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コンゴ動乱における中国の反政府組織支援

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(1)

コンゴ動乱における中国の反政府組織支援

村上 享二

はじめに

 コンゴ動乱とは現在のコンゴ民主共和国(動乱当時はコンゴ共和国とい う名称。現在のコンゴ共和国との混乱を避けるため、本稿では以降、現在 のコンゴ民主共和国を単にコンゴ、現在のコンゴ共和国をコンゴ(ブラザ ビル)と記す(1))において、1960年から1965年にかけて起きた動乱である。

また、動乱の状況から、1960年から1963年までの第一次コンゴ動乱と

1964年から1965年までの第二次コンゴ動乱に分けられる。

 コンゴ動乱時期の1960年代前半、中国は中ソ論争や中印国境紛争など の国際紛争を抱え、また米国に代表される西側諸国による孤立化の圧力に 晒されていた。さらに、台湾と中国、どちらが正統な「中国」なのかとい う争いも重要であった。一方、1960年は「アフリカの年」と呼ばれるよ うに新たにアフリカ諸国17カ国が独立し、国際社会での影響力を増して いた。国際紛争や「中国」の正統性争いにおいて自国を有利な立場に導き、

孤立化の圧力から脱したい中国にとり、国際社会での影響力を増していた アフリカ諸国からの支持は重要なものであった。よって1960年代前半、

中国は積極的にアフリカ諸国への関与を始めた。

 中国のアフリカ諸国への関与は、首脳外交や対外援助など様々な側面か ら行われていたが、反政府組織への支援という側面でも行われていた。反 政府組織への支援という側面はあまり注目されておらず、その研究も少な い。本稿はこの研究の少ない、1960年代前半の、アフリカでの中国によ る反政府組織支援の一部を検討するものである。

(1) 一般に、1960年代前半のコンゴについて言及する際、コンゴ民主共和国とコンゴ共和国 を当時の首都名を用いて、それぞれコンゴ(レオポルドビル)とコンゴ(ブラザビル)と表 すことが多い。

(2)

 アフリカでの反政府活動はいくつか存在していたが、本稿ではコンゴで の反政府活動を取り上げる。1960年代前半、コンゴでは国連も大きく関 与する、コンゴ動乱という大きな動乱が起きており、中国も積極的に関与 していた。

 既に、反政府組織への支援に関する研究は少ないと述べたが、その理由 は、反政府組織への支援に関する、中国側の一次資料を参照することの困 難さにあるのではないかと考えられる。本稿でも中国側の一次資料を参照 することはできず、『人民日報』など中国の公刊文書を可能なかぎり参照し たが、やはり日本外務省の資料や米国の外交文書、台湾外交部の檔案を主 に用いることになり資料の偏りは否めない。しかし、反政府組織支援に関 するまとまった研究が見当たらないことを考えれば、資料の偏りを前提と しながらも、それを認識し、検討することは一定の価値があると思われる。

 本稿で取り上げるコンゴ動乱に関しては、幾つかの先行研究が存在する。

残念ながら筆者は原書を見ることができていないが、C.ホスキンズ(1966 年10月30日)『コンゴ独立史』土屋哲訳、みすず書房は、初期のコンゴ動 乱について詳しく述べている。また、金子絵美(1988年月)「コンゴ紛 争とパックス・アフリカーナの模索─一九六〇−六五─」『国際政治』第 88号、pp. 140‒157もコンゴ動乱全体について検討している。しかし、い ずれも中国の関与を研究対象としたものではないため、一部で僅かに中国 の関与に言及しているだけである。

Ⅰ.第一次コンゴ動乱(1960年から1963年)

1.動乱の概要

 ここでは第一次コンゴ動乱の概要を確認する。ただし、動乱自体の検討 は本稿の目指すところではないので概要にとどめる。参考のため、図 1960年当時のコンゴ及び周辺国の簡単な地図を示す。

 1960年月30日、コンゴはベルギーから独立した。独立から週間も 経たない日、コンゴ陸軍兵士が待遇改善と、植民地時代と変わらず 軍内に残っていた白人将校の追放を求めて反乱を起こし、動乱のきっかけ となった。このコンゴ人兵士の反乱は、コンゴ在住の白人を襲撃するとい

(3)

う形でコンゴ各地へ広がり、これに対しベルギーは、自国民保護を名目と して、コンゴ中央政府の承認を受けず、月10日にコンゴ各地へ空挺部 隊を送り込んだ。一方、翌11日にはカタンガ州の知事であったチョンベは、

ベルギーに代表される西洋諸国の支援のもとにカタンガ州の分離独立を宣 言した。この一連の事態に対し中央政府のカサヴブ大統領とルムンバ首相 は、ベルギーの侵略からコンゴの主権を守るためとして、国連に軍事援助 を要請している。カサヴブとルムンバは14日にベルギーとの国交を断絶

レオポルドビル ブラザビル

エリザベトビル スタンレービル コキトラビル

ルルアボルグ

ブカブ

レオポルドビル州

カサイ州

カタンガ州 赤道州

東部州

キブ州

アンゴラ

中央アフリカ

北ローデシア

スーダン

 1960年当時のコンゴ及び周辺国

出 所:C.ホスキンズ(1966年10月30日)『コンゴ独立史』土屋哲訳、みすず書房、に 掲載されている地図を参考に筆者が作成。図には無料地図ダウンロードサイトhttp://

www.freemap.jp/item/africa/rep_congo.htmlよりダウンロードした白地図を利用。

(4)

し、また、ソ連にコンゴ情勢の推移に注意するように要請し、ソ連に介入 を要請しなければならなくなるかも知れないと述べている(2)

 国連はただちに国連軍を組織して派遣し、それに伴いベルギー軍も撤退 を開始したが、チョンベのカタンガ州だけは例外で、武力に訴えても分離 独立を果たすと主張したため、ベルギーもカタンガ州からの撤退を開始し なかった。

 カタンガ分離問題が行き詰まりを見せていた月になると、カサヴブと ルムンバは対立し、カサヴブはルムンバを罷免して中央政府は分裂した。

このような状況のなか、コンゴ国軍のモブツ大佐がクーデターを起こし、

カサヴブ側に付いてルムンバと対立することになった。12月にはモブツ がルムンバの身柄を拘束したため、ルムンバを支持するグループは東部の スタンレービルに新政府を設立している。1961年月には、カタンガ州 に身柄を移されたルムンバの殺害が明らかにされた。この状況を受け、国 連はコンゴ各派の和解に努力し、月にはカサヴブの支持を得たアドウラ を首相とするアドウラ政権が誕生した。しかしチョンベのカタンガ政府は 和解を拒否していた。

 ルムンバの後を継いだギゼンガ(3)は、スタンレービルにソ連をはじめと する共産主義諸国や、アラブ連合・ギニアなどが承認する政府を樹立した が、1961年後半から中央政府と統合されていった。最終的には1962年月、

スタンレービルでキゼンガの私設軍と中央政府軍は衝突し、キゼンガ軍は 敗れてギゼンガ自身も中央政府に逮捕されている。

 1961年月と11月に国連は、国連軍の武力行使を認める決議(4)を出し ており、これを背景に国連軍は1962年12月から1963年月にかけチョン ベのカタンガ憲兵隊と抗戦することで、カタンガの分離独立を阻止し動乱 を一応収拾することができた。そしてチョンベはスペインに亡命すること となった。

(2) C.ホスキンズ(1966年10月30日)『コンゴ独立史』土屋哲訳、みすず書房、p. 103。

(3) ルムンバ内閣では副首相を務めていた。

(4) 1961年2月20日から21日に開催された安全保障理事会第942回会議で採択された決議S/

RES/161と1961年11月24日に開催された安全保障理事会第982回会議で採択された決議S/

RES/169。 決 議 は 国 連 安 保 理 のWebペ ー ジ で 確 認。http://www.un.org/en/sc/documents/

resolutions/1961.shtml(2015年月25日アクセス)

(5)

2.第一次コンゴ動乱に対する中国の関与

 ルムンバは動乱初期からソ連に支援を求め、またソ連も積極的にルムン バを支援していた。動乱が発生した1960年は中ソ論争が表面化し、 には中国からソ連の技術者が引き上げるという状況に陥っていたが、1960 月18日付『人民日報』(5)は、ルムンバが首相を務めていた当時のコン ゴ中央政府に対する、ソ連による食糧支援などに対し批評を加えず報道し ている。また1961年月15日付『人民日報』でも、ソ連のコンゴ問題に 対する声明を支持する社説(6)を掲載している。後述するように、第二次コ ンゴ動乱の末期には反政府組織がソ連派と中国派に分裂し、コンゴ動乱に おいても中ソ論争が持ち込まれている。しかし少なくとも1961年初めの 時点では、コンゴで明確な中ソの対立は未だ現れていなかった。

 1961年月には、中国が支持していたルムンバが殺害されたことを受 け、北京放送は14日から24日にかけて、コンゴ動乱に関する宣伝放 送を強化している。中国国際放送の資料(7)によれば、この11日間で71編 のニュースと編の特集を放送し、アフリカ向けには英語・フランス語・

ポルトガル語・アラビア語で放送され、その比重は大きかった。月18 日に北京において開かれた、ルムンバ殺害抗議集会(8)の録音放送などの他 に「アフリカの指導者と知名人は、国連のコンゴでの犯罪行為を厳しく非 難する」、「米帝国主義がルムンバ殺害の首謀者だ」、「国連はコンゴで何を したか」などの特集を放送している。コンゴ動乱において、米国や国連を 非難していた中国は、中央政府ではなくルムンバ派の反政府組織を支援し ていたが、ラジオの国際放送においても反米・反国連の宣伝活動をしてい たことが確認できる。また、英語・フランス語・ポルトガル語・アラビア 語で放送されていることから、広くアフリカ大陸全体を対象として米国や 国連を非難する放送をしていたと考えられる。

 カサヴブとルムンバの対立が明らかになる以前の1960年10日、レ

(5) 「蘇聯政府宣布 給剛果一萬噸糧食」『人民日報』(1960年7月18日)、p. 5や「蘇聯贈送剛

果人民一批食品」『人民日報』(1960年7月26日)、p. 6。

(6) 「支持蘇連為解決剛果局勢問題的新努力」『人民日報』(1961年1月15日)、p. 4。

(7) 中 国 国 際 放 送 のWebペ ー ジhttp://www.cri.com.cn/2014-1-14/3b15081e-7e0b-c288-557a- 4fb05ee68bb1.html(2015年6月21日アクセス)。

(8) 「首都五十万人声討帝国主義殺害盧蒙巴」『人民日報』(1961年月19日)、p. 1。

(6)

オポルドビルのコンゴ中央政府は、台湾と国交を樹立したが、中国は

1961年月20日にスタンレービルのギゼンガ政府と国交を樹立してい

(9)。その後、ギゼンガ政府は中央政府と統合に向かい、1961年月にギ ゼンガはアドウラの中央政府を承認すると公表した。そして、スタンレー ビルに外交使節団を置いている国に対し、使節団をレオポルドビルに移す ように要請している(10)。日本外務省の資料(11)によれば、1961年後半、ギ ゼンガ政府が中央政府と統合された際、他の共産主義諸国はアドウラの中 央政府へ国交関係を移転させたが、中国は国交関係を移転させることはな かった。このような状況は1961年月19日付『人民日報』(12)でも報道さ れており、それによれば、「ギゼンガ代理総理が率いるコンゴ合法政府は 終息を宣言した。そしてレオポルドビルのコンゴ政府は台湾の蔣介石集団 と外交関係を保持しており、両国関係はしばらく中止を宣言せざるを得な い」としている。中国は他の国とは異なり、台湾との関係があり簡単には レオポルドビルのコンゴ中央政府と国交を結ぶことは出来なかったようで ある。

Ⅱ.第二次コンゴ動乱(1964年から1965年)

1.動乱の概要

 第一次コンゴ動乱同様に、ここでは第二次コンゴ動乱の概要を確認する。

 第二次コンゴ動乱は、反政府組織であるルムンバ派がレオポルドビルの 中央政府に対し、1963年以降、反政府活動を活発化させたことにより起 きた動乱である。

 この第二次コンゴ動乱を引き起こした反政府組織の中心人物は、ピエー ル・ムレレ、クリストファ・グベニエ、ガストン・スミアロらであった。

(9) 浦野起央(1975年11月20日)『アフリカ国際関係論』有信堂、p. 356。中国外交部のWebペー ジからも1961年2月20日に中国とコンゴが外交関係を結んでいることが確認できる。http://

www.fmprc.gov.cn/mfa_chn/ziliao_611306/2193_611376/(2015年9月25日アクセス)

(10) C.ホスキンズ(1966年10月30日)『コンゴ独立史』土屋哲訳、みすず書房、p. 303。

(11) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)

に含まれている文書、外務省調査部分析課(1973年2月)『中国のアフリカ進出』、p. 16。

(12) 「我国政府決定撤回駐剛果使館」『人民日報』(1961月19日)、p. 1。

(7)

金子の研究(13)や日本外務省(14)の資料によれば、ムレレはアラブ連合や中 国での亡命生活の後、1963年月に故郷のクウィール地区に戻り、そこ で反政府組織を組織している。アドウラ政権で内相を務めていたグベニエ は、1963年月にコンゴ政府が議会開催の無期限延期を決定した後、隣 国であるコンゴ(ブラザビル)に亡命し、10月にはコンゴ民族解放委員 会(CNL(15))を組織している。スミアロは1964年月に、隣国ブルンジの 首都ブジュンブラでCNLの支部である東部民族解放委員会を設立し、東 部地区での反乱を強化している。そしてムレレは1964年月にクウィー ル地区で反政府武装闘争を開始し、グベニエやスミアロらがコンゴ(ブラ ザビル)とブルンジにゲリラの訓練基地を設置したCNLは、1964年 に東部地区で反政府武装闘争を開始した。ムレレに関しては、米国統合参 謀本部が1964年25日に、コンゴ情勢を検討した際の記録(16)で、「ク ウィール地区で反政府武装闘争を開始したムレレは中国で訓練を受けた」

と指摘している。こうして始まった動乱は、アドウラ政権の基盤の弱さと

1964年月30日に予定されていた国連軍の引き上げを背景に、急激に全

国規模の動乱へと拡大していった。

月にはカサヴブ大統領が亡命中のチョンベを呼び戻し、アドウラに換 え首相として事態の収拾につかせようとした。チョンベは首相就任当初、

反政府組織との和解を模索している(17)1964年日付駐コンゴ台湾大 使館からの報告(18)によれば、チョンベが首相に就任した際、政治犯約3,000 人を釈放しており、その中にはギゼンガも含まれていた。しかしチョンベ

(13)金子絵美(1988年5月)「コンゴ紛争とパックス・アフリカーナの模索─一九六〇−六五

─」『国際政治』第88号、p. 147。

(14) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)

に含まれている文書、外務省調査部分析課(1973年2月)『中国のアフリカ進出』、p. 16で もムレレに関し言及している。

(15)金子の研究ではコンゴ民族解放委員会の略称をCLN(Conseil de libération nationale)と表 記しているが、日本外務省の資料や多くの論文ではCNL(Conseil national de libération)と 表記しており、本稿でもCNLを用いる。

(16) FRUS, 1964‒1968, Vol. XXIII, Congo, p. 259.

(17)金子絵美(1988年5月)「コンゴ紛争とパックス・アフリカーナの模索─一九六〇−六五

─」『国際政治』第88号、p. 148。

(18) 「剛果(布拉薩市)対外関係」(台湾中央研究院近代史研究所檔案館、檔号213.2/90001)、p.

32。

(8)

の和解を模索する動きは成功せず、アンゴラに温存していたカタンガ憲兵 隊の政府軍への編入や新たに採用した白人傭兵、米国からの大規模援助な どにより軍事力を強化し、月以降本格的に反政府組織の掃討にのりだし た。一方、反政府組織であるCNLは、日にグベニエを大統領とす る革命人民政府をスタンレービルに樹立し、その活動を活発化していた。

 その後、月半ばごろからチョンベの攻勢により中央政府側が優勢な状 況になり、状況が不利になってきたスタンレービルの革命人民政府は、白 人を人質にして中央政府と対峙する作戦をとった。人質解放交渉はアフリ カ統一機構(OAU)の仲介で進められたが、米国とベルギーは軍事力に よる人質救出を行った。11月24日、米国の輸送機はベルギーの降下部隊 を乗せ英国の基地を飛び立ち、スタンレービル近郊に降下し、地上の中央 政府軍と協力して人質を救出している。

 米国やベルギーによる人質救出作戦により反政府組織は大きな打撃を受 け、その後も継続された中央政府の鎮圧作戦により、1965年月には大 規模な武力衝突は発生しなくなり、チョンベは反政府組織の掃討にほぼ成 功した。

 しかし、日本の公安調査庁の資料(19)によれば、反政府組織は完全に壊 滅したわけではなく、多くはソ連製といわれる武器の援助をアルジェリア やアラブ連合から得て、また、コンゴ(ブラザビル)やタンザニアを通じ た中国の軍事支援や指導により、残留兵力を糾合して、その後もゲリラ活 動を継続している。

 反政府組織への軍事援助の経由国からも、この当時、北アフリカのアル ジェリアやアラブ連合へはソ連の影響力が強く、西アフリカのコンゴ(ブ ラザビル)や東アフリカのタンザニアへは中国の影響力が及んでいること が窺える。

2.第二次コンゴ動乱に対する中国の関与

 日本の公安調査庁の資料(20)によれば、反政府活動の中心人物であった グベニエやスミアロが組織したコンゴ民族解放委員会(CNL)は、中国の

(19)公安調査庁(1966年1月)『国際共産主義勢力の現状(昭和四十一年版)』、p. 635。

(20)公安調査庁(1966月)『国際共産主義勢力の現状(昭和四十一年版)』、p. 634。

(9)

影響を強く受けていた。CNLは、1961年にコンゴの共産党系労組を母体 に結成された全国会議人民党(PNCP)が、1963年10月に他の左翼政党と 合同して結成した党である。CNLの結成には駐レオポルドビルのソ連大 使館が積極的に関与していたため、結党当初はソ連の影響が強かった。し かしCNL結成に関与したソ連大使館員は11月に国外追放され、CNLも非 合法化されて党本部は隣国コンゴ(ブラザビル)のブラザビルに移ってい る。CNLはブラザビルやブルンジの首都ブジュンブラで中国大使館と接 触するようになり、中国の影響を強く受けて反政府武装闘争に乗り出して いったとみられる。これを裏付けるように1964年日付駐コンゴ台 湾大使館からの報告(21)でも「コンゴの反乱軍はブジュンブラとブラザビ ルの両中国大使館から直接指示を受けている」との指摘がある。また、11 月26日付駐コンゴ日本大使館からは(22)、「ブジュンブラにある中共大使館 は単なる前線連絡基地の役割を果たし……必要な行動は北京から直接起こ されている様である」と報告されている。単に前線連絡基地であったとし ても、ブジュンブラの中国大使館は反政府組織に指示を出していたと考え られる。

 いわゆる、第二次コンゴ動乱といわれる反政府武装闘争が開始された直 後の、1964年月18日付『紅旗』には「新旧植民地主義者によるコンゴ 争奪の真実」という論文(23)が掲載されている。そこでは、米国・英国・

ベルギーなどの新旧植民地主義者はコンゴを経済的に支配しており、この 支配に対しコンゴ人民は徹底的な武力闘争により新旧植民地主義者を駆逐 しなければならないと主張している。第二次コンゴ動乱が始まったばかり のこの時期に、このような論文を発表していることから、中国が掲げてい た反帝民族解放闘争という政治原則を、ここで実践させたいという思いが 感じられる。

 『中華週報』にも、ブルンジの中国大使館がコンゴ動乱に関与していた

(21) 「剛果(布拉薩市)対外関係」(台湾中央研究院近代史研究所檔案館、檔号213.2/90001)、p.

29。

(22) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)。

在コンゴ杉浦大使による1964年11月26日付報告書。

(23)苑文「新老植民主義者争奪剛果的真相」『紅旗』一九六三年第二十三期(1963年12月12日)、

pp. 30‒37。

(10)

ことを示す記事(24)が掲載されている。それによれば、CNLが東部地区で 本格的に武装闘争を開始した1964年月に、駐ブルンジ中国大使館に着 任し、その翌日に米国大使館へ政治保護を求めて脱出に成功した董済平は、

赴任の際「ブルンジ大使館の任務はコンゴにある」という指示を中国当局 から受けたと述べている。『中華週報』は台湾の雑誌であるため、中国に 関する記事は慎重に検討しなければならないが、日本外務省の資料(25) Bruce D. Larkinの研究(26)でも同様な指摘が見られる。

 既述のように、チョンベは首相に就任した当初、反政府組織と和解を試 みているが、それに対し中国は、1964年日付『人民日報』(27)に「米 国は旧植民地主義者と結託し、コンゴにおいて『全国和解』の陰謀を弄し ている」という記事を載せている。また、月21日付『人民日報』(28)では、

「CNLはチョンベ政府との接触を否定する。帝国主義が革命勢力の中に作 り出す混乱に警戒せよ」と報道している。これらの報道からも、中国の武 力闘争による反帝民族解放という基本的な政治姿勢が窺える。そして、中 国の影響力が強いCNLは和解に応じず、チョンベも早期に和解をあきら め、反政府組織の武力掃討へと路線を変更することになった。

 中国は反政府組織に対し、さまざまな支援を行っていた。以下に幾つか の例を挙げる。

 1964年月18日付駐コンゴ日本大使館からの報告(29)によると、 日頃ブルンジの首都ブジュンブラから、CNLの兵士を訓練するために、

軍事専門家であるCNLの中国人顧問人がブラザビルに到着している。

また、ブラザビルから中国人人を含む21人のCNL派遣団が、東部の CNLに中国製武器弾薬を供給するためブジュンブラに向かっている。さ

(24) 「ブルンジの対中共断交は賢明で果断な措置」『中華週報』第247号(1965年2月8日)、

pp. 1‒2。

(25) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)

に含まれている文書、外務省調査分析課(1973年2月)『中国のアフリカ進出』、p. 19。

(26) Bruce D. Larkin (1971) China and Africa 1949‒1970, University of California press, p. 72.

(27) 「在剛果(利)玩弄 “全国和解” 陰謀」『人民日報』(1964年7月3日)、p. 4。

(28) 「剛果(利)全国開放委員会否認同冲伯進行過接触 警惕帝国主義革命隊伍中制造混乱」『人

民日報』(1964年7月21日)、p. 5。

(29) 「コンゴ動乱」(日本外交史料館、分類番号A’71010、MF/CR番号A’-0440)。在コンゴ佐

藤大使による1964年月18日付報告書。

(11)

らに、レオポルドビルのコンゴ人義勇兵47人が軍事訓練を受けるため、

週間以内に北京に向け出発するという情報もあった。

 駐米日本大使館は、米国国務省コンゴ担当官から得た情報を25日 付で報告している(30)。そこには、中国は反政府組織に対し武器弾薬等の物 質的援助は行っていないが、その他の方法で支援を強化しているとある。

そして、ルアンダ及びコンゴ(ブラザビル)の中国大使館も強化されつつ あり、20人近くいる大使館員の中には軍事専門家が含まれており、反乱 軍と密接に連絡をとっているとある。この報告書では、「ルアンダの中国 大使館も強化されつつあり」とあるが、ルア4ンダはルワ4ンダ(傍点は筆者 による)のことではなく隣国のブルンジの間違いだと思われる(31)。中国と ルワンダが国交を樹立するのは1971年であり、ブルンジとは1963年に国 交を樹立している。また、アンゴラの首都もルアンダという地名であるが、

当時アンゴラはポルトガルの植民地であり、報告書のルアンダがアンゴラ の首都を指しているとは考えられない。

 上記、駐米日本大使館の報告書によれば、反乱軍の戦術がベトナムにお けるものと類似しており、中国の指導を受けているふしがあると米国は認 識している。さらに、西部で中国が発行した戦術に関するパンフレットが 発見されたことや、東部に中国の軍事顧問名が派遣されたという情報か らも、中国がこの動乱に介入していると米国は認識していた。

 この時期、米国はコンゴ動乱における中国の活動を注視しており、その 様子が1964年21日付で、CIA長官に宛てた文書(32)の中に見られる。

この文書では「コンゴ反政府組織への中国による支援の広がりと重要性を 至急調査する必要がある」と指摘している。

 上述のように、駐米日本大使館が米国国務省コンゴ担当官から得た情報 では、中国は反政府組織に対し武器弾薬等の物質的援助は行っていないと している。この点は、前述した駐コンゴ日本大使館からの報告にある、ブ ラザビルから中国人を含むCNL派遣団が、東部のCNLに中国製武器弾薬

(30) 「コンゴ動乱」(日本外交史料館、分類番号A’71010、MF/CR番号A’-0440)。在ワシント

ン中川代理大使による1964年8月25日付報告書。

(31)ルワンダとブルンジは独立以前、一つの植民地でベルギー領ルアンダ = ウルンジと呼ば れていた。

(32) FRUS, 1964‒1968, Vol. XXIII, Congo, p. 338.

(12)

を供給するためブルンジの首都ブジュンブラに向かっているという情報と 矛盾するようにみえる。この矛盾は、この時点ではまだ、実際の戦場に中 国製武器弾薬が供給されておらず、発見されていなかったためである可能 性が考えられる。これを裏付ける資料(33)として、1964年12日付で米 国国務省から各国の関係機関へ宛てた電報がある。そこには「中国の反政 府組織への政治的な支援については認識しており、我が政府はコンゴにお いて、中国の武器や弾薬を発見した」とあり、12月の時点では、米国も コンゴに中国製の武器が存在していることを認識している。

 1965年になると、ブルンジでも中国製の武器が発見されている。『中華 週報』(34)によれば、ブルンジ当局も、タンザニアからブルンジ経由でコン ゴの反政府組織へ送られる中国製の武器を押収している。同様な指摘が 1965年月14日付の米国外交文書(35)にも見られる。そこには「中国製の 武器がダルエスサラーム(36)を経てブルンジに入ってきたが、ブルンジ国 王の指示で押収され、我々が知る限り、コンゴには届いていない」という 記述がある。また日本外務省の資料(37)にも、ブルンジの首相エゲンダン ドムエの暗殺後、中国製の武器が大量に発見され、その後の1965年 に中国人を追放したとある。

 また、別の情報(38)でも、中国製と思われる弾薬が発見されているとし ている。武器の供給に関して、1964年月26日付駐コンゴ日本大使館か らの報告(39)によれば、中国はCNLに対しジェット機機、パイロット 名を提供することになっている。1964年月26日付『朝日新聞』(40)の報

(33) FRUS, 1964‒1968, Vol. XXIII, Congo, p. 367.

(34) 「中共の欺瞞手段に警戒せよ アフリカ人の団結が必須の条件」『中華週報』第247号(1965

年2月8日)、p. 3。

(35) FRUS, 1964‒1968, Vol. XXIII, Congo, p. 557.

(36)インド洋に面したタンザニア最大の都市で、当時の首都。

(37) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)

に含まれている文書、外務省調査分析課(1973年2月)『中国のアフリカ進出』、p. 19。

(38) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)。

在コンゴ杉浦大使による1964年11月26日付報告書。

(39) 「コンゴ動乱」(日本外交史料館、分類番号A’71010、MF/CR番号A’-0440)。在コンゴ佐

藤大使による1964年8月26日付報告書。

(40) 「中共などが破壊活動 コンゴ首相、国連へ覚書」『朝日新聞』(1964年8月26日夕刊)、p.

2。

(13)

道によれば、月20日にチョンベ首相は国連事務総長に覚書を送り「中 共の大使館員は破壊活動を統合調整し、人員や補給面で支援している。ま たイリューシン機が中共からスタンレービルに到着したとの報告に接して いる」と述べている。また、別の報道(41)では「去る十六日にスタンレー ビルにイリューシン輸送機機とミグ戦闘機数機が着陸した」とある。こ の報道の見出しには「ソ連機」が到着とあるが、上記チョンベの覚書が正 しいとすると、中国保有の「ソ連機」である可能性も考えられる。

月には、米国からの大規模援助や白人傭兵を導入することで、中央政 府のチョンベは反政府組織に対し反撃に出ている。この米国からの大規模 援助に対し中国は、15日付『人民日報』(42)に「アメリカ帝国主義のコ ンゴ(レ)への軍事干渉を許すな」という社説を直ちに掲載し、米国を激 しく非難している。

 1964年10月日付駐コンゴ日本大使館からの報告(43)によれば、コンゴ

(ブラザビル)のイムフォンド(44)(Impfondo)にある反政府軍訓練基地では、

北京帰りのコンゴ人教官のほか、10名の中国人教官が滞在しており、新 華社の事務所には記者と称している軍事教官が10名以上滞在している。

さらにこの報告では、この訓練基地ではコンゴから募集されてきた青年が ヶ月の訓練を受けた後、週間の休養を取り、コンゴへ潜入すると している。

 1964年11月日付駐コンゴ日本大使館からの報告では、11日の情 (45)として、「OAUのコンゴ問題特別委員会が近くブラザビルにやって くることが予想されるので、ガンボマ(Gamboma)にあるCNLの訓練基 地を同地から南10キロの箇所に分散させた。……ブラザの中国大使館 はこれらのCNLの訓練基地と常時連絡をとっている。同じくブラザにあ る新華社通信社事務所には記者と称するシ( マ マ )ナ人が10名以上いるが、その

(41) 「スタンレービルにソ連機が到着」『朝日新聞』(1964年8月19日夕刊)、p. 1。

(42) 「不許美帝国主義武装干渉剛果(利)!」『人民日報』(1964年8月15日)、p. 1。

(43) 「コンゴ動乱」(日本外交史料館、分類番号A’71010、MF/CR番号A’-0440)。在コンゴ角

脇臨時代理大使による1964年10月6日付報告書。

(44)コンゴ(ブラザビル)の北部にある都市。ウバンギ川沿いにあり、対岸はコンゴ(レオポ ルドビル)。

(45) 「コンゴ動乱」(日本外交史料館、分類番号A’71010、MF/CR番号A’-0440)。在コンゴ角

脇臨時代理大使による1964年11月日付報告書。

(14)

実態は軍事教官である」としている。また、11月26日付、駐コンゴ日本 大使館からの報告では(46)、「赤道を中心とする東西アフリカ地域に対する 中国の最近の進出ぶりは注目を要する。……コンゴの東部地区に対しては、

ウガンダ奥地の航空基地、ダルエスサラーム、キゴマ鉄道を通じる(47) 政府分子への物質的援助は、年間密輸額千万ドルといわれる工業用ダイ アモンド及び金塊と交換されている情報がある」としている。

 11月24日、ベルギーの降下部隊がスタンレービルに降下し、反政府組 織を制圧しだすと中国は26日に、「中国はアメリカ、ベルギー帝国主義の コンゴ(レ)武力侵略に厳重に抗議する」というコミュニケ(48)を発表し ている。そして28日には、毛沢東が米国を非難するコミュニケ(49)を出し、

29日には天安門広場の前で、米国を非難する大規模な集会が開かれた(50)

 ベルギーの降下部隊による反政府組織の制圧が開始されると、反政府組 織の指導者はスタンレービルから逃亡を開始している。日本外務省の資 (51)によれば、その際、事実上その指揮をとったのはコンゴ(ブラザビル)

駐在の中国人武官であった甘邁であり、甘邁はコンゴ動乱において重要な 役割を演じていた。コンゴ動乱において、甘邁が活動していたことは、

Bruce D. Larkinの研究(52)でも指摘されている。

 1965年月11日付の米国外交文書(53)では、「反政府組織を支援するこ とにより、コンゴ動乱で指導的な影響力を得られると、中国は認識してい

(46) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)。

在コンゴ杉浦大使による1964年11月26日付報告書。

(47)報告では「……ダルエスサラーム、キゴマ鉄道を通じる……」と記されているが、これは

「……ダルエスサラームからキゴマへの鉄道通じる……」の意味だと考えられる。キゴマは タンガニーカ湖に面しており、ブルンジとの国境付近にある。また、湖を渡ればコンゴ東部 である。

(48) 「中国はアメリカ、ベルギー帝国主義のコンゴ(レ)武力侵略に厳重抗議する」『北京周報』

No. 49(1964年12月8日)、pp. 9‒10。

(49) 「アメリカの侵略に反対する コンゴ(レ)人民を支持する 毛沢東主席のコミュニケ」『北

京周報』No. 49(1964年12月8日)、pp. 6‒7。

(50) 「レオポルドビル・コンゴへの侵略 全世界の非難をあびるアメリカ帝国主義」『北京周報』

No. 49(1964年12月8日)、pp. 11‒16。

(51) 「中共の対外政策関係雑集」(日本外交史料館、分類番号A’210C(C)1、MF/CR番号A’-0156)

に含まれる文書、外務省調査部分析課(1973年2月)『中国のアフリカ進出』、p. 16。

(52) Bruce D. Larkin (1971) China and Africa 1949–1970, University of California press, p. 72.

(53) FRUS, 1964‒1968, Vol. XXIII, Congo, p. 578.

(15)

るという、確かな証拠を我々は有している。彼等はコンゴの鉱物資源と戦 略的位置を十分に認識している」と評している。この文書が作成された時 期は、明らかに反政府組織は不利な状況に陥っていたが、中国は引き続き 反政府組織を支援していたことが窺える。

 さらに1965年月25日付の米国外交文書(54)では、コンゴの反政府組織 を支援するため、隣国ウガンダの正規軍がコンゴの北東部に侵攻し幾つか の街を占拠したことを報告している。そして「中国とアルジェリアが招い た、ウガンダの国境の町への回の空爆で、ウガンダの首相はうろたえて いる」と指摘している。このウガンダ軍がコンゴの反政府組織を支援する ためコンゴに侵入していることや、コンゴ中央政府がウガンダ領内を爆撃 したことは、『朝日新聞』(55)でも報道されている。さらに、この爆撃に関 しては、駐ウガンダ台湾大使館の報告(56)でも指摘されており、そこでは、

ウガンダのコンゴへの侵攻を中国は支援するという声明を発表したとして いる。この中国が発表したという声明を、筆者は確認できていないが、『人 民日報』に掲載された論説委員の論説では、このウガンダへの爆撃を激し く非難している。その論説(57)では、「中国人民は、米帝国主義のウガンダ 侵犯という犯罪を激しく非難する……爆撃は表面上、コンゴでの米帝国主 義の走狗であるチョンベ集団が行ったものであるが、事実上は米国が行っ たものである」としている。

 この時期、コンゴの反政府組織を支援していたウガンダに対し、中国が 武器を供給していたことを台湾外交部の檔案(58)や『朝日新聞』(59)の報道は 指摘している。それらによれば、1965年15日、タンザニアからウガ ンダへ送られる中国製武器75トンを積んだ11台のトラックが、ケニアの

(54) FRUS, 1964‒1968, Vol. XXIII, Congo, pp. 586‒587.

(55) 「ウガンダ領を爆撃 コンゴ政府軍機」『朝日新聞』(1965年2月14日夕刊)、p. 2。

(56) 「烏干達」(台湾中央研究院近代史研究所檔案館、檔号213.1/0001)、pp. 71‒72。

(57) 「不許美帝国主義侵犯烏干達」『人民日報』(1965年2月16日)、p. 5。

(58) 「共匪及肯亜之外交関係」(台湾中央研究院近代史研究所檔案館、檔号205.2/0001)、pp.

16‒18。現地新聞の切り抜き。

(59) 「週末に首脳会談? 中国製武器輸送隊の逮捕事件」『朝日新聞』(1965年5月24日夕刊)、

p. 2。この記事では逮捕されたトラックの数が25台となっているが、11台の間違いだと思わ れる。現地新聞ではトラックの台数を11台としている。また、『朝日新聞』の記事では、ド ライバーと補助要員の合計人数を25人としており、ドライバーは25人以下となり、トラッ クの台数が25台とは考えにくい。

(16)

領土と主権を侵害したとしてケニア領内で逮捕されている。この輸送隊の 人員はタンザニア人とウガンダ人からなる25人のドライバーと補助要員、

および護衛のための22人のウガンダ兵士から構成されていた。ウガンダ 政府は、必要な量の武器が英国から入手できなくなったので、中国から購 入したとし、ウガンダとケニア両国の大統領が直接話し合い、武器・人員 ともにウガンダに引き渡されることになった(60)。ここでは、中国製武器は ウガンダに引き渡されているが、ウガンダ政府からコンゴの反政府組織に 渡った可能性も想像できる。

 公安調査庁の資料(61)によれば、大規模な武力衝突がほぼなくなりかけ ていた、1965年日から21日まで、カイロでCNL最高指導者会議が 開催されており、この会議において強行派によるコンゴ革命最高委員会が 新たに結成されている。コンゴ革命最高委員会の結成については『人民日 報』(62)でも報道されており、そこでは26日にカイロで行われた記者会見に おいて、コンゴ革命最高委員会がCNLに取って代わるというコミュニケ が公表されたことを紹介している。そして委員会は20名の委員から構成 され、議長ガストン・スミアロ(主席:加斯東・蘇米亜洛)、第一副議長 ピエール・ムレレ(第一副主席:皮埃尓・繆勒尓)、第二副議長ローラン・

カビラ(第二副主席:洛朗・卡比拉)、書記長ガブリエル・ユムブ(総書記:

加布里埃尓・尤姆布)であることが紹介されている。この委員会の構成は、

上記公安調査庁の資料でも紹介されているが、この部分の文面は『人民日 報』の記事と酷似しているため、『人民日報』を参照した可能性も考えら れる。また、コミュニケではコンゴ革命最高委員会がCNLに取って代わ るとあるが、CNLは消滅した訳ではなく、継続して存在していた(63)  コンゴ革命最高委員会の議長スミアロと第一副議長ムレレは、ともに中 国でゲリラ戦闘訓練を受けていることから、革命最高委員会は中国寄りで

(60) 「烏干達」(台湾中央研究院近代史研究所檔案館、檔号213.1/0001)、p. 77。現地新聞の切

り抜き。

(61)公安調査庁(1966年1月)『国際共産主義勢力の現状(昭和四十一年版)』、pp. 635‒636。

(62) 「剛果(利)革命武装成立革命最高委員会」『人民日報』(1965年4月30日)、p. 6。

(63)公安調査庁(1966年1月)『国際共産主義勢力の現状(昭和四十一年版)』、p. 636にはコ ンゴ反乱派には二つの派があることはあきらかであると記されている。また、1966年にな ると『人民日報』に再びCNLに関する記事が現れてくる。例えば「剛果(利)全国解放委 員会代表団団長垃馬扎尼的発言」『人民日報』(1966年月23日)、p. 3。

(17)

あったと考えられる。

 筆者は電子化(DVD)された『人民 日報』(64)で、1964年から1966年の記事 から、「剛果(利)全国解放委員会」(CNL)

と「剛果(利)革命最高委員会」(コン ゴ革命最高委員会)というキーワードで 記事を検索し記事数を確認してみた。そ の結果を表に示す。「剛果(利)全国 解放委員会」というキーワードでは、

1965年月 ま で に34件 の 記 事 が 見 つ かったが、その後1966年月までの 年間に「剛果(利)全国解放委員会」と いう名称が出てくる記事はない。一方、

「剛果(利)革命最高委員会」というキー ワードでは、1965年月以後1966年12 月までに30件の記事が見つかっている。

コンゴ革命最高委員会が結成された 1965年月を境に、『人民日報』がコン ゴ情勢について報道する際は、コンゴ革 命最高委員会に関してのみ言及するよう になり、CNLについては言及しなくなっ ている。この点からも、コンゴ革命最高 委員会は中国寄りであったと考えられ る。そして、いわゆる第二次コンゴ動乱 が終息した1966年になると、『人民日報』

は再びCNL(「剛果(利)全国解放委員

会」)について言及するようになってい る。

 日本の公安調査庁の資料(65)によれば、

(64) 『人民日報 図文電子版(1946‒2003)』中央文献出版社。

(65)公安調査庁(1966月)『国際共産主義勢力の現状(昭和四十一年版)』、pp. 636‒637。

「全国解放委員会」と

「革命最高委員会」の記事数 年/月 剛果(利)全国解放委員会 剛果(利)革命 最高委員会

1964/

10

11

12

1965/

10

11

12

1966/

10

11

12

所:『人民日報 図文電子版(1946‒

2003)』中央文献出版社から筆者が 検索

(18)

CNLは1965年月に中央政府との和解を求め、レオポルドビルへ交渉特 使を送ったが失敗に終わっている。一方、『人民日報』(66)は、1965 31日にコンゴ革命最高委員会が記者会見で公表した声明を紹介している。

それによれば、コンゴ革命最高委員会はコンゴ中央政府との和解を拒否し、

コンゴを解放するまで、最後まで武装闘争を継続する決意を表明している。

反政府組織は、中央政府との連合政府を模索する和解派と、徹底抗戦の継 続を主張する徹底抗戦派に分裂したことになる。

 CNLが中央政府と和解を求めた時期と、コンゴ革命最高委員会が分離 成立した時期、つまりCNL内の和解派と徹底抗戦派が分裂した時期は同 時期である。徹底抗戦派が分離したことで、CNLが中央政府と和解を求 めることができたのか、和解派が和解を求めたことで、それを許容できな い徹底抗戦派が分離独立したのか、どちらなのかは明確にはできない。し かし、和解派と徹底抗戦派の対立が分裂をもたらしたことは確かだと考え られる。

 そして、CNLの結成にソ連が関与していたこと、そしてコンゴ革命最 高委員会が中国寄りであることを考えれば、分裂後のCNLはソ連寄りで あったことが想像できる。コンゴの反政府組織でも、中ソ論争の影響が及 んでいたことが考えられる。また、中央政府との和解が成功しなかったこ とから、反政府組織内でのCNLの影響力は相対的に低下し、中国の影響 が強いコンゴ革命最高委員会が優勢となっていたことが想像できる。

 既に述べたように、コンゴ革命最高委員会が結成された後、『人民日報』

CNLに言及しなくなったが、1966年になると再びCNLについて言及 するようになっている。反政府組織の表立った活動がなくなり、1965年 11月のモブツのクーデターにより新たな段階に移行したコンゴ情勢に対 し、1966年には中国のコンゴ反政府組織への関与もまた、新たな段階へ 移行したと考えられる。

(66) 「重申武装闘争是民族解放正確路線」『人民日報』(1965年日)、p. 5。

(19)

おわりに

 中ソ論争の過程で、1963年に中国共産党中央がソ連共産党中央委員会 へ送った書簡の一つである、「国際共産主義運動の総路線に関する建議」(67)

によれば、1960年代前半の世界情勢を中国は次のように認識している。「ア ジア・アフリカ・ラテンアメリカの広大な地域は、現代世界の各種矛盾が 集中している地域であり、帝国主義の支配が最も弱い地域であり、現在、

帝国主義に直接の打撃を与える世界革命の嵐が吹き荒れている主要な地域 である。これらの地域の民族民主革命は、現代のプロレタリア世界革命の 重要な構成部分である」。このような世界情勢認識は、この時代の中国の 対外政策を決定する大きな枠組みであった。

 そして、世界革命の嵐が吹き荒れているアフリカで起きているコンゴ動 乱は、中国にとり、帝国主義に打撃を与える革命であり、植民地主義を打 破するための武力闘争が実践されている典型的な地域であった。旧宗主国 であり、チョンベによるカタンガ分離の動きを支援していたベルギーは帝 国主義者・旧植民地主義者であり、カサヴブ・アドウラ・モブツらのレオ ポルドの中央政府は米国の支援を受けており、新植民地主義者とその協力 者であった。そして、帝国主義・新旧植民地主義と対峙していたのがルム ンバ派の反政府組織である、ということが中国の認識であった。よってコ ンゴ動乱において反政府組織を支援することは中国の対外政策の枠組みに 適合しており、コンゴで反政府組織を支援することは正当なことであった と考えられる。

 このような状況のもと、1960年月に始まった第一次コンゴ動乱に対 し、中国はコンゴの反政府組織を支援し始めた。反政府組織の人員に軍事 訓練やイデオロギー教育を施したが、これらの人員が終息に向かっていた 動乱を再度大きな動乱に引き戻すことになった。それが1963年末から始 まり、1964年初めに本格化した第二次コンゴ動乱であり、中国は反政府 組織に対し武器や軍事訓練などを供与して支援を行っている。支援にはコ ンゴの隣国であるコンゴ(ブラザビル)やブルンジの中国大使館が関与し

(67) 「関于国際共産主義運動総路線的建議」『人民日報』(1963月17日)、p. 1。

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