相対的な、余りに相対的な ─ 芥川龍之介試解 ─
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(2) 相対的な、余りに相対的な. る。つまり、これから考察しようとしている相対的ということ. 現実を相対的に描いたものこそが小説であるということであ. ─ 芥 川龍之介試解 ─ . 西 原 千 博. 相対的という観点から考察してみたい。. 学について、すでに「呪縛」という観点から 芥川龍之介の文 (注1) 論じたことがある。作中人物たちがある観念や言葉に縛られて. は、単に芥川文学の特徴ではなくて、小説の特徴について述べ. Ⅰ. いるのではないか、ということである。しかし、これとは全く. ただし、ここで一つ注意しておくことがある。それは、小説 というものが、 本来相対的なものではないかということである。. 逆の傾向も芥川の作品から読み取ることができるのではない. ることになるかもしれないということである。とはいえ、まず. は具体的な作品に則して、この相対的ということについて考察. か。芥川の作品には、対比が多く使われており、その結果、価 値観や主題が相対化される傾向があるのではないか。例えば、. していこう。. 初め一つの主題・見方・価値観を提示し、その後にそれとは反. はなく、出来事の見方や価値観においても見出せる。さらに、. 「楽隠居」の身の上である。この「房さん」と対比的に描かれ. 「玄米問屋の身上をすって」しまい、今は縁つづきの料理屋で. いる。主人公の「房さん」は、「一生を放蕩と遊芸とに費し」、. (「新思潮」大三・五)は最も初期の作品だが、この 『老年』 作品では、先にも触れたように、作中人物が対比的に描かれて. Ⅱ. 最も初期の作品である『老年』 ( 「新思潮」大三・五)では「房 さん」と「中洲の大将」や「小川の旦那」が対比されている。. 対の見方を提示する場合もある。あるいは、一作品の中で相対. ているのが「中洲の大将」や「小川の旦那」である。こちらは. 『青年と死』 ( 「新思潮」大三・九)では、 まさに「A」と「B」. 化するのではなく、別の作品との対比によって相対化される場. という二人の青年が対比されている。また、対比は人物だけで. 合もある。そこで、初期の作品から中期の作品を取り上げて、. - - 9.
(3) 「大将」「旦那」と呼ばれているように、商売・人生に成功し. ることは、芸術の価値にも繋がるのである。). の で あ る こ と が 示 さ れ る。 (それが「一中節」に象徴されてい. ないという捉え方もできるが、それでは逆になぜ「一中節」に. とになる。人生の成功に比べれば「一中節」など大した意味が. と決めてもその勇気がでない。. 作品として捉えられる。この作品の「下人」は「盗人」になる. (「帝国文学」大四・十一)は言うまでなく芥川の 『羅生門』 初期の代表作であるが、この作品も社会的な常識を相対化する. Ⅲ. た人たちということになる。しかし、この二人が「一中節」と なると全く意気地がなくなる。それに対して「房さん」の方は. ついて描写するのか。人生の成功とは違う価値があることを示. 名人ともいわれており、 「一中節」においては、立場が逆転し. そうということではないのか。言うまでもなく、相対化しよう. どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選 んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土. ている。人生の成功と「一中節」とが対比されているというこ. としているのではないか、ということである。この点について. 揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」. の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ. は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、. 持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選. 自足している姿として捉えるかの違いである。否定するのか、. 手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」. は、作品の最後の場面をどう評価するかにもかかわっている。. 肯定するのかということである。作者はそんな「房さん」の姿. のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人にな. 「房さん」は作品の最後で猫を相手にして、 「なまめいた語」. を雪で包み込んで作品を終わりにしている。それは、必ずしも. るよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだ. ばないとすれば──下人の考えは、何度も同じ道を低徊した. この「房さん」を否定しようとしているとは言えない。 (そも. を語っている。これを見て「房さんもおしまい」と捉えるか、. そも「房さん」が楽隠居しているという設定が、 「房さん」の. 」ため、 「下人」は「主人からは、四五日前に暇を出された。 「羅生門」にやってきた。そこで、「饑死」するか「盗人」に. けの、勇気が出ずにいたのである。. なるか迷う。この「勇気」について、三好行雄氏は次のように. 人生を否定的にしていない。 ) 「房さん」の生き方を肯定するこ の、絶対的な価値を持つものではなく、あくまでも相対的な価. 述べている。. とは、人生の成功というものが必ずしも絶対的に肯定されるも 値に過ぎないことを示すことになる。 「中洲の大将」たちのよ. (注二). うな人生の成功というのが絶対的なものではなく、相対的なも. - - 10.
(4) 人間としての最後の倫理と云ってもいい、超越的なモラルと. 作者は〈勇気〉という言葉を使っているが、行為をためら わせる禁忌の感覚がなんに根ざしているかは自明であろう。. う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もな. の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云. 増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門. り出していたのである。. 心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上. をしてはいけないという素朴な倫理しか読み取れない。 (それ. のか判断がつかない。むしろ、ここでは単に常識的に悪いこと. さらに、 「しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生 門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許. ものであるとして、〈悪〉の否定が強調されている。. 「悪 ここには「あらゆる悪に対する反感」とあり、さらには、 を憎む心」とあって、 〈悪〉.は否定されるべきもの、憎むべき. く、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む. 三好氏は「盗人になる」のをためらわせるものは「最後の倫 理」であるとしている。ただし、三好氏のいうところの「最後. ない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを. いいかえてもよい。. の倫理」というものがどのようなものなのか、 「自明」とされ. をこそ「超越的なモラル」としているのかもしれないが。 )な. て説明されていないため、これをそのように言って良いものな. おかつ、「盗人」は〈悪〉だが「餓死」は〈善〉とは言えない. すべからざる悪であった。 」と〈悪〉の否定は強調されていく。. ろう。そして、この価値観はこの後強調されていく。. だという価値観、当たり前の価値観が示されていると言えるだ. への素朴な抵抗によると考えられる。 〈悪〉は否定すべきもの. ねば、 饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃ. のしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせ. この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をする. いな事を、 されてもいい人間ばかりだぞよ。(中略)わしは、. 「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事 かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくら. しかし、この後「下人」は「老婆」の言葉により〈悪〉を容 認することになる。. のではないか。もし、 〈善〉があるとすれば、もう一度働くこ とではないか。つまり、 この「盗人」になるか、「死人」 (餓死) になるか、 という選択は、〈善〉か〈悪〉かの選択ではない。 「勇. その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心から は、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、 それと同時に、. て、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わ. 気」が出ないのは、 善悪の選択に迷っているためではなく、〈悪〉. この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。─. のじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わし. ─いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れ. - - 11.
(5) しのする事も大目に見てくれるであろ。 」. この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこ. 心には、 ある勇気が生まれて来た。それは、 さっき門の下で、. いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の. 手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞. 下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でお さえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の. 感よりは、内供のそう云う策略をとる心もちの方が、より強く. 内供のこの策略がわからない筈はない。しかしそれに対する反. する法を教わって来た。」のである。そして、「弟子の僧にも、. 兼ねて、京へ上った弟子の僧が、知己の医者から長い鼻を短く. 鼻の長いことで知られていた。「所がある年の秋、内供の用を. 「新思潮」大五・二)では、これ 同時期に発表された『鼻』( とは逆に〈善〉が相対化されている。主人公の「禅智内供」は. Ⅳ. の門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、. この弟子の僧の同情を動かしたのであろう。弟子の僧は、内供. これを聞いている内に「下人」に「勇気」が生まれてくる。. 反対な方向に動こうとする勇気である。. 供」への善意から鼻を短くする方法を勧め、実践する。その結. の予期通り、 口を極めて、 この法を試みる事を勧め出した。 」「内. あれほど否定されていた〈悪〉は、あっさりと肯定されてし まい、「下人」はこの後「老婆」から引剥をする。 〈悪〉という. 逆につけつけと笑われるようになってしまい、. 果、 「 内 供 」 の 鼻 は 短 く な る。 け れ ど も、 今 度 は い ま ま で と は. その常識に沿って〈悪〉を憎む気持ちが強調されてきた。しか. 内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、かえって恨めし くなった。. ものは否定されるべきものというのは、常識といっても良い。 し、状況によっては「大目に見てくれる」ようなものだという. のである。 〈悪〉の絶対的な価値観(三好氏の言うところの「超. 値観を受け入れて、その証として当の「老婆」から引剥をした. の悪口を言うようになり、 「内供」に対する善意が悪意となる. て捉えることができる。また、 善意で治療をした弟子も 「内供」. のである。弟子の善意が、かえって「内供」にとって悪いこ とになってしまったのであり、これは善意の否定、相対化とし. 「老婆」の言葉によって、 〈悪〉は絶対的なものではなく、相. 越的なモラル」 )が、相対的なものに過ぎないことが提示され. 訳で、これもまた善意の相対化ということになる。『羅生門』. 対的なものとして位置づけられたのであり、 「下人」はこの価. ているのである。. では〈悪〉は悪いという常識が相対化され、『鼻』では、善意. は必ずしも〈善〉とはならないとして、善意・ 〈善〉が相対化. - - 12.
(6) 蛮僧の治療の効は、 覿面に現れた。劉大成は、 その日から、 ぱったり酒が飲めなくなったのである。今は、 匂を嗅ぐのも、. ある。. えられる。治療の結果「劉」の腹から「酒虫」は出て来たので. くまでも治療のために行ったのであり、善意によるものだと考. 虫」がいると言われ、その治療のためであった。 「蛮僧」はあ. 大成」は裸で炎天下に寝ていた。それは「蛮僧」に腹の中に「酒. この『鼻』とほぼ同じパターンが、『酒虫』 ( 「新思潮」 さらに、 大五・六)でも指摘ができる。 「長山では、 屈指の素封家」の「劉. うことが、主題となっているのである。. 良識と言われているものが、実は相対的なものに過ぎないとい. されている。すなわち、この両作品とも社会的に常識あるいは. 示されていた。それは、一方では良識の否定、相対化というこ. いう基本的とも言える価値が相対的なものに過ぎないことが提. 『老年』では、人物が対比的に描かれており、そこから人生 における成功というものが、相対的なものに過ぎないことが提. 相対化ということを示している。『鼻』と同じなのである。. も、そもそも三つの答えが用意されていること自体が、善意の. る。その場合は善意は善意であったということになる。けれど. 必ずしもマイナスとは限らないという解釈もできることにな. さらに先がある。この「劉」の結果については作品の最後に三. 意の否定、相対化と言えるだろう。ただ、相対化というならば. 損なわれ、資産も無くなってしまったのである。これもまた善. いというかのように。. とになる。あたかも、すべてのものは、相対的なものに過ぎな. 示されていた。『羅生門』 『鼻』 『酒虫』では、〈善〉や〈悪〉と. つの答え(解釈)が用意されている。それによってこの結果が. 嫌だと云ふ。所が、不思議な事に、劉の健康が、それから、 少しづつ、衰えて来た。 (中略). 「新小説」大五・九)は主人公の価値観が相対化さ 『芋粥』( れた作品として捉えられる。『芋粥』の「五位」は「芋粥をあ. Ⅴ. きる程飲んで見たいと云う事が、彼の一生を貫いている欲望」. しかし、それ以来、衰えたのは、劉の健康ばかりではない。 劉の家産も亦とんとん拍子に傾いて、今では、三百畝を以て なく、馴れない手に鋤を執って、佗しいその日その日を送っ. 観が「利仁」によって相対化されてしまう。「利仁」にとって「芋. 持つものだったということである。この「芋粥」に対する価値. 数えた負郭の田も、多くは人の手に渡った。劉自身も、余儀 ているのである。 ということになる。ここでも「治療の効」とあって、あくま でも治療としている。 (皮肉という解釈もできるが。 )この治療. だった。つまり、 「五位」にとって「芋粥」は絶対的な価値を. は「蛮僧」の善意によるものであり、その結果「劉」の健康は. - - 13.
(7) にとって最も大事だと思っていることが、他の人にとってはど. て生じた価値に過ぎなかったということにもなる。また、自分. 対的な価値を持った物だと思っていたのが、実は貴重性によっ. にあるとその価値を失うということだ。このことは、芋粥が絶. 少しの量しか食べられないからこそ価値があったものが、大量. 絶対的なものではなくなったのであり、 相対化されたと言える。. 「芋粥」に対する思いがなくなるのである。 「芋粥」の価値が. 仁」によってもたらされた大量な「芋粥」を見ることによって、. 粥」はありきたりなものに過ぎなかったのである。 「五位」 は 「利. その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上 には、手巾を持った手が、のっている。勿論これだけでは、. みをこらえて顔で笑う。. この作品で息子を亡くした母親(「西山夫人」)が、息子の死 について息子の先生である「長谷川先生」に語るのだが、悲し. チ・テーゼが明確になっている。. 取り上げた作品も類似のパターンではあったが、ここではアン. ンチ・テーゼを提示するというやり方である。無論、これまで. つの主題を提示し、次にその主題を否定する主題、すなわちア. を描こうとした作品ではないか。基本的なパターンは最初に一. 発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、は. うでもいいことだということである。ともに絶対的な価値だと 思っていた物が相対的な価値に過ぎないことが示される。. が感情の激動を強いて抑えようとするせいか、膝の上の手巾. ろうし、それもまたたやすく破られるにちがいない。 」と述べ. 様に手軽で、しかし〈彼の一生を貫く欲望〉を見つけることだ. になる。三好行雄氏は「五位はまた〈芋粥に飽かむ〉ことと同. でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたの. 繍のある縁を動かしているのに気がついた。──婦人は、顔. やかな指の間で、さながら微風にでもふかれているように、. た。そうして、最後に、皺くちゃになった絹の手巾が、しな. を、両手で裂かないばかりに緊く、握っているのに気がつい. げしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それ. 「芋粥」は「五位」の生きがいだったのだから、人 さ ら に、 の生きがいというものまた相対的なものに過ぎないということ. て い る が、 「一生を貫く欲望」がそう簡単に見つかるとは思え. (注三). ない。「五位」は芋粥が相対化されたことによって、生き惑う. である。. だった。ところが、作品の最後で、この母親の行為が相対化さ. して、 「長谷川先生」は「日本の女の武士道だと賞讃した。 」の. 「西山夫人」は顔で笑っていたけれど、自分の悲しみを外に 出さないように、膝の上の半巾を握りしめていたのである。そ. のではないか。. Ⅵ ( 「中央公論」大五・十)はさらに相対的ということ 『半巾』 が明確に示された作品である。むしろ、この作品は相対化こそ. - - 14.
(8) た、それを我等は今、臭味と名づける。……. ていながら、 手は手巾を二つに裂くと云う、 二重の演技であっ. ──私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から 出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑し. れる。. の相対化ということもあるだろう。これもまたパロディという. 谷川先生」は新渡戸稲造がモデルとして考えられ、その新渡戸. 第三には、武士道に対する批判。単純にいえば、武士道もま た一つの型にすきないということである。さらには、この「長. ことである。. なげな振舞」は脅かされることになる。相対化されることにも. ているということである。これによって、 「西山篤子夫人のけ. のである。そのアンチ・テーゼは、ここでは本からだが、それ. 写(アンチ・テーゼ)によって相対化されていると考えられる. ともあれ、最初に「けなげな振舞」を描きながら、後にそれ を台無しにするような描写をする。先の描写(主題)が後の描. ことになる。. なるのである。ではなぜ、作品の最後に夫人の行為を相対化す. は「ストリントベルク」によるもので、他人の視点によってな. 「臭味」 とは、 あの母親の行為は単なる演技に過ぎなくなる。 良くあるパターン、あるいは古くさいパターンになってしまっ. るようなことを書くのか。. 相対化を前に戸惑う主人公がいるのである。. Ⅶ. されるという点は他の作品と共通している。そして、ここでも. 「ストリントベ 第一には、西山夫人の行為の否定。ただし、 ルクの指弾した演出法と、 実践道徳上の問題とは、 勿論ちがう。 」 とある。しかし、西山夫人の行為はそうすべきであるという、 あるいはそうするのが望ましいという価値観をなぞっているだ けに過ぎないのではないか、ということである。そして、その. て、不自然ということである。. うな形式で成就した。彼は、事業を完成した満足を味ったば. それも単に、復讐の挙が成就したと云うばかりではない。 すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するよ. 主人公の「大石内蔵助」の仇討ちが成功したことによる満足 からこの作品は始まる。. (「中央公論」大六・九)では、相対 『或る日の大石内蔵助』 的な価値観自体が描かれていると考えられる。. 第二には、「長谷川先生」 に対する批判ということになる。 「長 谷川先生」はこの西山夫人の行為を「女武士道」とした。その. かりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来. 価値観は「臭味」となる古くさいものだということである。あ. 捉え方に対する批判ということである。夫人の悲しみを全く理. るいは、息子の死に対する悲しみ方が文字通り型にはまってい. 解せずに自分の勝手な価値観で感心しているに過ぎないという. - - 15.
(9) たのである。しかも、 その満足は、 復讐の目的から考えても、. 然」だとしているのである。すなわち、「内蔵助」の方は相対. 蔵助」の方は多様な価値観を持っており、 そのために変心も「自. は武士の生き方として一定のものしか認めないのに対して、「内. 価値観しかないということになる。ただし、作品の最後では「誤. 手段から考えても、良心の疚しさに曇らされる所は少しもな この「満足」がだんだんと「不快」になっていく。 ところが、 それは、周りの人たちとの考え方・価値観とが少しずつずれて. 解」について次のように書かれている。. い。彼として、これ以上の満足があり得ようか。……. いくことによる。それが一番明確になるのは、途中で変心した. と、真っ向から否定する。さらに、 「原惣右衛門や小野寺十 内も、やはり口を斉しくして、背盟の徒を罵りはじめた。 」の. 「彼奴等は皆、揃いも揃って人畜生ばかりですな。一人と して、武士の風上にも置けるような奴は居りません。 」. な事実と向いあいながら、彼は火の気のうすくなった火鉢に. と共に、後代まで伝えられる事であろう。──こう云う不快. く影をひろげているばかりである。彼の復讐の挙も、彼の同. 的な価値観を持っているのに対して、「世間」の方は一方的な. 者たちについてのことであった。 「早水藤左右衛門」は、. あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その 誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とがうすら寒. である。. をした。. 足らないように、思っているらしい。何故我々を忠義の士と. ほど自然であった。 (中略)それを世間は、殺しても猶飽き. て来た彼の眼から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎる. は思っていない。人情の向背も、 世故の転変も、 つぶさに味っ. 彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思ってい た。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いと. 的な価値観があった。それが、その後の世間の考え・価値観と. な形式で成就した。 」と思っていたのであり、ここには、絶対. の満足は「彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するよう. の相対的な価値観に気付いていなかったためではないか。最初. る反感を感じている。それは、これまで「内蔵助」自身が自ら. 誤解とは正解があるからこそ誤解となる。相対的な価値観で は、正解がないから誤解もないはずだが、ここでは誤解に対す. 手をかざすと、伝右衛門の眼をさけて、情なさそうにため息. 志も、最後にまた彼自身も、多分このまま、勝手な賞讃の声. それに対して「内蔵助」は、必ずしもその者たちを否定して いるわけではなかった。. するためには、彼等を人畜生としなければならないのであろ. 自分とのずれから、自分の価値観が相対的なものにすぎないこ. とに気付いた、というより、価値観とは相対的なものに過ぎな. う。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。 この「世間」と「内蔵助」との差はどこにあるのか。 「世間」 . - - 16.
(10) いことに気付かされたのではないか。こう捉えると、この作品 は絶対的な価値観を持っていたと思っていた人物が、価値観と. 「根かぎり書きつづけろ。今己が書いていることは、今でな ければ書けないことかも知れないぞ。」. とうに眼底を払って消えてしまった。あるのは、ただ不可思. (中略). 議な悦びである。あるいは恍惚たる悲壮の感激である。この. は所詮相対的なものに過ぎないことに目覚めていく作品として さらに、この作品には原典があり、モデル小説として捉えら れる。このモデル小説ということが、そもそも相対化である。. 感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到され. この時彼の王者のような眼に映っていたものは、利害でも なければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩わされる心などは、. この最初の満足している「大石内蔵助」の姿は、この作品の原. よう。. 捉えられるのである。. 典などの「内蔵助」のイメージを表しているのであり、それ以. こでも、書斎でも、変りなく秋を鳴きつくしている。. お百はこう言って、伜と嫁とを見た。宗伯は聞えないふりを して、答えない。お路も黙って針を運びつづけた。蟋蟀はこ. 「困り者だよ。ろくなお金にもならないのにさ。」. しかしながら、この戯作三昧が相対化されてしまう。. ここに描かれているものは、文学・芸術に携わるものからす れば、理想の状態、すなわち「戯作三昧」なのである。. 降の満足を失っていく姿は芥川が提示する 「内蔵助」 像であり、 即ち従来の「内蔵助」像が相対化されたことになる。これもパ ロディということになるが、パロディとは相対化のことに他な らないのである。. Ⅷ ( 「大阪毎日新聞」大六・十・二十~十一・四) 『戯作三昧』 では、作品の最後の最後でそれまでとは違った視点が提示され. 頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々と してどこからか溢れて来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れ. て、その孤独な栄光をより強調するという効果も否定できな. とお路と宗伯のいる風景が、馬琴の〈戯作三昧〉を逆照射し. 秋を鳴く蟋蟀を点描して、一抹の抒情をただよわせる収束 は龍之介の短編小説のひとつのパターンであり、また、お百. こ の 相 対 化 に つ い て は、 す で に 三 好 行 雄 氏 に よ る 指 摘 が あ (注四) る。. ながら、自分の肉体の力が万一それに耐えられなくなる場合. 最後の章で「馬琴」は戯作三昧の境地に至る。. ている。. を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、何度もこ. い。しかし、同時に、馬琴がやがて帰ってゆく世界を、読者. . う自分に呼びかけた。. - - 17.
(11) が見てしまったのも事実である。 〈戯作三昧〉の夜はいつか 明けるという相対化はまぬがれない。 〈戯作三昧〉は何時までも続くものではなく、日常に戻らな くてはならないのであり、絶対的なものではないということに. 鳥でさへさうでございます。まして私たちは仕丁までも、 皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の. 心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さ. いう意味であろう。. としたとも考えられる。三好氏の指摘する「逆照射」とはそう. るものなのである。芸術家が如何に理解され得ないかを示そう. 巾』などとは違って、ここでの相対化は読者によって認識され. 昧〉が絶対的なものであることは変わらないのではないか。 『半. 日常はどれほどの意味があるだろうか。馬琴にとって〈戯作三. 利害でもなければ、愛憎でもない。云々」という馬琴にとって. 三昧〉が、さらには芸術そのものが相対的なものになっていた. を「良秀」の死は暗示するのであり、それによって〈戯作三昧〉. されている。芸術の最高の境地とは全く別の価値観があること. の作品ではこの〈戯作三昧〉が「良秀」の縊死によって相対化. 昧〉が絶対的なものとして描かれていると言える。ただし、こ. すばらしさが周囲の者にも理解されているのである。〈戯作三. の境地、そしてそのような境地にはいることのできる芸術家の. この「良秀」もまた〈戯作三昧〉の境地にいたのであり、そ れを見た者たちは、そこに「厳さ」を見ている。〈戯作三昧〉. ず、良秀を見つめました。. 文学と絵画との相違はあるが、『地獄変』( 「大 その点で言えば、 阪毎日新聞」大七・五・一~五・二十二及び「東京日日新聞」. ということである。. なる。ただ、「この時彼の王者のような眼に映っていたものは、. 大七・五・二~五・二十二)は、この〈戯作三昧〉の境地を周. の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、. はりへは、近づかなかつたやうでございます。恐らくは無心. る数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のま. いますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまは. その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る 獅子王の怒りに似た、怪しげな厳さがございました。でござ. るわけでもない。つまり、芸術家は如何に理解されないか、と. いる。 「お百」が芸術を理解できないものとして切り捨ててい. 特別だとはしていない。いわば「お百」も馬琴も等価になって. 変りなく秋を鳴きつくしている。」となっていて、書斎だけを. も見ていない。)けれども、最後は「蟋蟀はここでも、書斎でも、. によって読者には伝わるだろうが、 〈戯作三昧〉そのものは誰. は相対化されるのである。あるいは、 「良秀」にとって〈戯作. りの人間にも見えるようにした作品として捉えられる。. 『戯作三昧』では、この〈戯作三昧〉の境地が他の人には伝 わっていないということである。(無論、この時書かれた作品. 不可思議な威厳が見えたのでございませう。. - - 18.
(12) らず、なぜその境地を否定するような見方まで提示するのか。. 作三昧〉を描くことこそが主題ではないのか。それにもかかわ. しかし、そうではあっても、なぜ〈戯作三昧〉を相対化する ような言葉を書くのか。作品の題名は『戯作三昧』であり、〈戯. 作三昧〉は絶対的なままである。. にこの「お百」の言葉は馬琴には伝わらないので、馬琴の〈戯. する者もいることが示されてもいる。そして、既に述べたよう. ただ、「お百」の言葉を無視する倅と嫁によって、馬琴を理解. 「お百」には理解させることができないということにもなる。. う読みもできるのである。あるいは、馬琴の〈戯作三昧〉でも. いう読みもできれば、芸術家とは実は独りよがりの存在だとい. について考察していきたい。. 第二章はなぜ書かれたのか。すでに相対化と言ったが、その点. 二章がなくとも成立しているとさえ考えられるのである。では、. のではあるが「大正七年」の「明子」が描かれる。第一章はそ. た「明子」を中心に描かれている。第二章としてかなり短いも. 夜」とあり、 その夜に行われた舞踏会様子が、「当時十七歳」だっ. にも大きく隔たっている。第一章に「明治十九年十一月三日の. 第二章は付け足し的な長さしかない。また、二つの章は時間的. それ故にわざわざと言ったのである。第一章が圧倒的に長く、. は二つの章からなっているが、明らかに分量が違うのであり、. とは、その価値観を絶対化することである。作者はまさにその. は相対的なのだ、ということである。一つの価値観に止まるこ. ということを示そうとしているのではないか。つまり、すべて. いすぎるのだ。. 相対化を描くために第二章が書かれたとは考えにくい。量が違. 正時代が相対化されているとも解釈できる。しかし、この対比、. り、それは明治と大正との相違として捉えられるのである。大. れだけで十分完結した世界が描かれており、敢えていえば、第. あたかもそれは、作者が一つの価値観に止まることを否定して. 「明子」 第二章の中にも対比はある。舞踏会を実際に体験した と、知識で理解しようとする「青年の小説家」が対比されてお. ことを否定しようとしているとさえ読めるのである。 あるいは、. いるかのようですらある。あるいは、結局すべては見方による. すべてを相対化しなければ落ち着かないかのようである。. のか解らない。特に、最後に「いえ、ロティと仰る方ではござ. 「青年の小説家」を知っているということをどう評価していい. 「H老夫人」についての情報がなさ過ぎて、相対化され得ない。. 子」が相対化されるということになるはずであるが、そもそも. 対比ということでいえば、十七歳の「明子」と三十二年後の 「H老夫人」となった「明子」こそが対比され、十七歳の「明. Ⅸ ( 「新潮」大九・一)では、わざわざ第二章を書く 『舞踏会』 ことで相対化がなされている。 『半巾』や『戯作三昧』では同 じ章の中で「× × ×」で仕切っただけであった。この作品. - - 19.
(13) いませんよ。ジュリアン・ヴィオと仰る方でございますよ。 」. 対化するのである。. 「生のような花火」に感動したことを反省するかのように、相. しかし、彼女は、士官とすごした〈一夜〉を、手ざわりの 確かな感動の記憶として、いまなお、回想のなかにあざやか. を受け、キリスト教を信奉していた。その「金花」が梅毒に感. について書かれており、 「金花」は、私窩子でありながら洗礼. (「中央公論」大九・七)においても、読者は 『南京の基督』 最後の章で相対化に立ち会うことになる。この作品は三章から. Ⅹ. というのは、 「明子」があの時のままであること、変わってい ないことを示唆しているのである。けれども、この変わらない ことが第一章を相対化しているかもしれない。あの最後の「生 のような花火」の相対化である。 (注五). によみがえらせることができる。散ってゆく花火を〈悲しい. 染してしまい、そのために客を取ることを拒否していたが、そ. 「おれはその外国人を知っている。あいつは日本人と亜米利. 第三章で第一章にも登場した「日本の旅行家」が訪れる。 その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独 り考えていた。──. 「ではあの人が基督様だったのだ。」 そして、第三章においてこのこの基督のもたらしたという「奇 蹟」が相対化される。. のであった。. いや、金花はこの瞬間、彼女の体に起った奇蹟が、一夜の 中に跡方もなく、悪性を極めた楊梅瘡を癒した事に気づいた. 第二章では、その男にそっくりな基督が登場する夢を見る。 その結果、彼女に「奇蹟」が起こる。. 成立しているが、第一章では、南京の私窩子である「宋金花」. 気を起こさせる程それ程美しく〉眺めたとき、明子は士官と. こに外国人がやってきて、一夜を共にすることになる。. 。 この花火について、三好行雄氏は次のように述べている. ともに、永遠と対峙した瞬間を確実に共有していた。 とは三好氏が指摘しているように 「永遠」 「生のような花火」 を示すものであった。それを三好氏は「感動の記憶」としてい るが、むしろ、あの感動が「明子」に全く何の影響も与えてい ないことにこそ注意すべきではないか。 「永遠と対峙した瞬間」 は「明子」を何も変えなかったということである。 「生のよう な花火」という言葉自体が「明子」のその後の三十二年の人生 によって相対化されたと言えるのである。つまり、舞踏会の時 の「明子」が時間の流れによって変わってしまったことを示す ことで舞踏会や「明子」を相対化するのではなく、 「明子」が 変わらないことを示すことによってあの舞踏会の感動を、 「生 のような花火」の感動を相対化するのである。それは、舞踏会 の感動を絶対化することを否定するかのようであり、 あるいは、. - - 20.
(14) とうとう発狂してしまったのは、事によるとこの女の病気が. く話したそうだ。 (中略)あいつがその後悪性な梅毒から、. すや眠っている間に、そっと逃げて来たと云う話を得意らし. 教を信じている、南京の私窩子を一晩買って、その女がすや. とか云ったっ 加人との混血児だ。名前は確か George Murry け。あいつはおれの知り合いの路透電報局の通信員に、基督. 「奇蹟」を〈永久〉に信じるという 能である。」と述べており、. のやうな夢〉を、金花に〈永久に〉 〈見させて置く〉ことも可. 「一度はキリストによって癒やされたという〈昔の西洋の伝説. も矛盾していると言うべきではないか。ただし、笠井秋生氏は. そのことを告げることのはずであり、「むなしい」というより. 久」なんかではないのである。 「蒙を啓いてやる」とはまさに. (注七). ので、 いずれ「奇蹟」ではなかったことに気付く日が来る。 「永. 伝染したのかも知れない。. むしろ、このように考えるならば、彼が「黙って」いるのは、 最も残酷な選択をしたということになる。梅毒の治療は早けれ. ような読みも示されている。. 相対化されたということである。ただし、 問題はこの後にある。. であり、また「奇蹟」を信じていればいるほど、裏切られたこ. 「金花」が基督だと信じた男は、金も払わずに逃げたような 男に過ぎなかったことになる。つまり、基督にまつわる奇蹟が しかしこの女は今になっても、ああ云う無頼な混血児を耶 蘇基督だと思っている。おれは一体この女の為に、蒙を啓い. とを知るのはより辛くなる可能性もある。「蒙を啓いて」やる. よりも伝えない方が実は遙かに冷たい仕打ちをしたことにな. ば早いほどよいわけで、その治療の機会を失わせたということ. てやるべきであろうか。それとも黙って永久に、昔の西洋の. いるように見えて、実はさほど心配していないことを示そうと. 伝説のような夢を見させて置くべきだろうか……」 と、あり、結局このことを「金花」に伝えないで終わる。 「金 花」に伝えないということは、 「金花」においては「奇蹟」は. していたとも考えられる。 ). る。 (このことは、この旅行者が一見「金花」に対して親身で. 相対化されていないということになる。一方で「永久に」とあ 日本人のこの自問自体が、実はむなしい。奇蹟を信じたこ との徒労に醒める日は、かならず来る。彼女が〈永久に〉夢. 何よりも、この作品にはそこまで書かれていないのである。書. に瓦解するかどうかということである。 笠井氏の指摘もあるが、. (注六). ることについて、三好氏は次のように述べている。. ただし、ここで一つ注意したいのは、 三好氏は「〈信仰〉は〈幸 福〉とともに瓦解するはずであった。 」と述べているが、本当. を見つづけることは、 所詮不可能なのである。 (中略)〈信仰〉. かなくとも解るはずだということなのかもしれないが、そもそ. も信仰というものはそのようなものなのか。確かに、近い将来. は〈幸福〉とともに瓦解するはずであった。 梅毒は完治したわけではなく、潜伏期間に入ったに過ぎない. - - 21.
(15) らを信じている「金花」の愚かさが提示されることになるはず. ていると言えるだろう。そして、そこからは往々にして、それ. 「基督」 、 第一章、第二章の内容を第三章で相対化している。 「奇蹟」が相対化されている。いわばキリスト教が相対化され. い。). たかもしれない。しかし、作品は必ずしもそのようには読めな. 信仰が失われると想定していて、信仰も相対化したと考えてい. はそこから始まるはずだからである。 (ただ、 作者においては、. 易な推定はできない。むしろ、 「金花」の信仰についての物語. う。では、その時「金花」はどうするのか。その点について安. に「金花」は「奇蹟」ではなかったことを知ることになるだろ. る「王石谷」に話した。. 山図」だとしたのである。この話を「惲南田」は同じ画家であ. の 画 だ と み た。 「煙客翁」もまた頭を振る。二人とも違う「秋. の王氏」が「張氏」から手に入れた事が解り、「惲南田」はそ. 後その画は行方知らずになり、五十年近く経って今度は「貴戚. 山 図 」 を 見 て、 「神品」として賞賛し感動する。しかし、その. 南田」の師である「煙客翁」はかつて「潤州の張氏の家」で「秋. (作品中の画を指す場 『秋山図』は「黄大癡」の「秋山図」 合はこのように表記する)という絵画をめぐる作品である。 「惲. のである。. この作品の最後の場面、心の中に理想的なものがあれば、そ れで良いということが、同じ年に発表された『好色』では逆の. 惲王の両大家は、掌を附って一笑した。 このようにして作品は終わっている。心の中に「秋山図」が あれば憾む所はないと言って二人は笑うのである。. 「では秋山図がないにしても、憾む所はないではありません か?」. 「山石の青緑だの紅葉の朱の色だのは、今でもありあり見え るようです。 」. も、─」. の画を見に行く。しかし、 「惲南田」はそれを「別な黄一峯」. だが、「金花」の信仰は相対化されていないのである。それは、. 「しかし、煙客先生の、心の中には、その怪しい秋山図が、 はっきり残っているのでしょう。それからあなたの心の中に. 「金花」に話さなかったためだが、仮に「金花」に話したとし ても、相対化されたかどうかは解らないということである。そ れはこの後の物語(ドラマ)なのである。つまり、 「金花」に おいてはキリスト教は相対化されておらず、読者にのみ相対化 が提示されているのである。そのため、この作品では、宗教は 相対化されたが、信仰は相対化されなかったことになる。. Ⅺ ( 「改造」大十・一)と『好色』 ( 「改造」大十・十) 『秋山図』 には、ほぼ同様な言葉が書かれているが、その持つ意味が逆に なっている。 『秋山図』の言葉が、 『好色』で相対化されている. - - 22.
(16) 実際惚れている時には、 見ることが出来たと思っているのだ。. はいつも世間の女に、そう云う美しさを見ようとしている。. あれは平中の心の中には、いつも巫山の神女のような、人 倫を絶した美人の姿が、髣髴と浮かんでいるからだよ。平中. 友人の「範 この作品の主人公である好色の「平中」について、 実」は次のように評している。. 意味となっている。つまり、相対化されている。. に過ぎない。 ). あくまでも、作品から想定された作者についてのかってな想像. 之介がそのような衝動に駆られたなどと言うつもりではない。. 相 対 化 し た く な っ た と 言 う べ き だ ろ う。 ( 無 論、 こ れ は 芥 川 龍. に仕掛けた作者の悪戯なのだろうか。いや、これまでのことを. 作者自身も含めて)、どちらか一作品だけであれば、そのこと. (「新潮」大十一・一)を取り上げよう。 『藪 最後に、『藪の中』 の中』は相対的な作品の代表と言うべき作品だが、実は必ずし. 踏まえるならば、 『秋山図』を書き終えた作者が最後の場面を. には気付かないのである。両方読んだものにしか解らないよう. 勿論二三度逢えば、そう云う蜃気楼は壊れてしまう。 (中略) 結局平中の一生は、不幸に終わるより仕方がない。 「平中」の心の中になまじ「美人の姿」があるために現実の 女性に失望し、「一生は、 不幸に終わる」 と言っているのである。. もそうとばかりは言えないのではないかと考えている。. Ⅻ. 『秋山図』では「一笑」するようなことが、ここでは「不幸」 の元になっているのである。心の中に理想的なものがあること. ということで、それこそが相対的ということに他ならない。. い。同じ事でありながら、状況が違えば捉え方も違ってしまう. うことである。相対化されるのは、三人の言葉を聞くこと(知. ここで気をつけたいのは、三人自身は相対化されていないとい. 襄丸」の白状は相対化されることになる。さらに、「武弘」が. まず、「多襄丸」が尋常な勝負で殺したと白状する。その後、 今度は「真砂」が自分が刺したと懺悔する。これによって「多. 、「真砂」 、「武弘」 この作品は「武弘」の死について、「多襄丸」 がそれぞれ述べる。. しかしながら、それにしても自分の書いた作品について、後 からその内容を否定するような小説を発表するのは何故なの. ること)ができる読者だけということである。しかしながら三. は良いことなのか、 悪いことなのか。まさに相対的なのである。. か。当然、そこから考えられる答えは、作者自身が相対的な価. 人の言説が相対化されたと言えるだろうか。確かに「多襄丸」. よもや、絵画なら良いが、女性では不幸というわけでもあるま. 値観を持っているからということになる。ただし、この相対化. 自ら刺したと言う。まさに犯人が相対化されていると言えるが、. に気付くのは、この二つの作品を読んだ者だけであり(無論、. - - 23.
(17) とになる。少なくとも、三人にとってあくまでも自らの言葉は. ま受け入れられることになるのであり、すなわち絶対というこ. いので、相対化も明確にならない。故に、三人の言葉はそのま. 相対化されたということになるが、その真相が明確に示されな. 対であるということでもある。あるいは、真相が三人によって. 相対化されているとして捉えられるが、それは逆にすべてが絶. の誰かが殺したことになるが、それが明確ではない。すべてが. にならないのである。三人しかいなかったのだから、三人の内. ない。三者あることによって、かえってそれぞれの否定が明確. 「武弘」の言葉によって「真砂」の言葉が否定されるわけでは. 砂」の言葉が正しいのかというと明確な証拠がない。さらに、. が殺したということは「真砂」の言葉で否定されるが、 では「真. それぞれ大石内蔵助、新渡戸稲造という有名なモデルがおり、. 助」は最後に立ち往生することになった。また、この二作品は. うとしたのではないかと考えられ、その結果、主人公の「内蔵. 特に、『或日の大石内蔵助』は相対的な価値観そのものを描こ. その結果、作中人物が相対化の前に戸惑ってしまうのである。. 『半巾』『或日の大石内蔵助』では、先に一つの見方を示し、 その後でそれを否定するようなもう一つの見方が提示される。. のではなく、 単に相対的なものに過ぎないことが示されていた。. 見ア・プリオリと思っていたものが、なんらア・プリオリなも. 『羅生門』『鼻』などは、社会的成功やもっと 初期の『老年』 常識的な〈善〉や〈悪〉といったものが相対化されていた。一. 相対化といっても、いくつかのパターンがあった。. するというやり方は相対化と同様の方法となっている。. その人物について、それまでの見方に対して新たな見方を提示. いる)、なおかつ、他の人の言葉を聞いていない以上、その絶. 絶対なのであり(それは「白状」 「懺悔」という言葉にも現れて. 『芋粥』を含めて、これらの作品は作中人物の考え方・価値 観が相対化される作品である。. 『戯作三昧』『舞踏会』 『南京の基督』では、同じように最初 に提示したものを後から否定しているが、『半巾』などとは違い、. 対は揺らがないのである。そして、この三つの絶対を前にして 読者は途方に暮れることになる。それが、まさに藪の中という ことである。繰り返しになるが、 『藪の中』という作品は相対 化を描いているようで、 実は絶対を描いている作品なのである。. それに気付くのは作中人物ではなく、読者である。読者に相対. 第二章は必要だったのか、という素朴な疑問もある。しかし、. いる。一方で、 『戯作三昧』の「お百」の言葉や『舞踏会』の. 的ということが提示されているのである。さらに、これらの作. 初期作品から中期の『藪の中』までの作品について、相対的 という視点から考察をした。本稿では、 考察をここまでにして、. 品では章を改めるという形で、その相対化がより明確になって. まとめを行いたい。. ⅩⅢ. - - 24.
(18) その両者によって相対化がされているのであり、逆に言えば、. 注. (一) 『芥川龍之介試解─呪縛の構造─』(蒼丘書林). (二) 「無明の闇─『羅生門』の世界─」─『芥川龍之介論』 (筑. 相対化をしたいがために、 あの描写があったということになる。 そう考えるならば、これらの作品は読者に相対的価値観とい うものを提示しようとした作品として捉えられるだろう。. (三) 「負け犬─『芋粥』の構造─」─『芥川龍之介論』 (筑摩. 龍之介作品研究論』 (双文社)所収. (七) 「 『南京の基督』─二通の芥川書簡をめぐって」─『芥川. 龍之介論』 (筑摩書房)所収. (六) 「地底に潜むもの─『南京の基督』の前後─」─『芥川. 介論』 (筑摩書房)所収. (五) 「青春の〈虚無〉─『舞踏会』の世界─」─『芥川龍之. ─『芥川龍之介論』 (筑摩書房)所収. (四) 「 あ る 芸 術 至 上 主 義 者 ─『 戯 作 三 昧 』 と『 地 獄 変 』 ─ 」. 書房)所収. 摩書房)所収. 。同じ内容の言葉が そして、何よりも『秋山図』と『好色』 この二つの作品において、反対の意味を示していた。当然それ を知ることのできるのは両作品を読んだ読者だけである。しか し、必ずしも読者がこの両作品を読むわけではない。つまり、 作者に何らかの意図があったとしても読者に伝わる保証はない のである。とすれば、これは何のための相対化なのか。いや、 実はこの両作品を必ず読むものが確実に一人だけ居る。それは 作者自身である。とすれば、これは作者のための相対化という ことになる。作者が相対化したいがために相対化したというこ とになる。 以上、相対化と言っても、①社会の良識の相対化、②作中人 物の意識の相対化、③読者による相対化、④作者のための相対 化と相対化のパターンは四通りも認められるのである。 まさに、 あまりに相対的なのである。 今回は中期までの作品を取り上げたが、さらにこれ以外の作 品にもこの相対的価値観というのは認められると考えるので、 今後さらに他の作品についても相対的という点からの分析を行 いたい。. - - 25.
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