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清代廣東省における蜑民反乱について

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岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要 第52号 2021年12月 抜刷 Journal of Humanities and Social Sciences

Okayama University Vol. 52 2021

王   歓 歓 WANG, Huanhuan

The Tan-min Uprising in Qing Dynasty Guangdong Province:

Focusing on the Zhou Yu・Li Rong Rebellion

─周玉・李栄の乱に着目して─

(2)

清代廣東省における蜑民反乱について

─周玉・李栄の乱に着目して─

王   歓 歓

 はじめに

一、反乱の背景— 海禁政策の強化 二、反乱の発端・拡大と鎮圧 三、反乱の影響

 おわりに

はじめに

 清朝の順治十八年より康熙初年、鄭成功の反清勢力に直面した朝廷は、沿海の民衆が鄭氏と交流 することを防ぐため、遷界令(遷海令)を廣東・福建・浙江・江南(現在の江蘇省、安徽省及び上 海市)・山東の五省で実施した。この政令により、廣東や福建などの沿海に生活する住民を内地に うつすことになった。これによって、生業と居住地を失った一部の民衆が反乱を起こした。特に康 熙年間の廣東省においては遷界令の実行に反対するために、水上生活者である蜑民による反乱、す なわち周玉・李栄の乱が起こり、廣州府1の沿海各縣に広がった。本論を進める前に、周玉・李栄 の乱の性格について簡単にふれておきたい。

 周去非『嶺外代答』に「蜑民はきわめて貧困であり、服はぼろぼろである」2とあり、蜑民は一般 に経済的に貧しい集団とされる。しかし、『明史』3と『廣東新語』4の記事によると、蜑民のなかでも、

数百隻もの戦船を擁して蜑民集団を率いるような有力者もいたことが明らかである。また、『清實録』

と廣州府諸縣の縣志には、いずれもこの反乱が蜑民中の有力者である周玉と李栄を指導者とした蜑 民の集団によるものであることを記している。さらに、蜑民は主に漁を生業とするが、時には生活 に困った一部の蜑民が海賊(海寇)の集団に加入しなくてはいけない。蜑民と海賊の区別を明確に

  岡山大学大学院社会文化科学研究科博士後期課程

  清の頃、廣州府は南海・番禺・順德・東莞・従化・竜門・新寧・増城・香山・新会・三水・清遠・新安・花 の十四縣を領した。

  周去非『嶺外代答』巻三・蜑蠻(中華書局、一九九九年)、一一五頁:……凡蜑極貧、衣皆鶉結。……

  張廷玉等撰『明史』卷三二二・日本傳(中華書局、一九八六年)、八三五六-八三五七頁:……其犯廣東者、

為蜑賊梁本豪勾引、勢尤猖獗。總督陳瑞集衆軍擊之、斬首千六百餘級、沈其船百餘艘、本豪亦授首。帝為告 謝郊廟、宣捷受賀云。……

  屈大均『廣東新語』巻十八・舟語・蛋家艇(中華書局、一九九七年)、四八六頁:……曩有徐・鄭・石・馬 四姓者、常擁戰船數百艘、流刦東西二江、殺戮慘甚。……

(3)

することはできないが5、彼らは海賊と完全に同等であったとは言えない。例えば、康熙十六年(一 六七七)に蜑民の石貴が海賊の李積鳳、謝昌などと結託し、海陵を劫掠したという6。このことより、

蜑民と海賊は性質の異なる集団と認識されていたと言えるだろう。また、『(光緒)香山縣志』に「康 熙二年(一六六三)十二月に番禺市橋の蜑賊の周玉・李栄が海洲を攻撃し、馮大倫の余党(社賊7) がその機に乗じて陸地で放火して略奪した。……五年、海賊が翠微を襲った」8とあるように、康熙 朝初期の蜑民による周玉・李栄の乱は、海賊の乱とは区別されていたことが見出される。そのため、

周玉・李栄の乱を蜑民による反乱と理解しておくのが妥当だと言える。

 蜑民の反乱についての研究を行うことは、蜑民の実相を深く把握するうえで意義がある。また、

民衆研究の重要な一環となる。これまでの研究を振り返ってみると、中国民衆の反乱について多く の研究がなされ、様々なことが解明されつつある。日本語による代表的な専論を挙げると、青年中 国研究者会議編『中国民衆反乱の世界』(汲古書院、一九七四年)・『続中国民衆反乱の世界』(汲古 書院、一九八三年)、谷川道雄・森正夫編『中国民衆叛乱史一―秦~唐』・『中国民衆叛乱史二―宋

~明中期』・『中国民衆叛乱史三―明末~清Ⅰ』・『中国民衆叛乱史四―明末~清Ⅱ』(平凡社、一九 七八~一九八三年)、井上徹「明末清初、廣東珠江右岸デルタにおける社賊・土賊の蜂起」(『史林』

第六五卷第五号、一九八二年)がある。これらの研究では、奴変・宗教的反乱・抗租闘争・抗糧闘 争・都市暴動を中心とする民衆の叛乱を詳細に取り上げているが、蜑民の反乱にふれる内容はない。

 蜑民に関する従来の研究は起源・信仰・生活の実相といった面から数多くなされてきた。例えば、

林耕「蛋家の来歴とその生活」『アジア問題講座(第九巻)』(創元社、一九三九年)、陳序經『疍民 的研究』(商務印書館、一九四六年)、韓振華「試釈福建水上蛋民(白水郎)的歴史来源」(『廈門大 学学報』第五期、一九五四年)、葉顕恩「明清廣東蛋民的生活習俗与地縁関係」(『中国社会経済史 研究』第一期、一九九一年)、詹堅固「試論蜑名変遷与蜑民族属」(『民族研究』第一期、二〇一二年)

等の専論が挙げられる。だが、蜑民の反乱に対する研究者の関心は乏しく、本格的な研究はなされ ていない。既存の研究として何格恩「蜑族事迹年表初稿」(『嶺南学報』第六巻第四期、一九四一年)、

潘蒔「清初廣東的遷海與廣東人民的反遷海闘争」(『華南師範大学学報』創刊号、一九五六年)、傅

 李寧利「明清時期民社会與中国対南海諸島的管轄」(『西南民族大学学報』第一〇期、二〇一四年)、六六頁。

  莊大中修・林聞譽纂『(乾隆)陽江縣志』卷八・紀事(哈佛大学漢和圖書館珍藏影印、一七四六年)、九頁:

康熙十六年……蛋賊石貴勾引海寇李積鳳・謝昌等盤據海陵、飄劫地方。

  僕賊ともいう。井上徹によれば、社賊とは社という固有の組織を基盤として蜂起した反乱集団である。その 組織が多様な階層によって支えられている点からすると、社賊の反乱の性格は奴僕・佃僕の身分解放運動(奴 変)だけではなく、複合的な特徴があったと言われている。井上徹「明末清初、廣東珠江右岸デルタにおけ る社賊・土賊の蜂起」(『史林』第六五卷第五号、一九八二年)、一二三・一四六頁。

  田明曜修・陳澧纂『(光緒)香山縣志』巻二二・紀事(上海書店出版社、二〇〇三年)、四五六-四五七頁:

順治三年社賊起。原注云:以奴脅主結社倡亂謂之社賊、亦謂之僕賊。始自順德沖鶴堡延及諸縣邑諸村、所在 多有古鎮以馮春隆・馮大倫為首。海洲以劉綦廉為首。是年、攻海洲。明年、駕船寇外洋。……康熙二年十二月、

番禺市橋蛋賊周玉・李榮寇海洲。馮大倫餘黨乘機由陸路焚刦三日。……五年海賊襲翠微。

(4)

貴九「明清疍民考略」(『史学集刊』第一期、一九九〇年)が挙げられる。まず何格恩「蜑族事迹年 表初稿」は、重要な蜑民関係の史料を論文にまとめたものであり、この論文を通じて一部の蜑民反 乱に関わる史料を把握することができる。潘の論文は、主に清初期廣東全域の反乱を研究対象とす るものである。周玉・李栄の乱を主眼とするものではないが、この反乱を蜑民の反乱と認識してい る。傅の論文では「疍民反抗封建圧迫的闘争」と題する一章を設けているが、明清時代における蜑 民の反乱の経過について簡単に論述しただけである。

 一方、周玉・李栄の乱の要因ともなった清初の遷界令については研究が進展している。田中克己

「遷界令と五大商」(『史苑』第二六巻第二/三号、一九六六年)、万明『中国融入世界的歩履:明与 清前期海外政策比較研究』(社会科学文献出版社、二〇〇〇年)、山本英史「清初における浙江沿海 の秩序形成と地方統治官」『近世の海域世界と地方統治』(汲古書院、二〇一〇年)、趙軼峰「関於 清初粤東遷海民生代価的思考」(『中国史研究』第三期、二〇一四年)の諸論考が代表的だと言えよ う。以上の研究では、清朝廷が遷界令を実施した原因や実施の過程、実施の影響といった多様な問 題が明らかにされた。ただし、これらの研究は政令の発布により、周玉・李栄の乱が起こったこと にあまり関心を示さない。

 清代に生起した蜑民反乱の中でも、清初の周玉・李栄の乱に関する文献上の記載は比較的多く、

三十箇所余りの史料を集めることができる。よって、本稿では、従来の研究をふまえて、主に周玉・

李栄の乱を中心にして、反乱の発端、反乱の拡大と影響はどうであったのか、朝廷と地方官府がど のようにそれに対応したかを検討する。また、政策と政令の実施は民衆の生活に多少なりとも影響 を与えるはずである。そのため清初の遷界令の施行が蜑民の生活にどのような影響を及ぼしたのか についても論及したい。

一、反乱の背景—海禁政策の強

 清政府は沿海を拠点とした鄭氏勢力を封鎖するため、明代と同様に東南沿海域に海禁令を施行し たが、予期通りの効果がなかった。そこで海禁令を更に徹底させるため、遷界令を発布した9。以下、

海禁令と遷界令の実施過程をたどることとしたい。

 まずは順治十一年(一六五四)二月に、礼科給事中・季開生が「厳しく海禁を行う(嚴海禁)」

ことを提議した10。順治十二年(一六五五)六月に浙閩総督・屯泰が上奏し、「片帆も入海すること

  顧盼「清初における廣東・福建の海禁政策」(『史境』第五三期、二〇〇六年)、五二頁。

10  中華書局影印『清實録(第三冊)』世祖章皇帝實録・巻八一・順治十一年二月已巳(中華書局、一九八五年)、

六三五頁:禮科給事中季開生以海賊突犯江北、勢頗猖獗、條陳戰守六要:一、遠偵探。一、扼要害。一、備 器械。一、嚴海禁。一、杜接濟。一、密譏察。下所司議。

(5)

を許さない(無許片帆入海)」ことを提言した11。その後、朝廷は海禁令を発布した12。しかし、実際 には大船の出海を禁じただけで、小船の出航の場合、許可証があれば、沿海住民が魚を捕ることが 認められていたように、この海禁令は比較的緩い政令であった13。翌年の順治十三年(一六五六)

六月に昨年の海禁令より更に厳しい勅諭が発布された。この勅諭の内容は『清世祖實録』において 以下のように記載される。

  海の逆賊鄭成功などは海隅に竄伏しているが、今でもまだ殲滅できていない。きっと奸人がひ そかに情報を提供し、厚く利益を貪り、互いに交易を行い、糧食や物品を援助しているに違い ない。法を定めて厳禁しなければ、海上の不穏な空気は一掃できない。今後、各所轄の督撫・

鎮台は沿海一帯の文武各官にはっきりと伝達させ、商民の船隻がひそかに出海することを厳禁 する。糧食・貨物などで逆賊と交易する者に対しては、地方官が発覚させるにせよ、他人に告 発されるにせよ、取引をしようとする者は官民を問わず、みな皇帝に報告して死罪に処する。

貨物は官府に没収し、犯人の家財はすべて告発した者に与える。所轄の文武各官が尋問と逮捕 を行わない場合は、みな罷免して重罪に処する。地方の保甲が結託し、見逃して検挙しない場 合は、みな死罪に処する。凡そ沿海地方で大小の賊船が停泊や上陸できる港口においては、各 所轄の督撫・鎮台はみな防衛を厳しく戒め、各官は互いに情勢を判断し、方法を講じて阻止す る。土手を築き、木柵を立て、各処で厳重に防衛する。一隻の船が港口に入ることも一人の海 賊が上陸することも許さない。もし依然として防備に怠けて過失をもたらせば、その駐屯の各 官は軍法によって処罰する。所轄の督撫・鎮台も罪を問う。爾等は早速この勅諭に従って力を 尽くして施行せよ。14

11  前掲『清實録(第三冊)』世祖章皇帝實録・巻九二・順治十二年六月壬申、七二四頁:浙閩總督屯泰疏言。沿 海省分、應立嚴禁。無許片帆入海、違者立置重典從之。

12  昆岡・李鴻章等編修『(光緒)欽定大清會典事例』巻六二九・兵部・綠營處分例・海禁一(商務印書館、一 九〇九年)、一-二頁:海禁、順治十二年題准。海船除給有執照許令出洋外。若官民人等擅造兩桅以上大船、

將違禁貨物出洋販賣往番國、并潛通海賊、同謀結聚、……皆交刑部治罪。至單桅小船、准民人領給執照、於 沿海近處捕魚取薪。營汛官兵不許擾累。

13  山本英史「清初における浙江沿海の秩序形成と地方統治官」山本英史編『近世の海域世界と地方統治』(汲 古書院、二〇一〇年)、五頁。

14  前掲『清實録(第三冊)』世祖章皇帝實録・巻一〇二・順治十三年六月癸巳、七八九頁:勅諭浙江・福建・

廣東・江南・山東・天津各督撫鎮曰:海逆鄭成功等、竄伏海隅至今尚未勦滅、必有姦人暗通線索、貪圖厚利、

貿易往來、資以糧物。若不立法嚴禁、海氛何由廓清。自今以後、各該督撫鎮、著申飭沿海一帶文武各官、嚴 禁商民船隻私自出海。有將一切糧食貨物等項、與逆賊貿易者、或地方官察出、或被人告發、即將貿易之人、

不論官民、俱行奏聞正法、貨物入官、本犯家産盡給告發之人。其該管地方文武各官、不行盤詰擒緝、皆革職、

從重治罪。地方保甲、通同容隱、不行舉首、皆論死。凡沿海地方、大小賊船、可容灣泊登岸口子、各該督撫鎮、

俱嚴飭防守、各官相度形勢、設法攔阻。或築土壩、或樹木柵、處處嚴防。不許片帆入口、一賊登岸。如仍前 防守怠玩、致有疏虞、其專汛各官、即以軍法從事、該督撫鎮一並議罪。爾等即遵諭力行。

(6)

 しかしながら、順治十四年(一六五七)三月の黃梧(元々鄭成功の部下であったが、順治十三年 清に投降した)の奏言を見ると、「鄭成功がまだ殲滅されないのは、福州・興化などの郡が補給の 基地になっているからだ。……今沿海の補給を禁止したが、その要領を得なかったため、なお禁止 できていないようだ」15とある。また、順治十五年(一六五八)正月に至っても、賊(鄭氏勢力)

は商人に仮装し、廣東の潮州・惠州・南洋・揭陽・海門の各港に潜入して糧食を買っていたという。

また福建の南澳・銅山を経由して、糧食を廈門へ転運していた16。さらに、順治十五年/南明・永 暦十二年(一六五八)五月から十六年/南明・永暦十三年(一六五九)九月まで、鄭成功(延平王)

は江南に兵を進め、南京に迫った。順治十七年(一六六〇)五月に朝廷は達素を派遣して廈門を攻 めたが、その結果は清軍の敗走に終わった17。このことから、二度目の海禁令も予想した効果があ げられず、依然として徹底しなかったことがわかる。

 次に、順治十七年(一六六〇)九月に、福建総督・李率泰は福建の沿海居民を内地へ移住させる という提議を上疏したが18、同年に遷界令は発布されなかった。翌年、黃梧はまた清政府に「内密 陳滅賊五策」という建言書を呈上する19。この文書の第一・第二則は東南沿海地域の遷界に関わる。

清政府は鄭成功を自滅に追い込むことを図り、黃梧の献策を採択した。順治十八年(一六六一)八 月、康熙帝は戸部への勅諭を出し、遷界令が正式に頒布されることとなった。なお、順治帝は順治 十八年(一六六一)正月に崩御し、これを継いだ康熙帝はわずか七歳であったため、遷界令の勅諭 は輔政大臣の索尼・蘇克薩哈・遏必隆・鰲拜四人が責任を負うべきものとなった20。その具体的な 内容は『清聖祖實録』に次のように記されている。

15  前掲『清實録(第三冊)』世祖章皇帝實録・巻一〇八・順治十四年三月丁卯、八五〇-八五一頁:海澄公黃 梧奏言。鄭成功未即勦滅者、以有福興等郡為伊接濟淵藪也。……今雖禁止沿海接濟、而不得其要領、猶弗禁也。

16  中央研究院歷史語言研究所編『明清史料(第十冊)』丁編・右都督蘇明揭帖・順治十五正月三十日到(維新 書局、一九七二年)、一八二頁:……賊扮商船混入潮・惠・南洋・揭陽・海門各處港門賣糴、由澳・銅轉運 廈門。……

17  夏琳『海紀輯要』卷一(大通書局、一九八七年)、二一-二六頁:十二年夏五月、招討大將軍延平王大舉北 圖江南。……六月、大將軍徇浙江・平陽・瑞安諸縣降。……十三年六月、大將軍破瓜州・尋克鎮江府。秋七月、

大將軍進逼南京。……九月、大將軍旋師至思明州。……十四年五月、清滿州將軍達素合兵攻廈門、大將軍迎 擊海上、大破之。……

18  前掲顧盼「清初における廣東・福建の海禁政策」、五四頁。前掲『清實録(第三冊)』世祖章皇帝實録・巻一 四〇・順治十七年九月癸亥、一〇八一頁:戸部議覆福建總督李率泰疏言。海氛未靖、應遷同安之排頭・海澄 之方田沿海居民入十八堡及海澄内地、酌量安插。從之。

19  江日昇『臺灣外記』臺灣銀行經濟研究室編『臺灣文獻叢刊(第六〇冊)』卷五(衆文圖書、一九七九年)、二

〇一頁:……(順治十八年六月)會海澄公黃梧一本、内密陳滅賊五策:一、金・夏兩島彈丸之區、得延至今 日而抗拒者、實由沿海人民走險、糧餉・油・鐵・桅船之物、靡不接濟。若從山東・江・浙・閩・粤沿海居民 盡徙入内地、設立邊界、布置防守、則不攻自滅也。二、將所有沿海船隻悉行燒燬、寸板不許下水。凡溪河豎 樁柵。貨物不許越界、時刻瞭望、違者死無赦。如此半載、海賊船隻無可修葺、自然朽爛、賊衆許多、糧草不繼、

自然瓦解。此所謂不用戰而坐看其死也。……

20  田中克己「遷界令と五大商」(『史苑』第二六巻第二/三号、一九六六年)、八頁。

(7)

  江南・浙江・福建・廣東の沿海域は賊の巣に近いため、海の逆賊がしばしばこの地域を侵犯し、

住民は安寧することができない。ゆえに、沿海の住民をすべて内地に遷移することで、実に民 生を保全できるとのことである。今、民衆に速やかに田地・家屋を支給しなければ、彼らは生 活できない。所轄の督撫に詳しく調査させ、(田地・家屋を)支給する。必ず所轄の督撫は自 ら取り扱い、民衆を適宜な所に落ち着かせ、実利を得させよ。部下の官員に委ねてぞんざいに やってはいけない。爾部(戸部)は早速この諭に従って施行せよ。21

 この遷界令は順治十八年(一六六一)九月から、江南・浙江・福建の沿海で施行され、山東省で は康熙二年(一六六三)、廣東省では康熙元年(一六六二)から六年にかけて実施された22。具体的 な施行の方法は沿海の住民を内地に強制移動させ、その村をすべて壊し、木柵を設けることである。

また、移動しない民衆や越境者は死罪にした。遷界令施行の惨況に関しては、江日昇『台湾外記』

に「当時、界を守備する兵卒は最も威勢があった。彼らに賄賂を行う者は境界の出入を許可され、

少しでもにらまれるようなことがあれば、界垣の外に引っ張り出されて殺された。官は兵卒の責任 を問わず、人民は冤罪を負っても訴えない。人民は失業し、号泣の声が道に溢れた。郷民が離散し て流浪する光景は極めて悲惨であった。夫に背き子供を棄て、父を失い妻と別れ、老人・子供の遺 体は溝壑を埋めつくし、骸骨は荒野に曝された」23という記述が見られるほか、明末清初の有名な 文人である屈大均も遷界のことを批判した24

 次に、周玉・李栄の乱の発生地となる廣東省遷界の概要を述べる。康熙朝の工部尚書・杜臻が著 した『閩粤巡視紀略』や各府縣志の記述によると、康熙元年(一六六二)に廣東省の沿海及び海島 の居民を内地五十里に移住させ、翌年に再遷界、三年から三度目の遷界が実施され、全省の遷界の

21  前掲『清實録(第四冊)』聖祖仁皇帝實錄・巻四・順治十八年八月己未、八四頁:諭戸部。前因江南・浙江・

福建・廣東瀕海地方逼近賊巢、海逆不時侵犯,以致生民不獲寧宇。故盡令遷移内地、實為保全民生。今若不 速給田地居屋、小民何以資生。著該督撫詳察酌給。務須親身料理、安插得所、使小民盡沾實惠。不得但委屬員、

草率了事。爾部即遵諭速行。

22  何福海修・林国賡纂『(光緒)新寧縣志』巻十四・事紀略下(台湾学生書局、一九六八年)、四-五頁:康熙 元年三月、遷海島及海濱居民於内地五十里、賑貧民之不能遷者。……十二月、蛋匪李榮刼沿海鄕村。……三 年五月、續遷近海居民。李維鈺原本・沈定均修・呉聯薰增纂『(光緒)漳州府志』巻四七・災祥・寇乱附(上 海書店出版社、二〇〇〇年)、一一三九頁:(順治)十八年四月鄭成功破台灣據之。……九月遷沿海以垣為界、

龍溪自江東至龍江以東、漳浦自梁山以南、……皆為棄土。万明『中国融入世界的歩履:明与清前期海外政策 比較研究』(社会科学文献出版社、二〇〇〇年)、三五七頁。

23  前掲『臺灣外記』卷六、二三二頁:(康熙三年三月初二日)……時守界弁兵最有威權、賄之者、縱其出入不問。

有睚眦者、拖出界牆外殺之。官不問、民含冤莫訴。人民失業、號泣之聲載道。鄕井流離、顛沛之慘非常。背夫、

棄子、失父、離妻、老稚填於溝壑、骸骨暴於荒野。

24  屈大均『廣東新語』巻二・地語・遷海(中華書局、一九九七年)、五七-五八頁:粤東瀕海、其民多居水鄕。

……魚鹽蜃蛤之利、籍為生命。歳壬寅二月、忽有遷民之令、滿洲科爾坤・介山二大人者、親行邊徼、令濱海 民悉徙内地五十里、以絶接濟台灣之患。於是麾兵折界、期三日盡夷其地、空其人民。棄貲携累、倉卒奔逃、

野外露栖、死亡載道者、以數十萬計。……自有粤東以來、生靈之禍、莫慘於此。……

(8)

田地面積は総計三一六九二頃であったという25。また、表一からわかるように、廣東省では離島の 瓊州府(現在の海南省)を除く沿海の七府二十七州縣がすべて遷界の実施範囲となった。さらに、

樊封『南海百詠続編』に「廣州近海の番禺・東莞・新安・香山・順德・新寧六縣においては、すべ ての沿海蜑民を内地へ移住させた」26とあるように、大量の廣州蜑民が内地に強制移動させられる 対象となったことがわかる。なぜなら、廣東の沿海は蜑民の主要な活動地域であり、鄭成功が台湾 を占拠した時も、蜑民をつかって清軍と戦ったからである27

表一:杜臻『閩粤巡視紀略』による廣東省遷界の実施範囲と田地面積

府名 州縣名 遷界面積(頃) 府名 州縣名 遷界面積(頃) 府名 州縣名 遷界面積(頃)

廉州 欽州 四七一余

肇慶

陽江 三一〇六余 廣州 新安 一三五九余

合浦 一〇九八余 恩平 七〇五余

惠州

帰善 八〇余 雷州

徐聞 一一一一余 開平 一九九余 海豊 三二四〇余

海康 一二八五余

廣州

新寧 一七六二余 澄海 五三五余

遂溪 三二九六余 新会 二四四八余

潮州

惠來 八三七余

高州

石城 二五二余 香山 四〇一七余 潮陽 七六〇余

呉川 七一七余 順德 一二二一余 揭陽 八六余

茂名 四〇余 番禺 六七四余 海陽 二七八整

電白 一二六余 東莞 八三六余 饒平 六一五余

* 本表は、〔田中克己『遷界令と五大商』(『史苑』第二六巻第二/三号、一九六六年)、十頁〕と〔杜臻『閩粤巡 視紀略』王雲五主持『四庫全書珍本四集(第一一三冊)』巻一-巻三(商務印書館、一九八三年)、二四-五三・

一-四九・二-二三頁〕をもとに、筆者が加筆したもの。

二、反乱の発端・拡大及び鎮圧

 前述のように、遷界令の実施は沿海住民の生活に多大な悪影響を及ぼした。屈大均『廣東新語』

の遷海條にあるように、廣東の住民の多くは漁撈と製塩を生業としていた28。さらには、樊封『南 海百詠続編』は先に揭げた部分に続けて「当時の失業者はみな珠江に集まった。番禺の蜑戸は万人 にも及ぶ。……この輩は網で魚を捕るが、耕作を知らない。……」29という。従って、沿海の住民、

特に海にとりわけ依存し、魚を獲って糊口を凌ぐ蜑民にとってこの政令の影響は深刻であり、その

25  杜臻『閩粤巡視紀略』王雲五主持『四庫全書珍本四集(第一一三冊)』巻三(商務印書館、一九八三年)、四 三頁:……臣等査得廣州・惠州・潮州・肇慶・高州・雷州・廉州等七府所屬二十七州縣二十衛所沿海遷界、

并海島港洲共三萬一千六百九十二頃零。……なお、『(雍正)揭陽縣志』・『(乾隆)海豐縣志』・『(乾隆)南海 縣志』・『(嘉慶)澄海縣志』・『(嘉慶)新安縣志』『(咸豐)順德縣志』・『(民国)東莞縣志』などを参照。

26  樊封撰・劉瑞點校『南海百詠続編』巻一・移民市(廣東人民出版社、二〇一〇年)、一六〇-一六一頁:康 熙元年、臺逆鄭成功流刧閩廣洋面、勾煽沿邊蛋民、官軍疲於奔命、於是界海清野之議興。……廣州近洋之番禺・

東莞・新安・香山・順德・新寧六縣、所有沿海蛋民悉徙内地。……一時失業者咸聚珠江。番禺蛋戸約萬人、

……此輩網耕罟耨、不曉耕作。……

27 前注二六を参照。

28 前注二四を参照。

29 前注二六を参照。

(9)

ため逃亡する者、あるいは反乱を起こす者がいた。中でも、周玉と李栄を指導者とした、生業を失っ た蜑民の反乱があり、その勃発の直接的な原因は廣東省の遷界にあると言えよう。例えば、屈大均 が著した『皇明四朝成仁錄』に「癸卯(康熙二年)、敵(朝廷)は沿海居民が糧食や布帛を鄭成功 に援助することを憂慮したため、沿海居民をすべて内地に遷移させた。……周玉・李栄が魚を獲る 場所はすべて界の内にあったため、彼らは生計を立てることができなくなった。沿海居民もみな田 地・家屋や先祖の墓を失った。沿海居民は離散して転々とし、死者も数え切れない。周玉・李栄は これに心を痛め、十月一日、帆を上げて出海し、多くの蜑民を糾合した」30とあるのはこの証である。

 周玉・李栄は廣東番禺沙湾(現在の廣東省廣州市番禺区、一説には番禺市橋)31の蜑民である。廣 東の高明で知県を務めた鈕琇(一六九八—一七〇四)の『觚賸』によると、彼らは漁撈を生業とし、

百隻の繒船(小型艦船)を管轄していた。繒船の上には楼櫓(敵を見張るためのやぐら)が設けら れ、兵器が置かれる。三つの帆・八つの櫂があるため、その航行速度は非常に速い。平南王尚可喜 は周玉・李栄が水戦の能手であったため、遊擊(武官の官職名、従三品)に任じた32。遷界により、周・

30  屈大均『皇明四朝成仁錄』欧初等編『屈大均全集(第三冊)』廣東州縣起義傳(人民文学出版社、一九九六年)、

七八八頁:歳癸卯、敵慮沿海居民以米粟布帛為賜姓延平接濟、盡遷移之。……榮・玉所捕魚之處、悉在界内、

無以為生。濱海之人亦盡失其田廬丘墓、轉徙流離、死亡枕藉。榮・玉傷之、遂於十月朔揚帆出海、號召諸蜑。

   周玉・李栄の乱は廣東省の遷界に起因していることに関連して、また次の史料がある。李福泰修・史澄等纂『(同 治)番禺縣志』巻二二・前事三(嶺南美術出版社、二〇〇七年)、二五七頁:康熙元年……十月、李栄・周玉 反。……順治十八年、議遷沿海居民於内地。俾避寇擾。大吏令盡撤繒船、泊港汊。遷其孥於城邑。榮・玉失 其故業、遂叛。

31  周玉・李栄の出身地については、沙湾とする説と市橋とする説とがある。黄培彝修・嚴而舒纂『(康熙十三年)

順德縣志』巻四・鎮守は「番禺の沙湾」とする。しかし、田明曜修・陳澧纂『(光緒)香山縣志』巻二二・

紀事は「番禺の市橋」とする。沙湾と市橋はすべて番禺縣に属し、かつ両地は隣接している。また、蜑民の 移動性の高さゆえ、居住地を特定することは困難であった。よって、地方志の編纂者が出身地と居住地を混 同した可能性があるが、史料不足のゆえに、現在のところ周玉・李栄の出身地を確定することは不可能である。

32  鈕琇『觚賸』巻七・粤觚上・兩海賊(上海古籍出版社、一九八六年)、一四〇頁:周玉・李栄皆番禺蛋民、以 捕魚為業、所轄繒船數百、其上可以設樓、列兵械、三帆八棹、衝濤若飛。平藩尚可喜以其能習水戰、委以 遊擊之任、遇警輒調遣防護、水鄕賴以安輯。自康熙壬寅奉有海禁之旨、於是盡掣其船、分泊港汊、遷其孥屬 於城内。玉等鸇獺之性、不堪籠縶、詐稱歸葬、請於平藩、可喜許之。卽日携家出海、糾合亡命、聲勢大張。

癸卯十一月、連檣集艦、直抵州前、盡焚汛哨廬舍、火光燭天、獨於民居、一無騷擾。復破順德縣、執縣令王 胤而去。可喜聞變、亟發舟師剿捕、獲賊首周玉、餘黨解散、出王令於賊舟、釋其縛、令得不死。是時、尚藩 與督撫兩院俱諱其事、王僅罷職而已。

(10)

李二人の家屋、田地及び先祖の墓が全て壊され、彼らは心の中に不満をいだいていた33。尚可喜は 周玉・李栄の不満を知り、官兵に二人の船を監視させ、珠江の支流に停泊させた。またその家族を 廣州城に強制的に移住させた34。そこで周玉・李栄は疑念を生じた。康熙二年(一六六三)十月十 五日、周玉・李栄は墓を移すことを口実にして郷里へ帰り、家族を連れて逃走した。同日、多くの 逃亡者が集まって、「海禁を弛めることを要請する(請弛海禁)」ことを名目として珠江に突入した。

また、小船に火薬を載せて、十二隻の官船を焼却し、遊擊の張可久を殺した。尚可喜が自ら官兵を 率いて周玉・李栄らを追撃した結果、周玉・李栄らは敗れて逃走した35

 なお、乱の発端年代については、『(同治)番禺縣志』・『(光緒)廣州府志』・『(民国)東莞縣志』

などの地方志に「康熙元年」と記されているが、『(嘉慶)三水縣志』・『(道光)廣東通志』などで は「康熙二年」と記されている。他方、尹源進(一六二八—一六八六、廣州府東莞縣の人)『平南 王元功垂範』(康熙十二年刻本)並びに屈大均(一六三〇—一六九六、廣州府番禺縣の人)「廣東州 縣起義傳」『皇明四朝成仁錄』36はいずれも「康熙二年」とする。明末清初に生まれた尹・屈はみな

33  前掲『南海百詠続編』巻一・鳳皇岡、一六一-一六二頁:兩王定粤、收撫海寇周玉・李栄。……至界海禁起、

二人舊巢咸在界外、田廬墳墓毀棄無餘、心不能平、口出怨謗。平王微知之、特調二人之舟屯泊於鳳皇岡前、

官軍分泊守之、二人益心疑。康熙二年秋、巡海差竣、詭稱反里遷葬、揚帆出口、糾合諸流亡、以請弛海禁為名、

駛入省河、大焚東・順・新・香・番諸卡、汎擄奪餉船及欽差馬船、殺江門遊擊張可久、遂直犯珠江。時水師 赴剿高廉、省河空虛、賊勢彌張、焚掠白艚船、客航無算、火光燭天、此十月十五日事也。十七日、東犯石龍、

西攻佛山。東西路梗、渡船不通、大城戒嚴、總兵班際盛乃雇募紅單船分扼要害。廿二日、戰於纜尾、官軍失利、

賊分道四刼。廿五日、攻陷順德、執縣令王允、張僞諭於縣門、自稱恢粤大將軍、誘民助逆。俄而四方赴援之 舟師叠至、賊亦聚扼珠江。平王分調諸將、水陸夾擊。三十日、大戰於珠江。……生擒周玉及偽軍師林邦輔 玉母周梁氏、並奪回縣令王允、火斃墜水者無算。李榮駕漁遁去、我兵追及大石海口始還。次日磔逆黨於市、

珠江乃平。李栄之遁也、復嘯聚大鵬海口。三年四月、高州凱旋、總兵張国勛承王命往討之、先擒賊父李亨、

母季黃氏。榮佯乞降、舟至潭洲復遁去、孑身洋面、不知所終焉。

34 前注三二を参照。

35  葉覺邁修・陳伯陶纂『(民国)東莞縣志』巻三二・前事略四(成文出版社、一九六七年)、一〇一九-一〇二 一頁:……十月、蜑賊周玉・李栄反。……十七日、蜑賊焚提督兵船於石龍。十五夜、賊以小舟載火藥、直入 珠江、焚舶艚十二艘、平南王躬出城外、發礮船追擊、始遁走。十七日、焚提督兵船於石龍。十九日、焚佛山 客渡等船。東西路梗。榮等舟僅二百餘、以廣屬沿海蜑戸乘機附逆、刦掠縱橫也。三十日、平南王遣水師總兵 張國勳、副都統班際盛剿蜑民賊。擒周玉・李榮遁走。先是二十二日榮等乘我船未齊、徑抵城西關、國勳擊之、

榮佯走、追八十里至纜尾、授船皆集、遂合戰。日暮、舟有膠淺沙者、賊順風縱火、焚我舟十餘。二十五日、

賊破順德、縛知縣王𦙍。張偽示稱恢粤將軍、炗曆年號。平南王乃遣國勳、際盛將戰船七十餘號、撥定頭敵、

二敵、各行統率。三十日、榮等迎戰、國勳等統頭敵戰船擊之。鏖鬪良久、際盛等統二敵戰船出其左右、分兩 翼夾攻。自午至申、賊不支、我兵躍入其舟、擊殺甚衆。參領劉文煥生擒周玉、奪回王𦙍。水師營兵擒其偽軍 師林邦輔及玉母梁氏。榮遂率餘船遠遁、參領劉國保統步騎至市橋、與造船助逆之賊戰、殺二百三十四人。至 大石、復殺敗逃之賊一百二十五人。……三年三月、東莞遷民有觀望未即入界者、副將曹志盡執殺之。四月、

張國勳追擊李榮於大鵬南、大敗之。榮僅以身免、周玉伏誅。

36  屈大均は生前、『皇明四朝成仁錄』の原稿を完成させられなかった。その写本は多いが、一九四〇年代になっ て初めて葉恭綽が諸本を校勘し、最終的には十二巻からなる書籍にまとめられた。前掲『屈大均全集(第一 冊)』、前言の十五頁。

(11)

廣東省廣州府の出身であり、反乱の発生時に両人とも廣東省で暮らしていた37。両人はこの反乱を 身をもって経験したであろうから、反乱の発端年代は康熙二年である可能性が強い。一方、康熙元 年は確かに遷界令が出された年だが、蜑民がその年に反乱に関連した行動を起こした形跡は見当た らない。そのため、康熙元年説の根拠や由来は不明と言わざるをえない。

 以上が周玉・李栄の乱の発端である。次に反乱の拡大と結末を『清實録』、地方志や文人筆記の 記述から拾ってみると、その要点は次のとおりである38

 ● 康熙二年十月十七日 石龍において蜑民(原文は蜑賊)が提督の官船を焼却した。

 ● 康熙二年十月十九日 蜑民が仏山の客渡船などを焼却した。

 ● 康熙二年十月二十二日 水師総兵張国勲が官兵を率いて、周玉・李栄らを纜尾に討った。官 兵は敗北し、十隻余りの官船が焼却された。

 ● 康熙二年十月二十五日 蜑民が順德縣城を陥れて城内を略奪し、知縣王胤を捕らえた。周玉 は「恢粤將軍」と自称し、林邦輔を軍師とし、南明の永暦という元号を使った。尚可喜は 水師総兵張国勲・副都統班際盛を遣わして周玉・李栄らを討たせた。尚可喜は七十隻余り の戦船を頭敵と二敵に分けて張・班二人がそれぞれの戦船を統率した。

37  沈廷芳等纂修『(乾隆)廣州府志』卷八・紀事(哈佛大学漢和圖書館珍藏影印、一七五八年)、二二-二三頁:

尹源進字振民、順治乙未(十二年)進士、授督捕主事改文選主事典試。……(康熙二年)請托性至孝告終養歸。

己未(康熙十八)起補騐封、……乙丑(康熙三十四)晉太常少卿、卒于官。ここから、尹は康熙二年には故 郷の廣州府に居たことがわかる。また、汪宗衍『屈大均年譜』前掲『屈大均全集(第八冊)』、一八九四-一 八九六頁。

38  中華書局影印『清實録(第四冊)』聖祖仁皇帝覛錄・巻一〇・康熙二年十二月己酉(中華書局、一九八五年)、

一六四頁:平南王尚可喜疏報、官兵進剿蜑賊、擒偽恢粤將軍周玉、偽軍師林邦輔及賊兵二百七十六名。斬首 二千六百三十七級、焚賊船一百三十一隻。下部察敘。

   巻十二・康熙三年七月戊戌、一九二頁:廣東總督盧崇峻疏報、平南王藩下參領孫楷、游擊李勇等會同番禺知 縣彭襄、進剿蜑寇周玉・李榮等、多所斬獲、效命有功。下部察敘。

   巻十五・康熙四年四月甲子、二二四頁:廣東總督盧崇峻疏報、官兵屢破海寇。賊首李榮往下四府海面奔逃、

嚴督在事各官追捕務獲。下部察敘。

   巻十五・康熙四年四月丙子、二二五頁:廣東總督盧崇峻疏報、香山縣知縣姚聖招撫蜑寇黃起德等共四千餘人。

下部察敘。

   巻十六・康熙四年八月丁卯、二三九頁:平南王尚可喜疏報、蜑逆夥黨竄據東涌海島、游擊佟養謨等調兵奮剿、

生擒賊魁譚琳高、殺賊一百五十三人、招撫男婦八十五名口。又疏報、蜑戸黃明初等駕船聯黨、在馬流門一帶、

接濟蜑逆糧米。遣拖沙喇哈番舒雲護等領兵搜剿、擒斬賊黨四百三十餘名。俱下所司。

   尹源進撰・張允格續撰『平南王元功垂範』卷下、北京圖書館編『北京圖書館藏珍本年譜叢刊(第六八冊)』(北 京圖書館出版社、一九九四年)、二七七-二九一・三〇六-三〇八頁:(康熙二年)冬十月、李榮・周玉叛、

發兵剿之。擒周玉、李榮遁走。……右翼總兵官呉進功請老、請以第三子副都統之廉代之。分路剿五島破之、

餘黨悉平。……三年甲辰春、剿增城・番禺・從化盜。……夏四月追擊李榮於大鵬南敗之、榮僅以身免、周玉 伏誅。榮自焚其十二櫓大船、乘小船出大洋。五月十九日遂斬周玉於市。……剿沙灣・茭塘之助逆者。……四 年乙已夏四月、發守墓人戸於奉天之海城・真定之衡水。請葬典。……剿賊黃明初等於那扶、擒譚琳高於大奚山。

……於是積案有名、逆黨盡矣。また、前注三五を参照。

(12)

 ● 康熙二年十月三十日 張国勲が頭敵戦船を率い、蜑民を正面から攻撃した。班際盛が二敵戦 船を率い、蜑民を左右両翼より挟み撃ちにした。周玉・李栄らは官兵には敵わず、一三一 隻の蜑民の船(原文は賊船)が焼却され、二六三七名の蜑民が斬首された。參領・劉文煥 などが順德知縣王胤を船の中から救い出し、周玉、林邦輔及び周玉の母・梁氏等二七六人 を捕らえた。李栄、譚琳高及び黃明初などの余党が海島に逃走した。

 ● 康熙三年四月 尚可喜は張国勲・班際盛に命じ、李栄などの余党を追撃させた。四月十二日、

張国勲が李栄の父・李亨及び母・黄氏を捕らえた。李栄は夜に乗じて逃走した。四月十九日、

鵬山の南で交戦し、一二五隻の蜑民の船が焼却され、二三二名の蜑民を捕虜にした。李栄 が自分の十二隻の大船を燃やして小舟で逃走した。

 ● 康熙三年五月十九日 周玉は街市で斬首された。

 ● 康熙三年五月-七月の間(日付不詳) 官兵が番禺の沙湾と茭塘で、周玉・李栄の余党及び 助力者を逮捕した。

 ● 康熙四年四月 廣東総督の盧崇峻は部下の官員に厳しく督促し、李栄を追跡させた。香山 知縣の姚啓聖は黃起德等四千余りの蜑民(原文は蜑寇)を帰順させた。

 ● 康熙四年四月-八月の間(日付不詳) 尚可喜は游擊・佟養謨と薛成虎に命じ、譚琳高及び その部下を掃討させた。譚琳高等百余りの蜑民を捕らえた。三〇隻余りの蜑民の船が焼却 され、一五三名の蜑民が殺された。一方、尚可喜は拖沙喇哈番(雲騎尉、正五品)・舒雲護

(舒雲虎とも表記される)と遊擊・李海龍を遣わして黃明初及びその部下を追撃させた。黃 明初等四一〇余りの蜑民が殺された。一〇六隻の蜑民の船が焼却され、二三名の蜑民を捕 虜にした。ここに至って、周玉・李栄の乱が平定された。

 さて、地方志の記事によれば、朝廷は周玉・李栄の乱に対して警戒の必要があるため、康熙三年

(一六六四)五月に番禺・順德・新会・東莞・香山五縣の沿海地域において再度の遷界を実施し、

翌年に官兵を増やし、警備を強めたことがわかる39。一方、地方官府の態度については、『清聖祖實録』

の中に探ることができる。康熙二年(一六六三)十二月から康熙四年(一六六五)八月にかけて平 南王尚可喜と廣東総督盧崇峻が朝廷に送った六通の上疏から40、地方官府もまた周玉・李栄の乱を かなり重視していたことが窺える。また、地方官府の対応策に関しては、前述した要点からわかる

39  前掲『(光緒)新寧縣志』巻十四・事紀略下、四-五頁:……按府志云:自康熙壬寅有海禁之旨、時懲於東 榮(引用者注:李榮の誤りであろう)之亂、恐遷民仍通海舶、當道臨海勘定界址、此先畫一界、以繩直之。

其間多有一宅而半棄者、濬以深溝、別為内外、稍踰跬步、死卽隨之。徙各郷居民、使空其地、又於界上築城、

墪臺・營房。排人戸捐錢修築、民至窘匱。遷民貧者行乞街市、露宿衢道往往飢死。郝玉麟修・魯曾煜等纂『(雍 正)廣東通志』卷七・編年志二・国朝紀『欽定四庫全書』史部・地理類(商務印書館、二〇〇五年)、十三頁:

康熙四年……設水師提督一員、遊擊五員、水陸甲兵凡五千、分五營、防守順德。懲周玉李榮之變也。

40 前注三八を参照。

(13)

ように、廣州府の蜑民を主とする反乱者が官船を襲い、縣城に入って掠奪したことに対して、平南 王尚可喜は精鋭な水軍を派遣して討伐した。それと同時に反乱者に帰順を求める政策(招撫・招安)

をも実行した。以上のように地方官府もまた積極的な態度と行動を示したのである。

 周玉・李栄の乱の初期には蜑民が官船を焼却して官兵を殺し、順德縣までも攻め落とした。それ は地方官府に衝撃を与えたと言ってよいだろう。だが、この反乱の重要な時期に、蜑民を率いた周 玉は、勝利に乗じて敵を見くびり、また援軍もなかったため、戦いを有利に継続することはできず、

大敗してしまった。その後、周玉は同郷の人々に裏切られて殺された。もう一人の指導者であった 李栄も戦いに敗れて逃亡した。反乱の指導者を失ったために蜑民らは再び惨敗し、三千人余りの死 者を出すに至った41。こうして反乱は一年半のうちに鎮圧された。

 この乱は廣東地方のみにとどまり、同時期のほかの反乱集団との連合は見られなかった。近接す る福建省と廣西省にも蜑民が存在し、周玉・李栄の乱と同時期に廣東省で社賊の乱も展開されてい たが、周玉・李栄らが廣東省以外への拡大や社賊の乱との連携を謀ったことを示す史料は確認でき ない。こうした点から見れば、周玉・李栄の乱は他地域や他の反乱集団との連携の契機を欠いた、

局地的な反乱に過ぎなかったと言える。

 総じて言えば、朝廷や地方官府側の積極的な対応、反乱の指導者が勝利に乗じて相手を軽視した こと、他の勢力との連携の欠如といった要因が相俟って、この反乱は一年半という短期間で朝廷の 勝利に終わったのだと考えられる。しかし、短期間で終結した局地的な反乱であったとはいえ、周 玉・李栄の乱は廣東省沿海の地域社会に無視できない影響を及ぼしたと考えられる。

三、反乱の影響

 本章では、地方志や文人筆記などの分析を通じて、周玉・李栄の乱の影響について考察を加える。

この反乱の影響としては主に次の三点が挙げられる。

 第一に、この反乱は清朝廷及び廣東地方官府の政策に影響をもたらした。朝廷及び地方官府は周 玉・李栄の乱の影響力が大きく、無視できない存在と認識したため、蜑民に対する支配を強化した。

それを示す史料の一つは『(光緒)廣州府志』卷八〇・前事畧六に「康熙三年(一六六四)五月に 番禺・順德・新会・東莞・香山五縣において沿海の居民を再び遷移させた。……(官兵は)当時の 李栄の乱に警戒しており、遷民の海舶が出航することに用心し、交通路上の縣では海に出る境界の

41  前掲『皇明四朝成仁錄』廣東州縣起義傳、七八八-七八九頁:……玉恃勝輕敵、棄其大軍、獨以中營七舟而前。

榮不得已、從之。後軍不繼、遂敗。玉為鄕人執以獻敵、被殺。榮突圍走市橋、戰復敗、遂出大洋。其五島之 衆互為掎角者、敵分三路擊之、義徒死者二千餘人。大奚山・大口・上川・下川皆相繼敗沒。有趙劈石・趙 麟生者、以黄梁都・赤坎・三竃之舟出救、亦戰死千人。

(14)

取り締まりを厳しくした」42とある記事である。もう一つは先に引用した『(雍正)廣東通志』卷七・

編年志二・国朝紀に「康熙四年(一六六五)……水師提督一人・遊擊五人を置き、水陸軍五千人を 五つの兵営に分けて順德を守備した。これは周玉・李栄の乱への反省のためだ」43という。

 そもそも、蜑民の水戦能力が高いことはよく認知されていた。前に述べたように、鄭成功はかつ て蜑民をつかって清軍と戦った。尚可喜も周玉・李栄には水戦の能力があると考えて、遊擊に任命 したことがあった。また三藩の乱のとき、呉三桂は蜑民の謝厥扶に水師を統率させた44。こうした 蜑民の水戦の能力が、周玉・李栄の乱によってあらためて証明されたことで、朝廷はこれに対する 警戒感を増したのである。さらに、周玉・李栄の乱以後も、蜑民の反乱が起こっている。これにつ いての詳細な史料として、『(乾隆)陽江縣志』卷八・紀事に次のような記事がある。「康熙十六年(一 六七七)七月に海寇が海陵(現在の廣東省陽江市の南西部にある島)を占拠した。蜑賊の石貴が海 寇である李積鳳、謝昌などと結託し、海陵に盤踞して当地を劫掠した。九月、蜑賊の石貴が北津城

(現在の廣東省陽江市)を破壊して大砲を奪った」45という。これらの点を考慮すると、康熙帝の後 を継いだ雍正帝もまた蜑民に対して注意を払わずにはいられなくなったと思われる。そのため、雍 正七年(一七二九)五月、雍正帝は蜑民の検査を容易にして、管理を強化することを目的として解 放詔令を発布するに至った46

 第二に、この反乱は廣東蜑民の人口及びその分布地に影響を及ぼした。前章の考察によって、周 玉・李栄の乱で蜑民の死者が発生したことがわかる。戦闘ごとの蜑民の死者数は史料によって食い 違いがあるため、累計の死者数を確定することは難しいが、多数の廣東蜑民が亡くなったことは確 かである。また、『(道光)陽江縣志』卷八・猺蜑に「江邑(現在の廣東省陽江市江城区)は海禁令 を受けたため、(蜑民が)逃亡してほとんどいなくなった。遷界令の解除後、蜑民はいくらか江邑 に戻ってきた」47とある記載によって、康熙朝初期の海禁政策、即ち遷界令の実施が廣東蜑民の地 域分布に影響を与えたことを知ることができる。一方、周玉・李栄の乱が蜑民の分布地に影響を与

42  戴肇辰等修・史澄等纂『(光緒)廣州府志』(第二冊)卷八〇・前事畧六(成文出版社、一九六五年)、三八 九頁:康熙三年旱。夏五月、續遷近海居民。續遷番禺・順德・新會・東莞・香山五縣沿海之民。……時懲於 李榮之亂、恐遷民仍通海舶、當道臨縣勘定海界。

43 前注三九を参照。

44  国史館編『逆臣傳』周駿富輯『清代傳記叢刊・名人類(十三)』卷三・尚之信列傳(明文書局、一九八五年)、

四九四-四九五頁:(康熙)十六年之信請敕大軍速進粤、是時三桂以董重民為偽總督踞肇慶。初、蛋戸謝厥 扶當趙天元未叛時、先以繒船數百附馬雄、誘天元從賊。至是三桂令厥扶統轄水師、加偽職定海將軍、與重民 合拒大軍。之信密約重民所部兵、令以缺鑲譟、乘間捦重民、邀擊厥扶、大敗之、厥扶遁入海。

45  前掲『(乾隆)陽江縣志』卷八・紀事、九頁:康熙十六年……七月海寇據海陵。蛋賊石貴勾引海寇李積鳳・

謝昌等盤據海陵、飄劫地方。九月蛋賊石貴毀北津城、奪去大砲。

46  拙稿「雍正帝の賎民解放令にみる蜑民」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第四八号、二〇一九年)、

一九七-一九八頁。

47  李澐等修・区啓科等纂『(道光)陽江縣志』卷八・猺蜑(成文出版社、一九七四年)、九〇二-九〇三頁:蜑 其種不可考、……江邑因奉海禁、逃亡殆盡。展界後稍稍復回。康熙四十六年增入鹽課。……

(15)

えたことを直接明示する史料はないが、前述したように、官兵が番禺で周玉・李栄の余党に対する 捜査を行っている48。そこで番禺の蜑民が逮捕を避けるために、その居住地を変更した可能性は高 い。さらに、前に揭げた周玉・李栄の乱の影響を受けて、朝廷は番禺・順德・新会・東莞・香山五 縣の沿海で再び遷界令を発布した。拙稿で指摘した通り、この五縣の沿海は多くの蜑民が集まって いた土地である49。ゆえに、番禺・順德・新会・東莞・香山の沿海に居住する蜑民は陸上に居住地 を移すか、あるいはほかの地域へ移転せざるを得なかったであろう。以上から、廣東蜑民の分布地 が周玉・李栄の乱の影響を受けていたことが指摘できる。

 第三に、周玉・李栄の乱によって蜑民に対する悪印象が増幅されたであろうことを挙げておきた い。この反乱の過程において、蜑民が民衆を殺戮し略奪を行った50。そのため蜑民が民衆の反感を 招いたのは当然のことだろう。これまで引用した地方志や文人筆記などの記載によると、反乱の参 加者としての蜑民は蜑賊・蜑逆・蜑民賊(前注三五・三八・五〇などの史料を参照)と表記されて いる。蜑民は一貫して乱暴な反乱者として描かれ、悪人としての烙印を押されているのである。小 林幸夫が指摘しているように、清代における地方志の編纂・刊刻は、地方官と地方の紳士・知識人 の連携によって行われた51。よって、そうした地方志や文人筆記に影響されて、一部の民衆が反乱 者としての蜑民に対する悪印象を深めたものと推察される。

 一方、屈大均『皇明四朝成仁錄』廣東州縣起義傳を参照すると、清朝廷にとっては反乱者である 蜑民に対して「義徒」・「(反乱は)義挙である(斯則義矣)」という讃美の態度を呈している。だが、

上に述べた部分に続けて「蜑民のある者は賎民で、ある者は叛乱者である(某也賤、某也叛)」と あるように、屈大均も蜑民は賎民だと考えていたことがわかる52。また『廣東新語』に見える蜑家 賊53といった篇名は屈大均からの蔑視の意味も込められていると考えられる。従って、屈大均は周 玉・李栄の乱を正義とする見方を表明したことがあるものの、それはおそらく自身の反清という政

48  前掲『(光緒)廣州府志』(第二冊)卷八〇・前事畧六、三八八頁:……周玉就擒、李榮與餘黨竄匿。尋發兵 沙灣搜捕餘黨。前掲『南海百詠続編』巻一・茭塘司、一七〇-一七一頁:康熙二年、周玉・李栄焚掠省河、

茭塘・沙灣之蛋民陰為之助。事定、總兵張國勛、參將劉國保率兵搜捕逆黨、戰船屯泊茭塘、居民惶懼。……

49  拙稿「蜑民の源流・人口・地域分布に関する一考察」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第五一号、

二〇二一年)、六四-六五頁。

50  前掲『(光緒)廣州府志』(第一冊)卷一二・輿地畧四・山川三・香山縣、二〇九-二一〇頁:康熙元年……

是年、蛋賊竊發、香山各郷焚刼殆無虛日。阿桂等修・劉謹之等纂『欽定盛京通志』卷八〇・国朝人物十六・

鑲藍旗漢軍・尚可喜『欽定四庫全書』史部・地理類(商務印書館、二〇〇五年)、二九頁:聖祖即位。詔遷 沿海民于内地、番禺蜑戸周玉者自稱恢粤將軍、煽沿海民為亂、所至焚掠、可喜遣兵擒之。また、前注二二を 参照。

51  小林幸夫「清代における地方志の編纂と地方官--同治『會昌縣志』の編纂をめぐって」(『熊本大学文学部 論叢』第一〇一号、二〇一〇年)、一七九頁。

52  前掲『皇明四朝成仁錄』廣東州縣起義傳、七八九頁:榮突圍走市橋、戰復敗、遂出大洋。……義徒死者二千 餘人。……人無分於盜賊、事無分於大小、能發憤而起與敵為難、斯則義矣。使得書於冊曰:某也賤、某也叛。

豈非《春秋》之所取者哉。……

53 前掲『廣東新語』巻七・人語・蜑家賊、二二六頁。

(16)

治的立場を伝えるためにすぎず、それを当時の一般的な蜑民認識とみなすことはできない54

おわりに

 本稿では、清初の廣東省における周玉・李栄の乱について検討を加えてきた。結論は以下のよう にまとめられる。

 第一章では、清初の海禁令と遷界令の実施過程を確認し、周玉・李栄の乱の背景——海禁政策の 強化について考察してきた。順治年間、朝廷は鄭成功を封鎖するため、海禁令を二度発布したが、

一部の沿海民衆は依然として危険を冒して鄭成功と交易を行っていた。よって、この二度の政令は 予想したほどの効果がなく、徹底されたとは言い難いことが明らかである。その後、康熙帝は鄭氏 勢力を一掃するため、沿海五省で遷界令を実施した。この政令の実行に伴って周玉・李栄の乱が発 生した廣東省では三一六九二頃の廃地が発生し、蜑民もその多くが内地への遷移を余儀なくされた。

 第二章では、周玉・李栄の乱の発端とその経過について検討し、清朝廷および地方官府の対応策 について分析を加えた。廣東省では遷界令によって蜑民を内地に強制移動させたため、漁撈を主生 業とする蜑民が生計を維持するのは難しくなった。そこで遷界令の実施に反対するために、康熙二 年(一六六三)十月に番禺蜑民の周玉・李栄を首領とする、生業を失った蜑民の反乱が起こった。

この反乱は廣州府の沿海の各縣で展開し、一部の沿海住民もこれに呼応した。反乱者は順德縣城を 攻め落とし、さらに一部の廣州府属の縣を略奪した。反乱は拡大の気配を示したため、平南王尚可 喜は水軍の精鋭を派遣して討伐した。それに対して、蜑民側の指導者が一時の勝利に乗じて敵を軽 視したために戦争の形勢が逆転する。すると、官兵は勝利を収めて多くの蜑民を殺し、周玉らを捕 らえた。李栄は逃げて行方不明になり、残党が殺された。こうして一年半にわたった廣東の蜑民を 主体とする周玉・李栄の乱は朝廷の勝利に終わった。

 第三章では、周玉・李栄の乱の影響について検討した。この反乱の過程において蜑民は、他の民 衆の生命と財産の安全を脅かしたうえ、官兵・官船にも大きな損害を与えた。これにより、朝廷の 政策は一定の修正を余儀なくされた。具体的には、廣州府の番禺・順德・新会・東莞・香山五縣の 沿海居民を対象として再び遷界を発令し、かつて蜑民に陥落させられた順德縣に兵卒を派遣した。

さらにより積極的な政策として、蜑民の管制を強めることを目的とする雍正帝の解放令が発布され るに至る。このほか、蜑民の反乱における暴虐と郷紳らの記録態度によって、民衆が蜑民に対する 悪印象を深めた可能性も指摘できる。以上のことから、周玉・李栄の乱が廣東省の社会経済・民衆 の生活に打撃を与えただけではなく、清政府・地方官府の政策および蜑民の印象形成にも影響を与 えたと考えられる。

54  屈大均がかつて反清活動に参加していたことは、拙稿「屈大均『廣東新語』にみられる蜑民関係史料の価値 とその限界」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第五〇号、二〇二一年)、七二頁を参照。

(17)

 本稿での検討によって、周玉・李栄の乱がこれまでほとんど検討されたことがなかった蜑民の反 乱の一つであり、清朝の政策に不満を持った民衆による反乱という性格を有することが示せたであ ろう。本稿ではその過程および影響について明らかにしたが、残された問題もある。それは、この 清初の蜑民反乱が廣東以外に波及しなかった理由についてである。

 蜑民の居住地は福建・廣西にも広がっている。しかし本論にも述べたように、それらの地域の蜑 民が、周玉・李栄の集団と連携して反乱に加わったり、独自に反乱を起こした形跡はない。このこ とから、廣東の蜑民と福建・廣西の蜑民とのあいだで様々な事情の違いがあった可能性が示唆され る。廣西には、遷界令が出されていないため、そもそも反乱の理由が存在しない。福建には、廣東 と同じく遷界令が出されたが、同様の反乱は起こっていない。その理由としては、福建に周玉・李 栄のような軍事力・経済力を持った蜑民がいなかったことがまず推測できるが、これはあくまで仮 説にとどまる。

 この問題は、蜑民の地域的な相違とその背景という問題として検討すべきであろう。今後の課題 としたい。

[附記]本研究は、二〇二一年三月八日にZoomにおいて開催された国際シンポジウム「漢籍と中 国史」にて報告した「地方志からみた清初の蜑民─周玉・李栄の乱を中心に」を基礎にして執筆し たものである。また本研究は、日本科学協会の笹川科学研究助成による助成を受けたものである。

参照

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