• 検索結果がありません。

『マンチュリアの社会変動と地域社会』

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『マンチュリアの社会変動と地域社会』"

Copied!
200
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

『マンチュリ アの社会変容 と地域秩序

-明代から中 華人民共和国 の成立まで- 』

(2)

2 - 目 次 - 表 紙 1 目 次 pp.2-5 は じ め に pp.6-9 第 1 章 「 満 洲 」 に 関 す る 諸 見 解 pp.10-20 1 . 日 本 で の 研 究 2 . 中 国 で の 研 究 3 . 地 名 へ の 転 化 4 . 矢 野 仁 一 の 「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は な い 」 と い う 見 解 に つ い て 第 2 章 戦 前 、 戦 後 に お け る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 成 果 と 問 題 点 pp.21-58 は じ め に 1 . 戦 前 に お け る 満 洲 史 研 究 - 東 洋 史 研 究 の 一 分 野 と し て - ① 日 露 戦 争 後 に お け る 歴 史 研 究 の は じ ま り (1)白 鳥 庫 吉 に よ る 研 究 (2)内 藤 湖 南 に よ る 研 究 ② 満 洲 国 建 国 を 契 機 と す る 歴 史 研 究 の 興 隆 (1)日 本 国 内 で の 研 究 (2)満 洲 国 で の 研 究 ③ 小 結 2 . 戦 前 に お け る マ ン チ ュ リ ア の 調 査 研 究 ① 陸 軍 、 満 鉄 、 関 東 都 督 府 、 農 商 務 省 、 外 務 省 な ど に よ る 調 査 報 告 、 調 査 研 究 ② 満 鉄 調 査 部 、 満 洲 国 政 府 機 関 に よ る 調 査 報 告 、 調 査 研 究 ③ 小 結 3 . 敗 戦 後 に お け る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 ① マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 の 低 調 と 戦 前 の 研 究 に 対 す る 批 判 ② 日 本 史 研 究 者 に よ る 満 洲 史 研 究 ③ 概 説 書 か ら 見 た マ ン チ ュ リ ア 史 の 位 置 4 . 中 国 に お け る マ ン チ ュ リ ア 史 研 究 ① 戦 前 の 研 究 ② 概 説 書 か ら 見 た 1980 年 代 以 降 の 研 究 お わ り に

(3)

3 第 3 章 元 末 ・ 明 朝 前 期 に お け る マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容 と 地 域 秩 序 pp.59-85 は じ め に 1 . 元 朝 治 下 の マ ン チ ュ リ ア 2 . 紅 巾 の 乱 か ら 洪 武 末 年 ま で の マ ン チ ュ リ ア ① ナ ガ チ ュ (納 哈 出 )の 降 伏 ま で ② ナ ガ チ ュ の 降 伏 以 後 3 . 永 楽 帝 に よ る マ ン チ ュ リ ア 政 策 ① 女 真 の 招 撫 ② 朝 鮮 と の 関 係 調 整 ③ モ ン ゴ ル 情 勢 の 影 響 お わ り に 第 4 章 明 代 中 期 ・ 後 期 に お け る マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容 と 地 域 秩 序 pp.86-100 は じ め に 1 . 正 統 ~ 成 化 年 間 の 社 会 変 容 ① 人 間 の 移 動 に よ る 社 会 変 容 ② 朝 貢 、 馬 市 の 変 化 ③ 遼 東 で の 軍 屯 2 . 弘 治 ~ 嘉 靖 年 間 の 社 会 変 容 ① 授 官 規 定 の 変 更 ② 貂 皮 交 易 の 伸 張 ③ 朝 貢 定 額 化 に よ る 影 響 3 . ヌ ル ハ チ 台 頭 前 後 の マ ン チ ュ リ ア ① 女 真 の 変 容 ② 遼 東 の 状 況 ③ ヌ ル ハ チ の 台 頭 お わ り に 第 5 章 旗 民 制 に よ る 清 朝 の マ ン チ ュ リ ア 統 治 pp.101-144 は じ め に 1 . 盛 京 に お け る 旗 民 制 の 形 成 2 . 吉 林 、 黒 龍 江 に お け る 旗 人 統 治 機 構 の 形 成 3 . 旗 民 関 係 の 調 整 の 試 み 4 . ロ シ ア の 動 向 に つ い て 5 . 19 世 紀 中 ご ろ に お け る マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容 6 . ロ シ ア 、 朝 鮮 と の 関 係 変 化 7 . 旗 民 制 の 崩 壊 と 東 三 省 の 設 置 お わ り に

(4)

4 第 6 章 鉄 道 敷 設 に よ る マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容 pp.145-189 は じ め に 1 . 中 東 鉄 道 沿 線 地 域 の 変 化 ① 地 域 概 略 ② 通 商 ル ー ト の 変 化 ③ 農 業 生 産 の 変 化 ④ 金 融 状 況 の 変 化 2 . 満 鉄 沿 線 地 域 の 変 化 ① 地 域 概 略 ② 通 商 ル ー ト の 変 化 ③ 農 業 生 産 の 変 化 ④ 金 融 状 況 の 変 化 3 . 京 奉 鉄 道 沿 線 地 域 の 変 化 ① 地 域 概 略 ② 通 商 ル ー ト の 変 化 ③ 農 業 生 産 の 変 化 ④ 金 融 状 況 の 変 化 4 . 奉 吉 ・ 吉 敦 鉄 道 沿 線 地 域 の 変 化 ① 地 域 概 略 ② 通 商 ル ー ト の 変 化 ③ 農 業 生 産 の 変 化 ④ 金 融 状 況 の 変 化 5 . 四 洮 ・ 洮 昻 ・ 打 通 鉄 道 沿 線 地 域 の 変 化 ① 地 域 概 略 ② 通 商 ル ー ト の 変 化 ③ 農 業 生 産 の 変 化 ④ 金 融 状 況 の 変 化 6 . 間 島 地 域 の 変 化 ① 地 域 概 略 ② 通 商 ル ー ト の 変 化 ③ 農 業 生 産 の 変 化 ④ 金 融 状 況 の 変 化 7 . 鴨 緑 江 ・ 松 花 江 ・ 黒 龍 江 流 域 地 域 の 変 化 ① 鴨 緑 江 流 域 地 域 (1)地 域 概 略 (2)経 済 状 況 の 変 化 ② 松 花 江 流 域 地 域 (1)地 域 概 略 (2)経 済 状 況 の 変 化 ③ 黒 龍 江 流 域 (1)地 域 概 略 (2)経 済 状 況 の 変 化 お わ り に 第 7 章 満 洲 国 に よ る 工 業 化 政 策 と マ ン チ ュ リ ア の 社 会 変 容 pp.190-198 は じ め に 1 . 工 業 政 策 の 推 移 ① 第 1 期 1932~ 36 年 ② 第 2 期 1937~ 39 年 、 第 3 期 1940~ 45 年 2 . 工 業 化 に よ る 社 会 変 容 お わ り に

(5)

5 第 8 章 満 洲 国 政 府 が 実 施 し た 統 治 政 策 の マ ン チ ュ リ ア 社 会 へ の 浸 透 pp.199-214 は じ め に 1 . 地 方 で の 行 政 力 の 浸 透 2 . 農 業 政 策 の 浸 透 3 . 商 業 統 制 政 策 の 浸 透 4 . 徴 税 政 策 の 推 進 お わ り に 第 9 章 1940 年 代 に お け る 統 治 政 策 の マ ン チ ュ リ ア 社 会 へ の 浸 透 pp.215-235 は じ め に 1 . 統 治 機 構 の 特 徴 2 . 統 制 経 済 の 実 施 と 拡 大 3 . 支 配 政 策 に 対 す る マ ン チ ュ リ ア 社 会 の 反 応 お わ り に 第 10 章 「 検 閲 月 報 」 か ら 見 た 満 洲 国 の 「 中 国 人 」 - 1940 年 代 の 状 況 を 中 心 に - pp.236-249 は じ め に 1 . 生 活 に 対 す る 不 満 2 . 労 働 者 の 状 況 3 . 商 業 取 引 の 状 況 4 . 農 村 部 の 状 況 5 . 満 洲 国 統 治 に 対 す る 反 発 お わ り に 第 11 章 国 共 内 戦 期 、東 北 解 放 区 に お け る 中 国 共 産 党 の 財 政 経 済 政 策 pp.250-266 は じ め に 1 . 東 北 解 放 区 の 形 成 と 財 政 経 済 政 策 の 変 遷 2 . 対 外 貿 易 の 動 向 3 . 農 業 政 策 の 特 徴 4 . 商 工 業 者 へ の 政 策 お わ り に 終 章 pp.267-269

(6)

6 は じ め に 本 論 文 の テ ー マ は 、 14 世 紀 の 明 代 か ら 1949 年 の 中 華 人 民 共 和 国 成 立 ま で の 約 600 年 間 に お よ ぶ 期 間 、「 マ ン チ ュ リ ア 」で は い か な る 社 会 変 容 が 生 じ 、ど の よ う な 地 域 秩 序 が 形 成 さ れ て い た の か を 検 証 す る こ と で あ る 。 本 論 文 は「 満 洲 」(以 下 、括 弧 は 略 )で は な く 、「 マ ン チ ュ リ ア 」(以 下 、括 弧 は 略 )と 表 記 す る (1)。そ の 理 由 は 、マ ン チ ュ リ ア は 地 名 に 限 定 し て 使 い 、民 族 名 や 国 号 と し て 使 わ れ た 満 洲 と 混 同 さ れ る こ と を 避 け る た め で あ る 。 マ ン チ ュ リ ア の 範 囲 は 、 概 ね 北 辺 は ス タ ノ ヴ ォ イ 山 脈 、 南 辺 は 長 城 、 西 辺 は 大 興 安 嶺 、 東 辺 は 鴨 緑 江 ・ 豆 満 江 の 内 側 を 想 定 し て い る 。 し か し な が ら 、 こ の 地 理 上 の 範 囲 が 、 常 に 一 体 的 な ま と ま り を 持 ち な が ら 歴 史 的 に 推 移 し て き た わ け で は な い 。 清 代 の 東 三 省 の 範 囲 、 満 洲 国 の 領 域 、 中 華 人 民 共 和 国 の 東 三 省 の 領 域 は 、 そ れ ぞ れ 異 な り 、 完 全 に は 重 な ら な い 。 本 書 は 、 マ ン チ ュ リ ア の 範 囲 は 歴 史 的 に 生 成 さ れ た も の で あ り 、 歴 史 的 変 化 に 伴 い 、 そ の 範 囲 も 伸 縮 し て い た と い う 観 点 に 立 っ て い る (2)。あ る 時 期 の マ ン チ ュ リ ア の 範 囲 と い う 示 し 方 は で き る が 、不 変 的 な マ ン チ ュ リ ア の 範 囲 を 確 定 す る こ と は で き な い (3)。 マ ン チ ュ リ ア の 特 徴 と し て 、 そ の 内 部 は 均 質 的 で は な く 、 三 つ の 地 帯 に 分 け ら れ る 点 を 指 摘 し た い 。 第 一 に 、 農 耕 が お こ な わ れ 、 主 に 漢 人 が 活 動 し た 南 部 の 平 野 地 帯 。 第 二 に 、 各 種 の 狩 猟 民 、 主 に ツ ン グ ー ス 系 の 人 々 が 活 動 し た 東 部 か ら 朝 鮮 半 島 北 部 に 連 な る 森 林 地 帯 。 第 三 に 、 遊 牧 民 、 主 に モ ン ゴ ル 系 の 人 々 が 活 動 し た 西 部 の 大 興 安 嶺 近 隣 に 広 が る 草 原 地 帯 、 と い う 地 理 的 特 徴 を 持 つ 。 平 野 地 帯 の 漢 人 は 3 世 紀 に 漢 王 朝 が 崩 壊 し た 以 後 、 中 華 王 朝 と 結 び つ く こ と は な く 、 独 自 に 強 力 な 政 治 権 力 を 樹 立 す る こ と は な か っ た 。そ の た め 、マ ン チ ュ リ ア の 覇 権 は 、「 森 林 地 帯 の 民 」と「 草 原 地 帯 の 民 」で 争 わ れ た 。と は い え 、「 森 林 地 帯 の 民 」が 草 原 地 帯 に 勢 力 を の ば す こ と は 困 難 で あ り 、 同 様 に 「 草 原 地 帯 の 民 」 が 森 林 地 帯 を 制 圧 す る こ と も 難 し か っ た 。 そ れ ゆ え 、 三 つ の 地 帯 全 域 を 包 摂 す る 政 治 権 力 は 誕 生 し な か っ た (4)。 し か し な が ら 、14 世 紀 の 明 朝 成 立 か ら 現 在 ま で 、マ ン チ ュ リ ア は あ る 程 度 の ま と ま り を 持 っ て 歴 史 的 に 推 移 し て き た 。中 国 の 強 い 影 響 を 受 け る と と も に 、北 は ア ム ー ル 川 (黒 龍 江 )、 シ ベ リ ア 、東 は 朝 鮮 半 島 、西 は モ ン ゴ ル 高 原 と 接 し て い た の で 、周 辺 (モ ン ゴ ル 、朝 鮮 、ロ シ ア )か ら の 影 響 も 受 け て い た 。し た が っ て マ ン チ ュ リ ア 史 の 考 察 に は 、ロ シ ア・シ ベ リ ア 史 、 中 国 史 、 朝 鮮 史 、 モ ン ゴ ル 史 の 知 識 が 不 可 欠 で あ る 。 周 辺 と の ゆ る や か な 関 係 性 の な か に あ っ た マ ン チ ュ リ ア は 、19 世 紀 後 半 に 国 境 と い う 概 念 が 外 側 か ら 持 ち 込 ま れ 、 新 た な 歴 史 的 段 階 に 入 っ た 。 ア イ グ ン 条 約 、 ペ キ ン 条 約 に よ り ア ム ー ル 川 以 北 、 ウ ス リ ー 川 以 東 は ロ シ ア 領 と な っ た 。 こ れ 以 降 、 マ ン チ ュ リ ア は 中 華 王 朝 の 統 治 空 間 を 示 す 「 版 図 」 で は な く 、 近 代 主 権 国 家 が 標 榜 す る 「 領 土 」 に な っ た と 考 え ら れ る (5)。清 朝 は 帝 国 統 治 に あ た っ て 、異 質 な 内 容 を 持 つ 各 地 域 を 均 質 化 す る 政 策 は お こ な わ ず 、そ れ ぞ れ の 独 自 性 を 皇 帝 一 元 統 治 に よ り 保 持 し て き た 。し か し な が ら 、19 世 紀 後 半 の 西 欧 列 強 に よ る 勢 力 拡 大 を 受 け て 、 清 朝 は 統 治 政 策 を 修 正 し て 近 代 主 権 国 家 的 な 方 式 を 導 入 し よ う と し て い た (6)。そ し て 清 末 以 降 、中 華 民 国 、満 洲 国 も「 領 土 」の 確 定 、保 持

(7)

7 を 標 榜 し 、 国 境 に ま で お よ ぶ 領 域 支 配 を 推 進 し た 。 本 論 文 は か か る 経 緯 を ふ ま え 、 近 代 主 権 国 家 が 標 榜 す る 「 領 土 」 の 概 念 を 無 批 判 に 前 近 代 に 遡 ら せ て 、 マ ン チ ュ リ ア の 属 性 を 考 え る 方 向 性 は と っ て い な い 。 近 代 主 権 国 家 が 形 成 さ れ る 以 前 と 以 後 と を 、 連 続 し て 検 討 す る こ と に よ り 、 現 代 国 家 が 描 く 「 物 語 」 の 相 対 化 を 企 図 し て い る 。 言 い 換 え る な ら ば 、 前 近 代 と 近 代 を 別 々 に 考 察 す る の で は な く 、 近 代 に 現 出 し た 様 相 は 、 前 近 代 に 形 成 さ れ た も の を 土 台 と し な が ら 、 近 代 的 な も の が あ ら わ れ て い く 過 程 の 検 証 を お こ な い た い と 考 え て い る 。「 満 洲 が 中 国 の 領 土 な の か 」、「 領 土 で は な い の か 」 と い う 設 問 は 、 近 代 主 権 国 家 の 論 理 が つ く り だ し た も の で あ り 、 近 代 主 権 国 家 の 誕 生 以 前 に ま で さ か の ぼ り 、こ う し た 設 問 を つ く り 、解 答 し て も 無 意 味 な こ と を 示 し た い (7)。 清 朝 に よ る 帝 国 統 治 が 崩 壊 し た 後 、「 領 土 」、国 境 線 の 確 定 が 重 視 さ れ た だ け で な く 、「 民 族 」を 単 位 と し た 国 民 国 家 の 形 成 が め ざ さ れ た 。し か し 、「 民 族 」の 活 動 領 域 と 国 家 の 統 治 領 域 は 必 ず し も 重 な ら ず 、 ズ レ が 存 在 し た 。 例 え ば 朝 鮮 人 、 モ ン ゴ ル 人 は そ れ ぞ れ の 「 民 族 」 を 主 体 と す る 国 家 を つ く っ た が 、 国 家 成 立 以 後 で も 依 然 と し て マ ン チ ュ リ ア に 暮 ら す 人 々 が い た 。マ ン チ ュ リ ア で 活 動 し た 人 々 は 、「 民 族 」を 単 位 と す る 国 家 形 成 の 流 れ に 沿 う 部 分 も あ っ た が 、 そ う で は な い 部 分 も あ っ た の で あ る 。 一 つ の 「 民 族 」 や 、 均 質 的 な 「 国 民 」 の 形 成 に つ な が る 流 れ だ け で は な か っ た 点 を 指 摘 し た い 。 そ う で あ っ た か ら こ そ 、 満 洲 国 は 「 五 族 協 和 」 と い う ス ロ ー ガ ン を 強 調 す る 必 要 が あ っ た と 言 え よ う 。 マ ン チ ュ リ ア は 漢 人 、ツ ン グ ー ス 系 、モ ン ゴ ル 系 の 人 々 を 抱 え 、中 国 中 央 の 影 響 、周 辺 (モ ン ゴ ル 、 朝 鮮 、 ロ シ ア 、 日 本 )の 影 響 を 受 け な が ら 、 そ の 歴 史 を 歩 ん で き た (8)。 つ ま り 単 一 で は な く 多 様 で あ り 、 均 質 的 で は な く 重 層 的 な 特 徴 を 持 つ 地 域 だ と 指 摘 で き る 。 本 稿 で は 、「 領 土 」 や 「 民 族 」 を 単 位 と し た 歴 史 把 握 で は な く 、「 地 域 」 と い う 空 間 を 中 心 に す え た 歴 史 像 の 構 築 を 目 指 し て い る 。 ま た 、 近 代 以 前 の マ ン チ ュ リ ア が 、 近 代 に 至 り ど の よ う に 変 容 し た の か 、 近 代 以 降 に も 継 承 さ れ た 部 分 、 断 絶 し た 部 分 を 明 ら か に し 、 地 域 が 持 つ 固 有 の 特 徴 を 歴 史 的 文 脈 の な か で 解 釈 す る こ と を 企 図 し て い る 。 つ ま り 、 マ ン チ ュ リ ア を 多 様 性 、 重 層 性 を 持 つ 空 間 と し て 、 さ ら に は 前 近 代 か ら 近 代 ま で の 期 間 を 連 続 し て 考 察 す る こ と に よ り 、 そ の 地 域 性 を 立 体 的 、 総 合 的 に 理 解 す る 試 み だ と ま と め ら れ る (9)。 地 域 的 特 徴 の 考 察 は 、 社 会 変 容 と 地 域 秩 序 に 焦 点 を あ て て い る 。 社 会 変 容 は 周 辺 集 団 の 攻 撃 や 中 国 関 内 か ら の 移 民 増 加 な ど の 外 的 要 因 か ら 生 じ る 一 方 で 、 衛 所 制 度 や 旗 民 制 の 変 容 、 鉄 道 敷 設 の 影 響 、 工 業 化 政 策 の 推 進 な ど の 内 的 要 因 か ら も 生 じ て い た 。 本 論 文 で は 、 衛 所 制 度 と 羈 縻 衛 所 制 度 の 成 立 と 変 容 (第 3 章 、 第 4 章 )、 旗 民 制 の 成 立 と 変 容 (第 5 章 )、 鉄 道 敷 設 に よ る 社 会 変 容 (第 6 章 )、 工 業 化 政 策 に よ る 社 会 変 容 (第 7 章 )、 統 治 政 策 の 浸 透 に よ る 社 会 変 容 (第 8 章 、第 9 章 )、財 政 経 済 政 策 に よ る 社 会 変 容 (第 11 章 )を 考 察 す る こ と に よ り 、 外 的 要 因 と 内 的 要 因 か ら 生 じ た 社 会 変 容 の 様 相 、 そ の 結 果 と し て 生 じ た 地 域 秩 序 の 変 化 を 、 マ ン チ ュ リ ア の 地 域 性 に そ く し て 考 察 す る (10)。 本 論 文 が 明 朝 以 降 を あ つ か う 理 由 は 、 以 下 の 三 点 か ら で あ る 。 第 一 に は 、 明 朝 以 降 の マ ン チ ュ リ ア は 現 在 に も つ な が る ま と ま り を 保 ち つ つ 、 歴 史 的 に 推 移 し て い た 。 第 二 に 、 漢 人 が 大 多 数 を 占 め る 以 前 の マ ン チ ュ リ ア は 清 朝 が 採 用 し た 旗 民 制 に よ り 統 治 さ れ て い た 。 旗 民 制 を 考 察 す る た め に は 清 朝 興 起 に ま で 遡 る 必 要 が あ り 、 清 朝 興 起 を 考 察 す る た め に は 明 代 の 検 討 が 求 め ら れ る 。明 代 以 前 の 状 況 は 、20 世 紀 に ま で 通 じ る 理 解 の 材 料 と し て は 距

(8)

8 離 が 遠 い (11)。 第 三 に 、 明 朝 よ り 以 前 の 時 代 (元 朝 、 遼 ・ 金 、 渤 海 な ど )に 関 す る 史 料 は 乏 し く 、 社 会 変 容 や 地 域 秩 序 の 具 体 的 な 諸 相 を 検 討 す る こ と は 難 し い か ら で あ る 。 後 編 で は 研 究 史 の 整 理 を お こ な い 、 現 在 の 研 究 の 到 達 点 に つ い て 確 認 す る (1)満 洲 で は な く 、マ ン チ ュ リ ア を 地 名 と し て 研 究 論 文 に 使 っ て い る 論 者 は す で に い る 。上 田 裕 之 、 杉 山 清 彦 、 中 島 楽 章 、 古 市 大 輔 は 論 文 で 使 っ て い る 。 い ず れ も 前 近 代 史 を 専 攻 す る 研 究 者 で あ る 点 が 興 味 深 い 。 (2)吉 田 光 男 [2009、11 頁 ]は 、「 歴 史 舞 台 の 範 囲 は 国 境 線 の よ う に 明 確 な 線 引 き が で き る わ け で は 」 な く 、「 境 界 は 曖 昧 模 糊 と し て お り 、 し か も 状 況 に よ っ て そ れ す ら も 揺 れ 動 く 。 地 域 区 分 は あ く ま で も 空 間 の 中 に お い て 歴 史 を 把 握 す る た め の 便 法 の 一 つ に す ぎ な い 」 と 述 べ て い る 。 (3)筆 者 は こ う し た 考 え 方 を 持 つ た め 、現 在 マ ス コ ミ の 報 道 が 使 っ て い る 、「 旧 満 州 」=「 現 中 国 東 北 部 」 と い う 説 明 は ま っ た く 理 解 で き な い 。 (4) 外 山 軍 治 [1964、 2 頁 ]。 満 洲 人 ・ 漢 人 ・ モ ン ゴ ル 人 が 勢 力 交 錯 し た 点 を 、 マ ン チ ュ リ ア の 特 徴 だ と す る 見 解 は 戦 前 か ら 存 在 し て い る (例 え ば 、 松 井 等 [1931、 36-38 頁 ])。 鴛 淵 一 [1940、 1 頁 ]は 、 マ ン チ ュ リ ア は 「 農 夫 た る 漢 人 」、「 森 林 の 猟 人 に て 農 を も 営 ん だ 満 洲 族 」、「 草 原 遊 牧 の 蒙 古 族 」の 三 者 の 争 奪 地 で あ り 、「 満 洲 史 は 三 者 の 争 闘 史 」で あ っ た と し て い る 。 (5)上 野 稔 弘 [2002、42-44 頁 ]は 、中 華 人 民 共 和 国 が 考 え る 領 域 国 家 の 範 囲 と 、歴 史 的 に 中 国 を 考 え る 場 合 の 空 間 範 囲 と は 異 な る こ と を 指 摘 し て い る 。 (6)村 田 雄 二 郎 [1996、 6-8 頁 ] (7) 現 在 マ ン チ ュ リ ア を 領 域 下 に お く 国 家 は 、自 ら の 国 家 形 成 と の か か わ り か ら マ ン チ ュ リ ア の 歴 史 を 語 り 、 そ の 「 物 語 」 を 作 っ て い る 。 し か し な が ら 、 一 国 史 的 観 点 か ら 語 ら れ る 「 物 語 」 に は 無 理 が あ る 。 近 代 主 権 国 家 の 枠 組 み か ら 過 去 を な が め た 「 物 語 」 を つ く る こ と は 、 本 書 の 目 的 で は な い 。 こ う し た 考 え 方 は 、 矢 木 毅 [2008]か ら 大 き な 示 唆 を 得 て い る 。 (8)マ ン チ ュ リ ア に 暮 ら し た 漢 人 、朝 鮮 人 、満 洲 人 、モ ン ゴ ル 人 が「 中 国 人 」と し て の 意 識 を 、 中 華 人 民 共 和 国 成 立 以 前 に 確 固 と し て 持 っ て い た と は 考 え ら れ な い 。 し た が っ て 、 本 論 文 で は 「 中 国 人 」 と 表 記 す る 。 (9)こ う し た 考 え 方 は 、 羽 田 正 [2005]か ら 大 き な 示 唆 を 得 て い る 。 (10)マ ン チ ュ リ ア は 日 本 と は 異 質 な 「 歴 史 的 リ ア リ テ ィ 」 を 持 つ 場 所 で あ る こ と を 、 本 書 は 強 調 し て い る 。 日 本 の 帝 国 主 義 的 な 政 策 と 関 わ っ た 部 分 だ け を 取 り 出 し て 、 マ ン チ ュ リ ア の 特 性 を 論 じ る 方 向 性 は と っ て い な い 。 日 露 戦 争 か ら 満 洲 国 崩 壊 ま で 、 マ ン チ ュ リ ア に 対 す る 日 本 の 影 響 力 は 強 か っ た が 、 マ ン チ ュ リ ア の す べ て の 動 向 を 日 本 が 規 定 し て い た わ け で は な い 。本 書 で は 日 本 の 影 響 力 に 目 を く ば り つ つ も 、よ り 基 底 的 な 地 域 の「 木 目 」 を 描 き 出 す こ と を 目 的 に し て い る 。 (11)明 代 の 女 真 の 系 譜 を 検 討 し た 三 田 村 泰 助 [1965、 70-73 頁 ]は 、 建 州 女 真 や 海 西 女 真 の 系 譜 の 上 限 は 元 末 明 初 よ り 以 前 に は 遡 ら な い こ と を 確 認 し 、 マ ン チ ュ リ ア で は 元 末 に 人 間 集 団 の 移 動 に 伴 う 大 き な 社 会 的 変 容 が 生 じ 、 女 真 社 会 に は 断 層 が 生 じ た と 指 摘 す る 。

(9)

9 参 考 文 献 上 野 稔 弘 2002「 地 域 概 念 と し て の 〈 中 国 〉 と 東 北 ア ジ ア 」『 東 北 ア ジ ア 地 域 論 の 可 能 性 』 東 北 ア ジ ア 研 究 セ ン タ ー pp.41-49 鴛 淵 一 1940『 奉 天 と 遼 陽 』 富 山 房 151p 外 山 軍 治 1964『 金 朝 史 研 究 』 同 朋 舎 679p 羽 田 正 2005『 イ ス ラ ー ム 世 界 の 創 造 』 東 京 大 学 出 版 会 316p 松 井 等 1931「 満 洲 史 要 領 」『 東 亜 』 4-8 pp.35-44 三 田 村 泰 助 1965『 清 朝 前 史 の 研 究 』 同 朋 舎 492p 村 田 雄 二 郎 1986「 中 華 帝 国 と 国 民 国 家 」『 呴 沫 集 』 9 pp.6-14 矢 木 毅 2008「 朝 鮮 前 近 代 に お け る 民 族 意 識 の 展 開 - 三 韓 か ら 大 韓 帝 国 ま で 」 夫 馬 進 編 『 中 国 東 ア ジ ア 外 交 交 流 史 の 研 究 』 京 都 大 学 学 術 出 版 会 pp.86-117 吉 田 光 男 2009『 北 東 ア ジ ア の 歴 史 と 朝 鮮 半 島 』 放 送

(10)

10 第 1 章 「 満 洲 」 に 関 す る 諸 見 解 満 洲 は 満 洲 語 の「 マ ン ジ ュ (Manju)」の 漢 語 音 写 で あ る 。ど の よ う な 語 源 で あ り 、い つ か ら 使 用 さ れ た の か 、 長 年 に わ た っ て 研 究 が お こ な わ れ て き た 。 し か し な が ら 不 明 な 点 が 多 い 。 以 下 で は 満 洲 の 語 源 、 用 例 に 関 す る 研 究 史 に つ い て 述 べ て み た い 。 1 . 日 本 で の 研 究 満 洲 が い つ か ら 使 わ れ た の か 、 そ の 語 源 は 何 に 由 来 す る の か 、 最 初 に 検 討 を 加 え た の は 内 藤 湖 南 [1969]で あ っ た 。 内 藤 湖 南 は 日 露 戦 争 の 時 に 奉 天 の 崇 謨 閣 で 清 朝 史 に 関 す る 档 案 の 調 査 を お こ な い 、 そ の 成 果 を も と に 満 洲 の 用 例 、 語 源 に つ い て 自 己 の 見 解 を 述 べ た 。 明 朝 や 朝 鮮 の 史 料 に は 満 洲 は 使 わ れ て な く 、 朝 鮮 に 出 し た 手 紙 で は ヌ ル ハ チ は 「 金 国 汗 」 と 称 し て い た こ と 、 ヌ ル ハ チ が 建 て た 東 京 城 の 天 佑 門 に は 「 ア イ シ ン グ ル ン 」 と あ る こ と 、 ホ ン タ イ ジ が 遼 陽 城 外 に 1630 年 (天 聰 4 年 )に 建 て た 碑 に は「 ア イ シ ン 」国 と あ る こ と を 根 拠 に 、 ヌ ル ハ チ 、 ホ ン タ イ ジ の 時 に は 「ア イ シ ン 国 (金 国 )」と 称 し て い た と 主 張 し た 。 し か し 、『 太 祖 実 録 』が 出 来 た こ ろ に は 、「ア イ シ ン 国 (金 国 )」と い う 名 称 は か つ て の 金 朝 を 彷 彿 さ せ る の で 使 わ な い こ と に し 、「 満 洲 国 」に し た と 説 明 し て い る 。満 洲 の 語 源 は 偉 い 酋 長 に 対 す る 尊 称 に 由 来 し 、 仏 教 の 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 (manjusri)」 の 転 音 で あ る 指 摘 し た 。 次 い で 市 村 瓚 次 郎 [1909]は 、 い つ か ら 満 洲 が 使 わ れ る よ う に な っ た の か 、 関 係 史 料 の 分 析 を お こ な っ た 。市 村 瓚 次 郎 も 内 藤 湖 南 と 一 緒 に 、奉 天 の 崇 謨 閣 で 清 朝 の 档 案 を 調 査 し た 。 ま た 明 朝 や 朝 鮮 の 史 料 を も 検 討 し 、 天 聰 年 間 (1627-35 年 )で は 後 金 や 金 の 国 号 は 見 え る が 満 洲 の 国 号 は な い こ と か ら 、 満 洲 は 大 清 の 国 号 を 称 し た 後 に 初 め て 現 れ た と 主 張 し た 。 そ し て 満 洲 の 語 源 と し て 、 ① 仏 教 用 語 に 由 来 す る 、 ② モ ン ゴ ル 語 、 女 真 語 で 勇 猛 を 意 味 す る 「 Mang」に 由 来 す る 、③ 粛 慎 の 転 音 、④ 勿 吉 靺 鞨 の 転 音 、⑥「 満 節 」(論 語 の 註 疏 に あ る 九 夷 の 一 つ )の 転 訛 な ど を 指 摘 し た 。市 村 瓚 次 郎 は 、ホ ン タ イ ジ は 大 清 に 改 元 し た 時 、そ れ 以 前 の 国 号 「 後 金 」 を 消 し 去 り 、 こ れ ま で の 国 号 は ず っ と 満 洲 で あ っ た か の よ う な 操 作 を し た と 主 張 し た 。市 村 説 は 後 年 で は 、ホ ン タ イ ジ が 国 号 を 偽 作 し た と 理 解 さ れ 、「 ホ ン タ イ ジ 偽 作 説 」 な ど と 称 さ れ る よ う に な っ た (市 村 瓚 次 郎 は 論 文 の 中 で 「 ホ ン タ イ ジ に よ る 偽 作 」 と い う 表 現 は 使 っ て い な い )。 内 藤 湖 南 、 市 村 瓚 次 郎 に 続 い て 、 満 洲 に つ い て 論 じ た の は 稲 葉 岩 吉 で あ っ た 。 稲 葉 岩 吉 [1915、 409-416 頁 ]は 、 金 国 や 女 真 の 名 称 は 漢 人 か ら は 忌 み 嫌 わ れ て い る の で 、 漢 人 の 居 住 地 に 勢 力 を 拡 大 し よ う と し た ホ ン タ イ ジ に と っ て 都 合 の 悪 い も の に な っ た と 解 釈 し た 。 そ れ ゆ え 市 村 瓚 次 郎 と 同 様 に 、 ホ ン タ イ ジ は 大 清 に 国 号 を 改 め た こ と を 契 機 に 、 一 切 の 記 録 か ら 金 国 、 女 真 を 消 し 去 り 、 満 洲 に 書 き 換 え た と 主 張 し た 。 満 洲 の 由 来 に つ い て は 、 一 つ は ヌ ル ハ チ の 尊 称 が 「 満 住 」 で あ り 、 そ れ が 転 化 し て 満 洲 に な っ た と い う 由 来 と 、 も う 一 つ は 内 藤 湖 南 と 同 様 に 仏 教 の 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 」 に 由 来 す る と い う 二 つ を 指 摘 し た 。 そ の 後 に 書 か れ た 、 稲 葉 岩 吉 [1934]で も ほ ぼ 同 様 の 内 容 を 述 べ て い る 。 三 田 村 泰 助 [1936]は 『 満 文 老 档 』 の 分 析 を 通 じ て 、 新 た な 見 解 を 発 表 し た 。『 満 文 老 档 』 に は ヌ ル ハ チ の 時 に 、 す で に マ ン ジ ュ = グ ル ン (マ ン ジ ュ 国 、 満 洲 国 )の 名 称 が 記 述 さ れ て お り 、 ホ ン タ イ ジ 以 前 に も 満 洲 の 記 述 は 存 在 し た こ と が 判 明 し た 。 そ こ で 三 田 村 泰 助 は 、

(11)

11 新 た に マ ン ジ ュ = グ ル ン (マ ン ジ ュ 国 、 満 洲 国 )は ヌ ル ハ チ が 建 州 女 真 の 統 合 後 に つ け た 国 号 だ と 主 張 し た 。 し か し 、 明 や 朝 鮮 か ら の 疑 念 ・ 干 渉 は 避 け る た め 、 対 外 的 に は 「 建 州 」 を 称 し た 。女 真 諸 部 の 統 一 後 (1616 年 )、ヌ ル ハ チ は 外 に は 後 金 国 を 称 し 、内 に は ジ ュ セ ン 国 と 称 し て 、 マ ン ジ ュ 国 は や め た と 解 釈 し た 。 つ ま り 、 満 洲 は ヌ ル ハ チ に よ り 国 号 と し て 使 わ れ 、 そ の 期 間 は 1600 年 前 後 か ら 1616 年 ま で と 短 く 、 ヌ ル ハ チ 政 権 の 変 化 に 伴 い 、 そ の 使 わ れ 方 も 変 わ っ た と 主 張 し た 。語 源 に つ い て は 、満 洲 は 偉 い 酋 長 に 対 す る 尊 称 で あ り 、 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 」 の 転 音 で あ る と す る 内 藤 湖 南 説 を 踏 襲 し て い る 。 戦 後 に な り 、『 満 文 老 档 』の 原 本 で あ る『 満 洲 原 档 』が 台 湾 で 発 見 さ れ 、満 洲 の 用 例 に つ い て 新 た な 分 析 が 可 能 と な っ た 。 神 田 信 夫 [1972]は 『 満 文 老 档 』 と 『 満 洲 原 档 』 の 記 述 を 比 較 し て 、満 洲 の 用 例 に つ い て 検 討 し た 。「 マ ン ジ ュ 」の 語 句 が『 満 文 老 档 』に 初 出 す る の は 1613 年 (万 暦 41 年 )で あ り 、 こ の 記 述 は 『 満 洲 原 档 』 で も 最 初 か ら 書 か れ て い た と 指 摘 し た 。こ れ に よ り 、「 マ ン ジ ュ 」は ヌ ル ハ チ 期 に 存 在 し た こ と が 確 認 さ れ た 。そ し て 、三 田 村 泰 助 が 主 張 し た 、「 マ ン ジ ュ 国 」と は ヌ ル ハ チ が 建 州 女 真 を 統 合 し て つ く っ た 国 だ と い う 見 解 を 支 持 し た 。 し か し 、「 女 真 諸 部 の 統 一 後 (1616 年 )、 外 に は 後 金 国 を 称 し 、 内 に は ジ ュ セ ン 国 と 称 し て マ ン ジ ュ 国 は や め た 」 と い う 三 田 村 泰 助 の 見 解 に は 反 対 し 、 明 や 朝 鮮 に は 「 ア イ シ ン 」 を 使 っ て い た が 、 モ ン ゴ ル に は 「 マ ン ジ ュ 国 」 と 称 し 、 国 内 的 に は 天 命 か ら 天 聡 に か け て「 マ ン ジ ュ 国 」、「 ア イ シ ン 」が 使 わ れ て い た と し た 。つ ま り 、 1616 年 の 女 真 統 一 後 も 「 マ ン ジ ュ 国 」 と 称 し て い た と 主 張 し た 。 こ う し た 混 用 、 曖 昧 な 状 況 を ホ ン タ イ ジ は 整 理 し 、 1635 年 (天 聡 9 年 )に 「 民 族 」 名 を 「 マ ン ジ ュ 」 と し 、 翌 36 年 (崇 徳 元 年 ) に 「 大 清 」 を 国 号 と し た 。 こ こ に 「 マ ン ジ ュ 」 は 国 号 で は な く 「 民 族 」 名 と な り 、「 民 族 」 名 と し て 以 後 も 使 わ れ た と 主 張 し た 。 神 田 信 夫 の 研 究 は 満 洲 の 用 例 に つ い て で あ り 、 満 洲 の 語 源 に つ い て は 検 討 し て い な い 。 以 上 の 神 田 信 夫 説 は 、 通 説 的 な 理 解 と し て 受 け 入 れ ら れ て い る 。 し か し 、 敦 冰 河 [2001] は 神 田 説 の 根 拠 と な っ て い る 『 原 档 』 の 記 述 は 、 後 代 の 加 筆 ・ 書 き 込 み で あ り 、 ヌ ル ハ チ は「 マ ン ジ ュ 」と い う 国 号 を 称 し て い な く 、「 建 州 」、「 ジ ュ シ ェ ン 」と 称 し て い た と 主 張 し た 。 そ し て 、 女 真 諸 部 の 統 一 後 に 「 マ ン ジ ュ 国 」、「 ア イ シ ン 」 と い う 国 号 を 定 め た の で 、 「 建 州 」、「 ジ ュ シ ェ ン 」 は 消 滅 し た と い う 見 解 を 発 表 し て い る 。 満 洲 の 語 源 に つ い て 、今 西 春 秋 [1961]は 部 族 や 地 名 で は な く 、「 マ ン ジ ュ 」の 尊 称 を 持 つ 人 の 治 め る 国 だ か ら 「 マ ン ジ ュ 国 」 と 称 さ れ た と 解 釈 し て い る 。 ツ ン グ ー ス 諸 語 の 研 究 を お こ な っ た 池 上 二 良 [1987]は 、 満 洲 は 「 川 」 の 意 味 に 由 来 す る と 主 張 し た 。 池 上 二 良 は 、 ツ ィ ン ツ ィ ウ ス が 『 ツ ン グ ー ス ・ 満 洲 諸 語 比 較 音 韻 論 』 の な か で 、「 manju」 の 語 句 は ア ム ー ル 川 流 域 の 住 民 は 「 川 」 の 意 味 で 使 っ て い た と い う 指 摘 を 重 視 し 、 さ ら に ナ ナ イ 語 な ど と の 比 定 を 試 み 、「 川 」 の 意 味 が 語 源 だ と 主 張 し た 。 石 橋 秀 雄 [1995]は『 満 洲 源 流 考 』が 述 べ る 満 洲 の 語 義 に つ い て 考 察 を 加 え た 。満 洲 が「 民 族 」 名 と な る の は 、 ホ ン タ イ ジ が 1635 年 (天 聡 9 年 )に 「 ジ ュ セ ン 」 を 禁 じ て 「 マ ン ジ ュ 」 と し た こ と に 始 ま り 、 そ れ 以 前 に 満 洲 が 「 民 族 」 名 と し て 使 わ れ た こ と は な か っ た 。 し か し 『 満 洲 源 流 考 』 で は 、 肅 慎 に ま で 遡 る 部 族 (民 族 )名 と し て 記 述 し て い る 。 清 朝 の 官 選 で あ る 『 満 洲 源 流 考 』 が こ う し た 記 述 を し て い る 理 由 に つ い て 、 以 下 の よ う に 解 釈 し た 。 ま ず 、ホ ン タ イ ジ が 1635 年 (天 聡 9 年 )に「 ジ ュ セ ン 」を 禁 じ て「 マ ン ジ ュ 」と し た の は 、以

(12)

12 前 の 後 金 や 女 真 と の 関 係 性 を 断 ち 切 り 、 新 た な 「 多 部 族 統 合 国 家 」 と な っ た こ と を 鮮 明 に す る 意 図 を 持 っ て い た か ら だ と 指 摘 し た 。 と こ ろ が 、 乾 隆 年 間 の 状 況 は ホ ン タ イ ジ の 時 代 と は 異 な り 、 旗 人 は 没 落 し た り 、 漢 化 が 進 み 、 か つ て の 満 洲 人 意 識 が 失 わ れ よ う と し て い た 。そ れ ゆ え 乾 隆 帝 は 、『 満 洲 源 流 考 』に お い て 満 洲 の 語 源 を 肅 慎 に ま で 遡 ら せ 、伝 統 あ る 部 族 と し て 位 置 づ け よ う と 考 え 、 満 洲 を 部 族 名 に し た と 解 釈 し て い る 。 満 洲 の 語 義 は 、 そ れ を 解 釈 、 説 明 す る 人 々 の 状 況 に よ り 相 違 し た の で あ り 、 解 釈 、 説 明 さ れ た 時 代 状 況 を も 勘 案 す る 必 要 性 を 石 橋 秀 雄 は 指 摘 し て い る 。 満 洲 の 語 源 に つ い て は 、 日 本 で は 内 藤 湖 南 以 来 の 「 曼 殊 (文 珠 )室 利 」 に 由 来 し 、 ヌ ル ハ チ ら が 仏 教 を 信 仰 し て い た こ と も 手 伝 い 、「 文 殊 」→「 文 珠 」→「 満 洲 」と 転 化 し た と い う 見 解 が 広 く 受 け 入 れ ら れ て い る 。松 浦 茂 [1995、58 頁 ]は 、「 マ ン ジ ュ 」の 語 源 は「 曼 殊 (文 殊 )室 利 (マ ン ジ ュ シ ュ リ ー )」(サ ン ス ク リ ッ ト 語 で は「 目 出 度 い 」の 意 味 )で あ り 、ヌ ル ハ チ ら は 仏 教 を 信 仰 し て い た の で 「 文 殊 (曼 殊 )」 を 崇 め て お り 、 こ の 点 に 由 来 す る と 述 べ て い る 。平 野 聡 [2007、104 頁 ]は 、「 マ ン ジ ュ と い う 名 称 は 、一 般 的 に 、彼 ら (満 洲 人 )が 信 仰 す る 文 殊 菩 薩 に ち な ん で い る と さ れ る 」 と 述 べ て い る 。 こ う し た 見 解 に 岡 田 英 弘 は 反 論 し て い る 。 岡 田 英 弘 [2009]は 、 日 本 人 は 「 文 殊 (曼 殊 )師 利 菩 薩 」 を 「 文 殊 」 と 略 称 す る が 、 満 洲 人 は 略 称 せ ず に 「 マ ン ジ ュ シ ュ リ ー 」 と 呼 ぶ 。 ま た 、「 満 洲 人 は 、 自 分 の 種 族 名 が こ の 菩 薩 か ら 来 て い る と は 、 夢 に も 思 わ な か っ た 」 と し 、 満 洲 の 語 源 を 「 文 殊 師 利 菩 薩 」 に 比 定 す る 見 解 を 否 定 し た 。 そ し て 、 満 洲 の 語 源 は 不 明 だ と 主 張 し た 。 以 上 の 日 本 で の 研 究 状 況 を ま と め る と 、 満 洲 は ヌ ル ハ チ の 時 か ら 国 号 と し て 使 わ れ 、 ホ ン タ イ ジ の 時 に 「 民 族 」 名 に な っ た と い う 見 解 が 定 説 的 で あ り 、 そ の 語 源 に つ い て は 見 解 が 分 か れ て い る と 整 理 で き よ う 。 2 . 中 国 で の 研 究 中 国 で は 孟 森 [1930、 1986]が 先 駆 的 に 検 討 を し 、 満 洲 は 「 満 住 」 と も 書 き 、 建 州 女 真 の 首 長 で あ っ た 李 満 住 も 名 前 に 取 り 入 れ て い た 、 女 真 の 間 で 用 い ら れ た 尊 称 で あ っ た と 主 張 し た 。 馮 家 昇 [1933]は 、 満 洲 が 使 わ れ 始 め た 時 と 、 そ の 語 源 に 関 す る 諸 説 の 整 理 を お こ な っ た 。満 洲 が い つ か ら 使 わ れ た の か 、① 国 初 以 来 、国 号 と し て い た 、② 1616 年 に ヌ ル ハ チ が 即 位 し た 時 に 国 号 と し た 、 ③ ホ ン タ イ ジ の 時 に 大 清 と 改 称 す る 以 前 は 満 洲 を 国 号 と し て い た が 、「 文 字 の 獄 」 に よ り 満 洲 は 抹 殺 さ れ た 、 と ま と め て い る 。 満 洲 の 語 源 に つ い て は 、 ①「 清 涼 」の 漢 語 、② 満 洲 語 の「 mong」(勇 猛 )、③ 名 珠 が 取 れ る「 満 珠 の 地 」、④ 戦 敗 し た 有 力 者 が 逃 げ 込 ん で き て 「 満 豬 」 と い う 国 を 作 っ た こ と に 由 来 、 ⑤ 日 本 の 源 氏 の 源 満 仲 に 由 来 、 ⑥ 肅 慎 の 転 音 、 ⑦ 勿 吉 靺 鞨 の 転 音 、 ⑧ 『 論 語 註 疏 』 に 記 述 の あ る 九 夷 の 一 つ で あ る 「 満 節 」 に 由 来 、 ⑨ 靺 鞨 の 有 力 者 の 「 満 咄 」 に 由 来 、 ⑩ 「 文 殊 師 利 」 に 由 来 、 ⑪ 建 州 女 真 の 有 力 者 で あ っ た 李 満 住 の 「 満 住 」 に 由 来 、 の 十 一 種 類 を あ げ て い る 。 満 洲 の 語 源 に つ い て は 、 戦 前 に す で に 多 数 の 見 解 が 存 在 し た の で あ る 。 馮 家 昇 は 諸 説 の な か で 、 否 定 で き る 見 解 に つ い て は 否 定 し た 。 し か し 、 自 己 の 見 解 に つ い て は 確 定 的 な 主 張 は し て い な い 。 台 湾 で は 陳 捷 先 [1963]が 満 洲 の 語 源 に つ い て 考 察 し 、 明 末 の 女 真 各 部 は 名 称 と し て 居 住 地 の 近 く を 流 れ る 河 川 の 名 称 を 使 っ て い た と 指 摘 し 、「 婆 豬 河 」が 転 音 し て 満 洲 に な っ た と

(13)

13 主 張 し た 。 黄 彰 健 [1967]は 、 朝 鮮 の 史 書 で あ る 『 東 国 史 略 事 大 文 軌 』 に ヌ ル ハ チ の 居 住 地 は 「 萬 朱 」 だ と す る 記 述 が あ る こ と を も と に 、 満 洲 は 地 名 に 由 来 し た と 主 張 し た 。 乾 隆 年 間 に 作 成 さ れ た 『 満 洲 源 流 考 』 に は 、 満 洲 は 地 名 で な く 部 族 名 と し て 、 そ の 由 来 に つ い て 記 述 し て い る 。 満 洲 は 以 前 は 「 満 珠 」 と 書 き 、 チ ベ ッ ト の 来 書 に 清 朝 皇 帝 は 「 曼 殊 師 利 大 皇 帝 」と 書 か れ て い た こ と に 由 来 し 、「 珠 」と「 殊 」は 同 音 な の で「 満 殊 」と な り 、 さ ら に 「 殊 」 は 地 名 を あ ら わ す 「 洲 」 に 変 え て 、 満 洲 と い う 語 句 が 誕 生 し た と 『 満 洲 源 流 考 』 は 述 べ て い る 。 か か る 『 満 洲 源 流 考 』 の 記 述 内 容 を 、 他 の 史 料 で 事 実 だ と 論 証 で き る の か 、 王 俊 中 [1997]は チ ベ ッ ト 語 史 料 を 分 析 し て 確 認 を 試 み た 。 そ の 結 果 、 現 在 見 る こ と の で き る チ ベ ッ ト 語 史 料 に お い て 、 チ ベ ッ ト か ら の 来 書 が 清 朝 皇 帝 を 「 曼 殊 師 利 大 皇 帝 」 と 記 述 し た こ と は 、 順 治 年 間 に お い て は そ の 記 述 が 確 認 で き た 。 し か し 、 ヌ ル ハ チ 、 ホ ン タ イ ジ の 時 代 に つ い て は 確 認 で き な い の で 、『 満 洲 源 流 考 』の 信 憑 性 は 低 い と 指 摘 し た 。そ し て 、『 満 洲 源 流 考 』が チ ベ ッ ト と の 関 係 か ら 満 洲 の 語 源 を 説 明 し よ う と し た の は 、乾 隆 時 代 は チ ベ ッ ト 仏 教 が 興 隆 し た の で 、 そ れ が 背 景 と な っ て い る で は な い か と 主 張 し て い る 。 王 俊 中 の 研 究 に よ り 、 チ ベ ッ ト の 来 書 に あ る 「 曼 殊 師 利 」 に 由 来 す る と い う 見 解 は 、 大 き く 揺 ら い だ と 言 え よ う 。 戦 後 の 中 国 に お い て も 、 満 洲 の 語 源 、 用 例 に 関 す る 研 究 は す す め ら れ た 。 滕 紹 箴 [1981、 1995、1996]は 満 洲 の 語 源 、用 例 に つ い て 広 範 囲 に お よ ぶ 史 料 を 検 討 し 、満 洲 は 朝 鮮 の 人 が 鴨 緑 江 上 流 の 女 真 を 呼 ぶ 際 に 使 っ た 部 族 名 で あ り 、 そ の 居 住 地 を 示 す 地 名 で あ っ た と 主 張 す る 。 姚 斌 [1990]は 、 建 州 女 真 の 有 力 者 で あ っ た 李 満 住 の 名 前 に 由 来 す る と 主 張 し 、 王 昊 [1996]は 、ホ ン タ イ ジ は 自 分 た ち の 部 族 が 栄 え あ る 名 称 を 冠 す る こ と を 目 的 に 、「 満 珠 」で は な く 満 洲 に し た と 主 張 し た 。 言 語 学 的 な 観 点 か ら は 、 長 山 [2009]は 、「 manju」 の 詞 義 を 言 語 学 的 な 観 点 か ら 分 析 し 、 「 manju」は 満 洲 人 が 生 業 と し た 狩 猟 経 済 に 由 来 し て つ く ら れ た 主 張 し た 。烏 拉 康 春 [1990] と 張 璇 如 [2009]は 、「 勇 猛 な 人 」、 英 雄 と い う 意 味 で は な い か と 主 張 し た 。 邸 永 君 [2005]、 王 鍾 翰 [2004]は 、 満 洲 の 語 源 、 用 例 に 関 す る 諸 説 を 整 理 し て い る 。 劉 厚 生 [2007]、陳 鵬 [2011]は 、「 満 洲 」の 語 源 に つ い て 、① 人 名 に 由 来 、② 満 洲 語 が 転 音 、③ 地 名 に 由 来 、 ④ 部 落 名 に 由 来 、 と い う 四 点 か ら 整 理 し て い る 。 そ し て 、 確 定 的 な 結 論 を 出 す こ と は 難 し い と 述 べ て い る 。

Giovanni Stary Venezia[1988、 1990]は 欧 米 で の 満 洲 の 語 源 に 関 す る 諸 見 解 に つ い て 整 理 を お こ な い 、 言 語 学 的 な 観 点 か ら 満 洲 の 語 源 に つ い て 検 討 を 加 え た 。 そ し て 、 満 洲 の 語 源 は ツ ン グ ー ス 語 の 「 強 い 」「 猛 烈 」 と い う 語 句 と 関 係 が あ る と 主 張 し て い る 。 3 . 地 名 へ の 転 化 民 族 名 、 国 名 で あ っ た 満 洲 は 、 い つ ご ろ 地 名 に 転 化 し た の で あ ろ う か 。 こ の 問 題 に つ い て 矢 野 仁 一 [1941、 4-7 頁 ]は 、 ヨ ー ロ ッ パ の 人 々 が 地 名 と し て 使 う よ う に な っ た と 指 摘 し た 。矢 野 仁 一 は 、19 世 紀 初 ま で ヨ ー ロ ッ パ 人 も 日 本 人 も 満 洲 は 部 族 名 と 考 え て お り 、マ ン チ ュ リ ア は「 韃 靼 、満 洲 人 の 国 土 」な ど と 称 さ れ 、満 洲 は 地 名 で は な か っ た 。し か し 、1830 年 代 以 降 ド イ ツ や イ ギ リ ス な ど ヨ ー ロ ッ パ で 、 満 洲 は 地 名 と し て 使 わ れ る よ う に な っ た と 主 張 し た 。

(14)

14 中 見 立 夫 [1993、 278 頁 ]は 、 矢 野 仁 一 が 検 討 し て い な い 日 本 人 作 成 の 地 図 を と り あ げ 、 満 洲 が 地 名 と し て 使 わ れ た 起 源 に つ い て 考 証 し た 。桂 川 甫 周 が 大 黒 屋 光 太 夫 (駿 河 沖 で 難 破 し 、 ア リ ュ ー シ ャ ン 列 島 に 漂 着 し た 後 、 シ ベ リ ア を 経 由 し て ペ テ ル ブ ル ク に 行 き 、 ラ ク ス マ ン と と も に 1792 年 に 帰 国 し た )か ら の 聞 き 取 り を も と に 編 纂 し た 地 誌『 北 槎 聞 略 』(1794 年 )の 地 図 に は 満 洲 の 表 記 が 存 在 す る こ と 、高 橋 景 保 が 作 成 し た「 日 本 辺 界 略 図 」(1809 年 )、 「 新 訂 万 国 全 図 」(1810 年 )に も 満 洲 の 表 記 が あ る こ と を 指 摘 し た 。そ し て こ れ ら の 事 実 か ら 、日 本 で 地 名 と し て の 満 洲 が 成 立 し た の は 、ヨ ー ロ ッ パ よ り も 少 し は や く 、18 世 紀 末 か ら 19 世 紀 初 だ と 主 張 し た 。 中 見 立 夫 は 、 満 洲 と い う 地 名 は マ ン チ ュ リ ア の 外 の 人 々 に よ り つ く ら れ た も の で あ り 、 マ ン チ ュ リ ア に 暮 ら す 人 々 の 意 向 と は 無 関 係 で あ っ た こ と を 強 調 す る 。 そ し て 、 地 域 概 念 と は 政 治 権 力 が そ の 地 域 を ど の よ う に 考 え て い た か を 反 映 し て お り 、 政 治 権 力 の 意 向 に 沿 っ て 地 域 名 称 も 案 出 さ れ て い た と し 、 か か る 点 へ の 考 慮 を 欠 く な ら ば 、 地 域 理 解 は 外 側 か ら の 一 面 的 な も の に 陥 り 、 地 域 の 内 在 的 な 理 解 は な い が し ろ に な っ て し ま う 危 険 性 が あ る と 指 摘 し て い る 。 松 浦 茂 [2009]は 満 洲 と い う 語 句 が 、 日 本 へ ど の よ う に 入 っ て き た の か 検 討 を 加 え た 。 松 浦 茂 は 間 宮 林 蔵 な ど が 残 し た 北 辺 調 査 を 分 析 し 、江 戸 時 代 に は「 マ ン チ ウ 」「 満 州 」の 二 つ が 使 わ れ て お り 、「 マ ン チ ウ 」は ア ム ー ル 川 沿 岸 の 住 民 を 経 て 、サ ハ リ ン の ア イ ヌ の 話 し 言 葉 を 通 し て 伝 え ら れ 、「 満 州 」 は 清 朝 の 文 献 を 通 じ て 日 本 に 広 ま っ た と 指 摘 し た 。 そ し て 、 「 マ ン チ ウ 」、「 満 州 」 が 清 朝 と 結 び 付 け て 認 識 さ れ て い た わ け で は な か っ た と 主 張 し た 。 満 洲 を 地 名 と し て 使 っ た の は 日 本 人 や ヨ ー ロ ッ パ 人 で あ っ た 。 で は 、 中 国 の 人 々 は マ ン チ ュ リ ア を ど の よ う な 地 名 で 呼 ん で い た の で あ ろ う か 。 明 朝 の 人 々 は 、 マ ン チ ュ リ ア 全 体 を あ ら わ す 地 名 は 使 っ て い な か っ た と 考 え ら れ る 。 遼 東 辺 牆 の 内 側 に つ い て は 「 遼 東 」、「 遼 左 」 な ど の 地 名 を 使 っ て い た 。 ヌ ル ガ ン 地 区 を 総 称 的 に あ ら わ す 地 名 は な か っ た よ う で あ る 。『 大 明 一 統 志 』 [巻 89]は 「 外 夷 」 の 部 分 に 、 朝 鮮 や 日 本 と 並 べ て 「 女 直 」 と い う 項 目 を 設 け 、 ヌ ル ガ ン 地 区 の 状 況 を 記 述 し て い る 。 女 直 の 居 住 地 は 、「 東 は 海 に 、西 は ウ リ ャ - ン ハ ン (兀 良 哈 )に 、南 は 朝 鮮 に 、北 は ヌ ル ガ ン 」に 接 し て い る と 述 べ 、特 別 な 地 名 は 記 述 し て い な い 。『 明 実 録 』は 来 朝 す る 女 真 た ち を「 東 北 諸 胡 来 朝 者 」と 記 述 し て い る [『 太 宗 実 録 』巻 78 永 楽 6 年 4 月 乙 酉 ]。明 朝 は 遼 東 と ヌ ル ガ ン 地 区 で は そ の 統 治 方 法 も 異 な っ て お り 、 両 者 を 合 わ せ て 呼 ぶ 地 名 、 つ ま り マ ン チ ュ リ ア に 相 当 す る 地 名 は 存 在 し な か っ た よ う で あ る 。 満 洲 人 も 地 名 と し て は 、 満 洲 を 使 っ て は い な か っ た 。 中 見 立 夫 [2002、 19 頁 ]は 、「 満 洲 語 の 語 彙 の な か に は 、 の ち に 日 本 人 や 欧 米 人 が 地 名 と し て 使 う 『 満 洲 』 に 相 当 す る 地 域 名 称 は 存 在 し て い な 」 か っ た と 述 べ て い る 。 そ れ ゆ え 、 マ ン チ ュ リ ア を あ ら わ す 地 名 を 、 満 洲 人 は 持 っ て い な か っ た と 推 測 さ れ る 。 清 代 で は 盛 京 、吉 林 、黒 龍 江 と い う 名 称 が 使 わ れ 、「 東 三 省 」と い う 語 句 が 登 場 し た 。も っ と も 吉 林 や 黒 龍 江 が 省 と な る の は 1907 年 (光 緒 33 年 )で あ り 、17-19 世 紀 に は「 東 三 省 」 は 厳 密 に は 存 在 し な か っ た 。 し か し 清 朝 は 「 東 三 省 」 と い う 語 句 を 使 っ て い た 。 古 市 大 輔 [2012]は 『 清 実 録 』 か ら 乾 隆 年 間 ま で の 「 東 三 省 」 の 用 例 を 網 羅 的 に 抽 出 し て 、 そ の 用 例 に つ い て 検 討 し た 。「 東 三 省 」が『 清 実 録 』に 登 場 す る の は 遅 く 、 1733 年 (雍 正 11 年 )で あ

(15)

15 っ た 。 意 味 的 に は 地 名 で は な く 、 盛 京 ・ 吉 林 ・ 黒 龍 江 の 三 将 軍 が 統 率 す る 兵 士 を 総 称 す る 意 味 で 使 わ れ て い た 。 そ し て 、「 東 三 省 」 の 語 句 は 、 18 世 紀 ま で は 領 域 的 な 意 味 合 い は 希 薄 で あ り 、 盛 京 ・ 吉 林 ・ 黒 龍 江 の 各 駐 防 八 旗 や 各 行 政 機 構 を 便 宜 的 に 総 称 す る 際 に 使 わ れ て い た と 主 張 し て い る 。 乾 隆 年 間 の 状 況 を 記 述 し て い る 『 盛 京 通 志 (乾 隆 版 )』 は 、「 今 按 全 省 輿 地 、 西 抵 山 海 関 、 東 抵 海 濱 、 南 至 圖 們 江 接 朝 鮮 界 、 北 至 外 興 安 嶺 俄 羅 斯 界 、 皆 属 奉 天 、 吉 林 、 黒 龍 江 将 軍 所 統 」と 記 述 し て い る [巻 23 建 置 沿 革 ]。と く に 場 所 を 示 す 地 名 は な く 、奉 天・吉 林・黒 龍 江 将 軍 の 管 轄 地 を 一 つ の ま と ま り と み な し て い る 。 19 世 紀 に な る と 、『 清 実 録 』 に は 「 東 三 省 為 根 本 重 地 」 な ど の 記 述 が 頻 出 し 、「 東 三 省 」 は 地 名 と し て 用 い ら れ て い た 。し か し 、『 清 実 録 』に は「 満 洲 為 本 朝 発 祥 之 地 」な ど の 表 現 で 、「 満 洲 」を 地 名 と し て 使 っ た 用 例 は 存 在 し な い 。筆 者 の 知 る 範 囲 で 清 朝 が「 満 洲 」を 地 名 的 に 使 っ た の は 、1898 年 7 月 締 結 の「 東 省 鉄 路 公 司 続 訂 合 同 」の な か で 、旅 順 ・ 大 連 に 至 る 路 線 を 「 東 省 鉄 路 南 満 洲 枝 路 」 と 述 べ て い る の が 最 初 で あ る [王 鉄 崖 1957、 783-784 頁 ] 。 20 世 紀 の 中 国 で は 、マ ン チ ュ リ ア を 示 す 場 合 に は「 東 北 」、「 東 三 省 」が 一 般 的 だ が 、「 満 洲 」 も 地 名 と し て 使 わ れ て い た 。 1911 年 に 編 纂 さ れ た 『 東 三 省 政 略 』 に は 、「 満 洲 而 有 南 北 之 名 。旅 大 已 為 租 借 之 地 。日 之 鉄 道 貫 奉 天 而 達 於 長 春 」[巻 四 軍 事 、述 要 ]と あ り 、「 満 洲 」 を 地 名 と し て 使 っ て い る 。と こ ろ が 、1932 年 に 満 洲 国 が 建 国 さ れ る と 、満 洲 と い う 語 句 そ の も の の 使 用 が 忌 み 嫌 わ れ た 。 満 洲 と い う 語 句 は 特 別 な ニ ュ ア ン ス を 持 つ も の と な り 、 敢 え て 使 用 す る 「 中 国 人 」 に 対 し て は 「 満 洲 国 の 存 在 を 肯 定 、 是 認 し て い る 」 な ど の 憶 測 さ え さ さ や か れ た 。「 マ ン ジ ュ (満 洲 )」を 民 族 (部 族 )名 と 決 め た ホ ン タ イ ジ は 、満 洲 が こ の よ う な 意 味 で 使 わ れ る よ う に な る と は 、 ま っ た く 想 像 も し な か っ た で あ ろ う 。 戦 後 で は マ ン チ ュ リ ア に 相 当 す る 場 所 は 、 東 北 ア ジ ア 、 北 東 ア ジ ア と い う 名 称 で も 表 記 さ れ て い る 。菊 池 俊 彦 [2010、ⅲ -ⅳ 頁 ]は 、東 北 ア ジ ア と い う 名 称 は 日 露 戦 争 以 降 に お こ な わ れ た 満 洲 史 研 究 の イ メ ー ジ を 払 拭 す る た め に 用 い ら れ た も の だ と し 、 こ れ に 対 し て 北 東 ア ジ ア は 欧 米 の 諸 言 語 (英 語 で は Northeast Asia)に 由 来 し て お り 、 欧 米 の 学 問 的 影 響 が 強 か っ た 民 族 学 、 人 類 学 の 分 野 で 戦 後 に 用 い ら れ た と 説 明 し て い る 。 そ し て 、 東 北 ア ジ ア 、 北 東 ア ジ ア の 用 語 は 、 そ れ ぞ れ 歴 史 的 に 異 な っ た 背 景 か ら 用 い ら れ る よ う に な っ た の で 、 い ず れ に 統 一 す る か は 容 易 で は な い と 述 べ て い る 。 以 上 の 諸 見 解 を 検 討 し た 結 果 、 本 書 で は マ ン チ ュ リ ア と い う 表 記 を 地 名 と し て 使 う こ と に し た 。 4 . 矢 野 仁 一 の 「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は な い 」 と い う 見 解 に つ い て 満 洲 を 論 じ る に あ た っ て は 、 戦 前 に 矢 野 仁 一 が 主 張 し た 「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は な い 」 と い う 見 解 に つ い て 避 け る こ と は で き な い 。 矢 野 仁 一 (経 歴 、 研 究 業 績 は 第 2 章 第 1 節 を 参 照 )は 、 ま ず 中 国 の 国 境 は 西 欧 近 代 国 家 の 国 境 と は 異 な る こ と を 指 摘 す る 。「 近 代 の 国 家 、即 ち『 ナ シ ョ ナ ル・ス テ ー ト 』の 間 に 普 通 に 見 る 所 の 国 境 は 」、「 二 つ の 国 の 領 土 が 次 第 に 膨 張 し て 、 終 に 或 る 地 点 に 到 っ て 接 触 」 し た も の だ が 、 中 国 の 国 境 は 「 皇 帝 の 徳 治 」 が お よ ぶ 範 囲 だ と す る 。 そ し て 、 こ の よ う な 国

(16)

16 境 は 国 境 と み な す こ と は で き な い の で 、 中 国 に は 国 境 は 存 在 せ ず 、 国 境 が 存 在 し な い 国 家 と は「 真 の 国 家 」で は な い と 論 断 す る [矢 野 仁 一 1923]。こ う し た 主 張 を さ ら に 推 し 進 め る な ら ば 、 中 国 に は 国 境 線 は な い の だ か ら 、 満 洲 が 中 国 の 領 土 だ と い う 主 張 に も 根 拠 は な い と い う 見 解 が 出 て く る 。 ま た 、 矢 野 仁 一 は 満 洲 事 変 後 に 発 表 し た 論 説 の な か で 、 満 洲 は 満 洲 人 の 領 土 で あ り 、 満 洲 と 中 国 と は 別 物 だ と 主 張 し た 。 さ ら に 満 洲 に 漢 人 が 移 住 し た の は 19 世 紀 以 降 な の で 、満 洲 を 漢 人 固 有 の 領 土 と み な す こ と は で き な い 、と も 主 張 し て い る [矢 野 仁 一 1932]。 以 上 の 矢 野 の 見 解 は 、① 「中 国 無 国 境 説 」、②「 満 洲 と 中 国 は 別 物 説 」、③「 満 洲 は 漢 人 固 有 の 領 土 で は な い 説 」 と で も ま と め ら れ よ う 。 で は 、 こ れ ら に 適 切 な 論 拠 は あ る の か 、 な い の か 検 討 し て み た い 。 「 中 国 無 国 境 説 」 は 満 洲 国 の 建 国 を 正 当 化 す る 牽 強 付 会 と は 必 ず し も 言 え ず 、 中 華 王 朝 の 持 つ 特 徴 を つ い て い る 。 中 華 王 朝 の 支 配 領 域 に つ い て の 認 識 は 、 西 欧 近 代 国 家 の よ う な 国 家 主 権 の お よ ぶ 範 囲 の 排 他 的 支 配 な ど は 意 識 さ れ ず 、「 皇 帝 の 徳 治 」 が お よ ぶ 範 囲 、「 皇 帝 の 王 化 」 が お よ ぶ 領 域 と い う も の で あ っ た 。 そ れ ゆ え 国 境 線 が 不 明 確 で あ る と い う 矢 野 仁 一 の 指 摘 は 妥 当 な も の だ と い え る 。し か し な が ら 、「 皇 帝 の 徳 治 」、「 皇 帝 の 王 化 」の 範 囲 と い う 認 識 は 19 世 紀 後 半 以 降 、西 欧 と の 接 触 の な か 変 容 し 、中 国 で も 西 欧 近 代 国 家 的 な 国 境 認 識 、領 土 意 識 が 拡 大 し て い た 。矢 野 仁 一 は 19 世 紀 後 半 以 降 の 中 国 の 変 化 に は 言 及 せ ず 、 19 世 紀 後 半 以 前 の 状 況 を 基 準 に 、20 世 紀 の 状 況 を 解 釈 し た 点 が 問 題 だ と 主 張 し た い 。第 5 章 第 6 節 で 19 世 紀 後 半 に マ ン チ ュ リ ア で は 国 境 が 可 視 化 さ れ て い く 過 程 に つ い て 述 べ る が 、 あ る 地 域 の 状 況 を 固 定 的 に 理 解 す る 方 向 性 は 問 題 だ と 指 摘 し た い 。 19 世 紀 後 半 以 降 、 マ ン チ ュ リ ア は 以 前 と は 異 な る 状 況 と な り 、 こ れ ま で 認 識 さ れ て い な か っ た 国 境 の 可 視 化 に よ り 、「 皇 帝 の 徳 治 」 が お よ ぶ 範 囲 が 領 域 だ と い う 認 識 は 薄 れ て い っ た と 考 え る 。 次 に 「 満 洲 と 中 国 は 別 物 説 」 に つ い て 見 て み た い 。 矢 野 は 清 朝 発 祥 の 地 で あ る 満 洲 は 満 洲 人 し か 居 住 し て い な く 、 入 関 以 前 の 清 朝 は 満 洲 人 の み で 構 成 さ れ た 王 朝 の よ う に 理 解 し て い る 。だ が 、清 朝 は 満 洲 人 だ け を 構 成 員 に し た わ け で は な い 。1616 年 に 後 金 を 建 国 し た ヌ ル ハ チ は 、 建 国 以 前 か ら モ ン ゴ ル 人 や 漢 人 の 支 援 を 受 け て い た 。 こ の た め 、 清 朝 の 前 身 で あ る 後 金 は 満 洲 族 に よ る 単 一 政 権 で は な く 複 数 の 民 族 集 団 を 基 盤 に し て い た 。 ま た 清 朝 は 帝 国 で あ り 、 満 洲 人 の 民 族 国 家 な ど で は な か っ た 。 皇 帝 は 満 洲 人 に 限 ら れ た が 、 満 洲 人 の 民 族 的 利 害 を 第 一 に し た 王 朝 で は な か っ た 。 矢 野 仁 一 は 西 欧 近 代 国 家 を 基 準 に 中 華 王 朝 の 性 質 を 測 定 し て い る が 、 こ う し た 測 定 の 結 論 は 測 定 以 前 に 出 て お り 、 測 定 自 体 が 無 意 味 だ と 主 張 し た い 。 最 後 に 、「 満 洲 は 漢 人 固 有 の 領 土 で は な い 説 」に つ い て 考 え て み た い 。確 か に 矢 野 仁 一 が 主 張 す る よ う に 、満 洲 に 住 む 漢 人 が 増 え る の は 19 世 紀 後 半 以 降 で あ る 。漢 人 が 住 む よ う に な っ た 年 代 の 浅 さ を も っ て 、 矢 野 は 「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は な い 」 と 主 張 し て い る が 、 あ る 土 地 を 領 有 す る 際 の 根 拠 は 、 そ の 土 地 に 移 住 し た 古 さ に よ り 決 ま る の で あ ろ う か 。 一 つ の 民 族 が 一 つ の 場 所 に ず っ と 住 み 続 け て い る こ と は 、 世 界 史 的 に 見 る な ら ば 少 な い 。 た と え ば 、 中 央 ア ジ ア は イ ラ ン 系 や ト ル コ 系 の 民 族 が 興 亡 を 繰 り 返 し た 場 所 で あ り 、 現 在 で は カ ザ フ ス タ ン 、 キ ル ギ ス 、 中 華 人 民 共 和 国 な ど の 領 有 に な っ て い る 。 だ が 、 こ れ ら の 国 家 が 古 代 以 来 現 在 ま で 、 中 央 ア ジ ア を 領 有 し て い た と 主 張 す る の は 無 理 の よ う に 思 わ れ る 。

(17)

17 以 上 、や や 詳 し く 矢 野 仁 一 の 見 解 に 対 す る 反 論 を 展 開 し た が 、「 満 洲 は 歴 史 的 に 中 国 固 有 の 領 土 で あ る 」 と い う 見 解 に も 賛 同 し か ね る 。 た と え ば 岡 部 牧 夫 [2000]は 「 清 朝 も 東 北 を 実 行 支 配 し て お り 、 だ か ら こ そ 南 下 す る ロ シ ア も 、 日 清 戦 争 期 の 日 本 も 、 清 朝 を 相 手 に 条 約 を 締 結 し て 領 土 や 権 益 を 獲 得 し 、 そ の 枠 組 に 第 三 国 か ら 異 論 は な か っ た 。 こ れ は 国 際 社 会 で 、 東 北 が 中 国 固 有 の 領 土 と み と め ら れ た こ と を 意 味 す る の で は な い か 」 と 指 摘 し て い る 。 こ の 文 章 か ら 考 え る に 、 岡 部 牧 夫 は 清 朝 に よ る 満 洲 統 治 を 西 欧 国 家 の 統 治 と 同 様 の も の と 考 え て い る よ う に 思 わ れ る 。 ま た 国 際 社 会 が 「 固 有 の 領 土 」 と 認 め て い た こ と と 、 清 朝 自 身 が ど の よ う に 考 え て い た か は ま っ た く 別 の 事 柄 で あ る 。 当 時 の 国 際 社 会 の 主 流 を 構 成 し た 欧 米 列 強 は 、 自 分 た ち の 領 土 認 識 を 満 洲 に も あ て は め て 清 朝 と 条 約 を 締 結 し て い た の で あ り 、そ う し た 19 世 紀 後 半 の 状 況 を そ れ 以 前 に も 遡 及 し て 、満 洲 の 帰 属 を 論 じ る こ と は 無 意 味 だ と 主 張 し た い 。 矢 野 仁 一 と 岡 部 牧 夫 の 見 解 は 底 流 で は 同 じ で あ り 、 19 世 紀 後 半 に 生 じ て い た 国 境 認 識 、 領 域 認 識 の 変 化 を よ く 理 解 せ ず に「 満 洲 」の 帰 属 を 決 め て い る 。矢 野 仁 一 は 古 代 以 来 の「 皇 帝 の 徳 治 」 の 範 囲 だ と い う 認 識 を 19 世 紀 後 半 以 降 に も 延 長 し て 、「 満 洲 は 中 国 の 領 土 で は な い 」と し た 。岡 部 牧 夫 は 西 欧 近 代 国 家 の 領 土 認 識 を 19 世 紀 後 半 以 前 に も 遡 及 さ せ て 、「 満 洲 は 中 国 固 有 の 領 土 で あ る 」 と し た 。 本 論 文 で は 、 マ ン チ ュ リ ア を 固 定 的 に 捉 え る の で は な く 、 歴 史 的 過 程 を 歩 む 可 変 的 な 存 在 と し て 考 え て い る 。 そ れ ゆ え 、「 中 国 の 領 土 で あ っ た の か 」、 は た ま た 「 中 国 の 領 土 で は な か っ た の か 」 と い う 観 点 か ら で は な く 、 そ の 歴 史 的 過 程 に そ く し た 観 点 か ら マ ン チ ュ リ ア の 特 質 に つ い て 究 明 す る 。 参 考 文 献 日 本 語 池 上 二 良 1987「 ア ム ー ル 川 下 流 地 方 と 松 花 江 地 方 - 『 満 州 』 の 語 源 に ふ れ て - 」『 東 方 学 論 集 東 方 学 会 創 立 四 十 周 年 紀 念 』 東 方 学 会 pp.45-55 石 橋 秀 雄 1995「 清 朝 入 関 後 の マ ン ジ ュ (Manju)満 洲 の 呼 称 め ぐ っ て 」『 清 代 中 国 の 諸 問 題 』 山 川 出 版 社 pp.19-36 市 村 瓚 次 郎 1909「 清 朝 国 号 考 」『 東 洋 協 会 調 査 部 学 術 報 告 』 1 pp.129-158 稲 葉 岩 吉 1915『 満 洲 発 達 史 』 大 阪 屋 号 出 版 社 848p 1934「 満 洲 国 号 の 由 来 」『 朝 鮮 』 227 pp.91-102 → 『 増 訂 満 洲 発 達 史 』 日 本 評 論 社 、 1935 pp.563-574 今 西 春 秋 1961「 MANJU 国 考 」『 塚 本 博 士 頌 寿 記 念 仏 教 史 学 論 集 』 pp.63-78 岡 田 英 弘 2008「 満 洲 の 語 源 - 文 殊 師 利 で は な い 」『 別 冊 環 16 清 朝 と は 何 か 』藤 原 書 店 pp.126-127

(18)

18 岡 部 牧 夫 2000「 塚 瀬 進 『 満 洲 国 民 族 協 和 の 実 像 』 の 書 評 」『 ア ジ ア 経 済 』 41-3 pp.77-80 神 田 信 夫 1972「 満 洲 ( Manju) 国 号 考 」『 山 本 博 士 還 暦 記 念 東 洋 史 論 叢 』 山 川 出 版 社 pp.155-166 → 『 清 朝 史 論 考 』 山 川 出 版 社 、 2005 pp.22-33 菊 池 俊 彦 2010「 は じ め に 」『 北 東 ア ジ ア の 歴 史 と 文 化 』 北 海 道 大 学 出 版 会 、 2010 pp.ⅰ -ⅸ 敦 冰 河 2001「 清 初 国 家 意 識 の 形 成 と 転 換 - ア イ シ ン 国 か ら 大 清 国 へ - 」『 東 洋 学 報 』 83-1、 2001 pp.27-52 内 藤 湖 南 「 日 本 満 洲 交 通 略 説 (1907 年 の 講 演 録 )」『 東 洋 文 化 史 研 究 』 → 『 内 藤 湖 南 全 集 』 8 、 筑 摩 書 房 、 1969 pp.194-247。 中 見 立 夫 1993「 地 域 概 念 の 政 治 性 」『 ア ジ ア か ら 考 え る 1 交 錯 す る ア ジ ア 』 東 京 大 学 出 版 会 pp.273-295 2002「『 地 域 』『 民 族 』と い う 万 華 鏡 、『 周 辺 』『 辺 境 』と 呼 ば れ た 仮 想 空 間 」中 見 立 夫 編『 境 界 を 超 え て 東 ア ジ ア の 周 辺 か ら 』 ア ジ ア 理 解 講 座 1 、 山 川 出 版 社 pp.3-33 平 野 聡 2007『 大 清 帝 国 と 中 華 の 混 迷 興 亡 の 世 界 史 17』 講 談 社 374p 古 市 大 輔 2012「『 清 実 録 』 の な か の 「 東 三 省 」 の 語 と そ の 用 例 ・ 用 法 - 18 世 紀 清 朝 の 対 マ ン チ ュ リ ア 認 識 と の 関 わ り に も 触 れ な が ら - 」『 金 沢 大 学 言 語 文 化 学 系 論 集 史 学・考 古 学 篇 』4 pp.1-58 松 浦 茂 2009「 文 化 5 ・ 6 年 松 田 ・ 間 宮 の 北 辺 調 査 」『 ア ジ ア 史 学 論 集 』 2 pp.1-18 1995『 清 の 太 祖 ヌ ル ハ チ 』 白 帝 社 299p 三 田 村 泰 助 1936「 満 珠 国 成 立 過 程 の 一 考 察 」『 東 洋 史 研 究 』 2-2 pp.117-135 → 『 清 朝 前 史 の 研 究 』 同 朋 舎 、 1965 pp.467-492 矢 野 仁 一 1923「 支 那 無 国 境 論 」『 近 代 支 那 論 』 弘 文 堂 書 房 pp.1-8 1932「 満 洲 国 の 建 国 と そ の 使 命 」『 外 交 時 報 』 656 pp.249-259 1941『 満 洲 近 代 史 』 弘 文 堂 520p 参 考 文 献 中 国 語 烏 拉 康 春 1990「 従 語 言 論 證 女 真 、 満 洲 之 族 称 」『 満 族 文 化 』 14 pp.55-61

(19)

19 王 昊 1996 張 甫 白 「 “ 満 洲 ” 名 称 考 釈 」『 史 学 集 刊 』 3 pp.29-34 王 俊 中 1997「『 満 洲 』 与 『 文 殊 』 的 淵 源 及 西 蔵 政 教 思 想 中 的 領 袖 与 佛 菩 薩 」『 中 央 研 究 院 近 代 史 研 究 所 集 刊 』 28 pp.89-132 王 鍾 翰 2004「 談 談 満 洲 名 称 問 題 」『 王 鍾 翰 清 史 論 集 』 1 pp.11-16 王 鉄 崖 1957『 中 外 旧 約 章 彙 編 』 1 、 生 活 ・ 読 書 ・ 新 知 三 聯 書 店 1046p 邸 永 君 2005「 関 于 漢 語 “ 満 洲 ” 一 詞 之 由 来 」『 満 語 研 究 』 1 pp.87-90 黄 彰 健 1967「 満 洲 国 国 号 考 」『 歴 史 語 言 研 究 所 集 刊 』 37 下 pp.459-474 → 存 萃 学 社 編 『 清 史 論 叢 』 第 一 集 、 大 東 図 書 公 司 、 1977 pp.1-15 → 『 明 清 史 研 究 叢 稿 』 台 湾 商 務 印 書 館 、 1977 pp.532-551 長 山 2009「 族 称 manju 詞 源 探 析 」『 満 語 研 究 』 1 pp.13-16 張 璇 如 2009「 関 于 “ 満 洲 ” 族 称 的 幾 個 問 題 」『 東 北 辺 疆 歴 史 与 文 化 研 究 』 吉 林 人 民 出 版 社 pp.274-285 陳 捷 先 1963「 説 満 洲 」『 満 洲 叢 考 』 台 湾 大 学 文 学 院 pp.1-24 陳 鵬 2011「 “ 満 洲 ” 名 称 述 考 」『 民 族 研 究 』 3 pp.95-103 滕 紹 箴 1981「 試 談 “ 満 洲 ” 一 辞 的 源 流 」『 学 習 与 探 索 』 3 pp.141-144 → 『 東 北 歴 史 地 理 論 著 匯 編 』 1 、 吉 林 人 民 出 版 社 、 1987 pp.54-58 1995「 満 洲 満 族 名 称 辨 析 (上 、 下 )」『 満 族 研 究 』 3 、 4 pp.45-53、 pp.47-54 1996「 “ 満 洲 ” 名 称 考 述 」『 民 族 研 究 』 4 pp.70-77 馮 家 昇 1933「 満 洲 名 称 之 種 種 推 測 」『 東 方 雑 誌 』 30-17 pp.61-74 孟 森 1930「 満 洲 名 称 考 」『 清 朝 前 紀 』 商 務 印 書 館 (中 華 書 局 、 2008 復 刻 pp.1-5) 1986「 満 洲 名 義 考 」『 明 清 史 論 著 集 刊 続 編 』 中 華 書 局 pp.1-3 姚 斌 1990「 李 満 住 与 満 族 族 名 」『 満 族 研 究 』 3 pp.14-17 劉 厚 生 2007「 関 于 満 族 族 称 的 再 思 考 」『 東 北 史 地 』 1 pp.26-28

(20)

20 Giovanni Stary Venezia

1988「 満 洲 旧 名 新 釈 」『 中 央 民 族 学 院 学 報 』 6 pp.17-18

1990“ The Meaning of the Word Manchu.A New Solution to an Ol d Problem ”

参照

関連したドキュメント

[r]

BIGIグループ 株式会社ビームス BEAMS 株式会社アダストリア 株式会社ユナイテッドアローズ JUNグループ 株式会社シップス

東京 2020 大会閉幕後も、自らの人格形成を促し、国際社会や地

三洋電機株式会社 住友電気工業株式会社 ソニー株式会社 株式会社東芝 日本電気株式会社 パナソニック株式会社 株式会社日立製作所

1951 1953 1954 1954 1955年頃 1957 1957 1959 1960 1961 1964 1965 1966 1967 1967 1969 1970 1973年頃 1973 1978 1979 1981 1983 1985年頃 1986 1986 1993年頃 1993年頃 1994 1996 1997

今年度第3期最終年である合志市地域福祉計画・活動計画の方針に基づき、地域共生社会の実現、及び

地域の RECO 環境循環システム.. 小松電子株式会社

東電不動産株式会社 東京都台東区 株式会社テプコシステムズ 東京都江東区 東京パワーテクノロジー株式会社 東京都江東区