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広告記事から見る戦後中国人留日学生団体機関紙の運営とネットワーク -中国留日同学総会機関紙『中国留日学生報』(1947-1957)を資料に- 利用統計を見る

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(1)

運営とネットワーク -中国留日同学総会機関紙『中

国留日学生報』(1947-1957)を資料に-著者

荒川 雪

著者別名

ARAKAWA Yuki

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

55

ページ

97-109

発行年

2021-01

URL

http://doi.org/10.34428/00012449

(2)

広告記事から見る戦後中国人留日学生団体機関紙の

運営とネットワーク

──中国留日同学総会機関紙『中国留日学生報』

(1947-1957)を資料に──

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荒 川   雪

はじめに  本稿の目的は,戦後初の中国人留日学生(台 湾出身者を含む)の日本全国統一団体である中 華民国留日同学総会(1949年 9 月に中国留日同 学総会に改称,以下:同学総会)の機関紙『中 国留日学生報』(以下:『学生報』)(2)に掲載され た広告記事を分析し,『学生報』の運営方法, 財政事情,読者層及びその広告記事に反映され た在日中国人のネットワーク構築を明らかにす ることである。  『学生報』は,同学総会の機関紙として1947 年 1 月に創刊された。筆者は同学総会について 研究するため,1947年 3 月10日発行の第 3 号か ら1957年 7 月 1 日発行の第116号にかけて(欠 号や紙面の一部を入手できなかった号あり), 同紙を収集(複写)しており,これらに掲載さ れた計281本の広告記事を本稿での分析対象と する。なお,『学生報』の発行状況等については, 既刊論文や資料(3)で詳細に説明した成果を踏ま えることにし,本稿での追加的な考察は行わな い。  『学生報』に関する主な先行研究は,何義麟 の著書『戦後在日台湾人的処境与認同』,及び 田遠の博士論文「戦後直後における中国人留日 学生の境遇と選択:1945~1952――主に『中国 留日学生報』を通じて」とその一部を修正して 刊行した著書『一九四五年終戦直後の中国人留 日学生の境遇と選択――プランゲ文庫で辿る 「国家像」』が最も注目される(4)。しかし,『学生 報』の広告記事に注目した研究は筆者が所見し た限り,見つかっていない。本稿はそれまでに 注目されなかった広告記事を注目し,戦後中国 人留日学生団体の代表格としての同学総会の運 営とネットワーク構築,機関紙編集の特徴,問 題点を明らかにしたい。 一 ,広告記事の使用言語から見る『学生報』の 読者層の言語状況  創刊当初,『学生報』で主に使用された言語 は中国語ではなく,日本語であった。例えば, 筆者が確認できる最も古い『学生報』第 3 号 (1947年 3 月10日刊行)を見ると,日本語で書 かれた記事が16本に対し,中国語は 9 本にとど まった。同じページに,日本語と中国語の記事 が混在していたことも,創刊当初の特徴として 指摘できる。ただし,1947年 7 月15日刊行の第 8 号から国語版(中国語版)が設けられたこと により,中国語の記事は国語版に掲載されるよ うになった。  広告記事を見ると,こうした編集方針の変化 とは関係なく,日本語の使用が際立つ。図 1 に 示した通り,掲載された広告記事の90.7%は日 本語のみで書かれており,中国語,日本語と中 国語の併用を大きく上回った。  前述の通り,『学生報』は中国人留日学生の 全国統一団体機関紙としての性質上,中国語と 日本語,両方使って紙面を作る必要があった。 『学生報』の発行部数は3000部と言われており, 同学総会の会員である中国人留日学生への配

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布,関連団体や中華民国駐日代表団(以下:駐 日代表団)向けの寄贈,検閲用としての連合国 軍最高司令官総司令部(GHQ)への送付に加え, ごくわずかではあったが一般向けにも販売され ていたからである。こうした配布状況を踏まえ ると,日本語のみで書かれた広告記事が掲載さ れることはあり得たであろう。しかし,主な読 者が中国人留日学生であったにもかかわらず, 日本語のみの広告記事が全期間を通じて大部分 を占める傾向までは想定しにくい。  一方,広告記事は,新聞社など,媒体サイド の方針とは関係なく,広告主によってそのデザ インや使用言語が基本的に決められる。その判 断基準は,宣伝効果の高低に尽きる。したがっ て,広告主は日本語のみの広告記事を『学生報』 に掲載した方が日本語の書かれていない広告記 事よりも高い宣伝効果を得られる。このように 判断したと言えよう。実際,筆者が入手できた 『学生報』の全281本の広告記事の内,中国語の みで書かれたものは23本に過ぎなかった。特に 1956年までは,1948年 7 月 1 日に刊行された第 8 号と1953年 3 月 5 日に刊行された第67号に 1 本ずつの計 2 本にとどまっている。  中国語のみの広告記事が極めて少なかった理 由として,以下の二点が挙げられる。  第 1 に,『学生報』の主な読者であった同学 総会の会員が必ずしも全員中国語に堪能ではな かったことである。同学総会は元々,日本全国 各地の中国大陸出身の留学生団体と台湾出身の 留学生団体が合併して成立された。こうした経 緯から,会員も,大陸出身者ばかりではなかっ た。やがて,大陸や台湾から来日する学生が減 少し,帰国する者も現れる一方,華僑の子弟で 大学に進学した学生が同学総会の会員として加 わるようになった。とくに1953年以降,大陸出 身の留日学生の大多数及び一部の台湾出身の留 日学生が中国大陸に続々と帰国した結果,同学 総会の会員は,日本生まれの華僑の子弟及び台 湾出身の学生が大半を占めるに至った。大陸出 身の中国人留日学生と比べた場合,台湾出身の 学生や華僑の子弟は,日本語が堪能な半面,中 国語,特に北京語は十分に話せず,読み書きも 苦手とする人が多かった。こうした状況を踏ま え,『学生報』は重要なお知らせや学生たちの 活動紹介といった記事の多くを日本語で書いた のである。中国語記事あるいは国語版の記事は, 中国の新聞や雑誌の記事転載,そして,中国の 作家や研究者たちの文章,詩などの紹介が多 い(5)  第 2 に,学生以外の読者の言語環境を十分考 慮したことである。配布先をさらに細かく見る と,『学生報』は在日華僑の団体,日本国内の 中国研究や日中貿易に関連する団体にも配布さ れた。在日華僑及び中国に関心を持つ日本人に も販売されていた。これらの団体・個人は中国 語だけでなく,日本語とも接しており,日本語 の方が慣れ親しんでいる場合も少なくなかっ た。中国人留日学生は日本の大学に在籍できる 水準の日本語読解力があると考えられるため, 日本語のみの広告記事を出しても,メッセージ は伝わる。これらを検討し,日本語が『学生報』 中国語 8.2% 日本語 90.7% 日本語と中国語 1.1% 図 1   『中国留日学生報』に掲載した広告記事 での使用言語比率 出典:『中国留日学生報』の1947年 3 月 1 日刊行の 第 3 号から1957年 7 月 1 日刊行の第116号(中には 欠号や一部の紙面しかない号もある)の全281件の 広告記事に基づき,筆者が整理し,作成した。

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読者の共通言語と判断したからこそ,広告主は 中国語のみで書かれた広告記事を同紙にほとん ど出さなかったのであろう。  全般的な趨勢とは若干異なるが,筆者は『学 生報』が停刊する直前の1957年 4 月以降同紙に 掲載された中国語のみの広告記事にも注目して いる。  同年 4 月 1 日に刊行した第113号には 4 本, 5 月 1 日に刊行した第114号に 6 本, 6 月 1 日 に刊行した第115号に 8 本, 7 月 1 日に刊行し た第116号には 3 本と,23本の中国語広告記事 のうち21本(91.3%)が停刊直前の 3 カ月間に 集中した。背景には,中華人民共和国政府(以 下:人民政府)が同学総会を通じて在日中国人 留日学生(華僑学生,台湾出身学生を含む)へ 定期的に支給していた救済金の送金停止がある (送金停止については,後述)。この措置により, 同学総会は資金難に陥り,同年における広告記 事の急増につながった(図 4 参照)と見られ る(6)  もっとも,この時期の同学総会の会員の大半 は華僑家庭の出身で,日本で育った中国人学生 であり,中国語より日本語の方が堪能であった。 さらに,1957年の全広告記事53本を確認すると, 日本語のみ,日本語と中国語の併記がなお60% 以上を占め,読者層が変化したので,中国語の みの広告記事が増えたとは考えにくい。  むしろ,広告主が読者への宣伝効果以外も重 視するようになったためと考えられる。21本の 中国語のみで書かれた広告記事のうち,10本は 『僑務報』,『大地報』,『中国年鑑』など,日本 と中国で出版された中国関連の刊行物を宣伝, 残りは10本が日中貿易に従事する会社や業界団 体の宣伝広告, 1 本は在日中国人団体が行う予 定の中国語講習会の新規募集広告であった。 1952年の第 1 次日中民間貿易協定の締結を機 に,日中両国間の貿易が徐々に増加するととも に,中国残留日本人の帰国交渉を行う目的で, 中国の紅十字会の訪問団(団長:李徳全,副団 長:廖承志)の訪日が1954年に実現するなど, 日中関係は徐々に改善しつつあった。  しかし,人民政府は,一部の親中的な貿易会 社,商社,業界団体に限り,対中貿易を認める など,日本側のパートナーを選別する姿勢は崩 していなかった。こうした事情から,日中貿易 に従事する企業,日中関係の改善による中国需 要の高まりを期待する企業団体などは,中国と の親密さをアピールするため,『学生報』に中 国語での広告掲載を希望するようになったと考 えられる。広告主のこうした意向が収入源の確 保が急務となった同学総会側の事情と合致し, 中国語のみで書かれた広告記事が1957年 4 月以 降増えたのであろう。この現象はこれらの中国 語広告記事を掲載した広告主,とくに日中貿易 に従事する会社や業界団体は,『学生報』での 広告記事掲載は広告の「製品やサービスの販売 に利用される」という効果を期待したのではな く,ステークホルダー(人民政府)との関係性 を構築するというパブリック・リレーションズ を目的としているからだと考えられる(7)。この ような目的での広告記事の掲載は,これまで日 本における中国人団体や中国関連団体の機関紙 (誌)に関する研究では注目されてこなかった ので,本稿では『学生報』の事例を通じて分かっ た現象であるが,ほかの機関紙(誌)において も同様の目的とした広告記事の掲載有無につい て,今後も継続して考察していきたい。 二 ,『学生報』の広告主から見る同学総会のネッ トワーク構築  図 2 は,『学生報』に掲載された広告記事の 広告主を業種及び組織の性質別に分類したもの である。後述するように,『学生報』は同学総 会の財政状況が悪化した際や同紙の刊行資金を 捻出しにくくなったときに広告記事の掲載を増 やした。したがって,広告主を見れば,同学総 会が1947年から1957年までに日本社会において どのようなネットワークを構築してきたかが明 らかとなる。  こうした視点で広告記事を確認したところ,

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在日華僑系企業(52本,18.5%),在日中国人 団 体(43本,15.3%), 書 店(40本,14.2%), 出 版 社(33本,11.7%), 新 聞 社(31本, 11.0%)が上位の広告主であった。そのうち, 書店の広告記事は中国関連の書籍・雑誌が大半 を占め,出版社や新聞社が出した広告記事の多 くも在日中国人団体,日中友好団体,中国に関 する研究組織が出版した新聞,雑誌,書籍に関 する紹介,販売情報であった。同学総会が真っ 先に財政支援を求め,そしてその期待に応えた のが,在日華僑系企業をはじめとする学生に とって身近な企業・団体であったと指摘できる。  興味深いことに,『学生報』に広告記事を出 した新聞社に朝日新聞が含まれていた。『学生 報』が在日中国人にとどまらず,日本の大手新 聞社にもその存在が知られていたことを示す証 左と言えよう。広告記事の中身は,自社より出 版した在華同胞帰国協力会等編の『新しい中国 ――帰国者の体験から』という本を宣伝するも のであった。  また,図 3 で示した通り,広告主の事業所所 在地の 9 割以上が東京であり,飲食店,喫茶店, 劇場,劇団,映画館,病院に限れば,東京都か 神奈川県のいずれかであった。『学生報』の運 営本体である同学総会の本部及び『学生報』の 編集委員会は,東京都千代田区西神田の日華学 会のビルに置かれており,『学生報』への掲載 広告を募集する際に近場の企業や組織に重点を 置いたためと推測される。大阪府や京都府,兵 庫県など,関東以外の地域の広告主は,新聞社, 出版社,書店,在日中国人団体,在日華僑系企 業のいずれかであった。内容を調べると,在日 華僑系企業は同学総会への財政的な支援,出版 社などは『学生報』の読者層に向けた自社出版 物の宣伝が広告記事の目的と言える。 三 ,『学生報』の広告記事から見る同学総会の 財政事情  1947年春に刊行し始めた当初,『学生報』は 広告記事を全く載せていなかった。『学生報』 は同学総会の機関紙として,日本全国の中国人 留日学生のための配給,同学総会及びその支部 1 17 52 3 3 43 1 1 6 1 1 1 11 15 6 2 1 33 40 3 31 3 6 0. 4% 6.0% 18.5% 1. 1% 1. 1% 15.3% 0. 4% 0. 4% 2. 1% 0. 4% 0. 4% 0. 4% 3. 9% 5.3% 2. 1% 0. 7% 0. 4% 11.7% 14 .2 % 1. 1% 11.0% 1. 1% 2. 1% 広告記事数 割合 図 2 『中国留日学生報』に掲載した広告記事の広告主の業種および組織の性質別の記事数と比率 出典:『中国留日学生報』の1947年 3 月 1 日刊行の第 3 号から1957年 7 月 1 日刊行の第116号(中には欠号 や一部の紙面しかない号もある)の全281件の広告記事に基づき,筆者が整理し,作成した。 ■ ■

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である各地方の同学会,各地の留学生寮,各国 の在日学生団体の活動情報,華僑や在日中国人 団体の関連情報,中国や日本国内外の最新 ニュース,文化芸術関連の作品等を掲載に徹す るべきという編集方針によるものと見られ る(8)  ところが,1947年 8 月15日刊行の第 9 号で広 告記事を初めて掲載したのを機に,その後も筆 者が入手した1957年 7 月 1 日刊行の第116号ま で広告記事は断続的に掲載された。  この転換には,以下の二つの理由が考えられ る。  一つ目の理由は,組織改革に伴い,『学生報』 が財政面での自立を求められるようになったこ とである。1947年 7 月,『学生報』の掲載記事 は東京の会員向けの情報に偏重しているという 地方会員の批判を受け,同学総会内に「中華留 日学生報編輯委員会」という新組織が作られた。 この組織は同学総会文化部から『学生報』の編 集機能を引き継ぐとともに,各地の同学会から 記者を募集し,日本各地の同学会の活動情報や 会員情報,そして各地の会員に関心を持つ地元 情報の掲載を増やした(9)。編集委員会の代表が 横滑りするなど,実質的には変わらない面も多 かったものの,形式的な独立と費用の増加によ り,『学生報』の発行経費を賄うには同学総会 からの補助だけではなく,『学生報』の自助努 力も不可欠になった。  二つ目の理由は,同学総会が自前の収入を増 やす必要に迫られたことである。1947年春以降, 同学総会は生活に困った中国人留日学生に独自 の救済金を給付することで,組織の求心力を高 めようとした。その理由について,筆者は既刊 論文で次のように指摘した。  1946年に中華民国政府(以下:国府)駐日代 表団の指導で成立した同学総会は,戦勝国中華 民国による中国人留日学生の全国統一団体とい う名誉が発足当初より付与された。さらに,同 学総会に会員登録すれば,GHQからの特別配 給を受けられる経済的なメリットもあり,日本 各地の中国人留日学生のほとんどが会員登録 し,同学総会の活動に積極的に参加した。しか し,1946年10月,日本政府が中国人留日学生に 戦後支給した「貸金」と呼ばれた補助金を完全 に停止すると,多くの留日学生が困窮した。加 えて,中国内戦の勃発によって国内政治に対す 10 4 2 2 25 7 1 1 1 2 1 3. 6% 1. 4% 0. 7% 0. 7% 91.5% 0. 4% 0. 4% 0. 4% 0. 7% 0. 4% 大 阪 府 神 奈 川 県 京 都 府 京 都 府 東 京 都 東 京 都 東 京 都 大 阪 府 東 京 都 大 阪 府 兵 庫 県 愛 知 県 福 岡 県 岡 山 県 東 京 都 兵 庫 県 兵 庫 県 不 明 広告記事数 割合 図 3 『中国留日学生報』に掲載した広告記事の広告主の所在地 出典:『中国留日学生報』の1947年 3 月 1 日刊行の第 3 号から1957年 7 月 1 日刊行の第116号(中には欠号 や一部の紙面しかない号もある)の全281件の広告記事に基づき,筆者が整理し,作成した。

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る失望から,国府の指導の下で設立され,中華 民国という国名を冠する「中華民国留日同学総 会」と距離を置こうとする中国人留日学生が増 えた(10)。そこで,同学総会は日本各地の華僑に 寄付を呼び掛けると同時に,『学生報』への広 告記事掲載収入も留日学生の給付金に充てよう としたと考えられる。  結果,図 4 に示したように,1947年に広告記 事の掲載が開始した後,留日学生の生活困窮状 況が最も悪化し,そして同学総会と駐日代表団, 日本政府,GHQとの交渉も難航した1948年に 広告記事の掲載本数が急増し,前年比約 3 倍の 65本に上った。また,表 1 が示すように,飲食 店,喫茶店,食品店は1949年以降,『学生報』 への広告掲載を確認できなかった。見方を変え れば,1947年から1948年にかけて,留学生団体 の機関紙にふさわしいかどうかよりも収入の確 保を優先し,さまざまな職種・団体の広告記事 を選り好みせず載せたと言えよう。  1949年に入ると,掲載広告記事の数は大幅に 減少した。筆者が収集できた1948年刊行の『学 生報』は 8 つであったのに対し,1949年刊行の 『学生報』は12と,掲載元である新聞の数は 1949年の方が多い。にもかかわらず,広告記事 数が減少したのは,『学生報』及び同学総会の 運営方針が変化したためと考えられる。1948年 から1949年夏にかけて,中国人留日学生への救 済金をめぐる同学総会と駐日代表団の意見の相 違は大きくなっていた。加えて,駐日代表団に よる秘密裡に日本と貿易していた台湾の業者に 上納させた中国人留日学生を救済するための資 金の私的流用に気付いた同学総会の幹部が,そ の詳細を『学生報』で明らかにした(11)。これら の要因によって,駐日代表団との関係悪化は深 刻なものとなった。  また,国府との関係悪化に伴い,同学総会は 中国共産党寄りの姿勢を強める。1949年に中華 人民共和国が成立した際,同学総会は即座にこ れを支持し,『学生報』も建国祝賀の記事を掲 載した(12)。こうした方針転換に基づき,1949年 に掲載した23本の広告記事のうち,15本は日本 の研究団体や,在日中国人団体,在日華僑系企 業,中国関連書籍を販売する書店による中華人 民共和国成立及び中央人民政府樹立の祝賀広告 記事であった(図 5 )。  一方で,同学総会は,中国人留日学生への救 済金給付を続けるため,広告以外の収入獲得に 注力し,そうした取り組みが一定の成果を出し 22 65 23 1 12 75 12 15 3 53 7. 8% 23.1% 8. 2% 0. 4% 4. 3% 26.7% 4. 3% 5. 3% 1. 1% 18 .9 % 1947年 1948年 1949年 1950年 1952年 1953年 1954年 1955年 1956年 1957年 広告記事数 割合 図 4 『中国留日学生報』に掲載した広告記事の掲載年別の記事数と割合 出典:『中国留日学生報』の1947年 3 月 1 日刊行の第 3 号から1957年 7 月 1 日刊行の第116号(中には欠号 や一部の紙面しかない号もある)の全281件の広告記事に基づき,筆者が整理し,作成した。

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た。例えば,同学総会は奨学会を組織し,在日 華僑に募金を呼びかけた。東京の後楽寮(中国 人留日学生の寮)でも,独自の苦学会を組織し て募金活動を展開した。両組織の動きは一本化 され,1949年秋には同学総会独自の奨学会のみ で救済金を給付できるようになった。これも同 学総会はなりふり構わず広告記事を集める必要 性が後退し,喫茶店などからの広告記事を『学 生報』に掲載しなくなった一因と見られる。  筆者が収集した1950年の『学生報』には,中 表 1  『中国留日学生報』に掲載した広告記事の掲載年別の広告主の業種別の記事本数 広告主の業種 1947年 1948年 1949年 1950年 1952年 1953年 1954年 1955年 1956年 1957年 飲食店 4 7 映画館 2 1 12 喫茶店 1 4 1 劇場 2 劇団 1 研究組織 2 1 1 1 5 1 1 5 航空会社 1 在日華僑系企業 1 12 3 1 16 3 1 15 在日華僑系病院 1 1 1 在日学生団体 2 1 在日中国人団体 3 7 4 1 9 2 7 2 8 在日中国人団体,在日学生 団体,日中友好団体 1 在日文化団体 1 出版社 6 10 7 6 3 1 書店 1 8 2 1 15 1 1 11 食品店 2 1 新聞社 1 6 3 11 3 2 5 中国語学習関連団体 1 1 1 通信社 1 1 1 3 日中友好団体 1 1 1 3 日本の共産主義団体 1 日本の社会団体 1 日本の文化団体 1 掲載年別広告記事数の合計 22 65 23 1 12 75 12 15 3 53 出典:『中国留日学生報』の1947年 3 月 1 日刊行の第 3 号から1957年 7 月 1 日刊行の第116号(中には欠号や一部の紙面しかない 号もある)の全281件の広告記事に基づき,筆者が整理し,作成した。 図 5  『中国留日学生報』に掲載された中華人民共和国成立の祝賀広告記事 出典:『中国留日学生報』1949年10月11日(第36号) 2 - 3 頁。 國 和 人 華 .中 中國研究所

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日文化研究所が出版した非売品の『中国木刻集』 という本の宣伝広告記事 1 本しか掲載されず, 翌1951年は広告記事が全くなかったのは,広告 以外の収入確保によるものと見られる(13)。これ は国府の駐日代表団は,中国人留日学生が中華 人民共和国を支持する趨勢を変える目的で,生 活に困窮した学生に補助金を直接給付するよう になったことと関係している。同学総会の幹部 も含む多くの日本全国の中国人留日学生がその 補助金を受け取りながら,人民政府支持の姿勢 を変えず,同学総会の運営や受領できなかった 中国人留日学生の救済に充てたことで,その後, 日本政府や駐日代表団から圧力をかけられ,活 動停止まで要求される厳しい状況を同学総会が なんとか乗り越えた皮肉の結果につながっ た(14)  補助金の給付が事態の好転につながらなかっ たことを受け,1951年 4 月から,駐日代表団は 補助金を受け取る際に,団長と留学生管理を担 当する第二組組長の訓辞を聞くよう求めた。さ らに受給者に対して,同学総会に反対する態度 の表明を補助金支給の要件とし,さらには,国 府への忠誠宣誓書への署名まで要求するように なる。ところが,駐日代表団による一連の要求 が補助金を受け取る中国人留日学生の激減とい う逆効果をもたらしたことで国府は補助金の全 面見直しに舵を切った。1952年に「日華平和条 約」が締結され,駐日代表団に代わって中華民 国大使館が中国人留日学生を管理する業務を担 当するようになったのを機に,同年 4 月には卒 業生への支給を停止,そして同年 9 月には留日 学生向けの補助金の支給を全て停止したのであ る(15)  国府による補助金支給の全面停止に伴い,『学 生報』に掲載する広告記事の数は再び増え始め る。1952年 2 月15日刊行の『学生報』には 5 本 の広告記事を掲載された。うち 4 本は出版社に よる刊行物の宣伝であったが,筆者は新宿地球 座という在日華僑の資本家林以文氏が経営する 映画館の上演作品に関する広告記事の方を注目 した(16)。林氏は1949年同学総会の呼びかけに応 じて同学総会の奨学会に50万円も寄付するな ど,同学総会の活動を積極的に支援した在日華 僑であった(17)。国府による補助金支給停止,国 府及び日本政府の圧力強化に起因する同学総会 の財政難問題は1953年まで続いた。同年の『学 生報』に掲載した広告記事数は75本と,『学生報』 の刊行期間で最多となったのは,財政難に対応 するためと言えよう。ただし,1948年とは異な り,地球座を含む映画館や在日華僑系企業,中 国関連刊行物を販売する書店,在日華僑が経営 する新聞社からの広告に依存する一方,飲食店 や喫茶店,食品店などの宣伝広告は皆無に等し かった。『学生報』の編集者が主に,在日中国 人団体や在日華僑系企業といった大口の支援者 に援助を求めた状況がうかがえる。  同学総会の財政事情が1952年秋から1953年に かけて徐々に改善した要因として,人民政府華 僑事務委員会が同学総会の要望を受け,中国人 留日学生のための救済金を1952年 9 月以降送金 し始めたことも挙げられる。当初,国府や日本 政府の妨害で,送金が手元に届くまで時間がか かることが多かったものの,1953年春頃からは 届くまでの時間が短縮し,安定的に送金できる ようになった。これを受け,同学総会の奨学会 は,人民政府から送付された新たな救済金を適 切に配るとともに,同学総会の求心力も高める 目的で,救済金の管理委員会及び審査委員会を 設立した。その後,会費滞納者の増加を受け, 同学総会は奨学会を廃止し,会員である中国人 留日学生(卒業生,華僑学生を含む)への救済 金の配布を直接行うようになった。さらに,救 済金からの会費の天引きに加え,同学総会の運 営資金も人民政府から送金された救済金で賄う ようになったため,広告収入に依存して財政難 の解消を図る必要はなくなった。  こうして財政事情は改善したものの,同学総 会は新たな課題に直面する。1953年から1956年 にかけて人民政府が行った帰国キャンペーンに 応じて,中国人留日学生のほとんどが中国大陸

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に帰国したため,同学総会は華僑学生が会員の 多数を占めるようになり,中国大陸や台湾から 来日した留日学生のための組織という設立当初 の理念との乖離は日増しに拡大した。活動実態 の面でも,救済金の配布機能しか評価されず, 同学総会の組織的な求心力は次第に低下した。 さらに,同学総会が人民政府華僑事務委員会か ら救済金を受け取っていたため,その機関紙で ある『学生報』は人民政府の最新政策及び中国 の情報を報道する宣伝媒体へと変質した。同学 総会自体も,華僑事務委員会や同委員会副主任 の廖承志の指示で,人民政府訪日団の通訳や警 護といった対中協力の業務を行うようになっ た(18)。1954年から1956年にかけての広告記事の 減少傾向は,こうした状況が続くなか,広告主 が『学生報』に広告記事を出す意欲を減退させ たためとも推測できる。  しかも,こうした状況下で掲載した広告記事 の多くは,同学総会を含めた在日中国人団体の 活動に関する宣伝であった。特に,1956年に掲 載を確認できた 3 本の広告記事のうち 2 本は同 学総会の事務員募集と原稿募集の記事であり, 内山書店・極東書店・大安書店による中国語会 話の教科書に関する広告記事しか,本当の意味 での広告記事とは言えなくなったのである。  そして,1957年になると,掲載広告記事の数 は再び急増した。筆者が収集できた1957年の 5 つの『学生報』には,広告記事が全部で53本掲 載された。広告主別では,在日華僑系企業が15 本で最も多かった。広告記事数で見ると,1953 年,1948年に次ぐ水準であり,同学総会及び同 組織の機関紙『学生報』は三度目の財政難に陥っ たと言える。その主因として,中国からの送金 停止が挙げられる。人民政府は第二次五カ年計 画の始動に向けて全国的な節約運動を展開し, その一環として1957年 5 月,同学総会に送付す る中国人留日学生への救済金の大幅な規模縮小 を決定,その後送金は全面停止された(19)。これ に伴い,救済金から会費を天引きすることがで きなくなった。1953年から1956年までの帰国 キャンペーンで多くの留日学生が帰国し,会員 数の大幅な減少で会費収入自体が落ち込んでい たこともあって,同学総会は『学生報』に掲載 する広告記事の数を増やして三度目の財政難も 乗り切ろうとしたと考えられる。  『学生報』の正式な停刊時期が現段階ではま だ判明できていないが,筆者を含めて複数の研 究者による史料調査では,現在確認できる最終 号は1957年 7 月 1 日刊行の第116号である。『学 生報』の停刊については,大里浩秋と筆者によ る複数の関係者へのインタビュー調査から,人 民政府の救済金給付の停止と『学生報』主要編 集者である陳立清氏が旅日華僑青年聯誼会機関 誌『東風』の編集を担当するようになり,同学 総会の活動にあまり関わらなくなったことが主 な理由であったと判明した(20)。結果として,同 学総会は人民政府の国務院華僑事務委員会の直 接指導を受けるようになり,人民政府の財政支 援がなくなり,一時在日華僑系企業や,中国関 連団体,書店の広告掲載で『学生報』の刊行を 継続しても求心力が持続できず,組織として 1960年代まで存続していたが,『学生報』を通 じた同会の活動紹介や,人民政府の政策宣伝が 継続できなくなったと言えよう。また人民政府 は同時期に東京華僑総会の機関紙である『華僑 報』や人民政府の支援を受けて刊行した『大地 報』,そして,中国の国内で刊行した対外宣伝 用の定期刊行物が日本の書店を通じて販売され るようになり,同学総会の会員が減少し,文科 系の華僑子弟が主な会員になった情況下では, 『学生報』を通じて宣伝する意味が大きく減退 したのも,人民政府からの財政支援が打ち切ら れた要因だと考えられる。  この点について,1957年に 5 月 1 日に刊行し た『学生報』には,「執行委員会は大会の執行 部一般報告に於いて,帰国促進運動を展開する に当たり犯した誤りを次のように自己批判して いる。『私達は人民政治協商会議以後,祖国の アッピールに応えて大幅に帰国促進運動を展開 してきたが,その成果は上がらぬのみならず祖

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国からのアッピールの真意を取り違い文,理科 系を問わず卒業したら即時帰国せよと呼びかけ を行ってきたが,これは誤りであった。社会主 義国家建設の基盤となる重工業の発達を考える つけ,又文科系出身者の帰国後の工作(仕事) 状況を見るにつけても我々が卒業したら帰国せ よと呼びかけてきたことに反省しなければなら ない。人と接触することが仕事である文科系の 学生が国語を話せないということは工作(仕事) に支障をきたすし又思想意識が低く,学習と並 行して実践することの必要を我々自身強く意識 しなかったがゆえに,それを徹底させることも しなかった…』」という反省文を掲載し,さら に同記事に「先月の十八日から三十日までの間 に祖国から三通の電報が参りました。その電報 の主旨は皆,理工科系以外の帰国希望者は出来 る限りしばらく帰国を待ってもらいたいという 意向をもらしているものである」と書いた(21) この13日間の間, 3 通も同学総会に届けられた 祖国からの電報に現れた人民政府の真意は中国 人留日学生全員の帰国を歓迎するのではなく, 重工業に貢献できる理科系の学生のみ歓迎さ れ,一般学生はむしろ日本に留まってほしいと いうことであった。このような祖国の姿勢も同 学総会の求心力が減退した原因になり,最終的 に広告記事の募集によって,『学生報』の刊行 継続を模索した同学総会も,編集担当者の移籍 によって停刊を決定せざるを得なかったのであ ろう。 おわりに  本稿での『学生報』の広告記事に関する分析 を通じて,以下の結論が得られた。  広告記事における言語の使用状況から,日本 語のみで書かれたものが全体の90%以上を占 め,広告主からすれば,中国語より日本語の方 が宣伝効果は高いと判断していたことが明らか となった。同学総会の会員に台湾出身の学生や 華僑学生が多く含まれていた点などから,『学 生報』の読者層の共通言語は中国語ではなく, 日本語であることも分かった。  『学生報』に広告記事を出した広告主の業種 や組織別の性質に関する分析を通じて,同学総 会は財政難に陥り支援が必要な時期には在日華 僑系企業(飲食店や食品店のオーナーも在日華 僑が多い),在日中国人団体に広告記事を依頼 する傾向を強めることが確認された。この結果 からは,同学総会が在日華僑及び在日中国人団 体とのネットワーク構築を重視していたことも 示唆している。また,中国関連書籍・雑誌を出 版・販売する出版社,新聞社,書店が主な広告 主の一角を占めたことは,『学生報』への広告 記事掲載による高い宣伝効果が出版業界やマス コミの間で広く認識されていた可能性をうかが わせる。朝日新聞が『学生報』に広告記事を出 したことは,その有力な証拠に挙げられよう。  そして,財政難に陥るたびに,『学生報』で 広告収入に依存する手法への回帰が見られた。 同学総会は組織としての財政難や中国人留日学 生の生活難を解決するため,日本政府や国府, さらには人民政府に支援を求める手法も使用し た。こうした手法で支援が得られ,同学総会の 財政事情が良くなると広告記事への依存を減ら すものの,支援が打ち切られると,在日華僑系 企業や在日中国人団体に援助を求めるようにな る。同学総会は,こうしたサイクルから抜け出 せなかったという厳しい評価が妥当な見方かも しれない。 1 回目と 2 回目の財政危機は広告記 事の掲載によってある程度回避することがで き,その後ほかの支援先を見つかり,財政状況 が再び安定したが, 3 回目の危機は広告記事の 掲載で一時的に凌いでも,『学生報』の刊行は 継続できなかった。それは冷戦中に人民政府側 に立つ選択をした同学総会が,人民政府からの 財政支援を打ち切られても,ほかの政府機関へ の支援要請もできなかったため,華僑組織と連 携した活動を選択せざるを得なくなったことも 一因である(22)

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<注> ⑴ 本稿は日本学術振興会科学研究費(基盤研究C) 「冷戦期中国外交の形成――人事システムを中心 に――」(研究代表者:荒川雪(王雪萍),研究 課題/領域番号17K02042),科学研究費(若手研 究B)「中華人民共和国の対日「民間」外交と日 中人的交流に関する実証的研究」(研究代表者: 王雪萍,研究課題/領域番号23730158),科学研 究費(基盤研究B)「教育の交流と東アジア国際 関係ー中国人留学生の派遣と支援」(研究代表者: 孫安石,研究課題/領域番号17H02686),科学研 究費(基盤研究B)「戦後冷戦初期日本の華僑社 会に関する実証的研究:東アジア秩序の再構築」 (研 究 代 表 者: 陳 来 幸, 研 究 課 題/領 域 番 号 18H00703)による研究成果である。また本稿執筆 過程で,東洋大学社会学部教授薗部靖史氏及び 日本総研調査部主任研究員佐野淳也氏による助 言があったことに対して謝意を申し上げる。 ⑵ 『学生報』は,創刊当初の『中華民国留日学生 旬報』から,『中華留日学生報』,『中国留日学生報』 と,何度か改名している。ゆえに,本稿では同 紙について考察する際,略称の『学生報』で表 記統一したが,注釈には当該号の正式名称を記 した。 ⑶ 王雪萍・田沼彬文「『中国留日学生報』記事目録」 大里浩秋・孫安石編『近現代中国人留学生の諸 相――「管理」と「交流」を中心に』御茶ノ水 書房,2015年,529-635頁。王雪萍「在日中国人 メディアが記録した留日学生の思想の変化―中 国 留 日 同 学 総 会 の 機 関 紙『 中 国 留 日 学 生 報 (1947-1949)を手がかりに』―」『東洋大学社会 学部紀要』(東洋大学社会学部)第57-1号,2019 年12月,21-38頁。 ⑷ 何義麟『戦後在日台湾人的処境与認同』(五南 出版,2015年)。田遠「戦後直後における中国人 留日学生の境遇と選択:1945~1952――主に『中 国留日学生報』を通じて」(神奈川大学大学院外 国 語 研 究 科 博 士 論 文,2014年 3 月 )。 田 遠 『一九四五年終戦直後の中国人留日学生の境遇と 選択――プランゲ文庫で辿る「国家像」』(中国 文庫株式会社,2017年)。 ⑸ 王雪萍「救済・召還をめぐる国府の中国人留 日学生政策の迷走――中華民国教育部・外交部 档案を手がかりに」大里浩秋・孫安石編『近現 代中国人留学生の諸相――「管理」と「交流」 を中心に』御茶ノ水書房,2015年,205-244頁。 王雪萍「留日学生の選択-〈愛国〉と〈歴史〉」 劉傑・川島真編『1945年の歴史認識』東京大学 出版会,2009年,203-232頁。 ⑹ 王雪萍「戦後期日本における中国人留学生の 生活難と政治姿勢をめぐる葛藤――救済金問題 を事例に――」大里浩秋編著『戦後日本と中国・ 朝鮮――プランゲ文庫を一つの手がかりとして』 研文出版,2013年,83-119頁。 ⑺ 関谷直也「広報・PRとは」伊吹勇亮・川北眞 紀子・北見幸一・関谷直也・薗部靖史『広報・ PR論――パブリック・リレーションズの理論と 実践』有斐閣,2014年,3-23頁。 ⑻ 前掲王雪萍「在日中国人メディアが記録した 留日学生の思想の変化―中国留日同学総会の機 関紙『中国留日学生報(1947-1949)を手がかりに』 ―」21-38頁。 ⑼ 「学生報の自主性 編集委員会の確立」,「哑吧 的喉嚨」『中華留日学生報』1947年 7 月 1 日(第 7 号)。 ⑽ 前掲王雪萍「救済・召還をめぐる国府の中国 人留日学生政策の迷走――中華民国教育部・外 交部档案を手がかりに」205-244頁。前掲王雪萍 「戦後期日本における中国人留学生の生活難と政 治姿勢をめぐる葛藤――救済金問題を事例に ――」83-119頁。 ⑾ 「 留 日 学 生 救 済 基 金  十 二 万 ド ル の 行 方 は? 奇怪な代表団の措置」『中国留日学生報』 1949年 8 月15日(第34号)。 ⑿ 前掲王雪萍「戦後期日本における中国人留学 生の生活難と政治姿勢をめぐる葛藤――救済金 問題を事例に――」83-119頁。 ⒀ 「中国木刻集(非売品)」『中国留日学生報』 1950年 2 月 1 日(第39号)。

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⒁ 「抵御台湾当局的圧迫和日本警察の侵裘」北京 日本帰僑聯誼会《中国留日同学総会20年》編輯 部編『中国留日同学総会20年』北京日本帰僑聯 誼会,2015年,37-39頁。 ⒂ 前掲王雪萍「戦後期日本における中国人留学 生の生活難と政治姿勢をめぐる葛藤――救済金 問題を事例に――」83-119頁。 ⒃ 「地球座」『中国留日学生報』1952年 2 月15日(第 12期第 1 号)。 ⒄ 「林以文氏の美挙 奨学会に五十万円」『中国 留日学生報』1949年10月11日(第36号)。 ⒅ 前掲王雪萍「戦後期日本における中国人留学 生の生活難と政治姿勢をめぐる葛藤――救済金 問題を事例に――」83-119頁。前掲王雪萍「留 日学生の選択-〈愛国〉と〈歴史〉」203-232頁。 ⒆ 前掲王雪萍「戦後期日本における中国人留学 生の生活難と政治姿勢をめぐる葛藤――救済金 問題を事例に――」83-119頁。 ⒇ 前掲王雪萍「在日中国人メディアが記録した 留日学生の思想の変化―中国留日同学総会の機 関紙『中国留日学生報(1947-1949)を手がかり に』―」21-38頁。  …「帰国促進運動に誤り 執行委員会自己批判」 『中国留日学生報』1957年 5 月 1 日。  …王雪萍「中国の対日政策における留日学生・ 華僑――人材確保・対日宣伝・対中支援」王雪 萍編著『戦後日中関係と廖承志――中国の知日 派と対日政策』慶應義塾大学出版会,2013年, 107-131頁。 (研究員)

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The “Chinese Students Press in Japan” Newspaper:

Advertising in the Newspaper’s Post-War Era to Understand its

Management and Networks (1947-1957)

ARAKAWA Yuki

This paper analyzes advertisements placed in "The Chinese Students Press ln Japan" as one way to understand the paper’s and parent organization’s management, financial condition and scope of readers and social networks. The newspaper was the bulletin of the institution known as the Chinese Students Association in Japan. (CSAJ) The institution was established May 22, 1946 as a nationwide group of international students from mainland China and Taiwan studying in the country.

Analysis of the types of businesses featured in the advertising revealed that many advertisers were Chinese-related companies in Japan. The main advertisers were often owners of restaurants, food shops, and bookshops or magazine dealers that sold China-related materials. Advertising from these sources increased whenever the CSAJ faced financial difficulties, suggested that they asked these Chinese-related businesses for assistance during those times.

Key words: The Chinese Students Press ln Japan, Chinese Students Association in Japan ,advertisement, oversea Chinese network

参照

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