香 川 大 学 経 済 論 叢 第 71巻 第 2号 1998年 9月 285-306
研究ノート
トゥーランドット物語の起源
最 上 英 明
結婚の条件として相手の男性に謎解きを要求し,答えられなければその男の命を奪 うという残忍なトゥーランドット姫の物語は,謎かけ姫物語の代表的なものとしてよ く知られている。先にこの物語の今世紀までの変遷について考察したが,まだその時 点では, トゥーランドットの物語の起源をはっきり断定する上での資料は不足してい た。その後,この物語の起源を探る上で重要な文献をいくつか入手することができた のでu
千一日物語』は, 1843年の新版をパリの古書j吉で入手),新たに判明した事実 をもとに,物語の起源に話を絞って,改めて考察したいと思う。 謎かけ姫物語の多様性 トゥーランドットの物語の起源については,この題材をもとに書かれたプッチーニ の有名なオペラに関する文献の中でもよく言及されている。しかし,日本やアメリカ で出版されたものでは,ゴッツィの同名の劇を原作とするとの指摘がなされるだけで, それ以前の物語の背景についてはまったく触れられていなし〉。あるいは触れられてい ても,カーナの不正確な記述をそのまま踏襲して~'千一夜物語』に由来するなどといっ た漠然とした説明がなされているだけである。 (1) 最上英明「トゥーランドット物語の変遷Jr香川大学経済論叢』第 70巻第 2号 (1997年) 169~181 頁 o( 2 ) Ashbrook, W, jPowers, H, Puccini's Turandot. 1991 永竹由幸『オペラ名曲百科』
音楽之友社, 1989年など。
(3 ) 高崎保男「プッチーニ:歌劇《トゥーランドット}Jポリグラム【カラヤン盤 CD,レヴア イン盤
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】など。-286ー 香川大学経済論叢
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ところが,フランスのL'A
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の名作オペラ・シリーズの1
冊として 出版された『トウ}ランドット』の巻頭に掲載された“Lal
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(残忍な王女の伝説,プッチーニの起源)と題する 論文,及び,近年出版された“L
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(プッチーニの 謎に満ちたトゥーランドット)と題する研究書において,オパニアクは物語の背景に ついて詳細に論じている。このフランスのオパニアクの研究が,現在のところ,トゥー ランドットの起源に関しては,もっとも示唆に富むように思われる。すなわち,トゥー ランドット物語の本来の起源は,ゴッツィの劇作品ではなく,ゴヘyツィより 50年前に 出版されたペティ・ド・ラ・クロワの『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王 女の物語」であるという。ただし,ペティ以前から,似たような物語がいくつか存在 しており,それらについての言及から話を切り出している。 まず『千一夜物語』の中から,この物語を素材とする作品が2つ紹介される。どち らもマルドリュス版に含まれているもので,8
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夜からの「九十九の晒首の下での問 答J(
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夜からの「金剛 王子}の華麗な物語J(
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作である。なお, 最近の研究によると,1
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年から1
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年にかけて出版されたマルドリュス版は,世紀 末から今世紀初頭にかけて活躍した作家たちからは賞賛をもって迎えられたとはい え,文学的な潤色や歪曲が多く,底本についても媛昧な上,加筆や削除も目立つなど, 学術的には問題が多いとされているようである。 前者の「九十九の晒首の下での問答」は,謎解きに失敗して命を失った9
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人もの晒 首の下で,1
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人自に挑戦した王子が謎解きに成功するという話である。1
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に及ぶ王 女の謎については,先の拙文で触れたが,物語の概要は次の通りである。 ある麗しい王子の両親である国王と王妃は,アラーの試練により,貧困のどん底 にあった。王子はある街のスルタンに両親を売る。父の代償として立派な馬を,母 の代償として武装を手に入れた。王子は,求婚者にたくさんの謎をかげ,正しく答 (4 ) アーウィン『アラビアン・ナイトJ54頁以下。481 トゥーランドット物語の起源 -28界一 えられなかったら首を斬るという王女の住む街へ行く。
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人目の挑戦者として謎 解きに挑戦する。まず12の謎に正しく答えるが,王子は逆の提案をする。王子が王 女に謎を出し,王女が正しく答えたら,自分は首を斬られでもいいと。謎の内容は 「私が馬にまたがっていながら,父にまたがっている,またこうして皆の自にさら されていながら,母の衣類に隠されている,これはどういうことか」というもの。 王女は答えることができない。王子はこれまでの自分の境遇を語り,謎解きをする。 王子は王女と結婚し,両親も呼び戻す。 カーナは,この物語をゴッツィの『トゥーランドット』の基になった作品としているが, 実際にはペティの r千一日物語』の中の物語がそうであるから,これは誤りである。 ただし王子側からの逆提案という要素が既に含まれており,お馴染みのトゥーラン ドットと類似していることから,カーナも迷わされたのであろう。この王子側からの 謎の内容が,王子自身のこれまでの境遇をもとにしている点は,後述するー速のペル シアでの謎かけ姫の物語群と共通している。それだけ好まれた題材だったのであろう。 この「九十i九の晒首の下での問答」の物語自体,訳者の注によれば,もともと『千一 夜物語』に含まれていたものではなく,マルドリュスが自分の版に取り入れたものと されている。従って,ペルシアにおける何らかの謎かけ姫の物語を基に,マノレドリュ スが翻案してできた物語と考えられる可能性も高そうである。 謎かけ姫の話はよほど人気があったのか,マlレドリュス版r
千一夜物語』にもう 1 つ存在する。後者の「金剛王子の華麗な物語」であるが,これにも訳者による次のよ うな注があり,こちらも『千一夜物語』にもともと含まれていたものではない。 これも元来『千一夜物語』にはないヒンドスタン語(ウルド語)の物語で,ヒン ディー語の大家G
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によって初訳されているという。“
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アラビア語,ペルシア語,ヒンドスタニー語, トルコ語よ (5 ) カーナ『プッチーニ』下, 236頁。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-288- 香川大学経済論叢 482 り訳された寓話,詩物語及び民謡集) Paris, Leroux, 1876 (ショーヴァン『書誌』による) この「金剛王子の華麗な物語」も別の物語集からマルドリュスにより取り入れられた 物語のようであるが,物語の内容は以下の通りである。 モホラ姫という絶世の美女がいた。彼女に求婚するためには解かなければならな い謎がある。その謎は「松かさと糸杉との聞の関係は?J (Quels sont les rapports entre Pomme de Pin et Cypres)というだけのもの。もしこの謎に正しく答えられ なければ,首を斬られ,宮殿の尖塔にさらされる。この謎を解くために,金剛王子 がそれこそ文字通り,華麗に世界中を駆け巡る。行く先々で出会う女性から気に入 られ,その都度ヒントをもらい,目的を達成する。 まずモホラ姫の国に赴き r珊瑚の校」という名の侍女から,ワーカークの街で謎 が解明できることを教えられる。その後,ラティファ,その妹ガミラ,アジザ女王 に手助けされ,無事にワーカークへ到着。苦労の末,何とか謎を解明する。松かさ と糸杉とは,ワーカークの糸杉王と松盤姫のこと。深夜,松盤姫は糸杉王の目を盗 んでは, 7人の黒人のもとへ出かけ,彼らに暴行されることに喜びを見出していた。 ある晩,不審に思った糸杉王にその現場を押さえられ,黒人たちは殺される。一人 だけ逃げ去った黒人が,モホラ姫の寝台の下に潜り込み,姫をそそのかして,この 難題をふっかけさせているという。 帰路は,逆の順序でこれまで協力してくれた女性のもとへ一人一人立ち寄り 4 人全員を妻にしていく。モホラ姫の宮殿で謎の解明をする際には,誰も気づく者の いなかった黒人を,姫の寝台の下からつまみ出し,姫を魔法から解いてやる。そし てモホラ姫を含め, 5人の女性を連れて自分の国へ戻っていく。 非常に面白い内容の物語であるが,王女の謎かけの原因が,悪い黒人にそそのかされ てのことというのは,この種の他の物語には見られない,この物語独自のものである。 また複数の女性と結婚するというのも,同様である。私見では,これらの点で,後述
-289ー トゥーランドット物語の起源 483 する謎かけ姫物語の系譜からは,少々外れているようにも思われる。ただし i不義密 アラビアン・ナイトにあまねく行 に仕上がっているとは断言できょう。そもそもシャブリヤール王が,妃の不貞を発見 シェへラザードだけは,話の続き して以来,一夜明ける毎に女性を殺していたのに, この枠物語全体の出発点でもある を聞くために,処刑を延期し続けるという設定が,
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-サデイズムなどのセックスをめぐるテーマは, (6) き渡っている」という観点、からこの物語を見れば,極めて『千一夜物語』らしい物語 通, ことは,周知の事実だからである。 オパニアクはこのあと,ニザーミー(Nizami:1141~1202) の『ハフト・パイ さて, カノレ~ (七人像)についても触れている。これは7人の王妃が皇帝パアラームに順番に 4番目のロシア王妃の語る物語が,謎かけ姫の物語 話をするという設定の枠物語で, として有名である。砦に住む王女は,求婚者に対して次の 4つの条件を課す。 -美男子で名声が高い -王女が住む砦に通じる道の魔像の力を取り除く ー -この砦の門を探し出す -王女の父の宮殿で謎解きに成功する ある美青年が,賢者の教えに従い,赤い服を着ることで魔像の力を取り除き,太鼓を 叩いて砦の門を探し当てる。最後の王女と求婚者との謎のやり取りが,通常の言葉に 比験的で謎に満ちたやり方でなされるのが,他の物語と大きく異 よる問答ではなく, なっている。 王女の行為 求婚者の対応、 1 耳たぶから2つ真珠を外して渡す その2つに別の3
つを加えて返す 2 砂糖を加えて一緒に磨りつぶす 乳をかけて返す3
指輪を送る 光輝く真珠を渡す 4 彼の真珠に自分の真珠を結び付ける 青いビー玉を聞に通して返す アーウィン『アラビアン・ナイトJ215頁。(
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OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-290-ー 香川大学経済論叢
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これらの行為は,次のような意味に解釈されるという。 王女の行為 求婚者の対応 1 あなたの命はあと2日だけ たとえ5日でもすぐ過ぎる 2 砂糖と真珠は分離できるか 乳をかければ分離できる 3 結婚に同意する 私ほどの者は得られまい4
私こそ相応しい伴侶 我々2人に匹敵する者はいない こうして王女はこの求婚者と結ぼれるのだが,これらのやり取りについては,研究者 により,無言での頭脳試し(einestumme Scharfsinnsprobe),あるいは比倫的言語に (8) よる論議(eineDebatte in einer Bildersprache)などとも表現されている。この物語 は,ペルシアにおける謎かげ姫物語のもっとも初期のもので,極めて重要な位置を占 める作品であるが,これについてはまた後述する。 オパニアクは,このあとすぐ『千一日物語』に話を進めているが,ここではその前 に,アールネ/トンプソンのよく知られている「民話の型」について触れておくこと にする。まず, ATh851で「謎が解けない王女」のタイプが立項されているが,ここ から派生したATh851Aとして Iトゥーランドット」が独立して取り上げられてい る。そこで「王女が求婚者に謎をかけ,解げなければ死刑にする」という簡潔な説明 が与えられているだけだが I謎が解けない王女」と同類のものとして扱われているこ とが興味深い。このタイプの話としては,グリム童話の「なぞなぞJ(Das RatselKHM 22)が代表例であるが,謎をかける王女より,謎が解けない王女の物語の方が,各国に おける分布度は高いようである。「なぞなぞ」の内容は次の通り。 自分に解けない謎を出した者と結婚するという王女がいた。その代わり,王女が ( 7 ) Meier, F.. Turandot in Persiens
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6. (8) Wesselski, A. QueJlen und Nachwirkungen derHajt仰ikar.s
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115. 同論文によ ると,マスウーディー (896~956) の物語でも,アレクサンダ一大王と賢者との聞で,乙う した比喰的言語によるやり取りが見られるという。485 トゥーランドット物語の起源 -291-その謎を解いたら,求婚者は首をはねられる。 9人の男が命を落としたあと,ある 王子がこの王女の住む街へやってきて謎を出す。「ある人が
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人も殺さずに1
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f)とは何かというもの。この 意味は,この王子が王女のもとへ来るまでに体験した出来事で,ある老婆から渡さ れた飲み物が飲む前に破裂して馬にかかり,その馬が死んでしまう。この馬を食べ たカラスを,人殺しの悪党1
2
人が食べて死んでしまい,王子は危うく難を逃れる, といった体験である。 王女は謎の答えがわからないので,王子のところへコートを着てやってきた。王 子から答えを聞き出すのに成功するが,コートは王子に奪われる。翌朝,王女は謎 に答えるが,残してきたコートから策略を用いたことが発覚し,王女はこの王子と 結婚することになる。 これが「謎が解けない王女」の物語の典型例であるが,謎かけ姫物語においても,逆 に求婚者の側から王女に謎をかけ,王女が解けずに求婚者と結婚するという婆索を含 んでいるものも多い。アールネ/トンプソンにおいて,この2つが表裏一体のものと して扱われるのも,その意味では妥当であるかもしれない。この「なぞ、なぞ」で興味 深いのは,求婚者が王女に出す謎の内容が自分の体験をもとにしていること,王女が 策略を用いて,その謎の答えを探ろうとすることである。この2点は,あとで見るよ うに,ペルシアの謎かけ姫の物語の系譜において,何度も登場する要素である。 さて,王女が求婚者に条件を課し,失敗したら首をはねるという話は,グリム童話 にもう一つ存在する。「あめふらしJ(
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と題されたもので, 内容は次の通りである。 王女の城には,1
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方向への何でも見通せる窓のついた広聞がある。この王女と結 婚するための条件は r王女に見つからないように隠れること」というもの。もし見 つかれば,首をはねられ,杭にかけられる。既に9
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人の首が杭にかけられた。3
人 兄弟が挑戦し,上の2人が失敗して,ついに 99人の首が並ぶことになった。次に 3 番目の兄弟が挑戦する。彼は助けた狐のカを借りて,あめふらし(直訳すると「海OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
292ー 香川大学経済論叢 486 うさぎ」の意で,カタツムリのような軟体動物)に化ける。そして王女が何でも見 通せる広聞に行くときは,お下げ髪の下に入り込むようにと,狐に忠告される。王 女は結局,隠れ場所を見つけることができず,もとの姿に戻ったこの男と結婚する。 100人目の挑戦者が成功するという点は,マノレドリュス版『千一夜物語』の「九十九の 晒首の下、での問答」と共通している。区切りのいい数が,物語や童話では好まれるか らであろう。グリム童話においても,このような謎かけ姫物語が(特に有名な作品と いう訳ではないが)複数含まれているということは,この題材が各地に浸透している ことを示すものであろう。なお,これらの物語の起源はペルシア方面に求めるのが一 般的のようで,グリム兄弟自身,採話した民話のうちのいくつかは r千一夜物語』に (9) 由来することを承知していたという。 II 千一日物語』の「カラフ王子と中国の王女の物語」 今世紀のプッチーニやプゾーニのオペラで知られる『トゥーランドット』の原作に ついては,ゴッツィの同名の劇作品であると一般には言われている訳だが,実際には ゴッツィの劇作品もフランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(FrancoisPetis de la Croix : 1653,,-,1713) の『千一日物語~ (Les Mille et un
J
our)の中の「カラフ王子と中国の王 女の物語J (Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine)に由来するもの。
0) であることが,いくつかの研究からほぼ断定できるようである。 18世紀初頭のフラン スでは, 1704年から1717年にかけてアントワヌ・ガラン(Antoine Gal
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and: 1646 "-'1715) による『千一夜物語~ (Let Mille et une Nuits)が出版され,この物語が初 めてヨーロッパに紹介されることになったが,ほぽ同時期の1710年から 1712年にか けて,ペティ・ド・ラ・クロワにより,この『千一日物語』が出版される。この時期 のフランスは,メルヒェンの歴史においても重要な時期で,17世紀後半,ペロー(Char -les Perrault: 1628"-'1703)により護話集が出版されて以来,宮廷や上流貴族を中心と ( 9 ) アーウィン『アラビアン・ナイトj 141頁。 (10) 本文中で触れたAubaniacの文献,及びMeier,F.. Turandot in Persienなど。4
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トゥーランドット物語の起源 -293-する読書界には,メノレヒェンや奇談を含む物語集に対する受容基盤もあったとされる。 『千一日物語』は,その書名自体もそんな感じではあるが千一夜物語』のイミテー ションと考えられることもある。もちろん多くの例外があるとはいえ,概ね r千一夜 物語』は女性に反感を持つ王子という観点、で書かれているのに対し r千一日物語』は 男性に反感を持つ王女という観点で書かれているからだという(もちろん「トゥーラ ンドット」もこれに含まれるであろう)。ただし,この時期の出版に関しては,ガラン のz
千一夜物語』の「第七巻に入っている『ザイン・アルアスナーム』や『フダトと 兄弟たち』といった物語は,別の東洋学者ペティ・ド・ラ・クロワがトルコ語写本か ら訳出したものだ。これはガラン本人のあずかり知らぬことで,同警のまれに見る成ω
功に便乗し金儲けを焦った出版社のしわざだ」との指摘もあるように,いろいろな要 因が絡んでいたことも否定できないようではある。 作者のペティについては,日本ではまったくといっていいほど知られていないが, ルイ1
4
世(在位:1643~1715) のいわゆる「大世紀J (Grand Si邑cle)の時代に活躍し た優れた東洋学者で,歴史家や外交官の仕事もこなしていたという。1
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年にパリで 生まれ,父がノレイ1
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世の通訳秘書を務める東洋学者だったこともあり,東洋の言語に 関しては早くから精通し,1
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年に1
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歳で,コルベーlレにより中東の使節として派遣 され,エジプト,パレスチナ,ペルシア,アルメニアなどを訪れた。また小アジアを 経由してコンスタンティノープルにも赴いた。旅行中は,言語,文学,風俗,習慣, 美術なども研究し,ありとあらゆる珍しいものを集め,また多数の写本を王立図書館 へ持ち帰った。ルイ1
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世も彼に会って話をしたがったという。ペティは近東諸国の言 語を担当する海軍省の通訳秘書にもなり, トルコやモロツコへ学術調査や政治使節と して赴いた。1
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年にコレージュ・ロワイヤルのアラビア語の教授に就任し,その数 年後,父のフランソワ・ペティ (1622~1695) が亡くなると,父の務めていた国王の 通訳秘書の職も引き継いだ。1
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年から1
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年にかけて『千一日物語』を出版し,そ(
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)
Luthi, M. Marchen S.4
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アーウィン『アラビアン・ナイトJ1
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頁。(
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)
Pierre Larousse. Grand Dictionnaire Universel du XIXE Si色cle..1
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(13) アーウィン『アラビアン・ナイトJ2
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頁。(
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)
ペティの略歴の記述は,主に次のものを参照した。 PierreLarousse Grand Diction -naire Universel du XIXE Siecle1
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OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-294- 香川大学経済論叢 488 の後, 1713 年に亡くなった。『千一日物語』はブJレゴーニュ公爵夫人 (1685~1712 : レ) イ15世の母)を楽しませるために出版されたとも言われている。 『千一日物語』については,原テキストは失われてしまっているが, もとの物語集 は,イスファハンの聖職者であったモクレ(Moclet)が,インドの原作をもとに構想し U日 たもので,その手稿を, 1675年にフランス人の友人だったペティに遺贈したという。 ただし,このモクレという人物が実在の人物であったかどうかについては,オパニア クのように,疑っている研究者もいる。膨大なペティの手紙のどこにも,モクレとい う名前が見当たらないからだという。ペティがこの物語集を権威づけるために,この モクレなる人物を考案して利用した可能性も極めて高いと考えられでもいる。ただし, 内容自体が彼の創作という訳ではなく,ペティが現地で読んだり聞いたりした話をも とに,彼の流儀でまとめ上げた作品であることは確かなようである。 さて,この『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」であるが,内 容を検討すると,ゴッツィの『トゥーランドット』の原形がほとんど存在することが 確認できる。謎かけ姫の物語において,登場人物に名前がつけられるようになるのも ペティ以降であるが, トゥーランドット以外の主な登場人物の名前についても,ゴツ ツィ以降,プッチーニのオペラに至るまで,ほぽそのまま継承されている。 P邑tis(1711) Gozzi (1762) Puccini (1926) Tourandocte Turandotω Turandot Altoun-Khan Altoum Altoum Calaf Calaf Calaf Timurtasch Timur Timur Adelmulc Adelma (Liu)
(15) Br色que,.J-M Le chef-d'auvre que Puccini ne pouvait achever S..10 (16) Meier, F Turandot in Persien S引1
(17) Aubaniac, R L'enigmatique Turandot de Puccini. S..20 (18) Turandotteとなっている版もあるという。
-295-トゥーランドット物語の起源 489 トゥーランドットという名前の由来についてはいろいろと言われている。 1843年に出 された『千一日物語』の新版につけられた注では, rTourandocte,またはPourandocte ササン朝末期の王の一人である KhosrovPervizの娘」との記述もあ は王妃の名前, る。オパニアクによれば,Touranといえば,一般にはトルキスタン地方を指し,dochte という意味をもっ単語であることから,フ ランス人ペティ自身が考案した名前ではないかとの可能性も示唆している。謎かけ姫 フランス語で学者(街学者) というのは, : J i
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-。 i ( この『千一日物語』が初め てであることから,ペティがつけたのではないかと考えるのも自然な考え方であるよω
うに思われる。 物語の長い歴史において,王女に名前がつけられるのは, この「カラフ王子と中国の王女の物語」の概要は次のようなものである。 皇帝アルトゥン汗の娘トウランドクトは,美貌と知性に恵まれているが,男性へ チベット王子との結婚話が持ち上がった の嫌悪から,結婚を拒んでいる。かつて, とき,彼女は機体して病気で死にそうになった。そのため「求婚するには,謎に答 えなげればならない。しかし正しく答えられなければ,宮殿の中庭で首をはねられ る」という彼女の結婚の条件に皇帝は同意させられてしまった。このような過酷な 条件にもかかわらず,彼女に魅せられた多くの者が命を落とした。 タタール・ノガイ族の長だったティムJレタシュ,彼の息子カラフが,幾 ある日, 多の苦難ののち,北京にやってくる。ちょうど謎解きに失敗したサマノレカンドの王 トウランドクトの肖像 子が処刑されるところであった。この王子の家庭教師から, を見せられると,不思議な動揺に襲われ,即座にすっかり魅せられてしまう。そし て彼女に求女皆するために,謎解きに挑む。 第 1の謎「世界中のすべての人の友達で,自分と同等の者に我慢できないもの」 (19) Aubaniac, R L'enigmatique Turandot de Puccini S. 21 (20) Burgelは, ドイツ語版『ハフト・パイカル』の注で,別の2つの解釈を示している。 tur -andukhtと解すれば, トルコ人の娘(Turkentochter)oturan-dukhtと解すれば,山の 諮り(Berg-Bewahrte)である。ただし,後者はかなり砦の姫をヒロインとする『ハフト・ パイカル』の内容に影響された考えであろう。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
29δ,ー 香川大学経済論叢 第2の謎「子供たちを産んで,大きくなると,彼らをむさぼり食う母親」 第 3の謎「表が白い色,裏が黒い色の葉をもっている木」 490 答えはそれぞれ i太陽J (le soleil)i海J (la mer)i一年(昼と夜)J (l'annee) カラフは謎解きに成功。観衆は歓声を挙げるが,王女は絶望し,翌日,さらに謎 かげができるように皇帝に懇願する。しかし皇帝は認めない。するとカラフは,自 分が出す謎に彼女が正しく答えられれば,自分の権利を放棄すhると言う。「数々の苦 労を味わってきたが,今は栄光と喜びの絶頂にある王子の名前は?J トウランドクトは朝までの猶予を求める。夜遅く,女奴隷のアデノレミュルクがカ ラフのもとへやってくる。彼女はある国の王の娘だが,アルトゥンに征服され,今 は奴隷である。トウランドクトがカラフを暗殺しようとしていると,彼女はカラフ に信じ込ませる。カラフはすっかり動揺し,自分と父の名前を漏らしてしまう。彼 女はカラフに愛を告白し,一緒に自分の親族のところへ逃げようと誘う。しかしカ ラフはそれを拒否し,彼女は絶望する。 翌日,トウランドクトは謎に答える。「王子の名はカラフ,ティムルタシュの息子。」 カラフはがっくりし,気を失う。正気に戻ると,どんでん返しが起きる。王女は言 う。「彼に対して新たな気持ちを感じるのです。彼の能力,父が示した愛情に対して。 私は結婚に同意します。」 皆は歓呼の声を挙げる。皇帝は娘を抱擁し,名前を知った理由を尋ねる。王女は 言う。「奴隷の一人が,夜に秘密を巧みに引き出したのです。王子はその裏切りを許 してくれるでしょう。私がしたのではないのですからりするとアデルミュルクは ベールを取って言う。「私がカラフ王子と会ったのは,名前を知るためでも,王女に 仕えるためでもありません。奴隷から脱したかったのです。あなたの愛する人を連 れ出して。彼は私の頼みを退けました。嫉妬から,私は嘘の告白をしたのです。そ れで彼は名前を漏らした。」そう言うと,アデルミュlレクは短万をとり,自害する。 彼女の葬儀のあと, トウランドクトとカラフの挙式が取り行われ,皇帝の助力で, カラフの父は自分の王国を取り戻す。 この作品をもとに,ゴッツィはコメディア・デ・ラルテの劇として,
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トゥーランドット物語の起源 -297 -ランドット』を発表するが,オパニアクが指摘しているペティとゴッツィの類似点と 相違点は次のようである。 類似点 ・主要登場人物の名前(これについては,前記の表を参照) ・肖像画へのー自惚れからカラフは求婚を決意する -王女はカラフの最初の登場の際に魅力を感じる • 3つの謎のうちの2つが同じである:太陽,一年 (ゴッツィでは, 3番目の謎の答えは,アドリアの獅子) .王女は謎を解いた勝者の求婚を拒む ・勝利したにもかかわらず,王子は逆提案し,自分の命を再度危険にさらす .奴隷アデノレマが王子の秘密を引き出すのに成功する ・王女は民衆の前で未知の王子の名を告げる -同時に王子に惚れたことを告白し,結婚に同意する 相違点 ・多数の脇役が登場する(道化役の大臣,カラフの教師パラフなど) ・カラフが謎解きに勝利したあと,ティムーJレは投獄され拷聞を受ける ・かつて王女だ、った奴隷アデノレマは,逃亡者だったカラフを知っていた ・アデルマは最後に短万で自殺しようとするが,カラフに妨げられる .トゥーランドットはアデノレマに自由を返す 以上のことから,オパニアクは「ゴッツィの作品は,細かな違いがあるとはいえ,ほ (2]) とんどペティの物語の舞台向けの盗作(demarquage)でしかない」とまで言・っている。 内容的には,他にも,カラフが父のティムールと一緒に北京にたどり着くまでの物語 の先史となる苦難の行程,タターJレ・ノガイ族がカリズム皇帝の侵攻を受け,カラフ (21) Aubaniac, R L'enigmatique Turandot de Puccini. S..28OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-298- 香川大学経済論叢 492 の一家がアストラハンの街を脱して放浪するという物語の背景も,ゴッツィはそっく りそのまま冒頭のカラフとその教師だったパラフとの再会の場面で利用している。一 番大きく違うのは,女奴隷のアデ1レマ(ペティではアデルミュルク)が最後に自害し て死ぬか,死なずに自由を取り戻すかという点であろう。 こうしてみると,確かにゴッツィは物語を劇に改作しただけと思えなくもないが, もしゴッツィが劇作品としてヒットさせなかったら,後世へこれほどまでの影響を及 ぼしたかどうか。ゴッツィが存在しなければ, トゥーランドットがここまで有名な物 語になったかどうか。そうしたことを考えると,素材選択の鑑識眼の高さ,改作とは いえ,ヒットする劇作品に仕上げた力量といった点で,ゴッツィの功績も認められる のではなかろうか。コメディア・デ・ラルテとして評判をとったお陰で,シラーの翻 案を通してイタリアからトイツに紹介される契機ともなった。フやゾーニのオペラも ゴッツィの舞台上演の付随音楽から発展して完成されたものである。プッチーニが ゴッツィの劇の上演をベルリンで実際に見ていることも知られている。 同時にまた,ゴッツィが自作に利用した作品を正しく知ることも,ゴッツィ研究の
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上で必要かっ重要なことであり,今後,フランス以外の国においても,ペティの『千 一日物語』が正当に認識評価され,日本でも専門家の手によって,きちんとした翻訳 と紹介がなされるようになることを期待したい。 III r千一日物語』に至るまでの物語の変遷 『千一日物語』のペルシア語原典が紛失しているというのは大変残念ではある。また, オパニアクは『千一日物語』の原典を書いたとされるモクレなる人物の存在自体を疑っ ていて,この物語に権威を持たせるためにそういう体裁をとっただけではないかと考 えていることも,先に触れた通りである。このように,この物語集の出自について, いささか判然とはしない部分も残るが,この物語集の成立事情がどのようであれ rカ ラフ王子の物語」に限っても,誰かがいきなり創作した物語ではなく,長年の変遷の (22) 他に f3つのオレンジへの恋』は,パジーレの『ペンタメローネ』を下敷きにしている という。 Breque,J-M La fiaba de Car10 Gozzi: genie parodique, theatralite et merveilleuxs
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トゥーランドット物語の起源 -29少ー 末にできた物語と考えられる。もちろん『千一日物語』において,王女にトゥーラン ドット(トウランドクト)と名前がつけられ,後世に知られるようになる訳だが,そ れに至るまでの経緯については,マイアーの「ペルシアのトゥーランドット」という 論文で詳細に触れられている。ニザーミーの叙事詩以降,様々な散文での形態による 数世紀に及ぶ、変遷を経た末に成立している事情が手にとるようにわかる。この論文は1
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年の『ドイツ東洋学会誌』に掲載されたものだが,戦前のドイツにおける東洋学 研究の水準の高さをうかがわせると同時に, トゥーランドット研究において,今日で も重要な文献であろう。そこで,最後に,このマイアーの論文に沿って,ペルシアに おける謎かけ姫物語の変遷と展開を追ってみたいと思う。 まず, 1197年に完成されたニザーミーの叙事詩『ハフト・パイカル.1 (七人像)が, 現在残されているものの中では,謎かけ姫物語のもっとも古い形とみなされている。 この物語の内容については既に触れたように,王女と求婚者との謎のやり取りが,通 常の言葉による問答ではなく,真珠などのやり取りによって行われるのが,その後の ものと違っている。ただし,殺されて城門にかけられた求婚者の首については,後年 のゴッツィ以降の「トゥーランドット」で,王女の肖像により魅せられる求婚者とい う設定は~.千一日物語』でそれぞれ取り入れられている。 Ge!pke によるこの作品の ドイツ語訳では,この物語がトゥーランドット物語の先駆的なものであることから, 王女の名前を敢えてTurandochtとして表記しているほどである。ただ内容的にみる と,求婚者カ瀧のやり取りに成功したあと,王女が何の臆路もなく求婚者のものにな る感じで,王女の心理的な側面が,後のものとは異なっている。 その後,最初に散文形態で書かれたのが1
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年にデリーで 書かれた“Dschawami'u!寸likayat"という膨大な物語集である。その中に次のよう な物語が含まれているという。 ギリシア皇帝にこの上なく美しい娘がいた。彼女は自分の出す謎を解いた者にだ け求婚に応じ,謎解きに失敗した者は死なねばならない。これまで無数の者が命を 落とした。 メソポタミアに住むある貧しい一家は,息子の勉学のために貧窮を極めていた。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-300-ー 香川大学経済論叢 494 一家はペルシアに移住し,息子は父を売って瞳馬を買い,母を売って鎧を貿い,そ してこのギリシアの王女を得ょうとした。 王宮では,彼は9つの質問すべてに答え,最後に逆に王女に質問する。 「父が腫馬,母が鎧,水で濡れた葉により救われた者は,どんな人聞か ?J 王女は翌朝まで猶予を乞う。王女は2人の女官に豪華な服を着せ,自分は召使い に変装して,晩に一緒に男のもとへ出向く。彼女たちは策を弄して秘密を聞き出す。 その代償として,彼は女官の1人を一晩自分のものにしてよかった。しかし彼は召 し使いを選ぶ。彼が彼女を捕まえようとすると,彼女は彼の手を噛み,装身具を残 したまま逃げ去る。 翌朝,王女は質問に簡単に答える。すると男は, 3羽の雌鳩と 1羽の雄鳩に関す る問いを発し,前の晩の出来事をほのめかす。王女は策を弄したことを恥じ入り, 母にすべてを語り,母の忠告に従って結婚に同意する。男は皇帝になり,ペルシア 王に売った両親を買い戻す。 この物語では,求婚者による逆の質問が導入されている。この質問の謎は,求婚者の これまでの体験をもとにしたものであるが,これにより,王女の質問と求婚者からの 質問と,物語における緊張が2個所形成されることになる。この最初の散文の形態に おいて,既に後年の謎かけ姫物語の原形が出来上がっていると考えられる。 15世紀には,‘Abdul-GafOr-e
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ri(1506年没)という人物が残した写本が存在す る。これはオックスフォードのボドリアン図書館(BibliothecaBodleiana)が所蔵する 写本, Ouseley Adds. 69と呼ばれ,その内容は,以下のようである。 中国の皇帝にこの上なく美しい娘がいた。議論でも誰も彼女にかなう者はいな かった。両親がこの娘の結婚を考え始めた頃,彼女は自分の出す質問に答えられる 者だけが自分を妻にでき,答えられない者は死でその身のほど知らず、を償い,その 財産は自分のものになる,との申し出をした。そのため,何千人もの大胆な若者が, 謎を解けずに命を落とした。 エジプトから王子がやってきて謎解きに挑む。そして,すべての謎に答える(謎の495 トゥーランドット物語の起源 -301ー 場面は16頁以上に及ぶ膨大なもの)。王女は困惑し,物思いに沈む。さらに謎かけ を続けようとするが,父は思いとどまらせ,この王子との結婚と,王国の半分を持 参金として与えることを提案。王女は結婚を決心し,婚礼が盛大に祝われる。 内容的には,極めて簡素なものだが,中国が舞台になっていることが,後のトゥーラ ンドット物語の先駆となっている。 『千一白物語』に一層近い内容を含んでいると考えられるのが,同じオックスフォー ドのボドリアン図書館に所蔵されているOuseley58と番号がつけられたペルシア語 の写本である。これまでの写本と違って,物語の全体が詳細にわたって記されている という。作者の名前は残念ながら不詳である。この写本と似た内容のものが,ロンド ンのIndiaOffice Library所蔵のNrゎ2541写本にも残されていて,これには, 1645年 12月 20日とのデータが記載されており,年代的にもほぼ『千一日物語』の前段階のも のと考えられる。また同内容の物語の不完全な形での写本が,イスタンブールのアヤ ソフィア大聖堂の図書館に,Nr..1814写本として所蔵されているという。このように, この時期になって,謎かけ姫物語が徐々に大きなまとまりを見せてくるようになる。 このボドリアン写本Ouseley58の膨大な内容は,概略,次の通りである。 トゥーランの王の一族が国を追われ,苦難の旅を続ける。やがて食事の糧を得る のにも苦労するようになり,息子の王子は両親に自分を売ってくれるよう提案する。 すると両親は反対に,息子に自分たちを売るように申し出る。ある晩,白い鷹が王 子のところにやってくる。この鷹を街へ連れて行くと,この街の国王が長いこと探 していた鷹だという。国王のもとにこの鷹を連れて行くと,国王は大喜びし,彼に 何か望みをかなえてあげると言う。そこで王子は自分の両親を(自分の奴隷である と称して)買い取ってくれるように頼む。父の代わりに,宮殿の馬小屋の立派な馬 をもらい,母の代わりに武器と王の装束をもらう。 王子はさらに旅を続け,中国の使者と出会う。この使者は中国の国境から500キ ロ離れたある王のもとに皇帝の手紙を持っていくところであった。この使者は王子 の高貴“な姿を見て,自分がお供するから,自分の代わりに使者となるよう提案する。
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
302ー 香川大学経済論叢 496 王子はこれを受け入れ,一緒に旅を続ける。すると恐ろしい雷鳴と稲妻とともに, 最後の審判の日がやってきたかのような激しい嵐に見舞われる。真暗閣の中,王子 はこの同伴者を見失う。翌朝,人気のない砂漠の中で,渇きに襲われる。神に祈る と深い井戸が見つかる。ターバンの布と葉で作った綱と,葉っぱで作った容器とで, 何とか水を飲むことができた。そして彼に託された手紙を読んでみると,そこには, この手紙を持参した者を即刻殺せ,と書いであることがわかった。彼は神に感謝し, この手紙を破り,井戸に投げ捨てた。 彼は中国に到着し,皇帝の住む都市までやってきた。市門の外の老女の住む小さ な家に宿をとる。 12歳前後の少年が面倒を見てくれる。王子は老女に,皇帝に子供 がいるのか尋ねる。「一人娘がいて,たぐいまれなほど美しいが,残忍でもある。す べての求婚者を謎かけの場に呼び出す。まず彼女は求婚者に顔を見せ,彼の平静さ を失わせる。それから謎を言い渡す。解けない者は,死ななくてはならない。」 王子は一晩中,目を閉じることができなかった。翌朝,馬に乗って城に出かける と,一人の若者が首をはねられるところであった。王女への罵声も耳にした。王女 の一番新しい犠牲者とのことであった。王子は部屋に戻り,昼まで沈思黙考にふけ る。王女に求婚するという決心を老女に告げる。彼女の警告にも耳を貸さず,翌朝, 城へ向かう。城では皇帝にも挑戦を思いとどまるように説得されるが,一切拒否す る。やがて夜空の月のように光輝く王女が登場する。彼女は玉座に座り,王子に向 かい側の精子に座るよう指示する。そのとき,ベーノレを上げ,魅惑的な眼差しを向 けると,広間のすべての松明が灯されるかのようであった。王子は心を奪われ,椅 子からころげ落ちそうになる。 次から次へと出される謎は,大部分は聖書に関する内容。王子はすべての質問に 答えるが,夜になり,謎解きは中断する。翌日もまた謎解きが続き,これにもすべ て解答する。
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日自の謎には,インド起源と考えられる「一年」を答えとする謎もω
出てくる。 4日目も,王子がすべての謎に答えると,王子は逆に王女に謎を出す。 (23) この謎は, 13世紀の‘Aufiの写本から,ペティ,ゴッツィ,シラーに至るまで用いられ ている。497 トゥーランドット物語の起源 -303-「落ちぶれて,家も宮殿も玉座も失った王子。父と母により身支度を整え,パンを求 めてさまよっていると,第1の死に出会う。小脇には第2の死もかかえ,死ととも にさまよう。何とか逃れると,今度はこれまでよりも過酷な第3の死と遭遇する。 この第3の死と必死で戦い,その死の支配者となった王子,この王子は誰か?J 王女は一晩考える猶予を乞う。王女は策略を巡らす。まず腹心の侍女を呼び,高 貴な服装と装身具を身にまとわせ,ワインの入った瓶を持たせて,王子のもとへ遣 わす。王子は訪ねてきた月光のように光り輝く娘に驚き,誰かと尋ねる。娘は言う。 「私は皇帝の奴隷で,あの結婚しようとしない王女の敵です。彼女の出す聞いはす べて逃げ口上。もう 500人もの王や王子を死なせました。私は謎解きでのあなたの 見事な振る舞いに,すっかり惚れてしまいました。実は,あの王女があなたの命を 狙っているのです。この話を聞いて,あなたへの想いから,これを知らせにやって きたのです。あなたのことが心配です。あなたは今晩,私と一緒に過ごし,卑劣な 王女と決別しなければなりません。」 王子は呆然とし,またこの娘を不慨に,思い,一晩だけ彼女と過ごそうと思う。彼 女は王子をワインで散々に酔わせる。王子が彼女をものにしようとする直前に,娘 は謎の答えを教えてくれるように頼む。王子は次のように答える。 「あの王は私のことである。あの謎は私自身。私は王位を追われ,窮状に陥った。 父を売って馬を手に入れ,母を売って衣装と武具を整えた。パンを探すために道を さまっているとき,若い男に出会った。彼は中国の皇帝の使者だという。私の方が 立派なので,私に代わりに使者になれと言う。私は手紙を小脇にかかえ,彼と一緒 に進んだ。すると突然,激しい雷雨が襲ってきた。道に迷い,この男も見失った。 探しても無駄だった。水も住まいもない砂漠で渇きに襲われ,死ぬかと思った。こ れが第1の死である。やっとのことで井戸にたどり着き,水にありついた。手紙を 開げてみた。すると『これを持ってきた者を殺せ』と書いてあった。私が小脇にか かえていたもの,これが第2の死。もしこの手紙を王に渡していたら,私は殺され たのだから。私は手紙を破り,井戸に投げ捨てた。第3の死は,この街でのこと。 王女の謎かけ。もし答えられなければ,殺されるのだから。」 侍女はこれを聞くと,王子に一緒に寝ょうとうながす。彼女は服を脱いでからト
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-304- 香川大学経済論叢 498 イレに行き,しばらく戻って来ない。その聞に,王子は酔いがまわり,寝入ってし まう。侍女はそれを見て,立ち去る。 翌日,王宮に遅れてやってきた王子に向かつて,王女は言う。「第
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の死を恐れて, 来るのが遅くなったのですか ?J王子は答える。「いいえ違います。昨晩,真夜中に 狩りへ出かけたのです。鳥がやってきたので,捕えて焼きました。そして口に入れ ようとしたら,突然飛び出したのです。しかし羽はまだ私の手許にあります。ご覧 にいれましょうか ?J 王女はしっぽをつかまえられたことを悟り rその必要ありま せん。その鳥はもはや八方塞がり」と言う。そして父に次のように伝言させる。「私 は若者の謎に敗れました。この男と結婚するように命じて下さい。彼は私に相応し いのだから。」 このあと,盛大に結婚式が取り行われる。アヤソフィア写本はここで終わっているが, ボドリアン写本ではさらに後日談が続き,王子は両親を取り戻し,また王位を追われ た国も回復することになる。 このボドリアン写本の物語の内容は w千一日物語』のカラフ王子の物語の内容と似 ている点が極めて多く,以下のような類似点も指摘されている。 -王子が両親とともに荒野での辛い旅をする .鷹を見つけたことから事態が好転する -北京での老女の1
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歳の息子が使い走りをしてくれる ・王女がベーJレを上げた時,求婚者が平静さを失う 他方千一日物語』の方では,以下のような変更がみられるという。 -旅や北京でのエピソードの詳細 .政治的な前史 ・王子の両親は売られるのではなく,宿屋に入れられる ・処刑されたサマノレカンドの王子の所有していた王女の肖像画を見て,王子は求婚499 トゥーランドット物語の起源 しようとJ思う ・謎解きは1日で,謎の数は3つだけになる ・王子の逆の聞いでは,名前が求められる -305ー ・王子に策を弄する女奴隷(以前は別の国の王女)は,本当に王子を愛し,最後に 自殺する ・すべての人物が名前を持つ(宿屋の女将やその患、子と娘に至るまで) 以上,マイアーの論文の概要に沿って,ペルシアにおける謎かけ姫物語の系譜を辿っ てみたが,この最後のボドリアン写本を「千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の 女王の物語」が生まれる契機となった作品と考えるのは,内容の完成度の高さから見 ても,極めて妥当であろう。また『千一日物語』の成立にまつわる事情がどうであれ, 「カラフ王子と中国の女王の物語」がペルシアの謎かけ姫物語の長年に渡る変遷を経 ての一つの到達点、の観があるのは,ペティ・ド・ラ・クロワの構想、カと筆カによると ころが大きいように思われる。主要な登場人物にTourandocteなどを始めとするお期
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染みの名前を与えたのも,おそらく彼であろう。 何はともあれ,今回,プッチーニのオペラで名高いトゥーランドットの物語に,こ うした深い背景があることを知ることができたのは,大きな収穫であると同時に驚き でもあった。 参 考 文 献A
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物語のテキスト ニザーミー『七王妃物語』黒柳恒男訳,東洋文庫191. 平凡社. 1971年。Nizami Die sieben Geschichten der sieben Prinzessinen Aus dem Persischen verdeut -schtu..hg.. von R Gelpke Zurich: Manesse 1959
Nizami Die Abenteuer des Konigs Bahram und seiner sieben Prinzessinnen Aus dem Persischen ubertragenu..hg. von
J
C Burgel Munchen: C H.Beck 1997 「九十九の晒首の下での問答Jr千一夜物語 8~ 佐藤正彰訳,ちくま文庫. 1988年。 「金剛王子の華麗な物語Jr千一夜物語9.1佐藤正彰訳,ちくま文庫.1988年。Francois Petis de la Croix. Les Mille et un Jours, Contes Persans Nouvelle Edition Paris: Societe du Pantheon Litteraire. 1843.
-306- 香川大学経済論叢 500 Carlo Gozzi Turandot..Aus dem Italienischen ubertragen von
P
G Thun-Hohenstein.Stuttgart: Reclam 1965
Bruder Grimm. Kinder-und Hausmarchen Gesamtausgabe in zwei Banden Mun-chen: dtv 1984
「なぞなぞJ~グリム童話集 Lo 金田鬼一訳,岩波文庫, 1979年。 「あめふらしJWグリム童話集5-0金田鬼一訳,岩波文庫, 1979年。
B
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