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学校体育における器械運動の特性に関する一考察

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学校体育 における器械運動の特性 に関す る一考察

Bine Betrachtung

iiber

die sportliche Charakteristik des Geriitturnens

im

Schulsport

岡 端

 

Takashi OKAHANA

(平成 6年10月 11日受理)

Zusanllrlenfassung

ln der japanischen Schulsportgeschichte haben wir das Geratturnen im Sinne F.L.

JAHNs alS die Gymnastik auf der Turngeraten im sinne P.Ho LINGs sehr lange nli3verstanden.Aber beirn verbesserten Lehrplan der Grundschule(1968)vom japanischen Kultusrrlinisterium wurde es als ein lreil von der Sportarten anerkannto Au3erdem irn Jahre 1977 wurde neues Lemziel,doh."Vertrautheit mit in)ungSformen zu diesem Lehrplan hinzugefugt.lDamit halten wir heute eigene Freude uber das Geratturnen fur wichtig.Unter den Verhaltnissen ware die sportliche Charakteristik des Geratturnens iedoCh nicht geklart.

Der Zweck dieser Abhandlung besteht darin, da3 die sporthche Charakteristik des Geratturnens noch eirllnal vom padagOgischen― bewegungsmorphologischen Standpunkt aus uberpruft werden soll, und daher wurde eine lehrmethodische Grundlage von der Sportunterricht angegeben.

Beiln Bewegungslernen des Geratturnens ist es ursprtingliche lBedeutung,die physische Hindernisse nicht zu uberwinden,sondern die Bewegungskunststucke im sinne K.GAUL‐

HOFERs auSZuftten。 1)brigens kann man derienige Freude uber die Bewegungskunste zweideutig interpretieren, d.h。  ,,innerliche Freude  und "auSerliche Freude  ]Daunter

nnte die expressive oder wettkampfsportliche Charakteristik des Geratturnens auch in Wirklichkeit der Sportstunde berucksichtigt werden.

Zurn Schlu3 sei hervorgehoben,da3 der Sportlehrer die Charakteristik des Gerattur̲

nens elastisch je nach sportlichen Motive der Schuler erfassen sollte。

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I.問題設定

1.器械運動の指導の問題性

「器械運動の授業 はむずか しい」 とよ くいわれ る。たしかにその理由を考 えてみると、個人 的スポーツであ り、生徒一人一人の能力 に応 じた指導が行 なわれなければな らない とい うこと、

教 える運動財 (u知昭sgut)ヵ ツト日常的な性質 を もつため、「 で きる・で きない」がはっきりし てお り、それゆえで きない生徒 に対 していかに興味 をもたせ るか という動機づけの方法が問わ れ るとい うこと、学習環境の面か ら、安全面への配慮が より周到に行なわれなければならない ということな どが挙 げられ よう。一方、教師の側 として も自分ができないために、生徒の前で 示範す ることがで きず、そのはずか しさか らつい敬遠 して しまうということもあるか もしれな い。 とりわけ体育教師のすべてが器械運動のスペ シャリス トとい うわけではな く、むしろ生徒 の方が教師 より上手 に演示で きるとい う場合 も少な くない。その場合、当該の教師が逃 げ腰 に なって しまっては、で きる生徒、否、で きない生徒か らも器械運動の指導に際 して不信感 を抱 かせ るだけで、授業が うまく成 り立たない とい うことも十分 に考 えられる。

けれ ども器械運動の授業 において「 とにか くで きさせればよい」 ということになれば、異論 を唱 える人 も多いであろう。その大 きな理 由は、器械運動 を学校教育 という枠組みのなかで と らえるところにある。平成元年 に改訂 された文部省 における小学校学習指導要領及び指導書体 育編 によれば、体育科の究極 の目標 は「楽 しく明 るい生活 を営む態度 を育てる」ところにあ り、

単 に「運動がで きる」 というだけではこの目標 に合致 した授業成果はなかなか得 られない。す なわち教科の目標 にも掲 げているように、「適切 な運動の経験」、「身近な生活 における健康0安 全 についての理解」、「運動 に親 しませ る」、「健康 の増進 と体力の向上 を図る」 という各部分 目 標が相互 に緊密な関連 をもちつつ、上記の究極の目標 をめざしてゆ くものでなければならない (4‑98頁 、5‑8頁)。 そこにおいて器械運動の授業では、なにを生徒 に学習 させてゆけばよいの か ということが浮 き彫 りにされて くる。

2.器械運動の特性 をとらえる視点

い うまで もな く学習の内容 は目標か ら導 き出される。 日標 を無視 した ところで、内容が一人 歩 きをして しまえば、た とえとび箱が とべ ようが、逆上が りができようが、そこで器械運動 を 行 なうことの意味 はない。本論では、体育科の目標 について批判検討 を加 えてゆ くものではな いが、器械運動の特性 を考 えるとき、 この目標 ということを無視 して論 を展開 してゆ くわけに はゆかないであろう。

そ もそ も体育科の目標 はこれ まで固定的に考 えられてきているわけではな く、その ときどき の時代背景 に応 じてたえず問題 にされてきた (13‑19頁 以下)。

戦前の体育では、主 として身体各部の調和的発達 を目標 として基本的には体操中心に教材が 考 えられてきた し、終戦後 において も、た とえアメ リカの占領下 にあって軍事的色彩 をもつ も のが否定 され、遊戯やスポーツが奨励 されるようにはなった とはいえ、運動 はもっぱら「発達 刺激」 として とらえられ、身体的発達 を中心 に、精神的発達お よび社会的発達の二つの角度が 問題 にされていた。 もちろん この「発達的 目標」 は、今 日において もその重要性が一貫 して指 摘 されているのはい うまで もない。しか しなが ら昭和28年改訂 の小学校学習指導要領体育科編 で「学習の内容」を「 目標」とは別 に章 をお こして取 り上げた ことにより、 この「発達的目標」

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以外 に「学習内容 に関す る目標、学習内容 を方向づける目標」が扱われ るようになった。 さら に昭和33年改訂の小学校学習指導要領で も、この考 え方 は引 き継がれ ることになる。しか しそ こで学習 され る運動領域全般が体操的 に扱われ る傾 向は拭 い きれず、 また昭和39年のオ リン ピック・ 東京大会誘致 を契機 に、体力中心主義のスポーツ学習が行 なわれるようにもなって く る。 そのような情勢の もとで、スポーツ とはなにか、ダンス とはなにかが根本か ら問われ るよ うにな り、昭和43年の小学校学習指導要領改訂では、運動の特性 をこれ まで以上 に生かそうと いう趣 旨で、「体操・ スポーツ 0ダ ンス」の分類が試み られた。 ところが生徒の学習意欲の向上 はそれほ ど期待で きず、いわゆる「スポーツ好 きの体育嫌い」 とい う現象が、一方で現われて くるようになる。それは、体育関係者 にとって「体育」のあ りかた を根底か ら考 えさせ られ る ものであった といえよう。そこで次 に登場 して くるのが、昭和52年改訂 の小学校学習指導要領 における「運動 に親 じむ」 とい う目標である。 この改訂では、「『運動 を行 なう人 と運動 とのか かわ り方』に眼 を向けた内容の特徴化 を試みるに至 った。」 (15‑145頁)つまり「運動す る楽 し さ・ 喜び」 をとお して、生徒 自身が能動的に運動す る習慣 を身 につけるとい うことがめざされ たのである。 この目標 は、生涯 スポーツ とい う標語 を ともなって、平成元年の改訂で も受 け継 がれ、その重要性 はます ます指摘 されてきているのはいうまで もない。

けれ ども楽 しければどのような授業 をして もよい とい うわ けにはゆかず、やは り「何 につい ての楽 しさ」なのかを明確 にしておかねばな らない。た とえば個々に とりあげる運動種 目を手 段的な もの として とらえ、そ こにおける運動学習の行動様式 に「楽 しさ」 を求 めるとい うこと

もで きるであろう。 ところが運動種 目を手段的な もの として とらえて しまうと、最終的にはそ れ を行 なうことの意義が問われて しまうことに注意 しなければな らない。換言すると「楽 しさ を体得」するのに、なぜ器械運動でなければな らないのか、なぜボール運動でなければな らな いのか ということが問題 にされ るのである。 その意味で、体育授業では「運動種 目固有の楽 し さ・ 喜び」 というものが追求 されなければな らない。

ところで このように学習者の立場か ら見た運動の特性 は、「機能的特性」と呼ばれている。一 方、運動 は客観的にも観察 されるので、学習 され る内容である運動技術、戦術、ルール、マナー といった「構造的特性」も理解 しておかねばな らない。なぜな ら「 その運動 に固有の楽 しさも、

これ らの客観的な特性 にかかわって生み出され るか らである。」 (11‑94頁)

本論ではそのような点 をふ まえて、器械運動 の特性 を再検討 し、体育授業 における指導方法 論的基礎 を提供す ることを目的 とす る。そのためにまず器械運動の概念 を運動学的立場か ら明 確 にし、 それにもとづいて過去 における特性 の とらえ方の問題点 を整理、検討 してゆきたい。

II. 器械 運 動 とはな にか

歴史的にみると、わが国にお ける学校体育 は、体操・ 器械運動 を中心的教材 として扱 ってき た といわれ る(8‑28頁)。 しか し不幸 な ことに、明治、大正期 にいたっては、体操 も器械運動 も その概念理解が曖昧な まま「体操」 とい う一語で片付 けられてきた経緯 をもっているのは特筆 すべ きことであろう。現在 において、専門家の間ではまちが うことがないのに、一般 には、 ま だ「器械運動」や「体操競技」の ことを「器械体操」 とい うのは、その ときのなごりが執拗 に 残 っているか らといわ ざるを得 ない。

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1.体操 と器械運動

そ もそ も「器械体操」といえば、「器械 を用いた体操」であるという答 えが返 って くるのが一 般である。 その点では器械運動 も体操競技 も器械 を用いることにかわ りはない。 けれ ども問題

は器械ではな く「体操」の方にある。

体操 の起源 は、古 くさかのぼればギ リシャ時代のギムナスティケー(″

"ぼ滋″η)にある と

もいわれ るが、学校体育史的 にみれば、その語 に由来 されるとい うドイツ語のギムナースティ (Gymnastik)に求 めるのが妥当であろう。 この語 は近代体育の父JoC.グーツムーツが、そ の著「青少年の体育」(Gymnastik mr die Jugend,1793)において、体育運動のギ リシャ的意 義 を鼓吹 してか ら一般的になった とい う (1‑4頁)。 そして このグーツムーツの体操 に影響 され て、欧米の体操が展開することにな り、とくに P.H.リ ングによるスウェーデン体操 は世界の近 代体育の展開に決定的な影響 を与 えるまでになった (6‑89頁)。 ところがスウェーデン体操でい われ る「体操」 は、本来、「解剖学・生理学の知識 を動員 して健全な身体の育成 を目指 した運動 であ り、運動能力の最高 を競 い合 うことは全 く考 えられていなかった」 (1‑4頁 )こ とに注意 し なければならない。言 うなれば体操の目的は運動経過 その ものにはな く、運動 を行 なったその 結果か ら導 きだされ るものである。 したがってそのような目的が達せ られない運動形態 をい く

ら練習 して も、それは体操的視点か らは無意味な こととされて しまうのに多言 は要す まい。

ところが器械運動では、運動経過 その ものが 目的 とな り、そので きばえを判断 し評価するも のである。 したがって運動経過 を手段的に とらえる「ギムナースティク」の概念 を、安易 に器 械運動 に も適用す るわけにはゆかない。なぜな ら体操的視点か らみて不合理 な運動形態であろ うとも、それ を器械運動 として行 なえる可能性 はあるか らである。ではその可能性 はどうやっ て導びかれるのであろうか。それ を探 るには、人々がなぜその運動形態 (その運動形態でなけ ればな らない)を器械運動 として行 なうのか とい うことを考 えなければならない。

いうまで もな く器械運動のルーツは、当時、ナポンオ ンの支配下 にあった ドイツ国民の士気 を高めるために考案 された体操、すなわち ドイツ体操の父 FoL.ヤ ー ンによる トゥルネン(Tur‐

nen)に 求めるのが専門家の間での共通理解である。ヤー ンの トゥルネンはもともと政治的教育 的意図の もとに生 まれたため、やがて政府の保守派 と対立 し、1820年か ら42年まで体操禁止令 (Turnsperre)によって弾圧 を受 けることになるが (その間 は非政治的な名称であるギムナー スティクが使われ る)、 それ までヤー ンは若者たちの間で熱狂的な支持 を得た とい う。 しか し ヤー ンが支持 を得たのは、ヤー ンの人柄やその思想だけにあったのであろうか。 もし仮 にヤー ンの トゥルネンが純粋 に政治的目的のみで、なかば強制的に国民 に行なわさせていた とすれば、

今 日までそれが生 き残 っていたか どうかは疑わ しい。 けれ ども人々は体操禁止令のあいだ もひ そかに屋内で トゥルネンを楽 しんでいた し、 また体操禁止令の解除 とともに各地で腕 自慢的な 競技会が爆発的な人気で行 なわれた こと (1‑10頁)を考 えてみれば、当時の人たちはまぎれ も な く政治的教育的な目的以外 にも、 トゥルネンにおける「運動 その ものの魅力」 を十分 に感 じ とつていたにちがいないであろう。器械運動で行 なわれ る運動形態、すなわち「わ ざ」は、ヤー ンの時代か ら今 日まで「すばらしい、 自分 もやってみたい」という人々の欲求 にささえられて、

あるものは捨てさられ、 また、あるものは新 しく認 められ とい うように文化的に受 け伝 えられ て きた ものである。いったい人々 を夢中にさせ る「わざ」 とは何であるのだろうか。 ここにお いて器械運動の特性 を考 えるとき、 この「わざ」の特性 をまず もって明 らかにしてお く必要が ある。

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2.巧技 としてのわ ざの特性

人間の身体運動の世界 は、大 き く分類すると「労働」 と「遊 び」の世界 に分 けられる。 もち ろん ここでい う労働 とは広い意味で とらえられ るものであって、た とえば日常生活 において歯 を磨 いた り、顔 を洗 った りするとい うことも含 まれ る。つ まり労働 の世界 における運動 とは、

生活上必要 とされ るある目的をもって行動す るとい うことを意味 し、 そのか ぎ りにおいて目的 に対す る手段 として理解することがで きる。一方、人間の生活のなかには、運動 その ものを自 己 目的化 して「遊ぶ」 とい うことがある。それはなにか (外在す る目的)のために行 な うもの ではないため、本質的に「それ をや りたい」 とい う内発的動機がなければ発生 して くるもので はない。その点 をふ まえ、オース トリアの自然体育提唱者、K.ガウルホーファー とM.シュ ト ライ ヒャーは、人間の「生活形態」(F。 エ ッカル ト)を「 目的形態」 と「巧技形態」に分類 し、

そこにおける運動の本質的特性 を明 らかにした。

目的形態 は労働運動の本質 を有 している。すなわち「ある状況のなかで、外在する目的が設 定 されてお り、その目的達成 のためにで きるだけ効率 よ く運動する」(3‑73頁)とい う合 目的性 の原理 と経済性の原理 に支配 されている。 この点 に関 しては、スポーツにおける陸上競技、競 泳、球技 な ども同様 の原理 に支配 されている。た とえこれ らのスポーツ種 目が遊戯的動機では じめ られ るとして も、動機 は関係 な く、運動形態の本質的特性 をとらえておけば、木村のいう ように「運動の目的形態で もって遊ぶ」 ということがで きよう (3‑73頁)。

一方、巧技形態 は遊戯形態の本質 をその基礎 とする。 まず遊戯形態の特徴 は、運動者主体の 内発的動機がつづ くかぎ りにおいて、それが何回で も反復 され るところにあるであろう。 しか しこの ことは、第二者か らみれば、 その運動形態が どのような運動原理 に支配 されているのか をわか らな くさせて しまう点 に注意 しなければな らない。なぜな らた とえ非経済的であって も、

本人が納得 さえすればそれでか まわない とい うことがあるか らである。 こどもの遊びをみてい ればわか るように、彼 らは意図的に遊 びを訓練 しようとはしないのが普通である。その場合、

その時々の運動欲求が満たされれば、経済性の原理 は必要ないのである。 ところがだれかに自 分の運動 (遊戯形態)をみて もらいたい とか、かっこよ くで きたい と思 うようになると、遊戯 形態 はある特徴 を有す るようになって くる。すなわち行 なわれた運動経過 に対 して「 うまい・

へた」 ということが問題 にされはじめて くるわ けである。 この ことは単 に自分が行なった こと 自体 に満足するのではな く、 なにかある判断基準 を設 けて、そ こか らそれを評価するとい うこ とを意味する。 この判断基準 は、その運動が発生 した初期 の段階では個人的に設定 され るのが 普通であるが、その運動のすばらしさに他人 も共鳴 し、やがてその運動 をや ろうとす る人が増 えるにしたが って、個人のレベル を越 え、ある一定の集団 (遊戯共 同体)のなかで設定 され る ことになる。 ここにおいて「個々人の間で発生 した遊戯形態 は、意図的に繰 り返 され、対象化 され、他人 に伝承 され、ついにその社会の文化 として定着す るようになる。」 (3‑77頁 )こ の社 会的に承認 された遊戯形態が「巧技形態」である。 したがって巧技形態 は、意図的に訓練 され るのが特徴であるといえる。その意図 とは、すなわち「 より難 し く」、「 よ り美 し く」 とい う方 向性 をもって発展 させ られてい くのである(3‑78頁)。 一方、目的形態で述べた合 目的性 と経済 性 の原理 もそこではた らくことを無視 してはいけない。なぜ な ら合 目的性 に関 してはその運動 を行 なうことで達せ られるし、 また経済性 に関 して も、 より難 しい ことをより簡単 に、換言す ればいかに余分な力 を使わないで行 なえるか とい うことに人々の関心が向けられているか らで ある。

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さらにガウルホーファーは、主 として難 しさに方向づ けられる巧技 を「驚異的巧技」、美 しさ に方向づ けられ るものを「ダンス的巧技」 として区別 した。 その区分 にしたがえば、非 日常的 運動形態 を中心的に扱 う器械運動 を「驚異的巧技」の範疇 に含 めるのに異論 はないであろう。

またガウルホー ファーは、使用す る器械 によって、驚異的巧技 を以下の3つに分類 した(3‑242 )。

1.徒手巧技 (Freie Bewettskunststucke)

2.手具巧技 (Kunststucke mit Handgeraten)

3.器械巧技 (Kunststucke auf Geraten)

金子 は、「 この中の手具巧技 は他の二つ とは異な り、物 を巧 みに操作で きるという技能が中心 であ り、その運動形態その ものに驚異性 をもつわけではない。むしろ風変わ りな運動経過 を見 せて も、物 を巧みに操れずに失敗 したのでは全 く意味がな くなってしまう」 (1‑12頁 )と して、

体操競技 における巧技 を、徒手巧技 と器械巧技 に限定 している。 もちろん器械運動 において も これ と同様の ことがいえるのはまちがいない。 しか しなが ら金子 も指摘 しているように、競技 性 とい う観点か ら(器械運動 も体操競技の ように公ではないに して も競技 はで きる)、 器械巧技 でいわれ るところの「器械」 を限定 してお く必要があるであろう。なぜな ら競技では、各人が 一定のルールに基づいて競い合 うのを原則 とするため、 どのような器械で もかまわない という わけにはゆかないか らである。 したがって「競技 として組織 されてな く遊 びの一種 として親 し まれ、 また職業的にサーカスな どで行 なわれている競技体操様式の特性 をもった運動 は少な く ないであろうが、それ らは一般 に巧技 (ガウルホー ファー)と して競技体操の母体的土壌的存 在 と捉 えるのが妥当」である (1‑15頁)。 この器械 を限定することの問題性 については後でぶれ るが、 とりあえず ここでは、器械運動 におけるわざの本質的特性 を、「巧技」という点 において

「驚異′性」(Erstaunlichkeit)と 「芸術性」(Schёnheit)に認 めてお きたい。

.器械 運動 の特 性 の とらえ方

1.スポーツ としての認識

先 にも述べた ように、わが国における器械運動の歴史 は必ず しもその概念が正確 に理解 され て発展 してきたわ けではなかった。金子 によると、わが国に「体操 というもの」が移入 された のは、古 くは幕末か ら明治初年 にかけて とみなされている。当時は激動の時代 にあ り、「諸藩 は 競 って洋式の兵制 を採用 し、新兵の訓練 をす るのにまず体操か ら始めた」とい う(1‑3、 4頁)。

明治5年には「学制」が公布 され、そ こでは「体術」が教科の一つ として示 され、それがのち に「体操」 として改められ るようになる。明治11年にはアメ リカ人の GoA.リ ーラン ドによっ て体操伝習所が設立 され、徒手体操 と手具体操が紹介 され るが、それは健康の維持増進 を目的 にした ものであった。そこで行 なわれた「体操」 は「普通体操」 と呼 ばれ、その後、富国強兵 主義の もとに「兵式体操」が指導 され るようになった。「普通体操 はか らだづ くり、兵式体操 は か らだに魂 を打ち込む"ための もの として、徳育 につなが るもの として、規律訓練が重視 さ れた」のである (13‑14頁)。 明治33年にはスウェーデン体操が導入 され、その影響で、 日本全 国の学校 を対象 に初 めて教授内容が示 された大正2年の「学校体操教授要 目」か ら大正15年 おけるその改正 にいたるまで、普通体操、兵式体操、スウェーデン体操 という形式体操の重視 はつづいたのである。一方、大正期 には海外か らのスポーツ競技が導入 され競技運動が盛 んに

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な り、それは学校組織 にまで浸透す るようになった (17‑43頁)。 そして大正15年における学校 体操教授要 目の改正では、スポーツ教材が学校体育 のなかに取 り入れ られ るようにな り、体育 は体操 を中心 とした「身体 の教育」ではな く「身体活動 を通 しての教育」であるとい う考 え方 が強 くなって くる (13‑16頁)。 しか し依然 として器械運動 は器械体操の ままであ り、その名称 変更 は昭和24年の学習指導要領小学校体育編 (試案)ま で待つ ことになる。そしてその名称変 更 に ともない、器械運動 はスポーツ としての内容 を漸次濃 くしてゆき、ついに昭和43年改訂 の 小学校学習指導要領 において「スポーツ」の領域 に組 み込 まれ ることになるのである。 この よ うに器械運動がスポーツ として認識 され るには、学校体育史的にみてじつに長い経過措置 を必 要 としたのだが、その陰 には競技 スポーツ としての体操競技の影響 を忘れ るわ けにはゆかない。

もちろんわが国において体操競技 も、 はじめか ら純粋 にスポーツ として認識 されていたわけ ではなかった。いわば「器械 による体操」 として、た とえそれが腕 自慢的な場面 をもちなが ら も、競技的な考 えの もとで運動の良否が判定 され ることはな く、あ くまで も健康 な身体 をつ く るとい う大前提がそ こにはあった。しか し一方で、明治35年の慶応義塾器械体操倶楽部 の発足

(17‑44頁)と ともに、器械体操の競技会が徐々に普及 してゆき、ついにわが国は、昭和5年 国際体操連盟 (FIG)に加盟 し、第10回オ リンピック・ ロサ ンゼルス大会 (昭7年)に選手 団 を送 り込む まで になったのである。 ところが初参加で もあ り、いわば暗中模索の状態で この 大会 にい どんだ日本選手団は、外国選手 の異様 な (体操競技 としては正 当な)わざさばきを目

のあた りに見せ られ、体操競技の とらえ方に対す る諸外国 とのギャップに大 いに悩 まされた。

「 日本選手 は、学校体育の器械体操 にならって真剣 に演技 したのにもかかわ らず、採点す る審 判員の失笑 を買い、観衆 はあまりにも珍妙な演技 に唖然 とし、ついには手 をたたいて笑 つた と

い う。」 (2‑18頁 )こ のように結果 は参加5チーム中5位とい う惨愴たるものであったが、競技 スポーツ としての体操競技の認識 を少なか らず ともそこで得た ことは大 きな成果であつた。 ま た当時の 日本選手の活躍、健闘が、来 るべ きオ リンピック東京大会 (昭15年 )に向けての大

きな原動力 になったのは特筆すべ きことであろう (17‑54頁)。 しか しなが ら「 このオ リンピッ ク大会での貴重な反省 も、たんにオ リンピック用の技術 としての うけとりかたが強 く、本来学 校体育 としての器械体操技術 に影響 を及 ぼす ことがで きなかったのであ る。」 (17‑48頁)そ 後、日本 は太平洋戦争 に突入 し、諸外国 との交流 を絶 たれ ることになるが、昭和25年FIG復

帰が認 め られてか らは、ふたたび世界へ と関係者 の目が向 けられていった。

ともあれ練習の内容 に関 しては、「外国選手 にいかにして勝つか」とい うところに照準が合わ されたのはた しかである。戦前 は、た とえオ リンピック参加 とい う事実があるにせ よ、学校体 育 を基礎 とす る器械体操 を一気 に競技 スポーツ としての体操競技 に切 り変 えるのが むずか し かった といえるが、 ここにきて競技スポーツ として正当化す る思想 に脱皮 し始めた と考 えられ ている (2‑19頁)。 やがて 日本の体操競技界 は、昭和35年のオ リンピック0ローマ大会男子団 体優勝 を皮切 りに、めざましい活躍 を示 したのは周知 の とお りである。 そ こにおいて、いちは や く学校体育的な枠組 みか ら脱 し、競技スポーツ としての特性 を日本国民 に認識 させた、 日本 体操協会 を中心 とす る関係者の功績 は非常 に大 きい といえる。いずれにせ よ器械運動が体操的 認識か らなかなか抜 け出せなかったの とは対照的に、体操競技 は世界的動向にしたがっていち はや くスポーツ としての地位 を固め、その結果 として逆 に、器械運動 もスポーツ として認識 さ れ るようになった と考 えられ る (18‑40頁)。 しか しなが ら学校体育 を基盤 とす る器械運動 は、

競技 スポーツ としての体操競技の考 え方 を必ず しも受 け入れた とい うわけで はない。否、む し

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ろ競技す るとい うこと自体、教育的目標 においては否定 されてきた というのが現状であるとい わざるを得ない。

2.達成型スポーツ としての器械運動

スポーツとしての器械運動の特性 を、体操競技にならって、わざのできばえを他人 と競い合 うところに求めて しまえば、少なか らず大 きな問題点を抱 えることになるだけであった。なぜ な ら「で きる・ で きない」が端的に示 されるスポーツ種 日であるだけに、個々の生徒における 学習意欲 の差が顕著 に現われるようになるか らである。 また一方で、技能中心、体力中心主義 の体育授業 は、器械運動 に限 らず他のスポーツ種 目で も同様 に見 られ、生徒の学習意欲 をどう やつて向上 させ るのかが大 きな課題 となってきた。そこで文部省 は昭和52年の小学校学習指導 要領改訂で、「運動 に親 しむ」という新 しい体育科の目標 をつけ くわえることになったのである。

お りしも社会人の運動不足が同時に問題視 され、「生涯スポーツ」への関心が高 まっている時期 で もあった。

それでは昭和52年での改訂で、器械運動のスポーツ特性 はどのようにとらえられたのであろ うか。結局、特性 を学習者の側か らみると、器械運動 には他人 との競争ではな く、人工的な障 害 に挑戦 し、それを「克服」するとい うスポーツ特性があ り、そこにこそ運動する楽 しさがあ るとい う考 え方が されるようになった。 とりわけとび箱 は高さと幅をもった物理的障害物であ り、克服 の認識 をもたせ るうえで好都合の器械である。 とび箱が とべない生徒にとって、 とび 箱 は恐怖心がそそられる障害の何物で もな く、そこにおいてはまず「 とび越す」 ということが

最大の関心事になるのはいうまでもない。運動経過がいかに貧弱なものであろうとも、「とべた」

とい うことが肝要なのである。

しか しなが ら「克服」 という概念 は、障害 としての器械 を克服するという意味だけに限定 さ れたわ けではない。宇土 によれば、「克服 される環境課題 は、器械・器具だけでな く、運動の技 術 もそれに関連 しあった形で構成 され、挑戦者の性質 (発達、技能な どのちがい)に対応 して その難度 を提供する」 と説明されている (14‑15頁)。 つ まりここでいう「克服」は、一方で物 理的な障害の克服 を、 もう一方でより難 しい運動課題の克服が意味されていると考えなければ な らない。 けれ どもこのように「克服」概念 をとらえてしまうと、その両義性から器械運動の 本質 を見失って しまうのではないか ということをあえて指摘せざるを得ない。なぜなら前者は

「 目的形態」、後者 は「巧技形態」がそこで理解 されているか らである。先述の とお り、器械運 動 として行 なわれるわざは「巧技形態」 としての特性 を有するものでなければならず、高さや 距離 をもつ物的障害の克服が目的なのでは決 してない。そこで、 この「巧技形態」 としてのわ

ざの特性 を考慮 した考え方が次にとりあげられて くるようになる。

スポーッ としての器械運動の特性 を、改めて検討 しなおした結果、平成元年改訂の小学校学 習指導要領では「克服」とい う表現が消え、かわって「達成」という表現が使われるようになっ た。 けれ どもこの ことによって器械運動の特性の とらえ方が大幅に変わった というわけではな い (7‑10頁)。 なぜなら先の克服概念では、「障害の克服」だけでな く、「わざ (課)の克服」

ということも意味 されていたか らである。あえて変わった というならば、器械運動では後者の 意味での克服、すなわち「ゎざの達成」がその特性 として浮 き彫 りにされ、前者の意味での克 服 は、技 の達成が困難 な初歩的段階 において考慮 されるというようになった ということである。

西 によれば、「克服」か ら「達成」への名称変更 は、JoW。 ロイの競争的ゲームの分類論が影響 し

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ているといわれるが(7‑11頁)、 これまで両義性 をかもしだしていた克服概念を明確にとらえな おしたことは、器械運動の特性を考える上で価値が大 きかった といえるであろう。 これによっ て器械運動では、与 えられた物的障害を克服するという、いわば運動 した結果にその意味や価 値が認められるのではな く、わざそのものをどう行なうか という、運動の過程にそれが根本的 に求められるということになった。要するに「目的形態的認識」 と「巧技形態的認識」が混在 している段階から、明確に「巧技形態的認識」によって、その特性が とらえなおされたのであ る。

しか しその ことによって、器械運動 における「 目的形態的認識」が、完全 に否定 されたわけ ではない とい うことに注意 を払 う必要がある。なぜな ら、学習の初期段階にいる生徒 は、一般 に運動経過 その ものよりも、む しろその達成結果の方に多大 な関心 を寄せている場合が少な く ないか らである。た とえば とび箱が とべない生徒 に とって、それが「 はじめて とべた」 という のは、何物 にも代 えがたい貴重な運動体験 になるであろう。同様 に、.憔に上がった」とか「マ ッ ト上で立てた」とい うの も、ある生徒 に とっては重要な達成課題 にな りうる。ただ しここで「結 果 として〜で きる」 という場合、副次的にではあれ「 どの ようにで きたか」 ということも暗 に 含 まれていることを見逃すわけにはゆかない。「 とび箱が とべた」というのは例 えば「開脚 とび で とべた」ということが、随難奉に上がった」とい うのは例 えば「逆上が りで上がった」とい う ことが意味 されていなければな らないのである。 このように考 えてゆ くと、ただ単純 に「 で き る」 というだけではいけない。巧技 としての性質 をもつ運動形態 を「 目的形態的認識」か らと らえた上で、「で きる」としなければな らないのである。一方、学習の段階が進むにつれ、生徒 の方 もただ「開脚 とびが とべる」 とか「逆上が りが上が る」 というだけでは満足 しないように なって くる。 なぜな ら自分 より「上手 に行 なうことので きる」生徒や教師 を観察す ることによっ て、 自分の運動経過の質の低 さを痛感せ ざるを得な くなって くるか らである。 ここに「難 しさ」

と「美 しさ」 とい う巧技形態本来の運動原理が、明確 に機能 して くることになるであろう。

上記のように器械運動 においては、物的障害 を克服す るのではな く、わざの達成 を本義 とす るのであるが、物的障害等の克服が、ある生徒 に とっては非常 に重要な関心事であることも顧 慮すれば、当該の生徒が どのような楽 しさを求 めてわざを行お うとしているのか を、 あ らか じ め教師 は把握 してお く必要がある。すなわち とび箱が とべただけで小躍 りする生徒 もいれば、

ただ単 に とべただけでは満足せず、 きれいな姿勢や雄大な空中局面が示せなければ満足 しない という生徒 もいるのである。 このように「で きる楽 しさ・ 喜び」 というのは、生徒の技能 ンベ ルに応 じて変化す るのが一般であ り、教師の方で一方的に、「〜で きたか ら楽 しいだろう」とき めつけて しまうわ けにはゆかない。 ここにおいて、わざの達成 は2つの観点か ら眺め られ る。

それは「第1に外在す る目的が達成 されたか どうか とい う目的形態的観点、第2にわざ自体が よ り難 しい実施で、 しか も美 しくで きたか どうか とい う巧技形態的観点である。」 (9‑115頁)

3.内発的楽 しさと外発的楽 しさ

これ まで考察 して きた楽 しさとい うのは、技の達成 その ものにかかわ る楽 しさであつた。で きないわざができるようになれば楽 しい し、 また、以前 よりももっ と上手 にで きるようになれ ばなおさら楽 しい とい うのはい うまで もない。 そのような快の感情 は、生徒の器械運動 に対す る内発的動機づけとなるものである。 ところで この ように運動の内発的動機が満たされて生 じ る楽 しさは、運動の「 内発的楽 しさ」と呼ばれている。杉原 によれば、「運動の内発的な楽 しさ

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とは運動が上達 した り、 自分の もてる最高の力 を発揮 してプレーする楽 しさ」 (10‑11頁 )と し て理解 され る。

一方、内発的楽 しさと対比 して「外発的楽 しさ」というの もある。「運動 は我々に様々な報酬 をもた らす。そこで、それ らの報酬 を得 るために運動 をお こない、報酬が得 られると楽 しい と い う感情が生起する。」(10‑12頁)内発的楽 しさにおいては運動 その ものが 目的化 されているの に対 し、外発的楽 しさでは手段化 されているのが特徴である。極端 にいえば、外発的楽 しさに 関 しては、その運動でな くて も、他の運動、あるいは運動以外のなにかで も、それに類似 した 楽 しさを味わ うことが可能であるといえる。 しか し器械運動の授業において、外発的な楽 しさ をわ ざの達成以外の ところに求めて しまうわけにはゆかない。 もし仮 にそうなって しまえば、

体育の授業で、器械運動 を行 なうことの意義が根本か ら問われ ることにな りかねないか らであ る。器械運動 を器械運動た らしめている本質的な構造要因は「わざ」なのであ り、それを抜 き に器械運動の楽 しさを語 ることは許 されない。

それでは技の達成 にかかわる外発的楽 しさを、 どのように考 えた らよいであろうか。浦井 ら によれば、現行の学習指導要領では、器械運動の表現的特性の側面が鮮明にされていな く、今 後 の改訂では、学習のね らいに「演示がで きるようにす る」 を含めるのが望 ましい と言われて いる (16‑36頁)。 まさしく巧技形態が遊戯形態か ら発展 してゆ く過程 に、その遊戯形態の社会 的認知、すなわち他者 との関わ りがあるとい うことを考 えてみれば、 この「表現」 としての特 性 は首肯 しうるものがある。とび箱がはじめて とべた生徒、あるいは逆上が りがはじめて上がっ た生徒 は、 自分がで きた ことに対 して喜びを感 じるだけでな く、教師や友達 にそれを認めて も らいたい とするのが普通であろう。 またそれは学習の初期段階にいる生徒だけでな く、 どの段 階の生徒 に関 して も同 じことがいえる。     

さらに自分のわざの表現だけでな く他者のわざの表現 との関わ りを考 えると、器械運動 には

「競争」 という特性 も考慮する必要があるといえよう。 なぜな ら表現するとい うことは、客観 的 に自分 の運動 を他者 に呈示するということを意味するので、 それを他者の行なう同 じわざと 比較検討す ることができ、その ことによって「 うまい・ へた」が客観的にも問われることが可 能 になるか らである。

このように器械運動 を楽 しく行わさせ るためには、生徒一人一人が運動 に対 して どのような 動機 をもっているのかを判断 し、それに基づいて特性 をとらえてゆ く必要がある。 この点 をふ まえ、本論では、外発的な楽 しさをみちび く「表現」、「競争」の特性 を、実際の授業のなかで どう生かすべ きかが、今後 の指導方法論上の課題であることを強調 しておきたい。

Ⅳ 。結 

これ まで考察 して きた ように、器械運動 は、学校体育 における体操的認識か らなかなか脱す ることがで きず、それが原因で、「巧技形態 としてのわざ」その ものを学習するということが き わめてあいまいにされてきた。 ところがそれ とは対照的に、わが国における体操競技 は、世界 的動向に したがって、いちはや くスポーツ としての認識が もたれ るようになった。 とりわけ昭 35年のオ リンピック・ ローマ大会優勝 を皮切 りに、「体操 日本」 とまでいわれるようになっ た当時の 日本選手団の活躍 は、陰なが ら器械運動 をスポーツとして認識 させ るのに貢献 をした

といえるのではないだろうか。

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けれ ども「他のスポーツ と異なって、器械運動の場合 は、元来、社会現象 としてのスポーツ が教材 として導入 されたわけではな く、学校体育 の中で独 自に発展 してきた部分が大 きい。 そ してい まだにスポーツ としての体操競技 と教材 としての器械運動 には統一 され得 ない部分が大 き く、 また将来的 にも一致で きない と予想 され るし、一体化する必要 もない と考 える」 と高橋 も指摘す るように (12‑35頁)、 体操競技 と器械運動では、本来、 めざすべ き目標が異 なってい る。すなわち体操競技では「競技」 とい うことが、器械運動では「達成」 とい うことが問題 に されているのである。 もちろん体操競技 におけるわざの達成 をここで無視す るわけではない。

しか し競技 というレベルでは、わざの達成 その ものは必要条件であつて も、十分条件 にはな り 得ない。 なぜな らある一つのわざに失敗 して も、得点上、競争相手 に勝 てば目的 を達 した とい えるか らである。「失敗 して勝 って も納得がいかない」あるいは「負 けて しまったけれ ど、精一 杯 自分の力 を出 しきれたので満足だ」 とい うこともあるだ ろうが、 この ような主観的評価 は体 操競技 において副次的な もので しかない。競技 とは、本来、客観的 に評価 され るべ きものであ

る。

一方、わざの達成のなかに喜びや楽 しさを見いだす とい う器械運動では、生徒個人 における 主観的な評価 こそ大切である。つ まり教師 は、わざの達成 を客観的に評価す るのではな く、そ の生徒が どのような動機 をもっているのかを前 もって探 り、そこか ら生徒のわざの達成 を評価 す ることが大切 なのである。要す るに、わざの達成 は生徒の動機が満た されたか否か とい う点 で評価 されなければな らない。このように考 えてゆ くと、器械運動では高橋 も主張するように、

体操競技 の技 の体系 とは関係 の ない豊 か な巧技 形式 のわ ざが考 え られ て しか るべ きで あ る (12‑35頁)。 とりわけ初心 ンベルの生徒 に対 して、器械運動 を興味づ ける鍵 はまずそこにある といって も過言ではない。

さらに動機 には、内発的動機、外発的動機があ り、それを考慮す ると器械運動の特性 はわざ の「達成」 を基点 に拡が りを示す。 したがつて本論では、浦井 らのい う「表現的特性」 に加 え て、「競争的特性」も器械運動では考慮すべ き点 を結論 として まとめておきたい。すでに体操競 技 においては、ジュニア トレーニ ングの一環 として、競技法が細部 にわた り検討 されているが、

器械運動 において も、生徒の発達特性 に見合 った競技規則、採点規則 とい うものが考案 されて もよい ように思われ る。

今後 の課題 として、た とえば特定の器械 にこだわ らないユニークな練習法や個人 ではな く団 体で演技 を行 うな どといった実践での事例研究 を通 して、器械運動 の楽 しさをよ り追究 してゆ

きたい。

引用文献

1)金子明友 :体操競技の コーチ ング,大修館書店,1974

2)金子明友 :体操競技<男子編>,講談社,1979

3)木村真知子 :自 然体育 の成立 と展開,不昧堂出版,1989

4)文部省 :小学校指導要領,1989。3.

5)文部省 :小 学校指導書体育編,1989.6.

6)成田十次郎:近代体育の成立 と展開,『体育史講義』(岸野雄三編著),大修館書店,1984

7)西 順一:論 器械運動の考 え方・ 扱い方,『学校体育』,日本体育社,1989.10.

(12)

8)太田昌秀

9)岡  24号,

10)杉  11)高橋健夫 12)高橋健夫 13)宇土正彦 ,1978 14)宇土正彦

1985.5.

15)宇土正彦

学習課題の設定 と楽 しい器械運動の授業,『体育科教育』,大修館書店,1982.11.

器械運動における技の技術認識,静岡大学教育学部研究報告 (教科教育学篇)

1993.3.

論説 心理学か らみた運動の楽 しさの構造,『学校体育』,日本体育社,1994.9。

体育 の指導計画,『体育科教育法講義』(宇土正彦他編著),大修館書店,1992 新要領 における「器械運動」をめ ぐる問題,『学校体育』,日本体育社,1989。10.

体育科教育の目標 と内容,『体育科教育法』(松田岩男・宇土正彦著),大修館書

器械運動 の学習 を深 めるための基本的 な考 え方,『学校体育』,日本体育社,

体育授業五十年,大修館書店,1993

16)浦井孝夫・ 長谷川悦示 :小学校学習指導要領にみる「器械運動の特性」についての検討,

『スポーツ教育学研究』 日本スポーツ教育学会,1994.6.

17)渡辺二郎 :競技的体操技術の胎動期 (1871〜 1929),『 スポーツの技術史』(岸野雄三・多和 健雄編著),大修館書店,1972

18)吉 茂 :器械運動,『体育科教育』大修館書店,1987.6.

参照

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