心タンポナーデで発症した胸腺癌の1例
山梨医科大学 第2外科 天野宏 高橋渉 古川浩
保坂茂 吉井新平 多田祐輔 国立国際医療センター呼吸器外科 奥脇英人 要旨:悪性腫瘍の心嚢転移は、比較的多く経験されるが、縦隔の 悪性腫瘍で、心タンポナーデを初発症状とすることは稀と されている。今回、心タンポナーデを初発症状として発見 された胸腺癌を経験したので報告する。症例1ま62歳、男性。 心不全を疑われ当院循環器内科紹介入院となり、精査にて 心タンポナーデと前縦隔の腫瘤が認められた。胸骨正中切開 下に摘除を試みるも、浸潤が著しく断念し、この際の腫瘍生 検で腺癌と診断。その後13か月で死亡した際の病理解剖で 胸腺扁平上皮癌の診断を得た。本症例の心タンポナーデ発症 の機序には、胸腺癌のリンパ流障害とリンパ管浸潤から、 心膜播種をきたしたものと推察された。 Key words:胸腺癌、心タンポナーデ、リンパ管浸潤1、はじめに
前縦隔の腫瘍は悪性腫瘍といえども、無症状で、検診ではじめて発見されるこ とがある。また、有症状例では、大血管や肺・胸郭・心膜など隣接臓器などに浸 潤し、発症しているが、一般には呼吸器症状や上大静脈症候群を初発症状とする ことが多く、心タンポナーデを初発症状とすることは稀とされている1)2)。 今回、心タンポナーデを初発症状として発見され、病理解剖によりはじめて胸 腺癌の確定診断に至った症例を経験したので報告する。2、症例
症例:62歳、男性
主 訴:呼吸困難、胸部不快感 現病歴:1996年3月より、労作時の呼吸困難が出現。近医にて胸部X−P撮影す るが、異常は指摘されなかった。同年9月には、症状が増悪し、安静時にも呼吸 困難が出現したため、再度近医受診し、心不全を疑われ、当院循環器内科入院と なる。家族歴:特記すべき事なし 患者背景:喫煙 40本/日(18∼26歳) 飲酒 1合/日 現 症:身長165cm,体重60kg,脈拍72回/分・整
血圧137/72mmHg左右差なし
頚静脈怒張 坐位時なし、仰臥位時軽度あり 心音 過剰音聴取なし 呼吸音正常28回/分 検杢所見:白血球:3730/μ1 赤血球:4.57×106/μlHb:13.9g/dl Ht:42.0% 血小板:14.3×104/μl TP:8.1 g/dl Alb:4.O g/dl GOT:531U/l GPT:691U/l LDH:2211U/l BUN:15 mg/dl Cr:0.91 mg/dl CRP:0.3 mg/dl Na:137 eEq/l K:4.O mEq/l Cl:102 mEq/1 腫瘍マーカー CEA 2.1 ng/ml NSE 4.6 ng/ml SCC O.5 ng/ml 動脈血液ガス分析:pH 7.403 pO261.3 mmHg pCO239.OmmHg 胸部X線写真(図1):巾着用の心陰影を認める。縦隔の腫瘍陰影はわずかに 認められる。心胸郭比は57%。 心臓超音波検査(図2):長軸像で、前壁1.7cm、心尖部1.9cmの心嚢液貯留 腔を認める。心嚢穿刺にて、血性の心嚢液を採取しLDH、 NSE、 SCCは高値を示 した。心嚢液細胞診はclass Iであった。 胸部CT検査(図3):前縦隔にsoft tissue density massが存在し、大動脈・肺 動脈には密に接し、左肺門部に至る。心膜は前壁で肥厚し、心嚢液の貯留を認め る。上大静脈は正常で、右側の還流障害はない。67Gaは腫瘍に集積していない。 頭部・腹部CT検査では、他に腫瘍性病変を認めなかった。 心嚢穿刺の際には、少量のドレナージではあったが、症状が軽快したため、臨 床的には、収縮性心膜炎の病態が基礎疾患として存在→少量の心嚢液でも心タン ポナーデで発症した浸潤型胸腺腫と診断し、拡大胸腺摘出術を予定術式として手 術に踏み切った。手術所見:仰臥位で全身麻酔を導入すると、顔面紅潮を呈するため、約10度 頭部を挙上した胸骨正中切開にてアプローチした。腫瘍は、黄白色で非常に硬く 触知され、上行大動脈・肺動脈本幹・左肺門部にまで浸潤し、一塊となっていた。 腫瘍の一部と浅頚部リンパ節を術中迅速病理に提出し、低分化腺癌の診断を得た。 体外循環も含め準備万端で臨んだ手術ではあったが、これら重要臓器の合併切除 まで行う意味はないものと判断し、左内頚静脈一右房バイパス術・右胸腔への心 膜切開開窓術にとどめた。手術所見でも縦隔型肺癌とは考えがたく、腺癌の診断 は得たが、胸腺癌と認識し、以後の治療にあたることとした。 治療経過:術前に遠隔転移の検索のため、全身精査は行っているが、改めて 検索するも、原発巣と思しき臓器はなく、縦隔照射36Gy施行した。胸部CT写真 の同レベルスライスで比較したが(図4)、効果は乏しく、腫瘍はわずかに縮小 した程度である。化学療法への期待も薄かったため、退院とし、以後は外来での 対症療法とした。 初診から6か月の1997年3月、腫瘍の進展によると考えられる胸背部痛の増悪 で、モルヒネ導入を機会に本人に告知し、さらに8か月後には経口摂取不良となっ たが、腹部へ皮下ポートを埋設し、昭和訪問看護ステーションの御協力をいただ き、在宅での高カロリー輸液療法を行い、発症から21か月の1997年12月、自宅 で排便中に呼吸停止に至る直前まで、家族と食事、談笑するなどQOLの高い生活 を維持させることができた。 病理解剖(剖検)所見:呼吸停止後、救急車にて当院に搬送されたが、蘇生 し得ず、病理解剖を行い、胸腺扁平上皮癌の確定診断に至った。剖検所見(図5) では、右室壁への腫瘍の直接浸潤を認め(矢印)、これによる心不全死とした。 死亡3週間前に撮影された胸部CT検査で得られた情報通り、開胸時施行した左内 頚静脈一右房バイパスは閉塞、他の血管系・気管支は内腔が保たれていた。
3、考察
縦隔腫瘍の中で、胸腺腫は最も高頻度に見られる腫瘍である3)。初発症状とし ては、腫瘍の直接浸潤によって、咳・呼吸困難・胸痛を生ずることが多いものの、 無症状で、検診時の胸部X線写真で偶然発見されることも稀でない。腫瘍の心膜 浸潤から心タンポナーデを合併する例も稀ではないが、心タンポナーデを初発症 状とすることは少なく、数例の報告が散見される程度である2)4)∼1°)。また、胸 腺腫と胸腺癌の鑑別は、組織学的、免疫組織学的にも困難で11)、腫瘍の穿刺細 胞像をTaoら13)が5型に分類し、川井14)、中澤15)は穿刺細胞診で確実な診断を得症状が出現しやすい、もしくは特異的な症状が出現することはないようである。 心タンポナーデの機序としては、心膜播種によるものと、心膜への直接浸潤によ るものとがある2)。悪性腫瘍の心臓及び心嚢転移の機序は、まず縦隔リンパ節転 移を来し、リンパ流の障害がおき、逆行性にリンパ管浸潤が生じると言われてい る1)が、胸腺腫あるいは胸腺癌の浸潤による心タンポナーデの発生機序について 言及した文献は検索し得なかった。 本症例では、当初収縮性心膜炎病態が基礎疾患として存在するために、少量の 心嚢液で心タンポナーデを生じたものと考えたが、術中の所見ではむしろ否定的 で、前記の機序から推測するに、心膜への直接浸潤より、リンパ管浸潤が強く関 与したものと考えられる。これは、浅頚部リンパ節転移を認めるなど、正岡らの 上皮性胸腺腫瘍TNM分類案17)の胸腺リンパ流経路による遠隔転移M1に相当する ことからも裏付けられる。最終的には、心膜に浸潤した腫瘍が、心筋へ直接浸潤 し、心不全を生じたことが致命的となった。 一般に、胸腺扁平上皮癌は放射線感受性が高く、不完全切除例でも長期生存が 報告されている18)19)が、volume reduction surgeryは無効とする説が有力2°)で、 完全切除と考えられる症例でも術後再発が多く、有効な術後補助療法が模索され ている。最近では、CDDPを中心とした化学療法の有効例18)22)も報告されてい るが、無効例が多い。実際には、分化度によりその感受性が異なり、本症例のよ うに、生検材料でも腺癌と診断されるような低分化な扁平上皮癌では、放射線の みならず抗癌剤にも感受性が低く、予後が悪い22)23)ことが報告されている。 本症例には、化学療法を行っていないが、感受性は低いものと推察される。従っ て、胸腺扁平上皮癌の診断を、臨床経過の中で得られていたとしても、治療には 反映されることはなく、同様の予後しか得られなかったものと考える。
4、結語
心タンポナーデを初発症状とした胸腺癌の1例を経験した。心タンポナーデの 発生機序には、リンパ管浸潤が特に関与したものと推察された。胸腺扁平上皮癌 には、分化度により放射線感受性が低いことがあり、そのような組織型では、胸 腺癌の診断を、臨床経過や生検像で得ることも困難であると思われた。 稿を終えるに当たり、患者の自宅療養に際し、多大なる御協力と御尽力ををいただきました、 昭和訪問看護ステーションの土地邦彦先生、平賀理恵子主任に深謝いたします。文 献 1)渡辺俊一t下川新二,山岡章浩,平 明,宮田昌明: 心タンポナーデを初発症状とした肺癌の1例.胸部外 科48:890−892,1995 2)田中 亨,片倉浩理松本成司,前里和夫:心タンポ ナーデを初発症状とした浸潤型胸腺腫の1例.日胸外 会誌 45:58−61,1997 3)和田洋巳,寺松孝:縦隔腫瘍全国集計(1975,7∼ 1979.5).日胸外会誌 30:374−378,1982 4)Woldow A, Kotler M, Goldstein S, Milcu M: Thymoma with pericardial tamponade. Clin Cardiol 18:484−485,1995 5)Shishido M, Yano K, Iciki H, Yno M:Pericarditis as the initial manifestation of malignant thymoma. Disapperance of pericardial effusion with eorticosteroid therapy, Chest 106:313 一一314,1994 6)Chow WH, Chow TC, Chiu SW:Pericardial metastasis and effusion as the initial manifestation of malignant thymoma. Identification by cross−sectional echocardiography, Int∫Cardiol 37:258−260,1992 7)Dib HR, Friedman B, Khouli HI. Gerber DR, Weiss RL:Malignant thymoma. A complicated tried of SVC syndrome, cardiac tamponade, and DIC. Chest 105: 941−942,1994 8)森文樹宮本正樹中原泰生,古川昭一,藤井康宏, 毛利 平:心タンポナーデをきたした悪性胸腺腫の 1例,日胸外会誌 29:103−108,1981 9)北野司久,藤尾 彰,辰巳明利,山中 晃,松井輝夫, 三木成仁,牧田泰正:心タンポナーデを合併した胸 腺腫の2例.胸部外科 40:669−674,1982 10)小林広幸,小林和夫,牧 之博,隅田幸男,吉住孝之, 伊東靖夫:心タンポナーデを主徴とした悪性胸腺腫 の1例.日内会誌 77:548−552,1988 11)下里幸雄,向井 清,松野吉宏,佐藤雄一,浅村尚生 近藤和也,宇原久:胸腺腫ならびに胸腺癌の病理・ 生物学的特徴.日呼外会誌 4:627−632,1990 12)Shimosato Y, Kameya T, Nagai K, Suemasu K: Squamous cell carcino皿a of the thymus. Analysis of eight cases. Am J Surg Pathol 1:109−121,1977 13)Tao L−C, Pearson FG, Cooper JD, Sanders DE, We・ isbrod G, Donat EE:Cytology of thymoma. Acta Cy・ tologica 28:165 一一170,1984 14)川井俊郎,三浦弘資,角田尚久,久保野幸子,羽石恵 理子,芳賀芳子,斉藤 建,斉藤達也:胸腺腫の細胞 診.日臨細胞会誌 26:599−606,1987 15)中澤久美子,弓納持勉,石井喜雄,早川直美,貴家 基,久米章司,小山敏雄t池上 淳,茂垣雅俊,須田 耕一:胸腺癌の1例.日臨細胞会誌 30:757−761 1991 16)長井午輔,岡村吉隆石浜洋美,知元正行,池田 康紀,嶋田晃一郎:心膜腔内に再発し,心筋に浸潤し た胸腺扁平上皮癌の1切除例.日胸外会誌 45:1116 ’−1121,1997 17)正岡 昭,山川洋右:上皮性胸腺腫瘍における TNM分類の意義.癌と化学療法 24:74g−一・754, 1997 18)良河光一,榎本 準,福田康二:化学療法t放射線 療法が奏効した胸腺癌の1例.肺癌 32:553−557, 1992 19)宮沢直人:重症筋無力症(MG)非合併胸腺腫ならび に胸腺癌の治療と予後、日本胸部臨床 46:612− 617,1987 20)門田康正:胸腺関連悪性腫瘍の治療方針日外会 誌99:308−311,1998 21)Carlson RW, Dorfman RF, Sikic BI:Successful treatment of metastatic thymic carcinoma with cisp1− atin, vinblastine, bleomycin, and etoposide chemothe− rapy. Cancer 66:2092−−2094,1990 22)加勢田静,西村嘉裕,酒井忠昭,池田高明,深山正久 :胸腺癌7例の治療経験.日呼外会誌 7:104−111, 1993 23)Suster S, Rosai J:Thymic carcinoma. A clinico・ pathologic study of 60 cases. Cancer 67:1025−− 1032,1991
(図1)
(図2) (図3)
(図5) (図4)