「関東」の研究序説
元木 靖
【要旨】
関東地方
(「関東」と略称)
は,今日,日本の中で名実ともに中核的な地域を形 成している.小稿は「関東」の地域的性格の理解を深めるための準備作業として 行うものであるが,具体的には二つの異なった観点から問題整理をすることにあ る.一つは「関東」という地理的単位に対して,いつごろから関心が持たれるよ うになってきたのかをふりかえり,とくに近代以降今日に至る「関東」に関する 諸知識がどのような手法で整理されてきたのか,その意義がどのような点にある かを考えてみること,もう一つは今日のような「関東」の発展をもたらした遠因 について,「関東」が立脚する自然の枠組みと人間活動の関係を世界の中に位置づ
けてみることである.前者についてはこれまでの地域理解に中心的な役割を果た してきた,地理学(地誌)
の教育と研究の成果(書籍)
における記述法の検討,後 者については関東の自然の枠組みと共通性がある長江デルタと地中海世界をとり あげ,互いの文明発展と自然環境との関係について比較を試みることである.【キーワード】
「関東」,地理的知識,盆地の構造,地中海世界,長江デルタ
1. はじめに
日本
(列島)
は大きく西南日本と東北日本に区分できる.関東地方(以下「関
東」)は,この二つの日本が接する位置にあり,西南日本からみるとその東の端,東北日本からみると北に向かう起点にあたる,おおよそ北緯
35
度,東経139
度の経緯線が東京付近を通過している.日本海と太平洋に挟まれた関東山地をはじ め周りの山地や丘陵地が侵蝕され,そこから運ばれた堆積物が太平洋側の海面上 に現れたのが関東平野で,日本で最大の平野をつくっている.川端康成の小説『雪 国』の冒頭にある「トンネルをすぎると雪国だった」は,日本海側の風土をとら えた文学的表現としてよく知られているが,冬の関東平野の気候
(晴天)
が生ずる 理由をじつにうまく説明している.日本の歴史時代を通して,つい
150
年ほど前まで日本の社会を導いてきたのは 関西を中心とした西日本であった.ところが,いまは東日本,とくに「関東」に は日本の総人口のおおよそ3
分の1
が集まり,経済や文化の中心的な位置を占め,一時期は「世界の心臓」1 とも言われた.しかし,近年では中国にとって代わられ てきているが,日本において「関東の時代」ともいうべき時は続いており,今年 はアジアではじめて,
2
回目の東京オリンピックが予定されている.「関東」
とは一体どのような地域(世界)
なのか.「関東」に関する研究や一般の
出版物はすでに枚挙にいとまがないほど多い.小稿の目的は「関東」の地域的性 格について再検討するための準備作業として,二つの異なった観点からの問題整 理をすることにある.一つは関東」という地理的単位に対して,いつごろから関 心が持たれるようになってきたのか,とくに近代以降今日に至る「関東」に関す る諸知識がどのような手法で整理され系統化されてきたのかを概観し,その意義 がどのような点にあるかを考えてみること,もう一つは今日のような「関東」の1 長谷川慶太郎は,このことについて次のように説明している.
「関東平野を抜きにしては世界経済は正常に機能できない.また発展できない」 (長谷川 1989 : 310 )「関東平野は,この集積の効果を発揮するうえで,絶好の条件をそなえて
いる.乗用車なら一日で往復できる距離に,すべての機能が集中しているうえ,かなり の水深と面積をもつ東京湾という有力港湾があり,大部分が標高40 〜 50 m以下の平野,
しかも大量の工業用水があるという自然の条件に加え,この
30
年間,ほとんど大洪水 も大地震もない.何よりも大きいのは,情報,その具体化としての人材の集中がもたらす効果である.
……関東平野はますます巨大な経済力を集積させる方向に進む.まだ関東平野には,か
なり余積,空間が存在する.この余積がある限り,関東平野への経済力の集中はさらに 進むに違いない」(同上: 307 ).
発展をもたらした遠因について,
「関東」
が立脚する自然の枠組みと人間活動の関 係を世界の中に位置づけてみることである.前者についてはこれまでの地域理解 に中心的な役割を果たしてきた,地理学(地誌)
の教育と研究の成果である代表的 な書籍における記述法の検討,後者については関東の自然の枠組みと共通性があ る長江デルタと地中海世界をとりあげ,互いの文明発展と自然条件との関係につ いて比較を試みることである.2.
「関東」に関する政治思想と地理的知識
2‒1. 「関東」―名称と領域―
今日,私たちが使っている関東地方
(以下,「関東」と略称)
という言葉は,本 来は日本の国家成立以来の位置をしめす用語である.古代国家がその帝都防衛の ためにおいた三つの関所,すなわち鈴鹿(伊勢国)・不破 (美濃国)・愛発 (越前
国/後に廃止され近江国に逢坂関が設けられた)より東の世界の意であった.古 代国家は,いわゆる五畿七道の体制をしき統治をすすめてきたが,9
世紀末頃に 東海道に設けた足柄坂(峠) (旧駿河国と旧相模国の境)
と東山道に設けた碓氷坂(峠) (旧信濃国と上野国の境)
の関所から東の八か国,すなわち関八州(相模・武
蔵・安房・上総・下総・常陸および上野・下野)の領域)が,今日の関東の領域と なった2.
また,関八州内の旧国名は江戸時代
(幕藩体制下)
にも慣用され,明治4
年( 1871 )
の廃藩置県まで使われてきた.廃藩置県の根本精神は在来の藩の廃止と統2
『常陸国風土記』にも以下の記述がある.
「国・郡の旧事について尋ねたところ,古老の答えていうには,昔は,相模の国の足
柄の坂から東にある県はすべて我姫のくにと総称されていた.しかし,当時は常陸とは いわず,ただ新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の国と呼び,それぞれ 造・別を派
遣して撿挍させていた.その後,難波の長柄の豊前の大宮に天の下をお治めになられた 天皇(孝徳天皇)
の時代になって,高 向 臣・中 臣 幡 織 田 連達を派遣して,足柄の坂か ら東にある国ぐにを統治させた.この時,我姫のくにを八つの国に分けたが,常陸の国 はそのうちの一つであった」(秋本訳注2001 : 14–15 ,下線は筆者).
廃合にあったので,領主を藩知事に任命する形で進められ藩を主とした政治的領 域の傾向が強かった
(織田他編 1962 : 152
藤岡筆).行政単位はまもなく1
道3
府43
県に集約されたが,当初は3
府72
県と数が多かった.ちなみに,明治21
年4
月1
日には県のもとに市町村制が敷かれ,さらに昭和18
年に東京府は東京 都となり,今日の都道府県体制が確立した.関東地方の1
都6
県(東京,千葉,
埼玉,群馬,栃木,茨城)の領域が成立したのである.
渡辺光は,このことについて,日本がようやく新興国家としての地歩を固めて からは,道府県の地位も確立したので「県はあまりにも小さく分けすぎて数も多 く,ちょうど大化以後に道を設定したのと同様の趣旨で,近接の比較的類似の性 格をもつ県をまとめた地方として慣用することにした」.「学校教育の面では明治
38
年( 1905 )
の国定教科書の発足で決定的となった」という(渡辺 1973 : 1–124 ).
じっさい「関東」の場合,後述するように,周囲を山地と海で囲まれ一つの地 理的単位としてのまとまりを有しているので
(図 1
参照),旧来の関八州内の諸県 をまとめて「関東地方」と読みかえても一見なんら矛盾がない.しかし,このよ うな地方区分が地域性全国にわたり認識が重視して決められたのかというとそう ではない.たとえば,「関東」以外の全国の地方区分のしかたと比べてみると,多
分に中央(国都)
からみたときの位置的区分であり,細長い日本を輪切りにしたよ うに東北から西南へと分けてある(渡辺 1973 : 26 )
3.
要するに,維新後の全国の地方区分は,実際の地理的特性に基づいて設定され たものではなかった.渡辺自身,「結局は大体において昔の道の復元であるのは,
自然環境の基盤の上に,歴史的の背景や文化的の動機によって一度到達した地域 的の性格なるものが,いかに根強いものであるかを物語るものである」との説明 に止めている4
(渡辺 1973 : 26–27 ).
3 たとえば,関東と似たような地理的内実を有するところは近畿のみで,他の地方は九 州,四国,中国地方は域内に何れも中央部は山地をはさんでいる.その典型は東北地方 で中央部に大きな脊梁山地をはさんでいる,大きく異なった日本海側と太平洋側の地域 が一つの地方として設定されている.北海道に至っては広大で多様な地理的世界が一括 されている.
4 ちなみに,県の下部機構として置かれた郡役所についても大化の改新の郡をある程度整
2‒2. 政治思想と地域に関する知識
地域に関する私たちの知識は、 古来学問の母といわれてきた地理
(地誌)
の思想 に基づいて,人びとに涵養されてきた.もちろん,実際には古来の風土記に代表 されるような記録や、 政治行政上の必要から実施されてきた調査資料,あるいは 学問の発達過程で積み重ねられてきた諸事実に依拠している.地図や写真をはじ めとした情報技術の発達によって得られた知識はもちろん,新聞をはじめとした ジャーナリズムによる報道や個々人の旅行などを通じてえられた知識も加わって いる.ところで,古代の風土記は,政治思想的には統治領域の地誌をつくる,中国古 来の思想をまねたものであり,統治者の側からみた地理であった5
.王政復古―政
令帰一というかたちでスタートした明治維新政府が企画した『皇国地誌』の編纂 事業も,風土記の場合と同様,統治者の側からの必要に基づくものであった.明 治政府は1872
年(明治 5 )
年9
月,太政官布告によって府県に地理係を置き,同 地誌の企画を立てている.だが,各府県から提出された村誌や郡誌の刊行は一部 のみで,未完成に終わった(藤岡編 1985 : 6 ).石田龍次郎によれば,その理由は
当時の編纂事業推進の政治力の不足,(記述内容が)
歴史的記述に堕していたこと,かつ国家統計事業の発達により行政上の価値の減少,それに編輯計画上の欠陥,
等にあった.しかし,石田自身も言っているように,未完成のままになった理由 のかなりの部分は,近代地理学の未発達,あるいは地理に対する認識の不十分さ に基づくものであった
(石田 1984 : 269 ).
2‒3. 「関東」を対象とした地理的知識の形成
「関東」
という広域の地域を対象とした地理的知識は,近代に入って直ちに整備理統合したものであった.この郡制は大正
12
年に廃止されたが,地域識別の名称とし ては依然として残っている.5 和銅
6
年( 713 )
元明天皇の詔には,諸国郡郷を,好字をもって命名し,郡内所生の銀 銅彩色草木禽獣魚虫等をしるし,土地の沃瘠,山川原野の名号の由来,また古老相伝の 旧聞異事を言上することであった.『常陸風土記』(前掲2 ,まえがき)
にその例を見る ことができる.されるようになったのではない.前述したように,『皇国地誌』の編纂は中止と なったが,広い意味での知識を涵養するための地理教育には大きな期待が寄せら れていた.たとえば,その具体的な例として,手もとにある二冊の教科書,柴山 啓一郎編『新撰 茨城縣地誌略』含英堂書房
(明治 27
年)や,小西幸四朗編『茨 城縣地理教科書』教育書房(明治 32
年)の編纂の趣旨をみてみよう.前書は文部省検定済みで,
「文部省令教則大綱に原き,小学生徒に郷土の地理を
授くる教科用書として編集」され,「地図研究に且記憶に便ならしめんが為に,各
郡市皆摘記を附す」とある.内容は常陸国の水戸市,東茨城郡の順に(以下,省
略),それぞれ境界,道路,原野,川沼,神社,町村,物産の説明が続く.後者の『茨城縣地理教科書』では,その凡例に「本書は学校近傍町村郡地誌を 口述せる後授くる」ためのものであって,
「自然地理と政事地理の配合に注意し其
の文章は山川の配合物産都鄙交通の模様などを明瞭に表出」することを目標と定 めている.内容は第1
章本県の大勢及山脈,第2
章気候,第3
章原野及山岳の模 様,第4
章河湖及その灌漑,第5
章海岸,第6
章各市郡自然の境界及び各役所,第
7
章都鄙及交通,第8
章生産及物産,第9
章神社及仏閣,第10
章沿革となっ ている.次に,大正時代の地理教育に関する資料としては,文部省の『尋常小学地理書 巻一
(大正 7
年),巻二(大正 8
年),巻三(大正 9
年)』がある.『尋常小学地理 書』には,関東地方,奥羽地方,中部地方,近畿地方,中国地方,四国地方,九 州地方から,北海道地方,樺太地方,台湾地方,朝鮮地方,関東州……等,海外 の地域も含まれている.当時の日本の海外進出・戦争により拡大した地域も含め ているが,国の内外に対する地理的視野を国民に啓蒙しようとする国家意思がに じみ出ている6.
『尋常小学地理書』
をみると,日本の各地方はすべて(一)
区域,(二)
地勢,(三)
6 また小川琢治による『女子地理新教科書』は,日本之部と外国之部の二冊が出版されて いる.外国之部
( 1928 )
の緒言には,「……小區域に於ては,必ずしもこの方法に拘泥 してゐない.」,「地理の學習は何も戦時に限って必要であるといふばかりではなく,地 理的識見を高め,国土愛護の念を涵養する上に,常に大きな役割をもつ」とあって,人々に広い視野の獲得を教育していく方針が読み取れる.
産業,
(四)
交通,(五)
都鄙の順序に組織立てられていて地理的知識を手落ちなく 与えることを主眼としている(保柳 : 1956 ). 「関東」の項は次のように登場する.
その巻一は総論にあたる大日本帝国
( 1–6
頁)の次に,関東地方( 6–26
頁)の項目 が当てられている.その区域の項に「東京府と神奈川・千葉・埼玉・群馬・栃木・
茨城の六県の区域を関東地方といふ」と定義され,以下,地勢・気候
( 3
頁),産 業( 4
頁),交通( 4
頁),都鄙( 5
頁),伊豆七島・小笠原諸島( 1
頁)の順に記述し ている.この地理書には写真や図版が挿入され,地理的知識という点では広い視 野から,新しい動きにも留意している.今日の関東の理解にも通ずる内容で,水 準が高いものとなっている.ただ,当時の地誌の内容は,各地方の概況あるいはシンボリックな特徴の記載 に終始しており,第
2
次世界大戦後に作成される地誌とは異なるものであった.ヨーロッパではルネ・クロジェが「決定的段階に突入するのは
19
世紀,そのと き地理学は記述から地域限定された諸事実の「理解」へと研究分野を移すことに より,その完全な意義を獲得する(野田訳 1970 : 13 )」と言っているが,日本で
はそのようなかたちで地域理解がすすむのは20
世紀後半以降のことであった.2‒4. 地理的知識の系統化と「関東」―第 2 次世界大戦後―
第
2
次世界大戦後になって,いわゆる「地方」を単位とした本格的な日本地誌 書が,二回発行されている.一回目は,青野壽郎・尾留川正平責任編集による日 本地誌研究所編纂『日本地誌』(全 21
巻,二宮書店),二回目は山本正三他編『日 本の地誌』(全11
巻,朝倉書店)である.この両シリーズは、 戦後における日本の社会変化と地理学研究の成果を反映し た本格的な地誌である.ここでは,両書に記述された具体的な知識の紹介ではな く,その枠組みとなった整理の手法を見ておこう.まず「日本地誌」(
1967 〜 80
年刊行)はちょうど高度成長期に出版されたものであるが,全国を北海道・東北・関東・北陸・中央高地・東海・近畿・中国四国・九州・南西諸島の
10
地方に区ちなみに,世界は大きく動きつゝ移り行くことが予想されるなかで,第
2
次世界大 戦中にも同様の観点にたって,文部省『中等地理1 』 『中等地理 2 』 『中等地理 3 』 (中等
学校教科書株式会社( 1943 )
が出版されている.分しており,既述した『尋常小学地理書』とほぼ同様の扱いとなっている.
関東地方については,第
1
巻で[日本総論]
がおかれ,その第5
巻「関東地方 総論 茨城県・栃木県』として扱われている.最初に総論( I
位置・領域II
歴史 的背景III
自然IV
産業V
社会・文化)がおかれ,つぎに県レベルの地誌が 説明されている.その内容を再び茨城県の例によってみると,最初に県総説( I
地 理的性格II
歴史的背景III
自然IV
人文V
地域区分)がおかれ,つぎに地 域誌( I
水戸II
日立III
霞ヶ浦鹿島IV
筑波西)が記述されている.県内の地 理的知識は特徴に応じたトピックを中心に,詳細に記述されている.つぎに『日本の地誌』
( 2005–2012 )
の場合は,第1
巻日本総論I (自然編)
と第2
巻日本総論II (人文社会編)
のあと,全国を北海道・東北・首都圏I・首都圏II ・中部圏・近畿圈・四国中国・九州沖繩の 8
地方に区分し,「関東」については
首都圏I・II (山梨が加わる)
として扱われている.内容は『日本の地理 首都圏II 』よってみると, I.
首都圏の中心部の領域と地域的特徴,II.
首都圏の地域性( 1.
地理的性格2.
歴史的背景3.
自然環境4.
住民と生活5.
空間の組織化6.
資源と産業7.
都市問題)、III .首都圏の地域誌 ( A.
東京都( 1.
東京都の性 格2.
地域誌)B.
神奈川県( 1.
県の性格2.
地域誌)……(以下略)となって いる.以上を要するに,こうした形で地誌のための地域区分は少しずつ変更され,記 述内容は,戦後の膨大な地理学研究の成果を吸収する形で編集され,県レベルお よび地方レベルの特徴が詳しく記述されている.ただし,いずれの場合も,地方 の境界は都道府県界をもってあてている
(沢田編 2007 : 3–4 ).日本の地誌の単行
本も様々に工夫され出版されてきたが,その枠組みの基本は,総論に次いで県レ ベル,さらに下位の地誌(小地域誌)
の順に記載されている.2‒5. 戦後の地誌書が果たした役割と若干の課題
地誌は地域に関する知識の総合的な記述という点で,他の個別科学と大きく異 なる.この点に表現上あるいは記述上の特徴がある.わが国では明治初期に国家 の統治のため『皇国地誌』の編纂が企画され,その後科学的見地から編纂された 山崎直方・佐藤傳蔵編『大日本地誌』(全
10
巻,博文館,1903–15 )
がある.この地誌書は近代化の道をあゆみ始めた日本各地の様子を静的に記載し,各種の資 料を収集した百科事典的な要素をもったものであった
(岩本他編 1984 : 5 ).
この書が百科事典的であったとする評価は,地誌が抱える根本問題であって,
その解決がたいへん難しかったことを物語っている.これに対して,前述した戦 後の地誌には,その前提として留意すべき課題が次のように指摘されている.
「日
本地誌」の場合,地域区分をいかに行うか,動的地誌の記述法,および等質地域 と結節地域との考え方をいかに総合して記述するかという問題(青野壽郎・尾留
川正平)が.また『日本の地誌』の場合も,「雑多な事象の並列的で事項相互に結
びつきのない百科辞書的傾向をさけるために,「記述事項を総合的に関連づける」こと.
「自然現象と人文現象,人文諸現象の相互関係を地域システムとの関連から
総合的に考察」すること,「自然現象と人文現象も時間軸と空間軸の両者から考 察」すること,さらに人文現象については「じゅうらい経済的側面が強調されて いたのに対し「社会的・文化的側面も重視」することの必要性が指摘されている(山本正三『「日本の地誌」刊行のことば』)
いま,
『日本地誌』の中における「関東」についてみると,以上のような配慮の
もとに,可能な限りの知識の系統化がはかられていることが分かる.一定の基準 にもとづいて関東全体の総記から、 各県内の地域誌,さらに特徴的な項目立てを 加味して,地域の細部にわたる現状の地理的知識が系統化され,地域が変化する 問題についても具体的な記述が加えられている.この意義は地域の現状に対する 客観的な知識を提供していることと,地域の将来の可能性を考えるための総合的 な基礎資料として価値が大きく,他の分野ではなしえないことであろう7.
7 たとえば,空間スケールを異にする地域相互のつながりについての理解,および今日の ように人間活動が広域化しているなかで人間と自然との間,地域と地域の間にもバラン スのとれた経営のあり方を考える上にも有益な参考資料としての価値がある.いっぽう 諸地域の知識が科学的に示されてきたことによって,行政を広域化すればするほど地方 自治の精神は希薄化するおそれがあること
(谷岡 1970 )
に対しては,どのような地域の あり方が望ましいのかを考察するためにも貴重な判断材料を提供している.歴史家の児 玉幸多が「一地方を単位とした地域の歴史」について,「日本全体として考えるときに は,捨て去られるであろう問題点を十分に考えることができ……また市町村というよう な小単位地域では取り上げられない,いくつかの問題点」(児玉 ・ 伊藤 1978 :
序)につ以上のようにして整備されてきた地誌の記述に関して,地域認識上の問題が全 く解消されたかといえば,そうではない.百科事典的記載という根本問題は解消 されていないと思われるからである.
わが国で最新の科学的地誌として刊行された『日本の地誌』には,従来の地方 ごとの地域区分を首都圏として見直し,その枠組みに沿って現状の知識
(研究成
果)を系統づける工夫がみられる.しかしこれによって問題を克服したことにな るであろうか.たとえば,『日本の地誌』における「関東」のとらえ方は首都圏I ,首都圏 II
に2
分し,他方「関東」以外のいくつかの県を加え編集されている.しかし以前の『日本地誌』と比較しても「関東」のまとまりとの関連は分りにく くなり,地域理解に混乱を招いているように思われる.
あえて私見を言うならば,
「関東」の枠組みを残したままむしろ関東全体として
の議論が展開されるような,いわば「動的地誌」のスタイルがもう少し強調され てもよいのではあるまいか8.そこから変化するダイナミズムを見いだせるような
仕組みである.谷岡武雄が指摘するように,「世界は一直線には発展しない.未来
は常にバラ色ではない.あらゆる計画が,あらゆる政策が,人間の幸福を第一と しなければならない」(谷岡1970 : 372 ).その意味では,「都市圏」といった今
日の経済的側面を重視し,空間的枠組みを変更することでは,地誌としての役割 を十分に果たし得ないのではないか.また視点を少しかえて言えば,東アジアで いち早く近代化を遂げた「関東」の意義を明らかにするための国際比較の手法も,地誌の要件として考えねばならないように思われる.
いても①地域の様子が大所高所から客観的に理解できるようになったことは大きな意義 を認めることができよう.
8 かつて,ギリシャ・ローマ時代に活躍した地誌学者のストラボンは,その前提として
「人の住む世界」の全体地理を知ることの重要性を語っているが (飯尾 1994 : 673 ),そ
のことは今日でも地誌に期待される重要な要件と考えられるからである.3. 文明史の視点からみた
「関東」 ―
地中海世界と長江デルタとの比較―3‒1. 比較の視点
本章では「関東」を巨視的な観点から海外の二つ地域,すなわち中国の長江下 流のデルタの世界と地中海世界を比較することによって,
「関東」
のあゆみ方の特 徴と背景を検討づけてみよう.この3
者は地域の空間スケールや周囲の自然環境 を大きく異にしている.また世界の歴史においてそれぞれ異なった時代に先進的 な文明を築いてきている.地中海世界は19
世紀までの文明の繁栄したところで あり,「関東」を含む日本は 20
世紀にアジアでいち早く近代文明を築いてきたと ころであり,そして長江デルタの世界は現在まさに世界に新しい風を引き起こし ている現代中国の核心地域である.ところで,これら
3
地域は,地球上の北半球の中において中緯度から高緯度に 近代文明を生みだしてきた欧米とは異なり中緯度に位置していること,および中 心部の低地(海域)
が周囲を比較的高い地形でとりかこまれた,いわば盆地(状)
の世界を構成していることである.しかも中心部の平野
(とくに低地)
の存在が文 明の盛衰に大きく影響してきたのである.世界の平野は北半球の場合北ヨーッパ や北アメリカをはじめいわゆる構造平野と環太平洋やアルプス造山帯に卓越する 堆積(沖積)
平野に二分される.そしてここで対象とする各地域の平野は地形学的 にはいずれも山地の付属物であって,土地を人間の活動の舞台としてみるという 価値観から評価した場合には,ちょうど逆の関係が成立する世界であることに注 目したい.3‒2. 3 地域の自然の枠組み
関東盆地の世界 図
1
は,山地の浸食を無視して描かれた「関東」と周囲の地 形面図(切峰面図)
である.かつて司馬遼太郎は日本を「谷」の国といい,米山俊 直は「小盆地宇宙」と呼んだが,「関東」はその典型的な世界である.すなわち「関東」中央部の低地は日本最大の広がりをもつ関東平野からなる.
また地質学的 には中央部が沈降する(たとえば,堀口 1974 ).その意味でも「関東」は日本で
図 1 関東とその周辺地域の接峰面図
[貝塚他 2000
より.岡山,1988
の図に地名を加えた]は最も広大な盆地世界とみることができ,今日ではこの平野部が人間生活の中心 地域となっている.
この平野の成因はほとんど堆積平野であって,山地からの出口にあたる山麓に は扇状地をひろげ,中央部には洪水による沖積作用を促してきた利根川や荒川等 に代表される河川が東京湾や太平洋に注いでいる.改めて図
1
に注目すると,「関
東」はいわゆる盆地として西側・北側の山地には高度2000
メートルを超える火 山があり,中央部に日本最大の関東平野をかかえ,しかも平野の地形の特徴とし て,低地より台地の占める面積が広いことを指摘することができる(図 2 ).
長江デルタの世界 中国の長江下流域の江蘇省,浙江省,上海市にまたがるデ ルタ地域
(以下, 「長江デルタ」と略称)
は,太湖を中心とした東シナ海(東),天
図 2 関東平野の標高別段彩図
(但し,白黒表示.筆者作成)
(黒色 :
山地・丘陵,灰色:
低地,白色:
台地)目山と茅山
(西),銭湯江 (南),長江 (北)
の範囲である.長江デルタの世界は四 周が高く中央部が低い,いわば盆地状の世界である.その形は模式的に図3
のよ うに示すことができる.長江デル夕の中心部にあたる太湖地域(および湖沼地域
の大部分)には後氷期の海進時にはほぼ現海面に近づいた約6,000
年頃であろう と推定されている.いっぽう,長江による土砂の堆積にともない海側に砂質堆積 物が付加的に堆積し,現在の上海市域の大部分をのせる沖積地が形成されている.そして,長江デルタは西部には海抜
10–30 m
以上の丘陵地区,北部はやや低い平 原区( 5–7 m),南部 (嘉興平原)
の杭州湾一帯は4–5 m,東部は裏西崗身地帯
( 4–5 m)
と浦東の海積平原とつづく.これに対して中央部の湖沼の分布地城は,海抜
4–5 m以下の低湿地となっている.
地中海世界 地中海世界の陸地部は,関東の盆地世界や長江デルタ世界と対照 的に,冬雨夏乾燥という気候環境下にある.またブローデルにしたがって言えば,
地中海はイタリア,バルカン半島,小アジア,北アフリカ,イベリア半島といっ た,山が多いが重要な平野のある,密度の濃い一連の半島群からなっている.海
図 3 長江デルタの地形環境の模式
(元木 2013 :
図3–6 )
はこうしたミニチュアの大陸の間に,複雑な,しかも細分化された数々の広大な 空間
(平野)
を差しはさんでいるが,平野には,重要な問題が指摘されてきた.そ の第1
は洪水の問題である.山の多い地域は,水の流れる地域である.そして冬,すなわち雨の降る季節の間,平野の宿命は洪水に見舞われ,
「今日,
ポルトガルか らレバノンまで,危険な水害に脅かされていない地中海の平野はない」.第2
の問 題として,水は,夏には浅瀬や川床の危険な湿気を保つ.この湿気から恐ろしい マラリア熱,つまり暑い季節の間,平野を襲う厄病神が生じる(浜名訳 2004 : 99 ).
ちなみに,文明史研究者の伊東俊太郎によれば,地中海世界は,
「北側にギリシ
ア→ローマ→ビザンチン→ヨーロッパというインドーヨーロッパ系の文化があり,他方,南側や東側にエジプト→フェニキア→シリア→アラビアといったハム・セ ム系の文化がある.」つまり本来この二つの系統の文化が,気候,風土を同じくす る一つの場̶すなわち地中海という場において相互に渉り合い,影響し合いな がら発展してきた二元的な複合的世界,複数の文明の関連し合う文明交流圏であ る9
.
3‒3. 3 地域の文明発展への道
以上のような,
3
地域の文明発展と平野の役割との関係について,最初に古代 文明の先進地である地中海世界の動向について学び,つぎに,今日の急速に近代 化が進む中国の核心地としての長江デルタについて述べ,最後に日本における「関 東」の近代化の順に,それぞれの土地自然の環境を前提として地域文明の盛衰の 理由について,概観してみよう.その際盆地世界がその中央部に抱える「平野」が果たしてきた食糧の生産と供給の役割を再認識する立場から比較論をこころみ たい.名著『地中海』を執筆したブローデルは地理学の陶酔を受けた研究者であ
9 地中海世界とは,単にギリシア世界とかローマ世界というものではなく,またヨーロッ パ世界の一部というのでもない.ギリシア世界の前にも地中海世界はあったし,ローマ 世界の後にも地中海世界はある.またそれがヨーロッパ世界の一部だったのは,その歴 史的全期間のほんのわずかの間である.そもそも地中海世界はこのような歴史上の特定 の一時代のものではない.それは悠久の古代から現代にいたるまで脈々と続いている.
……一つの歴史的交流の場である.
るが,従来地中海世界について示された地域発展あるいは文明について語られた ことを,根底から見直して『地中海』をまとめている.乾燥気候に対応した植生 景観や農業の特色,あるいは商業と貿易については多くの人が論じているが,ブ ローデルはその根底に「平野」が持つ食糧生産の価値をおいている,このことは 長江デルタの世界はもちろん関東の盆地世界にも共通していえることである.
地中海世界 地中海世界は早くから多くの関心が寄せられてきた.“あらゆる道 はローマに通じる”といわれた地中海の繁栄の時代
(藤岡 1982 )
については,一 般に次のように説明されている.まず,世界史の文化と文明の系譜は,古代オリ エントの“豊かな半月弧”( Fertile Crecent )
からはじまり,次いで地中海地域で古 代に繁栄し,西ヨーロッパに引きつがれてきた.古代のギリシア,ローマの文明 は,現在の西洋文明の母体になった(たとえば中尾 1978 : 21 )
という理解である.いっぽう,地中海世界内部の文明の発展との関連では,地中海周辺の人びとの 活動の中心は農業から商業へと転じ,いたるところにそうした商業を中心とする 都市ができ
(図 5 ),それらが海路により互いに結びつけられている,という理解
である.つまり,地中海世界の乾燥した気候とやせた土地(での,オリーブとブ
図 4 地中海世界の気候環境
(ブローデル・浜名訳 2004 :
図1
を引用)ドウのような耐乾性の果樹栽培)で,つねに穀物は不足10するから,人口がふえる とさきに述べた植民活動が活発に行われるようになる.その結果この世界の「繁 栄」の道が開かれるとの理解である.
それでは何故,どのような理由
(経緯)
で,海洋文明としての発展(植民活動)
の論理が形成されたのであろうか.こうした見方に対して,もっとも根源的な問
10 同様の説明は,ギリシャやローマはかつて深い森の中にあって,森を耕して天水農業を やっている間は,土壌の水分状況もかなり維持されていた.ところが文明が興隆してい くなかで森林を破壊していくと,土壌中の水分量も減少し,さらに降水量も減少してし まう
(安田).そのあたりから,ギリシャ・ローマは食糧自給ができなくなって,周辺
に植民地を求めるようになる(石 114 ).食糧を手に入れるために,植民地に手を伸ば
さざるをえない.ですから僕は,グレコ・ローマ文明は水で滅びた……それを乗り越え ていくには,結局強奪しかなくなっていく(石ほか 2001 ).
図 5 古代ローマの版図と主な都市分布(藤岡 1982: 図 1 より)
題として,ブローデルは人間の食糧生産の場となった「平野」の問題を挙げてい る.広大な地中海の平野は長い間不完全で,また一時的にしか人間には捉えられ なかった.それは既述した平野をめぐる水とマラリヤの問題のためである11
.
いっぽう,イギリス生まれのブライアン・フェイガンは,干ばつが侵略を生み,
そして豊かな食糧を確保するために都市や町に人びとが移住した.しかもその時 点から,人間はある限界を超えていたという
(東郷訳 2008 : 192–193 ).「人間は
ある限界を超えていた」とは何を意味しているか.彼によれば,もともと都市の 出現は人びとを養う機構としてであり,かれらの労働を管理して豊かな食糧を確 保するためだった(図 5 ).しかも都市は移動のできない恒久的な定住地であり,
川の氾濫と日照りに完全に左右されていた.
ことについては和辻哲郎は,地中海のもつ交通上の利便性12を前提として「農 牧の生活から武土の生活への転化がギリシア
(「ポリス」筆者注)
を形成したと見 たのである.そして「最初農牧の民を海へ追いやった原因が食糧の不足であった かも知れない」が,やがて冒険,征服,権力などが食糧よりもはるかに重大な意 義を持つものとして生活を支配し始めた」.その結果「ギリシア人の性格の顕著な 特徴としての競闘の精神」(和辻1979 : 102–103 )
がつくられた,という.すなわち,人間はここで神々のごとく生きる市民と家畜のごとく生きる奴隷と に分裂する.
「このように徹底した分裂は,地中海の古代世界を除いては,
恐らく 世界のどこにも起こらなかったであろう」,「この徹底的な分裂の上にのみギリシ11
「山の多い地域は,水の流れる地域である.平野にはふつう水が集まる.冬,すなわち
雨の降る季節の間,平野の宿命は洪水に見舞われることである.今日,ポルトガルから レバノンまで,危険な水害に脅かされていない地中海の平野はない.「水は,夏には,浅瀬や川床の危険な湿気を保つ.この湿気から恐ろしいマラリア熱,つまり暑い季節の 間,平野を襲う厄病神が生じる.硫酸キニーネ使用以前には,マラリアはしばしば致命 的な病気であった.(ブローデル・浜名訳
2004 : 99 )
12 地中海は島が多い.港湾が多い.霧などはなくて遠望がきく.七か月ぐらいは好天気が つづき,天体による方位の決定が容易である.陸風と海風との交代もきわめて規則正し い.イタリアから南フランス,イスパニアに至るまでギリシアらしい風土を持つ沿岸地 方に必ず植民地を作ったギリシア人にとっては,地中海は実際に交通路であった
(和辻
1979 : 83 ).
アのあの華やかな文化は創造せられ得た」
(和辻 1979 : 105 )
という.この「人間 中心的な立場の創設」を通して,次に続くローマの国外への発展の道が開かれる とう論理を,和辻は見出していた.かくして,地中海世界はブローデル
(浜名訳 2004 : 18 )
が指摘するように,近 代の初めには地中海中心でなくなるまで,世界文明の先端に位置してきた.上述 した和辻の見解は,その経緯を風土論として展開しただけではなく,現代に繋が る「文明」の意味を明示しているのである.長江デルタの世界 長江デルタの場合,新石器時代後期の段階に「良渚文明」
と呼ばれる初期文明が誕生している.歴史時代に入ってからは,いわゆる「江南 文化」として名を馳せ,さまざまな生活および産業文化を生みだしてきた.しか も今日では上毎をはじめデルタの全体が,
「都市化する中国」
を象徴するような方 向で著しい変化を遂げ,中国経済の牽引者として重要な役割担うようになった.長江デルタにおける近年のこうした変化にはこの
30
年来の「経済改革の時代 の偉業」と新たな「世界経済の枠組み(グローバリゼーション)」,すなわち政治・
経済的な状況の変化が大きく関与してきた.しかし歴史的に培われてきた内発的 な力も無視し得ない.内発的な力とは広大なデルタを水田化し,歴史時代の早期 の段階で「江浙熟すれば天下足る」と言われるような食糧基地に変え,同時にデ ルタの低湿な土地環境のもとで独特の農村や都市集落を発達させるとともに,近 代工業社会を作り上げてきたものである.
最も根本的なところからいえばそれは,デルタにおける人間活動に不可欠な
「水」
をコントロールする知恵の発達である.この知恵の存在を象徴的に物語って いるのが,長江デルタに発達してきた見事なクリーク網の景観である(図 6 ).ク
リーク網とは河川,運河,溝渠(用水路や排水路)
など様々な機能をもつ水路の総 称であるが,長江デルタの場合のその発達の著しさは他に類をみない.このこと から我々は土地と人間活動との関わり合いが,このデルタにおいて如何に濃密な ものとなってきたかを窺うことができる.つまりクリークの整備を通じて,デル タにおける稲作の成立と展開が可能となり,それによって産業基盤の整備,そう して農村や都市の発展をもたらし,社会経済に大きなダイナミズム(内発力)
を形成してきたものと考えられる
(元木 2013 : 83–85 ).
池田静夫は,長江デルタをめぐるクリークの発達について,
「黄河流域の文化が
長江流域に及んでそこに江南の文化が開ける」プロセス(一大転換期)
を「クリー ク運動」として注目している.そして,このクリーク運動は支那(中国)
の歴史に 転機を与えるような意味をもつものであった,という.図 6 長江デルタの主なクリーク網
(元木 2013 :
図3–1
より)(中国科学院地理学および陸水学研究所,および長江水利委員会資料により元木作成)
要するに,長江下流の低平地に発達してきた盆地状の世界はクリークの形成を 通して,華北の政権を支える食糧基地としての役割を果たし,内に対しては独特 の都市―農村関係を基軸とした「水社会」(
Cressey. 1936 )
を生み出してきたこ とである.クリークにおける漁業とそこで開発された水稲耕作が連携する姿に対 して,「稲作漁労」という表現が伝統的な特徴として注目されてきた.さらに,
1980
年代初期ごろから農村の経済的繁栄をもたらすものとして地域変 化の引き金となったのが郷鎮企業の勃興であったであった.費孝通によれば,各 地の「集鎮」において,それまでの地域経済の緩やかな発展の成果を背景として,忽然と姿を現し,それらは中国の小城鎮
(都市)
の復興としても注目された(元木 2011
参照).とくに
1990
年代以降最近に到る過程で,「経済開発区」に名を借りた不動産開
発・都市開発・工業団地造成ブームが一般化し,産業化,都市化,資本投入が三 位一体となる強いドライビングフォースに押し流されて,農地に復帰しにくい住 宅・道路・工場などの都市的土地利用がすさまじいばかりの勢いで拡大した.そ の結果長江デルタは食糧供給基地から食糧移入に依存する地域への転落を余儀な くされた(元木 2012 ).
かくして長江デルタの世界は,広大な低地における自然―人間関係の方式を組 みかえつつ,世界と結びつきを深め,海外の資本・技術投資の場として注目され,
経済改革が進展してからの工業化・都市化による攻勢
(地域改変)
がすすむように なった.すなわち低湿平坦地の開発が今日に至る膨大な時間を要して可能になっ てきたところに,日本の「関東」に後れを取った大きな理由をみいだすことがで きよう.かくして,長江デルタの世界は,クリークの開発とその結果としての地 域変化を通して,今日では海外と結び付いて急速な経済発展を遂げてきたとみる ことができる.なお,付言すれば,クリークを巡る水汚染問題や灌漑生活用水の 確保という問題が顕在化していることを直面するという課題が生ずるようになっ た(元木 2013 : 268 ).
「関東」の世界 歴史家の児玉幸多は,
名著『関東の歴史と風土』のなかで,関 東の本質を次のように記述している.「関東の歴史を取り上げるときに開拓の問題
を抜きにすることができない」.「それほどに「関東の開拓は「日本の歴史のなか でも大きな位置を占めている」(児玉・伊藤
1978 : 6–7 ).
これは「関東」の中央部を占める低地帯,低地帯とそれほどの比高差のない台 地が,長い間今日に繋がる文明の進歩に寄与できなかったからである.とくに「関 東」の盆地世界にあって中央部が地質学的な造盆地運動の影響を受け,人類の居 住地としての役割を果たし得なかったからである.その開発が本格的に展開し始 めるのは日本の歴史上では藩政時代に入ってからで新しい.つまり「関東」の今 日に至る経済発展は藩政時代から近代にかけて自然地域の大改造
(とくに水利と
治水)が進められたことに注目しておく必要がある.この経過については,2006
年の日本地理学会のシンポジウムにおいて始めて総合的に取り上げられた(表参
照).「関東」
は明治の後半からは海外貿易に向けて大きく舵を切ることになるが,低 地に開発される水田(米)
が食糧基盤としての役割を果たし,一方では水源の確保2006 年日本地理学会春季学術大会公開シンポジウムプログラム
(後援:国土交通省関東地方整備局,埼玉県/3 月 28 日)
関東盆地中央部をめぐる水・土―人間関係の展望
―近未来の環境資源マネージメントに向けて―
オーガナイザー:元木靖*
(埼玉大学),田村俊和 (立正大学)
1.
趣旨説明 元木靖(埼玉大学教養学部),田村俊和 (立正大学地球環境科学部)
2.
関東盆地中央部の総合的土地環境図 田村俊和(立正大学地球環境科学部),石田武・
早乙女尊宣
(立正大学オープンリサーチセンター),小暮岳実 (上尾南高校)
3.
関東盆地中央部に集中する河川流路の自然的・人工的変遷 澤口宏(群馬大学・非)
4.
関東盆地中央部における開発と災害―古代・中世― 吉川國男( NPO
法人野外調査研究所)5.
低湿限界地からみた関東盆地中央部の開発原理―近世― 元木靖(埼玉大学教養学部)
6.
関東盆地中央部の地表水資源の管理と配分―近代・現代― 内田和子(岡山大学文学部)
7.
関東地下水盆の特徴と現代の地下水利用の課題 高村弘毅(立正大学地球環境科学部),
丸井敦尚・宮越昭暢・林武司
(産総研究所),小玉浩 (立正大学・非),小室信幸 (立正
大学オープンリサーチセンター)8.
河川管理の立場からみた関東盆地中央部の今日的課題 佐藤直良(国土交通省大臣官房)
9.
総合討論(座長:久保純子 (早稲田大),赤桐毅一 (きもと),松田磐余 (関東学園大)
と火山灰土壌に制約されていた台地の土地利用が周辺の丘陵地や山地斜面ととも に養蚕業振興の場となってきた.いわゆる「米と繭」の土地利用構造を創造して きたことが近代化の端緒となり,その後工業化とともに首都周辺への人口の流入 を促してきた.輸出品としての繭
(マユ)
は世界の経済恐慌を境に衰退に向かう が,いっぽうで製造業(工業)
の発展と一層の人口流入を促し,その結果「関東」では都市化が急速に進んできた.こうした形の都市化は周辺農村の土地利用を徐々 に近郊農業化し,その過程において特に台地や丘陵地は都市生活者のための蔬菜 園芸産地として発展を遂げてきた.こうした土地利用展開がある意味で合理的に 展開した結果として,「関東」はアジア世界で近代化がいち早く進展した.
以上,
「関東」については極めて概略的な説明に止めたが,
ここに長江デルタと 比較しても開発が順調に展開し,長江デルタに先行する形で「文明」化が進展し てきた,内的あるいは自然的要因を推察することができる.「関東」
の地域的な特 徴について考察するとき,一般にはよく日本の国際的活動の舞台としての首都が 存在することは,本地方の人文上の特性を形成する基盤となっていることが強調 されてきた(矢嶋 1974 )
が,文明史的には自然―人間関係を規定してきた具体的 な地域的諸条件がもつ意味を見逃してはならない.とくに,地中海世界やデルタ の世界と比較してみたとき,将来の「関東」の行方を考えるためにも重要な視点 になろう.4. むすび
小稿は今日の「関東」に関する諸知識を確認し,今後の地域研究について再考 するための準備作業としてささやかな問題整理をこころみたものである.したがっ て,ここに結論として特筆すべきことはない.ただ,あえて言うならば,社会が 急速に変化するなかで,
「関東」
が変化する論理を,関東それ自体のダイナミズム として理解しうるような全体的な地域研究が,今後求められるのではないか.こ のことを確認しておきたい.【参考文献】
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1970 .『ルネ・クロジェ 地理学史』白水社.
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1989. 『関東平野は世界の心臓―質量ともにトップの座―』徳間書
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ブライアン・フェイガン