論 文
1953 ~ 72 年の日本における絵本受容
髙原 佳江
はじめに――研究動機と目的
子どもの頃に読んだ絵本の思い出がよみがえるとき、絵本の名前や内容よりも、
絵本を読んでくれた人の声、絵本を読んだ日溜りのあたたかさ、絵本を読んだ後に ごっこ遊びをしたことなどが思い出されるという人が多いのではないだろうか。思 い出にこのような特徴が見られる絵本というメディアを受容するということに興味 を抱いたのが、研究動機のひとつである。絵本と受け手である子どもの関係に重点 を置く研究は数多く行われ、主として子どもに絵本を読み聞かせることの意味と、
絵本を読み聞かせる技術が説かれてきた。これまでの研究は、「読み聞かせ」にお ける、絵本と与え手と受け手の関係を扱ってきたといえる。しかしながら、冒頭で 述べた絵本の思い出を考えると、受け手が絵本と出会い、あるいは与え手と受け手 が絵本、および絵本から発展する会話や遊びを共有し、記憶に刻んでいくというこ とには、さらに多くの要素、条件がかかわっていると思われる。書架や机や椅子の 色、形、置かれ方、窓の位置や窓から入ってくる光と風、建物の特色、周囲に響く 音、周囲の事物など、「読み聞かせ」の場を包含する大きな環境としての〈場〉が、
絵本受容に影響を及ぼしているのではないだろうか。〈場〉とのかかわりが強いと 考えられる絵本を受容するということはどのようなものかを探ってみたい。
もうひとつの動機は、絵本が今日どのように受容されているかとともに、これま でどのように受容されてきたかを明らかにしたいということである。日本の絵本 は、1953(昭和
28)年の「岩波の子どもの本」の創刊によって、新しい局面を迎
えた。今日では、多種多様な絵本が出版され、絵本を扱う施設が広がりを見せてい るが、今日にいたる過程で絵本の受容形態は変容したと思われる。なかでも、「岩 波の子どもの本」が創刊された1953(昭和 28)年から、図書館施設
1が絵本を扱 うことが定着しはじめ、図書館施設以外に絵本を取り込んで広く一般に提供する場 所が誕生する前年の1972(昭和 47)年までは、今日の日本における絵本受容の基
盤がつくり上げられた重要な時期であると考えられることから、この時期に焦点を 当て、〈場〉を通じて、絵本がどのように受容されるにいたったかを明らかにした い。本論文の目的は、1953(昭和
28)年から 1972(昭和 47)年までの日本に着目し
て、大きな環境としての〈場〉を考察する立場で、絵本受容がどのようなもので あったかを明らかにすることである。今後、
1973(昭和 48)年以降に着目するが、
本論文は、〈場〉から現代日本における〈絵本文化〉を読み解く研究の一端に位置 づけて考察を行うものである。
以下、まず、本論文の研究視点と方法を説明する。次に、考察の対象となる資料 を提示し、分析して、絵本受容と〈場〉の関係を明らかにする。
1. 研究視点と方法
(1) 研究視点
本論文では、〈場〉を考察する立場を取る。ここでいう〈場〉は、絵本と与え手 と受け手の関係を包含する大きな環境である2。換言すれば、〈場〉は、絵本と与え 手と受け手の関係を包み込み、与え手と受け手が絵本を受容するということに影響 を及ぼすと思われる諸要素、諸条件の全体である。〈場〉を考察する立場を取るこ とは、絵本以外の本、絵画、おもちゃ、書架、机、椅子、部屋、建物、自然、気象 などの諸相のほか、次のものも関連づけて考察を行うことを可能にすると考えられ る。
第1に、社会の様相が挙げられる。絵本の出版状況、絵本を扱う施設のあり方、
絵本を受容するという価値観は、社会的、文化的、経済的状況に応じて形成され、
変化すると思われることから、絵本受容は社会の諸条件と関与させて考察される必 要があるだろう。
第2に、絵本、あるいは絵本の主な受け手である子どもに関して示された法規や 掟が考えられる。第2次世界大戦後、すべての子どもの幸福がはかられたり、幼稚 園教育における絵本の導入が明文化されたりした。また、絵本に関する理論や言説 も考えられる。絵本は、戦後では
1940
年代後半から、子どもに関する研究の各分 野で論じられた。絵本に関する法規や理論にも適宜言及して、絵本受容を考察して いく。〈場〉を考察する立場を取ることは、「読み聞かせ」における、絵本と与え手と受 け手の関係に留まることなく、これまでにない広い視野から絵本受容を追究するの に有効であろう。絵本と与え手と受け手の関係がつくる場を支える基盤となり背景 ともなる環境としての〈場〉、絵本と与え手と受け手の関係が誕生し展開する上で 重要な役割を担っているであろう〈場〉を考察することにより、絵本というメディ
(2) 研究方法
本論文において研究対象とする時期は、1953(昭和
28)年から 1972(昭和 47)
年までの約
20
年間とする。1953(昭和28)年は、「岩波の子どもの本」が創刊さ
れたときである。この絵本シリーズの刊行は、日本において、「従来の絵本観を根 底からくつがえすほどの画期的な事件」3であった。この頃から、一部の図書館施 設が、絵本に対する意識を高め、絵本を収集して公開し、子どもを中心とする一般 の人々の利用に供するようになる。1972(昭和47)年は、日本で最初の子どもの
本専門店である「メルヘンハウス」と「ともだち」が開店する1973(昭和 48)年
の前年である。1973(昭和48)年以降、図書館施設以外に絵本を取り込んで広く
一般に提供する場所が誕生し、絵本の受容者層が拡大することと並行して絵本受容 が新たな展開を迎えることになるが、その基盤が1953(昭和 28)年から 1972(昭
和
47)年までにつくり上げられたと考えられる。
本論文において研究対象とする場所は、1953(昭和
28)年から 1972(昭和 47)
年までに、絵本を漫画などと明確に区別して扱っていたこと、子どもが絵本を受容 するということを前提としていたこと、および絵本に関する資料を適当量残存させ ていることに留意して選択された。それは、開設年順に、次の
8
館の図書館施設と する4。①「江東区立深川図書館少年少女室」(1951(昭和
26)年開設)
②「栃木県立図書館小中学生室」(1955(昭和
30)年開設)
③「東京都立日比谷図書館子供室」(1957(昭和
32)年開設)
④「かつら文庫」(1958(昭和
33)年開設)
⑤「江戸川区立松江図書館少年少女室」(1960(昭和
35)年開設)
⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」(1961(昭和
36)年開設)
⑦「品川区立品川図書館児童室」(1963(昭和
38)年開設)
⑧「名古屋市千種図書館児童席」(1968(昭和
43)年開設)
このように、研究対象とする場所は、東京都下
5
館、栃木県下1
館、大阪府下1
館、愛知県下1
館である。大きな環境としての〈場〉を考察する立場で絵本受容を明らかにするためには、
絵本を扱う図書館施設を形づくっていたものと、そこで行われていたことを示す資 料を用いるのが有効であると考えられる。そこで、図書館施設の様子、図書館施設 において子どもと絵本を結びつける試みが行われる様子、子どもが絵本と向き合う 様子を読み取ることのできる資料を探索し、資料の保存状況に応じて、考察に有効 な資料を収集した。収集した資料は、図書館施設、およびその主要な職員が発した
言説(表、図を含む)である。言説は、主として図書館報、図書館施設が発行した 年報、記念誌に掲載されたものとする。これらの資料を提示し、分析することによ り、絵本受容と〈場〉の関係を明らかにしていく。
2. 資料に見る絵本を扱う図書館施設
2.
では、1953(昭和28)年から 1972(昭和 47)年までに絵本を扱った 8
館の図 書館施設が発した言説を、その時期に一般的な図書館との差異化をはかる方向で記 述されたものとして提示し、読み解く。① 「江東区立深川図書館少年少女室」
「江東区立深川図書館」の前身である「東京市立深川図書館」は、1909(明治
42)年 9
月、東京市立図書館第2
号として、また「東京市立日比谷図書館」に続く 独立館として設立された。1948(昭和23)年 10
月28
日には、「他館に率先して自 由接架式を採用して、新時代の要求にこたえることにした」5。子どもに対するサー ビスにも、「東京市立深川図書館」は設立当初から力を入れた。「江東区立深川図書館」として活動を開始してから
1
年後の1951(昭和 26)年 11
月5
日、1
階に「少年少女室」が復旧、開設される。「江東区立深川図書館」は、「少年少女室」の目的を次のように考えた。
圖書館における兒童室は、社會讀書層の苗床のようなもので、單に良書を選 擇し収集しているだけでなく、積極的に子供達に働きかけて、讀書に趣味を 持たせるとともに、正しい讀書力を啓培してやることをその目的としている 所であります。6
すなわち、「少年少女室」は、良書を提供するほか、子どもの読書興味を開発し、
読書力を育成する場所と考えられた。その目的を達成するために、「少年少女室」
は、どのような設備を備えていたのだろうか。
この新しい少年少女室では当時珍しかった開架式が採用され、こどもたちが 自由に本を手にすることができるようになりました。施設面積は
122㎡、座
席数
50、蔵書数 520
冊で、専任担当者1
名と補助の兼任職員が2
名配置されました。
生までで、入館制限はありませんでしたが、貸出しは小学
3
年生から、貸出 冊数は1
冊、期間は1
週間でした。7「少年少女室」は、子どもが直接本を見て触って選ぶことができるようにし、3人 もの職員を配置し、日曜日も開館することで、子どもと本を結びつけようとした。
絵本に焦点を当てると、「少年少女室」において
1954(昭和 29)年 10
月24
日時点 で公開されていたのは、次の通りである。少年少女室には絵本が豊富に揃えられています。岩波の絵本「子どもの本」
のほか、「講談社の絵本」少学館の「幼年絵本」「育児絵本」あかね書房の「世 界絵文庫」潮文閣の世界童話文庫・羽田書店の「こども絵文庫」トッパンの
「トッパンの絵物語」小峯書房の「小学生文庫」などが主なものです。「子 どもの本」はまいごのふたご・みんなの世界・ふしぎなたいこ・ちびくろさ んぼ・おかあさん大すき・スザンナのお人形・なまりの兵隊・金のにわと り・ちいさいおうち・海のおばけオーリーなどが置かれてあります。8(下線 原文)
「少年少女室」は、約
10
か月前に刊行が開始されたばかりの「岩波の子どもの本」を含む絵本を積極的に収集し、子どもに提供していたのである。「繪を讀む子供ら」
は、次のように過ごしていた。
子供は本に話しかけます。本と一しよに語り合います。それだから子供の部 屋は大變にぎやかです。勿論色々な雜音も聞えます。椅子が足りないので奪 い合う聲。友人に、こんどその本を讀ませてくれ、と頼む聲。うあアすごい、
と叫ぶ聲。本の中に溶け込んでいる彼らは、そんな雜音を少しも氣にしない のです。9
すなわち、「少年少女室」には、子どもが本に話しかける声、本と語り合う声、本 について友達に話しかける声、本の内容について感嘆する声が存在した。しかし、
子どもは、部屋に響く声や音を気にすることなく、自分の選んだ本や絵本を読む ことに集中したのである。1966(昭和
41)年からは「こどものためのおはなし会」
が開かれ、1968(昭和
43)年 5
月から定例化されたことから、「少年少女室」には 子どもの声のほか、職員が子どもに絵本を読んだり、おはなしをしたりする声も存 在した。「少年少女室」は、子どもがひとりで自由に絵本と接する場であったとともに、大人に読んでもらうことよって絵本と出会う場であった。
② 「栃木県立図書館小中学生室」
「栃木県立図書館」は、1946(昭和
21)年 11
月に開館し、翌年7
月に「児童閲 覧室」を開設した。1955(昭和30)年 11
月に、新館が落成する。「児童閲覧室」から名称を変えた「小中学生室」の内部は、次のようであった。
地下一階、地上四階の建物の中、小中学生室は一階南側、中庭に面した最上 の位置を占めている。三面総硝子張りの明るい部屋の中は、緑色のビニタイ ルの床、色とりどりのピ〔 マ マ 〕ニール張りの可愛らしい椅子、吸音テックス張りの 螢光灯埋込みの天井等、(中略)大人でもつい魅せられるおとぎの国のよう な色調につつまれている。五〇坪、座席一〇〇。低学年用と高学年用に椅子 も机も設計配置されている。蔵書数約五〇〇〇冊、一日平均利用数一二〇 人。10
「小中学生室」は、1階の、館内で最も良い位置を占め、また、子どもが利用する ことを強く意識してさまざまな色を使用することにより、明るく、魅力的な部屋と なっていた。運営は、次のように行われた。
小中学生室主任がいて常時一貫した運営を心がけてはいるが、その上で十人 の奉仕係職員が一週間交替で二名宛〔ママ〕、この室の運営に当り、各人の創意と協 力をここに結集して、ディスプレィやこども会催し物の企画、運営上の工夫 等に共同経営の特色を発揮している。(中略)係員全部が若くて、その若さ がいい意味でも悪い意味でもこの部屋の特色をつくっているようである。11
すなわち、若い職員が共同で「小中学生室」の運営を行い、子どもが気軽に利用で きる部屋を用意しようとしていた。
絵本については、次のように記されている。
小中学生室の一隅には、絵本と並んで「お母さん文庫」が置いてある。「お 母さんを図書館につれてこよう」というよびかけを通じて、最も未開拓層で あつた家庭に図書館が進出してゆく姿を、この部屋の親子むつまじい読書風 景から読みとってゆけるのは何よりも嬉しいことである。12
上記の通り、絵本は、ほかの本と区別され、それだけで纏まって置かれた。また、
絵本と並んで設置された「お母さん文庫」が、当時利用者となることがほとんどな かった母親が図書館を訪れ、子どもと一緒に絵本などを読むことを可能にしたので あった。
③ 「東京都立日比谷図書館子供室」
「東京都立日比谷図書館」の前身である「東京市立日比谷図書館」は、1908(明 治
41)年 11
月21
日、東京市立図書館第1
号として開館した。当時、東京市内で 一般人が利用できた図書館は、三大図書館とされていた「帝国図書館」(現「国立 国会図書館」)、「私立大橋図書館」(現「三康図書館」)、そして「東京市立日比谷図 書館」だけであった。「児童室」も、1908(明治41)年に誕生し、以後活発にその
機能を発揮した。1957(昭和 32)年 10
月4
日、新館に、「子供達の夢の部屋」13として、「児童室」から名称を変えた「子供室」が開室する。新しい「子供室」は、地下
1
階、地上3
階の正三角形の建物の1
階、西南の一角に設けられた。「子供室」は、次のように 考えられた。学習の場として又レクリエーションの場として、即ち、かれらの余暇善用の 拠点としての場を築き上げてゆかねばならない任務があると思う。14
新しい子供室に来る子供達には、現在及び将来の社会を、よりよいものにし、
皆が幸福に生きてゆけるような、えい知0 0 0を、読書をとおして、身につけても らいたいと思う。15(傍点原文)
すなわち、「子供室」は、子どもが楽しむ場であったが、読書を通じて社会に貢献 するための知性を身につける場であった。部屋の詳細は、次の通りであった。
50余坪、円型総ガラス張りで、広びろと明かるい室内に配置された、図 書、書架、机、椅子等すべて子供達の要求を満たすように考えられている。
中央の直径
3
尺、6角型の柱の廻りにガラスの雑誌棚をとりつけ、(中略)この雑誌棚を囲んだ丸い書架には、現在
3,100
冊の図書が収容され、書架を 囲んで、丸い6
人用のテーブル9
ツ(低学年用3
ツ、高学年用6
ツ)、変つ たデザインの丸い椅子54
人分、窓際にはビニール張りのソファー4
ツ、ベ ンチ2
ツが配置されている。カウンターの後、24尺の壁面には、明かるい色調の壁画
4
点が並び、そ の下の辞書棚(上2
段はえほんを展示する)のやわらかい色彩は、室によく マッチしている。室内には、水呑場、洗面所があり、トイレットも子供室専用が設けられて いる。
出入口は大人とは別に、建物の西側に設け大人と全く切り離した。
開館時間は、平日午後
1
時から5
時、日曜午前9
時から5
時で、休館日は 一般と同様である。16「子供室」は、四周のガラス窓を通して陽光が降り注ぐため、明るかった。「子供室」
の大きな特徴は、円形の部屋の中心に書架を円く並べ、その周りに円形の机と、半 円形の主部に円形の座をとりつけた椅子を設置して、全体に円を基調としていたこ とである。もうひとつの特徴といえる壁画は、明るい色合いであり、その下にあっ た辞書棚は、やわらかいいろどりで、部屋と調和していた。楽に腰かけられるソ ファーとベンチが配置され、水呑場や洗面所が設けられ、公園の延長のように出入 りすることができるように子ども専用の出入口が設けられ、また、日曜日開館が行 われて、「子供室」は子どもが気軽に、快適に利用できる場としてつくり込まれて いた。
では、このような部屋で、子ども、および絵本は、どのように考えられていたの だろうか。
普通児童室というと中学
1、2
年生まで入れるが、この子供室は、上は小学 校6
年にとどめ、むしろ幼児とその母親(もしくは、これに代るつきそいの 人)とを歓迎する。そのため、えほん、低学年用図書、まんが等は、ラベル をかえて別置してある。17上記のように、「子供室」は、12歳以下の子どもを対象とし、とりわけ幼児と母親 を歓迎した。母親をはじめとする保護者のために、1958(昭和
33)年 6
月には、「子供室」の隣に「母親文庫」が設けられる。子ども、とりわけ幼児に読まれる絵 本は、手に取りやすいように別置されたほか、前に提示した言説にあるように辞書 棚の上半分を用いて展示された。表によると、開室当初に「子供室」で公開された
本は
3,100
冊で、そのうち「えほん」は249
冊であった18。絵本は、次のように読まれた。
向うのソファーのところには、絵本を子供にひらかせ、一緒に話しあいなが らのぞいているやさしい年とったお母さんの顔も見える。19
母子が、話しながら絵本を見ていたのであった。また、女性職員は、次のように述 べている。
口が動けなくなるほど絵本をよまされることもあれば(後略)20
すなわち、女性職員は、日常的に、子どもが満足するまで絵本を声に出して読んで いた。「子供室」は、子どもが誰かと話したり、誰かに読んでもらったりしながら、
絵本と出会うことのできる部屋だったのである。
④ 「かつら文庫」
「かつら文庫」は、アメリカやイギリスの図書館を視察した石井桃子(1907~
2008)によって、1958(昭和 33)年 3
月1
日に東京都杉並区に開設された。石井は、閑静な住宅地にある自宅のなかで最も日当たりが良く、最も出入りしやすい約
4
坪の部屋に丈夫な机と椅子を置き、本や絵本を公開した。当初、開館日は土、日 曜日であり、貸出しが行われ、会員の年齢はおよそ4
歳から小学6
年生までであっ た。「かつら文庫」は、会員となることの目安のひとつとしてひとりで文庫まで歩 いて来られることを考えたが、その理由のひとつは、次のようなものであった。子どもが読む本は、子どもに選択してもらい、大人からの指図なしに心を遊 ばしてもらいたいと思った(後略)21
すなわち、「かつら文庫」は、自由に来て、自由に本を選び、自由に本と付き合う ことを子どもに期待した。では、「かつら文庫」は、子どもと本や絵本を結びつけ るために、どのような工夫をしていたのだろうか。
子どもを本の方へさそっていこうとしたのですが、それでも、「本はいいも のですよ。ためになりますよ。」といったことは、いままで一どもありませ ん。そのかわりに私たちがしたのは、部屋のようすをたのしくすること、き た子は、喜んで迎えること、本を読んでやるということでした。22
日曜の午後は狩野さんが絵本や物語をよんであげる(後略)23
「かつら文庫」は、楽しい雰囲気をつくり、子どもを歓迎し、子どもに絵本を読む ことに力を入れたのであった。文庫開設
2
年目について、次のような記録がある。文庫をひらいた時からだしてあったアメリカの絵本、クレール・ビショップ 文、クルト・ビーゼ絵の“Five Chinese Brothers”や、ワンダ・ガアグ作の
“Millions of Cats”も、いぜんとして、子どもたちがあきずに、「これを読 んで!」ともってきますし、バージニア・リー・バートンの“Choo Choo”
という絵本は、断然、幼い男の子にたいして魅力を発揮しました。24
“Five Chinese Brothers”、“Millions of Cats”、“Choo Choo”はいずれも英語の絵本 であったが、あるいはだからこそ子どもはこれらを石井に何度も読んでもらうこと を望んだのであった。また、文庫開設当初について、次のようなエピソードがあ る。
そのころ、文庫のまえには、普請の名ごりの土盛りがあって、幼い子どもが かけのぼるのに、もってこいの遊び場になりました。その子どもたちのよう すが、あまりたのしげなので、私たちは、わざとその小山を、しばらくのあ いだ、そのままにしておきました。子どもたちは、家のなかでおとなしくで きなくなると、そこで土まんじゅうをつくったり、『ちいさいおうち』を読 んだあと、そこで「ちいさいおうち」をつくったりしたものです。25
すなわち、「かつら文庫」を訪れる子どもは、建物のなかで絵本に描かれた世界を 受け取るだけでなく、建物の外で身近にあるものを活用して、絵本に描かれた世界 を表現したのであった。
⑤ 「江戸川区立松江図書館少年少女室」
「江戸川区立松江図書館」は、1951(昭和
26)年に開館した。1960(昭和 35)年 5
月10
日に、大通りに近い、街の中心部に新館が開館すると、「児童室」が「少年 少女室」と名称を変更して再開される。「少年少女室」は、それまでの3
倍の約91
平方メートル、70席であった。貸出しの登録は小学3
年生以上に制限されたが、低学年および学齢前の子どもも館内で閲覧することができた。職員は
2
人配置され た。平面図によると、部屋の南側にあるテラスに沿って「絵本」と明記された書架 があり、その隣にソファーがある。ソファーの前には、「幼児」と「小学」と書か置かれたのに対して、「小学」と「中学」と書かれた長方形の机は絵本以外の本の 並ぶ書架の前に置かれた26。
新館が開館した年に、絵本と子どもの様子が、次のように記されている。
蔵書は約四千。(中略)今年は予算をたくさんもらつたので、どんどん新し い本が入つています。今まで殆どなかつた絵本もたくさん入つたので、チビ ちやんたちは大よろこびで、毎日、わんさとやつて来ます。27
それまで重視されていなかった絵本が、新館開館年に多数購入されたのである。多 数の新しい絵本の公開は幼児の関心を集め、毎日大勢の幼児が来館した。
⑥ 「大阪市立中央図書館小中学生室」
1959(昭和 34)年の市制 70
周年記念事業として、西区北堀江に着工した「大阪市立中央図書館」は、1961(昭和
36)年 11
月に開館した。「小中学生室」は、開 館時に、「児童読物相談室」とともに3
階に設置された。「大阪市立中央図書館」は、全館開架式にするなど最新の設備を誇り、1.5万冊が開架の規模の限界といわれた 時代に
5
万冊を開架にし、そのうち「小中学生室」の開架図書は0.5
万冊であっ た。アメリカのウェスタンミシガン大学大学院で児童図書館学を専攻し、ボルチモア 市立イーノック・プラット図書館に
1
年間勤務した後、1964(昭和39)年 6
月から
1966(昭和 41)年 7
月まで「大阪市立中央図書館小中学生室」に勤務した松岡享子(1935~)は、立地について次のように述べる。
スモッグで灰色によどんだ大阪の空の下、にぎやかな心斎橋から少し西にそ れたところに、白髪橋という橋があります。大阪市立中央図書館は、この橋 の近く、材木問屋、倉庫、小工場などの立てこんだ殺風景な地域にあります。
(中略)ちょっと見たところでは、子どもたちがあまり住んでいそうにない ところなのですが、それでも土曜日の午後など、児童室は「満員札止め」の 盛況を呈します。なかには市電やバスに乗って、かなり遠くからやって来る 子もいるのです。また、小さい子で、交通量の多い交差点をいくつも渡って 来る子もいます。28
「大阪市立中央図書館小中学生室」は、住宅地にあったわけではなかったが、遠来 の子どもを含む、多数の子どもに利用された。松岡は、職員として子どもとどのよ
うに接したのだろうか。
ここで働くようになって、まずわたしが始めたのは、子どもたちに本を読ん でやることでした。ここの子どもたちがまだ知らないでいるすぐれた絵本を 紹介したかったのと、雑誌だけしか手に取ろうとしない子どもたちに、本の おもしろさを知ってほしいと思ったからです。29
松岡は、子どもに本を紹介し、本の面白さを伝えるために、子どもに本を読むこと に力を入れた。しかし、当初、それはスムーズに行われなかったようだ。
ここの子どもたちは、図書館で係りの人が自分たちのために本を読んでく れるなどとは期待していないので、わたしたちはまず、「当方ご要望により、
無料で本読みに応じます」と、身をもって宣伝するところから始めなければ なりませんでした。二、三冊絵本を持って近づき、「本読みましょうか」と 声をかけても、「ええわ」とあっさり断わる子どももいますし、読んでもらっ ている間中、何となく具合悪そうにしていて、終わるとそそくさと立って逃 げてしまう恥ずかしがり屋の子もいます。でもたいていの子どもは、いった ん読んでもらえるとわかると、次からは遠慮なく要求するようになります。
(中略)でも、本を読んでもらうことをいちばんすなおに喜ぶのは、やはり 学令前の子どもたちです。貸し出しの仕事をしているわたしたちのそばで、
「ねえ、読んでェ」を連発するのはこの年ごろの子どもたちです。30
すなわち、1960年代の日本の子どもは、松岡がかつて接したアメリカの子どもと 異なり、職員に本を読んでもらうことに慣れていなかったのである。しかし、子ど も、とりわけ幼児は、すぐに職員に本を読んでもらうことの楽しみを覚え、職員に 本を読むように要求するようになった。松岡が子どもに読んだ本のうち、とりわけ 子どもに喜ばれたのは、どのような本だったのだろうか。
小学校低学年の男の子では、「しょうぼうじどうしゃ じぷた」「きかんしゃ やえもん」「*かにむかし」それに「一〇〇まんびきのねこ」、女の子では
「はなのすきなうし」「ちいさいおうち」「あかずきん」、幼稚園の子どもた ちでは「ぐりとぐら」「*ゆびっこ」「おおきなかぶ」「もりのなか」、ごく幼 い子どもたちでは「おかあさんだいすき」に「*ちいさなねこ」などです。
次に来たとき同じ本を取り出してながめています。また「好きな本を取っ ていらっしゃい」というと、前に読んでもらったことのある本を選ぶ子が 多いようです。(中略)たとえば三年生の村島君。一度読んでもらってから すっかり「じぷた」がお気に入り。二度目に来たときも、「これ」と「じぷ た」を持って来ました。そしてわたしがまだ、初めののっぽくん、ぱんぷく んのところを読んでいるうちから、「じぷたは?」「じぷたは?」と、じぷた の登場の催促。いよいよじぷたが登場して活躍を始めると、「ふふん、ふふ ん」と鼻を鳴らしてご満悦の体です。それからも館に来ると、とにかく一度 は「じぷた」にさわらぬと気がすまないようでした。31(*原文)
子どもに支持されたのは、1950年代の「岩波の子どもの本」、および
1960
年代の 福音館書店の「こどものとも」と「世界傑作絵本」であった。多数の子どもが、ひ とりで読む場合も、職員に読んでもらう場合も、一度職員に読んでもらったことの ある絵本を取り出していた。ある男子は、職員に読んでもらって気に入った絵本を 来館する度に手に取り、楽しんだ。このようにして、ここに来る子どもたちがあるいは「ぐりとぐら」を、ある いは「一〇〇まんびきのねこ」を手がかりに、本を読むたのしみを覚え、本 を読む習慣を身につけていってほしいというのが、わたしの願いです。32
すなわち、松岡は、子どもが、大人に絵本を読んでもらうのを聞くことをきっかけ として、読書の楽しみを知り、読書習慣を身につけていくことを願っていたので あった。
⑦ 「品川区立品川図書館児童室」
品川区は、1952(昭和
27)年に、独立した建物をもつ、子どもを対象とする図
書館を3
館も有する、全国で唯一の区となった。「品川区立図書館」は、子どもに 対するサービスに関しては前駆的な功績をもち、「現時点〔1965(昭和40)年時点〕
においても本区図書館の児童サービスは日本全体の児童サービスに対する強い影響 力をもってい」33( 〔 〕内筆者)た。
「品川区立品川図書館児童室」は、建物の
1
階にあり、中学2
年生までを対象と した。1972(昭和47)年時点の「児童室」は、次の通り、子どもに絵本を提供し
ていた。絵本はレコードを選ぶように配列したいものです。変型本、小型本はピッタ リの箱をつくり入れておくと、幼児は玩具箱を持ち運ぶ要領でかかえて歩き、
閉館時になるととんでもない所にあったりします。(中略)“かがくのとも”
のような薄い本は専用の箱へ入れておくと、好きな場所へ持っていき膝の上 におき片っぱしから読みふ〔 マ マ 〕けている子がいます。34
「児童室」では、絵本の型やサイズに合わせた絵本箱が用意された。絵本箱は、単 に絵本を収納するものではなく、子どもが自由な動きのなかで絵本を読むことを促 進するものであった。
⑧ 「名古屋市千種図書館児童席」
「名古屋市千種図書館」は、1968(昭和
43)年 10
月9
日に開館した。「名古屋市 千種図書館」は、名古屋市の9
番目の図書館であったが、当時の名古屋市の図書館 でははじめて閲覧室にソファーを入れ、植木や彫塑を置き、モダンな室内装飾の図 書館として話題となる。地域の文化センターとして、読書や集会の場としての利用 が期待された。2階は、柱を一本も使用することなく、木製の低いロッカーと書架 だけで「成人席」、「学生席」、「児童席」に区切られた、ワンルームの大閲覧室であっ た。このうち「児童席」は、図によると、68.75
平方メートルであった35。詳細は、次の通りである。
児童のコーナーは、床の色を明るい草色にし、テーブルは西洋ナシみたいな 変型のデザインのものを赤・黄・緑など色とりどりに設け、椅子もやはり高 さの調節ができるいろいろな色彩のものをそろえ、こどもたちが楽しく読書 できるようにした。36
このように、「名古屋市千種図書館」は、色とりどりの家具と、円みを帯びたユニー クな形の机を用意して子どもを迎えることが、子どもが楽しく本を読むことにつな がると考えていた。開館
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のチラシの「図書館は、あなたの相談室です―お母さ んと子どもさんへ―」という項目は、次のように子どもと絵本に言及する。お子さんとご一緒にお気軽におでかけください。(中略)お子さんのために、
特に「絵本コーナー」「名作コーナー」を設けました。すばらしい美しい絵本、
古今東西の名作を数多くそろえ、お子さんの心の糧となるよう心がけており
「名古屋市千種図書館」は、母親が子どもと一緒に気軽に来館することを期待し、
また、子どもの精神の支えになるように「絵本コーナー」を設置した。表による と、開館当初の蔵書は
2,856
冊で、そのうち「絵本」は414
冊であった38。その数 は分類ごとにみると「文学」に次いで多く、「名古屋市千種図書館」が絵本の公開 に力を入れていたことがわかる。3. 絵本受容と〈場〉の関係
2.
では、1953(昭和28)年から 1972(昭和 47)年までに絵本を扱った 8
館の図 書館施設が発した言説を、その時期に一般的な図書館との差異化をはかる方向で記 述されたものとして提示し、読み解いた。各図書館施設は、その時期に一般的な図 書館と異なり、絵本に関する言説を積極的に発し、子どもとの関係において絵本を 扱う施設の意義を訴えていた。続いて
3.
では、その時期にそのような言説が発せられたこと自体を分析し、絵 本受容と〈場〉の関係を明らかにしていく。(1) 同時期の絵本、(2) 絵本の読まれ 方、(3) 絵本を扱う図書館施設の特色、に分けて論じる。(1) 同時期の絵本
2. で見た 8
館の図書館施設は、多数の絵本を取り込んでいたことを記している。このうち①「江東区立深川図書館少年少女室」、④「かつら文庫」、⑥「大阪市立中 央図書館小中学生室」は、公開していた絵本の名前を明記していた。①「江東区立 深川図書館少年少女室」の言説からは、同室が『ちいさいおうち』(バージニア・
リー・バートン文・絵、石井桃子訳、岩波書店、
1954)などの「岩波の子どもの本」
を中心に絵本を豊富に揃え、「岩波の子どもの本」については第
1
回配本(1953(昭 和28)年 12
月)と第2
回配本(1954(昭和29)年 4
月)の合計12
冊のうち10
冊 を有していたことが確認できる。⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」は、『ちい さいおうち』などの「岩波の子どもの本」、『しょうぼうじどうしゃじぷた』(渡辺 茂男作、山本忠敬絵、福音館書店、1966)、『ぐりとぐら』(中川李枝子文、大村百 合子絵、同、1967)などの「こどものとも」、『100まんびきのねこ』(ワンダ・ガ アグ文・絵、石井桃子訳、同、1961)などの「世界傑作絵本」を提供した。④「か つら文庫」は、「岩波の子どもの本」の『ちいさいおうち』と、後に「世界傑作絵 本」の『シナの五にんきょうだい』(クレール・H・ビショップ文、クルト・ビー ゼ絵、石井桃子訳、同、1961)として翻訳、出版される“Five Chinese Brothers”などを公開した。図書館施設が「岩波の子どもの本」、「こどものとも」、「世界傑作 絵本」を公開していたことを記したことには、どのような意味があったのだろう か。
「岩波の子どもの本」は、
1953
(昭和28)年 12
月10
日に創刊された。たとえば、公開していた絵本の名前を明記していた
3
館の図書館施設すべてが有していた『ち いさいおうち』は、面白いキャラクター、美しい絵、わかりやすい物語をもってい た。「岩波の子どもの本」は、明るく、楽しい欧米の物語絵本の翻訳、紹介を主と したものだが、「本格的に読者の子どもたちの喜びと理解を意識したのは、この絵 本シリーズが初めてであった」39。「こどものとも」は、1956(昭和
31)年 4
月、福音館書店によって創刊される。「こどものとも」は、一冊一話で、ひとりの画家が描く単行本形式の創作物語絵本 を月刊で出版するという、当時「世界的にも類例がない」40試みであった。たとえ ば、⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」である男子が楽しんだ『しょうぼうじど うしゃじぷた』は、乗り物そのものが主人公になって擬人化され、物語も絵もわか りやすく描かれた、創作物語絵本であった。1961(昭和
36)年 1
月には、同じく 福音館書店から、翻訳企画として「世界傑作絵本」が創刊される。その第1
巻であ る『シナの五にんきょうだい』は、原書の“Five Chinese Brothers”が④「かつら 文庫」で人気を博し、「文庫活動で子どもに相応しい絵本が欲しいとの理由で、石 井〔石井桃子〕によって持ち込まれ」41(〔 〕内筆者)、石井によって翻訳されたが、この話には、「子どもをひきつけて、しまいまでつれてゆき、そこで満足させてお わるという、よいお話にはなくてはならない条件が完全にそなわっている」42。ま た、⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」で子どもに喜ばれた『100まんびきのね こ』は、横長の版型を用いて左から右へ流れるような場面構成で時間と空間の広が りが表現され、文がリズミカルに展開されるものであった。当時、福音館書店の編 集長であった松居直(1926~)は、「絵本は子どものあそび友だちであり、(中略)
決して先生ではありません。したがって絵本はまずなによりも楽しく美しくなくて はならない」43と主張し、また、「世界傑作絵本」で多数の翻訳にかかわった石井 は、「“子ども読者が喜ぶ”ということを中心に、絵本を考えた」44。「こどものと も」、「世界傑作絵本」では、子どもの喜びと理解を意識してつくるという「岩波の 子どもの本」の絵本観がさらに強調されたといえよう。
松居はまた、「絵本がその子の人生の最初にあたえられる本0 0 0 0 0 0 0 0 0 0――オモチャではな0 0 0 0 0 0 0 い0――として、重大なイミをもっている以上、私たちは一つの物語を一人の画家が 心をこめてかいたすぐれた創作絵本を、あたえなければならぬのではないでしょ
た
1964』の見返しなどには、ニュージーランドの絵本研究家ドロシー・ホワイト
(Dorothy Mary Neal White、1915~
95)の「絵本は、子どもが最初にであう本で
す。ながい読書生活を通じて読む本のうちで、いちばんたいせつな本です。その子 が絵本のなかでみつけだすたのしみの量によって、生涯、本好きになるかどうかき まるでしょう」という文章が掲げられた。福音館書店は、絵本は人が最初に出会 う、重要な本であり、将来の読書習慣を左右するものであると考えていたのであ る。同様の見解を、岩波書店ももっていたようだ。なぜなら、1959(昭和
34)年の
岩波書店図書目録の「岩波の子どもの本」のリストの前に、「おさない子どもが、最初に手にする本ほど、だいじな本はないと言えましょう。それは、子どもたち に、読書の喜びを発見させる本であり、また、その本の如何によって、その子が将 来本を愛する人になるかどうかも、ある点まで決定されるからです」46という文章 が掲載されていたからである。
すなわち、岩波書店も、福音館書店も、絵本は楽しいものであると示しつつ、人 が最初に出会う本であるがゆえに本の好み、読書に対する態度や習慣の形成に大き な影響を与える本であると説いたのである。「岩波の子どもの本」、「こどものとも」、
「世界傑作絵本」は、明確に子どものための本であるという認識に立って、本格的 に子どもの喜びや理解を意識しつつ、読書習慣の形成に寄与することを前提として つくられた絵本であった。それらは、従来主流であった、しつけや知識を与える保 育雑誌、安易なつくりの名作のダイジェスト版、非芸術的な絵をもつ絵本、あるい は消耗品とみなされた絵本と明らかに異なっていたといえる47。このうち「こども のとも」は、1956(昭和
31)年 2
月に言語の望ましい体験として絵本を楽しむこ とを含めて制定された「幼稚園教育要領」に沿うように創刊され、また、当初「心 のかてを与える」を表紙に掲げたことから、教育的な様相を帯びていたことを否め ないが、たとえば「子供が良くなる」を表紙に掲げた「講談社の絵本」(1936(昭和
11)年創刊)とは、子どもの側に立った発想と絵本という芸術を生み出そうと
する情熱を有したという点において、対照的であったといっても過言ではないだろ う。
絵本は、本であるからこそ、また、それに期待された効果と①「江東区立深川図 書館少年少女室」の「讀書に趣味を持たせるとともに、正しい讀書力を啓培してや る」という目的や③「東京都立日比谷図書館子供室」の「えい知を、読書をとおし て、身につけてもらいたい」という願いが一致したからこそ、まず図書館施設に よって取り込まれ、語られたに違いない。図書館施設が「岩波の子どもの本」、「こ どものとも」、「世界傑作絵本」の公開を記したことは、子どもが楽しみのうちに読
書習慣を身につけていく本としての絵本メディアの出現を意味していたのではない だろうか。
(2) 絵本の読まれ方
(1)
で見た絵本と出会わせるために、2. で見た図書館施設は子どもに働きかけて いたことを記している。③「東京都立日比谷図書館子供室」、④「かつら文庫」、⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」では職員が日常的に子どもに絵本を読み、①
「江東区立深川図書館少年少女室」では職員が催しとして集団の場で絵本を読んで いた。図書館施設は、絵本と子どもを結びつけるために働きかけていたことを積極 的に発信したが、それは、どのようなことだったのだろうか。
このうち④「かつら文庫」の主宰者であった石井は、1965(昭和
40)年 5
月に「かつら文庫」の初期の活動をまとめて出版した『子どもの図書館』(岩波書店(岩 波新書))で、子どもが本の世界に入って得る利益は将来複雑な社会で立派に生き ていけるようになることと、楽しい経験をして人間性を育めることであること、ま た、子どもが良い本と出会える場を備えるのは大人の責任であることを指摘する。
石井は、子どもを良い本と直接出会わせる主要な手段のひとつは子どもに本を読む ことであると考え、『子どもの図書館』に記録しているように、実際に子どもに絵 本を読んで聞かせた。『子どもの図書館』は文庫活動の全国的な普及に大きな影響 を及ぼし、文庫活動のなかで、またそれ以外でも絵本を読み聞かせることが広がっ たが、そのような広がりの背景には何があったのだろうか。
1950
年代、戦後の錯雑した社会情勢のなかで、低俗な雑誌や漫画の、子どもに 対する悪影響が憂慮され、1955(昭和30)年頃を頂点として、「悪書追放運動」が
盛んになった。そのなかで、「児童憲章」(1951(昭和26)年制定)の理念、とり
わけ第9
条「すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境から守 られる」を継承し、悪書を追放するよりも良書を積極的に普及するという発展的な 考え方が提案された。子どもに良い文化財を与え、子どもを守ることのひとつとし て、子どもに絵本を見せながら読んで聞かせることが、大人によって注目されはじ めた時期であった。また、1960(昭和
35)年以降、ラジオやテレビの普及に対する子どものための
運動が急速に広まる。親が子どもに絵本を読み聞かせるという行為はそれまでも子 育てのなかで行われていたが、親子読書などの読書運動の進展のなかで、子どもに 絵本を読んで聞かせようという親の思いが高揚した。そのため、②「栃木県立図書室」で母子が話し合いながら絵本を見たように、図書館という当時静かに過ごすべ きだと考えられた場所でも、親子が一緒に声を伴わせて絵本を読む行為が見られる ようになったのだろう。石井が『子どもの図書館』を出版したことで、母親を中心 とした大人のなかで子どもの読書の意味がより一層明確になり、大人は、子どもが 本を読む習慣を身につけ、人間性を育む一助となるために、子どもに絵本を声に出 して読んで聞かせようとしたのである。
(2)
の最後に、絵本を読み聞かせるという行為の広がりが、(1)で見た「岩波の 子どもの本」、「こどものとも」、「世界傑作絵本」の刊行に支えられたことに注目 したい。「岩波の子どもの本」は「対象が幼児だから、耳からきいてわかることば で」48編集され、「こどものとも」と「世界傑作絵本」は「絵本は子どもに読ませ る本ではなく、おとなが子どもに読んであげる本だ」49という松居の絵本観に基づ いてつくられ、いずれの文体も読み聞かせにふさわしいものであった。たとえば、⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」で職員が声に出して読み聞かせると多数の子 どもに喜ばれた『ちいさいおうち』、『ぐりとぐら』、『100まんびきのねこ』には、
子どもが聴覚情報と視覚情報を融合するのに必要なものだけが描かれていた。同じ く⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」においてある男子が
2
度目に来館したと きにも職員に読んでもらい、主人公の登場を催促するなどして積極的に楽しんだ『しょうぼうじどうしゃじぷた』も、子どもが耳で聞き、目で見て鑑賞するのに過 不足ない文と絵で構成されていたといえよう。子どもに絵本を声に出して読んで聞 かせようとする機運の高まりは、読み聞かせることを意識してつくられた絵本の出 版と、連動していたのである。
図書館施設が絵本と子どもを結びつけるための働きかけを積極的に発信したこと は、社会における子どもの文化的状況の貧しさ、およびマスコミ文化の氾濫を背景 として、子どもを守るという意味も含めて、子どもの読書習慣と人間性の形成をは かるために大人が子どもに絵本を声に出して読んで聞かせるという意識の高まりを 示していたのではないだろうか。
(3) 絵本を扱う図書館施設の特色
ここまで、各図書館施設が、同時期の絵本を公開し、絵本と子どもを結びつける ために働きかけていたことを見た。これらの図書館施設はまた、子どもが絵本と出 会い、大人に絵本を声に出して読んでもらうために、ほかと異なるところをつくり 出していたことを記していた。
第
1
に、図書館施設の利用、あるいは来館のしやすさが述べられている。立地について、④「かつら文庫」は子どもがひとりで歩いて行ける場所にあり、⑤「江 戸川区立松江図書館少年少女室」は大通りに近い、街の中心部にあった。建物に 注目すると、①「江東区立深川図書館少年少女室」、②「栃木県立図書館小中学 生室」、③「東京都立日比谷図書館子供室」、⑤「江戸川区立松江図書館少年少女 室」、⑦「品川区立品川図書館児童室」は
1
階にあり、⑧「名古屋市千種図書館児 童席」は2
階にあった。また、②「栃木県立図書館小中学生室」は三面総硝子張り で、③「東京都立日比谷図書館子供室」は総硝子張りであり、日当りが良く、明る い室内となっていた。④「かつら文庫」は、個人の家にあり、そのなかで最も日当 たりがよく、最も出入りしやすい部屋であった。さらに、②「栃木県立図書館小中 学生室」は「お母さん文庫」を置き、③「東京都立日比谷図書館子供室」は「母親 文庫」を設け、⑥「大阪市立中央図書館小中学生室」は「児童読物相談室」を設置 し、とりわけ「お母さん文庫」や「母親文庫」は母子の教育と福祉をはかって、一 般的な図書館では皆無に近い主婦の利用、および親子揃っての来館を促した。開館 日については、①「江東区立深川図書館少年少女室」、③「東京都立日比谷図書館 子供室」、④「かつら文庫」が、日曜日にも開館していたことを明記している。日本では、1960年代に入っても、一般的な図書館は、公園の奥や山の上という 不便な場所に建てられ、また、ほかの施設と複合で建設された場合には
4
階や5
階 に充てられることがあった。さらに、1960年代後半まで、学生が利用者の大部分 を占め、受験勉強のために長時間にわたって座席を使用していた。日曜日に開館す るところは、少なかった。この時期に一般的な図書館のあり方は、一般の人々の利 用を遠ざけていたと思われる。それに対して、絵本を扱う図書館施設は、身体的、心理的に利用しやすい場所であったといえよう。
第
2
に、楽しい雰囲気をもっていたことが記されている。部屋や家具の形に注目 すると、③「東京都立日比谷図書館子供室」は円形の部屋であり、③「東京都立日 比谷図書館子供室」、⑤「江戸川区立松江図書館少年少女室」には円形の机、すな わち円形の天板をもつ机が置かれた。⑧「名古屋市千種図書館児童席」には、円形 を変形させた、あるいは発展させたといえる洋ナシ型の机が置かれる。②「栃木県 立図書館小中学生室」、③「東京都立日比谷図書館子供室」、⑤「江戸川区立松江図 書館少年少女室」、⑦「品川区立品川図書館児童室」には子どもの体格に合った机 や椅子が設置され、③「東京都立日比谷図書館子供室」にはソファーとベンチが、⑤「江戸川区立松江図書館少年少女室」、⑧「名古屋市千種図書館児童席」にはソ ファーがあった。色に着目すると、②「栃木県立図書館小中学生室」の「緑色の 床」、「色とりどりの椅子」、③「東京都立日比谷図書館子供室」の「明るい色調の