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錺魅膿灘茎纏蒲慧撚農甑慧護蹴蕪辮募難総

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(1)

茨城大学教育学部紀要(人文・社会科学。芸術),28号(1979),13−34.      13

明治末期村政改良運動と大地主支配 地方改良運動との関連で

大 槻    功

(1978年10月18日受理)

On the Reformation of the Village Administration Dominated by Big Landowners in the正atter Meiji Era

Isao OTSUKI

(Received October 18, 1978 )

一  は じ め に

日徽争前後8醐旧膿村は灘の過中セこあった・この激動は次の三要因とよって弓1き起されたと考えられる。第→こ・町村制によって創出された新町村(行政村)の定着と強化に伴う摩擦の増

大である。周知のように,行政村は旧来の村落(旧村)を強引に統合して国家的行政機構の末端機関

ニして創出されたため汰字として組み込まれた旧村間の対晶独自の財政纏盤の不+艇振どの弱点を当初から内在化させていた碧そ紡の弱点は,行鮒が果すべき役害囁猷きくなるととも醸

錺魅膿灘茎纏蒲慧撚農甑慧護蹴蕪辮募難総

中堅膿家の没落と小膿民への輔,旧村あるいは綱村の枠を載た出入所有の発盛ど旧来の

村落秩序は大きく動揺した。また,日本資本主義の再生産軌道への定置は,新たな社会層をさまざま      10)の地域性をともないつつ農村内に発生させ,旧来の村落秩序を崩壊させていった。これらの農村社会

の変貌は・当然新町村の運営に多くの問題を引き起すことになったのである。第三に,日露戦争の遂 行と戦後経営の展開とにおいて農村および行政村に課せられた老大な負担の重圧響ある。農村住民へ の大幅な増税,町村への委任事務の激増などの新たな重圧は,上述の二要因をさらに加速し,激動を 増幅するものであった。

これらの鮒の鋤に対して麟戦争前から行鮒強化の方策は着手されてい蒜,嘱戦争後セこ 至ってもはや放置できないまでに激化した農村の動揺に対して,強力な町村再編強化の政策が国家権

力の主導のもとに展開された。これが「地方改良運動」である。「地方改良運動」に関しては多くの    13)研究があり,運動の担い手と思想の問題,旧村的秩序を継承した部落・大字と行政村の強化との関連,

地主制の確立と運動の関連などの問題について論じられている。そして,研究史の中で,帝国主義的

国家統鱈契機鍾視する蝪と・鰍的村離序の再融化という難を重視する立場との対立があることは周知の事である。本稿において研究史を整理する準備はないが,本稿の出発点として次

の二点を確認しておきたい。

考鮒べき第「点は,「地撤良翻」の地方的・綴的誤の間齪ある.翻明標である町

(2)

村の再編強化が実を挙げるためには現実の町村の動揺のあり方の相異に即した内容を持たねばならな

「のは当然である。旧村的秩序の継承の程度および内容,地主的土地所有の成長度と形態,日本資本 主義の再生産構造への組み込まれ方などの点で,現実の町村において地方的あるいは地域的に大きく 異っている以上,一地方,一地域の「地方改良運動」の分析をもって,全体としての分析にかえるこ とはできない。個別の分析を全体としての政策の中に位置づける努力が要請されているのではないだ ろうかQ

考慮すべき第二点は,「地方改良運動」において強調される「共同体秩序」の性格である。部落共

●  ●   ●  ●  o

同体秩序であれ,村落共同体秩序であれ,その基礎となるべき生産と生活における共同体規制そのも

●   ■   ●   ■   ●

のが変質ないし解体の過程にある以上,農家全階層をその枠内に包摂した共同体秩序として全面的に 機能することはありえない。「地方改良運動」が,行政面あるいは思想面での運動に留まらず,種々

■   ■

の産業面あるいは経済面での政策を追求したこと,共同体的秩序の再編強化が「運動」として継続さ       18)       ・

齣アけたことなどは,共同体的秩序の補強が課題であったということを示している。決して現実の共 同体が強化されたのではなく,このような「地方改良運動」の過程においても共同体的秩序は崩壊し 続けていたのである。従来の研究は,このような「地方改良運動」の歴史的前提について必ずしも十 分考慮せずに「共同体」の再編強化を強調しているのではないかと思われる。

さて,本稿は千葉県下の一開墾地農村において明治30年代から日露戦争後にかけて展開した村政改革 運動の分析を試みるものである。分析の対象である印旛郡八街村は,従来「地方改良運動」が展開し た村落とは大きく状況を異にしている開墾地村落であり,またこの村政改革運動も「地方改良運動」

として展開されたものではない。しかし,この運動が村政の改革とりわけ村財政の確立を目標にして いた点,運動展開の過程で地方改良運動の担い手たる報徳主義者との連関が生まれた点などに着目す ると,「地方改良運動」展開の基盤と意義に関して新しい論点が明らかになると考える。

二  八街村の農村構造

やちまた 19)

本稿でとりあげる千葉県印旛郡八街村は,下総台地上に拡がる開墾地村落である。下総台地は旧幕 期幕府の軍馬放牧場として小金五牧佐倉七牧が置かれたが,明治初年明治政府による窮民授産事業と

して開墾会社による開墾事業が開始され,13の村(旧村)が創設された。明治政府による開墾事業は 明治5年中止され開墾会社も解散したが,その際開墾予定地の大部分は開墾会社旧社員たる東京商人

お・ま ご

の所有となり,また開墾経費の代償として交付された小間子牧は旧社員を経て鍋島家の所有するとこ

20)

うとなった。その後,さまざまな変遷を経て東京商人等は大多数の村では土地所有権を周辺農村等の       21)

L力者に売却し,開墾事業は彼らの手で進められていくことになった。しかし,八街村においては別

 22)eで明らかにしたように開墾会社の有力な社員であった豪商西村家が土着し,前期的資本としての諸 活動を展開した後,総武鉄道の誘致など種々の開墾奨励策を実施して巨大な在村寄生地主に成長して 行った。鍋島家も士族授産事業の一環として佐賀藩士族を土着させ周辺農村からの移住民によって開       23)

、事業を行った。こうして,八街村では西村,鍋島両家の巨大開墾地地主を中心に多くの東京商人あ るいはその土着した関係者が大部分の土地を所有したまま,周辺農村あるいは東京府,埼玉県下の農

24)

村からの移住入植農民の手で開墾が進められることになったのである。

以上のような特異な開墾の経過によって,八街村は日本内地では極めて稀な農村となった。その特

25)

徴を土地所有,農業経営,村落構造の三側面から整理すると以下のようになる。

八街村の土地所有上の特徴は圧倒的な地主的土地所有の支配という点である。第1表および第2表

(3)

大槻:明治末期村政改良運動と大地主支配       15

はそれを示すものである。明治38年の土地所有者は391人であり,同年の全農家の267%に過ぎない。

また,総耕地の過半が村外からの入所有になっている。Dによって大正5年の耕地所有状況を見れぽ,

30町歩以上の所有者54人で全耕地の約3分の1を占め,10町歩以上の所有者を合計すると33人で全耕 地の7Z6%にも及ぶ。このように大土地所有が圧倒的であるばかりでなく,その大土地所有者の過半 が他町村人であり,他町村人が過半の村内耕地を所有している。なお,第2表はやや後の時期のもの であるが,開墾会社解散時に由来する大地主の姿を確認できる。

第1表 耕地所有状況

A 田畑山林所有者数(明治38年)       (人)

2町未満 2町以上 10町以上 30町以上 合  計

287 73 18 13 391

B 耕地出入所有別面積(明治38年)      (町)

合    計

村内耕地 68.2(100) 2,111.8(100) 2,180.0(100 ) 入所有 12.8(1&8) 1,1123(527) 1,125.1(51.6)

出所有 a2(13.4) 10.6( 0,5) 19.8( 0.9)

差引所有 64.6(94.7) 1,010.0(47,8) 1,074.7(49.3)

C 自小作別農家戸数(明治38年)       (戸)

自 作   131 自小作  221 小作  1,110 合 計  1,462 備考 1)B表における( )は村内耕地に対する比率(%)。

2)『千葉県印旛郡町村経済調査』印旛郡明治43年より作成 D 規模的耕地所有状況(大正5年)

自町村人 他町村人 合      計

人数 面積(町) 人数 面積(町) 人数 面  積(町)

5反未満 112 21.93 54 13.02 166 34.95(1.4)

5反以上 96 67.92 42 29.81 138 97.73(3,9)

1町以上 80 140.gg 17 25.43 97 16642(6.7)

3町以上 18 67.92 8 30.53 26 98.46(ag)

5町以上 17 126.07 5 35.75 22 161.82(6.5)

10町以上 6 104.68 13 225.45 19 330,13(132)

30町以上 7 693.44 7 912.52 14 1,605,96(644)

合 計 336 1,222.96 146 1,272.51 482 2,495.47(100)

比率(%) 69.7 49.0 30.3 51.0 100 100

備考 1)合計面積の( )は合計面積に対する比率(%)

2)『第二回農業及漁業戸別調査表』千葉県知事官房 大正7年より作成

(4)

第2表 八街町関係50町歩以上大地主名簿(大正13年)

所有耕地面積(町) 小作人 八街町内

氏 名 居 住 地 備  考

数(人) 耕地面積(町)

西村  繁 0.2 470.4 470.6 520 約450 八街町三区 開墾会社社員子孫

大久保ゆう 75.4 75.4 56 75.4 八街町住野

小川 忠示 16.0 125.0 141.0 150 約120 山武郡日向村 佐倉同協社跡地買収

飯沼喜一郎 8.2 42.7 50.9 49 約 50 印旛郡洒々井町 洒造業者 鍋島 直大 626.9 626.9 493 626.7 東京府 公  爵

森岡平右衛門 67.7 67.7 46 67.7 東京府 開墾会社社員子孫 伊藤 喜助 55.0 55.0 150 55.0 東京府

備考 所有耕地面積,小作人数は「五十町歩以上大地主名簿」(農業発達史調査会『日本農業発達史』

第7巻 中央公論社1955年所収)より,その他は八街村資料より判断した。

八街村の農業経営上の特徴は,比較的大面積を耕作する小作農民による商業的畑作農業の発展と肥        26)

ソ・穀物商人による支配,そして農業経営と商人経営の不安定性である。第3表は農家の構成を示す ものであるが,3町歩以上を耕作する農家が,明治42年,44年の両年とも10%以上存在し,しかもそ の大部分は小作および自小作の農家である。自作農家は全農家の16.2%にすぎず,1町歩以下耕作が 大部分であり,八街村農業においては主導的な地位にないのである。

第3表 耕作規模別農家戸数

5反未満 5反以上 1町以上 3町以上 5町以上 合計(比,%)

自 作 71 129 8 4 212(16,2)

自小作 24 53 203 31 5 316(24.1)

42 小 作 181 109 390 90 14 784(59.8)

276 291 601 125 19 1,312(100)

本 業 62 192 747 143 19 1,163(79.4)

治44

副 業 218 54 25 4 301(20.6)

280 246 772 147 19 1,464(100)

備考 明治42年は矢吹修二「農業地としての八街村」(『農友』76号1911年)

明治44年は『千葉県統計書』大正元年版より作成

第1図は八街村における主要な農作物の作付面積の変遷を示したものである。麦類,大豆,陸稲な どの在来畑作物と玉蜀黍,落花生などの新興畑作物,さらに桑作一養蚕業を結合した畑作経営が営な まれていることが読みとれる。また,この図はこれらの作物の作付面積の変動が極めて激しいことを も示している。これらの作物はかなりの部分が商品として販売されていた(第4表)。したがって,

第4表 八街村主要農産物移出率(明治38年)       (%)

陸稲(梗) 陸稲(橋) 大麦 小麦 甘藷 落花生 大豆 玉蜀黍 馬鈴薯 里芋

15.7 65.8 78.7 92.7 58.1 92.4 22.3 59.7 96.3 93.8

備考 前掲『印旛郡町村経済調査』より(村内生産価額一村内需要価額)÷村内生産価額×100として算出した。

(5)

大槻:明治末期村政改良運動と大地主支配       17

作付面積の著しい変動は八街村における商業的

畑作農業が技術的にのみならず,経営的にも安      醇

定的に定着していないことを意味するものであ   を る。そこで,このような不安定な小作農家経営

ノ吸着しつつ商業的畑作農業の発展を支える肥

覧覧   ,・  !澱生

1,000

料穀物商人が急速に成長して行った。八街村に ィける小作農民は無資力で移住してきた者が大 ス数であったため,また市場から遠隔であった スめ,肥料・穀物商人の前貸関係の内に強力に gみ込まれていた。ところで,第5表は八街村 ノおける商人の推移を示すものである。物品販 щニ者の全戸数に対する比率は,明治後期の各

1 11 /

]、 O!w

@      弔1認郷一

       500 N度ともほゴ13%台であり,大正3年は15%,

蜷ウ6年は20%弱となる。比較的多数の商人が カ在することは明らかであるが,同時に商人の o営自体も小作農民と同様きわめて流動的であ

驍アとが表から読みとれる。

@八街村の村落構造上の特徴は,一部の旧村地 謔 除いて村落共同体の伝統がなく,開墾地区

詣  馳ノ・、

アく∴へ∴・・㌔・…・

には地主支配に適合的な集落が形成されたこと   M37 40   43  τ2    5  (年度)

である。第6表は,明治22年成立当時の旧村の

第1図 主要農作物作付面積 状況を示すものである。ここに含まれていない

      (備考 『八街村統計要覧(綴)』より作成)小間子地区は当時戸数300戸弱,面積900町歩

第5表 八街村商人推移      (人)

明治38年 明治41年 明治44年 大正3年 大正6年 専業兼業 計 専業兼業 計 専業兼業 計 専業兼業 計 専業兼業 計 物品 国税 156    156 61  1 62 58  3  61 42  49  91 46 12  58 販売 県税 70 65 135 19 208 227 132 59 191 141 56 197 274 80 354

226 65 291 80 209 289 190 62 252 183 105 288 320 92 412

行商 県税 16  16 34  12  46

備考前掲『八街村統計要覧(綴)』より作成

第6表 八街村旧村概況(明治21年)

開 墾 地 区 古  村  地  区

八街 大 木 富 山 榎戸新田 大関新田 文 違 雁丸新田 合 計

人 口(人〉 2,051 30 207 85 244 29 2,646

戸 数(戸) 486 6 43 13 61 5 614

面 積(町) 1,749 53 71 224 91 359 17 2,563

備考 1)八街地区からは小間子地区および笹引の一部,勢田入が除かれている。

2)r八街町史』288ページ。

(6)

     27)

ュであったが,これを除外しても近世以来の伝統をもつ旧村(古村とよぶ)は人口と戸数で約20%,

面積で27%の割合を統合八街村において占めているに過ぎない。古村地区は,先に述べたように他の 下総台地上の開墾地区と異なり開墾地に土地所有を拡大することは少なかったから,その伝統的村落        28)

¥?ェ開墾地区に拡大していくことはあまり大きくなかった。他方,開墾地区は八街村成立後幾つか

29)

の字に分割されて行政区域を形成したが,その分割は開墾会社の区分を継承して行なわれたQ八街村 の土地は,山林原野を包括して地区ぐるみ旧開墾会社社員に分割されたから,字はそのまま1人ない し数人の大地主の所有地からなることになった。まさに地主的土地所有に適合的な行政区画と言えよ

う。

さて,以上のような特徴を備えた八街村における社会的階層構造は,次のような図に表わすことが できよう。

小間子地区        八  街  地  区        古 村 地 区

圃  ■

西 村 家

1 在 村 地 主

8

特 別 百 姓 不在 主代理人  !P

作農民

小 作   民 小 作 農 民

単身移住者一半プロ レタ リア

ここに登場する若干の要素について多少説明を加える必要がある。鍋島家は,八街村最大の地主で        30)

?驍ェ,その所有地は巨大な小作制大農場として運営されていた。農場の運営は,旧佐賀藩家臣から 入植してきた数戸の農家を管理人とする永沢社によって行なわれた。永沢社は,三ケ所の事務所を置 き開墾奨励や小作地管理を行なうほか,貸金部(明治12年設置)と肥料部(明治18年設置)を持って,

小作農民経営に商品流通面からも関与する体制をとっていた。この永沢社の管理に当る旧家臣は,特 別百姓と呼ぼれ,鍋島家から自己の耕作地以外に特別貸付地を含めて約20町歩程度を借入れていた。

この特別貸付地は普通貸付地に比べて地料が低いため,又貸しによってその差額が特別百姓の手に入 るものである。彼らは,小作農業経営を営むだけでなく,永沢社の管理に当りまた中間小作料を入手 する一種の中問地主としての地位を古めていた。小間子地区も三地区に分けられ永沢社の事務所と1

〜2戸の特別百姓がそれぞれの地区に置かれたから,大地主の支配は特別百姓を通じて貫徹していた。

次に,開墾会社旧社員の子孫あるいは関係者である在村中地主は,村中央部からやや離れたそれぞ        31)

黷フ所有地に居住し,一定の農業を営みつつ小作地の管理に当っていた。不在地主たる東京商人の代 理人もほぼ同様の状況にあった。彼らは,その小作人を支配し,また地区の代表者としての地位を占 めていたことは言うまでもない。開墾地において自作農は前に見たように非常に少ない。彼らは,開       32)

、初期の入植者として県の授産事業で若干の耕地を安価で払い下げられ,以後農民として生き残るこ とに成功した者か,離脱していく入植者から土地を買い取った者であった。彼らは,その経済的安定 性と入植年度の古さとから地区における中堅的な役割を果していた。単身移住者は,小作農民として

自立できないため地区の有力小作人のもとで住み込み労働者として働きながら,開墾を進めた。彼ら が最下層をなしたのは言うまでもない。

(7)

大槻:明若末期村政改良運動と大地主支配      1g

三、村政と大地主支配の矛盾

以上見てきたような八街村の農業構造とそれに対応した社会構造に対応して,八街村の村政は,大 地主とりわけ西村家と古村の旧家の支配するものとなっていた。第7表は,明治年間における村長お

よび助役の一覧表である。ここからまず明らかなことは,村長の大多数が古村地区および西村家の居 住する八街三区から出ていること,非常に頻繁な交替が行なわれていること,村長と助役そしてここ に表示しなかったが収入役に同一人物が交互に就任する場合が多く見られることである。この表に登 場ずる村政の担当者たちは,いずれも村の上層に属していた。古村出身の木村,三須,綿貫,岡田は いずれも各地区の旧家であり,一定の小作地をもつ地主でもあった。また,三区出身の渡辺,佐久間 は西村家に親しい有力商人であり,西村千秋と源之助はそれぞれ西村家の本家と分家の当主であった。

大鐘は右村中地主であり,下村は小間子地区の特別百姓であった。これらの点から,日露戦争期に下 村村長が就任するまで八街村政は西村家と古村地区の旧家とによって支配されていたと考えてよい。

第7表 八街村役員名簿(明治期)

氏   名 区名 職業 任  期(○内の数字は何代目かを示す)

木 村 徳太郎 大関 ①22.7.19〜10,25③24.a1〜9⑩26,1220〜27.5.31 三 須   親 榎戸 ②2211,13〜24.2.28⑥25.10.6〜26.4.5⑨26.8。11〜11.2 渡 辺 音次郎 三区 ④24.3.10〜25.2.20⑧26ム24〜&10⑮36.1.28〜4.9⑲44.7.12〜

綿 貫 新次郎 文違

       大4.3.4⑤25.2.21〜10.1

内 貴 正 道 住野 不明 ⑦26.418〜24

佐久間 俊之助 三区 ⑪27.6.1〜29.10,20⑭35.424〜11.30

綿貫右馬之進 文違 ⑫32.9.19〜34.12.17⑯36.10.16〜37.6.18 西 村 千秋 三区 地主 ⑬35.3,4〜8

下 村   充 滝台 ⑰訂ユ2.10〜41.129 西 村 源之助 三区 地主 ⑱42.a27〜4生5.27

大鐘得三良 西林 地主 ①22&16〜10.10 岡 田 久 松 雁丸 ②22.10.22〜24,228

木 村 徳太郎 前  出 ③23,4.18〜24.a31⑤26.8.10〜27.5.2

内 貴正 道 前  出 ④24。3.30〜26,2,28 平 田 友 雄 不  明 ⑥27.5.8〜6.5

渡 辺 音次郎 前  出 ⑦27.9.12〜28.225⑮3a1.18〜43.1.17⑯44.728−r大4.4.20 佐久間 俊之助 前  出 ⑧⑨28。3.12〜35.4.25 ⑭371210〜39.4.20

鈴 木 重 雄 不  明 ⑩34.2.8〜35.12.3 三 須 惣太郎

榎戸ゴ   農→商 二区

⑪361.29〜2.25 小 島 雅楽吉 不  明 ⑫36.1.29〜37.7.28 山 崎 平太郎 不  明 ⑬36.10.23〜3&3.2

備考 前掲『八街町史』 251〜257ページ

助役で任期が重複しているのは,有給助役が置かれている場合である。

このような村政にあって,西村家の支配力は決定的であった。それは村会の構成の中に見ることが できる。周知のように,明治21年の町村制において町村会議員の選出は選挙人の納入する直接村税総

(8)

いた。これによって町村会における大地主の優位が保障されていたのであるが,八街村においては圧 倒的な土地所有をもつ西村家の独占的支配をもたらした。この選挙制度のもとで,西村家の当主は1 人で級酵人を鮎し級纐全員を・人で選挙できることにな♂?二臓員の選挙結果セこ応じて 都合のよい人物を村会に送り出せたのである。このように半数が直接西村家の影響下におかれた村会 は,西村家の意向を無視した村長の選出や村政の運営を行なうことは到底できなかったのである。

 このように大地主と古村旧家の支配する村政であったにもかかわらず,八街村は役員の交替と紛争 フ絶えることのない灘治村」としても酩であっ潔第8表は村政改鞭動前の紛争をみたので あるが,これによっても紛争が絶えることがなかったことは明らかであろう。

第8表 八街村紛争(明治中期まで)

年  度 内      容

明治9〜14年 開墾地土地所有権紛争 19 年 官有地払下げの紛擾

22 年 小作人同盟して小作料納入拒否

23〜4年 官有地払下げの紛擾 23〜30年 開墾地所有権回復闘争

30 年 地価修正測量をめぐる紛争 備考前掲r八街町史』121〜128ページ

印旛郡『印旛郡誌』大正2年 227〜8ページ 西村家所蔵資料などから作成

このような紛争が絶えなかった背景には次の二つの事情がある。第一に開墾会社解散に際して開墾 地の土地所有権が入植農民に与えられなかったことである。開墾規則においては相当の面積が入植農

●   ■

民に配分されるということになっていたので,彼らはこのことを不満として土地所有権の回復を求め       36)

驩^動を数次にわたって展開したのである。このうち,明治20年代の運動は,地主のきびしい反撃

(一土地取上げ)と県の弾圧,政府の黙殺によって敗北のうちに明治30年ごろ終束したが,これが当時 の村政に動揺を与え,また明治30年代の村政改革運動の底流をなしていることは疑えない。第二に,

地区間の利害の不一致である。この点について詳細に論ずべき資料はないが,次の記述からその一端 がうかがえるし,村政に大きく影響していたと見て誤りはないであろう。

…      ●  ●  o  ●

「官有地払下げの紛擾 実住区に官有地四十三町歩余ありしに同区二三の者明治十九年中実住学校 基本財産として払下げを出願せしに開墾民は開墾地処分未済の残地なれば開墾民に於て払下げをな

o   ●

さんとし苦情を申立てたるが為遂に払下げならず其の後明治二十四年中同官有地は八街基本財産と

●  o  ●  ●  ●  ■  ●  ●  ●

して払下げを出願せしに村会議員中旧村に属するものは町村制実施の今日なれぽ全村の基本財産

●   ●  ■   ●  ●

となすを正当とし或は各区に分配払下げをなさんとして紛争を極めたるを以て願書却下せられたり

37)

……v

八街村政は,以上のような対立を基礎に動揺を繰り返していたのであるが,村政改革運動は村財政 の問題を直接の対立点として発生した。そこで八街村の財政における問題点を明らかにしておこう。

第9表および第10表は村税収入の内訳と財政規模の推移を見たものであるが,これらから財政規模の

(9)

大槻:明治末期村政改良運動と大地主支配      21

拡大が極めて急速であること,にもかかわらず村税収入の伸びが低いこと,戸別割の伸びにくらべ土 地にかかる税(地価割,反別割)の伸びが低く,その結果戸別割の比重が約半分に達するということ などが明らかである。こうして村財政は非常な困難に陥ったのであるが,この困難は明治期町村財政 の困難をもたらす要因が八街村の特徴的な農村構造によって極度に増幅されて現出した事態であった。

明治後期の町村財政の困難をもたらす要因は,周知のように大量の委任事務の増大,固有事業の拡大 に対する固有の財政基盤の不足という点に求められるが,八街村の場合,開墾地であるための低地価  38)       39)

??ニ不在地主所有地の高い比重,農村中堅農民の層の薄さなどの条件は国税と県税への附加税の収 入を低く制限したうえ,多数の入植農民の貧しさが戸別割や雑種税など独自の税収源の不安定をもた

らしていたのである。これらの点は第9表および第11表で確かめることができる。

第9表 八街村村税内訳      (円)

明治21年 明治39年 伸び率 地価割 62361(22.5) 1,157(2&7) 9.3

反別割 62420(22.5)

戸別割 124960(45.0) 2,005(4α7) 16.0

営業別 27.717(1α0) 693(17.2) 25.0

所得税割 176( 4.4)

合 計 277.458(100 ) 4,031(100) 14.5

備考 1)( )内は比率(%),地価割の伸び率は,明治21年の地価割と反 別割の合計に対して。

2)明治21年は『八街町史』243ページ,明治39年は『八街紛擾史料集』

第10表 八街村財政規模推移      (円)

明治21年 明治22年 明治37年 明治40年 大正元年 予  算 277,171 397,131 6.46α213 15,513.02 31,506.00

(伸び率) 1.0 1.4 23.3 56.0 113.7

決  算 5,161,164 13.755389 18,239,142 備考 『八街町史』243ページ。

第11表 八街村諸負担比較(明治36年〜38年平均額)

(%)         (円)

国      税 村 税 等 そ の他 他ヨリ 1戸当り 1人当り 1人当り

地 租 所得税 営業税 諸 税 小 計 県 税

町村税 農会費 協議費 小 計 授業料 雑収入 納 入 負 担 負 担 町村税 八街村 49.2 1.7 6.1 0.2 57.1 27.4 15.2 0 0.1 15.3 4.5 2.1 32.9 6,057 1,648 0.33

印旛郡 32.6 ・4.2 4.9 21.3 63.1 17.0 16.0 O.1 3.7 19.8 1.5 2.6 3.7 28,411 5,448 0.85

備考 1)国税,県税,村税等の三者の合計を100%としたそれぞれの負担の比率である。

2) 1戸当り,1人当りを算出する際,「他ヨリ納入」は控除した。

3)『印旛郡町村経済調査』より算出。

(10)

すなわち,第9表における附加税の比重の低さと戸別割の比重の高さはその現われであり,第11表に おける国税,県税にくらべての町村税の比重の低さ,1戸当りあるいは1人当りの負担の低さはその 結果である。さらに,この事態に対して大地主および古村旧家等は,個々の事業(学校建設・道路工 事等)に対する寄付は温情的に行ないつつも村税負担の恒常的増加をもたらす法的制限率以上への附 加税率の引上げや戸別割の等級制の採用などは拒否したため,戸別割が貧困な小作農民へも同一率で 賦課され,極端な重課となったのである。その結果,第12表に見られるような村税の滞納の増加とな った。そして,村吏員や学校教員への給料支払の滞り,村購入物品に対する支払停滞など村財政の素

4D>

乱となって現われた。

第12表 八街村村税滞納状況

明治37年 明治38年 明治39年 明治40年 明治41年 明治42年 明治43年 人数 人数 金額㈲ 人数 金額㈲ 人数 金額㈲ 人数 金額(円) 人数 金額㈲ 人数 金額㈲

ω納期ヲ過ギ完納セザル者 100 1,014  779 1,597 1,627 2,031 1,553 1,165 2,236 928 1β49 377  398

㈲財産差押前完納スル者 53 365  447 913  746 257  441 257  441 291  287 42   51 滞  納  者(イーロ) 47 649  332 684  881 1,774 1,112 908 1,795 637  1,062 335  347

滞納者1人当り金額(円) 051 1.29 062 1.98 1.68 1.04

備考 『八街村統計要覧(綴)』より作成。

以上のように,村財政の問題が八街村政の最大の問題点となり,しかもそこに八街村の農村構造の 問題点と村政の大地主支配の矛盾とが集中的に表現されていたのである。

四  村政改革運動の展開

41)

第13表は,村政改革運動の展開を年表にまとめたものである。

第13表 村政改革運動年表

年月日 村長 事      項

31.5.3 村議選,下村充,三須惣太郎,鈴木文太郎当選(改革派村議)

32.10. 綿 貫 建築中の高等小学校々舎倒壊(暴風雨のため)…工事契約不明朗の疑い

34.4.29 村議選,岡村四郎兵衛当選(改革派村議)

35.3. 40日村会,予算案否決,決算否決,明治29年以来の決算報告要求,多数傍聴

綿貫村長辞職,西村千秋議員辞職(4月7日)

10. 佐久間 村理事者,出納整理委員を設け村税滞納処分に着手→出納不明朗が露呈→

中止→村民 知事への請願(署名200余人)のため県へ出発→郡長・警官によ る説得→交渉委員20名で村当局・村長と交渉の条件で解散→村長辞職(11月 30日)

36.1.28 改革派村議 渡辺を村長に選出

36.2.28 渡 辺 村会,国有林野払下げ決議(費用は村債で〉→申請(3月10日)→村債不調→

(11)

大槻:明治末期村政改良運動と大地主支配      23

村長辞任(4月9日)→払下げ許可(7月9日,価格5095円余)→払下げ地転売決 議(7月19日)→分割売り渡し契約完了(8月18日,5900余円)→反対運動→

郡参事会に申請せず(?)

36.10.10 地主派村議綿貫村長選出→改革派村議への滞納処分一資格剥i奪の企て→村民

多数の反対運動→失敗

37.4.29 綿 貫 村議選 西村辰三当選(村有地回復派)

6.18 綿貫村長辞職

10.7 改革派,西村千秋,佐久間俊之助告訴(村有地払下げ問題で不正ありとして)

12.10 村会,改革派下村を村長に選出,助役は地主派佐久間(地主派の従来の処置を 摘発せずの条件で両派妥協)

12.23 下 村 村有地売買契約破棄

38. 村会,村税戸別割等級制採用決議→均等割制に復帰(半年後)

38. 軍馬徴発旅費立替払金不正事件(佐久間助役)

39,1.18 村会,改革派渡辺助役,鈴木収入役を選出,佐久間助役辞任(1月20日)

39. 村財政出納調査完了(36〜8年度の3年間で未払債務3600余円,欠損金700 余円,村税滞納a200余円)

→欠損金の責任追求(前助役,収入役,村吏員の賠償請求)→前収入役自殺

→滞納整理→失敗(回収金340円,他は取立て不能)

40.4.29 村議選,改革派,村有地回復派進出,選挙に異議があったが却下

5.19 村会,非常特別税反別割条例可決→大蔵内務両省に申請→許可(41年2月末)

即日実施(44年まで5ケ年間,反当り一類地14銭以内二類地6銭以内)

41.2. 村債(国有林野払下げ代金支払い6400円余)4ケ年賦償還方針許可→失敗

(明治44年)

3. 地主西村本家分家,森岡家,大鐘家ら地料値上げ協議→反対運動→撤回

11. 郡から臨時出張会計検査…現金不足発見→下村村長残金封印,自宅保管→返 却せず

12.9 下村村長任期満了辞任→村会下村を村長に再選(12月14日)→辞退

42,3. 郡から臨時財政検査・・歳入出差額現金1418円余不足→収入役賠償→下村前

村長,前収入役公金横領,詐欺罪で下獄→裁判→有罪(43年6月20日)

42.3.27 西村村長就任 43.4.29 西 村 村議選 44.5.27 西村村長辞任

7.12 渡辺村長就任

10.6 渡 辺 村有地転売不許可(郡参事会決定)通知→飯沼ら転売を受けた9名が渡辺村長 を告訴(損害賠償請求45年)→一審判決(請求棄却大正元年10月15日)→控 訴(大正元年11月20日)

45.2.28 村民大会開催,八街村有地期成同志会(委員長西村辰三)結成

大正2.4.30 村議選,同志会進出

11.19 村会,払下げ地を村有地として村の基本財産にすることを議決 4.1.24 村と飯沼らとの紛争,郡長の斡旋で法的和解

備考 1)村長の氏名については第7表を参照。任期で第7表と若干くいちがいが見られるが,出典のと訟りに した。また払下げ価格も『八街町史』では6040円余となっている。

2)前掲『八街町史』,『印旛郡誌』,『八街紛擾史料』下村家所蔵文書等より作成

(12)

この表でも明らかなように,村政改革運動(以下改革運動とよぶ)は村財政の確立にかかわる次の3 つの課題をめぐって展開したQ

ω財政素乱の解決……出納の明朗化,決算報告の確立,村税滞納整理,未払し債務の支払い

(2)国有林野の基本財産化・・…函有林野払下げ,代金支払いのための村債の償還

(3)村税制度の改革……戸別割の等級制採用あるいは村税反別割制度の採用 以下,それぞれの課題ごとにその展開と特徴および相互関連を見ておこう。

(1♪の財政素乱の解決という課題は,改革運動の発端をなした。すなわち,明治32年の高等小学校々 舎倒壊の処理をめぐって工事請負契約の不明朗さに明らかになり,そこから村財政出納の明確化,明 治29年度以降発表されていない決算報告の要求へと発展していったのである。この課題は,滞納整理 に着手した際村税既儲が未納者として扱か繍るなど傭態が起ったたま㌧層大きな問題となっ たが・その最終的な解決は明治42年度まで持越され,その過程で村長,助役,収入役や村吏員の多数 が賠償請求をされたり,下獄などするほどの困難な問題であった。財政整理について,「財政は年一

年に素乱を来t屡々郡書記を派し整理をなさむるも吏員の交迭甚しく整理の緒に就しも忽ち不整理に      43)帰し殆と救済の途なきに付」と『印旛郡誌』は難行ぶりを述べている。このように財政整理が難行し

た理由を『印旛郡誌』は「吏員の交迭甚し」いことに求めている。当時の町村吏員は「町村長ノ推薦      44)二依リ町村会之ヲ選任シ」という町村制の規定(第63条)によって,村政担当者や村議会の意向に左

右されたから,この指摘は誤まっていない。しかし,財政素乱の原因はより根本的には八街村財政の 矛盾に求めるべきであろう。すなわち先に述べたような税負担の不均衡と細民重課のもとでは村税滞

納の累積は避け難かったのである。明治39年の滞納整理において2,200円余の滞納のうち340円しか       45)

回収できなかったことはその事情を明確にしている。したがって,財政素乱の解決の課題は必然的に

(3)の村税改革に発展せざるを得ないし,村税の改革なしには(1)の課題は達成できなかったのである。

(2)の課題の内容をなす国有林野の払下げは,第8表に見られるように八街村発足以前からの係争問 題であった。その意味で改革運動の中で村財政の基礎の強化という観点から課題として提起されるの は当然に思われるのであるが,現実にはむしろ地主派(改革派に対立する派をこのように呼ぶ。他に 役場派という言い方もあるが,適当でないように思われる)の側から提起されたように思われる。な ぜならぽ,村有基本財産は確かに村財政の基礎を強化するのに有効であるにしても,そのためには当 時の村財政の一年間の規模に匹敵する高額の払い下げ代金を調達せざるを得ない。当時の八街村財政 にそのような余裕がなかったこどは明白であり,村債に応募するものすらいないという状態であった のであるから,村財政の強化には差し当り役に立たず,むしろ新たな負担をもたらす要因でしかなか った。地主派がこの時点で国有林野払い下げに積極的であったのは,村基本財産の設定に名を借りた 国有林野の払い下げ→村有力者への分割払い下げ→その転売による利益獲得という目的からであ

ったように思われる。実際,払下げ工作費の名目で西村千秋と佐久間俊之助が100円の支出を受けた と告訴されていること,当初村から分割売り渡しを受けた14名のうちには綿貫右馬之進,佐久間俊之 助,山崎平太郎など村長,助役,収入役などとして村政を支配してきた地主派が含まれていること,

・4名のうち後まで所擁を繍していたのは4名にすぎないこと秘,この棚りを裏付ける穀は少 くない。そして,明治37年12月改革派を中心として村有地売買契約が破棄された後,払い下げ代金の 支払と,そのために発行した村債の償還は非常に困難な問題となったのである。

ところで,このような経過で村政改革運動の課題になった国有林野払い下げ問題は,改革運動に新 たな要因を付け加えることになった。それは報徳主義者の改革運動への参加と地方改良運動との関連 とが生じてきたことである。明治37年村会議員に当選した西村辰三は西村家の娘婿であり分家の当主

(13)

大槻:明治末期村政改良運動と大地主支配      25

      47)であったが「農学士,二宮尊徳崇拝者 報徳主義宣伝者」でもあった。彼は恐らく報徳主義者の立場

からであろうが国有林野の分割売り渡しに反対し,その村基本財産化を強力に主張したのであった。

こうして改革派は村基本財産の設定を主張する報徳主義者とも共同するに至り,またそれを通じて地 方改良運動とも一定の連撃を持つことになったのである。そして,(2)の課題の解決のためにも(3)の課 題である村税の改革による村財政の健全化が要請されたから,ここからも(3)の課題が展開する必然性 が生まれてきた。

(3)の課題は,村財政の基本にかかわる問題であり,村政を支配する大地主と古村旧家の利益に直接 かかわる問題として村政改革運動の中心的な課題であった。それだけに地主派の抵抗は大きく,明治 38年に一度議決された村税戸別割の等級制ですらわずか半年間の実施で再び均等割に戻されるとい

      48)      49)う状態であった。村税改革案は,その後下村と西村辰三が相談して創案したという特別税反別割条例

となって結実するのであるが,この条例案に対しても地主派の抵抗は激しいものであった。条例の議 決に際して地主派は「地主の負担は激増し鍋島は千余円西村は五百余円を増収せらるべく其他も之に 応じ相当の負担を受くることなれば……反対の猛烈なる殆ど下村及それに従事せる吏員の身辺に危害 をも及ぼすべき形態となり熾かんに無智の細民を煽動し下村を村長の椅子に据置く時は村費の濫収は

●  ●  ・  …        ●       o

止まざるべく,それがため小作料の引上げを免がれざるのみか,彼らは学校を増築し貧民の子弟に不

・  ・  ●  ●  ・  …       50)

@の就学を強ふるに至るべしと教唆しける……」などの妨害を行った。さらに村会議決後の主務大臣 への申請に対しても,地主派は「総代人を派して主務省に向て其反対を唱へ,理事者に向ては決して        51)

[税せざるべきを脅迫する等」の反対運動を展開したのである。

      52>ところで,このように激しく執拗な妨害にもかかわらず,村税反別制条例が村会で議決され,時間

   53)

ヘ要したが主務大臣の認可が得られた理由として地方改良運動との関係が考えられる。先にこの案が 下村村長と西村辰三の相談によって創出されたという点を指摘しておいた。また,年表に示したよう にこの反別割制度は当初明治44年までの5年間という期間で採用されたのであるが,この制度の許可

とほとんど同時に国有林野払下げのための村債の4ケ年賦償還計画が承認されている。村税改革案は,

村基本財産の設定とセットにされることによって,報徳主義者の支持も得られ,主務大臣の認可が得

54)

られたのではないだろうか。

       55)

ウて,このようにして採用された村税反別割制度は村財政の改善に非常に顕著な効果を及ぼした。

第14表は村税収入の推移を見たものであるが,反別割の採用された明治40年度における村税収入は前       56)

Nにくらべて約4700円の増大を見,2倍以上となった。 このうち反別割は約3500円余の増収をも たらした。この結果,先の第12表にみられるように村税の滞納が次第に減少してゆくことになり,ま た村基本財産の設定への基礎が作られることになったのである。一方,村税反別割の採用は大地主の 負担を一挙に増大させた。在村大地主西村家の場合明治40年以前の150円〜200円から明治41年度 フ6・・円叙なって、墨当時債瀦算のため西村家から千鞍噺擁の移っていた土地の魂飾

せれぽ,先の引用文にある五百余円の負担増という数字はほぼ妥当なものであろう。

第14表 八街村村税推移

(円)

明治36年 37年 38年 39年 40年 41年

2,475 2,521 3,547 4,031 8,728 8,370 備考 前掲『印旛郡町村経済調査』『八街紛擾史料』より作成

(14)

以上,三つの課題に即して改革運動の内容をおおまかに見たのであるが,運動の背後にありながら も運動の帰結に大きな影響を与えた大地主西村家と八街村の小作農民の当時の状況を見ておきたい。

       59)

ン村大地主西村家はこの時期急速に経済的破綻を迎えていた。この点は別稿において分析したのでそ の概要を述べると次のとおりである。西村家は明治25年家政改革を実行し,従来の前期的資本として の諸活動を縮少し開墾を中心とした近代的経営(一族を社員とする任意会社制度の採用)に転換しよ うとした。開墾奨励と農園経営に重点を置きつつも,金貸し業から引き上げた資金の運用先として有 価証券投資がその一環に位置づけられていた。しかし,明治30年の日清戦後のブームの後の株価低落 によって有価証券投資は巨額の損害を西村家にもたらし,債務の累増によって遂に明治36年日本勧業 銀行の年賦償還を滞納するに至った。以後弁護士の強制管理の下におかれ,明治39年には全面的な債 務整理のため全財産は売却されるか抵当に入ってLまったのである。このように,西村家は明治30年 代においては表面的には村政を支配しつつも,経済的困難と貸金業の縮少の結果商人に対する影響力 を急速に失いつつあったのである。そして,本格的に村政改革が進行する明治37年以降は村政に対す        60)

骼x配力をほぼ失っていたといってよい状況にあった。こうして一大主柱を喪失した地主派の力は急 速に衰えることになり,そのことが村政改革運動を成功させる条件となったことは明らかであろう。

      61)

氓ノ小作農民の地位は,明治30年代次第に強化されつつあった。この点も別稿において分析したの で詳細はゆずるが,明治30年の鉄道開通以後金肥の施用と普通畑作物の商品化と特殊な商品畑作物の 導入とによって開墾畑作地における商業的農業は不安定ながらも次第に確立しつつあったのである。

小作農民は小作争議という形で独自の運動を展開する力は未だ十分でなかったが,彼らの経営の安定 のために負担の不均衡と村税の重課に反対して改革運動に積極的に参加し後援したのである。先の年 表にも明らかなように,運動の展開の種々の局面において集団的な行動をとって改革派を支援し地主 派に圧力を加えていった。この大衆的な支持と圧力を背景にして始めて,村政改革運動は地主支配の 集中的表現である村税制度の改革の課題を達成できたのではないだろうか。

五 村政改革運動の性格

村政改革運動を実質的に推進した者のうち氏名が判明するのは,改革派村議4名と彼らに推されて 村長に就任した渡辺音次郎,村有地回復派の中心人物西村辰三の合計6名である。第15表(次ページ 参照)は彼らの出身等の概要を示すものであるが,この表を通じて村政改革派の性格を明らかにした

いo

この6名に共通する特徴は,第一にその出身と国税納入額に表現された経済力とから見て,村内の      G

上層に位置するということである。西村辰三の西村分家という立場,下村の特別百姓という資格は村 内の最上層に位置し,三須,渡辺もトップクラスの商人として村内の上層に位置する。鈴木は1.5町       62)

煦ネ上を耕作する農家,岡村は小商人にそれぞれ相当するが,八街村の階層構成の上では中層に位置 する。ここで注目されるのは,改革運動の初期を担った改革派村議は明治35年における直接国税納入 額がさほど大きくなく,後に改革運動に合流する渡辺と西村は明治35年においてすでに村内上位10位 以内に位置する直接国税納入者であるという点と,三須,西村は明治35年には職業が農業であったの が後に商業に変化し,その納入額が大きく伸びているという点である。

改革運動推進者たちの第二の特徴は,彼らが鈴木を除いて商業を営んでいたという点である。そし て彼らの商業は,肥料商,穀物肥料商,金物商など主として農業経営に直接関連するものであった。

以上二つの特徴は,村政改革運動の性格を考える上で重要な示唆を与えている。

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