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日本佛教學會年報 第42号 026針貝邦生「Apurva覚え書(一)」

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(1)

Apurva

覚え書(ー)

針 貝 邦 生

( 九 州 大 学 )

Mimarpsa

学派の

B

h

a

t

t

a

派で説く

apurva

(新得力)は,インド思想 全体の中では勝論派の不可見力(

a

d

r

t

a

)説や仏教で説く戒体などの無表 色(

a

v

i

j

f

i

a

p

t

i

r

u

p

a

)説等と共に,日に見えない潜在力とか行為の余力とい う様なものと同ーの問題領域にあるものである。 しかし

Mimarpsa

学派 にとって

a

p

i

l

r

v

a

の存在は,天啓書にもとづく祭式行為全体が天界(

s

v

a

-r

g

a

)等の果(

p

h

a

l

a

)の手段(

s

a

d

h

a

n

a

)であることを説明し,ひいてはそ れを規定する

veda

の権威を保証するという学説全体の最も基本的な場面 にかかわっている点で,他の学派の潜在力のばあいとは比較にならないほ どの考察対象としての必然性と重要性をもたされていると言うことができ る。従来この

apurva

の問題を中心に取扱った論

E

えはない様であるが,

Mimarp

語学派内部の問題にとどまらず,他学派の潜在力との関連からも その諸様相を明らかにすることは重要な課題であると考えられる。本稿は

Kumarila

(A.D. 7世紀)の

T

a

n

t

r

a

v

a

r

t

t

i

k

a

(略号 TNV)の記述にもとづき,

a

p

u

r

v

a

Mimarpsa

学派独特の潜在力としての特質を次の諸点について 略説しておきたし、。 (1)

apurva

の本性 (2)

a

p

i

l

r

v

a

存在の認識根拠 (3)

apurva

の種類 Apurva覚え書(1)(針只邦生) -Iー

(2)

(4) apiirvaの機能 (5) apiirvaの所依 なお(4)についての詳細な研究は他日を期する予定である。 (1) ( 1) apii.rvaの本性 Kumarilaは「新得力論題(Apiirva-adhikaral).a,J.S. II. i. 2 adhika -ral).a, Siitra 5

codana punar arambhal}.”)」に対する評釈の定説の官 頭で次の様に apiirvaを定義しつつ説明している。 諸(従属)行為(ailga)より前には(果を生ずることの)不可能な (ayogya)主祭(pradhana-karman), もしくは(主祭より前には果 を享受することの不可能な)人に所属して,聖典より理解される (語stra-gamya)可能性(yogyata)で,(諸行為の)後にあるもの, それが api.irvaであると承認されている。 主祭あるいは従属行為の実行よりも前には, 人々は天界等(の果)へ の到達が不可能であり,諸祭式は天界という結果を麗らすことが不可能 である。そのいずれもの不可能性(ayogyata)を排除して,諸の主祭と 従属行為によって可能性が生ずる,と必ず全ての人々によって認められ ねばならなし、。なぜなら,それ(可能性)が存在しないばあいには,(行 為を行った人と)行っていない人と等しいことになってしまうからであ る。人または祭式行為に所属するその可能性が本学派で apiirvaである (2) と示されている。 ここで Kumarilaは apiirvaを「可能性(yogyata)」と定義している が,その意味するところは,主祭に果を粛すことを可能(yogya)とするか, もしくは祭式を行った人にそれによって果を享受することを可能(yogya) にすることを本性とするもの(ーta)であることが Kumarila自らの説明に - 2 - Apiirva覚え書(1)(針貝邦生)

(3)

よって理解される。それはPrabhakaraの説く niyogaの様な何か有形の も

J

!

1

(vigrahavat)ではなく,祭式行為の後生じ果を結果するまで存続し て果への中間的作用(antaralika -vya para, a vantara-vya para)をなす, 不可見の能力(sakti)である。 Kumarilaは上の説明のあと yogyataと いう語は用いず,それを品akti

samarthyaという語によって説き, apii -rvaはその特殊にすぎないと述べている。従って apiirvaは潜在的能力 (sarpskara,ぬkti)一般との共通した問題領域をももつことになる。 さら に Kumarilaは, apiirvaを認めることは「明言破棄(むuta・hani)」と 「非明言想定(asrutakalpana)」の過に堕するのではなし、かという反論に 対して,その能力を媒介としなければ果は完成されないこと,あるいはそ の媒介物である微細な能力は,たとえ享受できる様な最終的な結果ではな いとしても,そのものが果ともいえるとも比除を用いつつ説いている。 その果は祭式からのみ(生ずる)能力(sakti)を媒介として完成す る。あるいはその果は微細な能力(siik~masakti)を本性とするもの として生じる。 すなわち, もし何らかの(祭式とは)関係しないものによって果が完 成されうるとすれば過失があろう。しかし祭式によって後に残された能 力によって完成されるものは,祭式によってのみ完成されたものとなる。 なぜなら一切の手段は望まれた果を生ずる際には中間的作用を必要とす るからである。あるいは,乳(k~ira)等から生起される酪(dadhi)等の 全ての結果は直ちに濃い(粗大な)ものとして生ぜられることはない。 そうではなく,先ず徴細な別の形態を経る。同様に天界等(の祭式の果) も先ず芽(ailkura)等の位置にある ap

rvaの状態を生じ,さらにその 生起されるものによってそれら(天界等)は生起されたものになる。(中 略) Apiirva覚え書(1)(針貝邦生) - 3ー

(4)

「薪によって料理されるべし」と述べられた時,(中間的作用とし ての)燃焼という行為が示されている。また,芽が生ぜられている (4) 時,木も生起されていると認められる。 apurvaの重要な性質はそれが持続性(sthayitva)をもっていることで ある。それは可滅の手段たる祭式行為によって別時に果を成就することを 前提とするとき,必然的に認められねばならない要件である。すなわち Kumarilaは次の様に説く。 可滅のものとして認識されている手段は,世間・ヴェーダにおい て能力の特続性が前提されずにどうして規定されょうか。 確かに,たとえすでに滅したものであっても,その能力が果の生起の (5) 時まで存続すると確定されないまでは可滅の行為は規定されない。 このapurvaの持続性は,それが果を実現する際その一時点において, 全ての行為の結合と同時性を完成する,という ap

rvaに付与された最も 重要な機能(後説)を果す根本的条件となるものである。 ( 2) apiirva存在の認識根拠 しかしその不可見のapurvaはし、かにして認識されるのであろうか。上 にapurvaは「聖典より理解される(sastragamya)」と説かれたが,その ことを次の様にKumarilaはプラマーナ論にそって分折的に述べている。 それ(apurva)の認識根拠は明言要請(sruta引 ・thapatti)ー者の みであると認められる。然、して(明言要請は)聖言量(句bda)の一 部分であるから, われわれにとっては(要請せられた)自体的意味 に対する(究極的根拠はヴェーダという)聖教(agama)に他ならな L。、 「祭式(の執行)から天界が生ずる」「前献供等(の従属行為)によっ - 4 - Apiirva覚え書(1)(針貝邦生)

(5)

て主祭への補助が生ずる」ということが(ヴェーダに)規定されている。 それゆえ必然的に, (天界等の果が生ずる原因と考えられる)これらの すでに消滅しもしくは未だ消滅していない行為に,それ自体の結果を生 起する(apiirvaという)能力が存在すると承認さるべきである。なぜな ら能力の欠如した全ての存在には結果を粛す力がなし、からである。また このばあいには必然的に過去のものとなった(消滅してしまった)行為 (6) にのみ能力あることが承認されねばならなし、。 この Kurnarilaの見解を簡単に説明すれば次の様になる。 svargakarno yajeta「天界を望む者は祭式をなせ」 ・① という文章を例にとれば,この文章はyajeta「祭式をなせ」の語根の意 味「祭式」を手段として, それによって目的である svarga「天界」が得 られることを規定したものである。しかし祭式行為そのものは執行されで もその直後に天界を生ぜしめなし、から,このヴェーダの規定が無意味なも のとならないために,手段(祭式)より生じ目的(天界)に導く apiirvaと いう能力の存在がこの文章にもとづく要請によって認識される。すなわち 上の文章をパラフレーズして次の様に示すことができるであろう。 通rutarthapatti svargakarno yagena svargarp bhavayet ・ ・ … ・ ② → svargakarno yagena

a

ρ

u

r

v

a

d

v

a

r

a

svargarp bhavayet.…−−−③ 明言要請はこの様にヴェーダの文章解釈の最も基本的なところに機能し て apiirvaの存在を認識させる。それによって認識される意味(apiirva) そのものが聖教を根拠とするものでないとすれば,一切のヴェーダにもと づく行為も非ヴェーダ的なものとならざるにえなし、。この点から,明言要 請は, sruta(>sruti)の本来的意味からしでも,聖言量(品abda)の一部 ( マ ) 分であると Kurnarilaによって述べられたものであろう。 上のパラフレーズについて文章分析の点から付言しておきたい。 .Jyaj Apiirva覚え書(1)(針貝邦生) - 5ー

(6)

の願望法(optative)yajetaをyagenabhavayet・・・… ④ とパラフレー ズすることは,上述した様に語根の意味を作具と解することである。④は 目的の期待(akank~a)をもつから,前の語 svarga-kamaq.から svarga が目的としてえられる。作具・目的がこのばあい一文章の中から確定され るのは「近接(pratyasatti)」の原則にもとづく。それゆえパラフレーズ② がえられ,さらに目的(果)の作具となった yagaにもとづく「他様に妥 当しないこと(anyathanupapatti)」(要請)からパラフレーズ③がえられ る。 これらのパラフレーズは, apurvaは行為を表わす語(bhavasabda) によって示されることを意味している。すなわち, apurvaは直接に目的 (果)と関係をもっ語から生じるが,その関係は期待(akank;ia)にもとづ いて成立する。期待は動詞からのみ生じるものであるから, 目的と関係を もっ語は動調であり名調・形容認(dra vyaguI).a句bda)ではない。それ ゆえapurvaの令生作用(apurvabhavana)は動詞から理解される。 apiirvaとそれを示す語との関係の考察は,「新得力論題」の前に位置す る「動調の意味の論題(Bhavartha -adhikaraI).a)」の主題である。 apiirva と動詞の関係についての上の説明はこの論題中のTNVの関係部分の紹介 である。 ( 3) apiirvaの種類

ailga(従)・apiirvaとpradhana(主)・apiirva, Kumarilaが apurvaの 種類を表わす語として示しているのはこの二種のみである。前者は従属行 為(ailga)より生じ後者が生起する補助(upakara)をなす。後者はある神 格にむけて供物を供犠火に捧投するという様な主祭(pradhana)より生じ るapiirvaで,直接に果と関係する。 一般に全ゆる簡単な祭式において主apiirvaは一つ生ずると考えられて - 6 - Apurva覚え書(1)(針貝邦生)

(7)

いる。しかし祭式の中には新・満月祭の様に多くの従属祭よりなる複雑な 祭式がある。 Kumarilaは新・満月祭のばあいのapiirvaの構造もこの二 種と他の特定の名称のないapiirvaによって説明しているが,後世になる とこの祭式は四種の apiirva-anga-apiirva・utpatty(生起)−apiirva・sa -mudaya(集合)−apiirva・phala(or parama,向果)−apiirvaーによって説明 (Icy (ll) される。生起 apiirvaはKumarilaの説く主 apiirvaに相当する。集合 及び向果 apiirvaはTNVの記述にもとづいてその呼称をえたことは ~ TNVの記述から容易に理解されるが,いつ頃から上の四分類がなされた かは不明である。 10世紀中葉の ParthasarathimisraのSastradipikalこ はすでにそれがなされている。 fこだTNVの註釈者 Somesvaraは Nya-yasudhaにおいてutpatty-apiirvaという名称を用いず,専らpradhana -apiirvaによって説明していること,さらに複数の従 apiirvaが一つの主 apiirvaを生起する際に,その前段階として一つのupakara(補助〉合同rva (!$ そ生起することを認めている点は, Parthasarathimisraの説と相違して おり興味深し、。この様なことを考慮すると, apiirvaの分類は後期Bhatta 派の展開という問題にー視点を提供するのではなし、かと思われる。 ( 4) apiirvaの機能 apiirvaが果の実現という究極的な目的を成就して行く過程で, apiirva に付与されている他の重要な機能としてKumarilaが示しているのは,行 為の「結合関係(sahitya)」と「同時性(yaugapadya)」を実現する,とし、 う働きである。この apiirvaに与えられた機能は祭式の構成そのものに即 して理解されなければならない面があれ詳細の解明は他日を期するが, 潜在的能力一般との類比において説かれている点は重要と思われるので簡 潔に説明しておきたい。 Apiirva覚え書(1)(針貝邦生) ー 7ー

(8)

祭式行為の果がどの様にして生起されるか,という基本的な疑問に対し では Kumarilaの時代にもいくつかの見解があった様である。例えば apilrvaという様な潜在能力の媒介を考えず,祭主のアートマン(霊我)が { l母 果の直接の起因であるという説,行為の消滅そのものから果が生起すると 紛 いう説,行為の直後に果が生起するとL、う説等をKumarilaは示している。 これらの説の中で最後の,行為の直後に果が生ずる, という説が成立しえ ないことを主張しつつKumarilaは同時性について次の様に述べている。 行為の直後に果が生起する,と主張する人によっても必然的に全ての 行為のあとにそれ(果の生起)が承認さるべきである。それゆえに(それ によって果が生起する)その直後性をもっ行為のみが(果の)一つの手段 となり,余他の行為は(手段となら)なし、。(他の行為は)とくに滅して いるからである。しかしもし全ての行為に apilrvaという能力が残存す るならば,(行為の)形態そのもの(の現前)は無用であるから,たとえ それらがなくなっても能力に所属するものに他ならない同時性が作用す るであろう。なぜなら(同時性は)行為(vyavahara)に従属するもの 4母 (anga)であるからである。 「能力に所属する同時性(saktigatameva yaugapadyam)」以下を Somesvara は「能力を媒介として同時性が,全ての行為(karman)が手 初 段として働くために,承認さるべきである」と意図されて述べられたもの と解している。すなわち時間的経過の中で順序を経て行なわれる行為は順 次に消誠してゆくものであるが,それらの行為全体が果を実現する手段で あるためには,果を実現する際に全ての行為が同時に働かねばならない。 このことは諸行為が果を生ずる際,その一時点において結合すること <sahitya>を意味している。 しかし一切の行為は瞬時にして消滅してし まうのであるから,そのことを可能にするのはapilrvaという能力(泊kti) - 8 - Apiirva覚え書(1)(針貝邦生)

(9)

そのものに内在している同時性の働き以外にない, というのである。行為 の同時性は apurvaそのものがもっ同時性という性質によって達成される, とKumarilaは考えていた様である。上記の Somesvaraの説明では同時 性の所属が明確でなくなっている。この同時性の概念は基本的に,手段 (sadhana)は同時的に目的(sadhya)を生じなければならぬ,とする考え に基づくものであるが,祭式とし、う時間的延長を本質とする行為を手段と して未来の果を目的とするばあいに,その手段性を保証するためにも apurvaが要請されている点興味深い説である。さらにKumarilaが「祭 式行為(執行)の決意から全ての最終的な果の部分を享受するに至るまで 。 時 現在時(vartamanal).kalal).)である」と言う時,' apurvaに内在する同時 性の持続を主張していると考えることができるであろう。 続いて Kumarilaは世間的行為のばあいにも, apurvaと類似した潜在 力が認められることを説く。 結果が別時に生起するばあいの世間的行為においても,能力 (句kti)のみが持続している。 しかし(その能力は)このばあいには apurvaであるとは承認されない。 すなわち農耕,献油を飲むこと,ヴェーダ学習等の世間的行為で, £1] 時に結果をもつものと認められるものでも,(行為)そのものの形態の持 続はありえなし、から,持続している潜在力(sarpskara)を媒介とするこ とによってのみ慣習的行為はなり立つ。しかしそれらの潜在力はヴェー ダに基づくのではなし、から, apurvaという語の所詮としては一般に認 札9) められていない。 さらにこの箇所より後に, apurvaとヴェーダ学習によって生ずる潜在 力の類似についての先人の説と思われる見解をKumarilaは述べている。 すなわち, Apiirva覚え書(1)(針貝邦生〕 - 9ー

(10)

ヴェーダの学習に際して反復によって文章の部分の形態をとって 順次に潜在力(sarμskara)が生じる様に apilrvaも生じるであろ 帥

この詩節に対し Somesvaraは「文章とその部分の学習という仕方で, 順序に従った反復,つまり繰り返しという行為により,中間的潜在力 (a vantara-sarμskara)の同時性を媒介として,文章の総体より成るヴェー ダの章(adhyaya)の把握の能力という形の「最高の潜在力(parama-sa -rμskara)』が同時に生ずる様に,これ(apurva)もまた生ずる,というの 仰 が詩節の意味である」と述べている。 Somesvaraの解釈に従う限り, ap -urva のばあいと同様に世間的な潜在力のばあいも,同時性を介して低次 の潜在力が高次の潜在力を生起すると理解される。この様にapurvaは潜 在力一般との共通性をもつものと考えられているから,Kumarilaが合lok -avarttikaのSphotavadaにおいて, スポータを否定して潜在印象説によ って語の意味の覚知を説明づけるときに,逆に apurvaに相当する能力を 働 日食例として用いている事実が理解されるであろう。 ( 5) apiirvaの所依 apilrvaは間接補助的従属行為(sarμnipatya-upakaraka-anga)より生ず

ω

るそれを除き,祭主のアートマンを拠り所とする。このことはもしapilrva が行為そのものを所依とするならば,行為の消滅に伴ってそれも消滅して しまうという理由で,不動の実体であるアートマンに内属(samavaya)す るという仕方で所属するとされたのである。 間接補助的従属行為は,米粒に水をかける行為(prok号al)a)等の,行為の 向けられる祭材(dravya)たる対象的基体(説raya)が存在する行為で, その効果は可見・不可見の二穫があるがKumarilaはこれを端的に基体能 - 10 - Apiirva覚え書(1)(針貝邦生)

(11)

ω

補性(品raya-se号atva)のある行為と述べている。 この行為のばあいの例 えばprok明1;aより生ずる apurvaを例にとれば,潅水された米粒は砕か れて紛(ta早q.ula)となったり,焼かれて祭餅(purod話a)となったりして 祭材たる米は様々な状態の変化(avasthabheda)を受けるが, apurvaは その変化に付随して祭材に所属して転移(saficara)して,主祭における祭 餅の二分割に至る。主祭はかかる一連の従属行為によって作られた祭餅を 用いて行なわれるから,祭餅にまで転移してきた apurvaは主祭より生じ 白 骨 る主 apurvaの生起を助ける,と説かれる。 kratv-artha(祭式に資する もの)か puru号a-artha(人に資するもの)かというこ分法よりすれば,こ の従apurvaは主apurvaの生起を助けるためのものであるから kratva -rthaである。 直接補助的従属行為(arad-upakaraka-anga)とは前献供(prayaja)等 の,行為の対象的基体のない従属行為である。この従属行為は必ず従 apurvaを生じるが, 依存すべき基体がないので祭主のアートマンが所依 とされる。ただこの従apurvaのばあい,アートマンを所依とすることに なれば, それは puru号arthaとなり従って従属性(angatva)が失われる のではないか,という聞が生ずる。この疑問に対し Kumarilaは,「能補 性(記号atva)はあるものに資すること(tadarthya)によるのであって,能 依所依の関係(必raya-asrayibhava)にもとづくのではない。たとえば路 舵(所依)はサフラン(能依)を運般するが,(サフランは)常に王に適しい 曲 。 ものとなる。(故にサフランは王の能補)」と答えている。すなわちこの従 apurvaもアートマンを所依とするとしてもその能補となるのではなし 主 apurvaの能補であり,その意味で kratvarthaなのである。 アートマンとの能依所依関係と能補所補関係(se号a記号i-bhava)の両関係 をもつのは主apurvaのみである。従って主apurvaはpuru号a-arthaで Apurva覚え書(1)(針貝邦生) -11

(12)

-ある。以上のことを表に示すと次の様になる。 apiirvaの種類 aーsraya ,e自of母a puru早artha/kratvartha の別 pradh孟na・apiirva (yaajtammaanna・) atman puru号artha ir~d:3開-a~iraka·a gaapurva atman pradhana ・apurva kratvartha saqtn

::~~~::~!

raka· dravya pradhana ・apt1rva kratvartha apiirvaの所依に関連して問題とされるのは,行為から生ずる apiirva がアートマンという別の実体に所属するのはなぜか,という点である。別 言すれば, apiirvaがアートマンに内属するものであれば,行為の能力とは いえないのではないか,という疑問である。この疑問に対して Kumarila は二つの解決法を示している。 助 第一は,行為とアートマンとは絶対的に異なるものではない,換言すれ ば両者の聞には区別無区別(bhedabheda)の関係が成立っている,と考え ることによる解決法である。 Kumarila 自身はこのことをそれ以上には説

ω

明していないので, Somesvaraの註釈によって説明してお〈。 Somesvara はこの説の根拠を Bhavartha論題における Kumarila 自身の,作用 (vyapara巴kriya)はある状態を伴った実体(dravya)に他ならない,と

ω

いう説に基づかしめている。その Kumarilaの見解によれば,行為 Ckriya) も類(jati)や属性(gul).a)の様に実体(dravya)と絶対的に異なるもので はありえない。従ってこの Kumarilaの主張によれば,あるもの(行為) の能力が別のもの(アートマン)に所属することは次の様に説明される。 アートマンは実体であるから,実体であるアートマンと絶対的には相違す るものではないところの行為によって生ぜられる能力は,アートマンによ って生ぜられたものでもあり,それがアートマンに所属すると考えること - 12 - Apiirva覚え書(1)(針貝邦生)

(13)

に何の不都合もない,と。 第二は,能力の有用性の所属に着目した解決法である。 Kumarilaは次 の様に述べている。 (能力の存在は)結果から推量されるべきものであるから,あるも のに所属するものとして有用であるならば,まさにそのものに所属 するものであると認めらるべきである。(その能力が行為)自体を拠 り所にしようと,あるいは他のものを拠り所としようとも。 行為の消滅によってそれに所属している能力も無用となるが, しかも なお必然的に能力が存在すると想定されねばならないとき,能力そのも のと同様に能力の特殊な所依(アートマン)も果に対する効力をもっ,

ω

(karyak号ama)と考えらるべきである。 すなわち,祭式行為を行った人のアートマンがapiirvaを得てそれを媒 介として究極的な果を生ずる能力を有するもの(karyak~ama)となること が祭式を行なう目的なのであるが,祭式の結果生ぜられる apurvaはアー トマンにとってのみ有用であるからそれはアートマンを所依とする, とい う主張である。以上二つの解決法によってKumarilaは,あるものの能力 が他のものを所依とすることに何の過失もないことを示している。

NS : Nyayasudha, Chowkhamba Skt. Ser. No. 45 ff.,Benares 1901 & ff. SV: S!okavarttika with Nyayarat凶kara, Chowkhamba Skt. Ser. No. 3, Benares 1898-1899 TNV: Tantravarttika, Anandasrama Skt. Ser., Vol. 97, Poona 1929 (1) 新得力が「無前(apiirva)」と呼ばれるのは「祭式の実行の前には存在せず, 実行の後に新しく生ずる」ものだからである。即ち apiirvaの意味は語自体 の構造に基づくから yaugikasabdaである。 cf.yagadijanitarp. ca purp.sarp. phalaprapti司samarthyam apiirva匂bdavacyarp. yaga・anu号!hiinat piirvam abhiitam anu許hana・uttarakalarp.ca apiirvarp. jayata iti yaugikatvad eva Ap百rva覚え書(1)(針貝邦生) ー13ー

(14)

apiirvasabda・abhidhanarp. sarvatra labhyate. TNV 29918-20 (2) TNV 3945-11 (3) Piirvapak斜(TNV3909 3948)の apiirvaに対する論難は apiirvaを何か vigrahavat と解することから起るが, Siddhantinが認める apiirvaはその 様なものではなL、 と Kumiirilaは説く。 cf.priibhiikaravat・kiirya-niyoga -aparaparyiiya唱vatantra凶apiirva-abhyupagame paroktii do号亘

b

syul;l, NS 59g2-s (4) TNV 39511-21 (5) TNV 3952s-2a (6) TNV 39413-17 (7) Cf. SV, Arthiipattipariccheda 52-53 「或る人はそれ(srutarthiipatti)を 意味の領域に,他の人は言葉の領域に構想する。そして(srutarthiipattiは) 聖教量(iigama)と異ならないと人々は承認している(v.52)。またヴェー夕、、 における諸行為は殆んどこれ(srutarthiipatti)によって安立される。もしこ れ(srutarthiipatti)がそれ(iigama)と相違するならば,諸行為はヴェ{ダ に基づかないものとなってしまうであろう(v.53)。」 cf.宇野惇「アノレター パッティの一考察」印仏研 14-2, Vedantaparibhii弱の所論として五rutar -thiipattiを abhidhiinanupapatti−と abhihitanupapatti(・srutarthiipatti)に 分け, apiirvaは後者によって理解される,という説が紹介されている。 (8) Cf. TNV 376a-10,ここでは apiirva は名調・形容詞と動詞のいずれから 示されるかという問題に限定されたが,厳密には apiirva七hiivanaはoptative 等の語尾 (Jin)によって理解される。 aka白k号五をもつものは動詞の語尾だか らである。 cf.G. Jha,“ Piirvamimarp.sa in its sources”, Varanasi, 1964 (Second Edition) p. 233 (9) 手段の制約から生ずる niyamapiirvaは,行為によって生ぜられるもので はなし、から考察の対象外である。 cf.TNV 37114-15 帥 新 ・ 満 月 祭 の apiirvaの構造を示し参考に供する。 Da出 piirl}ar由 a(p凶 apiirvaor paramapiirva) da均 (sam

rapiir叫

「一一寸

agneya uparpsu aindragna (ut戸ttyapiirva) (u.a.) (u.a.) piir早amasa1(samudayapiirva) agneya uparp.su agnieyomiya (u.a.) (u.a.) (u.a,) J J ( A.B. Gajendragadkar, RD. Karmarkar,“ The¥ avaghata prok号a早a

l

Arthasarpgraha of Laugak号iBhaskara, 1934,'’

l

(aii.gapiirva) (aii.gapiirva) ¥p. 170 より / - 14 - Apiirva覚え書Ill(針貝邦生)

(15)

帥 Mimiiljlsiinyayaprak五五a においては本稿で述べる ailgapiirva, pradhana -piirvaが夫々 utpattyapiirva,paramapiirvaに比定されているが,これは伝 統的 Mimarpsa 学派の用法と相違しており問題である。 cf.F. Edgerton,

“Mimarpsanyayaprak昌弘ヘ§ 194, 195 & Indices : utpattyapiirva, parama-piirvaの項。 。 地 Cf.TNV 39915-23 同 NS60927-31 & 61020-61110 M TNV 39123-26 & 3962-10 同 TNV39127-3923 & 39621-3979 M TNV 39427-3° 伺 NS59gs1-a2 同 TNV39518,cf.SY, Sphotavada v. 79 帥 TNV3953寸 M TNV 39925-26

t

時 NS6112s-2e 同 Nyayaratnakaraad SY Sphotavada 74 f.; cf.Gopalika ad Sphotasiddhi v.7,伊原照蓮「スポータ存在の論証ースポータシッディ和訳(3)」九大文 学部,哲学年報32輯, 1973, pp. 8-10 帥 Apiirvadhikarar;iaの後半(TNV40027-40423)は apiirvaの所依としての アートマンの遍在・不動性の証明に当てられる。 M TNV 39812 同 TNV39816-18

0

骨 TNV39812司15

t

カTNV3986 倒 NS60510-1a 倒 TNV37629-3772「vyaparaという語の直接的意味は,勝れた能力に伴われ, 自体的性質が混乱し,本性が分離され,その存在を過去と未来にもち,最初 の状態から逸脱し,後の状態に未到達な,実体に他ならない。」この Kumarila の主張は,動詞の直接的な意味が実体と異なるならば, vyaparaは認得でき なし、から,存在しないものとなるので vyapara は動詞の直接的意味ではあ りえないのではないかーーとし、う反論を予想して述べられたもの。 cf.NS 55416 55516, E. Frauwallner,“Bhavana und Vidhi).1 bei Ma早gar】ami品ra"

WZKM 1988, S. 226

帥 TNV3988-1!,cf.伊原照蓮教授上掲論文 p.10

参照

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