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駒澤大学佛教学部論集 49 005佐藤 秀孝「無門慧開の生涯と『無門関』(2):黄龍山崇恩禅寺から霊洞山護国仁王禅寺へ」

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Academic year: 2021

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駒澤大學佛教學部論集   第四十九號   平成三十年十月 八九

  す で に 触 れ た ご と く 宝 慶 年 間 ( 一 二 二 五 ─ 一 二 二 七 ) か ら 紹 定 年 間 ( 一 二 二 八 ─ 一 二 三 三 ) の 初 め 頃 に 、 慧 開 は 湖 州 ( 浙 江 省 ) 武 康 県 の 報 因 佑 慈 禅 寺 の 住 持 職 を 退 き 、 し ば ら く の 間 、 温 州 ( 浙 江 省 ) 永 嘉 県 の 江 心 山 龍 翔 禅 寺 や 台 州 ( 浙 江 省 ) 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 に 掛 錫 し て 首 座 ( 第 一 座 ) を 務 め て い る 。 こ の 時 期 に 慧 開 は 公 案 集 『 無 門 関 』 を 編 集 刊 行 し 、 こ れ を 敷 衍 せ ん と し て 提 唱 を 行 な う な ど 、 地 道 な 接 化 活 動 を 展 開 し て い た わ け で あ る 。   そ ん な 慧 開 の 活 動 に 対 し て 、 ま も な く 江 西 の 禅 刹 か ら 住 持 職 就 任 の 要 請 が 届 き 、 再 び 慧 開 は 一 ヶ 寺 の 住 職 と し て 道 俗 に 法 を 説 く 大 役 を 担 う こ と に な る 。 首 座 慧 開 に 対 し て 新 た に 住 持 職 を 依 頼 し て き た の は 、 洪 州 ( 江 西 省 ) 隆 興 府 す な わ ち 後 世 の 南 昌 府 ( 現 在 の 南 昌 市 ) の 地 に 存 し た 天 寧 禅 寺 で あ り 、 こ の と き 慧 開 は 天 寧 寺 か ら の 申 し 出 を 素 直 に 受 諾 し た も の ら し い 。 お そ ら く 『 無 門 関 』 が 刊 行 さ れ た こ と に よ り 慧 開 に 対 す る 世 間 の 評 価 や 関 心 が 高 ま り 、 い く つ か の 禅 刹 で 住 職 に 拝 請 す る 動 き が 起 こ り 、 そ の 中 で 慧 開 が 隆 興 府 の 天 寧 寺 か ら 届 い た 要 請 を 受 諾 し た と い う の が 実 情 で は な か ろ う か 。   慧 開 が 住 持 し た 禅 刹 に 関 し て 『 増 集 続 伝 燈 録 』 に は 「 継 遷 二 興 天 寧 ・黄 龍・ 翠 巌・蘇 之 開 原 ママ ・ 霊 巌・ 鎮 江 焦 山 ・ 金 陵 保 寧 一 ( 卍 続 蔵 一 四 二 ・ 三 九 〇 c ) と 伝 え て お り 、 一 方 の 『 補 続 高 僧 伝 』 に も 「 遷 二 隆 興 天 寧 ・ 黄 龍 ・ 翠 巌 ・ 蘇 之 開 元 ・ 霊 巌 ・ 鎮 江 焦 山 ・ 金 陵 保 寧 一 ( 卍 続 蔵 一 三 四 ・ 一 五 四 b ) と 記 さ れ て い る か ら 、 こ れ よ り 慧 開 が 順 次 に 歴 住 し た 禅 刹 の 名 を 知 る こ と が で き る 。 し か し な が ら 、 こ れ は 厳 密 な 意 味 で 入 寺 し た 禅 刹 順 に 記 さ れ た も の で は な く 、 あ く ま で 洪 州 隆 興 府 の 三 ヶ 寺 と 蘇 州 ( 江 蘇 省 ) 平 江 府 の 二 ヶ 寺 そ れ に 鎮 江 府 ( 江 蘇 省 ) の 一 ヶ 寺 と 建 康 府 ( 金 陵 ) の 一 ヶ 寺 を 地 域 別 に 振 り 分 け て 並 べ た も の で あ り 、 実 際 に

無門慧開の生涯と『無門関』

(二)

  

  黄龍山崇恩禅寺から霊洞山護国仁王禅寺へ

   

  

  

  

(2)

無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九〇 慧 開 が 入 寺 し た 順 序 と し て は 『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に 載 る 上 堂 語 の 配 列 に 従 う べ き で あ ろ う 。 た だ し 、 こ の と き 慧 開 が 最 初 に 住 持 職 を 再 開 し た 禅 刹 が 洪 州 隆 興 府 の 天 寧 禅 寺 で あ っ た こ と は 疑 い な い 。 し か も 天 寧 寺 に 住 持 し て よ り 以 降 、 慧 開 は 一 ヶ 寺 に 久 し く 止 住 す る こ と を せ ず 、 比 較 的 に 短 期 間 で つ ぎ の 住 持 地 に 遷 住 す る や り 方 で 多 く の 禅 刹 を 歴 任 し て い く こ と に な る 。   慧 開 が 最 初 に 住 持 職 を 再 開 し た 洪 州 隆 興 府 の 天 寧 寺 と は 、 隆 興 府 城 ( 洪 州 府 城 ) 新 建 県 に 存 し た 天 寧 報 恩 光 孝 禅 寺 の こ と を 指 し て い る 。 い う ま で も な く 北 宋 末 期 の 皇 帝 と し て 悲 運 の 最 期 を 遂 げ た 第 八 代 皇 帝 の 徽 宗 ( 趙 佶 、 道 君 皇 帝 、 一 〇 八 二 ─ 一 一 三 五 、 在 位 は 一 一 〇 〇 ─ 一 一 二 六 ) を 祀 る べ く 南 宋 初 期 に 各 州 に 報 恩 光 孝 寺 が 制 定 さ れ て い る が 、 洪 州 隆 興 府 の 天 寧 寺 も そ の 一 つ で あ っ た と 見 ら れ る )1 ( 。 明 末 の 万 暦 一 六 年 ( 一 五 八 八 ) に 刊 行 さ れ た 『 新 修 南 昌 府 志 』 巻 二 三 「 寺 観 」 の 「 新 建 」 で は 簡 略 に 「 天 寧 寺 、 在 二 勝 門 外 二 舗 一 」 と 記 さ れ る の み で あ り 、 清 の 乾 隆 五 四 年 ( 一 七 八 九 ) に 刊 行 さ れ た 『 南 昌 府 志 』 巻 二 三 「 寺 観 」 の 「 新 建 県 」 で も 同 様 に 「 天 寧 寺 、 在 二 勝 門 外 一、 旧 名 二 孝 寺 一 と 記 さ れ る に す ぎ な い 。 い ず れ も き わ め て 簡 略 な 記 載 で あ る た め 、 天 寧 寺 伽 藍 の 詳 し い 歴 史 的 な 変 遷 な ど は 定 か で な い も の の 、 こ の 寺 は 洪 州 隆 興 府 の 天 寧 報 恩 光 孝 禅 寺 に 制 定 さ れ た 禅 寺 で あ り 、 新 建 県 の 徳 勝 門 外 二 舗 の 地 に 存 し た こ と が 知 ら れ る 。 わ ず か に 『 僧 宝 正 続 伝 』 巻 三 「 黄 龍 逢 禅 師 」 の 章 に 、     政 和 初 、 出 二 世 雲 巌 一、 唱 二 霊 源 之 道 一、 宗 風 盛 行 。 六 年 有 レ 旨 、 移 二 餘 杭 中 天 竺 一、 以 レ 固 辞 。 宣 和 初 、 江 西 帥 徐 任 道 、 請 居 二 天 寧 一。 閲 二 三 年 一、 尚 書 胡 少 汲 、 遷 二 住 黄 龍 一。 時 黄 龍 自 二 老 南 ・ 晦 堂 ・ 霊 源 ・ 死 心 三 世 授 一レ 道 、 天 下 目 為 二 法 窟 一。 師 以 二 曾 孫 一 継 レ 席 、 叢 林 至 レ 今 称 レ 之 、 以 為 下 能 世 二 其 家 一 者 上。( 卍 続 蔵 一 三 七 ・ 二 九 七 c ~ d ) と 記 さ れ て お り 、 臨 済 宗 黄 龍 派 の 通 照 徳 逢 ( 一 〇 七 三 ─ 一 一 三 〇 ) が 江 西 帥 で あ っ た 徐 任 道 の 請 で 北 宋 末 期 の 宣 和 年 間 ( 一 一 一 九 ─ 一 一 二 五 ) の 初 め に 住 持 し た 天 寧 寺 と い う の が 、 こ こ に い う 洪 州 隆 興 府 の 天 寧 寺 の こ と を 指 し て い よ う 。 徳 逢 は 黄 龍 派 の 霊 源 惟 清 ( 仏 寿 禅 師 、 ? ─ 一 一 一 七 ) に 参 じ て 法 を 嗣 い で お り 、 同 じ 黄 龍 派 の 覚 範 慧 洪 ( 徳 洪 、 一 〇 七 一 ─ 一 一 二 八 ) と も 親 し く 、 『 新 編 林 間 後 録 』 の 「 観 音 菩 薩 画 像 賛 并 序 」 に 「 南 州 徳 逢 上 人 」 ( 卍 続 蔵 一 四 八 ・ 三 二 八 d ) と し て 名 が 載 せ ら れ て い る 。 徳 逢 は 慧 開 よ り 一 世 紀 以 上 も 以 前 に 天 寧 寺 に 活 動 し て い た 禅 者 で あ り 、 残 念 な が ら 徳 逢 と 慧 開 の ほ か に こ の 天 寧 寺 に 住 持 し た 宋 代 禅 者 の 名 は 具 体 的 に 伝 え ら れ て い な い 。 ち な み に 徳 逢 は 天 寧 寺 の 住 持 を 三 年 間 に わ た っ て 務 め た 後 に 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 に 遷 住 し て お り 、 こ の 点 で も 慧 開 の 場 合 と 事 跡 が 類 似 し て い る こ と か ら 注 目 さ れ る )2 ( 。   慧 開 が 隆 興 府 の 天 寧 寺 に 住 持 し た 年 月 日 や 住 持 期 間 に つ い て は 明 確 で な い も の の 、 台 州 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 で 首 座 と し て

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九一 『 無 門 関 』 を 提 唱 し た 紹 定 三 年 ( 一 二 三 〇 ) か ら そ れ ほ ど 歳 月 を 経 て い な い 時 期 に 入 寺 し て い る も の と 推 測 さ れ る 。 お そ ら く 『 無 門 関 』 の 開 版 や 提 唱 な ど 禅 者 と し て 慧 開 が 堅 実 な 活 動 を 行 な っ て い た さ ま を 伝 え 聞 い た 洪 州 隆 興 府 の 府 主 な ど 高 官 が 天 寧 寺 の 住 持 と し て 慧 開 を 名 指 し で 拝 請 し た も の で あ ろ う 。 し か も 隆 興 府 の 天 寧 寺 に 住 持 し た こ と で 慧 開 は し ば ら く 江 西 禅 刹 を 中 心 に 活 動 を 展 開 す る こ と に な っ て お り 、 五 山 十 刹 制 度 の 中 心 地 で あ っ た 浙 江 禅 林 と は 距 離 を 置 く か た ち で 住 持 職 を 担 う こ と に な っ た と も 解 さ れ る 。   『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は 侍 者 普 通 録 「 隆 興 府 天 寧 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 一 a ~ c ) が 収 め ら れ て お り 、 隆 興 府 の 天 寧 寺 に お け る 活 動 状 況 な ど が 窺 わ れ る 。 天 寧 寺 の 語 録 を 侍 者 と し て 編 集 し た 普 通 に つ い て は 事 跡 が 定 か で な い が 、 慧 開 に は 法 諱 の 上 字 に 「 普 」 の 系 字 を 持 つ 門 人 が 多 く 存 す る こ と か ら 、 普 通 も 慧 開 が 剃 度 し た 小 師 す な わ ち 子 飼 い の 弟 子 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 天 寧 寺 に お け る 上 堂 で 慧 開 は 「 天 寧 」「 山 僧 」「 老 僧 」 と 自 称 し て い る 。「 隆 興 府 天 寧 禅 寺 語 録 」 に は 天 寧 寺 へ の 入 院 法 語 と し て 「 三 門 」「 仏 殿 」「 土 地 」「 方 丈 」「 拈 レ 帖 」「 法 座 」 が 収 め ら れ て お り 、 慧 開 が 晋 山 入 院 の 儀 式 に 則 っ て 三 門 頭 ( 山 門 頭 ) ・ 仏 殿 ・ 土 地 堂 ・ 方 丈 で 法 語 ( 香 語 ) を 唱 え 、 公 帖 を 拈 じ た 後 、 法 堂 の 須 弥 壇 上 に て 法 語 を 述 べ て い る 。 つ づ い て 「 上 堂 」 と 「 中 秋 上 堂 」 と い う 二 度 の 上 堂 が 存 し 、 最 後 に 「 受 二 黄 龍 請 一 上 堂 」 で 終 わ っ て い る 。   と く に 興 味 深 い の は 「 三 門 」 の 法 語 に 「 閙 市 門 頭 」 の 語 が 見 ら れ 、「 仏 殿 」 の 法 語 に 「 担 レ 入 二 閙 藍 一 と あ り 、「 方 丈 」 の 法 語 で も 「 閙 市 紅 塵 、 入 レ 垂 レ 」 と あ り 、「 法 座 」 に お い て も 「 十 字 街 頭 、 三 家 村 裏 、 閙 中 求 レ 、 忙 裏 偸 レ 。 列 岫 亭 前 、 翠 竹 引 二 風 一、 滕 王 閣 下 、 長 江 浸 二 月 一 と い っ た 表 現 が 見 ら れ る )3 ( こ と で あ り 、 天 寧 寺 が 新 建 県 内 で も 繁 華 街 中 に 存 し て い た こ と が 窺 わ れ る 。 ち な み に 列 岫 亭 と は 隆 興 府 城 の 北 の 龍 沙 に 存 し て 西 山 ( 翠 巌 山 ) に 対 峙 し て い た 史 蹟 で あ り 、 天 寧 寺 近 辺 に 存 し て い た も の で あ ろ う 。 一 方 、 滕 王 閣 と は 唐 の 太 宗 ( 李 世 民 、 五 九 八 ─ 六 四 九 、 在 位 は 六 二 六 ― 六 四 九 ) の 末 弟 で あ る 李 元 嬰 ( 滕 王 、 六 三 〇 ─ 六 八 四 ) が 洪 州 の 都 督 に 任 じ ら れ た と き に 新 建 県 内 の 一 隅 に 築 い た 高 殿 の 名 で あ る )4 ( 。 し か も 「 法 座 」 の こ と ば の つ づ き に 「 其 或 未 レ 、 堪 レ 当 年 亮 座 主 、 西 山 一 去 杳 無 レ 聞 」 と あ り 、 唐 代 に 西 山 ( 翠 巌 山 ) に 隠 遁 し て 消 息 を 絶 っ た 馬 祖 下 の 西 山 亮 座 主 の 故 事 を 引 い て い る 。 同 じ く 「 法 座 」 の 「 復 挙 」 に お い て 侍 郎 の 呉 状 元 す な わ ち と き に 権 兵 部 侍 郎 で あ っ た 呉 潜 ( 字 は 毅 夫 、 号 は 履 斎 、 一 一 九 六 ─ 一 二 六 二 ) の 偈 頌 を 載 せ て 、     侍 郎 呉 状 元 見 レ 示 頌 云 、 手 中 拍 レ 板 袖 中 槌 、 贏 得 逢 レ 場 弄 一 回 。 寄 レ 語 無 門 開 道 者 、 挑 レ 包 便 好 出 レ 山 来 。( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 一 b )

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九二 と 述 べ て い る こ と か ら 、 慧 開 は 侍 郎 呉 潜 の 要 請 で 天 寧 寺 に 住 持 し て い る も の で あ ろ う 。 こ の と き 呉 潜 は 慧 開 を 「 無 門 開 道 者 」 と 尊 称 し て お り 、 こ れ よ り 慧 開 が 示 寂 す る ま で ほ ぼ 三 〇 年 に わ た っ て 呉 潜 は 慧 開 の も と に 参 禅 し 、 親 し く 道 交 を な し て い る )5 ( 。   上 堂 語 の 数 な ど か ら し て 慧 開 が 天 寧 寺 に 住 持 し て い た 期 間 は き わ め て 短 期 に 限 ら れ て い た も の と 見 ら れ 、 最 後 の 「 受 二 黄 龍 請 一 辞 レ 衆 上 堂 」 に お い て 、     受 二 黄 龍 請 一 辞 レ 衆 上 堂 。 休 レ 分 三 鄽 市 与 二 山 間 一、 静 閙 閑 忙 着 レ 眼 看 。 静 閙 二 途 倶 泯 絶 、 如 三 珠 轆 轆 走 二 金 盤 一。( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 一 c ) と 語 っ て お り 、 黄 龍 山 か ら の 要 請 を 受 け て 大 衆 ( 修 行 僧 ) を 辞 す る 上 堂 を な し た 際 も 、 天 寧 寺 を 去 る ま で 慧 開 が 賑 や か な 市 中 繁 華 街 に あ る 禅 刹 で 化 導 を 敷 い て い た 消 息 が 窺 わ れ る 。 こ の 「 受 二 龍 請 一 辞 レ 衆 上 堂 」 に よ っ て 、 つ ぎ に 住 す る 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 か ら 住 持 の 要 請 を 受 け て 天 寧 寺 を 後 に し た こ と が 判 明 し 、 慧 開 が 間 を 置 か ず に 黄 龍 山 に 遷 住 し て い る 状 況 も 窺 わ れ る 。

  隆 興 府 新 建 県 の 天 寧 寺 の 住 持 を 退 い て 後 、 慧 開 は か つ て 臨 済 宗 黄 龍 派 の 拠 点 寺 院 で あ っ た 同 じ 隆 興 府 の 義 寧 州 ( 寧 州 と も ) に 存 す る 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 に 期 間 を 置 か ず に 住 持 す る 機 縁 に 恵 ま れ て い る 。 黄 龍 山 か ら 要 請 を 受 け て の こ と で あ り 、 あ る い は 天 寧 寺 の 住 持 期 間 は 初 め か ら 期 限 付 き で 決 め ら れ て い た の か も 知 れ な い 。 黄 龍 山 ( 一 に 輔 山 と も ) と い え ば 、 黄 龍 派 祖 の 黄 龍 慧 南 ( 普 覚 禅 師 、 積 翠 老 南 、 一 〇 〇 二 ─ 一 〇 六 九 ) が 北 宋 後 期 に 化 導 を 敷 い た 禅 刹 と し て 広 く 知 ら れ 、 現 今 の 地 名 で は 南 昌 地 区 で は な く 江 西 省 九 江 市 修 水 県 黄 龍 鎮 黄 龍 郷 と な っ て い る 。 慧 開 に と っ て 黄 龍 山 と 黄 龍 慧 南 に 寄 せ る 思 い に は 特 別 の も の が 存 し た よ う で あ る 。 北 宋 後 期 か ら 南 宋 初 期 に か け て 黄 龍 派 は 一 時 代 を 風 靡 し て 大 き く 隆 盛 し た が 、 南 宋 中 期 に 入 る と 地 を 払 っ て 衰 微 し 、 そ の 後 ほ ぼ 江 南 禅 林 か ら 法 統 を 断 っ て い る 。 わ ず か に 日 本 か ら 入 宋 求 法 し た 明 庵 栄 西 ( 千 光 法 師 、 一 一 四 一 ─ 一 二 一 五 ) に よ っ て 鎌 倉 初 期 の 日 本 禅 林 に 導 入 さ れ 、 そ の 門 流 は 日 本 の 黄 龍 派 ( 千 光 派 ) と し て 中 世 禅 林 に 維 持 継 承 さ れ て い る 。 そ ん な 黄 龍 派 発 祥 の 名 刹 で あ っ た 黄 龍 山 崇 恩 寺 に 慧 開 は 楊 岐 派 の 禅 者 と し て 住 持 に 迎 え ら れ て い る わ け で あ る 。 か つ て 慧 開 が 台 州 ( 浙 江 省 ) 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 で 首 座 を 務 め て い た 際 、 住 持 で あ っ た 大 慧 派 の 無 量 宗 寿 は 慧 開 の た め に 『 無 門 関 』 に 「 黄 龍 三 関 」 の 古 則 に 対 す る 頌 古 を 付 し て 授 与 し て い る が 、 慧 開 が そ ん な 「 黄 龍 三 関 」 ゆ か り の 黄 龍 山 に 住 持 す る 好 縁 に 恵 ま れ た の は 偶 然 で は な か っ た の か も 知 れ な い 。

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九三   清 の 乾 隆 五 四 年 ( 一 七 八 九 ) に 刊 行 さ れ た 『 南 昌 府 志 』 巻 六 「 山 川 一 〈 山 〉」 の 「 寧 州 」 に は 黄 龍 山 に つ い て 、     黄 龍 山 、 在 二 州 西 一 百 八 十 里 毗 連 湖 一、 広 通 二 城 県 一、 一 名 二 輔 山 一。 高 千 餘 仞 、 下 有 二 冷 暖 二 泉 一。 山 頂 湫 中 有 二 黄 魚 一、 能 致 二 風 雨 一。 歳 旱 祷 レ 之 輙 応 。 其 東 為 二 青 龍 山 一、 相 伝 有 二 禅 師 一 駐 二 錫 於 此 一、 能 馴 二 猛 虎 一、 里 人 結 レ 庵 奉 レ 之 。 と 伝 え て い る 。 同 じ く 『 南 昌 府 志 』 巻 二 四 「 寺 観 」 の 「 寧 州 」 に は 、 黄 龍 山 中 の 崇 恩 禅 院 ( 崇 恩 寺 ) に つ い て 、     黄 龍 崇 恩 禅 院 、 在 二 仁 郷 黄 龍 山 一。 本 双 峯 菴 。 唐 釈 超 慧 居 レ 此 、 創 二 永 安 寺 一。 宋 祥 符 間 、 賜 二 今 額 一。 駙 馬 都 尉 王 詵 、 参 二 禅 於 此 一。( 中 略 ) 宋 張 商 英 記 。 と 記 さ れ て お り 、『 江 西 通 志 』 巻 一 二 一 「 勝 蹟 略 四 」 の 「 寺 観 一 」 に も 、     黄 龍 崇 恩 禅 院 、 在 二 義 寧 州 仁 郷 黄 龍 山 下 一。 為 二 古 于 圩 地 一、 旧 為 二 双 峯 庵 一。 唐 乾 寧 中 、 主 僧 晦 機 始 創 レ 寺 、 名 二 永 安 一。 宋 祥 符 八 年 、 賜 二 今 額 一。 有 二 観 音 井 ・ 翠 雲 洞 法 窟 ・ 霊 源 橋 ・ 桂 香 亭 諸 勝 一。 と 載 せ ら れ て い る こ と か ら 、 黄 龍 山 と 崇 恩 寺 に 関 す る 大 ま か な 変 遷 の 過 程 が 知 ら れ る 。 黄 龍 山 は 隆 興 府 ( 後 世 の 南 昌 府 ) 寧 州 ( 後 世 の 義 寧 州 ) 西 一 八 〇 里 の 仁 郷 に 存 し 、 一 名 を 輔 山 と も い い 、 山 頂 の 毘 蓮 湖 の 湫 池 中 に 黄 魚 が 棲 息 す る こ と か ら 黄 龍 山 の 名 が 付 け ら れ た と さ れ る 。 一 方 、 堂 宇 と し て 古 く 双 峰 庵 が 存 し た と さ れ 、 唐 末 の 乾 寧 年 間 ( 八 九 四 ─ 八 九 七 ) に 至 っ て 青 原 下 の 黄 龍 晦 機 ( 超 慧 大 師 ・ 超 恵 大 師 ) が 伽 藍 を 創 建 し 、 こ れ に 居 し て 永 安 寺 と 名 づ け て い る 。 北 宋 の 大 中 祥 符 八 年 ( 一 〇 一 五 ) に は 崇 恩 禅 院 な い し 崇 恩 禅 寺 の 勅 額 を 賜 っ て い る 。 一 躍 、 黄 龍 山 が 世 に 知 ら れ る よ う に な る の は 、 北 宋 後 期 に 臨 済 宗 ( 黄 龍 派 祖 ) の 黄 龍 慧 南 が 住 持 し て 多 く の 学 人 を 接 化 し て 以 降 の こ と で あ り 、 そ の 後 、 法 嗣 の 晦 堂 祖 心 ( 宝 覚 禅 師 、 一 〇 二 五 ─ 一 一 〇 〇 ) や 法 孫 の 死 心 悟 新 ( 一 〇 四 三 ─ 一 一 一 四 ) と 霊 源 惟 清 ( 仏 寿 禅 師 、? ─ 一 一 一 七 ) な ど 黄 龍 派 の 諸 禅 者 が 相 継 い で 住 持 し て お り 、 黄 龍 派 発 祥 の 一 大 拠 点 と し て 運 営 維 持 さ れ て い る )6 ( 。 先 に 触 れ た ご と く 霊 源 惟 清 の 法 嗣 で あ る 通 照 徳 逢 の 場 合 、 慧 開 と 同 じ よ う に 新 建 県 の 天 寧 寺 か ら 義 寧 州 の 黄 龍 山 へ と 遷 住 し て い る の は 興 味 深 い 。   慧 開 が 住 持 し た 十 三 世 紀 前 半 の 頃 に は す で に 黄 龍 派 は 衰 微 し 、 十 二 世 紀 末 に 入 宋 し て 虚 庵 懐 敞 の 法 を 嗣 い だ 明 庵 栄 西 に よ っ て 辛 う じ て 日 本 禅 林 に 導 入 さ れ 、 日 本 の 黄 龍 派 ( 千 光 派 ) が 形 成 さ れ て い る も の の 、 当 の 中 国 禅 林 で は ほ ぼ 法 統 が 断 絶 し て い た 時 期 に 相 当 し て い る 。 た だ し 、 慧 開 が 活 動 し た 当 時 も 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 は 江 西 の 名 刹 で あ っ て 、 主 要 な 禅 宗 叢 林 と し て 機 能 し て い た こ と に 変 わ り は な い 。『 扶 桑 五 山 記 』 一 「 大 宋 国 諸 寺 位 次 」 の 「 甲 刹 」 に 、

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九四     黄 龍 。 洪 州 隆 興 府 崇 恩 禅 寺 。 開 山 超 恵 禅 師 。 超 恵 堂 ・ 湫 池 ・ 幕 布 峰 。 と 記 さ れ て い る か ら 、 洪 州 隆 興 府 内 で は 黄 龍 山 崇 恩 寺 は 奉 新 県 の 百 丈 山 大 智 寿 聖 禅 寺 と と も に 禅 宗 甲 刹 の 一 つ に 列 せ ら れ て い た と さ れ る 。 江 南 禅 林 に お け る 甲 刹 の 位 置 付 け に つ い て は 明 確 で な い が 、 黄 龍 山 崇 恩 寺 が 洪 州 隆 興 府 を 代 表 す る 禅 刹 の 一 つ で あ っ た の は 疑 い な い 。 慧 開 が 住 持 す る 以 前 に は 虎 丘 派 の 一 翁 慶 如 が 黄 龍 山 に 住 持 し て お り 、 こ の 人 の 場 合 は 晩 年 に 建 康 府 ( 南 京 ) の 蒋 山 太 平 興 国 禅 寺 を 退 居 し て 洪 州 の 西 山 す な わ ち 新 建 県 の 翠 巌 広 化 禅 寺 が 存 し た 地 に 隠 棲 し て 示 寂 し て い る )7 ( 。 慧 開 が 住 持 し て 以 降 も 、 破 庵 派 の 環 渓 惟 一 ( 一 二 〇 二 ─ 一 二 八 一 ) や 松 源 派 の 石 林 行 鞏 ( 一 二 二 〇 ─ 一 二 八 〇 ) さ ら に 大 慧 派 の 東 湖 道 祥 な ど が 南 宋 末 期 に 黄 龍 山 崇 恩 寺 に 住 持 し た 事 実 が 知 ら れ る )8 ( 。 し か も 惟 一 の 場 合 は そ の 後 に 明 州 鄞 県 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 ( 五 山 第 三 位 ) に 住 持 し て お り 、 行 鞏 の 場 合 も 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 禅 寺 ( 五 山 第 四 位 ) に 住 持 し て い る か ら 、 当 時 の 禅 者 が 五 山 十 刹 へ 陞 住 し て い く 上 で 重 要 な 禅 刹 の 一 つ と し て 黄 龍 山 も 機 能 維 持 さ れ て い た こ と が 窺 わ れ る 。   と り わ け 慧 開 が 江 西 の 地 で も っ と も 拠 点 と し て 活 動 し た 禅 刹 こ そ 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 で あ っ た も の ら し く 、『 続 伝 燈 録 』 巻 三 五 で は 「 黄 龍 慧 開 禅 師 」 の 章 が あ り 、『 増 集 続 伝 燈 録 』 巻 二 で も 「 隆 興 黄 龍 無 門 慧 開 禅 師 」 の 章 と あ っ て 、 い ず れ も 「 黄 龍 」 の 名 を 冠 し て 慧 開 の 章 が 立 伝 さ れ て い る 。 か つ て 慧 開 が 台 州 ( 浙 江 省 ) 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 に 到 っ た 折 、 住 持 の 無 量 宗 寿 が 慧 開 の た め に 『 無 門 関 』 に 「 黄 龍 三 関 」 の 古 則 に 対 す る 頌 古 を 付 し て い た わ け で あ る が 、 慧 開 自 身 も そ の 黄 龍 慧 南 ゆ か り の 古 道 場 に 住 持 す る 好 因 縁 に 恵 ま れ た こ と は 、 彼 自 身 の そ の 後 の 活 動 を 考 え る 上 で も き わ め て 意 義 深 い も の が 存 し た で あ ろ う 。   『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は 侍 者 普 通 録 「 隆 興 府 黄 龍 崇 恩 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 一 c ~ 二 五 三 b ) が 載 せ ら れ て お り 、 入 院 法 語 と し て 「 三 門 」「 仏 殿 」「 拈 レ 」「 陞 座 」 が 最 初 に 載 り 、 つ づ い て 「 謝 二 班 一 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 建 二 寿 塔 一 帰 レ 上 堂 」「 建 二 節 一 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 藍 五 湖 長 老 到 上 堂 」「 謝 二 藍 長 老 煎 点 一 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」 「 上 堂 」「 謝 二 率 和 尚 一 堂 」「 上 堂 」「 結 制 上 堂 」「 仏 生 日 上 堂 」「 月 林 和 尚 忌 拈 香 」「 謝 二 旧 両 班 一 堂 」「 因 レ 上 堂 」「 上 堂 」 「 荘 所 行 道 上 堂 」「 重 背 二 蔵 経 一 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」 と い う 二 七 回 の 上 堂 が 収 め ら れ て い る 。 先 の 天 寧 寺 に お け る 上 堂 の 数 に 比 べ て か な り 多 く 、 黄 龍 山 に お け る 上 堂 で 慧 開 は 「 山 僧 」「 黄 龍 」「 崇 恩 」「 無 門 」 と い っ た 自 称 を 用 い て い る 。 黄 龍 山 で の 語 録 を 編 集 し た 侍 者 の 普 通 に つ い て は 事 跡 が 定 か で な い が 、 す で に 触 れ た ご と く 普 通 は 慧 開 の 門 人 と し て 天 寧 寺 の 上 堂 語 録 を 編 集 し て お り 、 引 き つ づ き 随 侍 し て 黄 龍 山 の 語 録 も 編 集 し て い る わ け で あ る 。

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九五   黄 龍 山 で も 入 院 に 際 し て 三 門 と 仏 殿 で 法 語 を 述 べ 、 公 帖 を 拈 じ た 後 に 法 堂 上 の 須 弥 壇 に 上 っ て 陞 座 の 説 法 を な し て い る 。 「 拈 帖 」 で 慧 開 は 「 状 元 筆 下 鼓 二 雷 一 」 と 述 べ て い る こ と か ら 、 黄 龍 山 入 寺 に も 呉 状 元 の 推 挙 が 存 し た ら し い こ と が 窺 わ れ る 。 呉 状 元 と は す で に 触 れ た ご と く 慧 開 が そ の 後 も 深 く 関 わ る こ と に な る 宰 相 呉 潜 の 若 き 頃 の 官 職 に ほ か な ら な い 。 お そ ら く 呉 潜 と し て は 慧 開 が 天 寧 寺 の 住 持 を 務 め る の を 予 め 短 期 間 に 限 り 、 そ の 後 に 黄 龍 山 に 招 く こ と を 初 め か ら 予 定 し て い た も の で あ ろ う 。 ま た 「 建 二寿 塔 一 上 堂 」 が 存 し て お り 、 六 祖 下 の 南 陽 慧 忠 ( 大 証 国 師 、 ? ─ 七 七 五 ) の 「 忠 国 師 無 縫 塔 」 の 因 縁 を 挙 し て い る )9 ( こ と か ら 、 慧 開 は 黄 龍 山 に 住 持 し て い た 期 間 に 山 内 の 一 隅 に 寿 塔 を 建 立 し て い る こ と が 知 ら れ る 。 慧 開 と し て は 早 く か ら 黄 龍 山 を 自 ら の 拠 点 寺 院 と し て 意 識 し て い た も の と 見 ら れ 、 後 に 慧 開 が 示 寂 し た 際 に こ の 寿 塔 に も 遺 骨 が 分 骨 さ れ て 納 め ら れ て い る も の と 推 測 さ れ る 。 た だ し 、 慧 開 が 黄 龍 山 の 一 隅 に 立 石 し た 寿 塔 が 具 体 的 に ど こ に 存 し た の か 、 如 何 な る 名 称 で あ っ た の か に つ い て は 定 か で な い 。   さ ら に 「 建 二 節 一 堂 」 で は 皇 帝 理 宗 の 誕 生 日 ( 聖 節 ) で あ る 正 月 五 日 の 天 基 節 に 因 ん で 上 堂 し て 「 大 千 沙 界 帰 二 化 一、 億 万 斯 年 祝 二 聖 躬 一 」 と 述 べ て い る 。 ま た 「 上 藍 五 湖 長 老 到 上 堂 」 と 「 謝 二 藍 長 老 煎 点 一 堂 」 が 収 め ら れ て い る こ と か ら 、 洪 州 新 建 県 の 上 藍 禅 寺 に 住 持 し て い た 五 湖 長 老 が 黄 龍 山 の 慧 開 と 関 わ り を 持 っ て い た こ と が 知 ら れ る 。 上 藍 寺 と は 洪 州 隆 興 府 新 建 県 崇 梵 坊 に 存 し た 上 藍 禅 寺 の こ と で あ り 、 古 く 唐 代 に 洪 州 の 開 元 寺 に 指 定 さ れ て お り 、 唐 代 に は 南 嶽 下 の 馬 祖 道 一 ( 馬 大 師 、 大 寂 禅 師 、 七 〇 九 ─ 七 八 八 ) が 化 導 を 敷 い た ゆ か り の 寺 院 と し て も 知 ら れ る 。「 上 藍 五 湖 長 老 到 上 堂 」 で 慧 開 が 「 父 子 雖 レ 親 各 不 レ 知 」「 父 子 既 親 、 為 二 什 麼 一 不 レ 知 」 と 語 り 、「 謝 二 上 藍 長 老 煎 点 一 堂 」 で も 「 青 山 白 雲 父 、 白 雲 青 山 児 」 と 語 っ て い る こ と か ら 、 五 湖 長 老 と は 慧 開 の 法 を 嗣 い で 上 藍 寺 に 住 持 し た 直 指 普 敬 の こ と を 指 し て い る の か も 知 れ な い )10 ( 。 ま た 「 謝 二 率 和 尚 一 上 堂 」 を 収 め て い る が 、 こ れ は 黄 龍 山 と 同 じ 隆 興 府 義 寧 州 に 存 し た 龍 安 山 兜 率 禅 寺 に 住 持 し て い た 禅 者 の こ と で あ る が 、 こ の と き の 住 持 に つ い て も 如 何 な る 禅 者 で あ っ た の か が 定 か で な い 。 さ ら に 「 結 制 上 堂 」 で は 黄 龍 山 を 「 天 下 法 窟 」 と 述 べ て 「 要 レ 心 旧 例 一 と し て 北 宋 末 期 の 死 心 悟 新 の 旧 例 に 倣 っ て 黄 龍 山 独 自 の 結 制 を 行 な う と 述 べ て い る )11 ( 。   そ の 後 、 慧 開 は 黄 龍 山 の 住 持 を 退 い て 蘇 州 ( 江 蘇 省 ) 平 江 府 に 赴 い て い る 。『 無 門 開 和 尚 語 録 』「 小 参 」 に は 「 師 退 二 龍 一 二 虎 丘 一 請 」 と 題 し た 小 参 が 収 め ら れ て お り 、     師 退 二 黄 龍 一 到 二 虎 丘 一 請 。 突 二 出 機 先 一 着 一、 迅 雷 不 レ 及 レ 掩 レ 耳 。 徳 山 臨 済 茫 然 、 鈍 根 如 何 挿 レ 觜 。 便 知 、 蒼 龍 隠 レ 海 眠 方 穏 、 老 虎 隈 レ 巌 睡

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九六 未 レ 醒 。 蔵 レ 牙 伏 レ 爪 如 二 癡 鈍 一、 動 着 依 然 怕 二 殺 人 一。 所 以 雲 従 レ 龍 風 従 レ 虎 、 龍 虎 交 参 、 仏 魔 驚 怖 。 直 得 天 回 地 転 、 海 竭 山 摧 、 群 魔 胆 砕 、 鬼 哭 神 号 。 然 二 雖 如 一レ 是 、 於 二 我 衲 僧 分 上 一 了 無 二 交 渉 一。 且 道 、 衲 僧 有 二 甚 長 処 一。 竪 二 払 子 一 云 、 倚 レ 天 長 剣 逼 レ 人 寒 。( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 六 一 a ) と 述 べ て い る か ら 、 慧 開 は 黄 龍 山 の 住 持 を 退 い て 直 ち に 蘇 州 ( 江 蘇 省 ) 呉 県 西 北 七 里 の 虎 丘 山 雲 巌 禅 寺 に 赴 い て い る こ と が 知 ら れ 、 虎 丘 山 の 修 行 僧 ら に 請 わ れ て 小 参 を な し て い る 。 虎 丘 山 雲 巌 禅 寺 は 禅 宗 十 刹 の 一 つ に 列 し た 蘇 州 の 名 刹 で あ り 、 南 宋 初 期 に 楊 岐 派 ( 虎 丘 派 祖 ) の 虎 丘 紹 隆 ( 瞌 睡 虎 、 一 〇 七 七 ─ 一 一 三 六 ) が 住 持 し た こ と で 虎 丘 派 発 祥 の 地 と さ れ て い る 。「 師 退 二 龍 一 到 二 丘 一 の 小 参 で 、 慧 開 は 黄 龍 山 を 蒼 龍 に 準 え 、 虎 丘 山 を 老 虎 に 擬 え て 説 示 を な し て お り 、 こ の と き 慧 開 が 虎 丘 山 に 滞 在 し た こ と か ら 、 そ れ が 縁 故 と な り 同 じ 蘇 州 内 の 霊 巌 山 崇 報 禅 寺 に 入 寺 す る こ と に な っ た も の で あ ろ う 。

  蘇 州 ( 平 江 府 ) に 赴 い て い た 慧 開 は そ の ま ま 呉 県 西 南 二 五 里 に 存 す る 霊 巌 山 崇 報 禅 寺 ( 秀 峰 寺 ) に 住 持 し て い る も の ら し い 。 慧 開 が 蘇 州 呉 県 の 霊 巌 寺 に 遷 住 し た 具 体 的 な 入 寺 時 期 に つ い て は 定 か で な い が 、 黄 龍 山 を 退 い て 蘇 州 呉 県 の 虎 丘 山 雲 巌 寺 に 歴 遊 し た の が 縁 と な っ て 、 同 じ 呉 県 の 霊 巌 寺 の 住 持 に 招 か れ た も の で あ ろ う か 。『 蘇 州 府 志 』 巻 四 〇 「 寺 観 二 」 の 「 呉 県 」 に 、     霊 巌 禅 寺 、 在 二 霊 巌 山 一。 旧 名 二 秀 峰 寺 一、 即 呉 館 娃 宮 也 。 梁 天 監 中 置 。 有 二 智 積 菩 薩 化 形 画 相 之 蹟 一。 宋 太 平 興 国 初 、 節 度 使 孫 承 祐 、 為 二 其 姉 呉 越 国 妃 一、 建 二 磚 塔 九 成 一、 先 為 二 律 居 一。 元 豊 中 、 郡 守 晏 知 止 、 闢 為 二 禅 院 一。 紹 興 中 、 賜 二 蘄 王 韓 世 忠 一 薦 二 先 福 一 号 二 顕 親 崇 報 禅 院 、 重 二 建 智 積 殿 一。 明 洪 武 初 、 改 賜 二 今 額 一、 為 二 叢 林 寺 一。( 後 略 ) と 記 さ れ て お り 、 蘇 州 霊 巌 寺 の 変 遷 が 簡 略 に ま と め ら れ て い る 。 霊 巌 寺 は 蘇 州 呉 県 の 西 南 に 位 置 し 、 太 湖 の 東 に 聳 え る 霊 巌 山 の 山 頂 に 存 し た 禅 寺 で あ り 、 古 く は 三 国 時 代 に 呉 の 離 宮 「 館 娃 宮 」 が 存 し た 遺 跡 の 地 に 建 て ら れ た と さ れ る 。 古 く 梁 代 に 霊 巌 山 寺 に 居 し た と さ れ る 智 積 菩 薩 の 化 形 画 相 を 祀 る 殿 宇 と し て 智 積 殿 が 存 し 、 こ の た め 霊 巌 寺 は 「 智 積 道 場 」 と も 称 さ れ た も の ら し い 。 北 宋 初 期 の 太 平 興 国 年 間 ( 九 七 六 ─ 九 八 四 ) の 初 め に 静 海 軍 節 度 使 の 孫 承 祐 ( 九 三 六 ─ 九 八 五 ) が 九 層 の 磚 塔 を 建 て て 律 院 と な し 、 元 豊 年 間 ( 一 〇 七 八 ─ 一 〇 八 五 ) に は 郡 守 ( 蘇 州 府 主 ) の 晏 崇 譲 ( 知 止 ) に よ っ て 禅 院 に 改 め ら れ て お り 、 当 初 は 秀 峯 禅 院 と 称 さ れ て い る 。

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九七   蘇 州 の 霊 巌 寺 に 関 し て は 、 清 代 初 期 に 臨 済 正 宗 の 退 翁 弘 儲 ( 継 起 、 一 六 〇 五 ─ 一 六 七 二 ) の 法 を 嗣 い で こ の 寺 に 住 持 し た 雪 庵 殊 致 に よ っ て 『 霊 巌 記 略 』 二 巻 が 編 輯 さ れ て い る が 、 概 ね 明 代 や 清 代 初 期 の 記 事 で 占 め ら れ て お り 、 宋 ・ 元 代 以 前 の 動 向 に つ い て は わ ず か し か 記 載 が 存 し て い な い )12 ( 。『 霊 巌 記 略 』 巻 下 「 敍 諸 聖 師 伝 記 」 や 宋 元 代 に か け て 活 躍 し た 禅 僧 の 語 録 や 伝 記 な ど を 踏 ま え る と 、 霊 巌 寺 に は 北 宋 末 に 雲 門 宗 の 慧 林 宗 本 ( 法 空 、 円 照 禅 師 、 一 〇 二 〇 ─ 一 〇 九 九 ) や 慧 林 懐 深 ( 慈 受 禅 師 、 一 〇 七 七 ─ 一 一 三 二 ) ら が 住 持 し た こ と が 知 ら れ る 。 霊 巌 寺 の 境 内 に 宗 本 の 墓 塔 が 存 し た ほ か 、 懐 深 が 詩 偈 を 詠 じ た 披 雲 堂 や 、 雲 門 宗 の 覚 老 了 元 ( 仏 印 禅 師 、 一 〇 三 二 ─ 一 〇 九 八 ) と 蘇 軾 ( 字 は 子 瞻 、 東 坡 居 士 、 一 〇 三 六 ─ 一 一 〇 一 ) ゆ か り の 迎 笑 亭 な ど 、 著 名 な 堂 宇 史 蹟 が 存 し た と さ れ る 。 一 方 、 南 宋 代 に 入 る と 霊 巌 寺 は 紹 興 年 間 ( 一 一 三 一 ─ 一 一 六 二 ) に 「 顕 親 崇 報 禅 院 」 の 額 を 賜 っ て 智 積 殿 を 重 建 し た と さ れ 、 南 宋 初 期 に は 雲 門 宗 の 径 山 智 訥 ( 妙 空 禅 師 、 一 〇 七 八 ─ 一 一 五 七 ) が 住 持 し て い る が 、 し だ い に 臨 済 禅 者 が 住 持 を 勤 め る よ う に な っ て い る 。 慧 開 が 住 持 し た 頃 は 正 式 に は 霊 巌 山 顕 報 崇 報 禅 院 な い し 単 に 霊 巌 山 崇 報 禅 寺 と 呼 称 し て い た こ と が 知 ら れ 、『 月 林 観 和 尚 語 録 』 に も 「 住 平 江 府 霊 巌 山 崇 報 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 四 五 a ~ d ) が 存 し て お り 、 慧 開 の 本 師 で あ る 月 林 師 観 も か つ て 霊 巌 寺 に 住 持 し て い る か ら 、 慧 開 の 場 合 、 師 観 と の 師 資 の 縁 故 で 入 寺 し て い る と も い え よ う 。 慧 開 の ほ か に も 南 宋 後 期 に は 楊 岐 派 の 癡 鈍 智 頴 や 曹 洞 宗 宏 智 派 の 東 谷 妙 光 ( ? ─ 一 二 五 三 ) ら が 霊 巌 寺 に 住 持 し た こ と が 知 ら れ 、 元 代 に も 曹 源 派 の 石 湖 至 美 ( 一 二 五 八 ― 一 三 三 一 ) や 松 源 派 ( 金 剛 幢 下 ) の 了 庵 清 欲 ( 南 堂 、 慈 雲 普 済 禅 師 、 一 二 八 八 ─ 一 三 六 三 ) な ど が 霊 巌 寺 に 住 持 し て い る 。 ち な み に 加 賀 ( 石 川 県 ) 大 乗 寺 に 所 蔵 さ れ る 『 大 宋 名 藍 図 』 に よ れ ば 、 曹 洞 宗 永 平 下 の 徹 通 義 介 ( 義 鑑 、 一 二 一 九 ─ 一 三 〇 九 ) も 在 宋 中 に 霊 巌 寺 を 訪 れ て い る も の ら し い )13 ( 。   『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に 侍 者 了 心 録 「 平 江 府 霊 巌 顕 親 崇 報 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 三 b ~ d ) が 収 め ら れ て い る が 、 入 院 法 語 と し て 「 方 丈 」「 陞 座 」 が 存 し た 後 、 つ い で 「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」 と い う 僅 か に 四 上 堂 が 収 め ら れ て い る に す ぎ な い 。 こ の と き も 三 門 な ど で 法 語 を 唱 え た は ず で あ ろ う が 、 方 丈 で の 法 語 と 法 堂 の 須 弥 壇 上 の 説 法 の み が 収 録 さ れ て い る 。 僅 か 四 上 堂 し か 収 め ら れ て い な い こ と か ら 、 霊 巌 寺 の 住 持 期 間 も 短 期 で あ っ た と 見 ら れ 、 霊 巌 寺 で の 上 堂 で 慧 開 は 「 開 上 座 」 「 霊 巌 」 と 自 称 し て い る 。 霊 巌 寺 の 上 堂 語 録 を 編 集 し た 侍 者 の 了 心 に つ い て は 、 そ の 事 跡 が 定 か で な い 。 霊 巌 寺 の 上 堂 語 録 に は 退 院 上 堂 が 載 せ ら れ て お ら ず 、 わ ず か な 住 持 期 間 を 終 え る と 、 ま も な く 慧 開 は 再 び 洪 州 隆 興 府 に 戻 る こ と に な る 。

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九八

  つ い で 慧 開 は 再 び 洪 州 隆 興 府 に 戻 っ て 新 建 県 洪 崖 郷 の 翠 巌 広 化 禅 寺 す な わ ち 現 今 の 南 昌 市 新 建 県 西 山 鎮 に 存 す る 翠 巌 寺 に 遷 住 し て い る 。『 増 集 続 伝 燈 録 』 や 『 補 続 高 僧 伝 』 で は 単 に 「 翠 巌 」 と 表 記 さ れ て お り 、 一 般 に は 洪 州 ( 後 の 南 昌 府 ) の 翠 巌 寺 と し て 知 ら れ る 。『 新 修 南 昌 府 志 』 巻 二 三 「 寺 観 」 の 「 新 建 」 に 「 翠 巌 広 化 寺 、 在 二 崖 郷 三 都 洪 井 上 一 と あ り 、『 乾 隆 南 昌 府 志 』 巻 二 三 「 寺 観 」 の 「 新 建 県 」 に 、     翠 巌 広 化 寺 、 在 二 厓 郷 洪 井 上 一。 晋 雷 煥 取 二 西 山 北 巌 土 一 拭 レ 、 即 此 地 。 初 名 二 常 緑 寺 一、 斉 始 安 王 遥 光 建 。 唐 武 徳 間 、 改 為 二 洪 井 寺 一、 又 改 二 翠 巌 寺 一。 南 唐 為 レ 院 更 二 今 名 一。 一 云 、 梁 景 明 初 、 劉 準 建 。 明 嘉 靖 中 、 廃 為 二 民 居 一。 国 朝 順 治 七 年 、 香 城 僧 可 学 、 捐 二 衣 鉢 一 贖 還 。 少 宰 熊 文 挙 、 迎 二 僧 古 雪 通 喆 一、 開 堂 説 法 。 刻 有 二 翠 巌 誌 畧 一。 と い く ぶ ん 詳 し く 記 さ れ て い る 。 洪 州 の 翠 巌 山 は 府 城 の 西 す な わ ち 現 今 の 南 昌 市 の 西 の 郊 外 に 存 し て い る こ と か ら 一 に 西 山 と も 称 さ れ 、 か つ て 教 学 の 徒 で あ っ た 西 山 亮 座 主 が 唐 代 に 馬 祖 道 一 ( 大 寂 禅 師 ) に 参 じ て 印 可 を 得 た 後 、 こ の 山 に 隠 れ て 消 息 を 絶 っ た 故 事 で 名 高 い )14 ( 。 山 内 の 翠 巌 広 化 禅 寺 は 新 建 県 洪 崖 郷 三 都 の 洪 井 上 に 存 し 、 唐 代 に は 洪 井 寺 ま た は 翠 巌 寺 と 称 さ れ て い た が 、 南 唐 の 保 大 年 間 ( 九 四 三 ─ 九 五 七 ) に 青 原 下 の 禾 山 無 殷 ( 澄 源 禅 師 、 法 性 禅 師 、 八 八 四 ─ 九 六 〇 ) が 住 持 し た 際 に 広 化 禅 寺 と 改 名 さ れ て い る )15 ( 。 翠 巌 広 化 禅 寺 と い え ば 、 唐 末 五 代 に 雪 峰 下 の 翠 巌 令 参 ( 永 明 大 師 ) が 創 建 し た 明 州 ( 浙 江 省 ) 鄞 県 の 翠 巌 資 福 禅 寺 ( も と 宝 積 禅 院 ) と と も に 二 つ の 翠 巌 寺 と し て 広 く 知 ら れ て お り 、 現 今 も 南 昌 市 湾 里 区 翠 岩 路 の 北 端 に 位 置 し 、 西 山 八 大 名 刹 の 一 つ と し て 現 存 し て い る )16 ( 。 ち な み に 「 翠 巌 眉 毛 」 の 古 則 で 知 ら れ る 翠 巌 寺 と は 、 翠 巌 令 参 ゆ か り の 明 州 ( 寧 波 ) の 翠 巌 寺 の 方 で あ る 。 翠 巌 広 化 寺 に は 北 宋 代 に 臨 済 宗 の 大 愚 守 芝 や 翠 巌 可 真 ( 真 点 胸 、 ? ─ 一 〇 六 四 ) が 住 持 し て お り 、 守 芝 の 高 弟 で あ る 雲 峰 文 悦 ( 九 九 七 ─ 一 〇 六 二 ) も 化 導 を 敷 い て い る 。 北 宋 末 に は 黄 龍 派 の 円 通 円 璣 ( 惺 惺 道 者 、 一 〇 三 六 ─ 一 一 一 八 ) や 死 心 悟 新 ( 死 心 叟 、 一 〇 四 三 ─ 一 一 一 四 ) が 住 持 し て お り 、 雲 門 宗 の 覚 老 了 元 ( 仏 印 禅 師 、 一 〇 三 二 ─ 一 〇 九 八 ) の 法 を 嗣 い だ 翠 巌 慧 空 も 入 寺 し て い る こ と か ら 、 当 時 、 江 西 の 勝 地 と し て 伽 藍 が 維 持 さ れ て い た こ と が 知 ら れ る 。 南 宋 代 に は 慧 開 が 住 持 し た 直 後 く ら い に 松 源 派 の 滅 翁 文 礼 ( 天 目 樵 者 、 一 一 六 七 ─ 一 二 五 〇 ) の 法 を 嗣 い だ 木 大 守 真 が 翠 巌 寺 に 住 持 し て お り 、 破 庵 派 の 西 巌 了 慧 ( 一 一 九 八 ─ 一 二 六 二 ) の 法 を 嗣 い だ 木 庵 若 訥 ( 水 庵 ・ 木 翁 と も ) も 住 持 し た こ と が 知 ら れ る 。 元 代 後 期 に は 曹 洞 宗 宏 智 派 の 無 印

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 九九 大 証 ( 自 鏡 叟 、 仏 日 円 明 慧 辯 禅 師 、 一 二 九 七 ─ 一 三 六 一 ) が 翠 巌 寺 か ら 住 持 を 請 わ れ た が 、 疾 を も っ て 辞 退 し て い る )17 ( 。   後 に 日 本 か ら 入 元 し た 大 慧 派 の 中 巌 円 月 ( 中 正 子 、 仏 種 慧 済 禅 師 、 一 三 〇 〇 ─ 一 三 七 五 ) も 在 元 中 に こ の 翠 巌 寺 を 訪 れ て お り 、 元 朝 で の 見 聞 記 事 を ま と め た 『 藤 陰 瑣 細 集 』 に は 当 時 の 江 西 の 禅 刹 に つ い て 、 つ ぎ の よ う に 書 き 残 し て い る 。     江 西 禅 刹 、 古 称 二 疎 ・ 仰 ・ 黄 龍 一 為 二 甲 一、 今 則 不 レ 然 。 仰 山 ・ 東 林 、 最 為 二 盛 大 一、 百 丈 ・ 黄 龍 次 也 。 円 通 ・ 開 先 ・ 雲 居 ・ 洞 山 、又 其 次 也 。 如 二 疎 山 一 者 、 廃 已 久 矣 。 尚 不 レ 可 レ 及 二 雲 岩 ・ 翠 岩 一、 但 可 下 与 二 上 藍 ・ 兜 率 一 争 上 不 レ 多 也 。( 五 山 新 集 四 ・ 四 四 二 頁 )   円 月 は 宋 代 か ら 元 代 中 期 に お け る 江 西 禅 刹 の 状 況 を 如 実 に 伝 え て い る 点 で 興 味 深 く 、 翠 巌 寺 の 規 模 が 大 ま か に 窺 わ れ る 。 北 宋 代 か ら 南 宋 代 に か け て 江 西 で は 撫 州 ( 江 西 省 ) 臨 川 県 の 疎 山 白 雲 禅 寺 と 袁 州 ( 江 西 省 ) 宜 春 県 の 仰 山 太 平 興 国 禅 寺 と 隆 興 府 義 寧 州 の 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 が も っ と も 甲 た る 寺 院 で あ っ た と さ れ る 。 円 月 が 到 っ た 当 時 、 江 西 の 禅 刹 で は 袁 州 の 仰 山 太 平 興 国 禅 寺 や 廬 山 の 東 林 禅 寺 が も っ と も 大 き く 、 つ づ い て 奉 新 県 の 百 丈 山 大 智 寿 聖 寺 や 義 寧 州 の 黄 龍 山 崇 恩 寺 さ ら に 廬 山 の 円 通 禅 寺 ・ 開 先 禅 寺 、 建 昌 県 の 雲 居 山 真 如 禅 寺 や 瑞 州 ( 筠 州 ) 新 昌 県 の 洞 山 普 利 禅 寺 な ど が 存 し て お り 、 翠 巌 寺 の 場 合 は 義 寧 州 の 雲 巌 禅 院 と と も に い く ぶ ん 規 模 が 小 さ か っ た も の ら し い )18 ( 。 し か も 円 月 は 同 じ 『 藤 陰 瑣 細 集 』 に お い て 、     西 山 自 二 隆 興 府 城 一西 行四 十 里 、 山 勢 連 属 。( 中 略) 翠 嵓 寺 、 乃 西 山 第 一 峯 也 。旁 有 二 洪 崖 泉 一。 峭 壁 懸 崖 、 飛 泉 瀉 降 、 其 下 井 洞 、 深 不 レ 可 レ 測 。 ( 中 略 ) 張 天 覚 到 二 翠 岩 一、 主 僧 出 迎 。 天 覚 問 、 如 何 是 翠 岩 境 。 答 云 、 門 近 二 洪 崖 千 尺 井 一、 石 橋 分 レ 水 繞 二 松 杉 一。 張 公 乃 足 作 二 一 聯 一 云 、 老 僧 迎 レ 客 出 二 煙 嵐 一、 試 問 如 何 是 翠 岩 。 門 近 二 洪 崖 千 尺 井 一、 石 橋 分 レ 水 遶 二 松 杉 一。 見 今 石 刻 在 レ 寺 。( 五 山 新 集 四 ・ 四 四 一 頁 ) と 述 べ て お り 、 翠 巌 寺 の 風 致 に つ い て も 書 き 残 し て い る 。 翠 巌 寺 が 西 山 ( 翠 巌 山 ) の 第 一 峰 で あ り 、 傍 ら に 洪 崖 泉 が 存 し て い る こ と 、 か つ て 洪 州 太 守 で あ っ た 張 商 英 ( 字 は 天 覚 、 無 尽 居 士 、 一 〇 四 三 ─ 一 一 二 二 ) が 翠 巌 寺 と 関 わ っ た 因 縁 と 彼 が 詠 じ た 偈 頌 が 載 せ ら れ て い る 。   慧 開 が 翠 巌 広 化 寺 に 入 寺 し た 具 体 的 な 年 時 は 定 か で な い が 、『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は 侍 者 普 礼 録 「 隆 興 府 翠 巌 広 化 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 三 d ~ 二 五 四 c ) が 収 め ら れ て お り 、 入 院 法 語 と し て 「 三 門 」「 斉 安 王 廟 焼 香 」「 陞 座 」 が 存 し 、「 上 堂 」「 上 堂 」「 涅 槃 上 堂 」「 謝 二 九 渓 和 尚 一 堂 」「 謝 二 払 一 堂 」「 清 明 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」 と つ づ い て 、 最 後 に 「 赴 二 黄 龍 一 上 堂 」 で 終 わ っ て い る 。 翠 巌 寺 に お け る 上 堂 語 を 編 し た 侍 者 の 普 礼 に つ い て は 事 跡 が 定 か で な い も の の 、 慧 開 が 門 人 に 付 与 し た 「 普 」 の 字 を 付 し て い る こ と か ら 、 こ の 人 も 慧 開 の も と で 剃 髪 し た 得 度 の 小 師 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 ま た

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 一〇〇 翠 巌 寺 に お け る 上 堂 で は 慧 開 は 「 翠 巌 」「 開 道 者 」「 山 僧 」「 無 門 」 と 自 称 し て い る 。   興 味 深 い の は 三 門 で 法 語 を 述 べ た 後 、 慧 開 が 翠 巌 広 化 寺 の 中 に 存 し た と 見 ら れ る 斉 安 王 廟 で 焼 香 し て 法 語 を 述 べ て い る こ と で あ ろ う 。 斉 安 王 と は 南 朝 斉 の 皇 族 で あ っ た 蕭 遥 光 ( 字 は 元 暉 、 始 安 王 、 四 六 八 ─ 四 九 九 ) の こ と で あ り )19 ( 、 翠 巌 寺 に 入 寺 し た 際 に 慧 開 は 寺 内 か 近 隣 に 存 し た と 見 ら れ る 斉 安 王 廟 に 詣 で て 焼 香 礼 拝 し て 法 語 を 述 べ て か ら 、 法 堂 の 須 弥 壇 に 上 っ て 説 法 し て い る )20 ( 。 翠 巌 寺 に と っ て 斉 安 王 が 特 別 の 存 在 で あ っ た こ と が 知 ら れ 、 斉 安 王 廟 が 一 種 の 土 地 堂 と し て 機 能 し て お り 、 こ の 廟 で 焼 香 す る こ と が 翠 巌 寺 に 入 寺 し た 禅 者 に と っ て 重 要 な 儀 式 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 翠 巌 寺 の 慧 開 の も と を 訪 れ た 九 渓 和 尚 に つ い て も 如 何 な る 禅 者 で あ っ た の か 定 か で な い 。 ち な み に 『 無 文 印 』 巻 五 「 石 霜 竹 巌 印 禅 師 塔 銘 」 に よ れ ば 、 慧 開 と 同 門 に 当 た る 竹 巌 妙 印 の 場 合 は 、 翠 巌 寺 か ら 住 持 の 要 請 が 存 し た も の の 、 妙 印 が こ れ を 辞 退 し て い る 事 実 が 知 ら れ る )21 ( 。

  そ の 後 、 慧 開 は 再 び 黄 龍 山 崇 恩 禅 寺 に 住 持 す る 因 縁 に 恵 ま れ て い る 。『 無 門 開 和 尚 語 録 』「 隆 興 府 翠 巌 広 化 禅 寺 語 録 」 の 末 尾 に は 「 赴 二 龍 一 上 堂 」 が 存 し て お り 、     師 云 、 大 衆 、 大 小 祖 師 坐 二 在 這 裏 一、 無 門 即 不 レ 然 。 翠 巌 絶 二 嶮 巇 一、 元 不 レ 渉 二 階 梯 一、 去 来 無 二 窒 礙 一、 彼 此 更 何 疑 。 珍 重 洪 源 湖 海 衆 、 箇 中 不 レ 隔 二 一 毫 釐 一。( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 四 c ) と い う 翠 巌 寺 の 僧 衆 に 対 す る 慧 開 の 餞 別 の こ と ば が 残 さ れ て い る 。『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は こ れ に つ づ い て 侍 者 法 孜 録 「 再 住 黄 龍 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 四 c ~ 二 五 五 b ) が 収 め ら れ て い る 。 入 院 法 語 と し て 「 三 門 」「仏 殿 」「 方 丈 」「 拈 レ 」「 拈 レ 」 「 法 座 」 が 存 し て お り 、 冒 頭 の 「 三 門 」 で 「 無 門 為 二 法 門 一、 三 関 何 用 レ 立 。 熟 処 既 難 レ 、 又 従 二 裏 一 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 四 c ) と 述 べ 、 自 身 の 無 門 の 号 や 「 黄 龍 三 関 」 の 公 案 を 踏 ま え て い る の は 興 味 深 い 。 つ づ い て 「 謝 二 両 班 一 堂 」「 預 結 夏 上 堂 」 「 上 堂 」「 上 堂 」「 中 夏 上 堂 」「 上 堂 」「 祈 レ 上 堂 」「 謝 レ 上 堂 」 が 収 め ら れ て 終 わ っ て い る 。 黄 龍 山 再 住 期 間 の 上 堂 で は 慧 開 は 「 無 門 老 漢 」「 黄 龍 」 と 自 称 し て い る 。 黄 龍 山 に 再 住 し た 理 由 は 明 確 で は な い が 、 入 院 に 際 し て 慧 開 は 再 び 正 式 な 晋 山 の 儀 式 を な し て 入 院 法 語 を 述 べ て い る 。 こ の こ と は 慧 開 と 黄 龍 山 と の 関 わ り を よ り 一 層 深 め た も の と 見 ら れ る 。 黄 龍 山 で の 再 住 語 録 を 編 集 し た 侍 者 の 法 孜 に つ い て は 、 如 何 な る 禅 者 で あ っ た の か 事 跡 が 定 か で な い 。

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 一〇一   黄 龍 山 再 住 持 期 の 上 堂 で 興 味 深 い の は 「 預 結 夏 上 堂 」 に て 「 黄 龍 結 制 没 二 縄 一、 超 二 諸 方 一 月 程 」 ( 同 ・ 二 五 四 c ) と 述 べ て お り 、 こ の と き も 慧 開 が 死 心 悟 新 の 旧 例 に 倣 っ て 黄 龍 山 の 結 制 安 居 を 諸 方 の 禅 林 よ り 半 月 早 く 四 月 一 日 に 開 始 し て い た こ と が 知 ら れ る 。 ま た 「 祈 レ 上 堂 」 と 「 謝 レ 上 堂 」 と い う 二 上 堂 が 収 め ら れ て い る の は さ ら に 注 目 さ れ 、 こ れ に 先 立 っ て 慧 開 は 「 中 夏 上 堂 」 で 「 六 月 炎 炎 如 二 火 聚 一、 寂 然 不 レ 動 於 レ 中 住 。 炎 炎 火 聚 却 清 凉 、 清 凉 却 是 炎 炎 処 」 ( 同 ・ 二 五 五 a ) と 述 べ て お り 、 再 住 し た 年 に は 夏 安 居 の 中 夏 ( 六 月 一 日 ) 以 前 か ら す で に か な り 暑 い 日 が つ づ い て 雨 が 降 ら な か っ た も の ら し い 。 こ の た め 慧 開 は 黄 龍 山 の 住 持 と し て 「 祈 レ 上 堂 」 を 行 な い 、 そ の 霊 験 が 応 じ る や 「 謝 レ 雨 上 堂 」 を 行 な っ て い る )22 ( 。 こ の 点 は 『 南 昌 府 志 』 巻 六 「 山 川 一 〈 山 〉」 の 「 寧 州 」 に お い て 、     黄 龍 山 、 在 二 州 西 一 百 八 十 里 毗 連 湖 一、 広 通 二 城 県 一、 一 名 二 輔 山 一。 高 千 餘 仞 、 下 有 二 冷 暖 二 泉 一。 山 頂 湫 中 有 二 黄 魚 一、 能 致 二 風 雨 一。 歳 旱 祷 レ 之 輙 応 。 と 伝 え ら れ て い る の と 符 合 し て い る 。 黄 龍 山 の 山 頂 に あ る 湫 池 ( 東 湖 ) に 黄 魚 が 生 息 し て お り 、 そ の 黄 魚 は し ば し ば 風 雨 を 起 こ し 、 旱 魃 の と き に こ れ に 祈 る と 霊 験 で 雨 が 降 る と 言 い 伝 え ら れ て い た と さ れ る 。 お そ ら く 慧 開 は 黄 龍 山 で 伝 承 さ れ て い た 黄 魚 に ま つ わ る 雨 乞 い の 儀 礼 を 行 な っ た も の と 見 ら れ 、「 祈 レ 上 堂 」 で 慧 開 は 「 天 下 蒼 生 待 二 雨 一、 不 レ 龍 向 二 間 一 」 お よ び 「 霹 靂 一 声 頭 角 露 、 傾 湫 倒 嶽 鼓 二 瀾 一 ( 同 ・ 二 五 五 a ) と 述 べ て 黄 龍 山 の 龍 の 奇 瑞 を 祈 っ て い る 。「 謝 レ 雨 上 堂 」 と は 祈 雨 に よ る 霊 験 で 雨 が 降 っ た こ と に 対 し て 感 謝 す る 上 堂 で あ り 、 末 尾 に て 「 今 日 忽 有 レ 問 二 龍 一、 東 湖 水 満 也 未 。 只 向 レ 道 、 聊 施 二 一 滴 湫 池 水 一、 漲 二 起 江 西 十 八 灘 一 ( 同 ・ 二 五 五 b ) と 結 ん で い る 。 こ の よ う に 慧 開 は す で に 黄 龍 山 に お い て 祈 雨 や 謝 雨 の 上 堂 を 行 な っ て い る こ と が 知 ら れ る の で あ り 、 こ の こ と が 後 に 慧 開 が 国 都 杭 州 で 理 宗 の 命 を 受 け て 祈 雨 の 儀 式 を 行 な う 前 例 と な っ て い る わ け で あ る 。 慧 開 に は 『 無 門 関 』 に 因 む 厳 格 な 公 案 禅 者 と し て の 一 面 と と も に 、 祈 雨 に 行 な う 神 異 僧 と し て 別 の 一 面 が 濃 厚 に 窺 わ れ る の は 黄 龍 山 に お け る 行 動 に 端 を 発 し て い る 。

  つ い で 慧 開 は 鎮 江 府 ( 江 蘇 省 ) 丹 徒 県 の 城 東 北 九 里 の 大 江 中 に 存 す る 焦 山 普 済 禅 寺 に 住 持 し て い る 。 た だ し 、「 再 住 黄 龍 禅 寺 語 録 」 に は 退 院 の 上 堂 が 載 せ ら れ て い な い こ と か ら 、 慧 開 が 黄 龍 山 か ら 直 ち に 焦 山 に 遷 住 し た の か 否 か は 定 か で な い 。 焦 山 は

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 一〇二 金 山 や 北 固 山 と と も に 鎮 江 三 山 と 称 さ れ る 名 勝 の 一 つ で あ り 、 南 宋 代 の 『 嘉 定 鎮 江 志 』 巻 八 「 僧 寺 〈 寺 〉」 の 「 丹 徒 県 」 に は 簡 略 な が ら つ ぎ の よ う に 記 さ れ て い る 。     普 済 禅 院 、 在 二 焦 山 一。 祥 符 図 経 不 レ 載 二 始 建 歳 月 一。 但 云 、 宋 朝 改 二 今 名 一。 僧 了 元 自 序 。 元 祐 三 年 春 、 普 済 庵 乏 二 主 者 一、 白 太 守 楊 公 乞 居 二 於 此 院 一。 旧 有 二 海 雲 堂 ・ 善 財 亭 一。   ま た 清 の 光 緒 五 年 ( 一 八 七 九 ) に 刊 行 さ れ た 『 丹 徒 県 志 』 巻 六 「 寺 観 」 に は 若 干 詳 し く 、     定 慧 寺 、 在 二 焦 山 一、 旧 名 二 普 済 禅 院 一。 嘉 定 鎮 江 志 云 、 祥 符 図 経 不 レ 載 二 始 建 歳 月 一。 但 云 、 宋 朝 改 二 今 名 一。 釈 了 元 焦 山 十 六 題 詩 自 序 云 、 元 祐 三 年 春 、 普 済 庵 乏 二 主 者 一、 因 太 守 楊 公 乞 退 二 居 於 此 一。 孫 覿 詩 、 昔 年 与 レ 客 寄 二 僧 龕 一、 敗 屋 疏 籬 一 草 庵 、 白 首 重 来 看 二 修 竹 一、 連 山 楼 観 亦 眈 眈 。 蓋 元 祐 後 、 日 益 恢 廓 、 始 成 二 名 藍 一、 称 二 普 済 禅 寺 一、 又 通 謂 二 之 焦 山 寺 一。 寺 額 宋 呉 据 書 、 今 佚 。 嘉 慶 志 云 、 寺 創 二 自 漢 興 平 間 一、 名 二 普 済 一。 唐 時 僧 法 宝 寂 重 建 。 宋 名 二 普 済 庵 一。 元 祐 初 、 僧 了 元 居 レ 此 、 復 名 レ 。 景 定 癸 亥 燬 、 僧 徳 愼 復 建 、 郡 守 陳 均 記 。 元 名 二 焦 山 寺 一、 兵 燬 。 明 宣 徳 中 、 僧 覚 初 心 重 建 。 正 統 間 、 其 徒 宏 衍 拓 レ 之 。 と 記 さ れ て い る 。 焦 山 普 済 禅 寺 は 金 山 龍 游 禅 寺 と 対 峙 し て お り 、 山 名 は 漢 代 に 処 士 の 焦 光 ( 字 は 孝 然 ) が こ の 地 に 隠 棲 し た こ と に 因 ん で お り 、「 三 詔 洞 」 と 称 す る 伝 説 の 大 洞 穴 な ど も 存 し て い る 。 古 く 後 漢 の 興 平 年 間 ( 一 九 四 ─ 一 九 五 ) に 創 建 さ れ た と も 伝 え ら れ 、 も と 普 済 庵 と 称 し て い た が 、 元 祐 三 年 ( 一 〇 八 八 ) 春 に 雲 門 宗 の 覚 老 了 元 ( 仏 印 禅 師 、 一 〇 三 二 ─ 一 〇 九 八 ) が 入 院 し て 伽 藍 を 一 新 し て 普 済 禅 院 な い し 普 済 禅 寺 と 称 さ れ て い る 。『 扶 桑 五 山 記 』 一 「 大 宋 国 諸 寺 位 次 」 の 「 甲 刹 」 に よ れ ば 、     焦 山 、 潤 州 〈 南 京 鎮 江 府 〉 普 済 禅 寺 〈 揚 子 江 中 〉       開 山 [       ]・ 海 門 ・ 賛 善 閣 ・ 呑 江 亭 ・ 海 雲 堂 ・ 瘞 鶴 銘 ・ 吸 江 亭 。 と あ り 、 鎮 江 府 で 焦 山 普 済 寺 は 金 山 龍 游 禅 寺 と と も に 甲 刹 位 に 列 し て い た と さ れ る 。 寺 号 は 後 世 に 焦 山 定 慧 禅 寺 と 改 称 さ れ て お り 、 単 に 焦 山 寺 と も 略 称 さ れ て い る 。 現 在 も 鎮 江 市 の 名 刹 と し て 金 山 龍 游 禅 寺 と 共 に 伽 藍 を 誇 っ て い る 。   清 代 に 編 纂 さ れ た 『 焦 山 志 』 二 六 巻 も 存 し て い る が 、 巻 一 〇 「 方 外 」 の 「 宋 」 に は 、 わ ず か に 「 法 成 」「 了 元 」「 師 体 」「 懐 深 」「 如 玉 」 と し て 、 雲 門 宗 の 覚 老 了 元 の ほ か に 曹 洞 宗 の 枯 木 法 成 ( 普 証 大 師 、 一 〇 七 一 ─ 一 一 二 八 ) と 雲 門 宗 の 慈 受 懐 深 ( 普 照 、 慈 受 禅 師 、 一 〇 七 七 ─ 一 一 三 二 ) と 楊 岐 派 の 或 庵 師 体 ( 一 一 〇 八 ─ 一 一 七 九 ) と 破 庵 派 の 頑 石 如 玉 の こ と が 挙 げ ら れ て い る の み で 、 残 念 な が ら そ こ に 慧 開 の 名 や 記 事 な ど は 存 し て い な い 。

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 一〇三   『 慈 受 深 和 尚 語 録 』 巻 二 「 偈 讃 」 に 「 前 住 焦 山 歴 代 尊 宿 真 讃 」 ( 卍 続 蔵 一 二 六 ・ 二 八 三 a ~ b ) が 存 し 、 焦 山 に 住 持 し た 禅 者 と し て 「 珍 禅 師 」「 倫 禅 師 」「 仏 印 禅 師 」「 深 禅 師 」「 従 禅 師 」 の 名 と 真 賛 お よ び 「 慈 受 和 尚 自 讃 」 が 載 せ ら れ て い る 。 焦 山 に は 北 宋 代 に 雲 門 宗 の 仏 印 禅 師 す な わ ち 覚 老 了 元 が 住 持 し た こ と で 知 ら れ 、 ほ か に も 住 持 と し て 雲 門 宗 の 焦 山 義 深 と 焦 山 □ 従 な ど の 名 が 載 せ ら れ て い る 。 北 宋 末 か ら 南 宋 初 に か け て は 曹 洞 宗 の 枯 木 法 成 や 雲 門 宗 の 慈 受 懐 深 さ ら に 楊 岐 派 の 或 庵 師 体 な ど が 焦 山 に 住 し て 活 躍 し て い る 。 南 宋 後 期 に は 松 源 派 の 無 相 □ 範 ( 大 範 、 ? ─ 一 二 三 一 ) や 破 庵 派 の 無 準 師 範 も 住 持 し て お り 、 そ の 後 に 慧 開 が 焦 山 に 化 導 を 敷 い た わ け で あ る 。 慧 開 が 退 い た 後 に も 破 庵 派 ( 無 準 下 ) の 頑 石 如 玉 や 霊 叟 道 源 が 焦 山 で 活 動 し て い る も の ら し い 。 ま た 慧 開 が 示 寂 し た 後 に 当 た る が 、 景 定 四 年 ( 一 二 六 三 ) に 普 済 寺 の 伽 藍 が 火 災 で 焼 け た 際 に は 、 徳 愼 と い う 住 持 に よ っ て 再 建 が な さ れ て い る こ と が 知 ら れ る 。 そ の 後 に も 大 慧 派 の 足 翁 徳 麟 ( 一 一 九 九 ─ 一 二 七 一 ) が こ の 寺 に 住 持 し て い る )23 ( 。   『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は 侍 者 普 岩 ( 普 巌 ) 録 「 鎮 江 府 焦 山 普 済 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 二 五 五 b ~ d ) が 存 し 、 入 院 法 語 と し て 「 三 門 」「 陞 座 」 が 存 し 、 つ づ い て 「 上 堂 」「 端 午 上 堂 」「 謝 二 若 和 尚 一 堂 」「 上 堂 」「 上 堂 」 と い う 五 上 堂 が 収 め ら れ て 終 わ っ て い る 。 焦 山 で の 上 堂 で は 慧 開 は 「 無 門 」「 焦 山 」「 山 僧 」 と 自 称 し て い る 。 焦 山 に お け る 上 堂 語 録 を 編 集 し た 普 岩 な い し 普 巌 に つ い て は 事 跡 が 定 か で な い が 、 慧 開 は 門 人 に 「 普 」 の 系 字 を 与 え て い る こ と か ら 、 普 岩 も 慧 開 の 子 飼 い の 門 人 ( 小 師 ) で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 慧 開 よ り 一 世 代 早 く 松 源 下 に 運 庵 普 巌 ( 少 瞻 、 ? ─ 一 二 二 二 、 一 一 五 六 ─ 一 二 二 六 と も ) が 存 し て い る が 、 こ の 人 と は 全 く の 別 人 で あ る 。 慧 開 が 焦 山 に 住 持 し た 年 時 な ど は 定 か で な い が 、 住 持 期 間 は か な り 短 期 に 限 ら れ て い た も の と 見 ら れ る 。「 端 午 上 堂 」 と は 五 月 五 日 の 上 堂 で あ る が 、 年 時 は 何 ら 確 定 で き な い 。 ま た 「 謝 二 般 若 和 尚 一 堂 」 は 鎮 江 府 丹 徒 県 の 京 口 に 存 し た 般 若 禅 寺 に 住 持 し て い た 和 尚 が 慧 開 の も と を 訪 れ て 帰 っ た 際 に な さ れ た 上 堂 で あ ろ う が 、 如 何 な る 禅 者 な の か も 定 か で な い )24 ( 。

  そ の 後 、 慧 開 は 蘇 州 ( 江 蘇 省 ) 平 江 府 呉 県 に 存 し た 開 元 禅 寺 に 遷 住 し て お り 、『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は 「 平 江 府 開 元 禅 寺 語 録 」 が 収 め ら れ て い る 。 光 緒 八 年 刊 『 蘇 州 府 志 』 巻 三 九 「 寺 観 一 」 の 「 呉 県 」 に よ れ ば 、     開 元 禅 寺 、 在 二 盤 門 内 〈 盧 志 今 呉 県 治 南 〉 旧 在 城 北 隅 一、 即 今 報 恩 寺 後 。 唐 同 光 三 年 、 銭 鏐 徙 二 今 地 一。 旧 寺 有 二 晋 時 浮 海 二 石 像 一、 帝 青 石 鉢

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無門慧開の生涯と『無門関』 (二) (佐藤) 一〇四 寺 更 建 、 像 別 塑 而 鉢 猶 存 。 宋 紹 興 間 、 郡 守 洪 邁 、 作 二 戒 壇 一。 元 至 治 間 、 寺 燬 重 構 。 僧 断 江 恩 、 以 唐 剌 史 韋 応 物 、 旧 有 二 緑 陰 生 晝 寂 詩 句 一、 作 レ 堂 二 曰 緑 陰 一。 明 永 楽 間 重 修 。 嘉 靖 中 、 寺 西 偏 地 、 侵 為 二 民 居 一。 万 暦 七 年 、 参 政 舒 化 、 檄 二 郡 守 一 勘 復 帰 レ 寺 。( 後 略 ) と あ り 、 蘇 州 開 元 寺 の 簡 略 な 変 遷 が 知 ら れ る 。 蘇 州 開 元 寺 は 唐 代 に 国 内 各 州 に 制 定 さ れ た 開 元 寺 の 一 つ で あ り 、 蘇 州 呉 県 の 県 治 南 の 盤 門 内 に 存 し て い た と さ れ る 。 か つ て こ の 寺 の 住 持 で あ っ た 契 元 が 唐 代 に 日 本 僧 慧 蕚 の 依 頼 で 「 日 本 国 首 伝 禅 宗 記 」 を 撰 述 し 、 日 本 に 赴 い て 帰 国 し た 馬 祖 系 の 檀 林 義 空 の 活 動 を 記 し た こ と は 名 高 い )25 ( 。   紹 興 年 間 ( 一 一 三 一 ─ 一 一 六 二 ) に 郡 守 ( 蘇 州 府 主 ) の 洪 邁 ( 字 は 景 盧 、 号 は 容 斎 、 一 一 二 三 ─ 一 二 〇 二 ) が 開 元 寺 内 に 戒 壇 を 作 っ た と さ れ 、 南 宋 中 期 に は 楊 岐 派 の 癡 鈍 智 穎 や 大 慧 派 の 開 元 宜 意 な ど が 住 持 し て い る 。 南 宋 後 期 で は 慧 開 の ほ か に 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 巻 下 「 平 江 府 開 元 別 翁 甄 禅 師 」 の 項 ( 卍 続 蔵 一 四 八 ・ 九 三 c ) に よ っ て 曹 源 派 の 癡 絶 道 冲 の 法 を 嗣 い だ 別 翁 紹 甄 ( 祖 甄 と も ) が 蘇 州 開 元 寺 に 住 持 し た こ と が 知 ら れ る 程 度 で あ る )26 ( 。 元 の 至 治 年 間 ( 一 三 二 一 ─ 一 三 二 三 ) に 火 災 で 伽 藍 を 焼 失 し て い る が 、 重 ね て 修 復 さ れ た こ と が 知 ら れ る 。 元 代 に は 松 源 派 の 古 林 清 茂 ( 金 剛 幢 、 休 居 叟 、 扶 宗 普 覚 仏 性 禅 師 、 一 二 六 二 ─ 一 三 二 九 ) や 断 江 覚 恩 ( 以 仁 、 文 智 老 人 、 仏 鏡 文 智 禅 師 、 ? ─ 一 三 三 九 ) さ ら に 雪 窓 悟 光 ( 公 実 、 仏 日 円 明 普 済 禅 師 、 一 二 九 二 ─ 一 三 五 七 ) な ど が 蘇 州 ( 元 代 は 平 江 路 ) の 開 元 寺 に 住 持 し て い る 。   『 無 門 開 和 尚 語 録 』 に は 侍 者 普 覚 録 「 平 江 府 開 元 禅 寺 語 録 」 ( 卍 続 蔵 一 二 〇 ・ 二 五 五 d ~ 二 五 六 b ) が 載 せ ら れ て お り 、 入 院 法 語 と し て 「 陞 座 」 が 存 し 、 つ づ い て 「 上 堂 」「 解 夏 上 堂 」「 上 堂 」「 冬 至 上 堂 」「 上 堂 」「 元 正 上 堂 」「 観 音 生 日 上 堂 」「 四 月 八 上 堂 」「 上 堂 」「 謝 二 霊 巌 和 尚 一 堂 」「 燕 国 夫 人 忌 上 堂 」 が 収 め ら れ て 終 わ っ て い る か ら 、 二 年 分 ほ ど の 上 堂 に す ぎ ず 、 比 較 的 短 い 住 持 期 間 で あ っ た も の ら し い 。 侍 者 の 普 覚 に つ い て は 事 跡 が 定 か で な い が 、 法 諱 の 「 普 」 の 字 か ら 慧 開 の 得 度 の 小 師 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 蘇 州 開 元 寺 に お け る 上 堂 で は 慧 開 は 「 開 元 」 と 「 山 僧 」 の 自 称 を 用 い て い る 。「 謝 二 霊 巌 和 尚 一 堂 」 が 収 め ら れ て い る が 、 慧 開 が 退 い て 後 、 蘇 州 呉 県 の 霊 巌 寺 に 住 持 し て い た の が 如 何 な る 禅 者 で あ っ た の か は 定 か で な い 。 状 況 的 に は 慧 開 の 後 席 を 継 い で 霊 巌 寺 に 住 持 し た 禅 者 と い う こ と に な ろ う 。「 燕 国 夫 人 忌 上 堂 」 の 燕 国 夫 人 に つ い て は 『 無 門 開 和 尚 語 録 事 畧 』 の 註 で も 「 燕 国 夫 人 、 未 レ 人 一 」 と あ り 、 具 体 的 に 如 何 な る 人 物 を 指 す の か 定 か で な い が 、 開 元 寺 の 歴 史 に 何 ら か の 貢 献 を な し た 人 で あ ろ う 。

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