学位論文の内容の要旨
論 文 提 出 者 氏 名 山本 篤
論 文 審 査 担 当 者 主 査 清水 重臣
副 査 仁科 博史、金井 正美
論 文 題 目 Fertilization-induced autophagy in mouse embryos is independent of mTORC1 (論文内容の要旨) <要旨> オートファジーは栄養不良時の栄養供給や細胞質の品質管理を担う進化的に保存された細胞質 の分解経路である。我々は未受精卵で抑制されているオートファジーが、受精後速やかに誘導さ れることを以前に報告した。この時期に起こるオートファジーの役割は、卵細胞質に蓄積した母 性タンパク質を一度に大量に分解し、卵性から胚性への移行を効率的に促進して、同時に胚発生 に必要なアミノ酸を得るためと考えられる。しかし受精後のオートファジー誘導機構については 不明である。一方、一般培養細胞ではオートファジーがアミノ酸、インスリン、その他成長因子 などを上流制御因子としてmammalian target of rapamycin complex 1 (mTORC1)によって抑 制的に制御される事が知られている。本研究では受精誘導型のオートファジーにmTORC1 が果 たす役割について解析を行った。mTORC1 の基質のリン酸化状態を解析した結果、第 2 減数分 裂中期の卵母細胞(MII 卵)では高く保たれた mTORC1 活性が、受精後 3 時間以内に急激に低下 することが明らかとなった。しかしMII 卵や胚を mTORC1 阻害剤の Torin1 や PP242 で処理し てもオートファジーは誘導できなかった。また胚をmTORC1 の活性化剤である
cycloheximide(CHX)で処理してもオートファジーを抑制できなかった。一方、
phosphatidylinositol 3 キナーゼ(PI3K)の阻害剤である wortmannin や LY294002 はオートファ ジーを効果的に抑制する事が分かった。以上の結果からmTORC1 の活性とオートファジーの誘 導状況は他の種類の細胞と同様で逆相関していたが、mTORC1 の抑制は受精誘導型オートファ ジーを誘導するには必要十分な条件ではないと考えられた。今回の結果は受精の刺激により誘導 されるオートファジーを介した細胞質のダイナミックな分解機構には初期胚固有の制御機構が備 わっている事を示唆するものである。 <緒言> マクロオートファジー(以下オートファジー)は、細胞内成分をオートファゴソームと呼ばれる 脂質2 重膜で包み込み、リソソームへと運ぶダイナミックな細胞内分解機構の一つである。オー トファジーは飢餓、細胞質内の品質管理、病原体の除去など様々な生理機能において重要な働き を担っている。以前に我々のグループは、受精前は低く保たれているオートファジー活性が受精
- 2 - 後4 時間以内に活性化される事を報告した。更に、オートファゴソーム形成に必須の遺伝子であ るAtg5 を卵特異的にノックアウトすると 4-8 細胞期で発生が停止し、オートファジーはマウス 胚の着床前初期発生に必須である事を明らかにした。受精後のオートファジーの役割は、着床前 までに母性由来の細胞内タンパク質をアミノ酸レベルまで分解し、胚発生に必要な材料を供給す るため、と考えられている。 mTORC1 はタンパク複合体で、アミノ酸やインスリン、その他の成長因子により活性化され る。mTORC1 は蛋白翻訳、細胞の成長・分化、代謝などの様々な生理機能を p70 S6kinase(S6K) やeukaryotic translation initiation factor(eIF)- 4E binding protein 1(4E-BP1)やオートファジ ー誘導制御の最上流に位置するunc-51-like kinase1(ULK1)複合体、その他の基質をリン酸化す ることにより制御しており、オートファジーに関してはmTORC1 は抑制的に機能している。以 前に我々は、MII 卵では mTORC1 の活性は高いが受精に伴い低下することを報告した。この事 実から受精に伴うmTORC1 の抑制がオートファジーを誘導したと考えられてきたが、実際には その関係性は不明であり、今回我々はmTORC1 活性とオートファジー誘導の相関関係について 研究を行った。 <方法>
8 から 12 週齢の C57BL/6(B6)雌マウスを pregnant mare serum gonadotropin(PMSG)と hCG 投与下に過排卵させ、卵管膨大部より卵を回収した。回収した卵は B6 雄マウス精子を用い て体外受精を行った。また一部はストロンチウムを含んだ培地下で単為発生させ、2 個の前核を 認めたものを受精刺激のタイミングを同期させた胚として回収した。
・オートファジーのモニター:オートファゴソーム膜上に局在するmicrotubule-associated protein 1 light chain 3 alpha(LC3)を green fluorescent protein(GFP)と融合させた GFP-LC3 トランスジェニック(オートファジーモニター)マウスの卵を上述の手法で回収し、各薬剤投 与下に培養し、オートファジーの誘導状況について蛍光顕微鏡下に観察を行った。
・Western Blot Analysis:卵や胚のサンプルは 100 または 200 個の同数ずつを薬剤処理し、 Western blot 解析を行った。mTORC1 の活性の指標として、代表的な基質である S6K と 4E-BP1 のリン酸化状態をそれぞれの抗体を用いて解析した。
・mTORC1 の活性化剤として cycloheximide(CHX)を、抑制剤として Torin1 と PP242 を用 いた。Class III PI3K の阻害剤として、wortmannin と LY294002 を用いた。
事前調査から薬剤濃度は一般的な培養細胞の10 から 100 倍の濃さとし、培養時間は 1 または 3 時間とした。
<結果>
1. 受精後のオートファジー誘導は mTORC1 の活性と逆相関関係にある
胚の初期発生におけるmTORC1 の活性を理解するために、mTORC1 の基質である S6K と 4E-BP1 のリン酸化状態を調べた。受精前の MII 卵では S6K も 4E-BP1 も高度にリン酸化され ていた。(図:1A)しかし受精後 3 時間目には、S6K が顕著に脱リン酸化され 4E-BP1 も軽度に 脱リン酸化されていた。オートファジーのモニターマウス卵では、受精後3 時間目になるとわず
かにGFP-LC3 のドットの形成が観察された。(図:1B)受精後 6 時間目になると、S6K も 4E-BP1 も明らかに脱リン酸化されオートファジーも高度に誘導された。これらのタンパクは2 細胞期胚 の中期には再びリン酸化を受け、オートファジーの誘導状況の低下を認めた。このように GFP-LC3 ドットの出現は S6K や 4E-BP1 の脱リン酸化と一致しており、きれいな逆相関状態に あった。 2. Torin1 で mTORC1 活性を阻害しても、卵や胚でオートファジーを起こせない 上述の結果から、mTORC1 が受精誘導型オートファジーを負に制御していることが考えられ た為、人工的にmTORC1 活性を抑制しオートファジーを誘導できるかを調べる実験を行った。 mTOR の活性を ATP 競合性に阻害する作用を持つ Torin1 か PP242 で MII 卵を処理をすると、 S6K と 4E-BP1 は受精後 3 時間目の胚よりも高度に脱リン酸化された。(図:2A)しかし GFP-LC3 のドット形成は一切認めなかった。(図:2B)このように mTORC1 の阻害は MII 卵でオートフ ァジーを誘導するには十分な条件でない事が分かった。未受精卵ではmTORC1 の抑制シグナル をマスクするような未知のオートファジー抑制因子が存在している可能性が考えられたので、受 精後の胚においてTorin1 がオートファジー誘導を増強させられるか検討した。受精刺激の開始時 間を厳密にするために、体外受精ではなく単為発生刺激を行い、事前にTorin1 を処理した群と、 単為発生刺激後に処理した群について観察を行った。S6K と 4E-BP1 は Torin1 依存性に脱リン 酸化されていた。(図:2C b,c 列) しかしながら、Torin1 を処理した胚ではむしろ GFP-LC3 の ドットは小さくなっていた。(図:2D、2E) Torin1 をより高濃度、長時間作用させてもオートフ ァジー誘導への影響は現れなかった。(データ掲載なし) これらの結果から mTORC1 の抑制は卵 でも胚でもオートファジーを誘導する十分条件にあたらない事が分かった。 3. CHX による mTORC1 の活性化は胚のオートファジーを抑制できない 次にmTORC1 の再活性化で胚のオートファジーを抑制できるかについて検討した。CHX はタ ンパク合成を阻害して様々な細胞内の反応系に影響を及ぼすが、mTORC1 を効果的に活性化す る。受精3 時間後の胚を CHX 存在下に 3 時間培養したところ、S6K と 4E-BP1 は未受精卵の状 態と同程度までリン酸化を受けていた。(図:3A) しかし、GFP-LC3 のドット数の減少は認め なかった。(図:3B) これらの結果を総合すると、mTORC1 の活性状態は受精誘導型オートファジーに関与しない と考えられた。 4. PI3K は受精誘導型オートファジーに必須である これまでの結果から初期胚には固有のオートファジー誘導機構が存在している可能性が考えら れた。典型的なオートファジー誘導経路では、mTORC1 の活性が低下するとその基質である ULK1 複合体が Beclin1 や Atg14L、vacuolar protein-sorting(Vps)15, Vps34 からなるオートフ ァジー固有のclass III PI3K を誘導する。PI3K の活性化はオートファゴソームの形成に必須で ある。これをふまえ、初期胚においてもPI3K の活性化が必要かどうか調査した。受精 3 時間後 のGFP-LC3 胚を PI3K 阻害剤である wortmannin と LY294002 存在下で 1 時間培養した。する と、GFP-LC3 のドットは完全に消失した。(図:4)
以上の結果から受精誘導型オートファジーはmTORC1 の活性には依存しないが、PI3K は必要 と考えられた。また、PI3K 阻害剤の効果が極めて短時間であったことから、オートファゴソー
- 4 - ムの合成・消失速度は極めて早いと考えられ、初期胚ではオートファジー活性が高いことを裏付 けるものと考えられた。 <考察> 排卵後より高く保たれたmTORC1 の活性が受精直後の極めて短時間に低下し、約 20 時間継続 することが分かった。受精後のmTORC1 の抑制機構は未だ解明されていない。この mTORC1 の抑制状況とオートファジーの活性化状態に相関性があるようにみえたものの、mTORC1 を抑 制したらオートファジーが誘導できた、という直接の相関性を示すデータは得られなかった。 mTORC1 はオートファジー制御の中心的な役割を果たしているが、mTORC1 に依存しない経路 も提唱されている。その一つがadenosine monophosphate-activated protein kinase(AMPK)で ある。AMPK は mTORC1 の上流因子である tuberous sclerosis complex 2 (TSC2)にも作用する が、直接ULK1 に作用しオートファジーを誘導する。しかしながら AMPK の活性化剤である phenformin は MII 卵でオートファジーを誘導しなかった。(データ掲載なし) 一方で、ULK1 の下流因子であるPI3K 複合体も、Bcl-2 や JNK-1、inositol triphosphate 受容体等の
mTORC1-ULK 活性を経由しない因子により制御されている。受精誘導型オートファジーが PI3K 阻害剤により効果的に抑制されたことから、オートファジー誘導制御のより下流では典型 的な経路と共通の機構を利用している事を示した。 オートファジーには細胞質の品質管理を担うという役割もあり、卵におけるオートファジー誘 導メカニズムの解明は、現代社会が直面する加齢に伴う不妊症例の治療法として新たな突破口と なる可能性を秘めている。 <結論> 受精誘導型オートファジーとmTORC1 の活性の相関関係を調査した。mTORC1 活性制御の薬 剤下でもオートファジーの誘導・抑制は出来ず、受精後におこるオートファジーの制御は mTORC1 の活性に依存していない事が分かった。
論文審査の要旨および担当者
報 告 番 号 甲 第 4722 号 山本 篤 論文審査担当者 主 査 清水 重臣 副 査 仁科 博史、金井 正美 (論文審査の要旨) 1.論文内容 本論文は、受精後に卵で活性化されるオートファジーに、mTorc1 が関与していないことを示し た論文である。 2.論文審査 1)研究目的の先駆性・独創性 オートファジーは、受精後の胚発生に必要であることが知られているが、どのようなメカニ ズムでオートファジーが誘導するかは解明されていない。このような背景の下、申請者は、オ ートファジーのマスターレギュレーターであるmTorc1の関与を詳細に解析しており、その着眼 点は評価に値するものである。 2)社会的意義 本研究で申請者が発見した主な結果は以下の通りである。 1.受精後に、mTorc1の活性は一過性に低下し、再活性化すること。 2. mTorc1の阻害剤や活性化薬剤を投与しても、受精卵のオートファジーの多寡は変動しない こと。 3.一方、PI3kinaseは、受精卵のオートファジーを制御していること。 以上のように申請者は、受精卵のオートファジーにはmTorc1は関与せず、PI3kinaseが関与し ていることを明らかにしている。これは、受精卵のバイオロジーを知る上で、有用な研究成果 である。 3)研究方法・倫理観 研究では、受精卵のオートファジーにおけるmTorc1の関与を明らかにするために,mTorc1制 御化合物を使用しているが、当該薬剤の投与時期を、受精前、受精後など様々に変化させるこ とにより、mTorc1の関与のないことを丁寧に検討している。本研究は十分な分子生物学的知識 と発生工学技術の裏付けのもとに遂行されており、申請者の研究方法に対する知識と技術力が 十分に高いことが示されると同時に、本研究が極めて周到な準備の上に行われてきたことが窺 われる。 4)考察・今後の発展性 申請者は、本研究結果について、オートファジー誘導の原因としてもっとも蓋然性の高い mTorc1の関与が、受精卵においてみられなかったことより、受精卵のオートファジーは通常の( 2 ) 細胞で見られるオートファジーとは一線を画しているのではないかと考察している。これは、 得られた結果を鑑みて極めて妥当な考察である。また、良質な卵の選別にオートファジー活性 が応用できる可能性を考察しており、臨床面からも意義ある研究である。 3.審査結果 以上を踏まえ、本論文は博士(医学)の学位を申請するのに十分な価値があるものと認められ た。