の入bロには高札が設け られ,藩 の御蝕 を掲示 してV,た。東 の高 札場は備 前方 面 か ら庭瀬往来を行 く人 々に,西の高札場は撫)l肪 面 か ら往来す る人 々に,それぞ れ, 御蝕 を周知せ しめ る目的 をもって いたので あろう。 また,庭 瀬 の北に続 く村 々へ通 じる道路5ヶ所 に は・ カンヌキが設け られていたO これは, 木の門を設 けて, 日暮れには閉 じ 日の出には閃いて,夜 間の出入 を禁 じ,町内 の自衛 を し ようとした ものであ る。す なわち, 図5‑ 5‑ 6中, カンヌキ1は 川入村 か らの, カンヌキ2は花尻村 方面か らの, カンヌキ5は平野村方面 からの,夜間出入 Dの取締 bVこ備 えていた もので ある。そ して,そ うした中で,現在 の本町 を中心 と して,旅宿屋や瀧屋敷 があ れ 旅行者の俵 を計 っていた。 そ して,米屋 ・めし千 ・魚屋 等の商家が建 ちな らぴ,西 のはずれ には 医者 も住んで か D,近世 にかけ る繁 昌ぶ Dが うかがわれ るo
(ii) 馬継所
r岡山市史 」産業経済槻 (P・2D5)に よれば.庭瀬往来は庭瀬 ・鴨方 を馬継所 としていた とあるo 徳川時代には駅 制が整備 されて・五街道や脇往還にはそれぞれ宿駅が設 け られ,そ
こ
には定数 の人 馬 が常備 され・ 人馬継 立 を行 な っていた○宿 に払 問屋場 といわれ る,人馬 の継立て などをす る家 があー 146‑・
D, 楕役人 の管理下でその裾 を取扱 い交通の俵 を比 か っていた。 (経済史研究全編 r日本経済史辞 典 j昭和29年 日本評論新社発行,上巻P. 775, 下巻P. 1147)五街道 ・脇 往還忙み られ る, そ
の ような宿駅 の′J、規模 をものが馬継 所であ 9, そ こで も同様に人馬継立 の機能 を果 た していた。
fb吉備郡史 J巷 中, P.2175 に よれば, 宿方人馬三割増之耕
一 板倉宿,庭瀬町共人馬三割甥銭増,文政元長年御 免被仰付尊.同午年迄五 ヶ年 相済,未年 よ,h亥年五 ヶ年再,御 免夫 より五 ヶ年 ツ ・こ前同断。
(中略 )
一 人馬賃銭辻 庭瀬町 凡何程 内三分一 町方‑引 三分二郡 中 右此分^足米債 二仕儀 二付人足差 出候村方へ割合配 分仕過 し申候。
とあ る。 よって,文政元年 (18 1 8年
)
に,は じめて,人馬貿銭 が庭瀬町 で もそれまでの三割増 と なD, 以後, 5年 ごとにそれ が再配 されたので ある。 そ して,庭瀬町にかけ る人馬債銭収入総額の内, 三分 の一 は庭瀬 の町方に,三分 の二は郡 中各村 々忙渡 され,米で支給 され ていた ことが わか る。ここで, は じめて人馬賃銭 の5割増がなされた文政元 年 よDかぞ えて, 8度 目にあたる素永6年 ( 1 85 5)の党首さによ9,庭瀬
よD
各所への入鹿賃銭 を表 にあ らわ してみれば, 次 の表5‑ 5‑2のどと くとなる。
表5‑ 5‑ 2 庭瀬
エb
各 宿へ の道法 と人 膚賃銭」 ■ ′
庭瀬 よb
岡山宿 庭 瀬エb
西阿知村 庭瀬 よb
倉敷村 庭瀬 よ b板倉宿道 法 2 里 5 里 2里 8丁 1 里
人 足宅 人 元 賃 銭 4 0文 6 0文 4 6文 24文
三割 増銭 1 2 18 14 7
計 5 2 78 6 0 5 1
軽尻馬菅 疋 元 賃 銭 5 5 90 d D 5 6
三割増銭 16 2 7 18 l l
計 6 9 11 7 78 4 7
本 馬宅 疋 元 賃 銭 80 1 24 90 4 8
三割増銭 2 4 5 6 2 7 14
計 1 04 1 6 0 11 7 6 2
注. 1) 永山卯三郎構 r吉備郡史 J巻 中, P2170
上b
作成2)三割増に上る改正貿俄 は,義永 d年 (1855年 )の もので ある。
この覚番
さ
には,右板 倉宿往来人馬賃銭三割増願 之通敏仰出候同比外之 所者右 二准 シ取 計可 申候 丑正 月
‑ 147‑
とある。 (
r
吉備郡史j巷 中P.2170 )衷 5‑ 5‑ 2に上れ ば,た とえば庭 瀬‑岡山 間 で払 人足 1人 についてそ れ までは40文 で あったのが, その5割 の1 2文 が増 され,計5 2文 を支払 わね ば 在 らな くなったので あ る。 また,碇尻馬1匹 について払 それ までの賃銭5 5文 に, 5割増 の16文 を 加 えた6 9文,本馬1匹 につ いて比 それ までの 80文 に,5割増 の24文 を加 えた1 0 8文 に,そ れぞ れ,貸俄 が増加 せ られ たので ある。か ここで額 倉宿 の高札 をみれ ば (
r
吉 備郡史 」巻 中P.2169 )‑, 此度従 公俵割増銭
御免禎仰付 候上音年限 中御 高札之通解銀紙相速 諦取之人 酎 印差 支無之様継 立 方入念御 用達者 勿論其外 二両茂失礼 無之様梅 山得取斗且人 足 馬士共 二苛祭 申 させ間数候苦 心神速 之 もの雀之者早速可 申出速吟味厳敬 答可 申付節
(中略 )
‑. 往来之旅人 苛袈 不法之畿在 之候共決 而喧 嘩 口論手 向等致 間数高一 雌捨母 次第 にか よひ候 ‑其 旨可届 出番
右 之蒋塾 可相守 もの也 茅永 六契丑 年正 月
とあ るの T,人馬賃銭 の5割増 が 申請通
b
聡 可せ られ て運 賃 は改正 され た が. それ に と もなっ T,継 立 てを入念 にお こない,失 礼 のない よ うに心 絶 遠反 のない ように注意す る とと もに,旅行者 に対 して払 不法 の行為 が ない よ う努 め る ことは勿論,喧嘩 口論 をお こさず, サ ー ビス向上 に努 め る ことな どが厳 しく取締 られ ていることが, この高札 よりわか る.
と ころで,表5‑ 5‑ 2の一部 を銀 に換算 し, 白米相 当丑 を求めれ ば,表5‑ 5‑5のこ とくに な る。
襲 5‑ 5‑ 5 庭瀬往 来 における人 馬賃銭 の銀換 瓶 と白米 相 当丑
庭 瀬 よ b 岡 山 (2里 ) 庭 瀬 よb西 阿 知 (5里 )
賃 銭 白米 相当丑 賃 銭 白米相当丑
人 足壱 人 嘉 永// 56 銀 88.. 5 D9匁584 o0升. 4 55合9勺 銀 D0.ー 765匁576 o0升. 6 85台8勺 軽 尻 馬宅 疋 〝J(/ 56 00. 509. 675 0D. 5 1ー
d O
01. 864. 144 01 .
. 8 70 2 本 属壱 疋 〝 5 0ー 768 0. 7 7 1. 1 90 1. 1 9荏 .表5‑ 5‑ 2の人馬賃銭 を
r
靴史総 覧J
(′J、発 田淳他監修 , 昭和41年 人物 往来 社発行 ) P.799,
「金 ・銀 ・銀相場襲
」に よ b銭 か ら銀 に換 井 し,同P. 775「米 相場表 」に よ b白米相当鹿 を井 出 した。 尚,銀 ・銭 の相場 ほ,京都 に かけ る嘉永5.6各年の 最高 と最 低 の平 均値 を,米相場 は,同 じ く京都 に かけ る各年の春,秋 の白米価格 の平均値 を使用 した。
‑148‑
これ に よれば,庭瀬 よ 9西阿知 までの5里 の道鼓 に卦いては,嘉永5年 と同6年 とでは,^足 1人 について白米約5.8合 が6̲8合 に, 本属 1匹につい て約 1升2合が1升4合 に増 してい るo この増加 率 をみれ ば 白米相 当
丑
に して約18%の増加 がみ られ る. これ比 同時期の米相場 (京都 )が,栄 1石につ き銀 99∴7匁か ら11 2‑1匁‑ と,約12%の蹄丑 を示 しているの と比 べれば, わず かに高 いので,村方 に とって, くらしむきがわず かばか りでも よくな ったので はをいか と考 え られ るO けれ ども, この差 は実生活上に おいては微 々た る もので ある。す なわ ち,人足1人, 7合た らず,局 (杏 馬 )1匹, 1升4合程度の賃銭 しか収入が な1,1ので払 す こ しばか b人 罵賃銭が 増加 した ところで, 貧困をよぎな くされてVlた ことは明 らかで あろ う。また, 明治5年8月,庭瀬町年寄,元嶋屋彦四郎 ・日代,脇本栄三 よD,磨滞帯宛 指出 しの F町屋 娘畝高
帳
』(脇 本良平氏JTT:蔵 )には,‑,当町継所之偽者人馬語 入用郡 中構,遠見才領内夫 御用通之節,御 出張 御宿代弁 御用通御休 泊御席足銭 弐歩 方是迄村方江引諮居 中侯。問屋役料之俵者銀 百五拾匁 郡 中立,往還御用相勅候役料之列,宿村畳連 ひ,地子引役科等町方 二一 切無御座 候。
とあ る。前述 のと とく,庭瀬 牡馬継所 と して宿駅 の機能 をもっていたので あるが, そ の諸入用につい ては,那 中柵 (郡中の村 々全体 でそ の入用 をかまえるこ と)であったO また,遠見 ・才領 ・内天等の 役人が通行 し 人馬 を賓 する原 に払 そ の宿 代 と休泊の賄足銭 の うち2割 を, これ まで村 方が引請 け ていたので あ るO また,実際 に人馬継立の仕事を行 売 っていた問屋に対す る役料 は, 郡中か ら銀150 匁が支払 われてか D,その他,地 子引 ・役料 亭 も町方 か らは‑ 切出さず,郡 中各 村 のみか ら出され て いた ことがわかるo
(111)地 子免除
明治にはい ってか らの庭瀬町の家割 とその間口 ・奥 ゆきを示せば,岡 5‑ 5‑ 7のど と くで あ る。
この図には,庭瀬町屋吸 のうち, 無税 地であ った所
と
,微税現地で あった所 とが区別され てい るo L か し. あとに述 べるとと く, 明治5年にはすでに宿駅 の地 子免除 蛙廃止 され てか b, との無税地 は交 通上の ものとは関係のこな・い除地で ある。ところで,地子 とい うのは,徳 川時代 においては,都府市街屋敷等 の宅地 に課 された正唖 で,銭 ま たは銀 を もって徴収せ られ ていたo Lか し,宿駅 に対 しては常 に手厚 い保額が与え られ てか D, その 一つ と して地子 の免除がなされ ることが多か った。 (前掲 r日本経済史辞典
J
上巻P.775,下巻P.1042)そこで,庭瀬笹束に おいて宿駅 の俄錐 i・比た していた庭瀬の町屋敦に対 して ち,そ の他子免 除が なされていたのでは75かろ うかとい うことか推測 され るO
庭瀬に おけ る地子免除 については, 前掲
r
町屋丑畝高帳J
(脇本良平氏所蔵 )に吐 右町屋敷地之偽者当御支配地 中田村地 先 二両座長五年戸川肥後守様御 代 よb御免地 其後戸川主斗棟御代御検地被 仰付畝高軌的故 庶軌年貢地 二相亀 井 時 日代七右裾 門 又太夫居屋敷御免地 二破 仰 付 其後久 陛大和守様御代 FT以前之通御免 二相乱 其後 御代啓 二相成供碍共御代之町屋敢御除地 祇 仰付莫大之 御厚恩難有季存町人一同永‑1J9‑