• 検索結果がありません。

中央学術研究所紀要 第9号 L01山崎守一「Uttaradhyayana-sutra 第8章Kaviliyamの研究」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中央学術研究所紀要 第9号 L01山崎守一「Uttaradhyayana-sutra 第8章Kaviliyamの研究」"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

U

t

t

a

r

a

d

h

y

a

y

a

n

a

-

s

u

t

r

a

第8章Kavillyamの研究

山 崎 守 一

は じ め に テ キ ス ト 古Arya韻律 カ ピ ラ の 詩 煩 試 訳 と 注 記 は じ め に

Uttarajjhaya(Skt.Uttaradhyayana=Utt)はジャイナ聖典のMula-sutta(根本経)のはじめに位置し宗教詩として最も価値ある経典の一つ

である。Uttは36章から成り,さまざまな時代に属する種々の経典を集

成したものである。その中の中心部分は詩煩すなわち一連の金言比喰

と直1魚,対話と謹詩でm成され,しかも最も古いものである。これらの詩

煩は古代インドの苦行者の文学に屈しまた部分的には仏教文学と類似す

るものがある。これらの詩碩によって我々は否応なしにSuttanipataを

思い起こさせられる。その中のいくつかの章は一連の格言による説法であ

り,弟子に対する戒めである。又,修道佃が辛抱強く耐えねばならない苦

(1)

労,四つの貴重な事柄(人間としての誕生=manusatta,ジヤイナ教の聴

ra=sui,ジャイナ教の信仰=saddha,苦行に努め励むこと=samjamammi

viriya),業と罪,聖者の自発的な死と愚者の不本意な死そして真実の

苦行者と虚偽の苦行者について詳述している。ここには適切な比峨と簡潔

な言語に勝れている多くの格言が見い出されるが,その中のいくつかは

( 1 )

(2)

SuttanipataやDhammapadaにおけるとM様に,共通の畳句によって連 (2) らねられている。 Utt.の第8章(Kavillyamカピラの詩頒)はSlokaである第17詩煩を

除いて,OldAryametre(古アールヤー韻律)で著わされた一つの章で

ある。この他に古Aryaで著わされたものとしてはジャイナ聖典全体で

も,AyaramgasuttaI,9とSuyagadamgasuttaI,4のわずか2章に見られ (3) るにすぎない。従ってこの章がもつインドの韻律学史に占める重要性と, 文献学的重要性は極めて多大なものがあるといえよう。 古AryametreはAyaramgaI,9とSuyagadamgaI,4において,最初

Jacobiによって発見され,ZeitschriftderDeutschenMorgenlandischen

Gesellschaft38,595ff.で述べられた。しかしAlsdorfは,Jacobiの詳細

かつ統計的な分析も二つの章の批判校訂本に基づいていないために,そ

の実用的有効性が大いに減じられ,しかもそれらの写本や通常の刊行本に

おいてmetreは損われ時として無数の不正確な綴字があり省略・語句

の書き入れ,そして種々のcorruptionによって承認し得ないものにして (4) いる,と批判している。

その後,Ay誼amgaI,9はSchubringによって厳密な校訂がなさ

(5) れ,更に彼によってその翻訳もなされ再びmetreも検討された。そして

SuyagadamgaI,4はAlsdorfによって厳密に校訂されその校訂本に基

づいて翻訳もされさらにここに見られる古Aryametreについても詳細

(6) に 研 究 が な さ れ た 。 Utt.8に関しては,最近ノーマン(K.R.Norman)先生によって,詳細 かつ厳密な研究がなされたが,Utt.の写本が直接手に入らなかったため, 5種類の刊行本,すなわち,

C=JarlCharpentier:TheUttaradhyayana-sutra,Uppsala1922

V=ed.byVadekarandVaidya(Poona1954)

S=SuttagameVol.II,theSthanakvasiedbyMuniSriPhulchandji

r ・ 、 、 ム ノ

(3)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 Maharaj(Gurgaon1954)

N=Uttaradhyayanisriman-Nemicandracaryaviracita-sukhabodhana-myavrttyasamalahkrtani(Valad,1937) J=Jacobi'sed.(Ahmedabad1911) を使用して,Utt.8のテキストを校訂し分析することを目的としてい (7) る。

本論は,Norman先生より御教授いただいた校訂本を紹介し,古Arya

metreの特徴を見つつ,さらにここに見られる難解なアルダマーガデイ一

語の語菜研究をしながら日本語訳を試みることを目的とする。

(1)ジャイナ教ではこの四つは生類にとって得がたいものとされ,Utt.第3章で 詳説される。 (2)M.Winternitz;AHismγyofI"伽α〃L〃”α/"γe.VolumeII,Calcutta 1933,pp.466-67に基づいて,Utt.を概説したのであるが,Uttaraの意味 については,W.Schubring:TheDoc〃恥goブオ"g〃加as,Delhi1962, P115を参照。 (3)古Aryaは極めて古いPali聖典であるSuttanipata(8.Mettasutta,14 Tuvatakasutta),Theragatha(65,1243-45),Therigatha(23,24)等にも 見られる。Suttanipataにおける古AryaはAlsdorf;DieAryd-S/γophen desP""一Kα"ons,Mainz1968,15ff,Therigathaに関してはK.RNor‐ man;TheElders'VersesII,XIiii-XIivを見よ。 (4)L.Alsdorf"Itthiparinna"Indo-〃α"jα〃ノリ"γ"α/,Vol.II,1958,p.250. (5)W.SchubringAcdγαngα一s"〃α,Leipzig1910が校訂本で,WoγオC M[ihavlγαs,Gottingen1926,pp.66-121でドイツ語訳をしている。 (6)L.Alsdorf,opcit,pp.249-270. (7)K.RNorman;"Kaviliyarn:ametricalanalysisoftheeighthchapter oftheUttaradhyayana-sutra,"〃上z/z”『γαα〃aHisTeac〃"gs,Bhaga-vanMahavira2500thNirvanaMahotsavaSamiti,Bombat,1977,に発 表予定の原稿に基きご教授いただいた。 2 テ キ ス 幸 adhuvammimoha-gahanae/samsarammidukkha-paurae kimnamahoijatarnkammam/jenamdoggaimnagacchejja 1 ( 3 >

(4)

vijahittupuvva-samjoyam/nasinehainkahimcikuvvejja asinehasineha-karehim/dosa-paosehimuccaebhikkhu(2) tonana-darnsana-samaggo/nissesayasavva-jivanain tesimvimokkhan'atthae/bhasaimuni-varovigaya-moho(3)

savvarnganthamkalaharnca/vippajahetab豆一vihambhikkhu

savvesukama-jaesu/pasamanonalippait訂(4) bhogamisa-dosa-visanne/hiya-nissesa-buddhi-voccatthe baleyamandiemudhe/bajjhaimacchiyavakhelammi(5) dupariccayaimekama/nosuiahaadhira-purisehirn ahasantisuvvayasahu/ietarantiatararnvaniyava(6) samanamu"egevayamana/pana-vahammiyaayananta G( mandanirayamgacchanti/balapaviyahiditthihim(7) nahupana-vaharnanujane/muccekayaisavva-dukkhatrarn ev'ariehimakkhayam/iehimimosahu-dhammopannatto(8) paneyanaivaejia/se"samii"ttivuccaitai taosepavayainkammam/nijjaiudagamvathalao(9) jaga-nissiehibhuehim/tasa-namehithavarehirnca notesimarabhedamdam/manasavayasakayasaceva(10) suddh'esanaonaccanam/tatthathavejiabhikkhuappanarn jayaeghasameaejia/rasa-giddhenasiyabhikkhae(11) pantanicevasevejja/siya-pimdatnpurana-kummasarn aduvakkasampulagarnva/javan'atthainnisevaemanthum(12) jelakkhanarncasuvinarnca/arnga-vijjaincajepaurnjanti nahute"samana"vuccanti/evamayariehimakkhayarn(13) iha-jiviyamaniyametta/pabbhatthasamani-joehirn tekama-bhoga-rasa-giddha/uvavajjantiasurekae(14) tattovivauvvattitta/samsarabahumanuoarivadanti (4)

(5)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 bahu-kamma-levalittaiiam/bohihoisudullahatesim(15) kasinampijoimarnloyarn/padipunnarndalejjaikkassa tenavisenasamtusse/iiduppuraeimeaya(16) tenavisenasamtusse/l1quppuraeime且y且(16) jahalahotahaloho/lahalohopavaddhai domasenakayarnkajjam/kodievinanitthiyarn(17) norakkhasisugijjhejja/gamda-vacchasu'nega-cittasu jaopurisampalobhitta/khellantijahavadasehim(18) narisunovagijjhejja/itthivipajaheanagare dhammarncapesalarnnacca/tatthathavejjabhikkhuappanam(19) iiesadhammeakkhae/Kavilenamvisuddha-pannenam tarihintijeukahanti/tehimarahiyaduveloga,ttibemi(20) 1a:5本ともadhuve;CVNasasayarnmi,Sasasayammi,Santisuriは N豆garjuniyastupadamevampathantiadhuvarnmimoha-ggahanaeと 述べる。hNsarnsararnmi.c:5本ともkammayarnd:5本とも jenaharn,SantisuriはV.1.jenahamdoggaiomuccejjaを引用する。 2c:OSasinehasinehakarehirn1語として。dVNdosa-paosehim,San-tisuridosa-padaihと説明する。i.e.dosa-paehim. 3hCVNhiya-nissesaya,Shiya-nissesae.d:Sbhasai. 4bSantisuriv1.tahaviheを引用する。 5b:5本とも−nisseyasa-.dSNbajjhai. 6a:Sduppariccaya.d5本ともvaniya,Sfintisuriv.1.jetarantiva-niyavasamuddarn;Nva. 7a:Csamanamu1語として。c:Santisuriv.1narayatnを引用する。 d:5本ともpaviyahirn. 8b:5本ともmuccejjac:SNevam;CVNariehirn,Sayariehim. d:5本ともjehirn. 9b:VNsamie.c;5本ともtao.dSantisuriv1ninnaiを引用する。 CVSNthalao,Jthalio. 10a:5本とも−nissiehim,Santisuriは−nissiesubhuesuと読む。b5本 とも−namehirn,Santisuriは−namesuthavaresuyaと読む。d:CV vayasa 11a:Nsuddhesanau2語として。Nnaccanam2語として。b:5本と もbhikkhu.d;5本ともsiya. ( 5 )

(6)

c;SNbukkasam.d:5本ともjavan'atthae,Santisuriはjavan'at-thamvasevaemamghumと読む。Cmamghum a;Cは第2のCaを省略。d;CVSevam;CVSayariehirn,Naya-riehim a:SNihajiviyarn2語として。b;Cpabhattha a:VNuvattittab:5本ともsamsaram;CVNbahum,Sbahu;N anupariyattamti,Santisuriはv.1.anuparicarantiを引用する。d;5本 ともbohihoi,Santisuriはhoiに対してv1.jatthaを引用する。 b:Negassa. a:Claha.b:Npavaddhaic;5本ともdomasa-kayarn d:5本ともkhellamti. aNnopagejjhejja.b;5本ともvippajahe;VNaijagare.d;5本 ともbhikkhu. b:5本ともKavilenamca.d5本ともtehim;Nlogu 、皇 1人 13 14 15

67891111

20 3古Arya韻律

Alsdorfが述べているように{op.cit.,p.252),古Aryヨの特徴を要約

すると,次の二つになる。

(1)後期のgiti韻律におけると同様に第1半詩節と第2半詩節は司一

となる。すなわち第2半詩節の第6ganaが短母音だけになることは ない。

(2)中間休止(caesura)は第3ganaの後ではなく,第4ganaの中間

で起こる。 そこでUtt.第8章の19詩碩をpadaごとに分析して図示すると次のよう になる。 8 6 3 4 p a d a s 1 2

1abトーF‐

・卜’-‐

−一LニニーL−−

面 − − ‐ ‐ ト ー ‐ ‐ 一 | ‐

「二‐‐−−−l−

2 a b - - - −ー

c d 「 一 一 に - 一 ト ー - - ‐ ‐ ‐

(6)

(7)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 − − ‐ ‐ ‐

卜|卜

トート

言雄一”峠 − − − ‐

一可

一 a b 画一一北一・函一北一画 J函−1釦l a

F了T−−−r二

c d - - 一 一

一一︾

︶︾︾

︾︾︾

’︾一

卜|卜下卜|上卜T

卜|I|トート|卜|r|卜 北二m−1如一函一鋤一m一北

9||叩一一u||血

’ ー

|||ヲ|一︾

三コ三一

当 ー ﹂卜|卜’ c d a b ドFr ︾一 曹 1 q △ L J

卜|卜

︶︾

卜’1

C d a b 一一一 14 |卜

一 一 - , - 卜

c d - - ー

卜|卜|戸

-北一函一︲叩 L|||恥

︾︾︾

︶ 一一︶ 、1ノ ワー /︲、

(8)

cd---トー‐‐一‐‐‐

以上の図から,Utt.8における古Aryaの特徴として以下のことが示 唆されよう。

第4gana(=g.)において,中間休止の前で長音(-)で終れば,中間

休止後は−,−あるいは−‐の形式で始まる。これに反して中間休止の前 で短音(-)で終れば,中間休止後は−,−で始まる。すなわち,第4g-の最初の音節は長音か短音のどちらかである。そして中間休止後には−, マー,一の三形式のうち,いずれかが来て第4g-を構成している。

第2g-はほとんどの場合ja-g-(−−)の形式をとり,第3g-も多くの

場合,(--)の形式をとる。さらに多くの場合そうであるように,もし第

1gが(--)の形式をとるならば,奇数padaは完全に奇数§lokapada

(一一一一一一二)となる。この例は,1c,3c,4c,5c,8c,9a,9c,

10c,He,16c,18a,19a,19cに見られ,計13を数える。Alsdorf

の校訂本{op.cit.,253ff)では1,2cと2,4cにおいて,第1g.が−− の代わりに−−をとり,また1,31cと2,14cにおいて第2g-がマーー の代わりに。…をとる例がみられるが,もしそれが奇数§lokapadaと みなされるなら,そのpadaは正しいものとAlsdorfは認めている。 第4gにおける中間休止後のmora(s)(すなわち,−,‐−,あるいは −−)を除けば偶数padaは奇数padaと一致するとJacobiは指摘した。 このことはpadaled,4cd,9ab,lied,12ab,16cdで,奇数 pada=偶数pada(=--/−−/--/一)の形式をとっても全38のうちわず (8) 1 8 a b c d

-トー.

ー 一 一

‐‐トー

一'

一 ト ー ‐ ‐ I

-‐ 一‐ ‐ ‐ 1 9 a b - 一一

c d 2 0 a b

-一 ’ -一 ト ー

-‐卜

-−’一

曹曹=一

︶︺

︺︾

-‐ − −−‐‐‐

(9)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 か6例にすぎず的を得ていない。多くの場合第2gと第6g-は‐−− の形式をとるのが典型的であるが,第2gにおいては(---)が6例, (--)がl例みられ,また第6g-において(‐壱一)が1例みられる。38 奇数padaと38偶数padaに対する数を図示すれば以下のようになる。 第 2 g 第6p 6 3 1 3 7 1 1 言-f p l 38 38 後期Aryaでは第6g-は一ゞかゞ−−の形式を必ずとらねばならない が , 第 2 g - は ・ 一 ・ 一 一 一 一 一 − 一 ・ の 5 つ の 形 式 の う ち , ど れ’う でも自由にとれる。従って第2g-と第6g-が一致しなくともよい。この 点で古Aryaの第2,第6g-は後期Ary量の第2,第6g-に相当すると いえよう。 その他のすべてのg-(l,3,5,7)について分析すれば次のようになる。 第Ig. 第3p 第 5 p 第7g. 1 5 1 0 8 4 2 2 2 8 2 4 3 4 1 6 計 3 8 3 8 3 8 3 8 4 カ ピ ラ の 詩 頃 - 試 訳 と 注 記 一 Utt.において第8章以外はすべて大雄(Mahavira)の言葉と見倣される が,この第8章はカピラ(Kapila)の作とせられる。Santisuriはバラモン K且§yapaとその妻Ya誼の息子,Kapilaに関する伝説物語をその注釈の (1) 中で述べている。そのKapilaの伝説とは次のようなものである。 Kasyapaが死んだ時,彼の地位は他の男に与えられた。その時,K且§yapa の妻は息子を夫の友人であるIndradattaの許で勉強させるべくSravasti ( 9 )

(10)

(舎衛城)に送った。IndradattaはKapilaに喜んで教え金持ちの商人の 家に下宿させた。しかしながらKapilaは世話役に指名された召使いの少女 とまもなく恋に落ちた。この少女のカーストで催されたお祭のある日のこ と,お金がなくて装身具が買えないためお祭りに参加できないと少女は涙 ながらに彼に告げた。何がしかのお金を得るために彼女は彼が商人Dhana のところに行くことを求めた。Dhanaは朝彼のところに一番早く挨拶に来 た男に二片の黄金を与えるのが常だった。従ってKapilaはその夜に出発 したが,警察に捕えられ,Prasenajit王の前に連れて行かれた。Kapilaは 王の前ですべてを残らず打ち明けた。王はKapilaをすっかり気に入り, 彼が望むものは何でも与えることを約束した。何を求めたらよいかを考え るためにKapilaは庭へ出た。そしてそれについて考えれば考える程思 い欲する金額はつり上り,ついに彼の欲しいものは一千億にも達した。そ の時,突然彼は悟った。つまり,これまで過ごして来た罪深い生活を後悔 し始め,髪を切って,Svayamsambuddha(自ら完全に悟った人)になった のである。王のところに戻って彼は第17詩碩を詞した。そして彼は王に Dhammalabha(法利)を与えて,立ち去った。彼は苦行を行ない,すぐ れた智慧を得た。その智慧によってRajagrha(王舎城)から18リーグ1 リーグ=3マイル)離れた森にBalabhadraを首領とする500人の盗賊が住 んでいることを知った。これらの盗賊たちは正しい信仰に改宗するだろう とKapilaは考えた。従って彼は彼らが住む森へ出かけて行った。Kapila は囚人にされ,盗賊のリーダーの前に連れて行かれた。彼を慰み者にしよ うと盗賊たちはKapilaに踊りを踊ることを命じた。踊るのに何もないと 彼がいやがったので,彼らは手を叩いて拍子をとった。その時Kapilaは この章の最初の詩碩を歌った。この詩煩によって盗賊の何人かは改宗し,

Kapilaは以下のそれぞれの詩煩の後にこの詩碩を繰り返しながら歌い続

けた。遂にすべての盗賊が改宗した。 (1)JacobiがSBE.45,p.31,n.1に転載している。 (10)

(11)

Uttaradhyayana-sutra第8JpKaviliyamの研究 (1)不安定な輪廻(samsara)において,苦悩に満ちた迷妄の茂みの中 で , 人 が 地 獄 に 行 か な い で あ ろ う と こ ろ の そ の 行 為 と は 一 体 何 で あ ろ う か。 hojja,Sktbhuyat,3sg.opt.である。このe.d.はbhuyat>*hojjat (-try-/-uyy->-ujj->-ojj-(u/6))>hojjaである。 gacchejj豆は1,2,3人称のoptをとるが,ここは3人称としてとる。 Pali,gaccheyya>Pkt・gacchejja doggai,Sktdurgati.e.d.はdurgati)>duggatif>doggai.英訳すれ l"abadtransition"であるがジャイナ教では4つのgatiすなわち,

s

u

g

a

t

i

(

f

f

m

,

d

u

r

g

a

t

i

<

(

,

c

c

変わることを意味している。従って「地獄」と訳す。詳しくは,Schubring, §93を見よ。 〔 略 号 表 〕 AMg=Ardhamagadhi;AMD=MuniShriRatnachandrajiMaharaj,An IllustratedArdha-MagadhiDictionary1923-32;BHS=BuddhistHybrid Sanskrit;BHSD=F.Edgerton,BuddhistHybridSanskritDictionary,New Haven1953;BHSG=BuddhistHybridSanskritGrammar;Charpentier =J.Charpentier,TheUttaradhyayana-sutra,Uppsala1922,pp.307-12; CPD=VTrenckner,DinesAndersen,HelmerSmith,ACriticalPaliDie-tionary,1924-;e.d=etymologicaldevelopment;EV=KR.Norman,The Eldera'Verses,London1969,1971;Geiger=W.Geiger,PaliLiteraturund Sprache,Strassburg1916;Luders=H.Ltiders,Beobachtungenfiberdie SprachedesbuddhistischenUrkanons,Berlin1954;m.c.=metricausa; MIA=MiddleIndo-Aryan;MW=Monier-凧Ulliams,Sanskrit-EnglishDie-tionary,Oxford1899;PED=Pali-EnglishDictionary,PTS,1925;Pischel =R.Pischel,GrammatikderPrakrit-Sprachen,Strassburg1900;Pkt= Prakrit;PSM=HargovindDasT.Sheth,Paia-Sadda-Mahannavo1963; SBE=SacredBooksoftheEast,Oxford;Schubring=TheDoctrineofthe Jainas,Delhi1962;Skt=Sanskrit (11)

(12)

(2)以前の関係を捨てて,人は何事にも愛着すべきでない。愛着を導く ものの中で愛着がなければ,修行僧は過失や罪悪から解放される。 asineha,Sktasneha,Charpentierが指摘するように,Pischel(364) からはnom.sgのケースは見い出せないが,ここではnom.sg.にとる。 しかし何故Charpentierがasinehasineha-karehimと表記しないのかは 不明である。 -karehimは一karesuとして解す。−ehimがlocpiをとることについ ては,(10)の注記を見よ。sinehaに関しては,R.L.Turner"Prakrit sineha-,sinha-,'snow'."CollectedPapers1912−1973,London,1975, pp.376-380.がある。 dosa-paosehi,Charpentier本ではdosa-pausehi,Sktdosa-pradosaと あるべきところであるが,m.c.でこのような形をとっている。C本にお いては−o−>−u−の表記は非常にしばしば見い出される。 vijahittu,ending-ittuは本来infinitiveであるがしばしばabsolutive として使用される(Pischel576)。この例はBHSでもおこる(BHSG §3554)。 (3)それ故,知識と洞察力をすべて備え,迷妄から解放されたすぐれた 賢人は,すべての生物の幸福のため,彼らの解脱のために話す。 C本にhiyanissesayaとあり,第5詩煩もhiya-nissesa-とあるため, hiyaを省略せずに訳すべきであろうが,m.c.でhiyaを削除。 Sktnihsreyasa'welfare',Pkt形はnissesaとnisseyasaの2つが考え られる。AMDs.v.nissesa,nisseyasaを見よ。-eya->−e一となって

nisseyasa)>nissesa.Sktと司様,語尾一ayaは目的を表わすdat.であり‐

nissesayaは「幸福のために」と訳すことができる。 (12)

(13)

Uttaradhyayana-sutra第Sip:Kaviliyamの研究 vimokkhan'atthae,Sktvimoksan'arthaya.Pktにおいて-aya >-ae は普通であるから(Pischel593),-atthaya>-atthae.従ってvimok-khan'atthaeも目的を表わすdativeであり,「解脱のために」となる。 (4)修行僧はすべての束縛とこの種の争いを捨てるべきである。そのよ うな人はすべての種類の愛楽を見つつも執われない。 pasamano,pasai(Sktpasyati)の現在分詞nom.sg.である。動詞 へ/d蕊のe.d・はSkt.pasyati)>Palipassati">Pktpasai. lippai,Sktlipyate.この動詞の語根はlimp-/lip-,lip−はlocativeか instrumentalを伴って表われるが,(D"heissmearedby(instrumental)". ②"heisattachedto(locative)"と翻訳されようoEVIp.121を見よ。 kama-jaa,Sktkama-jataTkamaの性格を持つ」=「kama」。 AMDとPSMはtai<(trayin「保護」を記しているが,Charpentierに 従いtadin=tad震「そのような種類の」,「高貴な人」と解し,t証はno、. sgである。BHSDs.V.tayinに"holyman"の意味がありDhamma-pada94,95にtadinが見られ,漢訳「法句経』(大正蔵4巻・564-中) では「真人」と訳している。EVIp.131も"Buddhalikeorholy,vener-able"を与えており,tathagataとほぼ司義である。ジャイナ教では修行 完成者ジナのことをいうのであろう。Luders108をも合わせ参照。

vippajahe,Sktvi-pra-jahati(、/ha)の3.sgoptativeであり「彼は

捨てるべきである」と訳せる。MIAでは動詞、/haの語基はjah-として とられ,これから種々の動荊形が作られる。e.g.vi-jah-ittu(2). (5)享楽の誘惑や過失に浸って,利益や幸福や悟りに反対する無知で 愚かな凡夫はハエがにかわで捕えられるように縛られる。 (13)

(14)

mandie,mandiyaのsg.nominative.Sktmandaka「愚かな」。

khelainmi,khelaのsg.loc.Charpentierはkhela=Sktksveta-,ksveda-「毒物」と述べているが文脈に適しない。AMDとPSMにはkhelaの通

切な意味とSkt形が見られないが,Jacobi(SBEVol45,p33)はglue

「にかわ」と訳している。この意味は文脈に適するので,Sktkheta「にか

わ」あるいは「はえとり紙」が相応する。従ってkheta>*kheda>khela

と発展したように思える。

amisa,Sktamisa修行僧(bhikkhu)を買にかけるための誘惑を意味

する。あるいは享楽や負欲を意味することもある。

voccattha,CharpentierはPischel(337)を引川して,voccatthaは

vipariyastaによって説明されるとする。すなわちvipariyasta=*ucca-stha-と述べている。しかしこのetymologyは正しいとは思えない。PSMが記 しているように,むしろ過去分詞vyatyasta"opposedto"と考えるべき

である。e.d.はSktvy-aty-asta>*vaccattha>voccattha(なぜなら,

唇音(labial)vの後ではa>o)K.R.Norman,"Thelabialisationof

vowelsinMiddleIndo-Aryan",StudienzurIndologieundIranistik2 (1976),p48. (6)これらの愛楽は捨て難い。それらは(意志の)弱い人たちによって 容易に捨て難い。しかし,渡り難い(海)を波る商人たちがいるように, 渡り難い(Mm)を越え-る信心深い聖人(sadhu)たちがいる。 aha=Sktatha.ここでは「しかし」の意床である。

(7)「私たちは苦行者である」と言いながら動物のように,生物の殺

害に無知である,ある愚かな凡夫たちは邪悪な見解の故に地獄へ行く。

Charpentierが述べているように,この詩頒はバラモンの動物を犠牲に

してする儀式に対す非難である。 (14)

(15)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 mu,Charpentierはmu=vayamを示すために注釈害を引用する。しか しPischel(498)はむしろ動詞へ/asの第1人称複数形としてmu/mo をとっているように思える。そしてこれはSchubring(Acarahga-sutra,p. 67)によって採用された。BHSG20.40はMahavastuhi,9,10から, 1人称代名詞のnom.pi.としてmo=vayamを与えている。Mahavastu hi,1-27の和訳は拙稿「"Mahavastu研究I−Kuさa-Jataka-」中央学術研 究所紀要第8号pp.1-42を参照。 動詞、/j函の3.sg.現在形はjanai=Sktjanati.現在分詞はjananta 従って現在分詞pi.はa-jananta">a-yanan面「知らないで」。 (8)人は生物の殺害を許すべきではない。人はいつかある時すべての苦 悩から解放されるかもしれない。聖人のこの法を説いた高貴な人たちによ ってこのように言われた。 anujane,anu−ヘ/麺の3.sg.opt. mucce/muccejja,動詞、/muncのpass.語基はmucc-.passのopt はmucc-ejja"oneshouldbereleased",muccesavva-dukkhanamのよ うに、/munc--gen.は非常に稀な形である。 ariehimはSktarya"noble"のpi.inst hu,Sktkhalu.ed.はkhalu>*klWu>*khlu>klkhu>khu>hu. Pischel94をも見よ。 (9)人は生物を傷つけるべきでない。そのような人は「周到な人(sami-ta)」と言われる。彼から彼の邪悪な業は,水が高原から流れ出るように出 て行く。 tai,(4)の注記を見よ。 (15)

(16)

aivaejja,ati−、/patの3.sgopt.Paliati-pateyya>ai-vay-ejja「人は 傷つけるべきでない(na)」 samli,二重子音の前では一iと一eは混司されることがある(-i/-e)。 本来はAamiettiとあるべきところであるが,ここではsamiitti.samie =nom.sg.AMDによれば,samiya=Sktsamita=「歩くこと,話すこと, 乞食等において注意深い人,あるいは5つのSamitiを持っている人」で ある。 tao,Pischel(425)はAMgでtaoが純粋なabl.であることを示す。 taoは二重ablativeである。すなわち, 画 く 画 t -ao<)-atas m+-ao/>tao. 意味は"fromthere/fromthen/formhim"であるが,ここでは"from him"が採用される。 se,3人称代名詞の前接語(encliticform)="ofhim","his". thalao,-aoは二重ablative語尾である。すなわち,−at-f-ato>-ato-^ ao.abl.sg.語尾はBHSにおいては-atah,-ato,atu(BHSG850), Pktにおいては-ao,au(Pischel365)oBHSG8.50において−atoの ablはPaliにおいて存在しないと記されており,確かにGeigerにおいて もこのabl.は述べられていないが,CPD(s.V.unclia)には明記されてい る。詳しくはC.Caillat:Po"γ〃"eNひ"velleGγα加加α〃eduPα〃 Torino1970,p.22を見よ。 (10)この世に生きる生物は動くものであれ,静止しているものであれ そ れ ら の も の に 対 し て 人 は 心 や 言 葉 や 身 体 に よ っ て 罪 深 い 行 為 を と る べ き でない。 (16)

(17)

Uttaradhyayana-sutra第8ifKaviliyamの研究 け が damda,AMDによれば「霊魂を汚す心・口・意の罪深い行為_l jaga-nissiehibhuehimtasa-namehithavarehirn,語尾-ehi(m)は普通 pi.inst.として使用される。しかし東部方言において−ehiはlocであり, -esuにとって代わり使用される。Pischel(371)ではこの詩煩を引用し てAMg.においてもApabhramsaと同様にlocとinst.とが司一になる と記されている。アショカ碑文(第6RockEdict)にmahamatehi「大 臣たちに 1がpi.loc.として使用されている。ところが西方Girnarでは mahamatresuにとって代わられる。従ってここはpi.loc.として。 kayasa,manasaとvayas且から類推して語尾一as風がkayaに付加さ れたと考えられる。cf.Dasaveyaliya-sutta6,27. (11)清浄な乞食を知って修行僧はこの点で自分自身を確立すべきであ る。彼は生命を支えるために食物を求めるべきであって,乞食者は風味に 負欲であるべきでない。 naccanam=Sktjnatva(nam)と考えるとき,tv)>ccが何故可能にな るかが問題となる。一tyaはRgvedaにおいて短母音あるいは鼻音における 動詞語尾の後にのみおこり,MIAでは一ty嵐はすべての母音あるいは子音 の後に見られる(Pischel587)。この事実に基づいて一cca<N-ty豆Una-tya/tyana(m).故にjnatyanam>naccanam.このようにabsolutiveの ような限定された分野ではAMgはVedicSktの性格をとどめている。 absolutive語尾一cc豆が一tvaではなく−tyaから起こったことについてK R.Norman:"SomeAbsolutiveFormsinArdha-Magadhi",Indo 〃α"加泥ノO"γ邦α/,Vol.II,pp.311-15.を見よ。 bhikkhae<Sktbhiksakah.nom.sg. rasa-giddheもnom.s9 appa,Skt.atman,Paliattan-,Pkt.attan/appan-,e.dは証man)> r l 弓 、 、 上 イ ノ

(18)

*atpan(アショカ碑文においてtm>tp)>appa(n)。 jaya,Sktyatra.語尾-aeは目的を表わすdative.従ってjayaeは「生 命を維持するために」という意味になる。 ghasa「食物」のSkt対応語はやはりghasaであろう。AMDではSkt

grasa"food"を与えているが,gr->gh-は不可能である。MWs.v.

ghasaは「食物」の意味を与える。 siya,5つの校訂本がsiya(Sktsyat>s'ya/siya)にもかかわらず, siya(m.c).動詞へ/asのopt.としてPaliにはslyaとassa.BHSには asyaが存在し,韻律からしてassaかasyaが適当であるが,assaとasya はAMgではどこにも見られない。 (12)彼は人里離れた場所にのみ出入りすべきである。彼は冷たい食物, 古い酸き粥,くず米あるいはかびた穀粒,あるいはなつめを生命維持の ために使用すべきである。 Jacobiの英訳(SBE.Vol.45,p.34):"Heshouldeatwhattastes badly,coldfood,oldbeans,VakkasaPulaga,andforthesustenance ofhislifeheshouldeatManghu(groundbadra)". Jacobiはpantaniとsevejj3の意味を誤解しているように思える。AMD s.v.panta(Sktpranta)は「粗末な食物」の意味を与えているが,MW s.v.prantaは"edge,hordes"を与える。従ってpantanisevejja="he shouldfrequentonlysecludedplace"であるべきであろう。 nisevae,3.sg.opt.MWs.v.ni-、/sevは"use,employ"の意味を 与えているので,これに従う。 aduva,Schubring(Acaranga-sutra,p65)とW.B.Bollee(Studien zumSuyagada,Wiesbaden1977,p.181)はadu=yaduを与える。こ のPali対応語は且du="or"(CPD)。従ってaduva=yaduvn「あるい (18)

(19)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究

は」。東部方言において接頭辞y-は省略される。ここでもこの現象が適応

される。東部方言における接頭辞y-の省略については,K.R・Norman

"NotesontheAsokanRockEdicts",/"αO〃α"jα邦ノ0〃γ〃α/,Vol.X,

pp.165-167.を見よ。 kummasa,Sktkulmasa「酸き粥」。

vakkasa,Desi語でSkt対応語はbalkasa「くず米」。

pulaga,Sktpulaka「かびた米粒」。 manghu/manthu「粉にひかれたなつめ」。

(13)サイン,夢,そして体の震え(によって吉兆を予言すること)を使

用する人たちは実際に「修行者」とは呼ばれない。先生によってこのよう

に言われた。 paurnjanti,Sktprayunjanti「雇う,使用する」。

lakkhana,Sktlaksana「サインによって予言すること」。

suvina,Sktsvapna「夢によって予言すること_」。e.d.はsvapna">

*supna>Palisupina>Pktsuvina.SktからPaliへの発展過程,すなわ

ち,va:uの交替をMIAにおけるSamprasaranaと呼ぶ。K.R.Norman

"SamprasaranainMiddleIndo-Aryan",ノO"γ邦αlo〃んeRoyalAsia"C

Society,London1958,pp.44-50.を見よ。

amgavijja,Sktahgavidya「体の鼓動から吉凶を占う科学」。

ayariehim,Sktacarya,BHS,Pali,Pktacariya.時としてmetreの都

合でacariya(一一一)と綴られることもある(CPDVol.II,1,p.32)。

(14)この世で自分の生命を自制しないで,禅定や苦行から退いて,そし

て愛楽や享楽や風味に負欲である人たちはアスラの体に再び生まれる。

aniyametta,a-ni-yam-et直と分解でき,動詞、/yamのabsol.「自制し

(19)

(20)

ないで lo

pabhattha,動詞へ/bhram§の過去分詞。e.dはprabhrasta>p]pa-blbhattha>pa-bhatthaとなる。ablを伴って「∼から落ちる」の意味に

なる。

samahi-joaについてはSBEVol.45,p34,n2を見よ。

(15)そしてそこから昇ってさえも,彼らは数々の輪廻をさまよう。数々

の業の降れによって汚されたこれらの人たちにとって悟り(bodhi)は得が

たい。

tatto=*tat-to「そこから」と訳せ「アスラの体から」という意味であ

る。

anupariyadanti,動詞、/atの3.pi.現在形。anu-pary-at->anu-pary

-ad-「さまよう 」。

lip-,liptaは過去分詞「汚された」。lepaは名詞「汚れ」。

(16)もし誰かがこの全世界をすべて一人の人に与えたとしても,彼はそ

れによってさえも満足しないだろう。このようにこの自我(atman)は満

たし難い。 kasina,SktkrtsnafすべてのJ>kasina

dalejja,動詞へ/daの3.sg.optPalidadeyya(PEDsv.dadati)>

AMgdalejja・dad−/dal−,すなわちdとlが混同して使われる。

ikka/ekka<eka.

duppurae,Sktdus-pura+kanom.sg.「満たし難い」。

aya<ata<atta<Sktatman.AMg.ではaya,ata,atta,appaの四

語形が見られるが,Paliではaliaの一語形が見られるだけである。 (2())

(21)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 (17)得れば得るほど欲しくなり,所得の故に欲望は増大する。なされね ばならないことは2マーサでなされるがそれは1千万でさえも終わらな い。 第2半節は「2マーサでこと足りるのに,1千万あっても十分とは思わ ない」。 kajja</Sktkarya「なされるべきこと」。

kaya<Sktkrta「なされた」=「なされることができるJo

kotl=10,000,000. masa,Sktmasa,小貨幣

この詩碩だけが古Aryヨ韻律でない.padacが7つのsyllableしかな

く,反韻律となるが,タットプルシャ(tat-purusa)複合語,domasa-kayam

と読まないで,domasenakayamと読めば意味も変わらず,8つのsyllable

があることになり,完全な§loka韻律となる。 (18)人は(2つの)突起した乳房を持ち,心変わりし易く男たちを誘 惑して奴;雛たちと戯れるかのように戯れる女悪魔たちを欲するべきでな 、

rakkhisugamda-vacchasu,同様の表現がTheragatha1151にも見ら

れる。すなわち, ura-ganda-pisacini.そしてこの注釈書は次のように説明する。ureut‐

thita-ganda-dvaya-vatibhayanaka-bhavatoanatthavanatocapisaca-sadisi(EVI,p.283). gijjhejja,Sktgrdhyet.3sg.opt. (19)人は婦人たちを欲すべきでない。出家者(anagara)は婦人たちを捨 (21)

(22)

てるべきである。法を完全に理解して修行僧はそこ(法)において自分 自身を確立すべきである。 nacca,Sktjnatya.(11)を参照。 tattha,Skttatra."therein"であり,dharmaを指す。

itthi<Skt(i)stri.たとえばstationにiを付加してistationと読めば

発音し易いように,MIAでは(i)を付加したように思われる。BHSDに

よればBHSではistriもstriもどちらも使われたようである。

(20)このようにこの法は清浄な知識を持つカピラによって話された。そ

の法を実行する人たちは(輪廻の海を)渡るだろう。彼らによって2つの 世界は得られる。 このように私は言う。 akkhae<akhya(y)a(t)e<Sktakhyayate.

tarihinti,kahintiとも3.pi.futurekahintiのe.dは次のようにな

る。動詞へ/krの3pi.fut.のSktはkarisyanti.従って*karsyanti/>

*karsyinti(yの後でa>i)>*kassinti>*kasinti>kahinti(s>h).

logaはlogaとなってpi.を示さねばならない。しかしその後にttiがあ

るため短母音,すなわちlogattif>logattiと考えることもできようが, むしろ数詞duveとの組合せでlogoと読み,両数形と考えた方がよい。 Pischel(360)でMIAでは両数形が失われたと述べられているが, Utt.において両数形と考えられる形がいくつか残っている。たとえばKesi -Coyamaosamagame(23.88)fKesiとCoyamaの会合で」ここで−ao はgen.両数形語尾-ayohから発展したものと考えられる(Charpentier

p.364)。その他,ammo(19,10)=vocativedu.,kesigoyame(23,89)=

nominativedu.(拙稲「f^期印度アリアン語における両数形について」印 (22)

(23)

Uttaradhyayana-sutra第8章Kaviliyamの研究 度学仏教学研究第28巻第1号,pp148-49)。

ttibemiは古いジャイナ経聖典における特徴的表現である。suyamme,

ausam等で始まりttibemiで終わる(Schubring42)。 本論は筆者のケンブリッジ大学留学中にK.R.Norman先生より直接御教授い ただいたものの一つである。深甚なる謝意を表するとともに,誤解している部分が あるとすれば,そのすべては筆者に帰せられる。また木諭の作成に当たって塚本啓 祥教授の助言を仰いだ。記して感謝の意を表する (23)

参照

関連したドキュメント

本稿 は昭和56年度文部省科学研究費 ・奨励

シークエンシング技術の飛躍的な進歩により、全ゲノムシークエンスを決定す る研究が盛んに行われるようになったが、その研究から

所・ウィスコンシン大学マディソン校の河岡義裕らの研究チームが Nature に、エラスムス

 21世紀に推進すべき重要な研究教育を行う横断的組織「フ

Next, cluster analysis revealed 5 clusters: adolescents declining to have a steady romantic relationship; adolescents having no reason not to desire a steady romantic

山階鳥類研究所 研究員 山崎 剛史 立教大学 教授 上田 恵介 東京大学総合研究博物館 助教 松原 始 動物研究部脊椎動物研究グループ 研究主幹 篠原

社会学研究科は、社会学および社会心理学の先端的研究を推進するとともに、博士課

共同研究者 関口 東冶