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明治期における「体育」概念の研究 一一 類似概念 との混舌

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(1)

明治期における「体育」概念の研究

一一 類似概念 との混舌 Lの 原 因について 一一

A Study on the Concept of Physical EducatiOn"in the Metti Era 一 〇 n the Cause of Confusio■ with SiIIlilar Concepts―

Atsushi SIIMBo

(昭

61年 10月 11日 受鋤 Abstract

The purpose of this paper is to investigate the inmuence of the understanding of play and martial arts upon the concept of physical education in the Meiil era.

As regards the names of organizations, of those exercised this study showed that the name Physical Education"which was adopted fOr thOse organizations was■ ot appropriate.

Those were evidently athletic groups.Therefore,the nature of those organizations should be categorized as̀substance'。

However,the inteition of adopting the relational concept  physical education" to those organizations was to add educational slgnlficance to them.

The reason for this occurrence is that play and martial arts were regardё d with lesS im‐

portanCe than gymnastiCs in the Meiji era.

In conclusi6■ ,the cause of confusion of the concept of physical education" was nOt a withdrawal of eduCational slgnificance as sho‐ wn in the review literature,but an addition of educational to various phycial exercise.

1.序 論

1. 1  間

1題

の所在

「体育・スポーツ」という用語の並記は ,体 育学の専門書等においてもよく見受けられる表 現である。

こうした両用語の混同を示す現象は ,い たるところに存在 していると言えよう。名称の問題 に関して ,そ の例をあげるとすれば ,「 日本体育協会」 ,「 国民体育大会 J,「 体育の日 Jの 英訳

,そ

れ ぞ れ

The Japan Amateur Sports AssOciatlon", National Sports FeStiVal", Health一 Sports Day"で あり ,「 体育」の原語である Physical Education"が 使用されていないというこ

とや,ま た ,「 国民体育大会などの得点源としてトップ・レベルのスポーツマンが体育教師と して優先採用されたり ,強 化指定校のコーチャーとして活用されたりしているという事実」 。な どは ,「 体育」と「スポーツ」という用語の概念が ,著 しく混乱していることの証左であろう。

淳 保

(2)

保 淳 新

こうした問題に対し先の研究詢

)に

おいては ,佐 藤η が「体育」 │,「 スポーツ」という両概念 の位相の違いを明らかにするために用いた「関係概念」と「実体概念」というカテゴリーを援 用することによって ,第 一に ,本 来 ,西 欧語であった PhySical:Education"が 「体育」に邦 訳される時点で ,概 念の正確な把握がなされたのか ,に ついて検討し ,第 二に ,導 入時点では

,

体育概念の本質的な部分において ,そ の意味内容が正確に把握されていたと仮定するならば

,

今 日に至る過程の どこで意味内容が変容 して しまぅたのか │に ついて考察

iを

加 えたもその結果

,

明治初期の導入段階においては ,体 育概念が ,そ の本質部分 において正確 に把握 されていたこ とを明 らかに し ,こ の考察か ら第二の仮説 ,す なわち ,そ の後の過程 において変容 した とい う 推測の もとに ,そ の要因の一端 を ,競 技団体 の名称 を例 に して考察 した。

次 に残 された問題 として ,何 故 ,今 日における用語の混乱が生 じたのかについての検討 を

,

もう一度 ,競 技 団体名 をもとに ,さ らに厳密 な議論 によって明 らかにする必要があると考 えら れる。

1.2  先行研究の検討

明治期か ら「体育」の概念 に対する研究の中で ,最 も著明な業績 は ,木 下秀明の「 日本体育 史研究序説」であろう。

木下は ,「 体育」概念と「運動」概念の混乱をもたらした原因として次の5点 を指摘してい

るの。

①   運動教育を意味する体育を具体化する過程において ,「 体育」からの教育性の後退に よって ,現 象としての運動そのものを意味する「体育」の概念が出現 したこと

②:運動教育を以外の新運動観の台頭を「体育」と把握したことによって ,現 象としての運 動そのものを意味する「体育」概念が出現 したこと

③   Sport"の 概念に相当する適切な日本語が欠如 していたことによって , Sport"の 概 念を表現するために「体育」が使用されたこと

④   明治初年代から ,常 に運動が「体育」上の問題として展開してきたため ,「 体育」 とい う言葉と「運動」という言葉との間に親近性が生じたこと

⑤   明治 10年 代の大学で形成された運動教育を意味する「運動」の概念と ,運 動教育を意味 する「体育」の概念とがまったく同一の概念であったため ,「 体育」と「運動」とが混 同されたこと

これらを総括するならば ,混 乱の原因は「体育」からの教育性の後退にあったと言えるであ ろう。それ故 ,類 似の用語が「体育」 と同一視 されるようになったと考えられている。 しか し なが ら ,明 治期 も中期以降になると ,「 体育」の重要性を示 しつつ も ,体 育の教科内容 として 取 り上げられなかった体操以外の運動が ,競 技性 を帯びることによって ,学 校教育との関係が 薄れた ,い わば ,野 放図な状態 となり ,そ れに対 して ,教 育界から様々な対処方法が検討 され ていた事実動などからしても ,「 運動」に対する教育的期待は ,大 なるものであったと推察 さ れる。それ故 ,木 下が示 したように ,「 体育」からの教育性の後退が「体育」 と「運動」 を混 乱させるに至ったとする考え方 とは逆の視点 ,す なわち ,「 体育」の教育性を維持するために も ,「 運動」により教育性が期待 されていった ,と いう視点から考察することによって ,両 用 語の混乱の原因が明らかにされるとともに ,類 似用語の混乱の原因についても ,言 及すること が可能であると予想される。

1日

3  本研究の 目的 と方法

(3)

明治期における「体育」概念の研究        21

先 に述べた ように ,本 研究 においては ,明 治末期 に 日本で初めて設立 された「大 日本体育協 会」の名称問題 をてがか りに ,「 体育」の教育性 を維持するためにも ,「 運動」 に ,よ り教育性 が期待 されていった事実 を解明す ることが 目的 となる。

その為 ,  もう一度 ,運 動競技団体 の名称 に関す る問題 をとりあげることによって ,問 題点 を

明確 にす る必要があろう。その上で ,そ の要因について検討 を進めるものである。

2.運 動競 技 団体 の名称 問題

運動競技団体における名称の問題は ,以 下のものによって ,代 表されよう。例えば ,明 25 年に結成 された慶応大学の「体育会」は ,剣 ,野 球 ,端 ,弓 ,操 練 ,徒 歩の各運動部に

よって構成されたものであ り ,運 動部の総称 として「体育」が使用されている。

一方 ,嘉 納治五郎によって創立された「大 日本体育協会」 も慶応大学の「体育会」 と類似の 性格 を持つ ものである。このことを詳細に見るならば ,大 日本体育協会の規約の中に次のよう な記述がある。すなわち

,

二 ,本 会ハ 日本国民ノ体育ヲ奨励スルヲ以テロ的 トス

三 ,本 会ハ国内二於ケル諸学校体育部及体育二関スル諸団体 ヲ以テ組識ス→

このように ,本 ,各 種運動競技の統括 を目指 しながらも ,一 方で ,「 体育」の奨励 をもそ の目的の一つ としていたことが うかがえる。 しか しなが ら ,そ の実質は ,「 運動競技諸団体」

の統括 を目指 した組識であった。 このことは ,「 当時体育に関する団体 として 日本体育会が 在ったが ,体 育 とは別の意味に於て競技運動の大勢は世界の風潮から遥かに取 り残されていた 日本に新機運を呼び起こす」国際情勢から「本会の結成 も此遠征に対する母体 としての団体を 設立することを先にし,そ の構成も運動競技の実際に当っていた諸学校の体育部を基礎」 動とし たことからも理解されるところである。

では ,何 故 ,「 運動競技団体」の名称に「体育」 という用語が使用されるように ,な ったの であろうか。次にその理由について考察することにする。

3.明 治期 の体 操 に対 す る各種 運 動 の位 置付 け

明治初期に導入された「体操」は ,学 校体育のみならず ,軍 隊等においても非常に重要な位 置をしめていたことは ,  リーランドを招聘 した「体操伝習所」の設立を挙げるまでもなく ,多 くの人の知るところである。しか しながら ,そ れ以外 ,す なわち「遊戯」等の各種運動の学校 体育における位置付けは ,そ れに対 して如何なるものであらたろうか。このことについて考察 することは ,後 の「体育」 と各種「運動」の混乱を明らかにする意味において ,重 要な基盤を

なすと考えられる。        │ 3.1  遊戯に対する理解

明治初期における遊戯の導入が ,幾 多の困難を担っていたことは ,当 時の「封建的な勤労観

,

遊びを罪悪視する児童観」 0か らも容易に推察されるところである。しかも

,

器械運動井多カヲ要スル所業ヲ以テ軽

1快

運動二代用スルモ其用所ニヨリテハ亦可ナルベ

シ故二挙家 ,漕 手 ,兵 卒ノ如キ筋カ ヲ要スル人物ヲ育成セントスル場合二於テハ其必用ナ

ル事固ヨリ疑 ヲ容 レズ然 レモ学術二従事スル紳士ハ単二自己ノ体ヲ健全ニセン事 ヲ希望ス

ルモノタレバ予メ先ズ少力運動ヲ為シ其救援 ヲ得 タル後二非ザ レバ多力運動ノ如キハ其要

スル所二非ズの

(こ

こでの「運動」は ,凡 て普通体操のことと考えられる

)

(4)

新   保     淳

というリーランドの体操に対する教育性の重視註めとは逆に ,体 操以外の運動については

,

課業時間外二鬱散ノ為メ各生徒ノ好二任セ随意ノ運動ヲ許スベシ 0

と述べ られている。すなわち ,他 の運動は ,「 課業時間外」であ り ,  しか も「随意」に実施 し

て もかまわないこととなっている。このように体操以外の運動にういては ,「 教育性」 という       .

視点から捉えられることが困難なものであるという, リーランドに代表される詢 ,当 時の体操 伝習所においての理解が ,ま ず看取される。

しかしなが ら ,体 操科の内容 として ,遊 戯が取 り上げられていたことも ,ま た事実である。       7

その遊戯の実施内容を各学校段階においてまとめるなら以下のようなものである

"。

小学校段階においては ,明 治 14年 の「小学校教則則綱領」で示 された ,低 学年における「適 宜の遊戯」 Dが それ以降 ,高 学年の体操科の内容にな り ,明 治 24年 の「小学校教則大綱」か ら

,

土地 ノ状況 ニ ヨ リテハ ,体 操 ノ教授 時 間 ノー部 モ シクハ教授 時 間 ノ外 ニ オイテ適宜 ノ戸 外運動 ヲナサ シメ ,マ タ夏期 ニ オイテハ水泳 ヲ授 クル コ トアルベ シ 0

というように ,遊 戯の内容が具体化 されるとともに ,選 択の幅が広げられてきたところに ,特

徴がある。

中学校段階における体操科の内容は ,普 通体操 ,兵 式体操が主たるものであったが ,明 35 年の「中学校教授要 目」の「教授上の注意」には

,

体操教授時間外ニオイテモ ,常 二生徒ノ姿勢二留意シ ,又 適宜各種ノ遊戯運動ヲ奨励ス ベ シ

と して ,時 間外 の運動 に遊戯運動が奨励 されて きてい る。

さ らに高等女学校段 階 において は ,明 治28年 の「高等女学校規定」 によって ,体 操科 の内容 ヽ が ,「 普通体操」 と「遊戯」であ り ,明 36年 の「高等女学校教授要 目」には

,

土地ノ情況ニヨリ遊戯ニオイテ便宜遊泳 ,氷 滑 リノ類ヲ加ウルコト・ ヲ得 D      

′   

とあるように ,小 学校同様 ,遊 戯の選択の幅が広げられている護

"。

以上 ,制 度上 ,体 操科の内容 として取 り上げられていた「遊戯」を ,各 学校段階ごとにみて

きたわけであるが ,概 していえることは ,「 遊戯」 をその内容 としているのは ,小 学校期の児        ・ 童や ,女 学校段階における女子においてであ り ,そ の他の男子に対 しては ,時 間外において随

時実施されるものとなっていることである。このことは ,遊 戯が普通体操や兵式体操 といった

「体操」 と比するならば ,教 育効果 を生むうえで「非直接的な運動」 として把握 され ,ま

,

時間外にのみ ,中 学校の男子にも奨励 されていたことから推察するならば ,最 も活動的な時期 にある男子の身体育成等において教育効果を望む上で ,積 極的に評価されていなかったことを 示す ものと考えられる。

この意味において ,遊 戯の価値観は ,体 操よりも低 く捉えられていたと言えるであろう。

3.2  体操遊戯取調委員会報告の持つ意味

文部省は ,明 治 37年 に ,沢 柳政太郎 ,川 瀬元九郎 ,高 島平三郎 ,坪 井玄道 ,三 島通良 ,井 口 あぐり ,多 野貞之助 ,可 児徳を委員 とする委員会 ,す なわち「体操遊戯取調委員会」を発足 さ せた。この委員会設立の趣旨は ,「 従来 ,兵 式体操 とともに ,学 校体操の中核 として発展 して きた普通体操は ,上 方には新体操

(ス

ウェーデン体操のこと )の 出現 ,他 方には遊戯運動の普 及によって安定性 を失いはじめた」 m(括 弧内は筆者 による )こ とや ,明 治「 36年 8月 に文部

省認定として出版された坪井の『改正普通体操法』が ,川 瀬などのスウェーデン式理論から縦

(5)

明治期における「体育」概念の研究

横に批判 されはじめ ,ま た女子体育や遊戯活動を重視する自井や高橋などからも不信を招いて いた」。ことが ,中

(文

部省 )と 現場 との間に不安定感をもたらし ,そ れ故 こ、 の溝 を何 とか 打解 し調整することにあった。

その設立の要因にも上げられているように ,当 ,関 心が高まり ,発 展 しつつあった遊戯に たいしても ,明 38年 に提出された報告書の中で

,

運動遊戯ノロ的ハ児童ノ活動的衝動ヲ満足セシメ運動ノ自由 卜快感 トニ由リテ体操科ノ 目的ヲ達シ特二個性及自治心ノ発達二資スルニアリЮ

と評価 してお り ,内 容 も教科 として課すべ きものや ,教 科外に行 うべ きものに分けて ,事 例が 列挙されている。

また ,前 述 したように ,実 際に遊戯が体操科の内容 として取 り上げられていたのは ,小 学校 や女学校だけであるという現状に対 しては ,「 各学校体操科二関スル現行規定中改正ヲ要スル 事項」で

小学校 ,中 学校 ,高 等女学校及師範学校等ノ体操科二関スル規定中体操遊戯調査委員会 ノ決議セル事項二合致セザルモノハ成ルベク速二改正セラレンコ トワ希望ス切

として

教授時数ハ大体現行ノマ ヽニテ変更ヲ要セザルベシ但シ中学校及師範学校

(男

子 )二 テハ現今遊戯ヲ課スルノ規定ナキモ教授時数ノ三分 ノー以内ノ時間ヲ以テ遊戯二充ツルコ

ト D(傍 点は筆者による )      

というように ,教 科内容の改正を求めている。

このように ,遊 戯にも教育的効果が期待できるという体操遊戯取調委員会の報告書は ,遊 戯 の持つ教育的価値について疑念を持っていた文部省 にとって ,理 論的裏付けを与えることとな り ,後 の学校規定に遊戯をもりこむためにも ,大 きな意味を持った報告書であったと言えると ともに ,こ こで示 された遊戯の持つ「体育的価値」が ,「 遊戯」イコール「体育」 という ,後

の「体育」推奨者にとっての素地を形成することになったと推察される。

3.3  武術に対する理解

明治初年における我が国の近代化の影響は ,様 々な面に及んだわけであるが ,武 術において も ,廃 刀令

(明

9年 )に よって武士の魂 とされた刀剣が十把一束に売 られ ,弓 術 も放棄され るようになる。それ故 ,こ れ以降の学校体育においても ,再 び体操科の内容 として採用される までには ,困 難を伴 うことになる。

当時の武術は ,大 きく分けると撃剣 と柔術を指すことになるが ,こ れらに対する教育界での 理解は ,文 明開化の影響 も受けて ,負 の方向に向かう護°。例えば ,明 治 13年 12月 22日 ,元 老院

会議第二百十七号議案教育令改正案における文部卿河野敏鎌の意見によれば

,

何 ノロ的ヲ以テ武技 ヲ加ヘントスルヤ ト按ルニ ,心 脂ヲ練 り ,身 体 ヲ強ウスルニ在 リト 云フ ,然 レバ則チ体操アレバ足 レリトス。

(中

略 )況 ヤ弓馬槍貪

lノ

如キ不用物ヲヤ 9

また ,文 部省が明治 16年 に体操伝習所に対 して命 じた「剣術及ビ柔術ノ教育上ノ利害適否ニ 関スル調査」の解答は ,否 定的なものであった議 の。その理由として今村は次のように述べてい る。「一つには ,学 校体育法を主 として生理学 ,解 剖学 ,衛 生学の立場から規定 しようとする 合理主義思想が指導者達の体育観の中核 をなしていた」 わからであり ,こ のことは ,「 一方では

,

『柔儒ノ風姿ヲ去 リテ岡 l壮 ノ資格ヲ得シム』 とたたえながら ,他 方では『精神激シ易ク ,ヤ

モスレバ粗暴ノ風 ヲ養フ』 とし ,こ れらが挙げて指導者の指導如何によって何れも傾斜すべ

│き

(6)

淳 保

ものであ り ,武 術 その ものの特色でない ことに想到 していない。即ちた とい伝習員に対 して と は云え ,兵 式体操で銃鎗の学習 を認めなが ら ,全 く同類の柔 0剣 術 を拒否す る立場が とられて いる。」

)と

い う考 えの中にも ,当 時の武術 の衰退傾向が表現 されているといえよう。

これを受けた文部省が提 出 した ,明 治 31年 「師範学校又ハ尋常中学校二撃剣柔術加設禁止」

の通牒 によれば

師範学校又ハ尋常中学校二於テ ,体 操 ノー科 トシテ撃剣柔術 ヲ加へ居 ルモノアルヤ相聞 工候庭 ,右 ハ此等学校学科課程 ノ規定二抵触 スル次第ニシテ ,生 徒遊戯 ノー トシテ随意ニ 行ハシムルハ差支ナキモ ,生 徒各 自必須科 ノー トシテ之二従事セシムル嫌アルニ於テハ

,

課外二於テスルモ不都合二候間 ,予 メ御了承相成度候 ,依 命此段及御通牒候也

2の

として ,体 操科の必須内容 として武術の参入 を否定 している。

同様 な考 え方 は ,こ の後の武道正課採用請願 に対 して も表れている。例 えば ,第 二十一回帝

国議会

(明

38年 2月 7日 )に 提 出された「体育 に関す る建議案」 に対す る採決の結果 は ,賛

成 96,反 101で 否決 されてお り 劉 ,武 術 の正課採用が様々な形で懇願請求 されていたに もか かわ らず ,そ の過程 は厳 しい ものであった と言えよう。

また ,遊 戯 に対 しては肯定的であった体操遊戯取調委員会 も ,武 術 に対 しては否定的であ り

,

「学校 ノ正科 卜為 スニ適セザルヲ認 メ ,任 意正科二課スルコ ト」

20と

して ,従 来 の考 え方か ら の進展 を示 さなかった。

ここに見 られるように ,明 治期 における武術 は ,遊 戯運動以上 に ,そ の教育的価値観 におい て認め られてお らず ,武 術 に対す る請願 は継続 されるわけであるが ,正 式 に体操科の正課 とし て法規化 されるまでに ,幾 つかの段階を踏 むこととならざるをえなかった。

t81

3.4「 運動一般」における教育的価値の導入

先に挙げた「大 日本体育協会」の創始者 ,嘉 納治五郎の果たした役割は ,大 なるものがあっ

た。嘉納の伝記には随所に「外国から輸入 したスポーツの実践者 としても先達の一人であった ばか りでなく ,そ れを体育の教材 とし ,あ るいは学生生活の中に組識化するなどして ,教 育に

利用」 2"し たことや ,「 体育を推進」 したことが記 されている。すなわち ,そ の「体育推進」の

一貫が「大 日本体育協会」の説立であろう。

しかも ,こ の会の設立にあって ,各 競技団体から「われわれは体育が目的ではなく ,競 技が

目的であるから ,体 育協会の名称 を改めて『競技連合』 とすべ し」

20と

ぃぅ意見に対 し ,嘉 納 は「自分が体協 を組識 したのは ,  どこまで も国民体育を目的としたものである。今 ,諸 君が競

技連合に改めたいというならよろしい。自分は別に体育協会を組識する。 」 冽という返答をした ことからも ,嘉 納の「体育」に対する「教育性」の重視が読みとれるし ,そ れ故 ,当 ,軽 視 されていた運動競技に「体育」 という名称を使用することによって ,「 教育性」を注入するこ とが肝要であると痛切に感 じていたと考えられる。 `

ここに ,名 称に絡んだ概念の混同を見ることができよう。すなわち ,実 際は ,各 種競技団体 の統合組識であったにもかかわらず ,「 体育」 という概念のもつ「関係性」 を無視 した名称 を 使用するによって ,「 体操」に比較 して教育的価値が抵いと考えられていた「遊戯」や「武術」

を体操科の教育内容 として認めさせようとする意図が ,こ には見られるのである。

以上のことにより ,運 動競技 を総括する団体が「体育」 という用語の持つ「教育性」を付加

することによって ,自 らの存在理由を明確にしようとしたことが ,結 果的には「体育」 と「運

動一般」の混乱を導 くのに非常に大 きな要因であったことを意味すると考えられる。

(7)

明治期における「体育」概念の研究

4。

結 論

本研究では ,明 治期における遊戯や武術が体操に比較 して ,そ の教育的価値が認められてい なかったことが ,理 解された。その影響 としては ,名 称問題に絞った限 りでは ,当 時の大学に おける「体育会」や明治末期に設立 され「大 日本体育協会」が ,各 種運動競技団体 という ,実

際 ,「 各種運動」の持つ「実体性」にその本質をもつ ものが ,「 体育」のもつ「教育性」を導入 することにより ,「 運動競技」軽視 という社会的風潮を払拭 しようしたことにつながったと推 察される。それが ,「 体育概念」 と「スポーツ概念」の混乱 という今 日状況を生 じせ しめる原 因の一端 となったと言えよう。この意味において ,木 下が指摘 したように ,「 体育」概念の混 乱の要因は ,「 教育」の後退ではなく ,逆 ,様 々なものに ,「 教育性」を付加しようとしたと

ころに ,混 乱の原因を求めることができるのではないかと考えられる。

1)東 海体育学会第34回 大会 ,日 頭発表 :「体育」概念 と「スポーツ」概念の混乱 に関す る一考察

,

昭和61年

10月

,於 岐阜薬科大学

2)例 えは 申学校 における対外競技の注意点等   明治40年 7月 ,全 国中学校長会議 ,「 各学校二行ハ ルル競技運動 ノ利害及 ビ其弊害 ヲ防止スル方法如何」

3)竹 之下や岸野によれば ,  リーラン ドの根本 にある考え方 として `

「人間に必要な身体修練 は健康で 活動的なか らだを作 ることであ り ,そ の 目的で作 られた体操 は最 も適当な運動法である。 したがっ て体操 は教育的であ り ,体 育の名にふさわ しい」 と述べている。

(岸

野 ,竹 之下 :近代 日本学校体育 史 ,日 本図書セ ンター ,1983,10頁

)

4)リ ーラン ドの体操以外の運動 に対する考え方 は ,竹 之下 と岸野の以下の考察か ら ,推 察 される。

それによれば

,

イギ リス系スポーツに対 しても懐疑的であった。

(中

略 )彼 のい う体育 とは ,主 知主義か ら生ずる 運動軽視 と競技主義か ら起 きる運動過剰 との二つの危険を防止し ,近 代生活 を有効に送 るための 健康 な身体 を形成することにあった。別の ことばでいえば ,運 動 を軽視 した柔弱多病のグループ には保健上か ら運動奨励 を ,競 技 に熱中 して勉学 との均衛 を失 うグループには ,傷 害や疾病 を防 止するための抑制 を体育 と考えた。その中庸 を得た運動法 を代表するものが ,彼 のい う軽体操

,

則ち軽器具利用の体操である。

(岸

野 ,竹 之下 :近代 日本学校体育史 ,日 本図書セ ンター,1983, 10頁

)

5)井 上 も指摘 しているように ,こ の教授要 目の「教授上 ノ注意」には

,

教授用備 品 は凡 そ次 の例 に よるべ し 0唖 ,羽 子板 ,羽 根 ,豆 暴 ,毬 ,輸 ,綱 ,ク ロ ッケー

,

ローンテニス等の諸遊戯に用いる器具

(井

上一男 :学校体育制度史   増補版 ,大 修館 ,1970,58頁

)

が上げられていることか らして も ,ク ロッケーやローンテニスが行われていたことが推察 される。

̲

6)一 般社会 ,特 に地方おいてはこうした方向 とは逆に ,武 術への親近感 も手伝 らて ,一 時は衰 えた ものの ,次 第に復活する傾向を示 した。岸野 ,竹 之下 によれば ,「 都市で さえも『欧化の風 に馴‖ れん とする世人』 に批判が加 えられるようにな り ,鎮 台 ,警 察 をは じめ ,道 場開設 も多 くならた。都市 の学校で もクラブ活動 として ,あ るいは随意科 として武道を実施する傾向が強 まった。 」 とあ り ,そ

れ故「文部省 には ,地 方か ら武術工課 に採用することについての問い合せが しば しばあ り ,つ いに

文部省 も16年 5月 には伝習所 に剣術 や柔術 の教育上の利害 を諮問す るに至 った。 」 と述べている。

(8)

淳 新

(岸

野 ,竹 之下 :近 代 日本学校   体育史 ,日 本図書センター ,1983,16頁

)

7)今 村によれば ,そ の長所は「身体の発達助長 ,持 久力養成 ,個 人心理的な性格陶治 ,護 身能力 の体得」に求められ ,短 所は「身体発育を助長するという長所 も ,調 和的発育を欠 くことがある とし ,護 身をうたいながらも ,多 少の危険があるとしている。 しか し ,こ のような短所の理由と いうべ き ,心 身発育の段階に即応 した指導の困難性 をあげ ,闘 争心を誘発 し ,勝 敗 にとらわれる

風 を ,助 長する危険 をうたい ,最 後に経済上 ,管 理上 ,学 級指導上 ,不 向 きの点を指摘 してい る。 」

(今

村嘉雄 :十 九世紀に於ける日本体育の研究 ,不 味堂 ,1967,885二 886頁

)

8)明 治 44年 の中学校令施行規則の改正における「体操ハ教練及体操 ヲ授クベシ撃会 1及 柔道ヲ加フ ルコトラ得」 │(施 行規貝 J第 十三条 )や 同様に ,明 治 45年 の師範学校規程においても「加フルコ トワ 得」というように ,正 課必修ではなく ,随 意科 として認められるようになる。

引 用 文 献

1)中 村敏男 :「 体育教 師の体質」 について一「戦後体育実践史」へ の下書 き一 ,体 育科教育 ,第

33巻 ,第 13号 ,大 修館書店 ,20頁 ,1985

2)佐 藤臣彦 :体 育概念 における範疇論的考察一体育概念 に関す る岸野理論 の批判的検討 を通 して 一 ,筑 波大学体育科学系紀要 ,第 8巻 , 9二 21頁 ,1985

3)木 下秀明 :日 本体育史研究序説 ,不 味堂 ,1971,265頁

4)大 日本体育協会編集 :「 大 日本体育協会史」上 ,第 一書房 ,1936年 初版発行 ,1973年 復刻 ,19

5)上 掲書 ,22頁

6)岸 野雄三 ,竹 之下体蔵 :近 代 日本学校体育史 ,  日本図書セ ンター ,1983, 8頁

7)リ ーラン ド ,坪 井玄道訳 :体 操伝習所訓導米人 リーラン ド氏 よ り同所長伊沢修二 に呈せ る意見 書 ,教 育雑誌 ,第 94号 ,28頁 ,明 治12年

8)上 掲書 , 5頁

9)井 上一男 :学 校体育制度史   増補版 ,大 修館 ,1970, 1‑74頁 10)上 掲書 ,18頁

11)上 掲書 ,34頁

12)上 掲書 ,51頁       

13)上 掲書 ,57頁

14)岸 野雄三 ,竹 之下休蔵 :前 掲書 ,72頁 15)上 掲書 ,72頁

16)体 操遊戯取調委員会共著 :体 育之理論及実際付録 l体 操遊戯取調

1報

,31頁 17)上 掲書 ,32頁

18)上 掲書 ,32‑33頁

19)渡 辺一郎 :史 料   明治武道史 ,新 人物往来社 ,1971,462頁 20)今 村嘉雄 ,十 九世紀 における日本体育の研究 ,不 味堂 1967,886頁 21)上 掲書 ,886‑887頁

22)渡 辺一郎 :前 掲書 ,772‑773頁

23)上 掲書 ,787頁

(9)

明治期における「体育」概念の研究

24)上 掲書 ,775頁

25)嘉 納先生伝記編纂会編集 :嘉 納治五郎 ,講 道館 ,1964, 589‑590頁 26)上 掲書 ,596頁

27)上 掲書 ,596頁

参照

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