第141 号 2020 年 9 月 要 旨 大正から昭和初期の保育施設では,発祥当時から玩具として絵本は使用されてきており,その 流れは変わることなく続いていた.一般的にも絵本は子どもの娯楽であるとして普及し,安価で 粗雑な作りの絵本や絵雑誌が多く出版されるようになっていく.そのなかで,教育的側面から子 どもへの影響について有識者から論じられるようになる.そして当時の絵本の状況をよしとしな い文部省から絵本の改善を求める冊子「子どもの絵本」が配布される.そういったこともあり, 保育界でも絵本への意識が高まり,教材として位置づけるようになっていく.特に,幼稚園令制 定において保育項目に「観察」が加わるに伴って刊行される保育絵本『観察絵本キンダーブッ ク』の存在が大きく,保育施設での絵本の位置づけも高まっていった.ここでの,文部省から文 化財である絵本について事細かく指示されたということをどのように捉えるのかしっかりとおさ えておく必要がある.この後の戦時体制強化のなかでの国民支持の積極的検閲へとつながるもの が感じられるからである. キーワード:保育・幼児教育,絵本の歴史,大正期,昭和初期
はじめに
この論文は,2019 年 3 月発行の『あいち保育研究所研究紀要』第 10 号に発表した「日本の保 育現場における絵本の使用状況の歴史(一)」の(二)にあたる.(一)では,明治期の保育施設 での絵本の使用状況を実際の絵本の画像を紹介しつつ概観した.今回は,保育施設が全国に広ま り公的施設として発展していく,大正から昭和初期の時代を見ていくことになる. こ こで の対 象とする 時 代 は,大 正(1912)に入り,第 1 次世界大戦が終了する大正 7 年 (1918),大正 12 年(1923)9 月 1 日には関東大震災に見舞われ,大正 15 年(1926)の幼稚園令 公布を経て昭和に入り,戦時体制が強まり「言論統制」検閲がはじまる昭和13 年(1938)の国日本の保育施設における絵本の使用状況の歴史
大正期から昭和初期の保育施設における絵本の使用状況
富 田 克 巳
家総動員法が制定される以前とする.この間の保育施設での絵本の使用状況を,当時使用されて いたと思われる絵本とその表紙の画像を紹介しつつ,具体的なイメージをもって確認することが 目的である. 以下,保育にかかわる絵本の特徴的な状況を四つに分け,この時代の流れに沿って述べてい く.
1.大正デモクラシー時代の保育施設と絵本
ここでは大正期の絵本が社会の変化とともにどのように変わっていったのかを述べていき,そ の状況下における保育施設(幼稚園)での絵本の使用状況を見ていく. 明治から大正へと時代が変わってはいくが,絵本の世界でおもだった変化は感じられない.ま だまだ,江戸から続く絵草子の影響を受けているものが多く,版型も横長のものと絵草子サイズ のものが多い(図1・2).ストーリーのあるものは昔話以外にはほとんどなく,タイトルにか かわる内容が1 場面ごとに描かれていくといったものが主である.ここには紹介しないが,乗り 物や動物などの「尽くしもの」(図鑑のようなもの)もそのなかに入る. はしがきに家庭円満の為には勤勉が必要で,そのことによって嬉しいことや楽しいことは自然と湧いてくる といったようなことが書かれており,勤勉を勧める絵本である.1 頁毎に絵がありその題と文章 1,2 行が添 えられている.作者は版画家であり,そこからも絵草子からの影響が感じられる. 最後の頁「嬉ウレシイ御オ召メシ替カエ」「八重子サンハ目出度ク学校ヲ優等ニ卒業シテ今日ハ免状ヲ戴キニ行クノデ喜ンデ 居リマス」. 図1 『教訓繪ばなし 家か庭ていの賑にぎはひ』濱田如洗画作,東京冨里昇進堂,大正4 年(1915).大阪の絵草子屋.ここから出版された,薄い紙を使用し8頁ぐらいの印刷が雑なもので,今では赤本と呼ば れるようになる安価本がかなり多く現存する.露店や電車の中、駄菓子屋で販売.絵草紙と同サイズ.本文 は,木版,カッパ版,8頁.龍宮城でご馳走を食べた次頁で夫婦になる.竜宮城の鯛が,児童劇のように人 間が頭に鯛を被っているのが面白い.この表現方法は江戸の草双紙によく見られる. 図2 『浦島太郎』榎本松之助画作,榎本書店,大正 9 年(1920). その後,大正デモクラシーの時代に入ると,自由主義,民主主義の気風が高まると共に,教育 界にも自由主義教育の思想が広まっていった.児童文学の世界では,雑誌『赤い鳥』が大正7 年 (1918)に創刊され,童心主義を柱とする赤い鳥運動(児童文学運動)の輪が広がっていった. そのなかの挿絵を描く作家として,多くの童画家が誕生した.そして,その童画家たちを中心と する絵雑誌『コドモノクニ』(図3)が大正 11 年(1922)1 月に創刊されることになる.岡本帰 一をはじめ,戦後も活躍した武井武雄,初山茂などが参加している.それまでは絵本の絵の作者 名が記されないことも多かったが,このような絵本を描く童画家の存在が社会的に認知された時 代ともいえる.彼ら童画家たちの画風はモダニズムともいわれ竹久夢二風のものが多く,他の絵 本を描いてきた絵描きにも影響を与え,当時の無名作家も同じような雰囲気の絵を描いているこ とも多いことが,この時代の絵本の特徴ともいえる.新しい画風の流行である.このようにして 江戸・明治から引き継がれてきた絵草子風の子ども絵本は,関東大震災で版元が大きなダメージ を受けたことも影響し,姿を消していく.しかしこの特徴は長くは続かず,昭和の戦時下の検閲 と共に消えていくことになる.
図3 絵雑誌『コドモノクニ』第 12 巻第 3 号,東京社,昭和 8 年(1933). 当時の絵雑誌は,見開きごとにテーマと作者が変わり,多くは童話や童謡,日常生活の描写などが掲載され ている.四六版.イメージが持ちやすいように目次を引用しておく. 〇表紙…初山茂画,〇目次・トビラ…武井武雄画,〇ミルクシボリ…深澤省三画,〇ニッカーボッカー (童謡)…北原白秋作・清水良雄画,〇カゼノナイアタタカイ日…小川未明作・川上四朗画,〇彼岸詣り …越智はじめ画,〇おせんたく(童話)…西条八十作・清水良雄画,〇ビルヂングの街…安井小彌太画, 〇コドモ特選童謡・オ話…川上四朗画,〇お人形とタマ公(童話)…竹内俊子作・初山茂画,〇ゐのしし …前島とも画,〇田舎の春…安 泰画,〇サクラ…佐藤義美作・福田新生画,〇大人・コドモ特選画…武 井武雄画,〇郷土画…,〇メンタルテスト(懸賞)…鳩谷昇画,〇裏表紙…武井武雄画 図4 『教育幼年繪本 タノシイ 幼ヤウ稚チ園エン』石川兼次郎,富士屋書店,大正13 年(1924). 大阪の出版社.当時の安価で粗雑な作りの赤本と呼ばれるようになる絵本だが,どこか竹久夢二の画風に似 ている.幼稚園での生活が1頁毎に10 場面描かれている.登園,勉強,歌(オルガンに合わせて,君が代 を歌っている),鬼ごっこ・電車ごっこ,ブランコ・輪回し,運動会(弁当,縄跳び・ボール・シーソー, 徒競走)ウサギとカメと遊ぶ,犬と猫と遊ぶ.子どもたちがとても生き生きと描かれている. しかし絵本の華やかな画風とは対照的に,大正7 年(1918)の第 1 次世界大戦後以降,貧困層 が増大していく.米価が高騰し,米騒動が勃発する.更に,大正12 年(1923)には関東大震災 によって貧困化がより深刻になっていく.このような状況下で,社会主義運動が盛んになり労働 組合結成につながっていく.こういった社会的な動きへの対応策として,これまで一部の慈善活 動家によるものであった託児所等の保育施設は,社会事業として公的な位置づけとなり,保育 所・託児所の増加へとつながっていく.大正7 年(1918)の全国の保育所数は前年より7か所増
えて約172 か所(職場 75,地域 97),幼稚園数は 677 か所. その後,保育所は大正8年(1919) 約16 増,大正 9 年(1920)約 11 増,大正 10 年(1921)約 13 増,大正 11 年(1922)約 24 増, 大 正12 年(1923) 約 27 増, 大 正 13 年(1924)37 増, 大 正 14 年(1925)32 増, 昭 和 元 年 (1926)51 増, 昭 和 2 年(1927)58 増, 昭 和 3 年(1928)76 増, 昭 和 4 年(1929)62 増 と な る 1).1919 年から 1929 年の 10 年間で保育所は約 400 か所増え,倍以上増設されるという勢いで ある.その後,世界恐慌は日本にも影響し,更なる戦争へと向かっていくことになる. さて最後に,自由主義教育の普及により幼児教育も黒板を前にして机に向かって学ぶという形 式から子ども中心の生活体験を重視し自ら経験して学ぶ保育の導入へとつながっていくことに なっていったが,そのような保育のなかでの絵本の位置づけとそこにかかわる子どもの姿をいく つか紹介しておく. 大正期の幼稚園・保育所での絵本の使用状況は,相変わらず教材としての位置づけは低くお話 の分野は保育項目の「談話」として素話や掛図を使っての話が中心だった.絵本は自由遊びの玩 具のひとつとして玩具箱に入れ遊戯室に置かれ,自由遊びの時間に自由に手に取って見るという 状況だった.当時の高松市中央幼稚園の「幼稚園内の一日」には,朝の自由時間には,「室内 絵本 積木 玩具 盆栽 生花 畫方 園庭に遊び飽き又は随意に室に入り成るべく樂に自由に 遊ばしむ」2)とある.また,三越の児童用品研究会の武田眞一(1917)は絵本を「絵本類」とし て玩具の一つとして扱っており3),社会的にも絵本は玩具だという認識があることがわかる. では,このような絵本と子どもたちのかかわりは,どのようなものであったのだろうか.幼稚 園での絵本とかかわる子どもの姿を,保育雑誌『幼児の教育』4)からいくつか紹介する. ①活動を生命とする幼児は,思い思いの欲求にそれからそれへと飛びまわり,はれ上がった 南廊下の日当たりよき自然階(子どもが自由に過ごす空間か)には芋蟲の様に,ゴロゴロと 絵本を余念なく見ておる. ②先生「おすみになったら,おうがいしましょう.」 程なくすみて 食休み 独楽を持ち出すものもあり 絵本折紙 好き好きの遊びに余念な し ③食後はいつもしばし室内にとどらませ皆の食事の終わるのを待ち合わさせかたがた絵本を 見せ又は積木,書き方,或は摺み方(折り紙か)等自分の好きなものをさせる. *ここでは,旧漢字,旧仮名づかいは読みやすくするために書き改めた.括弧内は筆者. ①は,朝の礼拝後の自分たちの保育室に戻ってからの姿である.日当たりのよい廊下で寝転がっ て絵本を見ている姿はいつの時代も変わらない.②は,小春日和の午前中,「庭遊び」で縄跳び, 砂場遊び,相撲,鬼ごっこ,かけっこと思い思いの遊びにふけり,たっぷりと遊んだ後の食後の
姿である.③は,11 月の末,園外保育に出かけた日の食後のようすである.このように自由な 時間に自由に絵本を取り出して好きなように絵を見て楽しんでいたことがわかる.しかし,幼稚 園令制定において保育項目に「観察」が加わると大きな変化が現れることになるが,このことに ついては4で詳しく述べていく.
2.絵雑誌の流行と保育界での評価
大正から昭和の初めにかけて,絵本は江戸からの影響を若干残しつつも,新しい画風を発見 し,印刷・製本技術の発展とともに多彩さを得て,より子どもの世界に浸透し普及していった. そのなかで商品としての価値も広がり,出版社同士の競争のもと,購読者の確保へとさまざまの 試みがされるようになる.当時の絵本は,大まかに三種に分けることができる.一つは,草双紙 屋から引き継がれたもので,紙が薄く頁数が少ない,安価で粗雑さと派手な色が目立ついわゆる 赤本.そして数は少ないが,主に中西屋・丸善で発行(1910 ~)された,やや高価な絵本.ハー ドカバーで現在の絵本の作りに近い.そして三つめが,もっとも普及し庶民が多く手にしただろ う子ども絵雑誌と呼ばれる定期的に発行される子どものための雑誌である.先に紹介した,『コ ドモノクニ』もそうだが,当時の資料を見てみると数知れないほど発行されている.ここでは, これらの子ども絵雑誌と保育施設との関係を述べていく. まず,ここで対象となる絵雑誌を紹介する. 図5『幼年の友』(実業之日本社)明治 38 年(1905)創刊 大正元年(1912)12 月号 「ハイカラニウツシテ…」「クリスマス」「チュウギ」「赤穂浪士」「教育勅語絵解き」「子( ね ) ノ年モコレデ オシマイ…」など一枚絵中心に,「孤兒ノ別レ」などお話や,コマ漫画で構成されている.図6 『幼年画報』(博文館)明治 38 年(1905)創刊 大正3 年(1914)9 月号 図5 と同じような構成だが,一枚絵に貝やヒトデ,クラゲ,イソギンチャクの尽くし絵は明治のおもちゃ絵 を思わせる.お話「アマイ ノ シブイ ノ」は、作者名に「サザナミ」とあるが巌谷小波か?ここに添え てある挿絵が面白い.柿一つひとつに顔と手があり,もがれると身体が生じ歩きだす.しまいには,子ども がもいだ甘柿はその子に手を引かれて笑って去っていく. この2 点は,明治期の創刊であり,菊版でその後次々と創刊されていく四六版のものとは少し 趣が異なっている.武将や戦争,コマ漫画,教訓的な内容が多い. このような子どもの絵雑誌は,熱心な教育家にとってはあまり良いものとは捉えられていな かったようである.保育とかかわりのない文学士の灌田保之助氏でさえ,子ども向けの浮世絵 「おもちゃ絵」について「私は今日幾千の4 4 4有害な絵雑誌4 4 4 4 4 4の世に行われるよりも唯一の「芳藤」が 出て子供の心に共鳴して欲しい」5)(芳藤とはおもちゃ絵で人気のあった浮世絵作家)と保育者対 象の講話にて話している. さて,これらはどのように害のあるものであったのだろうか,保育雑誌に当時の保育界を牽引 する東京女子師範学校教授の倉橋惣三氏の子ども絵雑誌について書かれた文章(講話の速記)が ある.「近刊の子供繪雑誌に就いて」6)と題して雑誌中の16 頁に及んでいる.まずは簡単に内容 を紹介してみる. 倉橋は子ども絵雑誌の現状を自分で調べたかぎりでは34,5 種あり,「子供の繪雑誌は幼兒教 育上近頃の問題である」と言う.そして,「近頃では,我々が幼兒に對する要求から見て随分不 適當だと思われるものが無遠慮に刊行されて居り,また折角よく苦心したものでも,一寸した編 輯者のあやまりから思いがけない失敗をあらわして居る繪雑誌が少なくないのであります」とあ る.売れるために,派手な色遣いを施し,当時流行っていた仕掛け(変わり絵 、 開き絵)7)につ いても,効果的に使用されず無理やり付け加えられたりしている.そのため下品な雑誌になって しまっていると言う.その他にも,たくさんの否定的な意見が述べられている.「彩色の濫用」. また,そのことにより文字が読みにくくなっている.「お話」の内容が貧弱.コマ割りのページ がよくない.たくさんの絵雑誌があるがどれも同じようで個性がない.描かれている行事が古臭 い.など,かなり厳しく改善点が述べられている.
そしてこれらの子ども絵雑誌は,家庭において普及していただけでなく,保育施設においても かなり浸透していたのだと考えられる.実際に,この倉橋氏の講話のしめくくりは「幼稚園と繪 雑誌」となっている.そこでは,幼稚園では「毎月出る絵雑誌を凡て網羅したい」とあり,先生 は「善い惡いの差別なく見る必要がある」とし,その中から選んで子どもに与えるようにすると 良い.また,選択から外れた雑誌から良い絵だけを切り取って保育のなかで教材として使うこと も勧めてもいる.ここから,保育施設では,子どもが自由に絵本箱から取り出して見て楽しむこ とが多かったが,その中には多くの子ども絵雑誌が含まれていたということが察しられる.そし て,傷んだり保育者の選択から外れたりした雑誌は,さらに絵が選択され,その頁のみ保育室に 飾ったり子どもが切り抜いたりして教材として使用されたと考えられる. このような批判を受けた子ども絵雑誌は,その後も形態・内容を変えつつ発展し,日本の絵本 の世界を広げていくことになる.倉橋氏の推薦の言葉が載せられている当時の絵本・絵雑誌は多 く,彼の意見の児童出版界への影響はとても大きかったことがわかる.この講話で話された子ど も絵雑誌に対する批判を改善すると,先に紹介した図3 の『コドモノクニ』のようになり,彼の 主催する日本幼稚園協会発行の保育雑誌『幼児と教育』にはこの雑誌の広告が掲載されている. こういった事情もあり,この後出版される多くの子ども絵雑誌は,サイズも大きく字が読みやす くなり,見開き1 画面で,彼の言う下品な色遣いはなくなり,出版社同士の自粛もあり仕掛けの 濫用もなくなっていった.以下,それに値するものを紹介する. 図7 『子供之友』(婦人の友社)大正 3 年(1914)創刊 昭和10 年2月号 家庭教育にかかわる内容が多く,他の雑誌とはやや内容が異なる.「甲子上太郎」のコーナーがあり,甲子 さんと丙子さんと乙子さんのおこない,上太郎さんと中太郎さんと下太郎さんのおこないで,良いこと・悪 いこと・普通のことを面白おかしく子どもに伝えるといった内容で,かなり人気があったようだ.この号で は,大勢で先生の話を聴く時の態度をこの6人の子どもの姿で描かれている.
図8 『コドモアサヒ』(朝日新聞社)大正 12 年(1923)創刊 昭和7 年(1932)3 月号 表紙に第一附録『飛行機とばし』,第二附録『ヲリガミ手本』とある.武井武雄が描く雛壇を前にした男女2 人の絵から始まる(裏表紙も武井武雄).文字のない見開きの絵が続く.「ハリガミエ」フルヤ・シン,「曲 馬団」本田正太郎絵,「動物の雛祭」井元水明絵,そして「ユキノトケル日」クズハラ・シゲル ハツヤマ・ シゲル絵からは童謡が続く.話「桃子の家のお雛さま」北川千代 深澤省三絵は,お雛さまを飾らない桃子 さんの家.お父さんは「お雛さまというものは,人間をまねてつくったものだから,人間が居ればお雛さま なんかいらないんだよ」と答える.お話はこの作のみ. 図9 『コドモキング』(児童教育社)昭和 6 年(1931)創刊 昭和9 年(1934)7 月号 表紙に特別付録漫画ポンポコ太郎とある.見開き17 場面で,絵のみのもの「ジテンシャキヤウソウ」「ス イジョウヒコウキ」「チンチンデンシャ」等,絵に短い文章や詩を添えたもの「ジドウシャ ノ シウゼン アラッ タイヘン… ナアンダ キカイヲ ナホシテルノカ」などやお話もある. 2 場面のみ作者が記 載されているが,それ以外は作者名がない.
3.絵本と文部省
大正期後半,子どもを教育の対象とする認識が広がるなか,絵本を教育的に捉え 、 子どもの成 長・発達において有益か有害かで評価する見方が浸透し,社会的にその改善を促すような動きも 出てきていた.倉橋惣三氏が子ども絵雑誌について言及したのもその流れと無縁ではないだろ う.ここでは,その経過と内容について述べていく.大正15 年(1926),「子どもの繪本」8) という数ページの冊子が文部省普通学務局から配布され る. 明治以降,子どもは教育される存在として認識されはじめ,国家としての教育環境の整備 が進み,幼児保育への関心も高まった.大正期に入ると,子どもに与える玩具を教育的効果の視 点から改善する必要性を主張する考えが支持され,冊子配布と同じ年に玩具の改善内容を記した 『玩具の選び方と与え方』東京市社会教育課編が出版される9).ここに倉橋氏の講演記録「子供 とおもちゃ」10)が掲載されており,「何もおもちゃに限ったことではない.お伽噺もそうぢゃな いか,繪本もそうぢゃないか,童謡もそうぢゃないかといふ事になるのであります」「ところで 近來の子供の世界の傾向はと申しますと,繪本とか,お伽噺とか,童謡とかいふものが,非常に 大きな位地をもつやうになって來ました」(下線筆者)と絵本についても同じように改善の必要 性があることが示唆される.そして,幼児保育のなかで玩具と同列に扱われていた絵本に対して も社会的に注目が注がれることになる.「幼稚園令」の制定と同じ年に,この冊子「子どもの繪 本」が配布されたのである.以下引用しつつ簡単に,その内容をまとめてみる. 一,絵本の問題 子どもにとって絵本は「知能の発達や,性格そのものにまで強い影響を與えずには置かない」. がしかし,与える側は「手あたり次第如何がはしいものを平氣で子供にあてがつたりしてゐる」. 作る側も売る側も子どもへの影響を考えず「不都合なのが少なくない」.「低級粗惡」なものほど よく売れて良いものは売れない.このままにはしておけない重要な問題だという.色についての みの指摘である. 二,繪本の要件 絵本の要点として注意すべきこととして5 つの項目が掲げられている. ①藝術的でなければならない 「美を離れて繪本の存在はない」と絵の芸術性を強調している.現在も見落としそうな視点で ある.では,具体的にどのような絵のことなのかというと,うまいへたではなく「色彩が正しい 美の条件」に合うものだという.そして色彩について,「濃厚強烈な色調」「低級醜惡な配合」は 子どもにとって害であるとある. ②道徳的で健全でなければならない 「滑稽と情緒的繊細と想像との三つはこども繪本の主要素」についての要件で,絵本の内容に ついての指摘である.この三つの要素が今の絵本では「道徳的で健全」になっていないものが多 いという.滑稽は行き過ぎて人の失敗を笑うような卑俗な笑いになっていて,情緒的繊細は感傷 的過ぎると「子どもらしい單純さ」を失ってしまう.そして,想像は「架空のための架空」を生 んで子どもの世界に合っていないとのことだ. ③友諠的でなければならない 絵本は子どもの友達なので「親しみ,なじみ易い」ことが要件であるから「上から教育される やうな心持を子どもに感じさせるものであってはならない」とあり,それは子どもの生活と密着 した親しみのあるものを描くことが必要だとのことだ.絵本の製本方法についても考慮が必要と
もある. ④多方面でなければならない, 絵本の題材は幅広く用意されなければならないとし,特に今で言う「科学絵本」が少ないとの ことである. ⑤衛生的でなければならぬ 子どもの眼にとって衛生的であることで,その改善点として「用紙の光澤印刷の鮮明,色彩の 強度,併用する活字の大小など」があるという.この要件に関してはかなり強く主張しており, 「不良の出版を絶滅させるやうにしたい」といい,最後に「愛兒の眼と,神経に無理な疲弊を與 へることは甚だ遺憾なことである」と締めくくっている. 以上,特に重要だと思われる点を書きだしてみた. この冊子「子どもの繪本」配布後の昭和2 年(1927),玩具絵本改善研究会が文部省普通学務 局長関谷隆吉のもと局内に設立される.そこに倉橋氏も委員として参加している.同年10 月に は,上野公園東京博物館にて「児童生活展覧会」が開催され,玩具とともに絵本も加わり文部省 の冊子の内容を更にアピールすることになる. こうしてたくさんの絵本が出版されるようになるなか,社会的に絵本というものの教育的位置 づけの必要性が認識され,教育的影響が指摘されるようになっていった.絵本の普及により教育 的要素が高まり教育界からの要望もあり,文部省(国家)が子どもの文化に対してチェックを入 れるようになる.ある意味,教育の進歩であるが,文化財の善し悪しの基準は現在の状況からも わかるように,一概には言えない部分が多い.また,一般の人々がさまざまな立場で対等に論議 し合うことは大切ではあるが,価値観を一定にして,そこに国家がかかわるのは非常に危険であ る.この後日本は,日中戦争,太平洋戦争へと突入していく.その状況下において,教育にかか わる学者,作家,出版社,一般人を巻き込んで文部省が間に入り,絵本等の子ども文化への検閲 に繋がっていくことになる. 最後に,文部省発行の冊子のいう「低級粗惡」な絵本とはどのようなものを指しているのか, 筆者の所蔵する当時の絵本のなかから,年代と印刷,製本,内容からそれにあたるのではないか と思われる絵本を紹介しておく.文部省冊子の指摘にあるように,確かにこの時期の絵本や子ど も絵雑誌は,図からはわかりにくいが,色に特徴があり,赤色と黄色が多用されてけばけばしい 感がある.よって,昭和以降の絵本との違いが明確で,時代が特定しやすい.だからといって, これらの絵本を質的に良くないとは断言できない.こういった絵本には独特の面白さがあるから である.
図10 『童話エホン イソップ物語 キツネトカラスノマキ』湯浅灸策 画・作,春江堂,大正 15 年(1926). 表紙から全頁朱色の枠で画面が囲まれている.表紙のぞうは赤と紫の混ざりきっていないような変わった色. どの絵も全面黄色っぽい.こういた配色が文部省いうところの「目に毒」ということなのだろう.紙質は厚 紙.全10 頁.そこにイソップ物語が 8 話掲載(2話は見開き).よくこのように短くまとめたものだと感心 させられる.お話というよりも絵を見て楽しむといった感じだろう. 図11 『ヒコウダイカイ HIKO DAIKAI』榎本松之助 画・作,榎本書店,大正 9 年(1920). 赤色と黄色が主で図10 と同じような明るい「目に毒」の派手さがある.しかし,こちらは石版刷りの版画 である.そのため絵草子のように本文は版画を半分に折って挟み込んであり,和本でいうところの4丁であ る.134 m× 187 mと草双紙サイズ.「シュッパツヨウイ」「ケッショウテン」「ワシノシウゲキ」「ダイイッ チャク」「ショウトツ」「シュッパツ」と1 頁ごとに一言添えられている.子どもが喜びそうななかなか良い 出来である.見返しに目録がついていたので,当時この出版社においてどのような絵本が発行されていたの かわかるように記しておく. 石版小横繪本目録(石版刷角六丁)〇お伽の世界,〇ドヲブツエン,〇幼年ポンチ,〇チャップリン,〇キ シャヅクシ,〇ノリモノヅクシ,〇子供ノアソビ 〇大正イタヅラ,〇汽車電車,〇ヒコウダイカイ,〇で んしゃづくし
4.幼稚園令保育項目「観察」と保育絵本『観察絵本キンダーブック』
大正15 年(1926)の幼稚園令公布は,保育のなかでの絵本の位置づけが明確になるきっかけ となる.例えば,それ以前では,主活動では絵本は教材として使われることは少なく,保育計画 に「絵本」の文字を見ることはまずない状態であり,保育項目の「談話」のなかでのお話は,素 話か掛図を見せながら保育者が話すという形態をとっていた.これまでも述べてきたように,明 治から幼稚園では絵本は自由遊びにおいて自由に手に取ってみる玩具の一つとして使用されてきたが,大正期の終わりから昭和初期にかけて,絵本の教育的役割が高まっていく.そのような状 況下,幼稚園令の保育項目の「遊戯」「唱歌」「談話」「手技」に,新しく「観察」が加わった. 「観察」とは,当時の徳島市立幼稚園園則の保育内容の例では「事物観察・実験・鑑賞等により, 幼児の経験界を拡張し,併せて美観情操を養うこと」11)とある.子どもの周りの自然環境・社会 環境などの学びである.今でいう保育内容の領域「環境」に近いものだろう.その教材として昭 和2 年(1927)に生まれた『観察絵本キンダーブック』の存在は保育施設における絵本の位置づ けの幅を大きく広げていくことになる.この絵本は今でいうところの月刊保育絵本と呼ばれるも ので,保育施設にて教材として使用しつつ,保護者に向けても定期購読をお願いするという形を とっている.新しく保育項目に加わった「観察」の教材としての子ども絵雑誌の登場である.当 時保育施設に配布されたパンフレットのなかには次のように書かれている.「文部大臣推薦 観 察絵本キンダーブック 日本玩具研究会編集 フレーベル館発行 予約会員募集 1 冊 50 銭 小冊子」.「顧問 編集顧問:倉橋惣三,岸邉福男 絵画顧問:清水良雄 童謡顧問:西条八十 童話顧問:巌谷小波 作曲顧問:小松耕輔」. 発刊趣旨が倉橋惣三氏によって宣伝用パンフレットに,次のように掲載されている. 子どもの繪本には想像の方面と事實の方面と,共に大切であるが,多くは想像の方面のみに 偏することが多いいママ.それに對して,事實の方面を本位とせるものの發刊は,確に幼兒教育上 の一つの必要に應ずることと信ずる.ただ,この場合,事實の正○確○を誤らぬこと,子どもの興○ 味○を滿足させることと,此の二つの要件を充分に併せ具へなければならないのであって,編纂 上の苦心は極めて容易ならぬものがある.「キンダーブック」は此の點に慎重細心の意を用ゐ, 各巻それぞれに専門諸大家の監修を煩わし,執筆者諸氏の熱心を以て,その完きを期せんとし つつあることは,發刊の趣旨を,實際の努力を以て實質的に語るものといってよかろう. 幼児教育学者が,「子どもの興味」を大切にしていることは今の幼児教育にも通じるものがある. 「想像の方面にのみに偏する」というのは,「観察」の絵本を薦めるということからのややこじつ けに思える.当時の絵本を読んでみると,とてもそのようには思えない.むしろ逆である.
図12 『観察絵本キンダーブック』の当時の宣伝用のパンフレットと申込書 では,このことによる現場での変化はどのようなものであったのか,当時の資料のなかからみ ていく.昭和8 年(1933)の茨城県の土浦幼稚園の保育内容には,「観察」の項目のなかに「キ ンダーブック(幼稚園の巻)」とあり「絵本により宮城国旗天長節の式等」ともある.「キンダー ブック」のみでなく他の絵本も保育項目のなかの「内容」に掲げられている.さらに,「談話」 のなかにも「キンダーブックにより満州国」ともある.このことにより,この園では主活動のな かでも絵本を使用するほど絵本の位置づけの幅が広がっていることがわかる12). 鳥取県の倉吉幼稚園では,昭和10 年(1935)の保育内容に「キンダーブック,兵隊さん,子 供の国五月号」とあり,子ども絵雑誌「コドモノクニ」も使用している.「コドモノクニ」はそ れまでの絵雑誌よりも版が大きく,当時の「キンダーブック」にいたっては現在の保育雑誌の倍 以上の大きさがあり,多くの子どもたちで絵本を見るのに適していた.子どもが自由に玩具箱か ら出して数人で寝転がったりして見るというだけではない保育での使用方法の発見である.集団 での読み聞かせのはじまりともいえる.しかし,現在のようにひとつのストーリーが一冊の絵本 の中で展開していくものは少ない.「キンダーブック」は見開き画面ごとに「乗り物」「果物」 「職業」といったテーマに沿った事柄が描かれていて,そのテーマの認識を広げていくという構 成で,「コドモノクニ」は発行した発行月の季節にかかわる事柄が見開きごとに描かれていると いうものである.どちらも,見開きごとに違った作者の作品となっている. 当時の様子を『日本幼児保育史 第4 巻』には,「観察の方法は以上の表でもわかるように, 「 保育掛図 」 や 「 キンダーブック 」 を使ったり,幼児を園外に連れ出して,自然を見せることな どが行われた.」(84 頁).「談話の方法は,先生が記憶しているお話をする以外に「キンダーブッ ク」や「子供の国」(ママ)など幼児向きの本が発達したので,幼児にこれらの本を読んでやる ことが多くなった.」(87 頁)と書かれている.
図13 『観察絵本キンダーブック』(フレーベル会)昭和 2 年(1927)創刊 昭和6 年(1931),12 月号 かなり大判(255 m× 377 m,横長)なのが特徴.保育で大勢の子どもがいっしょに観ることができるよう に考えられたと思われる.創刊号は,このほぼ半分の大きさだった.この号のテーマは「兵隊さん」,前述 の倉吉幼稚園の「保育内容」に記されている.見開き1場面ではなく1 頁1場面で構成されている.内容は 「ケフカラニイサンモヘイタイサン」「クヮンペイシキ」「ラッパノケイコ」「テンチョウセツノゴチソウ」「ヒ カウキノヘイタイサン」「キヘイノイサマシイオウマノリ」と続き,「ダイエンシュウ」は見開き1 場面と迫 力がある.さまざまな兵隊の訓練や生活が描かれる. 大正20 年(1921),帝国教育会主催「全国保育者大会」において,幼稚園令の制定,保育所の 設置奨励が決議される.そのことによって,保育所にも幼稚園令をもとに保育を計画していくこ とが要求されるようになる.次に,児童問題専門で託児保育所の保育内容の向上にかかわった研 究者朝原梅一の著書からいくつか引用し,当時の保育所で使用されていた絵本を見ていくことに する. 昭和10 年(1935)発行の『幼稚園・託児所 保育の実際』13)には,「絵本は幼児を教育する為 に之を見せたり,自然物を知らせることになくてはならぬもの」と幼稚園・託児所での絵本の必 要性を強調している.保母にとって模写して観察用にするためなどの「参考としての繪本」と 「幼兒に見せる繪としての絵本」の2 種の意味を持った絵本が必要だという.「観察」のための教 材という位置づけが大きいが,このように幼稚園でも託児所(保育所)でも絵本が保育計画のな かに位置づいていくことは将来の幼児教育にとって貴重な意味がある.ここには,保育で使用し てみた絵本のタイトルがいくつか記されている.「キンダーブック,子供のママ友,コドモノクニ, コドモノテンチ,コドモ朝マ日マ,乗物畫報,日本一のゑばなし,とんぼの眼玉,兎の電報,子供の 村,象の子供,小鳥と花」.とんぼの目玉や兎の電報は北原白秋の童謡絵本.『乗り物画報』『日 本一のゑばなし』は幼年教育研究会の編集である. 昭和11 年(1936)発行の『常設保育所の栞』14)は,中央社会事業協会編集の常設保育所実施 のための設置規定や保育方法を記したものである.そこには,保育所備品として,(1)遊具, (2)絵本及お話の本が揚げられている.絵本及お話の本では,「観察は自然界の現象,人間界の 出来事等であるが,之が得難い時には,その補充として人工的絵畫及び繪本が必要になる.」「幼 児はその知的本能の要求に促されて種々なお話を聴くことを求めるのであって,それを満たして やる為に繪本及お話の本は保育上なくてはならぬ用具である.」とある.保育所備品一覧表には,
絵本として10 タイトルが記されているが前書とほぼ同じである.図 14 として『乗り物畫報』を 紹介してあるが,『コドモノクニ』『コドモアサヒ』『コドモキング』などと大きさも内容も紙質, 構成はどれもほぼ同じような作りになっている. 保育施設においてこの時期は,教材としての絵本発見の時代であったと言える.この後,戦時 中や戦後の保育のなかでは絵本はなくてはならないあたりまえの備品であり,教材として保育の なかで重要な位置を築いていくことになる. 図14 幼年保育研究会編『乗り物畫報』(ポケット講談社)大正 10 年(1921)創刊 昭和6 年(1931)3 月号 乗り物に特化した子ども絵雑誌.この号には,「御英姿」と題し天皇陛下が馬に乗っている場面から始まる. 「飛行機の余夜襲」「のってった」という童謡作家西條八十のラクダの詩,バス,舟,汽車と全見開き乗り物 が満載.乗り物好きの子どもにとってはたまらない.乗り物の付録もついている.
おわりに 国家総動員法制定の戦時体制強化に向かう前に―絵本内容に対する危惧
このようにして日本の子ども絵本は,この時期に大きく変化・発展し普及し,教育的配慮が必 要なものであり教材でもある文化財として認識されていく.そして,教育関係者と国家とがつな がり,絵本に対する自分たちの価値観を啓蒙し,実際にその出版にもかかわり,「改善」させて いくことになる. そのなかで,現場での実践をもとに独自の絵本論を構築しようとした東大セツルメントの児童 読物研究部は,自ら発行する『児童問題研究』に「現行月刊繪本の研究」を発表した14).ここに は次のような絵本の内容に関する危惧が述べられている.次に,それに該当する文章を引用す る 15).*括弧内は,筆者. A 藝術的なもの(「コドモノクニ」「コドモアサヒ」など) 又非常時局はこれらの作家をとほして繪本の中にも軍國主義鼓舞の殘虐な宣傳が藝術の名にお いてなされてゐる.どの繪本にも必ずかかる取材がなされてゐる.B 所謂教育的なもの(年齢を特定した今でいう小学館の『小学〇年生』のようなもの) 特に目立つのは教育の名において強烈な軍國主義的殺伐な材料が多いことである.手許にある 二三の目次を拾ったたけでも山中行軍,日本海海戰,出征軍人,陸戰隊の上陸,キ兵隊,タン クの進軍,日露戰役など戰争の惨禍をおかしくして毒々しい色彩で幼兒の頭に殺伐な残忍なエ イキョウを與へてゐる. 又歴史的物語,偉人物語,がとり入れられてあるが,そのために幼兒は二葉のうちから排外 的,好戰的に教育されるだろう. C 特色なきもの(印刷紙質ともに不良・安価で粗雑な露店や駄菓子屋で販売) ここには軍国的な表現のものが少ないからか,言及するに値しないものと捉えていたのか,そ の関係の指摘はない. これまで紹介した絵本の内容からもわかるように,この時期の絵本には軍事的な内容が目に付 く.絵本は子どもへのプロパガンダの道具としての役割も果たしてきたのである.この間,時代 は資本主義の発展とともにそこから生まれる国民の貧富の差から社会事業として保育所も多く設 立されるようになる.政府は,天皇制にもとづく日本帝国主義形成とレッドパージを展開し,海 外へ資源を求める植民地政策をとり戦時体制へと向かっていく.そのなかで教育するための絵本 は,供給と需要の広がりとともに商品として安価で粗雑なものが多く普及していくが,それらは 文部省・教育者・研究者からの批判を受け,結果として出版社,作家,保護者の意識を変えるこ とになり,「子どものための絵本」へと改善されていく.しかし,子どもの成長のための教育は 国に奉仕する精神の形成のための教育という意味を孕んでおり絵本の内容に反映されていく. 絵本の世界をたどるとそこには常に時代が反映されていることに気づかされる.それは,時代 を検証することにつながると強く感じる.この後,絵本も検閲への時代に入っていくことになる のである. *図の絵本等は全て筆者所蔵のものから選択した. 注 1)民生局報告第140 号『保育所のあゆみ(1909 ~ 1945)』(1967)大阪市民生局発行,234 頁-238 頁 (年表). 2)高松中央幼稚園「我園の一日を(二)」『幼兒の教育』第20 巻第 2 号,日本幼稚園協會,大正 9 年 (1920),48 頁. 3)武田眞一「近頃の玩具」『婦人と子ども』第17 巻第 10 号,フレーベル會,大正 6 年(1917),400 頁 -404 頁. 4)「我が園の一日(一)」『幼兒の教育』第20 巻,第 1 号,日本幼稚園協會,大正 9 年(1920). ①名古屋松若幼稚園 石田馥「秋の一日」,10 頁-12 頁. ②東京本郷区誠之幼稚園 小向善美「我園の一日 食事」,20 頁-24 頁.
③奈良女子高等師範付属幼稚園 會津カダエ「晩秋の幼稚園(日誌の一説)」,24 頁-26 頁. 5)灌田保之介「『おもちゃ絵』の話」日本幼稚園協會2 月常会の講話『幼兒教育』第 19 巻第 3 号,日本 幼稚園協會,大正8 年(1919),144 頁. 6)倉橋惣三「近刊の子供繪雑誌に就いて=日本幼稚園協會6月常會の講演」『幼兒教育』第19 巻第7号, 日本幼稚園協會,大正8 年(1919),279 頁-294 頁. *〔2)~ 6)所収:幼児の教育復刻刊行会編『復刻 幼児の教育』名著刊行会,1979.3-1980.1.〕 7)変わり絵は,ページの間に小さなページを挟み,その挟み込まれた絵をめくることによって,本文の 絵が変化したように見えるというもの.開き絵は,言うまでもなく見開きページが観音開きになり, 開くと4 ページ分になる仕掛け.どちらも各々,江戸から,明治から,浮世絵,草双紙に使用されて いる. 8)文部省普通学務局「子どもの繪本」(大正15 年配布).*〔所収:『児童文化叢書 22-1「漫畫繪本に 就いて」の座談會速記録』大空社,1987.〕 9)東京市社会教育課『玩具の選び方と与え方』実業之日本社,大正15 年(1926).*児童文化叢書6と して大空社より復刻されている(1987).序に「大正十四年三月,玩具製造の教育的改善,教育上優 良玩具の奨勵,教育上不良玩具の警告,家庭に對する玩具選定の眼識を高め,其他教育上玩具の注意 並に其の進歩を圖る等を目的として,玩具展覧會を銀座松坂屋樓上に開催」とある. 10)9)には,玩具展覧会の後に開催された玩具講演会での倉橋惣三氏の講演速記「子供とおもちゃ」が 第一章序論の一として掲載されている. 11)日本保育学会『日本幼児保育史』第 4 巻,復刻日本図書センター,2010,54 頁. 12)同上,55 頁. 13) 朝原梅一『幼稚園・託児所 保育の実際』東京三友社,昭和 10 年(1935).*〔所収:岡田正章監修 『大正・昭和保育文献集』第12 巻,日本図書センター,2010,126 頁―27 頁.〕 14)『常設保育所の栞』中央社会事業協会社会事業研究所編集・発行,昭和 11 年(1936).引用は共に 20 頁.*〔所収:岡田正章監修『大正・昭和保育文献集』第12 巻,日本図書センター.〕 14)児童問題研究会児童読物研究部「現行月刊繪本の研究」『児童問題研究』児童問題研究会,昭和 8 年 (1933)7 月創刊号.児童問題研究会は,昭和 8 年(1933)4 月に東京帝国大学セツルメントの児童部・ 託児部によって設立された.『児童問題研究』昭和8 年(1933)7 月号~昭和 10 年(1935)3 月号ま で発行.その後,昭和11 年(1936)10 月の保育問題研究会設立へとつながり,『保育問題研究』を昭 和12 年(1937)10 月号から昭 18 年(1943)2 月号まで発行. 15)同上,34 頁-37 頁.*〔所収:「保育問題研究・児童問題研究」復刻刊行会編『児童問題研究 1・2』 白石書店,1977.〕