著者
嶋崎 順子
雑誌名
東北ドイツ文学研究
巻
54
ページ
37-52
発行年
2012-09-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127126
──『美学入門』第 9 プログラム「機知について」を中心に──
嶋﨑 順子
1. 1803 年に『巨人』第 4 巻を出版し,10 年の歳月を費やしたこの大作を完結させ たジャン・パウルは,かねてから準備を進めていた美学および文学に関する理論的 著作の執筆計画を実現に移すことを考え始める。そして同じ年の 10 月 31 日,『生 意気盛り』を第 3 巻まで書き終えたところでこれを中断して,理論書の執筆に着手 する。同書は『美学入門』と題されて,1804 年秋に出版された。同時期に世に出た 二つの長編小説が,作者の意気込みとは裏腹に,芳しい評判を得られず,商業的に は完全な失敗作だったのとは対照的に『美学入門』は読者から概ね好評をもって迎 えられ,1813 年には第 2 版が出版された1)。 『美学入門』は 3 部から構成されている。主要部である第 1 部・第 2 部は理論書 という性格にふさわしく,15 章 86 節からなる論文形式を取っており,「章」という 語の代わりに「プログラム」という名称が用いられている。一方,第 3 部は,主要 部にたいするいわば付録であり,作者がライプツィヒの書籍市で行った三つの講演 という体裁を持ち,物語作者である著者の面目躍如たる喜劇的読み物になっている が,その三回目の講演の最後は,ジャン・パウルがこの作品の執筆に取り組んでい るさなかの 1803 年 12 月 18 日に死去した,敬愛する師であり友人でもあったヘル ダーに捧げられた美しい追悼の辞で結ばれている。 ジャン・パウルを理論的著作の執筆に向かわせた最大の動機は,同時代の文学的 傾向,とりわけフリードリヒ・シュレーゲルを中心とするロマン主義者たちとの対 決であった。内面の文学,主観主義文学の代表格として,ロマン主義の先駆者とも 本論は,2011 年 10 月 29 日に東北ドイツ文学会第 54 回研究発表会において口頭発表 した原稿に加筆修正を加えたものである。1) 『美学入門』の成立史については,Jean Pauls Sämtliche Werke. Historisch=kritische Ausgabe. 1. Abt., 11. Bd., Weimar 1935 の Eduard Berend による序文を参照。
見なされるジャン・パウルは,この若い世代の文学者たちを高く評価する一方で, その危うさを危惧していた。『美学入門』におけるジャン・パウルの狙いは,ロマ ン主義を中心とする同時代の文学的党派にたいする批判を通じて,自分の文学的立 場を表明することにあったのである。 ジャン・パウルは『美学入門』第 2 部第 9 プログラムを比喩の考察に当てている。 ジャン・パウルの文体を特徴づける比喩の過剰は,現代の読者と同様,当時の読者 にとっても彼の作品を読む上での最大の障碍であり,多くの批評家から激しい批判 を浴びつづけた。ジャン・パウルはこの章において,そうした批判にたいして弁明 するとともに比喩の意義を主張している。本稿は,この第 9 プログラムを中心に, 比喩を生みだす背景となる,ジャン・パウルの言語にたいする考え方を探ることを 目的とする。その際に問題となるのは,ジャン・パウルのなかには相対立し矛盾す る二つの言語観が見られるということ,すなわち,「意味するもの(記号としての 言葉)」と「意味されるもの(内実)」,ジャン・パウルの言葉にしたがえば,„Körper“ ま たは „Leib“ と,„Geist“ または „Seele“ とは有機的に結合しているという立場とそ うではないという立場が,どちらか一方に統合されることなく並存しているように 見えるということである。 比喩論である第 9 プログラムは「機知について」と題されている。比喩を意味す る語として,ジャン・パウルは他の作品においても,また『美学入門』においても, „Bild“,„Metapher“,„Gleichnis“ などの語を用いているが,第 9 プログラムでは一 貫してこの「機知 Witz」が比喩全般を表す語として用いられている。ジャン・パウ ルがこの語を選んだ理由は何か。それを明らかにするために,まずこの「機知」と いう語の歴史2)について概観する。 2. 動詞 „wissen“ から派生した „Witz“ は 17 世紀まで,人間の精神活動一般を意味 し,„Vernunft“, „Verstand“, „Klugheit“, „List“ などと同義であった3)。この元来の意味 は,現代でも,„Mutterwitz“(生まれつきの才知)や „Aberwitz“(妄想,無知)と いう語に見て取れる。ところが,18 世紀に入るとフランス語の „esprit“ や英語の „wit“ の影響を受けて,„Witz“ は大きな意味的発展を遂げることになった。 „esprit“ ならびに „wit“ はラテン語の „ingenium“ を取り入れて発展してきた。 „ingenium“ は本来,人間の精神能力全体を包括し,識別力や認識能力を意味する一
2) „Witz“ の語史については,次の文献に依拠している。Deutsches Wörterbuch von Jakob und Wilhelm Grimm. Bd. 30, Sp. 861-887; Böckmann, Paul: Das Formprinzip des Witzes in der Frühzeit der deutschen Aufklärung. In: Jahrbuch des Freien Deutschen Hochstifts Frankfurt am Main. 1932/33, S. 52-130; Wiethölter, Waltraud: Witzige Illumination. Studien zur Ästhetik Jean Pauls. Tübingen 1979.
方,発明力や空想を意味し,コミュニケーションのための生来の,知的かつ感覚的 才能とされた。弁論者の着想の豊かさ,機転,弁論の形式上の見事さなどを表す „ingenium“ は古典修辞学において鍵となる概念の一つであり,天賦の才であると同 時に修辞学的技術として伝授・習得が可能とされた。この伝統を受け継いだ „esprit“ は,17 世紀のフランスにおいては,宮廷人・貴族を特徴づける都会的な物 腰を指し,教育と教養に基づき,修辞学上の技能・文学様式だけではなく,広く生 活形式のしるしであった。 時代がバロックから啓蒙主義へ移り変わるなかで,哲学者トマジウス(1655-1728) は,新しい時代にふさわしい人間の理想像をフランスに求め,フランス人の模倣を 積極的に薦めた。その際に彼が,フランス人自身によって他の国民に抜きんでた美 質と見なされているものの一つとして挙げたのが „bel esprit“ であった。トマジウ ス本人はこれに „schöner Geist“ あるいは „schöner Verstand“ というドイツ語を当て ているが,イギリス人を母に持つ詩人のクリスティアン・ヴェルニケ(Christian Wernicke, 1661-1725)は,おそらく英語の „wit“ に影響を受け,すでに „esprit“ を „Witz“ と 訳しており,18 世紀になると „Witz“ が他の語を排して „esprit“ の訳語として定着 することになった。 こうしてまず社交の領域に導入された „Witz“ は,次第に美学的領域においても 重要性を持つようになり,合理性を重視する啓蒙主義に,バロック文学に代わる新 しい文学形式の可能性を開くことになる。この過程において決定的な役割を果たし たのが,哲学者クリスティアン・ヴォルフ(1679-1754)の言語と想像力について の見解である。ライプニッツの思想を受け継いだヴォルフは,言葉の本質を明白な 概念の伝達にあるとし,言葉を「悟性の鏡」と呼んだライプニッツと同様に,バロッ クの修辞性を否定するだけでなく,感情や内面と言葉との関わりをも考慮から外し た。ヴォルフの言語観においては,言葉は概念を表す恣意的な記号と見なされ,数 学に等しいものとされた。明白な認識をもたらさないという点で,想像力もまたヴォ ルフにおいては下位の能力として位置づけられる。あり得ないことを想像すること は,「空虚な空想」として退けられ,想像力はただ真理との関連においてのみ是認 された。「したがって自然の真理,同時に美へと向けられているような自然の真理 が想像の産物のための尺度とされた結果,『美しい自然』が芸術の目的として要請 され,それによって想像力の自由な創造行為は制限される。」4)言葉と想像力にたい してこのような制限が加えられるなかで,文学に唯一可能になった領域が „Witz“ で あった。ヴォルフは „Witz“ を「類似性を発見する敏捷さこそ,本来,われわれが 機知と呼ぶものである」5)と定義し,さらに「類似性を知覚する敏捷さが機知である からには,機知は,明敏さ(Scharfsinnigkeit)と優れた想像力と記憶から生じるこ 4) Böckmann, S. 79.
5) Wolff, Christian: Vernünftige Gedanken von Gott, der Welt und der Seele des Menschen, 1719, zit. aus Böckmann, S. 79.
とは明らかである」6)と述べ,機知の持つ創造性が想像力と明敏(Scharfsinn)との 結合にあると論ずることによって,„Witz“ が啓蒙主義文学の構成原理へと発展する 道を準備した。バロックの言語芸術が装飾性を重視し,修辞の優位を特徴としてい たのにたいし,新しい言語芸術の規範となったのは,美しい自然の模倣に基づく「空 想に富む明敏」としての „Witz“ であり7),18 世紀末に最終的に「天才概念」に取っ て代わられるまで,„Witz“ は文学を構成する主導的役割を担うことになる。 3. 『美学入門』第 9 プログラムは第 42 節から第 55 節までを含み,まず冒頭の二つ の節でジャン・パウル自身による機知の定義が提示されたあと,第 44 節から第 48 節までが悟性による「比喩的でない機知 der unbildliche Witz」についての考察,第 49 節から第 51 節までが空想による「比喩的な機知 der bildliche Witz」についての 考察,第 52 節に言葉遊びについての考察をはさんで,第 53 節から第 55 節までは, ジャン・パウルの比喩を多用する文体についての自己弁明に当てられている。まさ に機知に富んだ筆致を用いて機知の悟性的な側面の解説に論述の多くが費やされて いるなかで,「比喩的な機知」を論じた第 49 節および第 50 節の冒頭は,第 9 プロ グラム全体の流れから,いわばそこだけ浮き上がっているように見える。第 49 節 の冒頭を引用する。 比喩的でない機知において,悟性が有力に関与するように,比喩的な機知にお いては,空想が有力に関与する。速度と言葉による惑わしが,比喩的でない機 知を助け,他の全く別種な魔力が,比喩的な機知を助ける。肉体と精神といっ た,二つの,きわめて疎遠なものを,炎で一つの生命に溶かしたその同じ未知 の威力が,終わりもなく,移り目もなしに,鈍重な物質から精神の軽やかな火 を,音から思想を,顔の局部や目鼻だちから精神の力と動きを,そしてこのよ うに至るところで,外面的運動から内面の動きを解き放つよう,われわれに余 儀なくさせることによって,われわれの外界および内部で,この純化・混合作 用をくりかえす。/われわれの肉体の内部が,われわれの精神の奥底の最も内 部のもの,すなわち,怒りや愛情を映し,またいろいろの煩悩が,いろいろの 病気となるように,肉体上の外的なものは精神上の外的なものを反映する。肯 定の意を示すのに頭を振る民族はいない。あらゆる民族のメタファー(この, 自然が言語へと化身したもの)は互いに類似している。そしてどの民族も誤謬 を光とは,真理を闇とは呼ばない。絶対的な記号が存在しないように,という のはどの記号も一つの「物」だからであるが,有限なるものの内には,絶対的
6) Wolff, zit. aus Böckmann, S. 80. 7) Böckmann, S. 82.
な「物」が存在するわけではなく,どの物も意味ししるしづける。「物」は人 間においては神の似姿を意味ししるしづけているように,自然においては人間 の似姿を意味ししるしづけている。人間はここで霊の島に住んでいるのであり, 生命を持たないもの,無意味なものは何一つ存在しない。姿を持たない声,声 を持たない姿はともに島を構成しているのであり,われわれはおぼろげに感得 しなければならない。というのはあらゆるものが霊の島のかなたを示し,見知 らぬ大海の方を指さしているからである。(Bd.5, S.182 f.)8) 「比喩的な機知」とは「像(イメージ)を生みだす機知」9)であり,これまで一貫し て「機知」という語を用いてきたジャン・パウルは,上で挙げた引用の後半部では じめて,「比喩的な機知」の言い換えとして「メタファー」という語を使用し,さ らにこの節の末尾では,メタファーをキリスト教の比喩を用いて「精神の聖餐の化 体 Brotverwandlungen des Geistes」(Bd. 5, S. 184)と呼んでいる10)。このとき,「比喩 的な機知」において類似関係で結ばれるのは,「通約できない(相応しない)大き さ同士」つまり,「物質世界と精神世界(たとえば太陽と真理)」ないしは「自己と 外部」であり,両者のあいだの関係は「直覚される」。(Bd. 5, S. 172)続く第 50 節 の冒頭では,ジャン・パウルは「人間が,まだ世界と一つの幹に接ぎ木されて花を 咲かしていた自然状態」(Bd. 5, S. 184)である原初の状態を想定し,幼い子供にお いては字義的な意味と比喩的な意味の区別がないように,この状態においては「比 喩が関係を表示して対象を表示しなかったかぎりにおいて,比喩は早期の言語だっ
8) ジャン・パウルからの引用は次の版に拠り,巻数と頁数のみを示す。Jean Paul: Sämtliche Werke in 10 Bänden. Hrsg. v. Norbert Miller. München 1960-1985. なお,『美学入門』から の引用の訳出に際しては,古見日嘉訳『美学入門』,白水社,第 5 刷 1986 年(第 1 刷 1965 年)を参考にした。
9) Kurt Wölfel: »Ein Echo, das sich selber in das Unendliche nachhallt.« Eine Betrachtung von Jean Pauls Poetik und Poesie. In: Kurt Wölfel. Jean Paul-Studien. Frankfurt a. M. 1989, S. 274. 10) ヘルベルト・カイザーは,ジャン・パウルが「聖餐の化体 Brotverwandlung」という 語を用いたとき,特に新約聖書ルカによる福音書 24 章,30−31 節を念頭に置いてい たとしている。エルサレムからエマオという村に向かって歩いていた二人の弟子の前 に,復活したイエスが現れ一緒に歩き始めるが,二人はそれがイエス自身であるとは 気づかない。やがて目指す村に到着し,イエスは二人に請われてその晩ともにそこに 泊まることになる。30−31 節は,新共同訳聖書では次のようになっている。「一緒に 食事の席に着いたとき,イエスはパンを取り,賛美の祈りを唱え,パンを裂いてお渡 しになった。すると,二人の目が開け,イエスだと分かったが,その姿は見えなくなっ た。」カイザーは,パンの変化と視線の変化が同時に起きることこそ,ジャン・パウ ルの詩文学理解の核心であるとし,次のように述べている。「パンと肉体,生の物質 性は,観念論的に価値を引き下げられることなく,それ自体として変化し変容するの であり,その結果,精神的なものはパンにおいて出現する──啓示する,あるいは姿 を 現 す の で あ る 。」 Herbert Kaiser: Jean Paul lesen. Versuch über seine poetische Anthropologie des Ich. Würzburg 1995, S. 131.
た」とし,「したがって,あらゆる言語は,精神上のさまざまな関係の点からみて, 色あせた比喩からなる辞書である」(ebd.)11)と結論づける。かつては一つに溶け合っ ていた世界と自我とのあいだに亀裂が入ることによってはじめて,比喩は比喩とし て成立し,この失われた統一を,二通りの仕方で,すなわち「肉体に精神を与える か den Körper beseelen」(ebd.),あるいは「精神に肉体を与えるか den Geist verkörpern」 (ebd.)によって,再現しようとするとジャン・パウルは述べる。しかしこの二つ の方法は,同時に成立するわけではなく,肉体の付与に先立って精神(魂)の付与 が行われる。なぜなら,人間にとっては,万物に魂を付与する方がはるかに容易で あるため,擬人化がメタファーの最も早い段階で現れるのにたいし,肉体の付与は より明確な個別化を必要とするためにはるかに難しく,後の段階で出現するからで ある。したがって,物体的なものに魂を与えて「嵐は怒る」と言う方が,「怒りは 嵐である」という具合に精神的なものに肉体を与えるよりもずっと易しいとジャン・ パウルは述べる。ところが,この第 50 節半ばにおいて,ジャン・パウルは唐突に, 「比喩的な空想」と「比喩的な機知」とのあいだに区別を設け,次のように述べる。 比喩的な機知の道は,比喩的な空想から,はるかに横にそれている。比喩的な 空想は描こうとするし,機知の方は,もっぱら彩色を施そうとする。空想は, 叙事的に,あらゆる類似性を用いて,もっぱら,形態に生命を与えて,それを 飾ろうとする。機知は,比較されるものと,比較するものとにたいして冷淡で あり,両者を,それらの関係の精神的な抽出物に溶解させてしまう。(Bd. 5, S. 187) 第 49 節の冒頭では「比喩的でない機知において,悟性が有力に関与するように, 比喩的な機知においては,空想が有力に関与する」と述べられ,「比喩的な機知」 と「空想」の密接なつながりが示されていただけに,引用した文は読者を戸惑わせ る。ところで,この引用中の「比喩的な空想は描こうとする」という文から想起さ れるのは,1800 年にフィヒテ哲学にたいする諷刺として出版された『フィヒテの鍵』 の中の,「なぜなら,言語においては,数学と違って,記号と対象の一致はおこら ないので,いや言葉は,対象の影絵ですら,その五つの点ですらない──そうであ れば事物のなにがしかは与えるだろうから──そうではなく,言葉とは思慮の恣意 的な,何も描かないハンカチの結び目なのだ。だからこそいつも,卵を孵すよりも 先に中の黄身を吹いて出す哲学者にとっては,言語はまさに欠くことのできない道 具なのである」(Bd. 3, S. 1025)という一節である。哲学者が操る言葉の空虚さを批 11) こうした言語観には,「人類の母語は詩である」とするハーマン(1730-88)の言語論 や,言語の成立における感性の重要性を説くヘルダーの言語起源論との一致が見られ る。ジャン・パウルにたいするハーマンおよびヘルダーの影響については,Götz Müller. Jean Pauls Ästhetik und Naturphilosophie. Tübingen 1983, S. 93 ff.を参照。
判するこの箇所で,ジャン・パウルは,言葉とは恣意的な記号にすぎず,それが指 し示す内実とは一致しないという,上で述べたのとは全く反対の言語観を提示して いる。 『美学入門』の歴史的性格を論じたヴィートヘルターの研究は,第 9 プログラム における「機知」と「空想」との関係に,「機知」を指導原理とする古い合理的啓 蒙主義の美学から「天才」概念を指導原理とする新しい美学への変遷を見て取って いる12)。ヴィートヘルターによれば,啓蒙主義の美学に哲学的な根拠を与えていた のは,ライプニッツの予定調和説であり,これにしたがえば世界の秩序は保証され ているので,「機知」による事物間の類似性の発見はそのまま真理の認識につなが ることになる。ヴィートヘルターは,「比較されるものと,比較するものとにたい して冷淡であり,両者を,それらの関係の精神的な抽出物に溶解させてしまう」と 説明される,事物にたいする機知の無関心さについて,「反精神的な性格」を指摘 したヴェルフェル13)に反論して,機知が類似という関係性にのみ関心を向けるのは, その前提として精神と物質とにかかわりなく,最も下等な段階から最高の存在者に いたるまで,万物は互いに連関し合っているという思想があるからだと述べている。 しかし,この啓蒙の形而上学は,カントの批判哲学によってその根拠を失い,精神 と肉体(物質)は切り離され,この二つのもの,ジャン・パウルの言葉にしたがえ ば,二つの「通約できない大きさ」を和解させることは,美学の領域に,すなわち 創造主に擬せられる天才の創造に委ねられることになる。このとき,統合的な原理 として働くのが「空想 Phantasie」14)であり,かつては「空想に富んだ明敏」である 機知の下位概念であった空想が,詩の根本的な原理へと昇格するのにたいし,機知 は「純粋に形式的かつ言語的な能力」15)に引き下げられることになった。『美学入 門』の他の箇所でも,機知にたいする空想の優位が強調され,第 1 部第 2 プログラ 12) Wiethölter, S. 144 ff. 13) Wölfel, S. 275. 14) 中編小説『五級教師フィクスラインの生活』(1795 年出版)の付録として発表され たジャン・パウルの最初の本格的な美学論文「想像力の自然な魔術について Über die natürliche Magie der Einbildungskraft」においても,ジャン・パウルは本文中では「想像 力 Einbildungskraft」の代わりに一貫して「空想 Phantasie」を用いており,「われわれ の変形力を持つ想像 unsere metamorphotische Einbildung」(Bd. 4, S. 196)として「空想」 を「対象を断片的に明示するにすぎない」単なる「想像や形象化 Ein- und Vorbilden」 (Bd. 4, S. 195)の上位に置いている。さらに『美学入門』では「想像力は形成力のあ るいは空想の散文である Einbildungskraft ist die Prose der Bildungskraft oder Phantasie」 (Bd. 5, S. 47)と述べられ,両者の関係がより明確に示されている。この「空想」の 優位性の強調は,「空想」を「想像力(構想力)」の下位に置くカントの立場を意識し てのことと考えられる。カントとジャン・パウルにおける「想像力」の相違について は,以下の書を参照。Bachmann, Asta-Maria: Das Umschaffen der Wirklichkeit durch den „poetischen Geist“. Frankfurt a. M. 1986, S. 19-23.
15) Esselborn, Hans: Der Witz bei Lichtenberg und Jean Paul. In: Lichtenberg-Jahrbuch 2007, S. 30.
ムでは,「空想あるいは形成力は魂の持つ世界霊(die Welt-Seele der Seele)であり, 他のさまざまな力の元素(der Elementargeist der übrigen Kräfte)である。したがって, 偉大な空想が個々の力の方向へ,たとえば機知,明敏などの方向へ掘りさげられ, 誘導されることはあっても,これらの個々の力のいずれかが空想へ拡大されること はけっしてない。機知が自然の戯れるアナグラムだとすれば,空想は,自然のヒエ ログリフのアルファベットであり,それはわずかな像で自然を表現する。空想は部 分をすべて全体にする」(Bd. 5, S. 47)と述べられている。また,第 12 プログラム 第 69 節では,「ロマン主義精神」を非難する啓蒙主義的な批評家にたいして「そも そも,いったい,教えるということは何を意味するであろうか。単なるしるしを与 えることなのである。しかし,すでに,世界全体,時間全体がしるしに満ちみちて いるではないか。このアルファベットを読むことが,まさに欠けている。われわれ はこれらのしるしの辞書と文法書がほしいのである。詩が読むことを教えるのだ」 (Bd. 5, S. 250)と言われ,空想と詩が同一視されている。ヴィートヘルターは,こ こでジャン・パウルは古典主義およびロマン主義の美学に最も接近していると考え ている。『美学入門』は,ジャン・パウルの長編の中で古典主義の影響を最も強く 受けているとされる『巨人』とその成立において密接な関連にある。この関連は, 講演仕立ての第 3 部に登場し,最後の講演ではただ一人の聴衆となり,作者と対話 を始める「美しい青年」が『巨人』の主人公アルバーノであること,そして『巨人』 のための準備ノートが「天才」と題されていたことからも窺うことができる。 第 50 節における「比喩的な機知」と「比喩的な空想」との唐突な対比は,機知 と空想とのあいだに生じた上下関係の逆転を背景にしたものと考えられる。しかし, 確かに機知の価値は第 9 プログラムにおいて,空想との関係で引き下げられている とはいえ,すでに述べたとおり,その圧倒的な部分は「機知について」論じられ, その重要性が主張されるのは何を意味しているのだろうか。そこで,次に悟性によ る「比喩的でない機知」に目を転じよう。 4. ジャン・パウルは「比喩的でない機知」,すなわち悟性による機知の一例として 「女たちと象は二十日ねずみを恐れる」という機知を挙げ,この機知が満足を与え るのは,二つの事柄が一緒にならんでいるからではなく,また,それが共通する客 語(「二十日ねずみを恐れる」)を持っているからでもないと述べて,次のように説 明を続ける。 そうではなくて,それでもやはり比喩的でない,ある比較点からの美的な光が, もっぱら言葉の手品的・語呂合わせ的すばやさによって生じるのであり,その すばやさが半分,三分の一,四分の一の類似性を同一性に変えてしまう。なぜ
なら比較される二つのものに客語という一つのしるしが見いだされるからであ る。このように客語において言葉のうえで同一視されることによって,すぐさ ま,属が種のために,全体が部分のために,原因が結果のために,あるいはこ れらすべてが上述したのとは逆の関係で,売りに出され,そしてこのことによっ て一つの新しい関係という美的な光線が投げかけられる。しかし一方では,わ れわれの真理にたいする感情が古い関係を主張しつづけるので,二重の光線の あいだのこの分裂によって,喜劇的なものの場合には,感覚にまで高まってい く,刺激された悟性のあの甘美なくすぐりを養う。機知が喜劇と隣り合うのも こうしたところに由来する。(Bd. 5, S.174) 機知を美的な仮象に変えるものは簡潔さという惑わしであり,「比喩的でない機知」 はこの簡潔さによって,われわれを刺激し,思想を改良させる働きを持つとジャン・ パウルは言う。なぜなら,「文法的な空虚な思想」や「比較を弱め,隠してしまう ような,あらゆる非類似的な付随的規定」の一切が省かれることによって,より重 要な思想である「比較点と対象」がわれわれの眼前に,くっきりとした輪郭を見せ て対峙し合うからである。そのとき,われわれはこの比較される両者の関係を否応 なく直視せざるをえなくなる。それがわれわれの思想の運動を活性化させるのだと ジャン・パウルは述べる。しかし,このように機知が瞬間の火花であり,その最初 の電撃こそが最強の打撃だとすれば,同じ着想を二度目に読むときにはその着想の 最初の威力は失われてしまう。したがって,「機知はそれが雲散霧消するがゆえに, 滴り落ちるのではなく,どっと注がねばならない」(Bd. 5, S. 199)のであり,それ が機知であることを忘れ去られることによって効力が回復するとすれば,忘れるた めに,「忘れないわけにはいかないほど多くの機知が存在しなければならない」(ebd.) とジャン・パウルは論を展開させていく。 第 54 節では,機知は自由との関連で述べられる。ジャン・パウルは,「自由が機 知を与え(したがって平等を与え),また機知が自由を与える」とし,続けて次の ように述べる。 自然のアナグラムである機知は,その本質から言って,精霊たちや神々を否定 する者(Geister- und Götter-Leugner)である。機知は何ものにも関与せず,た だその関係にのみ関与する。機知は何ものも尊敬しないし,軽蔑もしない。万 物はそれが平等になり,類似を帯びれば,機知にとって同等となる。機知は, おのれと何かとを,すなわち感覚と形姿を描写しようとする詩のあいだへ割っ て入り,また永遠に客体と実在とを探求するが,おのれの探求そのものは探求 しない哲学のまっただ中へ割りこんで,おのれ以外のものを何ものも欲するこ となく,遊戯のための遊戯を行う。(Bd. 5, S. 201)
先に挙げた第 50 節からの引用と同じく,ここでもまた対象にたいする機知の無関 心が強調されているが,この無関心は別の箇所では「われわれの目を事物からその 記号へと転じさせる精神の自由」(Bd. 5, S. 194)と述べられている。上の引用にお ける「遊戯のための遊戯」という表現,そして次の引用における「機知の酒神頌歌」 という表現は,フリードリヒ・シュレーゲルの「イロニー」の概念を強く想起させ る。 確かに一つの混沌が存在するが,その上に聖霊が漂うとき,あるいは注入のた めにあらかじめ生じた混沌が存在するが,その近くできわめてうまく形成され ており,自らをもうまく形成し,生産しつづけるとき──また,この一切が溶 解した状況のなかで,頭の外で最後の審判を思い浮かべるように,新しいもの を形成するために星が落ち,人間がよみがえり,万物が互いに混じり合うとき に──この機知の酒神頌歌が,生気のない小石を打って出す二,三の乏しい火 花ではなく,温かい雷雲の閃光をはためかせ,流れつづけ,みなぎりあふれる 点にその本質がある,この機知の酒神頌歌が,形姿よりも光で,人間を満たす ならば,そのときには,普遍的な平等と自由とによって,詩的および哲学的, 自由と発見とへの道が,人間に開かれており,人間の持つ発見術はいまやさら に美しい目標によってのみ規定されるのである。(Bd. 5, S. 202) ジャン・パウルが「機知」という語を擁護するとき,そこには機知と精神の自由と の密接な関わりが意識されている。最初の長編小説である『見えないロッジ』にお いて,主人公グスタフの家庭教師となった語り手が自身の教育方針を開陳し,機知 の重要性を説く場面でも,機知は自由と結びつけられている。「いったいなぜ,わ が国には発明家がこれほど少なくて学者がこれほど多いのだろうか ── 後者の頭に は不動産ばかりが収まっていて,学問のそれぞれの分野の概念はカルトジオ修道院 の中にクラブ的に別れわかれに閉じこめられて住んでいるので,それでこの男は, ある学問に関して書いているときは,学問の他の分野に関して自分が知っているこ とにはまったく思いがおよばないのである ── その理由はただ二つ,子供たちが観 念の使用法よりはむしろ観念そのものを教えられるためであり,また,学校では彼 らの思考が,彼らの尻と同様,まったく動かせないように定着させられているため である。」(Bd. 1, S. 135)16)しかし,ジャン・パウルが主張する機知の自由は,彼が, 機知の「遊戯のための遊戯」の無限の連なりの背後に,「最高の,永遠のまじめさ」 (Bd. 5, S. 444)を仮想する点においてシュレーゲルの主張する自我の無限の自由と は決定的に異なる。『美学入門』第 3 部の「第 3,あるいはカンターテ日曜日の講演」 で,作者はロマン主義の美学を代弁する聞き手の「美しい青年」にたいして次のよ 16) 『見えないロッジ』の訳出に関しては,鈴木武樹訳『ジャン=パウル文学全集 1 見 えないロッジ・第一部』,創土社,1975 年を参考にした。
うに述べる。 あるものからの自由は目的なのではなく,あるものにおける,またあるものの ための自由がない場合には,空虚です。そうでないとすれば,空(Nichtsein) が最大の,消極的自由ということになりましょう。あらゆる遊戯は,まじめさ の模倣であり,夢をみることはすべて,過ぎ去った目ざめのみならず未来の目 ざめを前提としています。ある遊戯の根拠ならびに目的は遊戯なのではありま せん。遊戯を求めてではなく,まじめさを求めて遊戯が行われるのです。遊戯 はすべて,克服されたまじめさから,あるさらに高いまじめさへ通じる,ほの ぼのした薄明にすぎません。(ebd.) 「比喩的な機知」について述べられる第 50 節の冒頭の一節が,人間と自然が渾然 一体の状態にあった原初のユートピアを想定していたとすれば,先に引用した機知 が狂喜乱舞しながら「酒神頌歌」を詠いあげる混沌とした世界は,「最後の審判」 という語に明確に示されているように黙示録的な終末の世界として想定されている。 しかし同時に,この混沌の上を漂う「聖霊」によって,創世記に描かれた天地創造 が行われる前の世界をも暗示しているのであり,引用の末尾に置かれた「さらに美 しい目標」とは,機知の遊戯を根拠づける「まじめさ」にほかならない。 5. ヴェルフェルは,事物間の類似関係のみに注目し,事物の本質には関知しない「精 霊たちや神々の否定者」である「比喩的でない機知」にたいし,「通約できない(相 応しない)大きさ同士」つまり,「物質世界と精神世界(たとえば太陽と真理)」あ るいは「自己と外部」という「通約できない大きさ同士のもの」のあいだにある類 似性を直覚する「比喩的な機知」を「精霊を感知し神々を予感する者 Geister-Spürer und Götter-Ahner」17)と呼び,ジャン・パウルにおいては,この,言語にたいする異 なる見方が,いずれかの立場に解消されることなく並置されていると主張する。こ れにたいし,すでに述べたようにヴィートヘルターは,「比喩的ではない機知」の 根底には,物質と精神のあいだに段階的な差異しか認めないライプニッツの哲学が あるとしてヴェルフェルに反論するとともに,「比喩的な機知」の背景には,霊魂 と肉体を本質の異なるものとして峻別するアウグスティヌス以来の教父哲学の伝統 があるとする18)。一方,ミュラーもまた「比喩的な機知」の理論と,言語の人間的 発生を主張するヘルダーの言語起源論の影響関係を明らかにし,ジャン・パウルは 言語を恣意的な記号と見なしている点でその言語観は一貫しているとして,ヴェル 17) Wölfel, ebd. 18) Wiethölter, S. 180.
フェルの主張に異議を唱えている19)。「比喩的でない機知」と「比喩的な機知」の それぞれによって代表されている言語にたいする見方は,はたして矛盾していると 言えるのか,あるいはそうではないのか。 すでに述べた通り,第 50 節でジャン・パウルは,「人間が,まだ世界と一つの幹 に接ぎ木されて花を咲かしていた自然状態」から人間が離脱することによってメタ ファーがメタファーとして成立したと述べている。これ以後,内部と外部との一致 はすべて近似であって,真の一致ではない。したがって,記号としての言葉はそれ が指し示す対象との関係で不完全であり,誤読の可能性をつねに含んでいる。「わ れわれの目を事物からその記号に向けさせる」機知とは,こうした不完全な道具と しての言葉にたいする反省意識であり,この意識が先鋭化されれば,すでに引用と して挙げた『フィヒテの鍵』で述べられたような,言葉にたいする懐疑となる。こ の懐疑は,第二作目の長編小説『宵の明星』では,さらにはっきりと神の不在と結 びつけられている。
静寂は精霊の言葉であり,星空はその面会格子である(Die Stille ist die Sprache der Geisterwelt, der Sternenhimmel ihr Sprachgitter)──しかしいま,星々の格子 の背後には,霊も,そして神も現れなかった。(Bd. 1, S. 1135) 「面会格子 Sprachgitter」はジャン・パウルが愛好する比喩の一つであるが,この 語は本来,尼僧院の面会室で世俗の者と,世俗を離れた修道女とのあいだを隔てる 格子を指す。だが,ジャン・パウルは言葉の道具としての不完全を嘆く一方で,記 号がなければ対象はわれわれの前には現れないということを繰り返し強調する。『美 学入門』第 3 部の末尾近くで作者は聞き手の青年にむかって次のように言う。 あらゆる天上的なものは,ちょうど天からの雨が地上ではじめてそうなるよう に,現実的なものと混じることによってはじめて,われわれに明らかになり, われわれを元気づけるのです。(Bd. 5, S. 447) ヴェルフェルが指摘した『美学入門』における二つの対立する言語観の関係は,入 れ子の構造として捉えられるのではないか20)。先に挙げた引用で,ジャン・パウル 19) Müller, S. 103. 20) 山田貞三もまた,ジャン・パウルは現実世界も詩的に構想された世界も,ともに言 語において比喩的という形でしか定着させられない限りにおいて,両者のあいだに絶 対的な相違を認めていないとし,ヴェルフェルの提示したジャン・パウルにおける対 立する言語観の存在についての問いを最終的には無効としている。しかし筆者はこの 二重の言語観は,ジャン・パウルの思考の枠組みにおいて保持されつづけると考える。 Teizo Yamada: Brotverwandlumg des Geistes und Anagramm der Natur bei Jean Paul. In: Nishinihon Doitu Bungaku. Germanistische Studien. 1 (1989), S. 37-45.
は機知が戯れる場を「過ぎ去った目ざめ」と「未来の目ざめ」のあいだに張りわた された「夢」として描く。この夢の前後には,それぞれ,「克服されたまじめ」と しての,自然と人間が一体であった原初のユートピアと,「さらに高次のまじめ」 としての,いまある世界が終わりを迎えた後に生まれるかもしれない新しいユート ピアが置かれている。この二つのユートピアのあいだに感性と理性とを持つわれわ れが生きる現実がある。意味するものとしての言葉と意味されるものの不一致,す なわち言葉の伝達の道具としての不完全さは,ジャン・パウルにおいて,機知がも たらす精神の自由と表裏一体をなしているが,この自由は,自我が肉体をそなえた 存在としては有限であることの自覚の上になりたっている。このとき,機知は,第 7 プログラム第 32 節で「理念とのコントラストにおいて有限なものを滅ぼす」(Bd. 5, S. 125)と定義される,「倒錯した崇高さ das umgekehrte Erhabene」としての「ユー モア」と等しくなる。空想が原初のユートピアに関連づけられるとすれば,ユーモ アは来るべきユートピアと関連づけられていると言える。
有限の意識,それはわれわれが死を定められているという意識である。それは自 身と同じ運命を分かち合い,時間の中で短い生を生きる「喜ばしくはかない世界 eine frohe vergängliche Welt」(Bd. 2, S. 275)にたいする,すなわち「現実的なもの」にた いする共感へと通じる。確かに機知は事物の関係にのみ関心を注ぎ,事物それ自体 には冷淡である。しかしだからこそ,機知は逆説的な仕方で事物に拘泥することに なる。マックス・フォン・ベーンの著書『人形と人形劇』にたいする書評である『人 形礼賛 Lob der Puppe』の末尾でベンヤミンが述べているように,ジャン・パウルは, 事物を「比喩のかたち」で「自分の小説の木毛の中に深く沈め,壊れないように後 世に伝え」21)たのであり,いわば事物は比喩として死後の生を生きていると言える のである。 『美学入門』の第 3 版はついに出されなかったが,ジャン・パウルは 1824 年秋, 執筆中の『ゼリーナ』を中断して,『美学入門』の補遺に着手し,翌年夏,彼の生 前に出た最後の著書となる『小評論,序文および評論文選集,ならびに,美学入門 への短い補遺 Kleine Bücherschau. Gesammelte Vorreden und Rezensionen nebst einer kleinen Nachschule zur ästhetischen Vorschule』を出版した。その末尾は,ヘルダーへ の追想ととともに,死を目前にしてもなお作家として信念を貫こうとする作者の決 意表明で結ばれている。 そして私は自分にむかっても言うのだ,おまえの短くなっていく日々にまだで きることをすべて行え──まるでそれが長くなっていく日々であるかのように ──哀れな,零落していく人間たちを慰め感激させるすばらしい文学のために。 そしてまだ残されている歳月と力とかすんでいく目を,種を蒔くためにふんだ
21) Benjamin, Walter: Gesammelte Schriften. III. Hrsg. von Hella Tiedemann-Bartels. Frankfurt a. M. 1972, S. 218.
んに使うことを惜しむな,種を蒔く苦労は,おまえの心の友人たちのための収 穫に比べればわずかなのだから。そして,その人への追悼で私が文学について の以前の作品を閉じ,飾った精神が,私の最後の努力と決意に承認を与えてく れますように,ヘルダー!(Bd. 5, S. 513 f.)
Die Sprachreflexionen Jean Pauls.
Über das 9. Programm in der Vorschule der Ästhetik
Junko Shimazaki
Die Jean Paulsche dichterische Sprache ist durch den Überfluss an bildlichen Ausdrücken charakterisiert. Der vorliegende Aufsatz hat das Ziel, die seiner Vorliebe für den metaphorischen Stil zugrunde liegende Sprachauffassung Jean Pauls herauszufinden.
1804 publizierte Jean Paul eine umfangreiche theoretische Schrift, die Vorschule der Ästhetik betitelt, die sich mit poetologischen und ästhetischen Fragen befasst. Das 9. Programm in dieser Schrift, dessen Titel „über den Witz“ heißt, widmet er den Betrachtungen über die bildliche Sprache. Obwohl er sowohl in anderen Werken als an anderen Stellen der Vorschule Worte wie „Bild“, „Gleichnis“, „Metapher“ benutzt, dient hier im 9. Programm der Witz, unter dem man im 18. Jahrhundert die Fähigkeit versteht, die verborgene Ähnlichkeit zwischen entfernten Dingen zu finden, als Oberbegriff bildlicher Redewendungen überhaupt.
Jean Paul unterscheidet zwei Arten von Witz, nämlich den „unbildlichen Witz“, dessen tragende Kraft der Verstand ist, und den „bildlichen Witz“, der gewöhnlich als Metapher bezeichnet wird und bei dem die Phantasie eine ausschlaggebende Rolle spielt. Der bildliche Witz interessiert sich nur für die Verhältnisse der Dinge zueinander und ist gleichgültig gegenüber den Dingen selbst, also gilt sein Interesse bloß der Sprache als Zeichen und dabei steht die Kongruenz zwischen dem Bezeichenden und dem Bezeichneten außer Betracht. Jean Paul nennt den unbildlichen Witz „Geister und Götter-Leugner.“
Dagegen findet der bildliche Witz die Ähnlichkeit zwischen den „inkommensurablen Größen“ wie „Leib“ und „Seele“ oder „Körper“ und „Geist“. Jean Paul imaginiert am Anfang der Menschheitsgeschichte einen utopischen Zustand, wo der Mensch in einer glücklichen Harmonie mit der Welt lebt. Mittels der Phantasie führt der bildliche Witz uns diesen jetzt verlorenen Zustand vor Augen. Im Vergleich zum unbildlichen Witz nennt Kurt Wörfel in seinen Jean Paul-Studien (1989) den bildlichen Witz „Geister-Spürer und Götter-Ahner“.
Wenn in den Darstellungen des unbildlichen Witzes die Skepsis Jean Pauls gegenüber der Sprache durchschimmert, so kann man aus den Beschreibungen des bildlichen Witzes sein Vertrauen auf die Sprache ersehen. Hinter dem unbildlichen Witz steht die Sprachauffassung, wonach die Sprache nur ein willkürliches Zeichen ist und es keine Beziehung zwischen der Sache und ihrem Zeichen gibt. Im Gegensatz dazu fußt der bildliche Witz auf der Sprachauffassung, die die Übereinstimmung zwischen dem Bezeichnenden und dem Bezeichneten behauptet. In welchem Verhältnis stehen diese zwei Sprachauffassungen zueinander, die sich zu widersprechen scheinen? Während Jean Paul den bildlichen Witz mit der Anfangsstufe der Menschheit verbindet, weist er nun dem unbildlichen Witz eine apokalyptische Welt zu. Seit die ursprüngliche Einheit des Ichs mit der Welt zerbrochen und dadurch erst die Metapher entstanden ist, stellt die Zusammen- passung zwischen der Sprache als Zeichen und der von ihr bezeicheten Sache nur eine Annäherung dar, und der Mensch ist stets der Gefahr der Missdeutung ausgesetzt. Der unbildliche Witz, der unseren Blick von der Sache weg zu ihrem Zeichen wendet, ist nichts anderes als das Reflexionsbewusstsein darüber, dass die Sprache ein unvollkommenes Werkzeug ist. Freilich führt dieses Bewusstsein einerseits, wenn es zugespitzt ist, zur heftigen Sprachkritik, aber andererseits versichert es uns die Freiheit des Geistes. Jean Paul schätzt in der Vorschule den Anteil des Witzes an der Geistesfreiheit hoch und darin liegt der Grund, warum er hier den Witz als Gesamtbezeichnung bildlicher Ausdrücke wählt.
Die disharmonische chaotische Situation, die durch den unbildlichen Witz hervorgerufen wird, weist paradoxerweise auf eine neue Utopie hin, die nach dem Ende dieser Welt erscheinen könnte. Dabei wird der unbildliche Witz mit dem „Humor“ als dem „umgekehrten Erhabenen“ gleichgesetzt.
Die oben erwähnten, sich anscheinend widersprechenden zwei Sprachauf- fassungen bilden die Rahmenstruktur. Jean Paul stellt den Raum, wo der Witz sein Spiel spielt, als eine Traumwelt dar, die zwischen „einem vergangenen Wachen“ und „einem künftigen Wachen“ ausgespannt ist. Zwischen der verlorenen und der kommenden Utopie liegt die Wirklichkeit, in der wir mit der Sinnlichkeit und Vernunft leben. Die Geistesfreiheit, die der Witz uns gibt, ist auf dem Bewusstsein aufgebaut, dass wir als körperliche Wesen endlich und sterblich sind. Dieses Bewusstsein ist das entscheidendste Merkmal, den Humor Jean Pauls von der romantischen Ironie zu trennen.