論 文
絵本の絵における「遠近法」表現をどう読むか
―理論的構築に向けた試論―
志 村 裕 子
はじめに
子どもが絵本をめくって読む時、1つの画面に、魅入られたようにじっと留まる ことがある。「面白そうだね」と声をかけると、しばしば子どもは、「このウサギは あの森に住んでいて…」など絵本に登場するものになったつもりで、ストーリーに 沿った出来事やストーリー以外の出来事をも、自由に語り始める。また「クマが遊 びに来たからお誕生日会するの」など、主人公が絵から抜け出してやって来る顛末 を思い描き、絵本に語りかけていることもある。絵の世界を訪れることや絵から主 人公がやって来ることは、絵本の画面に対して垂直方向に想定された空間、つまり 絵の奥や手前に突出した空間で繰り広げられる出来事である。本来、絵本は画面を めくる方向つまり画面に水平な方向へ、時間や空間が展開するという構造上の機能 をもつ。それに対して、画面の奥へあるいは手前へと向かう読み手の意識は、どの ように生じてどのように働くのだろうか。
絵本画家が
2
次元の画面に奥行きや突出感を表現しようとする場合、作風に拘わ らず、「遠近法(perspective)」を使うことが多い。遠近法とは、遠近感を描き表わ す描画手法であり、遠いものを小さく描く・遠いものの色彩は鮮やかさを失う・遠 いものは不明瞭に描くなど、どれも体験的な視知覚を反映している1。遠近法は文 化によって異なるが、今日のメディアの中で頻繁に使われる遠近法は、建物・机・道などの奥行きの線を斜めに描き表わす手法である。この手法は、線をどのように 傾けるかによって、絵に生じる趣が大きく異なる。例えば机を描く場合、机の両端 の線が先へ行って狭まるならば写実的な雰囲気を、先へ行って広がれば日本の絵巻 物に描かれた吹き抜け屋体を思わせ、大胆に歪んだ机は幼児画の雰囲気を、両端が きっちり平行な机は建築の立体見取り図のような人工的な雰囲気を醸しだす2。そ の中でも透視図的な線遠近法(linear perspective)3は、学校教育やメディアを介 して、「そっくりに(写実的に)描く方法」として子どもに見知られている。
しかし、遠近法によって奥行きや突出感を描いた画面の全てが、子どもの目を留 まらせるわけではない。遠近法が絵本の中につくりだす垂直方向に開かれた空間表 現が、どのように読み手に捉えられているかを明らかにしなければ、子どもの目と
心を留まらせる絵本画面の魅力を説明することはできないだろう。これまで遠近法 表現については、主に絵画の分野で、線遠近法を中心に数多くの研究がなされてい る。しかし絵本の分野では、何が描かれているかということに注目した分析や奥行 きの効果に言及している研究はあるけれども、遠近法の表現効果の違いやそれらが つくりだす垂直方向に開かれた空間表現に注目した研究はない。奥行き効果を生じ させる描画技術として遠近法を積極的に取り上げた場合も、はじめから、西洋絵画 の伝統的な透視図的線遠近法のみを「遠近法」として扱っている4。
絵本の絵は、絵画としての絵とは、鑑賞方法や表わすものが異なっている。絵本 は画面をめくることによって進行し、複数の画面の総体によってイメージやストー リーを伝える、時間を孕んだ表現媒体である。絵本は「絵と文が一体となって一 つのイメージを伝えるもの」5であり、絵本の画面の絵はストーリーの再現ではな い。実際にどこから絵本を読むかということは、絵本の特徴や読み手によって違う けれど、文字を意匠的に強調していない場合、文字の習熟度の低い子どもはまず絵 を見ることから始めるだろう。子どものみならず大人の目にも、視覚の優位性に 従って、絵は瞬時に飛び込んできてイメージを生じさせる。次いで描かれた文字が テクストとしての意味を再生し、さらにイメージが膨らむ。このような視知覚の在 り方から考えると、1枚の絵が絵本を読む出発点であると据えることもできる。し かし同時に、絵もテクストも絵本の流れの中の通過点にあるのだから、1枚の画面 を、前後の画面との力動関係の中に浮かび上がる「姿」として捉えなければならな い。さらに考えるならば、私たちはどのようにして絵本の絵を「見る」「読む」の だろうかという根本的な問いに行きつく。手で触るための絵本や飛び出す仕掛け絵 本など特殊な絵本を除いた絵本は、全く平面的であり、絵本の絵に目を極限まで近 付けると、表面には印刷された粒子しか見えなくなる。それならばいっそ、これら の粒子から存在感や遠近感を感じとっていく目と心の働きを辿れば、絵本の空間表 現を分析するための新しい観点が得られるのではないだろうか。他方で、先に述べ たように、遠近法が絵本画面の奥と手前につくりだす空間では、読み手の子どもが 主体的に想像する出来事が繰り広げられていた。読み手は、絵の中に描かれたウサ ギになったつもりで、あるいは絵の中から来た主人公を迎える何者かになったつも りで、絵本の世界に関わっている。この「なったつもり」の時に感じる身体感覚 と、絵の中に存在感や遠近感を感じとる視知覚とが、なんらかの形で関わり合い、
絵本の世界に読み手を深く引きこむ手助けをしているのではないだろうか。
そこで本稿では、まずⅠ.で、絵本の絵を「見る」「読む」ことの視知覚と心の 働きを、先行研究を参照しながら整理し、本研究における観点を導きだす。Ⅱ.で は、西洋絵画・図学(画法幾何学)・日本美術における物語絵において、遠近法が
どのような空間を表わそうとしているのかを考察する。Ⅲ.では実際の絵本におい て、遠近法がどのように用いられていて、それに読み手がどのように関わっている かを分析・考察する。そして最後に、遠近法が絵本画面の奥と手前につくりだした 空間が、読み手の目と心をどのように引きつけているかを考察し、絵本における遠 近法表現の働きを新たに捉え直していく。
Ⅰ. 絵本を「見る」「読む」「関係性を読む」
Ⅰ. 1. 絵本の絵を、光学的に「見る」
目を絵に近付けてみると、在るように思えた空間やものは消え、素材や粒子など 材質だけが目に入る。これらの材質から、人間はどうやって存在感や空間を見て取 るのだろうか。
生態環境における視知覚を論じたギブソン(Gibson, James J.)は、人間や動 物は誕生して開眼したその時から、動き回ることで世界の見方を学ぶと述べてい る6。ギブソンは、目に入る情報は、全て包囲光(ambient light)の光学的情報と して網膜に届くと仮定する。包囲光とは、環境の中で幾重にも反射して物理的な面 に集まり、そこから放射されて目に届く光学的情報の配列である。人間は自らが動 くことで、流動する光学的情報の中から、移動してもあまり変わらない特徴的な 配列(普遍項)を抽出する。例えば壁面や机や窓枠、樹木や山などである。さら に歩くことで、大地の表面のもたらす肌理(texture)7がつくりだす変化、色の肌 理(color texture)や陰影の肌理(shadow texture)などを見分けて、その肌理の 密度の勾配によって距離や奥行きを知り、大地の構造を知るという。ギブソンは飛 行機から見える地表の肌理(texture)の変化を挙げて、人間は自分が移動する時 や方向を変える時に生じる、流れる肌理(texture)の情報によって自分の体の動 きを身体運動感覚として実感すると説明する。肌理(texture)の流動は向かう先 の焦点から放射状に拡散するので、例えば地平線上の焦点に向かって飛行するな らば、肌理(texture)は後方へ流れて見えることになる8。またギブソンは、人間 は、すぐに特徴が変化しないことや動きなどの変化のパターンが変わらないこと を、普遍項として捉えることによって、対象の永続性を知ると述べている。
ギブソンは、このような視知覚の経験を積み重ねることによって、人間は環境が 提供する様々な特徴(アフォーダンス
affordance)を経験し、身の回りの世界の安
定性・恒常性を知ると述べている。さらに、これらの視知覚の経験を土台にして、環境や対象の普遍的な特徴や肌理(texture)の変化のパターンとよく似た配列を 持つ視覚情報(例えば印刷物や絵の具の粒子の配列など)の中に、特定の対象や距
離や奥行きを知覚することができると説明する。ギブソンとウォーク(Gibson, E.
J. and Walk, R. D.)は一連の「視覚的断崖実験」を行い、乳児や動物が歩くために
は触感と同時に床の肌理(texture)の視覚情報が不可欠であることを実証した9。 この実験では高さのある進行路(連続するパターンを描いたガラス面)に透明ガラ スの部分をつくり、そこだけ落ち込んで見える「見せかけの断崖」をつくった。そ こを横切って進めるかどうかを試した結果、ほとんどの動物が「断崖」に気付いて 立ち止まっている。歩くための主な手がかりが、視覚情報であることがこの実験で 明らかになった。ギブソンの研究から、絵本の印刷インクの粒子からでも、人間は奥行きや存在感 を知覚できること、その視知覚を支えているものは大地の肌理(texture)である ことがわかった。環境にある肌理(texture)とは、水面や空、小石や草など、絵 本によく登場するものばかりである。例えば長谷川集平は、絵本「土手の上で」の 中で、単純化した形の小山を異なる密度の芝生でびっしり埋めて、遠近感をつくり だしている10。大小の雲や小さく描かれた人物や家など、大きさの変化からも、小 山の
1
つが遠くにあることはわかる。しかし芝生の肌理(texture)の変化を目で 追うと、小山の山肌に沿って風が遠くへ流れていくような感覚が湧きあがり、距 離を実感できる。逆に、登場するものの行動に注目させたい時には、あえて肌理(texture)を省略して奥行きを描かない例もある。いわむらかずおは、『14ひきの ぴくにっく』の中で、森の中をねずみたちが行進する場面では、背後の森の木々を ぼかして抽象的に描き、絵に奥行きが生じないように配慮している11。奥行きのな い分、画面をめくる進行方向への動きが強調されて、「はるの のはらへ」と目的 地を目指す心持ちが伝わるように思われる。
このように、環境世界にある様々な肌理(texture)は、奥行きを表現する(表 現しない)ための重要な要素として、絵本画家たちに様々に用いられている。これ らの例から、描かれた肌理(texture)が、絵本の遠近感を支える具体的な要素で あることがわかった。
Ⅰ. 2. 絵本の絵を、小びとを派遣して「読む」
Ⅰ. 1. では、人間は、芝生など大地の肌理(texture)の勾配や変化によって奥行 きや自らの動きを知ること、大地の肌理(texture)と同じ変化のパターンをもつ
2
次元の平面上にも、同様の奥行きや距離を感じとることができることがわかった。さらにこの項では、絵本を「読む」時に、読み手の視知覚がどのように働いてい るのかを考える。先に述べたように子どもの読み手は、登場するものに自分を重ね 合わせて「なってみる」ように絵本を読む。実際に、絵本に見入る子どもを見てい
ると、絵に合わせるように体や首を傾けることがあり、何らかの身体感覚が活性し ているように思われる。
身体感覚を介する子どもの理解の仕方を、教育心理学者の佐伯胖は「“小びと”
の派遣」になぞらえて説明している12。佐伯は、「理解する」とは「ものごとの現 象の中に、“分身の活動(アクティビティ)”を見ること」であると述べている。「分 身」とは、認識の根源にある、いくつもの「わたし」「わたしの生み出した小びと たち」であり、物事の色々な側面に派遣されて情報を持ちかえる。この「小びと」
は、時には「わたし」とは全く違う他人やものになり、なったつもりで「活動」を 辿ることができる。佐伯は「見る」場合も同様であり、複数の「小びと」の集めた 情報の総体が「見てわかること」であると述べている。人間の視野は水平方向で
180
度、垂直方向で130
度くらいあるが、実際に両眼の視野が重なって対象を識別 できる範囲は眼を頂点とした60
度の円錐内、明瞭に見える範囲は視線の中心付近 だけで、それ以外の範囲は全くぼやけている13。佐伯は、人間の眼球が振動しなが ら対象を特定することを生理学的に明らかにしたプリチャード(Pritchard, R. M.)の実験を例に挙げて、人間は視点を動かすことで視野の狭さを補いながら認識して いると説明している14。子どもは、視野や明瞭に見える範囲が大人よりかなり狭い と言われている。子どもが一瞬にして視野に収めることのできる範囲はかなり狭く て、30センチ程度の近さからは
30
センチ四方の絵本画面全体を一度に見渡すこと はできない。子どもは、大人より活発に視点を動かすことで、全体像を理解してい ると思われる。さらに佐伯は、これまでの「視点」の一般的な語用には曖昧さがあると指摘す る。「見る」ことにおいて、「小びと」を派遣する先は複数であるけれども派遣する
「わたし」は
1
つである、つまり「視点」という語は「小びと」の派遣先と派遣元 の2
つを含んでいる。そこで佐伯は、「わたし」のいる「対象を見る眼の位置」を「視座」と呼び、視座から注目して眺めたもの(小びとの見るもの)を「注視点」
と、呼び直すことを提案している15。
それでは実際、読み手は、「なってみる」ことや視点を動かして「見る」ことに よって絵本とどのように関わるのだろうか。例えば安野光雅は、あえて縦
25
セン チ横45
センチの横長の画面を用いて『旅の絵本』を描いている16。『旅の絵本』で は、淡い色調によって繊細かつ詳細に描きこまれた水彩画が見開き画面全体に広が り、ことばはどこにもない。実寸で2
センチ以下の旅人が各ページに1
人描かれて いるので、読み手はまず風景の中から旅人を探し、付近の光景を見渡す。読み手の 意識は旅人に重ねられ、旅人に「なったつもり」でさらに目で道を辿り、様々な発 見をする。教会のある風景の中心部には引っ越しや墓参りや遊ぶ子どもたちが描かれているが、目立たないページの隅には行水する女性と女性を覗こうとする人、プ ロポーズ中の男女など意外な場面が描かれていて、見つけた時は思わず歓喜してし まう。読み手は、このような発見を重ねながら、この集落の営みの全体像を形づ くっていく。
読み手が旅人に「なったつもり」で視点を動かすために、安野は様々な工夫をし ている。まず、一目で視野に入れることのできない広さの画面を選び、画面内で自 然に視点が動き、視野が継時的に移ることを意図した。また全ての道を、下地のま ま絵の具を塗らずに残している。水彩画で最も明度と輝度が高いのは、下地のまま の部分である。安野は、詳細に描きこんだ風景の中で、あえて道には何も描きこま ず、道が読み手の目をひきつけて誘導するように仕掛けている。さらに作図的に見 ると、建物を描く遠近法のアングルを統一せず、建物ごとに少しずつ違えている。
建物の様子を見やすくするための工夫だが、一目で見える視野の範囲では違和感が ない程度の違いにとどめている。全体としての空間の歪みやずれは、畑に並ぶ作物 や下草の肌理(texture)の変化や肌理(texture)の描かれていない白い道で、上 手く調整していた。
旅人に「なったつもり」で安野の絵本を読むと、佐伯の捉え方と違って、道を辿 るのは
1
人の「小人」であることがわかる。複数の「小人」が集落の情報を集めて くるのではなく、縮んだ「わたし」が様々な場所へ行き、発見した喜びを実感して いた。佐伯は「視座(目の位置)」と「注視点(見ているもの)」を呼び分けている が、本来、見えているものは見ている位置を示し、表裏一体に結びついているはず だ。佐伯の捉え方との違いは、認識することと絵本を読むことの、本質的な違いで あろう。客観的な認識においては、見ている位置が一定で派遣先(見ているもの)と離れているけれど、主体的な絵本の読みにおいては見ている位置は暫定的であ り、見えているものの所まで「わたし」が降りていくのである。
以上から、絵本の読み手は、登場するものに「なってみる」ことや視点を動かし て「見る」ことによって、描かれた世界を身体感覚や感情を伴って経験しているこ とがわかった。また、見えているものと視座との距離は、心的距離を測る手がかり となることも示された。
Ⅰ. 3. 絵本を「モンタージュ」として読む
●主体的に読む
初めての絵本を読む時、読み手はテクストの力を借りつつ、描かれた様々な要素 を関係づけながら読み進めていく。前方や後方の画面との関係も考慮するだろう。
絵の描き手は読み手の目と心をひきつけるために、色や形や構図など様々な工夫を
凝らしている。しかし、今井良朗は「作者がどのように意図しても、読み手の創造 力やイメージの中で関係づけられ、連続的な空間の広がりとして捉えられなければ 成り立たない」、「ある意味で、描かれた要素を組み立てていくモンタージュの作用 を読み手も共有することになる」と述べ、この点が、意味・モンタージュ・演出 をつくる側で決定する映像と、大きく異なると説明している17。今井が用いた用語
「モンタージュ」とは、本来は「機械の組み立て」の意であるけれども、今日で は、映画監督エイゼンシュテイン(Eisenstein, Sergei M.)によって確立された映 画の演出技法を指す。映像におけるショット間あるいはショット内の表現要素の組 み合わせによって、足したもの以上の新しい意味やイメージをつくりだす手法、
として確立されている18。松本猛は、様々な表現要素の結びつきによって新しいイ メージを生み出す絵本表現の働きが、映画における映像表現と共通することに気づ き、「絵本モンタージュ」を論じた5。どのように組み立てて(モンタージュして)
読むかという読み方が読み手にも委ねられていること、これが絵本のもつ、最も映 像と異なる特徴である。
絵本を読む時、読み手を助けているのは「図(figure)と地(ground)」の感覚 である。「図と地」とは、ゲシュタルト心理学者であるルヴィン(Rubin, E. J.)が 提唱する視覚の働きであり、まとまりを抽出する。人やものなど「図」となる部分 は形と輪郭をもち、位置が明確で浮き上がって見えるが、「地」は形も輪郭ももた ず、「図」の背後に広がって見える19。
赤羽末吉は、この「図と地」の感覚を用いて『みるなのくら』を描いている20。 主人公の男は、蔵の戸を開ける前画面では顔や着物の模様もしっかり描かれている が、蔵の戸を開けた画面では黒く塗りつぶされたシルエットで描かれる。逆に異界 である野山は、蔵を開ける前は地味な色で曖昧に描かれているが、蔵を開けた画 面では鮮やかな彩色で細かく描かれている。赤羽は、ある画面では現世の様子を
「図」として描き、次画面では彼岸の様子を「図」として描くなど、反転する「図 と地」によって描いている世界が異世界の境であることを表現している。
このように絵本では、「図」は絵の中に
1
つとは限らないし、「地」に変わること もある。読み手は、「図と図」「図と地」の関係を見ながら、臨機応変に意味を見つ けていく。●絵本の中の関係性を読む
絵本には構造上、ページをめくる時にどちらへ進むかという方向性がある。方向 性はことばを読む目の方向に準じて、ことばが縦書きなら左へ、横書きなら右へ進 んで、時間的な経過を表わしている。つまり絵本の絵は、描かれた要素がつくる画
面内の関係性と同時に、基本的な時空間の流れにおいて前後の画面間の関係性にお いて捉えなければならない。さらに本稿で論じてきた、遠近法がつくりだす画面の 奥行きや手前に突出した空間は、画面に対して垂直に開かれた空間であり、新たな 関係性の観点として注目するべきである。
これまでの研究は、奥行きなど垂直方向の空間表現をどのように捉えているのだ ろうか。例えば今井良朗は絵本の画面を、内容・ことば・視覚造形面など様々な側 面をもつ総体として捉えた上で、「引き」「受け」「止め」「反復」「照応」などの画 面間の関係性を、画面展開として論じている21。例えば「引き」の画面作用とは、
次のページを見たいという欲求や期待を喚起するような画面のあり方で、内容・こ とば・絵や視覚造形面によってもたらされると述べている。視覚造形面による「引 き」とは、描かれた事物や画面の構成・レイアウトがもたらす期待効果であり、画 面の進む方向性を利用してつくると説明している。奥行きについては、画面の方向 性を断ち切り、視点を釘づけにするような「止め」の働きをもっていると説明し、
優れた遠近表現をもつ絵本の例を挙げている。しかし、奥行きを構図に伴う結果と して扱っていて、特に論じるべき表現技術としては捉えていない22。
今井は、絵本の画面は、ことばや絵の作用によって「内容を伝えるもの」である と述べている。それに対して藤本朝巳は、画面にある「テキストと絵」がそれぞれ に語るコードを読み取ることによって、絵本の内容や主題やメッセージを理解する ことができると述べている23。藤本は、不安や動揺を伝える描画の手法として構図 に注目して、絵の中の形態や傾きのつくりだす感覚を説明している。遠近法につい ても、多様な視点をつくりだすことによって緊張感や揺れなど複雑な感情を生じさ せること、絵の視点の動きによって季節や動きなどの変化を表現できることを説明 し、有効な描画手法であると述べている。さらに藤本は、読者の視点がテキストと 構図の力を借りて
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枚の絵の中を移動すること、絵本の絵には読者の目を導く基本 的な流れがあること、その基本的な流れは複数の絵が関連してつくりだした流れで あると論じている24。絵の中を動く読み手の視点や複数の絵によって生みだされる 絵の動きを見出したこと、感情を伝える描画手法として遠近法を捉えたことなど、藤本の知見は豊かな洞察力に満ちていずれも興味深い。しかし藤本の想定する絵の 流れは構図を手がかりとして、画面をめくる進行方向に沿って画面を横切る流れで ある。本稿が注目する、画面に対して垂直方向に働く奥行きやそこから突出してく るような方向性をもつ絵の流れについては論じられていない。
●モンタージュを読む
これまでの検討から、肌理(texture)は勾配や変化によって奥行きをつくり
だす大切な要素であることがわかったが、この問題を扱う研究は絵本論には見当 たらず、唯一、映画論であるエイゼンシュテインのモンタージュ論だけが肌理
(texture)の問題を扱っていた。そこで、エイゼンシュテインのモンタージュ論 を確認しながら、肌理(texture)の問題を検討していく。エイゼンシュテインは 映画を、変化する映画技術によってサイレント映画・トーキー映画・視聴覚的映 画25と呼び、それらの変化に応じて論説を発展させている。その中で、絵本と近 いのは、視覚を介するメディアであるサイレント映画である。そこでサイレント 映画時代に書かれた「アトラクションのモンタージュ」18「映画における第四次 元」26を参考にして、表現の仕組みにおける肌理(texture)の位置づけを考えてみ る。
エイゼンシュテインは「アトラクションのモンタージュ」において、「アトラク ション」とは観客の感情を揺り動かし情緒的なショックを与えるように仕掛けられ たものであり、それをモンタージュすることで、「総体としての芝居」の能動的な 構造が登場すると提起した。舞台監督から映画監督に転身したエイゼンシュテイ ンは「映画における第四次元」において、映画の「アトラクション」がどのよう にモンタージュされて観客の「感情に働きかける力」となるのか、次のように説 明する。まず連続するショットをまとまりとして捉えるために、「ドミナント」と いう概念を導入した。元々は音楽用語であり、調を支配する重要な音をさす。演奏 などでドミナント(dominant)をぶつかり合うように置くと、一連の副次的な音
(オーヴァートーン)が生じ、それらが衝突して
2
次的な響きをつくりだす。オー ヴァートーン(overtone)とは、倍音とも呼ばれる共鳴音である。弦を弾くと揺れ て音を出す。弦の音には、基音という単振動以外に、基音の2
倍・3倍の振動数を もつ倍音が混ざっている。例えばアコースティック・ピアノで1つの音を鳴らし、音が延びて広がると、鳴らしていないはずの音が同時に聞こえる。この共鳴音が、
倍音である。エイゼンシュテインは、音楽の原理を映画に置き換えて、ショットの もつ圧倒的な特徴を「ドミナント」と呼び直した。そして「ドミナント」のモン タージュによって映像に生み出される視覚的オーヴァートーンが、観客に生理的感 覚として伝わり、感情を揺り動かすことができると考えた。エイゼンシュテインは
「ドミナント」のモンタージュを、4段階に分けて具体的に説明している。
1 メトリック(metric)・モンタージュ
行進曲やワルツのような測定できる拍子の「ドミナント」が並ぶと、身体的な同 調によって、観客を一定の運動状態へと導くことができる。例えば同方向へ草刈り する場面の連続を見ると、観客は無意識のうちに、体をリズミカルに左右に揺り動
かす。
2 リズミック(rhythmic)・モンタージュ
人間の鼓動や呼吸など生理的な韻律をもつ「ドミナント」の並びであり、例えば 階段を降りる兵士たちの足音のリズムが、転落する乳母車の加速する音に移行し、
観客の鼓動や呼吸と和合して緊張をつくりだす。
3 トーン(tone)・モンタージュ
トーン(tone音調)的な「ドミナント」とは、ショットから発生する「光の振 動としての運動」であり、例えば「夜明けの霧の深さ」や「嵐の接近する空」など である。長調や短調のような、情緒的な趣をもつ韻律をもっている。これらの「ド ミナント」には必ず、水の流れや空気の流れなど「移動としての運動」が
2
次的「ドミナント」として伴う。主な「ドミナント」(夜明けの霧)を
2
次的な「ドミ ナント」(雨の本流、あるいは逆に、穏やかな船の揺れ)が内面的に強化すると、緊張が増減されて情緒的に知覚される。
4 オーヴァートーン(overtone)・モンタージュ
トーン・モンタージュが発展すると、2次的「ドミナント」同士が、自立した葛 藤関係をもつようになり、ポリフォニー(重複旋律)のような複合的な感覚を、計 算外に生みだす。トーンの錯綜した状態から、メトリックやリズミックな振動が新 たに出現し、観客の鼓動に働きかけて、同調が生じる。トーンとしての知覚された 韻律が、肉体に「転移」したように知覚されることによって、直接的な生理的感覚 が生じる。
エイゼンシュテインの「ドミナント」のモンタージュは、段階をもって発展す る。メトリックな「ドミナント」の有機的なものがリズミックな「ドミナント」で あり、リズミックな「ドミナント」はトーンの「ドミナント」に付随している。そ してトーンの「ドミナント」がより複雑に発展したものが、オーヴァートーンの
「ドミナント」である。エイゼンシュテインは「オデッサ港の霧」を例に挙げ、夜 明けの霧の深さのトーンを「ドミナント」とする場面に、わずかな水の振動・まど ろむ船の軽やかな揺れ・立ち上る煙・ゆっくり水面に下降するカモメたちなどの トーンが、2次的な「ドミナント」として付随する様子を述べた。同じ場面にある これらのトーンは全く同じではないが、協和音のような情緒的な響きによって連結 されて、緩やかに知覚される。他方で、例えば嵐の接近する空の場面に、強まる風
と雨水の奔流、翻るライ麦畑の畝が、不協和音のように激情的な響きのもとに連結 している様子も紹介している。いずれの場合も、エイゼンシュテインが生理的な感 覚を生みだし感情を伝えるトーンの例として挙げているものの多くは、環境にある 肌理(texture)の変化である。エイゼンシュテインは、主人公の表情や行動では なく、様々な肌理(texture)の変化を、感情に働きかけるための基本的な表現要 素として捉えていることがわかった。
エイゼンシュテインは奥行きをどのように捉えているのだろうか。絵と違って映 像は初めから、場面に奥行きを含んでいる。その奥行きをどのように表現するか は、被写界深度やレンズやカメラワークに係わる問題となる。それらと別の捉え方 として、エイゼンシュテインは「垂直のモンタージュ」27の中で、「静止した画像 の全体は、そのあらゆる部分において、けっして同時に見る者の知覚に入ってくる わけではないという事実が見すごされている」と述べ、絵の中に、視線を導く「眼 の道」があることを説明する。そして映像においても、眼の運動として、水平方向 へ動く眼が常に奥行きを知覚しようとする傾向をもつと述べている。雪の湖面の情 景を例に挙げて、注意が奥へ引き込まれるような感覚と同時に、映像が見る者の方 へ向かってくるような感覚が生みだされると述べている。
エイゼンシュテインのモンタージュ論に依拠して絵本論28を書いた長谷川集平 は、自らの絵本の中でモンタージュを実践している。例えば『はせがわくんきら いや』29のピアノを弾く場面では、ピアノの鍵盤、擦れた畳の目の連なり、障子 の桟、引き出しの長四角が、各々の大きさで反復してびっしり描かれている(図
①)。それらを目で辿ると、「トトトトトトトト」と小さく続く畳の目のリズムや
「トーン、トーン、トーン、トーン」と長く響く引き出しのリズムなど、各々の繰 り返しのリズムがまるで音韻のように感じられてくる。繰り返す調子はそれぞれ 違っているので、全体の印象は不揃いである。見た目の不揃いな調子が、心の中で 不揃いな韻律となり、不揃いなたどたどしいピアノの音として感じられてくるので ある。長谷川が意図したのは、線や形が繰り返す視覚的リズムによって、読み手の 心に音韻の聴覚的リズムを生起させることである。この効果は、トーン・モンター ジュの効果と同様であり、絵本においてもトーン・モンタージュが成り立つことが わかった。
エイゼンシュテインが追求したものは、観客の感情を揺り動かすような映画づく りであり、そのために必要な表現要素の構造研究と演出法の研究であった。思いが けないショットの連結が観客を揺り動かしていく仕組みを分析し、意味内容と切り 離された環境のトーン(光の振動の音調)が、鼓動や呼吸を介した生理的な揺れと して観客に知覚される道筋を明らかにした。トーンはすなわち肌理(texture)の
変化である。エイゼンシュテインの研究によって、肌理(texture)は奥行き知覚 の手がかりとなると同時に、肌理(texture)が感情を伝える道筋となることを知 ることができた。
本章の検討から、肌理(texture)が奥行きを知る手がかりとなること、登場す るものに「なったつもり」で読むと身体感覚や感情を伴う経験として感じられるこ と、波や霧やライ麦畑の畝などの視覚的な肌理(texture)の変化が生理的な揺れ となって読み手に伝わり、感情を生起させることがわかった。
Ⅱ. 遠近法の表わすもの(絵本に描かれた遠近法を知るために)
遠近法は絵画の描画技法として、古代から今日まで世界各地の文化の中で様々に 発展し研究されてきた。本章では遠近法の発展を歴史的に追うのでなく、遠近法の 表現効果の違いやそれらがつくりだす「垂直方向に開かれた空間表現」に注目し、
絵本に描かれた遠近法を考える上での手がかりとする。遠近法を歴史的に捉える前 に、子どもが奥行きをどのように表わすのかという個体発生的な遠近感の発達を整 理して、絵本に描かれた遠近法を考える上での参考にしたい。
乳児のなぐり描きなどの錯画や、円に命名する幼児の象徴的な描画の段階には、
空間を描こうとする意識は見当たらず、画面の中に上下・左右・前後の捉え方も存 在しない。鬼丸吉弘は、子どもは、円形に目鼻や手足が付く「頭足類」の段階を経 て、ものには正面と側面があることに気付き、正面観と側面観の混合した「観面混 合」の表現を行うと述べている30。次に、大地に立っているという空間意識にめざ めると、絵の中に基底線が描かれる。この時、立っている場所が「面」として感じ られるなら、線とはならずに基底面として表現される。例えば「道を歩く人」や
「バスが走っている」ところを描く場合は基底線が選ばれ、「芝生に寝転んでいる 人」や「テーブルの上のごちそう」を描く場合は基底面が選ばれる。「環になった 子どもたち」を描く場合には基底線が環として描かれ、環をなす基底線に垂直に立 つ子どもの正面姿が、展開的に何人も描かれる。それ以後、学齢期になると、知っ ていることを描く「観面混合」の表現は姿を消し始め、試行錯誤しながら見たよう に奥行きを描こうとし始める31。この時期になると子どもはすでに、マンガなどに 描かれた線遠近法の知識をもっていて、それに沿うように描こうとする傾向が強 い。学校教育でも線遠近法の描き方が示されている。
子どもの描画の発達段階でみられる、側面と正面の「観面混合」や基底線と基底 面の表現は、古代の文化においても頻繁に登場する、象徴的な空間表現であること が興味深い。
Ⅱ. 1. 西洋の遠近法の表わすもの
●「もの」に付随する空間
古代では、空間から切り離してもそれ自体で成り立つ形として「もの」を描い た。小山によると、「もの」を周囲の空間ごと描いた絵は、紀元
1
世紀前後のポン ペイ壁画が最初である1。壁を出窓に見立てた中に、金細工するキューピットたち や細工道具、卵を置いたテーブルなどを描いている。キューピットや果物や作業台 などは陰影をつけて立体的に描いているけれども、背景を赤で塗りつぶし、背後に 奥行きのある空間を描く意図はない。作業台の周りの空間は、ものを成り立たせる ために描かれた空間である。本稿では便宜上、このような、「もの」に付随する空 間を、「もの」空間と呼ぶ。「もの」空間では背景の奥行きをもたないので、立体的 に描いたものが前へ突出して来て、手に触れるように感じられる。●組み合わされた「もの」空間
中世になると、宗教上の需要から大きな絵画が描かれるようになるが、「もの」
に付随する空間を並べただけで、空間そのものを描く意識は見られないと小山は指 摘する。その後、聖人など主要人物のいる画面の中央軸に向かって、「もの」空間 が秩序をもって並ぶようになる。ドゥッチオ(Buoninsegna, Duccio di)の『玉座 の聖母子』では奥行きを表わす線が画面の中心線上で交差して「魚骨的構成」を示 しているが、この秩序は奥行き表現の芽生えではなく、聖人に目線を集めるための 象徴的な変形であると小山は述べている。古代では触感的な「もの」空間であった が、中世の「もの」空間では立体感が消えている。
●「眼の道」を辿って「もの」空間を見る
14、15
世紀のヨーロッパでつくられた「時祷書(heures)」には、例えば下から仰ぎ見るように描かれた塔と上から覗き込むように描かれた畑が隣り合うなど、ア ングルの違う遠近法で描かれた「もの」空間が隣り合って並ぶ32。時祷書は、キリ スト教のお祈りを記したテキストであると同時にカレンダーの役割も果たすので、
見開きページの反対側には、季節折々の行事や過ごし方などが絵で描かれている。
畑の種まきから豚の飼い方、婚約の仕方まで市民の生活や風俗が、当時流行ってい た細密画(ミニアチュール
miniature)風に細かに描かれている(図②)。絵の上方
には遠くに小さく見えるもの、下方には大きく見えるものを描く自然な縮小遠近法 で描かれている。手前から目で辿ると、各々の話題を描いた場面に出会う。「覗き 込む」「仰ぎ見る」など遠近法表現のアングルの違いは、伝えたい内容を描きやす いように設定した結果である。目で辿ると、「覗き込む」など身体感覚が湧きあがるのを感じる。「もの」空間の歪みは、畑の畝や芝生などで調整されている。
●
2
つの視座から「もの」空間を見る中世ビザンチンの絵画の中には、机の両端の線が先へいくほど広がるなど、観察 による自然な遠近法から見ても、不自然な奥行きをもつ宗教画群がある(図③)。
先ほど「統一的空間を表わそうとする意識の欠落」という解釈を紹介したが、全く 異なる別の解釈もある。ウスペンスキーは、画工は絵の内側の視座からの見え方を 描いていると説明する33。その絵を観る者の目を絵の内側に誘い、向こう側からの 見え方として見せていると述べている。このように絵の内側の視座と外側の視座が あり、2つの視座からの見え方を兼ね備える中世の絵のシステムを「逆遠近法」と 呼ぶ。2つの視座は、画面に垂直に開かれた空間を見事につくりだしている。線の 先が先で開くように描かれた机は、絵の奥の視座からの見え方だから、こちら側に 近付くにつれて小さくなるのは了解できるという。
●
1
つの視座から「線遠近法」空間を見る線遠近法(linear perspective)は、15世紀のイタリアで、建築家のブルネルスキ
(Brunelleschi, Filippo)が体験的に原理を発見し、アルベルティ(Alberti, Leon B.)
が理論的に解明した、空間を描き表わすシステムである。線遠近法の発見によっ て、人間の目と位置の関係が客観的に認識され、2次元の平面に仮象空間を表現で きるようになった。小山は、線遠近法は人間の自然の視覚に基づく方法であるけれ ど、両眼視を排し、視点を固定して獲得した空間ゆえに表現上の限界があると説明 する34。ルネッサンス以後の遠近法は、新たな形で表現され始める。若桑みどりに よると、マニエリズムでは極端な視点をとることで空間を歪めて感情を表わし、バ ロックでは遠近法の届かぬ無限空間を描いて天に吸い込まれるような恍惚感を描い たという35。
●視座を動かして「線遠近法」空間を見る
絵に
3
次元を描くことを否定するキュービズム以降、逆に遠近法のシステムを肯 定した上で「移動する視点」を用いて有機的な空間をつくりだした作家たちもい る。例えばクレー(Klee, Paul)は、同じ消失点をもたずに複雑に視点を移動する ことによって浮遊するような詩的空間をつくり、キリコ(Chirico, Giorgio de)は 異なる複数の消失点によって、複雑な歪みをもつ空間をつくろうとした(図④)。またエッシャー(Escher, M. C.)は、線遠近法に忠実に描きながら、空間の凹凸を 敢えて読み違えたり視座を変えたりして、空間に歪みやねじれをもつ「トロンプ・
ルイユ(trompe-l’oeilだまし絵)」を描いている34。またエッシャーは、素材の肌理
(texture)を少しずつ変化させて視点の異なる空間を次々と表わすような「メタ モルフォーシス(metamorphosis変容)」の作品も手掛けている。
以上でとりあげたような、遠近法のつくりだす様々な空間は、現代の絵本の中に どのように取り入れられているのだろうか。いくつかの例を取り上げてみる。
●「もの」に付随する空間(「もの」空間)としての表現
「もの」空間では、空間は「もの」の周囲を包むだけに留まり、奥行きを描こう としていない。そのため「もの」が絵の外側に押し出されてきて、そこにあって触 れるように思われる。読み手は、現物があるように感じられるので、「なったつも り」で絵の中に入る必要はない。例えば、オールズバーグは『魔術師アブドゥル・
ガサツィの庭園』36で、主人公アランと犬のフリッツが眠るソファを広い壁の前に 描いている。事件が起こる前の場面である。背後に奥行きが全くないので、ソファ の存在感が際立ち、画面から浮き上がって見える。壁一面に描かれた小花の繰り返 し模様は、動きのある筆使いで描かれていて、おまけに形が不揃いなので、ざわめ くような感じを醸しだしている。またカーペットの模様は、画面の外へ向かう矢印 のような配置で描かれている。全てが画面から突出してくるように感じられ、これ から何かが起きるという緊張感の高まりを上手く表わしている。
●「逆遠近法」による空間表現
「もの」空間をいくつ組み合わせても奥行きは生まれないが、「逆遠近法」という 観点に立って描くと、画面の内側と外側で向かい合う
2
つの視座が、画面の奥と手 前に垂直方向に開かれた空間をつくりだす。中世の宗教画では、両端の先が開いた 不自然な遠近感で描かれた机に目を誘導されて辿っていくと、その先には聖人がい る。聖人に「なったつもり」で絵の内側から外側(こちら側)を見ると、不自然に 見えた遠近法の勾配は、内側から見る限り、自分側に広い自然な勾配であることが わかる。しかし絵には、外側の視座から見たように描かれたものも多いので、聖人 に「なったつもり」の自分の意識の一部を絵の内側に残しながら、視座を絵の外側 に戻す。このような、画面に対して垂直方向に対応する2
つの視座は、絵を境にし て、向こう側とこちら側に同時に空間があるような感じを生じさせる。長谷川集平 は『はせがわくんきらいや』29の中の、「はせがわくん」が病気になった顛末を母 親が打ち明ける場面で、逆遠近法を用いている。逆遠近法で描かれた先に開いた机 の先には、病気の原因となった粉ミルクの缶と母親が大きく描かれているので、母親に「なったつもり」でテクストを読むことになる。机の先には逆遠近法で描かれ たベビーベッドが続くように描かれているので、視線は一気にベッドの中で泣く赤 ん坊に辿りつき、赤ん坊に「なったつもり」で事態を見る。画面の手前には「ぼ く」(語り手でもある主人公)がいて、赤ん坊や母親の気持ちに「なったつもり」
で話を聞いている、その心のあり方が表現されている。読み手は「ぼく」の位置に いるので、最も「ぼく」に近い心境で、その場にいるような身体感覚と感情を伴っ て、状況を経験することになる。
●「線遠近法」による空間表現
視座を
1
つに定めた線遠近法の絵を見ると、中心に向かって目が吸い込まれるよ うに動くことがわかる。「小びと」のように小さくなった読み手の意識は、エスカ レーターに乗ったように、描き手が想定した遠近法の消失点へ到達する。消失点に 何があるかによって、表現される空間の質が大きく異なるようだ。消失点が中央にある線遠近法の絵の多くは、消失点に聖人など重要人物を配して いるけれども、バロックの宗教的天井画の場合は消失点に空を配している。見上げ て、線遠近法の勾配に沿って視線が吸いこまれても、何も描かれていない空のどこ で視線を止めてよいかわからない。どこまでも吸い込まれていくような浮遊感覚が 生じてくる。前章でギブソンは、自分が前へ進む移動の感覚は、後ろへ流れる空間 の肌理(texture)によって支えられていると述べていた。前へ向かう感覚にある 時は、同時に、それまでいた空間が自分の後方へ下がる感覚を伴うのである。つま り空に無限の奥行きを感じると同時に、絵の中から絵の外に向かって、天使たちや 星が降りて来るような感覚が、読み手の実感として生じるに違いない。ここにも、
絵の奥と手前に開く垂直の空間が生じていた。
絵本画家である林明子は『あさえとちいさいいもうと』37の中で、1点に集約す る線遠近法を使って道を描き、終点に現れたものによって、焦る閉塞感や突き抜け た感じを上手く表現している。林は、妹が見つからない時は道の終点に壁を描き、
妹が見つかる場面では道の終点に空と木々を描いている。読み手は、妹を探す姉の 後ろ姿に自分を重ね、姉に「なったつもり」で道を駆けていく。道の傾斜の先に壁 が現れた時は、跳ね返されたような、突き放されたような感覚に襲われる。木々と 空が見えると、吸いこまれるような突き抜けた高揚感に包まれるだろう。この場 合、身体感覚は、不安や安心など感情を表わすものとして作用している。
このように、遠近法の表現は現代の絵本作家によって積極的に用いられ、伝統絵 画の中で発揮していた以上の効果を、絵本の画面にもたらしていた。遠近法は傾斜
する線の勾配が目を誘うので、目で辿っていくと身体感覚や感情が生起することも 確認できた。視点のアングルの違いが様々な空間をつくりだすが、空間そのものが 身体感覚を使う多様な見方を誘っていること、大地の肌理(texture)が空間を調 整していることも明らかになった。
Ⅱ. 2. 図学において遠近法の表わすもの
小山によると、
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世紀末、数学者ガスパール・モンジュ(Monge, Gaspard)は、線遠近法の図法や石切り図や日時計の理論を統合して、3次元を
2
次元に表わす理 論である図学(図法幾何学)を確立した34。図学では、水平な平面とそれに直交す る垂直で透明な面を想定して、空間を4
つに分ける。水平な平面を地面、垂直で透 明な面を画面と考える。図にある第1
象限を私たちの日常の空間、第2
象限が絵の 中の世界であると仮定すると、第1
象限にいる私たちが、第2
象限の世界の出来事 を垂直で透明な壁に写し取ったものが絵である、ということになる(図⑤)。その 中で、立方体や直方体を絵に描き表わそうとする手法が線遠近法であり、絵画に主 に使われるものが1
点透視図法(消失点が1
つ)と2
点透視図法(水平線上に消失 点が2
点ある)である。面出らは、透し図法で描かれた図が、立方体を見るアン グルによって全く異なる様子を図に表わしている(図⑥)38。さらに遠近法以外に も、立方体などを「わかるように」描いた絵は古くから見られ、それらの描き方が 自然発生的に生まれたと述べている。それらの図を図学に統合する際には、「視点 を無限の遠方におき、視点が画面に傾斜する角度から見た図」として定義し、軸測 投象や斜投象と呼び直している(図⑦)39。Ⅱ. 3. 日本の物語絵において遠近法の表わすもの
日本における遠近法は、絵巻などの物語の絵や「社寺参詣曼荼羅」など、語りを 伴う絵において、日本画や水墨画など伝統的な絵画とは異なる独自の展開を見せて いる。
●なぜ「吹き抜け屋台」が選ばれたのか
面出らは、図学上たくさんある描き方の中から、日本の絵巻がなぜ「吹き抜け屋 台」と呼ばれる描き方を選んだかという問いに対して、図解して説明している(図
⑧)40。そして、内側の様子をたくさん描くことができる、絵巻物として左の水平 方向へ次々と続くので水平方向へ展開する斜投象右上がりの図法が便利である、と いう
2
点からこの描き方が選ばれたのではないかと述べている。他方で小山は「吹 き抜け屋台」がなぜ逆遠近法になるのかを図学上から考察し、両眼視からの見え方が微妙な先広がりの見え方をつくる様子を示し、両眼視の影響が大きいと述べてい る(図⑨)41。また、アルンハイム(Arnheim, R.)の視覚論を借りて、生理学的な 視覚の揺れが「視覚の違う形の同存化」という表現の形で現れているのではないか とも補足している(図⑩)。また『源氏物語絵巻』五島美術館蔵の鈴虫の段(一)
を例に挙げて、立つ若い尼から部屋で伏せる三の宮、左の手前の部屋へと、カメラ が移動するように視線を廻し見ると、「眼前をすぎる奥行きの線が、徐々に廻転し てその角度を変えていくように感じられる」と述べている(図⑪)。
●眼で歩く「社寺参詣曼荼羅」
日本では
16
世紀から17
世紀にかけて、洛中洛外図や名所図、遊楽図など大型絵 画が登場するが、その中でも「社寺参詣曼荼羅」は独自の表現をもつ。「社寺参詣 曼荼羅」は、社寺とその地域にまつわる縁起や霊験を表わして信仰対象となると同 時に、境内一円を俯瞰して参詣路を配し、行事や祭礼や門前の繁栄などの風俗も描 いている42。門前で「絵解き」(絵に描かれている内容を聴衆に説明する)される ことを前提につくられた、縦横170
センチ内外の大型掛幅絵である。絵の中の参詣 路には同じ人物が何度も描かれ、絵解きの語り方に従って縁起譚や霊験譚の主人公 や案内人となり、聴衆の視線移動を喚起している43。遠高近低に描く日本の風景画 の原則は破られていて、主人公の背丈はどこでも同じである。読み手は主人公に「なったつもり」で、お堂など建造物を仰ぎ見たり覗いたりする。さらに別の場所 にいる主人公を探すために、道を目で辿っていく。お堂を描く遠近法の角度は、道 に沿って見易く、様子を表わしやすいように、建物ごとに設定されていた。実際に
「伊勢参詣曼荼羅」(伊勢神宮)の一部を分析したところ、主人公の向き方に対応 して建造物が少しずつ異なる遠近法で描かれていることがわかった。
タイガー立石は『ままです すきです すてきです』44において、「社寺参詣曼 荼羅」と同様に、少しずつ異なる遠近法表現を連ねて、読み手の目を誘う絵を描 いている。しりとりのことばに導かれて進んでいくと、「たぬき」「きつね」「こあ ら」がホテルの仕事をしている光景が描かれている。しかし、よく見ると、彼ら の立つ地表を描き表わす遠近法のアングルが少しずつ違っている。この違いを分 析すると、絵に描かれた建物の柱や梁や床板などが、全て緩い曲線(R600mm〜
R150mm)で描かれていることがわかった。緩やかな魚眼レンズで見たように、空
間は歪んでいる。動物に「なったつもり」で、動物の姿に合わせて心の中で身体 軸を傾ける。その傾きと動物の直下の床の方向は合っているので、とりあえずの 安定感が生じる。しかし、空間のどこが歪んでいるのかはわからないけれども、遠くの動物を見ると自分の立つ空間とは確かに地表の角度が違うので、目眩がす
るような感覚に陥る。描き手は、歪んだ空間に読み手を引きこみ、目を眩ませる ことを意図しているのだろう。先にあげたエッシャーの「メタモルフォーシス
(metamorphosis変容)」の影響も伺える。
以上のように、「吹き抜け屋台」「社寺参詣曼荼羅」には、絵の中の主人公の姿に 視座を移動しながら身体的な空間イメージを介して認識していくことで成立する、
西洋の「時祷書」や中世ビザンチン絵画と同じ質の空間が描かれていた。
Ⅲ. 絵本の絵における遠近法の表わすもの
本稿では、奥行きをつくりだす肌理(texture)の変化に注目すること、登場す るものに「なったつもり」で身体感覚を発動しながら読むこと、視覚的なリズムが 生理的なリズムに共鳴して感情を伝えることに留意しながら、絵本画面の奥と手前 に垂直に開かれた空間表現のあり方を探ってきた。さらに、奥行きをつくる描画技 法としての遠近法を歴史的・文化的に検討した結果、近世以前の遠近法の多くは動 く複数の視点からの自然な見え方をつくること、線遠近法は強い吸引力をもつ空間 をつくるための人工的な見え方であること、逆遠近法は何かを象徴あるいは強調す るための象徴的な見え方をつくることがわかった。
遠近法を検討する過程で、線遠近法の焦点が空にあり吸引力の強いバロックの遠 近法や画面の内側と外側に
2
つの視座をもつ逆遠近法において、絵本画面の奥と手 前に垂直に開かれた空間が生まれることがわかった。各々の空間では、そこで起こ る出来事が身体感覚や感情に強く働きかけていくこともわかった。最後に、これら の垂直方向の空間表現が、連続する絵本画面においてどのように働くかを考えてみ る。線遠近法の視線を絡め取る吸引力の強さは、いわむらかずおの『14ひきのぴく にっく』の中で表現されていた11。まずピクニックに来たネズミたちが、目的地の 野原に着いて後ろ姿で立っている。目の前には空が大きく開けているが、遠近感を 強調する要素が何もないので、ネズミの背中に自分を重ねても、ただ静かな広さを 感じるばかりである。ところが次の画面では、視座が逆転して野原の向こう側の、
地面の低い位置に移っている。飛び出して来た先頭のネズミのクローズアップされ た大きさに対して、1番後ろのネズミの大きさは極端に小さく描かれていて、2匹 の間には大きな遠近感が生じている。そして遠近感の違う大きさに描かれた