「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙」の日付をめぐって
山本博也
はじめに 九条家文書中「関東右幕下被進月輪殿状等案」と一括されたもののうち に、 「十三箇条子細事」と書き出された折紙がある。 これは、 「関東右幕下」すなわち源頼朝が、 「月輪殿」すなわち九条兼実 から、 当時の政治課題であった十三の事柄について意見を求められた (「目録口状」 ) のに応じて回答したものである (ただし文書は後欠で、 最後の 三箇条については知ることができない) 。 鎌 倉幕府草創期における、 幕 府と朝 廷との関係のあり方について興味深い内容を含んでおり、私はかつてこの 文書について検討したことがあった (1) 。 まず、この文書がいつ作成されたものなのか、文面上からはわからない。 そこで文中に 「不可同心行家義行 不当輩」 とあることに着目した。 ここ にある「行家」と「義行」とは、頼朝から追われる身となって、どこかに 潜行中の源行家と源義経のことである。このうち行家は、文治二年五月十 二日に和泉国で殺され、五月二十五日にその首が鎌倉にもたらされている。 したがって折紙が記される下限は、行家の死が鎌倉で確実に確認される文 治二年五月二十五日となる。 一方 「義行」 は、 「義経」 を朝廷サイドが改 名した名前である。 朝廷側の記録には、 文治二年五月六日付の文書には 「義経」 とあり、 同五月十日の記録には 「義行」 とあることから、 改名は その間に行われたことになる。したがって文書に「義行」と記される上限 は、文治二年五月六日となる。かくしてこの折紙が作成される可能性があ るのは、最大限の幅をとったとしても、文治二年五月の六日から二十五日 の間となる (実際は、京都の情報が鎌倉にもたらされる日数を考慮すれば、もう 少し幅をせばめて考えることができる) 。 以上を確認したうえで、頼朝「折紙」に記された各箇条について分析し、 いくつかの知見を得た。ひとつは、頼朝の要求によって設置されたとされ ていた朝廷の記録所は、実は兼実の発意によるものであったことである。 つぎには、文治二年当時における、頼朝と後白河法皇と九条兼実と、この 三者の政治的対応関係である。すなわち、常に頼朝の支援を求め、それを 背景に朝廷における自己の立場を有利にしようとする兼実。兼実を圧迫す る一方、頼朝に対しては慎重に対応しつつ、頼朝の要求を巧みに回避する 後白河法皇。そして兼実に支援を約しつつも、しかし後白河法皇に対して も必ずしも強圧的ではない頼朝。三者はそのような微妙な関係にあったの である。 ― 1 ― 学苑 第八三三号 一~七(二〇一〇 三)右の私の旧稿に対して、 最 近龍福義友氏が再検討を加えてくださり、 「折紙」の作成時期に関して、 それは文治二年四月二十二日ごろから二十 五日ごろまでの間だとする見解を提示された (2) 。この龍福氏の新説を検討し、 合わせて自らの旧稿を再検討してみたい。これが本稿を草する所以である。 さて龍福氏は、旧拙稿が「行家」 「義行」の表記に基づいておこなった、 「折紙」作成時期を五月段階とする推定を、 「主観的解釈を容れる余地のな い客観性を具えていて、間然するところのない論証」だと、ひとまずは肯 定される。 しかしながら、 「折紙」の第9項 第8項 第3項の内容を検討され、 それは五月段階に記されるはずのものではなく、むしろ「折紙」は四月二 十二日ごろから二十五日ごろまでの間に記されたものだと論断されるので ある。 以下、3つの項について、龍福氏の論証を追ってみることにしよう。 一、第9項について 「折紙」の第9項は次の通りである (3) 。 一、泰経事 去年令鬱申候輩事、 各所行好不当、 旁依無思慮、 遂及天下之大事歟、 彼輩刑 罪之条、 不起自御意者、 其 上事強不可鬱申候、 免否只可在御計、 自今以後、 悔過、不可同心行 、 家 、 義 、 行 、 不当輩之由、各能可被仰含之旨、申□ (候カ) 了之由事 関連史料として『吾妻鏡』文治二年五月九日条がある。 前大蔵 前刑部 等罪科事、 於今者可被免帰京之由、 去三月被奏聞畢、 叡 慮頗快然云々、仍左典 被執進職事奉書、今日所到来也、 二 、 位 、 書 、、 状 、 奏聞候畢、 泰 経 頼経等事、 可 有恩免之由、 度々雖令申、 彼心 中猶難知之処、 散 、 御 、 不 、 審 、 候 、 畢 、 、 北 面輩事、 各誡仰可召仕之由、 内々御気色 候也、以此趣可仰遣候、恐惶謹言、 四月廿六日 左少弁定 長 「折紙」第9項は、そこに「行家」 「義行」とあって、旧拙稿で「折紙」 作成時期を五月段階と推定した、 当の史料である。 ここで頼 朝 は、 「泰経 の免否は、後 白河法皇 の意思にお 任 せする、当 人 には、今後行家 義行な ど に同 調 しないように言い含 め られたいと、 法皇 に申し上 げ た」と 兼実 に 回答 している。 龍福氏は、 ここで頼 朝 が後 白河 に 伝 えたというものこそ、 『吾妻鏡』 文 治二年五月九日条に 載 せる四月二十六日 付院宣 に言う「二位 書状」であ り、 そこに泰経 へ の誡 め の 要請 があったことによって、 朝 廷側 は頼 朝 の 「免否只可在御計」を 額 面通りに 受け取 ってよいとの 確信 を 得 て、それが、 四月二十六日 付院宣 に言う「散御不審候畢」につながったのだとされる。 龍福氏の論 点 を 整理 すれ ば 次のようになる。 1 . 後 白河 に上申した内容として 「折紙」に示された、 「自今以後、 悔 過、 不可同心行家 義行 不当輩之由、 各能可被仰含」が、 「免否只 可在御計」つまり 「頼 朝 の 赦 免の意思表 明 」が、 「本心からのもので あることを 保 証する 効果 をも ち 、これによって 朝 廷 はこれまでの 疑 心 暗鬼 から解 放 され 安んじ て泰経の 配流 を 宥 すことがで き ることにな」 った。 ― 2 ―
2 . 右の頼朝の態度表明を受けた後白河は、 四月二十六日付院宣で 「散御不審候畢」 と頼朝に報じた。 すなわち、 院宣に見える 「二位 書状」は、頼朝による右の態度表明がなされたものであった。 3 . 院宣は、 「二位 書状」上奏後間を置かずに出された。 4 . 「二位 書状」 は、 四月二十六日付院宣が出される直前に、 朝廷に 届き、 上奏された (院奏文書は到着後可能な限り速やかに上奏されるもの である) 。 したがって 「二位 書状」 の作成時期は、 四月中旬初とな る。 『吾妻鏡』 の 地の文が、 叡 慮の快然を頼朝の三月の奏聞に直結し ているのは誤り。 5 . 後白河は、 「二位 書状」を得た後直ちに赦免を行っただろう。 6 . 頼朝は、 「折紙」 を書いた時点では、 泰経赦免の実行を知っていな い。 7 . 院宣は五月九日には鎌倉に着いている (十日を過ぎることはない) 。 (それと前後して頼朝は赦免の実行を知ったはずであり、 し たがって) 頼朝 が「折紙」を書いたのは、それ以前であり、しかも「二位 書状」作 成時期に遅れること遠くない時期である。 以上からして、折紙の作成時期は、文治二年四月中旬初から五月十日の 間ということになる。 再度大筋を整理しておこう。 「折紙」 で頼朝が後白河に上申したと言っ ているものが 「二位 書状」 である。 「二位 書状」 を受けて四月二十六 日付院宣が出された。院宣は五月十日までには鎌倉に届いた。したがって 「折紙」が書かれたのは、 「二位 書状」が書かれた後であり、その返事で ある四月二十六日付院宣が鎌倉に届く前である。つまり文治二年四月中旬 初から五月十日の間である。 精緻な考証であり、強い説得力を持っている。 ただ、事実がそれ以外であった可能性が全くないかといえば、そうでも ないように思う。 まず、 龍福氏の議論の出発点になっている、 「自今以後、 悔過、 不可同 心行家 義行 不当輩之由、 各能可被仰含」 なる文言が 「頼朝の赦免の意 思表明が、 本心からのものであることを保証する効果をもち」 、 後白河が 「散御不審候畢」 となって、 四月二十六日付院宣につながったということ は、十分にその可能性があることだが、確定的とまでは言えないのではな いだろうか。 龍福氏も言及された『吾妻鏡』文治二年三月二十九日条を見てみよう。 去年依関東訴被処罪科人々事、 可被宥刑之由、 京都頻有秘計沙汰、 就中、 前 大蔵 泰経殊 息、 以専使内々示送因幡前司廣元許、 仍 廣元廻芳情、 申止遠 流畢、且取二品厳命、投返報云々、 人々御事、 自御所再三被仰下候之間、 御 鬱者候共、 叡慮に起候はさらんに とりては、 近習之人々をは 爭 御 勘 当候 へ とは 令 申候はんとて、 可 有御計之 由、去 比令 申候 了 、いかさまにも御遠行之条をは 先 被止候 也 、 為悦 不 少 候、 御 領 なんとの事、 只 今不 詳 候 め りと申院候て御沙汰候はん、 可 宜 候 歟 、 子 細 申 合 御使候 了 、以 此旨 可 令 申上 給 候、 恐 々 謹 言 三月 廿 九日 前因幡 守 廣元 ここには、龍福氏も 認 め ておられるように、 配 流 停 止という、 幕府 の 新 しい 方針 が示されている。しかし龍福氏は、これは「 広 元の 私 的見 解 の 開 陳 に過ぎず、頼朝に 新 たな意思表示があったのではないことは明 瞭 です。 地の文の言う『遠流を申し止 め 畢ん ぬ 。かつがつ二品の厳命を取り …… 』 ― 3 ―
というような事態ではまったくなかったのです」とされる。 しかしこのような朝幕間の重要問題について、広元が個人的な見解を申 し送るだろうか。むしろ地の文に「二品の厳命を取り」とあるように、頼 朝の意向を確認したうえでのことではないだろうか。 『吾妻鏡』 文治二年四月二日条 (新訂増補国史大系本) には次のようにあ る。 前刑部 頼経 前大蔵 泰経等被下流刑官符間事、 不誤之由、 両 人頻陳謝、 泰経朝臣事、 可被免帰京之旨、 可 被申京都之由云々、 又北面之輩誇 朝恩有 驕逸之思殊加御誡可召仕之由云々 この記事と三月二十九日条の記事とは、 「申止遠流」 「御遠行之条をは先 被止候」 「可被免帰京」 と、 文言は異なるが内容的には符合しており、 こ のとき頼朝から、 「三月の頼朝奏聞」 と呼ばれ得る、 泰経の配流停止の申 し出があった可能性があるのではないだろうか。そしてこの泰経の配流停 止の申し出があったとしたらこれも、四月二十六日付院宣の「散御不審候 畢」となる可能性もあったのではないだろうか。配流停止の申し出は、今 後不当の輩に同心しないよう言い含めるようにという申し出よりも、具体 的で直接的な意思表示だと言える。とすれば、四月二十六日付院宣の鎌倉 到来を伝える、 前掲の 『吾妻鏡』 文治二年五月九日条に、 「前大蔵 前 刑部 等罪科事、 於 今者可被免帰京之由、 去三月被奏聞畢、 叡慮頗快然云々」 とある記述を、龍福氏のように否定するのでなく、生かして考える道もあ るのではないだろうか。 『吾妻鏡』 四月二日条にある 「又北面之輩誇 朝 恩有驕逸之思殊加御誡可召仕之由」と、四月二十六日付院宣にある「北面 輩事、各誡仰可召仕之由、内々御気色候也」ともよく符合している。 この場合、 「三月の頼朝奏聞」 が 届いてから四月二十六日付院宣が出さ れるまで十日以上、あるいは二十日ほどもあることになり、日数があり過 ぎると言われるかも知れないが、それまでに強くあった朝廷内の疑心暗鬼 を取り払って、 「散御不審候畢」 と書き出すまでには、 それなりの日数が 必要だったとも考えられよう。 ただいずれにせよ、四月二十六日段階で「散御不審候畢」となっている のであれば、旧拙稿のように「折紙」を五月段階のものとした場合、そこ でなぜ「免否只可在御計」といった、事態を後もどりさせるような頼朝の 発言が出てくるのか、説明がつきにくいことは否めない (4) 。 二、第8項について 「折紙」の第8項は次の通りである。 一、一所 子細 事 尤 可有御 沙汰 候、 但高陽 院御 領 、 此外 又 冷泉 院 宮 堀川中宮領ハ 、本 人 御 沙 汰 候 歟 、 其外 可 為 御 進 止之由、 可申院候 歟 、両 □□ ( 家 各 カ ) 随 由 緒 、 任 御計、 可有御 沙汰 之由事 第8項は、 摂関家領 の帰 属 をめ ぐ る問題である。 摂関家領 は 兼 実 が 沙汰 す べ きものである。しかし、 高陽 院御 領 冷泉 院 宮領 堀川中宮領 は元の 基 通が 沙汰 しているのでこれを 除 き、その 他 を 兼 実 の 沙汰 とするよう後 白河 院に奏上するつもりである、 というのが 「折紙」 において頼朝の述 べ るところである。 兼 実 を 基 通にかえて 摂 政 氏 長 者とすることに 成功 した頼朝は、さらに ― 4 ―
基通が管領している摂関家領を兼実に管領させようとした。しかし、基通 と後白河の抵抗が大きいことを知った頼朝は、文治二年四月二十日付で院 奏を作成し、 「折紙」 にみえるのと同じ摂関家領の分割案を提示する。 頼 朝は、この奏状を兼実に届けて、不同意ならば送り返すようにと伝えた。 兼実はそのまま院に回送した (五月三日) 。後白河は五月五日付で院宣を発 して、頼朝の分割案を拒否した。その後七月になって頼朝は再度同じ分割 案を提示し、後白河が「逆鱗」することがあって、結局基通の領知は継続 されることになった (5) 。 この項について、龍福氏は次のように主張される。この文面から、頼朝 が兼実の摂関家領領有を後白河に要請するのはこれが初めてであり、その ことに兼実の了解を求めることも初めてである。しかるに、四月二十日付 の院奏状およびそれに付せられた兼実宛の頼朝書状の文面からも、この時 初めて、折紙と同じ分割案を提示し、その可非を兼実に問いかけているこ とがわかる。このような繰り返しが起こるのは、一方の問いが答えられる 前にもう一度問いかけなければならない情況が生まれたときであり、した がって「折紙」と院奏 頼朝書状とは近接して作成されたとみるほかない。 結局、頼朝にとって「折紙」作成が可能だったのは、院奏 書状の作成後、 院奏の後白河による拒否を知るまでで、具体的には四月二十日以降五月二 十日ごろ (分割案拒否の五月五日付院宣が鎌倉に届いたであろう時) までとな る。 これによって、 「折紙」 作成時期の下限を、 旧拙稿の五月二十五日から 二十日ごろまでに上げることができることになる。 「折紙」 および四月二十日の院奏 頼朝書状の文面から、 頼朝による分 割案の提示およびその可非についての兼実への問いかけが、ともにこの時 が初めてとする龍福氏の指摘は聴くべきであろう。 三、第3項について 「折紙」の第3項は次の通りである。 一、可示議奏人事 如仰下可触示候、又可有御沙汰之由事 ここにいう「議奏人」とは、文治元年末に、頼朝が朝廷に設置させた十 人の議奏公 のことである。この項については、文治二年四月三十日付で、 頼朝が議奏公 たちに書状を送っていることが参照される (6) 。その書状は、 「天下之政道者、 依群 之議奏、 可被澄清之由、 殊所令計言上候也」 と書 き出し、 「思而不令申給者、定非忠臣之礼候歟、仍為御用意乍恐上啓如件」 と結んで、議奏公 を督励したものである。旧拙稿では、この「書状の如 き」文書を出すことを兼実が頼朝に要請し、頼朝がそれを承知したものと とらえた。 龍福氏は、四月三十日付書状によって兼実の意図は十分に果たされてい るはずであり、再度同様な文書を出す必然性はなく、またもし出したとす れば、 兼 実はひと月ほどの間に (「折紙」 の作成下限は五月二十五日もしくは 二十日ごろ) 二度までも議奏公 宛に書状を出すことを頼朝に求めたこと になり (四月三十日付書状も兼実の要請によると考えられる) 、「一個の自立し た政治家」がそのようなことをするとは考えられない、と主張される。 龍福氏は、 兼実からの発給要請を受け、 「折紙」 でそれの応諾を報じた 頼朝が発給した文書こそ、四月三十日付の議奏公 宛書状だとされる。し ― 5 ―
たがって「折紙」の成立は四月三十日以前ということになる。 たしかに、短期間に同様な文書が二度出されることは不自然とする龍福 氏の見解は聴くべきであろう。 ただ、 「折紙」の記述はきわめて簡潔であって、その内容を知り得ない。 したがって、事柄によっては、兼実が再度、議奏公 宛書状の発給を頼朝 に求めた可能性を完全に排除しなくてもいいのではないだろうか。 おわりに 以上、 第9項、 第8項、 第3項に関わってなされた、 「折紙」 作成時期 についての龍福氏の考証結果は次のようになる。 ~ 四月三十日 (第3項から) 四月中旬初 ~ 五月十日 (第9項から) 四月二十日 ~ 五月二十日ごろ (第8項から) ここから得られる結論は、 「折紙」 作成時期は四月二十日以降四月三十 日まで、となる。これは、 「折紙」の「行家」 「義行」なる表記から導き出 し、 龍福氏も一旦は承認された、 「折紙」 作成は五月とする旧拙稿の説と 相容れない。 そこで龍福氏は、 「折紙」を伝える保阪潤治氏旧蔵文書と九条家文書は、 いずれも写本であり、伝本の「義行」は原本では「義経」であったと推断 される。原本が「義行」ではなく「義経」であったとすれば、いまの矛盾 は解消されることになる。すなわち「折紙」は「四月二十日付の摂関家領 についての院奏よりも後、四月三十日付の議奏公 宛書状よりも前に書か れた」ことになる。 さらに龍福氏は、 『玉葉』 文治二年五月二日条に 「東札到来、 有条々事 等」とある「東札」こそこの「折紙」だとし、到来までにかかる日数およ び兼実の「目録口状」が届いてから「折紙」執筆までの時間を考慮して、 「折紙」 の作成時期を、 最終的に四月二十日ごろから同二十五日ごろまで と結論づけられた。 かくして、龍福氏説においては、史料の解釈は厳密、政治過程の考証は 緻密、よってその結論は高い蓋然性をもつものと言えよう。したがって旧 拙稿における「折紙」作成時期についての推定は訂正しなければならない だろう。 ただ、龍福氏説は、いま知られる「折紙」では「義行」とあるところ原 本では「義経」であったはずだ、とする推断を成立要件としていることは 記憶しておかねばならない。合わせて、上述したように、龍福氏の考証の 中にも氏の想定とは別の可能性が考えられる余地が全くないわけではなく、 「義行」 なる表記が生きる道が完全に閉ざされたわけではないということ も。 注 (1) 山本博也「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙について」 (『史学雑誌』八八編 二号 一九七九年) (2) 龍 福義友 「『文治二年五月の兼実宛頼朝折紙』 管見」 (『鎌倉遺文研究』 二 〇号 二〇〇七年) (3) 以下、史料の引用にあたっては、特に記さない限り、精緻に校訂された龍 福氏論文所引の本文を使わせていただく。なお、読点については私意によ った場合がある。また 漢字 は 適宜新 字 体 に 直 した場合がある。 ― 6 ―
(4) 想像をたくましくすれば、頼朝は、後に摂関家領の問題について要求を通 すための布石として、泰経問題では後白河に譲歩したということが考えら れるかも知れない。ところが後述するように、摂関家領についての頼朝提 案は後白河によって拒否された。そこで頼朝も泰経問題に対する態度を硬 化させ、 その間のやりとりの中で、 「折紙」 での記述が後退したようなも のになったとも考えられよう。 (5) 以上の経緯については、注(1)拙稿を参照されたい。 (6) 注(1)拙稿参照。 (やまもと ひろや 歴史文化学科) ― 7 ―