• 検索結果がありません。

[巻頭論考]歴史と説話の間 : 語られる歴史: 沖縄地域学リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "[巻頭論考]歴史と説話の間 : 語られる歴史: 沖縄地域学リポジトリ"

Copied!
31
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Title

[巻頭論考]歴史と説話の間 : 語られる歴史

Author(s)

池宮, 正治

Citation

琉球王国評定所文書, 13: 5-34

Issue Date

1997-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19225

Rights

浦添市立図書館

(2)

歴史と説話の間│語られる歴史

r

はじめに 琉球列島では三万 二 千年前のものといわれる人骨が、那覇市内山下町の洞窟から発見されている 。具 志頭村港川の 採石場の岩の割れ目(フィッシャ l ) からは、およそ 二 万年前の人骨が多数発見されている ( 東京科学博物館の馬場 悠男氏は三万年前の骨格とする)。琉球列島でもっとも大きなこの沖縄島では、少なくとも三万 二 三 千年前から人類 の営みが続いていたことを、これらの人骨は証明している。こうした遺物による歴史認識は、言うまでもなく近代の 科学的な認識であって、これより以前どの国も悠久の神話的な時間と歴史(説話)を有しているのが常である 。 例 え ば﹃陪書﹄﹁流求﹂伝には、場帝の大業三(六

O

七)年とその翌年に流求に朱寛を派遣したとあり、この事を羽地朝 考秀(向象賢)の﹃中山世鑑﹄では天孫氏の二五代の出来事とする。しかし、その、流求を表した記事には熊や豹がい 論るとか、死者の肉を食らうなど、信じられない事柄も多く、早くから台湾説と琉球(沖縄)説が対立して、いまだに 間決着をみていない。しかしながらこの記事は、その当否というよりも、その後の中国の史書に引用されて強い影響を 与えている。そればかりか琉球側でも、この記事に拘束されたのではないかと思われる記述がみられる。 一 つ の 例 を 五

(3)

ー」

挙げると、流求国は鉄が少ないため、武器の刃の部分を薄く小さくしてあるのだというのがあるが、後に述べる察度 王や尚巴志は 舶来の鉄塊を購入してこれで農具を生産し、このことで王位を獲得したとある 。 儒教的な徳の強調と文 化英雄的な側面を強調して王権を獲得する必然をい っ た ものだが、この時期むしろ琉球のほうが優れた航海術を持つ ていたとも 言 え、このことが歴史的事実かどうかは大いに疑 っ てよく、他の地域と比較して妥当かどうか、まさに科 学的な証拠を示さねばならない 。 説話としては文化英雄伝説の 一 つの表現とみてよいのではないだろうか 。 ﹃ 日本書紀﹄斉明天皇の 三(六五 七 )年の記事に ﹁ 海 見 嶋 ﹂ ( 奄 美 島 ) 、 天 武 天 皇 の 十 一 ( 六 八 一 一 ) 年 に は ﹁ 披 玖 ﹂ ( 屋 久 ) と 並 ん で ﹁ 阿 麻 禰 ﹂ (奄美)がみられ、﹃続日本紀﹄の文武天皇二(六 九人 )年になると、この 地域をさす﹁南 島 L の語が初めて見られ、翌年﹁多徽 ・ 夜久 ・ 奄美 ・ 球美﹂の朝貢を伝え、和銅七 ( 七 一 四)年十 二 月と翌霊亀元年 正月にも﹁奄美・夜久・度感・信覚 ・ 球美﹂の朝貢を伝えている 。 ﹁度感﹂は吐鳴剛列島、信覚は石垣、球美は久米 島とも西表の古見ともいわれる 。 ここではこの当否を詮索することはおくとして、 一 時期この地域に対して大和政権 が深い関心を抱いていたことは確かである 。 疑問の一つは、まず琉球列島で最も大きな沖縄烏と分かる記事が出てい ないことである 。 とすれば﹁奄美﹂ や﹁信覚﹂﹁球美﹂との整合性はどうなるのか 。 またこれらの記事には、大和朝 廷に帰順もしくは朝貢したことは分かるが、これらの鳥人がどのような生活をし、どのような 言 葉、風貌をしていた か と い っ た 、 具 体的なことは 一 切記されてなく、朝貢の品目すら殆ど明らかではないのである 。 唐僧鑑真の日本への帰化(七五三年) の模様を記した﹃唐大和上東征伝 ﹄( 七七九年 ) には古来﹁沖縄島﹂と白さ れてきた﹁阿児奈淡島﹂がある 。 この島から屋久島まで 一 日の行程で到着した記事があるなど、疑問のところもある が、琉球列島にこれに近い烏があるとすれば、 やはり沖縄島しかない 。 だとすれば、ここで初めて﹁沖縄島﹂が登場 したことになるのである 。 だ が﹁阿児奈波島﹂沖縄島説の最大の難点は、﹁阿児奈波島﹂が果して﹁おきなはしま﹂

(4)

と読めるかどうかである 。この頃 ﹁阿﹂は﹁ア﹂でって、﹁ヲ﹂と読む例はない 。 ﹁ 阿 L を﹁ヲ﹂とも読むようになる のはずうっと後のことである 。 ﹁ 児 ﹂ を ﹁ キ L や﹁ケ﹂と読むのは 一 層困難で、この時期﹁児﹂は﹁ジ﹂か﹁コ﹂と しか読めない(後にはニの仮名にも使う ) 。 誤 字 説は最後のもっとも下手な手段だが、しいて﹁おきなは﹂に似せると、 ﹁ 児 ﹂ は ﹁ 棋 ﹂ ( キ ) を簡略にした﹁只﹂の誤字と考えられる ( ただし、この﹁口ハ﹂の例もない ) 。 ﹁ 阿﹂をそのまま 読んで、沖縄本島の具志 川市の 安慶名(おもろに﹁あげなは﹂とある) や北谷間切の﹁あきなは﹂ ( 高 究帳、後に安 仁屋となる)、奄美の古仁屋町の﹁阿木名﹂、龍郷村の﹁秋名﹂等を比定することもできるわけである。 ﹁おきなは﹂を大きい地名と考えるからこのように無理を重ねるのであって、伊波並閏猷が﹁沖縄考 L で﹁琉球国由 来記﹂の真和志間切安里の﹁オキナワノ獄﹂を挙げて、小地域を指す﹁おきなは﹂の存在を想定しているように、いつ そう古い時代にこうした小地域をさす﹁おきなは﹂を、ここでも適用してよいかもしれぬ 。 ただし﹁おもろさうし﹂ に十四例ある﹁おきなは﹂は、すべて大きな地域を差していて、琉球に対応しているとみてそう間違いはない 。 小 地 域の﹁おきなは L はさらにこれよりも古いということになる 。 ともあれ﹁阿児奈波島﹂という烏への関心は、朝鮮半島が不安定になったため、半島の沿岸沿いのコ l スが使えな くなり、にわかに南島の島伝いに中国南部に入る南海路が注目された結果である。﹃続日本紀﹄の鑑真が帰化した翌 年の条に、遣唐使の報告を受けてのことだろう、朝廷は、天平七 (七三五)年万葉歌人でもある 小野老と 高橋牛養に 考命じて南島に立てさせた牌の修復を、太宰府に命じている。その牌には、鳥の名、船が停泊する所、水の在り処、ど 論こから何処までがどの距離にあるか、といったことが記され、遠くからこの島の名を知って漂着船が無事に帰れるよ 問うにした。鑑真和上らの報告にもとづいた措置と推測されるので 、﹁阿児奈波島﹂が南島にあることを裏付けるだけで、 琉球列島の人々の生活については依然見えてこない 。 七

(5)

)¥ 良く知られている資料に﹃漂到流球国記﹄がある。寛元 二 ( 一 二 四四)年に成立した慶政の問書である 。 寛元元年 九月中国(宋)を目指して肥前の小置賀 ( ヲチカ)嶋を出発、猛風にあって流球国に漂着、その時の見聞を記したも のである。上陸してみると、草葺きの高さ六七尺の小屋があり、柱はよくみると珍木﹁赤木﹂であったという 。 後 で この島を離れるとき船に積み込んだ﹁赤木﹂を全部海に放棄したという記事と合わせ考えると、ここの﹁流球﹂は琉 球列島のどこかである可能性が高い。赤木は ﹃ 延 喜 式 ﹄ ( 九 二 七 ) の太宰府のところに﹁赤木、南島所進、其数随得﹂ とあり、南島産であることが知られている 。 同内記の﹁装束位記式﹂には親王の位記の輸にするともある 。 また仏典 の巻子の軸としても珍重され南島の名産だった ( 里 純 一 ﹁ 南 島 赤 木 の 進 貢 ・ 交 易 ﹂ ﹃ 西海と南島の生活 ・ 文化 古 代王権と交流 8 ﹄ 一 九 九 五 年 ) 。 漂流者たちがこの赤木を船に持ち込んだのはそのためである 。 これには初めて島人 を活写した表現が見られる 。 普通の人も将軍も赤い衣服を 着 、赤い布で頭を包み、鉾と楯を持ち、弓矢を帯びている 。 同時に矢を放っと、 まるで雨が降るようで、その矢は遠くまで飛んで強く当たる 。 楯を持ったまま水鳥のように浮かんでいる 。 弓 を緩め、鉾を棄て、和平の意思を示すので、 日本人も弓矢を納め甲曹を解くと、船が近 づ いてきた 。 島人を よくよく見ると、日本人より身長が高く、はなはだ黒い顔をし、耳が長く、耳飾りをしている 。 眼 は 丸 く 黒 く 、 髪 は乱れて 肩 まで垂れている 。 帽 子 ( エボウシ ) を被らず、赤い布で頭を包んでいる 。 腰には銀の帯、頚には 金 の 球 、 着 ている着物は赤か 黒 、 言 葉は日本語とも中国語とも異なり、文字も知らない 。 衣服を乞うので杉 ( カ タピラ ) 等を 与 え、飲食を乞うので八木 ( 米 )等 を 与 えた 。 流球船か ら は 煮 た 芋 や紫 苔 を 送 っ てきた 。 その味 は日本と変わらない 。 女は兵 具 を帯びた者や 子 供を負うた者がいる 。 頭の上に雷を結い、中国の女性にとても よく似ている 。 壮年の男 子 は万で肉を屠うる 真 似 を し 、 口を聞いてその肉を食べる仕種をするので、食われる

(6)

かと恐れて、早朝・日中・捕時(ひぐれどき) の三度戦った ( 原 漢 文 、 訳 す ) 。 十五世紀の﹃李朝実録﹄ の朝鮮人漂流民の見聞にも、耳を穿ちイヤリングをすること、小玉の首飾りをしている様 子が出ており、なかには足輪までもしているとある。頭を布で覆うのも、 一方では制度化されて鉢巻(帽子)になる が、近年まで広く琉球全域にみられたものである。大筋で琉球の風俗とみて間違いはない。 もう一つ注目すべきは船を良くあやつることである。未明に海上に二三般見えたかと思うと、たちまち十綬余り現 れ る 、 と あ る 。 一般に十人余り乗っている、という。武器を帯びた勇猛な姿と、丸木船のような船を描いた絵もつい ている。激しい戦闘と航海・操船はこの時代らしく筆者には思われる。この少し前から青磁が多量にもたらされてい る。琉球のこうした交易交通は、中国の史書や琉球の正史にはあらわれないが、ここにみれる小型の船の活動はなかっ たのだろうか。肉食の風らしい記述も、下記の明と通じて十年後、琉球の馬をおよそ千頭買いつけている点、注目し てよいように思われる。 これより少しあと﹃元史﹄によると、 フピライ汗が楊祥に命じて六千の兵をもって寸瑠求﹂を侵攻させたが撃退さ れ、さらに一二九七年にも張浩に攻めさせるが失敗している。この事件は英祖王代の事として王府正史の﹃中山世譜﹄ などにも出ているが、高良倉吉は﹁英祖の時代に二度にわたって琉球も元軍の襲来を、つけた﹃事実﹄は、まだ確証を もった事実ではないのである﹂(﹃新版琉球の時代﹄)と述べている。同様に元史の溜求伝じたいが琉球なのかどうか 考確証がもてないのである。それよりもなによりも﹁英祖王 L 代そのものが存在したかどうか、検討を迫られているの 論 頭 巻 で あ る 。 結局今日の寸琉球﹂が国際舞台に登場してくるのは、中国に明国が興り、 一三七二年使者楊載が琉球に到着して察 度の朝貢を促してからである。察度王に僅かに遅れて、沖縄本島南部の山南王や北部の山北王も朝貢するようになり、 九

(7)

中国を初め朝鮮や東南アジアの冊封固と交易を開始して、その動静が国際社会でも知られるようになる。しかしこの 聞の琉球の歴史や国内の動向をまとめた書物は、古琉球には一冊としてなく、 一 六

O

九年の薩摩の琉球侵略によるの か、辞令書を中心に僅かな行政文書ゃ、家譜などの片々たる記録と口承の﹁歴史﹂だけだった。﹃おもろさうし﹄も 口承の文字化した資料である。こうした困難な状況のなか、 一 六 五

O

年尚象賢 ・ 羽地王子朝秀は、琉球史上初めての 正史﹃中山世鑑﹄を編む。この史書がこの後に編纂される察鐸の ﹃ 中 山世譜 ﹄ ( 一 七

O

一 年 ) ゃ、これを改訂した察 温の﹃中山世譜﹄(一七 二 五年)、﹃球陽﹄(一七四五年)等に決定的な影響を与える。我々はこうした史書を吟味して、 口承の物語から文字化して歴史化した﹁説話 L と、寸説話﹂のなかの﹁歴史 L を読み取る必要がある 。 特に琉球の歴 史にはこの作業は欠かせないように思われるのである。 天孫氏 ではその開聞の王統﹁天孫氏 L を吟味することから始めよう。﹁天孫氏﹂は、現王統尚氏に繋がる王統と理解され、 為朝の子﹁そんとん﹂ ( 尊 敦 、 舜 天 ) に始まるとしている 。 まず﹁世鑑﹂の冒頭にある﹁琉球関関之事 L を見てみよう 。 嚢昔天城ニ阿摩美久 ト 云神御座シケリ。天帝是ヲ召レ、宣ケルハ、 此 下 ニ神ノ住ムベキ霊慮有リ。去レドモ未ダ 島ト成ラザル事コソクヤシケレ。爾降リテ島ヲ作ルベシトソ下知シ給ケル。阿摩美久畏マリ降リテ見ルニ、霊地 トハ見ヘケレドモ、東海ノ浪ハ西海ニ打越シ、西海ノ浪ハ東海ニ打越 シ テ 、未ダ嶋トゾ成ラザリケル 。 去 程 ニ 阿摩 美 久天 へ 上 リ、土石草木ヲ給ハレパ嶋ヲ作リテ 奉 ン ト ソ 奏シ ケ ル 。天帝叡感有テ土 石草木ヲ持チ下リ、 嶋ノ数ヲパ作リテケリ 。( 中略 )数 万歳ヲ経ヌレドモ、人モ無ケレパ神ノ威シモ如何デカ顕ハルベキナレパ、阿 摩美久又天へ上リ人種子ヲゾ乞給ケル。天帝宣ケルハ、爾が知タル如ク、天中ニ神多シト云へドモ、下スベキ神

(8)

無 シ 。 サレパトテ黙止スベキニ非ズトテ、天帝ノ御子男女ヲゾ下給 。 二 人、陰陽和合ハ無レドモ、居処並ガ放ニ 往来ノ風ヲ縁シテ女神胎給。遂ニ三男二女ヲゾ生給。長男ハ国ノ主ノ始也。是ヲ天孫氏ト号ス。二男ハ諸侯ノ始、 男 ハ 百 姓 ノ 始 、 一 女 ハ 君 君 ノ 始 、 二 女ハ祝祝ノ始也 。( 下 略 。 傍 線 、 一 部訓読、筆者 ) そして続けて神々の出現と祭把について述べている。これらの祭杷は神女を中心にした当時の祭杷を指していて、 これらが悠久の﹁獲昔﹂に起こったことと記している。このように現実の首里王権に直結させた考えが随所に見られ る 。天帝 の子である天帝子男女から生まれた 三 男 のうち、長男が天孫氏で、琉球国の国王の血筋として現在の尚氏に 連続する。つまり現実の身分制を太古からの既成事実と説くのである。首里を王城と定めたのも﹁普天孫氏初テ天降 リ遍ク諸国ヲメグリ、城ヲ築給ベキ地ヲ択給ケルニ、今ノ王城ニ益スベキ地ナシトテ、初テ経営シ城ヲ築給ケル間首 里 ト ハ申也﹂とある。これも同巧異 曲である 。 首里に王城ができたのは、今日の我々の共通の認識では、尚巴志のこ ろつまり十五世紀初頭以降のことである。しかし王城祭記と同じく王城のある首里もまた悠久の神話以来の首都でな ければならない 。 ﹁世鑑﹂は天孫氏を﹁天孫氏 二 十五代、其姓名今に知るべからず 。 故に之を略す 。 乙丑に起こり丙丑に終る 。 凡 そ 一高七千八百二年也﹂とある。この根拠を裏付ける資料を未だ見いだしえないが、﹁世鑑﹂ より後に出た 、貝原益軒 の﹃中華事始﹄(一六八三年)にヒントがある。﹃中華事始﹄ の 巻 ﹁ 皇 ( ク ハ ウ 、 スベラギ ) ﹂の項に﹁項峻が始学 考篇に云、天地立て天皇(テンクハウ)あり。張情が帝系譜に云、天地始起て漠幸鴻濠たり。則天皇を生ず。治世一高 論八千歳なり。﹂とある。天孫氏はこの﹁天皇﹂に相当すると同時に、治世一万七千八百二年というのも、ここの﹁一 四万八千歳﹂と関わりがありそうである。また ﹃中華事始﹄巻三寸甲子(カツシ、 エトヒヨミ)﹂に﹁天皇氏十干を以 て歳を定め、十 二 支 を以て時を定む﹂ともある。だとすれば甲子(きのえね) は十干十 二 支の最初の第一番目の組み

(9)

合わせでなければならない。 つまり琉球史舎の乙丑(きのとうし ) は そ の 二 番目の組み合わせということになる。な ぜ琉球の史書が一万八千歳より﹁一九八 L 年少ないのかという疑問は解けないが、この中途半端な数字と乙丑という のは、あるいは三番の制を丑の日から始めることとも、関わるのかもしれない。なおこのあたり司馬遷の﹃史記﹄ の 影響かと思われる。 天孫氏の治世はまた﹁二十五代﹂で滅んだとある。 一代平均実に七一二年にあたり異常に長いが、中国の史書にも 見られるように、太古は長寿だったとする思想を反映したものである(記紀にも見られる)。しかしこれが民族の歴 史観にまで昇華していなかったことは、二五代の国王のうち一人も名前が出されていないことで明らかである。歴史 的事実でないばかりか、まして民族の共同認識にもなっていなかったのである 。 もっと言えば、﹁世鑑﹂の創作である。 だがこれには、後述するような、それなりの根拠とすべき伝承説話があった。従って﹁世鑑﹂は﹃随書﹄﹁流求伝﹂の、 場帝の大業 三 ( 六

O

七 ) 年羽騎朱寛の来琉を天孫氏最後の 二 五代の国王の時とするのである。また天孫氏と代々の国 王の王統を﹁氏﹂とするのも中国の史書に﹁神農氏﹂﹁西陵氏﹂﹁萄山氏﹂といった表現の影響と思われる。ただ﹁天 孫﹂は ﹃日本書記﹄に散見される﹁天孫﹂にヒントを得ているようにも思われる 。 ﹁天孫﹂は一般に﹁あめみまこ﹂ ﹁あめみこ﹂﹂と訓じられているからである 。 だとすれば﹁あまみまこ﹂あるいは﹁あまみこ﹂とも読めるはずで、 この後者の﹁あまみこ﹂は琉球の創世神話に登場する﹁あまみきよ﹂に見事に合致する 。 ﹃ お も ろ さ う し ﹄ の﹁あま み き ょ ﹂ 、 ﹃ 琉 球 神 道 記 ﹄ の﹁アマミキユ﹂、﹁世鑑﹂の﹁阿麻 美 久 ﹂ 、 ﹃ 中山世譜 ﹄ の﹁阿麻弥姑﹂、﹃球陽﹄の﹁阿摩弥 姑﹂、すべて﹁あまみこ﹂の変化形を写したものである 。 ただし琉球語の﹁あまみこ L は﹁あまみ﹂に接尾語﹁こ﹂ が付いたもので、﹁あまみこ﹂のごとが、前項イ母音による口蓋化とオ段がウ段へ変化する一般的な法則により、 寸アマミキユ﹂となったもので、似てはいるが語源は異なる 。言 われているように、﹁あまみこ﹂ の﹁あまみ﹂は奄

(10)

美大鳥の﹁あまみ﹂と関係していよう 。 ﹁世鑑﹂神話では、阿麻美久は海中に漂っている島を天帝に土石草木を乞うて修造する役である 。 しかしその前の 袋中の﹃琉球神道記 ﹄ で は 、 アマミキュは女神であ っ て (﹁世譜﹂﹁球陽﹂ともこれを継承 ) 、男神シネリキョと風を 仲立ちにして苧み、 二 男 一 女を出産し、国土も修造する 。 ﹁世鑑﹂ではこれを分離して、天帝の子 ( 天帝子 ) が結婚 し て 人 を 生 み 、 アマミキュが国土を修造する、というふうに変化している 。 ﹁神道記﹂にはない天帝 ・ 天帝子の登場 で あ る 。 さらに古い神話の形を伝えていると思われる ﹃ おもろさうし ﹄ の 神 話 で は 、 日 神 ( テダイチロク・テダハチ ロ ク ) が﹁あまみきよ ・ し ね り き よ ﹂ ( 対 語 ) に命じて、﹁あまみやすぢや﹂の出産と国土修造を行っている 。 こ の ﹁ あ まみやすぢや﹂の﹁すぢや﹂は﹁すぢ﹂ ( 筋 ) に接尾語の﹁や﹂が付いたもので、﹁あまみ﹂にこれも接尾語の﹁や﹂ が 付 い て 、 アマミの血筋の者の意である 。 琉球では北は﹁上﹂と意識される 。 つまり﹁あまみ﹂は現 実 には北 ( 上 ) にあるが、それは開聞神話では天上にあ っ て、しかも悠久の過去に遡るのである 。 またおもろの白神 ( て だ ) を 天 、 天帝としたのはいかにも儒教的であり近世的でもあるが、 一 方では、天上から高貴な人だねを下ろす点、本土神話の 高天原神話 ・ 天孫降臨神話と共通する 。 天城の天帝に島を造れと下界に派遣された阿麻美久が見たものは、東海の波が西海に打ち越し、西海の波が東海に 打ち越す、人の到底住めないところであった 。 それを土石草木を天帝に乞うて、 ようやく島としたという 。 ﹃ 琉 球 神 考道記﹄にも﹁ 此 島尚小ニシテ、波ニ漂ナリ﹂とあ っ て 、 ﹁ ダ シ カ ﹂ ( シマミサオノキ ) と﹁シギユ 論 ド キ ) という祭杷植物と阿植を植えて﹁国ノ体﹂としている 。 つ ま り ﹃ 古事記 ﹄ 神話にあるように、天地初発の時﹁国 間稚く浮く脂の如くして、くらげなすただよへる L 状態だ っ たというのだ 。 大きな水のなかにゆらゆら浮かんでいる状 能 叫 、 ( ク ) L (トウヅルモ つまり﹁原始水神話﹂である 。 この原始水神話と天孫降臨の 二 つの要素を共有していることで、琉球の創世神話

(11)

四 は日本の創世神話と極めて類似したものにな っ て い る 。 上に述 べ たように、﹁世鑑﹂の、天孫氏の終駕は﹁丙午﹂年であ っ た 。天 孫氏は 二 五世 ( 代 ) の晩年逆臣利勇に王 位を纂奪され、為朝の遺子浦添按司尊敦がこれを諒討した年が﹁丙午﹂年である 。 尊敦は 翌 年淳照十四 ( 一 一 八 七 ) 年丁未即位して舜天王となる 。 為朝伝説と舜天王 先に述べたように、天孫氏の後を継いだのは為朝の子舜天である 。 寸 世 鑑 L の舜天王のところには、﹁古活字本保元 加 幻 五 ロ E t m 布ι = 云 " " ﹄ に 近 い ﹃ 保元物語﹄から長々と引用抜粋して為朝を紹介している 。 実際の為朝は、保元元 ( 一 一 五 六 ) 年に保 元の乱が起こり、父為義に従 っ て崇徳上 皇 方に味方して参戦したが破れ、捕らえられて、肩を抜かれた上に伊 豆 大島 に配流された 。 後伊 豆 大島をはじめ近隣の島々を支配し、そのため追討を受けて、治承元 ( 一 一 七 七 ) 年頃自殺した ことにな っ て い る ( ﹃ 日本架空伝承人名辞典 ﹄ ) 。 ﹁ 世 鑑 ﹂ では、伊 豆 大島五島を平定した永高年間 ( 一 二 ハ 五

l

六 ) ﹁潮流ニ従テ始テ流札ニ至﹂り、南山の大里按司の妹と結婚して尊敦 ( 舜天 ) を生んだ 。 やがて日本へ帰るとて妻子 を伴 っ て乗船するが、風雨に遮 ら れてどうしても進めない 。 船 に 妻子 を乗せるのは竜神の意に逆らうことだと悟り、 妻子 を ﹁ 牧 那 渡 ﹂ ( 牧港 ) の浦に下ろした 。 現在の伝説では 妻子 が為朝の帰りを待ち暮らした港という 意 に解されて﹁待 ち港﹂か ら の転化であるとする 。 しかし薩摩入りの時の ﹃ 喜 安日記 ﹄ には﹁まひ港﹂とあり、正保の国絵図、元禄の 国 絵 図 、 いずれも﹁ 真 比港﹂とあ っ て、この方が古くかっ長く続いていた名称 、 だ っ たことが分かる 。 こ の ﹁ 真 比 港 ﹂ は、首里が首都になる以前の中山王の首都が浦添だ っ たからだと思われる、浦添城 ( または伊祖城 ) の ﹁ 前港﹂だ っ たのではないかと考えている 。 あるいは﹁待ち港﹂説は﹁世鑑﹂の独創なのかも知れない 。

(12)

薩摩から琉球まで、為朝の渡来を裏書きする確かな証拠があった 。 尚王家の宗廟崇元寺には戦前まで為朝の鎌が伝 来していた 。 もっとも ﹃ 琉球国由来記 ﹄ ( 一 七 二 二 年 ) 巻 一 一 一 寸 弓 矢 ﹂ の項に﹁尊敦ノ御矢今一一至テ崇元寺大廟ニ宝納 セラル﹂とあって、為朝とはなっていないが、あるいは﹁尊敦ノ矢 L の方は 一 時の異伝かもしれない 。 一七六二年に 土佐の大島に琉球船が漂着したときの記録 ﹃ 大 島筆記﹄には、やはり崇元寺に﹁鎮西八郎為朝ノ鎌あり。とがり矢也 。 長七す計也﹂とある。強弓を引いた武人の伝承は、鍛に象徴されて、鹿児島にも鉄の鎌が伝来していたし、 一 八五

O

年から五五年奄美に遠流された名越左源太の ﹃ 南島雑話 ﹄に は、当済家に﹁永暦 二 年庚辰 二 月﹂の銘のある﹁為朝ノ 矢ノ根﹂があり、その絵も描かれている。永暦 二 年は 一 一 六

O

年である 。 伝説というのは事実と信じられる説話のこ とだから、このように事実を裏付ける物的証拠があるのはむしろ当然で、証拠の鍬は渡来南下のル l トを暗示さえし ているのである 。 同様に、糸満市高嶺の南山城のすぐ近くに﹁和解森(わどきなもりどがあり、南山王の妹と逢瀬を楽しんだ所と 伝えられている 。 また本島北部の今帰仁村運天 ( うんでん)港は、為朝が運を天にまかせて漂着上陸したところとい ぃ、近くの丘の上に東郷平八郎の揮事した﹁源為朝公上陸之祉﹂の碑が建てられている 。 この、運を天にまかせて上 陸したので運天としたという地名起源説については、伊波普猷が﹁運天の古形を辿る﹂ ( 全集四巻所収) で、運天の 古名は﹁くもけな﹂といい、 やがて﹁雲見 L の字が当てられて﹁ウンケン L と読まれるようになり、 ついに﹁うんで ん﹂(運天)になったと述べ、運を天にまかせて来琉したのが後世の付会であることを証明している。 巻 頭 論 考 古琉球社会の信仰を色濃く反映する﹃おもろさうし﹄ の巻十四の六

O

の お も ろ に 、 照るしなの 真みやに(太陽の真庭に) 君げらへ 手擦て ( 見 事 な 神女を祈 っ て ) 一 五

(13)

~ ノ 、 世のつほに(世の坪 H 政治の中枢におられる) おぎやかもいに ( 輝 け る お 方 H 国王に) みおやせ ( 奉 れ ) 又 そんとの真みや ( 尊 敦 の 真 庭 に ) 主 げ ら へ て づ て ( 神 様 に 祈 っ て ) とある 。 おもろには、ここの﹁そんと﹂(尊敦)が 一 例 あ る だ け で 、 ﹁ 舜 工 夫 ﹂ は 一 例 も な い 。 ﹁そんと﹂の対語の﹁照 るしな L は﹁照るしの L ともいい、太陽の神格化したもので、唯一の閑閑おもろにも出ている。つまり﹁照るしの﹂ には初発の太陽といった時間意識もあり、﹁世鑑﹂の﹁天帝﹂の人格像も投影している。由来記の玉城間切中村渠村 喜名の獄の神名﹁ソントンノマイケガ御イベ L ゃ、東風平間切当銘村の当銘之畿の神名﹁ソントンノ御イベ﹂も、何 も記していないが、尊敦が古い王朝の開基であることで拝所の権威を表したもので、同時に尊敦伝説の存在を街併さ せ る 。 ここにも﹁舜天 L は な い 。 ﹁おもろさうし﹂は一五五四首、﹃万葉集﹄ほどの分量の伝承歌謡で、わずかにこの一例しかないのは、 はたして 舜天が尊敦なのかどうかも疑わしくなるが、これが﹁世鑑﹂になってのことでないことは、古琉球に建立された石碑 で 一 言 、 え る 。 ﹁ 石 門 之 東 之 碑 文 ﹂ ( 国 王 須 徳 碑 、 一 五 二 二 年 ) 昔年舜天・英祖・察度三代以後其余世主難選化、不用同行、其以後百年以来、男女競進同行 この碑文を建てたものは第二尚氏第三代の尚真王であるが、舜天王統・英祖王統・察度王統と連綿していることを すでに示している 。

(14)

その子の尚清王の﹁かたのはなの碑﹂(国王領徳碑、 一 五 四 三 年 ) に な る と 、 大りうきう国中山王尚清は、そんとんよりこのかた 二 十一代の王の御くらひを つぎめしよわちへ その裏碑にも﹁舜天降来二十 一 代之王孫﹂とある 。 舜天王統 三 代、英祖王統五代、察度王統 二 代、第 一 尚 氏 王 統 七 代 、 第 二 尚氏は尚清までで四代、すなわち 二 一 代を数えている 。 ここでも﹁そんとん L が舜天と結びついている 。 こうし た代数の数え方は、その後に建立された各碑、﹁新築石橋記﹂ ( 添継御門之北之碑文 一 五 四六年 ) 、 ﹁ 君 誇 之 欄 干 之 記 ﹂ ( 一 五 六 二 年 ) 、 ﹁ 浦 添 城 の 前 の 碑 ﹂ ( 一 五九七年)に同様のことが見える 。 尚王統を天孫氏からではなく、舜天王か ら数えることが第 二 尚氏で定着していたことが分かる 。 おそらくこの時期までには舜天王を為朝の子とする為朝伝説 も定着していたと思われる。 京都五山の僧月舟寿桂(一四六

O

l

一 五 三 三 ) の ﹃ 幻雲文集﹄﹁鶴翁字銘弁序﹂に、琉球僧智仙に鶴翁の字を求め たときの文に、知日仙からの伝聞として為朝が﹁走赴琉球、駆役鬼神、為創業主、厭孫世々出子源氏﹂とある。この﹁役 鬼神﹂は文意が通じにくいが、あるいは﹁今鬼神 L ( 今帰仁) の誤写かもしれない。だとすれば運を天にまかせて上 陸した運天港という伝承も、この時期すでにできていたかもしれない。だが、﹃琉球神道記﹄の﹁洋(オキ ) ノ権現事 L に﹁為友此国ヲ治ラル時、鬼神降伏ノ神タル故ニ、念願アリテ立ル歎 L と あ り 、 ﹁ 由 来 記 ﹂ の﹁沖山(臨海寺) 一 一 一 所 考大権現縁起 L にも﹁為朝治此国時云々 L と同趣旨の文章が見られる。しかし本人が創業主になったのではなく、その 論 頭 巻 子舜天が王位についたことはいうまでもない。代々の王が源氏というのは正しく、実際そうした自覚が早くから琉球 側にあったからである 。 その一つの現れが、十八世紀以降徹底する、名前の頭に﹁朝 L を付けるやり方である。例え ば浦添王子朝恭とか越来親方朝誠という具合で、 一六七九年系図座が出来、士族層の家譜が整備されるようになると 七

(15)

J¥、 ますます徹底する。 なお喜界島には雁股石、沖、水良部島犬田布には為朝の腰掛け石がある。浦添市牧港のティラブヌガマには、為朝の 妻子が為朝を待ち暮らしたという洞窟がある。 四 天女と王の出自 舜天は漂白する貴種為朝の落胤である。始祖は英雄でなければならない。したがって舜天の﹁舜﹂は中国の聖天子 ﹁舜﹂によっているだろうし、また﹁首里天﹂に響かせたものであろう。ということは舜天王の当時に首里が王都で あることを主張しているし、また首里が王都になってから興った始祖伝説であるともいえる。すでに伊波普猷が繰り 返し述べているように、首里に王都を移したのは尚巴志になってからであって、それ以前は浦添だった。尊敦(舜天 王)が浦添按司だっというのもこれを反映している 。 舜天王統は舜馬順照、義本と 三 代続いて断絶する 。 王統の断絶者は始祖とは対照的に悪王愚王でなければならない 。 ﹁世鑑﹂によると、義本が即位するや﹁天下大ニ飢鐙﹂、次の年から疫病が流行、王は大いに嘆いて徳なきを悟り、 恵祖世主の嫡子英祖を摂政にし、 ついに英祖に譲位したとある 。 中国の奏舜の禅譲露そのもので﹁窃ニ念ニ、義本王 之徳、実也 。 英祖 王 之徳、舜也﹂とあり、この善行は﹁末代有り難きタメシなり﹂と讃えている 。 王統最後の王とし ては珍しい 。 英祖はその母が上帝を夢見て生んだ子だという 。 上帝は 天 帝に等しく、天孫氏のところで述べたように、あまみき ょにあまみやすぢやの出産と国土の修造を命じた﹁てだ﹂ ( 太陽神 ) にも対応する 。 したがって﹁後人、天子トハ申 奉 ル也﹂とある 。 ﹁ 中 山 世 譜 L の表現はも っ と 具 体的である 。 ﹁晩年に到り、その妻、日輪飛来して懐中に入るを夢む 。

(16)

( 中略 ) 首席に臨むの目、祥光異彩、屋中より直に 雲 端に透り、井に異香屋に満つるを見る﹂ ( 原漢文 ) とある 。 夢 に 太陽が母親の懐中に入るのを見て妊娠する、典型的な﹁日光感精説話﹂である 。 生まれるや光が家を突き抜けて天上 に到り、屋内には芳しい匂いが綴 っ た 。 創業者は異丈夫で、常人を越えていなければならない 。 英祖はまさにそうし た人として描かれている 。 英祖王統は大成、英滋、玉城、西威と五代続く 。 三 代の﹁英滋﹂はこれまでの英祖や恵祖と同じく﹁伊祖﹂を写し ているのであろう 。 ﹁大成﹂は大城、﹁西成﹂は﹁いるい﹂﹁いるへ L ( 西方の意 ) で、首里に対して西方あるいは北方 を意味しているかも知れない 。 つまり浦添と玉城間切 ( 大城は古く玉城間切 ) の地名である 。 さらに大胆にいえば舜 天王の子﹁舜馬順風 ⋮ ﹂も﹁しますひ﹂ ( 島添大里の﹁島添え﹂ ) にヒントを得ているように思える 。 そして例によって 愚王のため母と妃が朝政を聞き、そのために賢人は山林に隠れ、邪悪な者が朝廷に矯るありさまで、国人世子を退け て浦添按司祭度を国王に即位させた 。 当然この察度も一種の異常出生によって生まれている。父親は浦添間切謝那村 の奥聞大親という庶民 ( 農民 ) で あ る 。 しかし母親は天女である 。 い わ ゆ る 天 人 女 房 語 、 羽衣伝説である 。 ﹁ 世 鑑 ﹂ の記事を要約すると次のようになる 。 奥間大親が野良仕事の帰り、手足を洗おうと森の川という井川に行くと、この世のものとは思えない美しい女が 水浴びをしているのを目撃する 。 奥聞大親は女の衣裳を木陰から近づいて盗み取り、これをそっと草むらに隠し、 女の前に現れる 。 女は驚き身を隠そうとするが、ただ周章てて泣くばかり。奥問は一緒に探そうと偽って自分の 巻 頭 論 考 家へ案内し、衣裳は植の奥深く隠す 。 そのうち二人は夫婦となり、娘一人と息子一人が生まれる 。 ある日姉が弟 を携えて遊んでいると、何気なく﹁母親の飛衣は六足蔵の上、母親の飛衣は人足蔵の上﹂と歌う。これを聞きつ けた母親は、羽衣 ( 飛衣)が高倉の稲束の中の植にあることを悟り、これを着て昇天する 。 姉弟は泣き叫び母を 九

(17)

呼んだが、天女は名残を惜しんだのか、 二 度 三 度 飛 び 下 り 、 ついに見えなくな っ た 。 これと同様の話に銘苅子 ( めかるし ) 伝説がある 。 銘苅子も奥間同様庶民だった 。 首里の近郊真和志間切銘苅にい たので銘苅子という。ある日野良帰りに家の近くの井 川 で天女を見つけ、結婚、姉弟の 二 人の子の出産、子守歌によ る羽衣の発見と昇天等殆どおなじ説話である 。 娘は成長して尚真王の績となり、王女佐司按司がなしは第 二 尚氏第 二 代の尚 宣 威王の見里王子朝易に嫁いでいる 。 やがてこの系譜から湧川家が外祖銘苅子を継ぎ、この家には戦前まで銘 苅子と天女昇天の板絵も残されていた 。 また銘苅子の嗣と天女との関係を記した墓碑もある 。 琉球では、天女との結婚や昇天は過去の物語ではなく、まさに現実のものだった 。 ﹃ 球陽 ﹄ の伝える所によると、 尚敬王の 三

O

(

一 七 四 二 ) 年に、首里の東十キロほどの与那原の御井に天女が降臨したという記事を載せている 。 こ れ を 三 人の少女が目撃している 。 この年の五月 一 日の朝、この村の知古 ( に よ こ ) 十歳、そのいとこの武樟 ( んたる ) 八 歳 、 真 牛 (もうし ) 六歳 の 三 人が遊んでいると、突然黒 雲 が天を覆い、天色もうろうとするうちに、 二 つの丸い光が天から降りてきた 。 形は月に似て丸く、色は火炎のようだ つ た 。 下 の 二 人は恐れて、あわてて逃げたが、十歳の知古だけが残り、 部始終を見ていた 。天 女 の 一 人 は 青 衣を 着 ていて、この世の者とは思えない 美 しい人だ っ た 。 もう 一 人は紅衣を 着 て い た 。 水浴びを済ませるとクワ デ サの木に 登 り、また 二 つの丸い光にな っ て天上に消えた ( 原漢文 。 要約し て現代 語 に 訳 す ) 。 こ の 二

O

年後の ﹃ 大島筆記 ﹄ にもこの事件が載 っ ているので、広く知られた﹁事 実 ﹂ だ っ たことが分かるのである 。 由 来記 には、この井川は 天 女 の 子 が 産 湯を使 っ た﹁ 産 井 ( う ぶ が わ ) ﹂だとある 。 またそこにある浜の御殿は﹁ 昔 、 天 女 、 天 降リ シ 給ヒタルトナリ﹂とあ っ て 、 三 人の少女に目撃される以前から、そこは天女の天降りする名所であ っ

(18)

た。由来記の数十年前までは、開得大君を初め王国の高級神女と、ある場合には国王に従って、路次楽を演奏しつつ、 神歌を歌い、豪華絢燭たる行列をととのえて、年に数回知念間切や玉城間切にある東方の聖地を巡礼した 。 こうした 場合には必ず与那原にたちより、担ぎ手が御騎(ウチュ l ) を揺らしつつ波を蹴る仕種をする神事があった。与那原 の浜と御井は王国の聖なる場所だったのである。 天女の例は他にもある 。 尚清王の第七子尚宗賢伊江王子の母城の大按司は、かの奥聞の末商で、子孫が森の川(井 ) に﹁西森碑記﹂(一七二五年)を建立している 。 また南風原間切与那覇の宮城川(井)に天降りした天女の子孫であ る伊波子を元祖とする一族が、この森の川の近くに移り住んだことを記念して﹁大山御議碑﹂(一七六一年)を建立 しているのである (いずれも現存)。由来記には、他にも、西原間切我謝村のヱボシガワノ援にも、銘苅子物語と類 似の話があるが、こちらは二人の子を脇に挟んで昇天している。また昇天しないで土地の神女となり土着した天女も いた。奄美地方にも、あもりをなご(天降り女 H 天 女 ) の伝承が広範にあって、この種の説話が琉球列島に広く存在 したことが確認できる。 この天女伝説の背景には、琉球の神女が天上より天降りしたり、場合によっては観音や菩薩(天妃) のように天空 を飛瑚却さえした超人のイメージがあったのではないだろうか。例えば典型的なおもろの形で、巻一の三二(三の二四) ' ﹄ 、 ー 巻 頭 論 考 聞こゑ君襲い ( 名 高 き 君 H 神女を支配支配する開得大君が ) 降れて遊びよわれば (天降りして神事をなさると) 天より下の ( 天 よ り 下 H 地上の) せぢ果報 みおやせ ( 豊 かな 霊力を奉 れ )

(19)

又 せ 官 同 君 襲 い ぎ や ( 霊 力優れた聞得大君が) 又 首里森ぐすく(首里森の拝所で) 又 真玉森ぐすく(真玉森の拝所で) 右のおもろのように、首里域内の首里森・真玉森という拝所に聞得大君や三殿内の神女が聖なる拝所に現れて神事 を執り行うことを、﹁降れて遊びよわれば﹂と表現する。ここでは聖地の拝所は﹁おぽつ・かぐら L といい、天上に ある。神女はこの天上の拝所から天降りして示現するのである。祭記はこうした想念によってなりたっているといっ て も よ い 。 ある女性を天上から降下した聖なる女性 ( 天 女)と想念したり、国王を太陽神として神重視したり、高級 神女達の祭杷の場がさらに﹁おぽつ・かぐら﹂にも想念される。つまり地上の聖地 ( 拝所 ) に神女が現れることを﹁お ぽつ・かぐら﹂から寸降れる﹂といい、﹁降れた﹂拝所がそのまま﹁おぼつ・かぐら﹂にもなるという想念の循環があっ て、祭杷はいわば非日常的な時空を移動するのである。 これとは若干異なる﹁天女﹂観もあった。﹁琉球神道記﹂の﹁天久権現事 L に、異伝の銘苅子伝説を記録している。 銘苅子はここでは﹁目軽ノ翁子﹂となり、気高き女人が威儀正しき法師をつれて山腹の洞の井戸に入ったり、あるい は途中で消えたりする不思議を見て、後にそこに社を造った 。 神託に、我は熊野権現なり、とあったのでこれを祭つ たという天久権現社の由来語に結びついている。しかし最後に、 女人ハ国ノ守護神弁才天也ト。件ノ翁子、徒(ただ) 人 ニ 非 ズ 。 其 初 、 水 辺 ニ シテ長 キ 髪毛一茎見着ヌ。其ヲ 指 ( シ ル ベ ) トシテ、天女ニ逢コトアリ 。天 女、翁ガ屋ニ止 ( トドマル ) コ ト 凡 ソ 三 ヶ 年 。其 内息子 三 人アリ 。其 末今ニ村ニノコリナン。 と、銘苅 子伝説 がついている 。息子が三 人というのは異例だが、長い頭髪が流れているのを見て天女にめ ぐ り合うく

(20)

だりは、採集される説話にも、組踊﹁銘苅子﹂にも出ている。同時に、もう一つ﹁女人ハ国ノ守護神弁才天也﹂とあ る箇所が注目される。というのも、﹁内裏言葉﹂すなわち首里城の女官言葉を集めた﹃混効験集﹄(一七一一年) の 序 にも﹁夫、我が朝は神園、御本地弁才天也﹂と意外な文章があるからである。琉球は開得大君を中心にしたいわば神 女教のようなものであるが、その本質・本体は弁才天だというのである。実は開得大君御殿の拝壇中央には、弁才天 ともウクヮンヌン (御観音)とも呼ばれる画像が掛けられていた。多くの島より成り立ち、中国や薩摩へも通じてい た琉球国では、航海安全は神女の重要な主題だった。神女のおたかべ (祝調)にもこのことが現れている。これは、 琉球へやって来た冊封使の﹁使録﹂にも記されているように、天候異変の海上で、祈りに応えてしばしば飛来示現し て救助している﹁天妃﹂(ボl サ H 菩薩)とも、想念の習合がある。 つまり弁才天女も﹁天女﹂だったのである。 城 下 龍 調 停 池 の 北 一

00

メートルほどのところに、銘苅子が国王から拝領したと伝えられる旧跡があり、そこの井戸 さすかさ御井(ウカ l ) は、樹上から白鷺が発見したことになっている。つまりスワン・メイドタイプの原型が伺え る。羽が生え、足がいまだ鳥の足をした天女の美しい仏画が、山宗元寺の天井にいくつも見ることが出来た。﹁天女﹂ の想像はこうした琉球のもろもろの存在の投影のようにも思える。 ﹂うした伝承を持った察度王は、 一三七二年明の招諭を受けて、王弟泰期を派遣してより、中国や朝鮮に盛んに使 者を送り、活発な貿易を展開する。 つまりここからは実在の王統である。琉球ではその実在を信じられているのはこ の察度からで、それ以前の王統はいまだ実在を確認されていない。しかし史書は察度を説話で彩っている。 考 論 日を聞きつけ、求婚に出掛ける。家人は乞食のような貧しい身なりに僻易して追い払うが、懸命に按司との面会を乞う ﹁世鑑﹂によると、成長した察度は親の耕作も手伝わないで放坪な暮らしをしていたが、勝連接司の娘が美貌なの ので、按司も不審に思って会う。そして庭へ適されると、 つまらない者だが婿になりにきたといっていると来意をつ

(21)

四 げる。按司はじめ家人は狂人あっかいしたが、女が窓から察度を見ると、天子が衣笠を被っているさまに見えた。そ こで女は親を説得して嫁に行くことにし、男の浦添の茅屋に行く。松明を焼いて部屋を照らすと、 一 尺 ば か り の 、灰 にまみれ松脂で汚れて石のように見えたかまどが金塊であることに気づく。そればかりか、家の回り、畑の回りの石 もことごとく金銀の塊だった 。夫 婦はこの財宝で倭船から鉄を購入し、これで農機具を製作して農民に分け与え、遂 に民衆に推戴されて浦添按司になったと記している。昔話に言うところの﹁炭焼き五郎 L の 話 で あ る 。 察度が明の冊封を受けて﹁琉球国中山王 L になるのであるが、彼が金銀を得た旧跡は後に﹁金宮しという嗣が建て られた。その場所が宜野湾の大謝名にあり、古くは浦添間切だったところである。その金銀でもって倭商船から鉄を 購入して農民に与え、農具を造らせたので浦添按司に推戴されたという 。 ﹁ 当 時 牧 那 渡 ニ 倭 商 船 数 多 参 リ ケ ル ﹂ ( ﹁ 世 鑑 ﹂ ) とあって、中山王の根拠地が浦添であることを示している。 五

尚思紹と尚巴志

察度王統はその子武寧王で滅ぶ。こうした場合当然武寧王は悪王である。﹁世鑑﹂や﹁世譜﹂は筆を極めてその不 徳を記す 。 そして人心は尚巴志に帰し、武寧は討たれる 。 しかし尚巴志は父尚思紹を中山王に就かせ、自らは佐敷按 司になったとある。﹁世鑑﹂の知きは尚思紹そのものを記さない。尚巴志は﹁長事、 五尺ニモ不足、小勢ノ人ニテ御 座ケレパ、時ノ人、佐敷小按司トゾ申ケル﹂(﹁世鑑﹂)、﹁為人身体極小、長不満五尺、故俗競日佐敷小按司﹂(察鍔本 ﹁ 中 山 世 譜 ﹂ ) と記される 。 五尺にも満たないからと言って﹁身体極小﹂と 言 えるかどうかということもあるが、と にかく甚だ身長が低いという意味であろう。一寸法師や親指小僧などの典型的な﹁小さ子﹂説話には及ばないものの、 異常な身体的な特徴を持ったものが、偉丈夫に成長する点で共通している。﹁ 小さ 子﹂説話では、そうした子は神仏

(22)

に 祈 っ て 授 か る 、 いわば神の申し子である場合が多い。その点尚思紹・尚巴志の場合とはやや異なり、この点も注目 しなければならないが、近世の史書ではやはり 尋 常でないことがらとして装置される 。 後世の民間の資料である﹁佐銘川大ぬし由来記﹂にはこの物語が 詳 し く かれている 。 尚思紹の父鮫川大 主 は伊平 屋の出身で、迫 害 されて与那原に逃れ住み、漁業に従事する 。 ある時大城按司の 一 行に遭遇する 。 按司は鮫川を見て、 忽ち娘の婿にと乞う 。 卑賎の者だからと断るが、按司は夢に鮫川との結婚を勧められたといって、結局結婚して尚思 紹 ( 苗代大親 ) が生まれる 。 尚思紹はまた、地元の 美 里子の女と密通して懐妊させ、臨月近くなって隠せなくな っ た 娘を父親が知り、不義を責めて殺そうとするので、逃げて苗代樋川 ( 井 ) の小山に隠れて男子を生む 。 そこへ得体の 知れない白髪の翁 ( 神 ) が現れ、この子は尋常の子ではなく、将来国王になる子だから苗代大親に渡すようにといっ て、母子を引渡しおもろ ( 神歌 ) を歌って消える 。 その子というのが後の佐敷小按司 ・ 尚巴志である 。 このように﹁小 さ 子 L 説話には程遠いものの、結婚や誕生に神が介在しているあたり、どこか﹁小さ子﹂説話とのつながりを思わな い で は な い 。 その白髪の翁が歌ったおもろは、﹁佐敷苗代にすで物まもの、真玉のとむやかるみしゃ ( こ ) 、又もたい 苗代に﹂というものだった 。 単純に﹁おもろさうし﹂を敷き写したものではない 。 ﹁ お も ろ さ う し L 巻 十 九 の 十 に 、 さしきなわしるに(佐敷苗代に ) すで物ま物(鮮で者・真者) 考 論 日 と あ る 。 尚巴志の誕生を祝福したおもろと理解されて伝承されたらしく、﹁みしゃこ﹂をそのように理解したもので またまの とりやかる み し ゃ こ ( 真玉の取り揚がる善か人 ) 又 もたいなわしろに(栄へ苗代に) あ る 。 この理解は﹃混効験集﹄にもあり﹁みしゃ子﹂の項に﹁善子と云調也﹂とあっておもろの﹁またまのとりやか 五

(23)

ム ノ、 るみしゃこ﹂を引いている。だが﹁善い L という意味の﹁みしゃこ﹂は沖縄方 言 に な い 。 ただ八重山方 言 に ﹁ 結 構 だ ﹂ ﹁良いことだ﹂の意のミシャ l ンがあるが、この語は人につくことはない。また仲原善忠は﹃おもろ新釈﹄ で﹁鷲の 一種﹂としている 。 ワシ科の大型の海鷲にミサゴがあり、これを指しているのであろう。しかし﹁おもろさうし﹂に は ﹁ ま た ま の み し ゃ く ﹂ ( 十 一 の 一 一 一 一 、 一 一 一 の 九 H 一 二の八

O

)

、 ﹁ 玉 み し ゃ く ﹂ ( 六 の 四

O

、十五の二二、十六の八) を始め、﹁此のみしゃこ﹂﹁みしゃこ﹂﹁みしゃく﹂など用例は多いが、すべて﹁杓﹂ H ﹁酌﹂の例である 。 ここもそ う解釈すべきであろう 。 勝連のアマワリを讃えたおもろに﹁勝連のアマワリ、玉み酌有り居るな、京鎌倉、これど 言 ち へ 鳴 響 ま ﹂ (十六の八 ) とあるように、﹁みしゃく﹂は支配権の象徴でもあった 。 これで十分讃歌になりうる。 右 の お も ろ の 次 に 、 さしきぢゃうぐちに(佐敷の門口に) おにわしの ( 鬼鷲が ) はねうちする み も ん (羽打ちする 見事さ ) 又 にしのぢゃうぐちに ( 西︹北︺の門口に ) とあ っ て、﹁おにわし﹂に﹁誕生の子が泣く事、鬼々わし/¥とする事に云いかけたそ﹂、﹁はねうちする﹂に﹁子が 手足 差 上勤はたらく事をいふなり﹂とおもろ原注にある 。 おもろでは鷲や鷹は 霊 鳥と考えられ、その鳥が止まってい ることを瑞祥と考えているのである 。 また同由来記は続けて﹁苗代の大ひや、あやひどりあすばち、 い み や か ら ど 、 い み ぎ や ま さ る 、 ( 又 ) 苗 代 大 比 や ﹂ とあり、これは巻十九の十四のおもろと同じで、﹁あやひどり﹂は﹁あやひよどり﹂とあ っ てヒヨドリ ( 鴇 ) と理解 されている 。 だが﹁よ﹂を助調として﹁綾なる良い日を取 っ て﹂と解してよいだろう 。 ﹁いみぎや﹂の﹁い﹂は接頭

(24)

語で神酒の意、結局土地褒めとなる 。 ただし初めの﹁苗代の大ひや L は由来記では﹁よなみねの大や L に な っ て い て 、 この前のおもろ (十九の十 三 ) の﹁よなみねの大や﹂に原注﹁苗代の大や事なり L とあり、その対句﹁なわしろの大 や﹂に原注﹁此人佐敷小按司の御父なり L とある 。 これらのおもろは、このように佐敷小按司 ( 尚巴志 ) やその父苗 代大比屋のこととし、結局この苗代大比屋を尚思紹のように解している 。 おもろの﹁よなみね大や﹂や﹁なわしろ大 ゃ L が尚思紹かどうか 一 つの疑問だが、由来記の牽強付会とのみはいえず、これは佐敷のおもろがしだいにこの 二 人 のことのように理解されるようにな っ た 結 果 で あ っ て 、 つまり伝承の歴史化である 。 前に述べたように、尚巴志は不完全な寸小さ子﹂説話であるとい っ た 。 その肥大化の 一 時期があ っ たのではないだ ろうか 。 ﹁世鑑﹂には父尚思紹即位の記述がないのである 。 尚巴志は、洪武 三 五年 ( 一 四 七 二 年、洪武は = 二年まで しかない 。 実際は建文四年 ) に父の後を継いで佐敷按司にな っ た 。 山南王を討ち、中山王武寧を討ちそして北山王を 討って琉球を統 一 したとある 。 武寧のほかは山南王山北王の名前は出ていない 。 例によって﹁保元物語﹂の戦闘の模 様を長々と引用するばかりで内容がない。第 二 尚氏の宝物千代金丸についても﹁磐石ノイベ﹂を切って重間河へ投げ 捨てたとだけある 。 思紹について死後追封、 つまり即位しなかったことになっている。しかし﹁中山世譜﹂では尚思 紹は永楽四 ( 一 四

O

六)年に即位している 。 この方が正しい 。 ﹃明史﹄によると﹁思紹﹂は永楽四年中山王の使者が 武寧の伏罪を伝え、同五年には﹁中山世子﹂として朝貢し武寧の卦を報じ冊封を請、っているし、永楽十 三 年を最後に 山北王挙安知の朝貢が途絶え、永楽五年から﹁中山王思紹﹂名で永楽 二

O

( 一 四 二 二 )年まで十六年、 二 九回使者を 巻 頭 論 考 送っている。つまり思紹が中山王武寧や山北王馨安知を滅ぼしたことが明史で伺えるのである 。 そ し て 永 楽 一 一 一 年 ﹁ 中 山世子﹂の名目で思紹の計を告げ請封し、これに応えて永楽帝は冊封使周券を遣している。こうした明史に依拠した 詳細な記述は﹁世譜﹂になってからだが、説話も丁寧に拾っている 。 つまり童名や生年父母妃は﹁不伝 L としながら 七

(25)

)¥ も 、 ﹁ 遺 老 伝 L として父が鮫川大主といい伊平屋島出身であることなどほぼ﹁佐銘川大ぬし由来記 L と同趣の説話を 記 し て い る 。 ついでに言えば明史には﹁尚思紹﹂と﹁尚﹂を冠している例は一例もない。 これまで述べたように、思紹に対して尚巴志が﹁追封﹂したにしても﹁譲位﹂したにしても、これでは不完全な﹁小 さ子﹂とともに尚巴志讃歌であって、尚氏王統の始祖説話としては思紹は相応しくない。そのように待遇されていな ぃ。こうした説話に何らかの﹁真実 L があるとすれば、思紹は中山と山北の二王を滅ぼし中山王になったが、もしか すると尚巴志に滅ほされたのかもしれないし、尚巴志の父苗代大ゃを恩給とすることで親子になりえているのかもし れないのだ。思紹は佐敷按司だが苗代大やは佐敷按司ではない、ともいえる。 いずれにしても尚巴志こそ尚氏王統の 始祖だったことを表現しているのである。その意味では﹁世鑑﹂の方がより真実を反映しているといえる。 尚巴志の説話に、鍛治に鍛練させて造らせた宝万と船に満載した鉄塊を交易して、これで農具を作り農民の支持を 得たとある。祭度の話と同趣旨である。﹃琉球国由来記 ﹄ には宮古平良の﹁船立御獄﹂の由来として、久米島出身の 兄妹が寸鉄巻物﹂をもたらして評と鎌を作って農作業に供し、﹁世間豊穣﹂になったので社の神として祭ったとある。 按司(王 ) の鉄塊交易と農具製作の聞には、こうした文化神的なイメージも付随している。 明史で、尚巴志は﹁世子尚巴志﹂として永楽二

O

( 一 四 二 二 ) 年父王思紹の卦を告げているので、尚氏下賜は必然 的に尚巴志の即位年である永楽 二 二 年でなくてはならない 。 はたして禁鐸の﹃中山世譜﹄には永楽 二

O

(

一 四 二 二 ) 年、尚巴志即位時に中国から﹁尚﹂姓を下賜された記事がある。しかし﹁尚 L 姓下賜の確証は中国にはない 。 この時 期こうした中国風の姓名はまだ 一 般化していないのであって、それ故﹁尚巴志﹂そのものが琉球名であることも、考 慮にいれてよいのではないかと思われる。例えば﹁おもろさうし﹂に、 きみしあぢおそへが(君志 按司襲い H 王 が )

(26)

ちゃうはちは なしよわちへ ( チ ョ 1 ハチを産みたまいて ) すゑまさて ( 末 勝りて ) あ す び ぶれまへば ( 遊び 群 れ 舞 、 え ば ) かみてだの ほ こ て (神てだが 喜 ん で ) まぶりよわちへ ( { 寸りたまいて ) 又 きやのうちあやみやに ( 京 の内綾庭に ) ( 七 の 二 六 ) ここの﹁きみし﹂を﹁世譜﹂の伝える尚思紹の神号﹁君志真物﹂ の﹁君志﹂とすれば、﹁ちゃうはち﹂は尚巴志と な る 。 また十五の 三 九 の お も ろ に も 、 うらそいの おもいくわ ( 浦添の思い子 ) ももとちょわれ おもひくわ ( 百年ましませ 思い子 ) のちまさり ( 後勝り ) ももあぢ しちゃしよわれ ( 百按司を従えたまえ ) 又 世のつぢの おもひくわ ( 世 の 頂 の 思 い 子 ) 考 論とあり、これが尚巴志王をきしているかどうかは別として、そう珍しくもない﹁ちゃうはち﹂名に、漢字を当てたの 頭 巻 ちゃうはちは なしよわちへ ( チ ョ l ハチを産みたまいて) が﹁尚巴志﹂であるらしいと見当がつく 。 そしてこれが後に姓と名になり、﹁尚﹂氏を定着させることになるのであ ろ 、 っ 。 九

(27)

大胆ついでにさらに 言 えば、尚巴志は即位前は﹁佐敷小按司﹂といい、寸小按司﹂を﹁こあんじ﹂と読んでいる 。 これを小さい按司の意に解して不完全な﹁小さ子 L 説話を補強している。しかしながら、これとても﹁ちゃうはち﹂ や﹁尚巴志﹂を写しているとも考えられる。この時期の人名に﹁小満﹂(シュミチ)﹁小樽﹂(シュタル)があって、﹁小﹂ を﹁シュ﹂と読んでいる例がある。尚穆王の冊封のために来琉した周爆の﹃琉球国志略﹄人物編では、按司の子、組 踊でいう﹁若按司﹂に相当する者を﹁小按司﹂といっている。﹁こあんじ L が尚巴志にしか使われないこと、普通名 調の若按司を﹁小按司﹂といっていることからすれば、中国語的に音読している可能性がいっそう高くなる。 つ ま り 尚巴志を呼ぶ音と意味を表しているのが﹁小按司﹂だつのではないか、と思うのである。 ームー /、 伊平屋から来る覇王 尚巴志がうちたてた王統を﹁第一尚氏﹂、金丸(尚円)を始祖とする王統を﹁第二尚氏﹂とするが、無論これは近 代の研究上の区分であって、もともとは一連の尚氏王統である。代数もそのようにカウントする。それでも第一尚氏 の最後の王尚徳は悪王として記述され、対して第 二 尚氏を始めた尚円は、伊平屋の伊是名の百姓として生まれ、 田 の 水を盗んだのではないかと疑われて迫害を受け、そのため妻子弟を連れて国頭に逃れ、首里に出て尚泰久の家人とな り、泰久が国王になると鎖の側に栄進する。尚泰久の後を継いだ尚徳は戦を好み民を苦しめ金丸を疎んじたので、金 丸は西原の内聞に隠棲する 。 尚徳が即位して八年成化五 ( 一 四 六 九 ) 年に死するや、世人は金丸を推戴して王位に即 けたという 。 伊平屋で島人に迫 害 されて逃亡、南下してついに 立 身するパターンは、上に述べた鮫川大主の話と閉じ で あ る 。 そして明史によれば、尚円 ( 金丸 ) は、笑際はこどもほどに若い﹁父王尚徳﹂の計を告げて、冊封を乞うて い る 。 この点についてここでは詳しく触れないが、これは中国的な易姓革命の思想ではなく、 日本的な万世一系の恩

(28)

想である 。 その意味で尚円は尚巴志の末商であり第 二 尚氏の始祖という 二 重 の性格を有している 。 そして後の史書が 尚円の父を尚稜王として追称しているのは、尚巴志が思紹を追称もしくは即位させたことと同様の筆法である 。 し か も第 一 尚氏第 二 尚氏とも伊平屋に起源している 。 これは歴史的事実なのか説話なのか 。歴 史的事実とすれば、 い ま だ 按司が各地に在居して、その合従連衡の上に王権が存在し、時には尚金福の後継を争った志魯布旦の乱のように、激 しく戦って共倒れし、首里城まで嬢滅に帰するという不安定な時代に、鎖の側という役人がどのような環境で王位に 就けたのか、歴史研究は政治的経済的、場合によっては軍事的な説明が必要になる 。 同時に伊平屋がどうして王権を 生み出しうるかも考えねばならない。 ﹁世譜﹂には、尚思紹が山北王を今帰仁に攻めた時、挙安知が効験がないとして怒り、宝剣千代金丸 (手金丸 ) で 神石を十字に切り、その宝剣を志慶関川に投開し、これを後に﹁葉壁人﹂ ( 伊平屋人)が得たとある 。 しかし、先に も述べたように﹁世鑑﹂では山北攻めが尚巴志の条に出ているが、後に拾い取った伊平屋人のことはない 。 ところが ﹃ 琉球国由来記﹄や ﹃ 琉 球 国 旧 記 ﹄ 、 ﹃ 球陽 ﹄ 外巻﹁遺老説伝﹂はいずれも尚巴志のこととして、シゲマ川の下流、親 泊の水張川に沈んでいたのを、夜な夜な光が天にまで差しているのを、遥か対岸の伊平屋人が見て、わざわざ渡来し て水中の宝剣を拾い上げ、国王に献上した 。 ここにも伊平屋人が出ているのである。﹁世譜﹂が明史による合理解と すれば、山北討伐尚巴志説は伝承の説話である。この宝剣がどの王の代に王府の宝物になったか記さない 。 というよ 考 り 山北王の 霊剣が現に王府に存在していることにもっと大きな意味がある。 論 ⋮ 頭 巻 つまり尚氏の始祖尚巴志時代の宝剣がそ れぞれの王の時代に継続して受け継がれているのである 。 天皇の三種の神器と同様宝剣は王権の象徴であって、王権 の正当性を意味しているし、首里城での儀礼や即位の場面等で繰り返されることになる 。 尚真王の晩年に建てられた﹁国王領徳碑﹂ ( 一 五 二 二 年)に宮古から﹁ぢ金丸﹂(治金丸)と﹁み玉 L が献上されて

(29)

い る 。 この治金丸のことは ﹃ 球陽﹄に﹁平良の北、務田川、夜半に至る毎に、音響地を揺るがし、光輝天に沖して人 民畏憾す 。 鯖祖氏豊見親玄雅、彼の地に往き去くに、音弾み光滅して 一 物 有 る こ と 加 熱 し 。 曙天に至るを侠ち満処に巡 到し、心を用ひて之を見るに、只 一 剣有るのみ L とあり、これを献上したのである 。 もう一つの珠についても﹁琉球 国由来記﹂の﹁ 喜 佐真御巌﹂の箇所に﹁光明赫耀﹂﹁天ニ映徹ス﹂、﹁遺老説伝﹂にも﹁明珠至宝至異光照四方恰知明月﹂ (明珠、至宝至異にして四方を光照すこと恰も明月の知し ) と 、 やはり光り輝いている 。 おもろに用例は多いが、 霊 一 力は視覚的に光を発散する形で表現される 。 光る剣はまさに宝剣たるゆえんである 。 勿論治金丸も伝来して説話は現 在化する 。 この後日談が ﹃ 球陽 ﹄ 尚真の条の﹁付﹂の﹁虞建極 二 次京に赴き、以て剣を磨き並びに討還を為す﹂にあ る 。 即ち治金丸を磨きに出すため命を受けて京阿波根が治金丸を榛げて城を出ると、君真物(神 ) が中山門の外まで 見送った 。 磨き終わ っ てこれを持ち帰 っ たところ神の出現がないので不審に思い調べてみると、すり替えられている ことが分かり、再び上京して真剣を捜してかえると、神は中山門外に出迎えた、と記している 。 宝剣の霊威を示す逸 話である 。 偽物を見破 っ たのは 王 妃であ っ て、こうしたところに神女祭杷に関わる 宝 剣の役割を暗示している 。 尚円の後継者はその弟尚 宣 威であ っ た 。 ﹁世鑑﹂は即位の年の成化十 三 ( 一 四七七 ) 年の 二 月、王の即位を慶賀す るための陽神キ ミ テ ズ リ が 現 れ 、 い つ もは内原から出て東面、 つまり国王に対面するのであるが、この度は西面つま り背を向けて﹁首 里 ヲ ハ ル テ ダ コ ウ ガ 、 ヲモヒ子ノア ソ ピ、ミモノア ソ ピ、ナヨレパノ ミ モノ﹂と、王の傍らに 立 つ ていた尚 真 を暗 示 するおもろ ( おもろさうし巻十 二 の 十 二 H 二 二 の 四 九 ) を歌 っ た 。宣 威はこれを見て自分に徳がな いことを悟り、尚 真 に 譲 位して越来に隠遁、まもなく崩御したことにな っ ている 。 ﹁世譜﹂は﹁尚 宣 威、尚 真 幼沖之 故を以て、権 ( かり ) に大位に登 L っ たのだといい、これを正当化する 。 しかしここの﹁陽神キ ミ テズリ﹂というの は、﹁おもろさうし﹂に幾つかの例がある寸君手擦りの百果報事﹂のことで、﹁世鑑﹂が、 一 世 一 代の即位の時にのみ

(30)

出現するかのように 言 いだして、現在でも信じられているが、これは大いに誤りで、尚清の時には即位後十九年と 二 三 年に、尚永王の場合は即位十五 ( 一 五八七 ) 年に 二 度、尚 寧 の場合も即位十九 二 六

O

七 ) 年に 二 度、この﹁きみ て づ りのももがほうごと﹂の儀礼を 受 けている 。 即位時及び即位年に行う例はない 。 一 例を除いてすべて十月に集中 していて、冬 至 に近いことを考慮すると、太陽 ( ダ ) としての王の 霊 力を強化再生する恒例の祭把だ っ たことが推 測される ( 池宮正治﹁祭儀の時間﹂ ﹃ おもろさうし精華抄 ﹄ 一 九八七年 ) 。 史書の表現から見て、 宣 威は徳のない 一 種 の悪王である 。 その分尚真は賛 美 されなければならない 。 さて、何故王権は伊平屋から生まれるのか 。 これは大問題である 。 伊平屋を追われて南下する、迫害と流浪は﹁貴 種流離﹂語の典型である 。 王や王に近い存在になるために迫害と流浪があるのである 。 そしてこれは琉球神話が、あ まみやからあまみきょが島渡りして、あまみから順次聖なる獄々に降りつつ、知念玉城の聖地を経て、首里森に鎮座 する、神話のル ー ト をなぞ っ ているようにも思える 。 北方のあまみやは天上に直立したりして、創世神や天孫氏、王 権に直結する貴種の天降りまたは南下するところでもあ っ た 。 こうした潜在化した意識が王統の始祖語に投影してい る、とも 言 えよう 。 __,__ /、 おわりに 我々は、文字資料で情報を得、考えてきた長い思惟の慣性があることもあって、文字文献である史書に忽ち思考を 考 論縛られてしまう。特に琉球のように口承が生きている社会、説話が文字化しやすい土壌では、どこまでがいわゆる﹁歴 問史的事実﹂で、どこまでが認知された﹁想像力﹂なのか、 つとめて見極める必要がある。そこで初めて歴史と説話の 岐路を見いだせるのである。

(31)

四 本稿は一九九六年六月 二 九日、北海道滝 川 市国学院短期大学で開催された説話文学会での講演﹁琉球史書にみる説話 的表現﹂を修筆および加筆したものである。

参照

関連したドキュメント

図2 縄文時代の編物資料(図版出典は各発掘報告) 図2 縄文時代の編物資料(図版出典は各発掘報告)... 図3

「父なき世界」あるいは「父なき社会」という概念を最初に提唱したのはウィーン出身 の精神分析学者ポール・フェダーン( Paul Federn,

定義 3.2 [Euler の関数の定義 2] Those quantities that depend on others in this way, namely, those that undergo a change when others change, are called functions of these

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

・主要なVOCは

日時:2014 年 11 月 7 日 17:30~18:15 場所:厚生労働省共用第 2 会議室 参加者:子ども議員 1 名、実行委員 4

POCP ( Photochemical Ozone Creation Potentials ) 英国 R.G.Derwento

これに対し,わが国における会社法規部の歴史は,社内弁護士抜きの歴史