円珍﹃畔支仏義集﹄における
││法宝以後に活躍した締空法師とその学系││
円
』
惜
の引用について
村
上
白 川 EUF也
円珍q:f.:支仏義集』におけるO'flJ惜Jの引問について問題の所在
﹁仏性論争﹂や﹁一三権実論争(一一二権実論争ごなどという語は、とりわけ玄柴三蔵(六O
二l
六六四)に おける新訳唯識経論の訳出に端を発し、中国唐代から日本中世に至るまでの束アジア圏全体を巻き込んだ、械め ① て広汎で被雑な言葉である。その範囲を日本に限ってみると、有名なところでは、最澄(七六七│八二二)と徳 一(?│八二一l八四一一?)の論争、源信(九四二ー一O
一 七 ) ﹃ 一 乗 要 決 ﹄ ( 一OO
六)などを挙げることがで きるが、この令名を馳せた人物やその著述でさえ、資料の不足や内容の難解さも手伝って、いまだ全体を見通す 研究にまでは至っていない。 本稿で注目する智証大師円珍(八一四l
八九二の﹃僻支仏義集﹄二巻もまた、その重要性についてはしばし ば一言及されてき句。しかし、殊更に本書を取り上げて研究を試みたものはそれほど多くない。その理由は様々に 考えられるが、以下に述べることもまた﹃畔支仏義集﹄に関する研究が立ち後れてきた要因の一つと思われる。 すなわち、﹃時支仏義集﹄は三乗の中の﹁僻支仏﹂だけに焦点を当てたものであるから、本書がいくら最澄・徳 ③ 一における論争を引き継いでいるとはいえ、一乗と三乗・五姓(性)各別・仏性などといった中心思想の解明が見 込 め な い 。 川珍r,事支仏義集』における rfI]t首』の引
m
について 八十八篇ほどの諸経論疏の引用からなる﹃昨支仏義集﹄には、すでに散逸して披閲することの できない書目が多数確認される。また、不現存資料の特定や逸文の分析を通して最澄・徳一の論争に立ち帰った ⑤ し川、﹃法華論記﹄に引用される未詳文献を手掛かりとして円珍独自の思想的な特徴を指摘した研究成果もあるた め、﹃僻支仏義集﹄所引の典籍を調査することは極めて重要であると思われる。 本稿では、﹃時支仏義集﹄所引の﹃円惜﹄に注目して、その書名や撰者などについて考察を加える。 し か し な が ら 、♂肝支仏義集﹄所引の
﹃円借﹄と﹃法華円鏡﹄
﹃砕支仏義集﹄の下巻には﹃円借﹄なる書が二度にわたって引用されている。 下 の よ う な 注 記 が み ら れ る 。 -{ v y v @ ノ ニ タ ニ ハ 7 民情、寸云圏イ本注云、東域録云=円鏡七巻一恐是歎 これに対する大久保良順先生の見解は以下の通りであ旬。 智証大師は畔支仏義集下巻に、﹁円惜一云﹂﹁円借四云﹂の二章を挙げ、仏教全書本では﹁イ本注云東域録云 円銭七巻恐日疋鰍﹂と注記しているが、恐らく円銭と見てよいのであろう。 大久保先生は﹃大日本仏教全書﹄の校注を論拠として、﹃昨支仏義集﹄下巻に二回引用される﹃円借﹄を散逸 文献﹃円鏡﹄であると推定する。 この校注に指摘されるように、﹃円鏡﹄は永超(一O
一 四 ー 一O
九五)の﹃東城伝灯目録﹄(一O
九四)に次の 一度目の引用箇所の冒頭では以 旧 仏 全 二 六 ・ 六 三 七 下 ) ょ う に あ る 。⑧ 法華部 同経鈴文略疏三巻(天長寺延秀集解) 同円鏡七巻 同円鏡植決一巻 円珍『時支仏義集』における'IlHriJの引用について ( 岡 上 ) ? ? ⑨ ハ ナ リ シ タ ノ ト シ ス 宇 同円鏡釈文十巻(見行本六巻。向上与二円銃七巻-可三対ニ検之一 ス ト ヲ シ ヌ ヲ 覚エ得法事円銭三巻い云云。可 ν
尋
ν之 ) 天 台 円 仁 巡 礼 紀 一 五 、 ヒ テ ノ 守 ? ⑬ - 就=揚州延光寺伝忠威-( 大 正 五 五 ・ 一 一 四 九 下 ) これによると、天長寺の延秀(生没年不詳)には﹃法華経錆文略疏﹄三巻などの著述があったようであ旬。し かしながら、これらはすべて散逸して伝わらない。 どうして﹃法華円鏡﹄の撰者が延秀であるかというと、荊渓湛然(七一一ー七八二) の 巻 第 一O
下には次のようにあるからである。 タ テ ル 号 ヲ ヘ ヲ シ テ ヲ テ ク ヲ 広立ニ難勢﹂不 v越 ニ 先 規 日 今 横 ニ 旧 間 目 兼 資 = 後 見 ベ 湛然は﹃法華円鏡﹄の著者を﹁秀公﹂、つまりは延秀と見なしていたと考えられる。 ⑫ ところで、﹃法華川銭﹄の本文については湛然門下の著述にしばしば引用される。 で あ る 。 道選﹃法華文句輔正記﹄巻第五 ト 去 7 ハ ニ タ ニ ク ニ ノ ノ キ テ ヲ 大九無警者、円鏡云、大経云為ニ利根人-説ニ大乗九部 J ス ト ヲ 略 = 於 警 輪 一 チ / ナ リ ト 即其事也。 知 H 度﹃法華経疏義績﹄巻第四 ル カ ク ト 云 7 ハ ル ト ニ 有云、大九者、出=円鏡疏日 ソ 7 ハ ル カ タ ト 凡 言 ニ 有 云 司 者 、 品 シ テ ノ ナ リ 皆目疋円鏡疏延秀法師釈也。 の﹃法華文句記﹄(七七 - 253一
( 大 正 三 四 ・ 三 五O
中 ) 一例を挙げれば、次の如く ( 新 国 統 二 八 ・ 七 一 二 下 ) ( 新 出 続 二 九 ・ 六 五 上 )⑬ ここは、湛然の﹃法華文句記﹄巻第五下にある﹁第九無警﹂という語を注釈する一段であり、道選(生没年不 ⑬ 詳)﹃法華文句輔正記﹄や智度(生没年不詳)﹃法華経疏義綾﹄には﹁円鏡云﹂﹁円鏡疏﹂﹁延秀法師﹂という語が ⑮ み ら れ る 。 特に道還の﹃法華文句輔正記﹄には、﹁円佐一向﹂とあるだけでも二十二回の使用があり、それらに基づいて ⑮ ﹃法華円鏡﹄の本文を部分的に復元することができる。 その中でも興味深いのは、道滋所引の﹃法華円鏡﹄が嘉祥大師士日蔵(五四九│六二三)の﹃法華義疏﹄(五八 ⑫ 九
l
五九七)と本文的に一致するということである。 ⑬ 道選﹃法華文句輔正記﹄巻第三 有人立四句者、岡幽云、側、謝剥対刊州釧、剖州制州 剣明刷。割、到剖刻到、利司倒之制矧。矧剖刻矧、利 引矧之令到。夫長短量、凶到矧鮒刻。所以能将長作短 以短為長。何者困組制到。到割姐到。出閣制矧。組制 到倒。非短非短短長非長、而能長短。非長即六十是食 頃。非短即食頃、是六十於仏説法辺能以短為長。於聴 法辺猶以長為短。将知、説之与聴倶是解脱之力也。 -道這﹃法華文句輔正記﹄巻第恥 大九無醤者、岡幽云、大樹刻、剥利 附洲劃酬。馴刻朝制。 川 珍 r;事支仏義集』における『円借』の引用について @ 吉蔵﹃法華義疏﹄巻第二 閥、刻剥対刊州釧、到側能制釧創頃刷。制側、到剖刻到、 利刑制長制矧。矧剖刻矧、羽可制制短使刻。凶到矧鮒有 創性、岡組制到。到創矧到。刷割削倒。矧剣到矧。以 長名短長故、長可為短。以短名長短、短可為長。所以 然者、以道既無二、即長短不二。不二即長短無磁。可 得 促 長 為 短 也 。 其 │ 故 吉 事 │ 浬 蔵 也 │ 繋 『 組 法 云I
華 義 乃 疏謝
巻
第五@
加 剖 経 、 附 洲 劉 凶 制 。 制円珍『畔支仏iÎ'Íil ~J における『円楠』の引 m について @ 道 退 ﹃ 法 華 文 句 輔 正 記 ﹄ 巻 第 五 吉 蔵 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ 巻 第 五
有云、至多門者、阿幽云、刺意門朝、州制又刷所以有此品刺割、斯樹文捌叫州、創矧平等大慧。倒刈州大慈、
廿州、創矧一乗。倒刈州乗、利樹樹門。劇倒制剖樹樹問。瑚側出制問刈、判制割削内刈、或従亦法亦犠門入。
制問刈、劇倒劃除制叶刈、或従因縁門入。即其若因此三門悟入大慧、則三種是門。若図此三門不得悟入、則
相
也
0・
三
種
非
門
。
@ 道温﹃法華文句輔正記﹄巻第一O
一吉蔵﹃法華義疏﹄巻第二 4亦有人云、三災等者、同幽云、制倒有ヨ、州利則。一就此二難、各開為三。州側ヨ者、謂州桝刷。制倒ヨ者、
利倒亦ヨ、剣剣刷。鮒倒ヨ、刻剰刺斗。斗倒創到縦、一謂剣剖刷。鮒倒ヨ、剖コ種刻矧。斗倒創到緩、斗依ヨ
ゴ倒州到対、ヨ刻小大也。剖倒鮒次第亦ニ。一倒劃到一刻次第倒付以到対也。利倒矧倒劃以到樹、制酬剣、刻
閥、制嗣剣、刻刻、倒刷。コ倒鮒到刻、凶剣鮒鮒勉、一刻、倒刷。斗者、制鮒到刻、凶剣鮒鮒免、川到刺鮒刻
川
到
州
鮒
刻
削
剥
云
一
五
。
一
附
叫
。
@ ' @ 道滋﹃法華文句輔正記﹄巻第一O
一育成﹃法事義疏﹄巻第二-有人云、仏法二門者、岡幽云、ベ判割門制、州制一↓平等門、二不平等門。明矧門剖、州捌剖矧剖捌創剣ヨ刷、
制倒割瑚創剖ヨ閥、川苅剛制割樹共倒此定也。ゴ一川淵剛判制闘亦倒是門。則妙音与諸菩薩平等門。供養持名
刻朝刊割、刈叶コ倒割引制剖朝、例制川劇劃制剖一平等無異。斗者刻平割門、対什コ倒割引制剖朝、今例制刈
側
、
州
矧
例
刻
割
制
。
例
州
制
捌
淵
似
組
制
。
削
割
州
側
、
一
制
到
制
剖
制
、
洲
矧
例
利
矧
制
之
也
。
側
州
制
捌
謝
似
制
刻
。
制
調
正
洲
刊
コ
釧
倒
珂
矧
、
制
抑
制
剤
側
、
滅
矧
樹
釧
捌
也
。
一
光
州
似
、
止
洲
斗
叶
一
釧
剖
刻
之
刷
州
、
制
物
倒
倒
似
、
却
鮒
到
釧
捌
。
一見して明らかなように、道選﹃法華文句輔正記﹄に引かれる﹃法華円鏡﹄の逸文は、吉蔵の﹃法事義疏﹄と @ 密接な関連をもっている。しかし、吉蔵以前に﹃法華円鏡﹄なる文献があったと伝える史資料は存在しないので、 F h u Fhd つ 白円珍rc宇支仏義集』における r円借』の引用について @ これは﹃法華円銭﹄の撰者延秀が吉蔵﹃法華義疏﹄の本文を参照したと考えるのが自然であろう。 @ また、はじめに挙げた対照表上段の問答をみれば、﹃法事円鏡﹄は﹃法華経﹄﹁序日間﹂の﹁六十小劫﹂﹁如食頃﹂ について問いを設けていることが明らかである。 したがって、﹃法華円鏡﹄は﹃法華経﹄に関する論書とみて差し支えなかろう。 なお、﹃法華文句輔正記﹄所引の﹃法華円鏡﹄は敦燈出土のスタイン蒐集﹃法華経疏﹄(擬題)とも本文の一致 @ が 認 め ら れ る 。 @ 道滋﹃法華文句輔正記﹄巻第一
O
スタイン蒐集﹃法華経恥﹄経有想無想者、阿幽云、制刻、剰刺州耐劇。体類者、即有想無想非有想非無想也。一切衆生以想為性。一刻
鮒細川、調矧叫耐刻。剰刺劉謝剰刺州、調脳利川湖、調割引耐倒。二矧矧、調矧叫耐刻。三樹制規制鮒矧、調鮒
剣劇剰刺制崩樹、剰刺劃剰刺制、到剰刻。刊割引剰創剣劇剰創閥、剰乎刻刻刻刻閥、到乎鮒細川故、日非有想
刷謝到、対創剖剖剰剖刷。剛剖例制、為刷謂非無想也。・:中略・:刊刷謝到、対創剖剖剰割刷。剛倒者、例州
側剰制。制矧鮒矧割、創鮒創剖刷。刻刻鮒劉差別、倒止劃制。制問鮒矧制、創矧創劃則。剖創矧創制、創制
樹、劇綱劉刷。利則矧矧朝、矧矧剖測也。剥刷。制組側矧割、矧柑剖刷。如是等在衆生数者総結也。
これによれば、道選の﹃法華文句輔正記﹄に引用される﹃法華円銭﹄とスタイン蒐集﹃法華経疏﹄が本文的に 関連することが明白である。 ただし、本稿は円珍﹃砕支仏義集﹄所引の﹃円惜﹄を解明することに主眼を置くものなので、これ以上﹃法華 円鏡﹄をめぐる問題に立ち入ることはしない。今後は道、選のみならず、知目度などが引く﹁円鏡疏 L ﹁ 延 秀 法 師 ﹂ などの文言を調査し、湛然とその門下における﹃法華円鏡﹄の受容に関する総合的な研究が侠たれるところであ 之 旬 。み で あ る 。 ともかく、ここで筆者が強調しておきたいことは、﹃円銭﹄は﹃法華経﹄に関する論書であるという一事実の これを踏まえた上で、次項では円珍﹃砕支仏義集﹄に引用される﹃円惜﹄について検討を加えたい。
﹃僻支仏義集﹄所引の﹃円憎﹄と慈遠﹃浬繋経義記﹄の関係
円珍『・.t:~支仏義集』における1" 11J 情』の引用について これまで考えられてきたように、﹃畔支仏義集﹄に引かれる﹃円惜﹄は﹃法華円鏡﹄と断定してもよいのであ @ ろ う か 。 結論を先取りすれば、﹃内情﹄は陪の三大法師の一人として著名な浄影寺慈遠(五二三 l 五九二)の﹃浬繋経 義記﹄に対する注釈書と考えられる。 円珍﹃昨支仏義集﹄下お 円惜一云 若具論之、声聞種性速者、三生、遅六十効。若縁覚性速経四生、 遅須百劫。三生四生利鈍、皆得六十、百劫。必日疋利鈍以久修習 皆成利故。若論成仏要、三紙耶速者、更経九十一劫。遅者、百 劫修相方成。広如駁例ヨ刊﹂︿、出願対刊寸説。閣凶等者、此問 教也。問、要出値仏余六得耶。答、倶舎二十三云、遇仏出世殖 此善根。有余師云、亦遇独覚、若悟道時、要由髄仏。以縁覚人 不説法故。准此若過善説法人許亦応得。岡阿倒閣者、此得果 - 257一
整地﹃浬一繋経義記﹄巻第可 明教万差。要唯有二。調印声聞蔵及菩薩成。教 戸開法名声聞減。教菩薩法名菩薩蔵。戸開成 中所教有二。一声聞声問、二縁覚声問。声聞 声問者、是人先来求声聞道。岡幽観察四真 諦法、成声間性 0 ・於最後身、値仏為説四真諦 法、岡阿倒閣。本声聞性。今点滴声而得悟 道 。 臼 疋 故 名 目 声 聞 声 問 。 知 経 中 説 。 求 声 問 者 、也。下明閥開園者、此求果以縁。謂因縁覚者、是智従縁生、 故名縁覚。因縁之理、是智所行名縁覚道。謂見諸法、但従縁 生。自体既無。愛何所託。久習此見成縁覚性也。岡幽等者、 挙行理也。十二縁義師子広明此十二支。有仏無仏相常住。因 果相続唯智所知。不可改変名為理也。・:中略:・閥幽等者、 此問教。己謂第四生或百劫満開仏説也。而岡国者、此挙果 也。・:中略:・従閑阿国等者、久習観縁成縁覚性。至果因教 故号声問。因名縁覚、果名声問、因果合意名縁覚声問。己結 名詑。岡幽等者、法華第七応根海説故知小也。巳上第二依名 釈 義 。 @ 円珍﹃畔支仏義集﹄下巻 円惜四云 圃凶凶凶者-僻支有二。若部行者、部党而行同 声聞説。此在人問。若独勝覚、非部党行。通在 人 天 。 如 麟 一 角 、 不 依 師 悟 。 第 五 人 也 。 国問齢者、初果七生、二果一生、一一一果不再 皆得無学授無多也。経古定反直也。一都通力強一 者、得初果。以前欲遡心残惑既多。要八万劫二 三類知。﹁刈劃謝劃劇刻則一者、経五停心或従 円珍rl事支仏義集』における『円備』の引用について 為説四諦。拠此為言。縁覚声問者、是人本来求 閥 閣 幽 -常 楽 観 察 十 二 縁 法 、 図 最 圏 身 、 岡凶為説十二縁法、而得岡幽。岡阿幽性。於 最後身問声悟道。是故名為縁覚声問。岡幽中 説。為求縁覚者説十二縁法。 慧遠﹃浬一繋経義記﹄巻第陶 第四人中先総標血中、下弁其相。句別有五。一断結多少。永断 三結、余処宣説断五上結。色無色染痴慢掠戯是其五也。二明 所得。得阿羅漢是有為果。煩悩無余入浬繋者、日疋無為果。三 簡異縁覚。仮師得度。不同時支閣
H
凶回。四日疋名下結。五 趣 大 遠 近 。 間 目 、 須 陀 斯 陀 那 合 此 之 三 人 向 無 学 巣 岡剛倒閣。何縁向大爾許階降。釈言、此等進至無学然後向 大。所授無多。若彼三人不求無学径向大者、心有残結、 岡閣阿幽、道行難成。故有如此。又須陀等傭生上界方歪無媛等一座便起見。十六心見道、類智忍許属修道。一 修 道 一 百 六 十 心 成 独 覚 也 。 : ・ 後 略 一 学。時亦不少。故授多劫。第五人中先総標挙。畔支有因道同 羅漢叫故不別論。又此利根司刈到剥到刻刻出。中無出理、 故 不 別 説 。 : ・ 後 略 これを見ても明らかなように、上段の﹃円惜﹄の本文に文字回した部分は、すべて﹁
1
とは﹂として、下段で 示した慧遠﹃浬繋経義記﹄の本文を注釈する形式をとる。 円珍r.ct また、﹃円借﹄の巻数は﹁ごと﹁四﹂であるが、これに相当する現行﹃浬繋経義記﹄の巻数も﹁巻第ご﹁巻 第四﹂となっているので、両書とも巻数が一致するのは興味深い。 加えて、﹃円惜﹄には波線部の如く玄奨釈の﹃阿昆達磨倶合論﹄(六五一ーー六五四)﹃阿毘達磨順正理論﹄(六五 @ 一 一 一 ー ー 六 五 四 ) ﹃ 阿 昆 達 磨 大 毘 婆 沙 論 ﹄ ( 六 五 六l
六五九)が教証として出されている。ゆえに、﹃円惜﹄の成立年 代は、玄突入寂の[六六四]、確実なところでいえば﹃阿昆達磨大毘婆沙論﹄が訳出された[六五六│六五九] 以降であることが分かる。- 2
5
9
一
したがって、﹃時支仏義集﹄所引の﹃川情﹄は、おそらく懇遠﹃浬襲経義記﹄の注釈書であって、﹃法華経﹄と 関連の深い﹃円鏡﹄ではない。 そこで、﹃智証大師請来日録﹄(八五九)を確認してみると、慧遠﹃浬繋経義記﹄の注釈書が我が国に将来され て い る 。 大般浬繋経義記十巻(沢州) 浬繋疏科文一巻(沢州) 浬繋疏円指紗十巻 な る ほ ど 、 ﹃ 智 証 大 師 請 来 目 録 ﹄ に は 沢 州 の ﹁ 大 般 浬 般 市 経 義 記 ﹂ 、 ( 大 正 五 五 ・ 一 一O
五 下 ) つまり慧遠の﹃浬繋経義記﹄とその注釈書で円珍'G事支仏義集』における『円借』の引用について ある﹃浬繋疏円指妙﹄が挙げられている。 なにゆえ、﹃浬繋疏円指紗﹄が慧遠﹃浬繋経義記﹄の注釈書であるかというと、﹃時支仏義集﹄(八八七)撰述 の三年前にあたる元慶八(八八四)年、円仁が弟子の良勇に授けた﹃授決集﹄の巻上には﹃混繋疏円指紗﹄が以 下のように取り上げられるからである。 ノ ハ リ テ ノ ニ シ テ ス ト ニ シ ニ I l l l V l --巳 ﹁ し Wlb 砂 防 I M F I 除 │ 今、天台疏、拠=此妙経一決為=八千﹂冥同エ正本﹂沢疏円相亦同=我疏﹂(旧仏全二六・三五八上) ここには﹁択疏(択州で出家した慧遠の疏)の円指﹂とあるから、慧遠の﹃疏﹄の﹃円指﹄は円珍自らが将来 し た ﹃ 浬 般 市 疏 円 指 紗 ﹄ と 考 え ら れ る 。 また、内容面からいえば、円仁は﹃浬繋疏円指紗﹄を自説の補強のために使用しており、﹁沢疏の円指 L を好 意的に取り扱っていることには注意しておく必要がある。 筆者も﹃授決集﹄の出典名が﹁円指﹂ではなく、﹁円指紗﹂と表記されていれば次のように類推することはな かった。すなわち、ここに﹁紗﹂の字が省略された﹁円指﹂という用例があるということは、﹃畔支仏義集﹄に 引用された﹃浬繋経義記﹄の注釈書﹃円借﹄は円珍将来の﹃円指﹄であった可能性が高い。 というのも、﹃円借﹄の﹁惜﹂と﹃円指﹄の﹁指 L の字は、意符が﹁必﹄﹂と﹁+ご、音符が﹁首 L と ﹁ 回 目 ﹂ と な 我が国のくずし字において相当似通っている。よって、﹁惜﹂と﹁指﹂は魯魚の誤りと考えてよいので る の で 、 は な か ろ う か 。 以上より、﹃僻支仏義集﹄所引の﹃円借﹄は、﹃授決集﹄に引かれる﹃円指﹄とともに慧遠﹃浬繋経義記﹄の注 釈書であること、写伝の過程で﹁指﹂が﹁惜﹂と誤写された可能性が高いことを最大の論拠として、﹃円借﹄を @ 円珍将来の﹃浬繋疏円指紗﹄と推定したい。
円珍将来の
﹃
円
指
紗
Lと義天目録の﹃円旨紗﹄について
﹃ 牌 支 仏 義 集 ﹄ 所 引 の ﹃ 円 惜 ﹄ 、 @ 本 現 行 録 ﹄ ( 一O
九O
)
の巻第一によると、瞥空なる人師の撰述書であると伝えられる。 つまり﹃況繋疏円指紗﹄の著者は、義天(一O
五五ー一一O
二 の﹃海東有 円珍『僻支仏義集』における F円憎』の引用について 大浬繋経 義記二十巻(或四十巻) 慧遠述 科四巻 亡 名 円旨紗十四巻科五巻 嘗空述 ( 大 正 五 五 ・ 一 一 六 八 上 ) 前掲した円珍将来のものが﹃浬繋疏円指紗﹄十巻であるのに対し、﹃海東有本現行録﹄が伝えるのは﹁指﹂で はなくよ日﹂の﹃円旨紗﹄十四巻(科五巻)となっているので、両敢闘は書名と巻数において異なりがある。 まず書名の相違について述べておく。そもそも、﹁指﹂の字は﹁惜﹂﹁旨﹂と同声である。また、これが﹁趣 @ 旨﹂という意味を示す場合、古くは﹁指﹂と﹁旨﹂の字を用いることから、書名が﹃円指紗﹄﹃円旨紗﹄﹃円借 紗﹄とあっても、字面の相違が別書名を表す証拠にはならない。 次に巻数の異同に関しては、もともと十巻本(円珍将来)と十四巻本(義天目録)の二種の興本があって、後 者が流布したのか、十巻本は十四巻本の一部であったのか、現在ではこれを知る手掛かりは全くな句。 また、撰者である﹁恐一日空﹂についても一雷同しておく必要がある。﹃宋高僧伝﹄(九八二│九八八)の巻第六﹁知 玄(八O
九l
八八一)伝﹂には以下のような記述がみられる。 ユ シ テ ク ノ ヲ チ ヒ テ ニ リ エ ケ 年十一遂=其削髪一乃随 ν 師 詣 エ 唐 興 口 巴 四 安 寺 一 授 ニ 大 経 四 十 二 巻 、 遠公義疏、制調叫同削、 北二百二十五万ヲ ス ' 一 世 一 日 皆 嚢 = 括 深 奥 -失 。 そもそも、﹃義天目録﹄に記載された﹁奮空﹂の﹁脅﹂の字は﹁耳目﹂の識字であり、
z f H
﹂や﹁脅﹂は﹁騨﹂の 俗字である。ゆえに、傍線を引いた﹁祷空﹂と﹃海東有本現行録﹄に挙がる﹁普空 L は同一人物であると考えら れる(以下、大正蔵などから文章を直接引用する以外は﹁韓空﹂の表記で統一)。 加えて、傍線部にある﹁円旨 L は北本﹃浬繋経﹄四O
巻、﹃浬繋経後分﹄二巻、懇遠﹃浬繋経義記﹄の後に列 ねられている。そうであるから、﹁円旨﹂は﹃浬般市経義記﹄の注釈書と考えるのが妥当であろう。 したがって、﹃海東有本現行録﹄に掲げられる﹃同旨紗﹄とその撰者﹁縛空﹂は、﹃宋高僧伝﹄巻第六﹁知玄 伝﹂によって正確な情報であることが知られる。 中国仏教史上、慧遠﹃浬繋経義記﹄の注釈書は、円珍将来の﹃浬繋疏円指紗﹄と﹃海東有本現行録﹄記載の ﹃円旨紗﹄の二つしか存在しないので、﹃円指紗﹄と﹃円旨紗﹄はおそらく同一世一回目であったとみて問題ないの @ で は な か ろ う か 。 円珍rc事支仏後集aにおける r円借』の号1mについて ( 大 正 五0
・ 七 四 三 中 ) かかる推測に誤りがないとすれば、﹃浬繋疏円指(旨)紗﹄の撰者である縛空とは、一体如何なる人物である のかが問題になる。玄奨滅後に活躍し、しかも伝統的に北本﹃浬般市経﹄を使用する北地系の人師となれば、その 範囲もかなり絞られてくるが、そもそも﹁稗空﹂なる人物は﹃高僧伝﹄などの史資料に一人しか挙がっていない。 それは般若三蔵(?│七八一1
七九八!?) @ 務 空 で あ る 。 の﹃大乗理趣六波羅蜜多経﹄の訳場に参加し、そこで証義を務めた ﹁大乗理趣六波羅蜜多経序﹂には以下のようにある。 テ ユ ノ ハ シ ノ ハ ス 於 ν是鰯賓沙門般若受旨宣揚、光宅寺沙門利言為=之翻訳斗 真、荘厳寺円照、光宅札道岸、西明も円照、制捌叫制調、 間・時J 明 大 寺ノ徳=会型チ
等F
・
1 4 資 法 聖 門J寺/ 領 道 袖 液 人 種 中ノ泉 龍 寺 / 象十超。,}悟 証九蓄
基等/
き宅'応、ス ヲ リ ノ 宇 ル ノ ヲ 輝 = 潤 玄 文 一 知 エ 釈 迦 之 宝 城 一 識 ユ 衆 尊 之 満 字 ベ @ これによれば、鰭空は般若の訳場(七八八)で証義を務めた人師であることが分かる。 よって、北本﹃浬繋経﹄を注釈する慧遠﹃浬繋経義記﹄に、再度注釈を加えて﹃浬繋疏円指紗﹄を著した瀞空 と、玄突滅後の長安仏教界、特に般若の訳場で証義に充たった縛空は、地理的にも年代的にも同一人物と考える のが最も妥当な見解といえる。 ( 大 正 八 ・ 八 六 五 中 ) 川珍『時支仏義集』におけるD"f1Iti'iJの引別について
嬬空
(
?
j
七八八j
?
)
の学系について
四 最後に縛空の学系について検討を加えてみたい。 そもそも、円珍の﹃砕支仏義集﹄は二ニ権実論争史の上に位置付けられる書物である。よって、そこに集録さ れる要文は、すべて円珍自身が好意的に捉えたものであり、﹃浬繋疏円指紗﹄もまた同様の趣旨で引用されたと 考 え ら れ る 。 司 べ u n h V 9 u ここで注目したいのは、﹃畔支仏義集﹄所引の﹃仰向繋疏円指紗﹄が法宝のコ乗仏性究党一伽﹄(六九五│六九 @ 九)を書名も掲げずに引用していることである。 周知の通り、法宝のコ乗仏性究寛論﹄は、玄突の新訳唯識経論とそれに依拠する人師を意識しながら、﹃法 華経﹄﹃浬般市経﹄の一乗仏性義を根本に据えて、一切皆成・一乗真実を主張した文献である。 多数の経論を印度より将来した玄奨は、帰国後すぐに太宗(在位六二九│六四九)の庇識を受けて訳出を開始 したが、﹃仏地経論﹄(六四九)などが翻訳されると、そこには唯識の五姓各別説が示されているので、玄奨の訳 場に加わっていた浬繋学派の霊潤より批判が起こった。これに応えたのが、唯識学派の神泰(生没年不詳)であり、以後、人物および思想的な範闘を異にしつつ、仏性や一乗・三乗などに関する論難が繰り返された。今日明 らかになっているだけでも、霊潤、神泰、義栄、基、円測、法宝、慧沼などが﹁仏性論争﹂およぴ二三権実論 争 ( 一 三 権 実 論 争 ) ﹂ に 関 わ っ た と さ れ 旬 。 要するに、法宝の﹃一乗仏性究寛論﹄は、こうした論争史のなかに位置づけられる書物なのである。 以下に、円珍﹃畔支仏義集﹄所引の﹃浬繋疏円指紗﹄と﹃一乗仏性究寛論﹄の本文を対照したものを掲げる。 バ ﹃ 畔 支 仏 義 集 ﹄ 下 勧 ﹃ 一 乗 仏 性 究 寛 論 ﹄ 巻 第 五 ﹁ 増 寿 変 易 章 第 国 ﹂ っ 肱円惜四云、・:中略:・問、儒寿変易行相、如何。答、前説増寿後説変易、略有引 4 4 不向。斗刻刻倒等、副剰刺住 州附釈所発一刊ヨ。﹂制到例経、削鮒州故剖刻刻。地等制刻刻生死。瑚側等、削刻闘倒。コ欄側、淵諸樹方制 哨瑚側、倒崩故有倒身。ゴ捌側等、減法樹刷刻刻。刻刻。瑚側、倒剖樹身。ヨ酬劃元上依等、矧明倒刷剣鮒湖 一日制側、創寿利樹。ヨ捌劃、説鮒明倒刷剣剣淵銅剣調、別到刻刻。瑚側等、創闘到利樹劃留剣劇刻。叫例制朝 凶刻刻。瑚側論、説無漏刻岡到利樹劃受剣劇射。剛等、往制似世界。又云、生異仏闘。瑚側等云、於削剰融暗部 齢例制剰経、倒似国受変易身。謝側、説即附矧刷、洲制附其矧剰遠離而倒。到湖剰経、是人未来過川刻釧住等。 仏 階岡阿剰倒有留寿身。到掴鋼、説経.刈苅釧。瑚側、依.瑚側論等、即倒此身劇斜↓刻。対側側劉矧経、斗剰対対 同 一 説 倒 ﹂ l 劫、劇釧斜。対側側刻朝、説斗剰刻刻割劇割劇岡矧意倒刻。依樹側等、二乗不同大力菩薩。刻刈割劇 剛矧異倒刻。樹側、説対刈割劇州五耐針。制似倒州意耐針。制似倒制。斗剰溺鮒耐住。一切衆生皆不見故。 制。ゴ剰謝醐耐化生。不定故。剖剖割割謝、制ヨ剖剖割経割謝等、制ヨ剰倒刷出開。剰剥ヨ有期制。ヨ剰倒悩 刻樹闘制。剰剥ヨ界製制。ヨ剰倒悩羽樹剰制。謝羽樹剰制。瑚側等、謝三剰摂資三界調引制倒制。刈欄側等、 側、制資二剰劃引制倒制。川倒側、斗剰変易。削斗剰削謂剥減、調刈ヨ刷。謝側等、自知倒剣倒刈調測。刈 刻得洲 4 刻刈ヨ刷。劇側、説困倒射、倒刈剰測。制側、倒剣咽刻刻倒。捌州制到明、謝州刻倒。刊瑞伽等、倒
円珍『昨文仏義集』における rpJt首」の引用についてI 刈樹側、留身唯不定性。拐伽組等、通於定性。 刊唯識、制剤組側利明。捌劃、局制湖、岡刻。 叶両側経、ヨ州制相、無益物心。樹側論、削矧 倒制組側為倒。刊ゴ鮒﹄例制似制剤、説要剰刺 謝凶糊岡 ω 剛 、 受 変 易 呆 趣 対 割 倒 。 糊 側 、 説 刷 細 川 制刻願剣剖制調、制剛個別最刷割矧。利ヨ割剰 刺問、剣刈刻洲得矧対叫。瑚側論、説矧矧対叫復 留身住希。文広者請不辞繁。 身通於有明。捌銅等、唯阿樹湖、剛対仏、大力菩薩不言有学。 叶↓捌側等、住ヨ耐剤、変易生中経元量劫、不自覚知。瑚側 等、削矧倒剣謝醐而倒。刊コ刻﹄例制似倒剖刷、妄刻制調凶制 凶級生死。与刈剖矧為其怨陣。樹側等、削刻制刻剣剤耐刻、 川矧長剛倒別刷割倒。刊ヨ割剰矧等、矧刈刻洲後刻刈叫。制側、 先発大心然後倒刻。准上十三不問、前後意別。成唯識論、雌 以元漏業為資身定、然与其義全相識返。如上十三不問、細読 即 知 違 順 。 このような本文一致の結果、掛川空﹃湿繋疏円指紗﹄の本文は、法宝ご乗仏性究党論﹄と密接な関連をもって いることが明瞭となったが、これは法宝の﹃一乗仏性向九覚論﹄が﹃浬繋疏円指紗﹄を参考にしたと考えるよりも、 むしろ﹃浬繋疏円指紗﹄の撰者婦空が﹃一乗仏性究覚論﹄の本文に影響を受けたとするのが、これまでの検討に 基づく妥当な見方であろう。 - 265
一
また、対照表下段に示したコ来仏性究寛論﹄の文は、法宝自身の教時前後説に依拠しながら、前教に﹃職伽 師地論﹄を代表せしめて、後教の﹃無上依経﹄﹃楊伽経﹄﹃勝質経﹄﹃法華経﹄﹃浬繋経﹄などとの不同を十三にわ たって述べあらわした箇所である。具体的には、後教経典には変易生死が説かれること、また不定性二乗だけが @ 変易生死を得るのではないことなどが明かされている。 したがって、﹃担繋疏円指紗﹄に﹃一乗仏性究覚諭﹄﹁増寿変易章﹂の十三不同が引かれるということは、掛川空 が一乗仏性思想の立場に立っていた一証左となろう。 ところで、法宝の著作には﹃一乗仏性究寛論﹄の他にも、北本﹃浬繋経﹄を注釈した﹃大般浬般市経疏﹄十五巻(巻九・十のみ現前)があり、そこには浄影寺慧遠の﹃浬鍵経義記﹄や曇延(五一六│五八八)﹃涯一繋経疏﹄が @ 多く引用されぬ。また、法宝のコ乗仏性究寛論﹄にも、潜遠﹃浬繋経義記﹄からの本文的な影響があり、彼は 布施浩岳博士によって﹁浬繋学派の論師﹂、根無一力先生などによって﹁真諦三蔵(四九九
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五六九)の思想に 基づく一乗の論師 L と見なされてい旬。 円珍re宇支仏義集』における r円借』の引用について これまでの検討からも明らかなように、縛空と自著﹃浬繋疏円指紗﹄をめぐっては、﹁北本﹃浬繋経﹄﹂﹁慧遠 ﹃畑出繋経義記﹄﹂﹁法宝﹃一乗仏性究寛論﹄﹂との関連が明白であるので、彼を﹁湿繋学派の論師﹂と呼ぶことに は何の問題もないであろう。 他方、唐代の仏性論争および一三権実論争全体を真諦の一乗思想と玄突の三乗思想に二分できるとした根無先 生の見解、所謂器対空が﹁真諦の思想に基づく一乗の論師﹂の系統に属するのではないかということについては、 以下の目録に挙がる書目が関心を引く。 ﹃ 法 相 宗 章 疏 ﹄ ( 九 一 四 ) 仏性論疏四巻(締法師述) ﹃ 東 域 伝 灯 目 録 ﹄ 仏性論疏四巻(錦空法師) ﹃ 奈 良 朝 現 在 一 切 経 疏 目 録 ﹄ @ 仏 性 論 疏 奮 空 ( 大 正 五 五 ・ 一 一 三 九 下 ) ( 大 正 五 五 ・ 一 一 五 八 下 ) 五 巻 巻数の異同に関しては不明としかいえないが、これらの記事を信頼する限り、掛川空には﹃仏性論疏﹄の著述が @ あったことが知られる。 @ 残念ながら、﹃仏性論疏﹄は現在散逸しているが、鶴間空が真諦の﹃仏性論﹄に注釈を加えている ζ とは極めて興味深く、これは縛空が真諦三蔵の一乗思想に影響を受けていたと見なす一論拠となろう。 説明空の﹃浬繋疏円指紗﹄や﹃仏性論疏﹄は、今は存していないし、撰述年時も詳らかでないため、これ以上続 空とその著述に関して内容的に踏み込むことはできない。しかし、これまでの検討に、より、彼が法宝滅後の長安 で一乗仏性説を賞揚した人物であることは疑いない事実であろう。法宝の後にも玄奨の三来忠想を批判したと考 えられる一乗家が存在していたのである。 円珍 r.llt支仏義 *J における rflH~'J の引JlJについて 結 語 以上、円珍﹃砕支仏義集﹄に引用される﹃円惜﹄について検討を加えてきた。 従来、﹃僻支仏義集﹄所引の﹃円惜﹄は、﹃大
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本仏教全書﹄の校注に従って延秀の﹃法華円鏡﹄であると考え られてきた。しかし、﹃円情﹄なる書は、円珍自らが将来した慧遠の﹃湿繋経義記﹄の注釈書﹃浬繋疏円指紗﹄ であることが明らかとなった。 円 i p o q L また、﹃浬繋疏円指紗﹄は婦空法師の著作である可能性が極めて高く、彼は般若三蔵の訳場に身を投じた人物 で も あ る 。 さらに、滞空の思想的な立場は、慧遼﹃仰山繋経義記﹄と関連するだけでなく、北本﹃況般市経﹄、真諦﹃仏性 論﹄、法宝﹃一乗仏性究党論﹄などとも結び付くことが明らかとなった。 残念ながら、縛空﹃浬般市疏円指紗﹄の引用は円珍を鳴矢とするから、最澄などの著作に引かれることはない。 しかし、玄突の新訳経論とそれに基づいて三乗真実説を唱える人々を意識し、浬繋学派、あるいは真諦の思想に 基づく一乗仏性義を論じた鱒空が、法宝亡き後の長安仏教界で活躍していたという事実は、﹃僻支仏義集﹄に引かれる典籍や逸文を調査しなければ知り得ないものであった。 円珍﹃僻支仏義集﹄は、従来注目されてこなかった人師を浮き彫りにすること、法宝以後においても二ニ権実 論争が継続していたことを示すなど、有益で新たな情報を与えてくれる貴重な書物といえる。 今後は、引き続き﹃僻支仏義集﹄に引用される散逸文献の調査をおこなうだけでなく、これまであまり触れら れることがなかった法宝や賢首大師法蔵(六四三
l
七二一)以後の一三権実論争に関する解明をおこなっていき 円珍『昨支仏義集』における『円借』の引用について 一 事 ﹄ 、 ‘ 。 JJLV 註 ①昨今、唐代における論争に関しては、霊潤(五八O│六六七頃)、神泰(生没年未詳)、義栄{生没年未詳)が中心 とした問題を﹁仏性論争¥基(六三二│六八一一)、円測(六一三l
六九六)、法宝(六二七頃│七O三 1 七 O 六 ? ) 、 慧沼(六四九l
七一四)が取り扱った問題を J 二権実論争﹂と呼ぶべきことが指摘されている。詳しくは、伊藤尚 徳 ﹁ 唐 初 仏 性 論 諮 問 の 再 考 察 │ 引 用 経 論 の 分 析 か ら │ L ( ﹃ 仏 教 学 ﹄ 五 回 、 二 O 一 三 年 ) を 参 照 。 なお、霊潤と法宝の生没年については、順に池田将則﹁道基の生涯と著作 l 敦檀出土﹃雑阿見曇心章﹄巻第三 ( S こ 七 七+P
二七九六)﹁四善根義﹂を中心として﹂(船山徹編﹃真諦三蔵研究論集﹄所収、京都大学人文科学研究所、 二O一二年)、根無ア万三乗仏性究寛論の撰述と時代的背景﹂(﹃叡山学院研究紀要﹄九、一九八六年)を参照。 ②﹃仏書解説大辞典﹄﹁時支仏義集﹂(大東出版社、一九三五年、第九巻・一七二頁)、浅井円道﹃上古日本天台本門忠 想 史 ﹄ ( 平 楽 寺 書 庖 、 一 九 七 三 年 ) 、 白 土 わ か ﹁ ﹃ 時 支 仏 義 集 ﹄ 管 見 L ( ﹃ 智 証 大 師 研 究 ﹄ 所 収 、 同 朋 舎 、 一 九 八 九 年 ) 、 同﹁智証大師円珍の﹁砕支仏﹂観について﹂(﹃天台学報﹄三三、一九九一年)、同﹁日本仏教における砕支仏につい ての試論﹂(﹃中世文学﹄四五、二OOO年)、同﹁畔支仏と日本仏教ーその系譜を辿って│﹂(槽部建博士喜寿記念論 集﹃初期仏教からアピダルマへ﹄所収、平楽寺書応、二OO二年)、同﹁日本仏教における畔支仏の問題l
受容と展 開 │ ﹂ ( ﹃ 仏 教 学 セ ミ ナ ー ﹄ 七 七 、 二 O O 三 年 ) な ど を 参 照 。 ③﹃辞支仏義集﹄冒頭の﹁縁起﹂には﹁昔、北韓は四実を讃じ、免食は一権を誘る。 生身嫡壊して悪に堕すこと疑い円珍『僻支仏 ~~J における qlJtriJ のリ IJ司について なし﹂(旧仏全二六・五八七)とあるので、本書が最澄・徳一論争を継承していることは明らかである。 ④師茂樹﹁最澄所引の賓法師の﹃融文﹄について﹂(﹃東洋大学大学院紀要﹄三四、一九九八年)を参照。これは、主 に最澄﹃守護国界章﹄所引の逸文に関して検討をおこなったものであるが、書名や引用範囲が明瞭な﹃畔支仏義集﹄ の重要性についても論じられている。 ⑤前川健一﹁円珍﹃法革論記﹄の引用文献│未詳文献の解明を中心に│﹂(﹃インド官学仏教学研究﹄三、一九九五 年)、同﹁円珍﹃法華論記﹄の引用文献│﹁先覚﹂と﹁慈岡山﹂﹁進公﹂│﹂(﹃印度学仏教学研究﹄四四(二)、一九九 六 年 ) を 参 照 。 ⑥﹁惜﹂の字の右横に﹁(マン ) L とあるが、これは振り仮名としての﹁マン﹂なのか、﹁ママ﹂の誤写であるのか、今 のところ不明としかいえない。そもそも、・﹁惜﹂の音符は﹁首﹂であるから、﹁シュ﹂と読むのが普通であろう。 ⑦大久保良順﹁六祖門下の文句研究と川鋭について﹂(﹃叡山学報﹄問(通刊二四)、一九六五年)の六八頁。 ⑧大正五五・一一四八下 ⑨﹁見﹂は﹁現﹂の誤りではないかと思われる。 ⑬円仁﹃入唐求法巡礼行記﹄(旧仏全一一 ⑪なお、﹃法華円鏡﹄を我が同に将来したのは慈覚大師円仁(七九問│八六四)である。﹃入唐新求聖教日川.録﹄には ﹁法華経円鋭七巻(欠第四六七巻)﹂﹁法花円鋭極決一巻(天長寺釈延秀集)﹂(大正五五・一
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八 三 中 ) な ど と あ る 。 ⑫湛然の門下に関する研究は、中里貞降﹁荊渓湛然の門下と其著述﹂(﹃山家学報﹄新九、一九三四年)に詳しい。 ⑬大正三四に収められる湛然の﹃法華文句記﹄には﹁大九無警﹂(大正三四・二五三上)とある。しかし、﹃天台大師 全 集 ﹄ ( 法 華 文 句 の 三 ・ 一O
六一上、中山書一房仏書林、一九八五年)や後世の注釈書では﹁大九無嘗﹂となっている ので、﹁大凡無醤﹂は翻刻上の誤りと考えられる。 ⑬智度と﹃法華経疏義繊﹄については、松森秀幸﹁智度とその著作﹃天台法華疏義織﹄について﹂(﹃印度学仏教学研 究﹄五八(二)、ニO
一O
年)、同﹁﹃天台法華疏義績﹄における﹃法華文句記﹄批判について﹂(﹃印度学仏教学研究﹄ 五 九 ( 二 ) 、 二O
一 一 年 ) を 参 照 。 ⑮智度が述べる﹁円鏡疏﹂と湛然や道濯がいう﹁法華円銭﹂﹁円鏡 L が同一書であるかどうかについては不明である。 エ ト 云 7 ハ ノ ク ニ ノ ヲ 品 川 亨 ⑬道遼(生没年不詳)の﹃天台法華疏記義決﹄巻第三本にもまた﹁記大九無醤者、秀公云、為=利人-税二大乗九部一 - 269一
川珍r時支仏義集』における rPJt首』の引用について 今 J 占 7リ ト 4 7 1 + リ ト 鉱山二審喰-経。即其事也﹂(旧仏全一五・一六
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下)などとある。大久保良峻博士は、道遼が引く﹃法華円鏡﹄の文 が全て道渇﹃法華文句輔正記﹄などからの孫引きであることを指摘し、これによって﹃天台法華疏記載決﹄を含む コニ大部要決﹂の撰者が中国の興道道遼ではなく、日本の播磨道遼であることを論証された。詳しくは、大久保良峻 コニ大部要決をめぐるてこの問題 L ( ﹃ 天 台 学 報 ﹄ 一 二 三 、 一 九 九O
年。のち﹃天台教学と本覚思想﹄に収録、法蔵館、 一 九 九 八 年 ) を 参 照 。 J P ト A a w -ノ ユ ユ リ なお、大久保博士は道遼による﹃法華円鏡﹄の引用のうち、巻第三末の﹁秀公云、出体者依ニ阿昆曇意一信解有二 J ハ レ ノ J ナ リ ハ L V J ノ ナ リ 二体寸信是大普地中信数、解是通大地中慧数﹂(旧仏全一五・一八O
上)は﹁吉蔵の﹃法華義疏﹄に見られるのであ り、﹃円鏡﹄との繋がりは求められない﹂と述べておられる。しかし、後に本文のなかで指摘するように、そもそも ﹃法華円鏡﹄自体が吉蔵﹃法華義疏﹄と本文的な関連をもっているので、この一段だけは道選や智度からの孫引きで ない可能性も残る。けれども、筆者は大久保良峻博士の論旨に異議を挟むつもりはなく、むしろこの主張に賛同する 立場に立っていることを銘記しておく。 ⑫無論、﹃法華文句輔正記﹄に引用される﹃円鏡﹄のすべてが吉蔵の﹃法華義疏﹄と本文的に一致するわけではない。 ⑬新市続二八・六八四上 ⑬ 大 正 三 四 ・ 四 八O
中 @新記続二八・七一二下 @大正三四・五一一中 @新田続二八・七一二下 @大正三四・五一一中 @ 新 市 続 二 八 ・ 八O
六 上 @大正三四・六二六上 @ 新 田 続 二 八 ・ 八O
九下 @大正三四・六二八上 ⑧﹃法華文句輔正記﹄に引かれる﹃法華円銭﹄と吉蔵﹃法華義疏﹄の本文が関連することは、筆者がここではじめて 指摘するものではない。すでに我が国の宝地房証真(一一一二一ー一二二O
)
は﹃文句私記﹄の中でそれを暗に示して円珍『砕支仏義集』における r f11~首』の ~I 用について ト -E 7 ハ ハ キ テ ヲ ク ハ タ へ ヲ ハ サ ニ 7 ル ト F -9 ハ サ エ ハ ツ -いる。証真は﹁第五不論者、輔引ニ円鏡-云、上但序ニ三教一今具述二五乗一私云、七異具出ニ嘉祥疏こ(旧仏全 二二・五八一下)として、道濯の﹃法華文句輔正記﹄が﹃法華円銭﹄を引用することを指摘する。そればかりか、証
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真は﹁第五不論 L が吉蔵﹃法華義疏﹄の﹁七異﹂(大正三四・五四三下)と関連することを﹁私一五﹂の中で論じるの である。これは、延秀﹃法華円鋭﹄と吉蔵﹃法華義疏﹄の本文一致をずばり見抜いたものではないが、﹃法華文句輔 正記﹄﹃法華円鋭﹄﹃法華義疏﹄が並ぴ示されていることには注意を要する。もっとも、現行の﹃法華文句輔正記﹄巻 ト -E 7 ハ ハ タ ヘ ヲ ハ ザ ユ 7 ル ト ' 第六には﹁第五不論者、上位序ニ三教一今具述ニ五乗こ(新出統二八・七三O
中)とあって、﹁円鏡﹂の名は出さ れ て い な い 。 ⑮吉蔵の﹃法華義疏﹄が後世に与えた影響は、慈恩大師基(六一ニ二│六八二)の﹃法華玄賛﹄のなかにも顕著である。 ﹃法事義疏﹄と﹃法華玄賛﹄の本文的な関連については、末光愛正﹁﹃法華玄賛﹄と﹃法事義疏﹄﹂(﹃曹洞宗研究員研 究生研究紀要﹄一七、一九八六年)、平井俊柴﹃法華玄論の註釈的研究﹄(正、春秋社、一九八七年)、呉鴻燕﹃湛然 ﹃法華五百問論﹄の研究﹄(山喜房仏書林、二OO
七 年 ) な ど を 参 照 。 @ 大 正 九 ・ 四 上 ⑪司法華経疏﹄の詳細については、矢吹慶輝﹃鳴沙除韻敦娘出土未伝古逸仏典開宝﹄(解説筋、岩波書応、一九三三 年 ) の 一O
二 頁 を 参 照 。 @新出続二八・七九五中 @大正八五・一八四下 1 一 八 五 上 @旧仏全二六・六三七下や大久保良順﹁前掲論文﹂ @旧仏全二六二ハ三七下 1 六三八下 @大正三七・六一三上 @旧仏全二六・六三九上 @大正三七・七二八中 i 下 @慈速の﹃浬繋経義記﹄巻第四には﹁時無多校劫﹂とあるので、﹃僻支仏義集﹄の﹁時無多劫﹂は書写者の誤写と忠 わ れ る 。 ⑩慧遠の﹃浬繋経義記﹄巻第四には﹁障道力強﹂とあるので、﹃砕支仏義集﹄の﹁都通力強﹂は書写者の誤写と思わ- 2
7
1
-円珍'.Il宇支仏義集』における f円借』のヲ1mについて れ る 。 @他にも、﹃喰伽師地論﹄(六四六│六四八)からの引用が確認される。(旧仏全二六・六三九下) @なお、﹃浬繋疏円指紗﹄は済混(一
O
二 五l
一一一五)の﹃弁顕密二教諭懸鏡抄﹄巻第五に﹁世襲経円指﹂(大正七 七・四五九下 1 四 六O
上)として二回引用される。また、安然(八四一ー九O
二?!?)の﹃悉曇蔵﹄巻第二には ﹁ 沢 州 疏 ﹂ ( 大 正 八 四 ・ 三 七 八 下 i 三七九上)とあるので、これもおそらくは﹃浬繋疏円指紗﹄のことかと思われる。 @﹃新編諸宗教蔵総録﹄や﹃義天目録﹄などとも呼ばれる。 @白川静﹃字通﹄(平凡社、一九九六年)の六五二頁。 @無論、﹃浬繋疏円指紗﹄十巻も﹃円旨紗﹄十四巻も、現在散逸して披閲することはできない。 ⑮﹃仏書解説大辞典﹄の﹁浬繋経義記円旨抄 L ( 一九三四年、第八巻・四O
四頁)の項目には、﹁大正新傭大蔵経続刊 予定書目﹂とあるが、現在のところ所蔵先や存否については未詳である。また、﹁浬繋疏円指紗﹂(第八巻・四一O
頁)の項目では﹁智空の浬繋経義記円旨抄のことか﹂とある。 @﹃宋高僧伝﹄巻第一四の﹁智慧伝﹂には﹁縛空﹂(大正五0
・七一六中)とある。また、円照の﹃大唐貞元統元釈教 録﹄(七九四)の巻上や同﹃貞元新定釈教目録﹄(八O
O
)
の巻第一七では﹁嘗空﹂(大正五五・七五六中や八九二上) レ ﹂ 九 日 φ λ 官 。 @円照﹃大唐貞元統元釈教録﹄の巻上(大正五五・七五六中)や同﹃貞元新定釈教目録﹄の巻第一七(大正五五・八 九二上 1 中)を参照。また、般若三蔵をめぐる翻訳事業、とりわけ﹃大乗理趣六波羅蜜多経﹄に注目して、中央ユー ラシア圏内における政治・社会の動向を解明した有益な研究成果もある。(中田美絵﹁八世紀後半における中央ユー ラシアの動向と長安仏教界l
徳宗期﹃大乗理趣六波羅蜜多経﹄翻訳参加者の分析よりーへ﹃関西大学東西学術研究所 紀要﹄四回、二O
一 一 年 ) ⑬﹃一乗仏性究寛論﹄は、現在、巻三のみが新市続の巻五五に収められている。しかしながら、昭和六十一年、浅田 正博博士によって巻一・二・四・五が石山寺から発見され、本書の全貌がほぼ窺い知れるようになった。その翻刻資 料については、浅田正博﹁石山寺所蔵﹃一乗仏性究寛論﹄巻第一・巻第二の検出について﹂(﹃龍谷大学論集﹄四二九、 一九八六年)、同﹁法宝撰ご乗仏性究寛論﹄巻第四・第五の両巻について﹂(﹃仏教文化研究所紀要﹄二五、一九八 六年)を参照されたい。なお、本稿で使用する﹃一乗仏性究寛論﹄の本文は、浅田博士の前掲論文に翻刻されているものを使用する。また、出拠の表記は浅田博士の論文の頁数と翻刻行数に基づく。 @娘無一力﹁前掲論文﹂を参照 @この分野に関する主な研究成果としては、常盤大定﹃仏性の研究﹄(丙午出版社、一九三
O
年。図書刊行会、一九 七三年再版)、富貴原章信﹃中国日本仏性思想史﹄(図書刊行会、一九八八年)、田村晃祐﹁最澄﹃法華秀句﹄中巻に つ い て ﹂ ( ﹃ 東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 ﹄ 一 二 三 、 一 九 八O
年)、吉村誠﹃中国唯識思想史研究 1 玄奨と唯識学派l
﹄ ( 大 蔵 出 版 、 二O
二 二 年 ) な ど が あ る 。 @旧仏全二六・六四O
上 1 下 @﹃仏教文化研究所紀要﹄二五・二ニ七の H S 1 一 三 八 の N ロ ・ @詳しくは、寺井良宣﹁法宝の唯識思想批判の考察l
変易生死と二乗作仏の問題を中心に│﹂(﹃仏教学研究﹄四八、 一 九 九 二 年 ) を 参 照 。 @大正十一(一九二二)年、朝鮮総督府事務官を務めていた小田省吾氏によって韓国・松広寺から発見され、現在は ﹃大般浬繋経疏(破璃版)﹄(朝鮮総督府、大正十三年六月)として出版されている。 @木村宣彰﹁法宝における浬繋経解釈の特質﹂(﹃大谷学報﹄五八(一)、一九七八年。のち﹃中国仏教思想研究﹄に収 録、法成館、二OO
九 年 ) @小野嶋祥雄﹁法宝撰﹃一乗仏性究寛論﹄の基底l
特に浄影寺慧遠の思想と対比して│﹂(﹃印度学仏教学研究﹄六O
( 二 、 ニO
一 一 年 ) @布施浩岳﹃視繋宗の研究﹄(後篇、国書刊行会、一九七三年)、根無一力﹁前掲論文﹂、小野嶋祥雄﹁﹁真諦系一乗 家 L としての﹃一乗仏性究覚論﹄﹂(﹃印度学仏教学研究﹄六一(一)、二O
一 二 年 ) を 参 照 。 @石田茂作﹃奈良朝現在一切経疏目録﹄(﹃写経より見たる奈良朝仏教の研究﹄附録、東洋文庫、一九三O
年)の一二 八 頁 。 @﹃仏性論﹄の注釈書について、﹃仏書解説大辞典﹄(第九巻・二九七頁)、﹃国訳一切経﹄﹁瑞伽部一一﹂(坂本幸男訳、 大東出版社、一九三五年、ニ六七頁)、田村晃祐﹁前掲論文 L ( 三六頁)などでは以下のように報告される。 仏 性 論 疏 問 ( 或 五 ) 巻 弁 ︹ 空 ︺ 法 師 仏 性 論 義 一 巻 勝 荘 円珍r
n
宇支仏義集』における F円借』の引用について - 273一
唐円珍rl事支仏義集』におけるr円循』の引用について 仏 性 論 疏 三 巻 恵 証 仏 性 論 疏 四 巻 善 空 仏 性 論 疏 五 巻 神 泰 仏 性 論 節 義 四 巻 日 本 賢 州 本稿で指摘したように、右の﹁弁︹空︺﹂と﹁碧空 L は同一人物と考えられるから、現在伝えられる﹃仏性論﹄の注 釈書は計五種となる。また、縛空に﹃仏性論疏﹄の著述があることを指摘したものには、他に結城令聞﹃唯識学典籍 志﹄{﹃東洋文化研究所紀要﹄別冊、大蔵出版、一九六二年、四