﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 第八十回 仏教文化講演会記録 県立広島大学
石
二 五 四 ーl
' E E , , , ただ今御紹介戴きました石川でございます。凡そ講演などというものに不慣れでございますが、何とか資料官頭に話す内容の展開を示しまし﹁
法
滅
﹂
からの再生
││東大寺再建における西行を中心に││
二 三 四 五 ﹁ 法 滅 ﹂ の 意 味 南都炎上のこと ﹁東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記﹂の意義 伊勢神宮と本地垂迩 西行の和歌的営為 ﹁ 二 見 浦 百 首 ﹂ ・ 両 宮 歌 合 ( 御 裳 濯 河 歌 合 ・ 宮 河 歌 合 ) ・ ﹁ 諸 社 十 二 巻 歌 合 ﹂ 結ぴ _._ /、 たので、その展開に沿って進めて行きたいと思います。﹁
法
滅
﹂
の
意
味
︹ 資 料I
︺﹁唐書﹄武宗本紀曾昌五年:::八月壬午大毅悌寺復僧尼為民。(曾昌五年:::八月壬午大いに悌寺を毅ち復た 僧尼を民と為す) ※﹃玉葉﹄治承四年(一一八
O
)
十二月廿九日の条に、﹁巳刻人告云、重衡朝臣征伐南都、只 今帰洛云々。又人云、興福寺、東大寺己下、堂宇房舎、沸地焼失、於御社者免了云々。又悪 徒三十余人集首之、其残逃纏春日山云々。至子凶徒之被裁者、還為御寺要事、七大寺己下、 悉変灰燈之条、為世為民仏法王法滅了欺。凡非言語之所及、非筆端之可記。(中略)猶々大 悌再造立、何世何時哉、不異曾昌天子之跡者賦﹂(巳の刻人告げて云はく、重衡朝臣南都を 征伐し、只今帰洛すと云々。又人云はく、興福寺、東大寺己下、堂宇房舎、地を払って焼失 し、御社に於ては免れ了んぬと云々。文悪徒三十余人これを巣首し、その残りは春日山に逃 げ寵ると云々。凶徒の裁せらるるに至りては、還って御寺の要事たり。七大寺己下、悉く灰 燈に変ずる条、世のため民のため仏法王法滅尽し了るか。凡そ言語之及ぶ所にあらず。筆端 の記すべきにあらず。(中略)猶々大悌の再造立、何れの世何れの時ぞや。曾昌天子の跡に 異ならざるものか) ※﹁東大寺造立供養記﹄に、﹁似曾昌天子之減法也﹂(曾昌天子の法を滅するに似たるなり)な ど と 見 え る 。 ︹ 資 料 H ︺ ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ ( 巻 十 一 ) ﹁ 慈 覚 大 師 、 百 一 唐 伝 顕 密 法 帰 来 語 第 十 こ 而ル問、児、夢ノ中ニ、聖人有テ、我ガ頂ヲ撫ヅルヲ、亦傍ニ人有テ告テ云ク、﹁汝ヂ、 此ノ頂撫ヅル人ヲパ知リタリヤ否ヤ﹂ト。児答テ云ク、﹁不知﹂ト。亦云ク、﹁是ハ比叡山ノ 大師也。汝ガ師ト可成キニ依テ、汝ガ頂撫ヅル也﹂ト。夢覚テ、見テ思ハ夕、﹁然レパ、我 レハ比叡山ノ僧ト可成ニコソ有ナレ﹂ト思テ、年口歳ニシテ、遂ニ比叡山ニ登テ、始テ、伝 ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 五 五﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 五 六 教大師ヲ見ルニ、大師咲ヲ含テ、喜ピ給フ事無限シ。本ヨリ知レル人ヲ見ルガ知シ。児亦、 昔夢二見シ形ニ替ル事無シ。其後、大師ニ随テ頭ヲ剃テ法師ト成ヌ。名ヲ円仁ト云フ。顕密 ノ法ヲ習ブニ、少シキ愚ナル事無シ。 市ル問、伝教大師失給ヒヌレパ、心ニ思ハク、﹁我レ、唐ニ渡テ顕密ノ法ヲ習ヒ極メム﹂ ト思テ、承和二年ト云フ年、唐ニ渡ヌ。天台山ニ登リ五台山ニ参リ、所々ニ遊行シテ聖跡ヲ 礼シ、仏法流布ノ所ニ行テハ是ヲ習フ問、恵正(正しくは﹁曾昌﹂)天 ト 云 フ 天 皇 ノ 代 ニ 、 此ノ天皇、仏法ヲ亡ス宣旨ヲ下シテ、寺 ヲ破リ壊テ焼キ失ヒ、法師ヲ捕テ令遷俗ム。使、 四 方 ニ 相 ヒ 分 レ テ 亡 。 ※ 類 話 と し て 、 ﹃ 宇 治 拾 遺 物 語 ﹄ ( 巻 十 三 ) ﹁ 十 慈 覚 大 師 綴 績 城 に 入 り 給 ふ 事 ﹂ 、 ﹃ 打 開 集 ﹄ ﹁ 十 八 慈覚大師入唐問事﹂が見える。 はじめに今回の仏教文化講演会の演題に﹁法滅﹂などという不穏当な言葉を使用したことにつきましては、輔草壁を買うかも知れないと思いな がらも、南都焼亡という終末的状況を端的に表すためであり、それ以降の東大寺再建事業という再生を述べるために敢えて使用したことをお断 り し て お き ま す 。 そもそも﹁法滅﹂という語は、﹁寺院・経巻の焼失を誇張して法滅という﹂(岩本裕﹁日本悌教語辞典﹄)とあり、古くは︹資料 I ︺ ﹁ 唐 書 ﹄ 武 宗本紀に﹁曾昌五年:::八月壬午大いに悌寺を毅ち復た僧尼を民に為す﹂という記事をその例として挙げることができます。﹁曾昌﹂とは中国 の元号ですから、武宗のことを﹁曾昌天子﹂として、先に挙げた九条兼実の日記﹃玉葉﹄にも南都炎上の記事の後に、﹁猶々大悌の再造立、何 れの世何れの時ぞや。曾昌天子の跡に異ならざるものか﹂と、曾昌天子のことが触れられています。南都焼失という事件に際して、武宗の廃仏 を想起していることに注目して戴きたいと思います。 また、この事件に遭遇した慈覚大師円仁の挿話が︹資料
H
︺﹃今昔物語集﹄以下の説話集にあります。武帝は廃仏の勅を下し、仏教に徹底的弾圧を加えた。曾昌の破仏に遭遇した円仁の受難を象徴化したような一話です。
南都炎上
︹資料即︺﹃東大寺続要録﹄造悌篇﹁嘗寺焼失事﹂ 治承四年十二月廿六日下数百騎官兵、大衆行向、隔木津河合戦。翌日廿八日官兵入来南都、 慮々追捕、遂以放火。大悌殿、四面廻廊、講堂、三面僧房、食堂、八幡宮、東塔、戒壇院、 大湯屋、上院、闘伽井屋、白銀堂、東南院、尊勝院、其外僧坊民屋悉以焼失。暴風吹自西、 猛火織子中、滅亡時擦鳴咽不休。所残法花堂、二月堂、同食堂、三昧堂、僧正堂、鐘堂、唐 禅院堂、上司倉、下司倉、正院、圏分門、中御門、砧櫨門、南院門等也。 ※﹃平家物語﹄覚一本﹁奈良炎上﹂ 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西 金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃をならべし四面の廊、朱丹をまじへし二階の楼、 九輪そらにかかやきし二基の塔、たちまちに煙となるこそかなしげれ。東大寺は常在不滅実 報寂光の生身の御仏とおぼしめしなずらへて、聖武皇帝、手づから身づからみがきたて給ひ し、金銅十六丈の麗舎那仏、烏窓たかくあらはれて、半天の雲にかくれ、白事新にをがまれ 給ひし、満月の尊容も、御くしは焼けおちて大地にあり。御身はわきあひて山のごとし。八 万四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼれ、四十一地の理路は、夜の星むなしく十悪 の風にただよふ。煙は中天にみちみち、ほのぼは虚空にひまもなし。まのあたりに見奉る者、 さらにまなこをあてず。はるかにったへきく人は、肝たましひをうしなへり。法相、三論の 法門聖教すべて一巻のこらず。我朝はいふに及ばず、天竺震E
にも、これ程の割減あるべし ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 五 七﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二五八 と も お ぼ え ず 。 ※延慶本には﹁遠尋先般於異域者過曾昌天子之犯罪、近考悪例於本朝者超守屋大臣之逆悪﹂の後に、﹁澄憲法師の法滅の記と云文をか﹀れた る其の言を閉そ悲しき﹂という一文が見える。 ﹁法滅﹂という言葉の説明を行いましたので、今回のテ!マである﹁南都炎上﹂の話に入りたいと思います。御存知のように、高倉宮以仁王 を戴いた源三位頼政による反平家の挙兵失敗以来、奈良の僧徒らの反抗が絶えず、 ついに平相国清盛は重衡を大将軍として攻めさせるに至りま す。その折、在家に付けた火が風に煽られ、興福寺・東大寺を焼き尽くした事件については、説明するまでもありません。特に東大寺は﹁鎮護 国家の法﹂の象徴としての虚舎那仏(大仏)の回様は、九条兼実の﹃玉葉﹄の記述に見るように、平安貴族にとって精神の拠り所を失ったかの ょうであります。︹資料凹︺﹃東大寺続要録﹄という資料を見ると、その被害の大きさが分かりますが、傍線部に焼失した大傍殿以下の建物が記 されており、大変大きな被害であったことが分かります。 また、覚一本﹃平家物語﹄の﹁奈良炎上﹂では語り本らしい口調の良さで叙述されていますが、最後に﹁法相、三論の法門聖教すべて一巻の こらず。我朝はいふに及ぱず、天竺震旦にも、これ程の剖淵あるべしともおぽえず﹂などと描かれており、初めて﹁法滅﹂という語が使用され ています。なお、延慶本﹃平家物語﹄には、﹁澄憲法師の法滅の記﹂という文があったことが記されております。
﹁
東
大
寺
衆
徒
参
詣
伊
勢
大
神
宮
記
﹂
の意義 資 料I
V
東 大 寺 衆 徒 参 詣 伊 勢 大 神 宮 記 真 福 寺 善 本 叢 刊 第 八 , 巻 古 文 書 集 東大寺勧進上人重源、当寺造営祈祷、於大神宮大般若経書写供養井転読間事会ニケ度)。 ①文治弐四月廿六日、外宮法楽於常明寺供養(導師南都尊勝院僧都弁暁)。 同廿七日、六十口(南京僧)転読。法花持者十人読請同南京。 ②建久四年、向上人、二宮法楽、大般若供養。所二見天覚寺。導師、醍醐座主勝賢僧正。蔓茶羅供。 外宮輪匠、番民部卿己講(定範)。(布施人別帖絹一疋、沙金一両ッ、七十口)。 ③建久六年四月十七日、於菩提山供養。十八日、読語。 先日外宮法楽導師、侍従己講貞慶。今日内宮法楽、光明山僧都明遍、所可被勤、聴聞衆 ニ テ へ シ ト 中今日己講御房御説法候諸人令申之。依所望、貞慶、重被勤之問、厳重不思議非一。 雛忽、不之。説法最中、光明赫道場、種々瑞相現。不知人之。両上人御房、互依願主信 力云々。即日之夕、聖人坐禅眠中、元止貴女来、聖人前、水精珠二果授与之(一果紅薄 様裏之。一果臼薄様裏之)。聖人間云、是、誰人乎。答云、吾是、風宮也云々。夢中授与 珠、覚後、現在袖上。捧頂上、帰南都、多年安置之(云々。件珠者、号火執珠・水取珠 也。今度供養之間)、不思議非一。重源聖人、申貞慶聖人云、御説法瑞相御得分也。此 珠 ハ 私 得 分 也 云 々 。 ※小林剛﹃俊乗房重源の研究﹄(有隣堂・昭和必) 目崎徳衛﹃西行の思想史的研究﹄(吉川弘文館・昭和日) 阿部泰郎﹃古文書集こ)﹄真福寺善本叢刊解題(臨川書庖・平成ロ←﹁中世日本の宗教テクスト体系﹄名大出版会・平成お) 同﹁伊勢に参る聖と王 ー﹃東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記﹄をめぐりて﹂(今谷明﹃王権と神祇﹄思文閣出版・平成 U ) 伊 藤 聡﹁文治二年東大寺衆徒伊勢参宮と弁暁 ー金沢文庫保管﹃大神宮大般若供養﹄をめぐって﹂(仏教文学お号・平成日←﹃中世天照 大神信仰の研究﹄法蔵館・平成幻) 同﹁重源と宝珠﹂(仏教文学お号・平成 U ←﹃中世天照大神信仰の研究﹄) 近本謙介﹁文治から建久へ ー東大寺衆徒伊勢参詣と西行﹂(巡礼記研究
3
集・平成凶) 同﹁廃滅からの再生 ー南都における中世の到来﹂(日本文学・平成ロ・ 7 月 ) ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 五 九﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 六
O
壊滅的打撃を受けた東大寺の再建事業については、半年後の治承五年(一一八一)六月廿六日に早くも着手され、造偽造寺等長官に左少弁行 隆が任命されています。また東大寺勧進上人として推挙されたのが俊乗房重源という人物です。 この重源上人は醍醐や高野山で修行した真言僧ですので、東大寺に関係も無く、所属する宗派をも異にした重源がどうして東大寺の僧侶たち を差し措いて勧進職に就いたのか、よく分からないのです。 一説には、浄土宗関係の資料﹁黒谷源空上人停﹂などに拠ると、院の仰せとして法 然房源空に東大寺勧進職の白羽の矢が立てられたが、源空がこれを辞退した代わりに重源を推挙したと伝えられています。あるいはまた、 説 では、南都関係の資料﹁東大寺造立供養記﹂などに拠ると、重源が東大寺に参詣して、焼け損じた大仏のむごたらしい有様を見て、その復興の 仕事を買って出たと伝えられています。もっとも﹁東大寺造立供養記﹂などの東大寺側の資料に、法然房源空が辞退したので、その代わりに重 源が推挙されたとは書けないですね。ともあれ俊乗房重源の活躍により摂関家や源頼朝などの協力を得て、大仏の右手・頭部・左手など鋳造が 進むなど、文治元年(一一八五)八月廿八日の東大寺大仏開眼供養まで奮闘が続きます。 こうした具体的な経緯と併行して、東大寺衆徒による伊勢参詣が行われます。この文治二年(一一八六)四月の伊勢参詣の様子は︹資料W
︺ ﹃東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記﹄という記事に、叙述されています。衆徒参詣の記事に番号を付しましたように、東大寺衆徒による伊勢参詣は、 建久四年、建久六年と繰り返し行われております。 東大寺衆徒による伊勢神宮参詣という事実は、それまでの東大寺と伊勢神宮との関係からは考えられない出来事なのですが、それについて 様々なことが分かります。目崎徳衛は、この東大寺衆徒による伊勢参詣初度の場に、西行が居合わせたのではないかということを提示していま す。最近では、阿部泰郎によって、この伊勢参詣記についての詳細な考察が為され、続いて伊藤聡も東大寺衆徒による大般若供養について論じ ております。また建久六年の参詣記事中の貞慶による説法に対して起こった瑞相と夢想による宝珠感得についても、阿部・伊藤両氏による考察 が為されています。その他にも、近本謙介によって、貞慶をはじめとする定範・明遍・勝賢などの通憲一門の位置に関する考察もあります。し かし、﹁法滅﹂からの再生に関する動向を詳述するには、時間もありませんので、今回、﹁西行﹂についての和歌的業績に焦点を絞って話をした い と 思 い ま す 。四
伊勢神宮と本地垂迩
︹ 資 料 V ︺﹃千載和歌集﹄神紙(岩波新古典大系に拠る) 高野の山を住みうかれてのち、伊勢の国二見浦の山寺 に侍けるに、大神宮の御山をば神路山と申、大日如来 の御垂跡を思ひてよみ侍ける 円 位 深く入りて神路のをくを尋ぬればまたうゑもなき峰の松風ご二七八) ※解説(松野陽こ には﹁真言の本尊大日如来の垂迩である天照大神への讃何を述べる。高野から伊勢への移住は、 一貫した信仰上の行動で あ っ た 。 ﹂ と す る 。 ﹃山家集﹄以下の西行家集にも、同様の信仰を詠じた歌が次のように見えます。 伊勢に罷りたりけるに、大神宮に参りて詠みける ①榊葉に心を掛けん木綿四手て思へば神も仏なりけり(山家集一二二三) ( 西 行 上 人 集 は 第 三 句 ﹁ ゆ ふ し で の ﹂ ) 伊勢太神宮にて ②神路山月さやかなるかひありて天の下をぱ照らすなりけり(西行上人集六O
二 ) (御裳濯河歌合一番右では第三句﹁ちかひありて﹂) 伊勢の月読の社に参りて、月をみて詠める ③さやかなる鷲の高嶺の雲居より影和らぐる月読の森(西行上人集六一二) 当時の西行が抱いていた信仰を端的に表すものとして、右のような﹃千載和歌集﹄神紙の歌︹資料 V ︺があります。大神宮(この場合は祭神 ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 一 一 占 ハ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 一 一 六 の﹁天照犬神﹂のこと)は、仏(真言密教の本尊である﹁大日如来﹂)が衆生救済のため仮に神として身を現したもの、 つまり﹁本地垂迩﹂信 仰が示されています。また他にも、後半の﹃山家集﹄以下の家集にも、①﹁思へば神も仏なりけり﹂、②﹁さやかなるちかひありて﹂、そして③ ﹁影和らぐる月読の森﹂など、﹁本地垂迩﹂を裏付ける言葉が詠まれているのです。 この﹁本地垂漣﹂信仰はもちろん西行だけに見られるものではなく、平安末期以降盛んになったものですが、西行が何時頃からそういう信仰 を抱くようになったのでしょうか。その意味で、千載集歌﹁深く入りて﹂は西行の伊勢に関する本地垂漣信仰を示す重要な資料なのですげれど も、前述しました文治二年(一一八六)四月の東大寺衆徒による伊勢参詣とほぼ同時期であることは注目してよいと言えます。ちなみに、千載 集奏覧はその序に拠れば文治三年(一一八七)九月とありますが、実際に奏覧されたのは翌四年(一一八八)四月であったのです。
五
西行の和歌的営為
︹ 資 料 引 ︺ 二 見 浦 百 首 A ﹃ 拾 遺 愚 草 ﹄ 端作﹁二見浦百首﹂(文治二年同位上人勧進之) B ﹃拾玉集﹄第一帖﹁御裳濯百首(二見)﹂の末尾に ※勅撰集入集の本百首と思われる歌 ①新古今・雑一六六四 西行法師、百首歌勧めてよませ侍りけるに 家隆朝臣 ②続後撰・雑一二二五 西行法師、勧め侍りける百首歌に 寂蓮法師 ③続拾遺・秋三七六・冬四四五西行法師、勧め侍りける百首歌に 左近中将公衡 ④玉葉・春一一九、続千載・神紙八七八、続後拾遺・哀傷二一七三、新拾遺・冬六四五・神紙一四四一 西行法師、勧め侍りける百首歌の中に 前中納言定家 楽坂口博規﹁西行の奥州再度の旅の背景﹂(駒沢国文ロ号・昭和印) 目崎徳衛﹁山里と修行 ー西行伝記研究 その五・六﹂(聖心女子大学論叢
ω
・切集・昭和白←﹁西行の思想史的研究﹄(吉川弘文館・昭和 53 久保田淳﹃藤原家隆集とその研究﹄(三弥井書庖・昭和必) 度会春章を含む十三人の名前を挙げているが、これ以降の西行研究論文は全てこれに従っている。 石 J 11 ﹁ ﹃ 二 見 浦 百 首 ﹄ 作 者 の 再 吟 味 ー﹃御裳濯和歌集﹄﹃二見浦百首拾遺﹄の関係を焦点として﹂(国語国文礼巻 1 号・平成 U ・ 1 月 ) 東大寺再建時の西行の和歌的業績(一)として、︹資料羽︺﹁二見浦百首﹂は正しくは﹁西行法師勧進二見浦百首﹂と言いますロ二見浦は現在の 伊勢市二見町。五十鈴川河口から夫婦岩の立つ立石崎までの海岸で、白砂青松で有名です。西行はその二見浦に庵を結んで住んでいましたので、 勧進百首の名前として採用したものと思われます。 参考として、勅撰集詞書に﹁二見浦百首﹂であることが明記されているものを示してありますが、これ以外に調書に明記されていないものを 含め、数多くの歌が勅撰集に採られたことが確認できます。この作品については、定家家集﹃拾遺愚草﹄上に収録されている﹁二見浦百首﹂端 作に﹁文治二年円位上人勧進之(文治二年円位上人之を勧進す)﹂とあり、また詠進が二年遅れた慈円の当該百首﹁御裳濯百首(二見この百首 末尾に﹁依円位聖人勧進、文治四年秋比詠之。為大神宮法楽也云々。只為結縁也(円位聖人勧進に依って、文治四年秋比之を詠む。大神宮法楽 の為也と云々。只結縁と為す也ことあることから、競作者の定家・慈円たちは大神宮法楽のための百首勧進だという認識を持っていたことに な り ま す 。 また﹃吾妻鏡﹄文治二年八月十五日の条に、西行は鎌倉に現れたことが記されています。資料には挙げておりませんが、﹁二品(源頼朝)鶴 ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 一 一 六﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 六 四 岡宮に御参詣、而るに老僧一人鳥居の辺に俳佃す。之を佐しみ、景季を以て名字を聞はしめ給ふの処、佐藤兵衛尉憲清法師なり、今は西行と号 すと云々﹂ということです。さらに、同十六日の条に、﹁是重源上人の約諾を請け、東大寺料として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く。此便路 を以て、鶴岡に巡礼すと云々。陸奥守秀衡入道は、上人の一族なり﹂とあり、奥州下向の目的は沙金勧進にあったことが示されており、西行が 勧進役に選出されたのは奥州平泉の藤原氏と縁戚であることに拠ることが分かります。同時に、坂口博規の説くように、平泉と鎌倉との険悪な 事情を超越する意味において、勧進役に西行が選ばれた必然性と、また鎌倉での頼朝との濯遁をめぐる様々な憶測が注目されます。 このことを整理しますと、文治二年四月の東大寺衆徒による伊勢参詣以後、大仏鍍金のための沙金勧進旅行という奥州下向以前に、本百首勧 進が為されたことになります。その意味では、本百首は東大寺再建という大前提の下に、伊勢神宮法楽のために勧進されたと考えて良いでしょ
っ
。
ともあれ﹁二見浦百首﹂は和歌史的にも重要な百首歌で、特に定家の新風和歌への出発点ということばかりが強調されがちですが、東大寺再 建という大前提を蔑ろにしてはいけないのではないでしょうか。 なお、この百首作者については、久保田淳の言うように、私撰集﹃御裳濯和歌集﹄から﹁二見浦百首﹂という詞書を持つ歌を基本的に抄出す るということで成された﹃(文治二年西行法師勧進)二見浦百首拾遺﹄などを参照して、﹁二見浦百首﹂作者を知ることが可能となります。久保 回淳は度会春章を含む十三人の名前を挙げており、それ以降の西行関係の研究者はそれを疑うことなく従っております。私は、﹃二見浦百首拾 遺﹄作者が﹁題不知﹂の度会春章歌を﹁二見浦百首﹂詠と誤認したことを実証したことがあります。ちなみに、﹁二見浦百首﹂作者は、定家・ 家隆・寂蓮・慈円・隆信・祐盛・公衡・長方・蓮阿・寂延・蓮上・蓮位の十二人となり、やはり当時の名数という見地からも六の倍数の方が落 ち着きがあるように思います。 ︹ 資 料 刊 ︺ 両 宮 歌 合A
﹃御裳濯河歌合﹄(西行法師・判者俊成卿) 番左 持 山家客人 岩戸あけし天つみことのそのかみに桜をたれか植ゑはじめけん 右 野径亭主 神路山月さやかなるちかひありて天の下をば照らすなりけり 豊葦原の国のならひとして、難波津の歌は人の心をやる中だちとなりにければ、是を よまざる人はなかるべし D しかあれど、よしとはいかなるをいひ、あしとはいづれを定 むべしとは、我も人もしる所にあらざるものなり。その故は、あをによし奈良の都のと き、撰ぴおかれたる万葉集は、世もあがり、人の心も及びがたければ、しばらくおく。 それよりこのかた、紀貫之、凡河内弱恒等が撰べる所の古今集こそは歌のもととは仰ぐ べきことなるを、同じ集の内の歌をも、或は絵にかける女にたとへ、凋める花の匂ひ残 れるによそへ、或は商人のよききぬ着たるといひ、回夫の花の陰に休めるがごとしとい へる、是らの心を思ふに、撰集はさまざまの歌の姿をぱ分かず、その筋にとりてよろし きをば取り撰べるなるべし。彼の時より後、 四条大納言公任卿、 さまざまの歌の道をみ がきて、あるは十あまり五つがひの歌合、あるは三十あまり六の歌人をたたかはしめ、 九品の歌を定めたり。これすなはち多くは古今集の内の歌を、あるをば上が上品に挙げ、 あるをば下が下品に置けり。これらのたぐひは疑ひの心も結ぽほれぬべけれど、先達の ことは及ぶところにあらず。今の世の人は歌のよしあしをいはむにつけて、境ひに入り 入らざるほどを知らざるものなり。 抑、歌合といふ物は、上古にもありけんを、しるし伝へぎりけるにや、亭子のみかど の御時よりぞしるし置かれたれど、ある時は勝負をつけられず、ある折は勝負をばつけ ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 六 五
﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 一 一 六 六 ながら判の言葉は書きしるされて後、永承・承暦の歌合ならびに私の家にいたるまで勝 負をつけしるすことに成りにげる。あるは仏 に寄せて結縁を称し、あるは霊社に寄せ て神威をかりて、番ひを結 、判をうけしむる問、
E
は今の愚老に至るまで、型のごと く古きあとを学びつつ、及ばぬ心にまかせて勝負を定むる事、既に数なくなりにけん。 つらつらこのことを思ふに、且はこの道の先賢なき影にも見思はれんことその恥かぎ りなし。いかにいはんや、住吉の明神よりはじめ奉りて、照らし見そなはすらん事、恐 れいくそばくぞ。しかるのみにあらず、齢かたぶき、老いにのぞみて後は、朝に見る事、 夕べに忘れ、夜半のむしろに思ふこと、あかつきの枕にとどまる事なければ、古き時の 証歌、今の世の諸作、見る事、聞く事ひとつも心に残る事なし。よりて近き年よりこの 方、長くこのことをたち 、りにたれども、上人円位壮年の昔より、互ひに己れを知れる によりて、二世の契りを結び終りにき。おのおの老いにのぞみて後、彼の離居は山河を 隔てたりといへども、昔の芳契は旦暮に忘るる事なし。其の上に是は世の歌合の儀には あらざるよし、しげく示きるる趣を伝へ承るによりて、例のもの覚えぬ僻事どもを注し 申 す べ き な り 。 さてもかゃうのことのついでには、あはれに思ひ続けられ侍ることをも、とめ難くて な ん 。 昔、天承・長承の比ほひより、形のごとくこの道にたづきひて、ある時は薮姑射の山 の花のもとにつらなり、ある時は雲井の月の前に見なれしともがら、今は皆昔の夢にの みなりぬる世に、人の数にもあらず、桑の門の捨て人となりながら、今まで世にながら へ て 、 かゅのすずろごとを書き付け侍るにつけて、竹の窓に露しげく、苔のたもとしぽりあへ難く侍るを、 かかる藻屑の乱れたる言の葉ながら、かけまくもかしこき神風のつ てに、御裳濯川の汀、玉串の影にも散り侍らば、大内人の中にもおのづから露のあはれ はかけられ侍らんや。 一番の番ひ、左の歌は春の桜を思ふ余りに、神代の事までたどり、右の歌は天の下を 照らす月を見て、神路山のちかひをしれる心、ともに深く聞ゆ。時とすべし。 二番 左 時 神風に心やすくぞまかせつる桜の宮の花の盛りを 右 さやかなる鷲の高ねの雲井よりかげやはらぐる月よみの森 左の、桜の宮、右の月よみの森、勝劣なし。猶為時。 ( 中 略 ) 十六番 左 持 深く入りて神路の奥を尋ぬればまた上もなき峰の松風 右 流れ絶えぬ浪にや世をぱをさむらん神風涼しみもすその岸 左の歌は心詞深くして愚感難抑。右歌も神風久しくみもすその岸に涼しからん事、勝 劣の詞加へ難し。のりて持と申すべし。 ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 六 七
﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 六 八 B ﹃続三十六番歌合﹄(宮河の歌合ともいふべし)判者定家 番 左 玉津嶋海人 万代を山田の原のあや杉に風しきたてて声よばふなり 右 三輪山老翁 流れ出でてみあとたれますみづがきは宮河よりやわたらひのしめ 左右歌、義隔凡俗興入幽玄。聞杉上之風声、模柿本之露詞、見宮河之流深蒼海之底。 短慮易迷、浅才難及者欺。仰先為持。 ( 中 略 ) 十六番 左 逢うふと見しその夜の夢はさめであれな長きねぶりは憂かるべけれど 右 あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき 両首、歌心ともに深く詞及び難ききまには見え侍るを、右の﹁この世﹂と置き、﹁来 む 世 ﹂ と い へ る 、 ひとへに風情をさきとして、調をいたはらずは見え侍れど、 か や う の難は此の歌合にとりて、すべてあるまじき事に侍れば、なずらへて文持とや申ずべ か ら ん 。 (敏文)神風宮河の歌合、勝ち負け記しつくべき由侍りし事は、玉櫛笥二年あまりにもなりぬ
れ ど 、 かくれては道をまもる神の深くみそなはさむことをおそれ、あらはれては家にった はらむ言の葉に、浅き色見えむ事をつつむのみにあらず、わづかに三十文字あまりを連ぬ れ ど 、 いまだ六つの姿のおもむきをだに知らず、 おのづから難波津のあとをならへど、さ らに出雲八雲のゆくへくらくのみ侍る上に、唐土の昔の時だに、幾百年のうちとかや、詞 人才子の文体、三度改まりにければ、まして大和言葉の定まれる所なき心姿、 いづれを悪 し 善 し と い ひ 、 いかなるを深し浅しと思ひはかるべしとは、誰に従ひて何を実と知るべき にもあらず。時により所につけて、好み詠み褒め駿るならひにぞあるべき。 しかるを、此の歌合は、わざと沈み思ひて合せ番はれたるにもあらず。ただ多くの年来 積もれる言の葉を拾ひて、並びぬべき節々、通へる所々を思ひ合せっつ、左右に立てられ て侍れば、事の心幽かに歌の姿高くして、空よりも及びがたく、雲よりも測りがたし。 つ もるあはれは深けれど、雲間の草の短き調乱れて、書きあらはさむ方もなく、思ふ節しげ けれど、波路の董の浮きたる心のみ漂ひて、打ち出づべきことも思う給へられねば、春の あら田の返す返す思ひやみぬべくのみなり侍りぬれど、聖の契を仰ぎ奉る事も、この世一 つのあたのよしびにもあらず、仏の道に悟りひらけむ朝は、先づ翻す縁と結びおかむと思 ふ
。
又はたかきいやしきそこら道を好むともがらをおきて、齢いまだ三十路に及ばず、位猶 五つの品に沈みて、三笠山の雲の外に、 一人拾遺の名を恥ぢ、九重の月のもとに ひさし く陸沈の憂へに砕けたる、浅茅の末、葎の下の塵を身を尋ねて、浦の浜木綿重なれるあと、 正木の葛絶えぬ道許をあはれぴて、鈴鹿の関のふりはへ、 八十瀬の浪のたちかへりつつ、 思ふゆゑあり、猶かならず勤めおけと侍りしかば、宮河の清き流れに契を結ばば、位山の ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 六 九﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 七
O
とどこほる道までも、その御しるべや侍るとて、今聞き後見む人の噸りをもしらず、昔を 仰ぎふるきを偲ぶ心一つにまかせて、書き付砂侍りぬるになむ。 君はまづ憂き世の夢をきめぬとも思ひ合はせむ後の春秋 御返し 春秋を君おもひいでばわれはまた月と花とをながめおこせん ※田村悦子﹁西行の筆跡資料の検討﹂(美術研究・昭和初・ 1 月 ) 萩 谷 朴﹃平安朝歌合大成﹄八巻(私家版・昭和ω )
目崎徳衛﹃西行の思想史的研究﹄(吉川弘文館・昭和田) 奥野陽子﹁君おもひいでなば ー西行両宮歌合について﹂(新見女子短大紀要4巻・昭和印) 白井昭吾﹁﹃宮川歌合﹄敏文付載贈答歌考﹂弘前大学国語国文学日号・平成 3 ) 佐藤恒雄﹁西行両宮歌合をめぐって ー加判依頼にこめられた意図を中心に﹂(中世文学研究日号・昭和ω
←﹃藤原定家研究﹄風間書房・ 平 成 日 ) 補 訂 。 業自歌合(じかあはせ)一自詠を左右に番えて歌合にしたもの。その優劣を自らあるいは他者の判によって定める場合もあるが、判を伴わな いことも、また他人の歌も入っていたり他撰の場合もあったりと、形式は必ずしも定まっていない。:::自讃歌の集成であり自身の和歌観 をも披漉し、当代の著名歌人に加判を依頼した白歌合の鳴矢は、西行の内宮外宮への奉納の自歌合、すなわち文治三年 1187 俊成加判の ﹃ 御 裳 濯 河 歌 合 ﹄ 、 文 治 五 年 頃 定 家 加 判 の ﹃ 宮 河 歌 合 ﹄ で あ る 。 ( ﹃C
D
版 和 歌 大 辞 典 ﹄ ) 西行の和歌的業績(二)は、伊勢内宮・外宮へ奉納した︹資料刊︺雨宮歌合で、﹃御裳濯河歌合﹄(内宮)と﹃宮河歌合﹄(外宮)と言います。 言うまでもなく、御裳濯河は五十鈴川の古称で内宮域内を、宮河は外宮手前を流れる川の名称です。 そもそも﹁自歌合(じかあはせこという耳慣れない事項について説明しますと、﹁個人詠を左右に番えて歌合にしたもの﹂で、その意味では優劣には意味が無く、寺社法楽のためのものです。しかも秀歌撰的性格を持っていますので、本人にとっても自信作と言えるものです。﹁自讃 歌の集成であり自身の和歌観をも披涯し、当代の著名歌人に加判を依頼した自歌合の鴨矢は、西行の内宮外宮への奉納の自歌合、すなわち文治 三 年 1187 俊成加判の﹃御裳濯河歌合﹄、文治五年頃定家加判の﹁宮河歌合﹄である。﹂(﹃
C
D
版 和 歌 大 辞 典 ﹂ ) ﹃御裳濯河歌合﹄第一番は、内宮の桜に対して神代にまで思いを馳せ、神路山の本地垂迩を扱い、内宮への讃仰を詠じています。その俊成判 詞には、傍線部﹁あるは仏事に寄せて結縁を称し、あるは霊社に寄せて神威をかりて、番ひを結び、判をうけしむる間﹂とあるように、この歌 合が神事に関わるものだからと述べており、﹁長くこのことをたち終わりにたれども﹂と所謂﹁和歌起請﹂によって判者を断ろうとしながらも、 ﹁是は世の歌合の儀にはあらざるよし﹂ということで、伊勢神宮に奉納する歌合だから引き受けた経緯が述べられています。 また﹃宮河歌合﹄第一番は、山田の原にある杉の梢に吹く風を誉め称え、度会の地にある瑞垣の深遠さを通して、外宮への讃仰を詠じていま す。その政文には﹁思ふゆゑあり、猶かならず勤めおけ﹂と定家への啓示めいた言葉も記されています。 この両宮歌合について先行研究は数多く為されていますので、少しまとめてみたいと思います。萩谷朴は﹁自己の歌歴の総決算を大神宮に奉 納するという一世一代の精魂簡めた気持ちと、自歌合という秀歌撰を重代判者の俊成定家父子に依頼するという数々の要素を盛り込んだ趣向の 卓抜さを強調したかった﹂と客観的な事象を述べています。この両宮歌合に関する評価を端的に分類するとすれば、目崎徳衛の言う﹁晩年に至 つては生涯の数寄をみずから精算し仏道に徹しようと志したもの、 つまり数寄からの脱却﹂という考え方と、佐藤恒雄の言う﹁自らの歌業の総 決算として両宮歌合を大神宮に奉献し、あわせて俊成とそれ以上に若き定家の初めての歌合判を宝前に運び伊勢の大神に引き合わせる﹂という 考え方に分けられます。双方の見解はある程度首肯できますが、これも﹁二見浦百首﹂と同じく、東大寺再建という大前提を忘れてはいげない と 思 い ま す 。 ︹資料川︺諸社十二巻歌合 伝鴨長明筆﹃伊勢瀧原社十七番膏合﹄を、久保木による翻刻、および論文巻末に所載の写真版に拠って提示しておく。(漢字を宛てた場 合は、振り仮名の形で底本を表示し、濁点は私意。上部に歌の通し番号を付す。) ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 七﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 三 七 二 伊勢瀧原社十七番寄合 番 左 権 司 な か い い は ま ひ h た せ い す ﹀ か は わ ( 1 ) 流れ出で﹀岩間響かす濠ぎつ瀬は五十鈴の河の分かれなりけり 右 少 司 な み み を は な か た よ た ' U ら あ ら し な か ( 2 ) 浪と見えて尾花片寄る瀧の原に松の嵐の流るなり 二番 左 い よ い ζ と 障 し つ を は 八幡の放生曾に参りたりけるに、夜に入りて事果て﹀静まるほどに御座しましける。 ζk が ら ひ 晶 砂 し -に を ぽ よ 事柄昼の気色にも似ず、あはれに覚えて詠みける か へ み ち を ︿ 書 ぴ に 肱 ζ ﹀ ち ( 3 ) 帰ります道の送りの寂しきはありつる庭の心地やはする 右 あ 晶 か ず 争 は し め う ち つ ね わ 書 ま ね ( 4 ) 現人の影和らぐる標の内は常なきことの業を真似へる 二 番 左 な を ︿ 車 月名に負ひて隈なかりけり、放生河を見遣て 憾 な う U ろ ︿ っ か す み す ( 5 ) 放たれでもなく浮きぬる鱗の数見ゆばかり澄める月かな 右 ひ き か た み や ζ う ち た か ︿ ︿ 車 ( 6 ) 久方の月の都の内はしも立ち隠るべき隈はあらじな 四 番
左 も ﹀ し き は る た そ ら か す に は ひ た け む り み ( 7 ) 百敷に春立つ空の霞めるを庭の火焼きの煙とぞ見る ※ 松 野 陽 一 ﹁西行の﹃諸社十二巻歌合﹄をめぐって﹂(平安朝文学研究 2 巻 8 号・昭和
μ
←﹃鳥帯 千載集時代和歌の研究﹄風間書房・ 平成 7 ) 久保木秀夫﹁伝鴨長明筆﹃伊勢滝原十七番歌合﹄断簡 ー西行最晩年の自歌合﹃諸社十二巻歌合﹄か﹂(国文学研究資料館紀要初号・ 平成ロ←﹃中古中世散逸歌集研究﹄青簡社・平成幻) 石 川 ﹁西行﹁諸社十二巻歌合﹄の考察 ー﹃伊勢瀧原社十七番歌合﹄所収歌の分析を通して﹂(和歌文学会関西例会で口頭発表。 平 成 お ・ 4 月←投稿中) 最後に、西行の和歌的業績(三)として、︹資料四︺﹁諸社十二巻歌合﹂という作品を紹介したいと思います。 もともと西行の﹁諸社十二巻歌合﹂については、松野陽一が﹃拾玉集﹄詞書などから、西行最晩年の自歌合であると提示したものでしたが、 ﹃拾玉集﹄詞書にしか存在しない歌合でしたので、それ以上の進展は望むべきものではなかったのです。その地平を拡げたのが久保木秀夫論文 ということになります。久保木秀夫は︹資料川︺杉谷寿郎蔵の伝鴨長明筆﹃伊勢滝原社十七番歌合﹂断簡を紹介し、その中に玄玉集所収の西行 歌が含まれることに注目して、この断簡が西行の﹁諸社十二巻歌合﹂ではないかという推論を提示します。 しかし、久保木秀夫による﹁諸社十二巻歌合﹂の断簡という提起は充分首肯できますが、﹁諸社十二巻歌合﹂が摂社の﹁瀧原社﹂に奉納する ものという分析を提示したことについては、多分に疑問が残ります。これも煩雑になりますので、要点のみ整理して述べてみます。 自歌合一番は、歌合のための新作歌である可能性が強い上に、奉納する祭神に対する尊崇を詠じるのが一つの形式となっていることは、先に 提示した﹃御裳濯河歌合﹄﹃宮河歌合﹄でも明確だと思います。そこで、本歌合第一番左歌﹁流れ出で﹀岩間響かす濠つ瀬は五十鈴の河の分か れなりけり﹂を見てみますと、この﹁五十鈴の河﹂というのは天照大神または伊勢内宮に対する尊崇を詠じたもの、即ち天照大神逢宮と称され る別宮﹁灘原宮﹂を詠じたものであり、決して祭神﹁真奈胡神﹂を杷る摂社﹁瀧原神社﹂ではないことになります。その意味からも、﹁諸社十 ﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 七 三﹁ 法 滅 ﹂ か ら の 再 生 二 七 四 二巻歌合﹂が別宮﹁瀧原宮﹂に奉納する歌合であることが明確となるのではないでしょうか。 ームー /¥ 結 び 最後に、これまで述べてきたことをまとめてみたいと思います。西行の﹁二見浦百首﹂・両宮歌合・﹁諸社十二巻歌合﹂など個別の和歌的営為 については、和歌研究サイドからかなり明確にされています。 すなわち﹁二見浦百首﹂は歌人定家の出発点となったことは前述しましたが、特に雑廿首末尾には﹁楊貴妃・李夫人・王昭君・上陽人・陵園 妾﹂などの白居易の新楽府の篇名を題とする歌が配されているように、色んな意味で新古今和歌の始まりと言えます。両宮歌合はそれまでの全 作歌行為の総合的・象徴的意味を持つと考えられ、伊勢をめぐる中世天照大神信仰の萌芽が神祇歌の中に見られるなど、内包する意味は注目に 値します。また﹁諸社十二巻歌合﹂は断簡にしか過ぎませんが、﹁二見浦百首﹂・両宮歌合と一連の和歌的営為として捉えられることで、その作 品の持つ意義は大きなものと言えます。 しかし、そういう和歌研究サイドからの個別に蓄積された成果だけでは、これらの西行の企画した作品の真価は得られないと思われます。 ﹁二見浦百首﹂や両宮歌合が西行の陸奥旅行の目的(大仏鍍金のための沙金勧進)と密接に関係していると考えられると同時に、重源が東大寺 再建事業の祈願のために多数の東大寺衆徒を引き連れ、伊勢神宮に参詣したこととの関係を抜きにしては語れないわけです。この﹃東大寺衆徒 参詣伊勢大神宮記﹄についての阿部泰郎・伊藤聡や近本謙介らの考察が続いていますが、こうした周辺の宗教的・思想史的あるいは説話的考察 は極めて重要であると思います。 西行の企画した作品の目的は﹁数奇よりの脱却﹂という目崎徳衛の見解も魅力的ですし、﹁俊成・定家父子への加判依頼にこめられた意図を 重視﹂する佐藤恒雄の見解もある程度首肯できますが、﹁東大寺再建﹂のための一連の営為の中で捉えられることを疎かにしてはならないと思 い ま す 。 難しい内容を分かりゃすく話すことの難しさを感じながら、私の今回の話を終えたいと思います。御静聴ありがとうございました。
︹付記︺当初、本講演の演目を﹁東大寺再建事業における西行﹂にしようと考えたが、仏教文化所主催の講演会ということを考慮し、﹁﹁法 滅﹂からの再生 l 東大寺再建における西行を中心に﹂という演題に落ち着いた。しかし、演題提出後に、近本謙介の二本の研究論文 ﹁文治から建久へ│東大寺衆徒伊勢参詣と西行﹂(巡礼記研究 3 集・平成凶)・同﹁廃滅からの再生