• 検索結果がありません。

大正大学研究紀要 94号(200903) 047星川啓慈「ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "大正大学研究紀要 94号(200903) 047星川啓慈「ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む」"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む 一

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む

星 

川 

啓 

論文要旨

これまで、ウィトゲンシュタインの絶筆『確実性について』における「確実性」は、 「論理(学)的」なものであり、 「心理(学)的」に解釈しては いけない、とされてきた。このことは、ウィトゲンシュタイン自身によっても、また研究者によっても、主張されている。 しかしながら、 筆者はかなり以前から、 このことに疑問を抱いてきた。論理的なものと心理的なものとはそう明確に割り切れるものではないし、 ウィ トゲンシュタインは心理(学)的に「確実なもの」を求めているようにも読めるからだ。これは『確実性について』のテキストにも現われて いる。 最 近 は、 精 神 科 医 に よ っ て、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 病 理 学 的 研 究 が か な り な さ れ て い る。 そ の こ と と も 関 連 す る が、 本 稿 に お い て は、 「 確 実 性 」 を死の二日前まで執拗に追い求める彼の営みを、 「幼少期に獲得されたはずの〈ベイシックトラスト〉を再確認するためのもの」として捉えてみたい。

はじめに

有 名 な ブ ラ ン ケ ン ブ ル ク (Blankenburg, W .) の『 自 明 性 の 喪 失 (( ( 』 ( 原 書 出 版 一 九 七 一 年 ) は、 若 い 女 性 店 員 ア ン ネ・ ラ ウ( 仮 名 (( ( ) と い う 一 人 の 精 神 病( 破 瓜 病 ) 患 者 に つ い て 書 か れ た 研 究 書 で あ る。 筆 者 は 4 4 4 、 こ の ラ ウ と い う 女 性 が 失 っ て い る も の 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 つ ま り 4 4 4 「 自 然 な 自 明 性 4 4 4 4 4 4 」( natürliches Selbstverständlichkeit ) と 4 、ウィトゲンシュタインが追い求めたもの 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、つまり 4 4 4 「 確実性 4 4 4 」( Gewißheit/Sicherheit ) とは深いレベルで同じもの 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 だと思っ ている。もちろん、二人はまったく違った人間であり、ラウは病のために二六歳で自殺するが、ウィトゲンシュタインは自殺を考えながらも そのつど

(2)

大正大學研究紀要   第九十四輯 強靭な思索力で生き延びた。その反面、やはり二人には共通する面も多い、と推測できる。 さらにいえば、ラウが失いウィトゲンシュタインが求めたもの、つまり、世界の自明性/確実性は、われわれが生きていくうえで絶対に必要 なもの である。ただし、そうしたものは 通常 われわれに意識されることはない。その理由は、それらはあまりにも当たり前すぎるからである。普通の人間の ように平々凡々とは人生を生きられず、特殊な感覚を身につけた二人が心底から求めたものを知ることは、われわれが生きていくために必要 でありな がら、認識の対象にならないものを凝視させてくれる。 本 稿 で は、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 絶 筆 と な っ た『 確 実 性 に つ い て (( ( 』 ( 以 下『 確 実 性 』) を 素 材 に、 人 生 の 最 終 段 階 に お い て も「 確 実 な る も の 」「 自 明 な る も の 」 を 追 い 求 め た 彼 の 姿 を 浮 彫 り に す る。 こ の 書 に つ い て は、 古 く は モ ラ ウ ェ ッ ツ( Morawetz, T. ) の『 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン と 知 (( ( 』( 原 書 出版一九七三年) 、最近では鬼界彰夫氏の『ウィトゲンシュタインはこう考え た (( ( 』(二〇〇三年)の最終部分など、まとまった論考がすでにある。しか し本稿では、ウィトゲンシュタインの哲学的な研究から離れて、 心理学的視点から 4 4 4 4 4 4 4 4 、『確実性』で書かれている内容を考察してみたい。つまり、 『確実 性』をウィトゲンシュタインのベイシックトラスト(基本的信頼)の再獲得の過 程 (( ( として解釈してみたいのだ。

一 

ウィトゲンシュタインの「確実性」の追求

『確実性について』という絶筆 『 確 実 性 』 は、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 絶 筆 と な っ た ノ ー ト で あ り、 そ の 執 筆 時 期 は、 一 九 四 九 年 の 終 わ り / 一 九 五 〇 年 の 初 め か ら、 死( 一 九 五 一 年四月二九日)の二日前までである。つまり、彼が死にいたる一年半ほどの思索の過程がそこに示されている。 一九四九年の中頃、 ウィトゲンシュタインはアメリカのイサカにいる教え子のマルコム ( Malcolm, N. ) の家に滞在し、 そこでムーア ( Moore, G.E. ) の 論 文「 常 識 の 擁 護 」「 外 界 の 証 明 」 な ど に み ら れ る 命 題 に つ い て、 マ ル コ ム た ち と 議 論 し た。 す な わ ち、 ム ー ア の「 自 分 が 確 実 に 知 っ て い る 4 4 4 4 4 い く つ か の 命 題 が 存 在 す る 」 と い う 主 張 と、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 自 身 の な か に 育 っ て き て い た 見 解 と を つ き 合 せ な が ら、 「 確 実 な る も の 」 を め ぐ っ て 思 索 を展開したのである。そうした命題とは、 「ここに手が一つあり ― ― もう一つの手がここにある」 「大地は私の誕生のはるか以前から存在していた」な どという、普通の人間にはあまりにも当たり前で、議論の対象になる理由すらわからないような命題である。 一 九 四 九 年 一 一 月、 六 〇 歳 の ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は、 ケ ン ブ リ ッ ジ の ベ ヴ ァ ン( Bevan, E. ) 医 師 か ら 前 立 腺 癌 で あ る と 告 げ ら れ、 余 命 は 長 く て 二年であることを知る。翌一二月から一九五〇年三月までウィーンの実家に滞在するが、そのとき、不要と判断したノート類を焼却している 。鬼界氏 二

(3)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む がいうように「生の終わりが確実に意識され始めてい た (( ( 」 のであろう。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 最 後 の 一 年 半 に わ た る 思 索 は、 『 確 実 性 』 を 読 む 限 り、 そ れ ま で の 思 索 と 同 様 に、 粘 り 強 く 強 靭 で あ る。 癌 と の 闘 い で あ っ た人生の最後の一ヵ月半のあいだは、病状の変化はあったにせよ、マルコムあての手紙から判断できるように、精神的に比較的安定した時間 をすごし たと推測でき る (( ( 。 しかし、よく知られているように、ウィトゲンシュタインの生涯は決して穏やかなものではなかった。中井久夫氏は「ヴィトゲンシュタイン の生涯 はたえざる危機の連続であった。いかなる職も、いかなる科学も、いかなる土地も彼を休らわせなかった。彼は〈自分は呪われている〉と半 ば真剣に 感じてい た (( ( 」と言い、新宮一成氏は『論理哲学論考』 (以下『論考』 )における「ウィトゲンシュタインの独我論が、宇宙を包む至高体験と、実在に対 置され無化される恐怖との振幅運動を惹き起こすものであり、分裂病世界と関係が深 い ((( ( 」ことを指摘している。さらに、アスペルガー症候群の症状が 見られるウィトゲンシュタインは、精神的にかなり不安定な生涯を生きたといえる。中井氏は『確実性』を書いているころのウィトゲンシュ タインに ついても、 「最晩年の彼は、 たえず内的涸渇感にさいなまされながら探究を続け、 それは胃癌〔前立腺癌〕を病んでいることを知ってからも変わらなかっ た ((( ( 」という。 筆者にとって興味があるのは、 ウィトゲンシュタインはどうして人生の最後の一年半のあいだ 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 右のような当たり前で 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 平凡で 4 4 4 、 それらについて考 4 4 4 4 4 4 4 4 えるのは無駄だとさえ思われる自明な命題と格闘したのか 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、ということである。哲学的な思索に身を切るような思いをしつづけたウィトゲンシュタイ ンにとっては、思索の流れから、そうした主題と取り組むにいたる自然で必然的な理由もあったかもしれない。しかしながら、彼が最後に取 り組んだ のは、 「確実なもの」 「自明なもの」をめぐる主題であり、このことは、精神的な問題をかかえる彼の人生を考えるとき、示唆的である。 じ つ は、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン の 書 い た も の に は、 一 貫 し て「 日 常 性 」「 平 凡 さ 」 な ど に つ い て か な り 言 及 さ れ て い る。 一 見、 曖 昧 な 日 常 言 語 を 否 定する論理学の書に見える『論考』には、意外にも次のように明言されている。 ……日常言語の命題はすべて、そのあるがままの現実においてすでに、 〔記号や概念文字で書かれていなくても、 〕論理的に完璧な秩序を与えら れている。 ― ― われわれが日常の言語のうちで提示せざるをえない、かのもっとも簡潔なもの、それは真理の比喩ではなく、全き真理そのものな の だ ((( ( 。 また、 『哲学探究』 (以下『探究』 )には次のように書かれている。 三

(4)

大正大學研究紀要   第九十四輯 …… わ れ わ れ に と っ て も っ と も 重 要 な も の ご と の 様 態 は、 そ の 単 純 さ と 平 凡 さ に よ っ て 隠 さ れ て い る。 ( ひ と は こ の こ と に 気 づ か な い、 ― ― そ れ が い つ も 眼 前 に あ る か ら で あ る。 ) 人 間 の 探 究 の 本 来 的 基 盤 は、 ま っ た く 人 間 を 驚 か す こ と が な い。 …… こ の こ と は、 い っ た ん 目 に す れ ば も っ とも驚くべく、もっとも強烈なものが、われわれを驚かさないということであ る ((( ( 。 要するに、彼は、究極的に ― ― というのは、彼の思考はつねに揺れ動きながら進展するから ― ― 日常的なもの/平凡なものを肯定的に捉えようとし ており、彼が取り組んだ多くの主題はそれらと深い関係にあるといえる。 ただしもちろん、 ウィトゲンシュタインは日常性に安住の地を見出したのではない。日常的な事柄から多くの主題をとってきている『探究』に、 「日 常性の回復による治癒への意志」を読み取ることは不可能ではない。しかし、内海健氏が述べるように、それは「単に日常性への回帰を志向 すること によって達成されるものではないし、まして日常が特権化されるわけではない」 。日常性は「つねにその擬制を暴き出され る ((( ( 」 のである。 こうしたことを絶筆となった 『確実性』 と結びつけてみると、 次のように言えるのではないか。一見したところでは、 日常的なもの/平凡なものは 「確 実な」ものであるように見える。しかし、ウィトゲンシュタインには、それらは決して「確実ではない」ように見えてくる。けれども、さら にまたそ れらについて考え続けると、どうしようもなく、それらのあり方を肯定しなければならない地点に到達する。 「とにかく、こうだ!」 「私はこのように 行動するしかない!」ということになるのだ。このことを表現するウィトゲンシュタインの言葉は『確実性』に散見する。 ところで、もろもろの知識の内容は、異なる「確実度」 (

Grad der Gewißheit

)をもつ。 「太陽からしかじかの距離にひとつの惑星が存在する」 という命題と 「ここにひとつの手がある」 (すなわち私の手が) という命題では、 この 〔概 念的な(言語的な) 〕状況が違う。 〔疑いを免れている〕第二の命題を仮設とは呼べない。にもかかわらず、両者のあいだに明確な境界線は存在し な い( 五 二 節 )。 〔 だ が そ れ で も、 〕 惑 星 の 場 合 か ら 自 分 の 手 の 場 合 へ と、 誤 り の 蓋 然 性 が 次 第 に 減 じ て い く の で は な い。 あ る 一 点 で 誤 り を 想 像 す ることもできなくなるのだ(五四節) 。確実度〔に〕は最大値( Maximum )がある(三八六節) 。 第 一 の タ イ プ の 命 題 は 疑 う こ と が で き る が、 わ れ わ れ の 世 界 像 を 構 成 し て い る 第 二 の タ イ プ の 命 題 は 疑 う こ と が で き な い。 「 確 実 度 が 最 大 値 」 を し めすからである。ウィトゲンシュタインが考察の対象とするのは、こうした第二の命題に類するものである。 そうして、 ウィトゲンシュタインは 「世界に何が生じようと、 私の確信をくつがえすことはできない」 (三八〇節) という境地にいたる。彼いわく、 「こ の事実は私にとって、あらゆる認識の基礎なのである。ほかの事なら取り消すこともあろうが、この事実だけはべつである」 (同所) 。そして、こうし 四

(5)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む た確信/信念に、基礎づけや根拠づけを与えることは出来ない ― ― 「基礎づけられた信念の基礎になっているのは、何ものによっても基礎づけられな い信念である」 (二五三節) 。 しかし、くり返しになるが、ウィトゲンシュタインの場合、このような地点/境涯に到達したら、そこでお終いになるのではない。彼はまた 、自問 自答しながら緊張した思索を続ける。哲学的思索のおよそ五〇年にわたる旅において、彼は安住の地を見出せなかった。だが、大きくみれば 、揺れ動 きながらも、最後の一年半においては、安住の地を 垣間見た 4 4 4 4 といえるのではないか。もちろん、そこに安住する時間は彼には残されてはいなかったの だが……。 別 の 言 い 方 を し よ う。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 人 生 の 最 後 の 最 後 で「 確 実 性 」「 自 明 性 」 に つ い て の 思 索 を 展 開 し た こ と は、 意 識 の レ ベ ル に お い て も ま た 無 意 識 の レ ベ ル で も、 生 涯 に わ た っ て 彼 が「 確 実 な も の 」「 自 明 な も の 」 を 求 め 続 け て い た こ と を、 意 味 す る の で は な い か。 そ し て お そ ら く、 全生涯にわたって種々の不安を抱えながらも、ようやく最後の一年半において、彼は安住の地を垣間見たのである。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 最 後 に 残 し た 言 葉 は、 「 彼 ら に 言 っ て や っ て く だ さ い。 私 の 人 生 は 素 晴 ら し( wonderful ) か っ た、 と 」 で あ る。 こ の 言 葉 の解釈をめぐっては、彼を直接に知る人、間接に知る人の間で、じつにさまざまな解釈がある。筆者には、最終的に「確実なるもの」を垣間 見られた ことが、 「私の人生は素晴らしかった」といえた 間接的理由の一つ 4 4 4 4 4 4 4 4 だと思えてならない。人間というものは、その最期に臨むとき、 「自分が生きた世界 は確実なリアリティをもっていた」と思いながら死にたくなるものではないか……。 予想される批判 ― ― 論理と心理 筆者の話には、ウィトゲンシュタインに心をよせる哲学研究者たちから反論がでることは、火をみるより明らかである。さまざまな批判が予 想され るが、最も重要なものは次のようなものである ― ― 「 論理 4 4 ( 学 4 )」 的な確実さ 4 4 4 4 4 / 自明性と 4 4 4 4 「 心理 4 4 ( 学 4 )」 的な確実さ 4 4 4 4 4 / 自明性とはまったく異質なもので 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ある 4 4 、 両者を同一次元で議論することはナンセンスである 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 その証拠にウィトゲンシュタインは、次のように論じている。 ……われわれが表現しようとするのは主観的な〔心理的な〕確信ではなく、最強の確信ですらない。ある種の命題が、あらゆる疑問、あらゆ る 思考の根底をなすように見えるという、そのことを言おうとするのである。 (四一五節) 私は言いたい、 物理学のゲームは算数のゲームと同様に確実であると。……私の指摘は論理学的な ( logisch )もので、 心理学的な ( psychologisch ) ものではないのだ。 (四四七節) 五

(6)

大正大學研究紀要   第九十四輯 ウィトゲンシュタインが『確実性』において追求した「確実性」は、論理(学)的なものなのである。これに疑いはない。鬼界氏も「確実性 や自明 性とは個人の心的状態ではなく、ある命題の言語における論理的機能の認知そのものなのであ る ((( ( 」 と主張している。筆者もまったく同感である。さら に、モラウェッツは「論理(学)的」ということを細かく分析してい る ((( ( 。 だ が、 そ れ を 承 知 で 次 の よ う に 問 い た い。 「 論 理 的 」 確 実 性 / 自 明 性 と「 心 理 的 」 確 実 性 / 自 明 性 と は ま っ た く 別 の も の で、 両 者 を 結 び 付 け る こ と はできないのだろうか……。ウィトゲンシュタインが追い求めた論理的確実性/自明性は、同時に、心理的確実性/自明性にはならないか… …。もち ろん、論理学の理論的な議論にはいっていくと、そのように言えない場合もでてくるだろう。しかし、本稿の文脈においては、たぶん個人の 場合でも 共同体の場合でも、 論理的に確実 4 4 4 4 4 4 / 自明であるものは 4 4 4 4 4 4 4 4 、 心理的に確実 4 4 4 4 4 4 / 自明である 4 4 4 4 4 。 これまで、哲学の側からは「論理」と「心理」とは水と油のように考えられてきた。それは、ウィトゲンシュタイン自身の言葉や鬼界氏の言 葉にも 反映されている。もちろん、 そのことについては否定しない。しかし、 両者が渾然一体となっている場合もある。 『確実性』で論じられている「確実性」 「自明性」には、 多分に心理的側面があるのだ。大筋においてウィトゲンシュタイン自身がそれを否定しているのだが、 彼には、 次のような言葉もある。 こ う 言 い た い。 人 間 は 或 る 点 で は 完 全 無 欠 な 確 実 性 を も っ て 真 理 を 認 識 す る、 と い う の で は な い。 完 全 な 確 実 性 と は、 態 度( Einstellung ) に 関係する事柄にすぎないのだ。 (四〇四節) 前 後 の 脈 絡 を ふ ま え て の さ ま ざ ま な 解 釈 は あ る だ ろ う。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 自 身 も「 だ が 勿 論、 こ の 言 い か た に も ま だ 誤 り が あ る 」( 四 〇 五 節 ) と続けている。しかし、 「態度」というものは、論理的確実性とともに心理的確実性によって裏打ちされているものである。 ウィトゲンシュタインが、われわれの枠組み/世界像を構成する諸命題に主観的ではない論理学的地位を授けようとしたということは、それ らに心 理的な確実性以上の確実性を与えようとしたのだとも解釈しうる。だが、このことは裏からいえば、 そうせざるをえなかった 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 という彼の精神的な事情 が あ っ た と い う こ と で は な い だ ろ う か。 す な わ ち、 世 界 像 命 題 に 論 理 的 な 確 実 さ を 授 け る と い う こ と が 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 心 理 的 に 要 請 さ れ た 4 4 4 4 4 4 4 4 4 の で あ る。 だ と す れ ば、 論理的確実さを追い求めさせたのは 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、けっきょくは心理的な要請であった 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ということにならないか。すなわち、 ウィトゲンシュタインが求めた論理 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ( 学 4 ) 的確実さとは 4 4 4 4 4 4 、 心理 4 4 ( 学 4 ) 的確実さの裏返しなのである 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 以下の論考では、この観点から『確実性』におけるウィトゲンシュタインの議論をみていきたい。 六

(7)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む

二 

『確実性について』の議論

絶筆の直前 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は、 一 九 五 一 年 四 月 二 九 日 に 他 界 す る が、 同 二 七 日 に「 書 く 」 と い う 生 涯 に わ た る 営 為 を 終 え た。 『 確 実 性 』 は 全 部 で 六 七 六 節 か ら な っ て い る が、 絶 筆 と な っ た 日 は、 六 七 〇 節 か ら 六 七 六 節 ま で の 七 つ の 節 を 書 い て い る。 そ の 日 は「 間 違 え る 」 可 能 性 に つ い て 議 論 し て い る。 六七三節から六七五節までを引用しよう。 私が間違えることが ありえない 4 4 4 4 4 場合と、きわめて間違え にくい 4 4 4 場合とを区別することは困難ではないだろうか。どちらの種類に属する場合であ るのか、つねに明瞭に判別されるであろうか。私はそうは思わない。 (六七三節) 私が間違えることはありえない、と正当に主張できるような場合がいくらもあり、それらはまたいくつかの特定のタイプに分れる。そしてム ー アは、そうした事例の若干を提示したのであった。/私にしても、典型的な場合をいくつも挙げることができるが、それらに共通する特徴を 示す こ と は で き な い。 ( 某 氏 は、 自 分 が 数 日 前 に ア メ リ カ か ら イ ギ リ ス に や っ て 来 た と い う こ と に つ い て、 間 違 え る は ず が な い。 そ れ 以 外 を 可 能 と 見 做すようなら、彼の頭はよほどいかれているのである。 )(六七四節) 数日前に自分は飛行機でアメリカからイギリスに来た、と誰かが信じていれば、私も、彼がそれについて 間違えている 4 4 4 4 4 4 はずはないと信じる。/ 自分は今机に向かって書きものをしている、と誰かが言う場合も同様である。 (六七五節) ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン に よ る こ の 日 の 書 付 は、 い っ さ い 推 敲 さ れ て い な い。 そ の ま ま の 思 索 が 提 示 さ れ て い る。 推 敲 す る 時 間 が あ れ ば、 最 終 的 に、 彼 は ま っ た く 違 う こ と を 書 い た 可 能 性 も あ る。 し か し、 ポ イ ン ト は、 絶 筆 と な る 数 行 前 ま で、 彼 は「 間 違 え る は ず の な い も の 」「 確 実 な る も の 」 も の の位置づけをしようとしていたことである。揺れ動きながらも、彼は「間違えるはずのないもの」 「確実なるもの」を求めていたのである。 ところで、 ウィトゲンシュタインは六七四節では「某氏」といい、 六七五節では「誰か」という。しかし、 これは彼自身のことではないか。なぜなら、 少し前にアメリカのマルコムところに行ってイギリスに帰ってきたのは彼自身だし、 「今机に向かって書きものをしている」のも彼自身だからである。 そ こ で、 六 七 五 節 を ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 自 身 に あ て は め れ ば、 「 自 分 は 今 机 に 向 か っ て 書 き も の を し て い る、 と 私 が 言 う 場 合 も 間 違 え て い る は ず がない」と彼は「信じ」ているのである。言いかえれば、 彼は死を前に 4 4 4 4 4 4 、 自分が机で書き物をしていることを 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 「 確実 4 4 」 だとしたのである 4 4 4 4 4 4 4 4 。現在、筆者 はそうした状況にいるわけではないが、将来的に死を目前にすれば、 「確実な」事柄を確信しながら/「確実な」世界に自分は生きたと確信しながら、 七

(8)

大正大學研究紀要   第九十四輯 「死にたい」と思うようになる気がしてならない。 ムーア命題の特徴 ウィトゲンシュタインの『確実性』はムーアの命題/主張との格闘である。まず、ムーアの挙げた命題とはどういうものかを、見ることから 始めよ う。くり返しになるが、 彼があげた命題とは、 「ここに手が一つあり ― ― もう一つの手がここにある」 「大地は私の誕生のはるか以前から存在していた」 などというものであった。 ウィトゲンシュタインは 「そもそも実生活において、ここに手があるということ(それも私自身の手があるということ)を ことさらに確かめる場合があるだろうか」 (九節)と問いかけるが、そうした命題の正しさを確かめる場合など、 ない 4 4 のである。また、 「大地が存在す るということは……私の信念の出発点になっている全体的な 像 4 ( Bild )の一部なのである」 (二〇九節) 。 ウィトゲンシュタインの言葉でムーアの命題を要約すると、 「ムーアが知っていると主張する真理は、 彼がそれを知っているのならわれわれも皆知っ ている、と言って差支えないような真理」 (一〇〇節)であり、 「ムーアが選んだのは、皆がムーア同様に知っており、しかもどうやって知るかを述べ ることができないような場合〔=命題〕 」(八四節)なのだ。 さらに、ウィトゲンシュタインは次のように論じる。 そ こ に 手 が あ る こ と を ム ー ア が 4 4 4 4 知 っ て い る、 と い う こ と が 問 題 な の で は な い。 も し も ム ー ア が、 「 私 が い ま 間 違 え て い る と い う こ と も 勿 論 あ り う る 」 と 言 っ た と す れ ば、 こ れ は わ れ わ れ に と っ て、 ま っ た く 理 解 不 可 能 で あ る。 問 題 は そ こ に あ る の だ。 わ れ わ れ は こ う 問 う だ ろ う。 「 そ れ は 一体どんな誤謬なのであろうか。 」 ― ― 例えばそれが誤謬であることはどのようにして発見されるのか、と。 (三二節) ムーアが「 知っている 4 4 4 4 4 」ことを述べる諸命題は、ことごとく、その反対を信じる 理由 4 4 を想像するのが困難な命題である。例えばムーアは生涯を 大地からほとんど離れることなく過ごした、という命題のように。ここでも私は、ムーアでなく自分自身のこととして語ってよい。その反対 を私 に信じさせるようなものがあるだろうか。 〔ない。 〕記憶であろうと、ひとの言葉であろうと。 ― ― 私が見聞したことすべては、大地から遠く離れ て存在した人間は〔い〕ないことを確信させる。私の世界像にはその反対を信じさせるようなものは含まれていない。 (九三節) 一言でいうならば、 ムーアの挙げた命題は、 われわれが誰でも知っており(一〇〇節、 八四節) 、 間違いである可能性を免れている(三二節、 九四節) ような命題なのだ。そして、こうした諸命題がわれわれの「世界像( W eltbild )」を構成しているのである。 たしかに、 ウィトゲンシュタインには、 「知識」の対象になるものは「間違える可能性」がなければならない、 という主張がある。しかし、 右の「知識 」 八

(9)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む は、真理と虚偽、正しいことと間違ったことなどを超越しており、それらの区別を支えるものであり、われわれが端的に引き受けるべきもの である。 数学と経験世界 ウィトゲンシュタインは 『確実性』 全体において、 数学/算数や記号論理学という抽象的な論議領界でのことを問題にしているのでは ない 4 4 。「手」 や「大 地」などのような、生活と密接にかかわる事柄についての命題が考察の中心である。 しかし、ウィトゲンシュタインは、数学などの経験とはかけ離れたように見えるものですらも、経験の世界と接続させようとしている。数学 や論理 学の領域での話と、われわれの経験の世界を直結させようというのである。すなわち、それらも、われわれの経験世界の中で伝達・習得され たものな のだ。その過程は、まさしく経験にほかならない。そしてそのうえで、数学や算数の命題とムーア流の経験命題とを、ともに「確実なもの」 とするの である。 われわれは計算の 本質 4 4 を、計算の仕方を学ぶことを通じて知ったのだ。 (四五節) 私は ((× ((= 1 44を間違えるはずがない。ところでわれわれは、もはや 数学的な 4 4 4 4 確実性を経験命題の相対的な不確実性と対比するわけにはい か な い。 何 故 な ら、 数 学 的 な 命 題 は 一 系 列 の 行 動 を 通 じ て 得 ら れ た も の で、 そ れ ら の 行 動 は、 ほ か の 生 活 的 な 営 み と 少 し も 違 っ た も の で は な く、 同じように忘却や、見落しや、錯覚の危険に曝されているからである 。(六五一節) ((× ((= 1 44という式が疑いのそとにあるとすれば、非・数学的な命題についても同じことが認められねばならぬ。 (六五三節) …… 算 数 の 命 題( 例 え ば 九 々) が「 絶 対 に 確 実 」 で あ る こ と を 不 思 議 に 思 う ひ と は い な い の に、 「 こ れ が 私 の 手 で あ る 」 と い う 命 題 が 同 様 に 確 実であると言われて、どうしてそんなに驚かなければならないのか。 (四四八節) 論理学的命題 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は、 先 の 例 の よ う な 具 体 的「 経 験 命 題 」( つ ま り「 こ こ に 手 が 一 つ あ り ― ― も う 一 つ の 手 が こ こ に あ る 」 と い う 類 の 命 題 ) に あ る 種 の「 論 理( 学 ) 的 」 地 位( 「 蝶 番 」 の よ う な 地 位 ) を 与 え よ う と し て い る。 す な わ ち、 そ う し た 命 題 に わ れ わ れ が 生 き て い く と き の 枠 組 み / 世 界像を構成するような地位をあたえようというのだ。ドアがわれわれの生活だとすると、そのドアを支えている蝶番にあたるものが、ある種 の論理学 的 地 位 を も っ た ム ー ア 流 の 諸 命 題 で あ る。 こ れ ら の 命 題 が 成 立 し な い と な れ ば( 蝶 番 が 壊 れ た と す れ ば )、 わ れ わ れ の 生 活 は な り た た な い( ド ア は き ちんと機能しなくなる) 。 「 論 理( 学 ) 的 」 と い う の は 文 脈 に よ っ て 変 わ る が、 基 本 的 に「 疑 い の 対 象 か ら 除 外 さ れ て い る 」 と い う こ と で あ る。 問 題 の 本 質 は、 ム ー ア 流 の 命 九

(10)

大正大學研究紀要   第九十四輯 題の中に 「われわれが絶対に確かだと見なすべきものがある」 (一一二節) という点である。このことについて、 ウィトゲンシュタインは次のように語っ ている。 か く か く の こ と を 知 っ て い る 4 4 4 4 4 、 と 言 っ て ム ー ア が 枚 挙 す る 命 題 は、 わ れ わ れ が 特 別 な テ ス ト を し な い で 肯 定 す る よ う な 経 験 命 題 ば か り で あ る。 つまり、経験命題の体系の中で一種の論理的な役割を演じる命題に限られている。 (一三六節) ……われわれが立てる 問題 4 4 と 疑義 4 4 は、ある種の命題が疑いの対象から除外され、問や疑いを動かす蝶番のような役割をしているからこそ成り立 つのである。 (三四一節) 「 こ の 計 算 に 間 違 い な ど あ る は ず は な い 」 と い う の は ど ん な 種 類 の 命 題 か。 論 理 学 的 な 命 題 と 言 わ ざ る を え な い だ ろ う。 だ が そ れ は〔 自 明 で あ るがゆえに〕用いられることのない論理学である。 (五一節) 例えば、 「地球が最近一〇〇年間存在していた」ことについて、私が誤まりの可能性を認めた語り方をすれば、 「それによって〈誤謬〉と〈真理〉が われわれの生活の中で演じている役割が変ってしまう」 (一三八節)のである。ある種の経験命題が、疑いの可能性を免れ、 「真であることが、われわ れ が 依 拠 す る 枠 組 の 一 部 を な し て い る 」( 八 三 節 )。 「 こ の〔 地 球 は 遥 か な 昔 か ら 存 在 し て い た と い う 〕 命 題 は、 わ れ わ れ が 営 む 言 語 ゲ ー ム の 体 系 全 体 の基礎にあたるものである。この想定は行動の基盤であり、したがって当然思考の基盤でもある、と言える」 (四一一節) 。 こ う し た ム ー ア 流 の 経 験 命 題 は、 心 理 的 に も 4 4 4 4 4 確 実 / 自 明 で な く て は な ら な い だ ろ う。 そ う で な け れ ば、 わ れ わ れ が 生 き て い く た め の 枠 組 み / 世 界 像が揺らいでしまい、われわれは安心して生活できないことになる。それゆえ、 「ここに手が一つあり ― ― もう一つの手がここにある」という命題は、 わ れ わ れ の 生 活 の な か で あ る 種 の 確 固 た る「 論 理 学 的 確 実 さ 」 を も つ と 同 時 に、 「 心 理 的 な 確 実 さ 」 を も つ / も た ざ る を え な い、 と は い え な い か。 そ して、 ウィトゲンシュタインはそうした命題に対してすなおに 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 「 心理的な確実さ 4 4 4 4 4 4 4 」 を感じることができなかったのではないか 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 だからこそ 4 4 4 4 4 、 その不安 4 4 4 4 を克服するために 4 4 4 4 4 4 4 4 、 死に至るまで執拗に 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 そうした命題と格闘したのではなかったか 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 「論理」と「心理」の問題 「はじめに」でも書いたが、 以上のような「論理(学)的確実さをもった命題」と「心理(学)的確実さをもった命題」とは異なる。ウィトゲンシュ タイン自身もこの二つを混同することを戒めている。そのことは、例えば、次のような節に反映されている。 一〇

(11)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む 「この判断を疑うくらいなら、私は一切の判断を放棄しなければならぬ。 」/だがそれは一体どういう判断なのか。……それは……心理学に属す るものではない。むしろ規則の性格をもっている。 (四九四節) 「知識」と「確実性」は異なった カテゴリー 4 4 4 4 4 に属する。それは……ふたつの精神状態ではない。……今われわれが問題にしているのは、 〔心理的 な 〕 確 実 性 で は な く て 知 識 で あ る。 お よ そ 判 断 な る も の が 可 能 で あ る た め に は、 〔 心 理 状 態 と は 関 係 な く 〕 あ る 種 の 経 験 命 題 は ま っ た く 疑 い を 免 れていなければならない、ということが大切なのだ。 (三〇八節) あることが確実である、とわれわれが言うのはどういう場合か。/それが確実で ある 4 4 かどうかは議論の対象となりうる。 客観的に 4 4 4 4 確実という意 味であるならば。/われわれが確実と見なしている〔ムーア流の命題のような〕一般的な経験命題が無数に存在する。 (二七三節) ……われわれが表現しようとするのは主観的な確信ではなく、最強の確信ですらない。ある種の命題が、あらゆる疑問、あらゆる思考の根底 を なすように見えるという、そのことを言おうとするのである。 (四一五節) しかしながら、 論理的なものと心理的なもの 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 / 知識と確実性との峻別は微妙である 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 たとえば、 先に引用した四一五節には「われわれが表現しようとするのは主観的な[心理的な]確信ではなく、 最強の確信ですらない」とあったが、 この文章の前には、実は次のようにも書かれているのだ。 ……「 知 る 」 と い う 言 葉 は 哲 学 的 な 用 途 を も つ の に、 「 確 信 す る 」 の 方 は そ う で な い の は な ぜ か。 あ き ら か に、 そ れ で は あ ま り に 主 観 的 に な り す ぎ る か ら だ。 し か し 知 る こ と も 同 様 に 4 4 4 主 観 的 で は な い の か。 「 私 は pを 知 っ て い る 」 か ら は「 p」 が 帰 結 す る と い う 文 法 上 の 特 徴 に、 わ れ わ れ が惑わされているだけなのではないか。 「知る」ことも「確信する」ことと「 同様に 4 4 4 主観的」である可能性は否定しきれないのである。次に二四五節を見てみよう。 …… 私 が 何 か を 知 っ て い る、 と い う こ と は 主 観 的 な 確 実 性 と は 違 う。 主 観 的 な の は あ く ま で も 確 実 性 の 方 で( Subjektiv ist die Gewißheit )、 知 識 で は な い。 し た が っ て 私 が、 「 私 に 両 手 が あ る こ と を 私 は 知 っ て い る 」 と 自 分 に 言 い 聞 か せ、 し か も そ れ に よ っ て 主 観 的 な 確 実 性 を 越 え た も のを表現しようとするのなら、私の正しさを私自身に納得させることができなければならぬ。しかしそれは不可能だ。なぜなら私に両手があ ると いうことは、両手を見詰める前にすでに確実なことであり、見詰めたからといって確実性に変りがあるわけではない〔からだ〕 。にもかかわらず、 一一

(12)

大正大學研究紀要   第九十四輯 「私に両手がある、というのは絶対に揺がぬ信念( unumstößlicher Glaube )である」と言って差支えないはずだ。 (二四五節、傍点引用者) 問題にしたいのは、最初の二つの文章と最後の文章である。まず、最初の二つの文章からは、そもそも『確実性』で議論している「確実性」 は「主 観 的 な も の で あ る 」 と い う こ と が わ か る。 ま た、 最 後 の 文 章 か ら は、 「 私 に 両 手 が あ る 」 と い う 主 観 的 で は な い 知 識 は、 同 時 に、 主 観 的 な「 絶 対 に 揺 るがぬ信念」でもあるということがわかる。 さらに、 一七四節では「私は 絶対の 4 4 4 確信をもって行為する。しかしこの確実性は私だけのもの〔主観的なもの〕なのだ(

diese Gewißheit ist meine

eigene )」 と 明 言 さ れ て い る。 そ の「 確 信 」 は 何 に 対 す る 確 信 か と い う と「 知 識 」 に 対 す る 確 信 で あ る。 「 私 に 両 手 が あ る 」「 地 球 は 遥 か な 昔 か ら 存 在 し て い た 」 な ど と い う 知 識 は、 誰 も が 認 め る も の で あ っ た。 し か し、 そ の 知 識 の 確 実 性 は「 私 だ け の も の 」、 つ ま り、 個 人 的 な も の、 主 観 的 な も の だ というのである。 少々強引な解釈かもしれないけれども、以上のような引用から判断して、ウィトゲンシュタインは、論理学や知識論上の確実性と心理や主観 とかか わる確実性とを峻別しようとしたが、そこには彼の 揺らぎ 4 4 4 も垣間見える。すなわち、 前者には後者が付きまとい 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 両者を峻別することは 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 それほど簡 4 4 4 4 4 単なことではない 4 4 4 4 4 4 4 4 のだ。 「疑い」は「疑いえないもの」に支えられている ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン い わ く、 「 す べ て を 疑 お う と す る 者 は、 疑 う と こ ろ ま で 行 き 着 く こ と も で き な い だ ろ う。 疑 い の ゲ ー ム は す で に 確 実 性 を 前 提 している」 (一一五節) 。 私 に 両 手 が あ る こ と を、 今 の 今、 疑 う と し た ら ど う だ ろ う。 「 両 手 の 存 在 を 疑 う と し た ら、 私 は そ れ 以 外 の 何 を 信 じ る と い う の か。 私 に は こ の 疑 い に場所を与えるような体系の持ち合せがないのである」 (二四七節) 。どこをどう見回しても、 「私に両手があること」を疑う根拠を見出せない(一二三 節 参 照 )。 と に か く、 私 は ど こ か で 信 用 す る こ と を 始 め な け れ ば な ら ぬ の で は な い か。 つ ま り、 「 ど こ か で 疑 い を 遮 断 し て 事 を 始 め な け れ ば な ら な い。 これは恕すべき軽卒さといったものではなく、判断作用そのもののありかたなのだ」 (一五〇節) 。 「疑いの欠如がその 〔疑いという〕 言語ゲームの本質に属」 (三七〇節) する。疑わない振る舞いが存在するところにのみ、 疑う振る舞いがあり (三五四 節参照) 、「疑いえないものに支えられてこそ疑いが成立するのである」 (五一九節) 。「 〈あらゆる理性的な疑いを超越した確実性〉 」(四一六節) 。 ムーア流の命題を疑って何になろう。それらを疑うとしても、それはわれわれの生活に実際的な結果をもたらさない。疑ったからといって、 それま での生活が変わるわけではないのだ。ウィトゲンシュタインは懐疑論者を一蹴してこういう ― ― 「疑うことで何の違いも生じないのなら、好きなよう に疑わせておけばよいのではないか」 (一二〇節) 。 一二

(13)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む 行動と疑いの欠如 「 疑 い の 欠 如 」( こ の 表 現 は け っ し て 悪 い こ と を 意 味 す る の で は な い ) と い う の は、 「 私 に は 両 手 が あ る 」 と い っ た 知 識 に お い て の み な ら ず、 わ れ わ れの行動のいたるところで現われている。ウィトゲンシュタインは次のような例を挙げている。 〔 わ れ わ れ は 毎 日 ド ア を 開 け 閉 め す る が、 そ の さ い、 ド ア の 存 在 を 疑 う こ と な く 端 的 に ド ア を 開 け 閉 め し て い る。 〕「 私 が 君 を 呼 ん だ ら、 ド ア を 開けて入って来てくれたまえ」という言語ゲームを想像してみよ。普通の場合なら、そこに本当にドアがあるかどうか、と疑うことは不可能 であ る。 (三九一節) 私が実験を行なう場合、 眼前の実験器具の存在を疑うことはしない。 私が疑うことはいくらもあろうが、 それ 4 4 を疑うことはしないのだ。 (三三七節) 〔われわれはほとんど毎日計算をしているが、計算の仕方の妥当性について考えることはない。 〕 これ 4 4 が計算の仕方であり、こういう状況では計 算を無条件に確かなもの、絶対に正しいものとして 取り扱う 4 4 4 4 。それだけだ。 (三九節) 私はなぜ、椅子から立ち上がろうとするとき自分にまだ両足があるかどうか確かめようとしないのか。理由はない。そうしないだけのことで あ る。それがすなわち行動である。 (一四八節) 総 じ て、 「 わ れ わ れ が 或 る 信 念 を 拠 り ど こ ろ に し て 安 心 し て 行 動 す る と い う 事 実 が あ る 以 上、 わ れ わ れ の 疑 い え ぬ こ と が 数 多 く 存 在 す る こ と に 何 の 不思議があるだろうか」 (三三一節)ということになる。そして、多くの行動について、 「いささかの疑いもまじえず確信的に行動するであろうという こと、 これだけは間違いのないことである」 (三六〇節) 。さらに、 「言語ゲームの根柢になっているのは……われわれの営む行為こそそれ」 (二〇四節) なのであり、 「われわれの信念に根拠がないことを洞察する、これが難しいのだ」 (一六六節) 。 世界像・言語ゲームの変化 確 実 な も の、 自 明 な も の は、 絶 対 に 変 わ ら な い の だ ろ う か。 こ の 点 に つ い て は、 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は 微 妙 で あ る。 彼 い わ く、 「 言 語 ゲ ー ム と い うものは時とともに変化する」 (二五六節) 。さらに、次のようにも言われる。 私〔ウィトゲンシュタイン〕は英国にいる。 ― ― 周囲のすべては私にそう告げる。私の思考をどうさまよわせ、どこまで転がしてみても、その 一三

(14)

大正大學研究紀要   第九十四輯 真理は動かない。だが私が今夢想だにしないような事どもが生じたとしたら、私はやはり迷うのではなかろうか。 (四二一節) まったく前代未聞のこと 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 が起こったとしたらどうだろう。例えば家々がはっきりした原因もなく次第に蒸発してしまう。あるいは牧場の動物が 逆立ちをし、ほほえみ、人語を発する。あるいは立ち並ぶ樹木が次々に人間と化し、逆に人間は樹木に変る。こうした奇怪事をすべて目撃し なが ら、 私 が な お も、 「 私 は あ れ が 家 だ と い う こ と を 知 っ て い る 」 等 々、 あ る い は 単 に あ れ は 家 で あ る 等 々 と 言 っ た と し て も、 私 は 正 し い こ と に な る であろうか。 (五一三節) こうした箇所を読めば、ウィトゲンシュタインは世界像命題が変化する可能性を認めていた、ないし、 世界像命題といえども揺らぐことがあるとい 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 う 不 安 を か か え て い た 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 と も い え る。 だ が、 彼 は、 そ の 可 能 性 を 感 じ な が ら も、 そ う し た 命 題 が 変 化 し な い ほ う に 賭 け て い た 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 の で は な い か。 そ れ は、 右の五一三節につづく五一四節や五一六節で示唆されている。 この言明〔 「あれは家である」等々〕こそ私には根本的なものと見えた。これが偽であるとすれば、 「真」とは、また「偽」とは、そもそも何で あるのか。 (五一四節) 私に自分の名〔L・ W 〕を疑わせるために、何事かが演出された(例えば誰かが私に何かを告げるとか)としよう。その場合、疑いの根拠その ものを疑わしく思わせるものも必ず存在するはずである。したがって私は、これまでの信念を固持する方に決断してよいわけである。 (五一六節) 五一六節に関連して、次のような連鎖を想定できるだろう。①世界像命題が肯定される→②世界像命題を疑わせる論拠が主張される(このと き世界 像命題は否定される)→③世界像命題を疑わせる論拠を疑わせる論拠が主張される(このとき世界像命題は肯定される)→④世界像命題を疑 わせる論 拠 を 疑 わ せ る 論 拠 を 疑 わ せ る 論 拠 が 主 張 さ れ る( こ の と き 世 界 像 命 題 は 否 定 さ れ る ) ……。 こ う い う 事 態 が 延 々 と つ づ く の で あ れ ば、 「 こ れ ま で の 信 念を固持する方に決断してよい」のである。さらに、ウィトゲンシュタインは次のように語っている。 ……「 世 界 に 何 が 生 じ よ う と、 私 の 確 信 を く つ が え す こ と は で き な い。 」 こ の 事 実 は 私 に と っ て、 あ ら ゆ る 認 識 の 基 礎 な の で あ る。 ほ か の 事 な ら取り消すこともあろうが、この事実はべつである。 (三八〇節) さらに、体調も悪化の一途をたどっていただろうと推測される、絶筆の前日(死の三日前)には、次のような強い意志の表明が見られる。 一四

(15)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む ……現に私が間違えているにしても、私には、 「こんなこと私が間違えるはずはない」と主張する権利がある。 (六六三節) エリクソンの「ベイシックトラスト」とウィトゲンシュタインの「子供」 『確実性』には、われわれが確実だとする命題はわれわれに先立つ人たちから受け継いだものである、ということが述べられている。たとえ ば、 「こ れ ら〔 地 球 が 私 の 誕 生 の 遥 か 以 前 か ら 存 在 す る な ど 〕 の 知 識 の 総 体 は 私 に 伝 承 さ れ た も の で あ る 」( 二 八 八 節 )、 「 わ れ わ れ に は 何 か が 基 礎 と し て 教 え られなければならない」 (四四九節)などと。 このことと関連して、 『確実性』では「子供」という言葉が頻繁に使用される。周りの大人が子供にさまざまな知識(世界像命題)をあたえるのだ。 ところで、 エリクソンは「ベイシックトラスト」 (基本的信頼)という概念を創出したが、 幼少期に自分の回りの世界や他者にたいする「基本的な信頼」 が醸成されなければ、 将来その子供にはなんらかの支障があらわれる、 という。筆者には、 ウィトゲンシュタインとエリクソンの言っていることとが、 どこかで結びつくような気がする。すなわち、 『確実性』の一部は、 子供にベイシックトラストが植えつけられる様子を述べているような気がするのだ。 わ れ わ れ は 子 供 に「 そ れ は 君 の 手 だ 」 と 教 え、 そ れ は 多 分〔 あ る い は〈 蓋 然 的 に 〉〕 君 の 手 だ 」 と は 教 え な い。 子 供 は 彼 の 手 に 関 係 の あ る 無 数 の言語ゲームをそのようにして学ぶのである。 「これは本当に手なのか」という探究や疑問は、彼の思いも及ばぬところである。 (三七四節) 子供は、その〔話題になっている〕山がはるか昔から存在していたことなど、 まったく 4 4 4 4 学ばない。本当にそうかどうか、という問は決して生ま れない。子供は、いわば、自分が 学ぶこと 4 4 4 4 と一緒にこの帰結も呑みこんでしまうのだ。 (一四三節) 子供の頃、われわれはさまざまな事実を学び、それを信じる。例えば誰でも脳をもっているということ、濠州大陸が存在し、その形はしかじ か であるということ、私には曾祖父母があるということ、私の両親と称している人たちが実際に私の両親であるといったことなどである。こう いう 信念がまったく言葉にあらわされず、そうした事どもについて一度も考えたことがなくても差支えはない。 (一五九節) 子供は大人を信用することによって学ぶ。疑うことは信じることの あとに 4 4 4 来る。 (一六〇節) 私は子供の時から、判断の仕方をこうして学んできた。 これがすなわち 4 4 4 4 4 4 4 判断である、と。 (一二八節) 私は判断するすべをそのようにして学んだ。 それ 4 4 がまさに判断である、と覚えこんだのだ。 (一二九節) 以上は、普通の子供が種々の知識や体験を身につける仕方である。しかしながら、すなおにそれらが身につかない場合もあるだろう。その場 合に対 して、 「精神障礙」/「錯乱状態」 ( Geistesstörung )、 「狂気の沙汰」 ( W ahnsinn )という表現が使用されることがある。 一五

(16)

大正大學研究紀要   第九十四輯 人間はある状況においては決して誤ることができない。……もしもムーアが、彼が確実であると宣言する命題の反対を言うとしたら、われわ れ は同意しないばかりでなく、彼は錯乱状態に陥っているのだと考えるであろう。 (一五五節) ある日突然私の友人が、これまで長い間〔現在住んでいる場所とは異なる〕しかじかの場所で暮してきた、といった類のことを想像するよう に なったとしたら、私はそれを 誤謬 4 4 とは呼ぶまい。多分一過性の精神障礙であると見なすであろう。 (七一節) 私 4 L・ W は、友人の身体や頭に鋸屑が詰まってはいない、と信じて疑わない。……それを疑うことは狂気の沙汰としか思えない。 (二八一節) 疑う余地のない命題に対して反論しようとする者には、 「馬鹿げている」 と言うだけでよいだろう。 つまり答えるのではなく、 正気づけてやるのだ。 (四九五節) こうした節を読むと、ひょっとしたら、 ウィトゲンシュタイン自身が自分の一側面を意識しながら述べているのではないか 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、という気にもなる。す なわち、前述したように、 彼には世界像命題を全面的には肯定できなくなる心理状態に陥るような時があり 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 右のような文章を書くということは 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 そ 4 こに没入しないための方策ともとれる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 わけだ。確実なる命題を疑うことは、 「精神障礙」 「錯乱状態」 「狂気」なのであり、 その状態に陥ってはならない 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 と自分に言い聞かせている 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ウィトゲンシュタインの姿が筆者の目には浮かぶ。

おわりに

冒頭で、ブランケンブルクの『自明性の喪失』に言及した。 「分裂病は、とりわけ 人間的な 4 4 4 4 病気であるように思われる」 (傍点原著 者 ((( ( ) というブラン ケ ン ブ ル ク は、 「 コ モ ン・ セ ン ス〔 常 識 〕 と い う の は そ れ が 月 並 み で き わ め て 自 明 な も の で あ る と い う 点 に 目 を う ば わ れ て、 と か く あ ま り に も 見 逃 さ れ 易 い が、 哲 学 的 に も 経 験 的 に も 非 常 に 注 目 す べ き、 独 特 の 基 底 的 な 機 能 で あ る ((( ( 」 と い う。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン も 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 ア ン ネ・ ラ ウ の よ う に、 「 常 識 4 4 / 日常性の病理 4 4 4 4 4 4 」 を病んでいたのではないか 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 。 そ の ラ ウ は、 「 道 筋 」「 考 え か た 」「 枠 組 」 な ど と い う 言 葉 を 用 い て、 人 生 に 処 し て い く た め に 必 要 な も の を 表 現 し て い る。 ラ ウ は 次 の よ う に 語 っ て いる( 《  》内がブランケンブルクが引用したラウの言葉) 。 一六

(17)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む 《 だ れ も が な に か し ら 道 筋 を、 考 え か た を も っ て い ま す。 そ ん な ふ う に 大 き く な っ て き て、 性 格 を も っ て、 そ ん な ふ う に 育 て ら れ て。 …… ほ か の人たちはそういうことで行動しているんです。そしてだれもがともかくもそんなふうにおとなになってきたのです。考えたり、行動の仕方 を決 めたり、 態度を決めたりするのも、 それによってやっているんです……》 。それが 《毎日の、 いいえ毎日の暮しではなくて、 人生 4 4 そのものが わかりきっ 4 4 4 4 4 て い る 4 4 4 と い う こ と 》 な の で あ る。 《 大 人 に な っ た 人 な ら、 大 き く な る と き に そ れ も い っ し ょ に 4 4 4 4 4 身 に つ け て 大 き く な っ て く る ん で す。 そ う い う と き には、それが自然と身につくのです。あたりまえのこととそうでないこととが、ちゃんとわかるようになるのです。私にとっては、そんなこ とは どこか遠い遠い世界の話みたいです。私はなにもかも、 まずもって 4 4 4 4 4 頭で考えてみなくてはならないのです。ほかの人のようにいろいろのことを感 じ る こ と が で き る の は、 ず っ と ず っ と 先 の こ と な の で す 》。 ……《 人 生 と い う の か …… そ れ は い つ も な に か こ う 枠 組 4 4 ( Rahmen ) と い う の か、 そ んなものの中で動いているのです》 。(どんな枠組の中で?) 《それがわからないのです。その場その場で、 まるっきり態度を変えなきゃなりません。 ……それが私にはまるでわからないので す ((( ( 》。 ラウは日常の共同生活を規定している暗黙の前提 (「道筋」 「考えかた」 「枠組」 などと訳されているものとほぼ同じと考えてよい) を 〝 Spielregeln 〟 (規則、 規定、 決まり)と呼ん だ ((( ( 。その一方で、 ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は〝 Sprachspiel 〟であり、 それと関連付けて議論される「規則」 は 〝 Regel 〟 である。辞書でみるかぎり、 〝 Spiel 〟 には、 「生きること」 という意味はなさそうだ。しかし、 ラウやウィトゲンシュタインの 〝 Spiel 〟 には、 辞 書 的 意 味 を 超 え て、 「 生 き る こ と 」 と い う 意 味 合 い が 濃 い。 筆 者 は、 言 語 ゲ ー ム を プ レ イ す る こ と は、 生 き る こ と そ の も の だ と 考 え て い る。 生 き る ための前提となるもの、 普通の生を営ませるもの、 それが〝 Regel 〟ではないの か ((( ( 。厳密な考察が必要であり、 即断はさけるべきだとしても、 筆者は、 こうしたところにも、ラウとウィトゲンシュタインが共通して求めていたものを感じる。 ラウが喪失して求めたもの、ウィトゲンシュタインが喪失はしなかったがそれをめぐって苦闘したもの、それはおそらく共通のものである ― ― 「自 明 な る も の 」「 確 実 な る も の 」 だ。 そ し て、 そ れ は ま た、 わ れ わ れ 人 間 が 暗 黙 の う ち に、 無 意 識 に 前 提 し て い る も の で あ り、 わ れ わ れ の 生 を 根 底 か ら 支えているものである。これを失うと、われわれは普通の生活ができなくなる。そうだとすれば、ラウとウィトゲンシュタインという、通常 の人間と は異質な感覚を身につけた二人の言葉は、われわれにとってもっとも身近なものでもっとも重要なものについての言葉だということになる。 最後に、前に引用したウィトゲンシュタインの『哲学探究』の言葉をふたたび引用して、本稿を終えたい。 …… わ れ わ れ に と っ て も っ と も 重 要 な も の ご と の 様 態 は、 そ の 単 純 さ と 平 凡 さ に よ っ て 隠 さ れ て い る。 ( ひ と は こ の こ と に 気 づ か な い、 ― ― そ れがいつも眼前にあるからである。 ) 一七

(18)

大正大學研究紀要   第九十四輯 註 (() ・ ブ ラ ン ケ ン ブ ル ク『 自 明 性 の 喪 失 ―― 分 裂 病 の 現 象 学 』 木 村 敏 ほ か 訳、 み す ず 書 房、 二 〇 〇 三 年。 ( W olfgang Blankenburg (( (( () D er V erlu st d er n atü rlic hen Se lbs tve rstä nd lich kei t: E in B eitr ag zu r psy cho pa tho log ie s ym pto ma rm er S chiz oph ren ien . S tu ttg ar t: Fe rd in ad E nk e Verlag. ) (()同訳書、五八頁、八三頁、参照。 (()L・ ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン『 確 実 性 の 問 題 』( 「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 全 集 第 九 巻 」 所 収 ) 黒 田 亘 訳、 大 修 館 書 店、 一 九 七 七 年。 ( Ludwig Wittgenstein ((((( ) Über Gewißheit . G.E.M. Anscombe and G.H.von Wright (Eds.). Oxford: Basil Blackwell. ) 引 用 箇 所 は 本 文 に お い て 節番号で示す。なお、 本文では、 『確実性の問題』ではなく、 原題の『確 実性について』としている。 (()T・ モ ラ ウ ェ ッ ツ『 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン と 知 ― ― 『 確 実 性 の 問 題 』 の 考 察 』 菅 豊 彦 訳、 産 業 図 書、 一 九 八 三 年。 ( Thomas Morawetz (( (( () W ittg en ste in a nd K no wle dg e: T he Im po rta nce of O n C er ta in ty .

Massachusetts: The University of Massachusetts Press.

) (()鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた ― ― 哲学的思考の全軌 跡 (((( -(((( 』 講談社、 二〇〇三年。その第五部 (三三七~四一七頁) には『確実性』のテキストの成り立ちやその内容についての詳しい論 考がある。 鬼 界 氏 に よ れ ば、 『 確 実 性 』 は 第 一 部 か ら 第 四 部 ま で に わ け ら れ、 そ の「 内 部 構 造 」 は 重 要 で あ る( 三 四 六 頁、 参 照 )。 ま た、 た し か に どのようなテキストでも 「文脈」 というのは大切である。 だがここでは、 テキストの「内部構造」は無視して、諸節をいったんばらして、そこ から議論を再構成したい。すなわち、何度もくり返される議論、ウィ トゲンシュタインの頭から離れなかった議論を拾っていきたい。 (()ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン は 四 歳 こ ろ ま で 言 葉 を 話 さ な か っ た ら し い が、 彼 の 幼 少 期 に つ い て は あ ま り 知 ら れ て い な い。 こ の こ と に つ い て は、 次 の 文 献 を 参 照 の こ と。 R・ モ ン ク『 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 1 ・ 2』 岡 田 雅 勝 訳、 み す ず 書 房、 一 三 頁、 一 九 九 四 年。 ( Ray Monk (((( 0) Ludwig Wittgenstein: The Duty of Genius . New York: The Free Press. )本 稿の主題が「ウィトゲンシュタインのベイシックトラスト再獲得の過 程」とはいえ、彼が幼少期にベイシックトラストを身につけたか否か は、 詳しい資料がないので、 ここでは問題としていない。 おそらく彼は、 幼少期にベイシックトラストを身につけただろう。しかし、彼はその 生涯の最後の段階で、その種の確実性をふたたび求めたと思われる。 (()鬼界、前掲書、三四四頁。 (()N ・マルコムほか『回想のヴィトゲンシュタイン』藤本隆志訳、法政 大学出版局、 一六六頁、 一九八九年、 参照。 ( Norman Malcolm ( (((( ) Ludwig Wittgenstein: A Memoir, with a Biographical Sketch by G.H. von Wright . London: Oxford University Press. )そこにあるウィトゲンシュタイ ンの書簡には、 次のように書かれている。 「異常なことが起こりました。 一月ほど前、わたしは突然、自分が哲学をするのにふさわしい心の状 態にあることを発見しました。自分が二度と再び哲学できないことは 絶対にたしかだと思っていました。二年以上もたってはじめて、わた しの頭の中にかかっていた幕があがったのです。……現在このことが わ た し を 大 い に 元 気 づ け て く れ る の で す 」。 ま た、 彼 は「 常 に 起 伏 を 一八

(19)

ウィトゲンシュタインの『確実性について』を心理学的視点から読む くり返しているある種の弱さを別にすれば、わたしは最近非常に気分 がよい」とも述べている。 (()飯田真・中井久夫『天才の精神病理 ― ― 科学的創造の秘密』中央公論 社、一五二頁、一九九三年。 ((0)新宮一成『無意識の病理学』金剛出版、一九八九年。引用は次の文献 に よ る。 内 海 健「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン ― ― 零 度 の 狂 気 」『 「 分 裂 病 」 の消滅 ― ― 精神病理学を超えて』青土社、二〇三頁、二〇〇三年。 ((()飯田・中井、前掲書、一五一頁。 ((()ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』坂井秀寿訳、 法政大学出版局、 五 ・ 五 五 六 三、 一 九 七 六 年。 ( Ludwig Wittgenstein ((((( ) Tractatus Logico-Philosophicus

. Oxford: Routledge & Kegan Paul Ltd.

) ((()ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン『 哲 学 探 究 』( 「 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 全 集 第 八 巻 」) 藤 本 隆 志 訳、 大 修 館 書 店、 一 二 九 節、 一 九 七 九 年。 ( Ludwig W itt ge ns te in (( (( () Ph ilo sop hic al I nve stig atio ns. G .E .M . A ns co m be

and R. Rhees (Eds.).Oxford: Basil Blackwell & Mott, Ltd.

) ((()内海、前掲論文、二〇八頁。 ((()鬼界、前掲書、三六〇頁。 ((()モラウェッツ、前掲訳書、第二章、参照。 ((()ブランケンブルク、前掲訳書、三頁。 ((()同訳書、 ⅲ 頁。 ((()同訳書、一三三頁。 ((0)同訳書、 一三二頁、 参照。この 〝 Spielregeln 〟 は、 シュトラウス ( Straus, E. ) の「 日 常 世 界 の 公 理 」( 〝 Axiome der Alltagswelt 〟) と も 深 い 関 係にあろう。 ((()ウィトゲンシュタインには、 「まず規則があり、 行為はそれにしたがう」 と 考 え る 場 合 と、 「 ま ず 行 為 が あ り、 規 則 は そ れ に し た が う 」 と 考 え る場合とがある。ここでは、前者の場合を念頭においている。 一九

参照

関連したドキュメント

文字を読むことに慣れていない小学校低学年 の学習者にとって,文字情報のみから物語世界

自ら将来の課題を探究し,その課題に対して 幅広い視野から柔軟かつ総合的に判断を下す 能力 (課題探究能力)

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

この見方とは異なり,飯田隆は,「絵とその絵

作品研究についてであるが、小林の死後の一時期、特に彼が文筆活動の主な拠点としていた雑誌『新

「心理学基礎研究の地域貢献を考える」が開かれた。フォー

の良心はこの﹁人間の理性﹂から生まれるといえる︒人がこの理性に基づ

大学で理科教育を研究していたが「現場で子ども