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﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかん   

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(1)

﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかん   

する学説の発展の歴史から﹂  

− ヴェ・イ・レーニンの∧四月  

テーゼ∨トー1  

法学博士候補 グエ・エヌ・ストルニコフ   

﹁ソヴヱト国家と法﹂誌一九五九年第四号   

所載  

B●H●CづpyH責RO出⁚  

⁚⁝三・=て≡二−S⁝⁝∵ご童二三≒∵ニー⁝言≡=き  

骨pMe竜誓胃管巳コ習莞づ名臣増P ︵︑︑Aコ葛きC琶e  

諾嵩C匹︑︑B.芦ヨe彗吊豊  

中 村 質 二 郎訳  

ソ同盟共産党はたえずマルクス・レーニン主義慧弼の山そう  

の発展に大きな注意をはらってきたし現在もはらってい  

る︒世界史的意粛をもつ岬逢の理論的諸命題でもってマルク   資 料   第三十三巻ふ竺号   ︵劇〇八︶ 仙〇八  

ス・レーニン主義をゆたかにした最近の二つの党大会は︑︑この  

面で特紅大きな東献をした︒   

現状では資本主義社会の社会主義社会への葦余的変串の平和  

的発展は若干の国では現存の議会制を利用して行いうる可能性  

がのぞかれてはいないという結論は︑第二〇回党大会で詳細  

に検討・作成されその後モスクワ共産党・労働者政党代表者会  

議の平和のよびかけと宣言のなか鱒あらわれた諸命題のうちで  

も重要な意味をもっている︒このことはマルクス・レーニン主  

義政党に指導されるその国の労働者階級が広汎な勤労者大衆を  

自己のまわりに結集し︑議会内で大多数をしめ︑議会をブルジ  

ョア民主主義の機関から哀の人民代表の機関︑人民権力の機関  

に転化させる場合に可能となるたろう︒このような議会は︑大  

衆の革命運動のうえにたっことによって︑反動諸勢力の抵抗  

を抑圧し︑社会の社会主義的改造を行うことができる︒民主主  

義的・議会主義的共和制駕MO舞p胃嶺完C舛p由Ⅰ︼四竹臼PMeヲ  

塁p岩出peC書取白票Pはプロレタリアートの独裁の国家型  

態になることができる︒   

この結論は全くプロレタリア革命の発展の合法則性︑プロレ  

タリアートの独裁およびその国家諸型態にかんするマルクス一・  

レーニン主義の学説にもとづくものである︒ヴエ・イ・レーニ  

ンの︵四月テーゼ︶は︑この学説の発展のなかで重要な地位を  

しめている︒国際的革命遊動とりわけロジャの革命連動の経験  

を劇般化したヴエ・イ・レーニンのテーゼは︑プロレタリアー   

(2)

寸の独裁にかんするマルクス主義的学説の発展に偉大な貢献を  

した︒テーゼの創造的・革命的性賂は︑ヴェ・イ・レユ;に  

よるプロレタリアートの独裁の国家型態紅かんする問題の解決  

のなかにもっとも力強くあらわれている︒ヴェ・イ・レーニン  

にょるプロレタリアートの独裁の国家型態としてのソヴュトの  

発見は︑ロシアの社会主義帯食の運命と国際的社会主義運動の 

発展に大きな影響力をあたえた新し小命題にょってマルクス主  

義をゆたかにすることになった︒  

×    ×   ×  

周知のように︑︵四月テーゼ︶があらわれた頃のあらゆる国  

のマルキストたちは︑プロレタリアートの独裁の国家型廣乾か  

んする問題を解決するにあたってエンゲルスの論文八九一  

年の社会民主党綱領草案の批判﹂︵エルフルト綱領批判﹂︶のな  

かでなされた指示に指導されていた︒エンゲルスはこの労作の  

なかで次のように番いている︒﹁もしこの世になにかたしかな  

ことがあるとすれば︑それはわが党と労働者階級とがただ民主   主義的共和制慧MO層雲慧eC夢出p眉曳百雇の政治型  

態のもとでのみ支配権をにぎることができるということであ  

る︒この民主主義的共和制はすでにフランス大革命がしめした      ︵  1︶   ようにプロレタリアートの独裁のための樽有の型態でもある︒﹂  

民主主義的共和制がプロレタリアートの独裁に特有な国家型髄  

であるという命題は︑すでに﹁共産党宣言﹂のなかで公式化さ  

れた民主主義の最高の型態としてのプロレタリアートの独裁転  

︵血〇九︶ 劇〇九    ﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかんする学説の発展の歴史から﹂   かんするマルクス主義の山般的な学説︵プロレタリアートを支   配階級にまで高めること︑民主主義を斗いとること︶軒もとづ   くものである︒プロレタリアートの独裁は実践の民主主義的諸   型態を必要とし︑そのような諸型態を創造する︒   

引用されたエンゲルスの命題がソヴェー﹁の文献でどのように  

評価されているかをみると︑エンゲルスの公式が一そう狭く理  

解されていることに注意せざるをえない︒   

ソ同盟科学アカデ︑︑\−法研究所の著作者グループの執筆し  

た国家と法の理論にかんする参考書は︑上記のエンゲルスの結  

論について次のようにのぺている︒﹁このような結論は当時と  

しては議会主義的・民主主義的共和制 コpp臼aMe冒づppロp蝕   驚喜握弓牒eC臣臼peC曇曾賀aがその頃存在していた  

あらゆる国家塑態のうちでもっとも進歩的な社会観放であった  

ということから出てきたのである︒エンゲルスはこの場合︑資  

本の政治的支配を保障する通常のブルジョア共和制を念頭にお  

いでいたのではなく︑彼の考えていたのはくちたブルジョア国  

家の革命的崩壊の結果プロレタリアートが樹立した黄に民主主  

義的な共和制のことである︒﹂ さらにエンゲルスのこの結論の  

運命についてのぺてこの参考書の著者は次のように書いてい  

る︒﹁ロンヤにおける革命運動の経験︑一九〇五年の革命の経  

験および特に一九一七年の二月革命の経験は︑プロレタリアー  

トの独裁の政治型態としての民主主義的・議会主義的共和制に ︵2︶   かんすエンゲルスの命題が古くなったことをしめした﹂  

(3)

第三十三巻 第仙骨  

このようにして︑エンゲルスの﹁民主主儀的共和制﹂という  

一般的な公式にかわって﹁議会主義的・民主主義的共和制﹂紅  

かんする具体的な指示がなされ︑﹁民主主義的・議会主義的共  

和制﹂の命題として具体化された﹁民主主義的共和制﹂にかん  

するエンゲルスの命題は古くなった︑︵四月テーゼ︶以来古く  

さくな︑つてしまったのだと明言している︒  

︵3︶  同様な考え方は一九四九年に発行の国家と法の理論の教科書 ︵1︶︵6︶ 紅も︑仙九五五年の政冶学説史の教科番やその他の一連の労作  

のなかにもあらわれている︒たとえば︑デ・イ・チ詰スノコフ  

は↓ソグヱト社会主義国家﹂という労作のなかで﹁マルクス死  

後のエンゲルスは︑読会制の民主主義的共和国はプロレタリア  

ートの独裁にもっとも適当な型態であり︑その晦殊な型態であ  

るという考えをのぺた﹂と書いている︒さらに︑エンゲルスが  

﹁エルフルト綱領批判﹂やぺ・ラファルグへめ手紙のなかで提  

起した命題をのぺてその著者は次のよう紅結んでいる︒九  

世紀末から二〇世紀初頭のあらゆる国のマルキストたちは︑エ  

ンゲルスのこの教えに指導されて議会主義的共和制がプロレタ  

︵¢︶  

リアートの独裁にもっとも適した型態であると考えつづけた︒﹂  

要するに︑﹁ダニ・イ・レーニンは︑勝利をおさめた一〇月社  

会主義革命まえにはやくもマルクス主義理論にもとづき二つ  

のロレヤ革命の経験を分析することによって︑プロレタリアー  

トの独裁の最良の政治遡態は前転マルキストたちが考えていた  

ような︑また一八九一年にエルフルト綱領批判のなかでエソグ    岬○︶ 叫一〇  

ルヌが確認しセような議会主義的・民主主義的共和制ではな  

︵7︶  

く︑∨ソブザト共和制であるという結論にたっした﹂として︑ヴ  

エ・イ・レーニンがプロレタリアートの独裁の国家型態として  

ソグヱト共和制を発見したとするこの著者の好色づけは︑さき  

に引用した文章と少しもことなるところがない︒   

以上の特徴付けとは若干ことなるが︑原則的には同じ前提に  

もとづくこの間題の解釈がア・イ・デニソフやイ・ぺ・トライ  

エソの労作のなかでされている︒ア・イ・デー仰ソフは彼の国家  

と法の蓮論の敬科窃のなかでヴ云・イ・レーニンとイ・ヴェ・  

スターリンがプロレタリアートの独裁に適した型態としての民  

主主義的共和制にかんするエンゲルスの見解に同意したことを  

みとめたすてあとで︑﹁レーニンはプロレタリアートの独裁の  

国家型態として︑民主主義的共和制の承認から労傲者・農民代  

︵8︶  

議員ソヴヱト共和国の承認へと移ることを提案した﹂とのぺて  

いる︒かくしてエンゲルスの結論は古くさくなり︑ヴェ・イ・  

レーニンの結論と対立することになったと言明している︒  

同様な対立ィ・ぺ・トライニンの次のような文章のなかに  

もみられる︒﹁一九山七年まではあらゆる国のマルキストたち  

は︑民主主義的共和制がプロレタリアートの独裁の唯劇の政治  

型態であると考えた︒山九脚七年になっで別の命題が創造され  

虎︒レー一叶ンによってプロレタリアートの独裁の政治型態とし  

て発見されたソヴヱトは︑プロレタリア革命という新しぃ画期  

的事件のもとで全世界の薄命的マルキストにとってプロレタリ   

(4)

︵9︶  

アートの独裁の唯一の政治塑態となった︒﹂したがって︑ここで  

も民主主義的共和制は︑ソグヱト共和制と対立することになっ  

た︒   

かくして︑′エンゲルスはエルフルト綱領を批判してプロレタ  

リアートの独裁の国家塾態として議会主義的・民主主義的共和  

制を指示したがこの指示は次第に古くなりグェ・イ・レーニン  

は︵四月テーゼ︶のなかでこれに反対したのだとする見解が︑  

一般にとられていると考えられる︒この場合︑上述の労作の著  

者たちがエンゲルスの﹁民主主義的共和制﹂を﹁議会主義的・  

民主主義的共和制﹂あるいはたんに﹁議会主義的共和制﹂とし  

てのぺ︑グエ・イ・レーニンがエンゲルての公式化したマルク  

ス主義の古くなった命題の二つをソヴュト共和制という新しい  

命題に﹁おきかえた﹂とする党史﹁小教程﹂のなかの有名な諸  

︵10︶  

命題にもとづいていたことを注意する必要がある︒   

このような見解は多くの問題を惹起する︒このような問題の  

解明の場合にいつも引用される﹁エルフルト綱領批判﹂やぺ・  

︵11︶  

ラファルグへの有名な手紙のなかで︑エンゲルスは民主主義的  

共和制についてのぺている︒.﹁民主主義的共和制﹂と﹁議会主  

我的﹂民主主義的共和制﹂というこつの公式は同じものではな  

い︒どうしてエンゲルスの結論が民主主義的共和制脚般につい  

ての結論としてではなく︑議会主義的・民主主義的共和制その  

ものにかんするそれとして特徴づけられるのだろうか︒エンゲ  

ルスがプロレタリア民主主義的共和制について語ったのだとす  

﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかんする学説の発展の歴史から﹂   ︵一一こ 山一    れば︑この結論は古くさくなりうるだろうか︒そうだとすれ   ば︑ソヴヱト共和制の要求は民主主義的共和制の要求と対立し   ぅるのだろうか︒︵四月テーゼ︶は﹁よルフルト綱領批判﹂と   対立すること紅なりうるのだろうか︒   

とりわけ︑エンゲルスのプロレタリアートの独裁の国家型嘩  

にかんする見解の以上のような解釈が十分正確だとは思えな  

い︒エンゲルスは﹁エルフルト綱領批判﹂のなかでプロレタリ  

アートの独裁の国家型態にかんする問題をどく一般的な草案と  

してしか解明していない︒彼はプロレタリアートの独裁の何ら  

の具体的な国家型態も指示しないで﹁プロレタリアートの独裁  

はそのための﹃特有な塾態﹄である民主主義的共和制というか  

たちせとってあらわれなければならない﹂という二般的な問題  

の解明にとどまっている︒またぺ・ラファルグへのエンゲルス  

の手紙のなかでも全く同様に﹁プロレタリアートにとって共和  

制が王制から区別されるのほ︑ただそれがプロレタリアートの  

将来の支配にとってできあいの政治塾態であるということによ  

へ12︶  

ってだけである﹂とのぺて問題をただきわめて一般的かつ原則  

的に解明している臆すぎない︒あらたにここで問題になってい  

るのは共和制の何らかの具体的な型態ではなく︑共和制山般︑  

原則としてのプロレタリアートの独裁疫とって﹁できあいの政  

治型儲﹂怒っいてである︒エンゲルスは民主主義的共和制をプ  

ロレタリアートの独裁にもっとも密接に接近する国家型態とし  

て︑またブルジョア社会で発生し﹁できあいの﹂プロレタリア  

(5)

第三十三巻 第二号  

︵1S︶  

−トの独裁の国家型態として考えている︒   

民主主義的共和制がプロレタリアートの独裁の国家型態であ  

るとした土ソグルスのこの劇般的・原則的な指示は︑あらゆる  

国々のマルキストたちの受入れるところとなった︒マルクスが  

民主主義的共和制の具体的型態︑プロレタリアートの独裁の国  

家型態の強力な骨格としてパリ・コソミふーンを指示したこと  

は忘れられてしまった︒エンゲルスの上述の労作でなされた指  

示は︑当時共和制的議会制度が存在していたフランスやアメリ ︵  14︶   カについてなされたものであることによってエンゲルスの公式  

は議会主義的・民主主義的共和制にかんする指示として彼の根  

本的思想と解釈されるようになってしまった︒   

ヴェ●イ●レー二;を光政とするロンヤのポリシェヴィキた  

ちはロンヤにおける革命運動の発展の進路にかんする問題の解  

明にあたって︑ツァール・ロジャのもとでは民主主義的共和制  

を獲得する問題は社会主義を獲得する問題と不可分の関係には  

ありえないで︑プロレタリアートの独裁のための直接の斗争紅  

かんする問題は専制政治の打倒とブルジョア民主主義革命の勝  

利のあとではじめてこの国の勤労者大衆のまえ紅あらわれるの  

だということから出発した︒ヨーロッパの先進諸国ではブルジ  

ョア共和制のための斗争がすでにいくらか意味を失っていたと  

しても︑ロジャではそれはもっとも直接的な実践的意味をもっ  

︵15︶  

ていた︒   

このためロジャ社会民主労働党の結成のときからの党資料は   一二︶ 山一二  

専制政治との斗争と︑政治的自由の獲得の必要性を強調してい  

る︒党は専制政治との斗争が直接の実践的課題であったので︑  

この斗争の具体的な諸目的と民主主義革命の直接的な課題を指  

示しなければならなかった︒ロンヤ社会民主労働党第二回大会  

で当面の課題として採択された党綱領−−痘少限綱領−−のな  

かでは︑﹁ツァール専制政治の打倒とそれの民主主義的共和制  

との交替﹂が指示された︒さらにこの共和制の憲法は﹁二年制 ︵  16︶   議会﹂を規定しなければならなかった︒   

したがって︑それは議会主義的共和制であったし︑最少限綱  

領が問題とするかぎりではそれはブルジョア議会主義的共和制  

であった︒この命題はその後の副連の発資料によって確認され  

た︒たとえば斗争の直接の目標が﹁民主主義的共和制﹂である  

と指示した第三回党大会の決議は︑この目標の達成は﹁プルジ  

︵17﹂  

ヨアジーの支配を強化する﹂と強調した︒ツァーリズムにたい  

する決定的勝利︑民主主義革命の完全な勝利ほ︑プロレタリア  

ートと農民の革命的・民主主義的独裁︵社会主義的独裁ではな  

くて民主主義的独裁︶軋みちびかなければならないと山九〇五  

年に指示して︑ヴェ・イ・レーニンはこの変革の過程で生れた  

臨時革命政府が最少限綱領の要求を遂行しなければならないこ  

とを指摘した︒したがって︑民主主義的共和制はプロレタリア  

ートと農民の革命的・民主主義的独裁の国家型態としても考え  

︵18︶  

られるよう軋なった︒ヴェ・イ・レーニンはこのような共和制  

の特赦付けをたとえば﹁三つの憲法または国家組織の一こつの制   

(6)

︵19︶  

度﹂というパンフレットのなかでしている︒   

国家構造の分野における革命運動の窮梅目標の問題は︑当時  

まだ劃般に解附されていなかった︒それほどく一般的・原則的  

な型でしか解明されていなかった︒ロジャのマルキストたちは  

エンゲルスの指示紅みらびかれて︑プロレタリア﹂トの独裁は  

民主主義的共和制の型において勝利すると考えた︒一国でのプ  

ロレタリア革命とプロレタリアートの独裁の勝利の可能性にか  

んする結論として︑ダニ・イ・レーニンはエンゲルスの結論と  

完全に一致して次のように古いた︒﹁プロレタリアートがプル  

汐ヨアジ−をれ倒して勝利を獲得するばあいの社会の政治型儲  

︵20︶  

は︑民主主義的共和制であろう﹂  

×    ×   ×  

二月のブルジョア民主主義革命はツァーの専制政治を打倒し  

てプロレタリアートの独裁の直接の斗争のための進路をきりひ  

らいた︒革命の過程で発生した労働者・兵士代議員ソヴニナト  

は︑この斗争を水質的に容易忙した︒だがソヴュトの指導艇は 

メソジュダイキや社会革命党員が握っていた︒彼らはプル汐ヨ  

ア共和制の粧得だけにとどまることが必要と考え︑大衆をプロ  

レタリアートの独裁の斗争紅ひき入れることをほっせず︑これ  

にもとづいてソプチトをプル汐ヨア臨時政府の附加物に転化さ  

せようと′つとめた︒このことは革命運動の発展をいちぢるしく  

困難にした︒二月革命後にでぎた二重政権という複雑な状況の  

もとでは︑勤労者大衆と党組織はプロレタリアートの独裁のた  

︵一一三︶ 山一三    ﹁プロレタリアートの独裁の国家型顔面かんする学説の発展の歴史から﹂   めの斗争を当面の問題とするブルジョア民主主義革命で発見さ   れた革命進展の展望図を明確に自ら呈示することができなかっ   た︒覚組織は党の最少限綱領に目標をおくことをし続けた︒こ   の綱領の′スローガン︑なかでも民主主義的共和制のスロガーン   は広く人民大衆に支持された︒  

一/九一七年三月五日︵仙八日︶発行の ﹁プラウダ﹂紙上に  

は︑もう﹁金口ジャ市民に告ぐ﹂というロジャ社会民主労働常  

の茎一己が発表されていた︒同宣言は党の最少限綱領の要請に合  

致する要求の実現のために臨時革命政府をつくることを労働者  

および革命的兵士によびかけたものである︒同宣言は﹁民主主 ︵  21︶   義的共和制万才†⊥というアピールで結んでいる︒民主主義  

的共和制のスローガンは︑同じ﹁プラウダ﹂紙上のその他の論  

︵22︶ 文でも宣言された︒民主主義的共和制の要求は︑ヴ工・イ・レ  

ーニンがぺテルブルグに到着するまでのその後のあらゆる﹁プ  

︵28︶  

ラクダ﹂緻上にも密透している︒同紙は民主主義的共和制の要  

求を支持したぺテルプルグの無数の集会・会議転ついて報道し  

︵24︶  

て一いる︒この要求はモスクワの勤労者大衆にも広く支持され  

︵25︶  

た︒全ロジャの勤労者大衆・見離織も民主主義的共和制に賛成  

︵26︶ した︒   

しかし︑この共和制の具体的な型態については色々と提議さ  

れた︒たとえば︑﹁プラウダ﹂紙上に発表された﹁社会民主党  

昌は何を知らなければならないか﹂という論文は︑民主主義的  

共和制窓法は民主主義的自由と山院制の立法議会への立法権の  

(7)

第三十三巻第﹂骨  

︵汐︶  

移譲を保障しなけれはならぬとのべた︒﹁労働者階級と共和  

制﹂という他の論文では︑民主主義的共和制は大統領制的共和  

︵鉢︶  

制であると考えちれている︒モスクワ・クルスク・ニ汐エノヴ  

ゴロドおよびムロムスク鉄道車輌課のモスクワ地区労働者・勤  

務員の集会は︑院制の民主主義的共和制がプロレタリアー  

トの利益にもっとも合致する統治塾細心であると認める﹂と決定   

︵叫こ  

した︒   

ソヴュトへの権力移譲の要求もまたヴェ・イ・レー一㌦ンのn  

ジャ到着以前からすでに出ていたことを注意することが重要で  

︵30︶  

ある︒この要求は労働者・兵士の集会やポリシェヴィキ中央委  

︵鋸︶  

員全軍務局の決議﹁臨時政府について﹂や﹁プラウダ﹂紙上に  

︵鍋︶ 発表虹なったイ・グェ・スターリソの論文のなかで出されてい  

た︒イ・ダニ・スターリソはソヴヱトへの権力の移譲は﹁ロン  

ヤ人民の基本的な諸要求の実現を保証し﹂とりわけ民主主義的  

︵仰山︶  

共和制の要求を保証するとかいた︒   

しかし︑グェ・イ・レーー脚ンがロジャに到着するまえ︑すなわ  

ち彼の︵四月テーゼ︶まえのソプヱトへの権力移譲の要求は︑  

社会主義革命への移行のための斗争と結びついていなかった︒  

これらの要求は︑ロジャにおいてはブルジョア民主主義霹命は  

まだ完成していない︑それは憲法制定会議の召集・民主主義的  

共和制の創設および最少限綱領のその他の要求の完遂どにはじ  

めて完成されるであろうという考えと仙緒紅なっていた︒ロン  

ヤにおけるブルジョア民主主義革命の特質と完成化にかんする   ︵∵一四︶ 二四   

また革命の欝二段階すなわらこの考えを発展させるための社会  

主義革命への移行の必要捧ぬかんするヴエ・イ・レーニンの指  

示が必要になった︒   

このようにして︑民主主義的共和制のメローガンは革命を完  

遂したもっとも広沢な大衆のスローガンとなった︒こういった  

事情はブルジョア政党︵立憲民主党・社会革命党・メソンェブ  

ィキ︶ の態度に革命的な良衆を重視せざるをえなくし︑その要  

求を素犀く取上げて革命の劃そうの発展を許さず︑その獲得物  

を切り取り制限しようとつとめるようなあとをのこしえないで  

はおかなかった︒   

二月革命前紅すでに立憲君主制と﹁責任内閣制﹂の創設の立  

場をとる立窓民主党のなかに︑﹁民主主義的共和制﹂ ﹁ヨーロ  

ッパ的議会主義﹂に傾とうし︑国会のなかから﹁蕃授かつ唯劇  

︵34︶  

の立法機関﹂を創設しょうとつとめる﹁左翼﹂があらわれた用  

二月革命後はすべての党が事件の論理によって共和制の立場に  

移らざるをえなかった︒二丸山七年三月一五日︵二八日︶付の  

﹁プラクダ﹂紙上に報道されたように︑立憲民主覚中央委員会  

は党を﹁共和党﹂と命名すると決定した︒   

労働者・兵士代議員ぺトログラード・ソヴュトを高唱するメ  

ソンェゲィキと社会革命党は︑民主主義的共和制のスローガン  

を支持しはしたが︑大衆の進むぺき方向を失わせ︑革命をブル  

ジョア議会主義的共和制の創設という課題にとどめようとつと  

めた︒︑劇九山七年三月劇五日 ︵二八日︶何の ﹁全世界の人民   

(8)

こ というぺトログラトド・ソグまトのアピールは︑.﹁すでに  

今やロンヤにおいて民主主義的共和制が勝利することな確信を  

︵鎚︶  

もって予言することができる﹂と高唱した︒統治塾儲を最終的      ︵錮  ︶   紅決定することは憲法制定会議に予定されていた︒   

労働者代議員モスクワ・ソヴヱトも同じ立場をとった︒その  

給金は血九山七年三月二日︵二九日︶にはやくも意法制定会談  

の選挙を行うぺきであるという条件付で臨時政府を支持すると  

︵87︶ 

のべた︒モスクワでは事態はコロコロリニコフ一派を先頭とし  

たメソンェ.ヴィキ・グループ一般が九〇五年の誤ちをくり  

かえさない﹂そしてソヴュトを組織しないと提案するまでにな  

︵鍾︶ っていた︒メソン息ヴィキと社会革命党の立場は︑ヴ工・イ・  

レーニンがぺトログラードに到着した日に終った第叫回金口.ジ  

ャ労働者・兵士代議員ソグヱト会議でも勝利した︒スタタロフ  

は臨時政府にかんする報告のなかで革命を完遂したロジャ人民  

は﹁民主主義的共和制をそのための唯岬の統治型態とみとめる﹂  

︵39︶  

と確言した︒同会議は決議のなかで臨時政府の支持をよびかけ  

︵40︶ 

た︒   

ポリシェヴィキ党のなかの日和見分子たちもまた臨時政府せ  

支持するメソンェブィキや社会革命党の立場に同調す私ことを  

表明した・︒則九回七年三月岬四日︵三七日︶︑すなわち全ロシ  

ヤ・ソヴュト会議召集の前日に﹁プラウダ﹂紙上にカーメネフ  

の﹁臨時政府と革命的社会民主主義﹂という論文が発表され︑  

そのなかで労働者・兵士代議員ソヴよトは臨時政府を支持しな  

︵一脚五︶一一五    ﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかんする学説の発展の歴史から﹂   ければならないと確言した︒血九岬七年三月劇八日︵一三日︶   のぺトログラード委員会の会議での報告のなかで︑カーメネフ   は臨時政府に宣戦をしないでそれにたいしては﹁別の立場﹂を   とる必要があることをのぺ︑ブルジョア民主主義革命の課題の   解決だけにとどまって社会主義革命への移行のためには斗わな   いことを呼びかけた︒彼は質問を発して次のように云ってい   る︒﹁われわれはプロレタリアートの独裁を創造するまでに成  熟しているだろうか?︒いや︑それを達成することは重要ではな   い︒それを阻止することが重要なのだ︒この瞬間がきている︒   んかしそれを延期するはうがわれわれに有利なのだ︒現在われ   われの力はまだ十分ではない﹂︒カーメネフはあらゆる手段を   つくして﹁急に権力をにぎることができない﹂ことを説得しょ  

︵41︶  

うとこころみた︒   

以上のことはすべてヴご・イ・レーニンがぺトログラードに  

復帰する前日︑彼が︵四月テーゼ︶を発表する前日にロジャで  

は民主主義的共和制のスローガンがほとんど普遍的な要求に  

までになっていたことを証明するものである︒しかし︑色々  

な社会諸勢力がこのスローガンを自己流に瑠解し︑それに色々  

とことなった内容を注ぎこんだ︒一般の民主主義的諸要求の  

うちからプロレタリアートの階級的要求を正確に公式化し︑選  

別することが必要になった︒そしてこのことはロジャにおける  

革命の訣題のメソン云グィキ的︑エス・エル的理解の粉砕と革  

命運動の将来の発展臥課題の正しい明確化の結果はじめて可能  

(9)

第三十三巻 第二官  

紀なったのである︒そしてこのことをプチ・イ・レーニンがそ  

の︵四月テーゼ︶のなかでしたのである︒  

×    ×   ×  

グェ・イ・レーー仰ンほ革命紅おける党と勤労者大衆の課題を  

公式化するにあたって︑ブルジョア民主主義革命を社会主義革  

命に進展させるための斗争の必要性から出発した︒ブルジョア  

民主主義非命を社会主義董命に進展させるマルクス・レーニン  

主我理論が︑人四月テーゼ︶の理論的基礎になった︒︑ヴェ・イ  

●レーニンほ︵四月テーゼ︶の基本命題の作成をロジャ到着以  

前からすでにほじめていた︒ヴェ・イ・レーニンほ二月革命に  

かんするニュースを受取った時に書いたテーゼのスケッチのな  

かで︑臨時政府ほロジャ人民に平和・パンおよび完全な自由を  

あたえることができない︑プロレタリアートの課題は﹁民主主  

義的共和制と社会主義の獲得のための斗争をつづけること﹂で  

︵吸︶ あると指示した︒民主主義的共和制のための斗いほ︑かくして  

すでに社会主義のための斗争とむすぴつく︒革命の過程におけ  

るソヴュトの成立ほ社会主義革命へのまっすぐな道を切りひら  

いた労働者階級と慶民の革命的民主主義的独裁の樹立をもたら  

したので︑グェ・イ・レーニンほソグエトを組織化し︑労働者  

︵娼︶  

を武装化する必要を強調した︒   

こういった思想ほ﹁遠方からの手紙﹂のなかで一そう発展し  

た︒ダニ・イ・レー一−ソほ第一信のなかで帝国主義戦争ほロジ  

ャの発展の速度をほやめたので二月革命の結果 ﹁〃議会〃政   ︵一一六︶一二ハ  

治﹂を採用して﹁たちまちのうちに﹂西欧諸国においつくまで  

︵44︶  

になった︑とかいた︒第二信でほ︑レーニンほプロレタリアー  

トは彼らに平和・パン・自由を保障する﹁共和制を要求してい  

る﹂と指示し︑そしてこれをなしうるのは﹁農村労働者および  

農民や都会人の貧民層にょって支持されるプロレタリア共和  

プロレタリア国家ほブルジョア民主主義的共和制と直接対比さ  

ブルジョアジーがいたるところでつくりだしているようなそう  

バ亜︶  

制﹂だけであるとした︒そして最後に第三信でほ︑すでにこの    せられる︒プロレタリアートとその党にほ革命権力が必要であ   り︑為る脚定の過渡期においてほそれにほ国家が必要であると   強調して次のようにグェ・イ・レーニンは書いている︒﹁われ   われにほ国家が必要である︑しかしわれわれに必要な国家は︑   立憲君主制からもっとも民主主義的な共和制にいたるまでの︑   

︑︑︵46︶  ︑︐  

いぅ国家でほない︒﹂   

ヴ工・イ・レーニンほ︵四月テーゼ︶のなかで︑ブルジョア  

民主主義革命を社会主義革命に発展させる理論にもとづいて︑  

ブルジョア議会主義的共和制を要求することほわが国における  

新しい歴史的状況︑階級諸勢力の新しい相互関係にすでに適合  

しなくなっているとのぺている︒このような状況下ですでに感  

得したブルジョア民主主義的共和制のための斗争︑すなわち議  

会主義的共和制のための斗争にとどまっていることほ︑ブルジ  

ョア民主主義革命を社会主義革命に発展させる斗争の拒否をい  

みした︒議会重義的共和制を要求することほ︑すでに革命を発展   

(10)

させる要求ではなくてそれをもとに引もどすこと︑﹁一歩後退﹂  

を要求することであった︒革命は新しいより高次の政治型態へ  

前進しなければならなかった︒革命の発展ほもっとも革命的な  

大衆の創造した組織︑すなわち労働者・兵士および愚民代議員  

ソヴチトに権力を移譲することを要求した︒そしてヴェ・イ・  

レーー∵ンは︑この要求とほ﹁議会主義的共和制でなくで﹁−1労  

働者代議員ソグエトからこれにもどることは劇歩後退になるだ  

ろう−国中の上から下まで 

議員ソグエト共和国﹂であるとして提起した︒   

グ羊・イ・レーニンほ︑そのどの労作のなかで克はこの偲状  

下でほ最少限綱領の要求にとどまることはできないとのべた︒  

彼ほ﹁プロレタリア政党はブルジョア議会主義的・良主主義的  

へ48︶  

共和制紅とどまることはできない﹂とかいた︒この度史的状況  

のもとでロジャのブルジョア㌻−ほ議会主義的共和制のスロー  

ガンを革命運動を制限し︑萎縮させる︑ために利用した︒ヴェ・  

イ・レーニンは次のはぅにかいている︒﹁資本家にいま必要な  

のほ共和制である︒なぜならそうでなければ人民を海制御でき  

ない﹄からである︒しかし彼ら紅必要なのほ﹃議会主義的﹄共  

和制である︒すなわち︑必要なのほ民主主義が民主主義的選挙  

にとどまることであり︑マルクスの的確なきわめて正tい評言   ヽヽヽヽヽ   紅よれば︑人民を代表し︑ふみにじる人物を議会へおくりこむ  

︵49︶ 権利紅とどまることである﹂︒この同じ思想を強調してヴェ・イ  

・レーニンは一九一七年四月一〇日︵二三日︶のイズマイロフ連  

︵二七︶一叫七    ﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかんする学説の発展の歴史から﹂   隊の集会における兵士たらへの演説のなかで︑ソヴュトを庖接   さして十われわれほ︑別のもっと人民の利益にかなった︑もっ  

︵50︶  

と民主主義的な共和制をのぞんでいる﹂と声明した︒   

したがって︑議会主議的共和制の要求を拒否することは︑民  

主主義的共和制の要求一般の拒否をいみするものではなかっ  

た︒議会主義的共和制のスローガンに反対するヴェ・イ・レー  

ニンほしんに民主主義的な共和制のために斗う必要性を主張し  

て次のようぬかいた︒﹁人民に必要なのほ住民の意向によって  

いつなんどきでも解任できる選挙された官吏より外の官吏を知  

らない︑はんとうに民主主義的な労働者・農民共和国である︒労   ヽヽヽヽヽ   働者・農民ほみな⁚⁝・このような共和制をめざして斗わねばな  

︵51︶  

らない︒﹂正紅このような労働者と農民の民主主義的共和制−・  

ソグエト共和制1﹂1をグェ・イ・レーニンは︵四月テーゼ︶の  

なかでプロレタリアートの独裁の可能かっそのような状況下に  

もっとも適した国家型態であり︑民主主義的・社会主義的共和  

制の具体的型態であるとして指摘した︒かくして ︵四月テー  

ゼ︶ほ既存の状況のもとで党と大衆に正しい目標をあたえるこ  

とを目的としていた︒ヴエ・イ・レーニンは革命を一そう発展  

させるための斗争の必要性を強調して︑この斗争のl∃標ほソグ  

ェト共和制であると指摘した︒   

メソシェヴィキや日和見主義者たちほヴェ・イ・レーニンの  

テーゼの﹁根拠背鰭性﹂を証明しょうとこころみ︑彼の提起し  

た思想が大衆のなかに普及することを容認しょうとほしなかっ  

(11)

第三十三巻 第劇号  

た︒三月二二日︵四月四日︶にほ︑ほやくもグェ・イ・レー一−  

ンが自分のテーゼを発衷したポリシェヴィキとメソジュゲィキ  

︵金口㌢ヤ労働者・兵士代議員ソヴュト会議の参加者の︶の合  

同会議の席上︑メソジェダイキの嶺尊者であるダン︑チヘイ  

ゼ︑ツエレテリたちは権力をソグエト軋移すことに反対し︑ブ  

ルジョア議会主義的共和制を強化することに賛成する意見をの   

へ父︶  

ぺた︒前中央委員会員のゴルデソベルク︵メソンェブイキ︶ほ  

︵粥︶  

グェ・イ・レーニンをアナキストだと非雉した︒ゲ・グエ・プ  

レハーノフはグェ・イ・レーニンの演説は﹁うわごと﹂だと称  

した︒カーメネフは中央委員会ロジャ事務局の会議で︑グ£・  

イ・レーニンがテーゼを説明するさいにソヴュトをパリ・コソ  

ミューンと類推したこと紅抗議してグェ・↓・レユ;のテー  

ゼに反対した一連の論文を発発した︒   

西欧の日和見主儀者の中心人物のカクッキー︑バクアー︑ア  

ドラーはプチ・イ・レーニンの反対者たち濫思想的支持をあた  

えた︒カクッキーは山九山七年四月に発表した﹁ロンヤ革命の  

展望について﹂と題する論文のなかで︑ロンヤ紅ほ社会主義革  

命を実現する前提条件が少ししかない︒したがって十般的な民  

主主義的改革を実現することが基本的課題である︑ソプチトは  

国家権力機関たりえないと確言した︒バクアーは﹁ロジャ革命  

とヨーロッパのプロレタリアート﹂と超するパンフレットのな  

かで︑ノロンヤ革命は社会主義革命ではないと指摘して︑ブルジ  

ョア共和制の創造だけがロジャ払おける革命の成果たりうると   ︵一一八︶一一八  

率直に表明した︒   

日和見主義者たちのあらゆる努力にもかかわらず︑︵四月テ  

ーゼ︶の思想は広く党および大衆の支持するところとなった︒  

日和見主義者たちは︑ぺトログラード・モスクワおよびその他  

︵糾︶  

のポリレ︑ェダイキの色々な会議や第七回︵四月の︶金口ジャ党  

代表着金議の席上で抵抗をこころみた︒四月の会議でカーメネ  

そルイコフその他のものほメソンェヴィキに追従して︑ロン  

ヤではまだブルジョア民主主義革命が終?ていない︑わが国の  

社会主義革命は成熟していない︑したがって党ほプル汐ヨア議  

会主義的共和制の組成を方針とし︑このためにほ鹿力を臨時政  

府にのこし︑彼らにたいしては﹁監督﹂のみにとどまるぺきで      ︵56︶   あるとくりかえしのぺた︒   

グェ・イ・レーニンは︑カーメネフその他の日和見主義的見  

解をばくろして︑その理論的根拠の薄弱なことを立証し︑党の  

綱領をかえて︑党ほ議会主義的ブルジョア民主主義的共和制の  

要求にとどまることはできないで︑より民主主義的なプロレタ  

リアートと農民の共和国︑ソヴエード共和国のため紅斗わねばな  

らぬという命題をそれに加えるべきであると提案した︒党は日  

和見主義者に徹底的に偲抗した︒会議はヴェ・イ・レーニンを  

支持し︑﹁ブルジョア議会主義的共和制でほなく︑プロレタヅ  

アートと農民の民主主義的共和制︵すなわち︑警察・馬偏軍・  

特権官僚のいない国家型態︶を要求する考えで国家にかんする  

命題や項目﹂に修正をはどこす方向に蒐の綱領を改正する必要   

(12)

へ粥︶  

があるとみとめた︒  

党と人民ほ︑グェ・イ・レーニンに従って社会主義革命の迫  

を︑ソヴュト権力の確立の迫をあゆんだ︒  

×    ×   ×  

グェ・イ・レーニンほ︵四月テーゼ︶のなかで︑ロジャにお  

けるプロレタツアー†の独裁のための斗争の具体的条件虹たい  

するマルクス主義理論の創造的な適用のあざやかな手本をあた  

えた︒プロレタリアートの独裁の国家型態にかんするマルクス  

主義理論ほ新しいより高度の段階で理解され︑プロレタリアー  

トの独裁の国家型態としてのソグエl卜共和国にかんする新しい  

理論的な結論でもって豊かになった︒ヴェ・イ・レーニンの結  

論はわが国の革命の運命紅大きな実践的意味を洩っていた︒  

プロレタリア・・・−ト・の独裁の国家型髄定かんするマルクス主義  

理論の発展ほ︑メンシュダイキや日和見主義者とのはげしい斗  

争のなかで行われた︒グエ・イ・レーニンはロンヤにおける革  

命の課題のメソンェダイキ的・日和見的解釈を排斥すること匿  

よって︑プルギヨア民主主義革命から社会主義革命への移行の  

もとでの議会主義的共和制のスローガンの不完全性を証明し  

た︒︵四月テーゼ︶のなかでソヴヱト社会主義共和制ほブルジ  

ョア議会主義的共和制と対比された︒したがって︑﹁議会主義  

的共和制でほなくてソグヱト共和制﹂のテーゼの公式を二つの  

部分にわけて考察しなけれほならない︒   

① ヴェ・イ・レーニンは︑ブルジョア議会主義的共和制の  

﹁プロレタリアートの独裁の国家型憩にかんする学説の発展の歴史から﹂   ○¶九︶ 二九    要求は当時の状況軋適合しないとして拒否した︒このような事   情はグエ・イ・レーニン自身によって次のよう紅強調された︒   ﹁憲法判定会議召集の要求をかかげながらも︑革命的社会民主   主義派はソヴュト共和制が憲法制定会議をもつ普通のブルジョ   ア共和制よりも民主主義のいっそう甘同塵な型憩であるというこ  

︵57︶  

とを一九仙七年の革命の当初からいちどならず強調してきた﹂  

ヴェ・イ・レー一㌦ンは︵四月テーゼ︶について﹁プロレタリア  

革命と背教者カクッキー﹂のなかで直接﹁なぜなら周知のよう  

に︑ロンヤについたその日に︑すなわち山九一七年四月四日に  

私はテーゼを公表してそのなかでブルジョア議会主義的共和制  

にたいするコンミューソ型の国家の優越件をのぺたからであ  

る﹂とのぺた︒グエ・イ・レーニンはさらに彼がこのことにつ  

いて出版物のなかでたびたび声明してきたこと︑四月の代表者  

会議はその決議で党綱領紅当該の修正をする必要性を確認した       ︵鍋︶  

ことを指摘している︒この部分の﹁議会主義的共和制ではな  

く︑ソヴュト共和制﹂という公式は︑﹁エルフルト綱領批判﹂  

︵59︶  

のなかのエンゲルスの結論を﹁取りかえる﹂ものではない︒ヴ  

ェ・イ・レーニンは自分の結論をエンゲルスの指示と対立させ  

てはいない︒   

④ ダニ・イ・レーニンは︑プロレタリア的︵社会主義的︶  

民主主義的共和制のあたらしい型態を発見した︒彼はソヴュト  

共和制の要求を提起することによってプロレタリアートの独裁  

の国家迅態紅かんするマルクヌの学説を発展ざせ︑プロレタリ  

(13)

第三十三巻 第仙骨  

アートの独裁のあたらしいソヴヱト的型態を指示した︒この部  

分ではグェ・イ・レーニンはエンゲルスの一般的.公式のなか紅  

入れられていた具体的内容︵﹁民主主義的共和制﹂︶を﹁取りか  

えた﹂︑しかしそれはエンゲルスの教示そのものやプロタリア  

ートの国家性の一般的型態としての民主主義的共和制のマルク  

ス主義的要求そのものをとりかえたのでほない︒﹁ソヴュト共  

和制﹂と﹁民主主義的共和制﹂とを対立させるのは根拠のない  

ことである︒ソグヱト共和制は最高の型の民主主義の実現型態  

であり︑プロレタリア民主主義の画家型態であるの紅︑ヴェ・  

イ・レーー〝ンのテーゼにおいてブルジョア的な.﹁議会主義的共  

和制﹂・とプロレタリア的な﹁民主主義的共和制﹂とをすりかえ  

ることは決してみとめられない政治的忙は誤った﹁ソヴュト共  

和制﹂と﹁民主主義的共和制﹂の対立をもたらしうるのみであ  

る︒   

エンゲルスの結論の﹁陳腐性﹂をみとめることも同じように  

根拠のないことである︒プロレタリアートの独裁ほ真の民主主  

義のもとでのみ実現でき︑うまく機能をはたすことができる︒  

民主主義的共和制はプロレタリアートが勝利をしめ︑自己の独  

裁を確立する劇般的な政治型態である︒民主主義的なプロレタ  

リア的︵社会主義的︶共和制の具体的型態ほ︑それぞれの国の  

歴史的条件︑発展の時期︑階級勢力の相互関係その他に依存す  

る︒   

このような民主主凝的共和制の史上最初の型態がパリ・コン   ︵山二〇︶一二〇  

ミューンであった︒ソヴヱト共和制はレーニンが発見した民主  

主義的プロレタリア共和制の新しい型態の活動嘩をあざやかに  

証明した︒第二次大戦後︑人民民主主義共和国という新しい型  

態があらわれたが︑そのわく内では色々な人民民主主義諸国に  

存在する若干の相違点を指摘できる︒人規社会の山そうの発展  

と社会主義の勝はこった前進がプロレタリアートの独裁の新し  

い国家型態︑民主主義的共和制の新しい塾態を創造することは  

まぬがれえない︒特にソ同盟共産党二〇回大会でなされた結論  

から明らかなように︑民主主義的・議会主義的共和制もまたプ  

ロレタリアートの独裁の国家型態であることはまぬがれない︒   

プロレタリアートの独裁の国家型態が民主主義的共和制の塑  

態であり︑民主主義の型態であり︑まだ民主主義的共和制はソ  

ヴチト共和制と対立しうるものではないという事情ほ︑国際的  

な修正主義がデモクラシーの最高型態としてのプロレタリアー  

トの独裁にかんするマルクス主義的学説を非難しょうとこころ  

み︑ソグエト国家が真の民主主義国家ではないことを﹁実証し  

ょぅ﹂とつとめている現在の状況下では特に考慮することが重  

要である︒プロレタリアートの独裁が民主主義と独裁の統一で  

あることを否定しようとして修正主義者たちは︑ソグヱト共和  

制を民主主義的共和制と︑社会主義国家体制全体を社会主義的  

民主主義と敵対させ︑後者を最後の最後までブルジョア民主主  

義に帰せしめようとつとめている︒   

たとえば︑ユーゴスラグィアの修正主義者たちの意見のなか   

(14)

では︑しばしば社会主義的民主主義の発展は社会主義国家の発  

展と対立されている︒このような対立をみとめることにょって  

修正主義者たちは社会主義国家の発展はまた社会主義的民主  

︵60︶  

主義の発展でもあるというレーニン主義のおしえを無視する︒  

ユーゴスラグィア共産主義者同盟の綱領は︑社会主義のもとで  

は国家と民主主義とが両立しがたいというテーゼにもとづい  

て︑社会主義国家は本来労働者階級の政治組織であり︑礼金の  

政治組織であるのに︑社会的統治と国家統治とを対立させてい  

る︒   

これ紅ついてはユーゴスラグィアの法律家イ・ジョルジュヴ  

ィチの労作﹁ユーゴスラグィア連邦人民共和国の地方冒治﹂  

﹁ユーゴスラグィア慮法﹂も引合いにだすことができる︒彼は  

そのなかで社会主義国家を﹁絶対国家・絶対主義国家にかんす  

るヘーゲルのごく初期の理論の再生﹂であるとのぺてその裏虹  

民主主義的嘩格を否定しょうとこころみ︑かつまたユーゴスラ  

グィアの社会主義国家体制を民主主義に﹁変形﹂する考えを提  

起している︒この場合︑一九四六年憲法に重要な改正をした二  

九五三年のユーゴスラグィア﹁憲法﹂紅おいて︑ユーゴスラヴ  

ィアは社会主義的・民主主義的共和国であるとはっきり宣言し  

た事情にユーゴの修正主義者たちが少しも動揺していないとい  

うことは意味深重である︒同意換巌二条は︑﹁ユーゴスラグィ  

ア連邦人民共和国は主権者であり中等な権利をもつ人民の社会  

︵机︶  

主義的・民主主義的同盟国家である﹂と規定している︒だが︑  

﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかんする学説の発展の歴史から﹂   二一︶ ニー一    この憲法の規定は少しも現状に合致していない︒現在のユーゴ   スラグィアを社会主義的民主主義というのはむつかしい︒しか   しそれはユーゴーの国家体制があたかも本当に民主主義的なも   プ︶払おきかえ︑人民民主主義的型態の社会政治細抽をブルジ   のであるのにたいして︑ソヴェトや人民民主主義国家体制を   ﹁独裁的﹂ ﹁暴君的﹂なものとして両者を対比させようとする   きわめて明確な目的凌追求するものである︒   

社会主義的国家体制と社会主義的民主主義とを対立さ畠るこ  

とは︑公然とプロレタリアー・・−ト・の独裁を否定し︑それからの  

﹁自由化﹂ を要求し︑それを ﹁普遍的民主主義﹂や ﹁連立政  

権﹂ ︵ハンガリーのイムレ・ナジャゲゼ・ロンヨンチのグルー   

ョア議会主義︵中共の右翼分子︶などにおきかえることにな  

る︒   

わが国の共産主義建設の実践や人民民主主議諸国の社会主義  

建設の実践は︑修正主義者たちの﹁理論﹂構成をかしゃくなく  

粉砕し︑ノダユト共和国や人民民主重義共和国が頁に民主主義  

的な国家体制の型憩であることを切々と実証している︒社会主  

義国家ほ社会主義および共産主線種設の成功紅つれて強化さ  

れ︑その組織の民主主義的型態は発展している︒エス・エヌ・  

フルソテオフがソ同盟共産党第二劇回大会の報告のなかで指摘  

したように︑﹁民主主義の世界的進展が社会主義国家体制の発  

︵醇︶  

展の主要な傾向となっている︒﹂   

︵1︶ マル・エソ全集 第劇六巻 滞二分冊 劇九三六年︑  

(15)

第三十三巻 第一号  

一〇九頁︒邦訳 大月畜店刊 ﹁マル・エソ選集﹂  

第一七巻 三八六 − 二−八七頁︒  

︵2︶ ﹁国家と法の理論﹂国立法律図沓出版所︑モスクワ︑  

仙九五五年︑山九四頁・劇九五菜︒  

︵3︶ ﹁国家と法の理論﹂国立法律図番出版所︑モスクワ︑  

一九四九年︑二四二 − 二四三頁参照︒  

︵4︶ ﹁政治学説史﹂国立法凶事出版所︑モスクワ︑岬九五  

五年︑五九〇頁︑六四六頁参照︒  

︵5︶ 例えば︑ダニ・ア・トレッキー著﹁カール・マルクス  

とエフ・エンゲルスの国家観の発展﹂ソ同盟科学アカ  

デ︑︑︑−︑モスクワ・レニングラード︑山九四九年︑九  

九頁︒エフ・ヴェ・コソスタンチノフ編集﹁史的唯物  

論﹂第二版︑国立政治図沓出版所︑モスクワ︑仙九五  

四年︑二一三 − 二一四貫その他参照︒  

︵6︶ デ・イ・チェスノコフ著﹁ソヴュト社会主義国家﹂国  

立政治盟裔出版所︑劇九五二年︑三五貢︒  

︵7︶ 同じく九〇頁︒  

︵8︶ ア・イニデモソフ著﹁国家と法の理論﹂ 法律図沓出  

版所︑モスクワ︑劇九四八年︑三〇六頁︒  

︵9︶ イ・トライエソ﹁パリ・コン︑︑︑ユーンの国家様式と型   

態にかんするマルクス主義の古典学者たち﹂雑誌︵ソ  

グエト国家と法︶一九四山年欝三号︑二七 − 二八頁︒  

︵10︶ ﹁ソ同盟共産党︵ポリシェダイキ︶史︑小教程﹂ 一  

・ ̄ヽ  【ヽ   ̄ ̄ヽ   ̄\  

20191817  

\一  \.ノ  \_.  \一  

︵二一二︶ 山二二  

七七頁︑三四〇 − 三四一説参照︒ 日本語版﹁小教  

程﹂一九五〇年︑三〇〇頁︒  

︵11︶ ﹁マルクス・エンゲルス沓簡選集﹂国立政治図書出版  

所︑仰九五三年︑四七五−1由七六頁参照︒  

︵12︶ 同じく四七五頁︒ 邦訳︑六月苔店刊﹁マル・エソ遇  

集﹂第一七巻 二四二彗  

︵13︶ ﹁レー一㌦ン全集﹂第二五巻︑四山七斑参服︒  

︵14︶ ノ﹁マル・エソ全集﹂第二ハ巻︑第二分冊︑山〇八百︒  

﹁審問集﹂四七五頁参照︒  

︵15︶ ﹁レーニン全集﹂ 軍九巻 六八貢︒第血三巻︑四三  

五頁参照︒  

︵16︶ ﹁ソ同盟共産党大会・代表者会議・中央委員会総会決  

′議・決定集﹂第一分冊︑肇七版︑国立政治図書出版所  

一九五四年︑四〇貢参照︒  

同じく七七頁︑七八頁参照︒  

﹁レーニン全集﹂第九巻︑四〇貫︑六三富参照︒  

同じく第八巻︑五二三頁参照︒  

同じく第二㌻巻︑三一篭 グェ・イ・レーニンのこ  

の命題について︑イ・グー・スターリンは﹁民主主義  

的共和制を語る場合︑レーニンはブルジョア共和制を  

考えていたのではなくて︑披が考慮していたのは︑社  

会主義的共和制であったことは明瞭である﹂と強調し  

ている︒︵イ・ヴェ・スターリン全集 第九巻 二   

(16)

三頁︶︒  

︵21︶ 同じ日にポリレェブィキ・ぺトログラード委員会の会  

議がひらかれた︒同委員会に提出されたあらゆる決議  

の草集︵中央委員会の代表のそれをふくめて︶は良少  

限綱領を要求し︑民主主義的共和制嘉二般的に要求す  

る以上のものではなかった︒﹁最初の合法的なポリシ  

ェヴィキ・ぺトログラード委員会と執行委員会の議事  

録﹂雑誌︵プロレタリア革命︶ 山九二七年 二−三号  

一三一一四1三三六頁参照︶︒  

︵22︶ たとえば︑﹁旧秩序は崩壊せり﹂ ﹁社会民主党員は何  

をしるべきか﹂その他︒  

︵23︶ たとえば︑﹁プラウダ﹂編集部の労紛者および兵士代  

議員への挨拶︑エム・オリミンスキーの論説﹁共和制  

か君主制か﹂ ﹁革命の戦術﹂ ﹁労働者階級と共和制﹂  

その他︵劇九叫七年三月七日 ︵二〇臼︶︑八日︵一二  

日︶︑九日︵二日︶寓よび二一日︵二四日︶付の﹁プ  

ラクタ︶参照︒  

︵24︶一九山七年三月七日︵二〇日︶︑一五日︵二八日︶付  

の﹁プラウダ﹂その他︒  

︵25︶ ﹁モスクワの一九一七年﹂ モスクワ一九三四年  

二五貫︑二八支︑二九頂︑三﹂賞﹂三二H参照︒  

︵26︶ モスクワで催されたポーランドおよぴリトワニヤ社会  

民主党員の集会は民主主義的共和制の要求を提出し  

︵一二三︶ 劇二三    ﹁プロレタリアートの独裁の国家型態にかんする学説の発展の歴史から﹂   た︒︵山九一七年三月一一日︵二四日︶何の﹁プラウ   ダ﹂参照︶︒ヤロステクルでのポリレェブィキの代表   者会議︵エス・イ・ゴプネル﹁山九〟七年の三月と四   月﹂雑誌∧歴史の諸聞題∨山九五七年 第三号 四四   貰参照︶グリシングホルスでは﹁全駐留軍が民主主義   的共和制の捜得を誓った﹂ ︵﹁労働者・兵士代議員ぺ   トログラード︒ソグェト︒執行委員会の会議および同   委員会事務局の議事録﹂国立図書出版所 モスクワ・   レー㌦ングラード 肘九二五年 五七頁︶そのはか︒  

︵27︶ 仙九仙七年三月五目︵一八日︶付の﹁プラウダ﹂参蝿  

︵28︶一九仙七年三月山一日 ︵二四日︶付の﹁プラウダ﹂参  

照︒  

︵29︶ ﹁モスクワの軸九⁝七年﹂三五首参猟︒  

︵30︶一九血七年三月五日︵叫八日︶付の﹁社会民主党邑﹂  

︵ポリシェブィキ・モスクワ委員会の機関紙︶︒脚九  

一七年三月九日︵二二日︶付の﹁プラウダ﹂参照︒  

︵31︶一九一七年三月二六日 ︵四月八日︶何の﹁プラウダ﹂  

参照︒  

︵32︶ イ・ヴェ・スターリン全集 第三巻 二1!三頁︑劇  

二−−⊥五責参照︒  

︵33︶ 同じく 三京参照︒  

︵34︶ ﹁二月革命前夜のブルジョア汐−﹂ 国立図書山版訪  

モスクワ㌧レニングラード  一九二七年 〟七六i  

参照

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