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粛 南 ヨ グ ル (裕 固 ) 族 自 治 県 ハ ル ハ ・ モ ン ゴ ル 人 コ ミ ュ

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(1)

◎研究ノート

粛 南 ヨ グ ル (裕 固 ) 族 自 治 県

ハ ル ハ ・ モ ン ゴ ル 人 コ ミ ュ ニ テ ィ ー ー 政 治 避 難 の 越 境 か ら 七 〇 年

フ フ バ ー ト ル

粛南ヨグル族自治県は︑中国西北部甘粛省の一少数民族自治

地域で︑同省には︑モンゴル人地域として︑粛北モンゴル族自

治県があることはよく知られている︒しかし︑甘粛省にハルハ・

モンゴル人コミュニティーが存在すること自体︑学界ではほと

んど知られていなかった︒このモンゴル人コミュニティーの中

国語名称は︑﹁粛南裕固族自治県白銀蒙古族郷﹂であり︑﹁白銀﹂

はモンゴル語のバヤン(豊か)に由来し︑現地にあるバヤン・

ゴル(ゴルは﹁川﹂の意)に因んだものである︒

中国には﹁郷﹂レベルの少数民族行政区域である﹁民族郷﹂

は一二七一あり︑﹁蒙古族郷﹂は七六ある︒いうまでもなく︑﹁民

族郷﹂とは︑その名を冠する民族が﹁郷﹂より上位の行政区域

において少数民族である場合に成立する行政単位である︒この

ように︑民族郷が多いこと自体︑多民族国家である中国の民族

雑居の状況がきわめて複雑であることを意味するが︑内モンゴ

ル自治区およびそれより下位のモンゴル族自治区域以外におけ るモンゴル人コミュニティーとしての﹁蒙古族郷﹂が多いのは︑

かつてモンゴル人が行った他民族への侵攻や制圧といった歴史

によるモンゴル民族の分散などと関係がある︒したがって︑現

在︑﹁蒙古族郷﹂になっている地域のモンゴル人たちの多くがそ

の地に数百年にわたって住み着き︑なかにはモンゴルの伝統文

化やことばを失っている人たちも少なくないので︑私たちが行

政統計資料などで﹁○○蒙古族郷﹂の存在を知っていたとして

も︑普通想像されるのは︑漢民族︑またはチベットなどの他の

少数民族への同化が進んだモンゴル人コミュニティーのことで

ある︒

筆者が甘粛省にハルハ・モンゴル人コミュニティーがあった

こと︑そしてその集団の由来について知ったのは︑二〇〇二年

七月に現地へ赴く直前のことであった︒というよりも︑それを

知って急遽現地へ行って調査することを決め︑実行したので

あった︒

研 究 ノー ト 粛 南 ヨグ ル 族 自治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴ ル 人 コ ミュ ニ テ ィー 177

(2)

ハルハとは︑現在のモンゴル国住民の約九割を占めるモンゴ

ル民族の支族名で︑そのほとんどがモンゴル国国民としてモン

ゴル国に居住しているが︑内モンゴル自治区に生活しているハ

ルハ・モンゴル人たちもほとんどがモンゴル国に接する国境地

帯︑または︑新彊ウイグル自治区とモンゴル国の国境地帯に住

んでいるので︑中国の内地にハルハ・モンゴル人のコミュニ

ティーが存在することはあまり考えられないことであった︒実

際︑粛南ヨグル族自治県バヤン・モンゴル族郷および同省の張

液市平山湖モンゴル族郷を構成するハルハ・モンゴル人たちの

ほとんどが一九三一︑三二年にモンゴル革命政権による抑圧か

ら逃れてきたハルハ・モンゴル人貴族︑富裕階層およびラマ僧

たちの子孫︑またはその近い親戚︑臣民の子孫たちであった︒

すなわち︑彼らの親や祖父らは﹁反革命集団﹂であったために︑

これらハルハ・モンゴル人たちの存在について触れることは︑

本国のモンゴル人民共和国(一九二四‑九二年)においても︑

中華人民共和国においてタブーであった︒中華民国(一九一ニ

ー四九年)時代︑彼らは﹁外蒙難民﹂として扱われていたよう

だが︑現在中国で彼らは少数民族として位置付けられながらも︑

彼らが中国に移住した歴史的︑政治的背景および現在のモンゴ

ル国と中国との関係により︑微妙な扱いを受けている︒一九九

〇年以降モンゴル国と中国の政治的情況が大きく変わっている

にもかかわらずこのハルハ・モンゴル人集団についての政治的

タブーはまだ解除されていない︒

甘粛省のハルハ・モンゴル人たちは︑長年にわたり︑まわり に対して自分たちがモンゴル人民共和国︑または外モンゴルか

ら避難︑あるいは政治亡命してきたとはあまり言わなかった︒

もちろんその歴史的な事実は行政管理機関や関係者らには知ら

れていたが︑彼らが自らそれに触れることも︑行政管理機関が

それに触れることも一種のタブーだった︒甘粛省民族事務委員

会編﹃甘粛少数民族地方﹄(一九九三年)では︑粛南ヨグル族自

治県バヤン・モンゴル族郷のモンゴル族については︑﹁当該地の

モンゴル族はもともとモンゴル草原に住んでいたが︑一九三五

年後次第に移動し︑ここに住むようになった﹂と︑彼らの故郷

および移住の政治的︑歴史的背景には触れていない︒しかし︑

非政府機関などで編纂された概況書などには︑彼らの移住直後

の状況が記述された下記蒙蔵委員会の調査資料がよく引用され

ている︒

したがって︑このコミュニティーについての調査研究を進め

ていくことは︑社会主義革命の歴史およびモンゴル近現代史に

おいてタブーであった特定の問題にアプローチするという歴史

学的意味があるほか︑人類学的に︑言語学的には︑約七十年間

にわたって孤立的状況に置かれてきた一遊牧民集団の伝統文化

および言語がどのように維持され︑変化してきたのか︑彼らの

本拠地であったモンゴル国の場合と比較して研究することは︑

このコミュニティーについての研究のみならず︑現在のモンゴ

ル国における伝統文化および言語の変化を研究する上でもきわ

めて有意義であると考える︒

このコミュニティーのメンバーたちとともに移住してきたハ

178

(3)

ルハ・モンゴル人たちは︑上記張液市属下に﹁平山湖モンゴル

族郷﹂というコミュニティーを成しているほか︑同省粛北モン

ゴル族自治県にも︑内モンゴル自治区のアラシャン盟右旗アル

タンチョグ・ソムなどにも分散しており︑また新彊ウイグル自

治区ハーミ地区のカザフ人地域などにもいると聞いている︒後

者はモンゴル国の異なるところから避難してきたハルハ・モン

ゴル人集団であるというが︑その他のコミュニティーについて

は機会を改めて調査してみるつもりである︒本文では粛南ヨグ

ル族自治県バヤン・モンゴル族郷に住むハルハ・モンゴル人コ

ミュニティーについて調査結果をまとめたい︒

概 況

粛南ヨグル族自治県バヤン・モンゴル族郷は︑同県政府所在

地である紅湾寺鎮から東北六一キロのところに位置し︑東西に

約三六キロ︑南北に約二八キロで︑面積は四四八平方キロメー

トルである︒新中国建国後︑バヤン郷が設立され︑張液県に属

された︒一九五四年に粛南ヨグル族自治県が成立したことによ

り︑同県康楽区に属されたが︑一九五八年に郷は﹁大隊﹂と改

められ︑一九六三年に﹁公社﹂に改められた︒一九六七年に団

結公社と改名され︑一九七〇年にバヤン公社の名称が復活され

た︒一九八三年=月にはバヤン郷人民政府となり︑一九八四

年一一月一三日にバヤン・モンゴル族郷が正式に成立したが︑

その略称として﹁バヤン郷﹂と呼ばれることが多い︒

同郷の総人口は七九七人で︑その中で少数民族人口は二七五 人(一九九二年)であり︑四

つの村から構成される︒その

うち︑二つの村がモンゴル族

村で︑二つが漢族村である︒

モンゴル族はオリド・ラム

ツァグ︑ホイト・ラムツァグ

という二つの山(中国語名は

それぞれ﹁東牛毛山﹂と﹁西

牛毛山﹂)を中心に︑山岳地帯

を上り下りして遊牧生活をし

ている︒平均海抜は約二六〇

〇メートルであるが︑東牛毛

山が海抜三四八七メートル

で︑西牛毛山は海抜三二五ニ

メートルである︒

モンゴル族の二つの村はこ

の二つの山によって分かれ︑

それぞれオリド・ガツァー(東

牛毛村)︑ホイト・ガツァー(西牛毛村)と呼ばれている︒

一九九〇年の統計によれば︑

両者のモンゴル族人口はほぼ

均等で︑前者が一〇五人で

あったのに対し︑後者は=

右か らオ リ ド ・ラムツ ァグ(東 牛毛 山)と ホ イ ト ・ラム ツ ァグ(西 牛毛 山) 179‑一 研 究 ノ ー ト 粛 南 ヨ グ ル族 自治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴル 人 コ ミュ ニ テ ィー

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一人であった︒二〇〇二年八月現在は県の町に住む=二世帯を

含め︑バヤン・モンゴル族郷出身のモンゴル人は二六三人と聞

いている︒この二つの村においてモンゴル族の人口は︑前者が

約六割で︑後者が約七割を占めるに留まり︑そのほかは二つの

村でそれぞれ人口の約三割と四割を占める漢族がいるほか︑少

数のヨグル族︑チベット族︑回族がいる︒

郷の幹部層は共産党書記が漢族で︑副書記がモンゴル族(セ

レグレン︑漢語名︑張泉)︑郷長がモンゴル族(サロール︑漢語

名︑安国林)︑副郷長がヨグル族である︒郷長がモンゴル族であ

るのは︑中国では少数民族自治区域における行政上の最高責任

者がその主体民族の出身者であることが法的に決まっているか

らであるが︑﹁民族郷﹂は﹁自治﹂ということばを冠していない

ことからもわかるように︑﹁民族区域自治﹂レベルの行政単位で

はない︒

二 移 住 の 経 緯

粛南ヨグル族自治県バヤン・モンゴル族郷のハルハ・モンゴ

ル人が国境を越え︑政治的避難を求めてきた歴史的事実につい

ては︑文献資料と当事者集団住民の言い伝えの両方から記述し

ておきたい︒

文 献 資 料 の 記 述

これらハルハ・モンゴル人の大移動に関する文献資料として

現在利用できるものに︑中国政府機関である蒙蔵(モンゴル・

チ ベ ッ ト ) 委 員 会 調 査 室 が 一 九 四 二 年 四 月 に 発 表 し た ﹁祁 連 山

北 麓 調 査 報 告 ー 辺 彊 報 告 六 ﹂ に ﹁外 蒙 難 民 ﹂ と い う 一 章 が

ある︒その内容は次の通りである(以下の引用中︑括弧内の記

述は訳者による)︒

一九二四年に︑外蒙新党(nモンゴル人民革命党)が政権

を取ったため︑その反対派のモンゴル人たちが相次いで河西

の馬髭山に新党の抑圧から避難し︑避難民は百世帯余りに達

した︒それに対し︑安西県はモンゴル人三星保(サンシンボ)

に﹁郷約﹂(村長)を委ね︑﹁草頭税﹂(地元支配者に払う税)

を設けた︒一九二六年に避難にきたモンゴル人が多く増え︑

県役所は新彊のトルゴード・モンゴル人宝布拉(ボブラ)を﹁団総﹂(リーダー)に︑ハルハ・モンゴル人伊里克(イリク)

に﹁郷約﹂を委ね直して治安を維持させた︒一九二八年にサ

ンシンボらはそこの水と牧草をよくないとし︑山南橋子に移

動した︒一九三二年には︑馬髭山に遊牧するモンゴル人が六

〇〇余世帯に達し︑その内訳は︑加比公(ジャムビー・グン)

旗から一〇〇余世帯︑加命王(ジョノン・ワン)旗から三四

世帯︑托里公(トリ・グン)旗から七八世帯︑代慶王(ダイ

チン・ワン)旗から六七世帯︑劇嚇格根(ラミーンゲゲーン)

旗から一〇余世帯︑アラシャン王旗から六七世帯︑トルゴー

ト旗から四〇余世帯であった(アラシャン王旗は外モンゴル

に属さないので︑モンゴル国からの難民ではない)︒

馬巌山に逃れてきたモンゴル人たちは財産や家畜の多くを

180

(5)

没収されていたため︑衣食の需要に迫られ︑一部分の者は次

第に略奪するようになり︑外蒙政府に対する恨みから外蒙の

明岸(ミャンガン)旗一帯に入り︑略奪をすると共に︑﹁庫倫

(フレー︑現ウランバートル)まで馬を走り飛ばせ︑新党をつ

ぶす﹂とも高言した︒そのために︑外蒙政府は精鋭軍隊三〇

〇人を送り︑一九三二年九月四日(陰暦)に馬髭山にいた反

対派のモンゴル人たちを突然襲撃したので︑被害者は四〇〇

人を超えた︒それ以降︑馬髭山のモンゴル人たちは弓さえ見

れば怖れて逃げ出す鳥のように︑恐怖に陥って︑留まるとこ

ろなく漂流した︒トリ・グン旗ジャサグ(ザサグ)のジブチ

ンドルジは八世帯のモンゴル人を連れて︑祁連山黄山番区域

内の五個家に逃げてきたが︑後から合流した人たちを含め︑

二〇余世帯となった︒五個家はモンゴル系(現東部ヨグル)

であるために︑生活とことばがたいへん融合しやすかったが︑

両者は借り貸しの関係にあり︑隷属関係ではなかった︒それ

に︑トリ・グン旗ジャサグのジブチンドルジは地位が下がり︑

リーダシップをとる力がなくなり︑モンゴル人たちはめいめ

いが独立し︑相互にいざこざなく生活している︒

この調査資料には︑当初ヨグル人地帯に入ってきた二九世帯

の世帯名︑人数︑家畜(ラクダ︑ヒツジ︑ヤギ)についての詳

しいデーターが掲載されている︒それによれば︑ジブチンドル

ジは家族三人で︑ラクダ三頭︑ヒツジ無統計︑ヤギニ○匹であっ

たが︑これはアユールザナー(家族六人)のラクダ一〇頭︑ヒ ツジ六〇匹︑ヤギ=五匹やナツァグ(家族四人)のラクダ四

頭︑ヒツジニ○匹︑ヤギ一〇〇匹などに比べれば家畜の頭数が

かなり少なかったことがわかる︒

モンゴル側の資料としては︑モンゴル国からの亡命活仏とし

て知られるディロブ・ホトグト(ジャムスランジャブ)の自伝

の中の﹁外モンゴルの政治に関する回想録﹂が参考になる︒彼

は一九三一年二月にバンチェン・ラマの行動を知るための密偵

としてモンゴル国から中国に派遣されたが︑後に亡命せざるを

得ない情況に陥り︑一九四九年に中国のパスポートを持ってア

メリカに渡った︒

その関連ある記述をここに記しておこう︒

一九三一年に外モンゴル南部のダリガンガ︑ゴビ・メルゲ

ン・ワン︑トゥシェート・ワン︑バルダン・ザサグ︑ラミー

ン・ゲゲーン︑ウイゼン・ワン︑メルゲン・ノヨン・ホトグ

ト︑ジョノン・ワン︑ヨスト・べール︑イトゲムジト・ベー

ス︑ザサグト・ワン︑オリアンハイ・ダイチン・ワン︑ジャ

ムバ・グンおよびホブドに属するアルタイ山のトルゴードニ

旗︑ボルガンのオリアンハイなど千余世帯︑一万余人が共産

主義から逃れ︑内モンゴルのシリーンゴル︑オラーンチャブ

ニ盟およびチャハル︑アラシャン︑エジェネー︑甘粛省の馬

髭山︑シャル・ヨグル(東部ヨグル)︑ハル・ヨグル(西部ヨ

グ ル ) 地 帯 ︑ 新 彊 な ど に 渡 っ た が ︑ 一 九 三 三 年 に は モ ン ゴ ル

軍 が 馬 髭 山 に 避 難 し て い た 百 世 帯 あ ま り の 避 難 民 を 年 寄 り や

Igl‑一 研 究 ノー ト 粛 南 ヨグ ル 族 自治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴ ル 人 コ ミ ュニ テ ィ ー

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幼児を問わず皆殺しした︒

それより以前︑外モンゴル当局と対立していたロシア領カル

ムイク.モンゴル出身のラマ僧ダムビジャンツァンが一九一九

年から馬叢山に入り︑掠奪や殺人などの悪行を働き︑頑丈な建

築物を建て︑抵抗を続けていたが︑一九二二年にモンゴル国か

ら派遣された数人に暗殺された︒彼の行動についての記述はい

()ろいろある︒

当 事 者 集 団 の 言 い 伝 え

移住の経緯についての現地調査での聴き取り調査は数人の年

配者を中心に行ったが︑ほとんどが中国領の馬髭山で生まれた

人たちなので︑モンゴル国からの避難の体験をもっておらず︑

それについては集団内の言い伝えおよび中国領内での避難生活

と移動について語ってくれた︒人によって覚えている内容が異

なるものも︑同じことについての理解が違うものもあったが︑

相互補充になるものがあった︒

粛南ヨグル族自治県バヤン・モンゴル族郷および張液市平山

湖モンゴル郷のハルハ・モンゴル人たちは︑モンゴル国におけ

る貴族(ハル・ハルギス)︑ラマ僧(シャル・ハルギス)の粛清

から逃れるために︑一九三一︑三二年に現在のモンゴル国ゴビ・

アルタイ・アイマグに属するアルタイ・ソム(当時のジャム

ピー・グン旗)︑ツォグト・ソム(トリ・グン旗)︑エルデニ・

ソム(ヨソト・ベール旗)およびバヤンホンゴル・アイマグの シネジンセト・

ソム(当時の

ジョノン・ワン

旗)などから避

難してきた︒逃

亡者(ドゥルベ

グセド)のリー

ダは︑トリ・グ

ンの息子のジブ

チンドルジとリ

ジ管旗章京(途

中で殺される)

とダムビジャブ(ジョノン・ワン

旗のメイラン)

だった︒それ以

外に貴族︑ラマ

長 老者 の一 人 ヨン ドンピル さん(左 、67歳)と モ ンゴル 国の酒 を捧 げ る筆 者(右)  

催らかいた,タイジ戸貴族)とラマ僧の中にー3推ま'︑た後逮れ

てきた人もいれば︑捕まる前に逃げてきた人もいた︒

家畜や財産を没収され︑または置いてきたため︑それに中国

語もわからなかったので︑生きていくためにモンゴル領にも

どっては強盗もせざるを得なかった︒それにより︑一九三二年

にモンゴル軍がやってきて馬髭山で一部分を虐殺した︒

一九四四年には狩に出た男(たち)がしばらく戻ってこなかっ

t82

(7)

たが︑ある日︑モンゴル国境から兵隊を連れてきた︒モンゴル

の兵隊は﹁故郷は平穏になった﹂と︑モンゴル国に戻ることを

勧めたため︑避難生活から=二年目に︑出ていった年と同じ申

年に約四〇〇1五〇〇世帯がモンゴル国に戻った︒その中には

アラシャンのモンゴル人たちも含まれていた︒その後︑一九四

五年に戻った人たちもいれば︑一九四九年に徳王(デムチェグ

ドンロブ︑西スゥニド旗ジャサグ︑内モンゴル自治運動指導者)

の部隊といっしょにモンゴル国に入った人たちもいた︒それで︑

一九四四年にモンゴル軍による回収から逃げていた人たちがこ

こに来た︒

現在の土地に落ち着いたのは︑以下の二つの理由による︒強

盗など外部の人間から避難するために高い岩のある山岳地がよ

かった︒それに家畜が少なく︑狩をして生活しなければならな

かったので︑ここは野生のヤギが豊富で︑漢人地帯からも近い

ため︑獲物を持っていき︑漢人と物々交換をするのにもよかっ

た︒また︑当時は山の牧草もたいへんよかった︒だいたい五︑

六世帯ずつでいっしょに生活していた︒

解放(一九四九年の新中国建国)までは︑強盗から逃れたり︑

税から逃れたりする不安な毎日だったが︑同じくモンゴル国か

ら政治亡命をしていた高僧のディロブ・ホトクトが国民党政府

に自分たちを保護してくれるよう依頼していたようで︑実際に

わずかながら資金提供もあった︒解放後は︑強盗を恐れること

も︑税金に追われることもなく︑自分の牧草地がもらえて安定

した生活ができるようになった︒しかし土地が狭かったので︑ モンゴルにもどろうとしてアラシャンへ移住した人もいたが︑

アラシャンはよく旱越になるほか︑野生のヤギも多くなかった

ので︑張液に留まったり︑ここに戻ってくる人が多かった︒こ

こからは青海と粛北のモンゴル人地帯に移った人もいたため︑

土地がだいぶ空くようになった︒

三 一 九 四 九 年 以 降 の 情 況

歴 史 的 な 流 れ

これについてはより詳細な文献資料がまだ見つからないの

で︑とりあえず聴き取り調査の結果をまとめたい︒

一九四〇年代までは牧草地と井戸などはヨグル人が私有して

いたので︑個人的な関係で土地を借りて生活していたが︑貧し

い人は漢人に牛飼いとして雇われたり︑狩をして生きていた︒

解放後は実際に利用していた牧草地の一部を分けてもらった︒

当時は人口が少なく︑家畜も少なかった︒最も豊かな家でも十

数頭か︑二十数頭のラクダ︑二〇〇匹余りのヒツジやヤギ︑そ

れに乗用馬を二︑三頭もっていたくらいなので︑ヒツジとヤギ

を合わせて一〇〇匹くらい︑それに三︑四頭のラクダを持って

いれば結構いい方だった︒最も貧しい家は︑二〇から三〇匹の

ヤギをもっていただけで︑ラクダとウマをもたなかった︒

一九五八年までは実によかった︒ほとんどの家が大きいゲル

(フェルトの天幕)と小さいゲルを建て︑二〇〇から三〇〇匹の

ヒツジとヤギをもち︑家によっては四〇〇から五〇〇匹ものヒ

183‑一 研 究 ノ ー ト 粛 南 ヨ グ ル族 自治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴル 人 コ ミュ ニ テ ィ ー

(8)

ツジとヤギをもっていた︒銀製の用品もいろいろもてるように

なった︒しかし︑一九五八年からは﹁反封建運動﹂と﹁人民公

社化﹂が始まり︑家畜が公有化され︑モンゴル語(文字)の勉

強が禁止されたばかりでなく︑モンゴル語で話すことも禁止さ

れ︑モンゴル族とヨグル族はかならず漢族と入れ混じった状態

で生活︑労働をし︑漢語を話さなければいけなかった︒それに︑

モンゴル人はすべて漢語の名前をもつように強いられ︑中国人︑

または漢族のような姓をもたざるを得なくなり︑ある人は身近

の漢族幹部が劉という姓だったので︑劉という姓をもつように

なった︒漢語名は今なおすべてのモンゴル人が戸籍登録上使用

する正式な氏名であり︑モンゴル語名はモンゴル人コミュニ

ティーでしか通用しない︑いわば︑家族の中で使われる愛称の

ような意味で用いられている︒現在同県の﹃県志﹄などの人名

から見てもわかるように︑チベット族もヨグル族も名前がほと

んど二︑三文字の漢字からなる漢語名になっている︒このよう

に︑チベット族も多い(一九九〇年の統計では八三九三人)粛

南ヨグル族自治県で﹁反封建運動﹂が激しかったのは︑その当

時起きた﹁チベット反乱﹂とも関係があったのではないかと推

測されている︒

しかし︑一九六六年から始まった﹁文化大革命﹂ではモンゴ

ル人への加害や抑圧は案外軽かった︒それは一九五八年からの﹁反封建運動﹂が厳しかったからではないかとも思われているほ

か︑彼らがモンゴル国(﹁文革﹂当時は中国の敵対国)からの移

民であったことを深く意識し︑常に控えめであったこととも関 係があったようだ︒

﹁文革﹂以降︑一九八〇年代に入ってからはモンゴル語の学校

も復活するなど︑全国の少数民族地域同様︑粛南ヨグル族自治

県に居住するハルハ・モンゴル人たちを取り巻く情況も好転し

た︒

生 産 と 生 活

一九八三年に私有制を導入した時︑同郷(当時は﹁公社﹂)の

公有財産であった約八千匹(頭)の家畜をモンゴル人﹁社員﹂

たちに分け︑一六ムー(一ムーは約六・六六七アール)の農地を

漢族﹁社員﹂たちに分け当てた︒それまでバヤン郷にはラクダ

とヤク︑そしてウマがそれぞれ約二〇〇頭いたが︑私有化によっ

て各家庭に配分されたため︑放牧しにくくなり︑またそれらの

家畜の市場経済における価値自体が下がったため︑現在はラク

ダとヤクは消え︑代りにモンゴル人もロバとラバを飼うように

なっている︒ロバとラバは山道で物を運ぶのに便利で︑旱越に

も強いという︒

モンゴル族の生業は︑最近十数年間︑家畜の私有化や市場経

済の影響および現地の地理的︑気候的状況により︑基本的にヤ

ギの放牧に限られるようになっているが︑春を除き︑季節ごと

に移動するという伝統的遊牧生活を維持している︒一つのガ

ツァーは十数のドゴイラン(グループ)にわかれ︑山の斜面と

川に沿って︑夏は上ってゆき︑冬は下ってくる︒

ヤギのカシミヤによる収入はよかったのN'二001年に郷

X84

(9)

副書記のセレグレンと郷長のサロールが内モンゴルのオルドス

盟東勝に行って︑カシミヤのいい品種の種ヤギを二十数匹取り

入れてきた︒その費用の半分は自治県政府から提供された︒

一匹のヤギから平均○・八斤(一斤は五〇〇グラム)のカシミ

ヤが取れるが︑近年は一斤のカシミヤが二〇〇元(一元は約一

四円)になっていた︒しかし二〇〇二年は値下がりして一気に

一〇〇元となった︒このように︑バヤン郷の遊牧民たちの生活

少 年時代 の恐 怖の 日々 の体 験 を語 る

ナンサ ルマ ーさん(左 、651)と ラム ツォー さん(右 、63歳)

水 準 は カ シ ミ ヤ の

値 段 し だ い で あ

る ︒ 最 近 ︑ 家 畜 が

多 い 家 は 三 〇 〇 か

ら 四 〇 〇 匹 の ヤ ギ

を も っ て い る が ︑

そ れ は 金 持 ち と 言

え る ︒ カ シ ミ ヤ が

売 れ る ほ か ︑ 体 つ

き の 大 き い 雄 ヤ ギ

は 一 匹 が 約 三 〇 〇

元 で 売 れ る ︒ こ こ

で は 大 き い 雄 ヤ ギ

は 七 五 斤 ほ ど 肉 が

取 れ る ︒ し か し 最

近 は 売 り 出 す 循 環

が 速 く な っ て い る

ので︑ヤギも昔ほど大きく育たなくなっているが︑市場から遠

い地方にはまだ大きいヤギがいる︒

最近の若者たちは放牧が下手になっている︒なかには︑人を

雇っておいて自分は遊びに出かけてしまう者もいるという︒

バヤンの牧草地は旱魑になりがちだが︑いくらひどくてもこ

こでは家畜が飢え死にすることはなかった︒山の中は草の質が

いいからだ︒ほとんどヤギばかりなので︑結構高い山や岩にも

登って草が食べられるのだ︒実際︑ヤギは背中が朱色に染まっ

ていたので︑その理由を聞いたところ︑岩の石の間にもぐって

草を食べるからだと言われた︒

民 族 語 教 育 と モ ン ゴ ル 文 字

バ ヤ ン ・ モ ン ゴ ル 族 郷 出 身 の モ ン ゴ ル 人 の 中 で ︑ 他 の 職 に 就

い て ︑ ま た は 就 学 し て 町 に 定 住 生 活 を す る よ う に な っ て い る 人

は ︑ 二 〇 〇 二 年 八 月 現 在 二 五 人 い る と 言 わ れ て い る が ︑ 県 の 町

に 住 む = 二 世 帯 の モ ン ゴ ル 人 の ほ と ん ど が 生 徒 の 就 学 を 支 え る

た め の 老 人 た ち で あ る ︒ そ の 子 供 た ち と 老 人 た ち を 除 き ︑ 筆 者

が 県 政 府 所 在 地 の 町 紅 湾 寺 鎮 で 会 っ た 数 名 の モ ン ゴ ル 人 の 中

で ︑ 唯 一 ︑ エ ル デ ニ チ メ グ (安 秀 花 ︑ 四 四 歳 ) と バ ト ツ ァ ガ ー

ン (巴 建 生 ︑ 四 二 歳 ) が 現 地 に 勤 務 す る 職 員 だ っ た ︒ 前 者 は 同

自 治 県 工 商 連 合 会 に 勤 め ︑ 後 者 は 公 安 局 の 職 員 ︑ つ ま り 制 服 姿

の 現 役 警 察 官 だ っ た が ︑ 両 者 と も 遊 牧 生 活 を し て 育 ち ︑ モ ン ゴ

ル 族 郷 の 管 理 職 を 経 て 町 に 勤 務 す る よ う に な っ て い る ︒ 昇 進 の

シ ス テ ム ︑ ま た は 彼 ら に 対 す る 優 遇 政 策 か ら し て ︑ 現 在 郷 の 管

185‑一 研 究 ノ ー ト 粛 南 ヨグ ル 族 自治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴ ル 人 コ ミ ュ ニ テ ィー

(10)

理職に就いているモンゴル人たちも将来は町に就職する可能性

があるという︒管理職についているため︑彼らはある程度の漢

語の読み書きはできるようだが︑モンゴル文字の読み書きがで

きる人は限られている︒エルデニチメグは西北民族学院モンゴ

ル語学科を出ているので︑モンゴル文字の読み書きができたと

いうが︑二〇年くらい使っていないため︑現在はだいぶ忘れて

いるという︒同郷ホイト・ガツァー(西牛毛村)の若い村長の

バヤルは知っている歌が多かったが︑それはモンゴル文字の読

み書きができるために歌詞が習いやすいからだという︒彼は内

モンゴルのアラシャン右旗でモンゴル語の学校を出た三人のう

ちの一人ということで︑モンゴル文字ができる若者として特別

に紹介された︒

一九五〇年代は内モンゴルから二人の教師が来てモンゴル語

を教えていたが︑一九五八年の政治的抑圧の恐怖により一人が

首切り自殺を図ってしまった︒その後﹁文化大革命﹂が続き︑

モンゴル語教育も途絶えていたが︑一九七九年四月に︑甘粛省

民族委員会による﹁全省民族語文工作会議﹂が開かれたため︑

同県康楽区にモンゴル語とチベット語のクラスが開かれた︒一

九八〇年以降はモンゴル語で教授する学校が開設され︑モンゴ

ル語で学ぶ生徒が一六名いたが︑一九八九年には四クラスに増

えた︒しかし︑モンゴル語で中学校に進学する場合は︑同省粛

北モンゴル族自治県か内モンゴルのアラシャン右旗に送らなけ

ればならないので︑いろいろな問題が生じた︒それにモンゴル

語で学ぶ生徒自体が少なくなったので︑三人の教員も去って いった︒そのために現在バヤン・モンゴル族郷にはモンゴル語

の学校がなく︑モンゴル人の子供たちは全部漢語で勉強してい

る︒

したがって︑このコミュニティーにより発行されたモンゴル

語の出版物などは皆無だった︒一九五六年に県文化館が開かれ

た時に︑モンゴル語の図書一二〇冊を入れたという記録はある

が︑現在は内モンゴルのモンゴル語出版物を導入していない︒

同省張液市のモンゴル人たちは内モンゴルのテレビ放送が見ら

れるそうだが︑ここでは見られない︒

みんなが懐かしく語っていたのは︑一九七〇年代の終わりご

ろに西北民族学院モンゴル語学科の学生たちがやってきて︑モ

ンゴル語の歌をたくさん教え︑モンゴル文字を教えたことだっ

た︒粛南のハルハ・モンゴル人たちは機会さえあれば︑今でも

モンゴル文字を習い︑馬頭琴を習いたいと語っている︒

言 語 と 伝 統 文 化

粛南ヨグル族自治県バヤン・モンゴル族郷のハルハ・モンゴ

ル人たちは︑中国領に入ってきてからもコミュニティー全体と

して他のモンゴル語方言の影響を受けていないため︑完全にハ

ルハ・モンゴル語方言を話しているが︑モンゴル国を離れたの

は一九三〇年代の初めごろであったため︑またその後もほとん

どの人がモンゴル語で教育を受けておらず︑近代的な文化的生

活にモンゴル語が用いられていないため︑現在モンゴル国およ

び内モンゴルで使われている近代用語はあまり知られていな

186

(11)

い︒彼らが話すハルハ方言は︑モンゴル国にキリル文字教育に

よる標準語が普及する以前のより古い発音と表現といった特徴

を維持している︒このように︑粛南ヨグル族自治県バヤン・モ

ンゴル族郷のモンゴル語は︑地理的に時代的に孤立している状

態からみても︑話し手の人口の少なさおよびコミュニティーの

言語の健全性からみても︑言語の島(languageisland)をなして

ρると1111Qえる︒

冬営地の地形

言語接触という意

味においても︑バヤ

ン・モンゴル族郷自

体が粛南ヨグル族自

治県という多民族地

域にあるため︑少数

派のモンゴル人たち

が漢語をはじめ︑他

の言語を学ぶ必要が

生じる︒ヨグル族は

チベット仏教を信仰

する民族であるが︑

東部ヨグルと西部ヨ

グルに分かれ︑言語

的に︑前者がアルタ

イ諸言語の中のモン

ゴル諸語に属され︑ 後者が同じくアルタイ諸言語の中のチュルク諸語に属する︒粛

南ヨグル族自治県のヨグル族の大部分が後者に属する︒

一九五八年からの行政上の変更︑生産方式および言語政策の

変化により漢語を話すことを強いられるまでは︑生活の中での

自然な接触において︑バヤン郷のモンゴル人たちは︑同じモン

ゴル諸語の一つである東部ヨグル語をよく話していた︒実際︑

それは彼らにとって漢語とは比べものにならないほど簡単で

あった︒現在は︑東部ヨグル語を話す必要や機会も減り︑現地

の漢語方言(張液方言)が地域において多民族間の共通語とし

て完全に機能するようになっているため︑彼らハルハ・モンゴ

ル遊牧民たちは年寄りから子供まで男女を問わず︑現地の漢語

方言を普通に操っているが︑同自治県の主体民族語である西部

ヨグル語は話せない︒

言語の問題については︑今後言語学︑または社会言語学の視

点から具体的な研究を進めるつもりである︒

バヤン・モンゴル郷のハルハ・モンゴル人たちは自分たちが

主体になる行政区域および牧草地である生活空間をもち︑基本

的に伝統的な遊牧生活をしているため︑モンゴル民族の︑ある

いはハルハ・モンゴルの伝統的生活文化と習慣も比較的よく維

持しているようだ︒

まず︑モンゴル・ゲル(フェルトの天幕)は︑現在ほとんど

の家がまだ持っており︑冬営地と夏営地では立てなくなってい

るが︑秋営地では立てる家が多いという︒実際の立て方などに

ついては︑季節の関係でまだ調査する機会を得ていないが︑現

187一 研 究 ノー ト 粛 南 ヨ グル 族 自 治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴル 人 コ ミュ ニ テ ィー

(12)

地のモンゴル人の説明によれば︑ゲルの立て方の伝統は厳しく

守られており︑同様に家畜の解体の伝統や肉食の出し方などの

伝統も厳しく守られているという︒食事のマナーは骨付き肉を

綺麗に食べることなどである︒実際︑食生活は︑牛乳を入れた

お茶にさまざまな乳製品とあげパンを出し︑遠くからきた客に

は新鮮なヒツジやヤギ肉を出して歓待し︑翌朝にはその冷えた

肉を熱いお茶に入れて食べさせることや︑大事な客には帰りに

自家製の乳製品をたっぷり持たせるなど︑モンゴル遊牧民の伝

統的な食生活はほぼそのまま維持されている︒

伝統的な行事としては︑オボ祭が行われ︑それにともないモ

ンゴル相撲もモンゴルの伝統的な競馬も行われる︒賞品にはモ

ンゴル人やチベット人が好んで飲む煉瓦の形に固めたたん茶や

モンゴル服を作る材料などが与えられるという︒モンゴル服は

基本的に着ていないが︑近年は復活し︑正月や結婚式︑祭りな

どに着用するようになっている︒伝統を守っている行事として

ほかに︑三歳の男の子の髪を切る行事(ダイハ・アヴァハ)や

嫁を送る(クーヘン・モルドーラバ)行事が行われている︒

大事なことに通婚圏の問題がある︒バヤン・モンゴル族郷の

モンゴル人たちは︑ともにモンゴル国から移住してきた同県張

液市平山湖モンゴル族郷のハルハ・モンゴル人およびその北に

連なる内モンゴル自治区アラシャン盟右旗のハルハ・モンゴル

人およびアラシャンのモンゴル人たち︑それに︑同県粛北モン

ゴル族自治県のモンゴル人たちと婚姻関係を結んできたほか︑

ヨグル族と結婚するケースもあったが︑最近は漢族との結婚も 見られるという︒

最後は歌謡についてである︒ハルハ・モンゴルの伝統的な長

歌は年寄りたちを中心に歌われている︒中年や青年たちはそう

した伝統的な歌よりも︑これまで︑特に﹁文革﹂以降内モンゴ

ルで歌われてきた歌︑および最近のモンゴル国の歌や内モンゴ

ルの歌を歌っている︒伝えられてきた古い歌で最もよく歌われ

ているのは︑彼らが故郷のゴビ・アルタイを離れてきた時に歌っ

た﹁ガザリーン・ホル﹂(遠ざかるふるさと)という歌である︒

ここにその歌詞を転写し︑訳語をつけておこう︒

Gazriinhol(Shartaliintsetseg)

遠ざかるふるさと(黄色い草原の花)

Gazriinholoosguideltei

Ganganhaliunmorimini

GazarnutgaasaasalakhadIim1kholAltaishuu

Sersersalkhindaa

Senseeatgaadmordlooshuu

Seruunsaikhankhangaidaa

Serjmeeorgoodmordlooshuu

Uzuurshuguimodondoo

Unegbugiinbairta凶い7∈

遠 方 か ら 走 り 抜 け る

美 し い 灰 色 の 馬 よ

ふ る さ と を 離 れ て 振 り 向 け ば

こ ん な に 遠 ざ か る ア ル タ イ 山

さ わ や か な 風 の 中 で

帽 子 を 手 に 馬 に 跨 っ た

涼 し げ な 山 の 大 地 に

酒 を 捧 げ て 馬 に 跨 っ た

先 が 茂 る 林 に は

狐 や 鹿 が 留 ま る

X88

(13)

Onjoodkhoishookharakhad夜を明かして振り向けば

Iim1khol≧taishuuこんなに遠ざかるアルタイ山

Balarshuguimodondoo

Barbugiinbairtaishuu

奥 が 茂 る 林 に は

虎 や 鹿 が 留 ま る

Baiskhaadkhoishookharakhad振り向いて見るたびに

Iim1kholAltaishuu

Kharankhuishuguimodondoo

Khandgaibugiinbairtaishuu

KhonoodkhoishookharakhadIim1kholAltaishuu

む す び

こんなに遠ざかるアルタイ山

暗 く 茂 る 林 に は

お お じ か や 鹿 が 留 ま る

目 を 覚 ま し て 振 り 向 け ば

こ ん な に 遠 ざ か る ア ル タ イ 山

粛南ヨグル族自治県バヤンモンゴル族郷のモンゴル人たち

は︑郷内では二つの村に分れているが︑外国からの移民である

エスニックグループとしては一つの共同体であり︑一九八三年

の家畜の私有化以降は︑歴史や文化的にのみならず︑生産方式

においてもモンゴル人遊牧民コミュニティーの特徴が鮮明に

なっている︒

モンゴル人は︑国境内であろうと国境を越えようと︑モンゴ

ル人の分布地に遊牧をしている限り︑移民意識をもたないのが

普通であるが︑彼らの場合はモンゴルの地から遠く離れ︑異民

族集団に取り囲まれた狭い山岳地帯にモンゴル民族の伝統的な 生活を営んでいるため︑また︑近年は市場経済の競争や家畜と

人口の増加といった経済的な状況などにより︑自分たちの未来

に対して︑移民としての危機感を覚えている︒そういう意味で

も︑中国政府からの優遇政策を期待し︑モンゴル国からの移民

であったことを政府に正式に認めてもらい︑モンゴル国﹁僑民﹂

であるステータスを獲得することを希望している︒しかし問題

点としては︑彼らが中国領にわたってきた当時は中国政府は外

モンゴルの独立を認めていなかったことがあるが︑現在のモン

ゴル国との関係から﹁僑民﹂であることを認めるにしても︑彼

らは当事者の二世︑または三世になっているため︑個人のレベ

ルでそれを実施するには困難がある︒

政治避難のために越境してきた彼らハルハ・モンゴル人たち

の存在が今後中国で︑またはモンゴル国で︑あるには中国とモ

ンゴル国の間でどのように位置づけられるかは注目に値する︒

この調査報告では概況的な内容しか書いていないが︑その基

本的な内容については︑二〇〇二年八月にモンゴル国首都ウラ

ンバートルで行われた第八回国際モンゴル学大会で報告をして

いる︒今後は甘粛省に居住するハルハ・モンゴル人コミュニ

ティーについて︑言語学的︑社会学的調査を進めていきたい︒

︹付記︺現地の調査では鐘進文中央民族大学助教授および現地の

多くの方々に快くご協力いただいた︒ここに深くお礼申し上げる︒

:.研 究 ノ ー ト 粛 南 ヨ グル 族 自治 県 ハ ル ハ ・モ ン ゴル 人 コ ミュ ニ テ ィー

(14)

注︿1>日本では﹁ユーグ﹂と表記することがあるが︑それは漢語

の﹁裕固﹂の発音をそのまま片仮名で転写したにすぎないので︑ここでは当該民族語の発音に従い︑﹁ヨグル﹂と表記することに

したい︒︿2>楊候第主編﹃中国的民族郷﹄民族出版社︑二〇〇一年︒

実際リスト載っているのは一二七〇で︑広東省は七ではなく︑六である︒

︿3>一九三三年にモンゴル国軍が馬髭山で同国からの避難民に対して行った大討伐(後述)以降︑現在のバヤン・モンゴル族

郷と平山湖地区に逃れてきたハルハ・モンゴル人は六六世帯︑

三六五人である(手書き資料﹃張液市平山湖蒙古族郷簡史﹄)︒︿4>鐘進文主編﹃中国裕固族研究集成﹄二〇〇二年︑五二ニー

五二三頁︒

 v') jrrnasxyrarrb. cpaFnxas"Apr y c rr3naspaJrsixyFupc 

Ynaax6aarap,2000°

本自伝は一九八二年に西ドイツで英語版が出された︒

︿6>同右︑二八四1二八七頁︒

︿7>中国側の資料や後記当事者の口述とずれている︒

︿8>ハズルンド著︑内藤岩雄訳﹃蒙古の旅﹄岩波書店︑一九四

二年︒

コロストウェッツ著︑高山洋吉訳﹃蒙古近世史﹄森北書店︑

一九四三年︒

前掲︑ディロブ・ホトグト自伝参照︒

C.R.Bawden,TheModernHistoryofMongolia,London,1968° ﹃粛南裕固族自治県概況﹄編写組﹃粛南裕固族自治県概況﹄(中国少数民族自治県概況叢書)甘粛民族出版社︑一九八四年︒

モンゴル科学アカデミー歴史研究所編著︑二木博史︑今泉博︑岡田和行訳︑田中克彦監修﹃モンゴル史﹄恒文社︑一九八八年︒

李玉寧主編﹃粛北蒙古族自治県志﹄粛北蒙古族自治県人民政府︑

一九八九年︒甘粛省民族事務委員会編﹃甘粛少数民族地方﹄一九九三年︒粛南裕固族自治県地方志編纂委員会﹃粛南裕固族自治県地方志﹄(中華人民共和国地方志叢書)甘粛民族出版社︑一九九四年︒

賀青松主編﹃粛南縦横﹄世界文化出版社︑一九九四年︒鐘進文著﹃裕固族文化研究﹄中国民航出版社︑一九九五年︒

鐘進文主編﹃中国裕固族研究集成﹂民族出版社︑二〇〇二年︒粛南裕固族自治県統計局編﹁粛南裕固族自治県二〇〇一統計年鑑﹄︒

X90  

主な参考文献オゥェン・ラティモア著︑磯野富士子訳﹁モンゴルー1遊牧民と

人民委員﹄岩波書店︑一九六六年︒

参照

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