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ヘルバルトにおける「対比」(Gegensatz)

の概念について

一一一一一 wルバルト教育方法論に関する基礎的一考察一

教育学研究室 高  久  清  吉

序  論 ヘルバルト教育学における「対比」の意味

1.ヘルバルト教育学の基本的立場(ヘルバルト教育学におけるリアリズムの性格)

2. ヘルバルト教授論の二面的性格(「現実接近」と「現実遠離」)

3.ヘルバルト教育方法論の基礎(教授過程における「専心」 「致思」の対比的循環)

あ と が き

序 論 ヘルバルト教育学における「対比」の意味

故篠原助市博士はその著「訓練原論」の中で,道徳の「教え」に特有な原則として「対 比の法則」(反対対立の法則)を挙げ,「この点意外にもヘルバルトの己に見破ったとこ

●   ●   ■   ●      ●   ●   ●   ●

ろ」(傍点筆者)であるとして次のように述ぺている。「「意外にも」といつたのは,ヘル バルトにおいても,ヘルバルト派においても,上の一語が教育方法の主要な契機になって

いないからである。」(1)

なる程,「対比」が狭く方法上の一原則として考えられる限り,この語がヘルバルト及び その学派の教育方法における主要契機になっていないとする見解は一応妥当と思われる。

それ故,すぐ後で述ぺるように,ヘルバルトの主要著作において強意的に語られているこ の語のもつ重要な意味が容易に看過され,たまたま着目されたとしてもそれが「意外」と されるのも当然と思われる。しかし,私はこのGegensatzという語はヘルバルト教育学 の本質的理解の為に特に注目に値するものとして重視している。何故なら,この語はヘル

バルトの場合単に方法上の一原則を示すに止まるものではなく,より深くヘルバルト教育 学の基本的立場,従ってまた彼の教育方法論の基本的性格を暗示する極めて重要な意味を もつものと理解しているからである。云い換えれば,この「対比」という語は彼の教育学 の基本的立場に根ざしたものであり,従ってヘルバルトからすれば「見破る」というより

も,当然使用さるぺくして使用されている語であると考えているからである。

以下,先ずこの「対比」という概念のヘルバルト教育学においてもつ意味及びその占め る位置を明らかにしておきたい。

(2)

34      茨城大学教育学部紀要 第八号

ヘルバルトはその初期の著作「ペスタロツチ直観のいろはの理念」第二版に「教育の中心 任務としての世界の美的表現について」(Obef die asthetische Darstellung der Welt als das Hauptgeschaft der Erziehung.1804)と題する論文を追加している。この論文 はヘルバルト教育学体系の最初の,しかも極めて簡潔な叙述℃はあるが,ここにおいて既 に彼の教育学的構想の最も本質的なものが確立されたとみるのは,今日ヘルバルト研究者 の間の殆んど一・致した見解となつている。②この重要論文の中でヘルバルトは「対比」(

Gegensatz)という語を次の二箇所で強意的に使用している。

一っは神の理念の確立,即ち宗教教授における唯一最善の方法として「対比」を挙げて いる。ヘルバルトによれば,「神」は「あらゆる実践的諸理念及びこれら理念の限りなき 作用の真実の中核であり,人間の父,世界の上である。」(3)神の理念は錯雑した生活の中 で精神の統一を求める「致思」(Besinnung)が結局はそこに帰り憩う為の窮匝的到達点 である。ところが,このように唯一最高のものであるが故にこそかえつてこの理念への教 育は至難なものとなる。教授の仕方によつては(例えば冗長な説教),神は人間の精神か ら遠く離れた退屈平板なものとなるか,ただ人間の弱みを恥ずかしめ非難するだけのもの となり,むしろこの理念に目覚めさせぬようそっとしておいた方がよいということになる。

だがここに最も望ましい「一つの方法」がある。「この理念を徐々に培い,強め,育て上 げ,この理念に対し絶えず高まる尊敬を確かなものとするような一っの方法,この理念を 理論的に知る者からすれば,それは唯一のものとみなされねばならないような一つの方法

●   ●   ●   ●   ●

がある。一この方法とは理念を絶えず対比によって規定するということである。」㈲と

●   ●

ヘルバルトは強調する。

もう一つの箇所では,人間心情の基本内陶冶の為の不可欠的媒介として「対比」の重要 性に特に注意している。ヘルバルトによれば,人間心情の初期の,従って最も基礎均な陶 冶の為の材料は身近な現実からではなく,「理想的子供侍代」を明示する古典(特にギリ シヤの古典,就中ホメロスのオデッセー)から先ず求められるべきである。だが,このよ うな材料から出てくる「昔の説話の道徳的印象が曖昧なものであれば,子供の心情の最も 初期の陶冶は全く誤ったものとなるに違・・ない。」古典が鮮かな道徳的印象を与え,子供 の心晴の奥深く真に形成的に働きかけるものとなる為には,「対比」という媒介を必須と する。「もし子供が,生活している現実とかの(説話から得た)表象とを比咬対照するな

o   ■      ・   o

ら,寓活の真実に対ナる関係,粗野の教養に対する関係が至るところに現われるに違いな い。そしてこの二つの対比一一つは詩人によって創作された人間と子供が現に愛し尊敬 する現実の人間との間の対比,一つは特にホメロスの陣灯と子供が両硯を手本にして思い 浮べ,両親の例に従って崇拝する神との間の対比一」この「対比」こそが子供の道徳的

(3)

高 久:ヘルバルトにおける「対比」(Gegensatz)の概念について       35

心情の基盤を形成する鍵であるというのである。㈲

以上,先ずヘルバノレト自身の所説を紹介しつつ,「対比」という語が彼の教育学に占め る位置及びその意味について序論的素描を試みたのであるが,次に二つの面から「対比」

についての解釈を加え,より明確な形でこの概念のもつ意味を明らかにしたい。

第一に,「対比」を唯一最善の,或は必須の「方法」として要求する「目的」は,上に

・   ●   ●   ●   ●      ●   ●   ●

述ぺたように人間精神内における神の理念の確立及び心情の基本的陶冶ということである が,これらは何れもヘルバルト教育目的論の核心をなす重要命題である。周知のようにへ ルバルトは教授を「認識」(Erkenntnis)と「同情」(Teilnahme)の二系列に分けて いる。この二系列は「下から上へ」「最高の確固たる一点に向って」常に同時に相並行し て前進し,結局この最高の一点において合一すべきものである。(6)二系列の帰一するこの 最高の一点が「超感覚界」としての「神」であり,この神の理念がヘルバルトによつて「

教育の唯一全体の課題」(die eine und,ganze Aufgabe der Erziehung)とされてい る「道徳性」(Sittlichkeit)の本質をなしているのである。そして「対比」は,先に指 摘したように,この窮極的目的を達する為の唯一最善の方法として要求されているわけで ある。次に,古典による人間心情の基本的陶冶ということは,ヘルバルト特有の用語を以 てすれば, 「趣味判断」(Geschmacksurtei1)力の基礎的陶冶ということである。しか もこの趣味判断の陶冶は「多方興味」の啓培と同様ヘルバルト教育の直接的目的となつて いるものである。このようにみてくると,教育の直接的窮極的両目的の達成の為に最善且 不可欠のものとして要求されている「対比」という方法概念が,ヘルバルト教育学におい て如何に重要な位置を占めるものであるかということが明白となるであろう。

第二に,一体この「対比」というのは何と何の対比であろうか。この点を改めて問題と することによってこの語のヘルバルト教育学においてもつ意味をより積極的に明らかにし ておこうと思う。

先に挙げた二つの「対比」のうちの後者,つまり人間心情の基本的陶冶における不可欠 的媒介としての対比に関しては,既に引用したヘルバルトの所説そのものが対比される二 契機の何であるかということを明白に語っている。即ちこの場合の対比は「詩人によって 創作された人間」と「子供が現に愛し尊敬する現実の人間」,「ホメロスの神々」と「子 供が両親を手本にして思い浮ぺ,両親の例に従って崇拝する神」,要するに,古典から得 られる理想的人間像及び人間関係の典型に関する「表象」と「子供が生活している現実」

との問の対比である。

二っの「対比」のうちの前者.つまり神の理念確立の為の唯一最善の方法として要求さ れる対比の場合においては,先に引用したヘルバルトの言葉そのものは対比される二契機

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36      茨城大学教育学部紀要第八号

が何かということを明白な形で語ってはいない。しかし前掲の論文(「美的表現」)全体 をみれば,やはりヘルバルト自身の言葉を通してこの対此の二契機をはっきり把握するこ とにさ程の困難は感じられないのである。ここで先ず,当面の問題理解の便宜上,この「

世界の美的表現」において構想されたヘルバルト教育の全体構造の支柱を少しく概観して おきたい。ヘルバルトによれば,教育の作用領域の中核は「情愛のこもった母親の心遣い,

情ある父親の厳しさ,家族の結合,家庭の秩序」の支配する「家庭」である。教育はこの ような家庭の姿が「子供のとらわれのない眼の前に,全くの純粋且尊厳なるものとして現 われる」よう配慮するところから始められる。(7)しかし教育は当然狭い領域から脱け出て 行かねばならない。「教育は家庭から上へ,そして下へと前進しなければならない。」家 庭の上方には「超感覚界」(das Ubersinnliche Reich)がある。家庭の下方には「限り

ない広さと深さ」とを持って「現実」(wirklichkeiのが拡がる。この現実は先に触れた 教授の二系列,つまり「認識」の対象としての「自然界」と「同情」の対象としての「人 間界」とに分けられる。(8)このようにヘルバルトの構想する教育の作用領域は「家庭」を 中心として上方は「超感覚界」へ,下方は「現実」へという拡がりを持つのであるが,こ こで特に留意すぺきことは,この上方,つまり超感覚界と,下方,つまり現実との問の「

対照が相互に他を高め,しかも中心から遠ざかる程尚一層そうなる」ような仕方で行われ るべきだという点である。云い換えれば,教育作用は「季p鯵槍彰ζ乎をで季?撃∵孝?

を一層輝き出させるよう,両方の側(超感覚界と現実)へ同時に,しかも均衡を以て進む

●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ・

べきであるという原則」に従わねばならないというのである。(9)

ここまでみてくると,「対比」という言葉なくして既に対比の事実が明白に語られてい るのに容易に気付くのであるが,しかも同時に,この対比の二契機は「超感覚界」と「現 実」,これまで使用してきた言葉からすれば,神或い道徳約「理念」と「現実」であるこ とが明瞭となる。かくてヘルバルトによって強調された二つの「対比」は何れも同一一陛路 のものであつて,「理想界」と「現実界」,「理念」と「現夷」,つまり「非現実1勺なる

       一 烽フ」と「現実的なるもの」の対比であると結論することが出来る。

このように「対比」の意味を限定してくると,当然この「対比」はヘルバルト及びその 学派の既製の方法体系の狭い枠内における方法上の一原則と考えるには余りに広い概念と

なってくる。むしろ上のような意味での「対比」という概念は教育学そのものの基本約性 格或は立場と直接に関連する基礎的概念と考えられる。そこで以下まずこの「対比」を手 がかりに特に,ヘルバルト教育学において占める「現実」の位置という問題に焦点をおき ながら,彼の教育学の基本的性格に関する重要側面を明らかにしてみたいと思う。このよ うな考察は私の場合結局,「対比」という概念をより重要な意味付けの下改めてヘルバル

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高久:ヘルバルトにおける「対比」(Gegensatz)の概念について      37

ト教育方法論の中核に位置付けようという窮極的な狙いに基いているのである。

1.ヘルバルト教育学の基本的立場

(ヘルバルト教育学におけるリアリズムの性格)

既に述べた「対比」の意味が暗示しているように,ヘルバルト教育学における「現実」

と「理念」,これをより狭く方法領域に限定した教授学上の言葉でいえば,「現実接近」

(Wirklichkeitsnahe)と「現夫遠離」(Wirklichkeitsferne)の微妙な交錯関係を詳し く吟味しようとするのがこの小論の直接的目的であるが,ここでは先ず彼の教育学の基本 的立場を「リアリズム」(Realismus)と規定し,その本質的性格を明らかにしておこう

と思う。

ヘルバルトの基本的立場を「リアリズム」に求めるという見解は今日必ずしも自明のも のとはいい得ない。なる程,現代におけるすぐれたヘルバルト研究者の一人であり,依然

ドイツ教育学界の指導的位置に立っているヘルマン・ノール(H・Noh1)は, 「何がただ 単にあり,何があるぺきかを十分に承知しているリアリズム」という点にヘルバルト教育

●   ●       ●   ●   ●   ●   ●

学の基本的立場があることを指摘している。圃また現代アメリカにおける教育哲学の権威 と目されるブルーバッハー(J.S. Brubacher)は,ヘルバルト教育学は,たとえばフレー ベルにおいてその典型を見出すような,神或は絶対的なるものを宿す人間精神の「自己実 現」としての「内から」の教育ではなく,常に現実の外的世界との接触に精神を規定する 本質的契機を求める外からの教育であるとして,この立場を「リアリズム」と規定してい る。(11)しかし反面,たとえばヴインデルバント(W.Windelband)のように,「ヘルバ ルトを以てリアリストと呼ぶなら,同様のことがカントに対してもいえるであろう」とし て形而上学者ヘルバルトに対しリアリストの名を冠することの不当を指摘する者もある。

(12>従ってまた,彼の教育学の立場に関しても,これをリアリズムと称することに奇異の感 を抱く者は今日尚決して少くないように思われる。

このように,ヘルバルト教育学の拠って立つ基本的立場に関し一致した見解を欠く主な

る理由は,一つには「リアリズム」という語そのものが特に教育上多様な意味付けの下に       レ

使屑されるのが通例であること,第二にはヘルバルトの教育主張そのものが一概に割り切 り難い多様性をもつことによるのであろう。事実,例えばすぐ前に例示したように,ノー ル,ブルーバッハー共にヘルバルトの教育学内立場を「リアリズム」と称してはいるので あるが,しかしこの点について両者の主張するところは必ずしも同一ではない6ノールは 単なる観念論的空転に止まるのではなく,日常現実的なるものとより高度な精神性の結合

を常に教育作用の焦点に位置付けるヘルバルトの教育に対する考え方,或は態度とも称す

(6)

38      茨城大学教育学部紀要 第八号

ぺきものをもってリアリズムと称し,ブルーバッハーはヘルバルトの形而上学,心理学説

     、

ノ基いてその教育学説の内容そのものの性格をリアリズムと規定している。

そこで以下,何よりも先ずヘルバルト自身の所説を出来るだけ忠実に吟味することによ って,私がどのような意味で彼の教育学を「リアリズム」と称するのか,その理由を明ら かにしていきたい。このことは私の場合結局,先に述べた「対比」の主要一契機としての

「現実」がヘルバルト教育学においてどのような位鷺を占めるものであるかということを 問題考察の中心に据えることになるのである。

考察の出発点として先ずヘルバルトの次のような印象的な言葉に注目したい。教育を支 える「実在論的見解(realistische Ansicht)は観念論的見解(idealistische Ansicht)

がほんの少しでも混入することを許さない。先験的白由の僅かの隙間風もどこかの間隙を 通って教育者の領域に入りこんではならない。」圏一体彼はどのような理由でこのように 厳しく観念論的見解を教育から閉め出そうとするのであろうか。この間に答えることは,

実は同時にヘルバルト教育学のリアリステックな性格を解明する最も重要なポイントを問 題とすることになるであろう。

ヘルバルトによる観念論的教育論,就中先験的自由論に基く教育理論に対する厳しい批 判は彼の諸著作中随所にみられるのであるが,特にこの点に関しまとまった見解を示して        ■ o

「ると思われるのは「フィヒテの教育学的見解について」(Uber Fichtes padagogische Ansichten.1931)と題する論文である。(この論文には,後にヘルバルト全集編集者の

       ● ●

nルテンシュタインによって「観念論の教育学に対する関係について」(Uber das Ver・

haltnis des Idealismus zur Padagogik)という題目が付せられている。)以下,この 論文を中心にヘルバルトによる観念論的教育論批判の要点を整理してみたい。

彼は「一体観念論的原則から教育学理論は出て来るのか」,「教師にとって観念論的理 論は必要であるかどうか」を問いながら結局,「私の考えるところを端的厳密にいうなら 教育の概念は所与の事実的概念である。如何なる観念論的構成も重大且明白極まる誤謬に 陥ることなしには教育の概念に達することは出来ない」㈹と断言する。それでは観念論的 教育理論が必然的に陥る「重大且明白極まる誤謬」とは何であろうか。ヘルバルトの指摘 するこの「誤謬」は大きく次の二つに要約出来るように思う。

第一に,各個人の精神に宿るそれ自体完全な先験的絶対自由を前提する観念論的立場を とる限り,教育の可能性を主張することは矛盾である。云い換えれば教育の無力或は無価 値さの認識こそが観念論の当然の論理的帰結であるということである。感覚的経験界と厳

しく隔絶された絶対的自由界は,現実に教師のどのような働きかけも及ばない超越的別世 界となる。それ故教師に出来る唯一のことは「一人の人間として,子供の内にも尚宿って

(7)

占      馳

ヌ 久:ヘルバルトにおける「対比」(G3gensatz)の概念について      39

いるものと前提しなければならない自由を静かに見守っていること,唯この自由をどんな 不合理な骨折りによってもかき乱すことのないようにだけすること」である。これはとり

もなおさず「教師の仕事の中での最も重要な部分を放棄し,結局はその配慮のすべてを単 に備忘程度の知識を与えることに制限する」という教育の否定以外の何ものでもない。㈲

第二に,観念論の立場に立つ以上,人間精神の実質を正しく現実約に把えることは全く 不可能であるということである。観念論的見解によれば,絶対的超越的なものを本来的に 宿している人間の心は,本質的にはそれ自体の内に将来の発展のすべてを蔵する「自己規 定的なもの」となる一。ところがヘルバルトからすれば先験哲学者たちの「このような観念 論的見解は心理学によっては妄想として,道徳によっては謬見として,形而上学によって は絶対的な不可能事として明らかにされるに違いない夢」である。㈲人間の精神は神秘の ヴエー一ルに覆われた不可思議のものではない。現実の外界との接触によって働く一種の「

心理学的メカニズム」とでも称すぺきものである。しかるに「この心理学約メカニズムを 否認することが観念論の特質をなしている。一観念論は理念から構成する。観念論は現 実が如何にしてこの理念に適合するか,現実的なものが自分に敵対して現われるまで問題

としない。そしてそうなった時は罪について長々と語る。ところでこの雄弁術の背後には 実は無智が隠れている。人は言葉を以てその源を知らない悪と戦う。この悪は人間の思弁 によって計画された予防手段を以て防」トされるものではなく,むしろ導き出されるであろ

う」㈲とヘルバルトは断走する。

以上ヘルバルトによる観念論的教育論批判の大筋を概説したのであるが,このような批 判内容からより積亟灼な形でヘルバルト教育学のリアリステックな性格が直接且容易に導

き出される。

Hの学である。現実的事象としての教育は人間の手の届きそうもない思弁約理念的世界か ら現実の世界へとずり下げられてこなければならない。「先験哲学者たちはその叡知界(

Intelligible Welt)をあらゆる作用の手の届かぬところに閉じこめている。しかし同様,

彼等がこの叡知界からはどんな作用も出て来ないようにしてくれたらそれはなんと望まし いことであろう。そうすればこの感覚界(Sinnenwelt),即ち我々が意識することのす べてはなんの妨げもなしにその歩みを続けることが出来るだろう。そうなれば感覚的(現 実約)人間の為したことは感覚1勺人間の責に帰せられ,そこで人は彼が為すべきものを教 育や社会的諸切度から要求するであろう。これらは結局人の左右し得る範囲内にあるが,

之に反し叡知界はどうしようもない世界なのである。」圏教育の可能陸は勿論,人間形 成に対してもつ教育作用の本質釣意味を承認するものは(たとえ先験杓哲学の立場をとる

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40       茨城大学教育学部紀要 第八号

ものといえども)この感覚界(現実界)及びこの感覚界の唯中にある具体的全体としての 現実的人間の存在意味を積極的に認めねばならない。何故なら,現実の世界,現実の人間 は単なる「現象」なのではなく,これこそ教育成立の不可欠的前提であって,この現実的 なものに「創造的に働きかける」ところに教育作用の本質があるからである。ヘルバルト

●  ●  ●  o  ■  ■  ●  ●  ●

にとっては,教育とは「現実の唯中にある子供をよりよき存在にまで高めようとする仕事

●  ●  ●  ●  o  o  ●  ●  ●  ●  ■  ●  ●  ●  o  ●  ●  ■  ●  ・  ●  .  ●  ●  ●  ●  ・  ●  ・  ●

」(19以外の何ものでも麦)り得ない。以上のような理由から彼は教育者にとって,「実在論       ■  ●  ●

的見解(realistische Ansicht)が妥当する」㈲とはっきり述ぺている。このように,あ

●  ・  ●      .  ・  o  ・  o

くまで所与の事実から出発する現実的事象として教育を把えようとする立場を私はヘルバ ルト教育学の「リアリズム」と規定するのであるが,このリアリズムの性格に関し特に本 論の主題との関係上以下の点をはっきりさせておきたい。

既に指摘したように,ヘルバルトによれば,現実的なるものの存在意味を積極的に承認 することなしには教育の可能性を考えることは出来ないのであるが,しかしこのことは現 実そのものに止まることを意味しない。現実はそれ自体で完全なものであるのではなく,あ

くまで教育的なErganzungの素材なのである。「よりよき存在にまで高めようとする」

形成的意志が「創造的に働きかける」その作用の生きた具体的対象となる点において,現 実的なるもののもつ教育上の存在意味があるのである。従ってヘルバルトの教育的リアリ ズムは現実の積極的肯定と同時に,創造的働きかけによる現実否定の両面をもっている。

云い換えれば,彼の教育は「現実において」という側面と「現実からの自由」という側面       ・  …       ●  ●      ●  ●  ●  ●  ●  .  ・

との二面をもっている。このような二面的性格を我々は特に彼の教授論において明瞭にみ るこなが出来るのである。

2. ヘルバルト教授論の二面的性格

(「現実接近」と「現実遠離」)

以上のような意味での「リアリズム」にその基本的立場を求めるヘルバルト教育学が,

先ず子供の「生活」,従って日常の「経験」(Erfahrung)や身近な人々との交際(Um一 gang)に極めて重要な教育的価値をおくことは当然である。 「一般教育学」をはじめ彼 の諸著作中にはしばしば「生活」と「学校」の関係が言及されているのであるが,特にご       ● ●

フ問題を主題として取扱ったのが「学校の生活に対する関係について「(Uber das Ve卜 haltnis der Schule zum Leben.1818)と題する論文である。この中でヘルバルトは「

生活」の語を「その時々の享楽と苦痛,仕事と休養の循環する」現実的実際的生活という 意味に限定し,このような「生活」は子供が真に大人となる為に不可欠のものであるとし

て次のように述べている。「人間は自分を発展させ形成する為に種々の変転を必要とす

(9)

高 久:ヘルバルトにおける「対比」(Gegensa tz)の概念について       4霊

る。……何故なら行為や苦痛の唯中においてのみ,自立性一それが一旦生じた後は持続 し不屈のものとして尚その上の変転のすべてに対し内面的に自己を支えるものとなるよう な自立性が生ずるのである。それ故我々は生活を犠牲にして学校を讃えることは出来ない

●  ●  ●  ■  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ■  ●  ●  ・  ・

であろう。」⑳

このように人問形成に対する現実的生活の重要性を強調するヘルバルトは,当然日常生

活活動そのものとしての「経馬剣及び「交際」を最大限に重視する。「実際,教育に当っ      

て誰が経験と交際なしで済ますことが出来るか,それはあたかも日の光なしで済ましろう そくの光を以て満足しようとするようなものである。」⑳ヘルバルトによれば,現実界,

つまり子供を取り巻く自然と人間は子供に対する精神的栄養の供給源とも称すべきもので ある。それ故子供の日常現実の生活は教育の狙うより高貴な「精神生活の源泉」とみなさ れる。彼の教育作用において核心的位置を占めている「教授」は「経験及び交際から生ず る準備的活動を前進させ完成する」㈱もの,即ち現実的なるもののErganzungという点 にその本質をもつものである。

ペスタロッチ同様・絶えず教授の「内的明瞭性」(innere Verstandlichkeit)そのも のを問題とするヘルバルトは,子供が最も深い,最も確かな,しかもこの上なく真実な印 象を正しく受け入れること・即ち子供の「日常的経験」(tagliche Erfahrung)が頭へ,

心への開かれた門,踏みなれた道を常に容易に見出すようにすることが教授態度の中核と なるぺきことを強調する。そしてこの門を開きこの道を用意するものが「直観」(Ansch一 aung)なのである。⑳かくてヘルバルトは「美的表現」の中で次のように明言している。

「認識」,「同情」という教授の二系列のうち「認識の系列は当然直観と身近な経験を鋭 くする為の訓練,直観や経験内容を先ず以てわがものとして消化すること,つまり感覚の

●   o   ● ABCから始まる。」②5}●   ●  ●

しかし我々は上の語にすぐ続いて述べられているヘルバルトの次のような重大な主張に 特に注凱なければならない・即ち・瀦と異なり同情の系列の始点糊示することは困

難ではあるが,しかし「よく考えれば,この同情の始点が現在の現実の中には存在し得な      ●  ・  ●  ■  o  ●  ●  ■  ●  ●  ●  ●  ・  ・

∵ということがすぐ明らかになる。子供の世界は余りにも狭く余りにも速く経過する。之 に対し大人の世界は教養を身につけた人々となると,幼い子供に理解させる為には,たと えそれが可能であるにしても余りに高遠であり余りに複雑な諸関係によって規定されてい る。しかし歴史の流れは現在に終り,そして文化の始めであるギリシャ時代に,ホメロスの

詩による理想的な子供時代の表現によって後世のすべてに対する一つの光明点力・固定され      F

ている」・⑳ここで主張されていることはこれまで述ぺてきたのとは全く遡、,子供諏 り巻く瞠現実の世界が搬作用の出発点とはなり得ないということ,つまり「身近な現

●  ■   ●   ●

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42      茨城大学教育学部紀要第八号

実から遠く離れる」ということである。そしてこのようなヘルバルトの見解はこれまた彼

●  ●  ●  ●  ●  ●  ●  ●

の諸著作中にしばしばみられるのであるが,例えば主著「一般教育学」(Allgemeine Padagogik.1806)では次のような主張がなされている。「身近な事柄というものは,も しも小さな単純なものの中で正しく認識され判断されないなり,大きなものの中に広汎に 拡がった知識によっては尚一層把握されないような,そういう諸関係に充たされている。」

それ故,「身近な現実」から出発しない教育は「博識や言語学習によって教育を困難なも のとし,具体的なものに関する教養,技術についての熟練,社交上の快活さ等を犠牲にす る」というような汎愛派の主張を挙げ,之に対しヘルバルトは次のように応酬している。

「人はとらわれずにより深く考える時,身近なものは子供にとって明白であり,身近な事 柄は,その判断がより広い分野での正しい考え方の基礎となるような諸関係に充たされて いるという主張を堅持することが出来るであろうか。身体上の諸事実を考えてみよう。こ れらは感覚的には全く近いものであるにかかわらず,実際は我々の眼又は悟性にとって当 然直観的或は明白なものとしてあるのではない。」⑫7)それ故,彼は例えば「子供用」の説 話,読物を特に用意し,或は教師側が一方的に「身を屈して」子供の世界に入りこむ「教 育関係」ばかりを考える等して,何時でも敢て身近な世界にのみ子供を閉じこめておこう とする,いわゆる「教育的」人為的努力に伴う誤りを指摘する。一方子供は子供なりに偉 大な人物を憧憬し,身近なありふれたものと真に価値あるものとを区別する力をもってい ることを強調する。そして結局すぐ前に引用した「美的表現」の中での主張と同様,身近 な現実からではなく,遠く離れたギリシヤ時代の古典に人間心清の基本約陶冶の出発点を

求めて、・るのである。

私はこの「生活」から,或は「現実」から離れるという面をもつところに,ヘルバルト

●  ●     ●  ●     o  ●     ●  ●     ●  ●  ●  ●  ●

のペスタロッチに対する根本的相違点をみるのであるが,それではこのような「現実遠離

」のヘルバルトの思想は一体どこにその由って生ずる源をもつのてあろうか。

この重要なポイントを問題にする場合,特に「ペスタロッチの最近の著書『ゲルトルー

      . ●

gは如何にその子を教えるか」について」(Uber Pestalozzis neueste Schrift Wie Gertrud ihre Kinder lehrt 1802)と題するヘルバルト初期の論文に注目したいと思う。

この中でヘルバルトは,ペスタロッチが直観訓練を第一とする独自の教授法を生み出した 底に,「一般民衆の救済」という彼の窮極的目的のあることを特に指摘している。貧困と 悪徳の底に沈む下層階級の子弟の救済を悲願とするペスタロッチの念頭にあるものは,ど のような性質の職業に従事しようとも,その仕事を有能且勤勉に遂行していくことの出来 るよう,最も緊要必須な基礎的なるものをひとしく身につけさせるということである。従 って現実離れした高尚な精神性が直接的な形で狙われるのではなく,先ず以て「子供が彼

(11)

高 久:ヘルバルトにおける「対比」(Gegensatz)の概念について       43

の属する現実世界と交渉をもつよう促進することがペスタロッチの第一の目的である6」㈲

身近な現実世界における日常的経験を正しく把握し利用していく最も基礎的一般的な準備 として「直観の訓練」を実際的教授の始点におくという考え方は,ペスタロッチの以上の ような目的が教授の技術面に現われたものと解することが出来る。先にも触れたように,

子供が最も深い,最も確かな印象を鋭く受け入れることから教授の出発点は求められるぺ きであるが故に,ヘルバルトは身近な現実世界における日常的経験を重視するペスタロッ チの主張に全面的に同意する。事実,ヘルバルトにおいては,教授の二系列のうち認識系 列の始点が「感覚又は直観のABC」に求められているということは既に述べた通りであ

る。

      覧

オかし半面,彼はペスタロッチと違ってむしろ上層階級の子弟の教育,従ってより高度 の道徳的教養を眼目とするが故に,教育に対する中心観点として,日常の経験的直観の他 にもう一つの基本的方向を求めている。一般大衆の現実的要求に応ずるよりも「より大き な視野,より豊かな想像,より深い探求の眼の為に,全然違った繊細な心情が或る取扱い により教育を通して身につけられ得る。この取扱いはなる程前に述べたようなこと(日常 的経験に対する直観訓練)を受け容れるが,それにもかかわらず他の違った中心的観点か

●  ●   ●   ●  ■   ●   ●   ●   ●  ●   ■

それは「美的感覚」(asthetische Wahrnehmung)を鋭くするということである。とこ

●   ●   ●   ●

うが次に述べるように,日常現実生活への没入そのものはこの美的感覚の確実な形成を保 証するものではない。むしろ日常的生活から遠く離れるという一面が特にこの感覚の基礎 的形成の過程において必須とされるのである。そこで以下,この「美的感覚」の性格及び これが形成の原理について若干の説明を加えておきたい。

最初に述べた通り,「教育の中心任務としての世界の美的表現」は既にヘルバルト教育 学の基本的構想を確立したものであるが,この論文は「美的感覚」即ち「美的判断」力の   、 形成を中心問題として取扱っているものeある。何故なら,この論文の冒頭に明言されて いる「教育の唯一全体の課題」としての「道徳性」は,彼の場合「美的判断」の前提なく

しては全く考えることの出来ない概念なのである。しかしここでは「美的判断」そのもの について詳しく論究する余裕をもたないので(それはヘルバルト倫理学の核心を問題とす ることである),当面の問題理解に必要な範囲内で特に重要な諸点を結論的に指摘してお

きたいと思う。

第一に,道徳的判断の基礎としての美的判断は,「対象の完全な表象に伴なつて生ずる

」直接的明証性をもった純粋な絶対判断である。従ってこの判断はヘルバルト自身特に指 摘するように,「決してその対象の現実を要求しない。」(30伝い換えれば,対象の現実的内

●  ●  ■  ■  ●  ●  ●  ●  ■  ●  ●  ■  ●  ●  ●  ●

(12)

44      茨城大学教育学部紀要 第八号

容にとらわれる主観的な快,不快ではなく,適意,不適意の判断として心情内部から生ず る直観的絶対的な「趣味判断」である。このような判断を基礎におくヘルバルトの道徳論 は当然,カント同様経験的所与から全くひき離して道徳を考える立場をとっているという ことが出来よう。

第二に,個々の対象について得られる美的判断が道徳的判断の基礎となり,道徳的行為 を導くものとなる為には,これら個々の判断が「一つの生活秩序」(eine Lebensordnung)

へと統一的に構成されねばならない。この生活秩序とは道徳的性格の強固な統一の基とな る「実践的信念の確固たる体系」(eln festes System praktischer Gesinnung)と解 される。⑳このような秩序或は体系が構成される為には,構成要素となる判断が「固有の 明瞭さ,最も簡単明確な規定において獲得される」ことが先決である。逆に最も害となる のは「日常生活が偶然且散漫にひき起こす判断」に頼ることである。ヘルバルトにおいて

・  o  ●  ●  ●  ・  ・  ●  ●  ●  ●  ●  o  ●  ●  ●  ■  o     ■  ●  ●  ■  ●

は,明確な美的判断の獲得及びその統一的構成という教育の中心任務を日常現実生活の偶 然に委ねることは出来ない。そうではなく,子供が「自分を取り巻く世界の美的把握」に

専心出来るよう,秩序付けられた世界を提供してやることが必須である。これが世界を美        o ● ・ ● ● o ● ● ●      ・

育の中心任務」とするのであるが,特に人間関係に関する美的判断の統一的構成を直接約 に狙う同情の系列においては,身近な現実界そのものではなく,これと対比される遠いギ

リシャ古典の世界にその表現の始点を求めていることは既に述べた通りである。

以上,現実と非現実との「対比」が強調される原理的背景を明らかにしようとする意図 の下に,ヘルバルト教育学におけるリアリズムの性格及び「日常的経験の直観」と「美 的判断の統一的構成」という二つの基本的観点から生ずる「現実接近」と「現実遠離」の

或は方法の基礎としての心鰍そのものの「二元的鮪」がしばしば問題とされてさ謹

●   ●   ●

このような用語例にもかかわらずここで敢て「二元的」という語をさけたのは,少くとも これまで取扱ってきた「現実接近」「現実遠離」の問題に関する限り,この二面は彼の教 育学の全体構造からみて同一のものの二面としての内的連関をもっているという私なりの ひそかな前提に立っているからである。即ちこの二面は目的的には「道徳約理念の確立」

という一点において統一され,方法的には「より強い影とならんでより強い光を輝さ出さ せる」ような「対比」に基く二契機の循環を通して機能的に統一されるものと考えている からである。前者については先に僅かに言及したに過ぎないのであるが,しかし本論の目 的上ここではこの興味ある問題についての詳論を省き,以下後者についてやや詳しく考え

みてた、・と思う。

(13)

高久:ヘルバルトにおける「対比」(Gegensatz)の概念について      45

3.ヘルバルト教育方法論の基礎

(教授過程における「專心」「致思」の対比的循環)       、

H・ノールは「永遠のヘルバルト」 (Der lebendige Herbart)と題する講演の中で,

精神活動過程の原則である「専心」(Vertiefung)と「致思」(Besinnung)の循環をそ の方法の基礎に据えたという点において,「ヘルバルトは何時,如何なる処ででも教授の 行われる限り常に適用せられ得る発見をした」としてその現代的意味を強調している。關 彼はまた教授論に関する主著「ドイツにおける教育運動とその原理」の中で,ヘルバルト 教育方法論の基礎について次のように述べている。「ヘルバルト教育学は一見二つの目的 即ち覚醒された生活の多様性と人格の統一という二つの目的を狙うように思われる。しか し彼の方法の創造的意味はまさしく専心と致思のダイナミックな変転という点にある。こ の場合より奥にある問題は,(目的の)この二面性を我々の精神的生活のメカニズムの中

,に確実に基礎付けるということであった。何人もこれまでヘルバルトのようにこの課題の 互いに相交錯する関係をみつめ,方法的目的的にこの課題の解決を探求した者はない。」岡 つまり・ヘルバルトにおいては「多方興味」と「性格の統一」という目的における二要素 の対立を確実に統一する方法上の基礎が,生徒をして専心と致思の循環に習熟させるにあ るというのである。

先ず最初に以上のようなノールの見解をひき出してきたのは,ここから当面の問題考察 に関する重要な示唆点と思われるものを導き出してみたいと考えたからである。第一に,

ノールのヘルバルト方法論に対するアプローチの仕方は,この問題を狭く専ら彼の表象連 合説からのみ演繹的に取扱う従来の常套的方法とやや異なっていることを思わせる。私も また,例えばシュヴュールトの強調するように,ヘルバルト教授論の正しい理解及び批判 の為には,その主張が「心的作用の全過程を連合形成の原則から説明しようとする心理学 説に基いていることをはっきり承知しているべきである」岡というポイントを十分念頭に おきながらも,従ってまたもともと専心,致思が「多方興味」の不可欠の心理的条件であ ることを十分承知しながらも,しかも尚彼の心理学説のみにとらわれずより広い観点から ヘルバルト方法論の基礎をなす専心,致思循環論を考えてみたいと思う。第二に,ノール の場合は,専心,致思の循環を目的の二面性を内的に統一する「ダイナミックな変転」と して把えているのであるが,私はより具体的にこれを現実接近,現実遠離の「対比的循環

」として把えてみたいと思う。

問題の核心に入る前に,ここで再びヘルバルトの説く「生活」と「学校」の関係に帰っ てみたい。先に引用した論文「学校の生活に対する関係について」の中で,人は実際的生

(14)

46       茨城大学教育学部紀要 第八号

活の唯中においてはじめてこの生活の内面的支柱としての自立性を得るものであるが故に

「生活を犠牲にして学校を讃えることは出来ない」と主張するヘルバルトの見解は既に指 摘しておいた。しかし彼は同時に生活への単なる没入を否定する。何故なら,現実生活の 多様な刺戟になれ,仕要或は享楽という忙しい活動においてその精力を使い果してしまっ た者は内的生活を忘れてしまう。このような人は確かに人間ではあるが,唯世間に対して 人問であるに過ぎない。そこで,ヘルバルトは生活,学校の何れも偏重するのではなく,

「学校から生活へ,生活から学校へ」という相互循照が人間形成の「最善の進行」である      ●   ●      ●  ● ・ ● o . ● . ・   ● o ■ ● ● ● ●       ・

と結論する。岡このような生活と学校の相互関係を「多方興味」の分類,更には「専心」

「致思」という彼独自の概念と結びつけ,よりヘルバルト的な形で甚だ興味深く取扱って いるのが「一一般教育学」の中の「生活と学校」と題する部分である。

周知のように,ヘルバルトは「多方興味」を大きく「認識」と「同情」の二系列に分け 更にこの二系列の各々を三分して六種の方向を挙げている。即ち

認 識      同 情

(1)経験(Empirie)        @)共感(Sympathie)

或は観察(Beobachtung)  (5)社交的精神

(2)思惟(Spekulation)        (geseUige Geist)

(3)審美的鑑賞(Geschmack)   (6)宗教(Religion)

の六方向である。㈱ヘルバルトによれば,「経験」又は「観察」とこれに伴う「同情」と が「生活」を構成する精神活動で,これは「専心」の過程である。之に対し「思惟」及び

「審美的鑑賞」の働くところが「学校」で,これは「致思」の過程である。生活と学校が 呼と吸の如く相伴うぺきように,専心と致思もまた相互に循環しつつ進行すべきものであ

る。以上が「一般教育学」中で説かれる生活と学校の関係についての骨子である。以下,

専心,致思の関係を焦点においてこの点をより深く吟味してみたい。

「観察と同情はそれによって我々が時の流れのその時々に没入して過す活動である。こ の観察と同情によって我々は実際に生活している。」いい換えれば,経験や観察は常に日常 生活の新奇多様な事柄に向い,同情はこの日常生活の多様な事柄に付着する。このような 観察,同情の中心に働くところに現実の「生活」がある。ところで専心は新奇多様な事柄 の奥深く入り込み個々の対象を明晰に把える精神作用であるが故に,日常現実生活の唯中 における襯察,経験及び同情はこれを「専心」の過程と称することが出来る。しかし,実        、

ロ的生活の多様性は生活する個々人において一つの全体としての統一をもっていなければ ならない。そこでヘルバルトは思惟と審美的鑑賞を「宅活の支配者」と呼び,これらの精 神作用が多様なるものに没入する観察,同情の結果を内的に統一すべく働くところが「学

(15)

高久:ヘルバルトにおける「対比」(Gegensatz)の概念について      47

校」であるという。ところで致思は専心のもたらす多様性の内的人格的統一をもつてその 生命とするものであるが故に,思惟及び審美的鑑賞は「致思」の過程と称することが出来 る。以上ヘルバルト自身の言葉をもって要約すれば,「思惟と審美杓鑑賞は致思と人格の 鍵である。之に対し観察,同情は常に新たな専心に没頭する。」㈹このように生活と学佼,

又は観察,同情と思惟,審美的鑑賞,従ってまた専心と致思という対立する二要素の関係 のあり方が,豊かな多様性の覚醒とその内的統一・を狙いとするヘルバルト教育目的に対す

る方法上の核心とみなされるのであるが,以下更にこの二要素が「対比的」循環の関係を もつべき性質のものである点をはっきりさせたい。

ヘルバルトは「今日の哲学が思惟,審美的鑑賞によって観祭の精神や同晴を如何に抑圧 しているか一従つて生活そのものを如何にそこなっているかをみるのは嘆かわしい。」囎 として現実生活における専心作用の重要性を強調する反面,未開化の時代ならとも角,「

開化した一連の国家の中で人間及び社会への関心をもって生きている我々は,実際その中 で多くのものが四散している無数の専心から,一般的致思の集合点となり得るような思想 の統一を求める必要にかり立てられている。」鋤として専心の後にくる内的統一作用とし一て の致思を強調している。それ故,「新たな生活は常に新たな学校を生み出すべきである」

というのであるが,ここで再び,学校とは何か,生活とは何かを改めて定義するヘルバル トの見解に特に注目したい。「学校一我々はこの高貴な言葉に正しい意味を与えよう。

学校とは閑暇を意味する。閑暇は思惟,審美的鑑賞,宗教にとっての共有財産である。生 活とは同晴的観察者が外面的行為や苦痛の転変に没入することである。」ωつまり,専心の 過程としての宅活が日常現実の経験的事柄そのものへの没入であるのに対し,致思の場と しての学校は閑暇,即ち日常現実から遠く離れることを意味している。しかも,このよう に相対立する専心,致思の二契機は「新たな生活が常に新たな学校を生み出すべき」よう に,一方が他方を,他方が一方を呼び起こしつつ相補ってはじめて意味のあるものとなる。

かくて現実への没入と現実からの遠離としての専心と致思が影と光の如く相互に他をひき 立たせつつ相伴って循環することにより,人間精神の多様化と統一の無限の過程が前進す るのである。これをヘルバルト自身の言葉を以て要約すれば,「行為や苦悩から閑暇へ,

更に閑暇から行為や苦悩へと移って行くことは人間精神の呼吸,健康の為の必要,健康の しるしとみなさるべき」であり,両者の相伴って循環するところはじめて「生活の亨楽」

と「精神の高貴さ」とが結合するというのである。(42)

このようにみてくると,ノールの強調を侯つまでもなく,ヘルバルトの説く専心,致思 循環論は「何時,如何なる処ででも教授の行われる限り常に適用せられ得る」基本的原則 を示したものと云い得るであろう。彼の後継者,追随者たちによって完成され固定化され

(16)

48      茨城大学教育学部紀要 第八号

た「形式段階」(Formalstufen)の悪名の中に,創始者ヘルバルトの生き生きとした専 心,致思の論もまた巻き込まれているのは遺憾である。勿論この原則は教材固有の性格 生徒の特性及び個々の学習状況その他の諸条件に応じ種々多様に特殊化具体化されるべき 性質のものであり,その意味であくまでregulativに作用すべきものである。今日の学習 指導がヘルバルトのこの原則をregulativなものとして積極的に受け容れることに対し・

一体どのような異論がなされるのであろうか。

あ と が き

以上本論においては,ヘルバルトにおける「対比」概念の検討を手がかりに彼の教育学 の基本的性格の吟味にまでさかのぼり,特に「現実」への没入と遠離という新たな観点か ら,ヘルバルト方法論の基礎としての「専心」「致思」循環論を考察の主題としてきた。

このような考察を意図した底には,現代のいわゆる「新教育」運動が既に指摘したような 意味での「専心」面の偏重に傾き,当然之に相伴うぺき「致思」面の軽視に陥っていると いう判断,云い換えれば,生活経験と結びつく学習の多様化と生徒の内的人格的統一形成 の二面を如何に結合するか,という現代教育の当面する緊要課題とも称すぺきものに対す る私なりの強い関心がある。勿論,多様な経験的生活の統一点は,予め規定された或る既製 体系や何らかのドグマを生徒に教えこむことによって求められるぺきではないであろう。

多様な経験的なるものへの没入の中で,常に事柄の諸関係を明晰に把握し,これらを統一 的に秩序付けていく精神作用のプロセスを生徒自身が遂行し習熟していくことにおいては じめて真の機能的統一が求められるべきだと考える。その意味で今日,ヘルバルトの専心 致思論に関するより新たな観点からの吟味は,この論のもつ単なる教育史的意味以上の現 代的意味を明らかにすることになるだろうと考えるわけである。しかし,本論における考 察はこの専心,致思論についてのいわば現代的視点からする基礎的考察の域を出ていない。

この点に関してのより詳細な教授論的展開はこれを他日に期したいと思う。

(註)引  用  文  献

本論におけるヘルバルトの所説引用はすべて

Johann Friedrich Herbarts Padagogische Schriften, von二〇. Willmann und Th. Fritzsch・

1919更璽によった。

尚,ヘルバルトの主要引用文献は繰返しの煩雑をさける為以下の記号を用い・引用箇所はこの記 号と上の全集の巻数及び頁数を以て示すことにした。

〔A〕…Uber Pestalozzis reueste Schrift Wie Gertrud ihre Kinder lehrt,,1802

(17)

芦       1    」』

@       :      r

       

a@久:ヘルバルトにおける「対比」 (G鰐ensatz)の概念について.      49

      ・ o

kB〕…Uber die琶sthetlεche DarstelluDg der Welt als das Hauptgeschaft der Erziehung.1804       1

      , .

kC〕…Uber den StandFunkt der BeurteUung der Pestalozzischen【Jnterrichtsmethode.1804

〔D〕…Allgemelne Pada窪09三k.

(aus dem Zweck der Erziehung abgeleitet.)1806

      ● ,

kE〕…Uber das Verh甑nis der Schule zum Leben.1818

〔F〕・・Uber das Verhaltワis des Idealismus zur Padagogik・1831

(1)篠原 助市「訓練原論」 昭25225頁

(2)篠原 助市「独逸教育思想史」上 昭22397頁

(3)  〔B〕   Bd. l  S.106

㈲  〔B〕   Bd.1  S.107

(5) 〔B〕   Bd.1  S.108

(6)  〔B〕   Bd.1  S.107

(7)  〔B〕   Bd.1  S.105

(8) 〔B〕   Bd.1  S.106

(9)  〔B〕   Bd.1  S.106

㈲ H.Nohl:Der Lebendige Herbart.1948

α1)J.S. Brubacher:A History of the Problems of Education.1947 P.128

働W.Windelband:Geschichte der neuern Philosophle, Bd.2S.396ff.

⑬  〔B〕   Bd.1  S,94 ω  〔F〕   Bd.3  S.447

㈲  〔B〕   Bd.1  S.92

(16〕 〔C〕   Bd,3  S.287

(17) 〔F〕   Bd.3  S.444

⑱  〔C〕   Bd.3  S.287 α9) 〔D〕   Bd.1  S.232

(20  〔B〕   Bd.1  S.93

⑳  〔E〕   Bd.3  S.247

⑫2) 〔D〕   Bd, I  S.261 圏  〔D〕   Bd.1  S.273

、     伽) 〔A〕   Bd.3  S.276

㈲  〔B〕   Bd.1  S.107

⑫6) 〔B〕   Bd.1  S.107

㈲  〔D〕   Bd.1  S.239 f.

囲  〔A〕  Bd.3  S.280

(2窃 〔A〕   Bd.3  S.282

㈲  〔B〕   Bd. l  S.98

㊤1) 〔B〕   Bd. l  S.100

㈱ 篠原 助市「独逸教育思、想史」上 昭22425頁

㈱ H.Nohl:Der Lebendjge Herbart.1948

圃 H.Noh1:Die Padagogische Bewegung in Deutschland und ihre Theorie.1949 S.158 侶5)T.Schwerdt:Kritische Didaktik.1955 S.50

㊨⑤  〔E〕   Bd.3  S.248

(37) 〔D〕   Bd.1  S.286〜288

(18)

50      茨城大学教育学部紀要 第八号

㈱  〔D〕   Bd. l  S.342

㈲  〔D〕   Bd.1  S.343 幽  〔D〕   Bd.1  S.345

⑳  〔D〕   Bd.1  S.346

㈹  〔D〕   Bd. l  S.346

参照

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