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清末中国における日本女子教育受容の研究

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(1)

博 士 論 文

清末中国における日本女子教育受容の研究

令和元年 9 月

孫 長亮

岡山大学大学院

社会文化科学研究科

(2)

目 次

凡 例 図表目次

序 章 本研究の視座と課題

1

節 問題提起及び研究目的 ...

1

2

節 先行研究の整理とその問題点 ...

2

2.1

中国人自営の女子教育機関の嚆矢―中国女学堂 ...

3

2.2

日本教習の招聘と清国での日本女性教習 ...

4

2.3

官紳の日本教育視察 ...

5

2.4

清末中国における女子教育理想像の構築 ...

6

3

節 研究方法及び本論文の構成 ...

8

1

19

世紀末葉までの中国女子教育の概覧

1

節 はじめに ...

11

2

節 伝統的な女子地位に見る中国女子教育の変遷 ...

11

2.1

女子教育書籍の出現とその規範化・細分化 ...

12

2.2

理学貞潔教育の流行と女子教育の極端化・通俗化 ...

12

3

節 西洋女子教会学校の流入 ...

14

4

節 まとめ―中国女子教育の伝統性と近代化の繋がり ...

16

2

清末中国における女子教育日本受容の濫觴―中国女学堂 第

1

節 はじめに ...

18

2

節 中国女学堂創設の縁起 ...

19

3

節 日本の「華族女学校規則」の導入と伝播...

21

3.1

「華族女学校規則」の導入―江標と裕庚 ...

21

3.2

「華族女学校規則」の伝播―江標と汪康年、経元善 ...

23

4

「中・東・西合併」の中国女学堂 ...

25

4.1

華族女学校の教育趣旨「良妻賢母」の踏襲 ...

25

4.2

女生徒への束縛の継続 ...

28

5

節 槿花一朝の中国女学堂 ...

28

6

節 まとめ...

29

(3)

3

清末中国における日本女性教習の教育活動とその特色

1

節 はじめに ...

30

2

節 日本女性教習登場の背景 ...

31

3

節 日本女性教習の清国での活動 ...

33

4

日本女性教習の活動の特色 ...

39

5

節 日本女性教習の活動の具体例 ...

43

5.1

蒙養院での活動―戸野美知恵、丹雪江、丹トク、武井初子と湖北幼稚園...

43

5.2

女子小学堂での活動

1

―河原操子と務本女学堂及びカラチン毓正女学堂 ...

45

5.3

女子小学堂での活動

2―服部繁子と豫教女学堂

...

47

5.4

女子職業学堂での活動―松里島子、森田国子と福建女子職業学堂 ...

50

6

節 まとめ ...

51

4

清末中国における官紳の日本女子教育視察 第

1

はじめに ...

52

2

節 官紳の日本視察の背景 ...

52

3

節 官紳の日本幼稚園・女子学校への視察 ...

54

3.1

官紳の日本幼稚園・女子学校(男女共学学校も含む)への視察一覧 ...

54

3.2

官紳の日本幼稚園・女子学校への視察の特徴 ...

56

4

節 単士厘、厳修、張謇の視察及び中国女子教育の振興 ...

57

4.1

単士厘と『家政学』、『癸卯旅行記』...

57

4.2

厳修の日本女子教育視察と天津蒙養院・女学の振興 ...

60

4.2.1

厳修と『壬寅東遊日記』・『甲辰東遊日記』 ...

60

4.2.2

厳修と厳氏女学、保母講習所、厳氏蒙養院...

63

4.3

張謇の日本女子教育視察と南通女学の振興 ...

66

4.3.1

張謇と『癸卯東遊日記』 ...

66

4.3.2

張謇と扶海垞家塾、通州女子師範学校 ...

68

5

節 まとめ ...

71

5

章 清末中国における女子教育理想像の構築―日本型「良妻賢母」理念をめぐる議論 第

1

節 はじめに ...

73

2

節 日本型「良妻賢母」理念の性格 ...

74

3

「良妻賢母」をめぐる議論の始動期(

1902

1904

年末) ...

76

3.1

賛成派の中国人日本留学生 ...

76

3.2

反対派の馬君武と金天翮 ...

78

(4)

4

「良妻賢母」をめぐる議論の展開期(1904年末~1912年初) ...

81

4.1

「良妻賢母」認識の多様化 ...

81

4.2

陳以益と宋恕の論争 ...

83

5

「女国民」の出現と「良妻賢母」 ...

87

5.1

「女国民」の出現 ...

87

5.2

愛国女学校における「良妻賢母」教育の影響 ...

88

6

まとめ ...

90

終 章 第

1

節 本研究の明らかにしたこと ...

92

2

節 清末・明治期、中日「良妻賢母」観への再考 ...

93

3

節 今後の課題・展望 ...

97

補充史料 ...

102

参考文献 ...

112

論文初出一覧 ...

120

後 記 ...

121

(5)

凡 例

1、

本論文の史料引用については、次のような基準に従った。

2、

日本語史料・文献からの引用文は、原則として原文通りとしたが、旧字体の漢字は新字体に改めた。

3、

中国語史料・文献からの引用文は、現代日本語で翻訳した。

4、

仮名の清濁、平仮名と片仮名の表記は両者が混用されている場合を含めて原文通りとした。

5、

文の中の「(

)」は筆者の翻訳・解釈・補充等で、「……」は中略である。

6、

地名については原文のままで示したが、それに応じる現地名も「[ ]」で付けた。例えば、経元善 は浙江省の上虞[現紹興]出身である。

7、

年代表記は西暦に統一したが、中国の年号・日本の年号を用いた場合もある。

8、

歴史上の固有名称は、原則として原文のままとした。例えば、規則は「章程」、教師は「教習」、幼稚 園は「蒙養院」、学校は「学堂」と示した。

9、

本文中の敬称は略した。

10、

注は各頁の下部にまとめ、番号は頁ごとに振り直している。

(6)

図表目次

1

1

1

上海王家堂聖母院の教会女塾 ...

15

1

2 1897

年福建泉州における教会女子学校 ...

15

2

章 図

2-1

「裙釵大会」 ...

20

2-2

『日本学校章程三種』表紙 ...

24

2

3

中国語版の「華族女学校規則」 ...

24

2-4

「中国女学堂提調教習諸生小影」 ...

26

2-1

「中国女学堂章程」と「華族女学校規則」との比較 ...

27

3

章 表

3-1

渡清日本女性教習活動一覧(1902[明治

35]年~1910[明治 43]年)

...

33

3

2

日本女性教習の勤務地 ...

39

3-3

日本女性教習の渡清前経歴(学歴・経歴) ...

39

3

4

日本女性教習の勤務先 ...

39

3

1

「東洋婦人会清国教員養成所卒業生」 ...

40

3-2

「上海ニ於ケル学校調査」 ...

42

3

3

在清日本女性教習逐年増加人数推移 ...

42

3-4

戸野美知恵の派遣文書 ...

43

3-5

「清国の幼稚園」 ...

44

3

6

「支那の児童と日本女教師」 ...

45

3-7

河原操子への喀喇沁王殿下の御親筆 ...

46

3-8

「毓正女学堂落成式」 ...

46

3

9

河原操子女史と蒙古女学生 ...

47

3-10

服部繁子の清朝宮廷服飾の姿 ...

47

3-11

「北京豫教女学堂教員及生徒」 ...

48

3

12

「清国福州女子職業学校状況同地領事ヨリ報告 明治四十一年二月」 ...

50

4

章 表

4

1

清末期、官紳の日本幼稚園・女子学校(男女共学学校も含む)への視察一覧 ...

54

(7)

4-1

「参観蒙養院記盛」 ...

65

4

2

厳氏女学生徒の記念撮影 ...

66

4

3

「成人在始」 ...

68

5-1

民国時期の雑誌における「良妻賢母」に関する論述文一覧...

99

補充史料

6-1

清末期、日本側の日本女性教習に関する重要記事一覧 ...

109

6-1

清末・明治期、中国「良妻賢母」理念の形成図...

111

(8)

序 章 本研究の視座と課題

1

節 問題提起及び研究目的

2

節 先行研究の整理とその問題点

2.1

中国人自営の女子教育機関の嚆矢―中国女学堂

2.2

日本教習の招聘と清国での日本女性教習

2.3

官紳の日本教育視察

2.4

清末中国における女子教育理想像の構築

3

節 研究方法及び本論文の構成

__________________________________________________________________________

1

節 問題提起及び研究目的

清末中国の女子教育については、様々な視角からの研究が進められているが、そのなかの日本受容 という課題に関しても、近年、順調に研究が進展し、史料の発掘・充実が求められている。日本女子教 育に倣う

4

つの重要なルートとしては、①中国女子の日本留学、②日本女子教科書の中国への導入、

③日本女性教習の招聘、④官紳の日本女子教育視察を挙げることができる。しかし、従来の研究では 殆ど前二者を中心としたものに偏在し、後二者を踏まえた研究は不足しており、またその課題をめぐる関 連研究も基本的に空白の状態であり、近代中国女子教育の日本受容の解明は依然不十分である。

従来、伝統的な儒教女子教育観の支配下で、中国の女子は男子と平等に教育を受ける権利を持た なかった。隋朝からの科挙制1の確立により、男子は教育を受ける特権者となり、女子は教育の門外に拒 絶されるようになった。清朝になると、その状況は一段と厳しくなってきた。「女子無才便是徳(女子才無 きは便ち是れ徳)」・「婦人識字多誨淫(婦人字を識らば多く淫を誨う)」という語は女性を評価する道徳 標準のみならず、さらに女性の生存価値として存在していた。古来の中国女子教育を歴史的にみると、

家庭内に束縛されてせいぜい女四書2等のような「男尊女卑」・「三従四徳」を中心とする女訓教育を受 けたにすぎなかった。

19

世紀後半から、アジア諸国の殆どは欧米列強の脅威のもとにさらされていた。日本は明治維新を

1 男子を対象とする試験制度である科挙とは、紀元

605

年の隋朝(581~618)に始まり、唐朝に形を整え、宋朝に中央集 権的皇帝支配体制の強化とともに天子の手足となる官僚制も整備され、明清時代まで襲用され、清末の

1905

年にまで 廃止されて約

1300

年も行われた官僚登用試験である。その中に多少変革があるが、1 つの制度としてこれほど長く続 いたことは、世界の歴史上でも希有の現象だと言える。宮崎市定『科挙』(『宮崎市定全集』15 巻、岩波書店、1993 年)、

10

頁。

2 女四書とは、前近代中国において女子を対象に伝統な徳行・礼儀教育を行うために用いられていた曹大家『女誡』、孝 文皇后『内訓』、宋若昭『女論語』及び王節婦『女範捷録』の書物の総称である。

(9)

通じて富国強兵への道に歩み、一躍世界の強国となった。それとは逆に、自ら「老大帝国」だとうぬぼれ ている清政府は国際競争の舞台で惨敗を喫し、特に日清戦争の敗北によって大きな打撃を受け、当時 の中国人は屈辱感とともに国を振興する決心を抱くようになった。日中両国の国際的地位が逆転しつつ ある中、清政府は古来より日本に対して「教授側」であったという思い込みから抜け出し、恥を忍んで「以 強敵為師(強敵をもって師となす)」・「師法日本(日本を手本とする)」という旗印を掲げ、特に明治維新 の成功が教育改革に負うところが大きいと認識した。この時流に従い、清末の中国女子教育は前述のよ うな

4

つのルートを通じて日本を模倣し、近代化への重要な一環として位置付けられている。一方で、当 時の中国女子教育は清政府の圧制のため、民間の開明的な官紳が政府の前に立って中上流の女子 教育事業を振興したという顕著な特徴も出現した。1907 年

3

月に「奏定女子小学堂章程」と「奏定女子 師範学堂章程」が公布され、中国の女子教育は本格的に国家の公的な教育体制にのせられた。こうし た背景下、伝統的に家庭の枠内に拘束されてきた中国女子教育は初歩的な発展を遂げたと同時に、

知らず知らずのうちに日本女子教育の強い影響を受け、日中融合の様相を呈していた。

本研究は、清末中国女子教育の日本受容の一端を究明することを目指す。具体的には、中国女子 教育の日本受容の濫觴を探り、そして、日本受容の重要な

2

つのルート、すなわち日本女性教習の招 聘及び官紳の日本女子教育視察という歴史的経緯・様相を明らかにする。さらに、中国女子教育理想 像の構築過程において、日本から導入された女子教育理念である「良妻賢母」1をめぐる議論を中心に して時系列的な分析に取り組み、それによって近代中国女子教育の一断面を照らし出すことを目的とす る。本研究は、近代中国女子教育の日本受容について補充的・独創的に考究してそれを体系化させる ことで、近代中国女子教育史分野のみならず、近代日中両国の女子教育交流史分野においても大きな 意義をもつであろう。

2

節 先行研究の整理とその問題点

これまで、清末中国における日本女子教育の受容という課題に関する研究は進み、多くの著書や論 文が公刊されている。例えば、実藤恵秀『中国人日本留学史』、黄福慶『清末留日学生』、孫石月『中国 近代女子留学史』、周一川『中国人女性の日本留学史研究』、韓韡「中国近代女子教育における日本 受容」などは優れた成果として大いに参考にすべきである2。しかし前述したとおり、それらの成果は主に 中国女子の日本留学、日本女子教科書の中国への導入に関する検討を中心とするものである3。本研

1 本研究では、近代日本語の「良妻賢母」に相当する中国語「賢妻良母」をはじめ、「良母賢妻」や「賢母良婦」にいたる まで、類似した言葉が多く登場する。表記上の原則として、本研究ではそれらの総称としては現代日本語の一般表記 である「良妻賢母」を用いる。

2 実藤恵秀『中国人日本留学史』(くろしお出版、1960 年)。黄福慶『清末留日学生』(台湾中央研究院近代史研究所、

1975

年)。孫石月『中国近代女子留学史』(中国和平出版社、1995年)。周一川『中国人女性の日本留学史研究』(国 書刊行会、2000年)。また、韓韡「中国近代女子教育における日本受容」(名古屋大学博士論文、2014年)。

3 中国人女性留学史に関する先行研究は、一部の婦女解放運動史・女子教育通史・中国教育史などの文献に残ってお り、例えば、劉巨才『中国近代婦女運動史』(中国婦女出版社、1990 年)、熊賢君『中国女子教育史』(山西教育出版 社、2009 年)、崔淑芬『中国女子教育史:古代から一九四八年まで』(川島弘文社、2007 年)、馬庚存『中国近代婦女

(10)

究でその課題をとりまく①清末中国における日本女子教育受容の濫觴、②日本女性教習の招聘、③官 紳の日本女子教育視察、④女子教育理想像の構築過程において展開された日本型「良妻賢母」理念 をめぐる議論、という

4

つの小課題の設定については、その掘下げや展開の空間が依然として広いと思 われる。以下、これらの小課題と関わる先行研究をふまえ、本研究の意図する問題意識を抽出・整理し ておきたい。

2.1

中国人自営の女子教育機関の嚆矢―中国女学堂

1898

年、中国女学堂は中国史上最初の中国人自営の女子教育機関として誕生した。これまで、中国 女学堂についての研究は、主に

2

つの観点から進められてきた。1 つは、中国女学堂の主要な創設者 である経元善や、同学堂章程の最初の起草者である梁啓超を中心に考察を行い、中国女学堂の創設 が経の努力の賜物であったとするものである。例えば、聶好春「試論経元善的教育思想和教育実践」、

尚暢「経元善思想研究」、李恵潔「上海著名紳商経元善与経正女学」、熊賢君「経元善的女子教育思 想」及び、李永生「経元善与他的経正女学堂」などがある1。いま

1

つは、「中国女学堂章程」と教会学校 である中西女塾の章程との比較を通じて、中国女学堂が中西女塾の章程を踏襲したことから、同学堂が

「中・西合併」の性格を持っていたとするものである。例えば、小野和子「経元善と中国女学堂」、宋艶麗

「経元善与近代女学的興起」、陳珺「伝教士与経正女学」、夏暁虹「上海『中国女学堂』考実」などが挙 げられる2

以上からわかるように、従来の研究は、中国女学堂の創設経緯や関連創設者の紹介、及び中西女塾 との関係を中心に展開されたものである。またここで強調したいのは、多くの中国女子教育通史や近代 中国婦女運動史の中で、中国女学堂が最も早く日本の「良妻賢母」の影響を受けたことは通説ともなっ

史』(青島出版社、1995 年)、舒新城『近代中国教育思想史』(福建教育出版社、2007 年)、銭曼倩ほか編『中国近代 学制比較研究』(広東教育出版社、1996 年)などがある。それらの成果は、基本的に中国の古代から近・現代に至る各 時代の女子教育についての通史的・概説的な研究であり、そこでは中国女子の日本留学の発端、彼女らの受入校、日 本での婦女団体の組織、女性雑誌の創刊及び、様々な革命運動の参与活動に対して論述している。

また、近代中国の教科書が研究対象として注目されるようになったのは最近のことである。例えば、王建軍著『中国 近代教科書発展研究』(広東教育出版社、1996 年)、汪家溶『民族魂:教科書変遷』(商務印書館、2008 年)、呉小鴎

『中国近代教科書的啓蒙価値』(福建教育出版社、2011年)などは、いずれも清末中国にける日本教科書の翻訳活動 も注目しており、在日留学生や知識人が翻訳した教科書の資料が徹底的に調査された。並木頼寿・大里浩秋ほか編

『近代中国・教科書と日本』(研文出版、2010 年)では、教科書の変遷という史的な記述のほか、国文・国語教科書や 歴史教科書、地理教科書、修身教科書といった具体的な科目別の教科書を対象とした詳細な分析がなされている。

韓韡「中国近代女子教育における日本受容」は明治日本の家政・手芸教科書の中国導入を中心にしたものである。

1 聶好春「試論経元善的教育思想和教育実践」(『華北電力大学学報・社会科学版』1 期、2006 年)。尚暢「経元善思想 研究」(湖南師範大学修士論文、2008 年)。李恵潔「上海著名紳商経元善与経正女学」・熊賢君「経元善的女子教育 思想」・李永生「経元善与他的経正女学堂」(『教育史研究』編輯部編『記念「教育史研究」創刊二十周年論文集-中 国教育思想史与人物研究』、2009年)。

2 小野和子「経元善と中国女学堂」(『女性歴史文化研究所紀要』8 期、1999 年)。宋艶麗「経元善与近代女学的興起」

(『聊城師範学院学報・哲学社会科学版』5 期、2001 年)。陳珺「伝教士与経正女学」(『西南交通大学学報・社会科学 版』1期、2004年)。また、夏暁虹「上海『中国女学堂』考実」(『中国文化』31期、2010年)。

(11)

ているが1、その説に対しては簡単に概括されるのみで深く追求されてはいないということである。つまり、

同女学堂が如何に日本型「良妻賢母」理念を導入したのか、またどのような影響を受けたのかについて の研究はまだ見当たらない。近代中国女子教育における日本受容の始まりとして、その受容の経緯を 明らかにする必要がある。

2.2

日本教習の招聘と清国での日本女性教習

日本教習に関する研究は、

20

世紀

80

年代に入ってから盛んに行われ始めた。

1983

年に阿部洋編

『日中教育文化交流と摩擦:戦前日本の在華教育事業』が発表され、さらに

1984

年以降、阿部をはじめ 蔭山雅博、稲葉継雄らによって行われた共同研究論文「お雇い日本人教習の研究―アジアの教育近 代化と日本人」なども挙げられる2。しかし、それらの研究はいずれも日本男性教習の在清活動を中心に 展開されたものである。1988 年になって、日本教習研究の先行者である汪向栄は専門書『日本教習』を 執筆し、日本教習と中国教育近代化の緊密な関係を概観し、特に男性教習に焦点を当てて論述した。

それと同時に女性教習に関する基礎的な情報の統計作業をも本格的に始めた。同年、小川嘉子「清末 の近代学堂と日本女子教習」は初めて日本女性教習を切り口にして述べ、広東女子師範学堂に勤めて いた宇佐美茂子、直子姉妹及び濱田松子の活動を考察した3

90

年代以降、阿部による『中国の近代 教育と明治日本』は日本女性教習を単独の章節として検討し、特に中国女子教育事業に携わっていた 河原操子、戸野美知恵、服部繁子、木村芳子という代表的女性教習

4

人の活動についてそれぞれ略 述した。そのうえで

1909

年までに在清が確認される日本女性教習は少なくとも

23

人とも指摘した。また、

蔭山の『清末日本教習与中国教育近代化』は清末の師範教育に重点を置き、主に奉天省や江蘇省で の日本男性教習の教授活動について検討し、そのなかで河原操子、戸野美知恵

2

人に対しても簡単に 言及した4

21

世紀に入って以来、日本女性教習をめぐる考察、特にその人数の考察について飛躍的な進展が 得られている。まず、佐藤尚子の「明治婦人界と中国女子教育」は明治期の雑誌を収集し、最終的に在 清した日本女性教習

83

人の基礎的情報を抽出してリスト化した。そのあと加藤恭子の「

20

世紀初頭に おける日本人女子教員の中国派遣」・「二〇世紀初頭における、中国への日本の女子教員派遣と『東洋 婦人会』:中国の女子学校教育の実施に向けた協力活動について」・「明治末の日本人女子教員中国 派遣における淑徳婦人会」という一連の研究は、日本女性教習養成機関である東洋婦人会や淑徳婦人

1 例えば、前掲熊書『中国女子教育史』、劉書『中国近代婦女運動史』のほか、また呂美頤・鄭永福『中国婦女運動史-

(1840-1921)』(河南人民出版社、1990年)、雷良波ほか編『中国女子教育史』(武漢出版社、1993年)などがある。

2 阿部洋編『日中教育文化交流と摩擦:戦前日本の在華教育事業』(第一書房、1983 年)。阿部洋・蔭山雅博・稲葉継雄

「お雇い日本人教習の研究-アジアの教育近代化と日本人」(『国立教育研究所紀要』115 集、1988 年)。ほかに、蔭 山雅博「清末江蘇省の教育改革と日本人教習」(『日本の教育史学』31巻、1988年)。

3 汪向栄『日本教習』(生活・読書・新知三聯書店、1988年、のち商務印書館、2014年)。小川嘉子「清末の近代学堂と 日本女子教習」(『国立教育研究所紀要』115集、1988年)。

4 阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(福村出版株式会社、1990 年)。蔭山雅博『清末日本教習与中国教育近代化』

(雄山社、2011年)。

(12)

会の設立経緯に着目し、また佐藤の統計をもとに明治期の新聞などの史料を利用してさらに

11

人の基 礎的情報を追加した1

以上からわかるように、日本女性教習に関する研究について、中国より、日本側を中心に行われる研 究は若干の成果が得られている。しかし従来の研究では、日本側の資料がよく活用されるが、中国側の 新聞・雑誌・地方誌・文史資料選輯などが重要な情報源として触れられておらず、その結果、日本女性 教習の人数把握、関連情報の収集・整理・統計・分析及び、新しい具体例の掘り下げなどという基礎的 な考察はまだ足りない。両国の交流史研究として中国側の資料は重要な補足になろうと思われる。また、

日本女性教習の役割の評価については、主に日本側の協力という称賛の一辺倒の傾向があることに注 意し、中国側の女子教育の実態と結びつけて再評価をする必要があるであろう。ちなみに、筆者の考察 によると、これまでの研究の中には、日本女性教習の基礎的情報に関する誤りが存在し、再び検討・修 正する必要がある。

2.3

官紳の日本教育視察

近代中国女子教育における日本の受容について、官紳の日本女子教育視察はその学習の重要な 一環としても続々と行われていた。渡日官紳の多くはそれぞれの視察過程において、日本女子教育へ の視察結果を適時・主動的に中国へ導入し、中国女子教育を振興する重要な動力源の

1

つとなっただ けでなく、さらに近代的な女子教育の合法化を政府に促す推進剤となった。

日本教習の招聘に関する研究の現状と同様、官紳の日本教育視察に関する従前の研究は、日本男 子教育への視察をめぐるものが主流であった。それらの研究成果を振り返ると、例えば、実藤恵秀は、

戦時中から戦後にかけて『近代日支文化論』、『明治日支文化交渉』、『近代日中交渉史話』などの著作 を発表し、明治以降日本に遊歴した中国人の紀行を紹介しながら日本文化の中国への影響を論じた。

その後、阿部が『中国の近代教育と明治日本』の中で

20

世紀初頭に行われた「日本モデル」の教育改 革を論じており、当時中国から派遣された呉汝綸や羅振玉などの視察活動を取り上げた。呂順長は『清 末中日教育文化交流之研究』において、新史料をもとに湖南提学使の呉慶坻、浙江知県候補の張大 鏞らの日本教育視察及び、視察官紳の「訪書」(希覯書の探訪・購入)活動について念入りに調べた。ま た、田正平の「清末における中国知識人の日本教育視察」は、清末中国における知識人の日本教育視 察記録や日記を中心に、中国教育の近代化に果たした彼らの役割とその意味を読み解いた2

管見の限り、官紳の日本女子教育視察に注目した研究成果は非常に少なく、ただ董秋艶「近代女子

1 佐藤尚子「明治婦人界と中国女子教育」(『教育科学』24 号、2000 年)。また、加藤恭子「20 世紀初頭における日本人 女子教員の中国派遣」(『ジェンダー研究』18号、2015年)、「二〇世紀初頭における、中国への日本の女子教員派遣 と『東洋婦人会』:中国の女子学校教育の実施に向けた協力活動について」(『自由思想』137 号、2015 年)、「明治末 の日本人女子教員中国派遣における淑徳婦人会」(『お茶の水史学』60号、2017年)。

2 実藤恵秀『近代日支文化論』(大東出版社、1941年)、『明治日支文化交渉』(光風館、1943年)、『近代日中交渉史話』

(春秋社、1973 年)。前掲『中国の近代教育と明治日本』。呂順長『清末中日教育文化交流之研究』(商務印書館、

2012

年)。また、田正平「清末における中国知識人の日本教育視察」(『国立教育研究所研究集録』25号、1992年)。

(13)

教育の成立をめぐる日中関係史研究」と汪婉『清末中国対日教育視察の研究』の中に若干の手がかり をつかむことができるのみである。董は各類型の女学校に足を運んで教育界の人物と意見を交わした 呉汝倫を中心に研究し、特に呉が日本女子教育の徳・智・体三育教育案の導入した経緯を述べ、彼の 女子教育に関する主張がのちに清政府による「奏定女子小学堂章程」・「奏定女子師範学堂章程」の制 定と緊密な関係があると指摘した。董と同じように、汪は張謇を選び取った。具体的に言えば、張の『癸 卯東遊日記』(1903)のなかで一部の日本女子学校の現場の様子を翻訳し、そのうえ簡単に分析を加え た1。つまり、従来の研究では、一人の人物を中心にして述べる傾向がみられる。それに対し、清末期に おける官紳の日本女子教育視察像や、その影響下での中国女子教育の振興活動に研究の目がまだ届 いていないため、この点について明らかにする必要がある。

2.4

清末中国における女子教育理想像の構築

前述のように、日清戦争後の中国は主として日本女子教育を手本に自国の女子教育を振興すること になった。そのような学習風潮のなかで、日本で制度化された女子教育指導理念である「良妻賢母」は、

中国の伝統的女徳と類似した点が多いゆえ、保守的な清政府にも開明的な地方官紳にも大いに宣伝さ れ、数多くの女学堂で先を争って導入しようとする対象になった。これをきっかけに、日本の「良妻賢母」

理念は圧倒的優勢のもと西洋の女子教会学校に打ち勝ち、短時間・急速に中国に広まり、ついに

20

世 紀初頭の中国における女子教育の主導理念となった2

清末中国における女子教育理想像の構築を取りまくこれまでの研究に目をむけると、多くの成果が取 り上げられ、それは主に以下の

2

つの面の考察に集中している。

まず、「良妻賢母」理念を中心とする考察である。近年の中国学界では、日本型「良妻賢母」理念に対 する研究意識が触発され、

20

世紀

90

年代から中国女性史と中国女子教育史などの分野で注目される ようになった。それらの研究成果を概観してみると、主として「良妻賢母」理念の由来をめぐる論争及び、

「良妻賢母」が近代的なものかどうかをめぐる論争が展開されている。「良妻賢母」の由来に関する研究 は、主に

3

つの視点に立脚して行われ、すなわち第

1

は、中国の内在的要素である伝統的な女性規範 を重視するもの、第

2

は、明治維新後の日本女子教育理念である「良妻賢母」からの影響に着目するも の、第

3

は、渡清した西洋宣教師の宣伝を強調するものである。それぞれの見解の代表者は呂美頤、

李卓、程郁である3。「良妻賢母」が近代的なものかどうかについて、主に消極派の呂美頤、万琼華、王

1 董秋艶「近代女子教育の成立をめぐる日中関係史研究」(九州大学博士論文、2014年)。また、汪婉『清末中国対日教 育視察の研究』(汲古書院、1998年)。

2 その見解は近代婦女解放運動史でも女子教育通史でも一致している。例えば、前掲熊書『中国女子教育史』、劉書

『中国近代婦女運動史』。また、王暁慧『近代中国女子教育論争史研究(1895-1949)』(中国社会科学出版社、2015 年)。

3 呂は「良妻賢母」理念は昔から中国に伝統的な女性規範からきたとする、即ち、近代以降の外来思想というより、当時 の中国社会の内在的変動からきたと言ったほうがよいと述べている。呂によれば、清末期の「良妻賢母」理念という女性 像が日本から導入された「良妻賢母」の宣伝理念と部分的に同調すること及び、近代以降に新たな意味をもたされた部 分を認めながらも、その原点としては、やはり中国女子養成の伝統的な内在的要素から派生してきた置換体だと主張し

(14)

秀田と積極派の林吉鈴、沈倩、楊聯芬に分けられる1

ている。呂は中国史籍のなかの用例を引用し、先秦時代の文献で用いられた「賢母」、「賢女」、漢時代の文献で用いら れた「良妻」と「賢婦」、魏晋南北朝時代の文献で用いられた「賢妻」などの言葉の出典を逐一列挙した。これらの言葉 遣いから、清末期の「良妻賢母」理念は、当時、維新思想の影響を受けた中国の啓蒙思想家たちが、先秦時代まで遡 る伝統的女性像を一新し、「救亡図存」という時代的要請のもとで言葉を再構成した。そして、呂は近代中国における 新式の女子教育観として、「良妻賢母」を作り上げたと推定している。ここで呂が言う中国啓蒙思想家は梁啓超のことを 指している。

呂の視点とは異なり、李卓は、近代日本の女子教育理念である「良妻賢母」の影響を重視している。李によれば、日 本は最初に中国から「賢妻」、「良母」などの概念を導入し、明治維新以降、近代的な国民を育成すると共に、女子の 知識・才能・資質の向上を唱えるため、これらの概念に改良を加えて新しい意味を与え、近代日本の「良妻賢母」理念 が成立した。日清戦争後、中国は日本からの「逆導入」という経路を通じて再びその観念を吸収したと指摘すると共に、

たとえ中国史籍のなかで「賢妻」、「良母」、「良妻」、「賢母」という言葉遣いがあっても、清末期の「良妻賢母」理念は決 して中国に伝統的な女性観ではないと述べている。

上述した

2

つの視点のほか、程郁は彼独自の意見も持っている。即ち、清末期の「良妻賢母」理念は、善良敦厚の

「良」、才徳兼備の「賢」という伝統的な女性像の影が見えるが、実際は西洋から導入された概念に属するという。具体 的に言えば、アヘン戦争後、一歩先に近代中国女子教育を行った渡清の西洋宣教師、特に米国宣教師は近代の「良 妻賢母」理念を中国にもたらした。女子教会学校の最初の設計として、それらの宣教師は「良妻賢母」の養成及び、職 業婦女の育成という二重の教育目標を並行して進めていた。程は女子教会学校を「良妻賢母」の揺籃に喩え、中国人 自営の女学堂と比べると、清心書院、裨文女塾、中西女塾などの米国教会女学校のほうが、女紅、家政などの科目を より重視したと論じている。また、その二重の教育目標が対立の関係にあるかどうかという問題について、程は『万国公 報』(1898

6

月)のなかの「正俗」という記事を引用し、「『良妻賢母』理念が戊戌変法期に梁らの言論からきたというな らば、その梁の思想というものは直接に日本からきたのではなく、主として『万国公報』からきたのである」と指摘してい る。

呂美頤「評中国近代関与賢妻良母主義的論争」(『天津社会科学』5期、1995年)。李卓「学と不学のちがい : 近代中 日女子教育の比較」(『日本研究:国際日本文化研究センター紀要』24号、2002年)、「『良妻賢母』与『賢妻良母』的不 同命運:近代日中女子教育比較」(『日本学論壇』1 期、2007 年)。程郁「二十世紀初中国提唱女子就業思潮与賢妻 良母主義的形成」(『史林』6期、2005年)。

1 呂美頤は、「賢妻良母」の形成は、政治舞台に初登場したばかりの維新派志士たちが女性に対して提出した新しい要 求だと主張している。これと伝統的な女性規範とを区別するものとして、以下の

3

つの変化に要約できる。即ち、女性に とって、第

1

に従来家庭ばかりのための生存という役割から、社会のために一定の義務を担って「善種強国」に貢献す ることへの変化、第

2

にお酒と食事の用意ばかりの役割から、「相夫教子」という能力の重視への変化、第

3

に受動から 主動へ、消極から積極へという家庭内での隷属的地位の変化である。しかし、その

3

つの重大な変化に対し、呂は積 極的には評価せず、かえって維新志士たちがまだ「男尊女卑」という思考パターンから抜け出さなかったことが「良妻賢 母」の重要な欠陥だと彼女は考えている。そして、万琼華は、「良妻賢母」理念が女性の役割を「相夫教子」という狭い 範囲内に限定させられ、当時の中国の固有な社会的性別等級制を揺り動かせなかったと主張している。また、王秀田 は、権利と義務の範疇に立脚点を置いて分析を行った。王によれば、「良妻賢母」理念は、伝統的倫理の範囲に属し、

男性に対する依存性と従属性が初めから終わりまで変わらず、女性はやはり「義務だけあり権利なく、奉献だけあり地 位なし」という状況にあった。それだけでなく、男性啓蒙思想家たちは、その観念の普及を女子教育振興の出発点とし ていたが、「国民」という言葉の前に「女」という文字で制限し、完全に国民として認められていなかったと主張している。

つまり、王から見た「良妻賢母」理念は、女性を一人の国民としてではなく、国家民族の利益と男性の古い家族観に基 づくものに過ぎないということになるであろう。

それに対して、林吉鈴によると、清末期の「良妻賢母」理念は、特別な時代の産物として、その消極的な一面と比較 すると、民族絶滅の危機に迫る際、「善種強国」を実現するために女性問題、特に女性教育問題に重大な関心を寄せ 始め、積極的な役割を担ったことを認めている。そして、沈倩は、林の主張に基づいて草創期の近代女学堂を切り口 に、即ち中国女学堂、恵興女学堂及び、寧氏女塾という例を挙げ、朝廷官吏の女性親族でも民間の進歩的女性でも、

すべて「良妻賢母」を宣伝のスローガンとして近代の中国女子教育を振興したことを指摘している。また、楊聯芬によれ ば、清末期の「良妻賢母」理念が、「婦道既昌、千室良善」という儒学の伝統と一致するとともに、「善種強国」の有効な 手段でもあり、儒学と国家・民族主義を結合して清末期の文化転換の理想的な道であったという。それだけでなく、楊 は「良妻賢母」が同じ時期に流行っていた「国民之母」とはっきりと対立する概念ではないと述べ、即ち、「良妻賢母」は

(15)

つぎに、西洋女権の背景下での女子解放運動に着眼する考察である。例えば、著書については、張 蓮波『中国近代婦女解放思想歴程』、孫桂燕『清末民初女権思想研究』、王暁慧『近代中国女子教育 論争史研究(1895-1949)』などがあり、論文については、夏暁虹「英雄女傑勤揣摩:晩清女性的人格 理想」、陳燕燕「近代中国における『女国民』の誕生」などが挙げられる1。それらの研究が西洋女権理論 の中国導入・伝播、及びこうした背景の下、纏足という害毒の一掃、女子教育の振興、婦女団体の組織、

女性雑誌の創刊及び女子留学活動の発足などをめぐる中国女子の思想解放運動の全貌を明らかにす るという研究の進展に貴重な役割を果たしていることは確かである。

しかしながら、中国「良妻賢母」理念の由来・論争に関する論究であれ、西洋女権の背景下での女子 解放運動に着眼する考察であれ、当時の中国女子の「良妻賢母」教育に対する議論と結びつけて検討 するものはまだ見当たらない。実は、清末中国女子教育理想像の構築過程において展開された「良妻 賢母」理念をめぐる議論は、近代中国女子教育の把握のために極めて重要であるため、これについて 研究する必要がある。

本節で取り上げた

4

つの小課題をめぐる先行研究はそれぞれ多面的視角から展開したものとして、近 代中国女子教育における日本受容面の検討についてはまだ触れていないものの、本研究の視座の提 示や骨組みの構成に多大な示唆を与えた。つまり、本研究は近代中国女子教育の日本受容の

2

つの ルートである日本女性教習の招聘、官紳の日本女子教育視察について独自に考察する中で、近代中 国における日本女子教育受容の濫觴、近代女子教育理想像の構築過程における日本型「良妻賢母」

理念をめぐる議論という

2

つの派生した小課題を連想したのである。その

4

つの小課題に基づく本研究 によって、近代中国女子教育の日本受容についての研究を体系化させ、その全体像の把握へさらに一 歩近づくことができるであろう。

3

節 研究方法及び本論文の構成

本研究は、清末の中国女子教育に注目し、その近代化過程における日本女子教育の受容の実態を 明らかにするものである。そのため、まず従来の細分化された研究とは異なり、本研究は近代中国女子 教育における日本受容の全体像に着眼し、「受容の濫觴の掘り下げ→受容ルートの解明→受容された 日本型「良妻賢母」理念の検討」という文脈によって体系的に述べたものである。

次に、本研究では、日中両国における新史料の調査作業が重視されている。例えば、第

2

章で用い

女性が家庭での母と妻の役割及び家庭に対する責任を明確に示し、「相夫教子」、「家事管理」を女性の本分と見なし ていたが、「国民之母」は女性が国民としての資格と、国家に対する責任を強調したということである。

林吉玲「近代女子教育観念的更新及其実践」(『学術論壇』3 期、2001年)。沈倩「賢妻良母与英雄豪杰:晩清時期男 女異路的女権運動」(『浙江学刊』3期、2003年)。楊聨芬「『賢母良妻主義』与晩清文化転型」(『天津社会科学』2期、

2017

年)。

1 張蓮波『中国近代婦女解放思想歴程』(河南大学出版社、2006 年)。孫桂燕『清末民初女権思想研究』(中国社会科 学出版社、2013年)。前掲『近代中国女子教育論争史研究(1895-1949)』。夏暁虹「英雄女傑勤揣摩:晩清女性的人 格理想」(『文芸研究』6期、1995年)。また、陳燕燕「近代中国における『女国民』の誕生」(『千葉大学人文社会科学研 究』19号、2009年)。

(16)

られた『日本学校章程三種』のなかの「華族女学校規則」・『女学集議初編』のなかの「女学集説附」・『汪 康年師友書札』のなかの書簡「江標致汪康年函」、第

4

章の『癸卯旅行記』・『壬寅東遊日記』・『甲辰東 遊日記』・『癸卯東遊日記』、第

5

章の新聞記事「男尊女卑与賢母良妻」・「賢母良妻主義与男女平等平 権主義不相反而相成」などは、近代中国女子教育における日本受容の解明に対して大いに役に立つ 新史料だと言える。第

3

章における日本女性教習の人数統計について、従来の研究でよく用いられた 日本側の新聞・雑誌、外務省の外交史料文書に止まらず、中国側の新聞(『順天時報』、『大公報』、『警 鐘日報』など)・雑誌(『東方雑誌』、『直隷教育雑誌』、『女子世界』など)・地方誌(『営口史話』など)・中 国各省の文史資料選輯(『内蒙古文史資料』、『四川文史資料』、『天津文史資料』など)をもよく活用し た。また、日本側の『読売新聞』、『婦選』、『日本之小学教師』、『淑徳五十年史』、『天津誌』及び日本国 立公文書館・日本外務書外交史料館所蔵の関連史料なども必要な補足史料として追加した。

さらに、史料の調査に基づいて、それに対する独自の整理・統計・分析にも留意する。例えば、第

3

章 の「渡清日本女性教習活動一覧」に基づく表や図の再統計と分析、第

4

章の「清末期、官紳の日本幼 稚園・女子学校への視察一覧」に基づく分析などが挙げられる。

最後に、清末期における中国女子教育の様子を再現するため、従来の研究でまだ使われていない 日本側の雑誌(『東洋婦人画報』、『太陽』、『女学世界』など)・旅行記画集(『清国雑観』)のなかの関連 口絵・挿絵なども多く取り入れた。

本論文の構成について、まず予備考察に相当する第1章において、伝統的な女子地位に注目しなが ら中国女子教育の変遷を概観し、特にアヘン戦争前の伝統的な中国女子教育の変遷及びアヘン戦争 後の西洋女子教会学校の中国への流入についてそれぞれ述べる。また、中国女子教育の伝統性と近 代化の繋がりについても考察してみたい。

2

章では、中国史上最初の中国人自営の女子教育機関である中国女学堂に焦点をあて、まず、中 国女学堂創設の縁起について概括する。次に、

19

世紀末に西洋の教会女学校が主導的な地位をしめ たなか、日本の皇族・華族の女子を対象とする華族女学校の学則、すなわち「華族女学校規則」がどの ような経路を通じて中国に導入・伝播されたのか、また、中国女学堂はその規則をどのように受容したの かを明らかにする。ここで、中国女学堂の創設に関連した湖南学政の江標、清国駐日公使の裕庚、時 務報館総理の汪康年などといった維新志士が果たした役割及び、同女学堂の「東」つまり日本に影響さ れた性格に対して掘り下げる。最後に、草創期における中国女学堂の役割について若干の検討を試み たい。

3

章では、近代中国女子教育に大きな影響を及ぼした日本女性教習を中心に展開する。ここでは、

日本女性教習登場の背景を明らかにし、日本女性教習の基礎的な活動情報を整理してリスト化したうえ で、彼女らの活動の特色を検討する。また、教育現場での具体例、すなわち中国女子教育事業に携わ っていた戸野美知恵、河原操子、松里島子といった代表的女性教習らの活動についてそれぞれ考察を 加える。こうした作業を通して、中国女子教育近代化の過程で彼女らが果たした役割についてまとめる。

4

章では、日本女性教習の招聘活動と同様、日本女子教育に倣うための重要なルートの

1

つであ

(17)

った官紳の日本女子教育視察に注目して検討する。具体的には、まず、官紳の日本視察の背景を明ら かにし、つぎに、清末期における官紳たちの『東遊日記』 を素材として、日本幼稚園や女子学校に関す る視察情報を網羅的に整理して分析する。ここでは、歴史学者の鐘叔河により主編された走向世界叢 書『東遊日記』シリーズの初編・続編という史料を用いる。さらに、視察者の中から

3

つの具体例、すなわ ち単士厘、厳修、張謇を取り上げ、その在日活動や視察現場を再現し、特に日本女子教育の受容過程 においてどのように中国の女子教育に貢献したのかを解明したい。最後に中国女子教育の近代化過程 でそれらの視察者が果たした役割について検討を加えたい。

5

章では、女子教育理想像の構築過程において展開された日本型「良妻賢母」理念をめぐる議論 について検討する。具体的には、まず日本型「良妻賢母」理念の性格を究明する。つぎに、時系列的史 実に従って、その理念の性格をめぐる議論を始動期と展開期に分けて論述する。さらに、「女国民」養成 の現場であった愛国女学校において、どのように日本型「良妻賢母」理念の影響が生じていたのかにつ いて考察する。これらの問題を明らかにすることによって、清末における中国女子教育理想像の構築の 一端を解明してみる。

終章では、本研究の明らかにしたことを述べ、そのうえで清末・明治期における中日の「良妻賢母」観 に対して再考する。最後に本課題に結び付けられて今後の課題・展望を示す。

(18)

119 世紀末葉までの中国女子教育の概観

1

はじめに

2

伝統的な女子地位に見る中国女子教育の変遷

2.1

女子教育書籍の出現とその規範化・細分化

2.2

理学貞潔教育の流行と女子教育の極端化・通俗化

3

西洋女子教会学校の流入とその特徴

4

まとめ―中国女子教育の伝統性と近代化の繋がり

__________________________________________

1

節 はじめに

19

世紀末葉の中国はすでに半世紀以上の近代の洗礼を受けて様々な変化が起き、その代表的な

1

つとして中国女子教育が伝統の家庭教育から近代の学堂教育へ転換したということがある。二千年の君 主専制の支配下で、中国の女子は男子と同じような享受すべき教育権利が奪われ、社会生活の外に排 除されていた。「婦無公事(婦女は朝廷の事と関わらない)」1、「牝鶏無晨(雌鶏は時をつくる必要がない。

女子が朝政を手に握れないことを指す)」2という四字熟語のように、教育を受けて社会に進出することは 男子のみの特権であった。彼女らの教育については、各王朝時代の宮廷教育(徳行・修身・経書読誦・

吟詠・書道など)、妓楼教育(歌と踊り、詩・対句作りなど)、寺教育(お経の読誦)などといった様々な教 育モデルがあったが、家庭の枠内において徳行・貞潔・従順類の書籍を中心とする家庭教育は終始社 会発展の主流方向になっていた。言うまでもなく、現在の目で伝統的な中国女子教育の流れを振り返れ ば、その発展は明らかに遅れていた。しかし、中国女子教育はまさにゼロから累積的な進化を進め、最 終に教育の近代化方向に向かって邁進し始めた。

本節では、まず伝統的な女子地位に着目しながら中国女子教育の変遷を概観し、そのうえでアヘン 戦争後、中国へ流入した西洋女子教会学校の特徴を明らかにする。最後に、中国女子教育の伝統性と 近代化の繋がりを考察しておきたい。

2

節 伝統的な女子地位に見る中国女子教育の変遷

伝統的な中国女子の地位は、政治制度の変革、経済生活の発展及び文化構造の変化に合わせて 変わるものである。女子地位の高低によってその教育の形式・内容も異なると言える。原始の農耕社会 から男性が生産力の主体となり、女性は次第に副次的・服従的地位に下った。それが中国歴史上「男

1 「巻一第九・魯季敬姜」(劉向編撰、顧凱之図画『古烈女伝』中華書局、1985年)、17頁。

2 「周書・牧誓」(慕平訳注『尚書』中華書局、2009年)、122頁。

(19)

尊女卑」の雛型であろう。また、春秋時期の孔子は「唯女子与小人為難養也(ただ女子と小人とは養い 難しとなす)」1と認めて「男尊女卑」を提唱し、儒教的婦女観の基礎をうち固めたと言える。ここにおいて 伝統的な中国女子教育の幕が開いた。

2.1

女子教育書籍の出現とその規範化・細分化

秦・漢時期において、「大一統(全国の統一)」という中央集権制国家の成立に向けて、董仲舒は武帝 に「罷黜百家、独尊儒術(諸子百家を排斥して儒学のみを尊ぶこと)」を献策し、そしてその儒教的な「男 尊女卑」を教育化・規範化した。特に「三綱(君臣・父子・夫婦の道)」倫理説が本格的に提出されて社会 全体を支える道徳基礎となった。そのような背景のもと、西漢劉向の『烈女伝』、東漢班昭の『曹大家 集』・『女誡』・『烈女伝注』・『補烈女伝』、蔡邕の『女訓』などの専門的な女教書籍が初めて出現し2、女 子の厳守すべき礼儀・道徳・倫理を宣揚する手本となった。中国の歴史上、漢時期の女子教育は支配 層から重要視されて初歩的発展を遂げた。また、その時期が女子教育の規範を書籍化した始まりでもあ ったと言える。

魏・晋から隋・唐の時代にかけて、中国は史上空前の民族融合の大盛況であり、その開放策の実施 に伴って女性の自由(自由婚姻、自由交際、民間の結社自由など)・思想に対する制限が多少緩和され た。特に唐の繁栄は、政治(宮廷女官、公主、女道士などの参政)・教育・文学・芸術などの分野におい て少数の女性が出現して彼女らの才華を発揮する可能性を提供した3。しかし、その陰には女子地位が 低下していた一面があり、すなわち女子教育向けの訓戒書籍が大量に出現していた。漢代の『烈女伝』、

『女誡』に基づいて、長孫皇后の『女則』、王琳の妻韋氏の『女訓』、元沛の妻劉氏の『女儀』、陳邈の妻 鄭氏の『女孝経』、宋若昭の『女論語』などが次々と現れ、以前からある礼儀・道徳・倫理教育のほか、胎 教・母教・女功(家事)教育なども追加・強調された。また、女子を制限する訓戒条目についてより細分化 され、そしてそのような訓戒を主とする女子教育方法は後世にもよって踏襲された。

2.2

理学貞潔教育の流行と女子教育の極端化・通俗化

五代十国時代以降、纏足の出現は社会の審美観を一変させ、それとともに女子の地位がさらに低下 し、男子の付属品や賞玩品となり下がった。中国の女子は精神上の制限のみならず、さらに身体上の損 害も受け始めた。唐の崩壊と五代十国の分立を経て、つづく宋・元代になると、宋詞文学の影響によっ て、唐と同様、学者風の家庭や、官紳の家庭出身の女子の一部は宋詞文学に集中して才女になった。

『歴代婦女著作考』によれば、宋代の女性著作は

50

部に達し、そのうちの詩詞に関するものも

20

部余 りだという4。また、朝廷から民間まで歌と踊り教育や、家庭内の書画教育などを受けた女子も存在してい

1 「陽貨第十七」(張燕嬰訳注『論語』中華書局、2007年)、276頁。

2 胡文楷編著『歴代婦女著作考』(上海古籍出版社、1985年)、2-5頁から抜粋。

3 段塔麗『唐代婦女地位研究』(人民出版社、2000年)、72-93頁から抜粋。

4 前掲『歴代婦女著作考』、40-69頁から抜粋。

(20)

た。しかしそれと同時に、その時期における女子教育の顕著な特徴としては、男女共有の徳性から女性 専属の品徳へ変化した「貞潔」が死生の上に置かれる理学が出現したことである1。「餓死事極小、失節 事極大(餓死は些細なことで、貞節を失うのは極めて重大である)」2は女性に対して最も残酷で無理な 要求となったと言える。また、理学の集大成者である朱熹は董仲舒の「三綱」学説を改めて解読し、「人 道莫大于三綱、而夫婦為之首(人道は三綱より大事なものはない。夫婦はそのなかの第一だ)」と指摘 した。このように、家庭内における女子の礼儀・道徳・母教・女功などの訓戒教育はさらに厳しくなった。

明・清時代において、中国の女子教育は前代の女規・女訓教育を踏襲したうえで、その中味を最大 限に掘り下げて規範化した。明の張岱、徐学謨により提出された「女子無才便是徳」、「婦人識字多誨淫」

は、女子と教育が対立の存在だと認め、女子として家庭内の訓戒教育を受けることのみが必要だと強調 した。清時代になると、女子教育はすでに極端化し、無条件の尊卑・従順を女子生存の最高準則とみな した。ここで、男女関係は終始天と地、陽と陰のような変わらぬ尊卑関係と定められた。「夫婦之道。参配 陰陽。通達神明。信天地之弘義。人倫之大節也(夫婦の道は、陰陽に参配し、神明に通達す。信に天 地の弘義、人倫の大節なり)」3、「夫者、天也。天固不可逃、夫固不可違也(夫なる者は天である。天固 より逃がるるべからず、夫固より離るるべからず)」4、「侮夫不節。譴呵従之。忿怒不止。楚撻従之(夫を 侮ること節あらざれば、譴呵これに従う。忿怒止まざれば、楚撻これに従う)」5のように、女子としては生ま れてから男子と雲泥の差があるとされた。「三従四徳」は女子の行動規範となった。「三従」とは、「未嫁 従父、既嫁従夫、夫死従子(嫁する前は父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死しては子に従う)」というこ とを指し、女子は一生の順服・従属を宿命づけられていた。「四徳」とは「婦徳・婦言・婦容・婦功」であり、

特に家事をきりもりする能力の養成が重視された。また、女子の活動については子を生み育てることや 家事をきりもりすることに過ぎず、彼女らの労働も社会に認められなかった。その「三従四徳」養成に関 する読本は系統化・集中化した。例えば、藍鼎元『女学』、陳宏謀『教女遺規』、作者不詳の『閨律』など が挙げられる。また賀瑞麟『女児経』、作者不詳『改良女児経』などは通俗化して一時大流行した6。一方、

「夫婦一体」という前提のもと、男子は当然のことながら家庭財産の所有者となり、女子の嫁入り道具さえ も夫の家によって管理しなければならなかった7

「男尊女卑」という背景下、女性の地位は各時代によって異なることが示されたが、女子教育書籍の出 現から、そのための規範化・細分化→極端化・通俗化まで、女子教育地位の転落の趨勢は全く変わらな

1 遊恵遠によれば、「節」とはもともと男女を問わずに「行之所欲不踰矩(したいことはきまりの通りにする)」という意味だと いう。遊恵遠『宋元之際婦女地位的変遷』(新文豊出版股份有限公司、2003年)、321頁。

2 「巻第二十二下・伊川先生語八下」(程顥・程頣著、潘富恩導読『二程遺書』上海古籍出版社、2000年)、356頁。

3 「夫婦第二」、王相『女誡』(文筝編『涵養女徳 美麗人生:女四書・女孝経』上、中国華僑出版社、2011年)、7頁。

4 「専心第五」(同上)、13頁。

5 同上、11頁。

6 前掲雷書『中国女子教育史』、182-187頁。

7 張栄錚・劉勇強ほか点校『大清律例』(天津古籍出版社、1993 年)、195 頁。その「大清律例巻八・戸律・戸役」の

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条によれば、女性が再婚するときにその嫁入り道具は全部前の夫によって管理するという。原文は「其改嫁者、夫家財 産及原有粧奁、並聴前夫之家為主」である。

参照

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