コメント――政策循環とジェンダーの政治
阿 部 昌 樹
キーワード:ジェンダーの政治,政策循環,政策実施,政策評価 〈要 旨〉 ジェンダー平等の理念を実現するために新たな権利を制度化する政策は,他の多くの 政策がそうであるのと同様に,政策実施過程において容易に有名無実化されうるし,ま た,その政策に敵対的な立場からなされる政策評価により,規模の縮小を余儀なくされ る可能性も高い.それらのことを踏まえるならば,ジェンダー平等の理念の実現を目指 すジェンダーの政治は,政策循環を構成する課題設定,政策立案,政策決定,政策実施, および政策評価のすべてのプロセスに関わっていくことが必要である.Ⅰ 権利の実質化
権利が実質化していると見なしうるのは,新たに法定された権利が社会において十 分に尊重され,その結果,その新しい権利の法定に尽力した諸アクターが望ましいも のとして想定した社会状態が,ほぼ実現されている状況においてであろう. そうした状況が容易に達成可能なものではないことは,これまで繰り返し指摘され てきた.すなわち,新しい権利が法定され,法令集に明記されたにもかかわらず,た だ法令集のなかに存在するだけのものにとどまり,人々の日々の生活には目立った変 化をほとんどもたらしていないという事態は,法社会学の領域においては,law on the books と law in action との乖離として古くから認識されてきたことであり,そう した権利が実質化していない現実を明らかにした経験的研究は,枚挙に暇がないほど である. また,新しい権利の法定を,その権利が尊重されることをとおして実現される,新 しい社会の実現を企図した政策の形成として捉えるならば,その権利が実質化してい ないということは,政策目的が実現されていないということと同義である.そうした 事態に着目してきたのは,政治学の領域における,政策実施に焦点を合わせた諸研究 である.それらの諸研究は,政策立案者の意図の実現を阻む諸要因が政策の実施過程 に作用していることを,様々な政策の実施過程のケース・スタディをとおして明らかにしてきた. このコメントにおいては,それらの諸研究を踏まえつつ,政策立案過程や政策決定 過程のみならず,それに先行する課題設定過程や,後続する政策実施過程や政策評価 過程をも視野に入れ,その全体を政策循環として捉える視点から,ジェンダー平等を 実現すべく,それに関連した諸権利を実質化していくことの困難さを明らかにすると ともに,本ミニ・シンポジウムを構成する 4 つの論考が,この権利の実質化の困難さ との関連で,どのような意義を有しているのかについて,簡単に述べることにした い.
Ⅱ 政 策 循 環
公的な対応を必要とする課題が認識されると,その課題にいかに対処していくべき かが検討され,政策が立案される.立案された政策は,政策決定権限を有する機関に よってオーソライズされ,実施に移される.そして,その実施状況を踏まえたうえ で,政策としての適切性が評価され,何らかの問題が発見されたならば,その問題が さらなる政策的対応を促し,政策立案過程を始動させる.図はそうした政策循環を示 したものであるが,重要なのは,政策決定過程だけではなく,それ以外の各過程に も,その過程に特有の政治が内在しているということである. そもそも,何が公的な対応を必要とする課題なのかは,けっして自明のことではな い.例えば,既婚女性の就業率の低さは,多くの女性が結婚した後は望んで家庭に入 り,「内助の功」を積んでいる,その結果であると見なされたならば,公的な対応を 必要とする課題として取り上げられることはないであろう.結婚後も働き続けたいと 政策立案 政策決定 政策実施 政策評価 課題設定 図 政策循環 願う女性が多数存在しているにもかかわ らず,何らかの理由で離職を余儀なくさ れており,そうした事態は望ましいもの ではないという認識が,ある範囲のアク ターに共有されてはじめて,就業の継続 を困難にする諸要因を除去することが, 公的対応を要する政策的課題となるので ある.そして,いかなる認識がどのよう な範囲で共有されるかは,その時々にお いて支配的な政治的イデオロギーや,そ れぞれに異なった状況認識を有する諸アクターの発言力の程度等によって,大きく左右されざるを得ないのである. 政策立案過程もまた,所与の目的を実現するための最も効果的かつ効率的な方法を 考案するという,政治とは無縁の合理的設計のプロセスではあり得ない.例えば,既 婚女性の就業率を高めるための政策として,残業や配置転換等の規制による職場環境 の改善と,保育所の整備等による子育て環境の改善との,いずれが選択されるかは, 政府の労働政策を担当する部局と育児政策を担当する部局との間の,予算獲得をめぐ る駆け引きに左右される可能性があるし,性別役割分業を維持し続けることが望まし いと考えるアクターによって,実効性の乏しい政策が立案されるということも十分に 考えられる. そうした政策立案過程に後続する,選挙によって選出された政治家が中心的な役割 を担う政策決定過程が政治的なプロセスであることは,改めて指摘するまでもないで あろう.そこでは,ただ単に社会をどのように変えていくことが望ましいのかについ ての理念レベルでの対立が繰り広げられるだけではなく,それとともに,それぞれに 異なる支持母体を有する政治家相互間の,自らの再選可能性を高めるための,様々な 駆け引きも展開されることになる. そして,そうした政策決定過程を経てオーソライズされる政策は,対立する諸アク ターのそれぞれが抱く理念や利害関心のいずれにもある程度の考慮を払った結果,玉 虫色で,何を目指しているのかが不明瞭なものとなったり,あるいは逆に,多数派が 数の力によって自らの理念や利害関心を押し通すようなものとなったりする.そのい ずれであっても,そのことは,後続する政策実施過程を政治化することになる.すな わち,多様な解釈を許容するような曖昧な政策は,自らに有利な解釈が採用されるこ とを望む諸アクターの,政策実施担当者への働きかけを活性化させるであろうし,ま た,政策決定過程において自らの理念や利害関心を政策に反映させることに失敗した アクターは,政策の完全な実施を妨げるための諸方策を,政策実施過程において試み るであろう.いずれにせよ,政策実施過程は,既に決まったことを淡々と実行するよ うなプロセスではなく,そこで展開される諸アクター間の相互作用の如何によって, 何が社会にもたらされるかが大きく異なってくるような,多分に政治的なプロセスと ならざるを得ないのである. 政策評価過程もまた,政策目的が十分に達成されているかどうかや,政策実施の過 程で無駄な支出がなされていないかどうかを,客観的に評価するだけのプロセスとは なり得ない.そもそも,政策決定過程を経てオースライズされた政策目的は,その達 成の有無や程度を客観的に測定可能なほどに明確なものではないのが通例であるし,
自らの業績評価を高めたいと望む政策実施担当者や,評価対象となっている政策に割 り当てられる予算の増額を期待する政治家等が,それぞれの思惑を抱いて政策評価過 程に関わってくる.かくして,政策評価過程も,様々な理念や利害関心が交錯する政 治的なプロセスとならざるを得ないのである.そして,そうした政策評価過程をとお して新たな政策課題が析出され,課題設定過程へと連接することによって,さらなる 政策循環が始動することになる. 要するに,政策循環の全体が,政治的なプロセスなのである.
Ⅲ ジェンダーの政治
ジェンダー平等の理念の実現を目指す政治的な取り組みの総体をジェンダーの政治 と総称するとするならば,ジェンダーの政治は政策循環の全過程に関連してくる.そ して,権利の実質化という観点からとりわけ重要なのは,政策実施過程におけるジェ ンダーの政治である.課題設定過程,政策立案過程,および政策決定過程におけるジ ェンダーの政治が功を奏し,ジェンダー平等の実現に資するような女性の権利が法定 されたとしても,政策実施過程の内実が,その権利を有名無実化するようなものであ ったならば,ジェンダー平等は見せかけだけのものにとどまってしまうからである. しかしながら,女性労働者の雇用者に対する権利を拡充する法律や,女性配偶者の 男性配偶者に対する権利を拡充する法律が制定されると,そのような法律が制定され たことそれ自体が,ジェンダー平等の理念の実現を目指す諸アクターに大きな成果と して受け止められ,そのことを契機として,ジェンダーの政治が停止してしまうとい う事態が,しばしば生じる.また,選挙によって選ばれた政治家が中心的なアクター となり,政治の中枢で社会の注目を集めて展開される政策決定過程において有効な政 治戦略が,社会の随所において可視性の低い状態で展開される政策実施過程において も有効であるとは限らない.それゆえに,ジェンダー平等の理念の実現に資するよう な女性の権利が法定されることを目標として,もっぱら政策決定過程に働きかけるこ とに尽力してきた諸アクターは,政策実施過程に効果的に働きかけるために必要なノ ウハウを有しておらず,法定された権利の政策実施過程における有名無実化を,拱手 傍観せざるを得ないといった事態も生じる.政策実施過程においてジェンダーの政治 を継続し,法定された権利の実質化を図っていくことは,けっして容易なことではな いのである. ところで,政治学の領域における政策実施に焦点を合わせた諸研究は概して,官僚 制的に編成された政府の行政組織が政策実施主体となるケースに着目してきたが,新たな立法へと結実した政策のすべてが,行政組織によって実施されるわけではない. 例えば,民間企業で働く女性の労働者としての権利を拡充する政策は,使用者が自発 的にその権利を尊重して雇用関係を改善することによって,その政策目的が達成され ることを期待したものであり,そうした使用者による自発的な権利保障が実現されな い場合には,権利を侵害された女性労働者が使用者を相手取って訴訟を提起し,裁判 をとおして権利侵害が是正されることを想定しているかもしれない.そのような政策 に関しては,使用者に女性労働者の権利の尊重を要求することや,女性労働者の自ら の権利についての理解を深化させることや,権利侵害を主張する女性労働者が提起し た訴訟において原告を支援することなどが,政策実施過程に働きかけて権利の実質化 を図っていくための主だった取り組みとなる.必ずしも常に,行政組織との駆け引き が,政策実施過程におけるジェンダーの政治の焦点となるわけではないのである. こうした観点から見たとき,三輪敦子,澤敬子,および辻由希の論考は,それぞれ に異なった観点から,政策実施過程への着目を促すものとして興味深い. まず三輪の論考は,条約等によって承認された女性の権利が,発展途上国において 実質化していくための条件を検討したものである.三輪は,女性が自分は権利を有す る法主体であるという意識を持つようになることが,権利の実質化のために何よりも 重要であるという認識を示すとともに,そうした権利意識が醸成されていく場とし て,ピア・グループによって形成される親密圏の重要性を強調している. これに対して澤は,女性裁判官に焦点を合わせている.澤によれば,女性裁判官の 増加は,それ自体がジェンダーの政治にとって重要な課題であるのみならず,女性裁 判官の増加は,自らの権利が侵害されたことを主張し,司法による救済を求める女性 の訴えに対する裁判所の対応に変化をもたらす可能性があり,そうした観点からも, ジェンダーの政治の焦点となり得る.澤のこうした指摘は,裁判官が政策実施過程に おける主要アクターとなるような政策の,その政策実施過程におけるジェンダーの政 治の重要性を示唆したものとして受け止める必要があろう. 次いで辻の論考は,新自由主義のイデオロギーや地方分権化の動向を反映して,近 年の我が国におけるジェンダー平等に関わる諸政策が,民間企業や地方自治体の,政 策実施過程に関与するアクターとしての重要性を高めるものとなってきていることを 指摘するものである.中央各省に代わって,民間企業や地方自治体の行政組織が政策 実施を主として担うようになるならば,政策実施過程に働きかけ,権利を実質化して いくための有効な方策は,中央各省が政策実施の主たる担い手であった頃とは,異な ったものとならざるを得ない.ジェンダーの政治は,そのことに敏感でなければなら
ないのである. これらの 3 つの論考に対して,朴宣映の論考は,政策実施過程ではなく,政策評価 過程への着目を促すものである.朴によれば,韓国では,ジェンダー平等を実現する ことを目的として,新たに制定される法律と既に実施されている法律の双方を対象と した,性別影響分析評価が制度化された.既述のとおり,政策評価過程もまた政治過 程であるとしたならば,ジェンダー平等の観点からなされる政策評価もまた,政治化 を免れないであろう.ジェンダー平等の理念に照らして見たときの法案や既存の法律 の問題性を指摘し,よりジェンダー平等の実現に資するような法制定や法改正を促し ていくためには,政策評価過程におけるジェンダーの政治が不可欠なのである.朴の 論考は,その点への注意を喚起するものである. こうした朴の論考も含めて,本ミニ・シンポジウムを構成する 4 つの論考は,それ ぞれに,ジェンダー平等の実現を志向したジェンダーの政治は,政策立案過程や政策 決定過程に専心することなく,政策循環を構成する他のプロセスにも着目し,いずれ のプロセスにも権利の実質化を阻む要因が潜んでいることに留意したうえで,それぞ れのプロセスに相応しい戦略を彫琢し,それを効果的に用いて権利の実質化を図って いく必要があることを示唆しているのである. (あべ・まさき 大阪市立大学教授)