明治前期における一国立銀行
の性格について
−一創立.初期の福岡第17国立銀行の場合−−
伊 丹 正 博 ⅠいまえおきⅠⅠ.第17国立銀行の設立過程ⅠⅠⅠ.役員構成ⅠⅤ.株主構成 Ⅴ..むすびにかえて Ⅰ わが国における地方金融史を論ずるに当っては,その初期形成過程として, 国立銀行時代を充分に把捉しておかねばならない。九州金融史というものを設 定した場合(あるいは,中国・四国地方を含めて,西日本金融史を考える場合 も,同様であると思うが),そ・こには,分散的に設立された,各地の国立銀行 の個別分析が,基本型を構築するのに最も重要であるこ.とはいうまでもない。 因みに,九州内の国立銀行は,次の通りである。 第1表 九州地区国立銀行の設立状況 資 本 金 所在地 名 称 設 立 時」明治13年末 円 55,000 105,000 160,000 50,000 100,000 80.000 80,000 50,000 円 115,000 200,000 250,000 200,000 150,000 80,000 120,000 80,000 熊 本第9国立銀行 福 岡第17 〝 長 崎第18 〝 大 分第23 〝 久留米第61 〝 中 津第78 〝 大 橋第87 〝 柳 河第96 〝 明治10年11月 10年9月 10年11月 10年10月 11年11月 11年10月 11年11月 11年11月 熊本県 福岡県 長崎県 大分県 福岡県 大分県 福岡県 福岡県香川大学経済学部 研究年報 4 J964 … 丁Jご一一− 名 称 所在地 設立年月 一 ∴ 瞥 本 金 ヨ謡 設 立 時l明治13年兼 円 50,000 50,000 50,000 300,000 50,000 80,000 50,000 50,000 400,000 65,000 50,OUO 円 50,000 50,000 50,000 300,000 50,000 80,000 50,000 50,000 400,000 65,000 100,000 小 城第97国立銀行 平 戸簡99 〝 厳 原第102 〝 佐 賀第106 〝 佐 伯第109 〝 宇 土第135 〝 飲 月巴第144 〝 延 岡第145 〝 鹿児島第147 〝 熊 本第151. 〝 沖 縄第152 〝 佐賀県 長崎県 長崎県 佐賀県 大分県 熊本県 宮崎県 宮崎県 鹿児島県 熊本県 鹿児島県 明治12年2月 12年1月 11年11月 12年2月 11年11月 12年1月 12年5月 12年4月 12年8月 12年8月 12年12月 ※『明治財政史』第13巻260∼273真の表を主として用い作成。 これら19行を,二通りの方法に.よって,グル・−プ分けしてみよう。 先ず第一・ほ,設立.時期に.よるもので,次の通りである。 (1)明治10年代設立のもの 熊本第9・福岡第17・長崎第18・大分第23の各国立銀行 (2)明治11年末より12年初に.かけて設立のもの 久留米第61・中津第78・大橋第87・柳河第96・厳原第102・佐伯第109・ 小城第97・平戸第99・佐賀第106・宇土第135の各国立銀行 (3)明治12年中頃より末にかけて設立のもの 延岡第145・飲肥第144・鹿児島第147・熊本第1引・沖縄第152の各国立 銀行 葬二に.,設立地により大別してみると,次のようになる。1) 1)ここに用いた,九州の地方区分ほ.,便宜的なものであつて,福岡県→北九州地区, 長崎・佐賀県→西九州地云.,熊本・大分県→申九州地g.,鹿児島・宮崎県→南九州地区 としたものである。
明治前期における−・国立銀行の性格に.ついて −ヱヱβ− (1)北九州地区 福岡第17・久留米第61・大橋第87・柳河第96の各国銀行 (2)西九州地区 長崎第18・小城第97・平戸第99・厳原第102・佐賀第106の各国立銀行 (3)中九州地区 熊本策9・大分第23・中津第78・佐伯第109・宇土第13ち・熊本第151の 各国立銀行 (4)南九州地区 飲肥第144・延岡第145・鹿児島第147・沖縄第152の各国立銀行 更に,各県別の資本金合計額を算出すると第2表となる。2) これらによってみると,福岡県は,比 較的早い時期に,他県より行数も多く設 立されており,規模(資本金額よりみて) も大きい。徳川期より明治初期に.かけ て,九州地方の政治・文化の拠点であっ た鹿児島・長崎は,この国立鎖行時代, なおまだその力を失ってはいないが,す でに.福岡地区に.凌鴛される傾向は現れて いる。その後,筑豊地区の鉱山開発,北 九州地区の重工業の発達と共に,九州金 融史の中核をなすのは,福岡県金融史で 第2表 県別国立銀行数と資本金 県 名i行 数i.資本金 円 550,000 350,000 350,000 260,000 330,000 100,000 500,000 福 岡 佐 賀 長 崎 熊 本 大 分 宮 崎 鹿児島 ※行数・資本金とも明治13年末訝。 あると見てよい。そして,この初期を飾 ったのは,福岡第17国立銀行であるといえ.よう。同行は,九州紅おいて,最初 に開設された国立銀行であり,3)規模の点でも,上位にランクされるが,それ 2)『明治財政史』第13巻260戎73真の表による。 3)拙稿「第十七国立銀行の史的研究H」(『鹿児島経大論集』第三巻第叫号所収),及び 『第十七国立銀行史料上』(九州近代史料叢脊第七輯)の解題を参照。 現実にほ,明治6年に,大坂第五周立銀行の鹿児島支店が開設されて屠り,しかも, 同支店が同行営業所中,大きなウェイトをもっていたことは充分注目すべきであろう。 (この点にかんしては,第五国立銀行にかんする筆者の諸論稿を参照されたい。)しか し,本店を九州地域内に設けたのは,この欝17国立銀行をもって初めとする。
香川大学経済学部 研究年報 4 ・、JJイー,・・・・− J9(トJ にもまして:,興味をひくのほ.,その設立当初の状況である。 国立銀行の性格規定に際して,「士族型」「商人型」という言葉の用いられ るのは,専ら設立主体の分析から行なわれるのが主であって,必ずしも当をえ たものとほいえ.ないであろう。4)しかし,近代的銀行の様相をまだ充分身紅つ けていない国立銀行,しかも,僅か20年間はどのその存続時代から分析しよう とする場合,その設立.前後の状況が,大きなウ・エイトを占めるのも,やむを得 まい。その場合,「地主型」ともいうべきものを除桝ま,前二者のごときもの に.区別されるのが通例である。しかし,同行の場合は,比較的,両者のバラン スの取れた上.紅成立しているところが,重要であろう。「士商合弁」といわれ ることが,妥当か否かは置くとしても,他の国立銀行とは,明らかに同列視で きない出発点をっていたといえよう。 かかる観点から,筆者は,九州地方の国立銀行に.かんす・る,・一・連の個別分析 の対象の】…つとして,福岡第17国立銀行へ・の接近を試みたのであるが,5)新史 料の発掘などもあり,6)本稿に.おいては,あらためて最初から取扱い,同時に, 他の二,三.の国立銀行との比較をも試みたい。 ⅠⅠ 前節でのべたように,福岡県内紅は,国立銀行が四行設立されている。久留 米第61国立銀行は旧久留米滞,大橋第87国立銀行ほ.,旧小倉・豊津潜,柳河第 96国立銀行は旧柳川滞というように.,それぞれの地域的特色をもっているが, 4)設立主体紅よる国立銀行の類型化にかんしては,長幸男氏の論稿を契機として,加 藤俊彦氏・朝倉孝吉氏その他の諸氏紅よって論争されて−いる。現在の時点での長氏の反 論及び概括ほ,同氏の論稿「銀行史の方法にかんする・−考察」(.渡辺佐平教授還暦記念 論文集『金融論研究一理論・歴史・現状m』所収)を参照されたい。 5)前掲拙稿「第十七国立銀行の史的研究H)」この論稿においてこは,同行の創出過程と 明治10年代の営兼状況を取扱ったのであるが,筆者の転任紅より,同・−・誌上に続稿をの せることができなくなったため,本稿紅おいて−,あらためて被りあつかうことにした。 だたし,盈復をできるだけ避けるため,省略した部分もあるので,前稿も参照されたい 6)第17国立銀行紅かんする主要史料は,註(3)にふれたよう紅,『第十七国立銀行史料 上・中』二冊に収められており,これに洩れた史料,及び,今後発掘されたものは,下巻 に収められることになっている。尚,本稿紅おいて引用せる史料は,すべて原史料に, それぞれ直接脹を通したものであるが,便宜上,前掲史料集の掲載頁をも掲げておいた。
明治前期における・−−・国立銀行の性格紅ついて −∵ムほ一岬 第17国立銀行の場合は,現福岡市を拠点とし,旧福岡港の士族と,博多および その周辺地域の町方・村方商人との結合のもとに.発足したもめであり,/設立動 機紅ついても,他の多くの国立銭行の場合と同様,明治9年の改正国立銀行条 例に基き,秩禄公債・金禄公債の保全・利用を主とし,地方商工業者への金融 機関を指向するものであったと考えられる。 設立発起は.,明治10年8月15日附の「国立銀行創立願」7)によって表明され, 同年7月2日に許可を受けた。この創立願に連署した発起人は,瀬戸惣太郎, 伊藤六右衛開,末松政右衛門,佐野弥平,吉田−・畝,大音素雪の6名で,前四 者は商人,残り2名が士族であった。 第8表 設立発起人−・蒐表 こ.れら発起人について簡単にのべてみると,瀬戸惣太郎は,福岡藩の御用商 人釜屋惣右衛門の−・族の者であるが,こ.の釜惣は,日田の掛屋広瀬家などと組 み,製機業に活躍した商人であって−,員占商人であると共に,白からも製造共 を営んだが,いわゆる『日田金』によって自己の仕事場を拡大し,マエコ.ファ クチエ.アを形成するに至っている。又,藩の製鉄事業にも関係したようで,銑 鉄の買集め,売捌きにも従事している。8)伊藤六右衛門喀,船釘製造業「釘六」 の当主であり,藩の御用商人であった。兼松政右衛門は,天領加布里において 7)『福岡第十七国立銀行舌苔類集.j(九州大学経済学部所蔵)所収(『史料塞・中』2頁) 8)宮本又次博士「博多と福岡−その社会経済史の概観−」47・−8貴(同氏編『九州 経済史論集必第二巻所収)及び同氏若けt州(風土記経済史)▲召47貰。尚,釜屋惣右術門 にかんする史料は,己釜惣文沓j(九州大学経済学部研究室所蔵)に収められている。
ヱ964 香川大学経済学部 研究年報 4 一一JJ6−
代々大庄屋として酒造業に携わり,東屋と号した幕末の豪商で,豊後中津港や
福岡藩にかなりの金額を貸付けていたようであり,維新後は運送業にも従事し
ている。9)次に,佐野弥平は発起人惣代であり,初代頭取となった重要人物で
あるが,彼は甘木の木墟問屋・質商である佐野屋の幕末・明治初年に・かけての
当主であり,福岡藩主黒田家や,筑後秋月港の御用商人であった。特に,黒田
家との密接な関係は,甘木の木嶋生産が,藩の蚤安産業であったことから肯け
ることであり,遅速販売のため,大阪に支店を置き,関西においても活躍のあ
とを残している豪商であった。10)このような,御用商人4人に対して,あとの
2人の士族の中,吉田一・畝は西南の役に呼応して福岡に起った士族の暴動に・関
係し,株金出資が困難となり,発起人から除外されたし,大音素雪は,中老で
4515石取りの武士であったが,最初の予定額3,000円を減少して,2,200円引受
けていることからみても,11)設立準備作業において,指導的な役割を果したの
は,商人であったと言わざるを得まい。ただ,しかし,これが全く彼等の自発
的意志にもとづいて行なわれたのか,あるいほ,他からの…−漕主黒田家もし
くは,上層士族からの−要請が大きな影皆をもって−いたと見られるかに・つい ては,まだ充分判定を下し得ない現状でほ.あるが,一応, 私見を先にのべておくと,初期の役員および株主の構成とその変遷を通じてみるかぎり,後者にか
なりのクエイトをおくべきであると思う。資本金は,当初10万円で計画し,後5千円の増額を願い出て許可され,12)さ
らに具体的な準備として,本店建設にとりかかり,ほじめの予定地が狭陰であ
ったため,たびたび県庁にたのんで,官有地を拝潤し,18)銀行簿記の講習を受
けた上,14)明治10年11月1日にようやく開店に漕ぎつけたのである。
9)兼松政右循門の事歴についてほ,中村浩理氏「豪商と第十七国滋銀行・米松政右衛 門の巻」(福岡銀行社内報『■福銀迅Nol58掲載)に種々のべられている。 10)佐野弥平の事歴にかんしても,前掲中村氏の「豪商と第十七国立銀行・佐野弥平の 巻」(『福銀.』No・59)に詳しい。 11)前掲『舌苔類集』所収「発起人除名井株金減少願」『史料集・刺 6貢)参照。 12)前掲史料集所収「幾本金増額廟」(同苔6頁) 13)同史料集(3−8頁) 14)同史料集所収「国立銀行創立・ニ付簿記法博授頗」(2頁)明治前期における一個立銀行の性格濫ついて −JJ7− ⅠⅠⅠ 創立時の役員構成はつぎのようになっていた。15) 頭 取 佐野 弥平(商) 400株所有 副頭取 中村 五平(士) 60株所有 取締役兼支配人 伊藤六右衛門(商) 60株所有 取締役 .末松政右衛門(商) 400株所有 〝 瀬戸惣太郎(商) 60株所有 支配人 岡 部 党(士) 40株所有 この役員構成をみてきづくことは,先の発起人申の御用商人4人ほそのまま 役員になって−いるが,士族2名は新らしく入れ替っているこ.とである。これは, 先に.もふれた発起人中の士族にかんする個人的問題に・よるものであろう。この 役員の変遷を,創立後約15年にわたってまとめたのが第4表である。16)さらに., 「今般国立銀行創立願之通御聞届相成候ニ付帝記法左之両名江伝授被仰付侯株数度此 段奉願慎也 福岡県第一・大区二 小区福岡地行百四十二番地 士族乙長男 都 甲 守 次 郎 同 県第九大区ニノJ\区早良郡西新町二十五番地 士族 中 村 五 平(以下略)」 15)「第十七国立銀行定款」に・よると,「頭取取締役撰挙ノ事」と題し,「第七条 当銀行 ノ取締役ハ六十株以上ヲ所持スル株主ノ内ヨリ五人以上ヲ選挙スへ・レ(後略)」「罪八条 取締役ノ衆議ヲ以テ其中ヨリ山人ヲ選ミ之ヲ頭取トナスへシ此頭取及ヒ取締役ノ在職年 限ノ\−ケ年ヲ以テ限リトスへ・レ尤頭取取締役タル老其任二堪へサルカ戎ハ取締役等ノ三 分二以上ノ協議ヲ以テ退任セレムルノ\此例ニアラス但レ副頭取ヲ選任スル時モ又 本条二準スへシ尤此副頭取ハ頭取欠席スル時其事務ヲ代理スルマテニシテ平日ハ淑締役 卜同様タルへ・シ」「第九条 頭取取締役等ハ銀行ノ事務ヲ淑扱フへキ支配人並ニ沓記力 出納方計餅方簿記方等ノ諸役員ヲ選任シ又右ノ諸役員等ノ給料ヲ取定メ銀行ノ得失ヲ考 へ同僚ノ衆議ヲ経テ此役員等ヲ進退鮎拶スルノ権アルへレ…但シ頭取取締役等ノ、又 銀行ノ支配人以下諸役員等ノ職掌ヲ分課シ其身元ノ引受人ヲ約ソ過怠金ヲ予定スルノ樅 アルへレ」とあるが,当時の国立銀行においては,役員なる名称を,今日の行員と同様 に扱っていたようである。しかしながら,ここでは,頭取取締役紅支配人を加えたもの をもって役員の構成体とする通例に従った。日田市広瀬宏文沓No、1302『第十七国立銀 行別立証省,同定款∩(「史料集・上目−9頁)参照のこと。 16)第4表の作成に当っては,噂ら㌃考課状』を中心に用い,欠除した時期については, 「苗■音凝集Jに含まれた願旨届出沓類に署名せる役員名より類推し,さらに,8’株式会社
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香川大学経済学部 研究年報 4
第4表 役員構成の推移
明治前期における・一牒随感行の性格について −JJ9−一 役員の族籍別割合を各年次で示すと第5表となる。 これら二義によると,頭取・支配人(ニ人)を士族で占めた明治12∼15年の 時期を除いて,一・般に,役員構成の上では商人の方が多い。しかし,・その商人 紅も変化は見られる。創立時の,いわゆる発起人でもあった商人グル−プの中 で,一層して取締役の地位を保って.きたのほ,先に.ものべた瀬戸惣太郎ただ− 人である。明治16年頃から役員に.顔を出す高山卯右衛門は,発起人ではない が,設耳初期の主要株主の一人である点もー一応注意すべきであろう。・一店,創 立前から改立初期に.おいて,強力に動いたと推定される福岡藩御用商人グル− プの残り3人(佐野弥平・米松政右衛門・伊藤六右衛門)は,二年余で姿を消 してしまう。後で株主構成紅かんしてふれるように,彼等は,多額の所有株を, 数年も経ない中に(明治J5年頃までに)手放している。これ紅対し,中尾卯兵 衛(商)は,この後を引き継ぐようにして現われてくるが,彼は,明治15年頃 から広汎に株を買集め,有力な大株主となって重役内に地歩を固め,一・時期紅 は,副頭取をつとめている。 これに対して,士族の参加者は,明治12∼15年にほ頭取と支配人を占めてい るが,中でも支配人の位置は,創立時,短期間だけ,伊藤六右衛門(商)が分 節5表 役員の族籍別人員表 ※ 前掲資料により作成。 十七銀行沿革\』(昭和2年記述・昭和38年2月福岡銀行調査課復刻の小冊子)に記載さ れた,「五,主ナル経営者ノ異動並其動機」で補った。しかし,明治13年,14年につい てほ,取締役の一−・部が不明である。又,就任時期についても,考課状に明記されたもの 以外は,推定であるが,前掲『十七銀行沿革』記載中にほ,誤りが多い。取締役兼支配 人の場合は,支配人の棚に入れ,副支配人は不明なる場合多く,省略した。支配人=名 の場合,仙名ほ支店所属である。
香川大学経済学部 研究年報 4 こゴ2〃− Jタ6尋 担した後は,士族出身者で独占して■いる。この士族出身者グル鵬プも,設立初 期数年の中村五平頭取・岡部覚支配人という離合せと,明治15年以降の,林寛 一・郎・松尾晋九郎・重松鹿次郎という頭取・支配人をつとめた役員グル・−プと によって,前後期に区別されよう。特に.重松鹿次郎ほ,明治16年から27年まで 11年間も支配人の地位を保っている。17)もちろん,役員構成にしろ,株主構成 に.しろ,士族出身者の割合を考慮すべきだと思われるのほ(国立銀行の性格規 定のための−・要素として),創立時前後の十年間程だと私は思う。明治も20年 代に入れば,銀行経営者中の士族出身者を取立てて云々するのは,はとんど無 意味だと言ってよいのではないか。 −・方,上述のニグループに.属さない重要人物は,鹿毛崎太郎と小河久四郎で あろう。考課状では族籍を農業と記載しているが,これは地主を意味するもの と考えで良いと思う。−8ノ特に.,小河は明治16年1月28日就任以来37年1月29日 辞任するまで,実に21年間にわたって,国立銀行時代より普通銀行時代へかけ ての十七銀行の代表者として活躍しており,この間の同行の資本金額の推移だ けみても,20刀円から200フ〕円へと増大している。19) 以上にのべたところからも分るように・,創立時の役員と,その数年後,銀行 経営が軌道に.のってからの役員との間に・は,ある種の断続的なものが感じられ る。特に,福岡藩の御用商人であった,発起人であり役員の佐野・末松・伊藤 などは,国立銀行設立に大いに努力したが,その後の経営にはむしろタッチし ない。これと対照的なのが長崎第18国立銀行である。同行の発起人であり経営 の主導的位置にあった永見伝三郎・松田猟五郎は,頭取・取締役の位置を,9 17)崩魔=十七銀行沿掛迫による。 18)小河久四郎にかんして−は,初期の考課状(明治16年上・下学事)では(裔)として ある。彼ほこの年に初めて株を買入れ,株主とな′り,さらに株主総会で頭取に選任され ている。彼の事歴紅ついてほ,次稿においてのべたい。 19)前掲臣考課状』(明治16年上半季∼24年下平季)及び汀十七銀行沿革q参倣。後者に よると,明治37年の頭取辞任について,その動機を「支払停止事件ノ為メ引茸」となっ ている。これは,明治34∼36年における全国的な銀行恐慌で,熊本滞九銀行を発端とし て九州・−円から,関西関東へと拡がったもので,甘酒戦争後の企業熟にもとずく繁栄の 瓦壌からひき起こされたもので,十七銀行は,この時,栗金援助を安田宏にもとめ,以 後安田財閥の支配下に入り,明治末年からは頭取もずっと安田宏一・族で占めることにな ったのである。
明治前期における⊥周立銀行の性格に.ついて −−J2ト一 年∼24年・という長期にわたって占めている。2りもちろん,同行は,かって拙稿 において指摘したように.,21)長崎の特権的貿易商人である永見・松詔両家の同 族会社的な経営様式を保持していたが,創立時からの大株主である高見和平 (賀商)のように,20年以上も取締役をつとめた者もあるわけである。22)この ようなことは,国立銀行の性格規定に際して,充分注意すべきことであろう。 ⅠⅤ 次に.,初期の株主の状況をみておこう。 第6表に.よると,士族の所有株数は954株(47,700円)で約45%,商人は1146 第6表 設立時における株式所有数別人良友 ※『第十七国立銀行創立証沓・同定款』(広瀬宏文沓No1302)(『史料集・上』2∼3 頁)紅より作成。 十八銀行編『十八銀行80年の歩み.』附録「役員変遷図表」参照。 拙稿「第十入国立銀行の歴史的−・考察」(打■経済論究』第5号)参照。 前掲『十八銀行80年の歩み』およびア第十八国立銀行考課状.』(元山文庫所収)によ ︶︶−.る O 1 2 2 2 2 0
香川大学縫嘩学部 研究年報 4 −−Jヱご−−− J964 株(57,300円)で約55%となり,商人の出資が過半を占めていることになる。 しかし,これほ先に指摘したよう紅,発起人中の士族1名除外および持株数の 減少の鮮8)を考えると,恐らく最初ははとんど,士藩の所有株数が同数に.なる ように・討画されていたものと推定される。このように,第17国立銀行は士族商 人はぼ同格の形式をとって創立されたと鬼うけられるため,叫・般に士商合弁の 経営様式であったとされる。しかし,翌11年第1回の増資において士族が急増 した結果,新資本金20万円の中,士族(筆族を含む)の割合ほ162名で131,750 円となり,約69.5%,御用商人の系統に・属するものは22名で68,250円であり, 約34.1%に低下したことになる。特に.,こ.の時の増資額95,000円に.ついてだけ みるならば,士族の出資は82,550円で86.9%に達している。24)これはいかなる こ.とを意味するものであろうか。こ.の問題を考える前紅,はぽこの時期に相次 いで設立された九州内の他の国立銀行の中から,史料を通して窺いうるニ・三 のものについて,その創立時および初期の株主構成を概括してみると次のよう 紅なる。 長崎第18国立銀行 (明治10年創立時) 株主総数 65名(160,000円)中
士族10名(16,900円)10.5%, 商人 55名(143,100円)89.5%
(明治11年増資時) 株主総数 88名(250,000円)中士族12名(29,100円)11.6%, 商人 76名(220,900円)88.4%
大分第25国立銀行 (明治10年創立時) 株主総数17名(50,000円)中士族8名(8,100円)16.2%, 商人14名(・隻1,900円)83.8%
柳河第98国立銀行 (明治柑年上半季) 株主総数 86名(80,000円)中士族 84名(77,900円)97.4%, 商人 2名(2,100円)2.6%
沖縄第152国立銀行 (明治12年創立時) 株主総数 28名(50,000円)中 23)本稿116頁および註(11惨蝿。 24)『株式会社十七銀行六十年史;尋 5弟。明治前期に.おける一・国立銀行の性格について. −J2j一 士族12名(80,000円)60、%,
商人11名(20,000円)40%
(明治13年3月増資時) 株主総数 舶名(100,000円)中士族 44名(75,100円)75.1%, 商人16名(24,900円)24・9%
これを−・見して分るように.,前二者は商人中心であり,後二者は明らか紅・士 族が主となっている。大分第25国立銀行の場合ほ,明治6年,大分県令森下景 端が県民に勤倹貯蓄をすすめるために金融機関の設立を計画し,地元の豪商串 松三郎、や,中尾喜平・長野青嵐郎等に.よって実行され,「登高義会」(後に・登高 札)という預金貸付の業務を営む会社を設立,これを母体にして明治9年に国 立銀行の創設を企てたが,西南戦争の影響で準備が遅れ,漸く翌10年紅至り, 欝17国立銀行に遅れるこ.と10日紅して軍28国立銀行を発足させて:いるが,その 設立時の株主け名中,士族ほわずかに3名で,5刀円の資本金中,8,100円 (16.2%)を占めるに過ぎない。25)長崎第18国立銀行については,先述した通り 商人(特棟的貿易商人)中心であり,26)増資後においても,その構成比ほはと んど変化していない。このように銀行類似会社な母体として設立.された国立銀 行は,第17国立銀行とほやゝ異質的であろう。 これ紅対して,柳河第96国立銀行の場合は.,士族の占める簡閉が余りに・も大 きい。創立時の史料がないため,資本金6万円の時の構成は窮いえないが,8 万円紅増資してからの構成でも見られる通り,商人ほ僅か2名しか出てこな い。もちろん,この士族の中に.は,創立時の支配人高椋新太郎およびその子高 掠金次郎(取締役)のよう紅,実際紅ほ商人と思われる人物が算入されている ため,ある程度訂正されねほならないであろうが,それに.しても,上位株主16 名中,筆頭の藩主立花寛治以下立花氏−・族が8分の1を占めていること。その 他も旧例河津の家臣であることから,典型的な士族銀行の山つと言わざるを得 ない。2r)沖縄第152国立銀行紅ついてほ,株主構成そのものからのみ見れば,帝 25)前掲広瀬宏文番No1302『第二十三国立銀行別立証沓,同定款』および『大分合同 銀行五十年度』参照。 26)前掲拙稿「第十八国立銀行の歴史的一考察」および「欝十八国立銀行の貿易商人的 性格一荷為卒業務を中心として」(九州大学九州文化史研究所創立二十五周年記念論 文集所収)参照。 27)『第九十六国立銀行第六回半事実際考課状』(甲木与一郎氏所蔵)所収の株主姓名表に よる。尚,中村浩理氏「柳河第九十六国立銀行誕生記」(福岡銀行社内報『福銀』No・61香川大学経済学部 研究年報 4 −J24− J964 96国立銀行はどではないが,拙稿においても指摘した通り,創立初期の経過か ら推して,やはり士族中心と見て差支えない。28) r翫九州の例ではないが,香川県の高松第114国立銀行も,士族銀行の典型 とされる。同行の発起人7名,創立時の取締役5名,いづれも士族であり,株 主ほ4名中,5名の平鹿以外はすべて士族であり,この5名の平民も元士族の 養子笹よるものであった。創立時の資本金5万円ほ,1年半後紅4万円増加し ているが,この時に.ふえた株主約30名ははとんど士族である。その後,7,8 年間に約40名はど株主数が増加したが,この大部分は平民であった。しかし, 士族株主の数は,創立以後,はとんど減少してはいない。29) 以上にJ示した例から分るように.,士族が中心となって設立した国立銀行ほ, 初回の増資の陰に,その増加額のはとんど大部分を,士族に.引受けさせている。 第114,第152両国立銀行ともそうであるが,最初に.のべた第17国立銀行の場合 を合せて考えて■みると,銀行設立の際,発起人は資本金額の決定を,募集可能 な範囲よりも低目に.見境るのが,通例であったようだ。募集予定額をかなり越 えて,出資希望者が出現するのをたしかめてから,直ちに.増資を計画してい る。かくて,増資に.当って払い込まれたのほ,設立時と同様,はとんど金禄公 債であったことも,見落せない事実である。30) 所収)によると,高椋新太郎は旧柳河港に協力した商人であって,その功績により年行 司格僻刀を許され,十二人扶持を給されたことから,属籍を士族とされたのであろうと している。創立期の事情にかんしてほ,同誌に詳しく紹介されている。 28)詳しくほ,拙稿「沖縄第百五十二国立銀行の史的研究」(『香川大学経済論叢』第36巻 第5号)参照。 29)帽一十四銀行八十年誌』122買,161頁。 属称別棟手数の推移
30)前掲『百十四銀行八十年誌』紅よると,第1回の資本増加分4万円のうち,87.5%
明治前期に.おける−・国立銀行の性格紅ついて 岬J25・一 第7表 主要株主の変遷(1) 明治10年11月(創立時)】l 明治12年12月31日 明治15年6月30日
姓 名画聖塑
、・∴−;∴・一 二
姓 名 馬 田−一 雄 佐野 弥乎 兼松政右衛門 伊藤六右衡門 瀬戸惣太郎 中 村五平 佐野三着衛門 佐野 佐平 大音 素 雪 岡 部 兇 樋 口 浩 次 黒 田 長成 鹿毛崎太郎 黒 田・−・義 佐野三右衡門 高山徳右衛門 岡 部 予 聖米松政右衛門 山 県 政輔
小野 隆 助 瀬戸惣太郎 中 村五 平 村上義太郎 本荘 −・行 二 川 近 林 冤一・郎 松岡保綱 樋 口 菩 次 小林作五郎 40,000 7,500 5,250 5,000 4.750 4,250 3,500 3,500 3,200 3,000 3,000 3,000 3,000 3,000 3,000 恩 田−堆 佐 野 弥平 米松政右衡門 黒 田 一−・義 鹿毛崎太郎 中 村 五司Z 佐野三石衛門 赤 松築 城 高山徳三郎 瀬戸惣太郎 岡 部 予 聖 安 部庄 作 山 田 正修 岡 部 党 樋 口「告i欠 松 岡 久 吾 士 平 乎 平 平 士 40,000 20,000 20,0003,000 3,000
乎乎士士平 (所有株数40株,株金2,000 円以上の株主を所載,資本 金額は105,000円) (所有株数40株,株金2,000 円以上の株主を所載,資本 金額200,000円) (所有株数40株,株金2,000 円以上の株主を所蔵,資本 金額200,000円) ※ 明治10年は創立証沓,他は各季考課状によに。31) に当る3万5千円を金禄公債証寄によって充当し,この公債証潜を公金取扱の抵当とす ること紅よ・つて,銀行資本の充実をほかっている。(この明治13年当時ほ.,全国におけ る国立銀行券の発行高が,政府が予定していた最高制限額3,442万円を越えているた め,増資分紅対しては紙幣発行を許可しなかった)このよう紅,初回の増資はほとんど 士族の手によってなされたが(同音149−151頁。183−188頁。),欝2回目の増資(明治 22年)の時紅は,全額現金払込みであるため,新規応募者の半分は平民であった。この 時の払込みは,半季毎6回に分けて行なわれているため,完了したのは明治24年である が,この増資後の株主構成を,その直前である20年の場合と比べてみると,株主数は仝香川大学経済学部 研究年報 4 解8表 主要株主の変遷(2) −J26− J964 明治16年6月30日
−. :● 守 .−
明治19年12月31日 明治17年6月30日 名桓籍匝金(円) 姓 名  ̄ l l _ 黒 田 長成 鹿毛崎太郎 山 県 政輔 黒 田−・義 中尾卯兵衛 樋 口‘害∵次 小野新路 開 運 七 小 野隆 助 鍋谷−・造 小河久四郎 瀬戸惣太郎 高山卯右衛門 中 村耕 助 県 巡 幸 田 治平 単 田 利 絵 岡部 予 聖 高山徳右衛門 吉田佐七郎 黒 田 長成 中尾卯兵衛 服 部文助 鹿毛崎太郎 高山卯右衛門華南商應商商士鹿士藩士士士商士士商商士士士
ロ‘吉∵次 岡 部 予 望 小河久四郎 小 野新路 瀬戸惣太郎 讃井勝 海 都 甲 乙 黒 田−義 /ト野新路 渡 辺次平 内藤半次郎 幸 田 治平 三谷 有信 許斐儀 平 許斐久三郎 三谷 有 信 県 運 中 村桝介 上野弥太郎 7,00() 6,800 6,100 5,700 3,650 3,600 3,500 3,000 3,000 2,000 黒 山 小 叫 政隆 田県野 県 運 幸 田 治平 鍋谷・−・造 中 村耕介 上野弥太郎 誉田佐七郎 (所有株数40株,株金2,000 円以上の株主と所載,資本 金額は200,000円) (所有株数40株,株金2,000 円以上の株主を所載,資本 金額は200,000円) (所有株数60株,株金3,000 円以上の株主.を所載,資本 金額は200,000円) ※ 各季考課状により作成。さ2) (同番237−243頁)。 部で106名増加しているが,そのうち49名が平民であった 平 民 (明治20年下) 35名 士 族 合 計 189名 224名 (明治24年上) 84名 246名 330名明治前期における−・国立二銀行の性格について −J27〟 第9表 株主身分別推移表 ※ 明治10年ほ創立証番,他ほ各季考課状により作成。85) 31)『発十回半事実際考課状』(明治15年上半季)所載の株主姓名表およぴ,次の15年下津 季の考課状の同表においては,中村五平の族漕が「商」となっているが,彼ほ,創立証 書において一応士族(城代組7石3人扶持)とされており,又,以上の両考課状の「株 式売買譲与ノ事」においては,いずれも士族としてあるので,第7表・第9表・第10表 においては,すべて,士族として静出し,記載した。 32)株主中の小河久四郎は,はじめその族籍を「敵」としてあり,明治17年上半季以降 の考課状において−は,すべて「戯」となっているが,第8表においてほ,考課状記載の ままを用いた。又,小野隆介ほ隆助と記載されている場合もあるが,どちらが正しいか 判明しないの・で,そのまゝ用いてある。中村桝助の場合も同様である。尚,19年下半季 の相中に三谷有信が二度記載されているが,このうち,はじめの分は,赤松祉々長と宿 笹がついており(考課状の株主姓名表において),後の分が個人名儀の所有株と推定さ れる。 33)史料として用いた『第10回半事実際考課状』(明治15年上半季)中の株主姓名表には., 計数の誤りがあると思われるが,正確に引算し得ないので,便宜上,総計より,士族の 株数・金額を差引いたものを平民の株数・金額として記入した。今後,調査の上,明ら かにしたい。たゞし,次の第10表においては,考課状記載のままに従った。
香川大学経済学部 研究年報 4 解10表 株式所有数別人員表 ーJ2β−− ヱ964 ※『第十回半事実際考課状』と『簿十九回単事実際考課状』により作成した。ただ し,前者の株主姓名表中の計数にほ,誤植があると思われるが,判明しないの で,そのまま用いた。従って,株金合計金に應いて,2,300円超過している。
明治前期における・【・国立銀石の性格について −−→ヱ29−− かくて,第17国立銀行は創立に際して,士商合弁の型で出資を行なったが, 初回の増資紅おいては,広汎に.士族の出資(金禄公債証書による)を求めるこ ととなったのである。 次に,このような士族の株主の推移を中心に.株主構成の変遷を考えてみた い。第7表より第10表までの4表は,創立時より約10年間の株主構成の変化を 示すものである。 これに.よると,創立時の筆頭株主巣田−・雄の所有株は,その後ずっと巣田島 成に.引き継がれている。こ.れは,一応,旧福岡薄々主恩田家の出資として考え なければならない。韻田−・雄は老職(16,205石)であり,創立に際し,藩主の 代理として名前を出したのであろう。この800株(40,000円)ほ,創立時(資本 金額105,000円)に.おいては,士族出資の954株(47,700円)中,839%に・達し, 全資本金額に対しても約4割に近い額である。欝5国立銀行に・おける島津家の 出資状況,34)あるいは,第152国立銀行における筆頭株主島津久徹さ5)の場合も そ・うであ挙が,先に例示した,柳河第96国立銀行の『第六回単季実際考課状』 (明治14年上半李)によると,30株以上の株主は次の16名から成っており,旧 藩主立花寛治が資本金額の1割謁を出資している。$8) 十 時 撮(士族)45株 ◎十 時 一・郎(士族)40株 大 村 務(士族)40株 立 花 親 俊(士族)33株 立 花 親 信(士族)30株 立 花 親 義(士族)30株 小田部 浄(士族)30株 立 花 寛 治(華族)149株
小 野 隆 基(士族)110株
○高椋金次郎(士族)70株
○立 花 茂 樹(士族)68株
○立 花 弘 樹(士族)56株
由 布 食 事(士族)55株
吉 田孫−・郎(士族)50株立 花 茂 稔(士族)48株
○森 侶 夫(士族)80株 ※ ◎印ほ儲恥 ○印ほ取締役 このように,国史。磯行設立に魔して,旧潜主がかなりのバック・アップを示 す場合ほ多い。第17国立.銀行紅おいても,巣田家の推進力が第一・であったと見 34)第5国土銀行にかんする筆者の諸諭稿を参照されたい0 35)前掲拙稿「沖縄儲152臥ソニ銀行の史的研究」84自。 36)前掲考課状および中村漕理氏「柳河第九十六国立銀行誕生記」。香川大学経済学部 研究年報 4 −∵㍍和一− J964 てよいのでほあるまいか。同行の設立準備過程に‥おいては,黒田家は全く表面 把.現れていないことが,史料(『古書類集』)からも窺えるが,恐らく除からの 指示のあったものと推定される。事実上,創立から初期の経営を担当した,佐 野,末松,伊藤,瀬戸等の御用商人グル・−プは,こ.の指示(あるいほ依頼とい った方がよいかも知れない)があったからこそ,積極的に参加し,努力したの だといって−ほ言い過ぎであろうか。第7表の主要株主の変遷紅見る通り,佐 野,米松,伊藤はいずれも,明治15年頃に.は株主表から名前が消えているか, 又は所有練をはとんど手放している。佐野,兼松はこの時期紅家業がやや衰退 しはじめたというこ.とにもよるであろうが,87)必ずしも,それだけではないと 思う。たとえば,伊藤六名衛門は発起人であり,創立時の支配人であるが,明 治14年8月に設立された私立銀行『筑紫銀行』に.参加し,支配人をつとめてい る。同行ほ「元来福岡の士族連を中心とした第十七国立銀行の向うを張って, 博多の商人階級に.よって創設され主として為替銀行すなわち荷為沓送金や,商 品担保の貸金をなし,倉庫を追って商品を保管して屠った。」38)もので,当時の 人ほ.第17国立銀行を「吏党銀行」筑紫銀行を「民党銀行」と呼んでいたとい う。役員にほ磯野七平(鋳物商),太田酒蔵(油卸商),奥村利助(荒物裔), 奥村利平(醤油商),吉田又吉(呉服商),下沢尊名衛門(小間物商),柴田宗 平(薬品問屋)などが名を連ね,伊藤ほ創立以来10年余り支配人を続けたよう である。る9)筑紫銀行の設立に・関係した伊藤およびその他の博多商人の行動は, 第17国立銀行初期の性格を反映したものだといえないであろうか。初期の士商 合弁は,明らかに銀行設宜と経営の円滑化をほかったものである。(士族のみ に.よる場合の不手ぎわ,不馴れさからくる失敗は,すでに指摘した通りであ る。)40)従って,−一応,銀行の基盤が完成すると(明治11年)直ちに倍額近く増 3L7)兼松政右衛門・佐野弥平にかんする中村氏の前掲諸稿によると,未松は運送共に使 用していた持船「松島号」が,明治14年9月27日,函館沖で沈没して痍組員も全員遭難 し,商品も失なわれたため,大損害を蒙ったという。同様のことほ,佐野の持船「寛永 丸」が沈没して,その結果次第紅家運が傾いて一行った事例についても指摘しうる。 38)『太田椿蔵伝』71−3頁。 39)松井安信氏「九州金融史の一一助昌一一明拾初・中期の福岡県金融事情」(『西南学院 大学商学論集日貨3巻第1号)114−7貢。 40)!二族銀行と冒される国立銀行にかんする筆者の評論和せ参灘憧れたい。
明治前期における・−・国立銀行の性格について −JβJ・・− 資し,広汎に.士族の出資(しかも創立時と適って,非常に.多数の小額所有株主 を参加させたこと)をもとめたこ.とは,いわゆる士族銀行的な性格を示したも のといえる。第6表,第9表,第10表を比較してみると分るように.,株の細分 化が行なわれるのは,餞1回増資後明治16年下半季ま−でであるが,ここでは, 株主数における士凝と平民の比率が約4対1の割合となっており,又,持株数 の比率では,士族が平民の約2倍から2.5倍政の割合を示しているが,一一・人当 りの平均所有株数を算出してみると,16年下半季に.おいて,士族−\人平均所有 株数は約11.8株(59円)に.対し,平民ほ約21.9株(10,皇)5円)で,士族の2倍 に近い。これほ,全国立銀行を通じての士族平民の株式所有数比率に.はぼ等し い。41)すなわち,株主所有株数の細分化の状態を,最盛期の明治15年上半季を 例にとってみると(第10表),実に.,士族の株主中212名(93%)が20株未癖の 零細株数所有者であり,平民ほ概して20株以上の所有者層紅集中して−いること がわかる。 しかしながら,この細分化された士族の所有株が,明治17年上半季紅.おいて 急速に整理され,株主総数紅おいて−実に6分の1以下に減少している。特性, 士族の減少ほ著しく,第9表,第10表に見る通り,毎年減少を続け,19年下半 季においては,1割以下のi9名にまで低下した。これ紅対し,平民の株主数は 17年上半季紅川名余に.減少した後ほ,はば,同様の株主数を維持しており,さ らに両者の所有株数における割合をみると,士族所有株数の減少に比して,平 民所有株数は増加し,先に・示した明治16年下半季における士族対平民の約2対 1の所有株数が,明治19年下半季紅ほはとんど同数紅近い処まで接近して来て いることが唐える。すなわち,設立後10年を経て,再び,初期のごとき士商合 弁の様式が,株主構成の上にも見られるようになって来たといえる。 このような明治17年を転期とせる原因は何であったか。具体的に.摘むことは むつかしいが,明治17年上半季の考課状に所載の「本支店景況之啓」より競っ てみると,「本行当半李問経歴セレ営業ノ景況ノ、前季二比レタ著レキ変動ナ・キ ト雌トモ商情ノ沈滞不落顧ノ、本季間二至ヅテ殆卜極マレ.ソト云へ〆故二銀行ノ 隻1)菅野和太郎氏は『円木会社企業発生奥の研究』(昭和6年)の中で,仙人平均株式所 有高を,華寸雄臣032円余,平民1即7円余として,平民の優位・指導性を指摘している。
香川大学経済学部 研究年報 4 ・−−−Jβ2一一・・■h J964 業務モ亦之レニ附随シテ相離ル」コト能ハスF一男一層ノ不景気ヲ感セヅ此ノ原因 クルー・朝一サニ発レタルニ非ラス則遠ク数年ノ前二在.り而シテ日下ノ頼果ヲ軸 シタル所以ナ.り此事由ハ前季追々ノ考課状工於テ報導シタルカ如クナレハ今蕊 二蜜セス」42)とあり,この終りの言葉に従って,16年下半季の記述をみると, 明治13年本店を大阪に.移し,福岡を支店に.変え,一層業務の拡張を計画し,こ の4年間にかなりの進展を見せた。しかし,「爾後一・般ノ商情ハ漸次衰路二趣 キ又夕銀行経業施設上二於テ変更スルモノモ亦夕少ソトセス情今日ノ形勢・ニシ テ深ク既往ノ威厳二徴レ将来維持ノ方向ヲ反覆考鼠スレハ再ヒ本支ノ位置ヲ復 シ其創業ノ地タル福岡二本店ヲ掘へ而シテ其根拠ヲ充分筆固ニシ以テ業務ヲ伸 張セント欲シ」,43)遂紅この年の8月ほ日に」本支店の交換を終ったが,「銀行ノ 経営タル常二世間ノ商況二伴随シテ進締スルモノナレハ当半季ノ如キ前季ノ衰 退ヲ継承シ諸物価ハ愈日工月二低下シテ其底止スル所ヲ知ラス商買ノ物貸ヲ購 買セレモノハ皆損耗ヲ蒙サルナク故二各南柏戒憤シタ痛ク購眉ヲ減レ僅々当日 費消二給スルニ止メ余裕アル資本ハ之ヲ転シテ公債証書二換ヘルノ情勢二級キ 殊ニ・農家ノ如キハ格外米価ノ低落ナルヨガ金融心室卜閉塞シ非常ノ困難ヲ極メ 日常必需ノ物品卜雄トモ猶購買ヲ節略シ是ヲ以テ商情ハ弥衰路二陥.り終二今日 ノ惨状ヲ呈スルニ至ヅ」44)とのべている。こ.れは,云うまでもなく,明治14年 以降の松方紙幣整理策紅端を発する全国的な不況期が銀行経営に.暗影を投げか けたことを物語っているのであるが,この影響をかなりひどく受けた士族出身 者層が,生活苦その他からも,金禄公債を手放したり,僅かばかり所有してい る紅すぎない国立銀行の株式も現金化せざるを得なかったことは,容易に首肯 できよう.。45) 42)『第十四回半季実際考課状.』(8一史料集・上』175買)。 43),44)『罪十三回半事実際考課状』(『史料集・上』13鰭室:)。 45)松方正義の紙幣整理過程に,国立.銀行の株式を手放した士族ほかなりあったものと 思われる。たとえ.ば,典型的なt二族銀行と目される仙台罪77国卓二:銀行は,創立時から, 多数の宮城県士族の出資を得ているが,明治14年以降,零細株主の没落がみられ,比較 的小数の株しか所有していない士族たちは,その持株を失っている(七十七銀行『七十 七年史j129頁参照)。又,長岡第69国立銀行においても,明治15年頓に士族の持株が 激減し,株キ数で約半分,株金で約4分の1にまで,創甜寺に比して低■下していること が指摘されている(笹岡昭五氏「創立前後における第六十九国立銀行の性格」〔.2’金融経 済▼雀第75号〕58頁参照)。
明治前期における−・国立銀行の性格について 【J3β一− −・方, この期間を通じて株を集め,大株主として出現してくるのは,15年か ら17年紅かけての鹿毛崎太郎(農業)であり,17年以降,媒田昆成に.ついで株 主の位置を占めるのほ中尾卯兵衛(商業)および服部文助(商業)である。特 に.,中尾は,明治16年から21年間頭取に.在職した小河久四郎と共に.,この16年 からいきなり大株主とレて−現れ,取締役をつとめている。この点に・かんして は,前節の役員構成の際に.もふれたことであるが,このような経営陣の交替と 株主層の性格転換の行なわれた明治Ⅰ6年17年の時点ほ,先に引周した史料に.も 見られる本支店の位置交換の時期とも合致するもので,第5表の役員構成の推 移からも分るように.,この時期をもって,新しい意味での(創立時の性格とは 異る)士商合弁的経営様式が確立されたといってよい。しかもその内容は,商 人中心的な銀行への転化を含んで屠り,士族グル・−プの占める位置ほノ,筆頭株 主黒田長成と,支配人車松席次郎に.よって示されるものである。 Ⅴ 以上,史料によりながら分析した欝17国立銀行の創立初期の姿を,ここでも う・一・度まとめて明瞭にしておきたい。 すなわち,設立発起の事情からもわかるように.,黒田家紅ゆかりの深い代表 的御用商人の主要な役割については,次のように考える。黒田家として銀行の 創立に当って熟慮した結果,金融事業に.経験のない旧藩士を経営に.当らせるよ りも,経験豊富な御用商人の中から,藩内各地の代表的な素封家を選んで参加 をもとめ,彼等に銀行経営の主導権を委ね,銀行の設立・道営の円滑化を望ん だ。それ故に,第17国立銀行創立時における士商合弁という形式ほ,豪商の財 力を目あてとした資本収集のためでは.なく,経営手腕の利用(あるいは対社会 的経済的信用度の利用)に.あったと見られるところに.特色がある。 これをより具体的に示せば,(1)設立目的は先ず旧藩士所有の公債の保全・ 管理と,彼等の生活安達常.あったと見るべきである。(2)最初から多数の士族 を集めて創立することの不利を考え,黒田家に.おいて多額のの出資をなし,そ れに二,三の士族と有力な御用商人群の資本を加えて設立した。(5)設立にか んする行政的,事務的方面の錯雑なる問題の処理,および初期の適切なる設営 のために.,後用商人に経営を委ね,銀行経営を軌道にのせた。(4)設立およぴ
香川大学経済学剖;研究年報.4 J964 ーJβ4− 運営が支障なく行なわれたことを確認した上で,資本を倍額増資して多数の士 族に参加をもとめ,・かなり零細な士族の出資をも加えることに成功した。この よ.うな四項目に.要約されよう。 かくて,同行の設立動械,設立主体を論ずる限り,士商合弁的性格を持つと はいえ,士儀中心的性格に.変りはない。この意味で,同行を「\封建士族転化型.」 の娩型紅入れた長幸男氏の見解は正.しい。4¢)もちろん,前節でも指摘した通り, 第2期の士商合弁的型態は,この場合と明らかに.範疇を異に・する。第2の時期 に.おいては,株主や役員である士族を占 銀行内部紅おいて捉えて,商人と対比 することははとんど無意味と思われるからである。17)こ.の点にかんしては,業 務分析を中心に同行の性格を論ずる次稿に・おいて更にのべておく。単に・,役 員・株主の構成状況からのみ性格を論じて来た本稿については,いろいろ異論