青森県夏泊半島における生業の諸相 とタどの受容
小林 亜希子
は じめに
本稿 では、青森県夏泊半島にお ける生業 の特質 とその変遷過程 をあき らかに した上で、
それ らの生業活動の具体例 か ら、夏泊半島を中心 とした、他地域 との物 ・人両面の交流関 係 を捉 える。
夏泊半島は青森県のほぼ中央 に位 置 し、東、西、北の三方 を陸奥湾 に囲まれ てい る。 そ の陸奥湾 の東側 と北側 には下北半島が、西側 には津軽半島が位 置す る。行政 区画 としては、
青森県平内町に属す る。
調査期間は平成 13年か ら16年 まで、調査対象地 は、夏泊半島沿岸部部落である浅所 、 東滝、 白砂 、東 田沢、稲生、浦 田、茂浦 と、内陸部部落の野内畑 である。 さらに下北半島 西通 りの川 内町 (現むつ市)、脇野沢村 (現むつ市)、津軽 半島の平舘村 (現外 ヶ浜町)、
富山県氷見市で も補充調査 を行 った1。
調査方法は聞 き取 り調査 を主 とし、その対象者 は これ まで調査地で生活 を営んできた人、
も しくは調査地 を生活 の根拠地 としなが らも、出稼 ぎな どによ り他地域 での生活 を経験 し た人 とした。
第1節 半島内の生業
明治期以降の夏泊半島沿岸部で行 われ てきた生業 には、経済的依存度 の大小 を問題 に しな けれ ば漁業、農 業、畜産業、林業 (炭焼 き も含 む)、狩猟 、採集 が挙 げ られ 、 これ ら多様 な生業の複合 によ り生計が維持 され て きた。 なかで も地先漁業 は生計の中心 とな る生業で あったが、昭和 10年前後か ら資源 の減少 な どによ り次第 に衰退 し、代わって他地域‑の 出稼 ぎが盛 んになっていった。 そ して昭和 30年代後半にホタテの養殖技術が開発 され 、 それが数年 の間に普及す る と、その他 の生業は次第 に行われ な くなった り、規模 を縮小 し た りしていった。表12は、上記 の生業それぞれ の年代別変遷 を示 してい る。
1 漁業
夏泊半島沿岸部 にお ける漁業 は、昭和初期 まで、小型魚や貝類 を対象 とした各部落の地 先にお ける網漁や寵漁、突 き漁 な どが中心であった。 主要な地先漁業 としては、ホタテの 底 曳き網漁、タラの底建て網漁、カ レイな どの小型魚の刺 し網漁があげ られ る。 その多 く は家族 単位 で行 われ る小型漁であった。 しか し、家の労働 力の不足を補 うための、本分家 な どの親戚 同士、あるいは近隣の家 同士による共同関係 も見 られ た。
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昭和4、5年 頃 か ら、東 田沢 、稲 生 、浦 田、茂浦 の各部 落 に、富 山県か らイ ワシの大謀 網 をたて る親 方 が進 出 し、彼 らの主導 に よ り地 先 にお け る大型 の集 団漁 が開始 され た。 浅 所 、東滝 、 白砂 にお いて も部 落 内の ク ミと呼 ばれ る集 団 に よってイ ワシの大謀網 漁 、 あ る いは建 て網漁 が行 われ る よ うにな り、 これ らの ク ミには部 落 の ほ とん どの家 が参加 した。
昭和 12、13年 以 降 、次第 にイ ワシ、 タ ラ、 ホ タテ とい ったそれ までの主要 な漁獲物 が 不漁 にな ってい き、地先漁 業が衰 退 した。 一方 で、男性 が他 地域 に出て行 く出稼 ぎが盛 ん にな ってい った。 昭和 30年 頃 までは下北 半島や 北海 道 な ど‑ の漁 業 の出稼 ぎが盛 ん で あ ったが、そ の後 は北海道や 関東 地方‑ の土木 工事 の出稼 ぎが主 とな ってい った。
昭和 30年代 後 半 に、浦 田にお いてホ タテ養殖 の技術 が開発 され た。 昭和40年 以降 、漁 業協 同組 合 に よる奨励 もあ り、 ホ タテ養殖 漁 業 を開始す る家 は急速 に増加 した。 そ して現 在 で は、各部落 のほ とん どの家 がホ タテ養 殖漁 業 を専業 とす る よ うにな った。
表2:iは、特 に半 島沿岸 部 に行 われ て きた漁法 と、それ らの漁法 の年代 に よ る変遷 を示 してい る。
(1)地先小型 漁
・刺 し網 漁
ほぼ年 間 を通 して行 われ た漁 で あ り、農 業な ど他 の生業 の合 間 に も行 われ た。 漁期 に よ ってカ レイ、 ヒラメ、ア ブ ラメ、カナ ガ シ ラ、 タイ 、サバ な ど様 々な魚 を獲 った。 昭和初 期 までは、冬に刺 し網 で タ ラを獲 って いた。 そ の後 よ り効率 よ く漁獲 で き、 タ ラが傷 まな い底建 て網 漁が 下北 半島脇 野 沢村 の漁 場 か ら伝 わ り、 タラの漁 法 は底 建 て網 漁 に切 り替 わ った。 この漁 は家族 のみ で小規模 に行 われ る こ とが主 であ るが 、家族 の員数 が 足 りない と きな どは、本 分家 で組 んだ り、船 を所 有 していない人 に手伝 い を頼 んだ りす る場合 もあった。
・龍 漁
龍 を海 中に設 置 し、 一昼夜 沈 めてお いてか ら引 き上 げ、 ソィ、アブ ラメ、 ツブ な どを獲 った。 これ は小規模 の個 人漁 で、各家 で他 の漁や農 業 の合間 な どに よ く行 った。 寵 は昭和 40年 頃 まで、竹や 木 の皮 や 藁製 で、各家 で作成 した もの を使 用 して いた。 そ の後 はナ イ
ロンや プ ラスチ ック製 の もの を青森 市の資材屋 な どか ら購入 してい る。
漁獲 量は 主に 自家 食分程度 で あ る。 しか し冬期 間 に ツブ カ ゴで ツブ を獲 り、それ を煮 て 7、 8個ず つ 串 に刺 した もの を売 る こ とは よ く行 われ ていた。 ツブ を煮 て串に刺す 作 業 に は女性 や 子 どもも参加 し、数 軒 の家 の 共同で行 った り、他 家 か ら手伝 い を頼 ん だ りした こ
ともあった。
・突 き漁
突 き漁 は、 ソコ ミ、ヤ ス トリ、ナ ギマ ミな どとも呼 ばれ る。 ジ ャ ッピ、磯船 な どと呼 ば れ る小型船 上か ら、 ガラ スバ コ (箱 メガネ) で海底 を覗 き、 タモや 、先が3本 に分 かれ た ヤ スを使 ってナ マ コ、 ウニ、ア ワビな どを獲 る。 他 の漁や 、農 業 の合間の凪 の 目な どに よ
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く行 われ たO この漁 はたいてい2人 1組 で行 う。 その多 くは夫婦 であったが、 まれ に親 子 や 兄弟で組 む場合 もあった。2人の うち、船 を操 る、漁 の補助 的 な役割 であ る トモ ドリは、
女性や若者 が担 うこ とが多かった。
・底 曳き網 漁
昭和 10年 頃 まで、底 曳 き網 によって天然 のホ タテが獲 られ ていた。 当時 は動 力船 がな かったため ジャ ッピ、磯船 な どと呼 ばれ る帆掛 け船 で、網 を付 けた‑ ツシヤク とい う漁 具 を曳いて漁 を行 った。 ホ タテ 貝は周期 的 に大量発生 し、大 島の沿岸 には青森市街や 青森 市 浅 虫、下北 半島川 内町な どか ら海産物加 工業者 が進 出 し、各部落 のオオヤケ (裕福 な家) も加 工 を手がけた。 これ らの業者や家 は部落 の人 々に親 方 と呼 ばれ た。 当時部落 の人 々は、
船や網 な どの資材 を親方 か ら借 りて漁 を行 い、その代 わ り漁獲物 を親 方 に納 め、利 益 の一 部 を報酬 と して受 け取 った。利 益の分配 は 「四分六分」で、親 方が6割 、乗組 員が4割 で あった。
昭和2、3年 にホ タテが豊漁 にな る と、部落 内の親 方や本家 な どのオオヤケの 中に、発 動機 船 を使 用す る家 が増 えた。 しか し発動機船 よる漁 は、漁獲量 が けた違 いで、海底 も荒 らす ので、各部落 にお いて、発動機 船 での漁獲 をめ ぐって部落 を二分す るよ うな争 いが起 こった。
そ の後、ホ タテ の漁獲量 は徐 々に減 ってい き、発動機船 による底 曳 き網 漁 は禁止 され た。
しか し昭和 30年代 まで、発動機船 に よる底曳 き網 で、密 かに様 々な魚 貝類 を獲 る人 もい た。
・地曳 き網 漁
白砂 の地先 は、浜が広 く岩 も少 ないため、昭和40年 頃 まで地曳 き網 漁が行 われ ていた。
春 には コウナ ゴ、夏 か ら秋 にか けてはイ ワシが主に獲れ た。 自家 だけで行 うこともあった が、他家 と協力 して行 うこともあった。 イ ワシは獲 った後す ぐに浜 で釜茄 で し、それ を干
して煮干 に した もの を、浅所 の業者 に売 った。
・採 取
テ ングサ 、モ ズ ク、 フノ リ、 ワカメな どの海 藻 を、海 中に腰 まで浸 かって採 取 した。こ
れ は主に女性 の仕事で、 冬の農 閑期 に よ く行 われ た。採 った海 草 は主 に 自家食用 であった が、乾燥 させ て他所 に売 りに行 くこともあった。
浦 田、茂浦 では、昭和 30年 頃 まで、婦人会 の会 員が共 同で フ ノ リを採 り、それ を青森 市の問屋 に売 っていた。 そのお金 で会 を運営 した り、婦人会の集 会所 で あ る小屋 を買った
りした。
(2)地 先大型漁
・建て網 ・大謀網漁
昭和4、5年頃、イ ワシの漁獲 のた め、東 田沢、稲 生、浦 田、茂浦 のそれ ぞれ の部落 に
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富山県か ら数人 の船頭 を連れ た親 方が進 出 し、大謀網 (大型定置網) を設置 した。 これ ら の親 方 と船頭 た ちは 「富 山の親 方衆 」、 「タ ビか ら来 た親 方」 な どと呼 ばれ 、そ の 卓越 し た漁携技術 は部落 の人々の尊敬 を集 めた。
富 山の親 方衆 は番屋 とい う小屋 を建 てて、5月 か ら 10月までの漁期 の間そ こで寝泊 り しなが ら漁 を行 った。部落 の人 々は親方 に雇 われ 、ブカ タ、 ワケエモ ン、ヤ トイ な どと呼 ばれ る雇 われ 人 として漁 に参加 した。 1つの網 に 10人か ら15人 のブカ タが雇 われ 、漁 は 5、6膿 の船 に分乗 して行 った。儲 けの分配 は現金 で、 「四分 六分」 といって親 方が6割 を取 り、残 りの4割を漁 に参加 した人数 で割 って分配 した。 ただ し船頭 は二人前、機 関長 は一人前半、まだ一人前 と認 め られ ない経験 の浅い若者 な どは半人前 と、ブカ タの中に も 明確 な格付 けが あった。 大漁 になる と現金以外 にイ ワシをそのまま も ら うこ ともあったが、
これ を焼 き干 しに した場合 は、その うち2割 を親方 に返上 した。 これ をヤキモ ドシ とい う。
また、その年 の漁 を終 えることを切 り上 げ といい、そ の際 に も若干 のお金 をも らった。獲 ったイ ワシは焼 き干 しに した り、煮詰 めて干 しカシ (肥料) にす るな どの加 工 を した りし た上 で、船 で青森 市の問屋 に運 んだ。 以下は各部落 の事例 である。
【稲生 】昭和7、8年 頃 まで、富山県か ら来た親 方がイ ワシの大謀網漁 を仕切 っていた。
その後部落 内で、3軒の家 が大謀網漁 の網 をたてた。 うち2軒 は1軒 につ き2つ の網 をた て、 も う1軒 は青森 市造道 の伊藤 とい う親方 と共同で1つ の網 をたてていた。 この3軒 は、
それ ぞれ親 方 と呼ばれ 、本家 で あ り、 オオヤ ケ と呼 ばれ るよ うな金持 ちの家で あった。 当 時、稲生で発動機 船 を持 ってい るのは、 この3軒 だ けだった。 これ らの親方 は、大謀網漁 だ けでな く、建 て網漁や刺 し網漁 も行 った。船頭や ブ カタはいずれ も稲 生の人であったが、
漁 の間は浜 に番屋 を建 ててそ こで寝 泊 りした。 この よ うな漁 は戦時 中まで続 いた。
【浦 田】昭和4、5年 頃か ら10年頃 まで、春 か ら秋 にか けて、富 山県か ら来 た親 方が 浦 田の地先 で大謀網 をたてて、イ ワシを獲 っていた。親 方は 「で きた人」で、漁 の技術 に 優れ てお り、金持 ちであった。彼 らは部落 の者 に金 を貸 した り酒 を振舞 った りして くれ る、
人好 きのす る人であった。 しか し彼 らは タ ビか ら来た人で あったので、部落 の者 たちは最 初、 言葉 がわか らず 苦労 した。 富山の親方 が来 な くなったのは、次第 にイ ワシの漁獲量が 減 り、儲 か らな くなったた めで あ る。 イ ワシの不漁 で破 産 した親 方 もあったため、 「流れ
ものは間違 うとメシの食 い上げだ」 な どと言 った。
その後 、部落内の ク ミに よる小規模 の定置網漁 が行 われ た。 昭和 35、36年頃 には、北 海道 出身 の小塚栄 とい う人が、定置網漁 の親 方 を務 めた。 その後、部落内の者 が、網 な ど の漁 具 と人夫を、 当時のお金で50万 円で買取 り、親方 を務 めた。
【茂浦 】昭和5年頃か ら 12、13年頃 まで、富 山県か ら来た島崎 とい う親 方がイ ワシの 大謀網漁 を仕切 っていた。部落 内の多 くの人は、ブカ タ、ヤ トイ と呼 ばれ る雇 われ人 とし て漁 に参加 した。 部落外 か らも漁 に参加す る者 がお り、それ らは主に茂浦 にマ キがい る人 な どであった。 カ ロゴな どを持 ってい る裕福 な家 か らは、漁 に参加す る人数が多 く、番屋
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を建 てて親 方 らを迎 えるこ とも した。 こ うした裕福 な家 をオオヤ ケ と呼んだ。 漁 に際 して は、オカア ミ、オキア ミの2つ のク ミに分 かれ た。 両者 は網 をたて る場所 が違 った。 参加 す る人 の ク ミ分 けは特 に決 まってお らず 、その時 に よって クジで決 めた。
富 山の親 方が来な くなったのは、遠 くか ら出漁 して来 る ことに対 し、採算 が合 わな くな ったか らである。 イ ワシは大漁 とそ うでない ときの落差が激 しく、 当時 の網 は ワラ網 で腐
りやす か ったので、1年 で作 り直 さな けれ ばな らず 、お金 がかか った。
茂浦 では戦前 まで、部落 内の親 方の主導 による漁 も行 われ ていた。親 方は、茂浦 ・浦 田 か ら20人以上 のヤ トイ を雇 って、その中か ら経験豊 富な者 を船頭 と していた。 イ ワシは 主にカシ と呼 ばれ る肥料 に加 工 され 、青森市 に運 ばれ た。 イ ワシの加 工作業 には部落 内の 女性 が雇 われ た。 昭和3年 生 まれ の女性 は、イ ワシを大 きな釜で煮 て搾 り、ム シ ロで干す 仕事 を行 っていた。
その後 、浅所 、東滝 、 白砂 において も青森 市 の魚 問屋 な どの投資 を受 けて、部落 内の親 方 を中心 とす る、あ るいは ク ミと呼 ばれ る部落 内の集 団 に よる、イ ワシの大謀網漁 、建 て 網漁 が開始 され た。稲 生、浦 田、茂浦 で も昭和 10年前後 に、富 山の親方衆 がイ ワシの不 漁 のため来な くなる と、部落内のオオヤケが大謀網 をたて る親方 と して経営 を始 めた。 い ずれ も富 山の親 方衆 と比べ る と小規模 ではあったが、儲 けの分 け前 が五分 五分 であった こ
ともあ り、部落 内外 か ら多 くの人が参加 した。
【浅所 】昭和7、8年か ら数年 間、イ ワシの大謀網漁 と建 て網漁が行 われ ていた。漁 は ク ミと呼 ばれ る集団で行 われ た。現雷電林 、福館 の方をカ ミ、現 浅所 の方 をシモ と呼び、
カ ミで2組 、 シモで1組 の ク ミがあった。 ほ とん どの家 が ク ミに参加 していたが、特 に親 方 とされ る家 はな く、各家 で網 をたてる資金や 人手 を出 し合 って、共 同で漁 を行 っていた。
【東滝 】昭和7、8年 か ら 14、15年 頃 まで、イ ワシの建 て網漁 と大謀網漁 が行われ て いた。 これ らの漁 は ク ミと呼ばれ る集 団で行 われ ていた。 大謀網漁 を行 う大 きな ク ミが、
滝 と間木 で1つずつ あ り、滝 がカ ミ、間木 が シモの ク ミと呼ばれ た。 この ク ミにはそれぞ れ滝 と間木のほ とん どの家 が参加 していた。 「ク ミに入 らなけれ ば銭入 らない」 と言われ 、 部落 内で漁 をす る とき、 ク ミに入 ってい ることは不可欠で あった。 これ らの ク ミには、 白 砂や浅所 か ら来て参加 してい る人 もいた。 ク ミの中で、網や船 を持つ家が主導的 な役割を 果 た してお り、それ らの家 は親方 と呼 ばれ た。滝 の ク ミの親 方は、本家 で あ り、 オオヤ ケ
と呼 ばれ るよ うな金持 ちの家 で あった。
その他 、数家族単位 の小 さな ク ミで、建 て網漁が行われ ていた。 これ らは、マ キ と呼 ば れ る親戚 同士で組 まれ る ことが多か った。
【白砂 】部落内の、網 な どの漁具や船 を所 有 してい る裕福 な家 が親方とな り、大謀網漁 を仕切 っていた。 これ は昭和 30年頃 まで続 け られ 、イ ワシ以外 にサバ、ア ジも獲 った。
ブカ タは部落 内だけでな く、虎 滝や 東 田沢か らも来てお り、人 手が足 りない場 合は親 方が 親戚 をテ ツダイ と して呼 んで来 るこ ともあった。分 け前 は親方 6分、ブカ タ4分 であった
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が、テ ツダイ の人 は5分 くらい も らっていた。
・底建て網 漁
タラは、昭和初期 までは刺 し網 で獲 られ ていた。 しか し、下北半島脇野沢村 か ら底建網 の技術 が伝 わ り、 タラが傷 み に くいな どの理 由か らこち らの漁法 が広 まった。
4、5軒 の家 の共 同で行 われ 、本 分家や オヤ コマ キで組 む こ とが多かった。 たいていは 本家 が船や網 を所有 してお り、分家 の人間 は本家 に頼 まれ て船 に乗 り、漁 を手伝 って分 け 前 を もらった。 分 け前 は本家 が半分 を取 り、漁 に参加 した分家 が残 り半分 を平等 に分 けた。
分家 は本家 に逆 らっては漁 に参加 で きないため、本家 の力 が非 常 に強かった。
タラ漁 の漁期 は 11月末か ら1月末 までであった。11月 29日の タラ開 けの 目には、合 図 とともに一斉 に網 をたて る場所 を 目指 して船 を出すバ トリが行 われ た。バ トリの争 いは 激 しく、海 上で喧嘩 にな った り、相 手の船 を故障 させ た りす る こともあった。大正8年生 まれ の男性 は、獲 った タラをそ のまま船 で青森 市 に運ぶ か、乾燥 させ てか ら売 った。
(3)地先外 での漁
・突 き漁
戦前 には部落 ご との地先の境界 が暖味で、 また ソコ ミは どこで行 って も自由 とい う慣習 があったた め、 自分 の部落 の地先以外 で ソコ ミを行 う者 も多か った。夜明 け前 に一人 で磯 船 に乗 り、浦 田か ら東 田沢の方まで も出掛 けて行 った と言 う人や 、稲 生か ら白砂 まで行 っ た人 もいた。 東滝 、 白砂 、東 田沢か ら平舘村 、下北半島川 内町 、脇野沢村 の地先 に行 く場 合 もあった。 また 上屋 、浪打か ら稲 生や東 田沢の地先 に ソコ ミに来 る人 もあった。
・釣 り漁
東 田沢の大正 12年 生 まれ の男性 は、戦前、夏の1ケ月間、帆掛 け船 で 下北半島川 内町 の地先 まで行 き、スズキ、 タイ な どを釣 った。夜 は浜 に船 を着 けて寝 た。釣 った魚 はむつ 市大湊の魚屋 に直接持 ち込んで売 った。
・底 曳 き網漁
浅所 の大正3年 生 まれ の男性 は、16、17歳 の頃 に、 日帰 りでむつ 市大湊 に行 き、底 曳 き網 でホ タテ を獲 っていた。底 曳き網 によるホ タテ漁 はホ タテ フキ と呼ばれ た。 ホ タテ漁 は5上目こ解禁 され 、海 が凪 いでいれ ば、毎 日で も大湊 に行 った。 当時、部落か ら大湊 に漁 に行 く船 は多 く、いずれ も青森 市相馬町 (現港町付 近) か ら来た発動機船 に ロー プで引い て も らって漁場 に行 った。 発動船 1腰 に対 し、4人乗 りの船 を約 20牌 引いて も らった。
4人乗 りの船 には、船 と漁具 を所有 してい る船頭 と、船頭 の親戚や 近所 の人が3人乗 って いた。
(4)養殖
・ノ リの養殖
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昭和 33年 頃か ら、浅所 の松 島付近 にお いて ノ リの養殖 が試み られ た。最初 の年 は、数 軒の家 が津軽 半島 平館村 か ら購入 した シセ ツ (道具の一‑種) を浅瀬 に設 置 して開始 し、成 功 した。 しか しその後、多 くの家 が養殖 を始 める とノ リの付 きが悪 くな り、 また 手間がか か る割 に収入 が少 ない といった理 由で、数年 で全ての家 が養殖 を断念 した。
・カキの養殖
浅所 、東滝 、東和 では、ホ タテの養殖 が始 まる以前 に、4、5年 間 カキの養殖 が行 われ ていた。 当時 は、現在 のホ タテ養殖 の よ うにシセ ツが頑 丈でなか ったために、 よ くヤマセ で壊 され た。 カキの タネ は宮城 県気仙 沼市 か ら買って きていた。
・ホ タテの養殖
浦 田にお いて、初 めてホ タテの養殖 漁業 が開始 され たのは昭和 38年 頃である。 網 、縄 な どの漁具 の素材 に、それ までの藁 、木綿 、麻 、テ グス製 に代 わ って腐 りに くいナイ ロン が登場 した ことで、常時海 中に沈 めてお く養殖施設 が可能 になった。 ナイ ロン製 の網 は北 海道 に出稼 ぎに行 っていた人が持 ち帰 った といわれ る。稚 貝を付着 させ る網 も、 当初 の杉 の葉 か ら北海道 のサ ケ網 を使用す るよ うになって、養殖 が容易 になった。
当初 は設備 が高価 であったた め、数軒 の家が小規模 に行 っていただ けで あった。 しか し、
昭和 42、43年 頃か らの漁業協 同組合 の奨励 、資金援助 もあって、数年 で夏泊半島沿岸 部 部落 のほ とん どの家 が、ホ タテ養殖漁業 に転 向 した。
ホ タテ養殖 の技術 が開発 され た 当時 、各部落では多 くの家 の男性 が出稼 ぎに出て生計 を 立てていた。 そ うした人た ちを部落 に呼び戻 し、地先 にお けるホ タテ養殖 漁業 を普及 させ るため、昭和 42年頃か ら漁業協 同組 合 に よ り様 々な施策がな され た。養殖用施設や 当面 の生活費な どを各家 に貸 し与 え、出稼 ぎに行 っていた人がホ タテ養殖漁業 に転 向 しやす い 環境 を整 えた。 また、船 を所有 していない人や 、船 があって も船外機 がない人 には、船や 船外機 を買 う資金 も貸 し与 えた。 これ らの借金 はホ タテの養殖 で儲 けた金 で返済 してい け るよ うに した。
ホ タテ養殖漁業 は数年 で夏泊半島の沿岸部 部落 に普及 し、ほ とん どの家 がホ タテ養殖漁 業 に転 向 した。養殖 が軌道 に乗 った昭和 45年 頃 には、ホ タテ養殖 で稼 いだ金 で、新築 さ れ る家 も見 られ た。 それ らの家 は 「ホ タテ御殿 」 と呼 ばれ た。船 もそれ までの木造船 か ら、
プ ラスチ ック製 のデ ィーゼル船‑転換す る家 が急増 した。
ホ タテ養殖 漁業 には年 間 を通 して さま ざまな作業が ある。 こ うした作業の手順や 方法 は、
養殖 の開始以降多 くの改 良を経 て きた。 よ り効率的 に、 よ り多い漁獲 を得 るた めの 工夫や こころみ は個人 によって実行 され 、そ の中で成功 した ものが部落全体 の知識 と して共有 さ れ ていった。 この よ うな試行錯誤 の中でホ タテ養殖 は専業化 がすすみ 、他 の生 業 との兼 業 は難 しくな り、他 の漁業や稲 作 な どを行 う家 は急速 に減少 した。
また、ホ タテ養殖 の作業 はたいてい家族 内の労働 力で賄 われ 、他家 との共 同はほ とん ど 見 られ な くなった。 そのた め、それ までは 田畑 の仕 事や網 の修繕 とい った オ力仕 事が 主で、
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海 に出 る こ との少 なか った女性 も、ホ タテ養殖漁業 においては重要 な労働 力 と して 日常的 に船 に乗 り、作業 を担 うよ うになった。
原 因は分か らないが、数年 に 一度 ホ タテの稚 貝が全滅 して しま うこ とが ある。 その よ う な時 は、他地域 か ら稚 貝 を分 けて もら う。 平成 15年 には、清水川 方面でホ タテの稚 貝が 全滅 したため、浦 田の人 にその部落 の人が、個 人的 に稚 貝 を分 けて も らいにきた。 この よ
うな場合 は、お金 を取 らず に分 けてや る。
2 農業
(1)稲作
稲作 は、昭和 40年代 までは多 くの家 で行 われ ていた。 浅所 では、隣部落の東和、福館 にいた る間の場所 に田を所有 してい る家 が多かった。 田を所有 しない家 の女性 も、小湊や 福館 な ど、近隣の部落 に 田仕事 のテマ とりに行 き、米か金 をも ら うとい うこ とが一般的で あった。東滝 ・間木 は農 地 が少 な く、 田を所有 してい るのはオオヤケだけであった。 白砂 は後背 の山地 に開墾 した 田地が多 くあ り、 田を所有 していない家 は少 なか った。東 田沢は 野内畑 に至 るまでの山地 に広範 な 田地 を持 っていたが、一方で 田を所有 していない漁業主 体 の家 も多かった。稲生 は 田地が少 な く、 田を所有 してい る家 も少 なかった。 いずれ もオ オヤ ケや本家 が 田を所有 してい る こ とが多 か った。 「田を持 っていれ が ばオオヤケ」 とい うよ うに、経済的 には漁業 で生計 を立ててい る家 であって も 「財 産」 としての 田の所有‑
の意欲 は大 き く、 田を持 つ 、購 入す ることは家 の財 の象徴 として大 きな意 味があった。
田仕 事 は基本的 に家族 単位 で行 われ るが、昭和 30年代以降、農作業が機械 化す るまで は、 田植 えや稲刈 りは親戚 、本分家 の共同で行 われ ていた。普段 の作業 において も、漁業 な どとの兼業 に よ り人手が足 りない場合は、テマ と りとい う日雇 いの労働者 を雇 った り、
カ ロゴとい う農村部 か ら連れ て来た住み込みの使用人 を使 った りした。
その後 ホ タテ養殖漁業が軌道 に乗 り、政府 の減反政策 が始 ま った こ とに よ り、稲作 を行 う家 は急速 に減少 した。 現在 では多 くの 田が休耕 田 とな るか、部落外 の人 に貸 されてい る。
(2)畑 作
畑 地は、各部落で ほ とん どの家 が家 の裏や 山の斜 面を開墾 した場所 な どのわず かな土地 に所 有 してお り、昭和 40年代 までは、たいていの ものが 自給 で済 ませ られ るほ ど種類豊 富な野菜 を作 っていた。 茂浦では タバ コ、椎茸 な どの商品作物 を栽培 していた例 もあ る。
野菜の収穫 量は 自家食分程度 で あったが、特 にホ ウ レン ソウな どの菓 ものの野菜 は青森市 な どに売 りに行 くこともあった。畑仕事 は、主に女性 の仕 事であった。 昭和 30年代 に化 学肥料が登場す るまでは、家畜 の糞 か ら堆肥 を作 った り、貝殻や ヒ トデ を乾燥 させ て砕 い た ものを肥料 と した りしていた。
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現在で も、その規模 こそ減少 してい るものの、畑 で野菜 な どを作ってい る家 は多い。 し か し収穫量 はいずれ も自家食分程度 であ り、他所 に売 りに行 くことはない。普段 の作業 に は女性や年寄 りがあた ることが多い。
(3)家畜
・牛馬
昭和30年代後 半までは、 田を所有す る家の多 くが農耕用 に馬や牛 を飼 っていた。 また、
牛馬 の糞 を畑 の堆肥 に した り、漁獲物や炭 の運搬 に馬 車を使用 した りLも した。
小湊では、年 に1度春 にマイチ (馬市)が開かれ 、馬セ リで馬 が売 り買い され ていた。
夏泊半島の各部落では、農耕馬 として飼育す るだけでな く、馬 に種つ け して子馬 を産 ませ 、 それ を 2年 ほ ど育ててか らマイチに出 して売 る家 もあった。馬 の種つ けや 、年 を とった馬 の交換 、馬 を所有 していない家‑の馬 の貸 し出 しを行 うバ クロウが浅所や小湊 にお り、各 部落 を回 って商売 を していた。 また、馬 の種つ けを行 う業者 が小湊や藤沢 にいた。
浅所ではオオヤケは馬や牛 を飼 ってお り、田を耕す ために使 っていた。 オオヤケは、馬 や牛 を親戚以外 には貸 したが らなかった。 また、漁 で獲 った魚 を馬車で売 りに行 く人 もい た。馬車で行 くときは遠 くには行 かず 、売 る量 も少 なかった。馬 はマイチで買ってきたが、
藤沢か ら種馬 を持 って来て 自分の馬 に子 を産 ませ る人 もいた。 昭和 35、36年 か ら耕運機 が普及 し始 め、馬や牛 を飼 う家 は次第 にな くなった。
東滝では 田お こ しの季節 にな る と、親戚3軒 くらいで一緒 にバ クロウか ら馬 を借 りた。
借 り賃 は1、2週間ほ どで、20円であった。借 りた馬 に、サ ンボ ンカ とい う先 が三又に 分かれた クワの よ うな ものを曳かせ て、田を掻 いた。 田を掻 く作業 は3回繰 り返 し、それ ぞれ の作業 をア ラグ レ、ナカガキ、 シロといった。 こ うした 田お こ しをサセ ドリといい、
この仕事 は女性や子 どもの仕事 として、他家か ら人 を雇 ってお こなわれ ることもあった。
田お こしの季節 に他部落の農家 に毎年雇 われて行 き、泊ま りがけでサセ ドリをす る子 ども もいた。
・豚
豚は昭和 30年代 まで、特 に東海岸 の部落 において、多 くの家が飼 育 していた。小湊 で 買った り、繁殖 を してい る家か ら譲 り受 け りした りした。子豚 を半年 ほ ど育て、小湊 の肉 屋 に売 った。餌 は残飯 な どを与 えてお けば よく、経済的であったので、主婦の小遣い稼 ぎ として豚 の飼育が盛 んであった。小湊 の肉屋 は豚 の重量で値段 を決 めた。豚 の糞 は畑 の堆 肥 として も利用 され た。 浅所 の大正 12年生まれ の女性 は、部落 内の、豚 を飼 育 し種つ け させ ていた家か ら子豚 を買って育てていた。ザ ッパ と呼ばれ る残飯や 米糠 を食べ させ て6 ケ月 くらい育て、豚 買いに売 った。
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3 林業 ・狩猟
(1)炭焼 き
炭焼 きは、東 田沢 、稲 生 、浦 田、茂 浦 にお い て明治時代 か ら行 われ 、昭和初期 か ら昭和 30年 代 にか けて全盛期 を迎 えた。 特 に戦時 中は石炭 、石 油 な どの化石燃 料 が軍事用 に徴 用 され て しまったので、家庭 にお ける主要な燃 料 と して炭 ・薪 は非常 に重用 され た。
野内畑周辺 の山林 は ワダカ ン とい う会社 の所有地 であ り、多 くの家 は ワダカ ンにヤ キ コ と して雇 われ て炭焼 きを行 っていた。や は り冬期 に盛 ん に行 われ 、野内畑 には炭焼 きを専業 とす る家 もあったが、農 閑期 にヤキ コ となって炭焼 きを行 う家 の方 が多かった。 東 田沢か らも、漁業 の副業 と してヤ キ コにな る者 が多か った。 ヤキ コは主 に男性 であったが、炭 の 運搬や木材 の搬入 には女性 も参加 した。 昭和8年生 まれ の女性 は、野 内畑 に炭焼 きに行 き、
炭 の運搬 を行 っていた。
稲 生、浦 田、茂浦 では、部落 で国有林 を払 い下げて も らい、それ を各家 に分配 して、家 ごとに炭焼 きを行 うことが多か った。 山を持 ってい るオオヤケが、ヤ キ コを雇 って炭 を焼 かせ る こ ともあった。炭 が出来 ると、 シ ョイ コ と呼 ばれ る、物 を担 いで運ぶ人 を頼み 、山 か ら部落 まで炭 を運 んで もら う。 部落 か らはカ ジキザオ (モ ッコ) な どで運搬船 に積 み込 み 、青森 市 まで運んだ。
炭 窯づ く りは、親戚 な ど何軒 かの家 で、共同で行 ったが、炭焼 きはたいてい家族単位 で 作業 を行 い、女性や子 どもも仕 事 を担 った。
(2)薪
昭和30年代後 半 までは薪 ス トー ブが ・般的 であったため毎年 大量の薪 が必要であった。
しか し各部落 の後背 に広 が る山林 はそのほ とん どが国有林 であ り、部落では国有林 の払い 下げ制度 に よ り、毎年 国有林 の 一部 の使用権 を払 い下げて も らい、それ を家 ごとに分配 し た。 この分配作業 を山割 りと呼び、秋 の沖休み の 目に、各家 か らひ と りずつが参加 して行 われ るものだった。 おお よそ同 じくらいの木 の本数 にな るよ うに境 界線 が引かれ た。 しか し部落か らの距離や木 の質 に よ り良い場所 と悪 い場所 がで きるので、各家 に割 り当て られ る場所 は クジ引 きに よって決 め られ た。 木 を切 る作業 は、漁や 田畑 の仕事が暇 で、雪 に よ
り運搬 が容 易 とな る冬 に行 われ ることが多かった。 薪 の運搬 には女性 も参加 した。
浅所 では、払 い 下げ られ た国有林 は、毎年秋 に部落内の人び とに よって均等 の広 さに分 け られ 、それ が各家 に割 り当て られ た。 この よ うな作業 を山割 りとい った。 各家 にあた る 場所 を決 め る方法は くじ引 きで あった。割 り当て られ た場所 の広 さは どこの家 で も同 じだ が、生 えてい る木の太 さや本 数 に違 いがあった。
(3) コン ビキ
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コン ビキ とは、山か ら切 り出 して きた材木 を用途 に合わせ て板材や 角材 な どに加 工す る 仕 事や 、それ をす る者 の ことで ある。 特 に船 を‑ ぐ (造 る)際 には、船 の形 に合わせ て さ まざまな形 の船材 が必要 で あ り、船 大 工や船主 に頼 まれ る と泊 りが けで出掛 けて行 って コ ン ビキを した。 コン ビキは直接木 を切 る仕事 はせず 、そ ういった仕事 をす る人 はヤマ ッコ と呼 ばれ ていた。 茂浦 の大正5年生 まれ の男性 は、父親 が コン ビキを していたので、小学 校 を卒業す る と父や 兄た ちにつ いて コン ビキの仕事 を覚 えた。 コン ビキの仕事 は 2、 3人 で組 んで行 うものだった。最初 の うちは父親 と、後 には兄 た ち と行 った。津軽 半島の今別 町や 平舘村 の山の親 方 に頼 まれ て、数 ヶ月 も小屋 をか けて 山に泊 まって仕事 を した こ とも あった。 平舘村 は豊富な木材 と高い加 工技術 を背景 とす る造船 業が盛 んで、夏泊半島か ら も船 を注文す る人が多 く、 また夏泊半島の船大 工が若 い ときに平舘村 ‑修業 に行 くこ とも あった。
(4)狩猟
狩猟 を専業 とす る人 はいなか ったが、民 を仕掛 けて 山の動物 を捕 ることは昭和 50年代 まで行 われ ていた。
針金 で民 を作 り、 ウサ ギを捕 って毛皮 を取 った り、肉を煮 て食べ た りした。 戦前 には、家 の中で肉を食べ ることを嫌 う家 もあ り、そ の よ うな場合は作業小屋や屋外 で肉を調理 して 食べ た。 ウサ ギの臓物 な どを餌 に、 トラバサ ミとい う民 を仕掛 け、イ タチ、 タヌキ、テ ン、
狐 な どを捕 った。 トラバサ ミは小湊や 青森市 の金物屋 で購 入 した。捕 った動物 か ら毛皮 を 取 り、藤 沢、小湊 か ら毛皮 を買いに来た仲 買人 に売 った。 これ らの こ とは、畑仕事や炭焼 きな どで 山に入 ったっ いでに行 った り、子 どもが小遣 い稼 ぎで行 った りした ものであ り、
これ で生計 を立て る人 はいなか った。
表3」は、 これ まで挙 げて きた生業の一年 間の生業暦 を示 した もので ある.
第2節 タ ビとの関わ り
夏泊半島 にお いて、 タ ビとい う語 は大別 して2つ の意味 で使 用 され てい る。 ひ とつ は、
他地域 、特 に 日常的 な生活 圏の外 の地域 といった意味 であ る。 この場合 の タ ビは、夏泊半 島の住民 の共通認識 と して特定の範 囲 を示 しうるよ うな ものではな く、 この語 を使用す る 個 人の経験や認識 、 あるいは使 用す る際 の文脈 に よって、その範 囲 には偏 りや伸縮 が見 ら れ る。 も うひ とつ は、遠 方の地 に行 く出稼 ぎ、行 商な どの生業活動 その もの を指す場合 で
ある。
本節 では、交易や 出稼 ぎ といった、部落や 半島 を越 えて行 われ る人 ・物 両面での交流 に ついて記述す る。
1 交通 ・交易
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(1)交通
・陸 上交通
半島の付 け根部 にあ る小湊 は、明治 24年 に東北本線 の駅 が設置 され 、半島東海岸 の部 落 に とって身近なマチ として発達 した。 また昭和 14年 には小豆沢 に西平 内駅 が開駅 し、
半島西海岸 の部落 の人が青森市浅 虫、青森市街 といった町場‑出掛 ける際 の中継 地 となった。
しか し、半島沿岸 部 を結 ぶ道路網 が整備 され たのは戦後 にな ってか らの ことである。 戦 前には、東海岸 の、浅所 か ら東 田沢 まで をつ な ぐ道路 は未整備 であ り、陸上 にお ける物資 や人の移動 は、専 ら馬 車か徒歩 に限 られ ていた。 また、西海岸 の茂浦一 浦 田一 稲生間は、
峠や海岸線 を通 る難所 と して知 られ 、徒歩 で通 るのがや っ との上 に、冬期や悪天候 の際 に は通行不能 にな ることも しば しばで あった。
昭和 24年 に、西平 内か ら茂浦 までの道路 が整備 され、西平内駅‑ の通行 が容易 になっ た。 その後 、浅所 か ら東 田沢 まで、半島東海岸 の部落 を結ぶ道路 も整備 され た。 そ して昭 和33年 には、茂 浦か ら稲 生 までの道路 が整備 され 、開通 した。
昭和 29年 、民営 のバ スが青森駅 か ら浅所 まわ りで東 田沢まで と、青森駅 か ら茂浦 まで の2つ の路線 を走 るよ うになった。 昭和 30年代後 半 には、小湊 か ら東 田沢、茂浦 、青森 市 をつ な ぐ路線 が整 った。
道路 の整備 が進み始 めた昭和 24年 頃か ら、夏泊半島の部落 内で も、 自転車、ス クー タ ー、オー トバイ、バイ クを所有す る人が現れ 、行 商や漁獲物運搬用の トラ ック、 ライ トバ ンも見 られ るよ うになった。 ホ タテ養殖漁業が始 まった昭和 40年す ぎか らは、 自家用車 を所 有す る家 も急増 した。
・海 上交通
前述の よ うに、半 島内あるいは半島 と外部 を結ぶ陸上の交通網 が整備 され たのは、戦後 になってか らの ことであ る。 しか しそれ以前、半島内の生活圏が閉 じた ものだった訳 では ない。 夏泊半島は、海 を通 じての他 地域 との交流 を可能 に していた。
戦前か ら、漁獲物やその加 工物 が、船 で直接 青森 市の問屋 に運 ばれ るこ とが よ く見 られ た。 各部落 か ら小湊や青森 市に買い物 な どに出 る際 も、船 の方が便 の良い場合 もあった。
茂浦一 浦 田間や 、浦 田一稲 生間 は、部落 同士 を結ぶ道路が険 しく、隣の部落で あって も、
行 き来は船 を利 用 した方が容易 であ る場合 もあった。
無動力 の帆掛 け船 で も、青森 市 まで漁獲物 を運 んだ り、下北半島の方まで漁 に出掛 けた りす るこ とは可能 であった。 さらに、昭和初期 に各部落 に発動機 船 が普及 してか らは、船 での他地域 との行 き来は よ り活発 になった。
下北半島や北海道‑ の漁業 の出稼 ぎ行 く場合 、その交通手段 は主に船 であ り、出稼 ぎ先 か ら迎 えに来た大型船 に、部落 か ら多 くの人が乗 り込んだ。
戦前 には、北海道や樺太 (現サハ リン) か ら青森 市、小湊‑ と、漁獲物 の運搬 を行 う船 があ り、浅所や東 田沢では こ うした船 に乗 って働 く者 もいた。
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また昭和 30年 頃 まで、東 田沢や浦 田には、運搬 専 門の船が あった。 これ らの船 は、主 に浦 田、稲生、東 田沢、茂浦 な どの部落 を経 由 し、それ ぞれ の部落 で載せ た漁獲物や炭 、 または人 を青森 市‑ と運 んでいた。東 田沢 の田中酒店 が所有 していた運搬 専門の木造船 は、
シ ョイ コ (ここでは運び屋 の意) に頼 んで 山か ら下ろ した炭 を積 んで、青森 市内の堤橋 ま で入 って行 った。浦 田には連絡船 と呼 ばれ る大栄丸、茂浦丸 とい う名 前の船 が あ り、大栄 丸 は浦 田の人が所有 し、茂浦丸 は茂浦 の人が所有 していて浦 田の人が雇 われ て動か してい た。 これ らの船 は、漁 に使 う船 よ り大 き く、大 きな船 を所有 していない人か ら頼 まれ て、
魚や炭や野菜 を主 に青森 市 まで運 んだ。 また、物資だ けでな く青森 市の病院 に行 く人や 買 い物 に行 く人 も乗せ た。船 は浦 田だ けでな く、依頼 に応 じて茂浦 、稲 生 な ど他 の部落 に も 行 った。運賃は荷物 の量 に よ り決 め られ 、普通 は何軒かが一緒 に荷物 を運 んで も らったO
(1)交易
・他所‑行 く交換 ・売 買 ・行商 な ど 食料 交換
特 に戦 中、戦後 の数年 間、物資 が不足 していたた め、部落で とった漁獲物や塩 な どを他 所‑持 って行 き、主 に米 な どと交換 して くるこ とが盛 んに行 われ ていた。 この こ とをヤ ミ
シ ョイ といい、 これ を行 う人の ことをシ ョイ コ、カ ツギ屋 な どといった。
その後 、他所 での交換 に代 わ って、売買、行 商が一般的 になったが、家 で栽培 した大豆 を店 に持 って行 き、醤 油や 味噌 と交換す る とい った ことは、昭和30年代 まで行われていた。
浅所 の大正6年 生 まれ の男性 は、戦 中か ら戦後 にか けて塩 が不足 していたた め、海水 を 釜で煮詰 めて塩 を作 り、米 と交換 していた。 青森市のザイ (いなか) の麹屋 に塩 を持 って 行 くと、塩1柵 を米2升 と取 り換 えて くれ た。 また この男性 とその妻 は、終戦後 しば らく の間、刺 し網や ソコ ミで獲 った魚 貝類や 、ホヤ ム シ (ヒ トデ)や 貝殻 な どを乾燥 させ て砕 いた 田畑 の肥料 を、青森 市や清 水川 、松野木 、 あるいは三沢市古間木 な どの南部地方の農 家 に持 って行 き、米 と交換 していた。魚 貝類 では、特 にホヤが高 く引き取 って も らえた。
西平内駅 までは歩 き、そ こか ら汽車で 目的地 に行 った。 これ は主に女性 の仕事 であった。
魚 を入れ る、一斗缶 と同 じくらいの大 き さの金属 の箱 をガ ンカ ン といい、それ を背負 って 売 り歩 く女性 をガ ンガ ッコと呼んだ。
‑=とご仁に⊂I 冗 貝
昭和 30年代 まで、各家 で とった漁獲物や その加 工品、野菜 な どを、個 人で他所 に売 り に行 くこ とが一般的 に行 われ ていた。行 き先 と しては青森 市街 、青森 市浅 虫な どが多 く、
そ この決 まった魚屋や 問屋 に直接持 ち込む ことで、部落 に来 る仲 買人 に売 るよ り高値 で売 ることができた。 当時 は車が 普及 してお らず 、道路 も未整備 で あったため、馬 車を使 った り、売 り物 を背負 って徒歩や汽 車で売 りに行 った りす るこ とが多かった。 売 り物 を背 負っ て他所‑売 りに行 く人た ちの こ とを、 シ ョイ コ、カ ツギ屋 とも言った。
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東 田沢では戦後 ま もな くの頃、 ヒ トデ な どを干 して肥料 に した もの を作 っていた。 これ は馬 車で小湊 の業者 の も とに運 ばれ 、弘前市方面 の農家 に売 られ た。 当時、 この肥料 が非 常 に よ く売れ たため、部落 内は景気 が よ く、子 どもで も100円札 を持 ってい るほ どで あっ た。 明治 44年 生 まれ の女性 の夫が、大阪 に行 って買い付 けて きた服 な どが、2、3日で 売 り切れ た ほ どであった。
行 商
昭和 30年代 まで、各家 で とった漁獲物や その加 工品、野菜 な どを、特 に売 り先 を定 め ず に個人 で他所‑売 り歩 く行商 が、一般的 に行 われ ていた。行商 に行 くのは主 に女性 であ り、徒 歩 で近隣の部落‑行 った り、汽 車で青森 市な どに行 った りと、行 き先 は さま ざまで あった。行商 に行 く人 は、それ ぞれ の得意先や 、高 く売 るための コツを持 っていた。
茂浦 では昭和 30年 代 まで、主婦 が、 自家 の畑 で採れ たホ ウ レン ソウな どの野菜や 、 自 分 で採 って来た 山菜や キノ コを塩 づ けに した ものを、青森 市 まで持 って行 って仲買人や 問 屋 に売 る ことが よ く行 われ ていた。 夏泊半島の西側 はニ シカゼが強いため、野菜や 山菜が 他 の地域 よ り早 くで きる。 そのた め早 く青森市‑売 りに行 くと、通常 よ り高い値段 で売 る こ とがで きた。 山菜 は誰 の 山か ら採 って も構 わなか った。行商 で儲 けた金 の一部 は、ホマ ヅ (‑ ソク リ、小遣 い) と して女性 の 自由にな る場合 もあったので、青森 市で子 どもの服 や食料 品 を買 うこともあった。
また商店 の行 商活動 もあった。 東 田沢の鹿 内商店 は、知 り合 いの漁師 に船 を出 して も らい、
昭和25年 頃か ら昭和55年 頃 まで下北 半島 に衣類 を売 りに行 っていた。 下北 半島の脇野沢 村蛸 田に前店 主の妻 の兄が住 んでいたので、その家 を拠点 に して同村 の小沢、脇野沢、源 藤城 、九腰 泊、川 内町蛎崎 に行 った。1つ の部落 に1日ずつ滞在 して衣類 を売 り、そ の部 落 に泊 めて もらって次の部落‑ と行 った。 終戦後す ぐは物価 が高かったのでいいお金 にな った。 車 を買ってか らは、船 よ りも車のほ うが便利 だか らとい う理 由で、車で売 りに行 く よ うになった。 車で行 くよ うにな る と蛎崎 に知 り合 いの船 大工がいたので、そ こを拠点 に して他 の部落 に行 くよ うになった。
茂浦 の森 商店は昭和 40年 頃 まで、浦 田 ・稲 生 に布 と和服 、洋服や 、下駄 ・地 下足袋 な どの履 き物 の行 商に出掛 けていた。 茂浦 か ら浦 田 ・稲 生 までの道路が整備 され るまでは、
浦 田までは峠 を越 える細 い道 を通 り、浦 田か ら稲生 までは海岸 沿いの岩 を伝 って歩 いた。
・他所 か ら来 る人 漁業経営者
昭和4、5年頃、富 山県か ら東 田沢、稲 生、浦 田、茂浦 の各部落 に、イ ワシの大謀網 を たて る親 方 と、親 方に付 いて来た船頭や若 い衆が進 出 して きた。親 方は米や金 、着物 な ど を貸 して くれ るな ど、漁 だ けでな く生活 全般 にわたってブカタの面倒 を見ていた。彼 らは 漁期 の間番屋 で寝泊 りし、漁期 が終 わ る と帰 って行 った。何年 も続 けて来 る人 はいたが、
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その まま部落 に住みつ くこ とはなか った。 若い衆が茂浦 の女性 とスキヅ レにな ることがあ ったが、2人 とも違 う土地 に行 って しまった とい う。
東 田沢 に来た親 方は青柳 、茂浦 に来た親 方が島崎 とい う姓で あ り、かつ て東 田沢に船頭 と して来 て野辺 地町 で薬屋 になった四 十物 とい う姓 の人がい る こ とくらい しか、富 山県 に 関 して残 ってい る情 報がな く、また文献資料 もない こ とか ら夏泊半島 と富 山県 との関わ り を具体的 に探 る ことは現時点では困難 である。 ただ富 山県)k見市や 新湊 市か らは、多 くの 漁業経営者 が秋 田県や 下北半島、北海 道 に進 出 してい るた め、夏泊 半良 (平内町)‑ の出 漁 も同地域 か らではないか と推察 され る。 また青柳 とい う姓 が氷 見市では見か け られ ない こと、四十物 とい う姓が新湊市 に存在す る とい うこ とか ら、新湊 市か らの出漁者 であった 可能性 が高い とい える。
人夫 ・鉱 夫
浅所 には戦時 中、小湊 港 の建設 のた め、工事 に携 わっていた多 くの人夫が浅所 に居住 し ていた。 人夫の多 くは北海道や秋 田県な ど遠 方か ら来ていた。
茂浦 の大正5年生 まれ の男性 の家 は商店 を経営 していて、家屋 が大 きかった こ とか ら、
よ くタ ビか ら来た人 を泊 めた。 戦時 中、秋 田県尾去沢 か ら鉱 夫が大勢来て茂浦 、浦 田周辺 の山を採掘 していた。彼 らは山の中に小屋 をか けて泊 まっていたが、増子 とい う名 の親方 だ けは男性 の家 に泊 まっていた。
行商人
昭和 30年代 まで、他所 か ら食料 品や 日用品 な どを売 りに来 る人や 、 日用 品の修理 に来 る人が多 くいた。 昭和 20年代 までは、交通が不便 であった こ ともあ り、徒歩や馬車 で来 る人が ほ とん どで あった。遠 方か ら布 を売 りに来 る行 商人 は、 「タ どの 夕べ ト」 な どとも 呼ばれ た。 その後道路 が整備 され てか らは、遠 方か ら車で来 る人 も増 えた。 いずれ も、同 じ人が定期 的 に来 る場合 が多か ったが、1度 しか来ない行 商人の 中には、編 して悪 い もの を高 く買わせ る人 もいた とい う。
浅所 では大正 の頃、沼館 の方か ら、月 に数 回食用 油 を売 りに来 る人がいた。 「あぶ ら一 、 あぶ ら‑」 と部落内 を触れ 回 り、各家 の女性 が一 升瓶 を持 って買い に出ていた。 油売 りは 桶 に油 を入れ てお り、瓶 に漏斗 を差 し、桶 か ら升 で掬 って油 を注いでいた。 油 は1合 単位 で売 られ た。 油 を売 る人は、月 に何 度 か来 ていた。 同 じ頃、夏 に青森 市野 内鈴森 か ら南蛮 売 りが来 ていた。 南蛮 を粉 に した もの を、小 さな升 の よ うな入れ物 に入れ て売 っていた。
鈴森 の南蛮 は、やや 大きいが辛す ぎない と有名 であった。 売 ってい る人は、南蛮だけでな く ミカ ンの皮 も入 ってい る と説 明 していた。
また大正 か ら昭和 の初 め頃、キセル直 しが年 に1度来 ていた。 キセル 直 しとは、キセル の竹 で出来 た軸 の部分 を交換す る人である。 キセル は、1年経 つ頃 にはヤ二が溜 まって し
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ま うものであった。 湯気 が出て ビー ツと音 の鳴 る機械 が、キセル 直 しが来た合 図であった。
キセル直 しは2、3年で来な くなった。 その理 由は、キセル を使 う刻み タバ コよ り、紙 タ バ コが よ く吸われ るよ うになったか らではないか とい う。
昭和 20年 頃、秋 にな る と毛布 を売 りに くる行商人がいた。 羊毛で出来てい る とい うの で見せ て も ら うと、 中は明 らか に綿 だ った。似 た よ うな毛布売 りは3、4年 の間、秋 にな る と来ていたが、毎回違 う人だった。
東滝 の昭和 14年生 まれ の女性 が嫁 に来た昭和34年頃、工藤 とい う名 の衣類 の行商人が、
沼館 か ら車で来 ていた。 下着 、前掛 け、ズボ ンな どさま ざまな ものを売 っていたが、高価 な着物 は持 って きていなかった。 この女性 は、欲 しい衣類 を頼 んで持 って きて も らった こ とがある。 また、その行 商人が来 る と、家 に上 げて商品を見せ て もらった り、一緒 に茶 を 飲 んで話 を した りした。
昭和 40年頃 まで、沼館 か ら樽屋 が、小湊 のホ ウセ イ ドゥとい う店 か ら、樽や鍋 、釜 を 直 した り、刃物 を研 いだ りす る人が月 に 1度 くらい来ていた。 ホ ウセイ ドゥは、現在 で も 小湊 にあ る。
白砂 では戦後 、小湊 か ら醤油売 りが来ていた。醤 油売 りは大 きな箱 を背負 ってお り、そ の中に醤油 を入れ 、一合柵 で量 って売 っていた。
昭和 40年頃 まで、越 中富 山の薬 売 りが来ていた。 この薬売 りは、富山県か ら1年 に1 度 ほ ど部落 に来ていたが、特 に来 る時期 が決 まってい るわ けではなか った。各家 に置 き薬 の箱 を置 き、来 る度 にな くなった薬 を補充 し、お金 を もらっていた。
東 田沢では小湊 か ら、月 に2、3回 くらい布や着 る物 を売 りに来 る人がいた。 いっ も同 じ人が来 る とい うわ けではなか った。 昭和 40年頃 まで、反物や衣服 を売 りに来 る人たち がいた。 風 呂敷 を背負 って 一軒 一軒家 を訪 ねて回 っていた。
富 山の薬 売 りと呼 ばれ る人は、以前 は富 山県か ら来 ていたが、現在 は、野辺地町や 青森 市 に住んでい る人が来 る。 この人たちは富 山県か ら移住 した と言 われ てい る。 大正9年生 まれ の女性 は、薬売 りをマルサ、マル キ、マル ヨな どのヤ ゴウで呼んでお り、苗字 は よ く 知 らない。 女性 の家 には2種類 の薬売 りの伝 票 があ り、それ に よれ ば松栄薬 品 と四十物仁 寿堂の 2軒 が女性 宅 に来ていた ことが分 か る。
明治44年生 まれ の女性 が小学校 の頃、秋 田か ら熊 の 胃や猿 の頭 を売 りに来た人がいた。
熊 の 胃は 胃の悪 い人 に、猿 の頭 は頭痛 に効 くといった。
稲 生では、茂浦や青森市久栗坂 の方か ら、衣類 を売 りに来 る人がいた。 昭和 30年 頃 に 道路 が整備 され てか らは、 ライ トバ ンや軽 トラ ックの よ うな車や 、バ イ クで来 るよ うにな った。 バイ クで来 る時は、手袋 、長靴 、ヤ ッケ、合羽 な どを売 っていた。茂浦 か ら来たの は、カネモ リと呼ばれ る男の人で、布や服 を背負 って歩いて来ていた。
浦 田では、道 路が整備 され る以前 は、シ ョイ コと呼 ばれ る物売 りがや って来ていた。彼 らは青森 市浅 虫か ら来てお り、反物や 小間物 (櫛 、哲 、針 、糸 な ど) を売 っていた。
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